敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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σ(^_^)?希美のこと
敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
のぞみちゃんも真っ黒
在家サロメは自演でない証拠を出しなさい! 敬虔なクリスチャンは、そもそも2chなんぞに来ないよ。
2chに来る奴って、オレ以外はみんな低レベルのクリスチャンだね。
低空飛行しすぎて、胴体に穴が開いたセスナみたいなものだ。 汝の隣人を愛せ・・・・ふざけるなと詩人は叫んでいるようです。
誰だって気に入らなければ石で叩く。叩き潰すのが人間なのだ。
甘ったれるなキリスト!殺りまくる事こそ生き物の真実。神の思し召しなのだ。
よーく勉強せよ
偉大なる反キリスト詩人
http://ameblo.jp/piero4/entry-10613976867.html 俺さんて粘着コテがいたけど、天台宗大阿闍梨の今東光和尚がおっしゃる
には、馬鹿だの氏ねだのいうのも、宗教家や人生相談家のテクであり、そ
れは愛なんだと。ユンボで家に乗り込んでぶっ殺しちゃろうかと思ったも
んだが、彼(彼女)は本気で信仰熱心、人類愛にそれなりに満ちた人だっ
たのかもね。・・・ああ、嫌な話だったね・・・。 2chとかニコ生とか知恵袋とか、自己主張をするためだけの所にいる
自称クリスチャンは変なのばっかだろ
Qちゃんとかどう考えても左翼活動のためにキリスト教利用してるだけだし >>1
「敬虔なクリスチャンは喧嘩しない」と思ってました
2ちゃんねるを見るまでわ
どこに敬虔なクリスチャンがいるんだ? 敬虔なクリスチャンはエホバの証人と喧嘩したくないのでエホバの証人に入りました アグネスちゃんは敬虔な偽善者だから、喧嘩はしないが
誰かをうまく利用して喧嘩させるだろうな 360度ひねくれて敬虔になってるクリスチャンは帰れ 歯医者なら行ってますが、何か?
あそこは泊めてくれませんのであしからず。 やっぱ、敬虔なクリスチャンはいないようだな。
アホばっかり。 「敬虔なクリスチャンは喧嘩しない」
ということは、
ほとんどのクリスチャンは喧嘩するってことだな。
納得できるなあ。 >>26
何の写真か分かるまでに少し時間がかかった。
もっといいのをくれ! 神父が子供をレイプする時代なんだ
敬虔でも喧嘩ぐらいするさ そうなんだ!
キリスト教信者はマジでいなくなって欲しいね
キリストは好きだが、キリスト教信者は好きではない。キリスト教信者はキリストのようではない――マハトマ・ガンディー
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>>34
うまい!
笑っちゃいます。いいね。
それにしても、このアグネスって、似てるけど、ブスだね。 >>33
キリスト教信者がキリストみないなわけないじゃないか。
ガンジーってアホだね。
日本基督教団の女牧師・目時英子=荒井英子は品性下劣な田舎者として、どの教会でも悪評嘖嘖らしい。
賤しい素性と貧しい育ち、乏しい知能、と何拍子もそろったクズの中のクズだそうだ。
こんなゲスが牧師面をしてる限り、日本のキリスト教会はいつまでたってもバカにされ続けるだろう。
ヽ
悪. 暴 い j ,イ v1 /
魔. 力 い ∨// レ/ // ノ
共 を で トv'////∠/
と 振 す | i l //く三三三ニ
異 る か |// j^゛"ヾ;二二ニ=
教 っ ? :レ"´ \ヽ<´
徒 て | くヽ
だ 良 | ___ ',
け い i / ./ __ ヽ
で 相 / i !l// / ヾ、
す 手 ハ i l レl// ◎ ノノ }
は ∧ヽr' l {/ム===''´∠
\__ ___/::::..` `// _rr' ̄ ̄ ̄ヽ.
;!:::::::::::::::∨::::::::::::::::::::::::: 〈/ / {{o ー、 }}
i{ \_rr' ̄ ̄ ̄ ̄ヾ,__V/ヾニニニニニ〃
ヽヽ_,; (。{{ c} }7 ̄く ゞ、_ \ ヽ
>>-、¨ヽニニニニニニソ ヽ i __\
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::::::::::::::::::ヽ;::....l \, ,: 二二二二´ , ; : :ノ
:::::::::::::::::::::::\ ', ヽ:;;: ; ; ; : . , ;; ; : :; ; ;/三
:::::::::::::::::::::::::::::\三三三三三三三三三三三 アンチモコ派のヤツらは 下品で 悪口を言いまくってる男どもだ!*
ヤツらは影では 本当に ひどいことをしていますよ(δ)((ο))
モコ派の独身女性に 手当たり次第に (δ)((ξ))
「結婚してください」と言い寄って (δ)((ο))
無理やりドライブに連れ出す(*)((υ))
そこで セクハラをして (δ)((ο))
拒む女性に対して (*)((φ))
「だけど お前、それほど美人じゃないぞ!」と捨て台詞をはいて
いきなり車から降ろして去っていく(δ)((ο))
このセカンド レイプによって傷ついたモコ派の女性は たくさんいる☆
まったく サメの脳みそしか持ってない低俗な人間どもだ!*
くわえタバコで 鉄パイプでアンチモコ派をボコボコ殴るモコ☆
くわえチンポで 鉄バイブをオマ●コに入れて よがるモコ*
「事実無根のデマ」と断罪し 批判の書き込みのすべての削除を狙っての
『大規模な削除事件』もあった(δ)((Φ))
当然、文学ファンは 不条理な削除を含めて厳しく対処している*
小説愛好家側が通報した案件も すべて小説愛好家側が完全に勝利している☆
だがしかしアマゾ●サイド運営側は
「彼ら誹謗中傷している者たちは 裏付け調査を全くせずに書き込みを
行っており、著しく軽率」等と厳しく断罪していた(δ)((*))
裏付け取材は書き込みのイロハだ(υ)((Φ))
その取材もせずに、デマを書き殴り(υ)((ξ))、
結果として水嶋ヒロ先生に損害を与えた(υ)((Φ))
まさしく「言論の凶器」だ* 某コテハンは猛省するべきだ*
本当だったら、筆を折るべきじゃないか(δ)((*))
それを反省もしない(δ)((Φ)) 責任も取らない*
評論家も「このコテハンは、腹の中では謝る気などはない☆
アク禁が確定しているのに、まったく往生際が悪い」と痛烈に非難していた*
社会的責任を感じ取る神経が完全にマヒしている(δ)((Φ))
だからアンチモコ派は モコ派から全然、信用されていない(δ)((ο)) >>41
楽しそうな教会じゃないですか。
殴り合いはしないんですか? まず言葉で挑発するんですね。
海老蔵の得意技ですね。 >>41
日本人から見たら阿鼻叫喚の地獄絵図ですね。 異言を伴う聖霊に満たされた真のクリスチャンならば糞すらしません。御使いのようなものです。 ストレス発散に丁度いいじゃないですか。
行ってみたいなあ、そういう教会。 敬虔なクリスチャンは、喧嘩しないが、
敬虔でないクリスチャンは、よく喧嘩する。 前頭葉の働きが悪いと怒りっぽくなる。
年をとって、前頭葉が委縮してくると
怒りっぽくなる。
最近の年寄りがすぐキレるのはそのため。
で、年寄りばかりの教会では、
喧嘩が絶えない。
耄碌ジジイって、嫌だね。 なるほど、それで韓国人教会は礼拝直後から怒鳴り合いばかりしてるのか。 韓国人クリスチャンの日曜日
左右も見ずに車をいきなり車庫から出して歩行者をひき殺しそうになって怒鳴られ、窓を開けて怒鳴り返す。
信号ダッシュで負けた腹いせに交差点でドリフト。注目を集める。
教会の駐車場に到着。自分がいつも停めている場所に車を停めた人をボコボコに。
教会に入り、その席はオレのだと初めて教会に来た人を罵倒。
帰りに車が出られないと隣の車の人と大喧嘩。
途中で一杯飲むつもりが五杯飲み、どうやって帰ったかは覚えていない。
酔いがさめて車を見ると廃車同然だった。 >>52
じゃ、次の日曜日は、
チャリンコで行くってわけだ。
どうりで。
前から、
教会に自転車が多いと思ってたけど納得。 韓国カルトは牧師からしてキレやすいし、もうどうしようもない せめて韓国人みたいに怒鳴り合いの喧嘩だけはしないように キレやすい人間は前頭葉が萎縮している、と聞いたことがある。 韓国の自称キリスト教は元来、反日運動の火病の中で盛り上がったものである。
その証拠に、韓国人の自称牧師たちはすぐにファビョって人心を凍りつかせる。
牧師などという以前に、クリスチャンとして完全に失格の烙印を押されるべき。
幼稚園レベルの道徳教育と情操教育を受け直すところから始めてもらいたい。
しかも、こうした韓国カルト牧師は自分自身がキリスト者として失格者なのに、
カリキュラム化した「弟子訓練」なる新興ムーブメントをやたらと推進したがる。
そんなものには他人を巻き込まず、祖国に帰ってから一人でやっているがよい。
キレやすい韓国牧師は、日本の社会と教会の安全のため、帰国させるべきである。 韓国人牧師は信者や日本社会に対して常に喧嘩を売っている。
あのような攻撃的な態度では、話にならないだろう。 韓国カルト牧師は、信徒らに対し恐怖を煽り、
「例えどんなことがあったとしても、教会や牧師を非難してはならない」
などという、権力支配的・階級差別的な戦慄の教義を教え込む。
これにより、韓国カルト教会は治外法権・無法地帯となり、
牧師が何をやってもその汚職・不祥事は表面化しないようになる。 礼拝が終わると執事が怒鳴り合いの喧嘩する。
もう韓国教会いやだwwwww 人に傷つけられることを我慢しながら善良かつ柔和に生きるよりも、
無遠慮に周囲を傷つける人間のほうが、常時ストレスが発散できて、
悩みごとのない生活を営め、精神衛生も良く健康で長生きができる。
そのことを無意識のうちに理解して実行しているのが韓国教会信徒。 471 :神も仏も名無しさん:2011/01/11(火) 18:02:58 ID:K2HNWypO
教会で副牧師らが担任牧師に暴行 [01/04]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1294110380/ もう一つ質問させていただきます。
韓国教会はペテンスコテ系が多いというのは本当ですか? 韓国人クリスチャンって何で教会で喧嘩ばかりしてるの? ソクラテス式三段論法。
一、敬虔なクリスチャンは喧嘩しない。
二、韓国人クリスチャンは、牧師、役員、信徒の別なく喧嘩ばかりしている。
三、上記の一と二から、韓国人クリスチャンは敬虔なクリスチャンではない。 韓国人の牧師や信徒の攻撃的な人格はどうにかならないものか? >>79
別段韓国人でのうとも栗は殺戮ばかりやっとるがな。 イエスは結構喧嘩してたよね?
喧嘩してぶつかるのが人間だから喧嘩しない人は信じられないw 敬虔なオイラは、今夜も律儀にバッカス詣で。で、超ご機嫌(^O^)/。貧しい大工の私生児に洗脳されている、迷える子羊を救いたくてやってきましたよ〜。キリシタンって、白人の割礼チ○ポ好きなの? 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
『神は吾々を通して創造を完成し給う』
神は創造せずにいられないのです。
神は創造をやめることはできない。
そしてただ人間のみが、神の創化作用の方向を
自己の自由意志でリードし得べき偉大なる力を
与えられているのであります。
吾々を中心として神はその創造を意識的に形の世界に
完成し給いつつあるのであります。
ー世界人類が平和でありますようにー 「愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙ってい
る。」(箴言12:16)
「愚か者はキリスト教等をすぐ信じる。利口な者は疑いを持ちながら
結果として信じない。』(真言7:28) 「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」(箴言
14:29)
キリスト教徒の人、天から怒りをもらう感覚ってありますか?
元親友がキリスト教徒で、そう言って間接的に私を非難したものでした
言われた私はオカルトめいた感じで気味が悪かったです
今思えば、一種の人格障害みたいなもので
私に鼻柱を折られた逆ギレのなせる業かと思うのですか
当時は辛かったです
だって、天の神様が元親友を通して私の傲慢さを戒めているみたいに言い張られましたから… >>96
私は神の怒りを買って、病院送りになりましたよw
友達の言っている事は、聞き捨てにして構いません。
愛の神なのですから…。
普通の人は、神から怒りを買いません。 さんちゅさん、ありがとう
怒りを抱いたり文句を言いたくなったりした時、素直に行動できず
神とか霊とかを口にして(特に非信者を)裁くようなキリスト教徒は、金輪際信用しないことにしました 2ちゃんで罵詈雑言を発してる人たちも、同様だと思う 『われ今神の子として新生せり』
私は今、新生したのである。神において新生したのである。
わたしは今、完全なる神の子である。古き自己は過ぎ去り、
新たなる神の子が生れたのである。神の生命が私の生命である。
それゆえに私は常に健かであり、元気溌剌(はつらつ)としており、
病むことも、疲れることも、老いることもないのである。
世界人類が平和でありますように イエス・キリスト生誕の地とされるヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ベツレヘムにある聖誕教会で28日、
ギリシア正教会とアルメニア正教会の司祭約100人が乱闘となり、警察が介入する騒ぎとなった。
正教会の連中って! 紅白の時間にデモしていたバカもいたな。
1年の最後にくだらないことをして!
KARAと少女時代のおかげで視聴率が伸びたのではないかい。 >>102
ギリシア正教会とアルメニア正教会とカトリックが互いに乱闘になった
カトリックを省くな 悪霊オバーンは教会内で喧嘩ばかりです。
しかも礼拝後には電話で牧師に教会の不満をぶちまけます。 >>107
それはひどいですね!
悪霊オバーンってひどいやつですね! 聖誕教会で喧嘩をするなんて、なんという聖職者どもでしょう。
こんなのみんな首にしてしまえばいいんだ。
恥ずかしいよなあ。
絶対にこいつら神様を信じてないよ。 どんな人間であっても、許しを求めない人間を許すことは出来ない ミス
×許しを求めない人間を
○許しを求めないものを 右の頬を叩かれたら右の頬と左の頬を叩け(イエス・キリスト) >>120
「右の頬を叩かれたら・・・」
「バカたれ、よけんかい!」
頬を叩かれた時点で負け。
ガードが甘いんだよ。
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主 御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
ご胎内の御子イエズスも
祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
但し支那蓄と朝鮮菌は絶対除く
今も臨終のときも祈り給え。
アーメン 自称クリスチャンや元クリスチャンには喧嘩っ早いのが多いのもまた事実。 >>123
クリスチャンは性格のずれてるのが多い。
頭も悪いのが多い。
だから、付き合うのが難しい。 敬虔なクリスチャンなら、リバイバルミッションや沖縄の諸教会を何年もつけ狙ってネット上で攻撃したりはしないもんだ。 :神も仏も名無しさん:2012/01/10(火) 22:03:51.29 ID:InAKwVoR
/) /)
/ ⌒ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ●_ ● | < 「キリスト教では人は神になれない、しかし仏教は」云々とマンセーするのは、
(〇 〜 〇 | \ 己を神の如く考えている仏教徒の傲慢さが滲み出た他宗教批判ピカ。
/ | 「仏教では神すらも」云々と神を貶める表現をするが、
| |_/ | それは単に仏教が勝手に主張してるだけピカ。
仏教徒が弄便の片手間に尊大な作話をしようと、神はただ神であり続けるピカ。 光宇宙◆jMXP.rY1ZYのプロフィール
脳梗塞の後遺症で半身麻痺になり労働意欲ゼロ。おまけに脳半分壊死のキチガイ。
身体障害年金厚生2級。障害年金を小遣いにして親の世話になり続けるニート。徳島県那賀郡那賀町沢谷在住。
自己欲求最優先のオナニー野郎。見た目はザ・たっちを更に不細工にした感じのチビデブ。
40代。精神科通院歴あり。
http://y-bbs.net/nori/norimono/img/11970226260002.jpg
ブログ
http://boupika-diary.seesaa.net/
全国展開執拗悪質教会攻撃誹謗中傷ゲリラカルトネットストーカー集団って、何回論破しても全然ダメージないのな
どういう心のメカニズムしてんのかな、名誉心がないから論破されても平気なのか 敬虔なクリスチャンは、人を自分と同じように大切にするんですよ。 結論
敬虔な女性クリスチャンは、オナニーしまくりですw >>92>>101
偽善宗教ありがとう教信者は氏ね。生長の家だけは絶対に許さん。
感謝を冒涜する邪教は消え失せろ。 敬虔なクリスチャンは、相手を罵倒するのに長けているw かくいう私も、相手を罵倒するのは、吝かではない。
霊的に大音声だから、天国まで響くし、神に怒られるから、
普段は大人しくしているだけ…。 「吝か」わけのわからん漢字、変換できるからってむやみに使うなボケっ!!
書けと言われたって書けんくせに!ヤブサカって書きなさい。 >>144
牧師は、
男に相手にされない年増ブスを救済しているんです。
誰かが相手してやらないと
一生処女のままですからね。
カトリック信者が教会で銃乱射しましたねえ。カトリック信者は争いが大好きなんですねえ。 金有罪はカトリックで、プロテスタントへの劣等感から荒らしているのです。 >>154
オレって、最初はプロテスタントで洗礼して、
その後
カトリックで再洗礼したんだよ。
だから、
プロテスタントに劣等感なんてないよ。
オレのように
性格のいい、
イケメンの
クリスチャンもいる。 >>159
田舎に住んているから、相手がいないだけだろw >>160
都会に住んでいても相手にされないんだろ?
都会じゃお年寄りを大切にしないからなあ。 オレは敬虔なクリスチャンだから
ヨシャアはバカ!
なんていわないよ。心で思っていてもね。 オレは敬虔なクリスチャンだから、
ヨシャアなんてもうろくジジイは早くくたばったほうが世のためだ!
なんていわないよ。心で思っていてもね。 環境は心の影であって、その人の心は、その人にとって最も適した「砥石」を
自分の周囲につくり出すのである。それ故(ゆえ)、それによって得られる体験は、
吾々(われわれ)の魂の中にハッキリと刻み込まれる。刻み込まれた体験は、
何時(いつ)かは何かの形で生活になくてならぬところの貴重な風味をそえてくれるのである。
世界人類が平和でありますように
May Peace Prevail on Earth アマテラスって
弟の心が分からないバカ姉ですよね。
なんでこんなのが
高天原で大きな顔してるんでしょうね。 体罰・虐待・DV・死刑・殺人等の暴力主義は、論理的思考力・問題解決力の乏しい人格未成熟者による劣等感解消用の精神安定剤。
「言って聞かなければ叩くしか」は虐め・テロにも通じる責任転嫁・甘え・自己正当化。彼らに必要なのは処罰ではなく洗脳からの解放と心の治療と矯正教育/感情自己責任論
け不敬虔なクリスチャンの行動パターン
@ 教会内で無意識に喧嘩を売って回る
(他社攻撃、いちゃもんをつける、配慮がないなど)
A 下品なジョークで場の雰囲気を壊す
(教養がないのと、冒涜に関するタブー意識がない)
B 自分を人気があると勘違いしている
(事実に反してムードメーカーを自負している) 新興プロテスタントでは「不敬虔=型破り=いい」という構図が流布されているからな
全て例のカルト神学校の労咳バカ教祖のせいなんだが 今の諸教会は元犯罪者を牧師に仕立て上げることに血道を挙げとるからな
悪人が優遇されすぎて一般市民は立つ瀬がないわけ この二十年というもの「クリスチャンらしくない」とかいうのが持て囃されてるよな
何も格好良くもないし福音的でもないんだが、やたらと美徳として喧伝されている >>182
不良牧師だの不良クリスチャンなんて教会に要らないよな。 世界の争いごとはすべて一神教のキリシタンによって始まる 敬虔なクリスチャン同士を喧嘩させるために、このスレッドを立てたのか? 敬虔なクリスチャンが運悪く統合失調症を発症してしまって、
私は唯一神で私以外の神は宇宙に存在せず、聖書も嘘だ!と
言って魔女狩りで火あぶりにされた人は地獄堕ちるの?
病気になって判断力鈍るのは自己責任? 無理して敬虔なふりをして心が傷んだクリスチャンが
2ちゃんで発散するんだろうね
でもさ、諸君の神様とやらは全部お見通しじゃないのか?
ああ、得意技の「悔い改めてお祈りしたら、全部チャラ」発動か? 糖尿牧師は脳に毒が回っているので怒りやすいらしい
うちのはいつも卓袱台ひっくり返してばかり 不敬虔なクリスチャンの行動パターン
@ 教会内で無意識に喧嘩を売って回る
(他者攻撃、いちゃもんをつける、配慮がないなど)
A 下品なジョークで場の雰囲気を壊す
(教養がないのと、冒涜に関するタブー意識がない)
B 自分を人気があると勘違いしている
(事実に反してムードメーカーを自負している) しかし、どうしてあんなふうに金太郎飴みたいな態度になるのか?
クリスチャンて不思議だ 思うに、子ども時代からドロドロの人間関係の中で揉まれなかったせいで
自分の傷つきやすさ・繊細さには敏感でも、相手に対する配慮・言葉の選び方には鈍感なんだろう
だから、一度攻撃的になったら暴言を連発し、関係修復の余地が残せない
ちょっと気の毒にもなるね とあるクリスチャン女性からの情報提供
「ある時、牧師が覚醒剤の後遺症で発狂し、礼拝の途中に下品な歌を歌いだしました。
異常な替え歌で、歌詞は「私のオナラの前で嗅がないでください」というものでした。
牧師が神を冒涜するという事態のあまりの異常さに、私は背筋も凍る思いがしました。
また、このような神を冒涜する牧師の教会から一刻も早く逃げ出したいと思いました。」
「そもそも、牧師というものは宗教的・倫理的に人々を教え導くべき存在だと思います。
その人々が、礼拝中に神様を冒涜する下品な狂った歌などを歌っていいはずがありません。
そのような牧師と関わり合えば、一般人にとって大変な災いが起こるに決まっています。
こういうカルト化した教会から逃げ出すことのために、信教の自由はあるのだと思います。」
「教会は聖なる場所です。牧師たる人が礼拝中に講壇から下品な歌を歌うなどは極めて異常な事態です。
これは、人類が宗教的な存在である限りにおいて、決してあってはならない狂気の沙汰といえるでしょう。
まともな人間であれば、この凶事に恐れをなして逃げ出し、安全な場所へ避難して二度と近寄りません。
これら全ては、神学生時代に覚醒剤を使用した人がそのまま牧師になっていることに端を発しています。」 >>171
そういうのカリスマクリスチャンっていうんだよ
今のうちにサインもらっとけ やはり生き方が信仰に反映されてなければ、死んだ信仰も同じ。 >>1
>敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
本当の意味で敬虔なクリスチャンならば、実際のところ喧嘩なんかはしないはずだ。 クリスチャンが宗教関連のスレで自演したり
凶暴キャラ化して罵詈雑言を吐いたり
2chの外では絶対にしないよね?
てことは、この世の法律よりも世間の常識よりも尊いキリスト教の教え以上に
2chの何でもアリしきたりを優先させてるわけだよね? クリスチャンが喧嘩するというより、牧師が信者を恫喝する問題のほうが大きい。 世の中の人は、クリスチャンに「クリ〜〜〜〜ン」を求めるのだよ
わかった? アーサー? 教会での派閥争いとかふつうにあるけどw
教会学校、典礼部、聖書勉強会・・・さまざまな会合でいざこざあるよ。 悪質カルト牧師
「日本のクリスチャンは暗くて固く魅力がない!
日本の伝統的諸教派は形骸化した死んだ礼拝をささげている!」
クリスチャン
「お前は何を血迷ったことをほざいているのだ。
お前が攻撃し傷つけた全てのクリスチャンに対して謝罪しろ」 引き気味でコミュニケーション能力がイマイチで
さらに心が弱っちい子だと
相手の語調がちょっと強いくらいで
怒鳴られたとか怒られたとか言い出すもんだよ
自分は平気で2ちゃんとか来て陰口を叩き
ひどいのは自作自演までやってるくせにね 知り合いに狂信的なブラジル人のクリスチャンがいる
ウソはダメだけどケンカ(暴力)はOKだってw 怒りっぽいのは、前頭葉の機能不全です。
起こりっぽくなるのは、前頭葉の老化が原因です。 前頭葉がよく発達している
↓
敬虔なクリスチャンになる
↓
前頭葉がよく働く
↓
喧嘩しない
俺の知っている女性だが
としの割に老け込んで
たぶん前頭葉が萎縮したんだろう
突然怒り出すようになって
近頃ではよく大声で怒鳴っている。
もうすぐボケはじめるのではと心配している。
俺の身内でなくて良かったと思ってる。 教会は左傾化しイルミナティの軍門に下った
>教会は、GHQのもとで統制され、そのまま戦後「東京裁判史観」を持ち続けてきましたので当然でしょう。
>しかし、GHQとマッカーサーは、イルミナティです。
>教会が信じてきた、米国(善)対 日本(悪)という構造は根本的にイルミナティの世界観です。
>戦前から戦中にかけて日本がやったことを精査すれば、どちらが悪かはっきりします。
>私たちの耳には、イルミナティのフィルタを通してしか情報が入らなかったので、中韓というイルミナティの手先の
>訴えだけがアジアの声、世界の声であるかのように伝わり、それを反日マスコミが大きくして報道するので、誤解
>してきました。
ttp://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi キリスト教の自称伝統宗派の人にいつもボロクソに言われてるんだけど
少なくとも創価よりキリスト教の方が好きだよ
嘘じゃない 初夜に勃起しなかった新郎「クリスチャンだから勃起しなかった」
役に立たないヤツだよな。 ふんで、
オマイら、オレが敬虔でないっていうのかあ。
ゴリャア〜。 敬虔なクリスチャンって
日本じゃキモいよね。
日本じゃ
キモいってだけで
もう最低評価だよね。
いくらか長所があったって、消し飛んじゃんもんね。 敬虔な信者!なんていうのは、
オレの中では、ただのバカ!
敬虔!なんて笑っちゃうよな。 几帳面な人間はボケ易いといわれるが、
敬虔な人間もボケには近いだろう。 外国まで行って
スプレーで落書きするバカ。
日本の恥さらしだね。
もう、日本に帰ってこなくていいよ。 >>241
勇気のあるヤツだな。
そういうの普通はネットだろ。
もしかして、アホクリスチャンだから、ネットできないのか。 >>1
> と思ってました
> 2ちゃんねるを見るまでわ
w >>1
> と思ってました
> 2ちゃんねるを見るまでわ
age
wwwwwww
wwwwww
wwwww
wwage >>241>>243
10年ぐらい前に「聖霊のバプテスマを得た」と自称した知り合いの中年男から
自室に溜め込んだポルノ書籍類を全部焼き払った話を聞いたことがあります
ダンボール9箱とか言っていました・・・
その男はそれから程なく寸借詐欺・結婚詐欺まがいの金策実らず自己破産しました
ライバル業者に負ける気がしない、祖国を癒したい、などと豪語していたのに・・・ 敬虔なクリスチャンは喧嘩しません。
切れたりしません。
温厚です。
死ね! とか
バカ! とか
アホ! とか
言ってる奴って、
敬虔なクリスチャンじゃないね。
たぶん、おバカな仏教徒。 あれ?
オレ、晩飯食ってないような気がするけど・・・。
オーイ、メシまだ? セブンに弁当買いに行った。
セブンは神、ありがとう。 炭火焼牛カルビ弁当 税込560円
今日の夕食はゴウセイだぜ。 イエズス様のエルサレム神殿事件がありますからね。
不逞朝鮮人が日本のカトリック教会を「盗賊の巣」に変えようとするなら
敬虔な信徒も「喧嘩」しますね。
世間一般が「敬虔」と観るキリスト者は、
実は「敬虔」ではなく「愚直」「卑怯者」「思考が足りない」
という人も多いのです。あえて自分の十字架を負わない者が「敬虔」に見えたり
することもありますよ。 喧嘩を始めた時点で、「敬虔」なクリスチャンとは言えない。
偽もんだね。
真に敬虔なものは、喧嘩をしないよ。 2ちゃん宗教板には、自分から喧嘩を売ったり喧嘩調の言葉づかいになったり
幼稚で生々しいキリスト信者の人が結構多いよね
そういう所が、遊んでる部外者側からは楽しいけど
当事者たちは真面目で良心ある人ほどキツいんじゃなかろうか? ロシアって、日本人に切腹しろだなんて、
嫌な国だね。
そもそもが、終戦のどさくさに紛れて・・・。
ロシア正教会も同じくクソ。
日本から出ていってほしいね。 >ロシア正教会も同じくクソ。
>日本から出ていってほしいね。
日露戦争前後、正教会信徒はそんな日本人から迫害されたって
第二次世界対戦前後も色々とあっただろうな 宗教板でクリスチャンに喧嘩腰で罵られ続けてるけど
そこそこ鍛えられるよ
その意味では2ちゃんのクリスチャンさんに感謝している ネトウヨかキリスト教かどちらか一つにした方が良いのではないだろうか?
傍から見て、天皇制とか靖国参拝とかを支持するキリスト信者には無理があるように思うが ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
<列王記下>
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
奴は反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
キリスト教はこういう連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 >>263
いや俺はカトリック信徒ですが、そこに無理はありませんよ。
天皇制を支持し靖国参拝賛成します。
神道は日本人を田吾作化するので否定しますが。 敬虔なクリスチャンの代表である牧師は喧嘩しす。
笑って切れたりするので厄介です。
温厚ですと思われる牧師が喧嘩を売るから困りものです。
牧師に従えない人は死ね! とか
牧師をバカにするな! とか
牧師はアホの信仰は認めない! とか
言ってる奴って、
敬虔なクリスチャンである牧師じゃないね。
たぶん、おバカな人間のクズなんだよね、東海林。 そういうオバカな人間のクズ牧師と関わらなきゃならん人って
ホントに気の毒だなぁ・・・
しかも場末の2ちゃんスレでこっそり憂さ晴らしなんて
精神衛生にも良くないのと違う
いっそキリスト教なんかやめちゃえばいいのに
(入った経験もないが)俺みたいに無関係になっちゃえばいいのに 第一次世界大戦も第二次世界大戦も始めたのはキリスト教徒だぜ >>1
2chはアホなクリスチャンはいるが、
敬虔なクリスチャンはいない。
当然だろ! http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/290851301.html
KKのガンちゃんです。
君らは、クズですww
悔しかったら、私を論破しなさい!!
出来はしないだろうがww
君らのオツムじゃ・・・・
カマ〜ン!! 追っかけ君へ本日のサービス
>>272はワタシの書き込みです
もちろん、ワタシはクリスチャンではありません
興味を持たれたら、どうぞ調査してみてください >>276
ワタシを追っかけて罵る人がいるんです
で、>>275は、その人がワタシを追っかけてこのスレにやって来た際のメッセージです
もしかして>>274の人が不審に思われたなら、ごめんなさい IDリサーチでも何でも貼ってもらって構わないけどさ・・・
どこかの誰かさんがやらかしたみたいに・・・
「朝はネトウヨコピペ」
「夜は逆ギレ暴言ストーカー」
「朝は質問者」
「夜はスレ主防衛軍」
・・・みたいな間抜けなことはしてないと思うよ >>277
追っかけられてるって妄想を持ってる人? 同じ言うにも、言い方があるでしょうに・・・
こういう配慮不足の言葉が、非信者をますます幻滅させるんです >>281
2chに来てなにマジレスしてるん?
嫌なら来るなってことだよ。
オレなんて2chにずっと来てるから精神的に強くなって
何言われても気にならないね。
まあ2chに来てクリスチャンになるヤツってまずいないね。 放置されたスレ、ツイッター化したスレ、罵詈雑言バトル化したスレ
インチキ質疑応答で装うスレ
まともなのは、一つもありゃしない キリスト教知りたかったら、
ちゃんとした人の書いてるブログを読めばいい。
2chは、草加とおバカの集まり。 キリスト教を知りたいから宗教板のスレに来てるとは限らないよ
自分などは、この世で最も憎んでる奴がキリスト教(教会牧師の息子)で
奴らの考え方や態度を思い出すたびにムカつくから・・・
要するに、憂さ晴らしの娯楽ですよ キリスト教知りたくて2chに来る奴がいたら
そもそもがバカなんだとばれてしまうね。
ウィキペディアでも読んだらいいよねえ。 2ちゃんで一番敬虔なクリスチャンはサロメだろうwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 別人格かwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 奴隷文化と人種差別の宗教
喧嘩ではなく奴隷化と搾取と帝国主義だよ
喧嘩ではなく殺戮しまくって制服、植民地化
富を吸い取る
他人種を人間扱いしない 日本基督教団に属する信濃町教会にいた目時英子とか荒井英子とかいう
醜く嫌らしい山出し老婆牧師は、天罰・天刑によって斃死したらしい。
この下等下劣にして無知無教養な東北の部落民は身の程知らずの大口を叩き
欲求不満剥き出しの説教をしては、愚鈍無比、品性陋劣の限りを
さらけ出していたとのこと。
こんなグロテスク極まり無い化け物が天刑病で野垂れ死にして
誰もが大喜びしているという話だ
とにかく、このバカ女は喧嘩をふっかけてばかりいたという >>292
もう死んだのか。
いまじゃオマイの脳内で生きとるわけだなwwwwww 荒井英子とか目時英子とかいう変態チョン女牧師は、
東北の山出し朝鮮部落出身者で、しかも癩病筋の家系に生い育ったとか。
そのくせ、一人前以上ののぼせ上がった大口を叩いたり、優秀な人格者に因縁をつけたり、
さんざん悪事の限りを尽くして来たゲスババアだ。
天罰を受けて野垂れ死にしたらしいが、
この人非人と同類の秋保美穂子とか秋保美保子とかいう劣等感の塊の低能婆は
まだクタバらないんだろうか?
誰もが早く死ね
と心から願っているのに。
> 詩篇 切支丹の子らの耐え難きを耐えるときの歌。
>
> あの鼻にかかった半オクターブ高い声はなんだ。
> あれは暴走老人の声。
> 耳をふさげ。
> いや、それでも聞こえる。
> 見るな。顔を覆え。
> 指の間から見えてしまう。
> 耐えろ。耐えられない。
> 口臭までしてきたぞ。
> おい。抱きつくのか?
> 接吻か。
> 耐えろ。耐えられない。
> 十弦琴と太鼓を高らかに鳴らせ。そしてシンバルも。 敬虔なクリスチャンにならなくたっていいよ。
喧嘩ぐらいしなくっちゃ。 わしがルールブックだ!
わしが聖書じゃ!!
アホは教会へ来るな! >>299
> わしがルールブックだ!
>
> わしが聖書じゃ!!
>
> アホは教会へ来るな!
ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
// ""⌒⌒\ )
i / ノ ヽヽ )
! (゚ )` ´( ゚) i/
| (__人_) |
\ \__| /
/ \ 370 :アルボムッレ・スマナサーラ語録 :2016/08/24(水) 13:58:31.41 ID:FHF1/TW10
一神教は、生老病死ではなくて、「永遠の命」を探しているでしょう?
だから、無理ですよ。イスラム教の人には永遠の命があるから自爆テロをやるし、キリスト教にしても天国の教えがある。
だから、ものすごくたくさんの人を殺している。
一神教は極限に無知な人々が考え出したwhyの答です。しかし、この答は縁起を否定するのです。
すべての生命は平等、という考えです。
一神教の神さまのよう
に、いうことを聞き入れさせるだけで反論を許さず、束縛するような親分は仏教には存在しません。
仏教は対話の世界です。
犬や猫や虫は話さないけど、どんな生命にも平等に生きる権利がある、ということを仏教は知っているのです。
『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。
しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。
だから聖書と言うのは、旧約聖書も新約聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。
それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。
『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。 わしの夢はキリスト教独裁国家の建設である。
わしが永久元首である。
全国民に信条試験を課し、落第した者は即刻ガス室行きである。 不殺生・アヒムサを説いたガンディーも
戦うときは戦う
愛・平和・平等は幻想
真の平和は敵を皆殺しにするしかない わしが神じゃ!
創価学会みな殺し!
幸福の科学みな殺し!
低学歴みな殺し!
聖書を読まない者みな殺し >>303
◎
∧_,,∧ ∩
(*`∀´)彡 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!
◎⊂彡 老クリスチャン先生みことば
532: 老クリスチャン [] 2017/01/31(火) 10:50:44.04 ID:uLwxte/z
「見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。
わたしを陥れようとする者に災いを報い、
あなたのまことに従って、彼らを絶やしてください。」(詩 54:6-7)
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1397575430/532 私は知り合いのクリスチャンから酷く責められましたが、彼女は敬虔なクリスチャンではないのでしょうね 日本基督教団のオンナ牧師・荒井英子とか目時英子とかいう変態ババアは
己れが東北の部落民出身者だから、癩病患者を利用して名を売ろうとしたとか。
いかにも親切そうなお為ごかしを並べて置きながら、
ハンセン病患者を悪用しただけだった。
よって元ハンセン氏病患者から怨まれているとのこと。
これだから、キリスト教徒とか耶蘇教の牧師とかいう存在は皆から嫌悪
唾棄・侮蔑されるのだ。 クリスチャンっても「許された罪人」で罪の根は残ってるからな
喧嘩しないって無理 悪臭のデブ牧師は、
福音派、ペンテコステ派をみな殺しにしたがっている。 教会は老害ジジイやババアばかりになってきたので、
どいつもこいつもすぐに切れて、
日曜日ごとに怒鳴り声が響くようになったwwww 特別寄稿
(2011年10月9日 年間第28主日)「聖書の学び」 から
イザ 25:6〜10a フィリ 4:12〜20 マタ 22:1〜14
フィリピの教会の信徒であって、“キリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったエパフロディト” という人がいました(フィリ 2:25-30,4:18)。
教会からの援助金を携えてパウロのもとに送られたエパフロディトは、しかしその奉仕の最中に重病にかかり、それを知ったフィリピの教会の人々は彼が十分に役に立てなかったと思って失望したのです。
パウロはエパフロディトの奉仕がどれほど素晴らしく(フィリ 2:25)、彼が死ぬほどの目に遭ったのは “わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうとして”(フィリ 2:30)であったことを手紙に書いて、
送り返す彼を大いに歓迎して迎えてくれるようにと訴えました(フィリ 2:29)。
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリ v.14)
使徒パウロの福音宣教は、“キリストの日に備えて”(フィリ 1:10)、“キリストの日に誇ることが出来るような仕方で”(フィリ 2:16)、“人々が福音に与ること”(フィリ 1:5)を目指す働きであり、
フィリピの教会は何度も援助を送って(フィリ 4:16)その労苦に共に参加して来たのです。 (つづき)
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリ v.19)
ここで使徒パウロが言っている “あなたがたに必要なものをすべて” を、もし現世的な御利益のような意味で読むなら、それは的の外れたことです。
この世の多くの宗教が、そのような御利益を約束することによって、人々を呼び集めていますが、私たちキリスト者の希望は神の国にかかっているのです(フィリ 3:20-21)。
フィリピの教会の人々は、“イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて神の栄光と誉れをたたえつつ”(フィリ 1:11)、使徒パウロの働きに参加していました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>316-317
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>316-317
老クリスチャン 降臨
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< 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!! >
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└─┘ └─┘ └─┘ └─┘ └─┘ └─┘ 2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、私たちは知っています。 私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」(Iテサ vv.4-5)
使徒パウロはこのように書いて、テサロニケの教会のことを神に感謝しました。
マケドニアに渡って最初の町フィリピで投獄の難に遭ったパウロとシラス(シルワノ)は、テサロニケに着いて 「激しい苦闘の中で神の福音を語った」(Iテサ 2:2)のでした。
そして彼らは 「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(Iテサ 1:6)、来るべき怒りから私たちを救ってくださる復活のキリストが再び天から来られるのを、待ち望むようになったのでした(Iテサ 1:10)。
この福音は “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせるものであり、その完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げる” という実を結んだことを理解しましょう。
聖書が聖伝と共に現代の私たちに伝えていることは、教会がこのような救済史の中を旅する群であるということであります。
私たちが聖書に親しみ、ミサの中で “ことばの典礼” が正しくその役割を果たすとき、テサロニケの人々に働いたのと同じ聖霊は現代にも働いて、私たちに “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせてくださいます。
なぜなら福音は、復活して今も父の右におられる現在のキリストからの“良い知らせ” だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
この物語りで、主イエスの対抗勢力であるファリサイ派の人々の判断基準は、“律法に適っているか、いないか”(マタ v.17)でありました。
そして恐らく伝承は意図的に彼らの口に 「神の道」(マタ v.16)という言葉を入れて、これを彼らの律法主義に対比させています。
使徒パウロはその改心前に、“この道に従う者”(使 9:2)を迫害しました。
エフェソの町でプリスキラとアキラが信徒伝道者アポロに伝授したのも、「神の道」 でありました(使 18:24-28)。
新約聖書で “道” とは、キリストの福音によって救済史の中に生きるようになることであり、“秘められた計画” を知ってその完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げていく” ことなのです。
聖書を読むこと、それも色眼鏡なしに素直に読むことが、日常の習慣とはほとんど無縁になった近・現代のキリスト者たちは、この “道” をキリスト教的な文化や思想、また道徳観や価値観に置き換えて理解して来ました。
そのような価値観や基準に “適っているか、いないか” に人々の関心が寄せられて、キリストの福音の内容である “秘められた計画” と教会を “造り上げていく” という目的に沿って歩むということは忘れ去られてしまいました。 (つづき)
皇帝のものを皇帝に返すとは、ローマ帝国民としての法的、また道徳的な責務を果たすということですが、それは律法が要求していることではない。
だからその責務を果たしたからといって、神の要求をいささかでも満たしたことにはならない。
それは神に仕えることの免責理由にはならないと、そう初代教会は主イエスのことばを理解したようです。
律法にせよ他の価値観や基準にせよ、それに “適っているか、いないか” という判断の仕方と対比して、“神の道” を考えることの大切さを知りましょう。
「知恵のある人はどこにいる。 学者はどこにいる。 この世の論客はどこにいる。 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」 と使徒パウロは言いました(Iコリ 1:20)。
福音の前進に役立っているか(フィリ 1:12)、教会を造り上げるために益となっているかどうか(Iコリ 14:12,17,26)という視点が大切なのです。
「神のものは神に返しなさい。」(マタ v.21)
これまでしばしば教会は頭脳明晰なこの世の論客たちに振り回されて、無用な議論に引き込まれて疲れ果て、本来の “神のものを神に返す” ことをずっと後回しにして来たのではなかったでしょうか。
そのような私たちのありのままの姿を、復活のキリストは天から、また祭壇から御覧になっているのです。
今朝の福音朗読から、そのキリストの眼差しを感じることが出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>316-317
>>321-323
老クリスチャン 降臨
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/ ̄ ̄ ̄\ ヤッタネ!!
/ノ / ̄ ̄ ̄\
/ノ / / ヽ
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/(リ ⌒ ●●⌒ )
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| \ ヽ_ノ /ノ | |ー ,ヘ o ┼ ナカ キΞ⊥、 /Τヽ
ノ /\__ノ 丶 . −┘└― / \ / (_, 」 ロ 人 ヽノ ノ
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)ノ | | ___| | | ナ,ム 土 l | ナ ヽヽ
× ロ α ノ こ
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|| 老 栗. !
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/ ¨>.|| 今ここに
.厶/ww|| 侵略の旗を
ノリ ^ヮ^ || 立てるでゲソ
ヽ つ0
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; 、、、、
, ,、
,、 ヽ 〜ヽノ ,
、 `〜ヽ ,〜 ' 、、、、 、 2008年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1,4-6 Iテサ 1:1〜5 マタ 22:15〜22
神は捕囚の民の解放と、エルサレム神殿再建のために、ペルシア王キュロスの心を動かされました(歴下 36:22)。
第二イザヤ(イザ40〜55章)が、当時の急速に変化する世界情勢に目を向けて、その政治解説を行った偉大な宗教的思想家であったと観る人々がいます。
現代のテレビのニュースキャスターが、あたかも大所高所から政治や社会問題への批評を語るように、現代の教会もこの世に対する社会的政治的発言をなすべきだという手本を、ここから読み取ろうとするのです。
しかし、預言者は救済史を、神の御業を、その民に語りました。
「あなたは知らなかった」(イザ v.4)、「あなたは知らなかった」(イザ v.5)、「わたしが主、ほかにはいない」(イザ v.6)。
かつて古い伝統的な朗読配分では、今朝の福音書のテキストに フィリ 1:3-11 が組み合わされていました。
教会がそこからどのように福音を聞いていたかを、それは示しています。
神の国も、復活も、永遠の命も、皇帝のものではなくて神のものであると知りましょう。
そうであるなら、私たちは聖書から復活と神の国の希望を、キリストとその教会への愛を、そして罪の赦しの福音への信仰を学ぼうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
l /l |ヽヽ、 .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
l /7ノ `ヾ、_二ニ二、 ,,, ,'
___',ゝ1ィ , ,' -tッ.、 `i .,.......'ミ;l、___∧,、 ____________
 ̄ ̄>- ,' -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. /
l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない。」
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 /
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ マタイによる福音書 14章 27節 >>316-317
>>321-323
>>327
/: : : : :|: : : :.ト: : : : : : \:\:ヽ
老クリスチャン 降臨 /: : : : :|: : !:/:ハ| \: : | : : :\:ヽ:|
/:|: : : : :|:.ハ/:/: :| \!: : : : : \!
/イ:|: : |:_/|:|ノハ: :| / ヽ: : : i: : |
老栗 無敵 {:ハ:|: : |:/_孑≧ ヘ:! ,イう示ヽ\:|_:.ヽ
|:|: :ハ!〈 うオ 弋ソノ f トリ
|ハ: :|∧ 弋ソ 、 //// /ノ/
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┗┛ ┗┛ ...∠⌒つ / | | \/ └┘| / i .┗┛┗┛┗┛
/ /⌒>、 / |ー―Lwww》=《wwN く |
| / / / 7 ! / <イ∧ ト> ヽ {
L / ∧ _ //_ |d:| -‐ } ヘ
7> _∧ / } '´ {:! | || / ヘ
|:.:.| / ヘ / | } | ∧ ヽ、
212: 老クリスチャン [] 2015/09/02(水) 15:31:54.85 ID:Y1HqYD3Y
一般信者向けですが、 ●聖書講義● 読む気のある方はご覧ください。
http://www.kuwaei2000.com/mass/Announce2.html
↓
http://www.kuwaei2000.com/Study/2015/2015.html
本当に聖書を自分で読んで、聖書の神学に触れるようになった人は、主の御前に次第に沈黙するようになるものです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1397575430/212
222: 老クリスチャン [] 2015/09/08(火) 19:02:42.45 ID:0DIpmiPB
ギリシア語やヘブライ語を学ぶことが、無駄だとは言いませんが、辞書や文法書を使って少しだけ読めるようになったぐらいで自惚れると、かえって落とし穴に落ちる危険があります。
それよりも、日本語の聖書を2・3種類手に入れて、比較しながら読むほうが、ずっと有益です。
それぞれの翻訳者たちは、一般の信者(私も含めて)とは比べものにならないほど、レベルの高い方々なのです。
しっかり聖書の素読に励んでいるうちに、福音の理解と共に、彼らへの尊敬と信頼も生まれてくるものです。
↓ ★聖書と言語★ ↓ よかったら、ご参考に。
http://www.kuwaei2000.com/Document/Essay/Bible-2.html
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1397575430/222
226: 老クリスチャン [] 2015/09/13(日) 16:36:31.90 ID:KKAA7POS
>>218 ただ、毎日毎日読むと疲れませんか?
私のサイトの お知らせ'w に、
「聖書を読むのはそんなにたいへんなことではなく、日常的に新聞や週刊誌を読んでいるレベルの方であれば、一年もあれば全体を通読できます」
と書いたのには、理由があるんです。
特にプロテスタントの教会では、「毎日一章ずつ読みましょう」とか、もっと短い区切りを作って、「せめて毎日一区切りずつ」などという指導が行われ、信者もそんなオマジナイみたいな読み方で自己満足していることが多いのです。
週刊誌をそんな読み方しますか ? おかしいでしょう。
好きで、興味と意欲があって読むのでなければ、意味がないんですよ。
疲れるのに、がんばって読む、なんてのはダメです。受験参考書ではないのですから。御利益ナシ !!
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1397575430/226
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2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
「わたしは、祈りの度に、 ・・・・・ あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(Iテサ vv.2-3)
ミサの “ことばの典礼” で朗読される聖書のテキストを、聖伝と聖書という背景から抜き出して、自分たちが生きている世界の政治や社会の問題にそのまま当てはめようとする傾向が、多くの人に見られます。
司祭や牧師たちの多くも、まるでそれが当たり前のように、聖書を材料にして自分が工夫した “現代人の歩み方” を説教しています。
毒にも薬にもならないそんな説教に、信者はすっかり馴らされて来たのではないでしょうか。
先ず 「信仰によって働き」 とは、使徒たちから伝えられたキリストの福音という土台の上に(Iコリ 3:10-17)、神の国の到来を待ち望む共同体を造り上げることを指しています(Iテサ 1:9-10)。
「希望を持って忍耐している」 根拠は、教会が福音を通して神の招きを受け(Iテサ 2:12)、教会の中に神のことばが 「現に働いている」(Iテサ 2:13)からです。
「愛のために労苦し」 とは、教会の中で信者が “主の言葉に基づいて ・・・・・ 互いに励まし合っている”(Iテサ 4:15-18)ことに外なりません。 (つづき)
教会は、ただ一度成し遂げられたキリストの永遠の贖い(ヘブ 9:12)を根拠に存在しているだけではなくて、復活して神の右に上げられたイエスがその体である教会の頭として、今もその御業を継続しておられる(エフェ 1:20-23)のです。
それは “時が満ちるに及んで完成される”(エフェ 1:10)終末的な “新しい時”(ロマ 13:11、IIコリ 5:17)に属しています。
この教会はこの世に存在していますが、この世には属していません(ヨハ 18:36)。
だからと言ってこの世に対して責任がない訳ではなく(ロマ 13:5-7)、ただ “この世の有様は過ぎ去る”(Iコリ 7:31)ことを知っているのです。
“わたしたちの本国は天にあります。”(フィリ 3:20)
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨
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老クリスチャン 降臨
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|売ってまつ .||| i ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄i ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
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<イオン>21日から「台風コロッケ」 通常より5割増し
10/20(金) 18:15配信
◇台風18号上陸前に「完売」例から台風21号で実施へ
大手スーパーのイオンリテールは20日、台風21号の接近が予想される四国と本州の「イオン」で、
台風の進路予想にあわせて、21日から順次、店舗で販売するコロッケを通常より5割多く用意する
と発表した。
過去にネット上で「台風が来る前にコロッケを買い込んだ」との書き込みが盛り上がり、
9月の台風18号上陸前には、実際にイオンの一部店舗でコロッケが完売。
「台風が来る前に、すべての顧客にコロッケを届けたい」として緊急販売することになった。
揚げる量を5割増やすのは、イオングループのプライベートブランド「トップバリュ コロッケ」。
時間がたってもザクザク感を失わない「トップバリュ ザクうまコロッケ」(税抜き98円)などを勧めている。
24日までの実施を予定。四国・本州のイオンは約400店舗あるが、台風の進路予想にあわせて
実施する店舗を決めるため、店舗ごとに実施日が異なる。また、台風の影響を受けない店舗でも
「一部便乗する場合がある」という。【増田博樹/統合デジタル取材センター】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171020-00000043-mai-bus_all
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' ー── ' 2005年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
寡婦や孤児と並んで寄留者を同胞と同じように愛せよという律法の命令には、「あなた達もエジプトの国で寄留者であった」(申 10:19)、
「あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申 5:15)という理由が付いていました。
彼ら寡婦や孤児が贖われた民に属しており、あるいはその民の中に生活しているということが前提とされていたのです。
「あなたの神である主を愛しなさい」 「隣人を自分のように愛しなさい」 という聖句の前提になっているものは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使 20:28)であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。
「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは、使徒パウロが 「私たちの福音」(Iテサ v.5) と言っているもののことです。
この福音が 「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)テサロニケの町に伝えられて行ったとき、これを受け入れた人々は
「偶像から離れて神に立ち帰り、 ・・・・・ (来るべき怒りから私たちを救ってくださる)御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(Iテサ vv.9-10)と書かれています。 (つづき)
聖書を自ら読もうとしない多くの人々は、それが永遠の真理である格言や理念を集めた教訓集であるという先入観に陥っています。
そのような人々にとっては、「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは単なる普遍的な “教えの集成” のように思えるに違いありません。
しかし、「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブ 12:2)は、再び私たちが福音を聞き、神の国の相続人である教会、すなわち “キリストの体” を造り上げる(エフェ 4:12)生きた石(Iペト 2:5)となるために、
聖書を通し、感謝の祭儀を通して、今朝も語っておられるのです。
聞いている耳は幸いです(マタ 13:16)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>347-348 >>336-337 >>327 >>321-323 >>316-317
老クリスチャン 降臨
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737 :老クリスチャン:2017/10/26(木) 18:57:02.28 ID:GcHaAzJx
>>732 聖職者によって解釈が極端に違うということのないカトリック ・ ・ ・
>>733 神父さんによって説教の中身が180°違うなんてのは日常茶飯事だよ。
どちらの書き込みが実際の体験に基づいた発言であるか、皆さん見分けられますか?
>>733 (カトリックでは)実際に各自がどう考えるかは自由だし、実際に考え方の幅はものすごく広い。
自由なのではなくて、大多数の司祭も、そして殆どの信徒も、カトリック教会の公式な教え(受け継いで来た信仰の遺産)に無知なだけです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1501848606/737 どちらの書き込みが実際の体験に基づいた発言であるか、
皆さん見分けられますか?
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>> 733 (カトリックでは)実際に各自がどう考えるかは自由だし、実際に考え方の幅はものすごく広い。
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l ヽ \ `゙ ´/ カトリック教会の公式な教え(受け継いで来た信仰の遺産)に
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無知なだけです。
>>347-348 >>336-337 >>327 >>321-323 >>316-317
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2008年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
使徒パウロはテサロニケの町で、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」 と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」 と、福音を語りました(使 17:3)。
そして、「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」(Iテサ v.9)、更にまた、御子の再臨を待ち望むようになりました(Iテサ v.10)。
この 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)を信じる信仰によって、
テサロニケの信者たちは生活し、同じ信仰に生きる仲間たちへの愛のために労苦し、キリスト再臨への希望を持って忍耐していました(Iテサ vv.3,8)。
このような人々の間で、 “神を愛し、隣人を愛する” ということが、どのような意味で理解されていたかを私たちは聖書から学ばなければなりません。 (つづき)
聖書を読んだことも学んだこともない人たちが口にする、ただの道徳訓としての “敬神愛人” が、キリスト教文化の標語のように思われて、既に久しい時が経ちました。
そして多くのキリスト教信者も、実際それに何の違和感も抱いていないように見えるのです。
しかし、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェ 1:18)を悟ることなしに、
原始教会の人々が抱いていた “神を愛し、隣人を愛する” という信仰と倫理を、私たちが共有することは出来ないのです。
神を愛し、隣人を愛しているテサロニケの信者たちへの、使徒パウロの激励の言葉は次のようなものでした。
「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」(Iテサ 3:13)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>354-355
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ カトリック教会のミサで、後半の感謝の典礼で主の祈りを唱和した後に、司祭が 「教会に平和を願う祈り」 を唱えると、会衆はこれに 「アーメン」 と応えます。
この祈りの中に、「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み ・ ・ 」 という言葉があります。
「信仰」 について議論している皆さんの中で、この 「教会の信仰」 を自覚的に理解している人は少ないのではないでしょうか。
私の WebSite にある下記の小論をご紹介します。 ぜひご参照ください。
http://www.kuwaei2000.com/2ch.html
→ 信仰宣言とカテキズム >>357 >>354-355 >>347-348 >>336-337 >>327
老クリスチャン 降臨
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
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l ヽ、 >‐---イ 2014年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5c〜10 マタ 22:34〜40
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタ v.36)
日本語の翻訳聖書が一貫して、旧約聖書のトーラーおよび新約聖書のνόμοςを “律法” と翻訳して、世間における各種の法律一般から区別しようとして来たことに注目しましょう。
と言うのは、残念なことに殆どのキリスト信者が旧約聖書における律法についても、新約聖書が述べている新しい掟(Ἐντολή)やキリストの律法(νόμος)についても、その独自の意味を知らないでいるからです。
しばしば誤解されて来たように、それは一般社会における正義や道徳の規範とは次元の異なるものであります。
ですからこれをそのまま世界に通用する法律のように考えたり、場合によってはこの世の法律に対抗するより高度な指針であると解釈するのは、聖書そのものの本来の主張ではないのです。
旧約聖書におけるトーラーとは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出 20:2)、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申 7:6)という前提に立ってイスラエルの民に与えられたものでありました。
ですからこの前提を知らないで、あるいはこの前提から切り離して、いわゆる一般論として 「どの掟が最も重要でしょうか」 と尋ねるのは、見当外れなことなのです。 (つづき)
同様に教会はキリストの血によって贖われ、罪を赦された者たちの共同体であって、そのような神の国の相続者である新しいイスラエルのために、「互いに愛し合いなさい」 という “新しい掟”(ヨハ 13:34)が与えられているのです。
ところがこの前提を無視して、聖書を一般教養書のように自らも読み、他人にも “良いことがたくさん書いてある本” として推薦している中に、いつの間にか現代の教会は “信仰” という骨格を失ったただの文化団体のようなものに形骸化してしまいました。
“神である主を愛し、隣人を愛する” ということが、私たちが主日毎にささげるミサの体験そのものでないとしたら、それは私たち一人一人がクリスチャンであるとは名ばかりで、“ただの人” “肉の人”(Iコリ 3:3)に過ぎないということです。
福音書というものの成立の背景が、初代教会のカテケージスであって、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Iペト 2:5)という奨めのために編集されたということを理解しましょう。
主が私たち信者一人一人を憐れんで、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)情熱を、もう一度与えてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨
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' ー── ' 2002年(主日A年) 11月3日 年間第31主日
マラ 1:14〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
使徒パウロはテサロニケの教会の人々が、彼の伝えたキリストの福音を神のことばとして受け入れたことを、大いに感謝しました。
福音は力と聖霊と強い確信とによって(Iテサ 1:5)、テサロニケの信徒たちの中に働いていました(Iテサ v.13)。
彼らは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった(Iテサ 1:9)ばかりでなく、更にまた、御子キリストが終末の日に天から来られるのを待ち望むようになりました(Iテサ 1:10)。
「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」(Iテサ vv.11-12)
私たち教会は、この使徒たちが伝えた福音を再び聞くこと、受け入れること(Iテサ v.13)、これを信仰生活のよりどころとすること(Iコリ 15:1)を今朝呼びかけられています。
しかしこのことは、福音を語る者にとっても聞く者にとっても、共に 「激しい苦闘の中で」(Iテサ 2:2)なされねばならないことを歴史は教えています。
そして歴史は私たちにとって、現在を写す鏡の役割りを果たします。
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨 .{ / , , ヽ ヽ \/
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439 :老クリスチャン:2017/10/31(火) 19:31:13.12 ID:BvFcdkE+
【福音の学び @】
キリストを伝える使命を受けた者(教導職と信徒のすべて)は、先ず、「キリストを知ることのすばらしさ」 を求めなければなりません。
「キリストを得、キリストの内にいる者」 となるため、「すべてを塵あくたと見なし」、
「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリ 3:8-11)なければなりません。
キリストの愛に燃える知識から、「キリストを告げ知らせ」(Iコリ 1:23)、「福音を告げ」(Iコリ 9:16)、他の人々をキリスト・イエスへの信仰に導きたいという願望が生じるのです。
同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。
(カトリック教会のカテキズム 428,429 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/439
455 :老クリスチャン:2017/11/01(水) 16:51:15.97 ID:401J3wYn
【福音の学び @ への解説】
カトリック教会のカテキズム 426-429 は、その表題に 「カテケージスの中心はキリストである」 と掲げています。
私のささやかな体験によれば、普通のクリスチャンの多くはただ観念的に、信仰による救いか?それとも行いによる救いか?、あるいは行いを伴う信仰によって救われるというのが正しいのか?と、言い争ってきたように見えます。
しかし、“ではあなたは現在、何によって救われているのですか” ・ ・ と真正面から問われると、実はみなさんあまり自分のことについては本気で考えていなくて、びっくりするか、あるいは怒りだしたりするのです。
あなたは本当に救われていますか?と問われて不安になる人もいます。 かと思えば、カトリック教会で洗礼と
堅信の秘跡を受けた信徒に、あなたは救われていますかとは失敬な物言いだと反撃する人もいます。
いちばん大切なことは、ここで取り上げている 「信仰」 とは、イエス・キリストへの信仰であるということです。
それはイエス・キリストの受肉と死、復活、召天という歴史上の出来事を通して、父なる神が現された啓示(救いの出来事/福音)への信仰です。
カテケージスの目的は、このキリストにおける啓示(キリストの福音)を理解し、信じて 「死者の中からの復活に達する」 ことができるように、信徒を教育することです。
そんなに難しいことは理解しなくても、ただイエス様を拝んでいれば、神は愛であるから、結局はみんな救っていただける ・ ・ というのは、「教会が公に言い表している信仰」(ヘブ 4:14)とは全く相容れないもの、「塵あくた」(フィリ 3:8)に過ぎません。
キリスト教
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440 :老クリスチャン:2017/10/31(火) 19:32:36.02 ID:BvFcdkE+
【福音の学び A】
神はイエスのうちに人間を救われる救済史全体を集約なさいました。
イエスの名はキリスト者の祈りの中心的な役割を果たしています。
あらゆる典礼上の祈りは、「わたしたちの主イエス・キリストによって」 ということばで結ばれます。
アヴェ・マリアの祈りは、「ご胎内の御子イエスも祝福されています」 のことばが頂点になっています。
教会の初期に出来た様々な信条は、当初から、イエスに 「主」 という神の称号を与えています。
これは、父である神に固有の 「力と誉れと栄光」 がイエスのものであるという主張に他なりません(ロマ 9:5、テト 2:13、黙 5:13)。
(カトリック教会のカテキズム 430,435,449 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/440
470 :老クリスチャン:2017/11/02(木) 17:58:49.88 ID:cefL5Ysi
【福音の学び A への解説】
「イエスキリストは主である」(フィリ 2:11)というお題目を唱えるという以上に、この “主” という信仰宣言の言葉を信徒一人ひとりが体験的に理解し、表明することが大切です。
私たちは聖書から、そのような活き活きとした信仰を学ぶことが出来ます。
「 ・ ・ ・ すなわち、至るところでわたしたちの “主” イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。
イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの “主” であります。」(Iコリ 1:2)
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの “主” イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 ・ ・ 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:1-2)
「わたしたちの本国は天にあります。 そこから “主” イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ 3:20)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/470
481 :老クリスチャン:2017/11/03(金) 17:13:20.08 ID:Ioc5/lRE
【福音の学び B】
他に例を見ない 「神の御子の受肉」 という事実から導き出される唯一の結論は、イエス・キリストが真に神のままで、真に人となられたということです。
主は神のひとり子、・ ・ ・ まことの神よりのまことの神、・ ・ ・ おとめマリアよりからだを受け、人となられました。(ニケア・コンスタンチノープル信条)
教会は最初の数世紀の間、この信仰の真理を歪めた異端に対してこれを擁護し、その内容を明確にしなければなりませんでした。
信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越の神秘(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)についてです。
しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの地上の生活のすべてを解明します。
「イエスが行い、また教え始めてから、・ ・ ・ 天に上げられた日までのすべてのこと」(使 1:1-2)は、降誕と過越との神秘に照らして見なければなりません。
(カトリック教会のカテキズム 464,512 参照)
キリスト教
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482 :老クリスチャン:2017/11/03(金) 17:14:06.02 ID:Ioc5/lRE
【福音の学び B への解説】
教会の信仰は、イエス・キリストの受肉と死、復活、召天という歴史上の出来事に基礎をおいています。
この歴史から切り離して抽象的に “信仰というもの” を考える人にとっては、“救い” もただの心の中だけ(気分だけ)のものになってしまいます。
世の中にはキリストが神の子であることが信じられない、復活も召天も、そしてキリストの再臨と来たるべき神の国の約束も幻想であると思っている人々がいます。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(Iコリ 15:17)
「(神は)罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ロマ 8:3)
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラ 3:13)
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」(主の祈り/副文)
キリスト教
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(((_)☆ 2011年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:2b,8-10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
「わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。」(マラ v.14)
かつて宗教改革時代にルターが “万人祭司” を強調したために、これがまるでプロテスタントの主張ででもあるかのように誤解されて来ました。
しかし、先に述べたように教会憲章は、これを “信徒の共通司祭職” という言葉で再確認しました(Iペト 2:9、黙 1:6 参照)。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。 彼こそ万軍の主の使者である」(マラ 2:7)という栄誉が、自覚と教養のある信者にも与えられる可能性があるのに、
実際にはしばしば教会で奉仕する無自覚な信者が 「教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまった」(マラ v.8)のを、私たちは見て来ました。
すべての司祭が、必ずしも知的なレベルや学識において信徒に勝っている訳ではないので、信徒や奉仕者のそのような逸脱を適切に処理出来ないでいることを、決して非難してはなりません。
彼らは学問や知識に特に優れているから司祭になったのではなくて、イエス・キリストによって小羊の牧者となるために召されたから司祭になったのです。
叙階の秘跡はその人に “消えない霊印” を与えたのです(カトリック教会のカテキズム p.481)。
高ぶるのではなくてへりくだり、しかも自ら熱心に “使徒的伝承” を学ぶ “神に仕える祭司”(黙 1:6)として、主が私たち信者一人一人を育ててくださいますように。
どうか間違った人間的熱心によって、自分が教会の “困った君” になることから、主が私たちを守ってくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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降臨 {:ハ:|: : |:/_孑≧ ヘ:! ,イう示ヽ\:|_:.ヽ
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486 :老クリスチャン:2017/11/04(土) 17:56:19.08 ID:vh3YDHJE
【福音の学び C】
「公現」(マタ 2:1-12)は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。
周辺の異教徒たちを代表する 「占星術の学者たち」 は、ユダヤ人の王を拝むためにやって来ました。
この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れない限り、イエスを見出し、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています。
「公現」 は、数多くの異教徒が信仰によりアブラハムの子孫となり(ガラ 3:26-29)、約束された栄光にあずかる(ロマ 4:13〜5:2)ことを表しているのです。
キリストの福音によって、「秘められた計画」 が啓示されました(ロマ 16:25)。 それは、異邦人が福音によってイエス・キリストにおいて、約束の神の国をユダヤ人と一緒に受け継ぐ者になるということです(エフェ 3:6 参照)。
(カトリック教会のカテキズム 528 参照)
キリスト教
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487 :老クリスチャン:2017/11/04(土) 17:57:08.14 ID:vh3YDHJE
【福音の学び C への解説】
すでにかなり早い時期から、西欧キリスト教世界では、自分たちキリスト者が “異邦人” であるという自覚を失って、教会こそが福音の真理と恩恵を全世界に分け与える聖なる民であると、思い上がるようになりました。
そして、教会は自らが異邦人であることを見失った代償として、イスラエルに約束されていた神の国を受け継ぐという “秘められた計画” を理解出来なくなりました。
私たち教会は、「福音によって ・ ・ (神の国を)ユダヤ人と 一緒に受け継ぐ」 のだという、エフェ 3:3-6 のテキストを理解するためには、もう一度自らが異邦人であること、与える側ではなくて受ける側にあるということを思い起こさなければなりません。
それが聖書の語っている “秘められた計画” なのです。
キリスト教
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494 :老クリスチャン:2017/11/06(月) 16:43:03.39 ID:9swVoahZ
【福音の学び D】
イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。
イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。
キリスト者は洗礼の秘跡によって、このイエスに結ばれます。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与る者となります。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(ロマ 6:1-11)。
(カトリック教会のカテキズム 535-537 参照)
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495 :老クリスチャン:2017/11/06(月) 16:45:24.95 ID:9swVoahZ
【福音の学び D への解説】
罪のない神の子が、なぜヨハネから “罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼” を受けたのかは、原始教会においても論争されたようです。
一方には、イエスは神の子であるから罪を犯していない(はずだ)という主張がありました(ヘブ 4:15、Iペト 2:22以下)。
他方には、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」(Iペト 2:24)ことが、決して単なるお芝居ではなかったという、真剣な主張がありました。
それが、「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り ・ ・ 」(ロマ 8:3)、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって ・ ・ 」(ガラ 3:13)などという弁明です。
「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった ・ ・ ・ 神はこのイエスを復活させられた」(使 2:24,32)という証言は、
「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れた」(Iヨハ 3:8)などと共に逆説的に、「陰府に下り」 という使徒信条の用語の背景をなしているように思われます。
2chで以前に(かなり不真面目に)非難されていた “十字架蛇説?” も、新約聖書そのものに起源があるのです。
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/495 >>383 >>368 >>347-348 >>336-337 >>327 >>321-323
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ポポー
501 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:28:05.45 ID:By5fRH7B
【福音の学び E】
十字架の死と復活というキリストの過越の神秘は、原始教会以来代々に亘って歴史の教会が世界に告げ知らせて来た「福音」 の核心を成しています。
「(キリストは)御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ 9:12)
神の救いの計画は、キリストの献げられたこの唯一の献げ物によって、実現されました(ヘブ 10:12-14,18 参照)。
「わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれたまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。」(復活徹夜際と復活節中の叙唱)
(カトリック教会のカテキズム 571 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/501
502 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:29:25.75 ID:By5fRH7B
【福音の学び E への解説】
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、 ・ ・ ・ キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと ・ ・ 」(Iコリ 15:3-4)
「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ 1:2-4)
「キリストは ・ ・ ・ 御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ 9:12)
「われわれの救い主は、渡される夜、最後の晩餐において、御からだと御血による聖体のいけにえを制定された。 それによって、十字架のいけにえを再臨のときまで世々に永続させ、 ・ ・ 教会に、御自分の死と復活の記念 ・ ・ を託された。」(典礼憲章 17)
「十字架上のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである ・ ・ 」(ローマ・ミサ典礼書の総則/暫定版 2)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/502
504 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 14:44:23.81 ID:By5fRH7B
>>503
あなたのような論理を主張する人も、たくさんいます。
自分が理解できる論理に対応しない聖書の記述を、拒否したり、そんなことを言っているはずはないと否定する人たちです。
立派な主張なのですが、それでは学問としては失格です。
新約聖書はその成立から言って、キリスト教信仰の原初的 “記録群” であって、出来上がった教義学教科書などでは全くありません。
その著者たちや集められた各種伝承の一つ一つが、皆同じことを述べているはずだと思い込んでしまうと、もはや歴史的批評的神学と対話することが出来なくなります。
現代の思考や論理に合致する(させることが出来る)部分だけを受け入れるのは、聖書に耳を傾けることではなくて、聖書を食材の一部として利用して現代流の創作料理を作るようなものです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/503-504
538 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 18:13:13.07 ID:By5fRH7B
>>505 整合性という角度でお聞きしました。 お時間がある時で、けっこうです。
2chではときどき、すごいジャブの応酬が繰り広げられますが、ほとんど議論が咬み合っているのを見たことがありません。
今日も、その虚しいジャブ応酬が ・ ・ ・ >>508 >>512 >>518 >>531 etc.
現代では牧師にせよ信徒にせよ、ある教派に所属しているからその教派の教義に拘束されるというようなことは、実際にはなくなったと思います。
そうではなくて個人が(信者であるなしに関係なく)、どこかで聞きかじっただけの(消化不良の)教義や聖書解釈に拘ってみたり、大真面目に反論したりしているだけです。
下記の書き込みで、「教会教義学の婢であった聖書神学に独立宣言を促した」 と、“近代聖書神学の由来” を表現したが、そのように2chのいろいろな論者の解釈や主張によっては学問としての聖書神学は縛られないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509622760/29
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/505- >>383 >>368 >>347-348 >>336-337 >>327 >>321-323
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*老クリスチャン氏降臨*
なぜ姦淫してはならないのですか?
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1503953697/279
279 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:53:42.41 ID:By5fRH7B
現代の日本語で 「姦淫」 という言葉を、みなさんは自分ではどう理解していらっしゃいますか?
聖書で同じ言葉が使われている場合にも、おそらく場所によって意味がかなり違います。
申命記5章の十戒の中で、18節の 「姦淫してはならない」 と 21節の 「あなたの隣人の妻を欲してはならない」 が区別されている理由を、考えてみたことはありますか?
老クリスチャン 生誕400年
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老クリスチャン
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572 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:15:59.92 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F】
福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。
事件の当事者たち個人個人の罪がどうであろうとも、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことは出来ません。
ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ 27:25)と全群衆が叫んだからといって、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことは出来ません。
「教会は神の新しい民であるとはいえ、あたかも聖書から結論づけられるかのように、ユダヤ人は神から見捨てられた者としても呪われた者としても紹介されることがあってはならない。」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)
(カトリック教会のカテキズム 597 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/572
573 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:16:43.33 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F への解説】
新約聖書を文字通りに解釈するということに起因する近代の最大の悲劇に、反ユダヤ主義があります。
歴史の教会は、聖書に保存されている1世紀末あるいは2世紀初め頃の教会の反ユダヤ主義的偏見に、気づかずに汚染されてきたのです。
当時、既存のユダヤ教徒に抵抗するには未だ少数者であったキリスト者側は、彼らの初期の伝承を反ユダヤ主義的な色合いで語ることによって、結束しようとしました。
そして遂にヨハネ福音書で、それが頂点に達したのでした(ヨハ 8:44)。
現代の進歩した歴史的批評的研究を無視しては、今日の聖書解釈は最早成り立たないということを、教会の指導者や説教者、また教養ある信徒たちの多くは学ぶ必要があります。
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/573 2010年(主日C/A年) 11月7日 年間第32主日
IIマカ 7:1〜14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38
ニケア・コンスタンチノープル信条で “死者の復活” と書かれている部分が、使徒信条では “からだの復活” となっています。
この用語法は、“肉の復活” ではないという神学的な主張に基づいているのです。
それは初代キリスト教の宣教を、ギリシア的・プラトン的な霊魂不滅信仰から区別する明確な表象なのです。
西欧人でも日本人でも、人は肉体的に死んでも、そのまま引き続き霊の世界で生きているという考えに馴染んで来ました。
墓の中でか、霊の世界でか、はたまた天国でか、その同じ人が生き続けているという理解です。
当然、復活と言うことがあるとすれば、それはその人の生涯の “続き” ないし “第二幕” であって、“七人ともその女を妻にした”(ルカ v.33)という過去を背負っているわけです。 それが “肉の復活” です。
「この世」(ルカ v.34)と 「次の世(来るべき世)」(ルカ v.35)との間には全き断絶があるのです。
それは “続き” でも “第二幕” でもありません。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(21:27)というような表現も、この断絶の象徴以外の何ものでもありません。
“天上の体と地上の体”、“自然の命の体と霊の体”、“土からできた人と天に属する人” という使徒パウロの対比(Iコリ 15:35-49)の意味を理解する人だけが、“からだの復活” という用語の神学的主張を受け入れることが出来るようになるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357 >>354-355 >>347-348
老クリスチャン 降臨 /: : //: : / : : /: :/: : : ノ: : |: : !ヽ: : ヽ ヽ ヽ
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582 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:28:00.61 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G】
洗礼は、罪の赦しの第一の主要な秘跡です。
洗礼は私たちを、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)に結合させ、「わたしたちも新しい命に生きる」(ロマ 6:4)ようにするからです。
洗礼は、信仰の秘跡です。
しかし信仰は、信者共同体を必要とします。
一人ひとりの信者が信仰を持つことが出来るのは、教会の信仰があってのことです。
「カトリック儀式書/成人のキリスト教入信式」 では、その第一段階の入門式で、司式者は 「あなたは教会に何を求めますか」 と尋ね、求道者は 「信仰を求めます」 と答えることになっています。
そしてさらに、「信仰によって何が与えられますか」 「永遠のいのちが与えられます」 という問答が続きます。
(カトリック教会のカテキズム 977,1253,168 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/582
583 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:29:21.03 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G への解説】
一部のプロテスタントの教派の中に、人は信仰によって救われるのであって、洗礼は救いの前提ではないという主張をする人々がいます。
その根拠は、彼らの(いわば自己流の)聖書解釈にあります。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるためであり ・ ・ 」(Iコリ 1:17)
はっきり言って、これは屁理屈に過ぎませんが、専門的な知識のない信者が議論しても迷路に迷い込むだけですから、避けたほうがよいでしょう。
「キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。」(カテキズム 1212)
カトリック(あるいは正統的な)教会は、一貫してそのように教えてきました。
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は(歴史の)教会にはありません。(Iコリ 11:16 参照)
キリスト教
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' ー── ' 2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「真夜中に “花婿だ。 迎えに出なさい” と叫ぶ声がした。」(マタ v.6)
新約聖書で “到来” を意味するパルーシア(παρουσία)という言葉は、キリストが見える姿で世の終わりに来られる日を指して用いられています(Iテサ 2:19,3:13,4:15,5:23 参照)。
それは “イエス・キリストが現れるとき”(啓示=αποκάλυψις)のことで、その日には最終的にすべてが明らかになるでしょう(ロマ 2:16、Iコリ 13:12 参照)。
イエスはこの花婿の到来の譬え話で、御自分の再臨の日のことを教えておられます。
その日が来るまでは、十人のおとめたちは皆 “ともにミサをささげる信者たち” でありました。
教会で行われる行事にも参加して一緒に食事し、一緒に神父様の教えを受けたのです(ルカ 13:26)。
しかし、だれでも人は疲れれば “皆眠気がさして眠り込む”(マタ v.5)のです。
「目を覚ましていなさい」(マタ 24:42)とは信仰の事柄であって、肉体のことではありません。
極度の不眠の行を守り、極端な断食を重ねることで、天国への道を開く功績を獲得出来るというような修道院的修徳を、この譬え話から導き出すのは間違っています。
「そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」(マタ v.7) (つづき)
そのとき、愚かな五人のおとめたちに明らかになったことは、彼女たちのともし火が消えそうになっているということでした。
まさか、キリストが世の終わりに来られるというパルーシア(παρουσία)を、彼女たちは全く予想していなかったのです。
それまではずっと、だれもかれもが皆同じように、善良なカトリック信者だったことを思うと、これはあまりにも悲惨な 「泣きわめいて歯ぎしりする」(ルカ 13:28)結末であるに違いありません。
しかし神は何も弁解なさらないのです。
「はっきり言っておく。 わたしはお前たちを知らない。」
私たちは今年も、教会が終末の日に心を向ける典礼暦の最後の三主日に至りました。
教会が公に言い表している信仰をしっかり保つ(ヘブ 4:14)ことの大切さを思い起こすことは、この期節の恵みです。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって(終わりの日の)神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ 5:8-9)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より あたかも自分が敬虔なクリスチャンであると思い上がっている老クリさん
が現れていますね。
老クリさんが、人と喧嘩をしないのは、平和な心や相手を赦す心があっての
ことではなく、自分を「敬虔なクリスチャン」であったり「義人」を演じるため
に喧嘩をしないだけでしょ?ズレてるんだよなあ。
隠しているその手を見せてみろよ。
https://www.youtube.com/watch?v=OoXc0ZBXEx8 猜疑心が多いのが女性の宗教関係者だろうね。
神を信じるかは 主人を愛すことに他ならないから、まあ、義にたける男子も、
敬虔なクリスチャンもいいんだけど、たとえば中年
クリスチャンは 喧嘩をしないわけじゃなく、
戦争に忙しく、復讐心にたけていて、ズレてはいない。
老人は多かれ少なからずれるものだよ。世間からはな。尊敬されて。 >>412-413 >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357 >>354-355
老クリスチャン 降臨
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* / ! / ヤT TTメ、 /| ! ! ! ',
_!_ |/ | / / z≠ニミx ! /!ヤTト、 ! | _人_
! __{|/| ! ./|〈 ト.んイ} / / ,=ミ | | ! | `Y´
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' ー── ' 2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」(Iテサ v.16)
キリストが世の終わりに来られるパルーシア(παρουσία)は、キリストの栄光が見える形で現れる日です(マタ 16:21,24:30)。
イエスも原始教会の使徒たちも、このことを語るときにはいつも、伝統的なユダヤ教の黙示文学的表現を用いました。
「わたしたちは ・・・・・ 救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです。」(Iテサ 5:8-9)
しかし私たちは、福音によって語られたこのキリストの栄光を、今は土の器に納めているようにして持っています。
それはただ信仰によってだけ、主の方に向き直ることによってだけ悟ることが出来るものです(IIコリ 3:14-16,4:3-4,6-7)。
この期節に教会は悔い改めて、使徒パウロとともに宣言します。
「主イエスを復活させた神が、イエスとともにわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(IIコリ 4:14)と。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>419 >>412-413 >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357
老クリスチャン 降臨
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∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
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| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
ヽ/ / く \ /
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 【信仰の話 -1-】
キリスト教のお話しをします。
キリスト教を伝えようとしたり、あるいはキリスト教を学ぼうとするとき、私はそれを次のように言い換えてみたいと思います。
私たちが伝えなければならない、あるいは学ばなければならないのは 「キリストの福音」 である、と。
この 「キリストの福音」 とは、根本的には、個人の神学や哲学である以前に、先ず 「教会の宣教」 の内容であって、教会はその誕生の時から今日に至るまで、「福音の宣教」 をその使命として歩んで来ました。
それは、聖書を通して私たちに届けられた 「神からの知らせ」、「イエス・キリストによる救いの知らせ」 であります。
「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(IIコリ 5:19)
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20) 【信仰の話 -2-】
ここで 「和解」、「平和」 の主体は神であって、その対象とされているのが 「世」、「人々」、「万物」 であることに注目しましょう。
キリストの福音とは、「神」 と 「世、人々、そして万物」 の間の 「和解、平和」 の知らせなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
以上から明らかなように、「キリストの福音」 は救済史(神による救いの歴史)の目標であり完成であって、それは終末の神の国到来によって完結するのです。
「わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ 3:20)
「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。」(信条) 【信仰の話 -3-】
「キリストの福音」 は、その本来の性格から、この世の一つの真理や道徳、社会規範や世界政治の目標とは、区別されなければなりません。
教会は昔も今も、多くの善き業や奉仕をこの世に対して行って来ました。
また教会は、この世の平和のために、あるいはこの世の改善と進歩のためにも、多くの貢献を果たして来ました。
しかしそれらは、教会の第一の使命である 「福音の宣教」 に付随する行為であって、決してそれらがそのまま 「福音」 ではないのです。
「あなたの神である主を愛しなさい」 が第一であって、それを抜きにして 「隣人を自分のように愛しなさい」 が福音なのではありません。
あくまでも、それは第二の掟なのです(マコ 12:29-31)。 【信仰の話 -4-】
この 「福音の宣教」 は、本質的に、神から 「教会にゆだねられた」 ものであることを理解する必要があります。
私たち一人一人が福音を信じ、福音に生きるのは、教会という交わりに於いてであることを、使徒信条は 「聖徒の交わりを信じます」 という言葉で宣言して来ました。
初代教会は 「交わり」 という言葉で、彼らのミサ(礼拝)を表現しました。
「わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Iヨハ 1:3)
「ミサの祭儀は、・・・・・ 全教会にとっても、地方教会にとっても、また信者一人ひとりにとっても、キリスト者の生活全体の中心である。
・・・・・ そして、他の聖なる行為とキリスト者の生活のすべての行いはミサに結ばれ、ミサから流れ出、ミサに向かって秩序づけられている。」(ミサ総則 1) ____
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人 【信仰の話 -5-】
私たちが(個人として)福音を学んだり、福音を宣教するとき、それは実際には教会の奉仕に参加しているのです。
たとえそれが個人の行為のように見える時にも、それは神から教会にゆだねられた責任に於いて、教会の奉仕の一部としてなされているのです。
もしそうでないなら、これを 「福音の学び、福音の宣教」 と呼ぶことは、用語上矛盾していることになります。
なぜなら 「キリストの福音」 は 「教会にゆだねられた宣教の内容」 であって、教会を離れては意味をなさないからです。
教会から切り離された個人が行う聖書の研究も、また聖書から得た真理や価値観を実行することも、それらは学問や倫理ではあっても、福音の学びや宣教とは根本的に別のものなのです。
私たちは、聖書の証言を通して福音を学ぶのですが、それを 「聖徒の交わり」 の中で行います。
それは、単に現在だけではなくて、過去の全キリスト教会の歩みと思索と認識との関連における 「聖徒の交わり」 です。 【信仰の話 -6-】
私は神学校を卒業してから既に50年になりますから、自分の同窓の友だけでなく、その他にも多くの牧師や信者たちを見て来ました。
熱心にキリスト教関連の勉強をしたり、聖書を研究する人たちにも出会いました。
その中には、健全な信仰者もいれば、はっきり言って怪しげな自称キリスト教知識人も可成り混在していました。
過去の教会の歴史を尊重するという姿勢に欠けた、自己流の独善的な福音理解を、自慢げに語る知識人のことです。
ギリシア語やヘブライ語が読めるというので、さも自分は一人前の聖書学者にでもなったように錯覚している、自称知識人です。
聖書を翻訳によらずに、原典で読んで、自分の現代感覚で解釈してしまうことは、最も愚かな行為です。
聖書神学には、永い釈義の歴史があって、現代の聖書翻訳は、その膨大な知識の富を深く学ぶことによって行われているのです。
ところがそのような素養のない自称知識人が、辞書を頼りに原典を自己流に読んで、いかにも得意げに 「この箇所の日本語は誤訳だ」 などと言ったりしているのです。 ____
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人 【信仰の話 -7-】
私たちがそれぞれの能力や時間の制約の中にあっても、自分なりに 「キリストの福音」 を学ぼうとするなら、いくらでも日本語で良い助けを見出すことが出来ます。
先ず、日本語の聖書を、その翻訳への十分な敬意を払って読むことです。
現行の日本語聖書として主なものは 「新共同訳」 と 「フランシスコ会訳」 の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。
聖書の注解書は、もちろん大切なのですが、自分の能力に見合う良書に出会うのは簡単ではありません。
これは、いちばん当たり外れの多い、学習者泣かせの分野だと思います。
第三に、歴史的な(プロテスタントの)信仰問答や信仰告白と呼ばれる多くの書物が、ほとんどすべて日本語になっています。
是非、(一冊だけでなく) 何種類かを読んで、出来るだけ柔軟な思考を養うようにしましょう。
カトリックの場合は、やはり 「カトリック教会のカテキズム」 をお勧めしたいと思います。 【信仰の話 -8-】
聖書の証言である 「キリストの福音」 を宣教するために、歴史の教会は様々な仕方で努力して来ました。
そしてそれらは常に、その時代、教会の置かれた状況に応じての、一つの 「試み」 でありました。
「キリストの福音」 は、それ自身に於いて無限であり、無尽蔵であって、神学のどのような試みによっても完全に説明し尽くすことが出来ないからです。
教会は、そのような過去の先人たちによる、多くの 「試み」 の果実という遺産を持っています。
しかし私たちがそのような果実のどれか一つに、時代を超えて不変不動に固執することはふさわしくありません。
私たちはそれらの遺産を、十分な敬意を抱いて学びつつ、しかも常に新しく現代における 「試み」 に向かいます。
その場合にもその 「試み」 は、旧・新約聖書の厳密な釈義に由来しなければならないことは当然です。
なぜなら、もし聖書の釈義を軽んじるような 「現代の新しい福音解釈」 などというものが語られるなら、それはただの人間的な思弁に過ぎず、教会の 「宣教の奉仕」 にはふさわしくないからです。 ____
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人 >>442-443
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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人 【信仰の話 -9-】
5chの書き込みを見ていると、皆さんそれなりにどこかの書物から得た知識を利用して発言していらっしゃるようです。
不思議なことにこの日本では、非常に多種多様なキリスト教関係の書籍が大量に出版されています。
良いもの、怪しげなもの、さらには無責任な放言に属するようなまで種々雑多です。
私自身は、主に聖書神学関係のものに目を通していますが、ドイツ語や英語が堪能でなくても、日本語への翻訳で十分に重要なものの多くが読めます。
それにしては、どうもそのような神学書を本気で読んでいる人が少ない ・ ・ という気がします。
ここ5chでの書き込みが、ただの聞きかじりや言葉尻への言いがかりのようなものばかりなのが、その証拠です。 【信仰の話 -10-】
日本語の普通の文章を読んで理解できるレベルの人(5chにはその能力に欠ける人が多い)への助言ですが、共観福音書の歴史的批評的研究の流れの中で、重要な区切りとなる三冊の書籍をご紹介しましょう。
聖書に関する議論に口出しをするなら、(素人の一般教養人であっても)当然このレベルの学習はしていなければなりません。
(1) M.ディベリウス 「イエス」(1939) 神田盾夫訳/新教出版社(復刊 1973)
(2) G.ボルンカム 「新約聖書」(1971) 佐竹明訳/新教出版社
(3) G.タイセン 「新約聖書」(2002) 大貫隆訳/教文館
三人とも、ハイデルベルク大学の新約学教授であった様式史研究の中心的神学者です。
もし学ぶ気があるなら、(1)→(2)→(3) の順に読むことをおすすめします。
(これらは全て初学者向けの入門的な書籍であって、決して本格的な専門書ではないことを申し添えておきます。) ____
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人 >>424-427 >>436-437 >>442-443 >>451-452
老クリスチャン 降臨
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> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教には入れません。
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. 〈U -=ト = !!
. ヘ!. ^,,_、 ` l
. ヽ 丿トェェェイヽ /
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. (之ノ | ,!、 2005年(主日A/B年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
人の子の日について福音書が伝えている一連の教えは、地上のイエスの短い生涯の間の出来事を超えた、終末的未来に関する預言を取り上げています。
主イエスは復活して 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(使 10:42,17:31)という証言は、まさに使徒たちの宣教の核心部分でありますが、かつて主の復活以前には弟子たちの全く知らなかったことでありました。
使徒たちの宣教したキリスト教は、イエスによる神の贖いついての宗教であつて、イエスの宗教(と推論されるもの)の再現ではなかったと言われるのは、その意味です。
最後の審判の日はノアの洪水のようであって、思いがけない時にやって来る。
それは通常の歴史的出来事のように 「見よ、ここに」 「見よ、あそこだ」 と言ってはならない。
なぜなら、人の子は稲妻が東から西にひらめき渡るように来るから。
このような人の子の日を、キリストが主の主、王の王として(黙 17:14,19:16)栄光の座に着く審判の日として描いているのが、今朝のテキストです。
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかる」(マタ v.46)という主題は、伝えられたイエスの多くの教えを解釈する鍵となりました。
教会の信条の中で最後の審判は決して付録のようなものではなくて、使徒たちの伝えた福音の本質そのものであります。
ですから代々の教会は典礼暦の最後の主日のミサの朗読配分で、王であるキリストを覚えて来ました。
マタ v.40 と v.45 の 「小さい者」 とは、マタ 10:40-42 から分かるように、福音の宣教のために働く協力者を、また教会を共に造り上げてゆく信者たちのことを、先ず第一に意味していることを指摘しておきましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日A年) 11月23日 王であるキリスト
エゼ 34:12〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Iコリ v.22)
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ v.20)
キリスト教を信心することが、人に生き甲斐を与えるというような、そんな信仰理解がしばしば語られて来ました。
しかしイエスの話や、マリア、聖人たちに関する美しい話の数々が与えてくれる生き甲斐が、現代人には空虚なものにしか思えなくなったので、教会には人が集まらなくなり、日本人の司祭も信者もほとんど高齢者ばかりという現実が結果しました。
近年の教会の衰退は、教会が我が国の政治や倫理に関わる努力に不足していたからではなくて、そうではなくて、教会が自らに約束された終末の希望を軽んじ、真面目に信じなくなったからなのです。
いったいこの “王であるキリストの祭日” の主題が、どれだけ信者の心に響いているでしょうか。
典礼暦の最初に置かれた待降節さえもほとんど無視されて、ただのメリー(楽しい)クリスマスの空騒ぎが “終末の希望” という主題をかき消してしまっているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>463 >>466
老クリスチャン 降臨
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i ヽ ヽ::::::::::::::.. }i''^i、{ ::::::::::::::::/ / _/ ./ とある霊媒師の話じゃキリストは現在何とか大丈夫そうだがキリスト教が不動教(実は何万年と
悪いことをやってきた)に洗脳され悪事をやっている。それらをどけ3倍ぐらい自主的に弁償し
てこない限り、上(神仏界)で強制的にに弁償させられ最悪抹消させられるだろう。
もちろんクリスマスの栄えもそれなりに落ちてしまう。初詣はもちろん不動のまつってある
神社にいってはいけない!例え一見幸福になったように見えても不幸が着きもまとう。 2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(キリスト)によって来るのです。」(Iコリ vv.20-21)
先の “バルメン宣言” は、その第五条で次のように宣言しました。
“教会が、人間的な自主性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に、奉仕させることが出来るというような誤った教えを、われわれは斥ける。”
バルメン宣言にせよ、第二バチカン公会議にせよ、歴史の証言と教訓を、教会はその信者に教え理解させるような方向には決して進んで来ませんでした。
むしろ教会は、“必ずしもそれが告白する信仰通りには生活しなかった”(ヴィサー・トーフト)というのが今日においても事実なのです。
殆どの信者にとっては、キリストの復活は自分の生活には直接関係のない、ただの “お目出度い話” として、聞き流されています。
そして、ドイツ教会闘争とその後のキリスト教の歴史は、大学の文学部のフォーラムで、キリスト信仰とは何の関係もない一般学生たちの間の討論主題としてしか、取り上げられなくなってしまいました。
しかし、王であるキリストの祭日は、今日わたしたちカトリックの子らのところに来ているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2005年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
私たちが知っている教会の実状は、人々はみな “自分は神の恵みを受けている” とは思っているけれども、だれも “自分はキリストに結ばれて、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている” とは全然言えないというものです。
しかしコリントの町では、まだ最近信者になったばかりの異邦人キリスト者たちが、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Iコリ v.7)と述べられています。
明らかに、そこには現代のキリスト者である私たちとの決定的な違いがありました。
初代教会の人々が聞いた使徒的宣教が、聖伝と聖書という形でそのまま現代の教会にも伝えられているのに、私たちが知っている教会ではそれが語られることも聞かれることも僅かなのです。
まさに 「目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることがない」(イザ 6:10)というのがありのままの姿です。
物質的、経済的には豊かになったが、キリストの体である教会の 「破滅に心を痛めることがない」(アモ 6:6)という叫びが、読まれざる聖書の中に閉じ込められています。 (つづき)
私たちはこれまで、論ずることには雄弁でありましたが、聞くことには無能であることが多かったと気づくべきです。
教科書は読まずに参考書を頼りにし、学校の授業には本気で取り組まずに学習塾を当てにするように、キリスト教の各種出版物や雑誌から雑多な情報を入手はするが、聖書そのものは殆ど読まないというのが、現代のキリスト者のごく普通の姿となって久しいのです。
この世の論客(Iコリ 1:20)の発言には無批判に耳を傾けるが、使徒たちの伝えた福音には殆ど全く関心がなかったという大きな誤りに、私たちは大いなる決断を以て対処しなければなりません。
その要求こそが、待降節第一主日のミサの朗読配分から私たちが聞かされている使信であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日B年) 11月30日 待降節第一主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「その日、その時は、だれも知らない。 天使たちも子も知らない。 父だけがご存じである。 気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ vv.32-33)
教会は、その典礼暦の一年を “待つ” ということで始めます。
私たちが体験してきた限りのキリスト教では、この “待つ” という主題がミサの説教で語られることはなかったと言って過言ではないでしょう。
説教する人たち(司祭や司教)も、ミサに集う信徒たちも、聖伝と聖書の中にあるこの主題を、あたかも時代錯誤のおとぎ話ででもあるかのように無視して来ました。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マコ 13:26-27) (つづき)
教会が “その日” を待っている民の共同体であることを、典礼暦はその最初にアドベント(待降節)を置くことによって宣言し続けて来ました。
有名なハイデルベルク信仰問答の 第52問 は、すべての使徒的教会の信仰を言い表しています。
問 : 生者と死者を裁くために来られる(使徒信条)キリストの再臨は、あなたにどのような慰めを与えますか。−−−
答 : それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を献げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望むということです。 ・・・・・
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 聖書に書いてある言葉に従うことが、私たちの
幸せへと繋がっています。
御言葉は神の言葉です。
私たちはその神に創られたものです。 ____
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人 2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ v.7)
待降節は、待ち望む期節です。
それは御子の第一の来臨の祭りを準備するときであると同時に、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるときです。
なぜなら教会はその誕生のとき以来ずっと今も、救済史の完成に期待することがその歩みの根拠であり道しるべである、そのような神の民であるからです。
キリスト教的な希望は、単なる個人の現世における、また死後の世界での幸福追求から説明出来るものとは異なり、神がキリストによって世を御自分と和解させてくださった十字架と復活の福音が、キリストの来臨によって完成する終わりの日への希望です。
その日には、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)
私たちが通常の葬儀で、死者が直ちに来世に移されて、今や天国で生きているかのように聞かされるのは、ただの俗信であって、聖書の使信ではありません。
教会では死者は、私たち生きている者たちと共に、復活の日を待つ “現在” に属していて(Iテサ 4:13-18)、ともにミサをささげる交わりの中に今なおいるのです(奉献文参照)。
今朝のイザヤ書に歌われている “イスラエルの哀歌” を、私たちは現代の教会の実態への嘆きの歌として、しかもその教会に約束された確かな希望の歌として、ご一緒に聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ____
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祝 老クリスチャン 生誕500年
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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|┃ | | ///(__人_)// 祝 老クリスチャン 500ゲット
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|┃三 /  ̄  ̄} ガラガラッ
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人 2005年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
現代の教会がこの世の人々への福音の証言者としての役割を果たすためには、その福音が神からの福音、神のことばの福音、キリストの福音でなければなりません。
福音の土着化という耳当たりの良い表現で、もし使徒たちが伝えたのとは別な “日本的、あるいは東洋的キリスト教の再構築” を考えるなら、それは神が 「力を振るって声をあげよ」 「声をあげよ、恐れるな」(イザ v.9)と言っておられるものではあり得ません。
救済史に関わる宣教は 「主の口がこう宣言される」(イザ v.5)ことばの宣教であり、「見よ、主なる神」(イザ v.10)と指さすものなのです。
第二イザヤの冒頭のこのテキストは、神の救済史の完成を予告する大いなる慰めを、代々のキリスト者の心に与え続けて来ました。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(イザ v.1)
ルカ福音書2:25のシメオンのように、代々の敬虔なキリスト者たちは聖霊に導かれて、神の民の慰められるのを切に待ち望んでいたからです。
その同じ神からの慰めと、神の国の到来が近いという知らせを、今年もこのテキストから聞くことが出来る人は幸いです。
待降節第2主日は、神の約束から来る慰めの主日です。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 660 :神も仏も名無しさん:2017/12/05(火) 11:47:01.70 ID:u8GBWhMn
信者たちからお金を集めたり、信者たちを集金要員にしたり、
集めたお金で組織を拡大したりします。
連中にとっては、神は「飾り物」「お神輿」です。
飾り物になれる、ふさわしい人物を、適当に神にして
真の目的は、組織を形成させて拡大させる事なんです。
神やメシアや救世主なんてものは「客寄せパンダ」であって
「客を集めるためのお神輿」であり、実際は、連中の創作です。
宗教も、需要と供給が成り立ってます。
信者たちも組織に入ると色々と出会いもあるし
組織内で出世することも可能です。
真の目的は「組織の形成」であり、神などは
客を集めてくれるものであり、それでいいのです。
客を集める為に、ウソを付いて、神格化させます。
イエスも、弟子や教徒や後世の人たちの作り話によって
神格化されてるだけで、実際は、普通の人間なのです。
このままでは地獄に落ちて消滅すると脅し、
ここに入って定期的に会費を払って
このように信じてこのように行動すれば
天国で永遠の命だから、と教え、服従させます。.
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. 〈U -=ト = !!
. ヘ!. ^,,_、 ` l
. ヽ 丿トェェェイヽ /
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| ' フ' !Oj ヾ_)) i、
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レ' |:::::: 破:::::::::| i|J
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|  ̄ ヽ\  ̄ ,|
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. k―t-、..,,__,!
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. (之ノ | ,!、 2008年(主日B年) 12月7日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
使徒たちが伝えたキリストの福音を、現代人の理性を基準にして批判するという18世紀の啓蒙思想以来、教養あるキリスト教信者の多くが聖伝と聖書に対しても疑義を差し挟むことが、決して不当なことではないと思われるようになりました。
それは学問の自由であり、19-20世紀の神学の世界も大いにそして多方面に発展したのですが、それで今21世紀の教会の実態はどうなったかを見ると、非常に明確に一つの点を指摘することが出来ます。
それは代々の教会が使徒たちから受け継いで来た “宣教(ケリュグマ)” を、小教区の司牧者も信者たちも全く本気では信じなくなったということです。
特殊な原理主義的な教派の人々は別として、普通のキリスト教信者が “聖書に書かれていることを、そのまま文字通りに信じる” ことは、狂気の沙汰であると思うようになってしまったということです。
カトリックの司祭たちや、プロテスタントの牧師たちの説教が、どれも今や使徒たちの宣教の継続ではなくて、いわば “新作の福音” “新作の説教” であることを、だれも不思議に思わないのです。
現代の私たちが見ているキリスト教は、使徒たちのキリスト教と同じではない、“新作のキリスト教” になっているのです。
「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 だから、 ・・・・・ 」(IIペト vv.13-14)
この 「だから、 ・・・・・ 」 を、私たちは今日、待降節第2主日のミサで、そのことばの典礼で聞きます。
神のことばは、確かに朗読台から私たち会衆に向かって語られることを、信じることが出来ますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>516
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2011年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「高い山に登れ、善い知らせをシオンに伝える者よ。 力を振るって声をあげよ ・・・・・ 、声を上げよ、恐れるな ・・・・・ 。」(イザ v.9)
“生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト” とは、そして教会に神の国を受け継がせてくださる主キリストの福音とは何の関係もないようなキリスト教が、私たちの経験して来たこれまでの教会の実態であったことを、残念ながら認めざるを得ません。
しかし、それでもカトリック教会は典礼暦を保持し続け、来る年も来る年もこれを待降節から始めて来たのです。
主日のミサの朗読配分は、待降節の主題をずっと維持し続けて来たのです。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙 1:4)キリストを語ることに躊躇し、真面目に信じることも待ち望むこともしなかった罪から立ち帰り、私たちが聖伝と聖書を通して伝えられた福音の希望に固く立つために、神のことばは語りかけています。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ ・・・・・ 」(イザ vv.9-10)
「“然り、わたしはすぐに来る。” アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙 22:20) ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ポルノの蔓延と、漫画やゲームが常に「男同士のぶつかり合い」を描いていることから、女子高生たちは大人に憧れた。
しかし、この全体主義の国ではサラリーマンたちにとって女子高生との恋は「禁じ手」とされて監視の対象となった。
しかし、相撲を見た後だけはみんな「全て許す」と言ったために相撲ファンが多い。
相撲という文化を若い世代に教えたこと、そして中卒のヒエラルキーの動物的な側面を見たこと、相撲を見るだけのお金を払ったことなどが理由として考えられる。
1972年にメイナード・スミスがこのような「相撲のセールス」を考えたのだ。
タカ派にはお金がない。ハト派だけがお金を持っているということも背景にあった。
一緒に女子高生と文化を楽しまなければ、女子高生もその気にならなかったし、大人の世界を見せてもらうという最高のプレゼントが相撲だった。
https://youtu.be/Yxe9arYtAVY
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/117598928 2005年(主日B年) 12月11日 待降節第3主日
イザ 61:1-2,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
教会は特にこの期節に、「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日」(イザ v.2)についての希望を聞かされます。
キリスト者の喜びの源泉は将来の神の国からのものです。
「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。
大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」(イザ vv.10-11)
使徒パウロはこの希望について、ロマ 8:24-25 に次のように書きました。
「現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。 私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」 と。
それが私たちの教会に使徒継承によって受け継がれて来た 「良い知らせ(福音)」 であります。
全世界の教会がこの期節に共有する喜びは、この確かな希望から来る喜びであります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
ベネディクト16世教皇は2006年に公にした “ナザレのイエス/第一部” という著書の中で、次のように述べています。
「イエスの教えは人間の学識の産物ではない。 それは父なる神との直接の交わり、顔と顔をあわせての対話(出 33:11、申 34:10 参照)からのものであり、父のふところにいる独り子である神(ヨハ 1:18)のことばなのである。」
この救済史を導いて神の国の完成に至らせる御父と、人との間の仲介者である方、それが教会と共に歩まれるキリストです(Iテモ 2:5)。
イザ第61章で、預言者は自らを一人称で 「わたし」(イザ v.1)と呼んで、主なる神がその民のために与えられる贖いと解放の知らせを伝えています。
彼自身については、ただその知らせを語るために 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」 とだけ述べ、そして 10-11節 では、自らが救われたシオンの代弁者となって神を賛美しています。
彼は終末的な 「良い知らせ」(イザ v.1)を伝える一人の預言者であり、「主がシオンに帰られるのを」(イザ 52:8)、「主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださる」(イザ 62:7)のを、民と共に期待することを許されたのでした。
そのように、神のことばが語られ聞かれるところには、主イエス・キリストがおられます。
説教者が世の中を動かしたり、歴史の成り行きを変えるなどと考えてはなりません。
そうではなくて、教会と共におられる主キリストが、その日までに私たちを聖なる、非のうちどころのない者にしてくださるのです。
そのことに期待して、私たちは共に、今年も待降節の朗読聖書から神のことばを聞いて喜ぼうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2014年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「神から遣わされた一人の人がいた。 その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。 光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しするために来た。」(ヨハ vv.6-8)
待降節第3主日には、私たちは毎年、洗礼者ヨハネについての福音書の証言を聞きます。
しかし彼は“光ではなく”(ヨハ v.8)、“メシアでもない”(ヨハ v.20)。
彼は “荒れ野で叫ぶ声である”(ヨハ v.23)。
彼は “来るべき方”(マタ 11:3)、すなわち ”光について証しするために来た”(ヨハ v.8)のであって、彼はその存在と使命をこの “来るべき方” に負っている。
そのように、待降節第3主日の福音のテキストは、実は共にミサをささげている私たち教会に対して、来たり給うキリストを証ししているのです。 (つづき)
すでに原始教会の時代に、この洗礼者ヨハネをメシアと考える一派が存在していたことが知られていますが、そのように歴史の教会においてはいつも、
今は天に上げられて見えなくなった “来るべき方であるキリスト ”(使 1:9-11)に代えて、もっと身近な存在である教皇や司教、さらに神の母聖マリアや各地方の守護聖人らを、事実上の “救いを与える者” のように考えることが行われて来ました。
現在でも、もしかすると多くのカトリックの普通の信者が、このような人々を ”救いの鍵を握っている者”(黙 3:7)のように勘違いしているかも知れません。
「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(ヨハ v.26)
使徒と預言者の証しを通して、キリストは私たちのミサの中に現存しておられますが、それは信仰によってしか知ることの出来ないものでありますから、
教皇や司教、司祭が ”救いの鍵を握っている” かのように思っている人々にとっては、それは “あなたがたの知らない方” のままなのです。
私たちのミサで司祭は、その説教によってこの “来るべき方” を証ししているでしょうか。
信徒はこのことを真剣に問わなければなりません。
説教だけでなくミサ全体から、預言者と使徒の証しを確かに聞き取ることは、私たちすべての信者にとっての最大の課題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2005年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
天使ガブリエルは、やがてマリアが産む男の子について言いました。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ vv.32-33)
ヤコブすなわち神の民イスラエルを治める王の誕生を告げる天使の言葉に、マリアは戸惑いましたが、天使ガブリエルはさらに続けて言いました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ v.35)
“時が来れば実現する神の言葉”(ルカ 1:20)を、マリアは信じて受け入れました。
神がイエス・キリストの福音によって御自身の “秘められた計画” を啓示されたその最初のところに、この信じて受け入れたマリアがいたことを、ルカ福音書は語りました。
人は神の御計画に服従することを通して、神の栄光に奉仕することになります。
そしてそれは過ぎ去った過去の美しい物語りとしてではなくて、教会が “身を起こして頭を上げて”(ルカ 21:28)その実現の日を今なお待ち望んでいる “秘められた計画” を伝えるために、今朝全世界の教会で再び朗読されているのです。
マリアは私たちすべての、いわば代弁者として、神への信仰の従順を捧げました。
「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ v.37)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2017/12/18 21:01
中国・瀋陽の大学でXマス禁止令 西側文化や価値観を警戒か
【北京共同】米政府系放送局のラジオ自由アジアは18日までに、中国遼寧省瀋陽市の
大学がクリスマス関連のイベント開催を禁止する通知を出したと報じた。キリスト教などの
西側の文化や価値観の浸透を警戒する政府の意向を受けた措置とみられるという。
報道によると、通知を出したのは瀋陽薬科大学で「一部の若者はクリスマスなどの
西側宗教の記念日に夢中になっている」と批判し「西側宗教文化の侵食に抵抗」するよう
呼び掛けているという。
中国では近年、キリスト教徒が多いことで知られる浙江省温州市など各地の教育機関で、
クリスマス関連の活動を禁じる動きが広がっている
https://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201712/0010829491.shtml
クリスマス
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ε≡Ξ ノノ `Jノ `J ノ `J ノ `J 2008年(主日B年) 12月21日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ v.35)
多くの人々、特にカトリック信者にとって、処女マリアによるキリスト懐胎というテーマは、キリスト教を理解する上で決して見過ごすことの出来ない問題と考えられています。
しかし、その根拠を新約聖書に求めることは適切ではありません。
それは聖伝に属する関心事であって、私たちは公会議の意向に沿ってこれを学ぶことが大切です(教会憲章/第8章)。
イエスはユダヤ人の女から生まれ(ガラ 4:4)、ダビデの子孫と認められ(ロマ 1:3)、その母の名はマリアといい、ガリラヤのナザレで育ったと新約聖書は伝えています。
このことから推測出来ることは、使徒たちによる最初期の宣教には、処女降誕という主題は含まれていなかったということです。
しかし、私たちが使徒信条で見るように、教会ではかなり早い時期に、洗礼式の信仰宣言の中に “おとめマリアから生まれ” が加えられたように思われます。
おそらくそれは人が洗礼式で、その名を信じる信仰を告白して “神の子となる資格を与えられ”(ヨハ 1:12)、聖霊によって新しく生まれるように(ヨハ 3:3-6)、主イエスの誕生は聖霊による出来事であったということを、明確にするためでありました。
マタイとルカ福音書にイエスの誕生の物語りが加えられた理由の一つがここにあります。 (つづき)
聖霊の注ぎは “終わりの時代”(ヘブ 1:2)の開始の象徴として、聖書では理解されています(エゼ 36:26-27,37:14、ヨエ 3:1-2、ゼカ 12:10、使 1:8、エフェ 1:14)。
ですからイエスの誕生の物語りは、私たちが洗礼の秘蹟を受けて、聖霊によって新しく生まれたという事実と固く結びつけて理解されなければなりません。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ 8:11)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ハ,,ハ
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サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 vv.13-14)
南王国ユダへの “ダビデ王朝” の約束は、その初期からずっと、歴史のどこかの時点で理想の “神の子としての王” が即位するという期待として理解されていました。
ですから代々の王の即位は常に、“神の養子となる” という意味での “神の子の誕生” として祝われました(詩 2:6-7)。
そしてこの期待は、終末的な将来への希望として、主イエスの誕生に至るまでイスラエルに受け継がれて来たのでした。
私たち教会の信仰も、受けた救いも、神が歴史の中で実現されたイエス・キリストの出来事にその根拠をおいています。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:32-33)
これはすでに起こったことの報告です。
そしてそれに続いて聖書は、「キリストは・・・・・ ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ 9:12)、
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Iコリ 15:20)と伝えているのです。 (つづき)
私たち現代の教会は、飼い葉桶の乳飲み子の誕生を待っているのではなくて、この方の終末における第二の来臨を待望しているのです。
これは福音のメッセージであって、おとぎ話なんかではありません。
「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次の通りであった。」(サム下 v.4)
司祭やオラトリオの教師たちの “お話” と、 “主の言葉” とは、違っていることがあるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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~`''ー--‐'` `''ー---‐' ~`''ー--‐'`~`''ー---‐'~`'ー---一' ~`ー---‐' 2005年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
毎年クリスマスのミサで、イザヤ書からのテキストが朗読されますが、それはそこに預言されている神の民の救いがイエス・キリストの誕生によって実現し始め、救済史がいよいよその最後の段階にさしかかったという教会の信仰宣言を表明するためであります。
教会がイエス・キリストによる間近な救済史の終末的完成に目を向けるために、イザヤ書からのテキストがこの期節のミサで朗読されて来ました。
それはイスラエルの過去の諸々の期待の思い出としてではなく、あるいは昔の預言者の語った単なる美しい夢としてでもなく、
そうではなくてイエス・キリストの第一の来臨によって始まった救済史の急展開が教会にとっての現実となったことを、会衆に知らせるためであります。
「彼らは目の当たりに見る。 主がシオンに帰られるのを。」(イザ v.8)
実に教会は 「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ロマ 8:17)
この教会の宣教は今日も、使徒たちの宣教の継続であって、神の国の福音の宣教以外の何ものでもありません(マコ 1:15、マタ 4:23、ルカ 9:60)。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザ v.7)
教会の宣教の主体は神であって、私たち一人一人はその宣教のための働き人として用いていただく僕に過ぎません。
終末の日に、“私どもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです”(ルカ 17:10)と言うことの出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,..-──-.‐-‐-.‐-、
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【完成図】
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,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」
じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ., 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 vv.13-14)
南王国ユダへの “ダビデ王朝” の約束は、その初期からずっと、歴史のどこかの時点で理想の “神の子としての王” が即位するという期待として理解されていました。
ですから代々の王の即位は常に、“神の養子となる” という意味での “神の子の誕生” として祝われました(詩 2:6-7)。
そしてこの期待は、終末的な将来への希望として、主イエスの誕生に至るまでイスラエルに受け継がれて来たのでした。
私たち教会の信仰も、受けた救いも、神が歴史の中で実現されたイエス・キリストの出来事にその根拠をおいています。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1:32-33)
これはすでに起こったことの報告です。
そしてそれに続いて聖書は、「キリストは・・・・・ ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ 9:12)、
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Iコリ 15:20)と伝えているのです。 (つづき)
私たち現代の教会は、飼い葉桶の乳飲み子の誕生を待っているのではなくて、この方の終末における第二の来臨を待望しているのです。
これは福音のメッセージであって、おとぎ話なんかではありません。
「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次の通りであった。」(サム下 v.4)
司祭やオラトリオの教師たちの “お話” と、 “主の言葉” とは、違っていることがあるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハ v.14)
「いまだかつて、神を見た者はいない。 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ v.18)
昔の思い出話でもなく、それについてのもったいぶった弁証でもなくて、私たちキリスト者はここで “神の啓示” に出会うのです。
神の啓示に関する教義憲章が教えるように、受肉し、その受難と死と復活によって永遠の贖いを成し遂げて、父なる神の右の座にお着きになったキリストが “啓示そのもの” であって、聖伝と聖書は私たちがこの啓示に出会うための “伝達の器” だからです。
私たちキリスト者が神の啓示に出会うのは、その証人として立てられた使徒たちの証しによるのであって、私たちに出来ることはその証しを通して啓示を受け入れ、信じることだけなのです。
この啓示の証しが教会を造り、私たちの主イエス・キリストの栄光ある再臨の日まで、これを保ちます。 (つづき)
私たちは、教会が待ち望んでいる “来たり給うキリスト” の、かつての地上における御業(ガラ 4:4-5、IIコリ 5:19)の使徒による証しを、この日中のミサの朗読配分によって聞いているのです。
これとは違うような、ただの昔話の中の思い出のメシアを回顧しようとしたり、あるいは神の秘められた計画とは何の関係もない現代のメシア出現への幻想を抱いてクリスマスを祝うことは、神の啓示とは何の関係もないことです。
キリスト教界の大多数の人々が、実際には全く理解しなかったとしても、
それでも、“今おられ、かつておられ、やがて来られる”(黙 1:4)キリストの啓示の光は、使徒の証しを通して “暗闇の中で輝いている”(ヨハ v.5)ということを、聞いて信じることの出来る信者は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2008年(主日B年) 12月28日 聖家族
創 15:1-6, 21:1-3 ヘブ 11:8〜19 ルカ 2:22〜40
「それは、神が約束されていた時期であった。」(創 21:2)
教会がこの世にある限り、いつもその時代の社会的、経済的、あるいは政治的な事柄と無縁ではあり得ません。
特に最近の世界規模の金融危機によって、我が国でも深刻な景気悪化、急速な雇用の縮小による打撃が、庶民を襲っています。
だれが無関心でいられるでしょうか。
今日キリスト教は我が国では超少数派であって、実際には効果的といえるほどの活動を行うことは殆ど出来ません。
しかし、その社会的、あるいは経済的実力の無さにもかかわらず、これまでもキリスト教関係の人々や団体による政治や社会や経済に関わる発言は盛んでした。
それらの諸発言や活動は、それぞれ彼らの信仰に発しているのでありましょうし、賛否は別として、恐らくそれも良い信仰なのだろうと思います。
ただ、聖書を学ぶ者として、一つの警告をここに書いておきます。
私たちは自分の心の感情(それがどんなに善意からのものであっても)を、あるいは自分の知識に基づく確信(それがどんなに熟慮されたものであっても)を、教会の信仰(使徒継承による)の代替物にしてしまってはならないということです。
教会の信仰は、救済史をその完成へとお進めになる神、御子の血によって教会を贖われた父なる神への信仰であり、神が世の罪を取り除く小羊としてお遣わしになったイエス・キリストへの信仰だからです。
「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より キリスト教の人々は邪神不動明王に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王が実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。その洗脳をさっさとどけ、
自主的に弁償してくること。さもなくば強制的に3倍ぐらい弁償を取られて抹消されるでしょう。
初詣は成田山や不動明王神社へは絶対行ってはいけません! 2014年(主日B年) 12月28日 聖家族
創 15:1-6, 21:1-3 ヘブ 11:8,11-12,17-19 ルカ 2:22〜40
「信仰によって、アブラハムは ・・・・・ 」(ヘブ vv.8,17)
「信仰によって、不妊の女サラ自身も ・・・・・ 」(ヘブ v.11)
“信仰” を強調することは、旧新約聖書を貫いて主の民に求められ続けて来た、神に対する基本的応答の姿勢であります。
ですからいわば当然のこととして、“信仰がなければ、神に喜ばれることはできません”(ヘブ 11:6)と述べた後に続いて、アブラハムとサラの信仰の物語りが語られました。
私たちはキリスト教の歴史が、繰り返しこの “信仰” を人間の功績や徳という富に算入出来るかのように考えて、神の前に価値あるもののように賞賛して来たのを知っています。
“アブラハムのような偉大な信仰者になろう” などという間違った聖書の読み方が、特に原理主義的なキリスト教で日常的に語られて来ました。
アブラハムは神の御前では自分が “塵あくたにすぎない者”(創 18:27)であることを知っていました。
アブラハムは主を信じたのであって、決して自分の信仰の価値を信じたのではありませんでした。
そして “主はそれを彼の義と認められた”(創 15:6)のです。 (つづき)
聖家族の祝日の主役は、マリアでもヨセフでもなく、またシメオンでもアンナでもありません。
言うまでもなくそれは幼子イエスであり、啓示の光を伝える “証し” であります。
そしてそれは、私たちがミサでお会いする “受肉し、その受難と死と復活によって永遠の贖いを成し遂げて、父なる神の右の座にお着きになったキリスト”、“生者と死者を裁くために栄光の内に再び来られるキリスト” と同じ方であります。
私が書き続けて来た “聖書の学び” の15年目を終わるに当たって、このささやかな奉仕が ・・・・・ ごくわずかな読者にとってであったにせよ ・・・・・ 啓示の光を伝える “証し” としての役割を、いささかでも果たすことが出来たとすれば、
感謝の内に、主はこの僕をも安らかに去らせてくださることでしょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 1月1日 神の母聖マリア
民 6:22〜27 ガラ 4:4〜7 ルカ 2:16〜21
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ v.20)
クリスマスに子供たちが演じる聖劇では、“主の天使が ルカ 2:8-12 の場面で言ったことは、本当でした” という結論で、お話が終わってしまいます。
しかし私たちは、歴史の教会がこれまで決して説明し尽くすことの出来なかった、「神秘としての神の知恵」(Iコリ 2:7)、御子の受肉という出来事を、マリアと共に思い巡らすようにと招かれているのではないでしょうか。
ルカ v.20 は ルカ 1:37 の天使の言葉と共に、それが徹頭徹尾 “神の御業” であったことを告げています。
イエスがお尋ねになった 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。 だれの子だろうか」(マタ 22:42)という問いを、多くのキリスト信者は真面目には考えてみたことがありません。
先週の学びで言及した “まことの神にしてまことの人” というカルケドン信条の定式を、古代教会の単なる理屈であると軽視して、自分ではそれと知らずに異端的な理解や説明をしていることが多いのです。 (つづき)
以下に、この信条の中心部分を紹介しておきましょう。
“我々はただ一人の御子我らの主イエス・キリスト ・・・・・ を信ず。
主は神性において全く、人性において全く、まことの神にしてまことの人、
・・・・・ 神性によればよろず世の前に父より生まれ、人性によればこの終わりの時代に我らのため、また我らの救いのために神の母(θεοτόκος)なる処女マリアより生まれたり。
この唯一のキリスト、御子、主、独り子は、二つの性において混じることなく、変わることなく、分けられることも出来ず、離すことも出来ぬ御方として認められねばならぬ。
合一によって両性の区別が取り除かれるのではなく、かえって、各々の性の特質は救われ、一の人格一つの本質に共に入り、二つの人格に分かたれ割かれることなく、ただ一人の御子、独り子、言なる神、主イエス・キリストである。”
このカトリック教会の古典的信条は、キリストの~人両性を等しく強調する立場を守って、どちらか一方を強調して他方を退ける異端に対抗したのです。
それは私たちがキリストの受肉の出来事を理解する場合の “原則” であって、すべてのキリスト者は決してこの原則に無知なままで、御子についても、神の母聖マリアについても語るべきではありません。
私たちはマリアと共に、“(神の御業の)出来事をすべて心に納めて、思い巡らす” ことを学びましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 1月5日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
ユダヤ人の王としてお生まれになった方のところに、東の方の国から占星術の学者たちが訪れて来て、無事に礼拝と奉献をささげて帰って行きました。
神の秘められた計画(ミュステーリオン)が御子の受肉によって動き始めたことの最も象徴的な出来事として、教会は早くから主の公現の祭日を降誕節の中に位置づけて祝って来ました。
ですから教会は、異邦人の救いが主の受肉から始まって、新しいイスラエルとしての教会を造り上げて行く時代が到来したことを、この公現の祭りによって宣言して来たのだと言うことが出来ます。
こうして主の公現の祭日は主の降誕の単なる後祭りではなくて、教会の時代の開始を告げる祭りなのです。
そのような訳で、東の国の学者たちの来訪の出来事は、クリスマスの祝いの中の一つのエピソードのように扱われてしまってはなりません。
またこの物語りが語られると、それで主の降誕の祝いが幕を下ろすように考えて、さっさとクリスマスの飾り付けを片づけてしまうことは、適切ではないのです。
典礼暦は降誕節を “主の洗礼の祝日まで” と定めています。 (つづき)
捕囚から帰還した人々によるエルサレムの神殿再建が始まった頃に語られた第三イザヤの言葉が、古くから主の公現の祭日の第一朗読のために選ばれていたようです。
それはこの調子高い希望に満ちた預言が、教会を通しての神の秘められた計画の展開に見事に当てはまると、そう理解されたからでありましょう。
実に、キリストの祭壇を囲んでミサをささげる地上の教会の上に 「主が輝き出で、主の栄光が現れる」(イザ v.2)こと、そして全世界の民がこのキリストの光に向かって集まって来て、共にミサをささげる民に加えられることを、代々の教会は信じて来ました。
私たちも今朝再び主の光に向かって目を上げ、主の公現の祭日を祝って、代々の教会と共にこの預言の朗読に耳を傾けます。
この預言は決して今日の祭日一日間だけしか有効期間がないものではなくて、再臨のキリストが実現してくださる神の国までをその射程に納めています。
ヨハネ黙示録の21:22以下には、既にこのイザヤ書60章の預言の完成する姿が描かれているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 1月8日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタ v.2)
私たちの救い主イエス・キリストは、ユダヤ人の王として生まれ、ユダヤ人の王として処刑された方であることを、今日のキリスト者は殆ど全く忘れているのではないでしょうか。
そして自らユダヤ人と自称する民族と彼らの宗教については無関心であって、特にキリスト教や教会にとって何か関係があるなどとは考えたこともないというのが、実状であろうと思われます。
しかし、福音書を生み出した初代教会の信仰にとっては、状況は全く逆でありました。
当時のキリスト者たちにとっては、星に導かれて東方から旅して来た占星術の学者たちが、遂にユダヤ人の王としてお生まれになった幼子をベツレヘムで拝むことが出来た物語りは、
この方の救いを受けた彼ら自身の喜びの姿の反映として理解されたものと思われます(エフェ 2:11-13 参照)。 (つづき)
東方でもローマでも、またエジプトでも、当時の天文学は既に数十年先の星の動きを正確に計算して予測していました。
紀元前7年の春、木星は星空で金星と出会いました。
その年の夏と秋には、魚座の中で木星と土星との出会いが繰り返されました。
これは極めて稀な大接近で、このようなことは約800年に一度起こるだけです。
当時木星は世界の支配者の星とみられ、魚座は終末時代の徴と考えられていました。
土星は東方ではパレスチナの星とされていましたから、学者たちは占星術的な予測に基づいて旅に出たと考えられます。
初代教会のキリスト者が、イエス・キリストの誕生と生涯と、その死と復活を通して与えられた大いなる救いへの感謝と驚きを、この伝承に重ね合わせたことは自然なことでした。
彼らが伝えた 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(マタ v.9)という表現に、私たちが今も得も言われぬ喜びを感じるのはそのためです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2009年(主日B年) 1月4日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
「あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や、“霊” によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(エフェ vv.4-5)
キリスト教は、多くの偉大な人々による新しい宗教的真理の発見によって築き上げられ、支えられて来たという判断があります。
何よりもイエスが、これまでの一民族に限定されていたユダヤ教を、すべての民に救いをもたらすキリスト教に発展させたいう主張があります。
しかし聖書は、キリスト教の内実は “キリストによって実現される秘められた計画” であって、以前には知られていなかったこの計画を 「今や」(エフェ v.5)神が使徒たちに啓示された、と宣言しています。
・・・・・ あなたは、そのどちらを信じているでしょうか。
つまり聖書は、救済史が、神による歴史の外側からの介入によって、その完成に至るものであることを証言しているのです。
かつてアブラハムを通して、またダビデを通して神がイスラエルに与えられた約束が、
「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(エフェ 2:13)、すべての民のものになったというこの “秘められた計画” こそが、キリスト教の中心的なメッセージなのです。
主の公現の祭日の主題は、救済史をその完成へと至らせる神の御業、すなわち “秘められた計画” です。
私たち教会に 「天に蓄えられている希望」(コロ 1:5)を与えてくださった神を、賛美しましょう。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロ 1:23)
・・・・・ 以下、本文参照。
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(_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 2000年(主日B年) 1月16日 年間第2主日
サム上 3:1〜10,19 Iコリ 6:12〜20 ヨハ 1:35〜42
私たちはみな、普通の人です。 しかし聖書の中には、そのような私たちの奉献と奉仕の手本となり、またその深い意味の理解を助けてくれる、使徒や預言者たちの召しの物語りが満ちています。
それらの中から、今日私たちは二つの物語りに目を向けるようにと招かれています。
@ ヨハネ
vv.35〜39 ヨハネの証しによって、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、イエスの弟子になりました。
“ちょっと立ち話し ・・・・・ ” ではなくて、このかたから神の国の福音のすべてを聞くために、二人はイエスのもとに泊まったのです。
これは推測ですが、この二人のうちの一人は、ヨハネだった可能性があります。
ヨハネ福音書はこの使徒ヨハネの証言に基づいています(ヨハ 21:24)。
そして今朝のテキストの部分は、そのヨハネの目撃証言に拠っているように思われるのです。
アンデレは自分の兄弟シモンに、「わたしたちはメシアに出会った」 と言って、彼をイエスのところに連れて行きました。
イエスは彼を見つめて、「あなたをケファ(アラム語で “岩” ・・・ ギリシア語に直すとペトロになる)と呼ぶことにする」 と言われました。 (つづき)
ヨハネ福音書が出来上がった一世紀末近くの頃の教会で、“ペトロを土台として教会が建てられている” という理解は、既に広く受け入れられていました。
そしてそのような理解は、決して後から徐々に作られたのではなくて、彼の最初の召しにおいてイエスがそう定めてくださったことだったと、このテキストは証言しているのです。
ここに、一人一人への主の召しの特殊性があります。
そして事実、ペトロへのこの召しは、十分に教会の形成の中に役立てられたのでした。
A サム上
v.10 「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。 “サムエルよ。” サムエルは答えた。 “どうぞお話しください。 僕は聞いております。”」
サムエルは神の言葉を聞き、預言者として召されました。 神が彼に特別な召しを与えられたのです。 そして彼は、神の救済史の中で十分に役立てられるのです(v.19)。
「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった ・・・・・ 」 と言われているそんな時代のただ中で、神は預言者サムエルを召し出されました。
ミサをささげる信徒一人一人にも、それぞれ神から奉献と奉仕が求められています。
ミサに参加する人は、また群のための奉仕にも参加するようにと招かれているのです。
ミサをささげることは、御子イエスキリストのいけにえの奉献に、私たちが一つに結ばれることだからです。
信仰深いよい備えをもって奉献と奉仕に参加しましょう(Iコリ 6:20)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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Iサム 3:3〜10,19 Iコリ 6:13〜20 ヨハ 1:35〜42
下働きとして主の御前に仕えていた少年サムエルにとって、祭司エリは唯一の大きな存在であったと思われます。
彼は神の箱が安置された主の神殿(臨在の幕屋)の一隅に寝ていましたが、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく(殆ど皆無)、幻が示されることも稀であった」(サム上 3:1)ので、少年は祭司エリに服従すること以外何も知りませんでした。
彼はまだ神が語られることを知らなかったのです。
いかにも現代のカトリック信者の姿をそこに見るようではありませんか。
「エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。 “戻って寝なさい。 もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いております』 と言いなさい。” サムエルは戻って元の場所に寝た。」(サム上 vv.8-9)
エリについて彼の家の罪が断罪されているとはいえ、彼はここで間違いなく祭司の務めを果たしたのでした。
主の神殿の一隅に寝ていながら、そこに臨在される神の言葉を聞くことを知らなかったサムエルに適切な指示を与えたエリの存在の重さを、聖書は伝えています。
洗礼者が指さした 「神の小羊」 は、その尊い血によって(Iペト 1:19)教会を贖い、これを天に蓄えられている朽ちず汚れずしぼまない財産を受け継ぐ(Iペト 1:4)群としてくださったキリストです。
私たち信者は指導者や奉仕者を過剰に崇めて、彼らが証しし指し示しているキリストとその福音に無関心にならないようにと、今朝、聖書を通して呼びかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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サム上 3:3〜10,19 Iコリ 6:13c〜20 ヨハ 1:35〜42
この教会は、主における聖なる神殿であり、霊の働きによる神の住まいであると(エフェ 2:21-22)、初代教会の指導者は信徒に熱心に教えたようです。
「知らないのですか。 あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、 ・・・・・ 」(Iコリ v.19)
この 「知らないのですか」 とは、信者がわきまえているべき最も基本的な事柄を提示する句で(ロマ 6:3 参照)、昔のカトリック教会で洗礼志願者が当然理解し、暗記しなければならなかった公教要理の条項のようなものを指しています。
現代流に言えば、それはもっとも基本的な信仰の常識であって、こんなことも分かっていない人は “キリスト者の資格なし” ということになります。
Iコリ 3:16 でも、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」 となっているように、この神殿は 「あなたがた」 という “共にミサをささげる共同体” を指していて、切り離された個人一人一人のことではありません。
この共同体性を理解することは、現代人にとっては特に大切であるように思われます。
なぜなら今日の世間の常識では、まず個人一人一人の信仰があって、同じ信仰の仲間が集まって教会という宗教団体が成立すると考えられているからです。
それで、 “伝道” とか “教会造り” ということが、世間の起業の場合と同じように “教会経営” という発想で進められ、それに “成功したとかしなかったとか” という形で評価されるのです。
多くのプロテスタント教会がすでにそうであり、多かれ少なかれカトリック教会でも似た傾向が見られます。 (つづき)
しかし、教会は主における聖なる神殿であり、信者はその部分(Iコリ 12:27)であって、いわば一人一人は聖霊が宿っておられる教会の縮図(microcosm)、幹に対する枝(ヨハ 15:1-6)のようなものなのです。
教会につながっていなければ、「外に投げ捨てられて枯れる」(ヨハ 15:6)ことになります。
枯れ枝をいくらたくさん集めても、それで教会が出来る訳ではありません。
私たちが教会を、“経営し運営される組織” として考えるか、それとも “聖霊が宿ってくださる神殿” と理解するかによって、主の言葉が示されず(サム上 v.7)、神のことばが聞こえないことにもなり(サム上 3:1)、
あるいは主がお呼びになる声をミサを通し、聖書を通して聞くことにもなります。
「どうぞお話しください。 僕は聞いております。」(サム上 v.10)
「サムエルは成長していった。 主は彼と共におられ、 ・・・・・ 」(サム上 v.19)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 老クリスチャンって、誰も読まないのに長い文章書いてる。
誰も読まないのに。
無駄な努力なのに。
カ・ワ・イ・ソ でも、老クリさんは別人になりすまして
ヘビAAの人を「糖質」「ストーカー」とか罵らないよ
ただ、逆ギレして乱れる所は見てみたい気がする 2000年(主日B年) 1月23日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
マコ vv.14-15
私たちの福音は、神の国の福音です。 救い主イエス・キリストによって、神の国の福音が教会に委ねられました。
今や 「時は満ち、神の国は近づい」 ています。 ですから今の時代は 「悔い改めて福音を信じ」 る時なのです。
これは神の国の福音ですから、代々の教会は諸世紀を通して、イエス・キリストの再臨と私たち救われた人々の復活に期待して、感謝の祭儀を守って来たのです。
今朝もミサの中で聖書が朗読され、こうしてその解き明かしである説教が語られるのは、この聖書に語られている神の国の福音への信仰を、教会が今日に至るまで受け継いで来ているからです。
多くの人々は、歴史を経て時代は変わり、人間の思想や価値観も時代とともに変わって来た ・・・・・ と考えています。
しかし教会はいつの時代にも、この神の国の福音によって教会であり続けて来たのであって、その福音と信仰が新約聖書の時代といささかも変化しないように、使徒継承というものを大切にして来ました。
ですから今朝のマルコ福音書の言葉は、今朝ここに集まっている私たちにももう一度新たに語りかけているのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 1月26日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
ヨナの説教を聞いて悔い改めたニネベの人々には、迫り来る神の怒りを免れるための切迫感がありました。
そのように、現代の教会が福音を聞くということは、今や時が満ち、神の国が近づいているという切迫感を理解することと不可分の関係にあります。
私たちがイエス・キリストを信じて、その血による贖い、罪の赦しを受けたのは、キリストの再臨の日に備えてのことであります。
そしてその日は近いのです。
使徒パウロはコリントの教会の人々に助言を書き送るに際して、その根拠として 「この世の有り様は過ぎ去るからです」(Iコリ v.31)と述べました。
神の国は近づいたという福音が、キリスト者の日常生活を、外見よりもむしろその質において変化させました。
ガリラヤ湖のあの漁師たちが、その家業をこれまで通りに続けながら、既にイエスが呼び出される日には、直ちにその仕事を残して従う者に変わっていたというマルコ福音書の物語りに、初代教会のキリスト者が共感を覚えた様子が目に浮かぶようです。
この同じ福音、神の子イエス・キリストの福音(マコ 1:1)、御国の福音(マタ 4:23)を、現代の教会は今朝再び聞いています。
主の忍耐によって(IIペト 3:9)、現代の教会は今なお 「時は満ち、神の国は近づいた」 という 「時」 の中に置かれているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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日本国と大和民族の敵 カトリック・キリスト教会
現在のカトリック教会の堕落腐敗と聖性の喪失は看過できないところまで来た。もはや、それらは彼らに取って当たり前のことである。
典礼破壊及び聖域愚弄は当然のことながら、正平協(日本カトリック正義と平和協議会)をして明白に政治左翼活動を活発に行っている。
カトリック教会当局聖職者はこれら組織と活動を許容しているばかりか、自ら積極的に影響力を行使しながら活動に参加しているのである。
宗教法人であることを隠れ蓑にして、日本国と大和民族の伝統的精神文化の破壊を目論む反日左翼イデオロギーの牙城・要塞となっている。
かつての高潔な公教会カトリックは過去のものとなった。今や反日左翼運動家・在日コリア・その他反日プロ市民の巣窟となっているのである。
そして外国人参政権の獲得・人権擁護法案(人権侵害救済法案)の成立・夫婦別姓制度の導入・自虐史観の徹底・防衛力の否定などを目指している。
これらは、いずれも日本国の主体性と国柄、大和民族の文化と価値観を徹底的に破壊消滅することを目標とした国家侵略破壊行為に他ならない。
日本国と大和民族の未来を守るために、今、カトリック・キリスト教会を敵性組織と明白に認識して彼らと闘わなければならない。 2006年(主日B年) 1月22日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
預言者ヨナは大いなる都ニネベに行って、40日後に迫った神の審判を予告しました。
ヘブライ人のヨナにとって、都ニネベに住む異邦人のような罪人(ロマ 2:15)などは取るに足りない存在に思えました。
しかし予想に反してニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけて 「おのおの悪の道を離れ」(ヨナ v.8)たのです。
そして 「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(ヨナ v.10)のでした。
この物語りが、“神の国の福音” を聞かされている私たちの教会のことであるという理解で、今朝の朗読配分は用意されました。
全世界の教会の今朝のミサで、その朗読を通して使徒たちの宣教、更にその中で確かに語っておられる天上のキリストの御声に触れることの出来る信者は幸いです。
生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた終末のキリストは、今はまだ “この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる”(使 10:43)キリストであることを感謝しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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ブヒィ♥
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しー し─J
ブヒィ♥
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人 2000年(主日B年) 1月30日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「人々はその教えに非常に驚いた。 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マコ vv.21-22)
このような主イエスに、私たちもお会いしたいと思います。
私たちは漠然と信じているのではなくて、権威ある者としてお教えになる主イエスに出会って、私たちが受けている救いについてもっとしっかりした確信を持ちたいものだと思います。
「人々は皆驚いて、論じ合った。 “これはいったいどういうことなのだ。 権威ある新しい教えだ。 この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。”」(マコ v.27)
現代の教会が、この驚き ・・・ 神の子イエス・キリストの力ある救いに与かる驚き ・・・ を体験する教会となるために、第二バチカン公会議は典礼憲章を定めて、典礼刷新の基礎をおきました。
全世界の教会は今、その典礼刷新の中を歩んでいるのです。 (つづき)
ミサで聖書が朗読されることについては、「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない」(典礼憲章 51)と規定され、そのおかげで私たちは今朝も、定められた三つの朗読を聞くことが出来たのです。
さらに会衆がそこから神の呼びかけ、神の語りかけを聞くことが出来るように、典礼憲章は 「典礼の暦に従って、聖書に基づいて、信仰の秘義とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する」
「特に、主日と守るべき祝日に、・・・・・ ミサ聖祭において、説教を重大な理由なしに省略してはならない」 と定めました(典礼憲章 52)。
私たちが今朝、マルコ福音書からの朗読を通して聞いたガリラヤ湖畔カファルナウムの会堂での人々の体験は、説教を通して今日の私たち自身の体験となります。
なぜならこの福音書で物語られている主イエスは、私たちが今朝このミサでお会いし、その御聖体に与かるイエス・キリストと同じ方だからです。
私たちも今朝、この同じ神の子イエス・キリストにお会いして、その権威ある教え、権威ある救いに驚くのです。
それが私たちのミサなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Iコリ v.35)
主イエスが、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マコ 10:45)主の僕として十字架に死に、信じる者を義とするために復活させられたとき(ロマ 4:25)、
かつては “秘密”(マコ 4:11)であった神の国は、今や教会の信徒たちにとって、「力にあふれて現れる」(マコ 9:1)将来の完成を待つ神の国となりました。
復活の勝利、聖霊の降臨、使徒たちの教会の誕生という出来事によって、神の国の業が完結してしまったのではありませんでした。
「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)という信仰こそが、キリスト者のミサと、その生活上の倫理の土台となったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>657
> 「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)
脅迫罪とは、被害者の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し
害を加えることを告知して人を脅迫することによって成立する犯罪をいいます。
刑法222条1項は、「生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して
人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」と定めています。
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申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
ミサ典礼書の総則 95 には次のように書かれています。
「司祭は朗読台で福音書を開き、“主は皆さんとともに” と唱える。 それから “(マルコ)による福音” と唱え、親指で福音書と自分の額、口、胸に十字架のしるしをする。」
ただし、“これは司祭の動作であって会衆の動作ではない” と、ユンクマンが解説しているものです(ミサ p.215)。
そして更に続けて括弧書きで、「日本では、福音書に十字架の印をしながら “(マルコ)による福音” と唱える」 となっています(日本の教会における適応)。
2002年に出版された新しいラテン語規範版の総則では、司祭だけでなく会衆も “自分の額、口、胸に十字架のしるしをする” と修正されましたが、これに従う日本語版典礼書の改訂は、未だ教皇庁典礼秘跡省の認可を得るに至っていません。
ですから今は、日本語版現行典礼書(1978年)掲載の総則に従ってミサが行われることが正しいのです(暫定版 総則 p.8 日本における適応 参照)。
福音が語られ聞かれることへの熱心ではなくて、不正確な知識による自己流の誤った動作への執着が、なぜか10年ほど前からカトリック浜松教会の会衆の間には伝染してしまいました。
しかし、キリストの福音に掛かっている覆いは取り除かれねばなりません。
神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が、ミサをささげる一同に見えるようになるために(IIコリ 4:3-4)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 2月6日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
主イエスも宣教されました。 しかし聖書が語る “宣教” とは決してイエスの “単なる教え” ではありません。
神の国の福音は、イエス・キリストの福音です。 それは神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した “救いの福音” です。
使徒たちから始まって代々の教会は、福音を宣べ伝えて来ました。
人々が福音を聞いて救い主イエス・キリストを信じるようになり、洗礼の秘跡を受けて実際にこのキリストの福音に与かる者となるように、教会は宣教を続けて来たのです。
ミサは、主イエス・キリストの死と復活を記念し、十字架のいけにえをささげ、一同がこれに与かる “感謝の祭儀” です。
すべて洗礼の秘跡を受けたキリスト者は、ミサに与かり、神の国の福音に与かる権利と義務を持っています(ミサ典礼書の総則 3)。
罪と死のもとにあって、“滅び行く命” でしかなかった者 ・・・・・ 、それが私たちすべての人間の姿です。
イエス・キリストの福音なしには人間はどんなに悲惨であるかを、私たちは思いましょう。
私たちの聞かされている福音は神の国の福音です。
私たちはイエス・キリストの救いに与かって、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じて歩んでいるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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. └─────────────────――┘ カチ 2003年(主日B年) 2月9日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「忘れないでください。 わたしの命は風に過ぎないことを。 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」(ヨブ v.7)
このヨブの嘆きの言葉を厭世主義と理解するなら、それは聖書の正しい読み方ではありません。
ヨブは絶望と厭世の中で独り言を語ったのではありませんでした。
そうではなくて、彼は神に訴えて、神が彼の言い分を否定し、神が自らの答えをもって彼に報いてくださることを期待していました。
ヨブの語る自らの人生は、私たち自身の人生の現実そのままです。
もし私たちがキリストの福音を聞かず、福音に与かって生きることをしていなかったら、ヨブの語る絶望と厭世は実に私たち自身のものであったことでしょう。
しかし、キリストの福音によって私たちに神の国の希望が約束されたので、私たちはヨブの嘆きの言葉を神への希望の光の中で改めて聞くことが出来るのです。
すべての信者会衆がキリストの福音に与かって生きるために、現代の教会は使徒たちから受け継いだ宣教を継続しなければなりません。
それはキリストの福音の宣教ですから、使徒継承に基づく宣教でなければなりません。
同時に信者会衆も、ミサを通して神のことばの食卓の豊かな富を受け取るために、自らの充実した、意識的な、行動的な参加を大切に考える必要があります。
今朝のヨブの嘆きの言葉を通して、神は私たち現代の教会にそのあるべき姿、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィリ 1:5)という姿へのひたすらな渇望を、呼び覚まそうとしておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より しなければならない
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人 しなければならない
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人 2006年(主日B年) 2月5日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
病気や悪霊による苦しみからいやされたシモンの姑も町の人々も、そのことによってイエスから始まった神の国の福音の宣教に参加する者となったのでした。
ヨブの叫びは、イエスのいやしによって解決されはしませんでした。
「忘れないでください。 わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ v.7)
イエスによるいやしは、彼らが共に福音にあずかるようになるためでありました。
福音から切り離されたただの癒しは、人を救うことがありません。
「そこで神は、(福音の)宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリ 1:21)とある通りです。
ヨブの叫びは、主の再び来られる日まで続く福音の宣教へと招かれているすべての人の、ありのままの姿を暴露します。
神だけが、キリストの福音だけが、神の国の福音だけが人を救うことに目覚めるキリスト者は幸いです。
その福音は “十字架の言葉の福音”(Iコリ 1:18)であり、“神の秘められた計画を宣べ伝える福音”(Iコリ 2:1)であって、
復活された主が 「私は世の終わりまで、いつもあなたがた(の宣教)と共にいる」(マタ 28:20)と約束してくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 福音のために、掲示板で自演や責任転嫁もしますかね? 2000年(主日B年) 2月13日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
現代の私たちの教会を通しても、この神の救いの御業は進められています。
教会は、いつの時代にも神の国の到来を待っている群なのです。
その教会の中で、いろいろな活動いろいろな働きがあって、一般にはそのような各種の活動を見て、人々は “これがキリスト教なのだ” と理解しています。
確かに、いつの時代にもキリスト教会は、いろいろな活動いろいろな働きによって世の中に貢献して来ましたし、そのようにしてイエス・キリストの恵みや愛を多くの人々にもたらして来たと言えます。
しかし、主イエス・キリストによる終末的な救いの業に目が開かれていない人は、教会についてもキリスト教についても、まだ本当には分っていない人です。
神の国の王であり、終末の審判者であるイエス・キリストがかつて地上に来られたとき、今朝のテキストの中の “一人の重い皮膚病を患っている人” もいやされたのでした。
彼は再び、社会復帰をすることが出来ました。 しかしそれがすべてではありませんでした。
「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(マコ v.45)。
そして今なおこの人は、彼をいやしてくださった方は神の子・救い主であることを、聖書を通して現代の私たちに向かっても語っているのです。
私たちは神の国の福音を信じ、主の再び来られるのを待ち望みつつ、主日ごとにミサをささげている群です。
各自はそれぞれいろんな形で教会の活動にも参加しています。
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ 10:31)
神は御子イエス・キリストによって、すべての人を罪から救い出して神の国に復活させてくださる終末的な救いの業を、教会を通して進めてくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>683
イエス! タカスくりにっく
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人 それがどうした 文句があるか
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人 乳房も泣かす
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人 お湯るしくださいお湯るしくださいお湯るしください
地獄はいやです地獄はいやです
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人 2009年(主日B年) 2月15日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、“御心ならば、わたしを清くすることがおできになります” と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、“よろしい。 清くなれ” と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マコ vv.40-42)
神の国は悪霊の支配に対する戦いであり、イエスの宣教はその神の国の開始でありました。
それは “時が満ちて”、遂に神が歴史の中に突入された “救いの訪れ”(ルカ 1:68以下)であります。
C.H.Doddはこれを “実現した終末論”(realized eschatology)という用語で表現しましたが、“開始した” という形容詞のほうが理解し易いかもしれません。
洗礼者ヨハネが獄中から弟子を送って尋ねさせたとき、イエスは答えて言われました。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ 11:4-6)
福音書は、イエスによるいやしや奇跡を、イエスによる御国の業の “しるし” として語っているのです。
いやされた人が喜びのあまり、この出来事を言い広めた話は、そこから神の国の福音の正しい理解へと進まねばならないのだということを教えるためと理解すべきでしょう。
・・・・・ イエスは深く憐れまれた(マコ v.41)。
だからキリスト者は同じ憐れみの心で医療を促進し、病気の存在しない世界を目指すべきだ ・・・・ 、と言うのでは、福音とは何の関係もない話になってしまいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 医者に行くより
神に祈ると治る
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人 吉野家では肉抜きの牛丼を注文すること
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人 2012年(主日B年) 2月12日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ v.31)
この “聖書の学び” をプリントするために私が用意した表紙には、Οικοδομέω(キリストの体を造り上げてゆき)という題字を掲げています。
聖書ではこの言葉が “わたしたち”(Iコリ 10:23)や “あなたがた”(Iコリ 14:26)と結びつけて使われていますが、それらはすべて “教会を造り上げる”(Iコリ 14:12)という意味で理解されねばなりません。
私たちはこれまで、そのような意味で 「神の栄光を現す」 という言葉を使って来ただろうかと、反省しましょう。
教会を造り上げることにも、罪の赦しと永遠の命にもほとんど関係なしに、 ・・・・ それらには全く無知なままで ・・・・・・ 、多くの善意による奉仕や活動が行われ、
その結果として本当の救いや正しい信仰について 「人を惑わす原因に」(Iコリ v.32)になってしまって来た、そんな反面教師の数々を私たちは見ているのではないでしょうか。
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Iコリ v.1)
あなたは使徒パウロがどのように福音を説明し、どのように信仰を語っているかを、学んでいるでしょうか?
神の啓示に関する教義憲章(25)も、聖ヒエロニムスの 「実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」 という言葉を引用して、信者が聖書を学ぶことの重要性を強調しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
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バレンタインだよねー 🍫 チョコいくつもらったの? 2003年(主日B年) 3月9日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
受肉された神の子イエス・キリストの生涯は、サタンの働きに対する戦いでありました。
そしてその受難と復活こそはこの戦いの頂点であったことを、私たちは今年も四旬節を通して学んで行きます。
主の洗礼のときに天から降ったのと同じ “霊” が、イエスを荒れ野に送り出しました。
イエスが主の僕としての使命へと任じられたとはどういうことかが、明らかにされます。
サタンから誘惑を受けるためでした。
私たちはこの伝承を、主イエスがたまたま偶然に、あるいは気まぐれに荒れ野で自分の能力を試した物語りとして読んではなりません。
新約聖書はサタン(悪魔)という呼称で、「闇の世界の支配者」(エフェ 6:12)、「この世の支配者」(ヨハ 16:11)、すべての人がその中に閉じ込められていた 「罪と死との法則」(ロマ 8:2)のことを語っています。
私たちの罪を身代わりに負うためにヨハネからバプテスマをお受けになったイエスは、私たちへのサタンの誘惑をも自ら荒れ野でお受けになりました。
十字架でのサタンとの戦いの前哨戦が、ここで繰り広げられました。
サタンがイエスを主の僕としての使命から道をそらせようと誘惑している間、助け手はだれもおらず、ただ野獣だけが(イエスの孤独の象徴)いました。
40日間の戦いが終わって、天使たちがみ許に仕えていました。
父なる神の霊が御子イエス・キリストの生涯を導いて行かれます。
それは十字架の死に至る道でありました。
そして “霊” が共にいて導かれることは、御子のサタンとの戦いがいささかでも軽減されることを意味しませんでした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
普段から聖書に親しんでいる人は、この区別が救済史を理解するための当然の前提であることを知っています。
キリスト教の諸信条も同様であります。
洗礼は肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることだと教えるこの(Iペトの)テキストは、恐らく古代教会の洗礼式の儀式書からの引用で、そこで “正しい良心” と表現されているのはキリストの福音への正しい信仰のことです。
人は洗礼を受けているか否か、その信じている福音が正しくキリストの福音であるか否かによって、区別されるのです。
それは永遠の区別、この世においてだけでなくて神の国に至るまで有効な区別であることを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
イエス・キリストの恵みによって教会に委ねられている “洗礼への招き” の計り知れない富を、財産を地の中に隠していた僕(マタ 25:14-30)のように、現代の教会は退蔵していてはならないのです。 (つづき)
区別や差別に対して異常なほどの敵意と警戒心を示す近年の風潮は、キリストによる救いを与える “洗礼への招き” という計り知れない富に対して、私たち教会が盲目になってしまったことの裏返しであるかも知れません。
教会を巻き込む歴史上の各種の分裂や闘争の中で、どれほど多くのキリスト者が 「私は洗礼を受けている!」 というたった一つの事実を心の支えとして生き抜いて行ったか、計り知れないのです。
第二バチカン公会議が “エキュメニズムに関する教令”(3)によって明らかにした原理に、信者一人一人が良い理解を持つことが期待されます。
「 ・ ・ ・ それにもかかわらず、信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、
カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。」(別れた兄弟とカトリック教会の関係/3)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>715-716
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715 ____
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
くちばしにオリーブの葉をくわえた鳩(創 8:11)や、ノアの契約のしるしである虹(創 vv.12以下)が、平和の象徴として用いられて来たことは、だれもが知っています。
しかし、創 8:21 の言葉を記憶している人は、多くありません。
「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。 “人に対して大地を呪うことは二度とすまい。 人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。 わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。”」
誤解してならないのは、神は今後洪水や自然災害の一切ない世界にするといわれたのではなくて、ただ “ことごとく滅ぼす”(創 v.11)ことをしないと言われただけだということです。
洪水物語りは、創12章から始まる神の救済史の序曲として位置づけられているのです。
旧約聖書の歴史は、イエス・キリストの血によって立てられる新しい契約(Iコリ 11:25)を、ひたすら目指す救済史でありました。
イエスは、十字架の死という洗礼(マコ 10:38,45、ルカ 12:50)を受けねばなりませんでした。
イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたその日から、苦難の僕なるメシアとしての歩みが始まりました。
そして今は、「罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠の神の右の座に着き」(ヘブ 10:12)、私たちのミサを通して 「悔い改めて福音を信じなさい」 と語り続けておられます。
私たちは説教で、聖書に書かれた昔話を聞くのではありません。
「神の言葉は生きており」(ヘブ 4:12)、「主は生きておられる」(王上 17:1)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
<列王記下>
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
エリシャは反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
キリスト教はこういうDQN連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 >>725
> ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
イエス タカスくりにっく
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715
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人 ボクは気が弱いので喧嘩なんかしません。
敬虔なクリスチャンと自称していいでしょうか。 ボクは喧嘩っ早いキリスト信者によく絡まれますよ
それが面白おかしくて宗教板に出入りしてるようなもんで
二枚舌とか偽善者とか、自覚の無い人をあしらうのは楽しいから 2000年(主日B年) 3月19日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
現在(2000年当時)、我が国の殆どすべてのカトリック教会のミサで、説教の後に会衆が唱和するのは、“洗礼式の信仰宣言” です。
理由は単純に “いちばん短い” からです。
しかしこのことは考え直す必要があるのではないでしょうか。
各個教会によってその使用はまちまちなのでしょうが、“ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕” には、“洗礼式の信仰宣言” と並んで “使徒信条” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” が収録されています。
“キリストと我等のミサ(改訂版)”(1991年改訂初版)では、題名なしの形での “洗礼式の信仰宣言” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” の二つが載せられています。
この “ニケア・コンスタンチノープル信条” は、キリスト教の歴史、特にその教理の歴史において非常に重要な位置を占めて来たものです。
特に教会が使徒継承によって受け継いで来た “ケリュグマ(宣教)” の理解についての “東西両教会が共有する信条” であるということに、注意を喚起したいと思います。
その教会が(東方にせよ西方にせよ)自らを “一・聖・公・使徒継承の教会である” と主張するとき、必ず告白しなければならない信条が、この “ニケア・コンスタンチノープル信条” なのです。
今朝の創世記のアブラハムとイサクの物語りを、決してアブラハムの単なる個人的な信仰の称賛の物語りとしてではなく、父なる神が御子イエス・キリストを私たちの贖いのために与えてくださった救いの出来事を指し示す物語りとして読むためにも、
またさらにそのアブラハムの信仰を、ミサにおいてキリストのいけにえの奉献に一つに結ばれる私たちの信仰の手本として読むことを教え導くためにも、“ニケア・コンスタンチノープル信条” は大きく貢献するのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ツチノコッタノコッタ
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人 2009年(主日B年) 3月8日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
毎年、四旬節第2主日には、共観福音書の中からの “主の変容” のテキストが朗読されます。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が、口にするのも畏れおおい光景の中でイエスがメシアであることを確信し、その御顔に輝くメシアの将来の栄光(IIコリ 4:6)をかいま見たという、非常に神学的な意味合いの濃い記述に耳を傾けるのです。
人はこのテキストを、まるで意味不明な現場リポートでも聞くように読んではなりません。
なぜならこのテキストは、福音書の中で、単純な目撃者による報告をはるかに超えるものとして語られているからです。
先ずここに描かれているイエスは、“モーセのような預言者”(申 18:15,18)として、出エジプトに勝る大いなる贖いを成し遂げるメシアであり、その新しいモーセが、かつてのモーセのように聖なる山で神の声を聞いたのです(IIペト 1:18)。
出 24:16 には、こう記されています。
「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
そのとおりに 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マコ v.2)のです。
変容の山は、もちろん、新しいシナイであり、神は七日目に雲の中から新しいモーセに呼びかけられました(マコ v.7)。 (つづき)
モーセが山を下ったとき、神と語ったために、彼の顔の肌が光を放っていたように(出 34:29)、弟子たちはイエスの御顔に輝く神の栄光を見ました。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言ったのも、おそらく 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙 21:3)終末の象徴であるように思われます。
モーセは真の預言者であり(申 34:10)、エリヤは マラ 3:22-23 以降、第二のモーセと考えられていました。
そのエリヤとモーセは、物語りの中で古い時代を象徴し、預言の成就する新しい時代(IIペト 1:19)と対比されています。
雲の中からの声が 「これはわたしの愛する子、これに聞け」 と呼びかけた後、彼らの姿は消えて、弟子たちは 「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マコ v.8)と、書かれています。
しかし、まだ時は来ていませんでした(ヨハ 2:4)。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」(マコ v.6)、つまり彼はこれから、キリストが 「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(マコ 10:45)ねばならないということを、学ばなければなりませんでした。
主の変容の物語りは、使徒たちが主の復活後に宣教した福音を私たちが信じるならば、現代の私たちも彼らと同じように、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来るということを、伝えているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 本日は金曜日
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人 2012年(主日B年) 3月4日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。” 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マコ vv.7-8)
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、人の子の終末における栄光に満ちた来臨の場面を、このとき一瞬目撃したのでした(IIペト 1:16)。
イエスは旧約の出エジプトよりもさらに偉大な贖いを実現する(エフェ 1:3-14、Iペト 1:18-21)“モーセのような預言者” である、という天からの声を聞いたのです。
ですから、主の洗礼の日に聞こえた天からの声に、ここでは “これに聞け” という 申 18:15 の言葉が追加されました。
神は “新しいモーセ” であるイエスに、「六日の後」 「雲の中から」 呼びかけられ(出 24:16)、
そしてその後、モーセと、モーセの再来とそれまで考えられて来たエリヤの二人が姿を消して、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」 と書かれています。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言った言葉も、神が人と共に住む(黙 21:3-4)終末の象徴として、ここに存在しているのです。
しかし、キリストの業はこのときにはまだ完成していませんでした。
「人の子が死者の中から復活するまでは」(マコ v.9)、まだ福音は未完成であり、復活の勝利を経て初めて “十字架の言葉”(Iコリ 1:18)である福音が “信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)となったのです。
今年も私たち教会は、この十字架の福音を “悔い改めて信じる” (マコ 1:15)ために、四旬節の歩みを共にたどって行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
使徒パウロによれば福音の宣教とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることであります。
十字架を抜きにしてキリストの福音を語ることは出来ません。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
また近代のヒューマニズムのように、キリストを抜きにした単なる博愛主義を広めることも、福音の宣教とは違うのです。
“しるし” によってでもなく、“知恵” によってでもなく、ただ十字架にかけられて死に、死者の中から復活させられたキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を赦されて神の国を受け継ぐ民に加えられました。
この福音は現代人にとっても “つまずかせるもの、愚かなもの” ですが、救われた私たちにとっては 「神の力、神の知恵であるキリスト」(Iコリ v.24)の宣教です。
私たちが祭壇を囲んで共にミサをささげるとき、そこで司祭を代理者として私たちに出会い、御聖体を一人一人に分け与えてくださるのは、十字架と復活のキリストです。
そして教会は、この屠られた小羊であるキリストが神の国を完成される再臨の日を、忍耐して待ち望んでいる(ロマ 8:25)のです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月19日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「弟子たちは、“あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす” と書いてあるのを思い出した。」(ヨハ v.17)
2000年9月28日の早朝に、当時のイスラエルの野党リクードのシャロン党首が、イスラム教徒が管理するエルサレムの “神殿の丘” を訪問したことに端を発して、パレスチナ住民蜂起 “インティファーダ” の火が燃え上がり、
やがてイスラエルによるヨルダン川西岸での “分離フェンス” 建設に至った経緯を、殆どの日本人は単なる中東紛争という私たちに無縁な国際問題の一つとして見ています。
昨年新党カディマを結成して国民の大きな支持を得ていたシャロン首相が今年1月4日に脳卒中に倒れて、現在首相代理を務めているオルメルト氏は、今月に入って遂に、現在も建設継続中の “分離フェンス” を国境化する一方的な方針を公に表明しました。
シャロン党首の “神殿の丘訪問” が、エルサレムの主権はイスラエルにあることを誇示する象徴的な行動であったことを、世界中のどれだけのキリスト者が理解したでしょうか。
今朝の福音書の日課で、弟子たちが想起した 詩 69 との関連で、現代イスラエルのパレスチナ問題に対処する姿勢を理解出来た我が国のキリスト者は何人いるでしょうか。
イスラエル建国から間もなく60年になろうとしているのに、未だに出口の全く見えないパレスチナ問題の行方を、世界は今後も長きにわたるであろう今世紀の国際紛争の一つとして捉えています。 (つづき)
神殿から商人たちを追い出すという大胆な行動に出たイエスを、ユダヤ人たちはただの暴徒のようにしか見ませんでした。
しかし初代教会は使徒たちと共に、死者の中からの復活によって救いを実現してくださったイエスの “神の国を思う熱意” こそが、福音の中心的な主題であることを理解しました。
「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハ v.22)とは、神の救済史がイエスの死と復活によって決定的に終末の完成に近づいたことを信じたということです。
ユダヤ人たちは今日もなお、地上のエルサレムが彼らの手に戻ることを期待していますが、一・聖・公・使徒継承の教会は、キリスト再臨の日に主の民が受け継ぐであろう天のエルサレムに希望をおいています。
そのいずれもが、救済史の神への期待、すなわち “あなたの家を思う熱意” であることを、私たちはもう一度よく考えてみる必要があります。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2009年(主日B年) 3月15日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
“十字架につけられたキリストを宣べ伝える”(Iコリ v.23)ということの重大さを再発見することによって、歴史の教会は繰り返し改革され、刷新されて来ました。
カトリック教会にとっては、第二バチカン公会議がもたらした典礼刷新の意義は、計り知れないほど大きいと言わなければなりません。
それ以来、すべてのミサで司祭は、必ず聖書に基づく説教をすることが求められるようになりました。
また信徒には自ら聖書をひもといて学ぶことが奨励されるようになりました。
神の啓示に関する教義憲章(21)は、「それ故に、教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」 と述べています。
同 22 の実りとして、我が国でも新共同訳聖書が1987年に出版されました。
しかし、それ以来40年を過ぎた現在の我が国のカトリック教会では、“神の力である十字架の言葉”(Iコリ 1:18)が司祭の説教の、また信徒たちの信仰理解の中心主題となっていると言えるでしょうか。
“この御子において、その血によって贖われ、罪を赦された”(エフェ 1:7)という福音が、“信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)として活き活きと宣べ伝えられ、また信じられているでしょうか。
「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」 という使徒パウロの言葉(ガラ 4:11)が、聞こえてくるようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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人 2003年(主日B年) 3月30日 四旬節第4主日
代下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
ダビデ〜ソロモンの王国が分裂して生まれた南北イスラエルのうち、北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(王下 17章)、その後130年余存続した南王国も遂に紀元前587年にバビロンの王ネブカドネツァルによって征服されました。
歴代の王とその民が罪を犯した結果であったと、旧約聖書は述べています。
「それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(代下 v.16)
「神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。 剣を免れて生き残った者は捕えられ、バビロンに連れ去られた。」(代下 vv.19-20)
これがいわゆる “バビロンの捕囚” と呼ばれている出来事です。
しかし御自分の民を滅ぼす神は、同時にこれを顧みて将来を約束される神でありました(エレ 29:10以下)。
ペルャVアの王キュロャXの第一年(紀元前538年)、この神の約束によってイスラエルの歴史が再び始まります。
この当時の希望に満ちた喜びを、第二イザヤが見事に歌っています。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イザ 40:1-2) (つづき)
この神の救済史の過去の出来事が、イエス・キリストの救いに与かる私たち教会に光を照らし、終わりの時に実現されるキリストの秘められた計画(コロ 1:26-27)を明らかにします。
私たちキリスト者にとって救われているとは、新しくキリストと共に生かされ、新しく神に造られているということです。
それは 「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ v.8)
神は洗礼の秘跡によって私たちを新しく神の子として(エフェ 1:5)生まれさせてくださいました。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(IIコリ 5:17)
ですから私たちキリスト者の希望は、神の約束が実現する天の国にあります(フィリ 3:20-21)。
「わたしたちは、その善い業を行って歩む」(エフェ v.10)ということの意味は、私たちが神の国の相続人としての恵みの中でキリストの体である教会を造り上げて行く(エフェ 4:12)ことと固く結びついています。
四旬節の歩みの中にある全世界の教会に、神は今朝語っておられます。
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者はすでに裁かれている。」(ヨハ 3:18)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月26日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
南王国ユダがその独立を失ってバビロンの属国となった紀元前587年からほぼ70年を経て、紀元前516年にエルサレム神殿は再建されました。
歴代誌下は、この記事を救済史の新しい展開の序章として、その最後に置きました。
それはイスラエルの神に期待する熱き信仰の証しであったと考えられます。
旧約聖書の諸書も、新約聖書の福音書や使徒たちの書簡類も、一般の文学におけるようにそれ自身で完結する結末を持っていないことを知りましょう。
聖書の中には、“めでたし、めでたし” で終わるような完結した作品は存在しません。
救済史への期待を抜きにしては、教会の信仰を語ることは出来ないのです。
私たちのミサで、今朝も主の祈りに添えて副文が唱えられるのはそのためです。
司祭 : 私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを、待ち望んでいます。
会衆 : 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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2012年(主日B年) 3月18日 四旬節第4主日
歴 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)
私たちキリスト者の救いは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して」(ロマ 3:24) 「その血によって贖われ、罪を赦された」(エフェ 1:7)という 「神の賜物」(エフェ 2:8)に全く依存しています。
キリストの贖いの死と、罪と死と悪魔に勝利しての復活は、“昔々あるところで ・・・・・ ” という、単なる歴史の中の一つのエピソードではないのです。
そのことから切り離しては決して、「神は ・・・・・ 世を愛された」(ヨハ v.16)という福音のメッセージを正しく理解することが出来ません。
このキリストによる贖いと罪の赦しの御業は、教会にとっては常に現在の事実であり出来事であるということを、強調したいと思います。
カトリック教会の “ミサ典礼書の総則” は、その第一章の冒頭で次のように述べています。
「ミサの祭儀は、キリストの行為であり、(救いを受け、感謝し賛美する)神の民の行為であって、 ・・・・・ キリスト者の生活全体の中心である。
実に、ミサの中にキリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点があり、また人々が、神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点がある。」(1) (つづき)
カトリック教会の伝承における特に重大な教えが、“秘跡的再現” という用語で説明されています。
「すなわち、十字架上のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである」(2) と、教えられているのです。
私たちがいろいろな機会に、特に主日に “ともにささげるミサ” の中に、「御子によって世が救われる」(ヨハ v.17)神の働きの頂点があり、同時に 「信じない者は既に裁かれている」(ヨハ v.18)という神の判決があるのです。
「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから」(ヘブ 10:21)、洗礼の秘跡によって救いに入れられた私たちは、教会が 「公に言い表している信仰」(ヘブ 4:14/教会に平和を願う祈り)を揺るがぬようしっかり保って、
ともにミサをささげることを、今年も四旬節に学んで行きましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 4月6日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
受肉されたキリストがその地上の生涯において自分を徹底的に低くされ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブ v.8)たことは、それに続く復活の栄光と結びつけて、使徒たちの宣教の中に組み入れられました。
この復活のキリストは地上の教会の歩みを支え導く方であり、やがて終わりの日に再臨される神の国の王であります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければなりませんでした。
しかし死んで、否、復活して、御自分の体である教会を贖われ、多くの実を結ぶこととなりました。
このように、教会にとって、キリストの福音からイエスの死と復活の事実を切り離すことは出来ません。
その死と復活の光に照らして解釈されない(単なるナザレの)イエスの物語りや教えは、使徒たちが伝えた福音とは違うものです。
一部の人々の中にある “イエスの宗教がイエスについての宗教に変質した” という異論への解答は、イエスの復活の後に最初の弟子たちが経験したことの中にあります。
それは、イエスの死と復活の出来事は神の贖いの業であったという、復活節における神自らの啓示の行為によって起こった経験でした。
使徒たちの福音宣教はそこから始まりました。 (つづき)
預言者エレミヤが語った 「新しい契約を結ぶ日」(エレ v.31)が、イエス・キリストの十字架の死によって実現しました。
使徒パウロは教会に書き送って、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Iコリ 5:7)と教えました。
主イエスは感謝の典礼を制定して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Iコリ 11:25)と言われたと伝えられています。
私たちのミサは “キリストの血にあずかること”、“キリストの体にあずかること”(Iコリ 10:16 )であります。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Iコリ 11:26)
四旬節は、全世界の教会が今年も、主の過越の神秘を学ぶ期節です。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「 ・・・・・ 何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、“お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
現代のキリスト者である私たちが、だれかから “イエスに会いたい” と相談を受けたら、“ミサに出席しなさい” と答えるかも知れません。
それで、その後このギリシア人たちはどうなったのでしょうか。
人はミサに出席しても、その朗読台と祭壇で私たちに会ってくださる “キリストのことば” を理解出来なければ、失望して去って行きます。
ヨハネ福音書はここで、まさにその核心に触れているのです。
「イエスはこうお答えになった。 “人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。”」(ヨハ vv.23-24)
弟子たちは最初、この言葉の意味を全く理解出来ませんでした。
なぜならこの言葉には直ちにその後に v.25 が続いていて、それぞれが何を指しているのか納得出来なかったからです。
しかしその数日後に、弟子たちはイエスが十字架上に御自分の命を捨てられたこと(ヨハ 10:11-18 参照)を、確かに見たのでした。
そしてイエスの復活の後になって初めて、彼らの福音を理解する目が開かれたのでした。 (つづき)
「一粒の麦」 が、他ならぬ 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)イエス・キリストのことであるという明確な事実を、多くの人が気づかずに、間違って解釈しています(マコ 8:31 と 8:34 を参照)。
このテキストに登場するギリシア人たちが、今までよりも “少しはましな人間になる” ためにイエスに会いに来て、この答えを聞いたのだとしたら ・・・・・ 。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
新約聖書によれば使徒たちは、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7)、
「あなたがたが ・・・・・ 贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Iペト 1:18-19)、
「言は肉となって、(世の罪を取り除く神の小羊となるために)わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)という十字架の福音の宣教によって、原始教会という “実を結んで” 行きました。
ヨハ 12:24 は、このキリストの贖罪の事実を言っているのであって、だれか他の先人たちの偉業のことを指しているのではありません。
そして人は洗礼の秘跡によって、キリストの死にあずかり、キリストの復活にもあずかる者となりました(ロマ 6:1-11、コロ 2:12)。
それが ヨハ 12:25 の意味であって、それは神の賜物であり、人は自らの行為をいささかでも誇ることがあってはなりません(エフェ 2:8-9)。
決して思い上がって、キリストの美徳に倣って、自分もキリストのようになろうなどという不遜な考えに誘われてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47
ピラトの裁判とそれに続く十字架の場面は、イザ 50:4-9 の “僕の歌” や 詩 22 を背景にして物語られています。
主イエスは最後の晩餐の席で、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マコ 14:21)と言われました。
そして捕えられたときに再び、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(マコ 14:49)と言われます。
イエスはピラトの命令で鞭打たれます。 それからイエスは紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられて、ローマの兵士たちに侮辱されました。
「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ 50:6-7)
兵士たちはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、イエスの服を分け合いました(詩 22:19)。
祭司長や律法学者たちも代わる代わるイエスをののしりました。 「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」(マコ 15:31-32)
しかし、イザ 50:9 には歌われていました。 「見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。」 (つづき)
十字架は決して単なる歴史の中の偶然の出来事ではありませんでした。
それは神の業であり、受肉された御子イエスは 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:8)
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Iペト 2:23-24)
私たちを愛して、その御子をさえ惜しまずに死に渡された(ロマ 8:32)父なる神は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)
ですから、教会の信仰にとって十字架は中心的な事柄です。
十字架の出来事から切り離して、私たちはイエスの生涯を解釈することは出来ません。
教会は、洗礼の秘跡によってキリストと共に死に、またキリストと共にその復活の命に生きている者たちの群れです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ 3:3-4)
神は御子の十字架によって、私たちに和解の福音を宣言しておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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UU ̄U U `ヽ. 2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ v.7)
罪と死からの救い、そして神との和解という福音は、ただ神の御業にのみ依存することであって、いささかも人間の能力や貢献にはよらないことを、聖書は語っています。
受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分は、そのことを意図的に強調しているのです。
祭司長たちと議会も、ユダヤの群衆も、そしてローマの総督ピラトも、だれも “救い” を生み出すことは出来ませんでした。
御子イエスは、この場面で彼らの行動を矯正しようとはなさいませんでした。
“救い” は彼らの協力によってではなく、ただ御子が 「十字架の死に至るまで従順」(フィリ 2:8)であることによってだけ、実現することを知っておられました。
このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。
私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。
ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
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l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ 2012年(主日B年) 4月1日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)
旧新約聖書を通して、“従順” とは神の御心に徹底的に “聞き従うこと” でありました。
現代人はこれを、単なる人間関係における徳目に置き換えて理解してはならないのです。
フィリ vv.6-9 を、人が敬虔なキリスト者になるための手本のように読むとき、神のことばの輝かしい恵み(エフェ 1:6)の大部分を捨ててしまっています。
これは、「神がキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8:32)福音の出来事の告知以外の何ものでもないからです。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。」(イザ v.5) (つづき)
イザヤ書の “僕の歌” とは、 @42:1-4, A49:1-6, B50:4-9, C52:13〜53:12 であって、
私たちが新約聖書が語る “キリストの受難と死に勝利しての復活” を正しく理解するためには、主と共に、そこで歌われている神の御心に “耳が開かれる” 必要があるのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 ・・・・・ そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザ 53:5-6)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
教会の信仰とは、使徒や預言者の宣教という土台の上に建てられているのですから(エフェ 2:20)、私たち信者はその宣べ伝えられた福音を確かに聞き、救いへの神の招きに “聞き従う” ことが大切です。
それは信者一人一人が自ら聖伝と聖書を学ぶことによって、聞き、理解し、信じるべきことであって、私たちは決して “怠け者の悪い僕”(マタ 25:26)になってはなりません。
今朝の聖書朗読を通して聞いた “御子の十字架の死に至るまでの従順” が、私たち信者一人一人にとって “御子キリストへの私たちの従順”(ヘブ 5:9)の手本となる、実り豊かな聖週間でありますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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,." `ヽ “僕の歌”
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_ノ '-====-'ヽ 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
主イエス・キリストの復活の福音には、この復活されたキリストが生きている者と死んだ者との審判者、また信仰の完成者として再臨されるという終末の使信が、その重要な要素として含まれています。
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」(使 10:42)
洗礼の秘跡によってキリストに結ばれた(ロマ 6:11)すべてのキリスト者へのメッセージが、ここにあります。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ vv.3-4)
ですから、私たちのミサの中の交わりの儀で、一同が主の祈りを唱和すると、司祭はその副文の中で唱えます。
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」
私たちキリスト者は 「体の贖われること」(ロマ 8:23)、すなわち神の国への復活の日を待望しているのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) ハレルヤ、アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 2009年(主日B年) 4月12日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
“福音の事実”を理解しようと思うなら、先ず何よりも私たちは、イエス・キリストの十字架において顕された悪の力との戦いと、そして勝利に目を向けなければなりません。
十字架は、悪魔の働きへの勝利(Iヨハ 3:8)でした。
ですから、イエスの死を悲惨な殉教者の死のように思い描いてはなりません。
新約聖書は、イエスが十字架で勝利した敵を、罪、死、悪魔とその支配などと呼び(ガラ 1:4、IIテモ 1:10、ヘブ 2:14 他)、さらに使徒パウロはこれらに律法を加えています(Iコリ 15:56-57、ガラ 3:13)。
私たちキリスト者が洗礼の秘蹟によって、罪に対して死に、今や新しい命に生きているということから離れて、聖書を中立的な立場で読むなどということは、無益なことです。
現代の一般人の目線に立って聖書を学ぶ、などと言う人は、キリストの救いからいちばん遠い所にいることになります。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
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人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)と書かれている 「御自分」 とは、
“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、あなたはまだ信じていないのですか。
洗礼の秘跡によって、私たちキリスト者はみな 「キリストと共に死んだ」(コロ v.3、ロマ 6:8)のです。
今や私たちの(永遠の)命は、「キリストと共に神の内に隠されているのです。」
私たちキリスト者の人生に残されているのは、ただの肉体の死だけであって、すでにキリストは死に勝利されました。
来るべき日には、キリストがその勝利を私たちに与えてくださいます(コロ v.4、Iコリ 15:54-57)。
私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」 という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
実に教会は、すでに私たちのために神の裁きに対して御自身を献げ、すべての呪詛(罪が支払う報酬である死)を私たちから取り除いてくださった審判者キリストが、天から来られるのを頭を上げて待ち望んでいるのです。
このキリストを信じる者はだれでも、今やその名によって罪の赦しが受けられるからです(使 v.43)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
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605老クリスチャン2016/11/29(火) 19:40:03.73ID:meLDxuBD
多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。
そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。
「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1407104440/605
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__,イ /≼ⓞ≽. 2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
“信じる” という言葉と “愛する” という言葉が、特にヨハネ文書では密接に結びつけて使われています。
この “愛する” という言葉は、ミサをささげる群の中で、またミサをささげる群に向かって語られていることに注目したいと思います。
“主イエス・キリストを信じる人々を愛し、洗礼の秘跡によって新しく生まれさせてくださった神を愛する” ことから、すべては始まりました。
神が御子の十字架のいけにえによって、私たちを罪と死の支配するこの世から贖ってくださったからです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
“愛する” とは、救われた会衆が “共にミサをささげる” こと、“共にミサをささげ続けるために一致協力する” こととして、ヨハネ文書はこの言葉を使っていることを理解しましょう。
ですから、私たちが主イエス・キリストの復活を祝って共にミサをささげているなら、私たちは互いに愛し合っていることになります。
主イエスが最後の晩餐の席で残された言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ 15:12)でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2009年(主日B年) 4月19日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
よく知られている日本の聖歌に、“愛といつくしみのあるところ、神はそこにおられる” というのがありますが、これはキリストの福音を知らない人には誤解を与える危険性があります。
なぜなら、聖書が語っている愛の掟の前提は、「神から生まれた者」 だからです。
この信仰の事実(ヨハ 3:3-8)から離れて、人間の美徳として愛を考えてしまうと、もはや 「天上のこと」(ヨハ 3:12-15)を信じることが出来なくなります。
ミサの中の感謝の典礼で交わりの儀にあずかるのは、洗礼の秘蹟によって “新たに生まれた者たち” だけです。
この交わりの儀こそが、なによりも先ず “互いに愛し合う” ことの第一の中心です。
かつてはこれを個人的信心として追求し、聖体拝領と呼んでいた時代がありましたが、現代では交わりの儀と呼ばれるようになった意味を理解しましょう。
共にミサをささげる群れである教会は、“神が永遠の命を与えられた者たち(Iヨハ 5:11)の交わり(Iヨハ 1:3)” なのです。
このことを理解しない群れは、ただの人間の集会でしかありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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\ \_| / に
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\ \_| / た
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|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
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/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
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/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
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|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「キリストはご自分の教会の典礼を通して ・・・・・ その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。 ・・・・・ キリストは ・・・ ご自分の教会の中で ・・・ 諸秘跡を通して働かれるのです。」(カトリック教会のカテキズム 1076)
しかもこのことと同時に聖霊は、キリストが歴史の中で実際に 「人間の姿で現れ」(フィリ 2:7)、私たちの罪を身に負ってヨハネから洗礼を受け、
私たちの贖いのために十字架の死を通して御自身を神に献げられた、あの出来事を証してくださるのです(Iヨハ v.6)。
キリストは死に勝利して復活されました。 だから ・・・ ! 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つのです。」(Iヨハ v.4)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 5月4日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
今年も全世界のカトリック教会で、復活徹夜祭の洗礼の儀によって新しい民が加えられ、すでに信者であった人々も自らの洗礼を思い起こして、共に喜びのうちにミサをささげています。
救い主イエス・キリストは引き渡される夜(Iコリ 11:23)、御自分の死と復活の記念を教会に託して、聖体のいけにえ(ミサ)を制定されました。
ですから洗礼を受けて救われることは、共にミサをささげる共同体に加えられることであって、聖書はこのような信者の生き方を 「神の掟を守る」 「互いに愛し合う」 と表現しました。
このミサの重要性を明確に述べて、典礼憲章は次のように教えています。
「したがって教会は、キリスト信者がこの信仰の秘義に外来者、あるいは無言の傍観者として列席するのではなく、儀式と祈りによってこの秘義をよく理解し、聖なる行為に意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、
神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して自分自身を奉献することを学び、
こうしてキリストを仲介者として日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように全力を傾注しているのである。」(典礼憲章 48) (つづき)
「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。 わたしたちは、このことの証人です。」(使 v.15)
信じて洗礼を受けたすべてのキリスト者にとって、使徒たちは主の復活の証人であります。
洗礼によってイエス・キリストが私たちの主となってくださったこと、私たちを罪と死と悪魔の力から救い出し、贖って御自分の民としてくださったことの証人は使徒たちなのです。
その罪とは、「聖なる正しい方を拒んで、・・・・・ 命の導き手である方を殺してしまった」(使 vv.14-15)罪であり、
「悔い改めて立ち帰る」(使 v.19)とは、洗礼の秘跡によって 「イエス・キリストは主である」(フィリ 2:11)と告白する民に加えられることであります。
このイエスを復活させた 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたち(旧約のイスラエル)の先祖の神」(使 v.13)が、私たちキリスト者の神となられたことを、現代の教会は再認識する必要があります。
キリストの救いが単なる心の中の思想ではなくて、罪と死からの現実の贖いであって、やがて神の国への復活に至るものであるように、
私たちの神は抽象的な空想の神ではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2006年(主日B年) 4月30日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「神の掟」(Iヨハ v.3)、「神の言葉」(Iヨハ v.5)とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(Iヨハ 3:23)。
主日のミサを共にささげるために、キリストの祭壇を囲む群である私たち教会に、復活のキリストは今朝も、互いに愛し合う結びつきを期待しておられます。
聖書はこの愛を、共に救いに与っている “兄弟” への愛として繰り返し語っています(Iヨハ 2:10,4:20-21、Iテサ 4:9-10)。
なぜならそれは、“神の子イエス・キリストの名を信じる信仰” を互いに強め支え合うための、“福音に共にあずかる者となるための(Iコリ 9:23)” 兄弟愛だからです。
この認識が不十分なままで、ミサの中で形式的に手をつなぎ合ったり、抱擁し合ったりしても、それで “仲良しクラブ” は生まれても、真のキリストの体としての教会は育ちません。
共に信仰によって罪の赦しを受け、義とされたという事実が、その認識が、“教会を造り上げる兄弟愛” を生み出す源泉であることを思い、今朝も記念唱を歌おうではありませんか。
司祭 : 信仰の神秘。
会衆 : 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 来る来る詐欺やからwww
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人 2009年(主日B年) 4月26日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「次のように書いてある。 “メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる” と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ vv.46-48)
初代教会のケリュグマには、次の三つの主要な要素が含まれていたと考えられます。
第一は “キリストが聖書に書いてある通り復活したこと”、第二は “キリストは生きている者と死んだ者との審判者に定められたこと”、そして第三は “信じるすべての者に罪の赦しを与える主となられたこと” です。
審判者としてのキリストの再臨という終末論的背景の中で、初代教会はキリストの死と復活の事実を宣教したのであって、それ故にキリストの福音は十字架の福音であり、勝利の福音でありました。
ですから、福音が宣教されるところではどこでも、復活のイエスが語られた 「あなたがたに平和があるように」(ルカ v.36)も、常に新しく伝えられたのです。
平和は信じる者にキリストが与えてくださる賜物であって、代々の教会は使徒たちの宣教を通してこれを受けて来ました。 (つづき)
平和という言葉はしばしば聖書とは無関係に、心の中に宿る一つの精神的な状態と解釈されたり、あるいは人間の努力目標としての争いのない世界達成のことだと考えられて来ました。
しかし聖書が語る平和は、キリストがその死と復活を通して贖われた民である教会に与えてくださったもので、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ 53:5)のです。
キリストの復活なしには、私たちは今もなお罪の中にあり(Iコリ 15:17)、神の怒りを受けるべき者であります(エフェ 2:3)。
しかし、実にキリストは私たちの平和であり(エフェ 2:14)、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている(ロマ 5:1)のです。
聖書がミサの中で朗読されるとき、キリストは使徒たちの証言を通して、罪の赦しを得させる勝利の福音を(Iコリ 15:56-57、Iヨハ 5:4-5)、神と和解させる平和の福音を(エフェ 2:16-17)、語ってくださいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>835-836
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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人 老クリスチャンは牧師としての人生に満足できてないんだろうね。 3 世界中の戦争を終わらせるために活動を続ける
いま、私たちは大きな「時代の変わり目」に存在している
日本では建国記念の日に当たる二月十一日は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏が、一九九〇年に二十七年間の監獄生活を終えて釈放された日でもあります。
当会では、「ネルソン・マンデラ ラスト・メッセージ」という霊言を発刊しましたし、国際活動をするにあたって、「HS・ネルソン・マンデラ基金」という募金活動も行っており、
こういうものを通じて知っている人もいるでしょうし、募金への寄付をしている人もいるでしょう。
私が幕張メッセ等の会場で講演会を行うようになった一九九〇年ごろに、マンデラ氏は釈放され、その後、大統領になり、「白人と黒人に分断された国家を一つにする」という偉業を成し遂げました。
このように、黒人解放運動をし白人政府からすれば、ある意味でテロリストのように見えていた人が。
二十七年の刑期を終えて出所した後、大統領になり、分断された国家を一つにしたわけです。 今、「トランプ大統領によって、アメリカが分断されるのではないか」などと多くのマスコミから危惧の声が出ていますが、実際には、そうはならず、その正反対のことが起きてくるのではないかと私は読んでいます。
アメリカが再びアメリカらしくなり、「世界の先生」として、世界を護ってくれるようになると思うのです。
その時の日本の果たすべき役割は、おそらく、今までよりも、もっとはるかに大きなものになってくるでしょう。アメリカの良き片腕になるはずです。
やはり、先行するものは「考え方」です。
では、その「考え方」とは何でしょうか。今の時代を目指して、天上界の神々、あるいは高級心霊から降ろされているさまざまな教えがあります。
そのことに関して、「なぜ今、この国に、これだけの教えが、天上界から降り注いでいるのか」ということを知ってほしいのです。
時代的に見れば、こういうものはめったにないことであり、それが来るというというのは、今、私たちは、「大きな時代の変わり目に存在している」ということだと思うのです。 2000年(主日B年) 5月14日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ10:11〜18
「わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ v.11)
私たちが今朝もこうして集まって、共に囲んでミサをささげているこの祭壇は、「良い羊飼い」 「羊のために命を捨て」 てくださった御子イエス・キリストの祭壇です。
教会は、「良い羊飼い」 であって御自身を罪の贖いのいけにえとして献げてくださった、この救い主イエス・キリストの羊の群に他なりません。
イエス・キリストは、なぜ十字架上で死なれたのか ・・・・・ ?
ヨハネ福音書は、主御自身が自らその羊である教会の贖いのために命を捨ててくださったということを、ここで説明しているのです。
十字架の出来事は、ナザレのイエスの人生に訪れた挫折や敗北ではありませんでした。
そうではなくて、それは父なる神の御計画であって、御子イエス・キリストは自ら進んで御自分の命を捨てることによって、父なる神への従順を貫いて、その羊の群である教会を贖ってくださったのです。 (つづき)
私たち人間にとって、死ということほど直視することの困難な問題は他にないと思います。
一人の人が死ぬとき、あるいは死去したとき、周囲のだれもが “それが当然だ ・・・・・ ” とは考えないのが普通です。
“もっと生きていて欲しかった” “たいへん残念だ” “まだまだ活躍して欲しかったのに、無念だ” と考え、またそのように弔辞を述べることが礼に適うと思われています。
兵役に服してとか、国や社会のために働いて、その責務のために戦死や殉職した人の場合でも、やはり周囲の者たちはだれも “それで良かった” とは言わず、“残念であった” “どんなに心残りであったろうか・・・・・ ” と、その死を悔やむことでしょう。
ですから、自ら命を捨てて十字架の処刑を受け入れ、それによって私たちの救い主となった御子イエス・キリストを理解することは、本来この世の常識からかけ離れたことだったのです。
神は 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを」(Iコリ 2:9)、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちのために成しとげてくださったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 牧師は、当然一週間、主日に備えて祈るんだろうけどその間お金を儲けることは難しい、、、いろんな理由をつけてお金を信徒から巻上げる算段をする牧師までもいる。
そりゃ、牧師や宣教師だって人間だから家族を支える為に必死だ。時には伝道集会や講演会などの理由・名目で献金を募りこっそりかなりな額の上前をはねる。
教会の役員をしていたので知ってるが、そのような悪事は既成教会より福音派などを謳うが実は個人商店化しカルト化した教会に多い。
宗教法人にすると公に会計書類を提出する必要も限りなく無いに等しいし(営利事業は別)、当然、有っても役員に現世的利益をちらつかせ、その目やその信徒さえ誤魔化せば良い。
これは忌々しきことだが現実で、神さまはそんなパリサイ化した指導者の状況を永遠に許すわけが無い。
少なくても牧師の衣を借るそのような教会関係者は無意味な事をしてる事に気がついていないか(気がつく義務は有る)、
気がついているとしたら、神さまは居ないから現世のうちに大胆に周囲を騙し、金を献金という名目で巻上げる、、、と腹をくくったか。
大半が後者だろう、神さまの前では言い訳は利かないのは当然だ。
キリスト教を騙り信仰を悪用した泥棒である。神殿の中で堂々と商売をしてるわけである。
自分だけは楽をして信徒には負いきれない重荷を押し付ける、自分の栄誉・宣伝のために意味の無い苦行などを強いるなど、あの手この手だ。
カトリック教会の修道士などは清貧を義務づける修道会も有るのはそういった現実的な意味も有るからだ。
現世と隔絶した生活、当然現世のままを享受するのは不適切と考える修道会が出てきてもおかしくはない。
社会的にもすばらしい業績を残すだけではなく、多くのものが信仰に導かれている。
一部の福音派と呼ばれる教会の中にはそれを非難しそんな肉的な行為で信仰に導かれるのではないと言う。
しかし、そんな戯言を言うのは、ただ、愛がないだけである。つまり、神さまから愛されていない、呪われた頭でっかちの牧師が言う事だ。
一度、献金した金品は法律的にも返還請求するのは難しい。
少しでも疑問が有るのなら、そういった牧師から離れその教会も去ることだ。
それは不信仰なことではなく、神さまに対しても素直なことである。
この日本でも、他にもすばらしい信徒の群れはたくさん有る。 そもそも最初から教会に行かなければいいんだよ。
教会に行かないと救いはない!
なんて言い出したのは
教会で飯食ってるやつらだよ。 2006年(主日B年) 5月7日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。」(Iヨハ v.1)
神の御業について私たちが知っていることは、一部分にしか過ぎません(Iコリ 13:8-13 参照)。
しかし、すべてのキリスト者にとって明確でなければならない一事があります。
それは、私たちは救われて神の子とされたということです(ガラ 3:26-29、ロマ 8:14-17 参照)。
この世のすべての人が無条件に神の子なのではありません。
この世の人々は “神の子とそうでない者の区別” を知りません。
私たちキリスト者は、「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われた」(ロマ 10:10)ことを知っています。
この “神の子” とは、“神の国の相続人” のことであって(ガラ 3:29、ロマ 8:17)、私たちは復活の日には 「御子に似た者となる」(Iヨハ v.2、ロマ 8:29)でしょう。
その日を待ち望んでいるすべてのキリスト者の初穂として、キリストは死者の中から復活されました(Iコリ 15:20)。
私たちが 「今既に神の子」(Iヨハ v.2)であるのは、この将来の約束(秘められた計画)の故であることを、再確認しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ >>846
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ただの飯はうまい 2009年(主日B年) 5月3日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
御自身の血によってただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたキリストは(ヘブ 9:12)、終わりの日に 「生きている者と死んだ者を裁くために来られる」(IIテモ 4:1)のと同じキリストです。
イエス・キリストはその死と復活によって、今や信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。
私たちキリスト者は、永遠の命を与えられて(Iヨハ 5:11)、「今既に神の子ですが」(ヨハ v.2)、まだ将来の神の国についての私たちの知識には限界があります(Iコリ 13:12)。
「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(ヨハ v.2)
ですから、ニケア・コンスタンチノープル信条によって、私たちは代々の時代の聖徒と共に宣言します。
「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世の命を待ち望みます。 アーメン。」
実に、神の義は 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2009年(主日B年) 5月10日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
使徒パウロはダマスコ途上で復活のイエスを見た後、直ちに洗礼を受けて、キリストの福音を宣教し始めました(Iコリ 9:1 参照)。
これはおとぎ話ではありませんから、私たちはパウロが直ちに使徒たちから伝えられた福音の伝承を “受け取った” であろうことを考慮しなければなりません。
彼は決して、自分独自の新発明の福音を語ったのではありませんでした。
ガラ 1:18以下 の記述と、vv.28-29 との間に、古くから矛盾が指摘されていますが、とにかく使徒パウロはエルサレムの使徒、特にケファ(ペトロ)から福音の伝承を受けようとしたに違いないと思われます。
彼はダマスコでも(使 9:20)、アンティオキアでも(使 11:25)、12使徒のみならず、広義における使徒、すなわち “主を見た証人たち”(使 1:21-22)の伝承を受け取ったことでしょう。
それらの伝承には、要約された初期の信仰告白、イエスの言葉や生涯に関する報告が含まれていたと考えられます。
パウロの ガラ 1:12 の言葉は、この “使徒の伝承” というものの特殊性を明示しています。
すなわち 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
文字通りに読むと理解が困難なように見えますが、彼が受けた福音の伝承の背後には、復活のキリストが立っておられ、伝承が伝えられること自体の中にキリストが働いておられる、という理解がそこにはありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ
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チロチロ 2009年(主日B年) 5月10日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
O.クルマン という新約学者は、「使徒たちすべての共通の証言だけがキリスト教の伝承を形成することが出来、その中に、主御自身が働き給う」 と説明しています。
代々の教会は、今日に至るまで使徒継承によってキリストの福音の伝承を受け継いで来ました。
しかし、それは使徒たち自身が福音を受けたのとは、決定的な点で異なっています。
現代の教会がそれを受け継ぐのは “聖伝と聖書” を通してであって、あくまでも福音についての規範的な権威は使徒にあるからです。
この “使徒たちから伝えられたこと”(神の啓示に関する教義憲章 8,9)を学ぶことによって、現代の私たちも 「神の子イエス・キリストの名を信じ」(Iヨハ v.23)ることが出来るのであり、
その同じ福音を聞く人々の間で、その同じ福音を信じて救われた者たちの間で、「互いに愛し合うこと」(同)が可能になります。
互いに愛し合うとは、なによりも先ず福音を分かち合うことであり、教え合い、学び合うことに他なりません。
福音を説明したり弁明したりすることは、教導職の仕事であって、信者はただ善良な生活をしていればよいというのではありません。
「理解力が豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリスト(の福音)を悟る」(コロ 2:2)こと、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」(コロ 3:16)ことが、すべての信者に求められているのです。
私たちは希望し、確信しようではありませんか。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(Iコリ 1:8)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
---- 有名になりたい ■■■■■
┏┓ ┏┓ ■ ■ 偉くなりたい ┏┓ ┏┓
┏━━┛┗━━┓┃┃ ii \,, ,,/ ii 歴史に名を残す2だ ┃┃ ┃┃
┗━━━━┓ ┃┃┃ | _\ ./_ | ┏━┛┗━━━┓ ┏┛┃
┃ ┃┃┗━┓ 〈 ___ || ___〉 カタカタ カタカタ ┗━━┓┏━━┛ ┃ ┃
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信者の前で がなってる あ〜ァホの金ちゃん、信者の女に手を出して893を使って口封じ♪
元893自慢をするけれど本当は枝の葉っぱでした、殆んどインチキ学位の見栄張り自慢が痛過ぎ♪
被害妄想で信者を追い込み脅して騙して金を取る、ナマポを騙して取得させ信者をタ〜ダで こき使う♪
893の関係チラつかせ周囲の牧師を見下して悪口し喧嘩する、裏で信者の陰口なんて茶飯事♪教会を離れると糞味噌に言われます♪
注卒なのに、それを隠し偽物学位(薬物注卒?)じゃないでしょか♪○○○担がせ歩かせる 金ちゃんの見栄の為だけじゃないでしょか♪
なにか刺激のあるイベントを開いては、金ちゃんが偉大であることを強調し、裏事情に詳しいことをアピール、信徒が減るのが怖くて実際は臆病なだけじゃ無いでしょうか♪ 2012年(主日B年) 5月6日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハ v.1)
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。」(ヨハ vv.3-4)
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハ v.8)
ヨハネ福音書には、最後の晩餐における感謝のいけにえの制定の場面が記述されていませんが、今朝のテキストは正にそれを思い起こさせるものです。
ミサの奉献文で 「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる永遠の契約の血」 と唱えられる、その “まことのぶどうの木” がイエス・キリストであるという宣言で、語り始められているからです。
このまことのぶどうの木につながっているなら、豊かに実を結ぶように父なる神が手入れをなさる(刈り込んでくださる/フランシスコ会訳)。
それは洗礼の秘跡を受けた信者は、キリストの福音によって 「既に清くされている」(ヨハ v.3 フランシスコ会訳/13:10 参照)からです。 (つづき)
言うまでもなく、ここで 「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)とは、イエスの語られたあの言葉この言葉を指しているのではなくて、
原始教会の伝承としての “伝えられた教え”(παράδοσις/Iコリ 11:2、IIテサ 2:15,3:6)のことです。
それはカトリック教会が “聖伝” と呼んでいるもので、成人の入信に際しては求道期の教育で、また幼児洗礼を受けた子供たちのためにはカテケージスで、
本来 “組織的かつ体系的に” 教導される筈のものです(カトリック教会のカテキズム 序論 5)が、実際には指導者等の無能によってほとんど全くスキップされて来ました。
自ら福音を学ぶことをせずに、ただの善意だけでカテケージスの奉仕が出来ると、多くの司祭と奉仕者たちが勘違いしたことに原因があります。
私たちがミサで、ことばの典礼と感謝の典礼を通してお会いするキリストは、過去の物語りの中の思い出のイエスではなくて、神の右の座に着いておられる天上のキリストであり、
「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)は、そのような意味で理解されねばなりません。
そうでないと、教会が “それによって、父が栄光をお受けになる” ような実を結ぶことは不可能だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 ■■■■■■■■■■■■■■■
■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
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iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
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| | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝!
| | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心!
| \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか?
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| | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました!
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\_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 2003年(主日B年) 5月25日 復活節第6主日
使 10:34〜48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
神がどれほど私たち教会を愛してくださるかは、その御子イエス・キリストの十字架のいけにえが記念されるミサによって、代々の時代の信者たちに伝えられて来ています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ v.13)
私たちのために命を捨ててくださったのは、他の誰でもなくて、御子イエス・キリストでありました。
この主が、この主だけが、私たち教会に 「互いに愛し合いなさい」 と命ずることの出来るただ一人の方なのです。
このように聖書が、特に福音書がミサの中で朗読されるとき、復活のキリストは今も御自分の体である現代の教会に向かって語り、使徒たちが聞いたのと同じことを私たちに聞かせてくださいます。
ですから現代の信者である私たちも、福音書のイエスの言葉を最初に使徒たちが理解したように理解しなければなりません。
ミサに集う私たちは単なる書物としての聖書を読んでいるのではなくて、復活して今生きておられる主イエス・キリストの御言葉を聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人
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人 2006年(主日B年) 5月21日 復活節第6主日
使 10:44〜48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「愛する者たち。 互いに愛しあいましょう。」(Iヨハ v.7)
神の愛、キリストの愛と、世俗の隣人愛との間には、共通する部分がありますが、決して同一ではありません。
聖書を通して使徒たちが証言している愛は、キリストが私たちの罪を償ういけにえとなってくださった愛(Iヨハ v.10)、
来るべき(終末の裁きの)怒りから私たちを救ってくださるイエスの愛(Iテサ 1:10)、
その救いを受けた人々が一致団結してキリストの体を造り上げて行く愛(エフェ 4:12)です。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。 愛は神から出るもの ・・・・・ だからです。」(Iヨハ v.7)
父の右に座したもうキリストは、21世紀の教会が聖伝と聖書を通して再び、使徒たちが伝えた福音に耳を傾けるようにと、今朝も呼びかけておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日B年) 5月17日 復活節第6主日
使 10:25-26,34-48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ v.10)
キリストの十字架の死が神の愛であったことを、それ故に、私たちすべてのために御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された神の愛を、聖伝と聖書を通して代々の教会は今日まで聞いて来ました。
そして、それは “ただ一度 ・・・・・ 成し遂げられた”(ヘブ 9:12)だけでなく、その福音は信じる者たちの間で今も “現に働いている”(Iテサ 2:13)のです。
「互いに愛し合う」(Iヨハ v.7)とは、この福音を信者の群れが共有することなのであって、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、 ・・・・・ 感謝して心から神をほめたたえ」(コロ 3:16)るということを通して、福音は教会の中に常に働き続けるのです。
“神から出る”(Iヨハ v.7)のではない “この世の愛” によっては、人が 「成長し、救われるようになる」(Iペト 2:2)ことは決してありません。
論理を逆転させる人は、神を知らない人です(Iヨハ v.8)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2012年(主日B年) 5月13日 復活節第6主日
使10:25-26,34-48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
・・・・・ そこでペトロは、“わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか” と言った。」(使 vv.44-47)
聖書はその全巻に亘って、聖霊が降るところには神の力が働くという理解を語っています(ルカ 1:35、使 1:8 参照)。
聖霊とは神から独立した別の力ではなくて、神御自身であり、教会に聖伝と聖書を通して託された福音に耳を傾ける人々には、復活された天上のキリストが聖霊を通して訪れてくださるということが起こるのです。
神がコルネリウスたち異邦人に聖霊を送って、彼らをユダヤ人と一緒に神の国を受け継ぐ者、同じ約束にあずかる者(エフェ 3:6)にしてくださいました。
このように、教会の主体は人間ではなくて、神であることを感謝しましょう。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハ 15:16)
「あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」(エフェ 2:5)
そして、私たちも使徒パウロと共に宣言しようではありませんか。
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラ 6:14)と。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人
チロチロ 今年の 「聖書講義」 に、<2018-2> を追加しました。
今回は、ユダヤ教の聖書とキリスト教の旧約聖書の違いについて、基礎的な紹介をしています。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2018/2018.html >>883
カスタマーレビュー
カスタマートーマス
★★★★★★5つ星のうち6.0 最高傑作
2018年5月8日
キリスト教徒になるためには、大変素晴らしい内容です。
キリスト教に興味がある方、キリスト教徒として幸せな人生をおくりたい方には必読書になります。
絶対オススメです。機会があれば、是非是非ご一読を。
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■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
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iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
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牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 2006年(主日B年) 5月28日 主の昇天
使 1:1〜11 エフェ 4:1〜13 マコ 16:15〜20
福音の起源が、復活のキリストによる使徒たちへの教えであることを、初代教会は強く主張しました(使 v.3)。
なぜなら彼らの教会は、使徒たちが教えた福音を大切にし、その福音に基づいて共にミサをささげる共同体であったからです(使 2:42)。
地上のイエスの最後の言葉は、聖霊を通して天上のキリストが今後使徒たちによる福音宣教と共にいてくださるという約束でありました(使 v.8)。
この使徒たちの宣教の継続を今日に至るまで支え導いておられる方は、やがて再び来られる終末のキリストとまさに同一の方であることを(使 v.11)、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
教会の宣教活動は、今日においても使徒たちの宣教の継続以外ではあり得ず、それは “贖いの福音” “罪の赦しの福音” “神の国の福音” の宣教による信仰覚醒運動でなければならないのです。
決していわゆる西欧的なキリスト教思想や道徳の宣伝、キリスト教文化圏を広げるための大衆活動と混同されてはなりません。
使徒たちはキリスト教思想の宣伝をするために遣わされたのではありませんでした。
彼らはキリストの福音を宣教し、人々を 「信仰による従順へと導くために」(ロマ 1:5)召された人々でありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
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