【福音の学び D への解説】
罪のない神の子が、なぜヨハネから “罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼” を受けたのかは、原始教会においても論争されたようです。
一方には、イエスは神の子であるから罪を犯していない(はずだ)という主張がありました(ヘブ 4:15、Iペト 2:22以下)。

他方には、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」(Iペト 2:24)ことが、決して単なるお芝居ではなかったという、真剣な主張がありました。
それが、「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り ・ ・ 」(ロマ 8:3)、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって ・ ・ 」(ガラ 3:13)などという弁明です。

「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった ・ ・ ・ 神はこのイエスを復活させられた」(使 2:24,32)という証言は、
「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れた」(Iヨハ 3:8)などと共に逆説的に、「陰府に下り」 という使徒信条の用語の背景をなしているように思われます。
2chで以前に(かなり不真面目に)非難されていた “十字架蛇説?” も、新約聖書そのものに起源があるのです。