2005年(主日A年) 2月27日 四旬節第3主日
出 17:3〜7  ロマ 5:1〜8  ヨハ 4:5〜42

イエスはサマリアの女に、「水を飲ませてください」 と言われました。
サマリアの住民たちにとってこのヤコブの井戸は民族的遺産でありました。
この地の人々は既に千年以上もの間、この井戸の水によって生きて来ていました。
人は社会の一員としても個人としても、自らの生存にとって極めて重要であると思われる多くのものに囲まれて生活しています。
このヤコブの井戸の水もそのようなものの一つでした。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ vv.13-14)

サマリアの人々はゲリジム山 (申 11:29 参照) で礼拝し、ユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムであると言っていました。
これも彼らの宗教的生存を支えるそれぞれ極めて重要な要件と思われていました。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。 なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ vv.23-24)

永遠の贖いを成し遂げて天の父の右の座に着いておられる復活のキリストこそが、聖霊を通して小羊たちに永遠の命を与える方であり、聖霊の交わりの中で私たちのミサを父なる神への真の礼拝にしてくださいます。
教会が洗礼の秘跡によって人々をミサに招き入れることは、永遠の命に至る実を集めることなのです。

しかし、実際の私たちの小教区のミサで、キリストが典礼の第一の主体として大切にされているでしょうか。
例えばミサの開祭のあいさつ “主はみなさんとともに” “また司祭とともに” は、このミサの中心に復活のキリストが共にいてくださることを会衆に意識させるための伝統的対話句であるにもかかわらず、
すぐその後に “おはようございます” と、まるで典礼が人間主体の集会であるかのような挨拶を追加してはばからない司祭たちが多いのではないでしょうか(土屋吉正/ミサがわかる p.31 参照)。

・・・・・ 以下、本文参照。
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