2008年(主日A年) 2月24日 四旬節第3主日
出 17:3〜7  ロマ 5:1〜8  ヨハ 4:5〜42

「イエスは答えて言われた。 “この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。”」(ヨハ vv.13-14)

水汲みという労働が、かなりの負担であった時代というものを想像してみましょう。
そんな便利な水の供給が可能なら、それは最優先の課題であるという理解の代弁者として、サマリアの女はこの物語りに登場しています(ヨハ v.15)。

人々がキリスト教を、またいわゆる宗教というものの目的を、一人一人の人間や社会にとって不足したり欠けている物資や食料を、さらには心の “癒やし” を提供することだと考えている、
そのような通俗的な理解に対抗する “神のことばの使信” を、私たちはこの期節に聖書から聞かされるのです。

ヨハネ福音書が伝えるイエスの言葉 「わたしが与える水を飲む」(ヨハ v.13) を理解する鍵は、ヨハ 3:3, 3:5, 3:16 にあります。
洗礼の秘跡は “霊” による新しい誕生であり、「あなたがたは “霊” によって聖なる者とされ」(Iペト 1:2) ました。
「聖霊で証印を押された」(エフェ 1:13) 人々の間では、天に蓄えられている (神の国の) 希望を生む福音が 「実を結んで成長しています」(コロ 1:5-6)。
そのように初代教会のキリスト者は体験し、そのようにキリストの福音を宣教しました。
「永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ v.14) という表現は、体験であって、決してただの気分や思想ではありません。

人本主義の影響の下で、「霊と真理をもって父を礼拝する」(ヨハ v.23) という表現を、多くの人々がキリスト教的な精神ないし心の持ち方のことだと考えて来ました。
しかし、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた (コロ 2:12) という聖霊の御業、キリストの死と復活が私たちの救いのためであったという真理が、私たちの “共にささげるミサ” の土台なのです。
四旬節は、「今がその時である」(ヨハ v.23) ことを私たちが再発見するべき期節であると知りましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
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