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老クリさんへ。
先に老クリさんに絡んでいる人がいて、
(人にレギオンと言って回ったりの人です)
ローマ・カトリックスレで見つけまして、
その後こちらのスレが投稿ランキングで上がっていましたので、
久しぶりに見ますと、
昨日の老クリさんの投稿>>495がありました。
そして、今私が良く行く、
癒しスレで老クリさんがまちこさんにここの書き込みの事で
話かけられているのを見ました。
私はその順ですから、>>495を見てとかで、今日ローマの方に書き込んだ
のではありません。
私は、まちこさんは信徒でなく、
ある教派の牧師なので、そこの教派教義に関わる事での
話は無理だ、まちこさんに自由がないとあきらめています。
本日、たまたま「十字架蛇説」の言葉を老クリさんが書かれているのを
みまして、まちこさんがどうというのでなく、
老クリさんのお話を伺おうと思い、整合性という角度でお聞きしました。
お時間がある時で、けっこうです。
(まちこさんどうのとか、巻き込もうとか
私はありませんので、別の私の関心からですので気になさらないでください) >>504
老クリさん、お返事知らずに私は投稿しました。
・・・・・・・
老クリさんは、これこれの聖書箇所の解釈からある教義にまでなり、
また別のこれこれで、この教義にまでなりと、
分派教派に別れる理由でもあるし、ひとつにまとめるのは困難だと
いうご意見でよろしいでしょうか。 >>504
学問として失格ならば、学問はそこで閉じてしまいますから
終了です。どの学問もあらたな展開をみせるのは
学問も生きているからです。
学問でなく、宗教であるから生きたものから離れてしまう要素が
大きいのかも知れません。
それで、それぞれの解釈根拠はあるとして、
蛇説のおかしいところは、
細部でなく、キリスト教信仰の大事な部分とされる
贖罪と対立しませんか? とわたしは尋ねているのです。
蛇説を十字架に置き、罪人イエスにしたら、
贖罪は成立しませんので、解釈でなく、
その二つを合成するそれこそカラクリ創作についてです。 悪魔の憑いた者が用意するものは「不毛」なのですよ。
「正しい信仰」に誘うものではありません。
それを投稿する動機が、その投稿の内容ではなく、自分の中に巣食う
独善や傲慢を補強したり、虚栄心を満足させるため、
コンプレックスの解消のためなどの違う理由で投稿しているのです。
映画でも、悪魔憑きの声は男と女の混声で表現されますね。
二心で語っていること、あやしいことを表現しています。
カトリック信徒は牧者の声を聞き分けて、だれも快いレスを老クリ
さんに投稿しませんね。(ヨハネ10・1ー6)
もっとも、真面目に内容について批判した信徒に対しても、今でも
確認できますが、無視したり誠意のある回答をしたことがありません。
プリティさんは、目が曇って見えないようですが、残念ながら
関わっても「不毛」です。内容にレスしても、あなたの中で何も善いものは
育まれません。 >>508
老クリさんも2chでは、わけわかめの人が多いので
対応がおや?の時があるのは、私も理解できるところですが、
あなたのような人が入れ代わり立ち代わりかき乱したりしますからね。
あなたは、私に対してレスする時、失礼ですから
おそらく、老クリさんにもまともな質問や意見をされた事は
ないと思うのですが、どうですか?
あなたのいう事がほんとうかどうか、
今、心あらたに、まともに老クリさんに内容のともなう意見が
出来るか見せてください。
できますか? >>509
あなたは先日、僕が語ったことを、自分が語ったかのようにウソをつきましたよね。
エイさんが早急に証言してくれたから、あなたのウソがバレました。
なんですか、あの恥ずかしいごまかしは。
過去レスを出して、あなたがどれだけ姑息な人間なのか証明することもできます。
僕はあなたに「どんまい」と書きましたよ? >>509
僕があなたに対して失礼なのではなく、あなたが僕に対して失礼なのですよ。
謝罪はありませんね。 老クリさん
プリティにならいてという人は
原罪も信じないニューエイジなので
相手にする必要ないですよ >>510
あなたが私の話をかき乱したために、エイさんは
覚えておられないのですよ。
私は 神の御計画を「外部」から言うようなキリスト教に対して
被爆被害者に対する態度を問題しており、そもそもあの意見を
述べたのですよ。
あなたは、その私の主眼に言いがかりしかつけていないので、
盲目なのです。
そしてまた、「内部」の信仰による乗り越えであったとしても
錯覚させられた、カルトで自分を納得させるような
カルト洗脳神の御計画なら、自分の越えといっても間違っています。
そういうことを、説明しようとしても邪魔して、邪魔して
いまのように、いいがかりでどんどんあなたは
話を変えながら、書いて、私は元にもどすという消耗をさせられた。
邪魔しするだけ、邪魔する。
私自身の意見なので私が、話の内容、動機、などすべて把握して、話を
展開しています。
あなたの意見で参考になることは、何もありませんでした。
あなたが嘘つきなのですよ。もともとの話の軸も盲目なので
そのような結論にインチキ誘導するのです。
あきれたカルトですね。 >>513
まだウソを言い張るのですか?往生際が悪いですね。
エイさんが、あなたにはその論調はなかったと思うと言われた。
まさにその通りだったのです。僕の記憶もそうでした。
だから僕が、投稿を何個にも分けてあなたを諭したのです。
あなたはいつのまにか姑息に自分のものにしたのでしょう。
当時あなたは白い蛇の幻覚が見えている頃では?
今は大丈夫なのでしょうか?
GLA(ゴリラ?)の人と言われるような言動をするからゴリラと
疑われるのであって・・。 >>513
ゴリラにならって
きんどーちゃんみたいにダンスしなさい! >>541
彼は、そこまで覚えいないと思います。
それよりも私がキリスト教を問題視することに彼の興味がありました。
信仰をわかってあげないとみたいなね。
で、昨日も言われていましたが、私は神の御計画はダメという立場から
であったので、私が神の御計画いいよという訳はないという
論理展開で、記憶が引っ張り出されていたのですが、
そもそも、神の御計画の外部からの被害者に対するキリスト教の態度と
盲信のこわさについての話であり、
神の御計画を信仰者として受け入れるどうか、別の話なので
あなたのはなしなど、分かったうえでの話だと言いましたよ。
話の主眼、主旨を変えようとするあなたの動機など
私の知ったことではない。
あなたよりも、考えた上で話していますよ。
だから、内部的な乗り越えについてあなたも意見したとしても
そんなことは、分かったうえでの話だと言う私の展開ですよ。
ちょっと、私が問題にしたことを、
書き直しておきます。
カルトうそつき、捏造 低俗信仰者のピシャーさん。 <迷信、盲信、 神の御計画>
戦後も宗教盲信の抑止力がかからなければ、
被爆被害者は、我が国も自分も周辺国の
事情はあるのでしかたないとかではなく、また相手国を非難する
感情論だけでなく、
戦争についての客観情報を得るところから入るに違いない。
盲信、国家治安維持法、言論統制、神風、大本営発表などなども
調べて、事実を把握しようと努めるはずです。
そして、核廃絶の必要性を被爆した心身をもって、人類愛で
感情的な苦痛から次元アップして訴えることで乗り越える。
愛で乗り越えます。隣人愛、自分の力でできる事に寄与する。
信仰者は神の御計画の内に閉じられるのではなく、自分の人生の
悲惨さを呪うのでなく、神の慰めと癒しを自分の力で不可能な事を委ねます。
マインドコントロールされていなければ、自分の正直な心には、
キリスト教信者の粗雑なレッテル記号言葉群の
神の御計画という言葉は適用されない。
もっと、もっと慎重で繊細な具体の中での乗り越えは本人だけのものです。
わかったような口先から出る、他者のあるいは加害者側に位置する者達の
「神の御計画」には
宗教信者の迷信、盲信、逃避、軽薄だけでなく、イエスキリストの不在が
あります。 >>516-517
まるで女版の「変なおばさん」のごまかし投稿ですねw
加害者の「神の御計画」で正当化するのはよくない、という幼稚な話が
そもそも議論になるわけがないではありませんか。ところが、
はい、そうです。では終わらなかった。
あなたの理解が浅かったからです。
しかし、よくもまあ二人の記憶を差し置いてのうのうと・・。
とにかく僕は、あなたのことを「平気でウソをつく人」だなという心証を深めました。
先日のエイさんの証言は信憑性は高いですよ。判官贔屓をするような
人ではないというのは今までの投稿でだれもが知っていますからね。
まあいいでしょう。プリティさんはそのウソと屁理屈で多くのものを失いました・・。
僕があなただったら恥ずかしくて、そのハンドルネームでは投稿できません。
ウソを認めず暴れ回る女性ということでゴリラを推させていただきます・・。 >>519
二人の記憶と言うのなら、全文を貼りつけてください。
あなたは、私の主眼に言いがかりをつける立場です。
私は考えがあって書いた立場です。
あなたの
「神の御計画」などはテーマではないし、
話がそれるし、それ以上の事を私は話しているという話の展開を
邪魔しましたよね。
なので、乗り越えの話に焦点をテーマにするなら、
それはそれでできますし、先ほど書いた内容です。
あなたは、自分で考える力はないのですから、
失礼な言いがかりで、話を変えて、何を守っているのですか?
ほらほら、もう頭が狂いだしていますよ。
もちろん外部からの神の御計画なのですが、
そこには、信仰者を抑圧する構造があって、単にそれだけではなく
公文書公開にあって、迷信を打ち破る事の重要性の話です。
いつも思います、ピシャーさんの話は中身がなさすぎなのです。
・・・・・・・・
さあ、老クリさんに、いいがかりでない、まともな内容ある
意見が言えるかどうかの、正念場ですね、ピシャーさん。 >>520
あなたは覚えていませんか?
わけのわからないことを書くから、一行一行僕が添削してあげていたことを。
あなたのなおさん時代ですよw >>521
ああ、的がはずれており、自分の思いたい事の方に書き換える
しつこさには、うんざりしました。
あなたのずれとすり替えの病気以外、なにものでもない単なる症状です。
さて、その症状を抑えて、老クリさんにまともな意見がいえるかどうかですね。 あれが僕です。そして僕は、文体をいろいろ変えます。
「ピシャー」では「です、ます」調で書きますけどね。
内容がない?(苦笑)内容が無いような設定のキャラと思ってください。 多くの人から「わけがわからない」と言われているのはプリティさんですよ?
独りよがりの文章を書くのは?で、あなたの内容のある投稿はどれですか?
正直、あなたから何一つ学んだという記憶はございませんが?(笑) >>524
いいえ、大多数ではありません、知能指数の問題です。
現に分からないと言われれば、書き直しますが、
それでも、チンピラしてくるようなあなた方は、
邪悪な霊性にあって動機が穢れきっているだけです。
あなたの人生の目的はなんですか?
目的よりも、宗教よりも、まず治療に専念しようね。
結局、老クリさんにはまともな意見が言えない、
チンピラしていただけ、という事で。 >>522
いいえ、そしてあなたをこてんぱんに論破しました。あなたが海通路?という
コテハンのときです。めちゃくちゃなことを言っておられました・・。 当時、負けた?もしくは、かなわない?と思って負けた記憶があるはずです。
あれが僕です。 >>527-528
完璧意味不明。
まず、犯罪者でもできるチンピラいいがかりをつける事ではなく、
自分の意見を言えるようになりましょうね。 >>526
知能指数はやぶ蛇ですよ?老クリさんの大学の三倍の偏差値の大学卒と
書いた者がいたでしょう?あれが僕です。
もっともあなたが何年かかっても合格できない大学出だと思います。
ただ、僕は、自分が頭がいいとか高学歴である、という思い上がりは、とうの
昔、数十年前に棄てています。だから、頭が良さそうに見せる
ようなくだらない虚栄心はないのですよ。あしからず。 海通路さんも、僕をチンピラ呼ばわりしていましたが?w チンピラするとか2ちゃん用語?
リアルでは使わないよね >>532
それがどうしたのですか、知りませんよ、あなたの問題ですよね。
夕食を食べたら、どんなメニューであったか教えてね。
では。 \
 ̄ヽ、 _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`'ー '´
○
O
,r"´⌒`゙`ヽ
/ , -‐- !、
/ {,}f -‐- ,,,__、) と思うゴリラであった
/ / .r'~"''‐--、)
,r''"´⌒ヽ{ ヽ (・)ハ(・)}、
/ \ (⊂`-'つ)i-、
`}. (__,,ノヽ_ノ,ノ \
l `-" ,ノ ヽ
} 、、___,j'' l プリティさんは、知識と英知や知恵の区別がついてないのですよ。
未だ、小賢しい知識に振り回されている者です。
イエス様より小難しいことを語る者は詐欺師と思え。聞いたことがありませんか?
僕が作った諺です。 >>505 整合性という角度でお聞きしました。 お時間がある時で、けっこうです。
2chではときどき、すごいジャブの応酬が繰り広げられますが、ほとんど議論が咬み合っているのを見たことがありません。
今日も、その虚しいジャブ応酬が ・ ・ ・ >>508 >>512 >>518 >>531 etc.
現代では牧師にせよ信徒にせよ、ある教派に所属しているからその教派の教義に拘束されるというようなことは、実際にはなくなったと思います。
そうではなくて個人が(信者であるなしに関係なく)、どこかで聞きかじっただけの(消化不良の)教義や聖書解釈に拘ってみたり、大真面目に反論したりしているだけです。
下記の書き込みで、「教会教義学の婢であった聖書神学に独立宣言を促した」 と、“近代聖書神学の由来” を表現したが、そのように2chのいろいろな論者の解釈や主張によっては学問としての聖書神学は縛られないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509622760/29 >>495
イエス蛇説が正しいのなら
「イエスは十字架上で蛇になられた」、という文言が聖書に記述されて
いてもおかしくは無いですけどね。
イエスは十字架上で蛇の頭を踏みつけ、蛇はイエスの踵に噛みついた
という聖書の記述は嘘になります。
まあ、どうでもいいですけど。 プリティさんは、考え方を改めないといけません。
知恵者は、信仰の歪みはあるものの、なんと、よしおさんですよ。
まあ、あなたのことです。私もそう思ってた、と言うでしょうがね。
自分が頭がいいという虚栄心もありませんね。
文章をかくときには、本当に賢い人は、高校生くらいにもわかるように
書くのですよ。覚えておいてください。
そうすると、バカが見えてきますよね。
そして、カトリックの神父様たちの文章を検索して読んでごらんなさい。
上智大学の哲学科卒の神父様が、どのような文章を書いておられるか。
頭も心も優れている者が書く文章というのはわかりやすいのです。
どうして?
相手がどう思うか考えるかをトレースしながら、そして虚栄が入ってないか
二心が入っていないかを高クロック数で検証しながら書くからですよ。 そして、見栄っ張りの老クリさんのコピペの文章とを比べてみてごらんなさいよ。
どれだけ、簡単なことを、もったいぶって、小難しく書いてみせていることか。 プリティさんは、バカを尊び、賢いよしおさんを軽んじたのです。
本当のバカはだれですか?(もうやめてー) >>541
あのね、話をする相手とかが明確な場合と、
現実に会って話す場合と、
また、執筆は推敲もし、時間をかけます。
また、哲学書でも、たとえ文学書でも、誰にでもわかるかどうかではない。
目的も様々ですよ。
なぜ、そんな幼稚な事を思いついて、またいいがかりの一つに
するのですか、ケースバイケースでしょうが、何事も。
老クリさんも誰かを陥れようとかの話ではないのですから、
興味があり、それでもわからなければ、
自分の方が教えてもらう立場になればいいだけで、
わからないからといって、勝手に話を変えて、しかもそういう悪口を言うのは、
人の話に対して反応する時の、自分の目的がおかしいのですよ。
何か書き込むとき、心の点検してみればどうでしょう? >>538
>そうではなくて個人が(信者であるなしに関係なく)、
>どこかで聞きかじっただけの(消化不良の)教義や聖書解釈に拘ってみたり、
>大真面目に反論したりしているだけです。
であるなら、牧師、神父ならまともに意見を返せると言うことになりますよね。
まちこさんは牧師であるからこそ、返答可能であるし、
老クリさんも元牧師ですから、返答できるという事でしょう。
それとも牧師の時、信者の疑問点に質問に関して、
爆笑しながら「それは誰にもわからんのじゃよ」と言われていたのでしょうか。 まあ、十字架蛇説の聖書の根拠はこの辺りにあるのでは
という老クリさんの話ですが、
しかし、贖罪との対立点になってしまうであろうことを、
どのように決着されたかのかまでは、
老クリさんは当事者ではないので、代弁はできないということですね。 >>543
すごい譬えばなしですね(笑)
しかし、あなたは老クリさんに言いがかりをつけたりは
されていないと思います^_^
老クリさんの書き込みが
参考になる人もいるかもしれないので、
良いと思うのです。
老クリさんを賢いだとか擁護とかそういう事でなく。
風穴的コメントとして受けとめました。(^.^) >>550 追記 (ガチンコ畑山で)を忘れましたw ID:z6i1ay7G→ID:hIUyRkw7
にIDを変えたのですか?
名無しさん。 >>501-502 >>504 >>538
/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:|:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.:.:.:.\ |
老クリスチャン 降臨 /:.:.:.:.:.:.:.:.i:.:.:.:.|:.:.:.:.:∧:.:.:.:.:/^^\ |
|:.:.:..::.イ::.:.|:.:.::∧:.::/ |;:.:./ .|\ |
|:.:.:./ |.:.:.:ヽ:.:.ト、;;|ノ .|:::/ \ /:.:.:.>:.、 /
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┃┃ ┃┃ /:.:.:ハ / ノ-く`ー-‐ ''{ ノ \ ┏┓┏┓
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レ V、 ./| r− ノ‐ト、./へ _, , く ヾヘ |
//  ̄ Ti| `ァ‐'´ | |^V/ .ハ 〉 ヾヘ |
V | ヽ /__ / |. ///|^^ヽr‐'´ \ヾト、/ >>501-502 >>504 >>538
老栗 GO GO GO!!
老栗 GO GO GO!! 老栗 GO GO GO!!
┌─┐ ┌─┐ 老栗! . ┌─┐ ┌─┐
│老│ │老│. 老栗! │老│ │老│
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┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡 ヽ(・∀・)ノ ミ⊃┬─┐ ミ⊃┬─┐
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(´・∀・`) (´・∀・`) (´・∀・`) (´・∀・`) >>538
>そうではなくて個人が(信者であるなしに関係なく)、
>どこかで聞きかじっただけの(消化不良の)教義や聖書解釈に拘ってみたり、
>大真面目に反論したりしているだけです。
ほら、この三行でも「独善と傲慢の悪魔憑き」
「平気でウソをつく人」の片鱗(へんりん)が観てとれるぢゃん。
老クリさん自身も、人間として、一生死ぬまで「聞きかじり」の個人にすぎないくせに
自分はちがう、大丈夫、若い頃から、神学生時代から
その集団の中では、いつも「自分だけは」わかっていた、そう傲慢に思い
こんでいるではありませんか。
老クリさんのブログを読むと、そんな自慢だらけ。勘違いだらけ。
事実「レギオン憑きのよそ者」である老クリさんを、
「よそ者」扱いする周りのキリスト者が全員悪いだの。あのブログは
ニガ笑いしながら読めるパロディ小説と言っても過言ではないでしょう。
神や神学を利用した「マムシの書」。
副題はーーマムシはこうして戦うーー。如何でしょうか。
味わってくださーい。ほぅ。(この一行はレイザーラモンHGで) >>548
>老クリさんの書き込みが
>参考になる人もいるかもしれないので、
>良いと思うのです。
「参考」になれば、つねにそれは有用である、良い、善い。ではないからね。
(あっ。。。)「参考という言葉に、ひとえに良い意味があるぢゃん、だから
いいぢゃん」という思考をしていますよ。バカぢゃん、という思考。
こういう哲学以前の基礎的思考の浅はかさ・・。筋トレが足りないというか。
畑山が走り込みたりないってば、おまえら。と言ってたぢゃん。
老クリさんも、プリティさんも、どちらもたったの三行で、
これだけ「変なもの」を発散しているのですよ。どんだけっていう・・。 「マムシの書」ーーこうして僕は飼い葉桶に横たわったーー
こっちの方がいいでしょうかね。 >十字架蛇説
/' ! ━━┓┃┃
-‐'―ニ二二二二ニ>ヽ、 ┃ ━━━━━━━━
ァ /,,ィ=-;;,,, , ,,_ ト-、 ) ┃ ┃┃┃
' Y ー==j 〈,,二,゙ ! ) 。 ┛
ゝ. {、 - ,. ヾ "^ } } ゚ 。
) ,. ‘-,,' ≦ 三
ゞ, ∧ヾ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚
'=-/ ヽ゚ 。≧ 三 ==-
/ |ヽ \-ァ, ≧=- 。
! \ イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
| >≦`Vヾ ヾ ≧
〉 ,く 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・ 女と老人がしきりに「十字架蛇説」について熱く語り合っていると
そこにイエスが通りかった。
「何を話しているのか」とイエスは尋ねられた。
「十字架蛇についてでございます」女が答えた。
これ以上は、飴玉をゆっくり舐めるように考えてみてください。 ボクダン神父のウェブサイト
http://www.nowaksvd.net/
>そして、カトリックの神父様たちの文章を検索して読んでごらんなさい。
>上智大学の哲学科卒の神父様が、どのような文章を書いておられるか。
>頭も心も優れている者が書く文章というのはわかりやすいのです。
> どうして?
>相手がどう思うか考えるかをトレースしながら、そして虚栄が入ってないか
>二心が入っていないかを高クロック数で検証しながら書くからですよ。 神の子は(中略)神から離れた陰府(よみ)に降りました。
カトリック中央協議会、2013年3月教皇のメッセージより
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0013.htm
地獄とは、場所と言うよりも神から引き離された状態を指す言葉です。
ふくいんのなみ
『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問43−問44
https://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_043-044.htm 【ウエストミンスター小教理問答第27答】
キリストのへり下りは、(中略)この世の悲惨と神の怒りと十字架ののろいの死を忍ばれたこと、葬られたこと、
しばらく死の力のもとに留まられたことです。
★ふくいんのなみ(改革派教会放送局)による解説
キリストは、罪人の代表として、神の刑罰を受けるべき方として生涯を過ごされました。(中略)
十字架でキリストは、私たち罪人の代表として神の怒りとのろいを受けて苦しんで下さいました。
https://www.jesus-web.org/westminster/west_027.htm 神戸改革派神学校 市川康則校長
「キリストは罪人の「代表」として神に裁かれた、だから、もう他の人が裁かれなくてもいいということです。」
http://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=172
「神は(中略)キリストを罪人の代表として、また身代わりに十字架に罰せられました。」
http://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=147
伊丹教会 城下忠司長老
「ここ(十字架)ではイエスさまが御自分を罪人の側に置き、罪人の代表として受けた苦しみの叫びでありました」
http://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=400 浦和聖書バプテスト教会
人としてのキリストは、「罪人の代表」として神の義なるさばきを受けたのです。
http://urawabbc.org/2013/02/
聖書の福音
神の御子であるお方が、「罪人の代表」として十字架にかかって死んでくださったのです。
http://www.ne.jp/asahi/bible/gospel/list1034.html
仙台福音自由教会 吉田耕三牧師
イエス・キリストは「今は私は"罪人の代表"、罪人の一人とされた」という事です。
http://sendaiefc.com/mission/messages/2000/2000709.html
立川福音自由教会
罪や苦しみと無縁と思われる方が、敢えて、罪深い肉と同じ姿となり、「罪人の代表」者としての死を体験されたのです。
http://efctachi1.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/115-29-ed6e.html
堺福音教会 我喜屋光雄牧師
キリストは天から下り、人となり、私たちの代わりに「罪人の代表」として十字架におつきになったのです。
http://jec-net.org/gakiya_mes1.html 超教派伝道協議会 三浦真信牧師
「罪人の代表」として十字架で死なれました。
http://www.kuon.or.jp/Bible/Samuel/sam2_161.htm
クロスウェイ教会サンファナンドバレー
みなが見ている中で「罪人の代表」として身代わりの死を遂げて下さったのです。
http://sfjp.weebly.com/uploads/1/0/5/0/10504261/12_29.pdf
福音交友会HP
信仰告白解説書「私たちの信仰」より
主は私たち「罪人の代表」者として神のさばきを受け私たち罪人の身代わりとなることを神のみこころとして受けとめておられました。
http://heartland.geocities.jp/kyoto1952/kaisetu.html
日本キリスト改革派伊丹教会 西谷伝道所 金田幸男牧師
罪なきナザレのイエスが「罪人の代表」として十字架で裁かれ
http://www.nishitani-church.jp/blog/cat30/
日本キリスト改革派銚子栄光教会
キリストは、私達の「罪人の代表者」として十字架に至るまで、従順に神に従いました。
http://cec.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=24275821
日本キリスト改革派名古屋岩の上教会
私どものために、罪人の一人、「罪人の代表」となって、十字架で神の刑罰をお受けくださったのです。
http://blog.livedoor.jp/iwanoue/archives/51304103.html 日本キリスト教会豊中中央教会
御子イエスを、「人間の罪を負った代表者」として裁くことで、人間の罪を贖わせるということでした。
http://toyonakacc.o.oo7.jp/2015.09.06.html
日本キリスト改革派板宿教会
十字架の主イエスの叫びは、私たち「罪人の代表」として、キリストがその魂に神の怒りとのろいを受けられた苦痛を表しています。
http://www.itayadochurch.com/site0002_2_2_3/_src/sc3646/WSCitayado27.pdf
日本同盟基督教団 廣瀬薫牧師 (東京キリスト教学園理事長/東京基督教大学総長)
イエス・キリストは、罪人とされました。形だけ、罪人になったのではありません。実際に、罪人となったのです。
・・・という意味は、私達の罪を全て、ご自分の罪として引き受け、その処罰を受けたのです。
その処罰とは、見える所では十字架という事でしたが、見えない霊的な世界では、それは、父なる神様から捨てられ、断絶された、ということでした。
子なる神様イエス・キリストが、父なる神様から捨てられ、断絶した。その永遠の愛の交わりが切れた、ということは、実は私達人間には想像も出来ない巨大な霊的苦痛がそこで味わわれたということです。
http://www.imcj.org/bible/intro/l6.html あれ?入ってなかったかな?
ボクダン神父のウェブサイト
http://www.nowaksvd.net/
>そして、カトリックの神父様たちの文章を検索して読んでごらんなさい。
>上智大学の哲学科卒の神父様が、どのような文章を書いておられるか。
>頭も心も優れている者が書く文章というのはわかりやすいのです。
> どうして?
>相手がどう思うか考えるかをトレースしながら、そして虚栄が入ってないか
>二心が入っていないかを高クロック数で検証しながら書くからですよ。 それにしても、なんでまたこのクソ問題を、ループしてんの?
スピリチュアル植松のせいだろうけど >>563-568
よほど今回の議論に腹立たしい気持ちを抱かれての書き込みであろうと推測します。
相手をやっつけるため、議論に勝つためではなくて、ただキリストの福音の証しとして用いられますように。
「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと」(エゼ 3:11)、福音を証しすることは続けられねばならないのです。 【福音の学び F】
福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。
事件の当事者たち個人個人の罪がどうであろうとも、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことは出来ません。
ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ 27:25)と全群衆が叫んだからといって、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことは出来ません。
「教会は神の新しい民であるとはいえ、あたかも聖書から結論づけられるかのように、ユダヤ人は神から見捨てられた者としても呪われた者としても紹介されることがあってはならない。」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)
(カトリック教会のカテキズム 597 参照) 【福音の学び F への解説】
新約聖書を文字通りに解釈するということに起因する近代の最大の悲劇に、反ユダヤ主義があります。
歴史の教会は、聖書に保存されている1世紀末あるいは2世紀初め頃の教会の反ユダヤ主義的偏見に、気づかずに汚染されてきたのです。
当時、既存のユダヤ教徒に抵抗するには未だ少数者であったキリスト者側は、彼らの初期の伝承を反ユダヤ主義的な色合いで語ることによって、結束しようとしました。
そして遂にヨハネ福音書で、それが頂点に達したのでした(ヨハ 8:44)。
現代の進歩した歴史的批評的研究を無視しては、今日の聖書解釈は最早成り立たないということを、教会の指導者や説教者、また教養ある信徒たちの多くは学ぶ必要があります。 >>571-573
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>571-573
老クリスチャン 降臨 , -―- 、 -― - 、
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) >進歩した歴史的批評的研究
>教会の指導者や説教者、また教養ある信徒たち
この文言だけでもだめだろ 常識的に マムシ毒をインクに混ぜて綴って(つづって)ますからね。
有害文書です。 レギオンに憑かれた女性が、あなたも「内容について」
レスすればどうですか?と高笑いします・・。僕はマムシワールドに
立ち入るのはいやだな。 >>579
おはようございます
あなたがぴしゃーさんですか マムシと言えば、無防備な人間の虚を突いて飛び掛かってくる。
絶対に目を合わせてはいけないそうです。
他の蛇は人の気配だけで逃げるのです。 【福音の学び G】
洗礼は、罪の赦しの第一の主要な秘跡です。
洗礼は私たちを、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)に結合させ、「わたしたちも新しい命に生きる」(ロマ 6:4)ようにするからです。
洗礼は、信仰の秘跡です。
しかし信仰は、信者共同体を必要とします。
一人ひとりの信者が信仰を持つことが出来るのは、教会の信仰があってのことです。
「カトリック儀式書/成人のキリスト教入信式」 では、その第一段階の入門式で、司式者は 「あなたは教会に何を求めますか」 と尋ね、求道者は 「信仰を求めます」 と答えることになっています。
そしてさらに、「信仰によって何が与えられますか」 「永遠のいのちが与えられます」 という問答が続きます。
(カトリック教会のカテキズム 977,1253,168 参照) 【福音の学び G への解説】
一部のプロテスタントの教派の中に、人は信仰によって救われるのであって、洗礼は救いの前提ではないという主張をする人々がいます。
その根拠は、彼らの(いわば自己流の)聖書解釈にあります。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるためであり ・ ・ 」(Iコリ 1:17)
はっきり言って、これは屁理屈に過ぎませんが、専門的な知識のない信者が議論しても迷路に迷い込むだけですから、避けたほうがよいでしょう。
「キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。」(カテキズム 1212)
カトリック(あるいは正統的な)教会は、一貫してそのように教えてきました。
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は(歴史の)教会にはありません。(Iコリ 11:16 参照) >>582-583 >>571-573 >>501-502 >>504 >>538 >>494-495 >>486-487
老クリスチャン __V:/イ.::/:.:.:./:.:.///:/ |ハ:.:.:.:|∨|∨ヾ二>
く/rイ/:/.:.斗ヤ¨丁`|'  ̄ ><|:.:.:.:|:.| | .ハ /r‐ミ/|
降臨 く/.://:./:.:./.レrテトミ | テfトミ |ヽ:.:.|:.Lレレ'}/ヽTく〉
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>>580
はいそうです。いつの間にかそう言われるようになりました。
茶髪でロン毛ピアスというイメージのよしおさんにぴしゃーっと
クルーカットにしませんかと提案したことがあったのです・・。
僕はミルナさんシャロンさんピッピさんの後援会の一員だと
思われてください。プリティさんや美魔女さんにも期待しています。 >>586
矢張りぴしゃーさんでしたね、
あなたの文章はとても解り易いのですぐに分かります。
コテをお付けになれば素敵です^^ 【福音の学び H】
「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マコ 16:19)
キリストは今はそこから、「天と地の一切の権能を授かった者」(マタ 28:18)として、教会と共に働き、支配しておられます。
人間は自然の力で 「父の家」(ヨハ 14:2-3) すなわち神のいのちと至福とに入ることは出来ません。
ただキリストだけが人間にこの道を開くことがお出来になりました。
「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。 キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」(主の昇天の祭日/集会祈願)
(カトリック教会のカテキズム 659,661 参照) 【福音の学び I】
すべての人が、神の民の普遍的一致に招かれています。
カトリック信者も、キリストを信じる他の人々も、さらには、神の恵みによって救いに招かれているすべての人々も、種々の仕方でこの一致に属し、あるいは秩序づけられているのです。
信徒使徒職は、信徒のキリスト信者としての召命そのものに由来するがゆえに、教会には決して欠くことが出来ないものです。
信徒は使徒職を行う義務と権利を、頭であるキリストとの一致そのものから保持しているのです。
というのは、信徒は洗礼によってキリストの神秘体に組み込まれ、堅信によって聖霊の力に強められ、主ご自身によって使徒職に任じられるからです。
使徒職は、聖霊が教会の全成員の心に注ぐ信仰と希望と愛のうちに遂行されるのです。
(カトリック教会のカテキズム 836(教会憲章 13), 863(信徒使徒職に関する教令 1,2,3) 参照) >>588-589 >>582-583 >>571-573 >>501-502 >>504 >>538 >>494-495
老クリスチャン 降臨 : : : : :/: \:./: : : /:/\: : : ヽ:\: : \:.└--ァ
: : : : /: : /:. ,:イ:、:// / \: : :ト、: X: ヽ\: : /
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│ ニミ, ∠ニ │ <わしのサイトのほうが面白いんじゃ
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' ー── ' 2005年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに、自宅の門前で待っている知恵に出会う。」(知 v.14)
復活して父の右の座に着かれたキリストは生きておられます。
それは 「やがて来られる方」(黙 1:4)でありますから、その方が教会におけるその伝承を見守っておられる福音も生きています。
早起きして熱心に聖伝と聖書を学ぶ人に、福音は自ら出会ってくださいます。
使徒たちから伝えられた福音は、古い過去の遺物となってしまったと考えてはなりません。
現代には現代にふさわしい別の福音(ガラ 1:7)が必要なのではありません。
そうではなくて、初代教会の信徒たちが受けたのと同じ救いを、同じ福音を、そして同じ復活の約束を私たちは受けたのです。
彼らのキリストと私たちのキリストは同じ方です。
私たちは同じ希望によって救われているのです(ロマ 8:24)。
「アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙 22:20) ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>592 >>588-589 >>582-583 >>571-573 >>501-502 >>504 >>538
{ xァァ7/く⌒し'x≠=ミく⌒ヽ
老クリスチャン 降臨 __ 厂////く⌒.:::::::::::::::::::::::::::ハ`:く⌒)
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2002年(主日A年) 11月17日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」(マタ v.19)
私たちは毎年典礼暦の終わりのこの時期になると、私たちの歴史はやがていつか終末の裁きの日を迎えるのだということを、主日のミサの日課から聞かされます。
キリスト者であるとは、この日に向かってその人生を生きることであります。
神から一人一人に預けられた時間や能力を、再臨の主の期待に応えるように活用して歩む 「かなり日がたってから」、私たちは終末の日を迎えることになるでしょう。
ですからキリスト者にとっては、その人生の歩みは神の前での課題であり、必ずその 「清算を始める」 終末の裁きに至るのです。
この譬え話では、主人は僕たちに 「それぞれの力に応じて」(マタ v.15)タラントンを預けました。
5タラントンと2タラントンを預けられた二人は、それが各自の力に応じた配分であると感謝したに違いありません。
彼らは喜んでそれで商売をしました。 (つづき)
いつの時代でも商売にリスクはつきものですから、必ず成功して利益を得るとは限りません。
私たち一人一人の人生も同様であって、成功と失敗、豊さと貧しさ、順境と逆境が複雑に入り交じっているものです。
ですから二人が5タラントンと2タラントンを儲けたのは、よほど運が良かったのでしょう。
しかしこの譬え話が本当に褒めているのは、この二人が喜んで商売をしたということ、言いかえれば各自が主から委ねられた人生に 「忠実であった」(マタ v.21) ということでありました。
(無事に儲けたということが褒められているのではないことに注意 ! )
それにひきかえ、1タラントンを預けられた人は、それが自分の力に応じた課題だとは思いませんでした。
彼は自分に委ねられた人生に喜んで取り組もうとはしませんでした。
彼は自分の人生を、再臨の主の期待に応えるために活用するものだとは考えませんでした。
「主を畏れる女こそ、たたえられる。」(箴 v.30)
主から預けられたタラントン、主から委ねられた人生を、「地の中に隠しておく」 のではなくて、再臨の主の期待に応えるように活用して歩むという課題が、私たち一同に与えられていることを知りましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 これを信じることが条件です。
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
信じられなければキリスト教には入れません。 2011年(主日A年) 11月13日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
旧約聖書の中で便宜上知恵文学と呼ばれている諸書には、必ずしも信仰とか倫理などと直接関係を持たない多くの教え、教訓、広い範囲の知識や技術などが雑多に含まれています。
これらはある意味で私たちの信仰の世界を広げてくれるもので、過激で律法的な禁欲主義や原理主義的セクトからの回避を助けてくれます。
ですから私たちは、今朝のこの朗読配分からもかなり自由に、人生の願望や賢い生き方へのあこがれを読み取ることが出来ます。
実生活に関わりがあるだけに分かり易く、示唆にも富んでいます。
そのような雑多な知恵の世界の中で、私たちキリスト者は信仰の旅路を歩んでいるのです。
確かに私たち教会は、“生きている者と死んだ者を裁く方であるキリスト・イエス” が “大いなる力と栄光を帯びて天から来られるのを” 待ち望んでいる民なのだということを、感謝の中に再確認しましょう。
「主を畏れる女こそ、たたえられる。」(箴 v.30)
私たちは信仰によって義とされ(ロマ 5:1)、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかれるようにしていただいたのですから(コロ 1:12)。
私たちを突然破滅が襲うことはないと知っているのですから(Iテサ 5:3)。
そうです。 “主を畏れることは知恵の初め” なのです(箴 1:7)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>601
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2014年(主日A年) 11月16日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(Iテサ v.6)
典礼暦のA年の主日が、今日と来週の二回で終わります。 私たちは毎年この期節に “終わりの時” に心を向けます。
日本語の感覚では “身を慎む” とは “慎み深い” などという用語法を連想させるので、何もしないで温和しくしていることのように受け取られますが、
実はこの言葉νήφωはむしろ “常に用意が出来ている” という意味であって、ルカ 12:35-36 のような内容で理解しなければなりません。
近年は就活をもじった終活という言葉が流行っていて、すでに “人生のエンディングプラン作成を援助する商売” さえもが目につくようになりました。
その内容は身辺整理、成年後見制度や見守りサポートなど、おひとりさま向け事前準備あれこれ、介護、葬儀供養など、要するに “無事に終わるための準備” という訳です。
しかし、聖書はそれとは全く反対のことを主張しているのです。
人の人生は死で終わるのではなくて、 ・・・・・ 恐らく “眠りについた” (使 7:60)が、最も適切な聖書的表現であります ・・・・・ 、
その次に “眠りから覚める”(ロマ 13:11)とき、 “わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つ”(ロマ 14:10)ときが続くことを、使徒たちは一貫して強調したのです。
“光の子、昼の子”(Iテサ v.5)とは、温和しくて行儀の良い人生を送りながら終わりを待っている人のことではなくて、“常に用意が出来ている信仰者” という意味なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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l ニ 、. ニ二 _ノ \ ヽ
(6゚ヽ‐l (__人__ノ _∠二二ニ ── __ ヽ >>597-598 >>601 >>606
∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
. /\. (`・ω・´) /ヽ
| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
ヽ/ / く \ /
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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/____,./ /__/ /__,/ ゝ、__| キリスト教やヤーウェ(ユダヤ教)は不動明王に非常にだまされやすい。
西洋の分析では見抜けない所から、嘘おおげさ紛らわしい術他を不動は仕掛けてくる。
だから西洋が東洋の術を見破るにはKSAから東洋のよくよく仏陀になったものを何体もつれてこなくてはならない。
東洋でもアマテラスみたいに浅知恵だとだまされている。(例えば今まであたった霊媒師達が私のことを
こぞってわるくいってるのにひっかかていたが、それらは全員不動の術中にはめられてる者たちだった。
釈迦でもだまされていた?こともある。
過去にキリストはだまされて神戸の地震をおこしてると霊媒師に何件も聞いたし、
ヤーウェは不動にだまされたまんま豊田にいやがらせをした。そしてだまされたまんま
どちらもこっちの邪魔をしてくる。だから不動はみんなおがんじゃいけないし
不動はもはや悪い方へ行ってしまったのではやく上の神仏が弁償大きくとって抹消しきらなきゃいけない。
イルミナティも不動のわけ御霊だといっていた霊媒師がいたので同じ。
今後もこんなことが続くようならクリスマスも祝って栄えるに値しないし、
もちろん初詣も不動関係の神社には絶対いってはいけない。みんなつぶしあいになって
ダメにされてしまう。 >>600
> これを信じることが条件です。
>
> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教には入れません。
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書き込まなくていいぞ
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(_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 2002年(主日A年) 11月24日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
典礼暦の最後の主日に、私たちは主イエスの語られた終わりの日の裁きについてのこの説教を聞いています。
これは受難に向かわれる主が弟子たちとの別れに際して残された言葉で、いわば主の昇天後の初代教会へのメッセージであったと理解することが出来ます。
初代教会は使徒たちの宣教によって誕生しました。
この使徒たちは、主の再臨を教会と共に待望したのでした。
キリストの言葉は使徒たちを通して教会に伝えられ、信徒たちは使徒たちと共にキリストの福音を分かち合っていました。
「はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ v.40)
最初使徒たちに語られたこの主の言葉を、初代教会の信徒たちは自分たち一人一人にも語られたものとして共に聞くことによって、教会を造り上げて行ったのでした。 (つづき)
新約聖書が、使徒たちが伝えたキリストの福音の伝承を可能なかぎり忠実に保存し、後の時代の人間の無能による福音の歪曲を最小限に食い止める意図をもって、編集され成立したという過去の歴史を、現代のキリスト者は重く受け止めなければなりません。
ですから現代のいわゆるリベラルと称する人々のように、この福音書のテキストを単なる人道的で普遍的な教えとして解釈することによって、その伝承の起源を無視してはならないのです。
終わりの日にこの世を裁く方は復活のキリストであり(使 17:31)、この主の言葉は初代教会を育て導く使徒たちによって伝えられたのだという事実が、私たちを正しいテキスト理解へ導きます。
今朝の福音書の日課を私たちに語っておられる方は、 “王であるキリスト” であります。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(エゼ v.11)
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。」(エゼ v.15)
教会を造り上げて行き、これに神の国を相続させてくださるのは “王であるキリスト” であって、教会の司牧者と私たち信徒とは、共にこのキリストの御業に参加させていただいていることを感謝しましょう。
私たち一人一人の奉仕と献身が、神の国を受け継ぐ人々の群れである教会を共に造り上げて行くものとなりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
キリストの救いを信じていなくても、人には善意があれば “飢えている小さな者の一人に食べさせ、飲ませ、援助の手を差し伸べる” ことは出来るのです。
問題は、それが 「わたしが ・・・・・」(マタ vv.35,42) 「わたしに ・・・・・」(マタ vv.40,45)という決定的な点で、キリストへの奉献になっていたかどうかが問われるのです。
この世の霊ではなくて、聖霊に導かれて行ったことだけが、裁きの日には受け入れられるのです。
人本主義的な善意や人類愛が、自動的にキリストへの奉献として “換算される” などというのは、サタンの甘言にしか過ぎません。
私たちは今朝のミサで、王であるキリストの御前に共に立っていることを覚えましょう。
主なる神は、「自分の群れ」 「自分の羊」(エゼ v.11)を自ら探し出し、必ず救い出されます。
神の救済史は終わりの日に向かって進み、その日は必ず来るのです(ハバ 2:3)。
その日に 「私の群れよ」(エゼ v.17)と呼んでいただける人たちは幸いです。
復活の日には、その人たちだけが王であるキリストから、“用意されている国を受け継ぎなさい”(マタ 25:34)と言っていただけるのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨
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(/  ̄ ̄|_ノ 2014年(主日A年) 11月23日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Iコリ v.22)
キリストが教会の王であるばかりではなく、また全世界の王であるという神学的認識は、20世紀の教会が獲得した大いなる遺産でありました。
カトリック教会が典礼暦最後の主日を “王であるキリストの祭日” に定めて、すでに90年近くになります。
しかし、それが “使徒たちから伝えられたキリストの福音” の一部として、真に説教の主題として主日のミサで語られて来たかと言うと、これは甚だ心もとないのです。
この主題が、“しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました”(Iコリ v.20)という福音から切り離されて、
教会の一部の人々によって政治活動や社会活動のために利用される以外には、普通の信者はほとんど何も聞かされて来なかったからです。
“すべての敵をその足の下に服従させた”(Iコリ vv.25-27)王であるキリストが、“最後の敵として、死を滅ぼしてくださる”(Iコリ v.26)ことに教会が信頼し、すでに勝ち得られた勝利を信じる信仰に固く立つことによってだけ、
その信仰の実践としての “全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい” (マコ 16:15)という主の命令を、具体化することが私たちに出来るようにになるのです。
神の国を実現されるのは神です。
それは教会に与えられた終末的な約束であり希望であって、決して人間が自らの善意と努力によって実現する地上の目標ではありません。
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人 2002年(主日B年) 12月1日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
待降節第1主日に、全世界の教会は今年も、「目を覚ましていなさい」 という聖書の呼びかけを聞かされています。
古くから教会はあらゆる時代を通じて、典礼暦の新しい一年を、主日の聖書の朗読配分によって一貫して “福音の終末的使信” を聞くことにより開始して来ました。
教会の中の多くの人々が福音の終末的意義を忘れてしまった時代にも、この待降節第1主日には福音の終末的使信を語る聖書日課が、必ず朗読台から会衆に読み聞かされて来たという事実に、私たちは驚嘆するのです。
キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげている教会は、実に来たり給うキリストを迎える民であって、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」(マコ v.35)という緊張をもって目を覚ましていることを呼びかけられているのです。
この待降節第1主日の使信によって方向付けられて、私たちは今年もキリスト者としての一年の生活を歩んで行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(Iコリ v.7)
神は、かつて罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいまた(エフェ 2:4-6)。
キリストの復活を信じる信仰が先ず出発点にあって、終わりの日の約束としてキリストと共に私たちの “からだの復活” が、“御国を受け継ぐ” 救済史の完成があるのです。
ですから、このように福音を理解している人は、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んで」、今年も典礼暦の新しい一年を歩み始めます。
今年は “フランシスコ会訳の聖書(合本)” が出版されて、多くのカトリックの子らがこれを購入して読み始めていることは喜ばしいことです。
新しい年が、聖書を自ら読むことによって、カトリックの子らが 「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされ」(Iコリ v.5)る、大いなる恵みの年となりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2014年(主日B年) 11月30日 待降節第1主日
イザ 63:16b〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。 あなたはわたしたちから御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ vv.6-7)
私は元プロテスタントの牧師でありましたので、プロテスタント各派の牧師たちの説教には現在もかなり関心を持って注目しています。
プロテスタントの教会の実態はほとんど個々の牧師の説教に依存していて、まるで事実上別々の宗教のような有様です。
それではカトリック教会の場合はどうでしょうか。
私自身はそこには神学的な意味での “教会の信仰” というものが、使徒継承によって豊かに保たれているということを認識しています。
しかし残念なことに、実際の個々の小教区における司祭の説教は、“教会に委ねられた信仰の遺産” からはほど遠いお粗末な無駄話に過ぎず、まさに “わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた” 姿は、プロテスタントの場合と同じなのです。 (つづき)
第三イザヤは、当時そのような現状を認めた上で、なお嘆きの中から主に訴えました。
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」
教会が典礼暦の新しい一年を歩み始めるとは、このようにただ主に信頼して今年も進み行くということなのです。
私たちのミサの開祭の部にある “回心の祈り” は、決して私たちが罪のない人間になることではありません。
それは “自分は罪人だが、さらに神の恵みのうちにありたいと望むなら、そのことをわたしたちが 『告白する』 ことなのである。”(ユンクマン/ミサ p.202)
「わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 アーメン、 ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ____
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((⌒-丶(;;;(⌒ゝ;;⊂二( ^ω^ )二⊃ ,⌒⌒);;;;;)))⌒)
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ゞ (⌒⌒=─ (⌒) | ─=⌒⌒)ノ;;ノ;;;::)
((⌒≡=─. ⌒∨ ─=≡⌒)丿;;丿ノ 信者たちからお金を集めたり、信者たちを集金要員にしたり、
集めたお金で組織を拡大したりします。
連中にとっては、神は「飾り物」「お神輿」です。
飾り物になれる、ふさわしい人物を、適当に神にして
真の目的は、組織を形成させて拡大させる事なんです。
神やメシアや救世主なんてものは「客寄せパンダ」であって
「客を集めるためのお神輿」であり、実際は、連中の創作です。
宗教も、需要と供給が成り立ってます。
信者たちも組織に入ると色々と出会いもあるし
組織内で出世することも可能です。
真の目的は「組織の形成」であり、神などは
客を集めてくれるものであり、それでいいのです。
客を集める為に、ウソを付いて、神格化させます。
イエスも、弟子や教徒や後世の人たちの作り話によって
神格化されてるだけで、実際は、普通の人間なのです。
このままでは地獄に落ちて消滅すると脅し、
ここに入って定期的に会費を払って
このように信じてこのように行動すれば
天国で永遠の命だから、と教え、服従させます。 2002年(主日B年) 12月8日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
待降節第2主日の主題は、福音の終末的使信の将来的な展望であります。
神の子イエス・キリストの公生涯に先立って道を準備した洗礼者ヨハネの物語りは、決して単なる過去の思い出としてではなく、正に私たち教会がよりどころとしている(Iコリ 15:1-2)福音の終末的使信を伝えるために、マルコ福音書の冒頭に置かれました。
ヨハネがかつて 「わたしよりも優れた方が、後から来られる」 と語った方は、“かつて来られた方(受肉のキリスト)” であり、“やがて来られる方(再臨のキリスト)” と同一の方であります。
使徒たちが伝え、教会が代々にわたって受け継いで来た福音はただ一つであって、時代が変わっても世の中が変わっても決して変化することのない 「神の子イエス・キリストの福音」 であって、
教会は私たちがこの方の終末の再臨に備えて待つことを教えて来ました。
私たちがそこで生まれ育って来た20世紀のキリスト教では、“使徒たちから伝えられたこと”(神の啓示に関する教義憲章 8)と並んで、それとは別な “様々なほかの福音” “様々なキリスト観” “様々な種類の信仰” が大いに語られて来たと言うことが出来ます。
大多数の信者たちが自分の福音理解や自分の信仰に確信が持てないでいるそんな状況の中で、
それでも聖霊は、教会があえてこの待降節の主日の聖書朗読配分に固執し、神の子イエス・キリストの福音の “終末的使信” に会衆が耳を傾けることを求め続けるようにと、導いて来られました。
マラキ書3:1(マコ v.2)と、イザヤ書40:3(マコ v.3)と、洗礼者ヨハネの言葉(マコ v.7)を神は用いて、私たち現代のキリスト者に向かって “やがて来られる方(再臨のキリスト)” を迎える準備を呼びかけてくださっている
・・・・ 、それが今朝私たちが聞いている福音の使信です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より パウロ
イエスの再臨は自分たちが生きている間にあると言った(Iテサ4:15)
その後、その勢いは無くなって、
ただ待ち望んでいる(ピリピ3:20)に変わっていった。 ____
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人 モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、
かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちが
バラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、
そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、
男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、
男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節) 神は怒り、モーセに対して、「イスラエルの民の長たちをことごとく捕らえ、
主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、
モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」
という厳しい粛正を命じた。2万4千人のイスラエル人が処刑された。(民数記25章)
神はモーセに「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、
ペオルの事件を引き起こしたからだ。」この神の命令に従って、モーセが、
「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、
ミディアン人に対して神のために報復するのだ」(民数記31:1〜3) モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、
すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、
人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、
その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は
六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。
・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。
「・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど
金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式を
したいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。
それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から
金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。
(民数記31章31〜54節) >>666-668
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人 2011年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マコ v.1)
私たちがキリストの福音を理解するのに、洗礼者ヨハネから始めることの大切さを、マルコ福音書の冒頭の句は示しています。
なぜならそれは、使徒たちと原始教会が採用した福音の説明の仕方であったからです。
ですから四つの福音書はすべて、イエスの宣教に先立って洗礼者ヨハネの活動を取り上げています。
それはただの舞台装置や背景説明のようなものではなくて、すでにイエス・キリストの福音の不可欠な構成部分であり、私たちは “福音の学び” の第一歩をここから開始しなければならないのです(使 1:21-22,10:36以下 参照)。
「彼はこう宣べ伝えた。 “わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。”」(マコ vv.7-8)
この “来るべき方”(マタ 11:3)を指し示すことが、洗礼者ヨハネの役割でありました。
ですから、もし私たちの関心がこの “来るべき方” に向けられない場合には、洗礼者ヨハネの活動の話からいささかの益を得ることも出来ないでしょう。
それは現代の教会の、“来るべき方” を知らない諸活動、宗教活動と同じです。
教会が何か有益な活動をしたいと願うなら、それは “来るべき方” を証しすること以外にはあり得ないからです。 (つづき)
私たちが “俗悪な無駄話”(Iテモ 6:20)ではなくて福音を、“永遠の命の言葉”(ヨハ 6:68)を聞く ・・・・・ とは、
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」(IIテモ 4:1)、
私たちの罪の贖いのために死んで復活し、「万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリ 3:21)キリストを信じる ・・・・・ こと以外ではあり得ません。
「皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、 ・・・・・ 」(マコ v.5)
この 「罪」 とは、私たちが “本気で” “真面目に” 「イエスキリストは主である」(フィリ 2:11)とこれまで信じることをしなかった、という一点に結びつく罪のことです。
ユダヤ地方とエルサレムの住民は皆、十戒の第一戒(「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」)への不信仰、不誠実の罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けたに違いなかったからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より キリスト教のおこなってきた異端狩りや宗教戦争や新大陸侵略にくられべれば、
オウムの破壊活動など、ほとんど取るに足らないものです。
聖書における神の殺人命令を否定することのできないクリスチャン、もっと一般的にいえば
人間的判断より神の意思を先行させる信仰原理を信奉する者には、麻原の命令にしたがって
殺人を犯したオウム信者を根本的に批判することはできません。こうして、
神が命令するとき殺人が正義となることは、昔も今も、キリスト教のような
伝統的宗教においても、疑う余地のない明白な事実といわねばなりません。
オウム殺人事件は、オウム真理教が偽宗教であることを決定する判断基準にはならないのです。
逆に言えば、もし殺人の教えが偽宗教であることの判断基準の一つであると信じるならば
ユダヤ教もキリスト教も、またその聖典である聖書も偽宗教であると判断する
一貫性を持たなければならないでしょう。 神や死後の世界が存在しても、殺人さえも、ゆるされるなら、「道徳は宗教を必要とする」
とか「宗教は道徳の根本である」というポピュラーな宗教思想の説得力は喪失します。
宗教における善とは、「人間の浅はかな判断」や「人間の小賢しい知恵」によるのではなく、
超越的権威である「神の意思」や「神の言葉」によるものとされており、しかも、その神が
殺人や略奪を命令するからです。神や死後の世界を信じる世界観の中でも、
やはりすべてが、殺人さえも、ゆるされるのです。 「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における
神の殺人命令を否定できないのか。その答えは、これまで見てきたように、信仰の
原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている、神の意思を
先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や
「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威
(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、
信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると
言えます。もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないと
したら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を
信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助ける
ボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じて
なされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないかもしれません。
それゆえ、不幸中の幸いというべきか、オウム殺人事件は、はたして、わたしたちが
「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての
超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを「正しい」とする判断が、本当に
賢哲な判断かどうか、それを考えさせる機会を与えてくれたことにおいて、
大きな意義があると思われます。 このキリスト教徒による暴挙は過去形ではありません。現在進行形です。
世界の悪は、 我々が、それに全力で反対するよう、
聖書と主イエスに命じられている。(ロナルド・レーガン、大統領)
第十次十字軍は、米国のジョージ・W・ブッシュを大統領とする
ブッシュ政権の行った、アフガニスタン紛争 (2001年-)や
イラク戦争などの軍事行動をいう。
現在はトランプです。
ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略にしても、ブッシュのイラク侵略にしても、
聖書にあるモーセとヨシュアのことが大きく影響しているのです 。
ヨシュアが、神の命令で、「侵略」「虐殺」「略奪」を働いたことが、後のキリスト教徒にとって、
大きな手本・見本になっているのです。
「モーセやヨシュアがやったことは『聖絶』として正しいことになってるんだから、
我々キリスト教徒も同じことをやってもいいんだ。」と、とらえるのです。
キリスト教徒による侵略戦争がなくならない理由は、ここにあるのです。
異端狩り 異教徒狩り 魔女狩り 布教という名の他国への侵略行為 黒人奴隷貿易
キリスト教は惨憺たる惨劇をもたらしてきました。
約1600年間、ヨーロッパ文明の宗教として、宗教界のKINGとして君臨し続けてきた
キリスト教は、まぎれもなく「帝国の宗教」です。
この「帝国の宗教キリスト教」を潰さない限り、キリスト教による暴挙 悲劇 惨劇は、
永遠に続いてしまうのです。
戦争をしかけた人間 聖職者 信徒たちは、このことにまったく反省もせず、
この問題を堂々と正当化しているからです。
温厚そうな人でも、侵略戦争を「正当」と、させてしまうキリスト教。
宗教は「害の産物」です。
宗教は大変恐ろしいものです。 ただ、一番マシなのはカトリックです。
カトリックの総本山バチカンのローマ法王は
「神の名の下に、先住民に対したくさんの深刻な罪が犯された」
「アメリカ大陸征服の際、先住民に行われた犯罪行為について謙虚に謝罪したい」と
示している。 2014年(主日B年) 12月7日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」(イザ vv.9-10)
司祭の説教においても、修道者や奉仕者のカテケージスにおいても、従来この “見よ” が語られることのいかに乏しかったことかと、嘆かないではいられません。
かつて神学校に学び、元牧師であった私のささやかな助言が、この 「聖書の学び」 をお読みくださるカトリックの子らの信仰生活に少しでも益となることを期待しています。
多くの牧師たちが自分の説教の主眼を、信者に感激や慰めを与えることに置いて、まるで説教の力で人を救うことが出来るかのように思い上がっていました。
そのようにして世界中でメガチャーチ(大教会)を作り上げた牧師たちは、成功者と見られて来たのです。
しかし、来たり給う “あなたたちの神” “主なる神” を指し示すことを抜きにして、どうしてそのようなものが福音の宣教になり得るでしょうか。
私たちの福音宣教は、神が約束された “そのとおり”(καθὼς)に、今や “キリストによって実現される神の国の計画”(エフェ 3:4)を証しすることであり、
そしてすべての救われた人々と共に、約束されているキリストの第二の来臨を待望することに他ならないからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ポルノの蔓延と、漫画やゲームが常に「男同士のぶつかり合い」を描いていることから、女子高生たちは大人に憧れた。
しかし、この全体主義の国ではサラリーマンたちにとって女子高生との恋は「禁じ手」とされて監視の対象となった。
しかし、相撲を見た後だけはみんな「全て許す」と言ったために相撲ファンが多い。
相撲という文化を若い世代に教えたこと、そして中卒のヒエラルキーの動物的な側面を見たこと、相撲を見るだけのお金を払ったことなどが理由として考えられる。
1972年にメイナード・スミスがこのような「相撲のセールス」を考えたのだ。
タカ派にはお金がない。ハト派だけがお金を持っているということも背景にあった。
一緒に女子高生と文化を楽しまなければ、女子高生もその気にならなかったし、大人の世界を見せてもらうという最高のプレゼントが相撲だった。
https://youtu.be/Yxe9arYtAVY
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/117598928 2002年(主日B年) 12月15日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6〜28
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを ・・・・・ わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Iテサ v.23)
教会が待降節のミサを共にささげているとき、復活のキリストは将来の再臨を先取りして私たちの中に現存されます。
そしてこのキリストの現存は待降節だけで終わるのではなくて、主が 「またおいでになる」(使 1:11)日まで、私たちすべてのキリスト者にとっての生きた現実であることを、決して忘れてはなりません。
典礼暦年と典礼暦に関する一般原則(39)には次のように述べられています。
「待降節は二重の特質をもつ。 それは先ず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、
また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。 この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」
実に待降節の主題は、クリスマスによって解消されるのではなくて、典礼暦の一年を通じて生き続ける主題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない。」(ヨハ vv.26-27)
教会は、その典礼暦の一年を待降節から始めて降誕祭を待ちますが、それは決して主イエスが今は教会を留守にしておられるという意味ではありません。
待降節第3主日の福音書の朗読は、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」 と告げます。
そしてさらに、その人は後から来られる方であると説明します。
確かに教会はかつて地上に誕生された主イエスが、“今は(私たちが)一部しか知らない”(Iコリ 13:9-12) “力と栄光を帯びて”(マコ 13:26)やがて来られるのを待っていますが、しかもこの方は神のことばと共に “今おられ”(黙 1:4)るのです。
神のことばが語られ、聞かれるところには、主イエスがおられます(ルカ 10:16)。
ですから改革派教会のある信条は、神のことばの説教は神のことばであるという主旨の説明をしています(第二スイス信条)。
カトリック教会はこのことを重視して、教導職にとっての説教の務めを大切に考えています(神の啓示に関する教義憲章 10、朗読聖書の緒言 8)。
洗礼者ヨハネはメシアではない。
しかし、彼が 「証しをするために来た」(ヨハ v.7)とき、すでにそこにはメシアがおられました。
そのように、教会で待降節のミサの朗読配分に従って聖書が読まれ、私たちの新しい一年が始まる時、主イエス・キリストはすでにミサをささげる会衆と共にそこにおられるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2014年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Iテサ vv.16-18)
テサロニケの人々は数々の信仰上の困難を体験して、助けを求めていました。
使徒パウロは彼らに、それらの困難を回避するために、受け入れた福音(Iテサ 1:5-6)すなわち神の言葉(Iテサ 2:13)を世間の常識に合わせて(Iテサ 4:13)曲げたり再解釈してはならないと、強く訴えました。
彼らは世間的な意味での喜びや感謝ではなくて、むしろ信仰的な困難と苦難に遭っており(Iテサ 3:3)、それでも動揺せずにキリストへの希望にしっかりと結ばれていました。
福音の宣教者である使徒にとっては、それは大きな励ましでありました(Iテサ 3:7-10)。
“わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき”(Iテサ vv.23-24,3:13)という “第二の来臨の待望” から来る “喜び”、“感謝”、そして “絶えず祈ること” によって、教会は真の教会であり続けるのです(Iテサ v.16)。
私たちがこの福音の希望に目を向けることが、待降節第3主日の主題であります。
カテケージスで子供たちに待降節の意味を、プレゼントや楽しいパーティーを待ち望むことのように説明する人は、実に “キリストの邪魔をする者”(マタ 16:23)であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2002年(主日B年) 12月22日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
毎年待降節第4主日には、御子イエスの誕生に先立つ母マリアの物語りがミサで朗読されます。
クリスマスというドラマを演じるための序曲のようにこれが聞かれ、やがてそのドラマと共に過ぎ去って行く恒例の儀式のようにしか、待降節の各主日の聖書朗読を考えないなら、私たちは重大な見落としをしていることになります。
待降節第4主日のための聖書朗読は、教会が 「やがて来られる」(默 1:4)キリストに関する福音を、「時が迫っている」(默 1:3)事柄として受け入れるようにと促すために配分されています。
私たちキリスト者は、マリアの信仰を現在の自分自身の信仰とするために、今朝の福音書の朗読を聞いているのです。
「マリアは言った。 “わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。”」(ルカ 1:38)
私たち教会が降誕祭に、かつての第一の来臨を追憶するキリストは、教会がその第二の来臨を待っている 「やがて来られる方」(默 1:4)と同一の方であります。
「神にできないことは何一つない」(ルカ 1:37)という天使ガブリエルの言葉に励まされて、教会は 「またおいでになる」(使 1:11)キリストを迎える姿勢を整えます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日B年) 12月21日 待降節第4主日
「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 v.14)
ルカ 1:32-33 で天使は、イエスの誕生が イザ 9:5-6 に期待されたメシアの到来の実現であることを告げました。
イザヤの預言の中の “生まれた” という言葉は、詩 2:7 からも分かるように、メシア的な王の即位のことであり、そのような約束の起源を私たちは、この サム下7章 に見出すのです。
イエスはマリアの子であって、ヨセフの子ではなかったと、聖書が伝えているようにも見えるかもしれません。
しかしヨセフはマリアを正式の妻として彼の家に受け入れ、こうして 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」(ロマ 1:3)と証言されました。
私たちはキリストの第二の来臨を待望しつつ、今年も降誕祭を迎えます。
「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」(マコ 11:10)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
世々にわたって隠されていたが、今や現されて、使徒たちを通して伝えられている “秘められた計画”(ロマ v.25)を聞くために、教会はいわば教育的な目的で伝統的に、典礼暦とそれに基づく聖書の朗読配分を大切にして来ました。
第二朗読のこのテキストは、決して信者が聞き流しても良い付録のようなものではありません。
主日のミサが、特にその中の “ことばの典礼” が、カトリックの子らにとって空しいものとならないために、
今朝の ロマ 16:25-27 のテキストを、特に今週は心ある信者の方々が、“新共同訳” と “フランシスコ会訳”、出来れば “口語訳” を読み比べてみて、(翻訳者たちのご苦労を思いつつ)より深く理解されるよう、お勧めします。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」(新共同訳 ロマ v.25)
「あなたがたを強めることのできる方、知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、代々限りなく栄光がありますように。」(フランシスコ会訳 ロマ vv.26-27)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2002年(主日B年) 12月25日 主の降誕
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
キリスト者が主の降誕のミサをささげてクリスマスを祝うことは、どんな意味を持っているのでしょうか。
それは世俗の祭りのように、人々が自分自身の事柄ではない何かを祝うのと同じではありません。
もしキリストの祭りが同時に私たちキリスト者自身の祝いでないなら、それは空しいものです。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:12)
私たち教会が御子キリストの降誕を祝うなら、それは私たちがこの方を教会の救い主として受け入れることであります。
教会はこの方を救い主として受け入れたこと、従ってこの方によって神の国の相続人とされたことを祝って、主の降誕のミサをささげているのです。
典礼暦は復活節と降誕節を二つの最大の祭日と呼んで(典礼暦年に関する一般原則 12)、それぞれ固有の8日間の祭儀を規定しています。
それはイエス・キリストが私たち教会に与えてくださった救いの恵みを想起するためであり、従ってこれは私たち自身の祝いの祭典なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
世々にわたって隠されていたが、今や現されて、使徒たちを通して伝えられている “秘められた計画”(ロマ v.25)を聞くために、教会はいわば教育的な目的で伝統的に、典礼暦とそれに基づく聖書の朗読配分を大切にして来ました。
第二朗読のこのテキストは、決して信者が聞き流しても良い付録のようなものではありません。
主日のミサが、特にその中の “ことばの典礼” が、カトリックの子らにとって空しいものとならないために、
今朝の ロマ 16:25-27 のテキストを、特に今週は心ある信者の方々が、“新共同訳” と “フランシスコ会訳”、出来れば “口語訳” を読み比べてみて、(翻訳者たちのご苦労を思いつつ)より深く理解されるよう、お勧めします。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」(新共同訳 ロマ v.25)
「あなたがたを強めることのできる方、知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、代々限りなく栄光がありますように。」(フランシスコ会訳 ロマ vv.26-27)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
「この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。」(ヘブ v.2)
“この終わりの時代” とは、神の約束の終末的実現の時を指す旧約以来の用語で(イザ 2:2 参照)、御子の来臨によって “この終わりの時代” が決定的に始まりました。
御子が 「人々の罪を清められた後」(ヘブ v.3) “神の右の座に着かれた” とは、使徒たちの宣教の中でいつも語られた定式であって、キリストのいけにえの完全性の表現であります。
ですから、御子の名はこの世のいかなる名よりも、更に天使たちの名よりも優れていることを、教会は降誕の祝いの中で宣言して来ました。
クリスマスが、飼い葉桶の中の乳飲み子と羊飼いたちの童話的な情景を装飾にして、クリスマスツリーの電飾の下でサンタクロースの到来を待つ祭りになったのは、いつ頃からなのでしょうか。
しかし教会は今日に至るまで、典礼暦と降誕のミサの中の日課の朗読配分によって、使徒たちが伝えた “終わりの時代” の決定的な開始を宣言することを止めませんでした。
かつて来られた方は、やがて再び来られる方と同じ方です。
「私たちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 24日なんて、ただのイベント。
病院帰りに今、スーパーによってみたが、
「25日クリスマス」なんて雰囲気がスーパーですら全くねぇし、
町中みんなが、せかせかして動き回ってるし、
売れ残りの手羽先が、半額で売ってる。
それを買う人も全く無い。
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