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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻
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0001sage
垢版 |
2019/09/30(月) 12:44:39.55ID:R/R1N0oR
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
  10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0002sage
垢版 |
2019/09/30(月) 13:06:50.12ID:R/R1N0oR
-----当スレッドは-----
過去の2ch『原始佛教』、『仏教議論スレッド』シリーズを継承したような良スレになることを期待します。
投稿する方はスレ主である私(宝珠真範)の指示に従い、必ず当スレの“戒律 ”を厳守のこと。
違うことをしたいという方は、どうぞ他スレでお好きにして下さい。
また、当スレは同時に『質問箱』の機能も合わせ持ちます。
質問に関しては、仏教関連ならば気軽に大乗も含めて祭祀や葬儀、等々...何でも構いません。
解答や情報をお持ちの方はどうか質問者へ親切に教えてあげて下さい。
尚、複数の異なる解答があった際には質問者の方の判断にお任せします(参考程度にどうぞ)。

前スレ
 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/l50
過去ログ保管庫
 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
Wikipedia ― Category:仏教
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99
論文検索
 http://ci.nii.ac.jp/
 http://sc.chat-shuffle.net/
 http://www.inbuds.net/jpn/index.html
 http://www.totetu.org/index.php?id=523
パーリ三蔵
 http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
 http://www.tipitaka.org/romn/
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
0003神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/30(月) 16:48:36.05ID:8u1a0gx5
浄土宗の阿弥陀仏信仰が始まった時点で末法予言は成就したようなものだった。
浄土真宗が確定させた。
互いの身体を変形させ我田引水する愚か者を救おうとする仏教側の困惑は、
仏僧を志した人が末法を論じる引き金にしかならない。
0004神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/30(月) 23:20:58.91ID:1z6w4hmo
パーピマンとセブンとかいう低能なコテ&半コテしかいないからつまらないスレになったな
縁起一代はよくこんなマヌケたちと話を合わせてたもんだ
ある意味感心するよ
0005神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/10/03(木) 10:07:21.48ID:MX1qbqkY
 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/310
>学校教育を受けてるから、やはり西洋的な価値観の人が多数になってる

310承狂元密教僧に質問です

近代においては
GHQ(General Headquarters)とかからの洗脳ですか?

これ以前に時代をさかのぼれば
日本とポルトガルの1543年頃のからの洗脳ですか?

更に
時代をさかのぼれば
中国と地中海世界の間の歴史的な交易路
シルクロードとかからの洗脳ですか?

欧州側
起点はシリアのアンティオキアとする説があるが
ローマと見る説などもある
日本がシルクロードの東端だったとするような考え方も…
0006神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/10/03(木) 11:03:58.84ID:MX1qbqkY
 
↓やはり西洋的洗脳っていうこと?

https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/415

個々の(仕上がり)レベルの低下(師資相承の瓦解)
     +
メディアの発達

     ↓
知識の仕入れ先の一元化 (←西洋中心の近代仏教学・中村仏教学の洗礼)
     +
  (宗教離れ)

     ↓
現代的価値観(科学的思考、人権思考、個の尊厳等々)に立脚した、教義・宗学の再構築
     &
一般人の認知度・好感度up狙い
0007神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/10/03(木) 11:24:09.61ID:MX1qbqkY
 
www.cnn.co.jp/usa/35135718.html
2019.04.14
「無宗教」の米国人、カトリック教徒などと並んで最多に

www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/6-50.php
2019年6月7日
宗教離れが近年、世界的に広がる
日本人は仏教と答えた人が 8%
日本では無宗教 70%
  _  _  _

たとえば仮に
宗教離れが世界的に広がっているのなら

>現代的価値観(科学的思考、人権思考、個の尊厳等々)に立脚した…
>     &
>一般人の認知度・好感度up狙い

マインドフルネス認知療法(MBCT)
とかから宗教的なものを取り除いたとしても

たとえばテラワダとかからの
マインドフルネスとかなので

宗教依存のものとして
やはり敬遠されるかもしれない
0009神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/10/05(土) 13:56:35.39ID:RvV9OYGW

朝に窓を全開にした
ちょうど.その時に吠えた
という相互依存.縁起だったとか?
00101/5
垢版 |
2019/10/06(日) 09:27:49.16ID:x9Fw5gVX
当該箇所について、
「なお、〈小さな、ほんの小さな戒律(学処)〉については、
第一結集時に議論されたが、“四波羅夷を除く残りである”との判断から、
“小さな戒律とは悪作であり、ほんの小さな戒律とは悪説である”との判断にいたるまで示されたが、
結論は出されず、いかなる戒律も改変不可の決定が下された」
と、片山さんは正当に解説(要約)していて、振り返って分析すれば、
〈最初の書き出しが強く目に入ったということ
+弟子たちの間での一つの見解なれど、
上でパーピがしているような思考の流れ〉もあって
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/979の言う「思い込み」となったのだと思われるが、
原文に当れば
 AkaGkhamAno, Ananda, saNgho mamaccayena khuddAnukhuddakAni sikkhApadAni samUhanatu.
また、註にあるように、
‘‘bhante, nAgasena, katamaM khuddakaM, katamaM anukhuddaka’’nti milindena raJJA pucchito.
‘‘dukkaTaM, mahArAja, khuddakaM, dubbhAsitaM anukhuddaka’’nti
vuttattA nAgasenatthero khuddAnukhuddakaM jAnAti.
或いは、註の引用元ミリンダ王問経
bhante nAgasena, yaM bhagavA Aha ‘khuddAnukhuddakAni sikkhApadAnI’ti,
etthAyaM jano sammULho vimatijAto adhikato saMsayapakkhando.
katamAni tAni khuddakAni sikkhApadAni, katamAni anukhuddakAni sikkhApadAnIti?
dukkaTaM, mahArAja, khuddakaM sikkhApadaM, dubbhAsitaM anukhuddakaM sikkhApadaM,
 imAni dve khuddAnukhuddakAni sikkhApadAni,
 (pubbakehipi, mahArAja, mahAtherehi ettha vimati uppAditA, tehipi ekajjhaM na kato
   dhammasaNThitipariyAye bhagavatA eso paJho upadiTThoti.(平凡社東洋文庫は2巻P.77)
00112/5
垢版 |
2019/10/06(日) 09:28:56.22ID:x9Fw5gVX
――今見返したら、ちゃんと付箋ついてるしw――を承ければ、そこで
pubbakehipi, mahArAja, mahAtherehi ettha vimati uppAditA, tehipi ekajjhaM na kato
とは言われるものの、『悪作(突吉羅dukkaTa)・悪説(dubbhAsita)』である、というのが、
 上座部としての伝統解釈」であるのは事実なので、その意味で、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/1000
の言う通り、せめて「細かな学処は廃してよい」であるべきですね。
私が間違ってました。申し訳ありませんでした。
>> http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/972

 ―――――――――――――――――
ということで今回は、
私の錯誤による誤記、言い過ぎ(自分の考えの投影し過ぎ)、
というFAでどうだろうか?  >>パーピ

勿論私個人は初見の際、各条項の中身を俯瞰したら、
四波羅夷(及び不定くらいまで(尼薩耆波エ提以下)か?)以外
と見るのが相応しいような気がしたので、
今回も、その感覚ママの文となってしまったが不正確には違いないので。
また、以下(同註)を参照しながら、
「未信者に信を、已信者にはその増大を…」に照らすなら、
saGgho santamhAkaM sikkhApadAni gihigatAni, gihinopi jAnanti
- ‘‘idaM vo samaNAnaM sakyaputtiyAnaM kappati, idaM vo na kappatI’’ti.
sace mayaM khuddAnukhuddakAni sikkhApadAni samUhanissAma, bhavissanti vattAro -
‘‘dhUmakAlikaM samaNena gotamena sAvakAnaM sikkhApadaM paJJattaM,
 yAva nesaM satthA aTThAsi, tAvime sikkhApadesu sikkhiMsu,
yato imesaM satthA parinibbuto, na dAnime sikkhApadesu sikkhantI’’ti.
「在家の人々から“生活態度が変わった”(→緩くなった、「たるんだ」と思われる)要素
は、確かに「尼薩耆波エ提」以下の様々な「日常行為」「“些末な”行為」なので、
これら生活の端々の事柄もまた、サンガの(比丘の)命脈としては不可欠なもの
(→廃さない方が良いと思われるもの)と言える。
00123/5
垢版 |
2019/10/06(日) 09:29:45.16ID:x9Fw5gVX
  *またそれは、現代日本仏教でも同じかもしれないが、
  そしてそこでやっぱり(日本仏教限定と謂うべきかもしれんが)、
   『 エッセンスの大乗 』(精神性、心掛け)
         ↑   
         ↓
   『型、形式の上座部ほか』(具体的在り方)
  という対比を、ついついしてしまうわけで・・。
  ―これも批判されそうな謂いか・・w―

だから、ナーガセーナが断定的に説示するくらいには、正統解釈として定着もしていたのだろうし。
   *また、仮に一語で解したとしても
   ―ミリンダ王は、khuddaな学処とanukhuddaな学処の二種と見て問いを発し、
    ナーガセーナも二種で応えている―、その意味合いが
   【 khuddA の更に khuddA なものとして『極々些細な』】になるだけなので、
   併せて諸律引き比べ、そうした小さな「日日の行儀作法・威儀に関する事柄」となるならば、
   或いは更に「在家者の視線を意識した対外的事柄」へ限定してゆくなら、
   たとえ線引きのラインを引き上げても「波エ提」までさえ上がらないかもしれないので―、
   「波羅夷以外」が言い過ぎであるのは変わりない。
   (たとえば五部と九分教十二分教といったように)分類の仕方(基準)が違うので、
   律・学処として定められていないもの、曖昧なものも含むかもしれないし、
   「 dukkaTa がどこまで、或いはどれとどれを射程に入れた語か」、
   は依然議論の対象ではあろう。 ただ、「波エ提」以上はその殆どが
   【サンガの維持運営に、直接間接に関わる事柄】でもあり、
   これを廃する(或いは吟味改新する)ことは、長老たちによって避けられて当然かもしれない。
00134/5
垢版 |
2019/10/06(日) 09:30:56.49ID:x9Fw5gVX
      *(仏陀自身が自らサンガの存立を揺るがすようなことをするとは思われないけれども、
      同時に、伝播の拡がりを意識するなら、
      「根っこを外さなければ、
       郷に入っては郷毎の、具体的対応策があってよい」、
      と見られたかもしれない、と、現代人としてはつい想像してしまうけれど。

ということで今回は、
私(及びパーピの一連のレス)が、いつもの宝珠や在家になっていたということでw


>「在家の人々から“生活態度が変わった”(→緩くなった、「たるんだ」と思われる)要素
>は、確かに「尼薩耆波エ提」以下の様々な「日常行為」「“些末な”行為」なので、
>これら生活の端々の事柄もまた、サンガの(比丘の)命脈としては不可欠なものと

或いは、下記墨括弧部分、
「十誦律によると、仏陀が和尚、阿闍梨の制度を制定しなかったので、
 【新入比丘の指導をする人がなく】、新比丘たちは袈裟衣の作り方や、
 【その着方も正しくなく】、【乞食の作法・遊行の作法・食事の仕方も【如法でなく】】、
 病比丘があっても看病する者もなかったという。その為に仏陀は、
 これらの比丘たちを教誡し、僧伽には新入者の指導者が必要であることを認め云々〜」
と、平川さんがまとめる(律蔵の研究2巻p.104)中に言及されるが如く・・・。
  *上記は、十誦律の(―他部派も同様なのではあるが―)新参の比丘の受戒システムにおける
  指導者(≒師匠)の設置と位置付けについての考察部分だけれども、
  まさに、たるんだ者だけでなく、新入者・初学者の日日の行為や威儀(立ち居振る舞い)が、
  サンガの構成員として相応しいかどうかという点、
  『指導されなければ』或いは『細かく規定されていなければ(マニュアル化されていなければ)』
  サンガの一員として、もっと言えば「比丘として、修行者として」
  「自然と」には在ることができない、難しい、ということを示している。
  初期は、行者としては当然で当たり前だったことも、組織がでかくなり、
  構成員が増え玉石混淆が甚だしくなれば、第三句まで示されないと、
  何が適切か(相応か)はわからない。
  だから、小小戒が廃されることがなかった、ということか。
00145/5
垢版 |
2019/10/06(日) 09:31:46.88ID:x9Fw5gVX
参:
十誦律卷第二十一 第四誦之一  七法中受具足戒法第一
佛婆伽婆王舍城外住。爾時未聽比丘作和尚阿闍梨、未有白四羯磨受具足戒。
時諸比丘以初未有和尚阿闍梨故、作袈裟衣不如法、著衣亦不如法、及身威儀皆不如法。
又諸比丘、從聚落至聚落、從城至城、從國至國、遊行時行乞食時、
乞飯乞羹乞イ去陀尼、人請食時、索飯索羹索イ去陀尼、取他殘食鉢殘飯殘羹殘イ去陀尼殘漿、
【高聲大聲食、譬如諸婆羅門食】。有一比丘摩訶盧患苦痛、無有等侶無人看視。
【外學異道見如是事譏嫌呵責、沙門釋子無善教。】
不被教、無調順無調御法、作袈裟衣不如法、・・・・・・
(T1435_.23.0148a03 〜 T1435_.23.0157c27)


https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/87/Suppl/87_KJ00009362933/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/29/1/29_1_114/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1988/163/1988_163_39/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/26/2/26_2_999/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/66/2/66_912/_pdf/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/1/1/1_1_153/_pdf/-char/ja

(別件)
こんなに進化してたとはw >>大蔵経DB
(2007版でも亊は足りるけど、>>2のリンク先を変えるかどうか。 >>スレ主)
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
0015宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/10/06(日) 18:04:25.01ID:EfFQSNeD
>>14
つまり、更新されずにリンク先が古いバージョンのままだということね...
それが最新2018年バージョンだということであれば、次回以降〜もちろん変更OKです。
はい、ということで宜しくどうぞ!!(゚∀゚)

ま〜とにかく今回は、
規制を受け新スレ立てるのに酷く時間を要しましたね。
代行も「レス代行」は複数あるけれども、「スレ立て代行」がない...。
という近況ですので、投稿利用者の各自皆さん、なるべく一言(1-2行)投稿は控えて下さいませm(__)m

>ということで今回は、
>私(及びパーピの一連のレス)が、いつもの宝珠や在家になっていたということでw >>13

コレ一言、多いけれどねw
0016宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/10/22(火) 18:28:59.76ID:cu0jQ6DJ
-----本日、即位礼正殿の儀-----
 本日は、新天皇即位の礼ということでTVをつけて時折、その模様をしばし見入っていました。
「大前の儀」では、天皇しか着ることができないという“黄櫨染御袍”に身を包んだ陛下が高御座に登壇。
普段は特別、神道や天皇には想い入れのない私もそのタイムスリップした美しい映像にウットリでした。
 天皇の衣といいますと、毎年、京都の東寺で厳修される真言宗の最高儀式とされる「後七日御修法」では、
宮内庁京都事務所から天皇の御衣が届けられ、天皇陛下の無病息災(昔は玉体安穏)を祈るためにこの陛下の
「御衣(ぎょい)」を加持(祈祷)します。今年は、4月末で退位された上皇さまの御衣も清めされたそうなので、
もしかするとこの新天皇即位の御衣も同じく一緒に加持されたものなのでしょうかね ?...。

 そして、最も気にされていた天候については降雨確率90%で生憎の雨でした。しかし、これも三種の神器の
ひとつ“大蛇のいるところ常に雲があった”とされる「天叢雲剣」と関連づけて見る向きもあり、そしてなんと、
即位礼正殿の儀の開始とともにこの雨が止んで、美しい虹まで出現するという天照大御神の祝福がありました。

 ところで今、日本列島を次々と未曾有の天災が襲っています。温暖化その他で悪化している気象変動は
これまで想定外であったことすらも例年覚悟しなければならない当たり前のものとなりました。街作りもこれを
想定して作り直さなければならない。
 時の空海や天海レベルの密教僧による加持祈祷ならば守護経法、北斗法、孔雀経法、水天法、愛染法...
などを駆使して天候災害を低減できるかもしれませんが、今日ではそれも望めません。
 これほど科学の発展した世の中なのだから、そろそろ本気で気象コントロールの実現に着手すべきです。
巨大台風が列島を上陸する前にこの雲の塊を消散するのです。特殊なミサイルかレーザー電磁波照射...
を使って雲塊を蹴散らす研究がアメリカでは検討実験されていた筈です。
0017宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/10/22(火) 18:33:02.54ID:cu0jQ6DJ
-----昨日、八十八ヵ所石仏巡礼行-----
 昨日は、毎年10月21日(毎月21日は弘法大師の御縁日)に行われる“山終い”に行ってきました。
これは全国各地に在る四国八十八ヵ所巡礼の簡易ミニチュア版として設置されている八十八の石仏を巡礼する行のことです
(こちら北海道の豪雪地帯では冬期間は中止されているのです。5月21日を山開きとしています)。
それで今回は初体験ということで、住職に申し出て菩提寺本院の裏山にもあるこの石仏巡礼行に初参加してきました。

 自分がこれまで行ってきたものは、北海道三十六不動尊霊場巡礼(増えた番外八を加えて全四十四ヵ寺)というもので
車で各札所寺院を巡るもの(基本、北海道では歩き遍路は危険のため禁止しています)。少しでも本家、四国に近づけるべく
各札所寺院すべてに写経を納めて一ヶ所30分近い読経を奉納してきましたが、今回、この寺院での行事の内容というのは
光明真言一本だけをただひたすら繰り返し唱えつつ、各石仏には一礼程度でほぼブッ通し山道を歩き続けるというものでした。
 自分は持ってなかったのが初めて手にした金剛杖と菅笠です。金剛杖は粘土質の濡れた斜面を歩くのに大いに役立ったけれども、
正直、頭に被る菅笠には違和感ありありで非常にこれが邪魔臭かった。けれどたぶん傘など差してられない山道での降雨では
きっとこれが有難いものとなるであろうとは思う。
0018宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/10/22(火) 18:34:01.57ID:cu0jQ6DJ
 そして、人ひとりがやっとの山道を歩いていると長靴の底には濡れた粘土が絡みついてくるし、途中、数ヶ所には“遍路転がし”
かと思うような急勾配と倒木をくぐり抜けなければならない場所までもあって驚かされた。途中、エゾシカの足跡と彼らの生活道とも出会う。
 実際上では、まず本堂内での1時間近い法要があって、それから出発前に一緒に歩いてくださる修行大師(遍路中の弘法大師像のことで、
四国遍路では大師が一緒に同行されて援けて下さる体験をするとされる「同行二人」という信仰)の御前で簡単な読経をしてから出発。
 ここで巡って来るのは四国八十八ヵ所本尊の石仏と、その結願報告を行う“奥の院”の大師像。それに続いて、今度は三十三観音
(法華経普門品に説かれる観音の三十三応現身のことで、すなわち楊柳・竜頭・持経・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・
一葉・青頸・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿麽提・葉衣・瑠璃・多羅尊・蛤蜊・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・灑水)の石仏巡礼。
そして、最後に寺院墓所(歴代の阿闍梨住職が眠る五輪塔)を参拝して終了です。
 全行程で丸一時間というところでした。普段はまったく歩行も運動もしない自分には十分にキツイものでしたね。
初体験でいろいろ不具合もあったので、また機会があれば今度はもっと工夫をして望みたいと思う。

ここ暫く、一連の流れの議論投稿は途絶えていますけれど、
私事ですがプライベートでリフレッシュ旅行を控えていることもあり、
すべてが落ち着いてから溜まっている返レスを投稿するところから再開させてもらいます。
0019神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:10:55.75ID:tFbEKAHW
>>4
うーん、セブンが前スレ終盤でスレを学習帳化したあたりから何となく白けて離脱してたんだけど(ゴメンよセブンw

何だか凄そうな人達が来てたんだね

よくわからんけど、一代氏を評価している人でかつ、一代氏が現れていた当時に、セブンとかパーピとこういう絡みしていた人っていた気がしないが……一代氏って他所のスレでも活躍してたのかな?

凄そうな人達は何者なのか



ほいで、流れがしばらく止むとエキノ氏が何食わぬ顔でw

まあ、オリンピックはマラソン観戦記でも書いてここで自慢してなさいな
0020承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/01(日) 19:16:06.48ID:woFed4iP
>>5以下のはおじゃるさんからの質問と見なしてお答え致しません。

(^。^)と、保守を兼ねて書き込み上げ。(笑)
0021おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2019/12/03(火) 14:48:27.14ID:qT5HOTgW
>>20
承狂元密教僧さまの
戯論とか適当な事を語るスレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1548535790/275-276
>喧嘩うってるの?(笑)

うってないですよ

「喧嘩うってるのか?」と勘違いしてるといけないので.念のため

年末年始には
金銭的に余裕があるのなら
出雲系にも
伊勢系にも
真言宗系にも逝ってみたい所存でおじゃります

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し。
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん。

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0022おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2019/12/03(火) 15:30:50.79ID:qT5HOTgW
>>21の続き

おじゃるの場合は
仏教のこともわかってないけど
(たとえば上座部系と大乗の違い?とか)

出雲系も?
伊勢系も?
ネットで探して見たけどわからなかったけど
とりあえず
https://hanasjoho.com/archives/8497
東京都港区六本木
出雲大社東京分祠

 ↑
ここに逝けば
出雲系の大社?とか教えてもらえるかしらん?

(神仏習合の意味もわかってないけど.それでも)
とりあえず
神仏習合も肯定でおじゃります ヨロ m(_ _)m
0023神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/20(金) 22:06:18.50ID:vh6ViULc
そういえば急に思い出したけど昔サロメボーディヤみたいな名前の奴来てたけど死んだの?
0024承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/20(金) 23:56:39.31ID:G9lWm93O
あの朝鮮人のオッサンはタヒんだという噂をキリスト教スレの連中がしてたな。

(^。^)まぁ、あの性格で宗教板から離れられるとも思えないし、タヒんだか国に帰ったかしたんじゃないの?(笑)
0026神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/21(土) 14:46:31.78ID:h/jVJpAm
南無サロメボウディア
諸行無常だね〜
0027宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/21(土) 19:38:05.87ID:Z4YSncB0
>>23-26
確か数年前に、
自分のブログを立ち上げてそちら側へ注力していたと思う。
だから、2-5chには参加しなくなっただけじゃないのかな? 分からないけれども...。
仮にもしも、亡くなられたとしたのなら余計に不謹慎な発言は控えるべき。
私は、サロメさんは素晴らしい信仰心の持ち主だと敬意します。
もちろんキリスト教に大変詳しいし、また仏教にも関心が高かった。
まっ、私とも激しいバトルの時も何度かはあったけどね。
0028承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/21(土) 23:32:21.62ID:F5qLocVJ
誰を敬おうが自由だが、(笑)
そんなものを他人に押し付けるのは如何なものかね。

さて、ここで問題です。
「亡くなった人は皆仏さま」とは、日本の神道のえいきょうですが、
では、本来のインド仏教では、供養に値しない、
仏教ではない考えを仏教だと公言して既存のサンガを否定したり、(某宝とか)
釈尊を単なる哲学者扱いしたり、(某サロ雌とか)
還俗して破戒して遊ぶ者(笑)など、
亡くなった場合、どのように扱ってたでしょうか。

(^。^)答えは各自で考えましょう。(笑)
0029神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/23(月) 00:40:10.30ID:5FQhq8Pz
年末のオカルトにゅ〜す!

https://hitome.bo/column/article/28044-hitomebo-spirit-photograph.html
2019/06/10
最近心霊写真を見かけなくなった…
…心霊写真が盛り上がらないは.画像編集ソフトの普及で
Photoshopなどのソフトを使えば(合成)画像だって作れます

https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_48015/
2019/08/12.心霊番組ヤラセ

https://www.futami.co.jp/book/index.php?isbn=9784576010595
2001/05/31.日本全国あなたの隣の幽霊屋敷.中岡俊哉

https://www.youtube.com/watch?v=IhfNXw6lyx4
月に逝ってない?.山口敏太郎.大槻教授

https://www.youtube.com/watch?v=MeBRhFrTlII&;t=3338s
2018/08/13.呪い.祟り.茶屋町怪談

http://webheibon.jp/spiritualkei-zukan/2019/02/post-21.html
辛酸なめ子.アセンション.次元上昇

https://rocketnews24.com/tag/%E7%B5%82%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%9F%B3/
終末の音?

https://tocana.jp/2017/07/post_13673_entry.html
2017/07/03.宇宙には原意識クラウドが存在し、人間も接続されてる
0030神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/23(月) 01:05:45.55ID:3QB8dhp6
まあかつての時代の心霊写真だってPhotoshopと同じ原理をアナログ手法の環境下でやってたってだけで
当時だってオカルト脳じゃなきゃ真に受けて興奮したりはせんよねw

デジタルカメラの時代になってもCCD特有の電子ノイズをオーブとか言って大騒ぎするオカルト脳症状があるでしょw

そのオカルト脳内に映し出されるヒランヤ聖者の“実在”。これは如何にwww
0032神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/23(月) 02:51:33.61ID:5FQhq8Pz
 
ヒランヤで検索すると↓これが出てくるけど

https://☆mat☆ome.☆na☆ver.jp/odai/2141108749019953001
ヒンドゥー
チベット

↑これのこと?
0035承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/23(月) 17:12:49.41ID:t3yRqiP3
プラジュニャー フリダヤ ○○○ャロキャ

>>31
問題文をちゃんと読まずに、回答してるので落第。

(^。^)そーゆーいい加減なことをしてるからいい加減な人が寄ってくるんだよ。(笑)
0037神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/25(水) 21:59:10.35ID:KZYO7k+E
日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、自殺を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人・職人気質はブラック企業擁護論である。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。

職人気質は悪しき文化
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1573270987/755

eul
0038神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/26(木) 00:42:04.00ID:oAc2Uz7q
 
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果て

職人・職人気質
の関連性が.わからないけど

とりあえず
自分も
職人気質の先輩の方々の.おわしまする
職場で働いてたことがあるけど
確かに
先輩の数人の方々は
暴走族とかやってたとか言ってた気がする
0040宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:08:47.04ID:1BV3JjzM
12/20 NHK-Eテレで放送されたドキュメンタリー番組『輪廻(りんね)の少年』を観た。
美しく素晴らしい映像に感動と涙が溢れて止まらなった...。
少年がリンポチェ(生まれ変わりの高僧)として、僧侶としての高度な勉学のためにチベット僧院に籠るために、
これまで生死を掛けて苦難の旅をして少年を護り、世話を続けてきた老人との最後の別れのシーン。
この修行には14年もの歳月が掛かるのだという。その間は僧院を自由に出ることは許されないものと思う。
少年は修行が終わったら必ずおじさんと会うからねというと、老人はその時には自分はもうヨボヨボだと笑う。
すると、少年は今度は僕がおじさんを世話するから大丈夫だと優しく声を掛ける。
そして、必ずおじさんを迎えに行くからと強く約束をする。この時の二人の涙の別れの場面は見る者の胸を熱くさせる。
このとき老人はすでに75歳くらいのようだから、
恐らくは、もう二度と生きて少年と再会できることはない...。

チベット仏教の世界においては、
恐らくこのような少年と世話役の同じような愛情物語が長い歴史の中で何度も何度も繰り返されてきたのだと思う。
しかし本当に、中国政府の介入は許し難い悪行だと思う。

 https://asiandocs.co.jp/con/184?from_category_id=
 https://www.youtube.com/watch?v=U1eGlGMU8Tg
 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/4471/1418034/index.html
0041宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:20:08.51ID:1BV3JjzM
>>28承狂さんへ
ひとが折角おとなしくしているというのに、
この私のことがよほど嫌いらしくて、もう噛みつきたくてどうしょうもないという感じですか?
まっ、いいんですよ。別にその気になれば、この私は何処からだってバトルは始められるからね。

>誰を敬おうが自由だが、(笑)
>そんなものを他人に押し付けるのは如何なものかね。

 私は別に、自分が敬意している人をあなた方にも同じくあるべきとして押し付けてるのではなくて、誰それとは限らず、
ただ単に「亡くなった人に対しての失礼は慎むべきだ」といってるまでのこと。なので、それは一般的なマナーと社会常識
の話にしか過ぎない。
 それは別に、神道影響?による間違った慣習としての“亡くなれば皆ホトケさま”などという話などとは違う。そして、
サロメさんがキリスト教徒(たしかカトリック)だから敬意に値しないといってるのだとしたなら、そういうのはこの私が最
も嫌いなものの考え方だ。
 確かに、数多くある種々の宗教は必ずレベルの高低というものがある。けれども、どの宗教の中にも素晴らしい方が必ず
いるものだし、その逆に、仏教教団の中にもトンデモナイ奴が紛れていたりだってする。それはブッダ在世の時だって同じ
くそうだった。
 個人の進化レベルというものはその個人の資質によるところが一番大きい。カトリック信者だからその人はダメだという
ものではないから。

>では、本来のインド仏教では、供養に値しない、
>仏教ではない考えを仏教だと公言して既存のサンガを否定したり、(某宝とか)
>釈尊を単なる哲学者扱いしたり、(某サロ雌とか)
>還俗して破戒して遊ぶ者(笑)など、
>亡くなった場合、どのように扱ってたでしょうか。
0042宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:21:25.87ID:1BV3JjzM
 このスレ上で、いい加減なテキトウ発言していると酷く痛い目に遭いますよ!
 まさかとは思うけれども、“「応供」(供養を受けるにふさわしい者の意:阿羅漢)でなければ供養するに値しない”などという
意味合いで語ってないですよね? もし、そうだったならば、我々の周囲には供養する対象となる人など一人もいないというこ
とになる...。
 原始経典の紹介や大乗非仏説もかなり一般化したように思うけれども、しかし、その影響による誤解と弊害として「ブッダは
先祖供養を説かなかった」というものや、原始教団(初期教団)では葬儀はなかったものとしての「葬式仏教についての全面否定」
というのもよく見られるようになった。
 私は、このスレ上でこれまでこれらの間違いと誤解についても力を入れて述べてきましたけれども、まっ、あなたについては
元密教僧なのでその点については特に心配はしていません。
 ここで一応、ブッダの説いた先祖供養についての情報として論文からの一部抜粋を下記に投稿しておきます。葬儀と先祖供養
についてのポイントを大きく纏めるとこういうことになる。

 1.ブッダは、父シュッドーダナ王と叔母マハーパジャパティー葬儀を自ら取り仕切って営んだ。
 2.ブッダは、祖霊に対しては時折り供物を捧げるよう説いた。
 3.追善供養(廻向)によってすべての先祖を救済することはできないが、
   施餓鬼供養によって餓鬼界に堕ちている先祖(特定個人は指定ではない)には手助けすることができるものと説いた。
 4.死者(祖霊)供養の行為そのものは、その行為者の功徳となって行為者自身に帰って来るから行うべきであると説いた。
 5.よくある誤解としては、「人は死後に輪廻転生していくので死者供養の必要性はない」
  などと説いたことはないから(古代インドの伝統として墓は創られなくても死者供養はなされる)。
0043宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:22:54.74ID:1BV3JjzM
>仏教ではない考えを仏教だと公言して既存のサンガを否定したり、(某宝とか)

 それは、つまりこの私のことを言いたいのだろうけれどもw、コレについては明確に反論しておくから!!
 ブッダの教えに忠実ではないのはその既存のサンガ(教団)の側でしょう。まず今更、大乗については説明の必要もないように、
その信奉経典のすべてが創作偽作。そして、その教義内容と歴史はヒンドゥー化の流れそのもの。
 この前のNHK『こころの時代』禅シリーズで解説していた高僧も自らが認めていたように、大乗の歴史とはヒンドゥー化そのもの
だということ(それが悪いということではなくて、ヒンドゥーを旨く利用してきたという意味において)。そしてもう一方、南方諸国
の南伝パーリ信奉教団(テーラワーダ)というのは、部派仏教『分別説部』の中の更にマイナーな一派にしか過ぎなかった『大寺派』
が今日まで残存したものです。
 これは、もちろん原始仏教がそのまま継承されたものなどではないし、単に、現存する仏教教団の中ではその比較において最もブッ
ダに近いということに過ぎない。現存する仏教教団がブッダの教えをそのまま正しく継承したなどと見なしている研究者は皆無であっ
て、どんなあらゆる解説書を見ても必ずそうなっている筈です。
0044宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:23:29.19ID:1BV3JjzM
 そして、この私がテーラワーダにすらも批判するのは、彼ら自身が自らが所持し信奉している聖典『パーリ五部経典』の記述の一
部を無視し、正しく従っていないからです。その筆頭が無我についての誤解であると私が繰り返し述べているのはそのことです。
 ここで正木 晃氏の講演録のようなもので霊魂について(ブッダは霊魂を否定しなかったと)述べた良いものがあるので紹介しておき
ます。厳密には、この私からいわせればアートマンと魂とは同じものではなく、また「霊魂」という言い方はかなり曖昧なもので、
アートマンと魂をごちゃ混ぜにした一般用語だということになる。でも、アートマンもなければ当然、魂だって何もないという言い方
をする者が多いので、ここでは敢えてそのままに取り上げます。
 それから、もう一つは藤本 晃著の論文からで、これはブッダの説いた施餓鬼と先祖供養の関係について解説したものであり、世に
広まりつつあるブッダは先祖供養を説かなかったとする間違いを是正するものです。

 そして、この私のことをまるで既存のサンガを否定する悪者扱いにしていますが、それはあなた方の側こそブッダの精神を蔑ろにし、
ただ単に伝統教団の権威を鵜呑みにして真実を見ない愚か者の所業です。

 『昔から伝えられてきたからといってただそれだけで伝承や伝統、聖典集の所伝を信じてはならない。』
(『カーラーマ・スッタ』)
0045宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:35:06.11ID:1BV3JjzM
『「あの世と仏教 霊魂・葬儀・先祖供養」正木 晃先生(仏教編)
◆仏教では霊魂の存在を認めるか
 今、日本の仏教系の大学では、原則として「お釈迦様は“霊魂”を認めませんでした」と教えるんですよね。
ところが、---略---
◆『いま知っておきたい霊魂のこと』
 NHK出版から出ております私のこの本では、“霊魂”について、誰もが知りたいと思うような17のテーマを設け、できるだけ
わかりやすく書かせていただきました。その中から、いくつかのテーマを選択して、お話しいたします。
◆テーマ@「お化けと幽霊の違いは」
 お化けは、もともと森羅万象に宿る神様です。誰もお祀りしなくなりますと、不良化してぐれるんですね。これがお化けで、妖怪
という呼び方もあります。幽霊は、ちゃんと成仏できなかった人の霊魂です。
 幽霊をご覧になった方、いらっしゃいますか? 何人かいらっしゃいますね。お坊さんに聞いても、見たあるいは感じたという方は
非常に多いと思います。ただ、そのことを言いたがらないかもしれません。また、新聞報道もされましたが、東日本大震災の被災地
では、ずいぶん幽霊が出ておりますよね。
◆テーマM「お葬式にはどんな意味がある」
 死んだ方の霊魂を、行っていただくべきところにきちんとお送りするのがお葬式です。ですから、省略したり、お葬式をしなかった
りするのは、困ります。これは冗談ですが、もし霊魂の存在を認めずにお葬式を行うとすれば、宅配便が何も届けずに料金だけ請求す
るに等しいのです。
 やはり死後の問題というものをきちんと捉えないと、倫理観や道徳観というものが崩れてしまいます。生きているだけが全てという
考え方は、あまり良い方向に向かわないと思います。
 お釈迦様自身がなさったかどうかわかりませんが、“葬儀”も“先祖供養”も、かなり早い段階から仏教教団の中で行なわれていたの
は、確かなようであります。
 以上、ここまで、私の本『いま知っておきたい霊魂のこと』(NHK出版)の中の17のテーマから、一部を選んでお話ししました。
0046宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:36:36.71ID:1BV3JjzM
◆死後の存在を認めたほうがより良く生きられる
 現代の複雑な社会の中で、「死んでしまえば何も残らない」と考えるよりは、死後の存在を認めたほうが、より良く生きることがで
きると私は考えています。亡くなった方が今もどこかにいるという感覚を持っていたほうが、我々が生きていく上でも、自分の死後を
考えた時も、より豊かなものがあるだろうと思うんです。そして、死後の存在というものは、霊魂という形で考えざるを得ないのだろ
うと思います。
◆ブッダは霊魂を否定しなかった
 お釈迦様は「何も変わらずに永遠に存在しつづけるもの」に対して、否定したことは事実です。逆に言えば「変わり続けるもの」は
存在していいんですよね。霊魂に関しても“常に変容して止まないけれど、続いていく何か”と考えれば、存在していいのです。
 「霊魂」について、原始仏典の一つ『相応部(サンユッタ・ニカーヤ)』の中に書かれていて、岩波文庫から中村元先生の訳で『悪魔
との対話』というタイトルで出版されております。この中に“ヴィンニャーナ”という言葉が出てまいりまして“識別力”と訳されて
おります。昨年、春秋社から出た新しい訳では、その“ヴィンニャーナ”を“識”と訳しています。注釈には「認識体」「意識体」、い
ちばん最後にひらがなで「たましいのこと」と書いてあります。「ブッダは霊魂の存在を認めない」という誤った金科玉条を守ってきた
ので、現在も本文では“たましい”と訳せないのですね。
0047宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:37:04.36ID:1BV3JjzM
 この『相応部』に登場するお釈迦様の弟子、ゴーティカとヴァッカリは、悟りの境地に達した後で亡くなり、霊魂がなくなっています。
悟ってしまえば何も残らないかもしれませんが、悟らない限りにおいては、やはり霊魂は残るのです。
 同じように、日本の臨済禅の世界でいちばん偉いと言われている大燈国師や、明治以降、最高の禅僧といわれた釈宗演も「霊魂が残る」
と考えていました。そういう偉い方が言ったことを、戦後の日本の大学教育の中で無視して、「人が死んだら何も残りません」と教えて
しまうのですが、決してそうではないと思います。
 『いま知っておきたい霊魂のこと』でも紹介させていただいたお話ですが、ある方が海外で亡くなって、遺体が日本に届けられた時、
母親はその魂に「戻ってこい」と呼びかけました。母親いわく「魂がまだ海外にあって、日本に戻ってきていないから呼んだ」そうです。
 日本人には、こういう感覚がずっとあって、それはとても良いものだと私は考えています。それが「仏教の本義にそぐわないからだめ
だよ」と言ってしまった時、いちばん重要なものが失われてしまうのではないかと思っております。
 葬儀や鎮魂の大切さ、ブッダは霊魂を否定しなかったことなどをお話ししました。ご清聴、どうもありがとうございました。
  (平成25年3月2日、東京・立川にて)』
    https://www.circam.jp/essay/detail2/id=4479
0048宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:39:10.21ID:1BV3JjzM
『6 結論
 パーリ四ニカーヤに明確に説かれる先祖・施餓鬼供養を􌬠察した結果,その教説はバラモン教などのインドの思想や慣習が
取り込まれたものではなく,まして中国の思想・慣習が取り込まれたものでもなく,釈尊が自ら発見した内容を説いたもので
あると確認された。
 ニカーヤにおいて先祖供養は,父母の孝養の延長に必然的に勤められる善業と捉えられていた。通常の沙門バラモンへの
布施を亡き父母を始めとする数限りない先祖のために行うことがそのまま先祖供養であり,特別な儀式作法は規定されていない。
また布施以外の善業も先祖のために行えば先祖のためになり得,何よりも自業自得の法則で自分の楽果になるので,善業こそ
が勧められていた。
 先祖の中で供養によって助けを得られる境遇と得られない境遇があることが,五道輪廻の教説を挙げて明らかにされた。助け
を得られる境遇は餓鬼に生まれた衆生である。先祖の誰が餓鬼界に往ったか分からず,輪廻の教説から見れば世々生々の輪廻の
間に自分の家族・親族であった人々も数知れないので,特定の先祖を指定するよりも先祖全てを指定して布施供養する方が,
より効果的だと示されていた。
 仏滅二百年までには現在の形式にまとめられたと考えられるパーリニカーヤに,先祖供養はバラモンたちの実名を挙げ,彼ら
と釈尊との活き活きした問答として説かれていた。その内容が,口頭伝承の伝統を持ち,妄語を社会生活を失うほどの重い罪と
見るインド文化の中で後の仏弟子たちによって創作されたものとは考え難い。
 ---略---
0049宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 03:42:20.98ID:1BV3JjzM
 現存する仏典の最初期に属するパーリニカーヤに,先祖・施餓鬼供養の意味内容が釈尊の直説として明示されていた意義は大
きいと言えよう。輪廻からの解脱を究極の目標とする仏教において,在家生活における善業は悟りへの道程に直結するものでは
ないが,ニカーヤには釈尊が説き示した正しい在家生活のあり方に従って悪を離れ善を行うことが常に勧められていた。それが
悟りへの道程の資糧ともなるであろう。
 出家至上の初期仏教にやがて外教や土俗信仰の要素が取り入れられて現在の聖俗を包含する形の仏教が形成されたと見るより
は,仏教ではその最初期から,解脱を目指す瞑想修行から在家生活における日常の善業まで,人間の営みの全ての局面に対する
教導を与えていたと考えられる。』
 (藤本 晃著(広島大学)『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』)


恐らく、これが今年最後の投稿になると思います。
 正月連休の間、どうか皆さん事故の無きよう健やかにお過ごし下さい。
 どうぞ来年も宜しくお願い致します。


  合掌
0050神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/12/31(火) 03:48:59.20ID:gVxHQdwV
>>44
99%を無視して1%の部分を前後文脈から切り離して曲解して「これが正しい」とした上でその“正しい”を根拠に伝統的サンガの在り方解釈を”間違っている“と主張する外道と

99%以上概ね、長い歴史を通じて正しさを守ってきている伝統的サンガの側の、1%未満の、(邪見で物事をら見ている外道は当然のこととしても)素人凡俗にはスッキリ納得行かない部分をも語る出家僧と

一体どちらを信頼する人が多いのか

単なる良識の問題でしょうに
0051宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/12/31(火) 04:04:25.26ID:1BV3JjzM
>>50
>前後文脈から切り離して曲解して

いやいや冗談じゃない。
それはあなた方がいつも得意としてきたものでしょう!
鏡はある? 別に三種の神器でなくてもいい、
普通の鏡。

>一体どちらを信頼する人が多いのか

確かにその通り。
だから、いつの世でも真実を知る者は少ない。
多くは間違いを鵜呑みにしている。

真実を知るには勇気がいる。
勇気のない者は真実を見ることは決してできないから。
0052承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/31(火) 08:30:51.16ID:+CUC1bFA
なかなか興味深いレスだが、
>>41で「マナーと社会常識」を重んじるような事を書いてて、
>>42では「酷く痛い目に会いますよ」と非常識な事を言う。
また、「宗教にはレベルの高低がある」が「素晴らしい方も居る」と、
しながら、
「日本仏教」などは釈尊個人の教えと違うからと全否定。
こうしたいい加減な態度だと、単に自分の妄想に都合の良い話だけ扱ってる人にしか、どーしても見えませんやね。
そもそも、>>28は、宝珠やサロメや俺のようなゲス共にどう対処するべきかは各々で勝手に考えろよ、と言っただけ。(笑)
それをまぁ、勝手な妄想して下らない話をグダグダグダグダと。(笑)

(^。^)アホかと。(笑)

>>50
その「納得いかない部分をも語る出家」というのが寺和田のことなら、
それはもう少し考え直してみるべきではないかな?
これ迄の仏教で「人生は無意味」だなんて言ったのは連中だけだぞ。
0053承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/31(火) 23:21:57.95ID:hFddCjA7
シンチの思想、魂やアストラル等自性を設け、その成長を専とする。
これキリスト教以降のスピリチュアルナイシオウムも同じ。
方や仏教や道教神道等は、世界の一部としての自己を正しく捉えて余分を削ぎ落とし、又は浄化や純化して
仏や仙人や神々との同化を計る。
依って、キリスト教以下の西洋思想、美辞麗句を以て個人の尊厳を謳い、
仏教等は行を為して俗世からの離脱を説く。
宝珠の如きは、仏家と異なる思索に耽るを禅那に並べ、仏法と称し暗に自性を説く。
推して知るべし、此総じてキリストの呪なりと。

(^。^)来年も同じ矛盾の繰り返し、輪廻を経ても変わることなし。(笑)
では、よいお年を。(笑)
0054承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/12/31(火) 23:22:16.31ID:hFddCjA7
シンチの思想、魂やアストラル等自性を設け、その成長を専とする。
これキリスト教以降のスピリチュアルナイシオウムも同じ。
方や仏教や道教神道等は、世界の一部としての自己を正しく捉えて余分を削ぎ落とし、又は浄化や純化して
仏や仙人や神々との同化を計る。
依って、キリスト教以下の西洋思想、美辞麗句を以て個人の尊厳を謳い、
仏教等は行を為して俗世からの離脱を説く。
宝珠の如きは、仏家と異なる思索に耽るを禅那に並べ、仏法と称し暗に自性を説く。
推して知るべし、此総じてキリストの呪なりと。

(^。^)来年も同じ矛盾の繰り返し、輪廻を経ても変わることなし。(笑)
では、よいお年を。(笑)
0055宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/02(木) 06:31:47.69ID:TwMWg1Na
新年明けましておめでとうございます。
早くも令和の二年目突入ですね!
本年も宜しくお願い致します。


>>50
その1%か2%かは分からないけれども、
だから、その間違った部分が重大ミスだったということ。
仏教の最大特徴とも言われる決定的部分についての誤認ですから!
0056宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/02(木) 06:32:44.32ID:TwMWg1Na
>>52 承狂さんへ
>>41で「マナーと社会常識」を重んじるような事を書いてて、
>>42では「酷く痛い目に会いますよ」と非常識な事を言う。

社会的に失礼な発言や暴言ばかりを使っていると、はたして仏教的にはどうなのか?
当然、それは口業(言葉の悪業)というものであって、それはたとえ大乗であろうとも同じように厳しく戒められ、
発言の在り方だけでも、「不妄語」、「不綺語」、「不悪口」、「不両舌」として知られる。
このスレ上でいい加減なデタラメなんかを語っていると、当然そのことは指摘されて、そして、正されることになる。

>「日本仏教」などは釈尊個人の教えと違うからと全否定。
>こうしたいい加減な態度だと、単に自分の妄想に都合の良い話だけ扱ってる人にしか、どーしても見えませんやね。

私が、全否定したのは原始経典の傾倒を始めた若い頃だけですよ。
当時は、この私もブッダは葬儀や先祖供養は説かなかったものと思ってましたから、そういう主張の人の視点についても理解しています。
信奉経典が創作だからダメという単純否定ではなく、大乗に対するこの私の評価は大きく変わって今ではかなりの好印象ですよ!
ヒンドゥー化も相まってか、仏性や如来蔵を説き続けてきたところに大きな救いがあります。
だから神智学に近いのは大乗であり、テーラワーダは全然ダメですよ。
そう、あなたもいうように単純な人生の生存否定論はその最たるところです。
私の好きな仏教世界は、日本大乗+チベット÷2的な方向ですかね。自分が南方圏には生れなくて本当に良かったと思っています。

>>53-54
「無自性」というのは、この限定された「一切」における空間のみについての話です。
それは有為についての話であって、これを部派である彼らが勝手に涅槃をも含めてしまったのです。
それがアビダンマというものであり、それは経典の内容に相反するものです。
そのことが知られていず、殆ど理解されていないのです。決定的な誤認です。
だから、あなたも一からもっと勉強して下さいな!
0058宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/02(木) 16:02:43.21ID:TwMWg1Na
参考:
 『全宇宙を含むが故に偉大であるところの自己というものは、まさに全宇宙を含むが故に、死ぬこ
ともなく、滅びることもない。また<不生>であるともいえよう。生れた始源が無いからである。
 この自己が普遍者を具現する。自己にたよるということは最も普遍的なものにたよることである。ゴ
ータマ・ブッダ最後の説法の一つは、<自らにたよれ。法にたよれ。>ということであった。』
(中村 元著『自己の探求』青土社刊p97/1980年刊)

 『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたことがわかる。
一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、凡夫の日常生活のうちに認められる。--略--これに反
して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は聖者が具現しているものである。
簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。ただその両者は相即しているものなのである。
--略--
 他方これに反して理想として実現さるべき自己は、人間が常に追求すべきものである。それは当為
的模範的性格を有する。『自己は自己の主である。』(Dhp.160) したがって自己にたよらなければな
らぬし、このような理想的自己は大海の中の島のようなものである。『汝は自己の良き島を作れ。け
だし汝には他のよりどころが無いからである。』(Therag.412)
 よりどころとしての島を漢訳仏典では「燈明」の意に解しているが、いずれにしても、その趣意に相
違はない。釈尊も『われは自己に帰依をなした。』(DN.U,p.120)と説いたと伝えられている。しかるに愚
者はこの道理を理解していない。愚者にとっては自己が失われている。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』p88-89/NHKブックス刊)
0060ポッタン師
垢版 |
2020/01/03(金) 13:58:05.32ID:C4ne2gJs
58.59.中村元を超えれば本物である。
第一、宇宙の普遍から、どんな答えが出る、かの問題である。
その方法論が欠落している。
バカには理解できない。
大爆笑である。
0061宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 14:44:27.11ID:M0tyx+Gc
>>60
方法論も何も...
基本のすべては善行と精神統一、頭陀行、
瞑想等々の繰り返し実践の継続しかないでしょう。
そして、中村氏は実践方面の指導者エキスパートではないから。
0062ポッタン師
垢版 |
2020/01/03(金) 15:00:26.29ID:C4ne2gJs
61.実践バカが言う、ことである。
大爆笑である。
実践から、どう答えが出る、かの問題である。
六祖慧能は坐禅をしないで悟ったことになっている。
バカには理解できない。
大爆笑である。
0063宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 15:05:07.27ID:M0tyx+Gc
>>59
何がヒンドゥー化だぃ!!
まともに、ごく当たり前に仏典を読めば当然こういう理解になる。
仏典には従わない自分ら勝手教義のアビダンマ信奉と
その影響下にある自称ブッディストらと一緒にするでないわ!!
0065宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 15:55:02.24ID:M0tyx+Gc
>>64
それは誰にいってるの?
中村氏のことか? それとも私にか?

この私のことでいえば、神智学信奉は別に全面丸呑みではないから。
もちろん自らの体験による確認でない部分は受け入れないということではないけれど・・・。
その内容によりそれぞれ、「それらが真実であると理解」、「正しい可能性が高いものとして理解」、
「信頼性において(真実である可能性を)期待」という感じで吟味して判断している。
中にはたとえ神智学情報であっても個人的には認めない部分だってある。
世の中に100%完全というものではない。そういうものは存在しないからね。

鵜呑み信奉、
洗脳信者の君らと一緒にすんな!!
0066宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 15:57:54.83ID:M0tyx+Gc
訂正:
×「世の中に100%完全というものではない」
〇「世の中に100%完全というものはない」

で、言いたいことはその程度か?
令和の世によっても大したことないな...
0067宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 16:08:43.36ID:M0tyx+Gc
訂正:
 ×「令和の世によっても大したことないな...」
 〇「令和の世になっても大したことないな...」
0068神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/03(金) 17:35:03.26ID:P/Ix+JUW
>>65
中村元にオカルト色あると思う人なんてそうそういないんじゃないの?
0069宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/03(金) 17:46:09.72ID:M0tyx+Gc
>>68
はいはい。

生前、中村氏は
神智学(思想・運動)にも大変ご理解とご協力を下さったけれどもね。
0070神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/03(金) 20:19:10.03ID:L2S67V1d
つまり宝珠は
中村元がオカルト盲信痴学と世間が思う方が蓋然性が高い
と主張と
0071宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 02:27:59.59ID:qTMaOQy1
>>70
意味不明...。

だから、
中村氏が単なる仏教枠や印度哲学の範疇を遥かに超えた(真理の)研究者、
理解者であったということであり、神智学についても高い評価を持ってみていたと思われるのはまず間違いがないこと。
ただ世間一般においては、中村氏についてそこまで知られてはいないということにしか過ぎない。

ブラヴァツキー著『シークレット・ドクトリン』
邦訳書の帯には、中村氏からは以下の推奨分を頂いています。

 『シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。
本書は1888年に出版されて以来、アインシュタインやカンディンスキー、イエーツやモンテッソリなど20世紀を
代表する西洋の思想家や科学者、芸術家たちに多大な影響を与えてきた。
 H・P・ブラヴァツキーは、アジアの人々に自分たちの宗教的、文化的伝統の尊さを自覚させ、アジアの精神的
復興に大きく貢献した。(東大名誉教授 中村元)』

“オカルト盲信痴学”などと
フザけて馬鹿にするのは止めてもらえますかね?
まっ、すべてあなた方の低レベルが自ら露呈するだけのことだけどね...。
0072宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 02:33:27.12ID:qTMaOQy1
所詮、まともな議論ではこの私には敵わないから、
具体的な内容のないただの悪口と誹謗中傷しか書けない。

要するに、
低学年の小学生が「おまえのカーチャン、でーべーそ!!」
と罵ってるのと同じレベルだなぁ。

だから別に、
無理に投稿しなくてもよいぞ。。。
0073宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 05:26:13.96ID:qTMaOQy1
----------------------------新基準------------------------------
とにかく、
令和の時代となってここもそろそろ一段二段とステップアップしたいと思います。

まずは「心霊存在」の一つ、「輪廻転生」(生まれ変わり)の一つすらも認められないような低レベルとは、
私はもう対話するのは止めにしたいものと思う。
そういう人というのは、この二つが理解できるようにだけでも多分、
一生涯を軽く費やしても難しいでしょうから、それではあまりにも無駄な時間だから。

最低でも、
この二つの条件をあっさりクリア―してる人だけ、
このスレで投稿を願いたい。
この二条件すらも満たせない人は、
どうぞ、どこか他で修行(理解できるよう)してきて下さい!

以降、宜しくお願いします!!
0074承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/04(土) 05:47:09.72ID:GRrhN7W0
新年早々、またアホな事を。(笑)
比較宗教学者の中村博士が
「真理の研究者で理解者」?(笑)
知識だけで仏教が体得出来るとでも言うつもりかね?(笑)
要は、宝珠の妄想に都合の良い事を言った学者を持ち上げてるだけだろ。(笑)
同時に、それは釈尊の遺法を、六波羅などの行をも否定する立場だ。
西洋式の学問では「真理が言語記述可能」としているが、
これは仏教でも道教でも神道でも否定されている大前提。
中村博士の真意は知らんが、仮に彼が「釈尊はアートマンを説いた」としていたとしても、
(実際、そう書いてるらしいが。)
それは仏教ではなく、比較宗教学者の一説に過ぎんわな。(笑)
君が東大の大先生を信仰するのは勝手だが、
そんなものを押し付けられてもね。(笑)
重ねて言うが、君達が君達の考えた「仏教」とやらを信じるのは勝手だ。
しかし、何度も論理的に否定された妄想を、世俗の権威の力で曲げられると考えるのは大間違いだよ。(笑)
まぁ、これはいくらお勉強しても判らない人には判らない話だから、期待はしないがね。(笑)

(^。^)君のような権威主義と、七氏らの立ち位置の違いは、君には一生解るまいて。(笑)
0075承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/04(土) 07:02:44.56ID:GRrhN7W0
とは言え、この権威主義者のしたような色眼鏡による誤読は、我々も行っているという可能性は忘れてはならない。
現代科学知識による誤読や曲解、現在社会常識による誤読や曲解、そして先のような権威主義的なもの。
更には自己の煩悩や執着に由来するもの。
無いとは誰も言えんわな。(笑)

(^。^)あと、宝珠は己が腹が立ったのは何故か、よーく考えてみる事だ。
如実に自分の心を知るというのと、シンチの妄想に耽るのは全く違うことだと判ると良いんだがね。(笑)
0076宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 07:03:25.24ID:qTMaOQy1
>>74
>知識だけで仏教が体得出来るとでも言うつもりかね?(笑)

いやいや.誰もそんなこと言ってないから。
私もいってないし、中村氏だって仏教とは「道」であり、
実際に体験しつつ自ら実際に登るものだとみているに決まってる。
ただし、中村氏は学者なのであって、だからこそできるものがある。
そこに使命がある。

>要は、宝珠の妄想に都合の良い事を言った学者を持ち上げてるだけだろ。(笑)

いえいえ.意味不明ですね。
「心霊存在」も「輪廻転生」もすべて仏典に説かれていることですから。
もちろん、神通発揮についてもですね。それはオカルト妄想でも何でもなくブッダの教えの部分です。
つまり、あなたのような(オカルト妄想)発言をする者というのはブッダを愚弄する大変な悪業ですよ。
アートマンについてももちろん然り。それは中村氏個人の独創などではなくて、
真面な研究者の多くがブッダはアートマンなど否定せず、
それどころか普遍的で清浄なる本来の自己に目覚めることこそが教えの本意であると公言しています。
その理解は仏典の記述内容と見事に合致するものです。
対して、テーラワーダの主張と「アートマンは無い」とみなす無我の理解などというものは、
彼ら部派仏教が勝手に構築した教義(アビダンマ)にしか過ぎず、
当然、仏典の記述には反するものであり、本来のブッダの教えとは異なるものです。
つまり、事実上の反仏教はそちら側です。

>七氏らの立ち位置の違いは、

永い付き合いとなったけれどもそろそろ七氏とも対話は終わりにしたいと思っている。
心霊一つ、輪廻転生一つすら分からない者と話しても無意味なんで。時間の無駄。
すべてブッダの説かれたものです。

己の勝手な唯物論(個人的な妄想)と結びつけようとブッダの教えを曲解しようとしているのは彼の側でしょう。
私の主張はすべて仏典にあるので提示もできるから。
しかし、彼の主張ではそれはできない!!
これが決定的な差異です。
0077宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 07:11:52.03ID:qTMaOQy1
参考:
 『atmanという言葉は必ずしも否定の対象となっていないのである。以上のように、古い経典ではatmanやattaと言われた我の否定ではなく、
atmanでないものをatmanの如くみることを斥ける意味で無我を説き、atmanをatmanとして正しくみ、“真実の自己をたずねよ”といっている
のである。非我なるものを我とみてはならないというのである。この意味で、佛陀の教えは必ずしもインド的なものから全く別であったといっ
てはならないであろう。ところが、やがて此の“アートマンでないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として用いられ、
我の存在の否定の意味をもつようになり、これが、部派佛教の考え方となったのである。我を常一主宰と規定して、そのような何者かがあると
するのが、輪廻転生を説くバラモン教のおしえであり、其にたいしてそのような我はないというのが釈尊の教えであると考えたのである。この
ように、古い経典に用いられた「我」の理解がどうして解釈の違いをおこすことになったのであろうか。恐らく、かの『ミリンダ王問経』に見
られるような、ギリシャ的な思想の影響をうけて形成された説一切有部の教学の性格によるのであろう。』
(武邑尚邦著『東西思潮と仏教思想』)
0078宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 07:38:31.65ID:qTMaOQy1
◇座談会◇葬式仏教の意義(上)
 だれのために葬儀をするのか、死後の世界はあるのか、
 霊魂は不滅か、葬式仏教でなぜ悪い? ――ヴェテラン僧侶が熱く語る

 『 --中略-- それから先祖供養の起源も初期仏教からある。そのあたりは『増一阿含経』に出てきます。
 あるいは最近、ブッダは魂というものを認めていた可能性が指摘されています。。「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)の中には少なくとも
二カ所、その証拠があります。それは「ヴィンニャーナ」という言葉の用例です。これまで「識」とか「識別力」と訳され、とくに注意を引
いていたわけではなかったようです。しかし、実は中村元先生がかなり以前から、岩波文庫の『悪魔との対話』の訳注に、「ヴィンニャーナ」
に対して「霊魂のようなもの」とか、「ドイツ語ではSeeleという」、つまり霊魂と書いているのです。さらに昨年出された「相応部」の新し
い訳(春秋社)では、「ヴィンニャーナ」に対して、本文はやはり「識」ですが、注にははっきり「たましいのこと」と書いてあります。
 玄奘三蔵が留学した頃ですから、六、七世紀段階におけるインド出家僧の半数は実際的には霊魂実在論だったというのです。この状態はイ
ンド仏教が滅びるまで続いたと書かれています。
 仏教における霊魂の話になると、必ずといって良いくらい出てくる無我説や非我説にしても、少なくとも当初は、たとえば私の特定の部位
を指して、そこに私がない、外部のものを指して、そこに私はいない、そういう意味だったのに、後世になってから拡大解釈されて、霊魂否
定論の意味になってしまったらしいのです。』
(正木 晃)
0079宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 07:39:51.58ID:qTMaOQy1
 『第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教に
おける無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘
して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代
に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。
したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナ
ーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体とし
ての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。

 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而
上学的論議として斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の
意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き
生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論
との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳
したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏
教のアナートマンの原義にふさわしい。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)
0080承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/04(土) 07:42:34.42ID:GRrhN7W0
前にも書いたことがあったはずだが、
仮に釈尊が「本当の私」なんてものを想定してたなら、
「彼あるが故に此あり」
とか言わないで、
アートマン在るがゆえに我あり
と言ったはずでしょ。
それとも、釈尊は誠実さの欠片もないゲスだと?(笑)
そして君らは、
仏教教団は経典を正しく伝えたが、解釈は誤ってる
と口を揃えるが、
それは国連で各国主導者に腹を立ててたあの子供と同じ、
自分の都合の良い妄想と現実の区別が付かないだけ。
二千五百年間、仏教教団にはバカしか居なかったと本気で考えてるんだとしたら、
世の中舐めすぎだよ。(笑)

(^。^)一体、どれだけの人が一生を費やしてきたと思ってるんだ?(笑)
0081宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 07:46:30.92ID:qTMaOQy1
一体、あなた方がどんな書物で仏教を学んできたのかが私には不思議でしょうがない...。
?????
0082宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 08:06:52.07ID:qTMaOQy1
>>80
>アートマン在るがゆえに我あり
>と言ったはずでしょ。

だから、
そうしなかった理由についてもこの私が何度も何度も教えてきたでしょう!

バラモン教(バラモン経典)とは一口にいっても実に広大なんですよ。
その中の多くには、酷い迷信とブッダが認めない生き物の生贄を捧げての祭式呪法の万能という妄想...などもある。
なので、バラモン教で正しい。バラモン経典でそのまま問題なしだ...という単純な肯定姿勢は採らないのです。
同じでいいなどと思われたら困るのです。同じものだと思われたら最期です。
それは永い年月の間に、ブッダの教えは完全にバラモン・ヒンドゥーに飲み込まれて完全に消滅するだけなのだから。
そうなのことは最初から分かりきってるから。

で、そして更に肝心なことは、
当時のバラモン聖者らが体得していた境地は実際にアートマンではなかったのだということ。
これを実現したのはゴータマであり、バラモンたちではなかったのです。
だから、噂を聞いたバラモンたちがブッダをブラフマン
(アートマンとの融合実現者にして至高神)として崇拝するために集ってきたのです。
これも、もちろん仏典の記述で確認できることだ。
0083宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 08:12:34.93ID:qTMaOQy1
とにかく、
「真実」(真理)を追究しようという勇気ある者以外はこのスレでは無用です。
既存のサンガの伝統をただ盲信するだけの人など要らないから。
0084宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 08:15:35.88ID:qTMaOQy1
>>80
>二千五百年間、仏教教団にはバカしか居なかったと本気で考えてるんだとしたら、
>世の中舐めすぎだよ。(笑)

(師の話を)疑うことを許さない伝統だからね。
そこはオウムと同じことだな。
0085宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 08:26:02.55ID:qTMaOQy1
参考:
 『「仏教は無我にて候」と昔からいわれている。しかし、最初期の仏教では、無我説ではなく、非我説が説かれていたと見るべ
きである。無我説は、そもそもアートマンなるものは存在しないという、高度に形而上学的な議論を骨子とするものであり、釈尊
には似つかわしくない。ちなみに、のちに無我説を唱えた仏教は、輪廻の主体としてのアートマンがないのなら、輪廻や因果応報
をどう説明すればいいのかという問題の解決に苦心することになる。とてもではないが、無理なことを説明するために、多大な学
問的労力が払われた。』(宮元啓一著『仏教誕生』筑摩書房刊p173-174)

 『そこで、ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学的な
質問には、沈黙をもって対応した。
 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己ではないならば、そもそも自己なるものはない
のだとする、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった。親の心、子知らずというか、後世の仏教徒たちは、ゴータマ・
ブッダの重要な戒めを忘れてしまったのである。』(宮元啓一著『インド哲学七つの難問』講談社刊)
0086宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 08:26:37.07ID:qTMaOQy1
 『仏教の認識論では知覚が決定的に重視されるが、--中略-- ゴータマ・ブッダは、知覚できるものを端的にいったまでのことで、
知覚できないものは実在しないなどとは一言もいっていない。(p84-86) --中略--
 こうしたことを総合的に勘案してみれば明白なように、ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないといったが、自己とは何かとい
う質問には沈黙するのみであった、そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。
 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからいつのころからか、五蘊のいずれも自己でないならば、そもそも自己なるものは存在
しないのだとする、乱暴なことに、きわめて形而上学的な無我説という主張が現れ、やがて同様に形而上学的な、すべては空である
という主張が現れるようになった。それも、気分としてではなく、理論としてそうした主張は展開されたのである。
 ゴータマ・ブッダの経験論の心髄は、ついに後世の仏教徒たちにはわからなくなってしまったのである。--中略-- 少なくともゴー
タマ・ブッダ、最初期の仏教は、そのような見解に立つものではなかった。(p186-187)--中略--
 はるか後世の無我説では、自己(アッタン、アートマン、漢訳で「我」)は存在しないとされるが、ゴータマ・ブッダはそういう考え
と無縁であると述べた。
 じっさいのところ、ゴータマ・ブッダは、自己の存在の否定どころか、自己を肯定的に扱って語ることも多かった。(p188) 』
(宮元 啓一著『ブッダが考えたこと』春秋社刊)
0087宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 10:59:37.49ID:qTMaOQy1
>>74
>しかし、何度も論理的に否定された妄想を、

「意味不明」過ぎるね。
非理論的なのはあなた方でしょ。
盲信、洗脳状態....。
0089宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 13:30:54.98ID:qTMaOQy1
>>88
ほれ >>72
0090神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/04(土) 14:35:43.90ID:Px0Q9hIc
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/840

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/825-833
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/841
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/855-857
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/906
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/957

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-916
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/968-969
0091宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/04(土) 15:44:09.57ID:qTMaOQy1
>>90
まさに屁理屈と詭弁の固まりだ。
“心の素直さ”の無い者といくら対話してもショウガないこと。
何故、部派仏教の間違いが二千年近くも継承され続けてきたのかは、
このセブンを見ていれば分かるというもの。

その七セブンと対話する気力はこの私にはもうないから。
もう、若くないのでね...。

どうぞ、速やかにココを去ってくれたまえ!!
お元気で。
0092神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/04(土) 15:59:20.60ID:V80Bb1d3
>>91
しがみつくイデオロギーはオカルティストのまま宝珠が(態度的に)御隠居化するとはw

しがみついている先が唯物かオカルトかの違いで、態度が同じコースを歩んでいる

そんな風な年の取り方はしたくないものだ……
0093神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/05(日) 12:56:37.54ID:YEEyYuF9
涅槃を知覚する主体について

上座部とミックスメソッド:主体の問題
https://ameblo.jp/morfo/entry-12146537418.html

上座部では心が涅槃を知覚する(対象とする)とされております。
心というのは細かくは心と心の働きである心所に分類されますが、どの道意門のことで釈迦のいう一切に入ります。
ですからその対象である涅槃も一切に含まれ、無為法として一切法の中に含まれるというわけです。
0094宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/05(日) 17:22:59.07ID:+MUBY1+v
>>93
 迷路に落ち込んで混乱状態にある現存する仏教諸派ら、その各派の見解の中からただ都合の良さそうな見解を引き出してきても
ショウガナイない。肝心なことは、ブッダ唯一の教えが含まれた仏典(原始経典/仏伝)に照らし合わせなければ無意味でしょう。
 まず、「心」を持ち出してくるというのも実に曖昧なものであって、停止すべき思考活動(心)の奥で起きる三昧の境地に対し使え
る話ではない。一切の範疇である有為としての「心」と無為である涅槃が同じ一切内で結ばれるのか意味不明。
 「識」もアートマンではないとブッダからは厳しく戒められていること。その識を涅槃と結びつけていくという見解もあっては
ならないことです。
 そういった屁理屈がアビダンマと仏教徒たちの正当化を図る偏見でしょう。そのようなデタラメ勝手な主張と見解は、仏典からは
絶対に導き出すことはできないから。

 不純物を多く含むとはいえ、ブッダ御自身の教えはすべて仏典に在る(それ以外から見出そうとすることはナンセンスだ!)。
その仏典の記述と矛盾する内容は仏説とは認められない。アビダンマ教学は仏典とは合致しない。

 『原始仏教において、あらゆる存在は色・受・想・行・識の五蘊に分類された。しかし、次第に存在の分析が進み、一切法
について十二処あるいは十八界という分類がなされるに至って、そこには五蘊には含まれない涅槃等の無為法も諸法の分類に
含まれるようになった。アビダルマに至って、有為法を機能的に、色・心・心所・心不相応行に分類し、さらに、これらに無
為法を加えた五位の分類が成立したのもこのような事情によるものである。』
(吉元 信行著『アビダルマ仏教における処・界の建立と八句義』)

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0095宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/05(日) 17:25:02.82ID:+MUBY1+v
 「一切」とは、「六根.六境/十二処」のこと。これは「五蘊」ということであり、「五蘊」は“厭い離れべき悪魔”であると
ゴータマはいった(「一切法」とは、一切の諸法則についての教えとその中における人間の正しい生き方、及び修行の在り方を
説くもの)。
 「五蘊」は「無常」であり、「無常」であるものは「苦」(自分の思い通りにならないこと)である。そして、「苦」であるものは
「無我」(わたしのものではなく、わたしの本体でもない)であるといった。“厭い離れべき悪魔”であり、「苦」だという「五蘊」
(つまり、これが「一切」です)の中に、仏教の目指すべき究極のゴールである「涅槃」が含まれる筈がないでしょう。
 「五蘊」というのは、“五取蘊苦”とか“五盛陰苦” (五蘊/一切法に対する取著執着はすべて苦である-水野氏)として知られる。
そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、この場合「行」は五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切
法そのものを指している-水野氏)だといわれる。“苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、「苦」の
根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。

 仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりに
して衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦
の中にあるわけがないのです。涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、その境地は、“一切と
はまったく異なるもの”です。それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。
そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている(当たり
前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。

“涅槃とは無為”であり、「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、元々、現象界を
超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。
0096宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/05(日) 17:45:59.88ID:+MUBY1+v
まず、あなた方(すべてのブッディストら)は素直になりなさい!

その認めたくないという気持ちは私にも分かる。悔しい気持ちはよく分かる。
しかし、それらを乗り越えないことには決して(真実が見える)未来が自分に訪れることはない。
現属する仏教教団、仏教諸派の中はブッダの教えを正しく継承したところはない。
歴史の中ですべて消滅した...。
まずはその現実を知り、悲しみの中でこれを事実として素直に認めること。
この私がそうであったように...。

それでも、もちろんすべてが無駄で無意味というものではなく、
各派それぞれの伝統と蓄積してきたノウハウにおいて役立つ素晴らしいものが多くあるということ。
その中から自分の選択すべき道をそれぞれが摂取するのです。
そしてまた、現存する仏典にはまだまだ多くのブッダの教えも残っている
(ただ現存教団がそれを正しく理解し、実践していないだけだ)。

真理そのものは永遠だ。
0097神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/05(日) 21:05:18.60ID:+5YsKLv+
>の見解の中からただ都合の良さそうな見解を引き出してきても

>すべて仏典に在る  >それ以外から見出そうとすることはナンセンス  >>95


>認めたくないという気持ち  >悔しい気持ち   >>96



鏡見て、もう一度言ってほしいもんだw
0099宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/06(月) 00:25:29.56ID:7MiThcM6
>>91
追記:

人の話を聞かない。そして、認めない...。
そういった頑迷な態度はすべて洗脳からくる。
オウム信者がそうであるように。

彼ら信者たちは、サリンの無差別テロで多くの人間が死に、
今でも何人もが後遺症で地獄の苦しみを受け続けているというのに。
それが教祖麻原の指示であったということをいまだに認めません。
また或いは、彼らから見れば肉体死などは大した問題ではなく、
そのことで死者の魂がより高いステージへと移行したのならば素晴らしい救いだということになる。
そして、マスコミを通じて流されるオウムの恐ろしい実態についての情報などは、
それらすべてが情報操作されたデッチアゲの宗教弾圧に過ぎないものと見ている。
事件発生からほぼ25年が経過しており、しだいに人々の記憶から出来事が風化し始めると共に
また、再びオウムへ入信する若者の数も増加しつつあるという。

>>97-98
ほれ >>72
0100承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/06(月) 06:17:03.68ID:3NNRF5cl
要するに宝珠の脳内仏教では、

釈尊はアートマンが存在すると、それらが生まれ変わりを繰り返すと考えてたことになっていて、
バラモン教と全く違うように見せかけたかったから、(笑)
弟子達にわざと分かりにくい話や全く関係ない話ばかりした誠意の欠片もない、性格の悪い奴だと。
その弟子達は、そんな釈尊の本心をを理解できないまま、何故か心酔して全く違う概念を立ち上げて
何故か経典としては信頼できるものを残し、仏教として継承してきたバカしか居なかったと。
そして、現代になって一部の学者と宝珠だけが本当の釈尊の教えを理解したと、

こういう事になっている訳だ。(笑)

で、その妄想に従わないと「洗脳されてる」「オウムと同じ」?(笑)
で、その妄想を認めないなら「もう来るな」?(笑)
会議で決めた「教義」に従わないと異端扱いして殲滅したキリスト教や、
落選すると陰謀だとかほざいて連続テロ起こしたアサハラと、
下らないシンチの妄想に従わないと曲解して全否定する宝珠の
「僧侶を辞めろ」発言や「来るな」発言は一緒にしか見えないけどなぁ?(笑)


(^。^)これだから、独善的排他主義で反社会的なキリスト病の連中は嫌いなんだよ。(笑)
0102神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/06(月) 11:26:54.45ID:ajIXE0IS
「小空経」『マッジマ・ニカーヤ』第121経
http://manikana.la.coocan.jp/canon/sunna.html


【清浄であり最高にして無上な空性】
アーナンダよ、過去の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していた沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していたのである。

アーナンダよ、未来の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう。

アーナンダよ、今現在、清浄であって最高にして無上な空性に達して住している沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているのである。

それ故に、アーナンダよ、ここにおいて「清浄であって最高にして無上な空性に達して、わたしは住しよう」と、このように、アーナンダよ、学習すべきである。

このことを語ったのが、尊師であった。心かなえる尊者アーナンダは、尊師によって語られたことを大いに喜んだ。
0103ポッタン師
垢版 |
2020/01/06(月) 15:47:51.56ID:f599Z0Ql
102.バカ丸出し、である、よ。
大爆笑である。
バカが書いたバカ教典を信用するバカである。
大爆笑である。
0105宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/07(火) 03:37:28.82ID:xMs3kpDQ
>>103
>バカ丸出し、である、よ。

鏡はあるか?

おまえは出て来なくてもよろしい。
何も分からないくせに...。

>>102
以前にも、
1-2度ほどこの経文は投稿されたことがありましたね。
確かに気になる言い回しです。

一応、私なりにこの経文についてすでに幾つかの見方がありますが、
その意図するところは何かを改めて調べてみたいと思います。
時間を貰います。
0106宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/07(火) 03:39:06.49ID:xMs3kpDQ
>>100
>要するに宝珠の脳内仏教では、 ---中略---
>こういう事になっている訳だ。(笑)

この部分の投稿は、
もしかしたら、あなたのこれまでのすべての投稿の中で一番いいものかもしれない。
そうそう。その部分の視点がとても重要なんですよ!

 そもそもまず、その「アートマンを認めればバラモン教と同じ」といった単純レッテルを貼る感覚や単純理解がまったく以て
お話にならない。それから、とくかくこの私の投稿を真剣にすべて読めよ!! すべて書いてきたでしょうが、何度も何度も....。
 だから、「アートマンは輪廻しない」と何度も何度も教えた筈だ。輪廻の主体は“魂である「識」”だと繰り返し教えてきた。
その「識」をアートマンと誤認してはならないとね。そして、本来の仏教では、「ヴィンニャーナ」といって魂を認めてきたと投
稿したばかりです。ただし、これはアートマンではない。究極の悟りにおいてはこの魂すらも消滅する。
 このアートマンではない「魂」をアートマンだと誤認していたのが当時のバラモン行者の達人たちでした。すべての輪廻を体験
してきた次元を超越した超存在(魂)との融合合一の境地であり、当然、これは凄まじい能力を獲得する。それが梵網経で指摘され
た驚異的なバラモンたちであり、そして、アートマンではないものをアートマンと誤認した方々です。そのことをブッダが指摘さ
れたものがこの経の意図ですよ。
0107宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/07(火) 03:39:44.37ID:xMs3kpDQ
 ただ単純に、ブッダにとってアートマンを認めることは間違っている彼ら梵網経のバラモンたちをもそのまま正しいものとして
認めることとになってしまい、結果的にはゴータマも彼らと同一視されてしまうことを意味してしまう。それでは、アートマンで
はないものをアートマン視することとなってしまい、尚且つ、ゴータマ独自の尊い教えがバラモン教の中へとすべて吸収され、や
がては完全消滅してしまうことは目に見えている。だから、ゴータマはただ単純に「アートマンは在る」とは言わなかったのです。
もちろん、現実には無いわけではないので(事実、こうして「在る」のだから)、決して「アートマンは無い」とは言わなかったの
だということ。「アートマンは無い」と述べた言葉は一つも確認されない。
 それは例えば、二千年前のパレスチナにイエスが登場して、それまでの伝統ユダヤ教の間違いを正した(間違っている部分を指摘
した)。それを認めた少数の者はキリスト教徒となった。しかし、断固として認めず、拒否する者はそのまま伝統ユダヤ教徒のまま
となったということ。この構図は、ゴータマ・ブッダにも近いものがある。ブッダはそれまでの伝統バラモン教を正した。つまり、
その中の間違っている部分を指摘された。それを受け入れた者が仏教徒となった(ただし、その教えは正しく今日まで伝わらなかっ
た。つまり、その伝承には失敗した)。他方、バラモン教はその後も発展を遂げてヒンドゥー教として今日のインドに栄えた(もちろ
ん、ヒンドゥーとはいっても実に広大であって、この中には悍ましい迷信から本物の覚者の教えまでとてつもなく幅広い)。
0108宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/07(火) 03:40:24.74ID:xMs3kpDQ
>その弟子達は、そんな釈尊の本心をを理解できないまま、何故か心酔して全く違う概念を立ち上げて
>何故か経典としては信頼できるものを残し、仏教として継承してきたバカしか居なかったと。

 ブッダ御自身が世を去り、ブッダから直接に教えを聞いていた直弟子たちも、その直弟子から教えを受けていた者も皆すべてこの
世を去ってしまった。しかし、その教えを纏めた経典が成立して、それは後世へと残された(経典の編集者たちも世を去った)。
 現存しているテーラワーダというのは部派仏教の残存であって、彼らが信奉しているのは自分たちの教義を纏め上げたアビダンマ
というものです。アビダンマは部派によってバラバラであり、現存するテーラワーダのアビダンマの内容は経典の記述とは必ずしも
一致しません。彼かの信奉はあくまでもアビダンマであって、経典(の記述)そのものではない。それが事実です。
 このことと似たような事例でいえば、実際に日本仏教が信奉しているのは創作偽作の大乗諸経典群であって、ブッダの教えを伝え
る原始経典ではない。個人の僧侶で勉強する者はいても僧院では扱われない。だから、ブッダの教えは学ばれていない。
 更には、禅宗ともなってくると、もはや大乗経典すらもマトモには読んでいない(内容を教わらない)。経典経本の読誦は修行とし
て大きな声で早口で唱えさせられたりもし、そこに一体、何が書かれているかなどは実際どうでもいいこと。
 神智学でも、「覚者を崇拝するな。(覚者への)献身はいらない。」といわれるけれども、禅では、「ホトケに遭ったらホトケを殺せ!」
ともいってるところから見ても分かる通りで、経典に書かれてある中身などはある意味どうでもいいことなんですよ。彼らがやること
は、禅の師匠の言葉を受けてその意味を吟味すること。そして、ただひたすら座ることです(座禅の実践)。だから、極端にいえば経典
などはどうでもいい。テーラワーダだって同じです。彼らが重視するのは自分たちの師匠の言葉です。経典の文章ではない。そして、
アビダンマの教義(ブッダの教えをそのまま纏めたというものではない)です。
0109宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/07(火) 03:41:13.43ID:xMs3kpDQ
>そして、現代になって一部の学者と宝珠だけが本当の釈尊の教えを理解したと、
>こういう事になっている訳だ。(笑)

 よく“信仰は盲目”というでしょう! ただし、学問は違う。それは信仰ではないから。テーラワーダとは異なり、ただひたすら経
典には何が書かれているかを読み、それを分析している。それが真実かどうかではなくて、ただ書かれている内容とその意味であり、
書かれた時代背景やその書かれた理由などを知ろうとする。その経典研究が彼らの専門なのだから、アビダンマ信奉の信仰者たちとは
根本的に違う。つまり、彼らは信仰者ではないから、感情には左右されることなく純粋に経文の記述そのものを分析できる。

>で、その妄想に従わないと ---中略---
>「僧侶を辞めろ」発言や「来るな」

 「たかが心霊存在一つ認められない者、輪廻転生を理解できない者は来るな」とはいった。唯物主義者と輪廻否定の自称仏教徒らに
対してですよ。それは仏典で説かれていることであり、これすらも認められない者にそれ以上の話が分かるわけがないから。小学を出
てない者に、高等学校〜大学の内容を話してもどうしょうもない。
 これまでは、オールすべてに制限なく対話をし、議論もしてきたけれども、しかし、この私も老齢化については止められない。これ
までのような気力体力はいつまでも維持はできないから。
 そして、唯物主義者が僧侶の袈裟をしてたら、それは詐欺師だろうということをいってるのです。そんな者に僧侶の資格を与えては
ならないのですよ。だから、今後は僧侶となる人間の選考基準は変えられなければならない。
 そういうことですよ!
0110承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/07(火) 05:32:01.26ID:pYyOOPGX
本当にどーしよーもないバカな奴だね。(笑)
同じトンチンカンでも、簡潔な分だけまだボットン便所虫のがマシだ。(笑)
コイツらは議論がしたいんじゃなくて、
馬鹿げた脳内仏教を垂れ流したいから、特定の文字列に脊髄反射してるだけだからなぁ。(笑)
まぁ、またあすにでも、この気違いの妄想の添削でもしてやるかね。(笑)

(^。^)今日は一寸笑いすぎて訂正してやる気にならない。(笑)
0112神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 06:08:39.37ID:ZcZSRsyX
そして当時のバラモン聖者をそのような低レベルのものとミスリードした上で、
そんな程度のミスリード外道像に対して、それは悟りではないと断じて勝ち誇るのがゴータマ仏陀であったと、
仏陀に対する非礼

それが神恥学の行い
0114神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 06:22:28.87ID:ZcZSRsyX
識ごとき、識無辺定で消えますがな

無色界禅定で悟るんなら

釈尊はアーラーマ・カーラーマやウッダラカ・アールニーの元で修行が終わり、
苦行生活に入る必要も、
菩提樹の下で悟りを開く必要もなーんにもなかった

というのが神恥学
0115神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 06:27:12.30ID:ZcZSRsyX
無色界禅定を悟りと勘違いするのは、現代でも
特に、ヨガ≒ヒンドゥ系に顕著で、
ネット上のスピリチュアル系のブログ情報なんかで溢れ返ってる

ここの神恥学徒もその範疇を出ていない
色々ラベルを貼り替えて扮飾してもね
0116神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 06:39:48.67ID:ZcZSRsyX
色々ラベルを貼り替えて扮飾しても
結局は、思考の骨格構造はヨガ≒ヒンドゥ系

というのはオウム心理教もまさしくそれだったね

無色界禅定を悟りと勘違いすると増長慢になり物凄く偉っそうになり絶対神になり、
テロも平気で行いかねない程の偉っそうさなのだろう

アブラハムの一神教の神も言うなれば無色界の神だし

それのラベル貼り替え扮飾が神恥学のレベルなんたらのアバターw
0117神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 06:54:01.89ID:ZcZSRsyX
そんな絶対神のために戦争で死んでワルハラに行けますか
と異教徒にひつこく聞かれた釈尊は
地獄行きですとバッサリw

無色界は人を盲目にするおっとろしい魔力を持つ
仏縁のない凡愚はやたらと禅定的に高い境地を手放し(仏縁なし)で志向するべきではないのかもしれない
ヨガ系スピリチュアルの罠がそこにある
実質、何も聞き入れずにラベル貼り替え扮飾に邁進する神恥学徒もその盲目化の一例だし
0121神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 14:06:06.54ID:fFPujjyg
無色界禅定で消えるのは色だけ
受想行識の名は消えない
想受滅定に至って名色ともに消えると一応されてるが部派や宗派によって異説もある(唯識だと想受滅定でも阿頼耶識が残る、経量部だと細心が残る、など)
0123神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/07(火) 18:13:06.05ID:yvuPy1Zq
 
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部.パオ・セヤドー

有分心.生命相続流
心の流れの相続を(仮設として)維持する(仮有なる働き)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
阿頼耶識
(仮設として)激流のごとく活動している.暴流の如し(仮有なる働き)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
(仮設としての)
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出しているとして
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする
(我所でもない.我でもない.アートマンでもない)

https://www.yuishiki.org/category/%e5%94%af%e8%ad%98/%e4%ba%94%e4%bd%8d%e3%81%ae%e4%bf%ae%e8%a1%8c/%e7%a9%b6%e7%ab%9f%e4%bd%8d/
唯識学会
阿頼耶識よりも深い世界を認識することは可能なのか?

https://docs.google.com/document/d/1k2r4v5JOLpytMl5WtlHTLmzSY8lwKoYisbbO0GE9P-I/edit#
ニッバーナというのは
マハシ・セヤドーは認識できない
それに対して
パオ・セヤドーは認識できるという立場
0125承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/07(火) 22:24:34.18ID:iDTHa+jH
>>109
先ず、「輪廻転生を認めない僧侶はー」について。
たしか、「輪廻は輪廻転生に限定した意味ではない」ことに、アンタは同意した筈だが。
そして、輪廻を否定する仏教徒は居ないと何度も説明した筈だ。
「輪廻転生を否定する僧侶」は、凡そ物質主義ではなく、全てをオカルト思考で霊のせいにする現実逃避を戒めるという文脈で語っている。
このような「心の在り方」を問う者の何処が物質主義なのか?
物質主義とは、「魂とはアルトラル体」等と似非エネルギー体を想定してる、お前らの側と言える。

その似非物理学の妄想と、人の肉体がどうやって情報交換してるのか、
進化の過程で何時からそうなったのか、
どのようにして肉体から肉体に移動するのか、
等々の問いには、アンタはマトモな答を出せずに、はぐらかしたよな?
そーゆー風に都合の良い事しか見ないから、
釈尊の、いや人の徳という概念が理解できない。
だから「釈尊は肝心な事を教えなかった」などと利己主義的な妄想が出来るし、それを指摘されて恥じることもない。
仏教は、君達のような人には理解できない。
勿論、擬似科学の学者や似非物理学の妄想で「僕らの考えた仏教」を語るのは自由だが、
我々は、そんなものには失笑するだけだ。(笑)
0126承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/07(火) 22:57:16.10ID:iDTHa+jH
また、基本的に仏教哲学では「霊」を語らない。
学僧も問題にしない。
扱うのは、祈祷僧などであり、彼らも多くは語らない。
そこにはちゃんと理由があるし、良識があれば気づく程度の話。
文脈も読み取れず、人の尊厳も理解できないような、

程度の低い

連中には言っても判らないし害にしかならんから誰も言わないだけ。
俺程度の者でも、霊を扱って神々に接したら判った話だが、
本で勉強してるような君達には理解できないだから今後も話す事はない。

(^。^)痴無戯論性故一切法無戯論性と言うし、好きに考えてれば良い。(笑)
0127承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/07(火) 23:12:56.30ID:iDTHa+jH
あと、忘れてたけど、
サンギャも当然ながら人の集まりに過ぎないんで、一定数サイコパスは居たし、惰性でやってる連中も多かった。(笑)
本物は少しだけだし、彼らも多くは語らない。(笑)
だから仏縁が無い人は本当の仏教には出会えない。(笑)

(^。^)まぁ、当たり前の話だし、それでも門は開かれてるんだから自業自得よな。
文句言う暇があるなら行しろって話。(笑)
0129宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/08(水) 02:43:19.47ID:wIkiNZN0
>>122
ブッダが説いた「識」が、
後の大乗唯識派の説く「阿頼耶識」でしょう。

ちなみに、仏教では最初から魂の存在については認められている。
それが輪廻の主体であり、仏教用語では「識」として説かれている。

 『外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、人格の主体としての 業(ごう)を保持している霊魂は
三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ
連続する有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』p164新版第1刷/春秋社刊)

>>123
阿頼耶識が「空」などは当然のこと。
この私もそのようにいつも述べてきた筈です。

とにかく、もしもこれが“おじゃるさん”
からであれば、別に投稿して戴かなくて結構ですから。
何度も忠告してきたように...。
0130宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/08(水) 02:45:09.24ID:wIkiNZN0
>>114
ゴータマ・ブッダ、
在世当時の知られている人物の中には、
“究極のアートマン実現”に至った聖者は一人もいなかったとこの私は述べているというのに、
何も今更、わざわざブッダが最初に帰依した有名な二大仙人を引き合いに出して、
あの境地で済むのならばブッダは苦労しなかった、
などと宣うというその神経は如何か?

>>115
「ヒンドゥー及び神智学の説く悟りとはすべて“無色界禅定”にしか過ぎず」、
それは仏教の説く最高境地である涅槃には至らないものとするその根拠を、
その情報ソースをここへ提供を願う。それは誰の説なのか?
できれば、著名な研究者の論文や書籍からの抜粋紹介を宜しく。
また、もしもテーラワーダの僧侶が述べている書籍の言葉があるというのならばその部分の提示を。
それらの勝手な決め付けなどすべて破壊するから。

この私は単に、
ゴータマ在世当時には完成者がいなかっただけであり、
ゴータマが現れる遥か昔の太古にはヴェーダの達人たちが完成に至っていたとみる。
もちろん、その完成者を輩出する力と伝統はヒンドゥー世界においてはこの近代/現代までも失われずに続いている。
それから付け加えて、ブッダはヴェーダの説く最高の真理については否定したことは一度もないから。
それどころか逆に、ブッダは完成者のことを“ヴェーダの達人”と呼んでいたのであり、
ゴータマ自らがバラモンたちからそのように称賛されていたのだということ。
これらは仏典の記述で確認することができる。
0131神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/08(水) 07:34:01.03ID:7T+B7XrP
サッカー、野球、最近なら陸上短距離(リレー)も
(ほぼほぼ国際試合限定でもあるが)
「侍ジャパン」「若きサムライたち」などと
「評され」「称され」ることが多くなって久しいが、
彼らは「語義通り」の「侍」だろうか?
語義通りの侍のスキルや資質を持っているだろうか?
或いは、中国戦国の世で「鬼神」などとと称される人物がいたとしても同。
0133神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/08(水) 08:56:41.30ID:gzTUebTb
>>130
>もちろん、その完成者を輩出する力と伝統はヒンドゥ世界においてはこの近代/現代までも失われずに続いている。

ラベル貼り替え扮飾の、骨格構造は結局オウムと同じヨガ≒ヒンドゥ≒ニューエイジ系スピリチュアルだからそういう”完成者“定義の考えになる

その範疇でのなんちゃって”完成者“ならゴマンといるでしょうにw

別にその範疇の内側に押し入ってまで、お前らは“完成者”じゃねーんだよタコ! なんて言いませんがな。うんうんチミらは”完成者“だね、ヨチヨチって具合でね



ただし阿羅漢であるとの授記は与えず、何で釈尊は外道に対する阿羅漢の授記をケチるんだとひつこく絡んだスナッカッタという外道被れがいたね
釈尊在世当時からおんなじ構図がこのスレでも繰り広げられている
0134神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/08(水) 09:22:01.88ID:gzTUebTb
>>131
例えば、マザーテレサも、単なる慈善活動家ではなく、「奇跡を起こした」から偉い、カトリック聖人なのれす
偉さの基準は彼女の慈善活動自体にあらず

侍は月代を剃って腰に刀を差し、切腹で非を詫びる人種なのれす
侍の基準は日本人男児ということにはあらず(そんなことをすると、人口比9割の百姓までもが侍魂をもってしまう。侍という区別が有名無実化する)

ラベル貼り替え扮飾、此処にも極まれり
0135神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/10(金) 18:48:28.63ID:EjY57Xz2
大縁方便経より〜

「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」
 
0136神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/10(金) 22:45:41.12ID:J29d4JRu
>>135
これも訳がイマイチなので直訳を貼っておくとしますかな

https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c04.htm

着目すべきは

125-5
訳文                
感受があまねく存在しないとき、いったい、感受の滅より、―この私が存在する―という〔自意識が〕ありうるでしょうか』と」  
   
メモ                
・ たとえ我が感受機能を持っているとしても、まずその我を成り立たせる感受がなければ、そもそもが成立し得ない、という反論であろうか。
しかしこれは、常住 のアートマンが恒常的な感受機能を有するのだから問題ない、という再反論を許してしまうのではないか。
訳語を含め、要検討。  

このメモですかね。
訳者はアートマンの一般的な定義をちゃんと踏まえたメモをするのを忘れてないな、と。
           
0137神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/10(金) 23:52:35.20ID:EjY57Xz2
>>136

感受は器官の作用だからそれだけで真我が有るとか無いとかの判断は出来ない

彼にして見れば 般涅槃出来ればそれで言い訳だから それ以上の追求はしないし 出来なかったと見るね

訳文抽出

 アーナンダよ、比丘が、じつに、感受を我と誤認せず、感受なきものを我と誤認せず、また『私の我は感受する。
なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』とも誤認しないならば、それゆえ、そのように誤認しない彼は、世間においていかなるものへも執取せず、無執取において恐れず、恐れなき者として各々般涅槃します。
『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と知るのです。
0138神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:13:53.62ID:YI0HdQ1W
>>137
>感受は器官の作用だからそれだけで真我が有るとか無いとかの判断は出来ない
>彼にして見れば 般涅槃出来ればそれで言い訳だから それ以上の追求はしないし 出来なかったと見るね

概ね同意
0139神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/11(土) 02:27:05.69ID:YI0HdQ1W
しかし、真我実現したと自負しているニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシも、
あるいは仏教側から見るとその真我は邪見となってしまう可能性があるねw

現在梵網経が成立したらマハラジ、マハルシなどの真我探究で気づいた真我にも理屈をつけられて

「それはすべて六つの感覚器官の接触に触れて、感受するのです。」
「感受を縁として、渇愛が生じ、渇愛を縁として固執が生じ、固執を縁として生存が生じ、生存を縁として生まれることが生じ、
生まれることを縁として老いることと死ぬこと、それに嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じている。」
「六つの感覚器官の接触の原因と消滅と楽しみと過患と離脱を如実に知れば、それら真我探究の見解より一層すぐれていることを知ります。」
「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」

とされちゃうかもしれないし、されないかもしれないw

まあマハラジは肉体を真我としたりするのは誤った見解であるとか、エゴをと真我を同一視するなかれとか言ってるけど。
0143神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/11(土) 16:53:13.03ID:k61AbhRV
>>141
きっちりと分析、分別してからそれら諸法の無常、苦、無我性を瞑想で観察して一切は苦(価値のないもの)ということを如実に体験して涅槃に入る。
涅槃に入ると識別(意識)は止滅するので分別はなくなります。

特にテーラワーダは説一切有部や経量部よりも法を細かく分別分析しているので分別説部と自称し、テーラワーダではお釈迦様は分析学者とされています。

法とは縁起の理法とか、諸行無常、諸法無我の法のことではなく、
元素論的な色法とイデア論的な心法、心所法、諸行とは独立した涅槃などの無為法があります。
0145神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/11(土) 22:15:45.13ID:NN0N19Vg
>>143
一切は苦であると明らかな智慧を持って見るとこの世に対する執着が消えるので逆に苦から遠ざかり離れる、ってことですね。

https://i.imgur.com/ON3I6r2.jpg
https://i.imgur.com/W23IEKb.jpg
https://i.imgur.com/NJFOIUq.jpg
アルボムッレ スマナサーラ
アビダンマ講義シリーズ〈第3巻〉心所(心の中身)の分析―ブッダの実践心理学
0146神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/15(水) 11:21:02.09ID:N0hClEPn
『サンユッタ・ニカーヤ』五比丘(無我相経)


3.【色】
「色は、比丘たちよ、自己ならざるもの(無我、anattan)である。
比丘たちよ、もし色が自己であったのであるならば、この色が、病のために壊れることもないだろう。
また、色において、<このように、わたしの色はあれ、このようにわたしの色はあるな>と、いうようにできるはずである。

4.
比丘たちよ、じつに、色は自己ならざるものであるから、色は病のために壊れる。
さらに、色において、<このように、わたしの色はあれ。このように、わたしの色はあるな>となすことができないのである。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html


比丘たちよ、もし色が自己であったのであるならば、この色が、病のために壊れることもないだろう。
→これはその通りだと思う

また、色において、<このように、わたしの色はあれ、このようにわたしの色はあるな>と、いうようにできるはずである。
→これはどうか?
アートマンって捉えることができない、「非らず、非らず」でしか表現できないものだから、色が自己であるならば思いのままになすことが出来るというのは変だと思う。

言い換えれば
無常なるものは我がアートマンに非らずは正しいが、
苦(思い通りにならないもの)が我がアートマンに非らずは正しいとは言えない。
もしアートマンが苦ならざるものであるならば「非らず、非らず」でしか表現できないということはない。

つまりは釈迦のアートマンに対する見解も邪見w
0147神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/15(水) 12:47:48.55ID:wTWi17Uc
対立する見解を超越すべし

五三経より〜

第四章

「すべて、常住であると説く、時間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「すべて、無常であると説く、時間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「常かつ、無常であると説く、時間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「常かつ、無常でないと説く、時間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「すべて、有限であると説く、空間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「すべて、無限であると説く、空間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「限かつ、無限であると説く、空間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「限かつ、無限でないと説く、空間論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「一つの、想を有すると説く、有想論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「多くの、想を有すると説く、有想論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「有限の、想を有すると説く、有想論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」

「無限の、想を有すると説く、有想論では、智慧の、一部は洗われても、全部は現れない。在りのままを認める者は、この見解を超越する。」〜
0148神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/15(水) 13:21:06.47ID:boy7VXB2
 
スッタニパータの第4章と第5章がもっとも古いらしい
そして
パーリ経典より
漢訳の阿含経のほうが古いと推定されることがあるらしい
それでも
文献学的には
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものらしい
それでも.とりあえず

スッタニパータ
790
(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには
(仮設としての.無明.我癡・我見・我慢・我愛による)
見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない
795
(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている
(仮設としての.無明を手放している)

872
(仮設としての.無明.我癡・我見・我慢・我愛による)
名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る
874
…けだしひろがりの意識は
(仮設としての.無明.我癡・我見・我慢・我愛による)想いにもとづいて起る

たとえば
「釈迦の見解も邪見」という(仮設としての)想いも.現れ変化して滅して逝く
それゆえに
我所でもない我でもないアートマンでもない
0149神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/15(水) 13:44:22.91ID:qepyc4TK
>>148

>>146が引用している仏陀のアートマンへの(仮設としての)想いもまた、現れ変化して滅して逝く
それゆえに
そね仏陀のアートマン論は仏陀にとっては我所でもない我でもないアートマンでもない
0150神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/15(水) 16:07:22.06ID:boy7VXB2
 
>>149 ID:qepyc4TK殿の主張の意味が.わからないけど

仏教経典は
編纂されたものらしいけど
それでも.とりあえず

大念住経(大念処経)

(仮設としての)身体は
(仮設としての)地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素に依存している

この微細な粒子も滅して逝くのなら
それは

自分でもない
自分のものでもない
自我でもない
ただ現象であると
(仮設の働きとして)知覚して住むことである

という感じで良いんジャマイカ?
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

ちなみに
大乗の場合は
般若の智慧によって → 一切法を観照するらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
0151神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/16(木) 16:04:02.14ID:v/I9tV4e
>>146
>比丘たちよ、もし色が自己であったのであるならば、この色が、病のために壊れることもないだろう。
>また、色において、<このように、わたしの色はあれ、このようにわたしの色はあるな>と、いうようにできるはずである。


結局、釈迦の比丘へのこの説法は「釈迦が持つアートマンに対する見解」を説いているということでよろしいかな?
0152承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/17(金) 04:49:06.58ID:4ulrWFS/
やはり、戒律の下で余計な柵を棄てた生活というのは必要なんだなぁ
と、恐らくは相当なストレス下で生活してるであろう人らの珍解釈を読むと実感するね。

(^。^)俺は向こうじゃなくて本当に良かった。(笑)
業とか縁起ってのは、本当に恐ろしい。(笑)


あぁ、君は怒る必要は無いよ。(笑)
なんと言っても、釈尊の本意が手に取るように分かるんだろ?(笑)
それはもう、大力の菩薩の位で、
いや、釈尊が「言葉では説けない」とされた悟りを簡単に言葉に出来たと言うのだ、
釈尊より深く悟りを開かれていると言っても良いだろう。(笑)
実に見上げたものです。(笑)
「相当なストレス」など、貴方には無縁の事でしょう。(笑)
自分の心も縁起も、如実に観る事が出来るんだから、如意宝珠を手に入れたと言える訳ですし。(笑)
いやー、実に羨ましい事で。(笑)
ささ、こんな所で油を売ってないで、世間には救いを求める人で溢れ返ってますよ?(笑)
経典にあるように、どーぞ「世間で遊んで」きてください。(笑)

(^。^)y-~アホウドモメ
0153神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:27:52.42ID:N9N596jQ

如意宝珠って何ぬねの?ということで.とりあえず

この『御遺告』が↓空海のもので無いらしいけど.とりあえず

[PDF]日本密教における舎利と宝珠 - 高野山大学

如意宝珠は無始以来、
自然道理の如来の分身であって…

そして「自然道理の如来の分身」というのは真実の如意宝珠であり、
祖師大阿闍梨の口訣に任せて成生する玉である、とする。…
  _  _  _

ウィキペディアも間違ってる場合もあるらしいけど↓とりあえず

如意宝珠
サンスクリット語で
チンターとは「思考」、マニは「珠」を指す言葉で、
「意のままに願いをかなえる宝」と解釈できるらしい

https://en-park.net/words/7441
大日如来は宇宙そのもの、宇宙の全て、
森羅万象であるとされており、
この世の最高位の存在、根本仏とも言われてるらしい

仏教の開祖は釈迦であり、
この世ではじめて悟りを開いた人物ですが、
大日如来は
その釈迦をも創りだした創造主といった考え方に近いらしい

大日如来からの → 如意宝珠?
  _  _  _

あるいは宝珠真範どのが言う
アートマンからの → すべての宇宙?
0154神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 07:36:18.25ID:N9N596jQ

経典にあるように…世間で遊んで

https://true-buddhism.com/shuha/power/
自力と他力の違い

ある人が、地獄、餓鬼、畜生の三悪道の苦しみを恐れて、戒律を守るとします。
戒律を守ることによって心を一つにする禅定を修めます。
禅定を修めることによって
(たとえば四如意足とかの)神通力をならいます。

神通力を習得して初めて世界中を意のままに
(仮設としての.無明.我癡・我見・我慢・我愛に囚われることなく)
遊ぶことができます。

私たちは果てしない遠い過去からの
煩悩のサビによって曇っているものの、
サビの底には輝く仏性があると思っていることです…
  _  _  _

「仏性なんて無い」と思ってる人も.たくさんいるかも?

もっとも
仏性が無いのなら
成仏することも出来ないような気もするけど…

(仮設としての)無始からの無明が
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている.無明薫習

それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
0155神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:35:55.16ID:5KlagnWX
承狂って狂っているのを承知しているって意味なの?w
0156神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 09:37:54.49ID:5KlagnWX
中部経典 薩遮迦小経


身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体(我attā’ti)はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。

もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。
それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

『もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずである』のに、
心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。
0157ポッタン師
垢版 |
2020/01/17(金) 10:44:37.43ID:mAY+YgPd
バカが書いたバカ教典を信用するバカである。
大爆笑である。
0158神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 10:53:47.18ID:5KlagnWX
>>157
そのバカとは誰のことを指してるの?
本当にバカなのか証拠はあるの?
0159神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 14:23:25.00ID:N9N596jQ

たぶん.ここのスレで
『釈尊が「言葉では説けない」とされた悟りを簡単に言葉に出来た』
と言って(断言・断定して)る人は居ないような気がするけど…

たとえば
この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
自性清浄も
仏性からの縁起によるもので
アートマンではないからこそ
 ↓

スッタニパータ
1119
つねによく気をつけ、
(仮設としての)自我に固執する見解をうち破って、
「アートマンがある」という我執も手放して.世界を空性なりと観ぜよ
21
…激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着しているのなら
(悟りに至るための菩提分法も縁起によるものなので)
もはや筏の必要はない
  _  _

智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死にも停滞せず、
しかも大悲をもって衆生を救済するために
迷いの世界の中で活動するから
涅槃の境地にもとどまらない

無住処涅槃も.やはりアートマンではない.という感じもする

ちなみに.ID:N9N596jQも
宝珠真範どのと同じような.我執にもとづく見解で
見解ということにも我執しているので成仏するのも難しいということで ヨロ m(_ _)m
0160神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 14:44:29.07ID:M6hVzdCF
>>159
>つねによく気をつけ、
>(仮設としての)自我に固執する見解をうち破って、
>「アートマンがある」という我執も手放して.世界を空性なりと観ぜよ

これも見解

>見解ということにも我執しているので成仏するのも難しいということで ヨロ m(_ _)m

これも見解

見解を持たないと成仏できる
というのも一つの見解
0161神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:15:43.77ID:N9N596jQ

見解を持たないと成仏できる.というのも一つの見解

☆ ふ〜む =^・・^= にゃるほろ♪

了解おじゃる♪

たぶん↓これも見解と言われるかもしれないけど

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい,
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
「思いを手放しにする」とはどういうことか。----
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,
思いをもって,その「何か」をつかむことです。
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,
何ものをもつかまないでいることです。
すなわち思いの手放しです。
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません。
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

すべて手放ししなければいけない
という我執に囚われる可能性があるかもしれない見解?
  _  _  _

普勧坐禅儀
心意識の運転を停めなければいけない
念想観の測量を止めなければいけない

という我執に囚われる可能性があるかもしれない見解?
0163神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 16:23:54.07ID:5KlagnWX
>>159
>『釈尊が「言葉では説けない」とされた悟りを簡単に言葉に出来た』
>と言って(断言・断定して)る人は居ないような気がするけど…


(コピペ)
お釈迦様は、「真理(dhamma)と道徳(vinaya)のすべてを明らかにしました。掌に握ったまま隠した教えはまったくありません」と説かれています。
ブッダには、遺言として発表するべきことなど何もなかったのです。
遺言という言葉にひっかかると問題が起きます。

一、今までこの内容は説かれなかった。
二、今までの話は完全ではなかった。

この両方のポイントについて、お釈迦様は断言的に否定しているのです。
仏説はたとえ一偈であっても完全に説かれています。
ブッダは師匠としてすべてを教えたのであって、如来に「握りこぶしは無い」と明言しているのです。
ですから、どなたかが、「これがお釈迦様の遺言だ」と言うならば、その人は「如来は完全に語らなかった」と、ブッダを冒涜していることになるのです。
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou202/

ところで釈尊は「真理は言葉では説けない」と言ったの?
禅には拈華微笑というそのようなことを匂わす伝説がありますが、一応、Wikipediaでは「この寓話の根拠は、偽経である大梵天王問仏決疑経である」となってます。
0164神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 16:45:54.11ID:5KlagnWX
釈尊は確かに正道後に
「自分の悟った真理はあまりに深淵であり、世間で欲のままに生きている人々には理解しがたく、説法したとしても結局は徒労に終わるだろう」
と思い布教を思いとどまりましたが、梵天勧請により
「耳ある者どもに甘露の門は開かれた。おのが信仰を捨てよ。
梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたしはいみじくも微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ」
と考えを改めて、最初の説法である初転法輪では言葉で四つの聖なる真理を五比丘に説き、
その中の一人のコンダンニャが悟ったので釈尊は大いに喜んだと言われています。

最初から真理は言葉で説けていますが。
0165神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 17:09:57.13ID:5KlagnWX
あースレを読み返したら直近で一番最初に

釈尊が「言葉では説けない」とされた悟りを〜

と書いたのは>>152の承狂さんか。

しかし、承狂というコテハンは、狂ってるのを承知している(自覚している)、という意味でいいのかしら?w
0166神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 17:16:17.11ID:tYnhqIwF
龍樹がどう言ったか(評したか)は詳らかにしないが、
どれだけ言葉を重ねても、どれだけ目の前に佇んで見せても、
月を指す指にしかならない、という面もあるわけで。

そこを“指して”「言葉にできない(語り得ない)」という謂いになったという見方もできる。

湯船の熱さも、自分が手を突っ込むまでは伝聞、表記・表示、数字でしかない。
0167承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/17(金) 17:33:12.70ID:MkMerEu4
たった二文字すら意味が判らない方に何をどう説明しろと?(笑)

(^。^)好きに解釈しなよ、今まで通りによ。(笑)
0168神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:35:40.89ID:t/SAZsCN
ショーキョー
ショーキョー
ショキョショキョショーキョー
麻〜原〜ショーキョー

んな訳ねーわなw
スンマソン<承狂タン
0169神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:02:21.98ID:N9N596jQ

>>165 ID:5KlagnWX殿へ

釈迦の説法ではなく.漢訳の注釈書.青目の中論の場合は

中論觀如來品第二十二

如来は戯論を超過してるけど
(仮設としての.無明に依存してる)人は戯論を生じてるので

そして

釈迦の説法ではなく.龍樹の中論の場合は
(仮設としての)
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと追いやることになる性質を持った
身体的な行為、׼葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

(仮設としての)無明に依存して
渇愛が生じると
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じる

それゆえに
たとえ
正しい導きであったとしても
それを受け取る側が
誤ったあり方を掴んで離さないような固執しているのなら
正しく伝えていくのは難しい.という感じの意味かもしれない
0170神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:06:10.45ID:N9N596jQ

訂正

身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

スマソ m(_ _)m
0171承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2020/01/17(金) 20:20:14.75ID:MkMerEu4
おじゃるさんは、嫌がらせとか喧嘩を売ってる訳ではないと言いながら、
止めろと何度言われても
相変わらず自分の考えを他人の意見として書いてるけど、
一体どういうつもりかな?
あぁ、おちょくってるのか。(笑)
なら、此方は此処への書き込み止めるだけだ。(笑)
他でも同じ対応だから、俺を5チャンから追い出したいなら、せいぜい頑張ることだ。(笑)
じゃあの。(笑)
0172神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:22:10.76ID:23qnmVyH
>>166
それは湯船の熱さがちゃんと説明されてるな

>>165
>>167
のように承狂は自分はこうしてすっとぼける癖に相手の言葉尻を捉えてアンチ社会は反社会で社会に対する反逆だーとか言葉遊びが好きな下衆だから相手にしない方が良いぞ
0173神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:28:43.20ID:N9N596jQ

何度でも言うけど
嫌がらせとか喧嘩を売ってる訳ではないですよ

むしろ
喧嘩腰になってるのは
承狂元密教僧の方なのでは?
0174神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 21:08:43.82ID:tYnhqIwF
一在家同様、「慇懃無礼」或いは「慇懃挑発」になっているという自覚がありやなしや。  >>173

ま、強気の反論連投も多いし、
解ってて―「自分は未熟者です・詳しく知りません・批判するつもりはありません」と、
防御線をまず張っておいて、それを免罪符としながら―
自説を垂れ流す姿勢は、登場の最初からの傾向かも。

あ、最初は、「理解力・読解力が欠けている病気なんです」という自己申告(弁明)だったかな・・。
0176神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 21:30:00.82ID:tYnhqIwF
>>172
けど、「どういう感覚の」「どれくらいの」という一番肝心な(最後の)情報は抜けたまま。

勿論、推論はできる。(梵網経第四の立場で言われるように)
0178神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/17(金) 22:35:49.30ID:5KlagnWX
>>167
そりゃたった2文字だけどさ〜

承 @うける。うけつぐ。「承句」「継承」 Aうけたまわる。ひきうける。「承知」「承諾」
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0003361100

狂 @くるう。気がちがう。「狂犬」「狂乱」 Aくるったように熱中する。また、熱中する人。「狂喜」「狂信」 Bこっけい。おどける。「狂歌」「狂言」
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001485400

一つの漢字にも色々意味があるんだよな〜。
だからどういう意味なのか確認したのですが…

まあ好きに解釈しなよというのならそうさせて頂きますね(^。^)

それであなたの仏典解釈というかあなた自身のレスで確認したいこともあるのですが、
まずは改めて「真理は言葉で説けない」と釈尊は本当に言ってます?言ってるというのならソースを提示して頂けるとありがたい。
次に『経典にあるように、どーぞ「世間で遊んで」きてください。』って本当に経典にあるんですか?これもソースを提示して頂けるとありがたい。
以上、よろしくお願い申し上げます。

>>172
ご忠告ありがとう。
でも承狂さんは>>152で突然説教的なレスを書き込んだ方だけに人に説教できるほどの高尚な方だという期待もあります。
それに承狂さんにはちょっと確認したいことがありますので上のレスをしました、ご忠告に逆らっていますが💦
0180神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/18(土) 11:39:01.43ID:McuFhTQy
世間で遊ぶは仏教よりもバラモン教〜ヒンドゥー教の思想。
遊びをリーラというらしい。
絶対真我ブラフマンはリーラのために個我アートマンになって世間に降臨すると。
その中の一人が私であり貴方でもある。


マーヤ(サンスクリット語では幻想)という言葉があり、この世界はマーヤであるらしい
http://engawayoga.com/the-world-is-a-fantasy
0181神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/19(日) 04:06:50.99ID:6SwwRIUZ
>>166
湯船の熱さの喩えは「百聞は一見に如かず」と同じような感じですね。
見(色)のみならず自分自身での声,香,味,触,法という六識全てが含まれますが。
そこで>>143

龍樹は

二諦をもって、すべてのブッダは法を説かれた。世俗諦と勝義諦だ。

この二つの真理を区別できない者は、ブッダの法の深く微妙な所をまだ理解しているとは言えない。

世間の言葉に頼らなければ究極の真理を説くことができない。
究極の真理に到達しないなら、涅槃を体認することはできない。

不完全にとらえられた空は、智慧の浅い者たちをつまずかせることになるだろう。ちょうど、不完全に捕まえられた蛇や、半人前の魔法が人を害する結果になるように。

だからブッダも、その法が智慧の浅い者たちによって誤解されることをおそれて、(菩提樹下の成道後)伝道をためらったほどだ。
(中論24章)
0182宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/19(日) 08:25:28.36ID:QfT9guXX
反論して全面論破して玉砕する前に...ちょっと口濁しを。

【川越成田山】
 昨年、10月末から二泊で妻と二人で草津温泉へと旅行しまして、その帰りに『成田山川越別院』を参拝してきました。
 寺院サイトの縁起説明によれば、ここは江戸時代の末期に国外でさまざまな困難において両目を失明したことに失望し、三度の自殺を
計った石川照温師が、それでも自身が生き延びたのは神仏が己を見捨てなかったからだと信じて、成田山新勝寺にて断食籠りの行に打ち
込んだところ、眼に異変を感じて少しづつ見えるようになり、なんと満願のときにはほぼ元通りに平癒するという奇跡が起きたことに始
まる。その成田不動尊の偉大な加持力と大慈悲に感激した師は、自分の生涯を不動尊のために捧げることを誓い出家得度。そして当時、
廃寺だった本行院を復興すべく川越城主松平大和守に願い出てその許可を得、新勝寺の成田山貫首から御本尊不動明王の御分霊を頂いた
というのが、この成田山川越別院の開基の由来となっています。
 本堂の伽藍は当時のままなのか凄く古くて趣があってそんなに大きなものではなかったけれども、しかし、自分が個人的にエネルギー
を感じたのは実際そこではなくて、本堂の隣にある平成30年に開創165周年を迎えた記念事業として建立したという「密厳殿大日堂」
でした。自分が不動尊寺院を巡っても強烈なパワーを感じるのは滅多にはないことなので、この寺院は間違いなく本物のパワースポット
の一つでしょう。
 御守りコーナー担当の僧侶と談笑したところ、その方は私たちと同じく北海道の、そして割と近郊の町にて法務にあたっていた方だと
いうこともわかりました。

 本日は、妻と二人して『成田山札幌別院』へ初詣に行って、そして、有難い御護摩を参拝してきます。
0183宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/19(日) 08:26:09.10ID:QfT9guXX
【初護摩】
 毎年、1月15日は菩提寺の初護摩となっています。しかし、本院の住職が事故死してからは助法する僧侶がいないということで残念な
ことに護摩無しの法要続きでした。それが本院住職の奥様が僧侶の資格を受理し、そして、昨年の春にはお嬢様が専門大学を卒業されて
戻って来たことを受けて、今年はこの尼僧二人を従えての三僧侶での初護摩を敢行。実に、五年振りの初護摩法要となりました。
 余談ですが、この奥様というのは恐らくは歳の差婚と見えて、まだまだお若くて、そして、かなりの美人さんなのです。そのお嬢様と
いうのは、昨年が卒業なので24歳位なのですが、これがまた大変、お美しいときてる...。コホン(赤面)
 このお二人とも住職の突然の死により、自らが僧侶となる決意を固めて奮闘されてきた凄い方々です。それまでは自分が僧侶になるな
どはまったく考えも及ばなかったという...。お嬢様などは、卒業した仏教系大学などではなく、もっと別の道を目指して他の大学を受験
する間際だったというのだから、これまた驚きです。お二人とも僅かこの数年足らずで、難しい読経に各種真言の読誦も大変お見事であり、
この初護摩ではお嬢様が太鼓にも挑戦(護摩行ではズンドコ太鼓は割と付きもの)。事前に簡単な打合せリハーサルをしてる場面も拝見しまし
たけれども、しかし、とても始めてとは思えない素晴らしい太古を披露されました。翌日、そのことを菩提寺の住職に聞いたところ、その
太鼓はなんと大学で習ったものではなくて(その大学では鳴物の実修はないらしい)、住職が手解き指導をされて本人が練習して身に付けた
ものだとのこと。うーむ、これは驚きましたね。その御本人の熱意と才能、そして、そのご努力にはただただ感服するばかりです。そして、
2月3日の節分には、なんと今度は奥様が本院にて初めて護摩にチャレンジするとのことです。
 いやハヤ...こりゃ〜ホントに大変なことです。凄過ぎる!!
0184宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/19(日) 08:27:28.80ID:QfT9guXX
【オトナの一休さん】
 先日、放送されたアニメ『オトナの一休さん/全26則一挙再放送』を見ました。これまでは2話程度をただ偶然に見ただけだったので、
今回は一気にすべてを拝見した。感想としては、娯楽としては凄く面白かったのでまったく飽きることはなかった。絵コンテもいいし、
声優もいいし、そして、エピーソードがびっくり仰天ものばかりで本当に笑えた。
 しかし、この一休宗純なる禅僧を自分が尊敬できるかというと話は別です。全体を通じて分かったことは、確かに、一休は神智学情報
のMaitreyaの教え「あなた自身でありなさい。決して、他人に追従してはいけない...」には沿っているものとは思う。それは認める...。
ただし本人は、“何ものにも捕らわれないこと”(という禅の精神と生き方)が自由というものであり、“その自由とは自分の好き放題でいい
んだ”と勘違いしているのだと私は思う。だからすべてがトンデモであり、他人や周囲の迷惑などはまったく気にしない糞坊主と化した。
0185宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/19(日) 08:28:09.33ID:QfT9guXX
 しかし、「いいね!いいね!」できる良いところもいろいろある。少年時代のエピソードで僧侶の出身がどれほど高貴であるかを競って自
慢する風潮に対して強く憤り、仏の下では万人平等であって出身や身分を競うなど愚かしいと嘆いていたところ。僧侶の衣の素晴らしさ
などには無関心で衣のステータスを楽しむ僧侶たちなどを軽蔑しているところ。応仁の乱で町が地獄と化している中で、「他宗はそれぞれ
の方法で民衆救済のために奮闘しているというのに、我宗(臨済宗)はいったい何をしているのか」と大激怒しているところ。印可状(悟り
証明書)など無価値とみなしているところや後継者を創らないところ。“正月ドクロのご用心の話”といつも貧しい者の見方で雀を可愛がっ
たところ。伝統や既成概念には捕らわれず、権威にはなびかないところなどは好感が持てた。

 一応、全話の見れる動画配信をやっと見つけたので載せておきます。
  第01則〜第06則 http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=kmgt&;prgid=58986365
  第07則〜第13則 http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=kmgt&;prgid=58986366
  第14則〜第19則 http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=kmgt&;prgid=58986367 
  第20則〜第26則 http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=kmgt&;prgid=58986368
0186宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/19(日) 08:29:03.80ID:QfT9guXX
【どんど焼き】
  1月恒例の伝統的な風物行事“どんど焼き”が近年、ゴミ分別問題にて廃止になった神社が増えているという話をTV番組がやっていた。
その中で何故、正月飾り以外のものまで一緒に持ち込まれるのかについて、ただ単に家庭内ゴミまで持ち込むという馬鹿者のことは論外
として(実際にいるので困っている)、永年愛用してきたが処分することになった人形(人形は魂/想いが宿るとされる)だったり、または故
人の遺品だったり、神社仏閣で祈祷された品物であったり...など、どうしても普通の家庭ゴミとしては出せない、粗末には扱えない諸々
のものがあるという人々の想いがそこにはあった。それらがどんど焼きの祈祷の炎で一緒に燃えてくれるなら安心できて助かるというわけ
です。
 出演者一同がその想いに共感を示していたところ、あろうことか唯物主義者の基地外出演者の一人がトンデモない発言を大声でのたま
わったものだから、これには驚かされた。なんとそいつは、「モノに想いが宿るなんてことはないし、祈祷物を捨てたところで罰などはな
い。私はこれまで罰を受けたことなどがないし、そもそも神などはいない。いるわけがない。神をこの私は一度も見たことがない。その
どんど焼きの問題などはただのゴミ分別の話でしかない。グダラナイ!!」と、こうきたもんだ。
 今時、まだこんな化石みたいな無知で愚かな唯物主義者がいるものとは心底、腰を抜かした私でした。

 以上.
0187神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/19(日) 12:17:57.15ID:Zrms4QYB
余談だが、「病室で念仏を唱えないでください」を見たが
まだ不動真言を唱えている。不動は何万年と人類を
だましてきた実はサタン中のサタンだ。唱えてはいけない!!
みんな被害絶大に食っている。
元不動教の連中は、みんな家運衰退を強く食ったり、
不正に障害者にされたり、なき罪をなすりつけられたりして
いる。よい事した場合はなかったことにされてる。(しかも西洋の神々からはわからんようにだ)
みんな中国のかそうかいきゅうみたくなってしまう。
パワー真言を唱えるときは降三世明王真言か
大元帥明王真言をとなえなさい!
0188神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/19(日) 23:30:41.36ID:ymNt8aAW
承狂殿が仰ってた
釈尊が「言葉では説けない」といった悟り

法華経の方便品第二にそのような世尊の言があり


止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。
唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 能く得解することあることなし
諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く
0189神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/20(月) 02:17:23.51ID:xpvRut6c
アッギヴェッサナよ、これをどう考えますか。灌頂を受けた士族たる王は、自分の領土において、力を行使することができるのではありませんか。
殺害されるべき者を殺害するための、剥奪されるべき者を剥奪するための、あるいは追放されるべき者を追放するための〔力を〕、
たとえばコーサラ王パセーナディ(波斯匿王)、あるいはまたマガダ王たるヴェーデーヒーの息子アジャータサットゥ(阿闍世王)は。

尊者ゴータマよ、灌頂を受けた士族たる王は、自分の領土において、力を行使することができます。
殺害されるべき者を殺害するための、剥奪されるべき者を剥奪するための、あるいは追放されるべき者を追放するための〔力を〕、
たとえばコーサラ王パセーナディ、あるいはまたマガダ王たるヴェーデーヒーの息子アジャータサットゥは。
尊者ゴータマよ、これらの集団、会衆、例えばヴァッジー国やマッラ国ですら、自分の領土において、力を行使します。
殺害されるべき者を殺害するための、剥奪されるべき者を剥奪するための、あるいは追放されるべき者を追放するための〔力を〕。
しからばどうして、灌頂を受けた士族たる王、たとえばコーサラ王パセーナディ、あるいはまたマガダ王たるヴェーデーヒーの息子アジャータサットゥが〔そうでないことがありましょうか〕。  
尊者ゴータマよ、彼らは行使するでしょう。彼らは行使する事に値します。

アッギヴェッサナよ、これをどう考えますか。およそあなたはこのようにいいました。『〈色〉は私の我である』と。
〔だとすれば〕あなたはその〈色〉に対して力を行使する〔ことができるはずです〕。 『私の〈色〉はこのようであれ。私の〈色〉はこのようであるなかれ』と」

このようにいわれて、ニガンタの徒輩の息子サッチャカは、沈黙した。


小サッチャカ経(薩遮迦小経)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn04/mn04c08.htm
0190神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/20(月) 02:28:10.18ID:xpvRut6c
一方でオトナの一休さん(>>185


兄弟子、今、貴様諸行無常の釈迦の言葉を使ったな。
だがな釈迦はこうも言っている。
諸法無我!
全てのものに実体などないと釈迦は言ったのだ。
お前という実体がないなら痛みを感じることはあるまい!
諸法無我でも痛いものは痛いのだ!


釈迦も一休さんも無我だから痛みを感じないというのは一緒。
ただその理由、また解釈、アプローチが違う。
釈迦は色や受想行識がアートマンならば力を行使することができるから、痛みを感受しないことに対しても力を行使することができるので痛みを感じないでいれるとする。
一休さんは無我だから痛みを感じる実体はないはずだとする。

一休さんのは、「そうは言っても五蘊が働いて痛みを知覚するのだ」で反論できるような気もしますが…。

いずれにせよ、仏教でもどこかの時点で無我の解釈が変節しているように思う。
0191神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/01/20(月) 02:30:54.43ID:xpvRut6c
>>188
なるほど、法華経はそうですね。
ありがとう!

それにしても鳩摩羅什の訳は漢字の並びを見ただけでも実に美しいw
この訳文だけても法華経が人気があったというのもうなずける〜!
0192宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/01/20(月) 15:21:46.11ID:O6cbSvtM
>>187
いつも不動尊を誹謗中傷してまわっているマルチさんよ!

不動尊というのは密教独自のホトケであり、
この日本には空海が唐から密教を持ち帰った際、
その荒れ狂う嵐から空海を護ったことで知られる密教の守護仏(波切不動)です。
様々な諸仏を本尊とできる多様な護摩においても、加行としての護摩法の基本はすべて不動明王が本尊。
その不動尊を蔑ろにしておいて、「やれ降三世だ!大元帥だ!」などと説く密教の流派が何処にあるのか?
あなたがどこかのチャネリング信者ならば、その情報ソースを提示しなさい。
もしも、不動信仰によって不幸に見舞われるというのであれば、
たまたまどこかの不動信仰の行者信者がこうなったあぁなったでなく、
不幸データを不動信仰者とそれ以外の信仰者との対比で以てその明確な比率を示しなさい。
それができないのならば二度とココへは現れるでない!!
0196宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:00:12.18ID:qptK7YMy
 2月3日は、菩提寺の「節分会」に参拝してきました。今年は御住職を入れて4人僧侶ということで例年よりも少ない(例年は5-6人)。
1人は本院の住職(先代奥様の美人尼僧)、他2人は近隣から応援に来て頂いている豊山派の2寺院からでした(智山派は同じ覚鑁の流れを
汲む新義系の豊山派とは共に協力し合う深い親和関係にある)。
 この菩提寺は過疎っている田舎の小さな寺院にて檀家も少なく、年間を通して最も来場参拝があるのがこの節分会であり、例年40〜50
人というところです。今日は普段の曜日だった影響もあったのか35人位とやや少なめでした。まっ、その分、撒かれた加持祈祷済の豆や
ら板餅(切り餅)を過去で一番持って帰ることができました(あわせて加持した御神酒も持参ボトルにいっぱい頂戴した)。

 本家、成田山新勝寺の場合にはこの1日だけで約5-6万人もの参拝者があり、「福を内!、福は内!!」の掛け声で横綱大関ら有名力士たち
とNHK大河ドラマの俳優著名人らや歌舞伎の海老蔵親子などによって大量の祈祷豆が撒かれる。千葉の特産ということで殻付きの落花生も
一緒に撒かれます。
 この成田山においては、「鬼は外」は言わない習わしとなっていて、その理由としては、時には(悪に対しては)心を鬼にして怒る必要が
あることから鬼も必要な存在だという意味や、鬼を完全排除してしまうと“魂”を失うことに繋がるので良くない考え方である(「魂」の
文字は「鬼」で構成されている)というものもある。尚、一般的には、「成田のお不動さまの大慈悲はたとえそれが鬼であっても区別なく救
わんとされるもの」という言い方がよくなされます。
 私の菩提寺でも同じく「福を内」だけの掛け声で撒かれます。この菩提寺は新勝寺の直系列には所属していませんが、新勝寺と同じ智山
派の一寺院で山号も「成田山」を自称している不動尊寺院です(これは割とよく見られること)。
0197宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:04:17.82ID:qptK7YMy
>>102
>>105追記:
確かに、
『清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているのである』というと、
まるで“涅槃とは空の状態”であるかのような印象を受けてしまいます。
だから、「一切」の中に涅槃があってそれでいいのだと。

けれども、これについては私はたぶん訳文の問題なんだろうと思う。
これは本当は、現象界が空であるということを理論的のみならず、実際に瞑想によって体感してそのことを覚知することをいっていると。
ただし、その瞑想体験そのものがイコールで以て涅槃に達したということではない。

石飛氏のは直訳一辺倒気味なのでどうも意味が通り難くて、私のような学力の低い者にはよく分からない部分が多い。
で、その経文の別の部分を見てみると、石飛氏のはハッキリいって普通の日本語として通らない文章だけれども、
検索で見つけた別訳をみれば、(空であるものと)「空ではない状態がある」ということだと分かる。
つまり、空と空ではないものの二つがあるわけです。
だからそのことは、『ウダーナ』に通じることと同一のことであって、
すなわち、「有為(無為でないもの)と無為とがある」、そして、「涅槃ではないものとそれとは異なる涅槃とがある」。
両者は異なるものだからこそ、涅槃は有為からの出離を覚知するものとして確認ができることとなる。
0198宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:05:54.85ID:qptK7YMy
『「空であるのは、この想いにあるものであって、(それは、)人についての想いに向かうものである」と知る。
「あるのは、この、森についての想いによる独住であって、それだけが、空でないものである」と(知る。)』  
 http://manikana.la.coocan.jp/canon/sunna.html

『ここに観念としてあるものは人間の観念については空である』と知り、
『ただ次の(空でない状態)がある。
すなわち、森林の観念ただひとつに起因するものである』と知る。
(『原始仏典 中部経典W』(春秋社)第121経 山本充代訳)
 https://ameblo.jp/nibbaana/entry-11043287482.html
0199宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:06:50.72ID:qptK7YMy
スマ長老がとても良いことを述べていたので、ここに紹介しておきます。
この部分の長老の言葉ならばこの私も同意します。
この、“涅槃とは一切を超越した状態であり、涅槃を「空」ということはできない”ということです。

 『それでは、一般の人々は困るので、「最高な幸福、最高な安らぎ、不死なる境地、一切の苦しみの終焉」などの言葉も使っています。それでも、理解
できるとは思えないのです。涅槃とは、一切の次元を超越した状態です。ある、存在する、という理解できる範囲を超越しています。それ以上、目指す
べきところはありません。
 我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元
も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義
に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、
実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も
涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不
可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。』
(『解脱は理解できない』) http://www.j-theravada.net/howa/howa125.html
0200宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:08:40.98ID:qptK7YMy
>>135-138
参考:
 『ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に
転生するありさまを説明した。』
(龍樹と輪廻転生)
 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html

 『ブッダは、現代風にいえば、遺伝するものを「識(意識)」であると説明したのである。つまり、母胎に流れ込むのは、意識(識別作用)
なのである。彼は、輪廻転生のメカニズムを語る経典『大縁経』の中でこう述べている。
 「アーナンダよ、意識が母胎に入らないならば、いったい名称と形態(身心)は増大するだろうか」と問い、さらに「意識が、アーナン
ダよ、母胎に入ったのち、脱落してしまうなら、いったい名称と形態は、ここ(輪廻)の状態に転生するだろうか」とたたみかけるのである。
また、「意識が、アーナンダよ、名称と形態において依所を得なかったならば、いったい、未来の、生まれること、老いること、死ぬこと、
苦しみの集まりが生ずることが知られるだろうか」と尋ねるのである。他にも、これとは別の経典で、ブッダは、意識について「将来再生が
起こるための縁である」と断定している。
 意識が母胎に入ったのち、月満ちて生まれ落ちて、あらたな境涯が始まる。物心がついてくると、自我意識が芽生える。そうなると、「わ
たし」と言い始める。「わたし」という意識をもつ人は、自己の存在を疑うことはない。そのような自己の意識をもつ人が輪廻について考え
るとすれば、「自己(アートマン)」には触れない十二因縁説にもとづくブッダの説明より、次のような現代科学を語ったときに用いた表現を
好むだろう。「意識を伝達していく因果関係の鎖が輪廻なのである、だから、意識とともにある自己自身は輪廻していくのだ」と。
 ブッダの「縁起(因果関係)」を知る者は、必然的に輪廻転生を知るのである。それは、現代科学を知る者が、遺伝を認めるのと同じこと
である。』
(ブッダは輪廻を説かなかったか/仏教と輪廻(上))
 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation.html
0201宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:10:09.72ID:qptK7YMy
>>133-134
ゴータマ当時のバラモン達の中には阿羅漢(及びニルヴァーナ境にある聖者)がいなかったというだけの話。
それは、ヒンドゥー圏内ではその境地の者はいる筈がない。それは不可能だということではないから。
ニューエイジ系だのスピリチュアルだのいってる連中とこの私を一緒にしないでくれ!!
ただ、あなたがそんな程度の話しか知らないだけのことでしょ。

>>139
同じヒンドゥー・イムズの大河の中にあって
同一の思想と類似の言葉で以て教えを説くから区別がつきにくいと思うけれども、
神智学の覚者情報によれば、ラマナ・マハルシはアヴァター(覚者であり、殆ど6段階以上のイニシエートが多い)、
日本のヒンドゥー信奉者からは覚者と見なされているマハラジは覚者(5段階イニシエート)ではなくて、
まだ3.5段階であるとの発表があった。

>>145
自分が自己であると感受しているものはすべて真実ではない、ただのマーヤーに過ぎないということ。
だからといって、「アートマンがあるという強い想い」や
「アートマンがあるのかないのか?という想い」が絶対視されるわけではない。
極端に言えば、別にヒンドューの神を信じる必要もないし、同じくアートマンを信じる必要もない。
ヨーガの実践は科学的なメソッドです。
結果は、その実践後についてくる。
それだけのこと。

スマさんは分からないで批判するので話にならない。
この方のヒンドゥー批判や大乗批判はすべてダメダメだ。
とにかく、知らないくせにおしゃべりが過ぎるということ。
0202宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:13:10.84ID:qptK7YMy
>>131
 では、あなたは、「<侍Japan>といっても、別に本物の<侍>だというわけではない」などという話と、この私がいっていることをまるで
同じような話だとして一緒にしてしまおうというのかな?
 それからテーラワーダ側のように、「スッタニパータでバラモンを讃え、またはヴェーダの達人とも称賛しているのは、ただ単に当時の人々
に合わせて教化するためだったものに過ぎない」などというのも誤魔化しに過ぎません。
 経文を真摯に読むならば、そんな戯けた説明で納得できるものではないことはハッキリします。
尚、この投稿は、これらの勘違いをしている自称仏教徒や巷の仏教理解を鵜呑みにしている人々すべてに向けて書いています。

 ここに集っている者の殆どの主張というのは、「バラモン教」とは古くて仏教よりも劣る間違った宗教であり、そこで説かれる教えとしての
「ヴェーダ(聖典)」もまた然り。当然、その聖職者や行者のすべてが仏教よりもレベルが低く、ヴェーダの説く境地(梵我一如)などというのは
仏教の目指す涅槃ニルヴァーナではなくて、更に、もっと下位のレベルにしか過ぎない(解脱していない)としている。だからこその仏教の出現なの
であって、つまり、あらゆる宗教思想の中で仏教だけが唯一の絶対真理なのである、と。
 〜「いや、このわたしはそうではないよ!」などという者など、果たしてココにはただの一人でもいるのでしょうかね?

 しかしながら、それらの理解というのはすべて完全に間違えていると私は思います。
 この私の主張とはこうです。仏教よりも遥かな太古に出現し、完成された覚者らが伝え残した教えがヴェーダというものでしたが、そのヴェー
ダの教えも時代を経て迷信を含めながら更に拡大していき、ヴェーダを信奉した宗教としてのバラモン教も腐敗して迷信だらけのものとなった。
そして、ヴェーダの説く究極の境地を体得した本物の聖者(バラモン)もとうとういなくなってしまい、もはや伝説と化していた...と。
 そのような時代の世において、忽然として現れたのがかのゴータマなのでした。この当時のバラモン達が本来のあるべき正しい法に従わなく
なったということについては、この経文にも明らかなことです。
0203宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:16:06.87ID:qptK7YMy
 『「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」---中略---
昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行った。』(Sn.284)

 ゴータマ・ブッダは当時における唯一のヴェーダの境地(梵我一如)の実際上の体現者なのでした。そしてブッダは、当時のバラモンたちの持
つ多くの間違いについて指摘することで、迷信の蔓延るバラモン教を本来あるべき古来からの正しいものへと改革しようとされたのです。それ
が後に「仏教」と呼ばれるものとなったのだ、と(そのことは、迷信の蔓延るユダヤ教を改革して、本来のあるべきユダヤの正しい神への信仰
の在り方を説いたイエスの教えが後にキリスト教と呼ばれるものとなったことと酷似する潮流です)。
 この主張は、最古の仏典と評される『スッタニパータ』、及び『ダンマパダ』や『ウダーナヴァルガ』などを読むならば、容易にそのことにつ
いて窺い知ることができます。ブッダは、「バラモン」のことを決してレベルの低き宗教者などという提示ではなく、それを我々の目指すべき理
想の宗教実践者であるとしてこれを述べているのです。そして、その究極の達成者を“ヴェーダの達人”とこう表現しているわけです。当然、
その体現者であるブッダは多くのバラモン達からは、そのヴェーダの達人そのものとして、梵我一如の覚者(ブラフマン)として讃えられている
わけです。

 『彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラ
モンと呼ぶ。』(Dhp.385)
 『静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バ
ラモン>と呼ぶ。』(Dhp.386)
 『螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とを
まもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。』(Dhp.393)
 『すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.397)
0204宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:18:04.32ID:qptK7YMy
『怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>と
よぶ。』(Dhp.400)
 『すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.402)
 『明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.403)
 『こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.411)
 『神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──かれをわれは<バラモン>
と呼ぶ。』(Dhp.420)
 『前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、
──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.423)
 『ひとは水によって清らかになるのではない。人々はここで大いに沐浴している。真実と理法とをまもる人は、清らかである。かれこそ(真の)
バラモンなのである。』(ウダーナヴァルガ.33-11)
 『諸の悪いことがらを除いて、つねに気をつけて行なっている人々は、束縛の絆(きずな)を滅したブッダたちなのである。かれらはバラモン
たちであると説かれている。』(ウダーナヴァルガ.33-12)
 『一切に打ち勝ち、迷いの生存を超え、激流を渡り、煩悩の汚れがなく、彼岸に達して、とらわれの無い人、ーーかれをわれは〈バラモン〉
と呼ぶ。』(ウダーナヴァルガ.33-51)
 『偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去っ
たバラモンである<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。』(Sn.469)
 『かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがら
に関して解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。』(Sn.472)
0205宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/02/08(土) 04:32:19.68ID:qptK7YMy
 『バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。』
(Sn.946)
 『かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の
中で何びとをも羨むことがない。』(Sn.947)

 もしも、本当にバラモン教、及びヴェーダの教えそのものが根本から間違ったものであり、これらの教えでは決して解脱してニルヴァーナ境に
入ることができないとするのならば、本当に、ブッダ御自身が、「仏教だけが唯一の真理であるから、これら類似の間違った迷信を仏教と混同し
てはいけない」と見なしているのであれば、絶対に自ら人々に誤解されて混同されてしまうような発言はしない筈です。
 しかしながら、現実にはそのまったく真逆のことが起きているのであって、最古の仏典と評される『スッタニパータ』、及び『ダンマパダ』や
『ウダーナヴァルガ』などの中に、完全にガッチリと組み込まれるような形でバラモンとヴェーダを讃える教えが明確に説かれているのです。そ
して、恐らくは成立年代を遥かに空けて書かれた後の経典すべてにおいては、これらのバラモン教と混同されるかのような表現はピタリと止んで
まったく見られなくなったということ。これが意味することは一つです。さすがにすでに書かれてあった『スッタニパータ』の経文には手を加え
ることは控えたが(実際上、修正しようがないほどに組み込まれているから無理があった)、新しく書かれた成立の経典にはバラモン教との差異と
仏教の優位性を明確化し、バラモン教との混同などが生じないように配慮したのです。
 これ以外にこのことを説明できるものはないでしょう(なので、中には『スッタニパータ』を反仏教と酷評する仏教徒もいるのです)。
0206宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:35:08.50ID:qptK7YMy
 これは『スッタニパータ』を見るならば分かることですが、ゴータマに逢いに来たバラモン達の中にはゴータマを「“梵(Brahma)”」と呼ぶ者
すらもいたが、ゴータマはそれをそのままに受けて了承している。つまり、「そういう間違った迷信でこの私を見てはいけない。私は梵(Brahma)
などというものではない。それらバラモン教の低き境地にある者ではありませんから」などとはいわなかった。「私を梵(Brahma)と見なすなど
ナンセンスだ」として相手の間違いを正さなかった。
 実際、これらのことが『スッタニパータ』から確認できる事実のすべてなのです。もしも、ゴータマが「ヴェーダ聖典の教えは間違っています。
私はそのことを自ら確認したのです」と説いていたというのであれば、ゴータマの噂は当然、ヴェーダを否定した者として広まった筈です。
しかし、対面しているバラモンらとブッダとの対話から確認できる事実はその正反対のことでした。
 ただ後代の経典になって、いわゆる我々のよく知るような仏教的な印象のものへと編纂され、内容も大きく改変されていった。こうして、バラ
モン教的な印象の記述は次第に省かれていき消されていった。

 『バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する
(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓
子(のおさがり)を食べていたのです。」』(Sn.459)
 『私(マーガ)はいま梵(Brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(Brahma)と等しい方である。』(Sn.508)
 『あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。
先生!ねがわくはわたくしから受けてください。先生!ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』(Sn.479)
0207宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:36:50.75ID:qptK7YMy
 『諸々の“煩悩の汚れ”の消滅のゆえに“無病(ニルヴァーナ)”の起こることを正しく知って省察して“食料を受容”し
“理法”に住するヴェーダの達人(賢者)はもはや“迷いの生存者”のうちに数えられることはない。』(Sn.749)
 『ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。
かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。』
(Sn.846)
 『メッタグーさんがたずねた、「先生!あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、
心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。』
(Sn.1049)
 『何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、--かれは確かにこの煩悩
の激流をわたった。かれは彼岸(ひがん)に達して、心の荒(すさ)びなく、疑惑もない。』(Sn.1059)
 『またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、
望むことがない。「かれは生と老衰とを乗り超えた」とわたくしは説く。』(Sn.1060)

本当に、真理/真実を追求したいのであれば、
伝統を鵜呑みにして洗脳されている僧侶たちの話なんかに惑わされることなく、
自分自身の眼を塞ぐことなく勇気を以て“目の前の事実”を直視すべき。
それこそがブッダの精神というものではありませんか?
0208宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:40:26.89ID:qptK7YMy
ちょうどこの私の理解とほぼ共通される方による
良いサイト文章を見つけたのでここに抜粋紹介しておきます。

 『原始仏典でも"三ヴェーダの達人"という言葉は成立の古い経典で見られて、まぁヴェーダを熟知している人としてヴェーダの達人という
表現が存在している。
 本来的に仏教はバラモン教の分派というかセクトというか、バラモン教の一派でしかなかったらしくて、成立の古そうないくらかのテキ
ストは、バラモン教のウパニシャッドに書かれている内容をそのまま言及していたりしていて、そもそも自分たちはゴータマの弟子とはいえ、
仏教徒であるという認識はなくて、ヴェーダの教えを教導するゴータマの教えを学ぶ集団が成立初期の仏教集団であった様子がある。
 だから修行や学問をする目的はバラモン教の聖典であるヴェーダの習熟にあるのであって、それが故に、修行の到達者のことを"ヴェーダ
の達人"と呼ぶし、仏陀の教えを完遂したものを「三つの明知を得た」と言う。
 ここで言う三つの明知は、『リグ・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』の三つのヴェーダに関する知識になる。
 比較的成立が古いとされている『テーラガーター』という仏陀の弟子たちの告白録ではちょいちょい、「ゴータマの教えに従って三つの明
知を得た」と言及されている。
 仏教は本来的にヴェーダの習熟を修行や戒律、勉学によって成すことを目的にしていたらしい。 ---中略---
0209宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:41:48.53ID:qptK7YMy
 先に、三つの明知という、三ヴェーダについての知識を持つ人のことについて言及したけれども、三つの明知というのは三ヴェーダを良く
知っているという意味合いともう一つ、宿命通、天眼通、漏尽通の三つのことだという言及もある。
 宿命通とは今までの輪廻転生の経験のことを知り尽くすことで、天眼通とは天界と地獄の両方を知ることで、漏尽通は輪廻転生をもうしな
いで生を尽くした状態のことを言うらしい。(参考)
 基本的に三つの明知といえばこの三つのことを言うのだけれども、一方で三ヴェーダの達人という意味合いで三つの明知という言葉を使っ
ているテキストもある。(『デーヴィッジャ・スッタ』)
 どうやら、三つの明知という言葉は長い歴史の中で意味が変わったようで、最初は三ヴェーダを悉く知り尽くすことを言っていたらしいの
だけれども、後々、過去世と来世を知り尽くして、輪廻転生の輪から外れるというという事柄を指して"三つの明知"というようになったらしい。
0210宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 04:50:32.78ID:qptK7YMy
 『テーラガーター』という比較的成立の古い、仏陀の弟子の言行録を読んでいて、"三つの明知"という言葉が出てきたのだけれども、注釈
が存在していなくて、調べてみたら、過去世と来世を知り尽くして、輪廻転生の輪から外れることを言って"三つの明知"だとするという説明
が存在していた。
 けれども、『テーラガーター』にある"三つの明知"という言葉の前後に、そのような過去世だとか来世だとかを知り尽くしたというような言
葉はなくて、酷く懐疑的な目でその説明を見ていた。
 前世と来世を知っているということが知恵だというのは分かるのだけれども、煩悩を滅ぼして生を尽くしたということが知恵だという話が
理解しがたかった。
 一方で、『デーヴィッジャ・スッタ』の中では三つの明知は三ヴェーダを知り尽くすこととして扱われているし、このテキストはバラモン
階級の人たちが仏陀に教えを乞いに来て、そして仏陀もバラモン教の教えについてあれこれ言っている。 ---中略---

 元々仏教はバラモン教の分派でしかないというのは仏教学の見解であって、そうとするとこの『デーヴィッジャ・スッタ』はやはり成立が
古いのだと思う。
 だから三つの明知は本来的に三つのヴェーダを知り尽くしたという意味合いでしかなくて、後々、過去世やら来世やらという教説が生まれ
たのだと思う。』
(『三つの明知はさて何処へ』)
 https://ameblo.jp/ziro-irisa/entry-12460130757.html
0211宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 05:09:06.17ID:qptK7YMy
>>196
誤字訂正:
 ×「福を内」
 〇「福は内」
0213神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/08(土) 13:14:18.08ID:Q9/V2IZq
> スマさんは分からないで批判するので話にならない。
> この方のヒンドゥー批判や大乗批判はすべてダメダメだ。
> とにかく、知らないくせにおしゃべりが過ぎるということ。

自己紹介乙
0214宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/08(土) 19:39:52.52ID:qptK7YMy
>>212-213
あのね...
「おまえのカーチャン.デ・ベ・ソ」のような
小学生レベルの罵倒は要らないから!
もしも、反論があるならば具体的内容の正論で頼むね。

次は、前スレ『五巻』後半でレスできなかったところが多々あるのだけれど、
それら中傷の類に対する反論を書きたいものと思っています。
たとえ私からのレスが無かったからと言って、
別にそれは、私が「反論ができなかった」、「グウの音も出なかった」ということではないから。
ただ単に、それはこの私の時間的・体力的な都合で投稿が追いつかなかっただけに過ぎない。
ハッキリいってこれまで、この私から反論できなかったものなどは一つもない。
0215神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/08(土) 23:37:10.42ID:c9ColliC
一在家と一緒。
ほとぼり冷めたら過去は無かったことに。
0216宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/09(日) 01:09:40.16ID:/KNm9R4h
>>215
エッ?

あなた方の私の主張への偏見と難癖に対する私からの反論説明については、
ただただ屁理屈と詭弁で以て誤魔化すだけなのにか?
そもそも、この私からの伝統仏教(理解)の間違いについての指摘には、
全然、マトモな説明ができないくせに...。

できないのならば(できる筈もないが)、
ただ素直に「わたしはそれでも伝統仏教を信じます!」と宣言すれば、
それだけですべて済む話です。

その自由は誰も止めることなどできないのだから。
何を信仰するも人様の自由だから。
0218神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/17(月) 08:20:29.86ID:wHV4Suyj
☆ =^・・^= !

マインドフルネス認知療法
認知行動療法
心理療法として重要なことだと思うけど
やはり.今は↓これ

首相官邸
https://www.kantei.go.jp/
https://twitter.com/kantei

厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/index.html
https://twitter.com/MHLWitter

ハザードラボ
https://sp.hazardlab.jp/
https://twitter.com/hazardlab

アメリカで.インフル猛威.2020/02/14
https://toyokeizai.net/articles/-/330373

中国.四川省.鳥インフル.2020/02/10
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-02-10/Q5GRJKDWLU6801
  _  _  _

そして日本のこれからは?


https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0220神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/18(火) 17:34:02.23ID:lJj5FbBK
>>216
そう。

貴方の説、主張は『「伝統仏教」ではない』。 では、何なのか?

という話。 (´・ω・`)
0221宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/18(火) 18:54:05.62ID:IGk7Ei4F
>>220
>では、何なのか?

それは“あなた自身”が自分で判断すればそれで良いことです。

「伝統仏教であるからそれは正しい」、或いはまた、
「伝統仏教の中身には幾つもの間違いがあるが、それでもわたしは伝統仏教を信奉します」
というのも、まったくあなたのご自由です。

この私個人は、真理真実それ以外にはまったく興味がない。
たとえそれが伝統仏教であろうと千年〜二千年伝承されたものであろうとも、
とても偉い僧侶がそれを説いていようとも間違いは間違い!!
砂糖は砂糖、塩は塩、それ以外のものには決してならない。
「伝統だからといって信じてはならない」がブッダ御自身の最も尊い精神だ!!!

---私からの投稿の---すべては、
ただ“私個人が正しいと見なしているもの”に過ぎない。
私自身は、単なる個人の神智学徒に過ぎないけれども、
殊、仏教の内容に関するものとしてはその殆ど9割以上は、
仏教学の専門家たちによる著作と研究成果を支持してのものです。
それも私自身が推奨できる内容として判断したものです。

あなたが認めないのであれば別にそれで良いこと。
別に、あなただけがそれを読むわけではないのだから。
ただそれだけ。

※ 自分自身で考えることのできないものには価値などない。
  私から見て、「伝統仏教だから正しい」などというのは最も糞くらえ!!! の考え方だ...。
0222神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/18(火) 20:54:48.38ID:lJj5FbBK
>>221
今あなたがそこに書いたことと全く同じ理由で、
貴方自身が批判されているのだということが、まだ受け入れられませんか?

上の、
「伝統仏教」のところを、貴方が支持する「****(神智学?)」に入れ替え、
「僧侶」のところを「**(聖者?アバタ―?指導者?(よくわからんがw))」に入れ替えた文章を、
そっくりそのまま返答することになるわけだが・・・。


貴方は
仏教学の専門家たちによる著作と研究成果を支持し
自身が推奨できる内容として
「伝統仏教が間違っている(釈尊のおしえから外れている・離れている)」と言い
我々は
仏教学の専門家たちによる著作と研究成果を支持し
自身が推奨できる内容として
「神智学が間違っている(釈尊のおしえから外れている・離れている)」と言っている。

さて、では、どこが違うのか? という話。
0223宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/19(水) 03:21:11.42ID:sd6eSG7f
>>222
同じではない!

わたしの主張(主に無我について)は仏典の記述には反しない。
しかし、伝統仏教側は仏典に従っていない。
その証拠提示と論証済の筈ですよ。

で、それを認めないはもちろんあなたのご自由です。
ただし、他者を勝手に巻き込まない欲しい。
0224宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/19(水) 03:25:05.69ID:sd6eSG7f
追記:

言って(書いて)も分からないのなら、
この私に話しかけないでくれる?
時間の無駄だから...。
0225神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/19(水) 08:00:13.00ID:whjocDne
>>224
反していないのは「anattA」という“直”訳語だけ。
しかし、その他様々な文脈の上で「有我」は述べられていない。匂わされてもいない。
だから、歴代の数多の学者も、「非我」と読めることを認めつつも
「無我」という語を使い続けてきた。
なぜか? それでも、ブッダの思想と齟齬が出ないからだよ。   


自分でもうんざりするが再度書いておく。
「文言非我、文脈無我」なんだよ、仏教は。
0228神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/19(水) 10:05:28.06ID:NEzQ7hSZ
お釈迦様が「非我」「非我」と文言上言って
「だから他の別のもっと高次元な我を探せ」
なんて意図(文脈)で言った訳ではなく
「我を探し求めるその執着心がそもそも100%間違ってると気付け」
ってことじゃん

「文言有我、文脈有我」
だった外道が
釈尊登場による“仏陀ショック”を経て
悔しいのう悔しいのう状態で文言だけ修正して
「文言非我、文脈有我」
でしれっとマインドフルネスヨガまたは宝珠神智として現代に復権蔓延w
だが「反仏教」の外道であることには違いはない
0229神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/19(水) 10:21:15.19ID:NEzQ7hSZ
ちなみに、お釈迦様が「文言無我」ではなく「文言非我」だった理由は、
別の副作用も考慮してのことだろうね。
どちらかと言うと文脈有我の外道に対してではなく、文脈無我の外道に対しては、文言上も無我と言うとアナーキズムを助長する訳で。

無我だからと言って、死んでそのカルマが消える訳ではなく、むしろカルマは継続して(犯した罪業に対する)苦しみは続く(「では、その死後に続くカルマの苦しみを受けるのは誰だー、我がなければ…云々」の幼稚な文脈有我外道はこの話の流れでは相手にしないw)。
0230宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/19(水) 19:27:26.31ID:sd6eSG7f
>>225-229
あなた方は、
“喉元過ぎれば熱さを忘れる”の典型ですね!
こちらが何度も根拠を提示してその理由を説明しても、
すぐにまた、「そら見たことかぁ〜!?」となる(特に古い参加者の人ネ!!)。
とにかくキリがないので、もう、あまり相手しないでおくけれど...。

>反していないのは「anattA」という“直”訳語だけ。
ってのは、どこの誰の説です?あなたの独創か?

>しかし、その他様々な文脈の上で「有我」は述べられていない。匂わされてもいない。
わたしはこれまでただ一度たりとも、
「ウパニシャッドの説くアートマンと同一内容(有我論)をブッダは説いた」などとは言ったことはないから。
ただし、“匂わせ”などというのはかなり不適切な表現だと思うけれども、
アートマン性質と共通する意味合いを含む修行者たちが目指すべき“真実の自己”のことについてはコレを明確に説いた。

>「文言非我、文脈無我」なんだよ、仏教は。
いやいや、ブッダが説いたのは“非我”だけであり、
そして、アートマンの有無については“無記”だった(在るとも無いとも示さなかった)が正解だ。
もう一度、初歩から勉強し直せ!!
0231宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/19(水) 19:28:10.86ID:sd6eSG7f
>「我を探し求めるその執着心がそもそも100%間違ってると気付け」ってことじゃん
いやいやそうではなく、「真実の自己を求めるよう」ブッダは修行者たちに説かれた。
で、あなたの言い方からするならば、涅槃を求めることすらもただの執着と成り得ることが分からないのか?
求めるべきものと精神態度としての執着を混同するでないわ。

>外道が
>釈尊登場による“仏陀ショック”を経て
>悔しいのう悔しいのう状態で文言だけ修正して
>「文言非我、文脈有我」
>でしれっとマインドフルネスヨガまたは宝珠神智として現代に復権蔓延w
>だが「反仏教」の外道であることには違いはない

ハッキリ言うね!
別に、ヒンドゥー側も神智学徒たちも仏教徒らが無我に固執することに殆ど興味がない。
インドで無我(アートマンは無いという意味での)など説いていたら誰にも相手されないから。
実際、「好きにさせておけ!!」ということで2千年間も放置でしょ!! どうせ話を聞く姿勢にはないのだから。
その結果、放置されてきたからインドで事実上、滅んだのでは???(苦笑)
勘違いも大概にすべきなんだけど...
仏教徒らが無我だろうと何だろうと別にヒンドゥー (及び神智学) 側では何も困ってないから。
もちろん、この私も何一つ困ってなどいないからね!!

で、この私が提示してきたのは主に仏教学の見地から述べてきた話ですから。
勘違いも大概にして欲しいな!!
0232宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/19(水) 19:30:48.26ID:sd6eSG7f
---告知---
私は今、
ここを去るべく最終的な投稿を執筆中なので、どうかもう少し静かにして欲しい。
つまり、AKB卒業コンサートの準備中といったところなのでねw
0233神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/20(木) 10:07:07.18ID:wZ3B23kI
勿論、お釈迦さん当時に、その方向性で考察されたわけもなかろうが、
西洋的(デカルト的)主体の要請を回避する仮設(過去URL略)は立てられるし
―それはそれこそ非我の積み重ねでもあるが―、
「個別性(属性)があり」「働き(作用)があり」「且つ、作用を受ける」ような永遠の『存在』とか、
縁起する世界にはありえないし、
もし縁起せぬものならば、それは上記「作用被作用や個別性」のないものでなければならない。
(ウダーナ8に謂われるが如く。)

これも自分でウンザリするが、また記しておく。
仏教にデカルト的主体は不要。
そして、神智学始めその他スピリチュアル系各種も、所詮デカルトの残滓に過ぎない。
0236パーピマン
垢版 |
2020/02/20(木) 11:06:26.02ID:o96w/hgX
>そして、神智学始めその他スピリチュアル系各種も、所詮デカルトの残滓に過ぎない。

彼らの目的が「素晴らしい存在」になることなんだから、デカルト的主体は不可欠w
仏教はその主体が存在しないことの了解なんだから、そもそも方向性が真反対w

・・・・・・・でもまあ、最近、彼らの望むことも分からんこともないと思えるようになってきたw
勿論、それを仏教と絡めるのは受容できないけどねw
0237宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/21(金) 03:18:36.60ID:xLQYOBLu
>>233
>もし縁起せぬものならば、それは上記「作用被作用や個別性」のないものでなければならない。
> (ウダーナ8に謂われるが如く。)

そもそもその理解がまったくの間違い。
そうではなくて、それらの固定概念をすべて超越したものですからね。
不二一元としての“アートマン(我)=ブラフマン(梵) ”(この「ブラフマン」とは、
伝統仏教側が勝手に始めた梵天なる天部や男性人格神ブラフマーなどのことではなく)
とされるのはそのためです。

まっ、もう議論する気も失せましたけど...

>>236
もう、議論の意図もないですが...。

この私から言わせて頂くと、
まず基本認識として、「仏教」=“ブッダの教え”ではないから
(また同様に、「キリスト教」=“イエスの教え”でもない)。
つまり、世間で言われる仏教とは伝統仏教のことであり、
その実態は自分らで勝手に打ち立てた教理上の教義ドグマであって、
それら幾つもあった諸派らが論争と勢力争いの図式の中で今日まで生き残った教団にしか過ぎない。
それが今日、現存している南方テーラワーダと北方の大乗というもの。

なので、部派らが勝手にはじめた「無我」
(ブッダが教えもしなかった“アートマンは無い”とする見解)
なるものとは合い慣れなくても当然のこと。
0238宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/21(金) 03:30:12.56ID:xLQYOBLu
それから、ちょっと気になる点として...

あなた方は、
恐らくは真面目で善良なる一部の仏教徒たちによって時折り提示される仏典の言葉、
要するに、あなた方の無我の理解とは異なる仏典記述の提示についてはすべてスルーパスしてきてるね。
まっ、スルーされても黙ってるところを見ると、
彼らは同じ仏教徒としてあなた方を責め立てるような真似はしないのでしょうけど...。
それがこれまで何度も起きてる。

>>235
あなたは“北海道”を馬鹿にしてるのかな?
まっ、残り時間も少ないのであまりカリカリしないでおくけれどw

あなたは北海道には遊びに来たことはありましたか?
もし、まだでしたら(いや何度でも)、是非いらしてみて下さいね!
北海道は実に広大で素晴らしいところです。2-3泊で何度も来ないことには、
とてもお薦めの観光スポットを巡ることは難しいです。
0239神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/22(土) 08:20:51.99ID:qn7+hJEa
>>231
> その結果、放置されてきたからインドで事実上、滅んだのでは???(苦笑)

まだ100年そこらのことだけど、神智学て、インドや地球上で事実上滅んできてないの?

自己紹介なの?
0240神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/22(土) 19:45:14.88ID:l3mk2qse
宝珠はなんでカウント始めてんだよw
まさか余命幾ばくもなしか?
0242神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/24(月) 20:49:47.34ID:rBni16Dc
仏教徒ワイがありがたい仏様で打線組んだ
http://world-fusigi.net/archives/9562717.html

記事のレスも面白いがコメント欄のコメントもまた面白い(^o^)
0243
垢版 |
2020/02/25(火) 20:44:37.37ID:43/kV4Iv
だから、前から繰り返し何度も言ってきた事だがww

生きている間は「我」は間違いなく「有」り、死んだ後は形而上の事で無記。
仏教の輪廻やら三世に渡る業なんてのは当時のインドの風習上受け入れざるを得なかった(そうで
無ければ話すら聞いてもらえなかった〜だろうよw)に過ぎない・
よって、輪廻の主体やら、日本の先祖供養なんてのは仏教の無我に矛盾するのは当たり前w
そもそも死後の魂なんてものは仏陀は認めていないのだから。

そんな下らない事に注目するより若き釈尊の修行に注目する方が遥かにマシ。

隠居がかつて言っていたように「無我夢中」の無我が仏教の無我だろうよww
無我夢中の我は確実に有る。なければ何ものに対して無我夢中になる事もできない。
0245
垢版 |
2020/02/25(火) 21:30:49.15ID:43/kV4Iv
低レベルで結構w
ただ、大乗の似非悟りで観念をこねくり返したものが高レベルとは認めない。
0246神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/26(水) 05:21:24.36ID:TcoYFMBu
☆ =^・・^= !

仏陀が教えを説示する場合
その相手の精神的能力 (→機根 ) や性質などに応じて
それにふさわしい手段で

>観念をこねくり返し?

説法する.対機説法(たいきせっぽう)
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E6%A9%9F%E8%AA%AC%E6%B3%95-90970
  _  _  _

「無宗教」の米国人、カトリック教徒などと並んで最多に.2019/04/14
https://www.cnn.co.jp/usa/35135718.html

それでも
『絶対的な宗教!』という我執に囚われて

新天地イエス教会.“密着礼拝”.集団感染.感染拡大.2020/02/25
https://www.fnn.jp/posts/00050455HDK/202002252100_reporter_HDK
0248神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/26(水) 09:40:03.98ID:oPPhKxEz
>>243
>仏教の輪廻やら三世に渡る業なんてのは当時のインドの風習上受け入れざるを得なかった(そうで
>無ければ話すら聞いてもらえなかった〜だろうよw)に過ぎない・

いえ、実際に輪廻や業報を完全に否定して断滅論を説いたアジタ・ケーサカンバラとその弟子達によるローカーヤタ(順世外道)は、
確かにバラモンからは最低の思想と見做されていますが、それでもアジタには多くの弟子がいてローカヤタという教団を形成し、
ローカヤタは紀元前後に書かれたとされる法華経でもこの経はローカヤタに説いてはならないと書かれてある通り仏滅後数百年は存続しました。
教団が形成されるくらいに話を聞いてくれた人がいたということです。

ちなみにアジタ当時のアジタが活躍していた国、マガダ国の国王阿闍世はアジタについてブッダに

尊者よ、これに関して、私にこの〔思い〕が生じました。
『一体どうして私如きが、王国に住まう沙門あるいは婆羅門を、非難されるべき者と考えようか』と。
じつに尊者よ、それで私は、アジタ・ケーサカンバラの語ったことに歓喜することもしないが、非難することもありませんでした。
歓喜せず非難もせず、不満ではあったが不満の言葉出さず、じつにその言葉を受け取りながら、傾倒することなく、座より立って出立したのです。

と語っており、阿闍世はアジタの話に賛同することはありませんでしたが、弾圧したりもしなかったということです。

詳しくはこちらを

「沙門果経」(しゃもんかきょう)ブッダの教え解説・マンガ付き 長部 第2経
https://buddha.pink/sutra/61/
0249神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/26(水) 09:55:51.80ID:TcoYFMBu
☆ =^・・^= !

>>248
紐師匠が言いたかったことは.たぶん↓これ

真俗二諦(しんぞくにたい)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6

当時のインド人にとって
仏教を理解せしめるためには世間的な
輪廻とか(来世とか)の想いを一応認めて
その理解のうえで
仏教を人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった…
0251宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 07:15:24.33ID:Mjl5XgXJ
>>239
 『神智学協会』の設立は1875年でしたので、今年で145年といったところです。
 何処かの地域で“滅んだ”ということはないけれども、世界のオカルトシーンにおいては非常に有名なブラヴァツキーの超常現象トリック
詐欺事件(1885年、権威ある『英国心霊研究協会』の調査を受けた公式発表)でブラヴァツキーは失墜し、その影響を受けて協会は大きく衰退
しました。その悲しむべき悪影響は、特にこの日本などでは今日でも続いています(このスレにも詐欺呼ばわりするアホが今もいるように)。
 
 もちろん、これはまったく事実ではありません。これはブラヴァツキーに逆恨みを抱いた者による裏切りの内部告発によるもので、当時、
協会と敵対関係にあった心霊学会とキリスト教勢力(心霊主義は決して人を真理には導かない、またキリスト教はイエスの正しい教えを伝える
ものではないとする神智学協会を敵視していた)が共に手を結んで、電光石火のごとく世界的に脚光を浴びていた協会とブラヴァツキーを失墜
させるべく企てられた陰謀でした。
 これに対して元々、誹謗中傷に対しては忍耐を以て沈黙する姿勢にあった協会側は裁判を起こすことなく、特別に反論口撃の行動もとらな
かったのです。その後、1986年に英国心霊研究協会はホジソンによる調査報告は公正を欠くものであったことを公式に認め、協会に対して謝
罪しています(なんと実に100年以上してからの“冤罪発表”であり、あまりにも遅過ぎでした。そして、そのことについては今でも殆ど知ら
れていません)
0252宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 07:16:43.62ID:Mjl5XgXJ
 バリバリのテーラワーダ信奉者の佐藤哲朗氏なのですが、氏はとても良い仕事もしています。この氏の著作にはブラヴァツキーが詐欺事件
を受けてインドを追われたときのことから、神智学協会の共同設立者(初代会長)だったオルコット大佐が京都の仏教協会によって招聘されて
来日した事実などが詳しく描写されています。
 オルコットは、スリランカ仏教の復興運動(英国の植民地支配を受けてキリスト教を国教する仏教弾圧による消滅危機)の先頭に立ってスリ
ランカ仏教の近代化を推進し救済した事実上の大英雄であり、そのことが明治政府の仏教弾圧「廃仏毀釈」の影響で衰退と混迷に苦しんでい
た日本仏教にとっての起死回生の起爆剤のなることが期待されたのです。この来日では、なんと全国各地33寺院で延べ20万人の聴衆を動員
したともいわれています。

 『小康状態を得て急遽インドに引き返し、告訴も辞さないと息巻いていたHPBも、組織防衛をはかるオルコットらの説得を受けてインドを
立ち去ることを決した。1885年三月末のことである。近代オカルティズムの巨魁は、こうしてインドから、事実上「追放」された。
 ドン・デヴィットは、コロンボに立ち寄った船の上で、ブラヴァツキー夫人ともはや生涯最後となる別れを告げた。もちろん、ダルマパー
ラは終生一貫して、HPBは単に「バカげた陰謀の罪のない犠牲者」であり、「彼女は仏教徒であり、また仏教徒であるヒマラヤのマスターたち
の代行者であった」と信じ続けたけれど。』
(佐藤 哲朗著『大アジア思想活劇〜仏教が結んだ、もうひとつの近代史〜』サンガ社)
 https://samgha.co.jp/shop/products/detail/145
0253宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 07:18:34.81ID:Mjl5XgXJ
 その後の神智学協会の歴史は、恥ずかしいかな大分裂と分派発生を繰り返すものでした。
 大本の神智学協会はブラヴァツキーの頃とは異なるものとなり、また、それ以外の諸派すべてが分裂した分派かまったく新しい派です(もち
ろん、素晴らしいグループが幾つもあります)。
 それでも神智学運動の人類貢献には素晴らしいものがあります。二代目会長ベザントのインド独立運動は永きにわたったものでインド政府
からも評価が高く、ムンバイやチェンナイには、現在でも彼女の名から付けた「ベサント・ストリート」や「ベサント・ロード」といった場
所があります。また、インドGoogleのトップページはベザントの業績を讃えて彼女を描いたアニメキャラが登場します。他に、知られていな
いものとしては、『ユネスコ』(国際連合教育科学文化機関)創立には神智学協会が大きく関わっています。「ユネスコ憲章」はそのまま神智学
協会の理念から創られたものです。

 尚、神智学という不朽の叡智を授けたヒマラヤの覚者方からのコンタクトは、ブラヴァツキー亡き後も幾つかの分派や個人のイニシエート
を通して今日まで続いているものと私は見なしています。
0254宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 07:20:36.94ID:Mjl5XgXJ
>>240
突然死でない限りは、余命幾ばくもない際にはココに報告するつもりでいます。
今こちらでは”コロナ”の脅威が大きくて、ついに私の住む近隣でも発病がありました。
なので、その影響をいろいろと受けています。
「ネットの素晴らしさは、直接対面しなくても会話ができることにありますね!」

>>243
紐さん、あなたの主張には仏典の根拠がない。
確かにブッダが輪廻を説いた理由としてそういうことをいう学者は割と多いことは知っています。
しかし、仏典からはそのことを裏付ける根拠は確認できません
仏典で根拠の確認できない主張はすべて、その主張者の単なる憶測や願望に過ぎません。
(もし、その説に自信があるのならばあなたが自分でそれをするべきです)。

そういうことをいう者の想いとは何か? というと、
要するに、輪廻(転生)などあまりにも不思議なこと過ぎてとても信じられないからです。
つまり、「そんなものがある筈がない」ということが先に結論としてある。
そして、そういう者は勝手に伝統教義としての無我論とを結びつけて、「アートマンなどは無いから輪廻もない」などというのです。
それはこのスレでも御馴染みの論調ですね。
所詮は、ただの唯物論者と議論しても話が成立しない。
何故なら、そういう者は最初から断固として自分の唯物論の間違いについては認める気が無いから。
なので私は、もうそういう者とは議論する気持ちが起きない...。
そういうあなたには、私から以下の言葉を遅らせてもらいます 
---“リンク”をすべて読んで下さい!
0255宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 07:22:48.98ID:Mjl5XgXJ
 【『スッタニパータ』でゴータマ・ブッダが「輪廻的な生存がなくなった」と語っているこの文言こそ、ゴータマ・ブッダが輪廻思想を認
めていなかった証拠だといっている。---中略---
 つい二年ほど前の『日本佛教學會年報』に、比較的若い仏教学者が、仏教は、本来、輪廻思想を否定したという見解を発表した。---略---】
(宮元啓一著『これが最初の仏教だ−−ブッダが考えたこと』2004年刊/春秋社)
 http://mimizun.com/log/2ch/psy/1383617199/71-72

もちろん、唯物論はブッダの頃にもあったけれども、唯物主義なんぞ...とっくに時代遅れです! 
それが人類史上、最も持てはやされたのは科学の進歩と発展に人類の夢と希望を湧かせた「産業革命」の時代です。
その目の前の愚かなサンプルが今のアホ中国(共産党独裁国家)ですよ。

ブッダ御自身が、業報輪廻の教えはバラモン教の受け売りで語っているのではなくて、
すべて自らが体験して確認した事実であると明確に述べているにも関わらず、
そのことを無視して勝手にバラモン教を継承して方便利用していたなどと主張する者は全員、
“ブッダの言葉をまったく信用していない不届き者”だと、この私は思う。
---そういう者にはブッダを語る資格などはない!!!---

 『二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することがで
きるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転
生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているので
はありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。』
(マッジマ・ニカーヤ.130)
0256神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/29(土) 09:48:23.73ID:9q69sLGZ
>>251
> その後、1986年に英国心霊研究協会はホジソンによる調査報告は公正を欠くものであったことを公式に認め、協会に対して謝罪しています

事実を歪曲するの好きねw

SPRの一会員Vernon HarrisonがSPRから1986年に刊行された著書の中で

> I cannot exonerate the SPR committee from blame for publishing this thoroughly bad report.

> I apologize to her that it has taken us one hundred years to demonstrate that she wrote truly.

と、一人称「I」で語った話がそのように歪曲されている訳です。

あなたの仏教に対するありとあらゆる歪曲による否定肯定と同じ構造です。
0257神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/02/29(土) 09:56:24.95ID:9q69sLGZ
基本的に日本のメディアは右も左も、唯物主義もオカルト主義も、いずれも事実を歪める偏向報道の嘘つきカルマまみれ連中の巣窟だから、
出来るだけ一次情報に近いものを扱わないと、日本語化された時点でオワコンだよw
仏典が中国に渡って漢訳された時点で半分以上オワコンなのと同様でw
0258宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 12:05:23.33ID:Mjl5XgXJ
>>256
H.P. Blavatsky and the Spr: An Examination of the Hodgson Report of 1885
(H・P・ブラヴァツキーとSPR:1885年のホジソン・リポートの検討)と題されたヴァーノン・ハリソンの著作は、
ホジソン・リポートが如何にずさんなものであったかを精密な筆跡鑑定などによって暴いた学術的な論文だったという。
そのことが明らかとなったにも関わらず、それは一個人の著作に過ぎずSPRからの正式謝罪はなかったとでもいいたいの?
もしも仮に、公式書面のようなものはなかったとしても、SPR内においてその事実が確認されたのであればそれでいい
(謝罪があったという話はあるのだけれどね... 伝聞レベルなのか?)。

>>257
確かに、残念ながら認めます。
この私の未熟も含めて...。

>>256
>あなたの仏教に対するありとあらゆる歪曲による否定肯定と同じ構造です。

ホ〜
随分とエラソウですね!
というあなたは何者?
0259宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 12:20:06.34ID:Mjl5XgXJ
追記:
 一代という人はよく相手して付き合ってたもんだとか...
 七セブンのパーリ語理解に罵声を浴びせた人か?

 正体(学者か僧侶か? 或いは...)を宜しくどうぞ m(__)m
0260栄進軍曹
垢版 |
2020/02/29(土) 12:53:31.70ID:e/TgAVa2
悟りとは何か?

答え出た(´・ω・`)?
0261宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 17:20:21.58ID:Mjl5XgXJ
>>260
ハハハッ!! ヽ(^o^)丿

う〜ん。
それは悪しき煩悩の寂滅であり、自我(自分とそれ以外を分つ日常の低級意識)の終焉であり、
そして、智恵と慈悲の意識そのものとなることではたぶん最初から一致してるでしょう?
個々の理解の違いとしては、それを輪廻からの解脱と見なすのかどうか? 
梵(神)との融合やアートマン(我)としての自覚でもあるのかどうか?
といった論争があることですかね。

それは、
言語(言葉や文字)を超えたものなので体験する以外に理解することはできない、
といえば話はそれですべてお終いです。

まっ、この私から見ても、
本当のところはアートマンがどうしたこうしたというのも実は大問題ではないのです。
ただ、「仏教だけが唯一の真理であってヒンドゥーを含めそれ以外はすべてダメだ」とする他宗教批判が認められないだけ。
それを止めるならば別に何もいいません。後はどうぞお好きに各自の信仰をすればいい...。

あっ、栄進さん!
私は“間もなく”このスレを去るつもりでいます。
神智学のことは別に置いといて、5chコテハンでは恐らく鬼和尚さんだけが仏教/ヒンドゥーについてのすべてを、
その共通する真理そのものについてを理解している方でしょうね。
なので、すべてこの方に尋ねるのが良いものと私は思います。
この私から見て、この方はこれまで間違った発言はただの一つもない(という印象)。

はい、宜しくどうぞぉ (^-^)
0262宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/02/29(土) 17:26:11.00ID:Mjl5XgXJ
>>231
追記:

一般的には、インドで仏教が滅んだ理由としては、
イスラム勢力による寺院破壊で衰退したというものと、
そして、密教のヒンドゥー化が進んで最終的にはヒンドゥー教に吸収され飲み込まれたなどとされています。

もちろん、これはその通りであろうとは思うけれども、しかし、これは主に大乗についての話ですね。
そして、インド大乗の最終形態であった密教の発達は、後期密教のタントラ・ヴァジュラヤーナとして最後には腐敗堕落した。
密教僧が女人(尼僧や女性信徒)をダーキニとして抱くSEXに溺れるという醜態が実際にチベットや日本でも起こったところからみて、
恐らくはインドでも同様だったであろうと思われます。そこへイスラム勢力の攻撃があった...。
では、彼らと袂を分かった上座部系はどうなったのか?
つまり、部派仏教の継承テーラワーダ教団というのは、ここに集う仏教徒に見るように
頑なに“アートマンは無い”とする「無我」を掲げ続けた(これがブッダの教えであり、仏教最大の特徴だと信じた)ために、
遂には、入信する信者が完全に絶えて自然消滅をした(インドにおいては、アートマンは無いなどという主張は絶対に受け入れられることはない)。
それがインド仏教消滅の真相だったろうと、この私は見ています。
0263栄進軍曹
垢版 |
2020/02/29(土) 22:02:09.34ID:sqaUeWKs
>>261
は!お答えありがとうございます

お邪魔しました!(´・ω・`)ゞ
0265神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 15:50:20.81ID:5a0gfyZi
Q:インド哲学、ヒンドゥー教の人々が言っている「真我論」は長老のなかではどういう位置づけになっているのでしょうか?


A:誰でも理性に基づいて真我があると証明できる人が人類の中で一人でもいるならば、出てこいと言いたいのです。
自分が経験したと言うなら、出てきて欲しい。〔ブッダの無我論に〕反論して欲しい。
でも、人類の中で一人もいないのです、過去から現在まで。〔真我論は〕単なる信仰でしょう。
 「ある」という前提なら、何でも語れますよ。
たとえば「神がいる」という前提で、どんな下らないことでも言えます。でもそれはただの信仰です。
 釈尊の教えは、真我論は徹底的にインチキもいいところだと批判して始めた教えです。純粋に理性的で論理的な教えなのです。〔宗教に〕脅されて、搾取されていた人間を宗教の束縛から解放してあげたかったのです。
宗教は人間の自由も幸福になる道も、吸血鬼のように吸い尽くして、奪っているのです。
 いま私が読んでいる本では、あるユダヤ人が『聖書』に文字通りそのまま生きてみようとした。結局、私よりも厳しく聖書を批判することになっているのです。
ユダヤ教の戒律には、偶像は片っ端から殺せ、同性愛者は見たら殺せ、魔術師は火をかけて殺せと。それはとりあえず措いておかないと。
彼が最後に書いているのは、『聖書』に書かれた戒律は、何一つも守れないのだと。
また服も二種類の布で作ってはならんと。どんな生地も複数の繊維でできている服を着ている。
なぜ、そんな戒律があるのか。なぜ男はひげを切ってはいけないのか?
何の理由もないことが神の言葉であると。
 とことんバカにしています。〔宗教とは、〕人間の自由を奪って、人間ががんばって発展する道を邪魔するために、抑えておくためにあるものです。
ヒンドゥー教も、中東の宗教も、〔中国の〕道教も、同じです。
 中国宗教の親孝行の教えは悪いことではないけど、社会を固定化して、動かないように、化石化しようとする。社会の変化をとめようとしている。
これまでは目を閉じて読んでいたのだから、これからは目を開けて宗教の本を読んでみてください。
0266神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 15:58:03.69ID:5a0gfyZi
 これ(宗教)は人間を支配したい、管理したいという何人かの衝動の産物です。
永遠の神を信じると、結局、神という誰かの奴隷になるのです。
何を調べても現れるのは、因果法則という真理だけです。調べれば調べるほど、探せば探すほど、「魂はあらず」というデータが出てくるのです。
 だから「魂がある」という結論を出す?
目を閉じて本を読むのではなく、目を開けて本を読んで欲しいのです。宝物を自分で見つけて、ガラクタをとっとと捨てることです。
 宗教というのは、浦島太郎の話のようなもの。子供は浦島太郎の話を信仰しません。気持ち悪い大人は浦島太郎の話をそのまま真理だと信じている。
面白いのは、〔現代人は〕原始人が真理を発見したと思っていることです。実体論を捨てない限り、人間は煩悩から解放されません。差別から解放されません。
 インド哲学者に聞きたいのです。『バガヴァッド・ギーター』は世界人類に貢献した文献だと言っているが、そこに書かれている一貫した論理は、「殺せ」という一言だけです。
エゴを捨てて、神に命じられた義務(殺人)を遂行せよと。
インドではカーストによって義務が違います。ではインド人に聞いてみてください。日本人は何カーストかと。日本人はどのカーストにも入らない、動物と同じ扱いです。
ヒンドゥー教にも哲学はありますよ。でも、ぜんぶパクッた哲学だから。
 人種差別を神の言葉として肯定するならば、それほど非道徳的な言葉があるでしょうか?
どんな宗教でもその聖典に書いてある教えは矛盾だらけです。私はよく言うでしょう、「ブッダの言葉に一行でも矛盾があるなら言ってみろ」と。
 聖書にもたくさん戒律があるが、「なんで?」という理由が何もないのです。それをまじめに実行しようとしているのがイスラム教です。
宗教の道徳は論理的に成り立っていないのです。論理的に成り立っている道徳というのは、仏教の教えにしかないのです。
 仏教は、宗教に関心ない人々が守っている道徳は認めます。それを守らないと不幸になるんだと、みな知っていることですから。
仏教も、それをやったら不幸になる、ということを道徳で戒めているのです。きちんと論理的に成り立っています。
0267神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 16:03:18.04ID:5a0gfyZi
 どんな学者でもいいから、真我があると証明して欲しいのです。テキストから出しても意味がありません。テキスト自体が矛盾だらけですから。
私たちは瞑想実践で、無我であることを発見するんです。観察して、自分で発見するのです。
 私たちは矛盾だらけの宗教の教えで、いわば遺伝子レベルまでもマインドコントロールされてしまっているのです。
だから仏教は、一切の先入観なく、ありのままを調べましょう、〔と強調するのです〕。調べて見つけたら、それが正解になるんだよと。それがブッダの世界です。
 でも、仏教を知る前に読んだ本がありがたいと思ったら、それは足かせなんです。
マインドコントロールを全部破るというのは簡単なことではありません。簡単ではないからといって、感情で信じているものが真理にはなりません。
 「あると思うよ」というところまではいい。それが事実、真理だというのは間違いです。調べてください。
マインドコントロールから解放されることは厳しい作業になりますが、ヴィパッサナーで、一週間まじめに実況中継してみると、マインドコントロールがきれいさっぱり消えます。
それで覚り/悟りの第一ステージに達しているのです。その人は客観的に物事を見ていることになるのです。客観的に物事を見る人はすごく自由です。毎日、宗教の聖典を読みながら暮らさなくてもいいんです。
 「真我がある」という前提を叩き込んでから瞑想しても、苦行しても、それで何かを見たとしても、「病気になった」というだけです。
 質問されましたからキツイ言葉で答えましたが、「○○についてどう思いますか?」というのはすごく嫌な質問なのです。世の中でごちゃごちゃ言われることについて、別にどうとも思っていないんです、私は。
0268神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 16:14:47.44ID:5a0gfyZi
Q:『般若心経』について否定的なお話しをされていますが、その辺について詳しく教えていただければ……


A:本を書いて膨大に論じたことを、どうやって一分二分で「詳しく」話せますかねぇ……。
ポイントは、作者は「空」についてよく解っていなかった、ということ。
〔空とは、〕一切の現象は作られたものである、というくらいのことです。三角形という概念にしても、それは実体があるわけでもないのです。
 「色即是空」は確かにそのとおりですが、「空即是色」というのは相当なアホしか言いません。
りんごとは果物である。OKです。したがって、果物とはりんごのことである。相当のアホでしょ?
そこから始まる経典だから、はじめからダメに決まっているのです。
 省略していますが、ぜんぶの仏教用語について同じことを言っているのです。それから「無」に飛ぶ。空と無は同じではありません。
すべて修行・実践を否定する。実践を否定した時点で、非仏説です。仏教の世界から抜けています。
仏教は宗派つくってもいいが、道徳と修行だけは否定してはいけないのです。
 大乗でも小乗でも、中乗でもかまいません。しかし修行を否定するものではないんです。
人間は犬猫と一緒でいいという話はないのです。でも『般若心経』は修行を否定しています。
それで、空と何の関係もない呪文が出てくる。「一切皆空」でどうして呪文〔が出てくるの〕ですかね?
 だから、『般若心経』の作者は病気です。気にしないでください。
皆さんの気持ちはわかります。二百何十文字ですべての教えが凝縮されているとか信仰されてきたのですから。万能の呪文のように使われてきましたからね。
だから信仰は困るんです。〔『般若心経』は〕いろんな人々の玩具になってます。
0269神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 16:15:43.33ID:5a0gfyZi
 とにかく私は、〔著作を〕批判して欲しかったんです。スマナサーラとかいう阿呆はいい加減にしろと。期待していたんですけど、何もないんです。
たぶん私をまったく相手にしていないか、完全無視されているか、言いたいことは何もないか。どちらかでしょう。
日本のお寺が無視するのは分かりますが……。
 そんなところです。触りたくもないテキストですけど、私の〔『般若心経』に対する〕反論は「空即是色」という論理は間違いである。空即是色は合っている。
無が入っていることは、空がわかっていないこと。虚無主義になること。修行も悟りも否定すること。
 輪廻も悟りもないと観念的な人が言ってもいいですが、私たちには、「生きている」ということがあるのです。その私たちに何もやってくれない。ただギャーテーギャーテーと唱えるだけで。
だったら、ギャーテーギャーテーと唱えながら、電車に飛び込んでみたらどうでしょうかね?
〔『般若心経』の呪文は〕一切の恐怖から人々を解放してくれる呪文ですから。体中に書いてもらって、電車に飛び込んでみる。電車が脱線して自分が無事だったら、その呪文にすごい価値がある〔証拠なの〕です。
実験もせずに言うものではありません。
 仏教は呪文に大反対ですけど、あえてスマナサーラの責任で、呪文というカテゴリーに入れるならば「生きとし生けるものが幸せでありますように(sabbe sattā bhavantu sukhitatthā)」という一行だけです。
慈悲の瞑想を実践してみれば、一切生命の中で幸福に生きていられますよと。

https://mobile.twitter.com/jtba_talk/status/1118041418931429377
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0270神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 17:03:25.92ID:iLO4t8dO
心経の「無」も、Sktなら非我無我の読み方の違いが出るし、
漢訳で言うなら、中観、或いは趙州無字の系譜を視野に入れなきゃならんけど、
一般語義の「無い」でないことは前提にしとかないと始らんしなぁ・・。

ガテーガテーの真言も、現世利益の即物的即効呪文ではないしなぁ・・。
まるで御隠居風の言説w (最近だと紐もか)
0271宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/01(日) 17:22:38.45ID:L/tCzKe7
>>265-269
あまりにも馬鹿らしいからとても相手できない...。

ギーターは別に殺人を勧めてる話ではない。
所詮、この人は読んでも意味すら理解できやしないし、元々、真面には読んでない。ただ馬鹿にしたいだけだ!
真我の証明? いやいや.何人も何人も示してきたのがヒンドゥーの歴史ですよ。それは眼に見えるようなものではないから。
この方は無我論の間違いについて研究者たちが公に知らしめている現状について自分らの危機感を募らせ、
それでヒンドゥー(有我論)についての悪評ばかりを書きまくってるわけです。
膨大な出版物の多くでこれに費やされている。
まっ、必死ですね!

この人の「般若心経」批判のアホぶりについてはこの私がやったでしょ!!
自分で過去ログ検索で読みなさい。自惚れも大概にせいよ。

あ・な・た...文句が言いたいのなら自分自身の言葉で来なさい!
それができないのなら引っ込んでな。


>>264
早く終わって消えてってことかな?
でも、最後のお別れの挨拶してないからもう少しねm(__)m
確かに、あなた方にとって私はエキノコックスのようなものなのかなぁ?

では、巻マキでサッサと投稿するもの終えて、
早いとこサヨナラしますか!
0272神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/01(日) 17:33:36.31ID:iLO4t8dO
あ、また(雑な読みと)怒られそうだな・・・w
けど、今更取り消せないんで大人しく怒られとこう・・。
0273神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/02(月) 09:22:48.37ID:bVPTCNuR
> …一般語義の「無い」でないことは前提にしとかないと始らん

☆ =^・・^= !

非想非非想(ひそうひひそう)
想があるのでもなく、ないのでもない

想うとう想いでもなく
想わないとう想いでもない

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい,
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
「思いを手放しにする」とはどういうことか。
----われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです。
ところが今,
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,
何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです。
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません。
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう。
  _  _  _

たとえば紐師匠とかなら
「思いを手放しにするという我執があるはずだ!」と言うかもしれないけど

この場合は
思いを手放しにするという我執も手放して逝く
という対機説法
0275神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/02(月) 13:35:22.99ID:T2Rc6IME
>>271
>真我の証明? いやいや.何人も何人も示してきたのがヒンドゥーの歴史ですよ。それは眼に見えるようなものではないから。

それは理性に基づいて真我があると証明できていたのかどうか?
インド人は「真我がある」という前提を叩き込んでから瞑想しているから真我という想念が瞑想中に見えてるだけではないのか?
仏教はそう言った真我のような想念は最初から問題にしないので瞑想中に真我に出会うことはないし例え真我のようなものが見えたとしても妄想だとして相手にしないのですよ
0276宝珠真範
垢版 |
2020/03/03(火) 04:57:45.38ID:iXgwbawD
>>275
(瞑想中に)真我が見えた? 見えてない? 見えても妄想だって?
いやいや.それ全然、意味がまったく違うから!!
何も分かってない者とは.とてもお話にならない。
師(先生)がそのような低レベルだから、その弟子や信徒らもそれに従う...。
>>265-269の投稿者と同一者かどうかは分からないけれど...。

>>265-269
私はもちろん、伝統仏教そのもの(ブッダの教えそのものとはみてないが)について
は、
とても素晴らしいものだと評価していますよ。同じくテーラワーダも素晴らしい宗教
です。
しかし、それにしてもスマナサーラ師は、日本の他の一般仏教徒たちからもあまり評
判良くないじゃないですか...。
それはいったい何故なのかな? 
まずは、一般仏教徒たちに認められ尊敬されることが必要なのでは?

それから、スマナサーラ師の有我論への批判内容だけど、
正直、ここの住人よりも遥かにレベル低いですよ(1段階か、いや2段階位か...)。
0277宝珠真範
垢版 |
2020/03/03(火) 05:00:53.56ID:iXgwbawD
>私はよく言うでしょう、「ブッダの言葉に一行でも矛盾があるなら言ってみろ」
と。(>>266)

そりゃ〜ブッダは完全な御方でしょ!
そのブッダの教えももちろん完全だ!
しかし、その教えの継承も同じく完全なものでしたか?
ブッダ以外には完全な人間はいないのであれば、当然、継承していく弟子たちは不完
全者。
つまり、不完全な者のやることには完全なものがある筈がないのでは?

事実、仏教が「仏陀に成るための教え」だとするならば、
ゴータマ仏が亡くなられてから今日までの2500年の間、その仏教界において同じく次
の仏陀と成った者は現れたのかな?
それはいつの時代の何処の誰です? そんな話はどこからも聞いたことがないけれど
も...?
もし、仏陀を一人も輩出できないのならば、その伝承には何か大きな欠落があるから
ではないのか? という視点すらもあなた方には持てないのかな?
ブッダ在世の当時は、五百羅漢(この数字は誇張ですね!)ともいわれて多くの阿羅漢
の弟子たちが現れたようだけれども、
では、阿羅漢レベルならば何人かは現れたのかな? まっ、パーリ的には阿羅漢で完成
者とするのだろうけれどもね...。

「ブッダの言葉に一行でも矛盾があるなら言ってみろ」という、
その『パーリ聖典』の言葉に従わってないのは自分らでしょ? (勝手にアビダンマに
追従してるだけだ)

あとは、この私からの最後の投稿をよくよく読んで、そして、熟考してみることで
す。
0278宝珠真範
垢版 |
2020/03/03(火) 05:12:26.22ID:iXgwbawD
投稿規制が強くて仕方なく携帯から投稿しました。
あまり望まないけれども、このあと最悪の場合には
自分のサイトページに書いたやつのURLをただ貼るだけになるかもしれません。
0281宝珠真範
垢版 |
2020/03/04(水) 19:06:38.48ID:PJb7uUcX
この私は、両肺共に原因不明の“肺気腫&胸部ブラ”を永年抱えて生きているので、
今の病院体制なんかでは、コロナなどの喘息や肺炎になったら、たぶんもう助からな
いかもしれない...。
とにかく、感染を防ぐようできることはやります。
ここで「煙草」について感じることを少し。

【煙草】
 以前に、「酒」が仏教の禁止事項に加えられた経緯については話しましたけれど、
「煙草」については、仏教の禁忌対象として明確化
されていないということからか喫煙されている僧侶が随分と多い印象を受けます。
 私の実家に来る菩提寺住職も吸うので、その度にいちいち灰皿を出さなければなり
ません(煙草を吸われることは本当は迷惑な行為)。
そもそも煙草が禁止事項に入っていない理由としては、ただ単にブッダの時代には煙
草が普及してなかったからであって、それは吸っ
ていいという意味ではありません。
 煙草の害については、“百害あって一利なし”といいわれ、その害については今
更、紹介すべくもないところです。もちろん、これは
脳内神経組織にも強い打撃を与えるものであり、まるで脳内に蜘蛛の巣を貼ったよう
な状態となって仏道修行と瞑想実践にとっても大
敵となります。そして、この煙草の顕著な特徴がその薬物依存性であり、これまで喫
煙を楽しでいた人が禁煙することは並大抵ではな
いということ。私の場合は、16歳頃から始めましたが、18本程度/日のセブンスター
を38歳頃までの22年間、1日も休まず吸い続けま
した。早いもので禁煙してから18年くらいですが、今だに禁煙を破って吸ってしまう
という悪夢を見ることが度々あります。それほど
大脳に快楽刺激としての記憶が深く刻み付けられているのです。更に加えて、この煙
草の嫌なところというのは、吸っている本人のみ
ならず、その周囲に吸っている煙よりも害が強い副流煙を撒き散らして非喫煙者の健
康を害するということ。それからあの“匂い”です。
 私の姉が煙草をよく吸うのですが、お節介にもほどがあり、すぐいろいろな物をく
れるのですけれど、そのすべてが煙草臭くて使い物
にならないので申し訳ないけれども捨てています。有難迷惑とはこのことなので、今
度、本人にハッキリと言うつもりでいます。
0284宝珠真範
垢版 |
2020/03/08(日) 14:26:27.35ID:Ukh0fKId
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1569815079/l50


>>280
フ〜ム。意外と思ったよりも穏やかな印象ですね!

>>282
普通はそうですよね? 
私もそう思って尋ねたのでしたが、しかし、医師からはキッパリとこの病気と
タバコとの“因果関係は確認できていない”との返答なのでした。エッ!?

>>283
何やら誤解している人がいるかもしれませんが、
別に、「超人」になることを目指しているのではなくて、完成者としての仏陀
(覚者)になることを目指すということ。しかしながら、その結果として必然的に
“超人”的要素も獲得されるということは紛れもない事実です。
まずは各自が、自身の愚かな“唯物論”の間違いに気付くことですよ。
何故か、仏教が唯物論であると勘違いを起こしている輩が仏教には多く関心を抱
いているようです。彼らは勝手に、不思議記述はすべて“神格化と迷信”の付加
として処理してる...。

とにかく、あまり仏典の記述をナメナイほうがイイ!!
理解できないことはすべて“己れの未熟”が原因です。
0285神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/12(木) 08:15:15.96ID:4CEDy78k
今頃パンデミック認めるって…… <中国の息のかかりまくりなWHO
つくづく、日本人も中国人も民族的体質は大差ないわな
福島原発の当日に、これどう見てもメルトダウンだろと、公共の場で発言したら、風評被害ガーって非難するキチガイが何人もいたが、
奴らは今頃どの面さげて日本社会に善良な一般市民のフリして生きてるんだろうと思うわ
0286神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/12(木) 08:25:05.65ID:4CEDy78k
東アジア人的愚痴で歪みまくりの中国的仏教像撲滅すべし!
0290神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/12(木) 08:56:07.39ID:4CEDy78k
おっと、ただし紐は黙ってろよw
仏教自体を矮小化したい訳じゃない
「歪み」の是正だ
0291神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/13(金) 01:47:17.77ID:eoSmn/8r
 
人類滅亡のカウントダウン? DHCテレビ 2020/03/10
https://www.youtube.com/watch?v=_whUvYrzg0M

ハーバード大学の教授が(中国の武漢へ)ウイルスの密輸? 2020/02/02
https://indeep.jp/one-chinese-scientist-could-be-linked-global-coronavirus-pandemic/

WHOが表明 新型コロナウイルスは「パンデミック」 2020/03/12
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/pandemic/

感染状況
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/#infection-status

国内.国外.発生の状況
https://hazard.yahoo.co.jp/article/20200207
0292宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/14(土) 07:13:47.66ID:6roVo9Ge
それでは、まず前スレ
(--佛教論議の伽藍スレ--第六巻)からの一部レス投稿です。

>>https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/903
>>例えば、石飛道子氏との昨年のあのときの議論

 古い過去ログなので、すでにもう正式な石飛氏のサイトリンクからは外されていまして、単にネット上の検索で掛かるだけの状態です。
 事の発端のすべては、この私からの石飛氏に対して質問を投げかける形式で始まり、すぐに女史を囲む常連信者らの野次的なものをめ
たヤジや応援投稿なども開始されました。
 女史自身はとても素晴らしいお方であり、本当に真面目な返答を下さりました(それについては認め評価します)。そして、数回の遣り
取りの後にこの私には議論の意志はもうなかったので、その旨を告げてすぐに投稿を終了し、そのBBSを放置しました。
 尚、私が去った後にも、女史とその取り巻きたちが私の主張に対してアレコレと論じていますが、私はそのまま無視しました。ハッキ
リいって、“根本から全然分かってない方々の内容”はお話にならないから...。もちろんその気になれば、そのすべてに反論できるけれ
ども、ただ疲れるのでね...。それにもう、こちらとしては当初の目的は達成していますから。

 No.10828〜No.10836
  manikana.o.oo7.jp/magical/magical.cgi?mode=past&pno=0022&pg=60
 No.10896〜No.10927
  manikana.o.oo7.jp/magical/magical.cgi?mode=past&pno=0023&pg=490
0293宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/14(土) 07:14:16.42ID:6roVo9Ge
>>https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/906-910
>>906
いや.だからどうして、
それが---完成者による限定なのか?---ということなのですよ!
完成者だけに認められ、しかし、未完の者には許されないその「わたし」という表現のことを私はいってるのです。
それはウパニシャッドの説く永久不滅のアートマンという意味でのわたしなのだ、と中村氏は述べてるわけです。
だからこそ、それは完成者による限定なのです。そして尚且つ、その表現は「仮り」のものであって、
「言語表現として」は許可するとブッダが述べてる経文ですよ。

>なお、経典の「漏尽者にして最後身」というのは五蘊が滅してアートマンだけの
>体になっているという意味ではなくで、
>生存の素因(煩悩、渇愛)が尽きて輪廻における最後の身体になった、という意
>味ですので注意が必要です。念の為。

はい、それはまったく問題ないです。
分かりきった話ですね。
0294宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/14(土) 07:15:34.92ID:6roVo9Ge
>>907
龍樹は修行の必要を認めており、
ブッダの教説「三十七道品」の修行を推奨していることは了解しました。
しかし、そのような輪廻と涅槃の関係の表現というのは、やはり、一元論的なものですから辞めるべきで(仏教は二元論ですから)、
ブッダがいつも話してきたように、あくまでも“輪廻を解脱した果ての涅槃”だと説くべきです。でないと誤解を生じます。
そして現実に、『中論』は“輪廻などない”とする否定派の格好の勝手都合の材料として使われているのです。

>>908
なるほど..彼らへの批判説明なのですね。
そういう視点で見れば、ある程度は分かってきました。
良い説明をありがとうございました。

>>909
同意します。

>>910
たぶん、あまりにも(他宗を含めたすべてに対し)
排他的で攻撃性が強かったことへの批難かと思います。
0295神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/14(土) 19:01:23.64ID:CKKVEUkO
 
>「仮り」のもの >『中論』は“輪廻などない”

http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no25
青目(ピンガラ)の中論觀涅槃品第二十五
(実有ではなく.縁起による.仮りのものだからこそ)
諸の因縁を受けるが故に生と死の中で輪転する
五陰を受けることに因って、生と死を往来する

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
衆生は無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf
(実有ではなく.縁起による.仮りのものだからこそ.輪廻を繰り返し)
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
真俗二諦(しんぞくにたい)
対機説法として
当時のインドの世間的な輪廻とかの想いを一応認めて
それから → 戒・定・慧・解脱・解脱智見へ
  _  _  _

その人にとっての
「ある特定の宗教が正しい!」という我執に囚われているのなら

誰もが成仏するわけではない.五性各別
0296宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/15(日) 04:02:25.20ID:Yb0WaIzt
参考:

 『仏教の認識論では知覚が決定的に重視されるが、--中略-- ゴータマ・ブッダは、知覚できるものを端的にいったまでのことで、知覚
できないものは実在しないなどとは一言もいっていない。(p84-86) --中略--
 こうしたことを総合的に勘案してみれば明白なように、ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないといったが、自己とは何かという質問
には沈黙するのみであった、そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。
 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからいつのころからか、五蘊のいずれも自己でないならば、そもそも自己なるものは存在しない
のだとする、乱暴なことに、きわめて形而上学的な無我説という主張が現れ、やがて同様に形而上学的な、すべては空であるという主張が
現れるようになった。それも、気分としてではなく、理論としてそうした主張は展開されたのである。
 ゴータマ・ブッダの経験論の心髄は、ついに後世の仏教徒たちにはわからなくなってしまったのである。--中略-- 少なくともゴータマ・
ブッダ、最初期の仏教は、そのような見解に立つものではなかった。(p186-187)--中略--
 はるか後世の無我説では、自己(アッタン、アートマン、漢訳で「我」)は存在しないとされるが、ゴータマ・ブッダはそういう考えと無
縁であると述べた。
 じっさいのところ、ゴータマ・ブッダは、自己の存在の否定どころか、自己を肯定的に扱って語ることも多かった。(p188) 』
(宮元 啓一著『ブッダが考えたこと』春秋社)

 「『物質的なかたち、または感受作用、表象作用、識別作用に執着してこだわるが故に、われ有りとの念が起こる。それらに執着したこだわ
らないならば、われ有りとの念は起こらない。』
 このような思想を世間一般の呼称にしたがって、かりに『無我説』と呼ぶにしても、それは決して『アートマンが存在しない』と主張した
のではない。ただ客体的実体的あるいは機能的なアートマン観に反対したのである。」
(中村 元著『原始仏教』筑摩書房刊)
0297宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/15(日) 04:03:37.34ID:Yb0WaIzt
 『ゴータマ・ブッダは、アートマンを「自己」「自身」という人間の実践的立場から使用して、『ウパニシャッド』の根本実在の原理として
のアートマンを認めなかった。なぜならば、与えられた原理に固執して、むなしい哲学的思弁に浮身をやつすことは、なんら宗教的にも実践
的にも役立たないことを知っていたからである。このようにして、ブッダは本来の自己とは何か、真実の自己はいかにして実現されるかを追究
した。ブッダのさとりの内容が「縁起」の道理を明らかにしたのも、正統バラモン思想の陥った固定的・実体的な自我思想を回復する点にあっ
たといえよう。それ故に、ブッダはアートマン思想の正しい理解と実践を明らかにするために、ブッダ当時のさまざまなアートマン観を否定し
た。このブッダの批判的立場が、仏教教団の発展に応じて、ブッダはアートマンの存在を否定して、無我すなわちアートマンがないと主張した、
と考えられるようになった。しかしながら、こうした後代の理解は、ブッダの教えを誤るものというべきだろう。--中略--
 第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教における無我説は、
決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘して、論理的実践的な意味にお
ける本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しない
と主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その
解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは
無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体としての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。
 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而上学的論議と
して斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の意味の無我説がゆがめられ
たのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き生きしたブッダの無我観が、部派仏教に
なると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論との対決という観点から、“我を立てない”無我論へ
と移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、
むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏教のアナートマンの原義にふさわしい。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)
0298宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/15(日) 05:26:27.28ID:Yb0WaIzt
>>114
>無色界禅定で悟るんなら
>釈尊はアーラーマ・カーラーマやウッダラカ・アールニーの元で修行が終わり、
>苦行生活に入る必要も、菩提樹の下で悟りを開く必要もなーんにもなかった
>というのが神恥学

ゴータマ・ブッダの他には在世当時の知られている人物の中に、
究極のアートマン実現”に至った聖者は一人もいなかったとこの私は述べているというのに、
何も今更、わざわざブッダが最初に帰依した有名な二大仙人を引き合いに出して、
あの境地で済むのならばブッダは苦労しなかった、
などと宣うというその神経は如何か?

それでは、いつまで待っていても(“無色界禅定”がヒンドゥーの限界だとする)
その明確な理由と根拠/ソースを出さないので>>130
こちらからスマナサーラ氏がよく著書やサイト等で主張しているものを提示して、
そのデタラメについて反論して完全に破壊しておきます。ちょうど出てきた>>265-267も同様であり、
“有我論/真我は妄想”といったこれもいつもの主張ですね!


※ では、次からは具体的な内容に入ります
    (長文にてサイトURLリンク貼ります)
0300神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 20:46:13.62ID:XTYY61C/
「比丘たちよ。お前たちはどう思うか?『色(受……識)は無常か、無常ではないか』(以下、識まで同じ質問が続く)
『無常です』
『無常なものは、苦か楽か?』『苦です』
『無常なものは、苦である。変壊は当然のこと。そのものを、我所である、それは我である、それはわが自我と見るべきか否か?』『そう見るべきではありません』
比丘たちよ。それ故に、色(受……識)の過去、未来、現在、内外、粗密、勝劣、遠近のすべてを、『それは我がものではない、我はそれではない、それは我が自我ではない』というように正慧で如実に見るべきである」


 ヒンドゥーや西洋の多くの学者は、このことについて次のような理由をあげて説明しようとしている。

 ブッダは、我、あるいは最高のアートマンを否定されていない。ただ、様々な現象である法だけを否定されているのだ。
例えば、この経などにあるように、五蘊のすべては我ではないと否定されたが、これは、五蘊に我があると間違って思い込まないようにという説明に過ぎない。
というのも、存在する真の我は五蘊ではないからだ。
彼らは、そのほかの多くの仏語を取り上げて、ブッダは様々な現象である法だけが我ではないと否定されたが、最高の段階のアートマンを認められているということを示すために、涅槃がアートマンと同一の状態である、あるいは涅槃こそ我である、と説明しようと努力している。
0301神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 20:46:30.34ID:XTYY61C/
 このことは、機会があれば涅槃に関するところで批判しよう。これについてはここでは簡単に次のように、倫理面についてのみ触れておく。
凡夫、特にアートマンに関する信仰体系を学び修習してきた者は、何らかの色の中に自我があるという偏った考え方に固執し、あるいは求めて、知らず知らずのうちに心の奥深くある望みに応えようとする。
ある色(五蘊の段階で)の中には自我があるという気持ちを失わなければないとき、新しいものを考えるか、または固執しようとする。
しかし、仏法の原理に従えば、一つのものに固執するために一つのものを解き放つこと、もしくはもう一度奴隷に陥るために一度の自由から逃げることはない。
今一度考えてもらうために、簡単に言っておこう。
『自我のあるものは存在しえない。存在しうるものに自我はありえない。』
 一切のものが流れの形であり、受け継がれる要因の依存関係にある。そして無常で、苦で、無我の相がある。
どのようにかは、後の十二因縁の道理で説明しなければならないだろう。そうすれば意味がもっとはっきりしてくる。


仏法―テーラワーダ仏教の叡智 (新装版)
ポー・オー・パユットー【著】〈P.A.Payutto〉/野中 耕一【訳】
0302神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 20:52:56.28ID:XTYY61C/
 通常、人間は自分の真の自我は、何らかの形があると常に偏向して思い込んでいる。
また、心は自我であると思い込んだり、さらにもう一段階、心の中に何か別の自我が隠れていて、それが体と心を所有し、命令する主役だと思い込んでいたりする。
 この五蘊について説明するのは、「有情」とか「人」とか「自我」とか呼んでいるものは、分けてしまえば、これらの五つの要素だけであって、別の自我は何も残らない。
そして、これらの各五蘊にしてもそれぞれが互いに依存し合う形で存在して、自由な存在ではなく、そのもの自体では存在しないから、五蘊のそれぞれも同様に自我がないということを見せるためである。
 要するに、五蘊の原理は無我(Anattā)であることを示す。
「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。
それぞれの構成要素も自我ではない。
また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。
このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
後で説明する十二縁起の循環における五蘊の過程を理解すると、この無我たることの意味をはっきりと見ることができる。


仏法―テーラワーダ仏教の叡智 (新装版)
ポー・オー・パユットー【著】〈P.A.Payutto〉/野中 耕一【訳】
0303神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 21:05:54.34ID:XTYY61C/
問16-79 「私」は概念です。「願望」は概念です。
ジャーナ、天神、梵天神、悪道及びその他のすべての世間と出世間の事柄は全部概念です。
生死輪廻の中では、概念が概念を追い求めているだけです。
涅槃も概念ですか?もし違うのであれば、「私」と言う概念は、概念に属さない涅槃をどのようにして証悟するのでしょうか?

「我」という概念は、どのようにして、般涅槃の時に非概念法を証悟する事ができるのでしょうか?
概念の視点から言うと、諸仏と阿羅漢たちは涅槃の中で会っていて、かつ、彼らの間では、生死輪廻の期間における関係を知っているという事はありますか?
彼らは涅槃で何をしているのでしょうか?

答16-79 あなたは概念と究竟法の区別をつけて下さい。人類、天神及び梵天神はすべて概念です。
というのも、究竟の視点から見ると、彼らは究竟名色法に過ぎないからです。

究竟法には四つあります。すなわち、色法、心、心所及び涅槃です。
願望及びジャーナはすべて心と心所に過ぎず、概念ではありません。
世間法は究竟法と概念法を含んでいますが、四道、四果と涅槃という九種類の出世間法はすべて究竟法です。
四道と四果は心と心所からできています。涅槃を対象に取るのはそれらであり、人という概念法ではありません。

般涅槃の時、諸仏と阿羅漢たちの五蘊は、すでに完全に滅尽します。故に、彼らは涅槃の中で会う事はできません。


パオ・セヤドー問答集~#353~#366問答(16)問16-73-16-86<証悟涅槃編>14編。
0304神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 21:10:32.70ID:XTYY61C/
問16-80 ある種の経では、仏陀には、般涅槃の後でも一種の心が存在していると言います。それはどのような心ですか?

答16-80 上座部のパーリ聖典と註釈には、そのような記載はありません。
しかし、非常にはっきりしている事は、般涅槃の後、一切の心を含む五蘊は、完全に滅尽する、と書かれている事です。


問16-81 涅槃とは、常、楽、我であると言いますが、これは正しいですか?

答16-81 正しくありません。涅槃は恒常で、かつ寂楽ですが、しかし、無我です。

《法句経》の中で、仏陀は言いました:「諸行無常;無行是苦ママ、諸法無我」(Sabbe saṅkhārā anicca;sabbe saṅkhārā dukkha;sabbe dhammā anatta )
諸行とは一切の色法、心及び心所を含みます。
そして、諸法は、諸行を含む以外に、涅槃と概念法を含みます。
あなたは以下の事に、特に注意しなければなりません。仏陀は諸行無我と言ったのではなくて、諸法無我と言ったのです。
諸行は無常・苦・無我ですが、涅槃は常、楽、無我なのです。


パオ・セヤドー問答集~#353~#366問答(16)問16-73-16-86<証悟涅槃編>14編。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
0305神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/17(火) 23:40:11.38ID:XTYY61C/
ブッダは私たちにとっての本質的な勤めとは、我に対する間違った見解を完全に取り除くことであると指摘したのです。

「気づきをもって比丘たちは我という見解を手放すように」(sakkāyadiṭṭhippahānāyasatobhikkhuparibbaje.)

私たちは気づきや観察によって、煩悩(kilesa)の支配から離れなければなりません。
自己に対する間違った見解である有身見から解放されるまで、私たちは常に見ること、聞くことなどの物質的、精神的なプロセスの構成要素に気づき、観察するよう瞑想実践を行なうべきなのです。
このような理由によって、ヴィパッサナー瞑想の実践を行なうよう、皆さんは常に瞑想指導者からアドバイスされるのです。
今、皆さんは修行を完成させ、聖なる道に達することを短期間に可能にするヴィパッサナー瞑想を実践する目的で、ここへやってきました。
我があるという見解が完全に取り除かれたとき、私たちはついに地獄、畜生、餓鬼の世界に再生するという危険から逃れることができるのです。

有身見とは、自らを人であるとか、人に属すものであると見做す考えであり、また、それを常住であり、好ましく、我であるとするものです。
この有身見は、渇望や執着という煩悩(kilesa)を引き起こします。
そして、この煩悩は次々と素早く行為を起こし、さらにその行為は私たちに新しい存在としての再生をもたらします。
このようにして、縁起のプロセスは作用し、危険な輪廻(saṃsāra)の輪は絶え間なく回るのです。
輪廻の輪を回すことを防ぐために、私たちはものを見るすべての場合において「見ている、見ている」と念じることが必要なのです。


マハーシ・サヤドー 他1名
ヴィパッサナー瞑想: 智慧を開発し解脱に導くマインドフルネスの実践教本 (サンガ文庫)
0306神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 00:04:08.59ID:m/NP5mbN
 
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/19/062844
パオ・セヤドー

観智は
五蘊及びその因縁の
無常・苦・無我(アートマンではない)の本質を認知する

観智は智慧であり…
無常・苦・無我(アートマンではない)の本質に向かう

煩悩
(我癡・我見・我慢・我愛)を取り除くために
観智または観禅心路過程を
無常・苦・無我(アートマンではない)と識別する必要がある
  _  _  _

「〜がある! ・ 〜はない!」という我執に囚われているのなら

誰もが成仏するわけではない.五性各別
0307神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 00:32:07.65ID:fA5idW1F
瞑想修行者はやがて、名(nāma)と色(rūpa)の要素は決して自身の意思に従うことなく、それ自身の因と縁によって生じていると気づくことになります。
こうして、名(nāma)と色(rūpa)がそれ自身の因と縁によって生じているということへの気づきに取り組むとき、
瞑想実践者はそれがコントロール不能なものであり、またそれ自身、人とか生きた実体のあるものであるとか、我といえるようなものではないということを理解します。
これを、無我随観智(anattānupassanāñāṇa)といいます。
瞑想実践者が、こうした無常(anicca)、苦(dukkha)、無我(anattā)という智慧を完全に育てたとき、涅槃(nibbāna)に到達します。
太古の昔から、幾人ものブッダたち、阿羅漢たち、聖者たちがヴィパッサナー瞑想(vipassanābhāvanā)を実践することにより、涅槃に到達しました。
ヴィパッサナー瞑想は、私たちを涅槃に導く大道のようなものです。
ヴィパッサナー瞑想は、四つの念処(satipaṭṭhāna)から成ります。そして、この念処こそが、涅槃への真の大道なのです。


マハーシ・サヤドー 他1名
ヴィパッサナー瞑想: 智慧を開発し解脱に導くマインドフルネスの実践教本 (サンガ文庫)
0308神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 12:09:07.07ID:/swteq3M
>>306
道元の正法眼蔵の四禅比丘
http://www.dogen-shobogenzo.com/sizenbiku1.html
にこう書いてあります。

是の時、仏 義品(ギホン)の偈(ゲ)を説いて言(ノタマ)はく、
「各各(オノオノ)究竟と謂ひて、而(シカ)も各(オノオノ)自ら愛著(アイジャク)し、各(オノオノ)自らを是(ゼ)として他を非(ヒ)とす、是れ皆 究竟に非ず。
是の人 論衆(ロンシュ)に入りて、義理を辨明(ベンメイ)する時、各各(オノオノ)相ひ是非し、勝負して憂喜(ウキ)を懐(イダ)く。
勝者は慢坑(マンキョウ)に堕(ダ)し、負者(フシャ)は憂獄(ウゴク)に堕す。
是の故に有智(ウチ)の者は、此の二法に堕せず。」

「論力、汝 当(マサ)に知るべし、我が諸の弟子の法は、虚も無く 亦(マタ)実も無し。
汝 何(イズ)れの所をか求めんと欲(オモ)ふ。
汝 我が論を壊せんと欲はば、終(ツイ)に已(スデ)に此(コ)の処(コトワリ)無し。
一切智 明らめ難し、還って是れ自ら毀壊(キエ)せん。」

(現代語訳)
この時、仏は義品経の詩句を論力に説いた。
「おのおのが究極と考えて、そしておのおの自ら愛著し、おのおの自分が正しく他を誤りとするならば、これは皆究極ではない。
この人たちは、論議の人々の中で道理の是非を論じる時、おのおの互いに是非し合ってその勝負に一喜一憂する。
勝者は慢心におちいり、敗者は憂いの地獄に沈む。
このために智慧ある者は、この勝ち負けの二法に堕ちることはない。」

「論力よ、おまえは知らなければならない、私の弟子たちの法は、無いとも言わず、又有るとも言わないのである。
おまえは何を求めようとしているのか。おまえが私の論を破ろうとしても、もはやこの勝ち負けというものは無いのである。
一切を知る智慧は明らかにし難い。勝ち負けを争えば、かえって自分を壊してしまうことだろう。」と。
http://www.dogen-shobogenzo.com/sizenbiku16.html

要するに有るとか無いとかの見解には捉われない、捉われないから勝ち負けはない。
究極、真理などについて議論することは勝者も敗者も不幸になるだけである、と。
0309神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 12:16:07.83ID:/swteq3M
テーラワーダは>>303でパオセヤドーが言われている究竟法(勝義諦)の四つすなわち、色法、心、心所及び涅槃について、どこにも我(アートマン)はないので、我を否定するのは当然ですね。

まあテーラワーダだけに限らず全ての仏教がそうですが、犢子部のプトガラとか経量部の種子とか、経量部と中観をミックスしたような唯識の阿頼耶識とか、前の本来の面目とか、
アートマンに類似したものを立てる部派や宗派もけっこつありますね。
0310神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 12:23:29.10ID:/swteq3M
ナーガールジュナ (龍樹) の実践的仏教理解・試論
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=1589&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1


ラムリムは大乗仏教の二系統
釈尊から文殊 菩薩を経てナーガールジュナ (龍樹) に伝えられ た甚深なる見解の系譜と釈尊から弥勒菩薩を経てアサンガ (無着) に伝えられた広大なる実践の系 譜(3) を統合した教えとされており,
ナーガー ルジュナの著述でそのような仏教理解を示したものとして, 『中論』 18 章の 「もろもろのブッダは 「我 [が有る]」 とも仮説し, 「我が無い (無我で ある)」 とも説き, また 「いかなる我も無く, 無 我も無い」 とも説いている」 (6 偈) が挙げられる。

チベットの伝統で重視されるチャンドラキールティの 『中論』 註(4) はこの箇所を, それぞれ,
1不善をなす者に, それをやめさせるための教え,
2善はなしているが実体視に縛られている者に, 涅槃への渇望を生じさせるための教え,
3涅槃に 近い者に, 我はないが無我もまた実体ではないことを説く教え
として説明している。

他には 『六十頌如理論』 に, 「愚かな人たちは物体 (色) に愛着する。中間にある人たちは貪りを離れる。 物体の本性を知る最高の智慧のある人たちは解脱する」 (55 偈) という教えが見られる。
釈尊が様々な異なる教えを説いた理由について, ナーガールジュナは 『宝行王正論』で, 文法学者も初学者にはアルファベットから教えるという喩えを挙げ, 相手の能力に合わせて異なる教えが説かれたと説明している。

(以上、上記リンクより引用)

龍樹は空なので有無には捉われない。
でも、法の自性の無にはこだわっているかもしれません。
0311神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 21:40:05.14ID:XqNESRZM
>>309
>まあテーラワーダだけに限らず全ての仏教がそうですが、〜略〜前の本来の面目とか、

禅の本来の面目でした、失礼しました。
0312神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 22:17:11.99ID:5EIwBqFG
ついでに

>>309
>テーラワーダは>>303でパオセヤドーが言われている究竟法(勝義諦)の四つすなわち、色法、心、心所及び涅槃について、どこにも我(アートマン)はないので、我を否定するのは当然ですね。

について更に語らせて頂くと

説一切有部だと上記四つに心不相応行法を入れた五位が究竟法(勝義諦)になりますが
(なお、唯識の五位百法は世俗諦で勝義諦は空だと思いますがどうでしょう)、
我空法有・三世実有・法体恒有とはいっても五位の無為法を除いた色、心、心所(心相応行)、心不相応行の四つ七十二の有為法は空であると説一切有部でも見做されていたのではないか、と。

というのも、説一切有部(または根本説一切有部=経量部?)で編纂されたウダーナヴァルガには、

7.「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52302739.html
とあり、有為法が空であるというブッダの自説(感興語)を載せているからです。

説一切有部でも有為法は過去世から未来世へ法体はそのままに流れるとは言っても、刹那滅で法体を少しずつ変えていき知覚され作用するのは現在時の一瞬だけなので、
無常であり苦であり無我であるので空(無相)であるというのは変わらないと言えば変わらない、とは思います。

龍樹との違いはその法に自性を認めるか否かで、龍樹は無自性故に空として自性を認める説一切有部などの部派仏教を誤って空を知るものと批判したのかな、と。

テーラワーダは三世実有・法体恒有ではなく、経量部や大衆部などの現在有体・過未無体に近い(というか実在する刹那の数などが違うだけ?)なので、
尚更有為法は空ということになるのではないでしょうか?
スマナサーラ氏も「色即是空」だけは認めていましたしw
0314神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/18(水) 23:34:03.32ID:Bg3C617n
何かどーでもいいような話に思えるんだよね
大乗の徒の方にはやたらそこの分類に拘る人が多くて、
もちろんテーラワーダ側にも日本人なんかでもともと大乗の影響下にあった来歴を持つ人はその辺をテーラワーダ擁護の観点でこれまた何やかんや言う人がいても不思議ではないんだけど

ハッキリ言ってどーでもいい

くだらん議題だと思う

拘るようなトピックでもないでしょ

龍樹くんにそう言ってあげたい



釈尊は我の問題については無我・無自性であるということで空を説いた

それを我を超えた一切(外的世界)に広げて自性が無自性がなんてことに血道をあげること自体、要するに大切な事から逸れてる証拠

ちゃいまっか?
0315神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/19(木) 00:08:02.37ID:hXs9pGLQ
>>314
ちゃいますねw

『サンユッタ・ニカーヤ』12-15.(PTS Text,U.pp.16-17)
15. カッチャーヤナ(カッチャーナ)

4 「カッチャーヤナよ、実に、この世間の多くは、「有ること」と「無いこと」の二つに依存している。

5 カッチャーヤナよ、世間の集起を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「無いこと」というのはない。
カッチャーナよ、世間の滅を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「有ること」というのはない。

6この世間の多くは、カッチャーヤナよ、近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない※(自己がある)」と。

7 生じてきているその苦しみを「生じている」と、滅してきているその苦しみを「滅している」と、疑うことなく、ためらうことなく、他を縁とせずに、ただ、この知識だけが、ここにある。カッチャー(ヤ)ナよ、この限りで、正しい見解がある。

「 一切がある」というこれは、カッチャーヤナよ、一つの極端である。
「一切は無い」というこれは、第二の極端である。
カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、如来は、中(道)によって法を説く。すなわち、

8 無明を縁として行がある。行を縁として識がある。識を縁として名色がある。名色を縁として六入がある。〜
http://manikana.la.coocan.jp/canon/kaccayanagotta.html
0316神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/19(木) 00:08:55.10ID:M5VpUbQn
>>315続き

「中論」第一五章 <それ自体>(自性)の考察

七 カーティヤーヤナに教える【経】において、「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。

八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。

九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。

一〇 <有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。

一一 <その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9529952

龍樹もブッダも説いてることは一切は縁起であり、故に有無を断定しないということで合っています。
0318ポッタン師
垢版 |
2020/03/19(木) 16:14:38.34ID:EckP4P6f
犬には仏性がない。人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。
0319神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/19(木) 19:23:33.93ID:rwiXNy19
 四番目の涅槃nibbānaは、この三つの世界を全部理解したところで、何ものにも囚われる意味がないという智慧の感情が生まれる、そこで体験する世界・状態です。
それだけでいいのです。
最初の三つ、心、心所、色までが、ものごとの世界についての勝義諦・真実です。世間諦lokasaccaと言います。
我々が生きているすべての世界はその三つだけです。
世界にはそれ以外何もないのです。
認識機能があって、認識機能と同時に生まれるありとあらゆる感情があって、それから、認識機能がそこで機能する物質的な世界があります。
物質世界は、内側の主観的な物質・身体と、外側の客観的な物質・世界と二種類ありますが、まとめて全部物質・色。
このたった三つの勝義諦が、世間諦lokasacca。
一般的な「世間」という意味ではなく、我々がそこで生きている存在の世界とは、まさにこの三つだけという真実・勝義諦です。
 この世間諦を乗り越えたら、もし心と物質のはたらきが止まったら、第四の勝義諦・涅槃という状態が生まれます。
それを出世間諦lokuttarasaccaと言います。
『四番目の出世間諦は、認識・はたらきが止まったところですから、認識できません。』
涅槃は、心のぎりぎりのところまでしか「体験」できないのです。


スマナサーラ長老
0320神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/20(金) 16:26:50.67ID:gzKLmkIR
>>319
> この世間諦を乗り越えたら、もし心と物質のはたらきが止まったら、第四の勝義諦・涅槃という状態が生まれます。
>それを出世間諦lokuttarasaccaと言います。
>『四番目の出世間諦は、認識・はたらきが止まったところですから、認識できません。』
>涅槃は、心のぎりぎりのところまでしか「体験」できないのです。

>>303
>般涅槃の時、諸仏と阿羅漢たちの五蘊は、すでに完全に滅尽します。故に、彼らは涅槃の中で会う事はできません。

これらのテーラワーダの坊さんの話だと
涅槃は人工麻酔と変わらないということになるな(笑)
0321神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/21(土) 19:08:53.01ID:vDNFvmgi

麻酔の状態と

戒から定を生じ、定によって智慧を得、智慧によって解脱に到達し
解脱によって解脱智見を知る
解脱智見の状態は違うような気がするけど
  _  _  _

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
…「想」と「受」が滅する…想受滅の状態と

道元禅師.普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…の状態は似てるかも?
  _  _  _

それでも.やはり
絶対的な想受滅とか
絶対的な解脱智見とか
絶対的なアートマンとかに.囚われているのなら

誰もが成仏するわけではない.五性各別

その人にとっての
絶対的な宗教とかに.囚われているのなら
https://sstland.jp/1627/
2020/03/19
感染症が広がりやすい.礼拝で人口密度の高い中多くの人が集まる
0322宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:30:25.26ID:m+RCN573
>>300-305
 こりゃ〜ちょうどイイ内容の投稿がきたところなので、まずはこちら側から先に取り扱うこととします。
あなた方の多くは伝統仏教の教義ドグマを叩き込まれ洗脳されており、尚かつ、日常から小難しいものばかりを読んでいるために、実に“簡単
な事柄”についても気付けず、その真実を見落としがちとなっているものとこの私は思う。
 なので、なるべく簡潔に、そして、できるだけ容易な言葉で以てあなた方の基本的な間違いについて説明しようと思う。

 あなた方の仏教理解における基本的、かつ、根本的な間違いについてここで簡単に話します。あなた方というのは、何やら「無我」というも
のが何だかとても“良いもの”であるかのような錯覚に陥っているようですが、そもそもそこがトンデモない勘違いですから。
 仏典を普通に素直な心で読むならば、ブッダは「無我」というのはとても“良くないもの”であるとして教えていることがすぐに分かる筈な
のです。

 『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91)
0323宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:30:51.91ID:m+RCN573
 「苦なるものは無我」というのは、苦の正体、および苦悩を感じているこの自分はアートマンではない。アートマンでないから苦悩を感じる
のだといっているわけです。もしも、アートマンであるならばそこには苦悩は生じない。アートマンには苦はないのだ、ということを教えてい
るのです。
 「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である」ということは、つまり、“苦の無いアートマンというのは恒常なのだ”ということ。
もう、たったこれだけで洗脳されていない者ならば、“苦の滅した境地である涅槃”とは、すなわちアートマン性質と同義であるとして気付く
ことができるのです。要するに、ブッダは直接的にはウパニシャッドが説くようなアートマンを語らなかったが、しかし、もちろん「無い」
などとは一言もいったことはなく、また、それどころか逆に、教えの文脈を忖度することによって、実際には、「苦なるものはわたしの我(アー
トマン)ではない、苦の滅した境地である涅槃が“わたしの我である”」と、解することは可能なこと。。

>そして、諸法は、諸行を含む以外に、涅槃と概念法を含みます。
>あなたは以下の事に、特に注意しなければなりません。仏陀は諸行無我と言ったのではなくて、諸法無我と言ったのです。
>諸行は無常・苦・無我ですが、涅槃は常、楽、無我なのです。>>304

 簡単な話ですよ。「苦なるものは無我である」(SN.111)と教えしているというのに、“涅槃が無我”のわけがないでしょう!
つまり、ブッダの教えの正しくは伝統仏教理解の真逆なのであって、“苦の滅した涅槃は無我ではない”ということになるのです。では、どう
してこんな馬鹿らしい間違いになったのかというのと、部派から生じたテーラワーダが仏典にある本来のブッダの教説を無視して、自分らで
勝手にアビダンマなる教義ドグマを構築して、そちら側を重視て信奉するようになったからです。
0324宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:31:13.83ID:m+RCN573
 その間違いの根本部分というのが、その“諸法には涅槃を含む”などという仏典にはない勝手な理論です。そのことを理解する当たっては、
まずは仏教の基本である「一切」の理解について話す必要がある。
 一切について、ブッダの話されたこととはこうです。

 『比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。
比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
 比丘たちよ、もし人ありて、<わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう >と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ
言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。
比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである。』
(南伝『相応部経典』35-23)

 これは、「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとしており、この中には「涅槃」(無為)は含まれないにも関わ
らず、部派(テーラワーダ)が勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、つまり、この戒めを破ってブッダの教説とは“異なる一切”に
してしまった部派こそが、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。
 この「六根六境/十二処」は大きく纏めると「五蘊」(眼色・耳声・鼻香・舌味・身触・→「色蘊」、法(法処)→「受蘊」「想蘊」「行蘊」、意→
「識蘊」)だということになります。
0325宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:31:34.23ID:m+RCN573
 では何故、一切の中には涅槃が含まれる筈がないのかというと、ブッダは、一切である五蘊についてはこのように教えているからです。

 『大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか?
 ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、色を魔羅であると
観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観
ずるがよい。そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。
  ※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。
 大徳よ、では、いったい、何のためにそのような正しい観察をするのでしょうか?
ラーダよ、厭い離れるために、正しい観察をするのである。』
(『相応部経典』羅陀相応 1 魔羅)

 要するに、ブッダは“悪魔の正体が五蘊である”といっているのです。五蘊を悪魔として見なさい。そして、これら(五蘊)から厭い離れな
さいといっているわけです。
 「一切皆苦」、「一切行苦」については、私は以前、一切が「苦」であるとしているのに、その中に涅槃が入る筈がないともいいました(こ
こでいう一切行の「行」とは「行蘊」に限定されたものではなくて、“現象としての事物のすべて”を指しています)。“一切が苦である(自己
の思い通りにならないこと) ”というのであるから、苦から永遠に解放された境地である筈の涅槃がこの「一切」の中に入る筈がないのです。
当然、“厭い離れなければならない悪魔の作用の中には涅槃が含まれるわけがありません”から。
0326宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:32:21.03ID:m+RCN573
 『「ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に
限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれわれに認識され得る現象界だ
けを意味した。」(p112)
 「現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。われわれはこ
の現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての世界は現象界のみである。こ
の意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。」(p127)
 「原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変
の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違っ
た性格のものとなった。」(p143)
 「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてしばしば
出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。それを部派仏教では不生不
滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教では説かない概念であって、仏教本
来の立場を逸脱したものである。」(p145)
 「部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異なったも
のになった。(p151)」』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 『原始仏教において、あらゆる存在は色・受・想・行・識の五蘊に分類された。しかし、次第に存在の分析が進み、一切法について十二
処あるいは十八界という分類がなされるに至って、そこには五蘊には含まれない涅槃等の無為法も諸法の分類に含まれるようになった。ア
ビダルマに至って、有為法を機能的に、色・心・心所・心不相応行に分類し、さらに、これらに無為法を加えた五位の分類が成立したのも
このような事情によるものである。』
 (吉元 信行著『アビダルマ仏教における処・界の建立と八句義』)
0327宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:32:50.98ID:m+RCN573
 そして、三宝印(四法印)においては「諸法無我」にだけ、何故「行」ではなくて「諸法」といって「法」の文字が充てられているのか? につ
いてですが、この「諸法無我」でいう「法」というのは、“無我性の「もの」”という意味で使われており、理由としては単にそれだけのことで
しかありません。だから、経典の記述によっては「諸行無我」とも書かれています。同じ原始経典でも漢訳経典については軽視しているようで
すが、漢訳では「諸法」に限定されたものではなくて、実際に「諸行無我」としても説かれています。
そのことは漢訳経典の編纂当時の仏教徒たちには、三宝印の無我は諸法でなければならないといった理解などは無かったということです。

 『諸法の法とは、前に法の特質を掲げた中の第四の「無我性のもの」を意味する。これはたんに「もの」ともいえるが、原始仏教では
「もの」というのは「無我性のもの」に限られるから、この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 『つぎに諸法無我とは、パーリ語でsabbe dhamma^ anatta^ 「一切の法は無我である」ということであって、ここの法とは「もの」のこ
とである。元来、法(パdhamma 梵dharma)にはいろいろの意味があるとされる。パーリ註釈書の説明によるれば、法には(1)pariyatti
教説、(2)hetu 因、(3)guna 徳、(4)nissatta-nijji^vata^ もの、という四つの意味があって、ここでいう法とはこの中の第四の場合である。
 それはnissatta-nijji^vata^「有情なく霊魂なきこと」であって、アートマンとか霊魂のような不生不滅の実体が含まれていないことを
意味し、実体を離れた現象としての存在を指すことになる。この意味で、諸法無我の諸法は諸行無常の諸行と同じ内容のものとなる。実体の
ない諸法が無我であるとされるのは当然である。』
(『東洋思想5/水野 弘元著「初期仏教の縁起思想」』東京大学出版会刊p134-135)

 【ただし『漢訳増一阿含』巻十八、三十六では、ともに「一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂」となっており、ここでは
「諸行」を無我と見ている。】
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理/無我の立場」』東京大学出版会刊p49)
0328宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:33:11.91ID:m+RCN573
 伝統仏教徒たちは如何にも簡単に、“涅槃には自己はない”などと語りますが、涅槃を覚知している自己があることについては(『ウダーナ』
8.1-8.3)にも明らかなことです。デカルトがどうしたこうしたなどというのはまったく関係がない。仏典において、ブッダが説いた言葉として
事実そうあることですから。
 そもそも単純に自己を一つのものとして理解しているから間違うのです。ブッダのいう“無くすべき自己と消滅する自我”というのは低級性
質としての自己のこと。仏教の説く煩悩(に塗れた自己意識)のことです。仏典を真面目に読むならば、ブッダの説かれた自己というものには大
きく二つがあるものとして簡単にわかる筈です。つまり、“無くすべき消滅する自己と目指すべき自己”であり、目指すべき自己とは本来の目
覚めるべき真実の自己のことです。ブッダがされたことというのは、ただ単にウパニシャッドのようなアプローチは採らずにブッダ独自の実践
的な教えにしただけのことであって、でないと、結果的にはブッダの教えが迷信含みだった当時のバラモン達と同じ扱いを受けるものとなって
しまうからです。

 『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたことがわかる。一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、
凡夫の日常生活のうちに認められる。--略--これに反して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は聖者が具現しているも
のである。簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。ただその両者は相即しているものなのである。
 --略--
 他方これに反して理想として実現さるべき自己は、人間が常に追求すべきものである。それは当為的模範的性格を有する。『自己は自己の主
である。』(Dhp.160) したがって自己にたよらなければならぬし、このような理想的自己は大海の中の島のようなものである。『汝は自己の良
き島を作れ。けだし汝には他のよりどころが無いからである。』(Therag.412)
よりどころとしての島を漢訳仏典では「燈明」の意に解しているが、いずれにしても、その趣意に相違はない。釈尊も『われは自己に帰依をな
した。』(DN.U,p.120)と説いたと伝えられている。しかるに愚者はこの道理を理解していない。愚者にとっては自己が失われている。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』p88-89/NHKブックス刊)
0329宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:34:55.14ID:m+RCN573
 『---真実の自己の探求---
 ゴータマ・ブッダが、サールナートで初めて法を説かれてから、ブッダガヤーに向かって遊行する途中のことでした。ゴータマ・ブッダは道か
らそれて、ある密林の方へと深くわけ入って、とある樹木の下で坐っておられました。
 そのとき三十人ほどの青年たちが、夫人同伴でやって来て、一緒に遊び楽しんでいました。しかしその中の一人の青年には妻がなかったので、
かれはやむをえず遊女を連れて遊びに来ていました。ところがかれらが遊び楽しんでいるうちに、この遊女が持ち物を盗って逃げてしまいました。
そこでその背年は、他の青年たちと一緒に、遊女を探しながら、密林を徘徊しているうちに、ゴータマ・ブッダが、樹下に坐っておられるのを見
つけ、ゴータマ・ブッダに近づいて、女を見かけなかったかどうか、を尋ねました。かれらが事の次第を話したところ、ゴータマ・ブッダは、青
年たちに向かって、
 「青年たちよ、..…きみたちが女を探し求めるのと、あるいは自己を探し求めるのと、きみたちにとってどちらが勝れているのか」
 「自己を求めることの方が、われわれにとって勝れていると思います」
 「それでは坐りなさい。きみたちのために教えを説いてあげよう」
 「尊い方よ、かしこまりました」(「律蔵・マハーヴァッガ」一四・三)
と言って、四つの聖なる真理(四正論)などについて教えられたと伝えられています。しかしこの探し求めるべき自己は、欲望の燃えさかる我執に
満ちた自己ではない。このことは、ゴータマ・ブッダの遺言といってもよい言葉が残されています。
 「この世で自己を島とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をより
  どころとして、他のものをよりどころとしてはならない。」(二六)(『大パリニッバーナ経」
が伝えられております。これは漢訳の仏典で「自帰依、法帰依」、「自灯明、法灯明」と言われる言葉と同じで、他人を依り所とせず、自己を依り
所とすること、仏陀が説いた真理(法)を依い所とすること、を意味しています。
 その自己はあくまでもゴータマ・ブッダが生前に明らかにされた宇宙の真理、理法と合致する自己であり、我執、無明にまみれた自己ではない
ことは明らかです。これがゴータマ・ブッダの人生の最後の言葉であるだけに、ゴータマ・ブッダの真意をここに見ることが出来るのではないか
と思われます。ゴータマ・ブッダの目指したものは、真実の自己、本来の自己を実現することであったのではないでしょうか。』
(第三七回光華講座『今ならブッダは何を語られるでしょうか? 』前田 專學述)            以上.
0330宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/22(日) 06:35:14.93ID:m+RCN573
〜これでも、分からない人にはこの私からではもう無理なので、
どうぞ、ご自由にしてもらう以外にはない(なので、もう反論は止めにします)。

あとは、最後としてURLを貼って終わりにしたいと思っています。
読む気の無い人はリンクを開く必要はないです。
もしも、ココを去る宝珠の最後の投稿だと思って読もうとされる方には、
是非、一文も残さずに読まれるようお願いしたいと思います。

それと、テーラワーダスレでも類似の議論が起こった際には、
是非、あちらへもお伝えして下さいm(__)m


>>310>>316
所詮、“完成者ではない龍樹”などに重きを置いていると、
仏弟子はただ混乱を招くだけかと...。

個人的な見解ですが...。
0332神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 08:26:42.50ID:HlxztNyB
>>324
はい、ミスリード一個。
>「六根」と「六境」による「十二処」 (及び十八界)の中に(範疇に)涅槃がある
と言っている人物も、部派も、典籍も、(おそらく論書も)無い。
その場合の「一切」「sabba」は、全て有為なるもの「行」「saGkhata」であるから。
だから、分類分別せねば落ち着けなかった諸部派は、『それらとは別に』涅槃を、
世尊が説かれた事柄の一としての(無為なる)「法」とカテゴライズした。

無為法と有為法がある、というテーゼを貴方が認めるなら、
この点に関しては、言いがかりやいちゃもんを超えた完全なる錯誤と言わざるを得ない。
0335神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 13:40:03.14ID:DYPoA8mA
 
真俗二諦(しんぞくにたい)
仏教を理解せしめるためには
世間的な.対機説法として
涅槃・無為法とかを.一応認めて.その理解のうえで
仏教を人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6

対機説法としての
有為法も
無為法も
実体あるものではない
https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%82%BA%E6%B3%95-640772

(仮有なるものではなく)
実有なるものとして.無為法があると言う
対機説法に.我執して囚われているのなら.それは

誰もが成仏するわけではない.五性各別
  _  _  _

新型コロナ.その他諸々
https://www3.nhk.or.jp/news/catnew.html?utm_int=all_header_menu_news-new
0336神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 15:36:14.76ID:ieGeJeTx
>>324
>これは、「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとしており、この中には「涅槃」(無為)は含まれないにも関わらす

涅槃が含まれてないとしたら涅槃は
『涅槃という言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るもの。
何故かというと、それは、ありもしないものを語っているからである。』
ということで、実際にはありもしないものである涅槃について仏教では語っているということでよろしいかな?

一つ注意しておくと、一切に例外を設けるとか、
勝手にそんなことをしては駄目ですからね。
0337神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 19:43:19.41ID:ieGeJeTx
>>326
>しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
>うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。


ウダーナ
・比丘たちよ、その場所(処)は存在する――
・比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。


結局、涅槃って存在するの?しないの?
0338神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 20:19:28.31ID:HlxztNyB
う〜ん・・・
かなり振り切って強いて言うなら、
 「平和」は存在するか?
という問いに相似させてみてもいいかもしれない。        >>337
0339神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 21:28:35.56ID:HlxztNyB
>>328
また、ウダーナ8に於いて、
 >涅槃を覚知している自己
や、
 >涅槃を覚知している自己があることについて
など、まったく「触れられていない」。そのようないかなる「文言」も表れてはいない。
勿論、「含意」も、「暗示」もされていない。

デカルト云々は、「思考の展開、手順、流れ」として、根源的存在の希求として神智学と相似している、
という指摘であるだけ。 関係がないとは言わせないw
 *(また、ヒンドゥ的に梵我一如の枠組みで言うなら、(これも何度も言ったがw)一如となった時点で個でなくなっているわけで。
  知覚する主体云々などといった個としての存在であろう筈もないと思われるが奈何?)

>二つの自己 の一方が如何なるものかについては、解釈の相違なので、どうしようもないが、
永遠不変の、個別性のある、他へ作用し得る、何がしか、
といった説明にはならない筈のもの。
重要であること・一本筋の通った生を送るため軸として確立させ続けるべきこと、
拠り所とすべきことと上記永遠性や絶対性は関係ない。
0340神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/22(日) 22:35:41.39ID:ieGeJeTx
>>338
〈平和〉

(マクロ)戦争がない期間は歴史上存在していた(江戸期の日本や今の日本もそう)

(ミクロ)個人の気の持ちようと外部環境によるが心配事がない時期というのは存在する

〈涅槃〉

(仏教)貪瞋痴の三毒を滅した寂静の世界があるから仏教の修行者はそこを目指す
0341神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/23(月) 01:57:45.28ID:hKJFiLG1
(V.1.10)【ヴァジラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤII

1.〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕
 そのとき(阿羅漢である)ヴァジラー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。
サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林におもむいた。
 うす暗い密林をかき分けて入って、或る樹の根もとで、昼間の休息のために坐していた。

2.そのとき悪魔・悪しき者は、ヴァジラー尼に身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、ヴァジラー尼に近づいた。
近づいてから、ヴァジラー尼に詩を以て語りかけた。−−−

3.「この生ける者は、誰が作ったのか?生ける者の作者(つくりて)はどこにいるのか?生ける者はどこから生じるのか?生ける者はどこに滅びるのか?」と

4. ところでヴァジラー尼はこのように思った、
−−−「詩をとなえているこの者は誰なのだろう?人間であるのか?あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。
0342神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/23(月) 01:58:46.36ID:hKJFiLG1
>>341続き

5.次いでヴァジラー尼は、このように思った、
−−−「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、詩をとなえたのだ」と。

6.ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向って詩を以て答えた。
「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか?
悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。
この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。
ここに〈生ける者〉は認められない。
譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。
苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。

7.そこで悪魔・悪しき者は、「ヴァジラー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52236037.html

無我説の論拠となるという有名な経典ですね。
0343神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/23(月) 02:12:41.17ID:LyVMpB25
 
戦争がない期間は
変化することなく
実有なるものとしてあるのか?

たとえば
戦争の状態が
現れ.変化して.滅しているのなら
実有ではなく
仮有なるものとして(仮設として)ある

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf

縁起したものを離れることがある

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも
留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
  _  _  _

相手に応じて説法する
対機説法は相互依存出来ないものか?

たとえば
対機説法が相互依存出来る場合もあるのなら
ウダーナヴァルガのギルギット写本の
『縁起したものを離れることがある』という

縁起をもって
相手に応じて説法する
仮有なるものとして(仮設として)の対機説法かも?
0345神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/23(月) 12:51:38.55ID:Ql4RRQvN
>>327
諸行は諸法の中に含まれるから諸行無我は何もおかしくはない
仏教では諸行は無我なのは正しいのだから

逆に諸法無常とすると常住の涅槃の存在を無視していることになるのでおかしい
0346神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/23(月) 16:46:49.52ID:lhzV0cLR
最高の真実(真諦の法)としては、例えば、名色、受、想、行、識、心、心所、色、涅槃、触、意思、一境性、命根などがある。
〜略〜
論蔵の中において概念として記述されている世俗諦と真諦に関する考え方は、経蔵の中のものを引用しているが、これはこのことの考え方、理解が昔からあったことを示している。
しかし、昔はよく理解し合っていたので、この二つの言葉の概念について記述する必要がなかった。
引用されている経蔵の内容は、ヴァジラーという尼僧の言葉で、その内容は次の通りである。

「これ、悪魔よ!何故に、有情に固執するか。
ことごとくが行の塊である状態で、いずこにも有情は見当たらず。部分を集めれば『車』という俗名が生まれるのと同じく、五蘊があれば、『有情』という俗名もある」

実践面に力点を置いたこれと同じような意味、つまり、世俗が分かり真諦を理解でき、そして、世俗にとらわれず言葉の奴隷とならずに、言葉を伝達の道具として用いることについては、仏語であるパーリ語を多く引用できる。

「阿羅漢よ……われ語るとか、人語るとか、言うが、賢明なお前は、この世の中で人が使う言葉を知っている、当然「慣例」(Vohāra)で話すだけだ」

「これらは世間的名称(Lokasamaññā)、世間の言葉(Lokaniruti)、世間的言説(Lokavohāra)、世間の概念(Lokapaññatti)で、如来は使われても、執着されない」

一方、アッタカター師(三蔵註釈者)は、経蔵の特徴について、流通説示(Vohāradesanā)であると解説している。
というのは、内容の大部分が慣例、つまり世俗語を用いているからである。
論蔵の方は、第一義説示(Paramatthadesanā)である。
というのは内容の大部分が第一義的、すなわち、真の実相に従って述べられているからである。


仏法―テーラワーダ仏教の叡智 (新装版)
ポー・オー・パユットー【著】〈P.A.Payutto〉/野中 耕一【訳】
0347神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 02:33:45.65ID:7YYN4+G9
無我Not–Self

私たちが死というものを正しく理解しないとき、その人生はとても混乱したものになります。
もし、身体というものが本当に私たちに帰属するものなら、それは私の命令に従うはずです。
もし、私たちが自分の身体に「老いるな」とか「病気になることを禁ずる」などと命令したところで、身体はそれに従いますか?従いませんね。
身体は、そんな命令に反応などしません。
実際のところ、私たちはただこの身体という家を借りているだけであって、所有してはいないのです。
もし、身体が私たちの所有物であると考えるなら、死によってこの身体を手放さなくてはいけないときに、苦しむことになるに違いありません。
しかし、現実には永遠なる自己はありませんし、私たちがそれにしがみつけるような確かなものや、不変のものなどありはしません。
0348神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 02:37:47.01ID:7YYN4+G9
ブッダは、勝義諦と世俗諦の間に、明確な区別を設けました。
我(アッター)という考えは、実際のところ、単なる概念にすぎず、アメリカ人、タイ人、教師、生徒といったものすべてと同様に、施設にすぎません。
勝義諦の観点から見れば、誰も存在する者はおらず、ただ地水火風といった四大が一時的に結合しているだけです。
私たちは身体を指して、「人」とか「私」などと呼びますが、勝義諦としては「私」などというものはなく、ただ無我(アナッター)であるのみです。
無我を理解するためには、瞑想をする必要があります。
もし、あなたが知的な方法で無我を理解しようとするなら、あなたの頭は破裂してしまうことでしょう。
一度でもあなたが心から無我を理解したなら、人生の悩みは霧散するでしょう。
そして、あなたの家庭生活、仕事などすべてのことがずっと気楽なものとなります。
あなたが我を超えて物事を見るとき、もはや幸福に執着することはなくなります。
そして、幸福に執着しなくなったとき初めて、あなたは本当の意味で幸福になることができるのです。


[増補版]手放す生き方【サンガ文庫】
0349神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 09:51:02.27ID:Bat/RsIO
まあ、そうは言いながらも
人(一般社会人)は、名札を下げて、或る立場・関係性に身を於いて、
それに準(殉)じて行動しなければならないわけで、
納得が難しいポイントではある。
 *だからこそ、拠り所とすべき灯明・洲としての自己が確立されねばならない、
  というとこへ繋がるのだろうけれど。

また、そうした身体(五蘊総体の貸家)に仮住まいしている「根源的私」が居る、
居るからこそ仮に住まっている、という考え方は、怯むことなくそこへ乗っかることができる。
「最後の最後、(認識知覚の)主体として、そのように世界を見る私、その境地に立つ私が必要。(残る)。」
「そのような私があるかこそ、その他仮の現象事象が、その周縁に生じ得る・顕れ得る」のだ、と。
0350宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/24(火) 11:11:36.61ID:7pX1urTr
〜反論じゃないけどぉw

あなた方は洗脳された僧侶らの説法を真に受けて、
まるで「無我」が求めるべき最高の理想であるかのようなトンデモナイ錯覚に陥っているのだと思う。
無我というのは実際、まさに今のこのままの現実がそのまま無我ということなのであって、
だから人間は苦悩し、そして、無我だから輪廻しているのです。
であるから、現象界のすべてが無我であると知り、その“無我の状態から解脱すること”を教えるのが本来のブッダの法ですよ。
伝統仏教というのは、すべてを真逆に理解して真逆のことをしているから、
だから、いくら何千年経っても仏教枠からは完成者としての仏陀が現れることがないのだろうと思う。

伝統仏教の間違いを指摘してるのは専門プロの研究者たちと、
一般の求道者の中ではこの私くらいしかいないのか?
もう、他には誰かいないのかなぁ???

>>336
そうではなくて、
「一切」(有為)と“一切ではないもの”(無為)とがあるのです。
そのことが、>>332の説明へと繋がるものです(尚、テーラワーダは「一切(有為)の中に無為を含めた」)。
「一切とは異なる、“一切ではないもの”(無為)は確かにある」と、教えたのが『ウダーナ』>>337です。
つまり、一切から解脱したその先に涅槃がある。
その涅槃は一切とは異なるが故に、一切から解脱したときにはそのことを覚知できるのです。

>>339
論外!w
0351宝珠真範@代行依頼
垢版 |
2020/03/24(火) 11:12:10.45ID:7pX1urTr
>>347
>現実には永遠なる自己はありませんし

そんな単純に語られても困る...。
もちろん肉体と脳神経活動ならば、当然、肉体死と共に断滅するに決まってる。
けれども、個人によっては情緒意識が死後をも残存していることについては、「餓鬼」(カーマ・ローカやブータ)存在として知られ、
これが目撃された際には一般的には心霊存在と呼ばれるものとなる。
また、繰り返される再生誕の核コアとしては輪廻主体の「識」がある。これが魂(ジーヴァ)ということになる。
そして、究極の涅槃(永遠の境地)においては当然、そのことを覚知している自己があることになる。
本当に、完全に解脱して完成したかどうかは他人から教えられなくても自分でそれとわかる。
でなければ、プッダが『わたしは自己に帰依することをなし遂げた』(DN,16-南伝大涅槃経13,51)などという筈がないでしょうが!
当り前の話ながら、“悟り”(最終解脱/涅槃)とは内的な自覚(自分自身の気付き)のことであって、
それ以外の何ものでもないから。

>>348
>勝義諦としては「私」などというものはなく、ただ無我(アナッター)であるのみです。

それは、より真実に近い言い方をするならば、“個としての分離意識の消滅”のこと。
あなた方(伝統仏教)の勘違いである「涅槃では如何なる自己も無い」だの、
「アートマンは無い」などという教えはブッダは一度も説かれなかった。
もしも、“涅槃は無我である”というブッダからの言葉があるのならばココに出してみなさい!
そんな経文は絶対にないから!!
0352神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 13:20:06.40ID:Bat/RsIO
wwwww

>>351
>もしも、“涅槃は無我である”というブッダからの言葉があるのならばココに出してみなさい!
>そんな経文は絶対にないから!!

だからw
“涅槃は我である”という言葉も無いの。
だから「文脈」なの。

また、「涅槃」を「境地」であるという謂い方を、貴方も認めていたようだけれども、
そうであるならば、

 『「境地」が「我」である、或いは「主体」である』

というのは、いったいどのようなことなのだろうか?
「境地」が「認識主体、行動主体、思考主体」であるというのは、
まことに不可解な話と思われるが?
0353神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 13:30:50.68ID:Bat/RsIO
>>352補足
また、
 「涅槃を知覚するのは誰?」
という問いを、(一般的考察同様)貴方も立てる。
であるならば、それは、「涅槃(境地)」と「真我(主体)」とが別概念(≒別存在)であることの表れであり、
『境地に住する何ものか(真我)』という構図に他ならない。
それは、「境地(涅槃)」は無我(非我)であり、それを知る・見る「真我(真の私)」ということではないのか?

それとも、梵我一如の如く、「涅槃我一如」とでも言うべきであろうか・・。
0355神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 15:21:19.17ID:PEirtg5h
そもそも

>>326
> 「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてしばしば
>出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
>うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。

と宝珠さんが引用された水野教授が説明していますが、この説明によると生死輪廻を超えた涅槃・無為は「主観的な心情であって客観的な事実ではない」と。

一方の我アートマンというのは主観的心情ではなく客観的なものでしょう?万物の認識主体とか、ブラフマンアートマンとして万物を構成するものだとか、客観性のあるもので、
これならもし発見されていたのたら部派仏教の説く勝義諦の中の法(有部の五位七十五法とか、上座部の四位(色・心・心所・涅槃)に入れられているものですよ。
発見されないから我は概念法として施設なんですけどね。

とにかく、その水野教授の言われてることに従えば、無為・涅槃と我アートマンは全然性格が違うものになると思います。
0356神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 16:17:03.29ID:Bat/RsIO
キーポイントの一つは、
それら従前の、 “古来インドに於いて説かれてきた「我、アートマン」” ではなく、
ブッダが「新たに」明らかにした “真の「我、アートマン」” であると主張されている点です。 >>355
まさに、
「真のバラモンとはこれこれこういう者を言うのです」と説かれる如く、
「真のアートマンはこれこれこういうものです(今まで知られていたソレではありません)」
とされるから。
これまで説かれて来たアートマンは、有為なるもので、縁起するものであって、
言ってみれば、五蘊が無我(非我)であると同様に、「我」もまた“非真我”である」と。
そして、『「真我が無い」とは説かれていない』と。

だから、
>無為・涅槃と我アートマンは全然性格が違うもの だろうけれど、
”真我”は「無為・涅槃」と同じ性格である、と言い得るわけです。
0357神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 16:33:14.39ID:Bat/RsIO
勿論、はるか後代の、禅(特に南宗)の系譜の中、或いは増支部の心性清浄説の如く、
或いはDhp.160偈や自灯明、或いは若き田上論文
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18739/KJ00005120206.pdfの如く、
或いは涅槃の四コや四顛倒の裏張としての常楽我浄なる、仏性としての自己、本覚始覚等等
で説示される「ほとけのいのち」的なものが、示されていて、それを、或る者達は
真我として永遠の自己と呼んでいるだけかもしれないが。
0358神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 17:17:03.67ID:EPkDlKQp
ブッダが明らかにした真の「我、アートマン」は五比丘への説法などから「病などで壊れることがなく、意のままになるもの」であるようです。

『サンユッタ・ニカーヤ』22-59.(PTS Text,V.pp.66-8)
五比丘(無我相経)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html

意のままになる、つまり思い通りなるので苦ではないのが真のアートマン、
だとすれば常住不変というそれまでのバラモン教のアートマン論の中でも主流な説ははブッダにとっては邪見であって、「常住ではあるがコントロールが効いて意のままに変わるもの」ということになりますね。
そして少なくとも五蘊や六根にはそのようなアートマンではない、とまでははっきりと主張されましたと。
0359神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/24(火) 21:12:09.11ID:Bat/RsIO
キーポイントの二つ目は、
どれだけ(今流行りの?w)エビデンスとして仏典を引用しようとも、
「そもそもの現存仏典自体が、ブッダの見解を錯って理解し、錯ったまま残し伝えてきたもの」
であるので、典拠としての力を持たないということ。
0360神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/25(水) 14:52:16.45ID:V3HxAVvI
>>330
菩薩の五十二位で五十二の仏覚まで到達してのは釈迦仏だけだが、龍樹菩薩と唯識の無著菩薩は釈迦仏に次ぐ四十一の歓喜地まで到達している。
歴史上で歓喜地以上まで達したのはその三人だけ。
達磨大師で三十段、天台大師(智)で十段の悟りに達したとされる。

番外として弥勒菩薩は五十一段で等正覚に達しているらしい。
0361神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/25(水) 21:16:41.95ID:liRbTaCz
https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/sanpai
>神社に参拝する場合、どうしても形にとらわれてしまい、
>終始形式的になりがちです。参拝作法は、
>永い間の変遷を経て現在、
>「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっています。

>永い間の変遷を経て

https://www.yoriso.com/sogi/nireinihakuichirei/
>作法としては前述の通り、神社祭式に記載された
>「再拝拍手」の考え方から始まっているようです。
>ただ、当時の人々は、それだけではどのタイミングで「再拝拍手」を行うのか、
>具体的な作法が分からなかったと言われています。

>かつて内務卿を担当していた伊藤博文から
「一揖(いちゆう・浅い礼)、再拝、二拍手、一揖が正式な作法である」と語られたところから、
その当時は「一揖、再拝、二拍手、一揖」が正しい作法として、世間に広まったのではないでしょうか

>その後、1882年8月に明治政府から、神道政策の一環として、
>「皇典講究所」が設立され
>そこでは「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」という内容で、指導が行われ、世間にも

>その後、「再拝→二拍手→押し合せ→祝詞奏上→押し合せ→二拍手→再拝」など、
>従来の作法を基本として、動作の追加も見られたようですが、
>昭和23年に神社祭式行事作法が改訂され、現在の「二礼二拍手一礼」になったと言われています。

>一時期は「一拝」がなかった時期もあったようですが、皇典講究所から
>「終わりの一拝がないと締まらない」という指導があったとされています。

>いろいろな経緯を巡りながら、参拝の形式は「二礼二拍手一礼」へと昇華されていきました。
>さまざまな事柄や人物、機関が長い年月をかけて定めた作法ですが、
>実はそれでもすべての神社で行われているわけではありません。
0362神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/25(水) 21:50:40.25ID:vz3GwZAt
>>360
そういう中国仏教的な「きわめて」しょーもない格付けを忠実に受け継いでる同類が
神智学のレベルいくつのイニシエートw
0364神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/26(木) 19:01:22.83ID:JLLxn/dB
 
2020/03/26 インド.新型コロナ.外出禁止.腕立てふせの刑など
https://buzz-plus.com/article/2020/03/26/indian-severe-punishment-news/

2020/03/25 ウイルスが変異?
https://webronza.asahi.com/science/articles/2020032400001.html

2020/03/14 ニュージーランド M6.3 地震
https://www.excite.co.jp/news/article/Jishin_news_15277/

2020/03/23 クロアチア M5.3 地震
https://www.afpbb.com/articles/-/3274727

2020/03/20 巨大隕石が軌道に入れば滅亡確定?
https://tocana.jp/2020/03/post_148666_entry.html

2020/03/19 中国.北京や天津で強風 火災が発生
https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_53374/

2020/03/25 新型コロナ「嗅覚がなくなる」?
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92867.php
0365宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/28(土) 04:52:24.62ID:WsiFYuT+
補足:
>伝統仏教の間違いを指摘してるのは専門プロの研究者たちと、
> 一般の求道者の中ではこの私くらいしかいないのか?
>もう、他には誰かいないのかなぁ??? >>350

 ネット上の各サイトなんかを見て回っても、当たり前のことながら、仏教が如何に素晴らしいものであるについてその教えを説明しようと
するものばかりです。しかし、仏教そのもの(現存する伝統仏教---つまり、ブッダの説かれた真実の教えそのものではないもの)の間違いを
指摘しようと試みるサイトというのは殆ど見かけない...。最初からそのことを目的とするわけではないが、ただ研究の結果として、史実の
原始仏教(経典遺跡などの研究分析からみての推論)の教えと現存する伝統教団との教えの違いを指摘するのは、やはりプロの学者で専門の研
究者たちからのものが殆どのようです。

 最近、たまたま目にしたPDFページの中で中村 元氏は、仏教経典を研究する上においてとにかく徹底して守らなければならないものとして、
「ブッダの説かれたものは絶対に真理そのものである」とか「ブッダが説かれたものには間違いはない」という先入観は微塵も持ち合わせて
はならないということを語っていました(どのページだったか見失いましたが)。とにかく、もうそれだけは冷徹なまでに徹底するということ
です。そうでなければ、学問において真実を追求することは絶対にできないからだと。そのことは、仏典の研究においては余計な特定の信仰
心なども排除しなければいけない、ということを意味しています。
 しかし、道を歩む上での信仰の世界においてはその真逆なのであって、伝統サンガにおいてはブッダ(とその教え)に対する懐疑(疑惑)とい
うものは初歩的に五下分結(三結)に抵触するものとして、まず、真っ先に捨てなければならないものです。そもそもブッダを疑うのならば弟
子入りすらも許されないだろうし、その人にとってはその必要自体がないでしょう(ただ信奉しなければいいだけのことだ)。そして、僧侶と
しての入門直後は(日本仏教の事例であれば)、自分の生涯においてこの修行の道を突き進む覚悟を固めるべく、徹底した精神鍛錬の頭陀行(荒
行的な加行)が自身に課せられることとなる...。
0366宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:06:06.48ID:WsiFYuT+
 〜ということなどをまず前置きしつつも、実際上の日本の研究者たちの実態を見るとなんとその多くの学者たちが日本大乗、各宗門いずれ
かの僧籍を摂って各宗派それぞれに所属しているのです。このことに関し、この私の個人的な私見を述べさせてもらうとこういうことになる。
 つまり、仏典研究をするのはまったくの自由であり、とても善いことではあるけれども...、しかし、それは単なる好奇心や研究の為の研究
みないなものではないよね? と。基本的には、あなた自身の深い信仰心にもとづいたことなんだよね? という、信仰の世界である仏教界との
暗黙の了解(要するに「圧力」だが!!)の関係の上でなされているのだということ。そのことをもっとハッキリいうとこうなる。「研究を深める
のは結構なことだが、その内容は絶対に宗門にとって不利となるようなことだけは止めて頂きたい」ということです。それで、表向きとして
は、研究者も僧侶の袈裟をしなければならないというわけです。で、もしも、その関係を壊して宗門にとって都合の悪い事柄を学問上の事実
として発表しようとするものなら、あなたの僧籍を剥奪してあなたを悪者扱いさせてもらいますよ! という意味なのです。
 事実、これは実際に起こったことであり(村上専精氏という、あまりにも有名な学者に起きた出来事だったために当時、大ニュースとなった)、
それは“大乗非仏説”の研究書を出したからなのでした。だから、如何に有名で方で大学においても著名な偉い学者さんであろうとも見せし
めのためには僧籍を剥奪します。普通の僧侶の場合にはメシすらも食えなくなるのです。ごく最近起きた事例としては、超訳ブッダ本で知ら
れる小池 龍之介氏がそうであり、原始仏教の瞑想を指導する云々..とかやっていたらヤラレました! まっ、尤もこういうことが特に煩いの
は浄土真宗さんなんだけどね...。モロ.名指ししちゃいますけどw
 なので、学者さんたちも基本的には自由に研究してはいても、伝統仏教の間違いについてはそれでも発言そのものはなるべく“やんわり”
となるように抑えているのだということ。
0367宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:09:54.43ID:WsiFYuT+
補足:
>それは、より真実に近い言い方をするならば、“個としての分離意識の消滅”のこと。
>あなた方(伝統仏教)の勘違いである「涅槃では如何なる自己も無い」だの、
>「アートマンは無い」などという教えはブッダは一度も説かれなかった。>>351

 確かに、涅槃において(涅槃に入るために)は、これまで自分が自己として意識し続けてきた自我は一度、完全に消滅してしまう...。それ
は自分の完全なる死、あらゆる自分のすべてのすべてが死するという恐怖の体験をするともいう。そういう意味においては、確かに“自己
はない”ともいえる。そして、涅槃に達したその瞬間に新たに目覚めるものが生まれ変わった自我だということ。そして、その自我こそが、
元々、最初から本来あった真実の自己であったということを初めて自覚するのです(その他のすべてが幻想にすぎないものだったことを知る)。
 それが“悟り”です。そのためには、いずれ一度は完全なる自己の消滅という出来事がある、と。
なので、その意味では正しい。


-----あんれ? 何と試しに直で投稿したらできましたわ!! ヽ(^o^)丿
0368宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:11:23.91ID:WsiFYuT+
>>355
 元々、アートマンは主観においてのみ知ることのできるものであって、他者に対して客観的に提示したり、他人からも客観的に確認のでき
るようなものではないです。当然、聖典にもそのように説かれてきています。ただ、すべてが梵(唯一神)でもあり、また我(アートマン)でも
あるのならば、この物質と現象界の事象すべても梵我そのものだということにもなるということ。なので、その辺に対しての形而上学的な理
解の問題ということでしょう。ただどうしても、「客観的に提示できないものは信用できない。もしも、本当に在るものならばそれを客観的
に提示せよ!」という激しい論争が起こった。そう主張したのは、中村氏によれば『説一切有部』なのでした。そして、初めて「アートマン
は存在しない」ものという意味での無我説が書かれたのがサンスクリット経典だと指摘しています。
 ということで、あくまでも確認は“自己の主観において”のみです。そのことには変わりはない。だから、それを体験してない者には説い
ても無駄であるとするのかどうか、そのアプローチの違いがあるということ。

>>358
...。

 それについては当時、永遠ではないジーヴァ(魂)存在をアートマンだと誤認している多くのバラモン行者たちがいたことが理由としては最
も大きいでしょう。また、一般人においては、膨大な繰り返し続く輪廻の流れの中でのただ一つのパーソナリティ(人格/個性)にしか過ぎない、
この今のままの人格意識がそのままで永遠に不死のものであるとする根強い迷信が浸透していて、それが殆どの主流となる人々の理解なので
すよ。そのことは、今日における世界中の人々においても皆、今だに同じです。
 なので、ブッダのいう無常/無我とは、人々が「永遠ではないものを永遠のものだと思い込んでいる迷信」を指摘したものです。
0369宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:17:08.99ID:WsiFYuT+
>>352
>だからw
>“涅槃は我である”という言葉も無いの。
>だから「文脈」なの。

そうではなくて、
ブッダのいう完成者としての意味合いでの“自己を成し遂げる”を正しく理解するということ。
つまり、全体の文脈から自分で正しく---忖度しなさい---ということです(それ自体が自己の修行なのだ!!)。
なのでいちいち、
「アートマンは在りますよ!」などという言葉はそこには必要ないの。ただ黙って気付け!! ということ。
しかし、だからといって、
「当時のバラモン達のやっていることそのままで正しいということにはならない」のだから。
“これが重要”なのです。
0370宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:18:48.73ID:WsiFYuT+
>『「境地」が「我」である、或いは「主体」である』
>というのは、いったいどのようなことなのだろうか?
>「境地」が「認識主体、行動主体、思考主体」であるというのは、
>まことに不可解な話と思われるが?
>>353 ---中略---
>それとも、梵我一如の如く、「涅槃我一如」とでも言うべきであろうか・・。

う〜む。
この議論も10年が掛かって、やっとここで“核心に至った”ということなのかな?
もしも、本当にそういう理解なのであれば、この私も特に何ら批判することもない...。

 この私はただ問題の複雑化を避けるべく、敢えてこれまで便宜的に“涅槃の境地=アートマン”といってきたまでのこと。煩悩に塗れた世間
的な自己では涅槃に至ることは決してできない。なので、涅槃を覚知している自己こそがアートマンそのものに他ならない。それはコレとして
提示できる客観的な存在などではなく、ただ自己の正体が元々、アートマンであったことに気付く出来事のこと---つまり、それが悟りです。
 ブッダは、涅槃に到達した者でなければ決して分からないアートマンについて語ることは、ただの弟子たちにとって無益な形而上的議論に終
始するだけのものに過ぎないとして、その手法を摂らなかっただけです。
 だから、もちろん仏弟子たるものは今日においても、アートマンが如何なるものかについてアレコレと細かく深入りする必要などはない。
ただ、“真実の自己に目覚めよう”(大乗の方がその理解がある)という目的を持ち、そして、アートマンを説くヒンドゥーには確かにその道も
あるものとして、仏教とは異なる同じ目的に向かった別の手法だとしてそれを容認することです。
0371宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/03/28(土) 05:20:09.43ID:WsiFYuT+
>>356
>これまで説かれて来たアートマンは、有為なるもので、縁起するものであって、
>言ってみれば、五蘊が無我(非我)であると同様に、「我」もまた“非真我”である」と。
>そして、『「真我が無い」とは説かれていない』と。

 はい。ブッダはウパニシャッドのアートマンを説く手法を摂らなかったのは、弟子たちが単なる形而上学的な議論や学修に陥ることを止めた
かったことと、それともう一つ、そのことと合わせて、当時のバラモン行者たちの主張するものはすべてアートマンそのものではなかったとい
う事実にあります。彼らの体感した驚異的な内的経験は専門的にはジーヴァ/jīva (魂=輪廻主体)でした。アートマンを実現したと主張する彼
らバラモン行者たちに対して、ブッダは、「それらはアートマンではない」(非我)と指摘したのです。
 本物のアートマンはそうではないということは、アートマンを実現したゴータマだからこそ言えたことなのです。

>”真我”は「無為・涅槃」と同じ性格である、と言い得るわけです。

はい。

>>359
いやしかし。
もう、それをいってしまったら、すべてが“お終い”ですよw

私はべつに、お終いしてしまう必要などはどこにもないと思う。
何故ならば、基本的には仏典の主張やブッダの教説というのはすべてが一貫しており、その前後の矛盾がないからです。
もしも、しいて不備なところを上げるとするならば、若干の神格化(これを膨大なものと獲るかは人それぞれか?)があることくらいです。
まっ、それすらも信仰心の賜物だとするならば大した問題でもない(信じたい人にはそうさせておけばイイ...)。

そもそも、この私の主張は仏典批判ではないからね(最初から)。当然ながら、ブッダ批判でもない。
「その素晴らしい仏典(原始経典)の記述を正しく解し、それに従っていない」として伝統仏教を批判してるだけです。

「テーラワーダ」は主に無我の教えについて誤解し、ヒンドゥー及び他宗教批判が激しい(また、大乗に対しても手厳しい)。
そして、「大乗」は今だに大乗非仏説を認めずにおり、これについて無視し続けている、と。
0372神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/28(土) 08:06:14.71ID:tNS4n9r9
>>370
であるなら、
神智学の側から見た、
現代仏教及び特に禅系の思想に於ける(或いは諸学者の言う)
「仏性」「仏心」「真如」「我」「法身」「真人」「本覚始覚」「如来蔵」などが、
そこで言われている(神智学等で言う) >自己の正体 >真実の自己
 ―この言い方は、禅の系譜にある者は普通に使いそうなフレーズではあるが・・・―
の評価が提示されるべきであろう。
(それらは時折、梵我一如の異形としてヒンドゥへの先祖還りだと指摘されるくらいなのだから)
もし、同じだと言うならば、積極的に、(禅系に限らず、現代仏教を)賞賛引用したらいい。
尤も、同じ」であるならば(― >”(大乗の方がその理解がある) ―)、
そこで言われる自己は、永遠不変でもなければ、人間を超えたものでもなければ、
形あるものでもなければ、誰それというラベルやスキルや到達度に階位がでるような具体性のあるものでもい。
その瞬間瞬間に(縁起の結び目として)現れ、活き活きと働いている、
そうした実存的な「在り様としての」「存在」なのだけれども。
  *だから、法と並んで依る辺とされるべきものでもあり、自己の主(あるじ)として主体として、
   一瞬一瞬の(日日の))働き(行為)の軸となっていくものとして、法句160と整合する。
   そしてまた、臨済などは特に、「この肉体あってこそ」というスタンスだけれども、
   それはお釈迦さんでも同じい。だからこそ、如来の滅後は無記であって、
   シッダッタとしての五蘊が45年間法を説いてきたからこその、一連の遺言になるわけで。
0373神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/29(日) 01:56:53.88ID:yOMFFZck
>>368
「じつにポッタパーダよ、私(ブッダ)にとって、我(アートマン)の獲得体は三〔種〕あります。
粗大な我の獲得体、意所成の我の獲得体、無色の我の獲得体です。
(略)
チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我の獲得体)による言説をなします〔が〕、じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c08.htm

この長部・布吒婆楼経でブッダはアートマンとは世間の真実、つまり世俗諦であることをハッキリと説いています。
そもそもが主観的な「心情」なのであるから当然でありましょう。
龍樹の言葉を借りれば、アートマンは空(≒概念)ということになります。

五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。
ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。

七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。

「中論」第一八章 アートマンの考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9529993

なお、中村先生も水野教授も龍樹は否定できないでしょう。
0374宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/29(日) 19:03:18.15ID:EXrGqK22
>>373
私は、そういった経文を引き合いに出して、
「だからアートマンは無いのだ」みたいに結ぼうとすることは止めるべきではないかと思う。
そりゃ〜所詮、言葉として語ってるもののすべては単なる“概念”にしか過ぎないからね。
ただし、それは“言葉というものは”ということですよ!! 
それが「言語」というものの持つ限界性ですから。

けれども龍樹さんだけど...
ここで態々“すべてを「空」で以て結びつけて〆る”といのは如何なものかな?
もし、それをやり出したらもう最後であって、
それならば結局ただ単に、仏典(経典)の教えも空、涅槃も空、ブッダも空...という論調へと至るということ。
その意味するところは実際、“すべてが無意味・無価値”ということになってしまうから。
もし、(龍樹の)空の教えの良いところを一つ示すとするならば、
それはあらゆるものごとに対する執着心を解くのには役立つということかな。
0375宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/29(日) 19:06:09.92ID:EXrGqK22
>なお、中村先生も水野教授も龍樹は否定できないでしょう。

まぁね...w
この私も、龍樹の著作についてアレコレと批判している文言ってのは、まず何処にも見たことがないからね。
この方のプライベートや人生そのものの批評はおいてといて...。誰しも、舌を巻かざる得ない著作内容だとは思う。
稀代の天才と一言でいうのは容易いけれども、とにかく頭脳明晰なのは間違いない!

しかし、自分でいうのもなんだけれど...
「龍樹(というよりは『中論』か?)はお薦めしない」という自論を持ち続けているのは、この私くらいか?
(七セブン他..理由はそれぞれとしても、他にもあまり推奨してない人もいるかもいれないが)
この私の目には、すべてがただ余計なことをしているとしか映らないから!! 
ブッダの素晴らしい教えを態々、単なる“一元論”に変換しようとする愚にしか見えないのでね。
それをやってしまうと、せっかくのブッダの教えが死んでしまうから...。
もしかすると多分、この伝記にもその余計なことを始めたことの流れが見えているのかも?
まず、殆どの場合に言えることというのは、仏典の言葉に対する不満というのは“己れの側の方にその原因がある”。
それと、もう一つ。未完成者のしていることというのは“必ずどこかに何かの不備がある(だから未完なのだ!) ”。

 『小乗の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学
んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないと
ころがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた。
 しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行って諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は 90 日かけて
これを読破し、深い意味を悟った。』(Wiki)
0376神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/29(日) 21:02:02.96ID:Vgd9lFHU
龍樹を一元論だとかw


つか、諸法は縁起性である、ってことを200%無視だもんな・・w
ほんと在家と五十歩百歩。

「空=無価値」という等式が、そもそも思い込み(宝珠自身の価値分別)でしかないのに。
ゴリゴリの西洋価値観を盲信振りかざして、思い込みまっしぐら。
0377宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/29(日) 22:38:03.99ID:EXrGqK22
>>376
世俗諦というのは二元論です。
それを態々、勝義諦に直そうなどという行為は仏法の一元論化に他ならない。
分からないのならイイヨ!!(ムリに絡まなくても)

はっ、無視???
“諸法は縁起性”で何も問題ないから。
いや.だから別段、何も取り上げてないだけだ。

ただし、勘違い者が多いようだけど、
「諸法とは有為法+無為法」などという間違った理解は部派からきたものだからね。
なので、この私はまったく認めてないから!
(---仏教徒の殆どがこのことを知らない---)

正しくは、
諸法とは一切(一切法)と同義であって、それは縁起性のものであり「有為」だということ。
涅槃は「無為」(非縁起)であり、一切(一切法)には含まれない。
故に、一切から解脱した境地が涅槃ということだ!!

ところで、あなた方のその洗脳はいつ解けるの???
いい加減に間違った部派教義からは卒業して、正しくブッダの教えを学んだらどう?
0378神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/29(日) 22:43:59.99ID:Vgd9lFHU
涅槃を、バラ色の楽園のように思い描く愚行に組するわけないだろw
 *(ちなみに、極楽浄土でさえも、涅槃や悟りの境地じゃねーからなw)

部派とかかんけーねーよw
0379宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/29(日) 23:06:35.14ID:EXrGqK22
>>378
>涅槃を、バラ色の楽園のように思い描く愚行に組するわけないだろw

意味不明。

それはバラ色の楽園ではないでしょうけれど、
しかし、それは死と苦悩からの解放であり、究極の楽(世俗の快楽を超えた)であり、
自己の分離意識の消散と融合意識の拡大であり、永遠なる至福の大海に浸ることではある、と...。

>極楽浄土でさえも、涅槃や悟りの境地じゃねーからなw

当り前だ!!

>部派とかかんけーねーよw

そのあなた方の仏教理解の実態が部派教義そのものだからね。
それは、ブッダの教説(故に、経典の記述)とは異なる。
0380神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/29(日) 23:18:16.06ID:Vgd9lFHU
神智学もなw   >ブッダの教説(故に、経典の記述)とは異なる。
0381神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/29(日) 23:28:27.10ID:Vgd9lFHU
>>379
>意味不明

願望希望の投影だってこと。
お釈迦さんは悟った後、45年間どこで何をしてたんだい?
0382宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/29(日) 23:50:42.88ID:EXrGqK22
>>380
認めますよ。
ただし、(言いもしないことを勝手に)
「ゴータマ・ブッダはそのように説いた」などとはいわないからね。

>>381
>>379は、“意識の状態”のことですよ。
ブッダはそのような意識に在りながらも、同時に肉体的には別のことを行う。
つまり、肉体レベルでは説法のために遊行なされた生涯
(大衆の悩みを解きつつ、弟子たちの育成に努められた)。

願望? に見えてるだけの内は、
あなた方の理解はなってないということの顕れですよ。
ブッダの悟りを唯物論で解するのも.そろそろ卒業したらどう?
テーラワーダからも笑われるだけだ。

唯物論は間違い!!
まっ、とにかく早いとこ確信できる体験を得ることだね!
そうすれば土下座するハメになるよぉ。
(分かる者には理論的にも分かるものなんだけど...)
0383神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 00:30:35.74ID:mWwr0f9X
>>374
>けれども龍樹さんだけど...

>その意味するところは実際、“すべてが無意味・無価値”ということになってしまうから。

そうならないように般若心経でも色即是空の後に空即是色を入れているのだと思いますが、
龍樹の場合はそのような見解に対しては
・中論24章 四つのすぐれた真理(四聖諦)の考察
で徹底的に反論しています。

【反対者(空=無とする者)の非難】
一 もしもこの一切が空であるならば、生も滅も存在しない。【生も滅もないから】聖なる四つの真理(四諦)の無いことが汝に付随して起こる。
(以下↓)
https://icabs.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=421&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
(右上のページ数で93ページからが中論24章の現代語訳になります)

特に18偈に
「縁起、それをわれわれは空と呼ぶ。それは質量因等に依っての表示であり、それこそが中道である」
とある通り、龍樹の空とはブラフマンのような一元論の実体ではなく、実体ではない縁起(仮)のことを指します。
つまり龍樹はゼロ元論です。おそらくブッダもそうだったと思います。
0384神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 01:03:37.96ID:mWwr0f9X
>>375
上にも書きましたが龍樹は一元論とは全く異なります。
もう一つ事例を出すと
・「中論」 第一三章 形成されたものの考察
の末尾の

七 もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。

八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。


★「龍樹」(中村元 著)p.272〜 によると、『空見』とは、本来非有非無であるべきはずである空を、『有の意味に解するか』『無の意味に解するか』のいずれかの誤解を指す。
『要するに空見とは、空が縁起の意味であり、有と無の対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引き下ろして考えること』(同書より)

空なるものは実体として存在しない、何故なら空とは縁起であるから。
なので実体ではない空をブラフマンのような根源とすることはできません。
故に空は一元論とは全く異なります。
ならばブッダが虚妄ならざると説いた涅槃についてはどうかというと、藤田教授の言葉を借りれば「主観的な心情を述べたもの」(>>355)なので、心情を絶対的な根源としてそこから世界は作られるとしているのとは違うと思います。
藤田説だと涅槃という心情が作られるというところまでが限界ですかね。涅槃とか無為とかいう特別な世界・空間・存在(勝義法)があるわけではない、と。
龍樹も同じく中論25章にて
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
と生死(輪廻)即涅槃を主張しています。
無為法という特別な存在はないんですよ、と。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530374

また虚無論ということについては、ブッダも生前に『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と一部のバラモン 達に言われていたことを自白しています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c07.files/sheet001.htm

それが誤解であることは、ここにいる方々はよくご存知だと思います。

龍樹もまたブッダと同じです。
0385神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 01:13:15.92ID:ViAamCBN
 
>無意味・無価値
という意味ではなく
『〜がある 〜がない』という執着が.解脱の妨げになっている.という意味
『〜がある 〜がない』という執着を.手放しさせるために

https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
この身には.地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素が(仮設として)ある
と導いて
そして.さらに
地水火風の微細な粒子も(現れ・変化して・そして)滅して逝く
と導いて逝く

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm

実際には
何ものかの思いが浮かぶかもしれません。
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう。

余念を交えず、ただひたすら.只管打坐

道元禅師.普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
…「想」と「受」が滅する.想受滅
  _  _  _

『〜がある 〜がない』という執着を.手放しするのは難しいと思うけど
それゆえに

誰もが成仏するわけではない.五性各別
0386宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/30(月) 02:24:47.82ID:ONlcwRyc
>>383
>【反対者(空=無とする者)の非難】
> 一 もしもこの一切が空であるならば、---中略---
>つまり龍樹はゼロ元論です。おそらくブッダもそうだったと思います。

この私の理解と何も変わらない。
無常/縁起/無自性/空(すべて別の説き方をしてるだけ)ということですよ。

>そうならないように般若心経でも色即是空の後に空即是色を入れているのだと思いますが、

はいはい。
では再度、確認しておくけれども、
「空」とは「色」。すなわち“現象界における物質とその事象のことに限られる”ということでいいかな?
ということは、般若心経の編纂者というのは部派の間違った見解である
「一切の中に涅槃を含める」などというアホ理論>>323-327の悪影響は受けていない、と。

ならば何故?
涅槃は空、如来も空...などといってるアホ仏教徒が溢れてるの?
0387宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/30(月) 02:25:42.08ID:ONlcwRyc
>>384
>もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。
>しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。

ブッダは『ウダーナ』において、
「有為(縁起/空)ではないものがある。それが涅槃(無為)であると説いた」。
ただし、それは“存在論”として述べているわけではないですよ。

そして、どうやら何かを勘違いされてるのかもしれませんが、
この私は単に、ただ便宜的に一元論と言っているまでのことであって、
それはウパニシャッドの説くようなヴェーダーンタ哲学のアドヴァイタ(一元論)と同一の意味合いはまったくありませんからね。
龍樹は、勝義諦と世俗諦の二つの真理(の説き方)があってその内の世俗諦をブッダは説いたといって、
仏典の教えのすべてを態々、勝義諦にしようとしてるでしょう?
そのことを二元論から一元論に変換しようとしてるといったまでのこと。
まっ、私の側の良くない表現にてそれは誤りますよm(__)m

それから、この際にもう一言だけ言及させてもらうと、
仏教徒側がアートマンなどを批難する際に使うその存在論の「実体」という言い方や理解だけど...。
ハッキリ言ってしまうと、ウパニシャッドの説くアートマンというものは、
そもそもが、その「実体」などという定義にすらも当て嵌まらないものなんだけどね。
それが全然分かってないから。だから、最初からすべてが噛み合わない。
お話にならないから、その議論すらする気にもならない...。
だから、これまで指摘してこなかった。
0388神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 08:07:42.07ID:QG4kOJtE
ウパニシャッドの説くアートマンは不変でしょ?
それを指して「実体」と仏教徒側は言ってるだけ

石みたいにソリッドに存在するのではなく、在り方として形のない霊妙なアートマンとかそういうのは関係ない
変わることなく存在するものは「実体」だと仏教徒は考える、ただそれだけ
0389神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 11:26:59.99ID:mWwr0f9X
>>387
>ハッキリ言ってしまうと、ウパニシャッドの説くアートマンというものは、
>そもそもが、その「実体」などという定義にすらも当て嵌まらないものなんだけどね。

実体とは自性があることで、また有のことでもあり、名色(名称と形態)のどちらでも実体がある法があるかどうが古代インド哲学で議論されてきたと思います。

ですが、ぶっちゃけそのウパニシャッドのアートマン論も色々。
こちらでは心臓の内に米粒よりも黍粒の核よりも小さい物質(色)として表されているようで、それでいながらブラフマンと一如であるから無限でもあるとされています。


 『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』 3.14.1−4

1.この一切(万物)はブラフマンであり、
  タッジャラーン(それから生じ、それへ帰り、その中で呼吸するもの)*注であると、こころ穏やかなる者は思念せよ。

  人間は実に意向からなる。
  この世においてもつ意向のまま、この世を去った後も同じ意向をもつ。
  人は意向を定めよ。

2.意からなり、生気をからだとし、光を姿として、真実を思惟し
  虚空を本性とし、あらゆる味をもち、万物を包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの。

3.それが心臓の内にある私のアートマンである。
  それは米粒あるいは麦粒より、また芥子粒、黍粒より、黍粒の核よりも微細である。

  この心臓の内にある私のアートマンは、
  大地より大きく、虚空より大きく、天よりも大きく、これら諸世界よりも大きい。

4.あらゆる行為をなし、あらゆる欲望をもち、あらゆる香りをもち、あらゆる味をもち、
  万物を包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの。

  それは心臓の内にある私のアートマンである。それはブラフマンである。

  この世を去った後、それに合一したいという意向のある人は、この点に疑いをもたない。
0390神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 11:37:35.45ID:mWwr0f9X
ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド
(ヤージニャヴァルキャのアートマン論)

アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。それは認識の主体として"万物に内在“している。

私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。
アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。

アートマンが何であるかを言い当てることはできない。それはただ「非ず、非ず(neti, neti)」としか表現することができないのだ。

私たちの右の眼のなかにはインドラと呼ばれる人間(プルシャ)がいて、彼の向く方向にしたがって認識は生じる。このプルシャがすなわちアートマンだ。

インドラすなわちアートマンには次の3つの状態がある。
1つ目は目覚めてこの世にある状態、2つ目は熟睡して彼方の世界にある状態、そして3つ目はこの世とあの世の間、すなわち夢の状態だ。
このようにアートマンは現世と熟睡の間を行き来する。

このアートマンが無力化すると、人間の諸機能はアートマンへと集まってくる。
彼はもはや物を見ることができず、何かを聞くこともできない。そしてアートマンは人間の身体から上へと出て行き、それにしたがって気息と全ての機能も上へと出ていく。
こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。


(感想)
こちらもかなり色法的な形態があり、自性がある実体であり、文末によるとアートマンこそが輪廻の主体であると明言されています。
0391神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 11:44:56.83ID:mWwr0f9X
>>390
>こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。

の後に

欲望をもつ人の場合、アートマンは世界に執着しつづける。
だが欲望を持たない場合、あるいは、それが満たされた場合、諸機能が上へと出て行くことはない。彼はブラフマンそれ自体となり、ブラフマンに到達するのだ。

を入れるのを忘れていました、失礼しました。


その他のアートマン論
https://www.philosophyguides.org/amp/decoding/decoding-of-upanishads/

ブッダのアートマン論はそれらウパニシャッドとはまた違っていまして、
思い通りになるもの(苦ではないもの)、常住不変の実体を持つもの(これはウパニシャッドと共通)、名色を五蘊に分けた場合に五蘊ではないもの(つまり精神作用の中にもアートマンはない)、
が挙げられますかね。
0392神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 11:53:02.17ID:mWwr0f9X
>>386
>涅槃は空、如来も空...などといってるアホ仏教徒が溢れてるの?

「中論」第二二章 如来の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530025

「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530374

こちらに詳しく解説されていますが、簡単に言えばブッダ(如来)は死後に般涅槃したら存在するわけではなく存在しないわけでもなく〜と、無記として四句分別全てで否定されることから空であると
(龍樹はもっともっと丁寧に説明していますが)。
0393神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 15:22:16.74ID:Cm5qSyYk
「涅槃と真我は同じだと主張する(なんと!)自称テーラワーダ在家信者」と「無為法を否定する口の悪い真言宗僧侶」による『仏教に無為法は存在するか』問答
(知恵袋)


仏教に興味のある方に質問です。
(前提:テーラワーダ仏教・ヒンドゥー教不二一元論が好きです。

ある方と仏教の対話を以前したのですが、その方の無為法に関す... #知恵袋_ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10153854700?fr=ios_other
0394神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 23:49:45.52ID:mWwr0f9X
Attasamanupassanā 我の観察、我の考察
(意訳)【我に関する誤認】

さて、アーナンダよ、誤認者(観察者は、認める者は)は、いかなる観点から我を誤認する(観察する、認める)のでしょうか。

アーナンダよ、じつに、誤認者は、あるいは感受を我と誤認します。『感受が、私の我である』と。
あるいはアーナンダよ、『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さない』と、誤認者は、このように我を誤認します。
あるいはアーナンダよ、『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さないものでもない。私の我は感受する。なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』と、誤認者は、このように我を誤認します。
0395神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 23:52:04.76ID:mWwr0f9X
アーナンダよ、そのうち、このようにいうもの。『感受が私の我である』と。彼はこのようにいわれるべきでありましょう。
『友よ、じつにこれら三つの感受があります。楽なる感受、苦なる感受、不苦不楽なる感受。あなたは、これら三つの感受のうち、いずれを我と考えるのですか』と。
アーナンダよ、〔人が〕楽なる感受を感受する時、その時には、苦なる感受を感受することはなく、不苦不楽なる感受を感受することもありません。その時には、楽なる感受のみを感受します。
アーナンダよ、〔人が〕苦なる感受を感受する時、その時には、楽なる感受を感受することはなく、不苦不楽なる感受を感受することもありません。その時には、苦なる感受のみを感受します。
アーナンダよ、〔人が〕不苦不楽なる感受を感受する時、その時には、楽なる感受を感受することはなく、苦なる感受を感受することもありません。その時には、不苦不楽なる感受のみを感受します。
アーナンダよ、じつに、楽なる感受は、無常の、有為の、縁生の、尽滅の性質ある、衰亡の性質ある、消失の性質ある、滅の性質あるものです。
アーナンダよ、じつに、苦なる感受も、無常の、有為の、縁生の、尽滅の性質ある、衰亡の性質ある、消失の性質ある、滅の性質あるものです。
アーナンダよ、じつに、不苦不楽なる感受も、無常の、有為の、縁生の、尽滅の性質ある、衰亡の性質ある、消失の性質ある、滅の性質あるものです。
0396神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 23:52:47.36ID:mWwr0f9X
彼には、楽なる感受を感受するとき、『これが私の我である』という〔思いが〕おこります。じつに、その楽なる感受の滅尽のゆえ、『私の我は消失した』という〔思いが〕おこります。
彼には、苦なる感受を感受するとき、『これが私の我である』という〔思いが〕おこります。じつに、その苦なる感受の滅尽のゆえ、『私の我は消失した』という〔思いが〕おこります。
彼には、不苦不楽なる感受を感受するとき、『これが私の我である』という〔思いが〕おこります。じつに、その不苦不楽なる感受の滅尽のゆえ、『私の我は消失した』という〔思いが〕おこります。
かくのごとく、現世における、無常の、楽苦の入り交じった盛衰の法を我と誤認するその誤認者。彼はこのようにいいます。『感受が、私の我なのである』と。
故にここに、アーナンダよ、これ(無常のものを恒常のアートマンとみなす矛盾)によって、これは〔論証に〕耐えないのです。『感受が、私の我なのである』とみなすことは。
0397神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 23:55:30.81ID:mWwr0f9X
アーナンダよ、そのうち、このようにいうもの。『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さない』と。彼はこのようにいわれるべきでありましょう。
『しからば友よ、感受されるものが完全に存在しないような場合、そのときいったい、―この私が存在する―という〔自意識が〕ありうるでしょうか』と」
「尊者よ、それは否です」
「故にここに、アーナンダよ、これ(感受なき自我を主張する矛盾)によって、これは〔論証に〕耐えないのです。『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さない』とみなすことは。

アーナンダよ、そのうち、このようにいうもの。『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さないものでもない。私の我は感受する。なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』と。彼はこのようにいわれるべきでありましょう。
『しかし、諸々の感受が、全くすべて〔の行相〕をもって、全くすべて〔の自性〕をもって、余すところなく滅んだとしましょう。感受があまねく存在しないとき、いったい、感受の滅より、―この私が存在する―という〔自意識が〕ありうるでしょうか』と」
「尊者よ、それは否です」
「故にここに、アーナンダよ、これ(感受を前提としない自我を主張する矛盾)によって、これは〔論証に〕耐えないのです。
『じつに、私の感受は我ではなく、私の我は感受を有さないものでもない。私の我は感受する。なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』とみなすことは。
0398神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/30(月) 23:57:20.17ID:mWwr0f9X
アーナンダよ、比丘が、じつに、感受を我と誤認せず、感受なきものを我と誤認せず、また『私の我は感受する。なぜなら私の我は、感受という性質を有するからである』とも誤認しないならば、
それゆえ、そのように誤認しない彼は、世間においていかなるものへも執取せず、無執取において恐れず、恐れなき者として各々般涅槃します。
『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と知るのです。
アーナンダよ、じつに、そのように解脱した心を持つ比丘に対して、このようにいうこと。
『彼には―如来は死後に存在する―という見解がある』と。それは適切ではありません。〜『彼には―如来は死後に存在するのでなく、かつ存在しないのでもない―という見解がある』と。
それは適切ではありません。
それはなぜか。
これだけの名辞、これだけの名辞の道、これだけの言辞、これだけの言辞の道、これだけの施設、これだけの施設、
これだけの智慧、これだけの智慧によって〔知られるべき〕行境、これだけの輪廻があり、これだけをもって輪転する、そのことを知って比丘は解脱しているからです。
そのことを知って解脱した比丘に対し『彼は知らない、彼は見ていない』ということ、それは適切ではありません。

長部 『大因縁経』(『大縁方便経』)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c04.htm
0399神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 00:19:15.76ID:qCa4p85d
間違った理解で伝承された経典は根拠にならない
                                 by宝珠
0400宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/31(火) 00:37:18.09ID:OznYB8WU
>>388
ですよね! 了解しました。
的確な説明に感謝します!!

ヒンドゥー側では、これを“唯一なる実在”といっている。
しかし仏教側では、「(我々に)捕えられないものは扱わない」という姿勢ということでしょう。
そして、これを「無い」ということにしてしまったのが部派だということなる...。

>>389
 正直なところ、この私はウパニシャッドのような古典的なバラモン聖典の記述についてはそれほど最重要視しないことにしてる。
所詮、聖典などというのも絶対的な記述ではない。その「心臓の内に米粒よりも黍粒の核よりも小さい物質(色)として」というのも一つ
の比喩的表現にしか過ぎないもの。
 つまり、聖典といえども人間の手で書かれ編纂されたものであって、実際上の膨大な年月による必然的な劣化を避けることは絶対にでき
ない。であるのに、聖典を絶対視する原理主義に陥ると必ず道を踏み外す...。聖典というのはあくまでも参考までの補助的扱いであって、
もっと重視すべきは近代以降〜にも顕現されている実物の完成者方からの直の珠玉の言葉です。
 何度もいいましたが、仏教側にはまったくいないように見うけられるけれど...。要するに、ブッダの教えについて再確認できる(質問に
回答して頂ける)ような言葉を発せられるほどの人材がいないということ。なので、止む得ず仏典の記述に重きを置かざる得ないというのが
仏教界の状況なのではないか...。まっ、現日本においては、今はスマナサーラ長老がその役割を担っているのでしょうけど...。
0401宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/31(火) 00:38:10.17ID:OznYB8WU
>実体とは自性があることで、また有のことでもあり、

 少し揚げ足取りみたになって申し訳ないのだけれど、仏教でいう「有」というのはこの現象界のことを意味しており、従って、我々人間
が実在と思い込んでいる諸々の現象界の物質と事象のすべては無自性/空なんだということを教えている。それが「有」というものの実態だ
という意味ですよ。
 なので、“自性あるもの”と「有」を結ぶことなどはできないのです。もしも、それを仮にいうとしたならば、まるで『説一切有部』的な
言い方になるけれども、それは「有」ではなくて、「実有」や「恒有」という表現の方がより正解に近いかもしれない...。要するに、“それ
(実体と)は恒常的な自性存在”だということです。ただし、それを仏教では扱わないということに過ぎないということ(ただし、それは「無
い」ということとは違う)。
 厳密にいえば、そもそも「有」(存在)というものをどう見なすかについてすらも、アレコレ議論すること自体そのものをブッダは認められ
ていなかった、というのが実際のところでしょう。

>>390
>こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。
>---中略--- 文末によるとアートマンこそが輪廻の主体であると明言されています。

これは完璧に“ジーヴァ(魂) ”のことであって、まったくアートマンではない。
確かにジーヴァは、「ジーヴァ・アートマン」とも呼ばれるけれども、
それはいわゆる梵我一如としてのアートマン(パラマートマン / パラ・アートマン)ではない。
まっ、敬虔な一般のヒンドゥー教徒たちはそれを認めないだろうけれども、
しかし、ウパニシャッドの記述だからといってすべてが正しいわけではない。
つまるところラマナ・マハルシの解説通りであって、「アートマンは輪廻しない」から。
それが真実ですよ!
0402宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/03/31(火) 00:39:46.99ID:OznYB8WU
>>391
>ブッダのアートマン論はそれらウパニシャッドとはまた違っていまして、
>---中略---が挙げられますかね。

はい、そのブッダの説くアートマン論の紹介はそれで合っていると思います。
そして、それこそが正しいアートマン理解というものですよ。

>>392
>存在するわけではなく存在しないわけでもなく〜と、無記として四句分別全てで否定されることから空であると

それはちょっと戴けませんね。
あくまでもそれは、如来の死後(般涅槃)については一般常識の理解を超えたものだという意味なのであって、
「空」ということとはまったく違いますよ。スマナサーラ氏が涅槃は空ではないと述べたことは正しい理解です。
涅槃は空ではないし、当然、涅槃に住する如来も空であることなどはあり得ません。
もしも、それが龍樹の理解だというのならば、それは龍樹が間違えているのです。

 『しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、
努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは
言わないのです。』(スマナサーラ長老『解脱は理解できない』)>>199

>>394-398
仏典には正直いって、
これらのような回り諄い言いまわし多用の経文も多い...。
で、あなたなりにこれらを簡潔に纏めると、つまりは何を言ってることになります?
(それを僅か数行で纏めてもらえます?)
0404神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 07:52:54.87ID:bAS9ZshF
邪見故に外道となり、
外道故に邪見をさらに強める信念を抱く

しまいには霊を見ただのUFOを見ただの
自己妄想強化フィードバックのウロボロス無限回転の中に精神が封じ込まれていて、仏陀の教えが届くことはない
0405神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 12:11:12.95ID:9y7s2/lW
>>400
>正直なところ、この私はウパニシャッドのような古典的なバラモン聖典の記述についてはそれほど最重要視しないことにしてる。(以下略)

それならば>>387
>仏教徒側がアートマンなどを批難する際に使うその存在論の「実体」という言い方や理解だけど...。

>お話にならないから、その議論すらする気にもならない...。

は全くの不要な書き込みだと思いますがw
ウパニシャッドの説くアートマンというものをさももったいぶった言い方をして、「そのアートマンを仏教側は分かってない!だから噛み合わない!議論する気にもならない!」と言っておいて、
「正直なところ、この私はウパニシャッドのような古典的なバラモン聖典の記述についてはそれほど最重要視しないことにしてる。」と来ましたから、正直なところこちらはズッコケましたw

まあこれからは古典的なバラモン聖典、ウパニシャッドの話をする場合は、「私はそれほどウパニシャッドのような古典的なバラモン聖典の記述についてはそれほど最重要視しませんが。なぜなら聖典などというものも絶対的な記述ではないから〜」として文を入れてください。
>>387のような書き込みを一々真に受けて真面目にレスを返す必要・手間が省けますので。

>>401
それは私の方のミスで実有とすれば良かったですね。

■世界宗教用語大事典
じつう 【実有】
仏教語。真実に有るもの。それ自体で実在するもの。
これに対し、因縁の和合による仮の存在を仮有という。
例えば人間は五蘊が仮に和合しての存在だから、やがて消滅するもので仮有だが、そのことを説く諸行無常の真理(法)は永久不変の理であるから、実有である。→ 仮有 五蘊

部派仏教の我空法有の有などは実有のことですね。

仰る通り、仏教の「有」は十二支縁起の有bhavaであることが一般的です。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89

ここが分かれば「中論第二五章 ニルヴァーナの考察」もぐっと理解が進むのではないかと。
特に四偈は「もしニルヴァーナが有ならば、有→生→老死に至るので有ではない」と主張しているのが分かると思います。

「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530374
0406神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 12:31:21.71ID:qCa4p85d
>>400
>もっと重視すべきは近代以降〜にも顕現されている実物の完成者方からの直の珠玉の言葉

『>近代以降〜にも顕現されている実物の完成者方からの直の珠玉の言葉』

を仏教(ブッダの教え)と結びつける必要がどこにあるんだろうか?w
0407神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 14:55:50.18ID:9y7s2/lW
>>406
それは私も思いましたw

そして、ブッダのアートマン理解こそ正しいとする根拠は何か、と。
各ウパニシャッドに書いてある各々のアートマン論はなんだったのか、とw

>>402
>そして、それこそが正しいアートマン理解というものですよ。

ラマナ・マハルシの説くアートマンと同じですか?
0408神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 14:59:41.51ID:9y7s2/lW
>>402
>あくまでもそれは、如来の死後(般涅槃)については一般常識の理解を超えたものだという意味なのであって、
>「空」ということとはまったく違いますよ。スマナサーラ氏が涅槃は空ではないと述べたことは正しい理解です。

「涅槃は無為法という法」であるとするスマナサーラ氏の方を信じますか?w
「一切とは何であるか。眼と色とである〜意と法である」(相応部)……テーラワーダの説くように涅槃は無為法という法だから意と法に含まれるので一切内という話で構いませんか?
それは、あなたが引用されている藤田教授の「涅槃は主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのもの(≒法?)ではない。」に矛盾しませんか?w

上にUPした 「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察 において龍樹は
ニルヴァーナは有でもなく(四〜六偈)、無でもなく(七・八偈)、有にしてかつ無でもない(一一〜一五)ことを論を立てて説明し、有無への執着を解くことを説きました(九・一〇偈)。
それままさしく空論・中観ということになりますが、ニルヴァーナが空であることを示すのが”般涅槃した尊師ブッダの滅後である”と十六偈以降で説いています。


一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない
また中論二二章
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
 ※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。

般若心経の「照見五蘊皆空 度一切苦厄」が理解できれば上の3つもすんなりと理解できると思います。
五蘊皆空と正しく見極めた時に輪廻生死するこの世と違う別な場所に行ったわけでもなく、あいかわらずこの世に留まっていますが、もう苦厄から度してはいる。
つまり悟りの目から見ればこの世がニルヴァーナということになります。
また如来の本姓はニルヴァーナの究極と同じですなわち輪廻の究極でもある、ということになるかと思います。
0409神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/03/31(火) 15:00:20.49ID:9y7s2/lW
>これらのような回り諄い言いまわし多用の経文も多い...。
>で、あなたなりにこれらを簡潔に纏めると、つまりは何を言ってることになります?

引用した『大因縁経』は、四阿含の経典の中では繰り返しが少なく回りくどくない方だと思います。
私の纏めよりも先に、アートマンにこだわりのあるあなたが読まれて先に感想をだされるのがよろしいかと。
また、『大因縁経』のコピペの最後に貼ったリンクの前のページには、同じ経典の【我の施設】という見出しの説法があるので面倒じゃなければ一読するのをお勧めします。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c04.htm


ちなみに『大因縁経』は
「アーナンダよ、じつに、〈識〉が母胎に入らない場合、いったい、〈名色〉は母胎において成長するでしょうか」「尊者よ、それは否です」
「アーナンダよ、じつに、〈識〉が母胎に入ってから出た場合、いったい、〈名色〉はここなる状態へ生起するでしょうか」「尊者よ、それは否です」
の問答があり、識が輪廻の主体であるという論拠になっている経典でもあります。
0410宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/01(水) 03:38:11.42ID:LofcwHBg
>>403-404
まともな議論ではとても太刀打ちできないとみるや、
相手の“個人的なところ”を口撃してくるという典型ですね!

まっ、精神性がある程度のマインドレベルに達すれば、
普段はエーテルの海に掻き消えているUFOも自然とその姿を見せてくれるようになる。
まだ見たことなかったの? もしも、まだだったのならテレパシー送信で呼び掛けてみれば?
一機くらいは見れるようになるかもよwww
あっ、あなたの好きそうなオカルト話をリンクしておきますよ!

(宗教画にUFOが!?その描かれている理由とは?)
 http://charnme.net/archives/364
0411宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/01(水) 03:39:37.35ID:LofcwHBg
>>405
所詮、聖典『ウパニシャッド』の詳細(一つ一つの記述)などというものの絶対性なんかはないですよ。
もちろん、敬虔なヒンドゥー信者ならば聖典の一言一句のすべてを正しく真理そのものだと信じるかもしれないけれど...。
ただし、それらの間違った描写を根拠にしてアートマンは無いなどという理論展開は間違っているのです。
それはただ単に、ウパニシャッド中の表現の不備ということでしかない。
肝心なアートマン特性の大切な意味とは、“普遍的な恒常性、完全なる善意識(慈愛)、分離無き全体への融合性... ”といったものです。
そして、ブッダが認められないウパニシャッドの間違ったアートマン観ということについては、
先日も投稿したように、私がこれまでも指摘してきた通りですよ。

>それは決して『アートマンが存在しない』と主張したのではない。
>ただ客体的実体的あるいは機能的なアートマン観に反対したのである。」
>(中村 元著『原始仏教』筑摩書房刊) >>296
0412宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/01(水) 03:49:32.58ID:LofcwHBg
>>406
>必要がどこにあるんだろうか?w
>それはわたしも思いましたw >>407

あなた方の誤解(仏教徒側からのヒンドゥーに対する偏見と誤解)
を解消するのには大いに役立つことをこの私から保証しますよ!
もちろん、明治維新前の閉鎖性(鎖国)をこれからも続けるかどうかもあなた方のご自由なのですが...。

>>407
マハルシを含めて、
本物の完成者たるものはアートマンについてそれらのクダラナイ細々した無意味な描写などをアレコレと語ることがない。
アートマンの基本属性とは、永続性・融合性・慈愛と善性質などであると分かればそれですべて事足りることです。
あとはいくらお喋りを続けてもアートマンを体験しない者には理解できないのだから無意味なこと。
本物の完成者は無意味なことはしない。

所詮は、聖典の記述というものは宗教文学作品なのであって、宗教的な比喩と象徴表現の場でしかない。
だから見る眼を持つ者だけがそこから何かを読み取るわけです!
0413宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/01(水) 03:50:52.97ID:LofcwHBg
>>408
涅槃は無為であることは仏典で示されている通りです。
しかし、それを勝手に一切内に含めたのが部派であり、その継承者が現テーラワーダですよ。
ですから、正しい事柄と間違いをごちゃ混ぜにしないということです。
あなたは般若心経を上げて>>383、“空は色に限定される”ことを認めたんじゃないのか?

で、私から龍樹の勝義諦一辺倒についていっておくけれども...。
ブッダはすべてを見通される方ですよ。もしも、そんなに勝義諦が重要かつ必要不可欠なものならば
ブッダはちゃんと勝義諦も合わせて説かれた筈です。しかし、そうはなさらなかった。
ブッダが生涯に渡って世俗諦で教えを説かれたのには必然的な理由があるからですよ。
それを態々、ブッダのすべての教説を勝義諦で説き直そうなどというのは余計な愚弄というものです。
結局、涅槃は空などと説き誤って、それを読む者は皆勘違い者ばかりを産むだけだ...。
0414神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 11:18:10.03ID:qtVxX2XM
>>413
> で、私から龍樹の勝義諦一辺倒についていっておくけれども...。
> ブッダはすべてを見通される方ですよ。もしも、そんなに勝義諦が重要かつ必要不可欠なものならば
> ブッダはちゃんと勝義諦も合わせて説かれた筈です。しかし、そうはなさらなかった。
> ブッダが生涯に渡って世俗諦で教えを説かれたのには必然的な理由があるからですよ。
> それを態々、ブッダのすべての教説を勝義諦で説き直そうなどというのは余計な愚弄というものです。
> 結局、涅槃は空などと説き誤って、それを読む者は皆勘違い者ばかりを産むだけだ...。

その部分は至極真っ当な意見として、
同様の、釈尊が「語るも語らぬもの過不足無い」のを、
余計な思想を暴走展開する大乗の徒と同じことを
神智学の徒、宝珠がやっているんだけどね
低次の我に対して高次の我とかどうとかw

お前ら正しく「釈迦に説法」なんだわ
0416神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 11:25:42.32ID:qtVxX2XM
仏陀に何がしかの不足があると考える奴輩でないとできない真似

俺は畏れ多くもできまへん

南無、釈迦牟尼仏陀に帰依し奉る
0417神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 16:45:05.61ID:thy7cYIk
中論は言葉を使って書かれている以上は世俗諦での記述。
もし勝義諦なら言葉はつかえないはず、龍樹の場合はですね。

空の思想 6.龍樹(ナーガールジュナ)(3)空と言葉
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530364

そもそも部派仏教アビダンマ哲学の時から三蔵の中でも論蔵は勝義諦での記述を多用し勝ち。
もちろん、その勝義諦とは法有として残る法の部分を実在としているもので龍樹の勝義とは違いますし、だから言葉で表現したものも勝義になるのですが。

龍樹の勝義諦は言葉(概念、五蘊など部派仏教で法とされてのも概念(法空))を超えるという教理が、
禅の教外別伝・不立文字に繋がったのかは存じませんがw
0419神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 23:29:49.11ID:LBtRxxUj
<有部のニルヴァーナ論>

 仏教者のめざすニルヴァーナ(涅槃)とは、いったいどのような状態なのであるか。
 『中論』の第二五章(ニルヴァーナの考察)において、ニルヴァーナが論ぜられているが、その第四、五、六詩は、ニルヴァーナを有とみなす説一切有部の説を排撃している。
 すでの論争の書であるセイロンの上座部の『論事』においても、有部は「ニルヴァーナは有り」といい、ニルヴァーナという実体を認めていたと理解されている。
有部によればニルヴァーナとは独立な別の実体であり(『俱舎論』ヤショーミトラ註、二一九ページ)、「滅を本質とするもの」(『プラサンナパダー』五二五ページ)であるという。
それは五蘊とは別に実在するものであり(俱舎論』ヤショーミトラ註、二一八、二一九ページ)、
「煩悩と業と苦しみとの連続のはたらくことを決定的に妨げるところの、滅を本質としてるものであり、水の流れを妨げる堰に相当するものである」(『プラサンナパダー』五二五ページ)
と考えられている。
故にニルヴァーナとはたんなる渇愛の滅尽をいうのではなくて、そのニルヴァーナという独立なダルマがあるときに、渇愛の滅尽が可能なのであるとする(同書五二五ページ)。
 これははなはだ奇妙な説に思われるかもしれないが、全く理解できないことではない。
人がいくら修行してもニルヴァーナの境地に到達しないことを思うと、ニルヴァーナという実体が別にあって、その実体がニルヴァーナへの到達を可能ならしめると考えたのも、理由のないことではないであろう。
(説一切有部の教学によると、智慧のはたらきによる滅〔択滅無為〕という独立の実体がニルヴァーナを可能ならしめるのである)。


中村元『龍樹』
0420神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 23:31:22.78ID:LBtRxxUj
ちなみに同書によると、
中論第二五章の第七、八詩で排撃されている「ニルヴァーナは無であるという説」は経部(経量部)のニルヴァーナ論。
経部は、ニルヴァーナを無であると解し、あるいは「無のみなること」ともいう。
とくに「のみ」という制限を付けるのはニルヴァーナを実体視する考えを防ぐためであると説明されている。経部は一般に無為法を実体視する説に反対している。
また『成実論』も、「またニルヴァーナを無法と名づく」というから同じ考えなのだろう。
とのこと。

更に中論で次に論破している、ニルヴァーナを「亦有亦無」となす説は犢子部(プロガラという輪廻主体を立てたことで有名な部派)、
次の「非有非無」となす説は修多羅人(経典を奉ずる人)の説であると『般若灯論釈』(中観派の清弁による中論の注釈書)に記載があるそうです。
(龍樹がこれだと認めた第10詩のニルヴァーナは「「非有亦非無」…ややこしいw)
0422神も仏も名無しさん
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2020/04/01(水) 23:48:10.85ID:FDo2VWIy
遥か昔のチラ聞きの話だが、
有部の言う「ある」(有、asti)は、「実体的にある」のでなく、
もっと素朴な「ある」ではなかったろうか、という考察・試論があるとかないとか・・。
0423神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 00:44:45.31ID:UU3XVnOf
>>420
>「ニルヴァーナは無であるという説」は経部(経量部)のニルヴァーナ論。
>また『成実論』も、「またニルヴァーナを無法と名づく」というから同じ考えなのだろう。

「無法」は多分vibhava、abhava(非生存)が原語だと思われるので、少なくとも『成実論』は、
「涅槃=無」
ということを述べているわけじゃないと思うけど(『成実論』において涅槃が存在しないなら、涅槃非有[nirvānaṃ nāsti]と表現するだろうから)


ちなみにvibhavaは、涅槃を実有と認める上座部の『ブッダヴァンサ』にも涅槃寂静を形容する言葉として出てくる:
>有(bhava)が知られるとき,非有(vibhava)も認められる。
(略)
>三種の火(tividhaggi)が知られるとぎ,涅槃(nibbāna)が認められる。
(略)
>生(jāti)が知られるとき,不生(ajāti)も認められる


中観でも涅槃は有でもなく無でもないでしょ(「非有亦非無」)
0424神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 00:48:16.15ID:UU3XVnOf
>>420
>次の「非有非無」となす説は修多羅人(経典を奉ずる人)の説であると『般若灯論釈』(中観派の清弁による中論の注釈書)に記載があるそうです。

「修多羅人(経典を奉ずる人)」はまさに経部(サウトラーンティカ、スッタンティカ)でしょ
経部において涅槃は「非有非無」とする傍証になるかと
0425神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 06:52:19.49ID:QEIZOwjr
まあ、ブッダもウダーナで―それを仏語とするならば―、
(Ayatanaが) 「ある」(atthi) と言ってるしね・・。
0426神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 07:39:32.26ID:QEIZOwjr
これも昔からの持論だけど、(素朴実在論的謂いは一代に咎められたけどw)
仏教は、素朴に、「有るものは有る、無いものは無い」としているだけなんじゃねーかな、と。
重要なのは、或るソレが、「どのようにして」あるのか、じゃねーかな、と。
その在り様にフォーカスした際に、「これこれのようにしてある場合、それは仮に和合して・条件付いてあるだけ」、と。
たとえば、「そのような理(ことわり)はありません」というような言い回しだったり、
「涅槃が、解脱が、安楽が、或いは(法の獲得の)喜びや、或いは戒が、慈悲が、智慧が、『ある』」ことが否定されたりはしない。
  (※>>422は、まさに、このような謂いの中で「一切は有る(sarva-asti)」とされたのではなかろうか、というもの。)
まあ、それが、「世俗に於いて、言語に於いて、習慣に於いて言われる」、ということなのだろうけれど。

いずれにしても、外道の各説も含め、ブッダによって「ない」と言われる時、
言説として説示されて〔そのような説としては「ある」〕のに、どうして「ない」なのか。
そして、あるともないとも言われないのはどのような時か。

ちなみに、
「実体」とか「実有」という言い方は、(特に現代人にとっては)どうしても
「物として」(→見えるもの触リ得るもの)捉えられてしまって、「そのようにあるかどうか」が基準となりがちな気がする。
で、そうして点を踏まえた上で、アートマンなり真我なりを見た時、(特に神智学始めそっち系は)
「具体的人物、存在」として扱ってるよなぁ・・、と思う次第。
0427神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 07:52:33.67ID:QEIZOwjr
また、 atthi と bhavati も、別の語として使われ続けているということは、
そこにはやっぱり違いがあるからだろうし。
0429神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 09:18:09.65ID:AF2tKq7B
>>426
素朴じゃないところに踏み込んで空を振りかざしてしまったのが龍樹たんとその後続w
0430神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 09:27:23.85ID:AF2tKq7B
そんで、素朴じゃないところにアートマンを退避させてたつもりの
ヒンドゥ≒神智≒宝珠たんは、
素朴じゃないところに大切に保管していたアートマンを空で破壊されることになるから、
素朴じゃないところに物事を拡張するという点では同じ穴の狢なのに、
むしろ龍樹たんを嫌うわけw

素朴なところに話を限定することを「低レベル」として、そこを超えたことを扱うことに優越意識をもっている点では同罪なんだけどな

素朴なところへの話の限定は「敢えて」やっていることなのに、まあ仏陀を敬わない愚か者どもにはわかろうはずもない
0431神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 10:16:21.69ID:oRaB56ot
>>419
宝珠氏は 無為を法にして有為と並列してしまったのは説一切有部などの部派のした過失 みたいなことを書いてるけど
この説一切有部のニルヴァーナ論が一番宝珠氏が好きそうなニルヴァーナじゃね?
0432神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 11:25:26.66ID:QEIZOwjr
たぶん tad Ayatana 。>>428
片山さんもその分け方。

分け方は(実際にある単語や語形の組み合わせから)
tad Ayatana、tadA Ayatana、tadA yatana、くらいかと思うけど、
yatanaは努力(或いは着手すること取り組むこと)等の意味なので除外するとして、
ayatanaという語は無いのでyatanaの否定としても意味が通らないので、Ayatanaが残るかな、と。
で、tadAは、(まさに)その時、という意があるようだけれど副詞だし、
Ayatanaが中性名詞なのでtaの中性形tadがくっ付いてる、と見るのが自然かな、と。

ただ、 tad に関しては、
南伝大蔵経が「かかる(處)」、片山さん(ウェープッラ長老)が「このような(境地・涅槃)」と訳してるので、
「ta」を「このような」と読んでしまうよりは、
「etad」の語頭「e」が、前語bhikkaveから続いてしまうので略されたと見るものかもしれない。
(その場合は、一般的表記ルールではアポストロフィーを付けるらしいけど。)
真っ正直に訳せば「“そ”のようなAyatana」だから

(こういうことすると、また怒られやしないかとドキドキする・・・w)

補:(PTS辞書「Ayatana」)
1. stretch, extent, reach, compass, region;
sphere, locus, place, spot;
position, occasion
2. exertion, doing, working, practice, performance
0434神も仏も名無しさん
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2020/04/02(木) 14:53:14.42ID:X/LaEuGh
>>423
https://drive.google.com/file/d/1iQxOTwJvnq-C0qpdJsq933XdMx1_WM6x/view
43-46ページは参考になるか、と。
ちなみにここでは「虚空を無法と名づける」とありますw
まあ涅槃だけじゃなく虚空も無為法に入れてた部派も多かったですからね。


>>424
確かに経量部は三蔵の中でも経蔵に重きを置くという点で、(アビダルマ)論蔵に重きを置く他の部派との差別化はありますが、
経量部のパーリ語Suttavāda(スッタヴァーダ)の音写は僧迦蘭提迦で、修多羅(スッタの音写)とは異なるのがどうなんでしょうね?
個人的には、清弁が経量部の比丘たちを修多羅人と称したというあなたの説は大いにありだと思います。
0435神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 14:55:29.98ID:X/LaEuGh
【参考】
Wikipedia 涅槃のページより
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

解釈[編集]

涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり[8]、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。

部派仏教[編集]

部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている[8]。
部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある[8][注釈 4]。
有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す[8]。
無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す[8]。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である[8][注釈 5]。
説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた[8]。
また、説一切有部では涅槃は択滅(ちゃくめつ、梵: pratisaṃkhyānirodha、プラティサンキヤーニローダ)ともいい、五位七十五法の無為法の一つに数えられる[11][12]。
択滅は、正しい知恵による煩悩の止滅[13]を意味し、苦集滅道の四諦のうち「滅」のことをさす[14]。なお、「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと[15]。
説一切有部では、1つ1つの煩悩が断たれて、有情の相続がその煩悩の拘束から離繫する(離れる)ごとに、「択滅」という無為の法(ダルマ)が1つ1つ、その有情の相続に結びつけられ、涅槃となると考える[12]。
こうしてすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃(はつねはん)、すなわち完全な涅槃という[12]。


経量部では無為も識の反映?なので実体とはしなかったのでしょうかね!?
0436神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 15:19:13.15ID:vpsy3S1C
仏教のことで質問です。

「続日本記」中巻71ページです。
「はじめ出家した時、瑜伽師地論と唯識論を読んで即座にその意味を理解した。」
これを日本人が神通力を会得した記録として読めるかどうか知りたいのです。

行基はこの後、出世して、日本にやってきたインドの仏僧と会ってますね。
行基が勧進した東大寺大仏は、何か神通力と関わっているのでしょうか。

毘盧遮那仏造営の詔
 天平十五年、天を十二年で一周する木星が癸未に宿る十月十五日を以て、
菩薩の大願を発して毘盧遮那仏の金剛銅像を一体作ることとする。
国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙に広め、
これを朕の智識としよう。そして、最後には朕も衆生も皆同じように仏の功徳を蒙り、
共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。
 天下の富を所持するのは朕である。天下の権勢を所持するのも朕である。
この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、
その願いが成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、
この仕事の神聖な意義を感じることはできなくなり、あるいはそしりを生じて、
却って罪におちいることを恐れる。したがって、この事業に参加する者は心からなる至誠をもって、
それぞれが大きな福を招くように、毎日三度毘盧遮那仏を拝し、
自らがその思いをもって、それぞれ毘盧遮那仏に従うようにせよ。
もしさらに一枚の葉や一握りの土のようなわずかなものを捧げて、
この造物の仕事に協力したい者があれば、欲するままにそれを許そう。
国・郡などの役人はこの造物のために、人民の暮らしを侵しみだしたり、
無理に物資を取り立てたりすることがあってはならぬ。
国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ。
0437神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 15:44:02.85ID:QEIZOwjr
https://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/monier/
モニエルでも yatana は「 n. making effort or exertion 」だしなぁ・・。 >>433

水野辞書はyat(yatati)の派生で努力。
yamatiのpp「yata」(抑制せる・自制せる)というのはあるけど、
更に後に -na (pp)を付ける意味もわからないし、そもそも場所や地点、範囲範疇、段階等とは繋がらないし。

タイプミスか、連声の解きミスではないかと。
0439神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 20:45:43.64ID:X/LaEuGh
>>434 自己レス

一番上に貼ったリンク

有部アビダルマ文献における無為法の実有論証について

は↓のオリジナルサイトで見た方が見やすいですかね。
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&;item_id=37008&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1&page_id=28&block_id=31

経部上げ有部下げの論書、『成実論」の無為の解説は43〜46ページ。
0440神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/02(木) 20:57:51.38ID:X/LaEuGh
>>429
アビダルマの説く面倒な涅槃ではなく、現世涅槃(生死即涅槃)を説く龍樹はかなりシンプル。

無分別・無戯論・無相が龍樹の涅槃。空は素朴。

素朴じゃないのは法を七十五(有部)とか百(唯識)とか百七十(現テーラワーダ )に分別して有為法無為法を立てて、
更に刹那滅などの理論を立てて涅槃を含む一切を説明しようとする部派仏教ですが、別にそれも悪いわけでも何でもないと思います。
0441神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 01:43:35.32ID:FeBMwfbl
「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)
漢訳:雑阿含経(一二六五)(『大正蔵』二、三四六中〜三四七中)。

より

13 「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。
ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。
というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/vakkali.html

また

「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る(中阿含経)」

これらの言葉から根本の法とは演技であり仏(如来)の本性も縁起であります。

中論二四章
一八 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

仏が空性である、なぜなら仏の本性は縁起だから。

ということになります。
言葉遊びが入っているのは認めますw
(言葉遊びをしているのはもちろん仏や龍樹ではなく、それらの言葉で無理矢理理論展開している私です、念のため)
0442宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/03(金) 03:23:29.26ID:vpD8hrvQ
>>408
>輪廻生死するこの世と違う別な場所に行ったわけでもなく、あいかわらずこの世に留まっていますが、もう苦厄から度してはいる。
>つまり悟りの目から見ればこの世がニルヴァーナということになります。

そんなことは判ってること。
だから、涅槃とは(どこか別の)場所のことではないとこの私はいってる。
それはつまり、“意識(自己意識)の状態の変性”だということに他ならないから。
ニューエージ系ならば、今いるこの場この世界がそのまま不二同一にして多次元世界であるという表現をとる。

>一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

だからといって...このように結んでしまうと、
「本来の我々はすでに悟っているから修行は無用なんだ」という勘違いのアホ仏教徒たちを輩出するだけでしかない。
クリスチャンサイエンス派なんかもそういうアホ視点に向かったものだ。
「病気というものは実在しない。病気を実在と思うから病気になる...」などといって
彼らは医療を受けることを否定する。当然その結果、彼らは病気で死んでいくこととなる
〜まっ、そういうアホで恐ろしいカルトですよ。

しいてあげれば『中論』の良き点とは、
現象界のすべてが空であると知的に理解することで無執着になることを助ける意味合いが一割程度あるくらいで、
残りの九割についてはほぼ、単なる勘違い仏教徒を輩出するだけの弊害しかもたらさないものだ。
そして、更いえば『中論』愛読者には「自分はこんなに凄いものを読み、そして、それを理解してるんだぞ!」
といった慢心を増長させている輩が多いように思う(あなたのことという意味ではない)。
つまるところ、仏典があれば『中論』など要らない。

>>409
要するにこれらは、自分で創り上げた概念でしかないアートマン【我の施設】や
感受作用といった誤認(アートマンではないものをアートマンと思い込むこと)
【我に関する誤認】についての戒めでしょう。
実際、そういう者ばかりがアートマンを体験したと語るバラモン行者らの実態だからです。
0443宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/03(金) 03:49:27.03ID:vpD8hrvQ
>>441
>法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから

これは単に、
“ブッダは真理(法)の体現者である”といっているまでのこと。

>「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る(中阿含経)」
>これらの言葉から根本の法とは演技であり仏(如来)の本性も縁起であります。

仏教でいう法とは、一切法(一切に関する法則と教え)のことであり、
当然、この現象界の性質に関するものです。だから、そこでは縁起が説かれる。
涅槃とは縁起しない領域です(『ウダーナ』参照)。その涅槃に住する如来が縁起性のものの筈がない。
涅槃を無為法というから悪い。単に「無為」という方が勘違いを起こさないでしょう。
そもそも「諸法」を、もろもろすべての法則かのように解するから、有為法+無為法なんだと勘違いして見てしまうのです。
水野氏の解説の通り、これは第四の意味合いでの「法」(もの)であって、単に「もろもろの無我性の“もの”」ということでしかない。
その「もろもろの無我性のもの」とは、つまり、現象界における一切(一切法)と同一の意味のことです。
そこには当然、無為である涅槃は含まれない。
なので当然、一切(縁起する世界)からの解脱が涅槃なのです。
つまり、縁起していないのが涅槃ということになる。
0444宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/03(金) 03:53:23.46ID:vpD8hrvQ
>>414
>余計な思想を暴走展開する大乗の徒と同じことを
>神智学の徒、宝珠がやっているんだけどね
>低次の我に対して高次の我とかどうとかw

お〜〜、それは申し訳なかったねェm(__)m

だったら...、
仏典において示されているのは煩悩塗れの世俗の自己(涅槃において寂滅する意識)と
求めるべき本来の真実の自己(涅槃における如来の意識状態)の“二つの自己”>>328
があることくらいは、この私からいちいち言われなくても理解しておくよう... 
あなたからも 〜〜平均的な仏教徒諸君らに言ってくれ!!!〜〜
ならば、私から態々“低次高次”などと指摘するまでもないことだ。

克服すべき煩悩塗れの世俗の自己については日本人で知らない者はいないでしょう。
煩悩について説くのが仏教なのだから、そんなもん当たり前の話だ。
問題は、本来の真実の自己、達成すべき目標である理想の自己(完成者の自己)について>>329
これを自性清浄心/心性本浄説(パーリ増支部1-6)と合わせて理解すべきだということ。
(自性清浄心のことを反仏教だの、後代の付加混入だのいう意見の愚かさを再確認すべき)
0445宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/03(金) 03:56:57.75ID:vpD8hrvQ
〜で、それで...
涅槃(ニルヴァーナ)とは何かは分かりましたか?
皆さんの意見は一つに纏まったのかな???

「ブッダの教えが何であったか」を見失った...と、
この私は現代仏教について批判してきたのだけれども、
そんなにもアレコレやらないとすぐ分からないものなのかねぇ...。
まっ、再確認と深い思索は良いことだろうとは思うけど!

>>431みたいなことをいってくる人もいるけれども、
もしも、しいて言うとしたならば『説一切有部』の説く
「法体恒有」“法それ自体が自性を持ち恒常にして実体としてあるもの”
が、涅槃(ニルヴァーナ)を意味するものとしては近いかもしれません。

尚、あくまでも自己の意識の状態を指すのが涅槃であり、意識そのものではない。
そして、涅槃を覚知している意識そのものがアートマンに他ならない。
オマケとして、未だ混乱している七セブンのために親切にいっておくと、
涅槃に達したブッダの五蘊(肉体とその作用すべてを含め)はすでに如来の変性を遂げたものだ。
それまでの煩悩と不浄に塗れた五蘊ではなくて、アートマンの手足として相応しい装備(清浄にして光り輝く五蘊)として生まれ変わったもの。
優れた霊視能力を持つ者が見れば、五蘊が光そのものと化して輝く巨大なオーラ(霊光)を放つ姿が確認される筈。
0447神も仏も名無しさん
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2020/04/03(金) 07:59:53.28ID:oW25I11p
余談:
仮に、

 「涅槃」が >無為 で 、>一切(縁起する世界)からの解脱 した、
 >縁起しない領域で あり、>「もろもろの無我性のもの」(>現象界における一切(一切法)>でなく(>>443)、
 >“意識(自己意識)の状態の変性”であり(>>442)、
 >意識そのもので なく、>自己の意識の状態を指す もの(>>445

ならば、
>>445で言われるようにソレを覚知するということは、『ソレとは別に「意識(アートマン)なるもの」がある』
ということになる(>涅槃を覚知している意識そのものがアートマンに他ならない。)が、
それでいいのか?
つまり、『>涅槃を覚知している意識そのもの』(即ちアートマン)は、
有為なるものであり、>現象界における一切(一切法) の中にあるもの
となるが? (なぜなら、涅槃が唯一「無為なるもの」であると、貴方自身が説いているから。)
とするならば、いよいよもって、従前の梵我一如に酷似してくるのではないか?

場所ではない、意識状態である涅槃を知覚する意識は有為か無為か。
五蘊の識と同か異か。


「意識状態」(と表現せざるを得ないのかもしれないが)と言うならば、
まさに、そのような状態が顕れている「意識」が、存在することになるわけで。
(ブッダ45年間もそうですがw)
だから、貴方が強く述べ続けなければならないのは
「涅槃」(の在り様)ではなく、「意識、真我、アートマン」(の在り様)についてなのです。
(涅槃の在り様については、実は他の人と貴方とでそれほどの相違はないのですよw)
0448神も仏も名無しさん
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2020/04/03(金) 09:25:36.96ID:FeBMwfbl
中村元『龍樹』より
https://i.imgur.com/OZQRLPz.jpg

真如、後の大乗の諸法実相が無為であるが、それは有部(などの部派仏教)が説くような無為法と呼ばれるような有為とは全く別なものではなかった。
また空は「諸法の究極の相」であるから空即涅槃である。

と説明されています。中村先生が。
0449神も仏も名無しさん
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2020/04/03(金) 09:37:23.75ID:FeBMwfbl
小部ウダーナ バーヒヤ経


「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。
聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。
考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。
識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。

実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。
識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
 バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/bahiya.html


諸法実相(あらゆる事物・現象がそのまま真実の姿であるということ。)こそが苦の滅であり涅槃である、ということじゃないですかね。

ちなみに私達は五蘊や六根に自我、先入観、潜在意識(末那識や阿頼耶識など)の覆いがあるために諸法実相を知見できません。
その覆いを外すことができたら苦の終わりとされます。
そして、そのようにしなさいとブッダはバーヒヤに説いたのがこの経と思われます。
0450神も仏も名無しさん
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2020/04/03(金) 11:51:49.35ID:oW25I11p
>>436
シンプルな答えとしては、言えない。「読めない」。
単に「内容を理解した」ってだけの記述だから。
ただ、人物記、伝記等として見るなら、
言外の意味を持たせることは多いので、
例えば、悟りと神通がセットなら
仏典を読む→理解する→悟る→神通を得る
という流れを、そこに盛り込んで読解することもできるので、
そのような読み方が必要な場面、状況なら「読める」。

大仏さんは、疫病鎮静の祈願の為じゃなかった?
神通力関係ないと思うけど。
0451神も仏も名無しさん
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2020/04/03(金) 12:32:20.32ID:FeBMwfbl
>>402
>涅槃は空ではないし、当然、涅槃に住する如来も空であることなどはあり得ません。

いいえ、如来は空性に到達して住するのですよ。

さらにまた、アーナンダよ、比丘は、無所有処想を作意せず、非想非非想処想を作意せず、無相の三昧(禅定)による単一性を作意します。彼の心は無相の三昧に跳入し、浄信し、確立し、志向します。
彼はこのように了知します。
『この無相の三昧もまた、為作され、思念されたものである。しかるに、およそ何であれ為作され、思念されたもの、それは無常の、滅尽の性質あるものである』と了知します。
そのように知り、そのように見るものには、欲の漏から心が解脱し、また有の漏から心が解脱し、また無明の漏から心が解脱し、解脱したときに『解脱した』という智が生じます。
『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と知るのです。

かく、およそそこに存在しないもの、それを、それゆえに空と見なし、またおよそそこに残存しているもの、それを『これは存在している』と了知します。
アーナンダよ、このように、彼にこの如実な、不顛倒の、清浄の、最上にして無上の空性の顕現が起こるのです。
アーナンダよ、およそ誰であれ、過去の時の沙門あるいは婆羅門で、清浄の、最上にして無上の空性を具足して住した者たち。彼らはみな、まさにこの清浄の、最上にして無上の空性に達して住したのです。
アーナンダよ、およそ誰であれ、未来の時の沙門あるいは婆羅門で、清浄の、最上にして無上の空性を具足して住するであろう者たち。彼らもみな、まさにこの清浄の、最上にして無上の空性に達して住することでしょう。
アーナンダよ、およそ誰であれ、いまの沙門あるいは婆羅門で、清浄の、最上にして無上の空性を具足して住している者たち。彼らもみな、まさにこの清浄の、最上にして無上の空性に達して住しています。
それゆえここにアーナンダよ、『私は清浄の、最上にして無上の空性に達して住しよう』と、アーナンダよ、あなたがたはそのように学ぶべきです」
世尊はこう仰った。心に適った尊者アーナンダは、世尊の所説へ歓喜した。
(中部 空小経)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c01.htm
0452神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 12:36:32.83ID:FeBMwfbl
>>451 続き

アーナンダよ、私は、およそ雑染の、歓喜の色でありながら、そこに変易・変異ゆえの愁非苦憂悩が生じない、そのような色(身体)を一つも見出しません。
しかるにアーナンダよ、この住法が、如来によって現等覚されています。あらゆる相の不作意により、内なるものについて空性に達して住することが。
(中部 空大経)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c02.htm


「つねによく気をつけ、
自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
(スッタニパータ 1119)
https://76263383.at.webry.info/201512/article_9.html


如来は五蘊から解き放たれているというブッダの言葉はありますが、如来は名色の上でも常住であるなどという言葉はないと思います。
大般涅槃経にはブッダのは体が痛いのを正念、禅定などで(必死に)堪えていることが書いてあります。
0453神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 12:41:21.46ID:FeBMwfbl
>>413
>あなたは般若心経を上げて>>383、“空は色に限定される”ことを認めたんじゃないのか?

色即是空空即是色で一つの熟語なのであって、
受想行識。亦復如是。や五蘊皆空を入れると無粋になるので入れなかった、ただそれだけですよ。
0454神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 12:43:43.03ID:FeBMwfbl
>>442
>>409
>要するにこれらは、自分で創り上げた概念でしかないアートマン【我の施設】や
>感受作用といった誤認(アートマンではないものをアートマンと思い込むこと)
>【我に関する誤認】についての戒めでしょう。
>実際、そういう者ばかりがアートマンを体験したと語るバラモン行者らの実態だからです。

この感想も私とは違うのですが、それは後で書かせて頂きたいと思います。
(私の感想の方が正しいというわけでもありませんが)
0455神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 14:10:10.91ID:oW25I11p
余談2:
また、
『 >涅槃に達した >五蘊(肉体とその作用 は >変性を遂げたもの』(>>445
「変性した五蘊」とは、いったいぜんたいどういうことか(ものか)?
一瞬一瞬、因により縁により転変し続ける五蘊が変性するとは、いかなる理(ことわり)であろうか。

また、
『 >それまでの煩悩と不浄に塗れた五蘊 』(>>445)であるならば、『そうでない五蘊』があり得るが、
(実際、その視線の取り方は正しいと思うがw)それが、
『>清浄にして光り輝く』ものへと『変じる』(>>445)とはいかなる理(ことわり)であろうか。
 *常に因により縁により変じ続ける五蘊なれば、
  寧ろ、「煩悩と不浄に染まっていない、或いは汚れを落とし得た(状態のもの)」という、
  ただそれだけで良さそうなものだがw。
  さらにそこから輝きを発すとは、いかなる道理があり得るだろうか。
  別段耀く必要なぞ無い。まさに白紙の状態の五蘊と見ればいいし、それを「耀ける」と表現することはあっていいけれど。
  (増支部の例の部分は、心について、まさにそのように説いていると見るべきなのです。)

また、
別に「オーラ(霊光)」が見えても構わないし、悟った者の肉体に神々しさがまとわれていてもいいけれど、
それと、永遠なる真我・アートマンが『存在』することとは、まったく別の話。
0456神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 15:00:11.84ID:FeBMwfbl
>>448
>真如、後の大乗の諸法実相が無為であるが、それは有部(などの部派仏教)が説くような無為法と呼ばれるような有為とは全く別なものではなかった。
>また空は「諸法の究極の相」であるから空即涅槃である。

最初期の仏教では真如(後の大乗の諸法実相とほぼ同じ)は無為であるが、それは有部(などの部派仏教)が説く、有為法とは全く別な法、無為法と呼ばれる法ではなかった。
また空は「諸法の究極の相」であるから空即涅槃であるといいうるであろう。

に訂正
0457神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 18:30:20.16ID:XYcc9nsR
>>440
輪廻即涅槃ってシンプルかな?
輪廻と涅槃は差異がないって中論読んでもまったく意味が分からなかったんだけど
0458神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 18:32:22.42ID:XYcc9nsR
龍樹の輪廻即涅槃って大乗経典に書いてあることのそのまま引き写しで現法涅槃のことじゃないでしょ
あれ単なる不二論でまったく意味が分からないんだけれど
0459神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/03(金) 22:00:54.54ID:FeBMwfbl
大乗仏教の生死即涅槃は維摩経あたりがルーツでそれを理論面で完成させたのが龍樹ということになりますかね。
ですから大乗仏教の生死即涅槃が分かれば龍樹の輪廻即涅槃も簡単に分かると思いますが。

ちなみに生死には輪廻とか迷いとかの意味があります。
0460神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 01:18:33.60ID:gzggTGYe
色即是空、つまり物質は空であるとする仏教は当然「唯物論」ではありません。
では何かと言えば、名称(概念)があって実体はないとする「唯名論」であると言えるのではないでしょうか?


相応部経典 1.有偈篇 1.諸天相応 3章.剣の章 阿羅漢経
に唯名論を実に分かりやすく見ることが出来ると思います。


〔神霊曰く〕「♪比丘が阿羅漢へ至った者となり、♪漏尽者にして最後身の保持者となったならば、♪彼は『私は言う』と言い得るのであろうか。
♪また彼は『彼らは私へ言う』と言い得るのであろうか。」

〔世尊曰く〕「♪比丘が阿羅漢へ至った者となり、♪漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、♪彼は『私は言う』と言い得る。
♪また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。
♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」

〔神霊曰く〕「♪比丘が阿羅漢へ至った者となり、♪漏尽者にして最後身の保持者となったならば、♪いったい、その比丘が、慢へ近づいて、♪彼が『私は言う』と言うことはあるのだろうか
♪また彼が『彼らは私へ言う』と言うことはあるのだろうか。」

〔世尊曰く〕「♪慢を捨断した者には諸々の繋縛が存在しない。♪彼の慢と繋縛は、完全に滅んでいる。♪かの賢者は思量を超えた者である。
♪〔我ありとの慢からではなく、あくまでそのような者として〕彼は『私は言う』と言う。
♪また彼は『彼らは私へ言う』と言う。
♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説するのである」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c25.files/sheet001.htm

ここではブッダはかなり勝義的な説明をしていると言えるとも思いますね。
0463神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 08:44:42.12ID:yP7DbbGx
まあヒンドゥの方が大乗をパクったのか、歴史的な先後はどちらなのかは知らんけど、
どの道仏教から逸脱した外道思想である事には違いがない
0464神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 09:00:25.83ID:HhCxUR7q
けど、(中観的謂いをすれば)
一切が仮なるもの―縁起性―の中、
我々は、ただ「名前」と「見かけ」(触感等含)によって、それを「実なるもの」と見ている、
とするなら、まさに「名前」があるから存在する、という見方もできないこともない。
昭和天皇だか誰だったかは、「雑草という草はない」と言ったとか言わないとか。
また、この世には、名前がついていない(つまり、まだ人類によって発見されていない)生物もいるだろうし、
名称と存在とは決していこーるではないけれども、
けど、名前があることによって、われわれは安心することができる。
今回の「未知」のウィルスも、調べてコロナ種でSARSの近縁ということが「判って」初めて、
少し安心するし対応が取り易くもなる。
名前がついてないと、得体のしれない恐ろしさを感じてしまう生き物なのでしょう、ヒトは。
そのようなヒト種の錯誤を仏教的に言うなら、まさに、
「ソレは真実には存在しない。ただ名前のみがあるのである」という説示は有り得ちゃうかと。
ウルトラマンや仮面ライダー、スパゲティモンスター、そして真我、アートマン等・・・。
0465神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 09:04:58.49ID:HhCxUR7q
そして、仏教で「ある」と言われるのが、
五蘊十二処十八界と涅槃(或いは各禅定の段階的境地)だ、と。

で、その辺りを突き詰めていくと、唯識になってったりするのかな・・、と。
0466神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 09:52:37.97ID:gzggTGYe
>>461
大乗以前から>>460の相応部経典や同じく相応部の

「<生けるもの>はただ諸々の形成されたものの集合である。
ここに<生けるもの>は認められない。
譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という
名称が起こるように、
それと同じく、五つの構成要素(五蘊(ゴウン))が
存在するのに対して<生けるもの>という仮りの想いが起こるのである。
実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。
苦しみのほかには、なにものも生起しない。
苦しみのほかには、なにものも滅びない。」
(『サンユッタ・ニカーヤ』第五篇第十節『ヴァジラー尼』)

また長部布咤波樓経(ポッタパーダ経)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&;id=77431690

そして有名な「ミリンダ王の問い」の
「「大王よ、私はナーガセーナとして知られています。比丘衆は私をナーガセーナと呼んでいます。しかしながら大王よ、これは名前に過ぎず、そこに人格的主体は存在しないのです」

これらが唯名論の分かりやすい例ですかね。

但し「ミリンダ王の問い」のナーガセーナは、もし説一切有部やそれに類似した思想を持つ部派の僧侶でしたら、最後には私を構成している実有の法、そして色法を構成する極微が残るということになるかもしれません。

ヴェーダーンタの唯名論の場合はマーヤを創り出しているブラフマンが残ります。
0467神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 10:05:42.76ID:gzggTGYe
>>457-458
このベストアンサーの方のようなアプローチ方での生死即涅槃もありました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1024841455
(スッタニパータと龍樹の涅槃論の共通性を切り口とされています)

まあどの道結論は、現世を遠く離れた場所にニルヴァーナ という境地があるわけではないで同じですけどね。

〈修証義第一章 総序の第一節〉
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし。是時初めて生死を離るる分あり。唯一大事因縁と究尽すべし。

(現代語訳)
生とは何かを明らかにし、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として最大の課題である。
生死の中に仏のさとりがあれば、生死は無くなる。
ただ、生死がつまりは涅槃だと心得、生死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。
この時、初めて生死を離れ自由自在となるが、これこそが、まさに仏教徒としてこの世界に生を受けた最大の課題だと究め尽くすべきだ。
0468神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 10:51:20.62ID:w9/HQdCt
>>466
「唯」名じゃないだろ、五蘊があるだろ
そこが唯名まで暴走するのが大乗の徒とかヒンドゥとか神智
0469神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 11:12:01.44ID:crzgTR/Y
>>467
>結論は、現世を遠く離れた場所にニルヴァーナ という境地があるわけではないで同じですけどね。

いや輪廻(サンサーラ)って現世って意味じゃないでしょ
0470神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 12:07:58.64ID:HhCxUR7q
それは
このシリーズ(転生スレ等)の発端と言ってもいい、また、現代仏教学の色調にも影響している
案件w   >(日本語)輪廻、及び(インド語)サンサーラの定義
0471ちなみに
垢版 |
2020/04/04(土) 12:46:22.70ID:HhCxUR7q
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1226102674/
1 神も仏も名無しさん ▼ 2008/11/08(土) 09:04:34 ID:x1EPflHm [1回目]
---論題---
 業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か
  http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_02_04.html
 死後の世界や輪廻転生の邪説を厳しく批判
  http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/04_11_25.html

仏陀から約2500年を経たが、
現代においてもまだ見解が二分しているこの問題。
もう、そろそろ決着をつけませんか? 
子供たちに教える場合にも困るので、仏陀は説いたのかそれとも説かなかったのか?
肯定派と否定派、両者からの屈託のない活発なご意見を是非、宜しくお願いします。
決着の暁には見解を誤っていた側は、
男らしく女らしく、スッキリとこれまでの姿勢について清く改めましょう!

*仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの引用と解説は特に歓迎します。


2 神も仏も名無しさん ▼ 2008/11/08(土) 10:19:51 ID:x1EPflHm [2回目]
-----簡単ルール-----
投稿者はまず、
 「肯定派」か「否定派」のどちら側であるかを明記して、それから内容に入りましょう!


近い将来、
このスレが佛教大学及び各宗派で用いられる参考資料としての扱いを受け、
日本仏教界を揺るがすほどの良スレへと成長するよう期待しますw
投稿は簡単な感想意見でも構いません。
参考文献、及び参考ウェブサイトの紹介も歓迎します!

尚、私自身は肯定派です!
0473神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 14:52:57.08ID:HhCxUR7q
たとえば、(このシリーズスレでもしょっちゅう出てくる)「唯物論」という言い方。
胸を張って、自身は「唯物論」を世界観とする!と断じ切る人も世の中に居るだろうが、
そういう人でも、愛や友情、喜び悲しみ等が無い、とまで言い切る人は少ないだろう。
「唯○○論」と一口に言っても、その範囲は結構広い。

唯識と言ったり一切唯心造と言ったりしたときも、必ずこう反論が出る。
目の前にリンゴがあるじゃないか、触れ嗅ぎ、味わい得るじゃないか、
どうしてこれを「無い」と言ってしまえるのか?と。
もし、唯識唯心と言うならば、
電車なぞ存在しない、身体なぞ存在しない、
と唱えながら踏切に飛び込んでみるがいい、と。
0474神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 14:56:35.41ID:HhCxUR7q
補:
もし本当に唯物でいくと、愛や友情という物質があるのかもしれない?w
重力に重力子を仮設するように・・。


補2
で、このとき、「三世に跨って継承される何か」は、「どのようにして」「ある」のだろうか、と。
0475神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 15:01:53.34ID:HhCxUR7q
補3:
また、もし、我々が「感覚器官への入力」と「その情報の伝達」によって外界を認識するものなれば、
それらすべてがバグでないことを、映画マトリクスのように水槽に浮かんで見ている夢でないことを、
いったい誰が、自身で証明し得るだろうか。

その意味で行けば、実は我々は、本当の世界を知ってはいないし、
もしかしたら知ることもできないのかもしれない。
0476神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 15:05:32.88ID:HhCxUR7q
補4:
で、(業報論に於ける「公平性・応報の期待」同様)
この不確かさへの不安解消策として、(永遠なる)「真我」が設定(・・・要請)されていく、と。
0477神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/04(土) 15:20:11.77ID:gzggTGYe
>>469

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する(輪廻する)状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530374

(↓上記の解説、説明として分かりやすい)
https://i.imgur.com/Dd059Qk.jpg
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no25
0478神も仏も名無しさん
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2020/04/04(土) 19:53:03.01ID:E9lBZRKO
>>472
皆空⇔唯名になるのが大乗の思考回路なの?
唯名だと「五蘊が無い」事になるんだけど、それだと空と違うでしょ
0479神も仏も名無しさん
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2020/04/04(土) 21:13:43.81ID:gzggTGYe
>>478
相応部経典は大乗経典(大乗仏教成立後の経典)ではありませんよ。

あと唯名だと「〜は無い」ではなく「〜という概念(名前)には実体は無い」になります。
0481神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 09:25:31.10ID:lfZGJbsM
>>479
相応部のことくらい知ってるわなw
その記述内容に対する解釈の仕方が大乗特有の空思想の暴走だっつってんの
0482神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 09:39:10.32ID:lfZGJbsM
あと例えば「唯物」って言うとこの世には物のみがあって実体がないって言う意味で一般通念として使われてるわけ?

唯物論≒断滅論で、物質的に死ねば、例えば極悪犯罪者の植松聖でも綺麗さっぱりこの世を去れる、という系の考え

対してそれから考えると「唯名論」と言っちゃうと、今度は「名」だけがドミナントな物事、物質的肉体は滅びても、精神的な作用はそれに依存せず、むしろ名によってこの客観世界の物質的な成滅が支配されてる、という系の考えに付するべきラベルだと思うんだけどね
そうなるとヒンドゥのマーヤー思想みたいなもんでしょ
0483神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 09:44:41.80ID:lfZGJbsM
まあ、米欧でインド系のインテリの存在感も強まってきているからか、
マーヤー思想の現代化されたみたいなシミュレーション仮説とか出てきたりもしてるけどね

そこまで行くと、仏教セクト内では、大乗に特有の「空による大風呂敷」が比肩すると思うよ
0484神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 09:47:47.82ID:lfZGJbsM
大乗以前の初期の仏教像の釈尊なら「毒矢の喩え」で嗜められて終わりだろうw
0485神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 09:53:50.36ID:lfZGJbsM
唯空論とでも言うべき暴走に釈尊は何とおっしゃるだろうかと
0486神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 10:02:48.42ID:lfZGJbsM
>>480
> 五蘊には実体はないとブッダが説いています。

実体がない「と知る」と説いてるんだよね
0487宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:19:43.66ID:zWwbqjoP
>>447
>(即ちアートマン)は、
>有為なるものであり、>現象界における一切(一切法) の中にあるもの
>となるが?

いや.全然そうとはなりませんよ。
「有為」が涅槃を覚知できるわけがないでしょうが!!!
いちいち言われなくても“アートマンは無為”に決まってるわ。

事例...
 『〔それは〕全体であり、一切に遍満し、寂静であり、汚れなく、虚空のように安定し、
部分をもたず、行為をもたず、一切であり、常住であり、二元対立を越えている、〔と知るべきである〕。』
(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』T,15.37)
 『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(『同著』T,14.35)

アートマン(であり、かつブラフマン)の持つ基本属性とは、
“不生不滅にして永劫恒常”、“完全なる清浄性”と“完全なる善意識”、
そして、当然ながら“非物質性”であるということ。

一体、仏教の説く涅槃と何がどう違う??
唯一の違いとしてはだ、それは覚知される境地と覚知する主体との差でしかない。
しかし、それは当然、覚知する主体がなければ(涅槃を)覚知できるわけがないのであり、
また、涅槃に達しなければ、当然、涅槃を覚知するわけもないこと。
ただ、それだけのことだ!!!
0488宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:21:26.29ID:zWwbqjoP
>だから、貴方が強く述べ続けなければならないのは
>「涅槃」(の在り様)ではなく、「意識、真我、アートマン」(の在り様)についてなのです。

アートマンがいかなるものかについて説くことはブッダの目的にはない。
(未完の者には決して)知覚できないものについてアレコレと説いたり、
アートマンについて論ずることはしない、というのがブッダの採る方針ですよ。
ブッダが具体的に説かれなかったものを、この私が仏典からアレコレ摘出できるわけがない。
ただ、この私がいってることは、「アートマンを勝手に“無い”ことにするな!」
(それはブッダの教えとしては完全なる間違いだから)といってるまでのことだ。
そして、それを理由にして、「ヒンドゥー含めその他すべてを有我論として馬鹿にする愚弄を止めよ!」ということと、
アートマンとも繋がる「目指すべき“真実の自己”というアプローチを忘れてはならない」ということ。
0489宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:22:19.41ID:zWwbqjoP
>>455
>「変性した五蘊」とは、いったいぜんたいどういうことか(ものか)?
> 一瞬一瞬、因により縁により転変し続ける五蘊が変性するとは、いかなる理(ことわり)であろうか。

仏典的には、よく整備(制御)された自己(五蘊としての自己)や
(欲望と執着を沈めて)浄化された自己として語られる程度ではないかと思う。
よく鍛え上げられ見事に磨かれた清らかな五蘊としての自己でしょう。
修行によってそれが可能となると(尚、神智学を学べば詳細を知ることができる)。

>さらにそこから輝きを発すとは、いかなる道理があり得るだろうか。

「五蘊が光り輝く」というから良くないのかもしれない...。
では、五蘊が浄化されて透明となることによって、
アートマンの持つ輝く光が(遮断されずに)そのまま放射されて見ることができる、という感じになるのかな?
心性本浄を説く経文『比丘たちよ、この心は光浄である』(パーリ増支部1,5)も、そのことと関係していると思われるし、
そして、五蘊との関係でいえばまさに『パーリ大涅槃経』に出てくるこれらの描写が最もそのこととは関係深いとみていいと思う。

 『アーナンダよ。そのとおりである。まことに二つの時において修行完成者の皮膚の色は、きよらかで、輝かしい。この二つの時とは
どれであるか? すなわち、アーナンダよ。修行完成者が無上のさとりを達した夜と、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入る夜とで
ある。アーナンダよ。この二つの時において、修行完成者の皮膚の色は、極めてきよらかで、輝かしい。』
(パーリ大涅槃経4,17-37)
0490宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:23:30.37ID:zWwbqjoP
>>473
>そういう人でも、愛や友情、喜び悲しみ等が無い、とまで言い切る人は少ないだろう。
>「唯○○論」と一口に言っても、その範囲は結構広い。

違います!
その意味とは、「愛や友情は物質とはいわないだろう?」ということではなくて、
このスレ上でこの私が使う際の「唯物論」の定義は完全に一つのものとして常に定まっていますよ!
要するに、人間というものは「肉体死の後には故人の意識のようなものは何も残っていない(継続しない)」という考え方のこと。
いわゆる死後の世界であるとか、死者の霊存在であるとか、地獄や極楽天国、
そして、前世来世/生まれ変わり転生現象...というものの完全否定のことです。
仏教では、これを「断滅論」(最低のものの考え方)と呼ぶのです。
唯物主義では、愛や友情、喜び悲しみ等についても、それらは脳神経科学ですべて説明が付くものと見なします。
脳神経科学においては、ある種の心霊超常現象ですらも脳内反応でそれらを見ているだけとします。
要するに、脳内科学物質による電気的科学反応とするので、当然、肉体が死によって無くなればそれでお終いです。
無知な彼らは、その科学論では説明のつかない事案については無視を決め付ける。

そしてまた、唯物論というものは宗教を(真実のものとしては)認めないということ。
何故ならば、「宗教」(仏教も宗教です)とは『神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事』(広辞苑)のことなので、
唯物論では、それらの神や超越的な絶対者などは存在しないとみなすものだからです。
0491宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:24:13.37ID:zWwbqjoP
>もし、唯識唯心と言うならば、
>電車なぞ存在しない、身体なぞ存在しない、
>と唱えながら踏切に飛び込んでみるがいい、と。

クリスチャン・サイレンス派の話とも同じことですが、
たとえ我々のこの心身が有為五蘊であろうと、無自性/空であろうと、或いはまた、幻影マーヤーであろうとも、
今の我々にとっては、まったくのリアル現実なんだということを絶対に忘れてはならないということ。

>>474
神智学的には、心や思考というのは物質の範疇です(物理学の定義ではなく)。

>>475
最近、「仮想現実」という言葉を投稿していく者がいるけれども、
アートマンを実現した際には、それまで体験してきたすべての物事が幻影マーヤーに過ぎなかったことを悟るといわれている。
もちろん仏教でも、ブッダの意識内では同じくそういうことになっているものと私も思う。
0492神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 11:24:52.05ID:so6vgZk3
すいません。「華厳経」と「金光明経」を読んだ在家なんですが、
誰か、その二つの経典について話ませんか。
0493宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:25:18.12ID:zWwbqjoP
>>448>>456
それは、つまり大乗(龍樹)の説かれたものはコレコレ...である、
ということをただ単に中村氏が説明して述べたものでしょう。

「諸法実相」というのは、諸々のすべての無我性のものについて、
つまり、“「縁起」の法則”それ自体は法性(法それ自体が持つ自性)である、ということを示す言葉です。
これを言い換えるならば、縁起の法それ自体は如来の出現する如何に関わらずそれ以前からある絶対的な法則であるから、
それはいわば「無為」ということでもある、ということをいっているのです
(ただし、「諸法実相」などというのも所詮は、漢訳仏教徒の手に拠る造語に過ぎないが...)。

しかしながら、“ブッダがいいもしなかったことを勝手に捻じ曲げて解釈をして”、
本来、一切(有為)の中にはなかった涅槃(無為)についてを、「有為法である縁起の法則そのものは無為だ」などといって、
“一切諸法とは、有為も無為もすべて含むものだとして涅槃をも入れてしまう”というやり方は、
つまり、絶対にやってはならない---詭弁!!---であるということ。

>>449
その経文はよく分からないけれども...

>ちなみに私達は五蘊や六根に自我、先入観、潜在意識(末那識や阿頼耶識など)の覆いがあるために諸法実相を知見できません。
>その覆いを外すことができたら苦の終わりとされます。

その理解については、同意しますよ!
0494宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:33:11.30ID:zWwbqjoP
>>451-452
それらの経文(空性に住すると)は、
現象界の一切(有為)が空性であることを(単なる知的理解などではなくて)完全に体感している状態のことを意味しているものと思われます。
我々は、教えを受けてそのこと(空)を理解することはできますが、無自性や非実在ということを体感することはできない。
けれども、そのこと(空性)を完全に体感できたのならば、それは完成者(仏)であるという意味でもある。
つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。
ただし、涅槃が空であるわけでも、如来そのものが空だということではないということ。
まっ、たったそれだけの違いでしかないけれども...しかし、ここがやはり重要でもあって、
ここで涅槃を空だとしてしまうと、「輪廻(現象界の性質である)とも違いの無い同じく空なんだ」ということになってしまう。
しかしそれだと、『ウダーナ』の教えに抵触することになる。
ブッダは、“有為と涅槃は異なる”から有為からの出離をそれとして覚知できるのだといっているのに、
その涅槃を勝手に同じく空としたのでは、当然、その違いがないのだから出離を覚知できないことになってしまう!

だから、龍樹『中論』の言葉、
>一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
は、絶対にしてはならないものだということなのです。

仏教徒らは結局のところ、ブッダの教えを摂るのか? それとも龍樹の方を摂るのか? を、ハッキリと決めなければならない。
石飛氏のように、「龍樹がブッダの教えの最大の理解者である」かのような評価は、私は間違っていると思う。

>大般涅槃経にはブッダのは体が痛いのを正念、禅定などで(必死に)堪えていることが書いてあります。

確かに、完成した如来であろうとも見た目上では我々同様に同じく病気もするし、怪我もする。痛みもあるし、やがて肉体死もやってくる...。
しかし、それでも完成者である如来は、如来自身にとっては何らの痛みも苦悩もなく、そして、死を体験することはもうないということ。
如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。
0495宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/05(日) 11:34:50.74ID:zWwbqjoP
>>453
了解。

要するに、「諸法」(五蘊・色および物質現象界のすべての物質と事象)が「空」であるということですが、
「空不異色」(空は色に異ならず)、「空即是色」(空は即ち是れ色なり)ともある通りで、
空は涅槃/涅槃は空などということにはならないし、もちろん、
そんなことはまったく何処にも述べられてはいない。
そのように解することもできない。

>>460
>我ありとの慢からではなく、あくまでそのような者として

これは、
所謂、(ウパニシャッドの)アートマンの有無についてアレコレ述べているのではなくて、
「あいつは我の固まりだ! 」、「我のはった奴だ! 」、「わたしは我を捨てる」...などとして使われるもののこと。
つまり、自分本位で自己主張の強い者を「我慢ガマン」できない奴だといい、
自分本位な自己主張を押さえることを“我慢する”という。
そのような慢心のない純粋な意味で「私は言う」と言ってるということでしょう。

しかし、もしもこれが私の読み違いだったならば、
可能性としてのもう一つの解釈としては、『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、
修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.T,3-5)
と、同一の意味合いでの経文だということになる。
つまり、アートマンを確立した者だからこそ、
そういう意味において「わたしは語る」と言っていいということ。
0497神も仏も名無しさん
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2020/04/05(日) 14:20:46.32ID:7ZB93Sc1
>>481
中村元先生によると一切を空と観るのは原始仏教からの習わしであり、
また仏説に背いてまで法の実有を主張したのが説一切有部(有部に限らず部派仏教で法有を主張した部派は多いと思いますが)であるそうです。
(但し説一切有部が法を実有とした理論・理由・理屈ももちろんちゃんとあります)
https://i.imgur.com/JMO0IOx.jpg
https://i.imgur.com/YISRu7u.jpg

>>482
物が実在する実体であるとするのが唯物論です。
言葉の定義はこちらを↓
https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96-144564/googleamp

成滅は生滅の変換ミス?
まああなたの理論は勝義諦と世俗諦を無視しているところがありません?
大乗でも小乗でも理論は異なりますが、どちらも世俗の常識を否定・無視するようなことはしてないですからね。

>>484
龍樹も毒矢の喩えで問われているようなことは、形而上の有無(有でも無でもないから中観)のことは戯論であるとして無記ですが。
暇があったら↓のpdfサイトをご覧になると良いと思います(URLが長過ぎてここに直貼りはできませんでした)
https://i.imgur.com/BLA2HEk.jpg
※検索する時は「中論 無記」で出ます。

>>485
唯空論?

七 もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。

八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9507743

空は存在するものではないので唯空論という言葉遣いは変です。
空に執着し空を実体視した空見を抱くなら、その人々を勝者は…(以下略)
0498神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 14:20:55.43ID:7ZB93Sc1
>>486
まあ意訳ですけどね。直訳は

Tassa taṃ passato nijjhāyato yoniso upaparikkhato rittakaññeva khāyati, tucchakaññeva khāyati, asārakaññeva khāyati.
見て、審慮し、如理に考察する彼にとって、それはただ空無なものに思われ、ただ空虚なものに思われ、ただ真髄なきものに思われます。

Kiñhi siyā, bhikkhave, rūpe sāro?
なぜなら比丘たちよ、どうして〈色〉に真髄(sāro核心・実体)がありましょうか。

まあしかし、意訳の方でも「実体はないと説いている」でも「実体はないと知ると説いている」でもどちらでも構わないと思いますけどね。
知るを入れないと何か困ることでもあるのでしょうか?
しかも、その直ぐ後に「どうして◯(五蘊の一つ一つが入る)に本質があろうぞ」と説いているのに。
0499神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 17:05:34.83ID:y7fttOG9
>>326
>しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
>うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。それを部派仏教では不生不
>滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教では説かない概念であって、仏教本
>来の立場を逸脱したものである。」(p145)
>(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

部派仏教でも経量部の涅槃論は水野説とほぼ同じか!?
https://i.imgur.com/6gtgNok.jpg
0500神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 19:52:52.59ID:Jf/v2/zj
>>477
それ解脱してるじゃん(=非輪廻)
輪廻=解脱してない迷いの状態と涅槃が等しいって言ってるんだよ中論は
0501神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 21:09:19.66ID:jiPt90OK
だからw

>>487
>覚知される境地と覚知する主体 ってのが、そもそも
ブッダの視線からすれば顛倒だ、ということなんだがな。
 *(また、百歩譲っても、
  そこには、まだ主客があるじゃない。一如になってないじゃない。
  どうなのよ?神智ヒンドゥとしてw


勝義で言えば「主体は居ない」(龍樹が言う通りに)。境地だけがそこにある。
ただ、所縁によって五蘊として生じている存在がある。(中観的謂いなら仮設として)
 (それは、宝珠だったりセブンだったり龍樹だったりブッダゴーサだったり、シッダッタだったり、
 教えを説き、或いは聞く、生けるものとして。)
その五蘊が涅槃を見る。(だから、如来の(再結集しない)五蘊拡散の後は無記と言われる。)
これで十分な筈なんですけどね。
0502神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 21:45:55.58ID:nnuTCWco
空、を理解できれば天才である。
バカには理解できない。大爆笑である。
0505神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 22:56:23.96ID:cpw3RnIN
>>494
> 仏教徒らは結局のところ、ブッダの教えを摂るのか? それとも龍樹の方を摂るのか? を、ハッキリと決めなければならない。

また偉そうなダブルスタンダードきたね

大乗仏教徒だけに言える話だよねその傲慢なセリフは

でまた話の都合が悪くなると今度は別のネタでテーラワーダ仏教徒(彼らは龍樹なんて何とも思ってない)への批難を引き出して偉そうにして自己正当化を図るんだろw
0506神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 23:01:43.20ID:D4EYb196
>>500
後半が顛倒から離れて解脱している状態
前半は顛倒の中にあり輪廻(これも概念ですが)している状態

どちらもこの世界での状態。
なので輪廻と涅槃には差別の相はありません。
違うのは凡夫と解脱者の世界観ということになります。

悟りの目から見れば「涅槃は有に非ず、無に非ず」、有でも無でもないものに分別はありません、故に輪廻とニルヴァーナには区別はありません。

※「中論」第一八章 アートマンの考察
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9529993

輪廻と涅槃は不二(あなたも最初に仰っていましたが)なので輪廻が滅すれば涅槃も滅します。
故に「涅槃の究極なるものはすなわち輪廻の究極である。」ということになります。

以上、龍樹によれば。
そして大乗仏教はこの観想を踏襲していきます。
0507神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 23:39:46.10ID:YvHfLDxG
>>494
>つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。

ではなくて、空小経でも空大経でも沙門、婆羅門、如来は空性に達して煩悩がなくなり不動を得るということです。
素直に経典を読めばそうなるはずですが。

また涅槃が空〜以下ですが、中論でも

五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。

六 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして【他のものに】依らずに存するであろうか
【しからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる】。何となればいかなる有も【他のものに】依らないでは存在しないからである。

一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。

とニルヴァーナは無為であることは当然認めて、そこから理論展開しています。
ニルヴァーナは有に非ずまた無にも非ず、という結論に向けて。

>如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。

これはドグマが過ぎますね。そうであって欲しいというお気持ちは分かりますが。
0508神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 23:42:00.02ID:YvHfLDxG
>>504
まああなたはマトリックスとかの仮想現実みたいな話が好きなのかもしれませんが、私はそういうのには興味はないので話がズレると感じるのかもしれませんね。
ひょっとしたら。
0509神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/05(日) 23:48:10.35ID:YvHfLDxG
>>499
「一切」が無為法を含むか否かに関しては、ドゥ・ラ・ヴァレ・プーサンやスチェルバツキーらの西洋の学者の間に論争が行われたが、
無為法を実有なる法とみなすか否かによって定まるのではなかろうか。
有部のように無為法という実体を認めるならば「一切」の中に含まれざるをえないのであると思う。
この見解は後世にも継承されている。
(中村元)
0510神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 00:05:04.24ID:U0MjZLM6
>>508
違います
流れから批判的に引き合いに出してる話を、俺自身のことに受け取られたりと色々とね
まあさほど重要じゃないので今無理に突き詰めなくてもいいんでw
0511神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 01:04:06.16ID:dAapStO1
>>394-398
さて、この「長部・大縁方便経」の要旨ですが、


我アートマンを設定する人、設定しない人ともに些細な理由からそうしているだけで、そういう意味ではどこかの経典を簡潔にまとめたサイトにあった

「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

は相当な意訳ですが、的は得ているとは思いますw

そして、我を認める者でも感受がなければ我を意識できない。
つまり、(少なくともこの経で挙げられている)我は感受がもたらす概念であり錯覚である。
それを知って執着を解いた比丘は輪廻から解脱する。
彼は世間に於ける名称(世俗諦)を概念と見極める智慧があり、故に彼は如来の死後(のような無記の部分)についての見解を抱いているとか答えないから知らないのだとかと妄想するのは適切ではない。


私のまとめではこうなります。
これが完全に正しいという主張はしませんがw

しかし、以上は大縁方便経の内容の1/3にも満たない程度ですが、それでも数行に纏めるのは私には無理でしたw
0512神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 02:03:10.13ID:dAapStO1
>>495

>>460
>〔世尊曰く〕「♪比丘が阿羅漢へ至った者となり、♪漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、♪彼は『私は言う』と言い得る。
>♪また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。
>♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」

この神に対する答えで大切なのは
>♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」
という箇所でしょう。
これも世俗諦としては「私は言う」と言ってもよい、阿羅漢はそれが世俗諦であるこことを知っているから、という教説になります。

参考までに
相応部 諸天相応 1.2.10 サミッディ
より

「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。
名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。
しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。
その人を汚して瑕瑾となるもの{煩悩}は、もはやその人には存在しない。 」
直訳は↓
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c20.htm

>しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。

私は言うの主体である私は世間の呼称、慣用語なのですが、その主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。

となります。
だからといってブッダは暗にアートマンを否定したとは言いませんが、これらの経典から
>つまり、アートマンを確立した者だからこそ、
>そういう意味において「わたしは語る」と言っていいということ。
とするのは無理があるんじゃないですかね?
0513神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 07:53:34.12ID:n4vyZA+C
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533070464/461
ああ、そうかw
中村註を根拠にして、やけに強気だと思ったら、そういうことか。
>【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。
>『雑阿含経』には「何言説有我」。
>わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51).
>「我所」(『雑阿含経』)。】  (中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)

頁数打ってある所をみると手元に持ってるんだと思うから、よーく確認しとけ。 >>宝珠
この註この一文が、いったいどの部分の註であるか、を。
註のアスタリスク(*)が、本文のどこに付けられているか。
0514宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/06(月) 10:16:27.51ID:OzKb7zxX
>>490
参考:

『哲学的唯物論(物質論)
philosophical materialism (physicalism)
 哲学的唯物論(物質論)は形而上学的視点である。宇宙には唯一物質 substance だけがあり、それは物理的なもので、経験的あるいは実
体的存在である、とする。唯物論者は、霊的(spiritual)存在は妄想であると信じている。超常現象や超自然現象、オカルト現象は妄想か、
あるいは物理的な力の作用に還元できるとする。
 唯物論者は必ずしも無神論者であるわけではなく、愛や正義、美や善といったことがらの実存を否定しているわけでもない。』
 https://www.genpaku.org/skepticj/materialism.html
 ↑
なかなかイイ感じの説明だと気に入りましたが、
確かに、唯物論者は「愛や正義、美や善を否定するというわけではない」のは正解であるけれども、
しかし唯物論者は、物質レベルを超えた超常的な存在や力や現象は完全否定なので、神を認めるということは絶対にあり得ない。
従って、100%無神論者の筈であるので、「必ずしも無神論者であるわけではなく」というのは完全なる間違いでしょう。
0515宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/06(月) 10:18:02.46ID:OzKb7zxX
 『輪廻の観念を受けて、苦しみからの解放は、この苦しみの生存からの離脱、すなわち輪廻から脱することであると考えられるようになる。
そして、悟りを表す表現は、次のように定型化された。
「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」
 ところで、何に生まれ変わるかを決定する原因が何であるかについては、ブッダ時代の一般社会において、さまざまに考えられていた。臨
終に際しての意志によるとの考え、あるいは神の意志によるとの考えもあったが、支配的な考えは、前世における業によるという考えであった。
 ブッダと同時代の自由思想家の中には、プーラナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように、業の因果応報を積極的に否定したものも
あった。彼らは善悪の行為が後に安楽と苦しみの果報をもたらすことはないと考えた。またマッカリ・ゴーサーラのように運命論を説く人もい
た。さらに、業の因果応報思想の中には、前世での行為(業)を宿命のようにみなす決定論的な考えもあった。現世での行いは、善であれ、悪
であれ、すべて前世の業によって規定されているというのである。この説によれば、意志の自発による行為は認められない。
 これらに対し、仏教やジャイナ教は、このような人間の行為の効力を認めない説を行為否定論(akiriyavaada, akriyaavaada)と呼び、道徳
を破壊する説として非難した。
 仏教は、「世尊は業論者、行為論者、努力論者であった」(Anguttara Nikaaya I p.287)として、業思想を容認しつつ、行為・努力に生存のあ
り方を変える効力を認める立場をとった。』
(野沢 正信作『インド思想史略説』前提となる世界観ーー輪廻・業)

・野沢 正信作『インド思想史略説』アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
  http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm
・茨田 通俊著『断滅論 (ucchedavada) について』
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_423/_pdf/-char/ja
・畑昌利 著『初期仏典における断滅論の諸相』
  https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/5095/mrp_036-033A.pdf
0516宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/06(月) 10:20:11.48ID:OzKb7zxX
>>501
>覚知される境地と覚知する主体 ってのが、そもそも
>---中略--- 一如になってないじゃない。

七セブン。あなたのいってることというのは、
「“ブラフマン”と“アートマン”の二つなのだから、全然それは<一如>になってないじゃないか!」
と、まるでヤクザがイチャモンつけてるのと同じですよ。
そうではなくて、これは「ブラフマンとアートマンの二つは一如なんだ」ということをいってるのです。
例えるならばそれは、海洋の大海であるブラフマンとその海水をコップで汲み取ったものがアートマンであるということ。
そして、それは体験すれば分かるのだと。

ものの見かたとしては、この場合でも同様であって、
「覚知される境地」と「覚知する主体」とは“二つで同時セット”です。
何故ならば、どちら一方が欠けては絶対に成立をしませんから。

あなたは、「五蘊が涅槃を見るで十分な筈」だといいますけれど、
五蘊というのは、すなわち「有為」のこと。
その有為によっては涅槃もアートマンも覚知できるわけがないでしょう。
そもそも、有為では覚知できないから説くことをしないのだから。

>>513
再確認しましたが、
わたしの側には特にミスはないと思いますが。

何か勘違いしてませんか?
0517宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/06(月) 10:22:45.53ID:OzKb7zxX
>>505
それは申し訳なかった...。
確かに、テーラワーダ側は大乗(龍樹含め)をまったく認めてないと思う(非仏説視)。

僧侶についてはよく分からないけれども信者信徒レベルでいえば、
日本の仏教徒には、大乗もテーラワーダも同様に学修している者は割と多いものだ、
という印象を受けていたもので、つい...。m(__)m
0518宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/06(月) 10:24:04.87ID:OzKb7zxX
>>506
>---中略--- 涅槃も滅します。

 『ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、
不滅のニルヴァーナの境地である。』(Sn.1086)
 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ウダーナヴァルガ26-29)

そのような勝手な話はブッダの教えと完全に反しますよ!
如何なる場合においても「不滅」で「没することのない」のが涅槃というものです。

>>507
涅槃は、「有」でも「無」でもないから「空」なんだというのは、まったく違うでしょう!
“現象界の物質と事象のすべて(すなわち「有為」)”は縁起している存在であり、
無自性なんだということをただ一言で「空」と呼ぶだけのことですよ。
であるのに、「有為」から解脱した涅槃(無為)の境地も同じ「空」のわけがない。
もし同じならば、解脱したという覚知は起きないことになる(それでは『ウダーナ』に反する)。
涅槃について説明している『ウダーナ』によれば、それは有為(縁起してる世界)とはまったく異なる縁起しない境地だと説く。
だからこそ、有為からの出離を覚知することになると。有為から出離した領域が涅槃です。
故に、涅槃というものは、つまるところ「有」でも「無」でも、そして「空」のいずれでもない。

まっ、仏教ではそういう言い方をしないが、
もしも、強いていうとしなならば、これこそが真実の「実有/恒有」だということ。

認めないのはあなたの自由ですから、
もう、あなたとは涅槃は空かどうかの話はこれで終わりとしたいものと思う。

>>511
有難うございましたm(__)m
0520神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 12:30:01.08ID:n4vyZA+C
>>516



中村さんの評は、ブッダの発言でなく、神(対論者(外道))の発言についてのものだということ。
つまり中村さんも、
『 >我(アートマン)が存在すると主張する議論 』が、
神によってブッダに対して投げ掛けられた、吹っ掛けられた、
と、この対話の場面について説明しているのさ。

もし、アスタリスクの打たれた場所が世尊の発言の箇所であったなら、
「ブッダは『 >我(アートマン)が存在すると主張 』した」と「中村さんが解していた」
と見做してもいいだろう。
だが、違う。他の中村岩波版を見ても、
アスタリスクの位置は、ちゃんと「その語」「その文」に対して置かれている筈だ。

試みにパラパラめくってみたら、すげー納得したw
宝珠君、誤読だよ(´∀`)b
0523神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 12:40:46.38ID:xB9CxtIL
>>520
まあ、過去の各種状況証拠から、
「結論先にありき」で、
アチコチから都合の良い証拠を文脈無視でスクラップして
つぎはぎだらけのフランケンシュタイン的なキメラを
「これが当の仏教徒が見失ってしまった本来の仏教像だ!」
という主張の仕方が
宝珠の実態だということは
バレバレなんだけどねw
0524神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 12:43:04.96ID:xB9CxtIL
ほとんど悪い意味での日本の検察司法制度の手口にも近しいと言うか
0525宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/06(月) 13:14:56.54ID:OzKb7zxX
>>520
絶句...(汗)。

アスタリスクが、
「神の側についていてブッダの言葉の側ではない」だって...?
いやいや、全然そういうことではないでしょうよ! 普通、常識的にみて。いや、どう見てもだwww

アスタリスクが神の側についているのは、
---ただ単に文章が「神いわく」の方が先にきているからですよ---
つまり、問題としてる『わたしが語る』と <わがもの>の二語は、まったく同じくそのまま次の後者「尊師いわく」で使われるわけです。
説明したい言葉が繰り返し同じく使われている場合においては、通常、最初に登場した箇所でアスタリスクが付くに決まってる。
繰り返し使われる際にはもう説明は無用だからですよ。すでに説明したのだから...。理由としては、ただそれだけのことです。
もし逆になっていて、先に「尊師いわく」で始まっていたならば、当然、こちらを先に註釈の対象にするでしょう。
当たり前の話ですよ。普通、その他のどんな書物の場合でもそうなっています!

一体、今までどんな風に書物を読んできたのか? 
理解に苦しみます...

そして、肝心の内容としては、
ブッダは神からのその発言を受けて、“それで良いとして是認している”わけです。
ブッダご自身が認めているのだから誰の文句も無用ですよ。
もし強いていうなれば、「ただし、それは言語表現として仮りにだよ!」と断りをいれてる、ということ。

* 夜勤なので、もう寝かせてくれ〜(苦笑)www
0526神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 14:33:56.39ID:qMayGCZV
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
(スッタニパータ)


九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来(輪廻)する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。

二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。(戯論が滅するが故に)いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
(中論)

どちらも現世涅槃で変わらないでんすけどねw

>>518
>如何なる場合においても「不滅」で「没することのない」のが涅槃というものです。

境地が抜けていますよ。
0527神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 14:58:25.57ID:n4vyZA+C
>>525
>繰り返し使われる際にはもう説明は無用だからですよ
うん。そうだね。
世尊の言葉は、しっかり本文の上で
「ただし、これこれの条件付きだけどね(´∀`)b」と
続いてるから再度註することは不要だね。

で、なぜ条件付きでなければならないかと言えば、
最初に神が言ったような意味ではないからであって、
もし、前言の通りであれば、
そのまま繰り返すか、更に補足を加えてブッダから述べ直される
のが仏典の通例。
で、ここで加えられているのは、
「釈子(≒阿羅漢)が“私”と発する時、それは、
 貴方(神)が言う意味(そこにアートマンが居るから)ではなく、
 日常生きる上で必要な呼称を用いているのです」
という但書。


>夜勤なので
この辺も古来から言われる通り、感官を護って、心を抑制する必要があるのだけど、
我等凡夫は、なかなかそれができないw(自嘲)

心がざわついてしまって、
どうしても「チェックしたくなってしまう」(自分の発言への反応、応答・回答が気になってしまう)けれど、
そこをぐっと堪えて、せめて〈明日にしよう〉と念を確立して住することができれば、
ブラウザを開くことなく、対論者の言葉を目にする必要もなく、心に波が立つこともない、と。
だから、夜とか寝る前とかは、
そのようにチェックしたくなる気持ちを抑えて布団に入りましょうw
0528神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 22:37:01.12ID:dAapStO1
>>495
>空は涅槃/涅槃は空などということにはならないし、もちろん、
>そんなことはまったく何処にも述べられてはいない。
>そのように解することもできない。

『「中論」第一八章 アートマンの考察』

五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
 ※ 中観派には<定説>というのがないのである。

七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。

『般若心経』

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

※空相とは不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。ということにらなります。

是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

※ニルヴァーナのごとくな空においては十二支縁起や四諦などのお釈迦様の教えもないのは筏の喩えという説があります。
そして空中では識別作用が止滅しているので無分別でもあります。

また
8.(8) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する――蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(8)

戯論は空において滅びます。
此岸と彼岸を捨棄するということは、解脱するということです。
0529神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 22:39:10.55ID:dAapStO1
>>528 続き

『ウダーナ バーヒヤの経』

比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。  
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

「しかして、そこにおいては、水と地と火と風が依って立つことなく、そこにおいて、星々は輝かず、日は輝かず、そこにおいて、月は輝かず、そこにおいて、闇は見い出されない。
しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の智慧〕によって、自己みずから知った、そのときは、しかして、形態(色)から〔解き放たれ〕、かつまた、形態なきもの(無色)から〔解き放たれ〕、楽苦〔の思い〕から解き放たれる」

バーヒヤさんが到達された完全なる涅槃は、法華経の仏国土や阿弥陀経の極楽浄土のような煌びやかな浄土ではなく、けっこう空っぽなようですよ。
0530神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/06(月) 23:23:25.80ID:L23K43xP
>>506
>輪廻が滅すれば涅槃も滅します。

中観でも「涅槃が滅する」とは言わんでしょうw
戯論が滅したら涅槃の如しとは言うけど
0531神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 00:33:17.03ID:FMEgex7b
>>530
中論第25章 20偈

 涅槃之實際  及與世間際 
 如是二際者  無毫釐差別
涅槃の実際と、世間の際と、
是の如き二際は、毫釐の差別無し

https://i.imgur.com/Hd5Hltu.jpg
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=45

https://i.imgur.com/r5y7U95.jpg
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=45

涅槃も世間(輪廻)も際は全く一緒なので尽きる時も同時。
ちなみにどちらも実有ではなく概念であって空という勝義に入れば無涅槃無輪廻になるというのが中観の思想でしょう。
0532神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 07:42:33.11ID:kJ1g2j0f
涅槃という「概念」輪廻という「概念」は実有ではないって当たり前ですよね
なんで勘違いさせるように書くのかほんと謎
0533神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 07:58:40.36ID:frOo+9A4
古代インドの人々にとって、
輪廻は現実であり、リアルであり、恐れ回避すべき「現状」(或いは未来の現実)
だったわけで、
その文脈、使われ方の上に説示がされていくのは、致し方ないかと。
0536神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 11:58:51.71ID:r+Ycctj6
俺は該当しないがここにいた連中はコロナウィルス羅漢で即マハーニルヴァーナ世代なんだから気をつけろよ

目鼻口が感染ルートなんだから、汚ない手で触るなよ
どうしても触りたきゃ手を洗って流水で30秒以上流してからだぞ
これから緊急事態宣言で3週間で顕在的な感染者15000〜20000で押さえ込めるだろう
その後は梅雨入りと日本人の衛生観念と衛生習慣、衛生環境の相乗効果でいったん減少するがまた秋冬にぶり返す
夏の間にマスクが余るだろうからその間に来年冬のマスク備蓄しておけよ
0538神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 18:11:45.84ID:IeX3VFwW
>>531
>ちなみにどちらも実有ではなく概念であって

実有でないならば概念ってそんな等式はないでしょ
0539神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 19:44:16.95ID:FMEgex7b
>>538
《経量部の存在論》
経量部は、説一切有部の「五位」 (色・心・心所・心不相応行・無為)のカテゴリーを基本的には踏襲しつ つも部分的な改変を加える。
(中略)
最後に、「無為」(因果関係によって作られない存在)も、認識器官によってその実在性が確認できない虚構の観念的存在に過ぎないため、実在物とはみなさない。

《瑜伽行唯識派の認識論》
唯識派は、心(=識)がすべての法(存在要素)を包含すると考える。
(中略)
無為法(因果関係によって作られない存在)も、それが存在要素として客体的に思惟されるも のである限り、心によって作り出された概念に過ぎない。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/kokoro_vol.9_38-41.pdf

あなた↑の文章を変だと思います?
0540神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 19:51:48.17ID:IeX3VFwW
>>539
それチベットの宗学書の見解じゃないん?
歴史的な学派の見解としての妥当性は疑問だなあ
0544神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 09:51:52.99ID:l3pRMr7e
>>542
文法という広範囲な単語を使ったのはこちら側のミスでした。
そこは認めた上で改めて、具体的に問います。
>>539の引用文の

最後に、「無為」(因果関係によって作られない存在)も、認識器官によってその実在性が確認できない虚構の観念的存在に過ぎないため、実在物とはみなさない。

無為法(因果関係によって作られない存在)も、それが存在要素として客体的に思惟されるも のである限り、心によって作り出された概念に過ぎない。

上の文の「観念的存在」という言葉
下の文の「概念」という言葉

にあなたは違和感を感じますか?
0545神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 12:32:27.37ID:t9ihxKpj
横槍だが観念的存在は、ideal existence の翻訳語であり、概念はドイツ哲学の流れから来ているconceptの意であり、どちらも一般用語としては大差ない
意味と意義、言語と言葉ぐらいの違いで、それぐらいの一般用語としての水準の差異しか認められない
これ書いてる人は仮構 prajNaptiを説明してるだけだから一般的解説として何が問題なのか分からん
0546神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 14:19:27.19ID:JfOx3VHD
>>544
>経量部は、説一切有部の「五位」 (色・心・心所・心不相応行・無為)のカテゴリーを基本的には踏襲しつ つも部分的な改変を加える。
経量部にアビダルマはないから、この文章は無意味じゃないかな
倶舎論における経量部がそれというなら、世親の経量部=唯識派だから、端的に間違い

>上の文の「観念的存在」という言葉
>下の文の「概念」という言葉
>にあなたは違和感を感じますか?
そこに「無為」というカテゴリーを設定すること自体に違和感を感じる

最初から無為というカテゴリーを排除すべきじゃない?
無為法は存在しない、と
0547神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 14:24:32.79ID:JfOx3VHD
まあ兎角亀毛も存在すると仮定する、というなら「無為」を云々してもいいのかもしれんけど
0548神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 14:50:21.78ID:7yrMNbKz
無為という言葉(概念)が誕生してしまったが故に、
その中身が何であるか(どうであるか)を決めたくなった、と?
0550神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 16:23:41.64ID:7yrMNbKz
名前が存在するからといって、その指示対象も存在するとは限らない。
0551神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 23:36:38.69ID:l3pRMr7e
すみません、私が書いた
>>531
>ちなみにどちらも実有ではなく概念であって空という勝義に入れば無涅槃無輪廻になるというのが中観の思想でしょう。
がやはり誤解を生じる表現でした。
そのことに気づかないまま質問をしてしまったことにも謝罪致します、すみませんでしたm(_ _)m

>自我は存在もしないし存在しないのでもない」というように、二つの矛盾する命題がともに偽であることは形式論理では許されない。
しかも、もし自我が現実には存在しない、つまり成員をもたない概念であれば、この二つの命題はともに偽であることも、ともに真であることもできる。
>一切の名辞は本体をもたず、空なのである。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5
というような龍樹の思想からすると「涅槃は空・概念であるとするだろう」という想いから「実有ではなく概念であって」という表現をしましたが、空とか概念という言葉もまた空・概念・言葉として究極(勝義)には否定されるのかな、と。

中論で涅槃について(ちなみに我や自性についても)有・無・亦有亦無・非有非無といった四苦を否定した中観が、「涅槃は概念である、涅槃は空である」、と肯定するような表現をするのだろうか?と我ながら違和感を持ちましたw
(龍樹作と言われる「大智度論」には確かに「空即涅槃 涅槃即空」の一文がありますが。
あるいは空とは四苦否定であるというのでしたら空即涅槃もすんなりと納得は出来ますが、実際はどうかは存じません)

概念見とか空見を離れた処に涅槃がある、という感じですかね。
0552神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/08(水) 23:42:12.35ID:l3pRMr7e
中論二五章 涅槃
22 一切の法の空なるが故に、何んが辺、無辺、亦辺亦無辺、非有非無辺有らん。
23 何者か一異を為し、何んが常、無常、亦常亦無常、非常非無常有らん。
24 諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、人無く亦た処無ければ、仏にも亦た所説も無し。
(〔ニルヴァーナとは〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戲論(形而上形而上学的な議論)が寂滅して,吉祥なるものである。戯論をする人も戯論をする処も無いので、仏にも諸説がなくなるのである。)」

やはり中論では「涅槃は〜だ」という断定的な表現はしないものと思われます。
中論二五章の10偈では一応「是の故に知る、涅槃は有に非ず亦た無に非ず。」とは詠まれていますけどね。
あとこの偈での「吉祥なるものである」もありますがw


※ちなみに実有の対義語に仮有がありますが、涅槃は無為であることは中論でも書かれていますので(中論二五章13偈 涅槃を無為と名づけ、有無は是れ有為なればなり。)、
中観では(中観でも)「涅槃は仮有である」という表現はまずしないし出来ないと思います。
0553神も仏も名無しさん
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2020/04/08(水) 23:43:47.33ID:l3pRMr7e
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
(スッタニパータ X7、学生ウバシーヴァの質問)

このスッタニパータの1075・1076の詩句を中論二五章と対比できそうな気がしてきましたw

22 一切の法の空なるが故に、何んが辺、無辺、亦辺亦無辺、非有非無辺有らん。
23 何者か一異を為し、何んが常、無常、亦常亦無常、非常非無常有らん。
24 諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、人無く亦た処無ければ、仏にも亦た所説も無し。

ちなみに中論二五章全文の現代語訳はこちら
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530374
0554神も仏も名無しさん
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2020/04/08(水) 23:51:22.05ID:l3pRMr7e
涅槃についてのブッダの説法の確認のために

【第二十六章 ニルヴァーナ】@『感興のことば(ウダーナヴァルガ)

1.亀が諸の肢体(首と四肢と尾と)を自分の甲のなかにひっこめるように、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほごして、なんぴとをも謗るな。

2.忍耐、堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、諸のブッダは説きたまう。他人を害する人は、他人を悩ますのだから、出家した〈道の人〉ではない。

3.だれに対しても荒々しいことばを言うな。言われた人々はその人に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が(その人の)身に迫る。

4.こわれた鐘のように、汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ならば、汝は生れては死ぬ流転の迷いをながく受けるであろう。

5.しかし、こわれた鐘が音を出さないように、汝が自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば、汝はすでにニルヴァーナに達している。汝はもはや怒り罵ることがない。

6.健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の友であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

7.飢は最大の病であり、形成された存在(=わが身)は苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナに専念するものとなるであろう。

8.善い領域(=天)におもむく人々は少ない。悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナに専念するものとなるであろう。

9.ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完きニルヴァーナに入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。

10.鹿の帰るところは原野の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別ある人々の帰(き)するところはことわり(=義)であり、もろもろの真人の帰(き)するところはニルヴァーナである。
0555神も仏も名無しさん
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2020/04/08(水) 23:54:59.57ID:l3pRMr7e
11.気力無くなまけている人も、遅鈍な人も、はっきりと知ることの無い人も、あらゆる絆(きずな)を破りくだくニルヴァーナに達することはできない。

12.修行僧のこの舟から水を汲み出せ。水を汲み出したならば、舟は軽やかになるであろう。情欲と怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

13.前にはあったが、そのときには無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

14.不動の真理は見難い。見易いものの真相を洞察して、妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅すると説かれる。

15.この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れをおさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

16.身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。

17.見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

18.(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

19.(訳文は18に同じ)

20.何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。
0556神も仏も名無しさん
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2020/04/08(水) 23:58:59.24ID:l3pRMr7e
21.不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

22.生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、ーーそれは喜ぶに足りない。

23.それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

24.そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

25.来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。ーーそれが苦しみの終滅であると説かれる。

26.水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところーー、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

27.そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28.さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

29.これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。

30.(自分に)ひとしい、あるいはひとしくない生れ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去った。内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、(自分の)覆いを破ってしまった。ーー卵の膜を破るように。

31.教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。
0559神も仏も名無しさん
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2020/04/09(木) 15:23:28.56ID:OYXHxjVl
>>556
不滅のニルヴァーナの境地

って有為を滅したのがニルヴァーナなわけだけど
その段階で滅し尽くして滅するものが最早何もないから不滅なんじゃないすかね?

23〜30を読むと特にそう思えてしまう
0560神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/09(木) 18:45:40.68ID:FCn87mre
ヴァルガの方は、法句と被るものが多いし、
単発偈の集成だから、古形を残しがちかもしれないけど、
その分、ブッダ以前的なのよね。
無印ウダーナの方が端的。簡潔明解というか。
勿論、そこ含め、今知られる仏教は弟子たちによって脚色済みと言えなくもないけど。
0561神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/09(木) 20:51:23.21ID:FCn87mre
○「第一涅槃に関する経」は、
世尊が比丘たちを不死の涅槃に導くために、彼らに対し、
 ・それぞれの性質に応じて教説されたものである
  「聖なる道」によって涅槃に到達すべきである、
 ・これは難しくて出きないことだといって修行を途中で止めてはいけない、
 ・つづけて頑張れば完全な幸せを得るだろう
などと種々の表現で励ましの言葉を示されている。涅槃の偉大さを示し、
 ・それが第一義的な存在である
ことを明らかにしたのがこの感興(ウダーナ)の経である。

○「第二涅槃に関する経」は、
 ・見ることの難しい涅槃の本質を
 ・四聖諦によって見得る
ことを説かれたものである。

○「第三涅槃に関する經」が説かれるに当っては、次のような話がある。
世尊は種々の理由によって輪廻の危険を示し、涅槃に関する法話を説かれた、
すると比丘たちは、こう考えた。
「世尊は
 ・この輪廻が無明などの縁によって作られるものである、
  涅槃は縁によって作られるものではない
と説かれた。とすると
 ・涅槃は無縁である。一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」
と。そこで世尊は説かれた。「この世において、或る人々は
 ・″涅槃というものはただの言葉だけだ。第一義的に得られるものではない″
と理解しているが、これは誤解である。
 ・涅槃というものは第一義的に得られるものである。」と。

○「第四涅槃に関する經」が説かれるに当っては次のような話がある。
世尊は種々の表現で涅槃に関する法話を説かれた。すると比丘たちは、こう考えた。
「世尊によって涅槃の偉大さは示されたが、それに到達するための方法はまだ説かれていない。
どのようにしてわれわれ修行者は涅槃に到達することができるだろうか」と。
そこで世尊は説かれた。
 ・「すべてのものにこだわることがなく、
 ・身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
 ・涅槃に到達することができる。」と。
このようにして感興をもって唱えられたのが本経である。
(「南方仏教基本聖典」p218/1987年第三刷/中山書房仏書林/ウ・ウェープッラ)

おそらく、アッタカターに書かれている内容の要約。
0562神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/10(金) 03:35:29.60ID:7Ml3WOl2
>>1
>仏教に関するKeyword
>「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
>原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
>激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
>尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
>基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
>もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

これ昔からそのまんまを論蔵として小乗でも大乗でもやってたよね
このスレで出来ることはその各部派各宗派の論蔵の理解が精一杯ってところで自説の論を立てても生涯を仏典の研究と実践に費やした名僧達にはまず及ばんよ
せいぜい僕は誰々、何派、何宗の論を支持します、までだろう

さらに仏教の実践がなく文献的に経典や論蔵についての見解を出す仏教学者、印哲学者の著書や論文は参考まで留めておいた方がほとんどの場合は良さそうだ
既存の論に染まってないから真説か出せるというのにも期待しない方がいい
そんな学者の意見は2000年間にほぼ出尽くしていると思った方が良い
流石に昔の論蔵とかは難しいからそういう学者の分かりやすい解説は必要だけどさ

とにかくこのスレでの議論などいにしえの僧、部派、宗派、そのらの間での議論に比べれば取るに足らないものになるだろう
みんなそこまで追求してないから仕方ないのだけど
0563神も仏も名無しさん
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2020/04/10(金) 07:20:31.31ID:TBIbAfCx
>>562
このシリーズの発端は、そういうことじゃなくて、
伝統的解釈と現代的知見との整合性、或いは軋轢だからw  >>471
0564神も仏も名無しさん
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2020/04/10(金) 08:06:29.50ID:8TgwFKBA
まあ、仏教内の見解(論)の違いというよりは、仏教的知見と外道的知見との軋轢でしょ
もちろん、現代的という範疇で看板だけは仏教でも現代の仏教者には実質外道化しているものも少なくない訳で
(その流れの萌芽は大乗・龍樹の時代には既に顕在化して始まっていた)

で、スレ主は己自身が隠しようもないくらいの外道なのに、仏教内の外道化している部分を糾弾する事で自ら(外道=神智学)が仏教正統の地位を簒奪できると思ってるギャグw
0566神も仏も名無しさん
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2020/04/11(土) 02:43:27.76ID:ICKl/FFe
相応部 無記相応 11経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm
のほとんどは如来(修行完成者)の滅後についての異教徒からの質問
@如来は死後存在するのか?
A如来は死後存在しないのか?
B如来は死後存在しかつ存在しないのか?
C如来は死後存在するのでもなく存在するのでもないのか?
という四句に対する、ブッダ又はサーリプッタなどの高位の弟子の返答となります。
答えとしては@〜Cいずれの見解も取らない、理由はというと@〜Cは色〜識までの五蘊への見解、渇愛から生まれるが、如来はそれらへの有所得が滅しているので見解を説かないというものでした。

マハーモッガッラーナへの質問は世界は有限か無限か、生命(ジーヴァ、魂)と身体は同一か別異か、の問いが如来の滅後の問いの前に加わりますがやはり無解答でした。
これらへの異教徒が出す解答(有、無など)は六根を自分の我である、我所である、アートマンであるという見解から生じるが、
阿羅漢にして等正覚者たる如来はそうは見なさないので解答がないのだとしています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

次の8番目の経も答える順番が世尊、マハーモッガッラーナと変わりますが質問内容と解答はほぼ同じ内容です(如来滅後以外は世間は常住か無常かになりますが)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

11番目の経ではカッチャーナが問いに答えていますが、如来の滅後について無記なのは、
『有色』、『無色』、『有想』、『無想』、『非想非非想』と断定する因縁が如来には完全に滅しているので説示することができないとしています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

結論として、如来は戯論的なものにおいて有無の執着が全く解かれているので無記となるといったところでしょうか?
0567神も仏も名無しさん
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2020/04/11(土) 03:03:04.05ID:ICKl/FFe
問題はまず9番目の経。
この経では六師外道の皆が弟子の死後について何処何処に転生すると弟子に授記すると、ヴァッチャ氏姓の遍歴行者がブッダに語っていますが、
六師外道で輪廻の存在を認めているのはジャイナ教のマハーヴィーラとアージーヴィカ教のマッカリーゴーサーラだけで、
サンジャヤは如来だけじゃなく凡夫の滅後についても不可知だし、アジアに至っては断滅論だったとおもいましたが、このヴァッチャ氏姓の遍歴行者はそういう通説とは違った六師外道の話を聞いていたのでしょうか?謎
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm


次の10番目の経はバラモンからのアートマンの有無に対する問いにブッダは答えなかったことを伝える有名な経典ですね。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm
経典ではこれも有無にしてしまうと常住論や断滅論の極端になってしまうので答えなかったと。
有無で答えれば中道に背きますので答えないですよね。

その後の有ると答えれば一切諸法非我の智慧の生起のために随順なるものとなるでしょうか云々は、
一切の中に無為も含むかどうかとか面倒なことになりそうなので、とりあえず今ここでは触れておかないことにしますw
0568神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/11(土) 03:24:37.81ID:ICKl/FFe
サンジャヤは如来だけじゃなく凡夫の滅後についても不可知だし、アジアに至っては断滅論だったとおもいましたが、このヴァッチャ氏姓の遍歴行者はそういう通説とは違った六師外道の話を聞いていたのでしょうか?謎

アジア→アジタ
0569宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 04:27:43.45ID:Q5jjF0FC
-----「空」ついての最後...

「“不滅で永遠のもの”でなければ求める価値がない」とするのは、
ヒンドゥー(その他あらゆる諸宗教)であろうと仏教であろうとも同じですよ。
「涅槃」の同義語を確認すれば一目瞭然の話です。
涅槃が不死(甘露)にして恒常であることは、テーラワーダも認めるところでしょう。

現象界の物質と事象のすべて(有為)が無常(恒常性がない)であり、
縁起している無自性のものであるということをただ一語で単に「空」と呼ぶだけのこと。
であるのに、その有為から解脱した境地である涅槃(無為)も同じ「空」などとしてしまうと仏教理論は成立しない。
ただ単に、空性という「“法そのもの”は無為ともいえる...」的な言い回しを勘違いして、
勝手に涅槃とイコールで結ぼうとしているに過ぎない(それは誤解!!)。
涅槃を空などと解する仏教徒が一体、どれだけの割合いるのかは不明ですが、
断固として認めない人にはこれ以上、私からは何も言えることはありません。
0570宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 04:31:27.98ID:Q5jjF0FC
>>527
>最初に神が言ったような意味ではないからであって、

いえ.違うと思います!

以前に、
この経文がブッダの教説におけるアートマン肯定の最も決定的なものだろうと、この私はいいました。
何故ならば、これはブッダ自らが“アートマン存在について明確に是認したもの”だからです。

【〔尊師いわく、---〕
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。また『人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
 真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)
0571宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/11(土) 04:32:24.98ID:Q5jjF0FC
 ここでいう『わたしが語る』の「わたし」とは、ウパニシャッドの説く(普遍にして永久不滅の)アートマンのこと(中村氏による確認済)。
 この経文は要するに、ブッダは神からと問いかけに対して答えて、修行完成者(最後の身体をたもっている真人となった修行僧)は、「自
分のことをアートマンと言ってもいいよ!」と、ここでハッキリと認めているのだということです。ただし、いくら自分のことをアートマ
ンであると語っても、所詮は、言語表現の持つ限界性故に、アートマンそのものを指し示すことにはならないけれどね...と、述べたもの。
 もしも、伝統仏教の理解のまま、本当に“アートマンそのものが無い”のであれば、神からの「自分のことをアートマンと語ってもよい
か?」の問いかけに対して、このように是認するわけがない。バラモン達や異教徒たちが勝手にどのように主張していようとも関係がないが、
しかし、ブッダご自身の口から、アートマンなど無いにもかかわらず「それでいいよ!」などと是認するということは到底、考えられないこ
とだからです。ただし、「それはいいけれども、いくら語っても所詮はただの言語表現にしか過ぎないからね!」と、神に一応そのことにつ
いての理(ことわり)を附け加えた、というのがこの経文です。

なので、
これこそブッダがアートマン存在を明確に認めた希少で決定的な経文である、
といっていいものと私は思います。
0572宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/11(土) 04:38:02.98ID:Q5jjF0FC
>>372
>であるなら、
> 神智学の側から見た、
> 現代仏教及び特に禅系の思想に於ける(或いは諸学者の言う)
> 「仏性」「仏心」「真如」「我」「法身」「真人」「本覚始覚」「如来蔵」などが、---中略---

 まさにご指摘の通りで、“大乗の進化発展の歴史とは仏教のヒンドゥー化に他ならない”という低評価がある一方で、しかし、そのことが
返って逆に、災い転じて福を為すかのごとくテーラワーダが排除してしまった本来のブッダの説かれた教えである、“目指すべく真実の自己
(真我)へのアプローチ”が、「仏性」、「如来蔵」、「大我」などとして、現代まで永延と生き続けていると言えるのです。
 その他にも、テーラワーダによって見捨てられてしまった神の概念(ブッダはその存在を否定されたことはない)や祈りの力や諸仏(完成者
とその高弟の集団)からの救済力についてなど...は、大乗各派において今日でも生き生きと説かれ続けている。
 元々、私自身は大乗非仏説ということで大乗に対しては冷淡な姿勢にあったけれども、この2-5ch上での一連の議論を進める内に(学習と
再確認することで)、この私の大乗に対するその評価は根底から(肯定的なものへと)大いに変わりました。
0573宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/11(土) 04:39:39.55ID:Q5jjF0FC
 神智学の立場から見た場合の仏教評価についてですが、ブラヴァツキーは生れてすぐ教会の洗礼を受けていますが、イエスの正しい教えで
はない教会主義的なキリスト教には強く失望しており、ブッダの教えを伝承するブッディスト(仏教徒)に対しては強い憧れを持っていました。
ブラヴァツキーとオルコット大佐の二人がスリランカ仏教からの要請を受けてセイロン島に上陸した1880年(神智学協会設立は1875年)に
ウィジャヤナンダ・マハー・ヴィハーラ寺院で正式に受戒を授けられ、晴れて仏教徒となったのも子供時代からの「いつかは仏教徒に改宗し
たい(ブッダの弟子になりたい)」という永年の想いがあったからでした。
 ブラヴァツキーから見た近代仏教は、テーラワーダは伝統保守的でブッダ直説の正統性の主張が強いが、無我の誤解と神についてなど大切
なものを否定する派として見ました。対して、大乗仏教はあらゆる面において神智学とは非常に親和性が高いというものでした(特に、密教
においては殆ど共通する)。そして、神智学協会の平和活動はダライ・ラマ14世からも高い評価を受けており、現在も常にご協力を頂いてい
る関係にあります。
0574宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/11(土) 04:40:37.87ID:Q5jjF0FC
 『仏陀の秘教的な教えは古代バラモンのグプタヴィディヤー(Gupta-Vidya)即ち秘密の知識でした。この秘密の知識への鍵は僅かな例外を除
き、今のバラモンは完全になくしてしまいました。このヴィディヤーは今、北方仏教の大乗派の内的な教えとして知られているものとなりま
した。それを否定する人達は東洋学を知らぬのに、知ったふりをしている人にしかすぎません。---中略---
 この倫理は智慧の宗教の魂であり、かつてはあらゆる国々の秘伝を受けた人達の共通の特性でした。しかし、仏陀は自分の大衆への教えの
中にこのような高貴な倫理を具体化した最初の人でした。そしてこの倫理を自分の公開の教えの基礎とし、エッセンスとしたのです。此処に
顕教的仏教と他のすべての宗教との大きな違いがあります。他の宗教では儀式主義と独断が最も重要な位置を占めていますが、仏教ではいつ
も最も主張されるのは倫理だからです。神智学の倫理と仏教の倫理とが殆ど同じであるのはこのためです。---中略---
 神智学と顕教仏教との大きな違いは、南方仏教で代表されている顕教仏教は次のことを全く否定することです。(a)神の存在、(b)意識的な
死後の生活又は人間の中の個性を保持し続ける自我意識。少なくとも、今、最も純粋な形の顕教仏教と考えられているシャムの教派の教えが
そうです。仏陀が大衆への教えだけに関して言えばそうです。このように釈迦が本当のことを言わなかった理由はあとで説明しましょう。し
かし、仏陀の逝去後、仏陀の秘伝を受けた阿羅漢達が隠遁して行った国々でできた北方仏教の諸派は今、神智学説と言われていることすべて
を教えます。神智学説には秘伝についての知識の部分があるからです。このように、南方仏教のあまりにも熱烈な正統派的思想のせいで、真
理がどんなに死文字でではあっても、他のいかなる教会や宗派の教えよりも、どれほど壮大で、高尚で、哲学的、科学的であるか分かりません。
しかし、神智学は仏教ではありません。』
(H・P・ブラヴァツキー著『神智学の鍵』竜王文庫刊)
0575宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/11(土) 04:43:07.40ID:Q5jjF0FC
 近代日本最大の仏教学者とも讃えられた鈴木大拙(臨済宗)は、世界に禅を広めた最もよく知られる日本人であり、禅研究の第一人者にして
東西の宗教の融合を試みた偉人でした(1949年に文化勲章を受章)。大拙の妻ベアトリス・レインは神智学徒で、その影響を受けて後年、大拙
自身もインドのチェンナイにて正式な神智学協会の会員となった。そして、大拙が京都支部の支部長に就任し、京都における大拙の自宅が神
智学協会日本ロッジの京都支部となっていた。
 大拙はブラヴァツキー著『沈黙の声』を絶賛して、夫人のことをこう評していたといわれる。
 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行について
もよく知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑い
もなく、ブラヴァツキー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた。」』
(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光---コニー・ハーグレイブによる書評』より)
0576宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 04:44:18.16ID:Q5jjF0FC
 それからテーラワーダの残念なところは、今でも大乗からの根強い批判が続いているように非常に保守的で閉鎖性が強いことです。人生そ
のものを業に拠り転生しただけの苦の世界と見なす傾向があり、中には早い死すら望む者もいるくらいなので、人類社会を改善し、進歩向上
させようという意識が薄い。自業自得の考え方からか苦悩する大衆の救済にも積極性は弱い(逆に以前まで、差別扱いする事実すらあり)。そ
して同じく、南伝仏教のみが唯一の真理だと見なして、他派およびその他すべての宗教に対して強く否定的であるために、彼ら他の宗教者と
共に手を携えて世界平和に繋がる活動に参加しようとすることもない。
 テーラワーダの基本的な考え方としては、世界平和にはブッダの智慧が必要であり、一人一人の内的な自覚(ブッダの教えの実践)がなけれ
ばならないものとする。そのこと自体は確かに正しいけれども、しかし、それ故に、直接的な外的平和活動や救済行為に対する意識は乏しい
(もしも、この私の理解が古い偏見であって現在はそうではない。という場合には是非、正しい情報を教えてください!)。

 それに対して大乗においては元々、“慈悲の実践と菩薩道”という理念がしっかりと根底にあるので、平和活動や救済活動への想いに事欠く
ことはない。日本仏教の総本山である比叡山宗教サミット(全世界のあらゆる宗教指導者が集って平和を祈る式典を毎年開催)、1989年にノー
ベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世(「世界平和のためには、人は自分で考え自分で行動しなければならない。神仏への祈りで実現する
ものではない」と説く)、『アーユス仏教国際協力ネットワーク』(「気持ちはあっては僧侶が自ら現地に入ってもなかなか力になれないことを
痛感した」として、各専門NGOを支援するといった方向性を選択した超派団体)や、そして、宗旨宗派の各々それぞれにおいて熱心に取り組む
ところも少なくない。

 尚、「空」であるとか“非実在”とか、その他いかなることを理由にしようとも、人類社会の平和と進歩向上についての活動を無意味無価値
だとする一部の仏教者(出家在家を問わず)などはまったくの問題外です!!
0577神も仏も名無しさん
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2020/04/11(土) 08:14:58.09ID:FWXUB7S0
だからw

他の何人かも指摘してたけど、この部分では、「アートマン(atthA)」の語は出て来てないの。
全て、代名詞の「私(aham)」(及びその派生)なの。
だからわざわざ、〔神が挑んできたのは「アートマン」についての議論である〕、と註されてる(補足説明される)の。
だから、
「もし、“我、アートマン”の存在を認めていないならば、
 どうして『“私”が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
 “自身”が存在しないのに(五蘊を始め、いかなるところにも居ないと言われているのに)、
 “私”がある筈がないではないですか」と。
だから、
「そうではない。(この五蘊の身をもって相対している)私たちは、
 互いを呼び合って会話をしコミュニケーションをとっている。
 その上で、〔凡夫は「私私」と言っているうちに、
 『【≪コレ≫が私である】、これは私のものである、(≪ココ≫に)私がいる』
 という想いを起こしてしまう。また【それに捉われ、執して】しまう〕。
 だが、〔諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、(その心配がないから)、
 『“私”が話す』『これは私のものである(私の鉢、私の袈裟etc.)』と発言してもよいのである。
 そこに(私・我への)執著が見られないから、そのような発言ができる(許される・可能となる)のである」と。

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915
05781/2
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2020/04/11(土) 08:21:50.44ID:FWXUB7S0
また、大好きな中村さんの言い方を、もちょっと吟味してもいいんじゃないかね・・。
(どこをどう読んだら、神智学等の言うような我の肯定に読めるかね・・・?w)

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-632.htm
草柳: じゃ、真実の自己というのは一体何なのか、というふうに説いているんですか?
中村: これはこういう具体的な、あるいは具象的なものとして、物体として、
あるいは実体として示すことはできない。けれども、我々人間が、人間として自覚して道を追求し生きていく。
その生きていく実践の中に真の自己が現れるというんですね。
具体的にどれだけの大きさをもったものであるとか、どれだけの重量を持ったものであると、
そういう具合に表すことはできない。
けれど、我々人間がこのように世に現れ出たその所以、わけを理解し、思いを馳せまして、そして実践していく。
その中に真の自己が現れる。だから真の自己を追求することは、
「ダルマ(法)」―人間の生きる道ですね―それを追求することと結局同じことに帰するわけです。
それは釈尊の最期の説法の中にも出てきます。
つまり真の実践をなすということが、自己すなわちアートマンに頼る所以であるという、そういう教えも出てまいります。
そこに自己、アートマンが出てくると。
「アートマン」というのは、こういう大きさをもったものだといって示すことはできない。
人々が人としての自覚をもって実践する。その中に自ずから働きが現れてくる。そういう性格のものである、
と説いていたと考えられるんでございます
05792/2
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2020/04/11(土) 08:22:25.09ID:FWXUB7S0
草柳: 勿論私たちは、私どもの社会生活の場面に引き下ろして今のことを考えても、
当然毎日生活をしているわけです。その生活の中でいろいろなことを考えたり、行動したりしているわけですから、
そういう行為の主体としての自分―自己というものは、これは紛れもなくあるわけですね。
中村: あるわけでございますね。日常生活のその場面においては否定することができないわけですね。
だから「自己に頼る」ということが、釈尊の最期の説法にも出てきます。
それからまた他の場合にも説かれていますが、それは人間としての生きる道、つまり「法に頼る」ことである。
だけど「自己に頼る」ということと、「法に頼る」ということが同じ事柄として並べて説かれております。

 >そういう行為の主体としての自分―自己というものは、これは紛れもなくあるわけですね。



※ちなみ。
草柳: 本当のというか、真実の自己とは何か、ということを探し求めることが、何より大切なのだという、
面白いエピソードがあるんだそうですね。
中村: それはごく通俗的な面白いエピソードですがね。この機会に申しますと、
お釈迦様が悟りを開かれて、それからヴァーラーナシーの方へ 〜略〜 
「実は私たち仲間の友人たちと三十人グループを作ってこの美しい森のところまで 〜略〜
「皆はそれぞれ奥さんを連れて来た」というんですよ。「ところが自分だけはパートナーがいなかった」
 〜略〜 遊女を連れて来て、「これが相手だから楽しくやろうや」ということになった。云々


 >通俗的な面白いエピソードですが
0580
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2020/04/11(土) 10:01:47.49ID:FWXUB7S0
で、追記すれば、

 >>577 >≪コレ≫が私である、これは私のものである、≪ココ≫に私がいる

が、デカルト及び西洋哲學的視線なわけで・・。
0584神も仏も名無しさん
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2020/04/11(土) 13:54:59.14ID:Lk+rkdSz
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、 
真に力量ある者なので、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして〔仮りに〕このような表現をしてもよい。
『わたしが語る』とか、『人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』とか、このような表現を言語表現だけのものとして、仮のものとして、表現してもよいのである。

つまり『わたし』とは仮なのである
0585宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 16:42:28.29ID:Q5jjF0FC
>>577
>「もし、“我、アートマン”の存在を認めていないならば、
> どうして『“私”が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
>“自身”が存在しないのに(五蘊を始め、いかなるところにも居ないと言われているのに)、
>“私”がある筈がないではないですか」と。
>だから、
>「そうではない。(この五蘊の身をもって相対している)私たちは、
>互いを呼び合って会話をしコミュニケーションをとっている。

しかし、よくもまぁ..
そんなにも内容を勝手に改変(変質)できますよね。話がまるで違ってる...。
そんなこと神は聞いてないし、そんなことブッダは返答してない。

例えば我々、
日本の一般普通人が永久不滅のアートマンのことをよく知らず、或いは、特別に信じてなどなかろうとも
ごく普通に、この心身の肉体人間(五蘊構成の)は確かな自分であるとして認識している。
そんなことは言われなくても当たり前の話だ!!
それを「五蘊が自己であるとして見ていても構わないが、ただし、五蘊には執着しないように?」だって?
一体、この経文のどこにそんなことが書かれてるの???
0586宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 16:45:02.00ID:Q5jjF0FC
だから、
「五蘊は自己(アートマン/真実の自己)ではない」などというのは仏説の中では当たり前の話ですよ。
そんなことはこの私も否定しないし、それを当然のごとく了承している。
けれども、「自分自身、私(アートマン)がある筈がない」。それは五蘊どころか“いかなるところにも無い”。
な〜んて話がブッダから説かれたことは一度もないから(あるならば出せ!!)。>>296を再読のこと
ただ、「ある」とも「ない」とも言わないとあるだけだ(無記)。

この経文は、
神は、「アートマンが語る」といってもいいかということをブッダに聞いたところ、
ブッダは、完成者である真人であれば構わないと返答するので、
神は、更に確認すべく、それでは「慢心」ということにはならないかとも聞いているのです。
するとブッダは、完成者にはすでに慢心というものがないから大丈夫だとして太鼓判を押しているのです。

七セブンよ!
“五蘊の私”を語るのにいちいち慢心の心配について確認するか?
完成者には慢心はないから問題ないとするこの経文の遣り取りをみて、
あなたはこれをアートマン否定のただの五蘊の話へとすり替えるのかい?
一体、どういう神経なの???

まず、あなたのその勝手な「アートマンなどある筈はないから」
などという決め付け前提を排除してから仏典というものを読んでもらいたい!
0587宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/11(土) 16:47:47.73ID:Q5jjF0FC
>>578
いやいや.「大きさ」であるとか、「重量」であるとか...
そんな話はこの私から過去に一度もしたことはないから---話のすり替えが好きだな!!
ブッダが、それらの機能的なアートマン観については認められていないことなどは、
この私も百も承知してるから(議論の最初期から了解している)。
>>296-297を参照のこと
--------------------------------------------------------------
まっ、もう止めましょうや。
いよいよ、私もココを去りますから...
(寂しいものもあるが...)

あと、二つほど執筆中なのでそれを上げたら終わりにしますm(__)m
0589神も仏も名無しさん
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2020/04/11(土) 18:15:47.07ID:FWXUB7S0
>>586
>この経文は、
>神は、「アートマンが語る」といってもいいかということを

だからw
それが誤読だと言っている。
そこに「アートマン(attA)」は出て来ない。 (あ、上のレスではhを入れてしまってたかもしれないが)

最初の問いかけも↓下記。
ahaM vadAmi iti pi so vadeyya,
mamaM vadanti iti pi so vadeyya


http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915
0591神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/11(土) 21:31:13.07ID:ICKl/FFe
中村先生には感謝しているけど、例えばダンマパダの7.阿羅漢の章を第7章真人などと、阿羅漢を真人と訳するのは止めて欲しかった。
真人はなにかと誤解を生む言葉だから…。
0592神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/11(土) 21:35:36.29ID:DIWe7jBL
>>585
セブン自身が>>589で既に反論している通りなんだけど
あんさん「全然人の話聞いとらんやんけw」
0593ニルヴァーナ論の参考に
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2020/04/11(土) 23:07:50.88ID:ICKl/FFe
経部のニルヴァーナ論とその反駁

『中論』においては次に第七詩と第八詩によってニルヴァーナは無であるという説を排撃している。
これは『般若灯論釈』および近代学者のいうように経部(サウトラーンティカ派)のニルヴァーナ論を排斥しているのだろう。
一般に経部は大乗と密接な関係があるとみなされているし、またすでに指摘したように『中論』のうちには経部と共通な論法が少なくないから、『中論』が今ここで経部の説を排斥しているのは不思議に思われるけれども、
しかし中観派は、非有非無の中道、四句分別を絶した諸法実相を説く立場に立つから、ニルヴァーナを有とする意見とともに無となす意見をも排斥せねばならなかったのであろう。
 経部は、ニルヴァーナを無(『プラサンナパダー』五二七ページ)であると解し、あるいは「無のみなること」ともいう(『俱舎論』ヤショーミトラ註、二二一ページ)。
とくに「のみ」と制限を付けるのはニルヴァーナを実体視する考えを防ぐためであると説明されている(同上)。
経部は一般に無為法を実体視する説に反対している(『俱舎論』六巻、一五枚下)。
また『成実論』も、「またニルヴァーナを無法と名づく」(六巻、大正蔵、三二巻、二八一ページ下)というから同じ考えなのだろう。
 このような解釈に対してナーガールジュナは次のように反駁している。
「もしもニルヴァーナが有(存在するもの)でないならば、どうして非有(無)がニルヴァーナであろうか。有が存在しないところには、非有(無)は存在しない」(第二五章・第七詩)
「またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは〔他のものに〕依らないでありえようか。何となれば〔他のものに〕依らないで存在する無は存在しないからである』(第二五章・第八詩)
 <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提としている。
 無は有によって施設されている〔仮に設定されている〕(『プラサンナパダー』五二七ページ)。無と有は相関概念である。
故にすでに述べたように、ニルヴァーナが有ではないなれば、当然無でもありえない。
形式論理学立場からいうならば、もしも有でなければ、無であることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つから一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。
さらにまた有と無は相関関係にあるから、もしもニルヴァーナが無であるというならば、有によって存することとなるから、ニルヴァーナが「不受」すなわち依らないものであるということがいえなくなる。
このようにニルヴァーナを無と解する説も相依説の立場から排斥されている。

中村元『龍樹』

※プラサンナパダー…チャンドラキールティ(月称)が書いた中論の注釈書
0594神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/11(土) 23:11:08.13ID:ICKl/FFe
>>593自己レス

> <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を

 <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提としている。
0596宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/12(日) 06:43:20.12ID:HErQp2mZ
>>589
--- 七セブンへ
確かに、この経文についての理解では、
この私の側の全面的な間違いだったということを認めてここに謝罪を致します!

「アートマンは(存在し)ないのに」という部派仏教の見方については認めませんが、
今後は、五蘊はアートマンではないのに(五蘊非我)、
完成者が「Ahaṃ/わたし(五蘊の自己)が語る」といっても良いかどうか?
という対話であるとして理解します。

大変、申し訳ありませんでしたm(__)m
(辛坊強い)ご教授に感謝します!!

 https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
 http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2017/06/10/120348
 http://pali-village.blogspot.com/2016/06/blog-post_3.html

>>590
了解。
(その姿勢には同意します)
0599神も仏も名無しさん
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2020/04/12(日) 08:26:12.21ID:hJpwGuq2
ブラバツキーがセイロン仏教の授戒を受けつつ陰口を言い
神智学のやり口ってのは……
0600神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/12(日) 08:30:26.73ID:x2Npr+p8
>>596
どういたしまして。

それで、ようやく「解釈(読み解き方)の相違」になるわけです。
 (勿論、大きく見ればそれも「読み方」のうちではありましょうが。)
或いは、「世界」に対する視線の投げ方の違いへと。
 (隠居や哲板最高位の主張vs仏教というw)
06011/2
垢版 |
2020/04/12(日) 09:19:19.56ID:x2Npr+p8
その上で、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/914
>  ※この問いを発した神は、
>   ≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
>    なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
>    「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
>    そのように言うのではないか?
>    【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
>    のではないか?≫
>   という疑問を持ったので、このように質問をした。
>   『まさに >> 855 そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
>   当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
>   凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/855
> たとえば隠居の如く、たとえば紐の如く、たとえば過去哲板の最高位の如く、
> 或いはその他、極々一般の多くの人の謂いとして、(或いはデカルトか・・?)
>  「ほら、≪私(我)≫って言ってるじゃん。」
>  「≪私(我)≫が、〔そこ〕に、〔居る〕じゃん」
>  「≪私(我)≫が無かったら、思考も、発言も、行動(行為)も無いじゃん」
>  「貴方の肉体がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
>   『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
> という意見を斥けねばならないからなんだけどね。
> そのように社会の中にある時は、
> 「その社会の中の一員として」、「大勢居る中の誰それ」、ということが
> 「互いに」「特定」できなければならないので、
> その為に、自称するし呼応するのだ、と。
> けれどもそれは、絶対永遠ではないよ、と。
> ※上の「肉体」を「魂」や「霊魂」或いは「識」或いは「アストラル何ちゃら」、或いは「真我」、
>  などと言い換えても何も変わらない。
>  >「貴方の○○がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
>  > 『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
06022/2
垢版 |
2020/04/12(日) 09:19:50.46ID:x2Npr+p8
>>577
>〔神が挑んできたのは「アートマン」についての議論
>「もし、"我、アートマン"の存在を認めていないならば、
>どうして『"私"が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
>"自身"が存在しないのに 〜後略
>"私"がある筈がないではないですか」

>、〔凡夫は「私私」と言っているうちに、
>『【≪コレ≫が私である】、これは私のものである、(≪ココ≫に)私がいる』
>という想いを起こしてしまう。また【それに捉われ、執して】しまう〕。

>〔諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、(その心配がないから)、
>『"私"が話す』『これは私のものである(私の鉢、私の袈裟etc.)』と発言してもよいのである。
>そこに(私・我への)執著が見られないから、そのような発言ができる(許される・可能となる)
 =========
改めて言い直してみれば、

「(本体としての)"私"が居ないのに、どうして"私は"と発言できる(それが許される)のですか」
と問われ、
「凡夫は、(それと口にしているうちに、『私が私が』と使いつけるうちに)
 自分というもの、自分のもの(マイカー、マイベイビー、マイラバー、etc.)
 に捉われ、縛られ、こだわり、防護しまた主張し、
 そこからまた、怒りや、愛欲や、名誉称賛評価や優越や、プライドや自讃やら
 を生じさせる。(それらは悪果苦果へ繋がる業でもある)。
 が、諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、
 自分というもの、自分のもの、に捉われ、縛られ、こだわり、防護しまた主張することがなく、
 そこからまた、怒りや、愛欲や、名誉称賛評価や優越や、プライドや自讃やら
 を生じさせることがない。(悪果苦果へ繋がる業を積むことがない)。
 だから、"私"と発言してもそのようなことが起きないので、口にしてもよい」
と答えがあった、と。

ということなのだろうと。
0603神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/12(日) 13:21:09.22ID:Wpm+4wLK
 
大乗のみならず
パーリ経典も.最古の経典も.編纂されたものとみなされているため
原始経典さえも釈迦の言説が記録されているか否か明らかでないらしいけど
それでも.とりあえず

(仮設としての)
無明の暗闇に覆われて
苦集滅道への妨げとなる有覆無記によって
渇愛によって
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
そして

スッタニパータ
772
身体のうちにとどまり、執着し
多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人
このような人は、実に遠ざかり離れることから遠く隔たっている
実に世の中にありながら
「(実有としての)無為法があるはずだ!」
「無為法の世界に本当の我があるはずだ!」というような欲望を捨て去ることは、容易ではない
21
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着しているのなら
「無為法の世界に本当の我があるはずだ!」というような想いも手放して
悟りに至るための 「 菩提分法 」 への想いも手放して
もはや筏の必要はない

スッタニパータ 21も
説法する側と.説法される側がいるのなら
相互依存しているのなら
実有ではなく(仮設としての)仮有なる.仮の現れ
現れ → 変化して → 滅して逝く
0606神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 10:45:34.07ID:a8hDj1WJ
質問者:どうすれば真我を実現できるのでしょうか?

マハルシ:真我の実現とは新たに獲得されるような何かではない。
それはすでにそこに在る。必要なのは「私は実現していない」という想念を追い払うことだ。
静寂あるいは平和が真我の実現である。真我が存在しない瞬間はない。
そこに疑いや自分が実現していないという感覚があるかぎり、それらの想念を追う払うように試みなければならないだろう。
http://adorie.me/2018/04/13/%E7%9C%9F%E6%88%91%E5%AE%9F%E7%8F%BE/

これは生死即涅槃論ならぬ生死即真我論?
マハルシも転倒の妄見から抜け出せば目の前が真理となるというのは同じですね。
ただ転倒が仏教だと真我の有(と無)、マハルシだと真我の無で逆の方向になってるけど。
0607神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 12:12:09.10ID:8S584CGP
今回宝珠も少し触れてるけど、
では、如来蔵思想や天台本覚門、或いは仏性、或いは真如、
或いは馬祖六祖以降の禅の系譜の中から浮かび上がる真実自己、
更には近現代仏教に於いて受け止められている「仏心」やら
「仏様(真如)と繋がっている私たち(のいのち)」やらが、
無我(非我)の文脈の中でも許容される「実存的主体的自己」なのか、
それとも、古代インドで言われてきた「超越的存在としての自己」への先祖還りなのかという問題がある。
現代日本仏教は、実はそのマハルシと同じ思考をしてはいないか、と。
(インド大乗は一先ず措くとして)特に中国経由以降の仏教に於いて、
肯定的に述べられる「大我、真我」も漢訳蔵経に散見されるし。
この「大我」は、近代禅では肯定的に使われる事の方が多いかもしれないし。

真我 408 hits 670件
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%9C%9F%E6%88%91&;mode=search&uop=1
大我 504 hits735件
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A4%A7%E6%88%91&;mode=search&uop=1
単なる字面の並びのみだったり、「真の我が○○」という部分だったり、
外道の論・顛倒として否定的に扱われるものも含めての件数だけれど。
勿論、阿含には極々少ししか出て来ない。
0608神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:21:42.01ID:RrA6D5G4
>>607
大乗経典の般若経の中でも(「空」という概念はあっても「空」という用語が用いられていないため)最古層と目される金剛般若経では、
中論第二二章如来の考察にて龍樹が
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
 ※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。 
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530025
と説いているのと同様に、如来は特徴がないということが世尊とスブーディーの問答を通して再三に渡って説かれています。
http://bunchin.com/choyaku/kongo/kongo020.html

やはり龍樹以前と言われる法華経でも空という用語はわずかにしか使われてなかったと思いますが、
こちらでは鳩摩羅什が仏種と訳した仏性(しかしサンスクリット原本だとこの部分は「(衆生に具わる)真理を見る目」となっていたりします)や如来常住は説かれていますね。
ただ仏種については、「仏種は縁によって起こる」とか、衆生は遠い過去世から久遠仏の説法を聞いていたために仏種が具わっているとかの条件があって、その由来も現世での発眼も因縁によるもののようです。
また如来常住とはいえ「だから如来は我(アートマン)を体現したものなんだ」というような説かれ方もしてないと記憶しています。
だいぶ近づいては来ていますけどね。
0609神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:22:52.02ID:RrA6D5G4
龍樹は一切法の有無については四句分別で否定している(と思う)ので
(自性についても有自性だけではなく無自性もまた勝義的には否定しているようです。まあ無分別智ですからそうなりますが。ちなみに金剛般若経も同じようなスタンスです)
我の有無も後述しますが悉檀によって異なるだけで、最終段階の第一義悉檀では無記となります。

龍樹よりも150年ほど後に成立した大乗涅槃経で、「如来とはアートマンである」論が遂に登場しましたw
また仏性も説一切有部の法体恒有と同じように「常恒にして変易有ること無し」と、いや時間的制約(恒有の法体が知覚されるのは刹那)が無い分有部よりも更に常住の存在となっていて、こちらもほぼアートマンと変わらないと思います。
(大乗涅槃経のアートマンでたる如来(仏)の性なのでアートマンであるというのもある意味当然なのですが>大乗涅槃経の仏性)

大乗涅槃経のアートマン論が記載されているサイト↓
http://blog.livedoor.jp/k12345kk-12345678910/archives/8652839.html
まあここだけじゃなく、経の最初の方から「自我を離れた仏性(我)があり、常住で永遠不滅(常)であり、苦を離れたところに真の安楽があり(楽)、煩悩を離れ浄化された清浄な教えを瞑想する(浄想)」、それこそが真実であり宝珠である、というような説かれ方繰り返しされていますけどね。
しかし、そのサイトを一読しただけで、実は大乗涅槃経こそこちらの宝珠さんと相性が良いのではないかと思いました。

中国や日本の仏教は大乗涅槃経の影響が強いのでしょうかね?今後機会があったら調べてみます。
0610神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:24:58.57ID:RrA6D5G4
大智度論 第一巻(上) での我についての考察の部分

 また次に、仏は第一義悉檀の性質を説明するために般若波羅蜜を説く。
四種の悉檀がある(悉檀とは論拠や説明のことで、我々が仏の教えを信じる根拠となるもの)。
一つ目は世界悉檀、二つ目は各各為人悉檀、三つ目は対治悉檀、四つ目は第一義悉檀である。
四つの悉檀は一切の十二部経と八万四千の法蔵をその中に含んでおり、これらはすべて真実であって、お互いに矛盾することなく、仏の教えの中で説かれている。
世界悉檀のゆえに実有であり、各各為人悉檀のゆえに実有であり、対治悉檀のゆえに実有であり、第一義悉檀のゆえに実有である。
 なぜ世界悉檀というのだろうか。
この世界の事象はすべて因縁が寄り集まることで存在しているのであって、他に存在する原因があるわけではない。
たとえば馬車は、轅(馬をつなぐ部分)や車軸や車輪などが寄り集まることで存在していて、それらの部品とは別に車があるのではない。
人もまた同じである。五つの要素が集まることで存在していて、それらの要素とは別に人があるのではない。これが世界悉檀である。
0611神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:27:46.42ID:RrA6D5G4
>>610続き

仏は、「私は清らかな天眼で人々を見渡し、善悪の行いに従ってここで死に、あそこで生れ、その果報を受けるのを見る。善い行いをした者は神々や人間の世界に生まれ、悪い行いをした者は三悪道(畜生、餓鬼、地獄の世界)に堕ちるのを見る」と言っている。
また次に、「一人が出家すれば多くの者が幸福を受け、ますます栄える。これが仏世尊である」と言っている。(増一阿含経巻3)
『法句経』の中では、「精神的な力は自らを救うことができる。他人がどうして私の精神を救うことができるだろうか。自ら善を行う知恵のはたらきは、最もよく自分自身を救う」と説いている。(ダンマパダ160偈)
『瓶沙王迎經』では、仏は、「凡人は教えを聞かない。凡人は自我に愛着する」と説いている。(中阿含巻11頻鞞娑邏王迎仏経)
また、『二夜経』のなかでは、「仏が初めて悟りを開いた夜から、涅槃に入った夜まで、この二夜の間に説いた教えはすべて真実であり、誤りはない」と説いている。(中阿含経巻34)
もし、実際には人というものが存在しないのだとすれば、仏はどうして「私は天眼によって人々を見る」と言ったのだろうか。


世界悉檀においては、人は存在すると言える。しかし、第一義悉檀においてはそうではない。


第一義悉檀は真実であるがゆえに、第一義というのではないか。だとすれば、他の悉檀は真実ではないのか。


そうではない。四悉檀はそれぞれ真実である。
実相、法性、実際は世界悉檀においては存在しないと言われるが、第一義悉檀においては存在すると言われる。
人もこれと同じである。世界悉檀においては存在すると言われ、第一義悉檀においては存在しないと言われる(存在するしないの分別を離れる)。何故であろうか。
 人は五種類の要素が集まることで人となる。たとえば、乳について考えてみよう。乳は色や香りや味や感触の集合体として存在している。
もしここに乳が存在しなければ、乳の色や香りや味や感触は存在しないだろう。いま、それらの乳の諸要素があるから、ここに乳が存在している。
ここで、乳が存在する・しないという意味は、たとえば一人の人に二つ目の頭や三つ目の手が存在しない、ということとは違う。その場合は架空の存在に名前を与えているだけである。こういったことを、世界悉檀による説明という。
 では、各各為人悉檀とは何であろうか。人の心や行いに合わせて教えを説くが、そのなかで聴いているところもあり、聴いていないところもある。
経の中に説くように、善悪の行いのために、人間界や地獄などの世界に生まれ、それぞれの対象から苦しみや楽しみを受ける。
https://haja.sakura.ne.jp/blog/811/
0612神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:46:59.03ID:8S584CGP
中国・日本仏教で影響大の決定的経を三つ挙げることができると思う。
法華経、華厳経、そして大乗涅槃経。

勿論、他、金剛経、維摩経なんかも、その精神性の影響は大きいけど、
上三つで、殆ど押さえられるんじゃなかろうか。

で、別して小品心経、と。
0613神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/13(月) 23:48:44.94ID:RrA6D5G4

仏は、因縁がとても意味深い教えであると説いている。
仏は阿難に、因縁の教えは意味深く、理解しがたく悟りがたいもので、注意深く知恵の優れた人だけが理解できると言っている。
愚かな人は、身近な道理ですら理解できないというのに、どうして意味深い因縁の教えを理解できるだろうか。
それなのになぜ、愚かな人は因縁の教えを観察すべきだというのか。


愚かな人とは、牛や羊のような愚かさを言うのではない。
真実の道を求めるけれども、誤った観察をしているために、誤った考えに陥ってしまう人である。こういった人は、因縁を観察するべきだ。この場合には、それが良い治療法である。
一方で、怒りや貪欲によって行動する人は、快楽を求め、人を苦しめようとする。このような人にとっては、因縁による治療はふさわしくない。
これらの人には不浄観と慈しみの心が良い治療法である。なぜなら、これらの治療法は怒りと貪欲の毒針を抜くことができるから。
 また次に、真実に反して永遠の存在を信じる人々は、諸々の事象が互いに似ていて相次いで生じることに気づいていない。
このような人が無常を観察することは対治悉檀であって、第一義悉檀ではない。なぜかといえば、あらゆる事象は本質的に空だから。
偈に言う、
『無常なものを永遠のものと考える、これを誤った考えという。空の中には無常はない。どこに永遠なるものがあるだろうか』。

(偈を説いて言うが如し、
無常を有常と見る、是れを名づけて顛倒と為す
空中には無常無し、何処(いづく)にか有常を見ん)
https://haja.sakura.ne.jp/blog/811/

この偈は龍樹お得意の論法って感じですね。
0614神も仏も名無しさん
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2020/04/14(火) 00:01:28.07ID:CrnKifP1
>>612
五時八教の教判で、最初と最後に説かれた教えがブッダの最も深淵な教えだと思われていたのでしょうかね?

五時八教説 (天台)
最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。
そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。
(Wikipediaより)
0616神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/14(火) 02:22:09.62ID:hBxw77CH
仏教の長い歴史の中の厨二病的「ボクの考えた最強の(略)」がまさしくそれ
0618神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/14(火) 08:35:12.85ID:hfTYITvl
 
仏性を衆生(人間)に限らず
山川草木や生類すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性とかは
とりあえず
「オモシロそう?」だけど

たとえば↓創価信者とかなら

スッタニパータ 772
身体のうちにとどまり、執着し
多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没して
遠ざかり離れることから遠く隔たっているので
(無明・有覆無記に依存しているのなら)

「(久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏してた)
  久遠実成であるはずだ!」と云うような欲望を捨て去ることは、容易ではない

 − これに対して −

真言亡国とされている
密教においては
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じ
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

これは「オモシロそう?」なので
とりあえず(「仮設としての」という意味で)肯定♪
(もっとも.これも久遠実成なる仏を前提としてるような気がするけど.とりあえず♪)

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0619神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/14(火) 10:12:17.26ID:J8bzFt82
智は天才w
色々言われるけど、
諸経を読み込み、咀嚼した上で、各経の内容と意義を一つの図面に組み直したのだから。
で、文献学的考証や歴史的考古学的事実との整合性はともかく、
継ぎ接ぎキメラでなく、内容に関してちゃんと筋を通したのだから。
(智オリジナルってわけでもない。寧ろ法華経に集約させていった感じ。)

で、日本仏教は、良くも悪くも、
(近代になって西洋近代仏教学が入ってくるまで)その図面の上にあった、と。
そしてまた、その図面作成に際しての個別の分析に関しては、今もって有効、と。
まあ、だから、「清浄なる仏性(≒真の私)がある」として、
長きに亘る(受け入れ易い)下地が既にあった、とも言えるけど。
0620神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/14(火) 21:10:51.45ID:hfTYITvl
 
チベットとか言うと
「オウム信者か?」と叩かれるかもしれないけど
とりあえず
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット.ゲルク派

自立派(中観自立派)の場合
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。
  それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します。
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。
(帰謬派を理解するのが難しい一般的な人々にとっては
  自立派の説明は.わかりやすい
  ID:hfTYITvl も「仮設としての」という意味で自立派♪)

 − これに対して −

帰謬派(中観帰謬派)の場合

(無明により.妄想し)分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
「誰も気づいていない山火事」も、
いま(無明により.妄想している)我らによって分別されている

無明により.妄想し分別している心の働きを捨て去ることは、容易ではない

自立派が言う
「自相(自性)があるはずだ!」と言うような欲望を捨て去ることは、容易ではない

帰謬派を理解するのが難しい一般的な人々にとっては
「帰謬派の説明は意味不明である!」という感じで叩かれている場合もあるかもしれない

中観帰謬派 ← 意味不明なので「叩いてやる〜♪」
0622神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/15(水) 22:14:26.48ID:nT1Lb/Ga
 
インド
バラモン.ゴータマ・シッダッタ.説一切有部.大乗

そして.今のインドは

2020/04/15.インドで暴動
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000181875.html

2020/04/03.インド.ウイルス - ヘルメット
https://iflyer.tv/article/2020/04/03/corona-virus-helmet/

2020/03/26.インド.刑罰 - 腕立て伏せ
https://www.fnn.jp/articles/-/22491

2020/04/14.インドネシアに幽霊出現
https://www.cnn.co.jp/fringe/35152356.html
0623神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/17(金) 05:11:29.81ID:xGVPqdMI
コロナ対策の最強コピペです。拡散してください。

「新型コロナウイルスに関してじゃが、あれは目に見えんじゃろ?仮に目に見えた場合どういうものとして認識するかが、このウイルスの感染を防ぐ鍵じゃ」
「と言いますと?」
「全身が泥水まみれの人間を想像してみよ。そしてその人の口からも少しずつ泥水が出てきておると仮定する。たまに咳やくしゃみをして泥水が周りに飛び散ることもあるじゃろな」
「よくう◯こに例える人もいますが・・」
「それはちとやりすぎじゃな。ウイルスへの余計な嫌悪感が付加されおる。そういう泥まみれの人間が何人か街中を歩いておると考えよ」
「今のところ、5〜10万人に1人、ってところですかね」
「そうじゃな。そういう人がどこかに触るとどうなる?」
「そこに泥が付きます」
「そう。そのなすりつけられた泥を他の人が触る。そしてその泥が口や目の中に入って初めて感染が起こるのじゃ」
「なるほどね〜」
「泥水まみれの人が歩くとどうなる?」
「泥水の跡をつけながら進みますよね」
「それを他の人が靴で踏む。そのまま家まで持ち帰ってしまう」
「ひやあ!急いで靴洗わなきゃ」
「それには及ばんよ。日本人は靴を脱いで家に上がるからの。ちゃんと手洗いをすれば大丈夫じゃ」
「だから欧米は感染率が高いんだ!」
「それも理由の一つじゃろうな。靴は玄関に置いておけば大丈夫じゃが、もし服などに泥がついてしまったら家の中に持ち込んでしまうことになるじゃろ?」
「服も消毒するべきですよね」
「そういうことじゃ」
「なるほどよくわかりました。でもそうなるとマスクはあまり意味がないようにも思えてきました」
「マスクはな、泥がついた手で口を触るのを防いでくれるのが大きな役割じゃ」
「あ!やっぱ必要なんですね」
「そうじゃ。本当はゴーグルもつけておく方が理想的じゃな」
「それじゃ変な奴と思われますよ…」
「まあ嫌なら止めといたらいい。とにかく目や口を触らないことじゃ。そしてまめに手を洗う」
「そうですね!コロナは泥、コロナは泥、と・・」
「とにかく泥を持って帰らなければいい。それに努めて安心して暮らすのじゃ」
「わかりました!早速みんなに広めます♪」
0624神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/17(金) 09:38:46.14ID:kJif61jp
既に蔓延してるのに今更感染対策しても意味あんのかよw
安倍自民に投票した奴らのカルマだかんな
来世以降も背負えよ
0625神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/17(金) 14:04:42.63ID:p4mV29TV
民主党政権なら今頃とっくに医療崩壊してたわな

安倍政権が良い訳じゃなくて野党がそれを遥かに下回る無能だというだけだし
0626神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/17(金) 17:25:47.41ID:ccw8ZIos
金剛般若経 八千頌般若経 二万五千頌般若経 般若心経 善勇猛般若経 般若理趣経
維摩経
法華経
阿弥陀経 無量寿経
十地経(華厳経十地品) 華厳経入法界品
三昧王経(月燈三昧経)
金光明経
楞伽経
金剛頂経 秘密集会

他にサンスクリット原典が完全あるいは完全に近い形で残っている大乗仏典はありますか?
0627神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/17(金) 22:21:43.38ID:Alio+V7z
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E7%B5%8C%E5%85%B8
仏典の本格的なサンスクリット化が始まったのは
グプタ朝が成立した4世紀以降である

グプタ朝の下では
これ以降インド仏教の中心機関となる
ナーランダー大僧院が設立され、大乗仏教についての研究・研鑽が行われた

ナーランダー大僧院や
ヴィクラマシーラ大僧院といった.インド仏教の中心機関が
12世紀末から13世紀初頭のイスラム勢力による侵攻で崩壊し、
インド仏教の命脈が絶たれてしまったことで、
サンスクリット経典のほとんどは、インドから消滅・散逸してしまうことになった。
  _  _  _

ふ〜む =^・・^= にゃるほろ♪
ほとんどは、インドから消滅・散逸してしまったらしいので
サンスクリット経典探しは.あきらめて
漢訳とか.チベット語経典とかの参照 ヨロ ということで

https://true-buddhism.com/shuha/early/
今日では
パーリ仏典より
漢訳の阿含経のほうが古いと推定されることが多くあるらしい
0628宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 03:24:24.45ID:fHTbczrT
では、私からのコロナ関連の投稿です。
研究データによれば、コロナウイルスは大気中に漂っているだけでは長く生存できないようで、わずか3H足らずの寿命とのこと。
ところが、物体に付着した場合には最長で72Hほど生存するらしく、プラスチックやステンレスが長生きをするらしい。
また、物体の表面は凸凹よりもツルツル面を好むようであり、頻繁に触るスマホ携帯などは最も怪しい対象物ということになります。
とにかく、マスク(飛沫防止) と手洗い(石鹸後にアルコール消毒)で予防に努めましょう!
私は、1日1回は全部の窓やドアを全開して空気の入換えを敢行し、
ドアノブやTVリモコンその他、頻繁に触れる箇所すべてを塩素系希釈液で消毒しています(尚、自動車内はアルカリ性電解水を使用)。
0629宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 03:26:16.57ID:fHTbczrT
----- 新型コロナウイルス対策情報 -----
 国立研究開発法人理化学研究所(理研)の元特別研究員として、抗癌剤やワクチンの開発に携わってきたという小早川智氏による怒りの
顔出し暴露インタビュー記事が凄い内容です。情報ソースは、あの怪しさいっぱいのオカルト系ニュースサイト『TOCANA』ですが、実際に
研究機関の公式サイトで情報提供者の小早川氏を確認できるのでかなり信頼性のある話ではないかと思われます。
 氏によれば、ワクチンそのものが利権(ビジネス)の絡んだものであって、子宮頸がんワクチンなどについては効果の期待できるのは10万人
に7人程度の上、逆に副作用が強いとのこと(ワクチンには防腐剤として水銀やアルミニウムが入っている)。
 そして今回、新型コロナウイルスの治療薬として政府が期待を寄せ使用に踏み切ろうとしている「アビガン」について、これは中国で様々
な薬品が次々と試されたカクテル効果によるものであって、実際に効いたのが本当にこのアビガンだったのかさえも不確かな情報であり、尚
且つ、このアビガンは人体の正常な細胞そのものを破壊する恐ろしいもので、動物実験では奇形を誘発するような強い催寄性が確認されてい
る強い劇薬とのこと。
0630宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 03:27:40.60ID:fHTbczrT
 氏によれば、腸内フローラの正常な機能を高めて免疫力UPを計れば、外部からの人工ウイルス(武漢ウイルス研究所から流出したのがコロ
ナだという米政府情報あり)にかかることはないといい、
 『私は、食事療法で免疫力を高め、善玉菌で身体を満たすことが一番の新型コロナウイルス対策だと考えています。特に味噌汁、梅干し、
ぬか漬け、納豆、甘酒などの発酵食品が良いです。つまり江戸時代から食されている日本食そのものということになります。---中略---実は、
これまでの研究で、味噌は熟成して発酵させればさせるほど、大豆たんぱくとみその成分中にACE阻害ペプチド、つまり高血圧防止ペプチド
を生産することがわかっています。新型コロナウイルスは、ACE2受容体を発現してい
る肺や腎臓、精巣に感染しやすいので、予防対策には味噌が効果的なのです。これはメディアではあまり報じられていません』とのこと。

 私も早速、意識的にこれらの発酵食品を毎日頂くことにし、自宅でぬか漬けも始めました。
手軽に美味しい浅漬けができて実に美味しい。
 https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-12589959282.html
 https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-12589965811.html
0632宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 13:59:27.92ID:fHTbczrT
>>606-609
あとで、
「マハルシ」、「アートマン」、「真我」、「ヨーガ」等々...と、
そして、「仏教」(および「久遠仏」)との関係についてをやります(執筆中)。

自分でいうのもアレですが、
ここまで説明をするところは他にはなかなかないものと思います。
(第三者に提示できるほどのデータソースは所持してませんが、
自分自身の中ではすべてが完結しており、なんら矛盾も疑問もありません)
0634宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 14:19:08.27ID:fHTbczrT
>>631
おっ?
同じような方が現れたの?(それは歓迎ですネ!)
では、安心して消えることができる...とwww
0635宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/18(土) 15:55:56.73ID:fHTbczrT
>>633
>>典型 >>悟りスレ

まっ、改めて言うまでもないことですが、
単なる知的理解と“悟り(覚り/覚醒) ”とは全然違うものだからね!
私はもちろん悟ってなどいる筈もないことであって、けれども、
後はただひたすらその道を歩むだけのこと(すでに何をどうするかはわかってるので...)。
たぶん、失敗や挫折を味わいながらも、
幾生涯かを費やしていつかやっとゴールに到達するものと思う。

なので毎度、
繰り返し現れてくる(自称)悟ったちゃん達とは違うつもり。
0636神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 16:06:43.82ID:zz/Vehw5
今回の相似点はそこじゃなくて、
応用特化のための分派(≒一部抽出応用適正化)が、
主流正統を主張し、本義及び手引きの改変を目論んでいるところ。 w  >>635
0637パーピマン
垢版 |
2020/04/18(土) 16:45:23.46ID:aiC7KScD
>悟りスレで引き取れよw >パーピ

wwwwwwwwwwwwwww
0638神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 19:54:15.15ID:rlfqzBOZ
>>633

禅しか語れない池沼は要らないから見性スレに誘導して

仏教全体の視点を持たない自宗語りはマジで邪魔だから
0640神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 21:11:55.11ID:uDgAdtpv
 
>仏教全体の視点を持たない自宗語り

通常.仏教は
無ではなく「空性」という説法だと思うけど

「涅槃・無為法も.有為法も.すべて無である!」と言ってた
机師匠を見かけないけど元気に生きているのかしらん?

道元禅師.普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
という説法も・導きも.停め・止めてという状態・働きも
机師匠においては「すべて無である!」らしい

机師匠の場合は
いまだ証していないのに既に証覚を得たという
独り善がりの野狐禅に取り憑かれていたのかもしれない?
0641神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 22:44:32.44ID:rlfqzBOZ
>>640

>全ては無で有る
=非仏教だから誰かが潰したかも

有無の二見は邪見という最も基本的な事さえも知らない野狐は話にもならないから
0643神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/20(月) 01:33:50.19ID:FTcMGYZq
■相応部経典 因縁篇12 第7・67 蘆束
(漢訳 雑阿含経 12、6 蘆)

 「友、サーリプッタよ。
  老死は自作なのてあろうか、それとも他作なのてあろうか、
  あるいは自作にして他作なのてあろうか、それとも、自作でも他作でもなく無因生なのであろうか?」

 「友、マハーコッティカよ、
  老死は自作ではありません、そして他作でもありません、
  自作にして他作でもなく、そしてまた、自作でも他作でもなく無因生でもないのです。
  〈老死はそれらのどれにも該当しません〉 生に縁りて老死があるのです」
(以下、12支全てに渡って同じ問答が続く)
https://w.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/19.html

「中論」 第1章 原因(縁)の考察

一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

二 縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁)と、心理作用がつづいて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。

三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(【自性】、本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9504614

(独白)
この辺を少し勉強してみたいと思います。
0645神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 11:56:27.37ID:ZmQ1J1Pt
 
ウイルス関連は↓こちらへ

http://☆nozomi.2ch.☆s☆c☆/test/read.cgi/honobono/1576668184

極力.最新の(日本語の)情報を検索してみる予定
  _  _  _

飢饉災
2020/4/20.バッタ大量発生でアフリカに迫る食糧危機
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58070050V10C20A4000000/

疾疫災
2020/04/15.中国でハンタウイルス
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200415-00010005-flash-peo

2020/02/10.中国.四川省 … 鳥インフルエンザ
https://www9.nhk.or.jp/news/html/20200210/k10012280211000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002
0646宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/20(月) 12:52:19.25ID:CmMGGpD2
>>643
これはあくまでも、
私個人の感覚の問題でしかないのかもしれませんが、
いつも仏典においてよく見られるこのような形式、つまり、
  「○○はAではありません、そしてBでもありません、
   AにしてBでもなく、そしてまた、AでもBでもなくCでもないのです。」
といった一連の云い回しが、この私はどうもあまり好きではありません。

暗誦目的のためなのかもしれませんけれど、
中にはこの云い回しの在り方が類似内容で以て、
更に、何度も何度も繰り返し反復をしてくるものならば、
もう、とてもじゃないけれども読む気も失せてしまうというものです...。

確かに、哲学的な事柄においては、
単純に「これコレである」として確定的に述べることができないというのは、この私にももちろんよく分かる。
けれども、バラモン・ヒンドゥー聖典と比較するとよく分かるのですが、
このような言い回しはそれほど多用されていないし、ましてや仏典のように酷いものはまずみられない。
なので、恐らくこの云い回しというのは、
仏典制作/編纂者による意図的な好みによるものなのだろうとこの私は思っています。

ヒンドゥー聖典とは異なるこの仏典特有の表現というのは、
多分、ブッダ在世の頃に起きた特に有名な六師外道の一人だったサンジャヤ(サンジャヤ・ベーラッティプッタ)教団の
殆どの弟子250人がブッダに帰依したことに起因しているものと私は思う。
ブッダの二大弟子、サーリプッタとモッガラーナも共にこのサンジャヤ教団からきってきたのであり、
特にサーリプッタがブッダを殆ど代弁するような形で仏説を説法していたとも言われていることからも、
伝承された仏典もサーリプッタを介してサンジャヤ(不可知論者にして懐疑論者)
特有のうなぎ論法(掴みどころのない話術)で書かれているのだろうと。
なので、仏典についてはその点が非常に残念でならないところです。

「しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、
それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。」
(サンジャヤ)
0647宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/20(月) 12:55:30.18ID:CmMGGpD2
>>591
「阿羅漢」は、“如来の十号”の「応供」(arhan,arahan)の音写であり、
水野氏も「如来」についての解説では、『輪廻を解脱した理想的な真人として』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊 p80)と、述べています。

ちなみに比較になるかは分かりませんが、
中村氏の岩波文庫『真理の言葉/感興のことば』の第1刷発行は1978年。
水野氏『要語』の方は、1972年発行となっています。
0648ポッタン師
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2020/04/20(月) 14:09:22.82ID:dTzFpA85
バカ宝珠が悟れないバカである、ことが判明して安心した。大爆笑である。
0649神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 15:26:17.00ID:u0koNf6T
>>646
ご存知の通り第一結集どころか仏陀の入滅以前にサーリプッタ(とモッガラーナ)は般涅槃していますし、
ブッダ本人が外教の四句の問いに答えることも多々あります。


相応部経典>因縁篇>第一 因縁相応>第二 食品

「  [一八] 第八 ティンパルカ

 [一時世尊]舍衛城にいた。
 その時、遊行者ティンパルカは世尊のもとに行き、行き終わって世尊と挨拶をし、印象深い言葉を交わして一方に座った。一方に座り終わって遊行者ティンパルカは世尊にこれを言った。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作り、かつ他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのでもなく、他者が作るのでもなく、原因なく生じるのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽はないのか。
 ティンパルカ、苦楽はないのではない。
 ティンパルカ、苦楽はある。

 それならば尊いゴータマは苦楽を知らず、見ないのか。
 ティンパルカ、私は苦楽を知らないのではない。見ないのではない。
 ティンパルカ、私は苦楽を知る。
 ティンパルカ、私は苦楽を見る。
(以下略)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&;id=27402447

あと相応部にはほぼ同じ問答の経典がいくつかあります(例↓
http://www.saisyo.org/EnTyYu/e5.php

無記のような十二支や苦以外のものを四句で問うのは中部や長部に多い印象があります。
大体は外教のバッチャ性の沙門が聞いてくるのですが。

単に有無を問う西洋哲学とは違ってインド哲学では四句で問うと聞いたことありますが、仏教だけですかね?
しかも大体は外教の者がブッダや仏弟子に四句で質問してくるというのがパターンですね。
0650神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 16:52:16.25ID:di/4nmxE
丁寧なんでしょ。思考が。
重箱の隅を塗り潰すように。

或は、
塗残しは、相手からしたら恰好のターゲットだから、とか。
(勿論、自分からしたら相手の攻めどころでもあるがw)
0651神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 19:24:45.95ID:1li/dzwx
宝珠がポッタンにすら劣っているのは確実になったけど、

セブンも、それはまだ違うな

外道を含む修行者(沙門)たちが当然のように「体で」共有している主観的視野というか世界観が大前提にあった上での、
号令のような物事の確認作業のやり取りだけがスッタとして残っているわけで、

概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してるなんてのは龍樹以来の頭でっかちな大乗的な仏教像だよ

カルマや波羅蜜的に、不適格者には、相応のものしか見えない

ゴミに見える者はそいつの波羅蜜がゴミ相応ってこと

宝珠が好例
0652神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 20:08:01.26ID:di/4nmxE
>>651
いや、そうじゃなくて、(仏典内に残されている問答が、ではなくて)
古代インド人一般として、ということ。
思考の癖というか、形式の民族性?文化性?(今でも日本で言う「県民性」みたいな感じで。)

たとえばギリシャ哲学にしても、古代中国の思想の傾向にしても、エジプト文明にしても。
それぞれに特徴というか、考え方の癖ってあるんじゃないかな、と。
0653神も仏も名無しさん
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2020/04/20(月) 20:23:14.77ID:eB+UpVo6
>>651
>概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してるなんてのは龍樹以来の頭でっかちな大乗的な仏教像だよ
>カルマや波羅蜜的に、不適格者には、相応のものしか見えない
>ゴミに見える者はそいつの波羅蜜がゴミ相応ってこと

なるほど、不適格者には相応のものしか見えないとはよく言ったもんだわ。
あんたの波羅蜜がゴミだから「概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してる」と見えるわけねww
0654神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/20(月) 20:48:59.71ID:di/4nmxE
サンジャヤチームが入って、仏教のクリティカルな部分が失われた
(思想的なあなあのぼやけたものになった)、
と憤っていた袴谷先生w
0655神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/20(月) 23:54:59.18ID:FTcMGYZq
http://get.secret.jp/pt/file/1587393522.jpg
http://get.secret.jp/pt/file/1587393552.jpg
http://get.secret.jp/pt/file/1587393577.jpg

ちょっと見辛いですが…。
縁起(の理法)だけでも諸部派によって有為とするか無為とするか見解が分かれるので、
ウダーナ(有部だとウダーナヴァルガ)の涅槃に関する自説において見解が分かれるのも無理はないようですw
涅槃は形成されざるもの、つくられたものではないもの、というのは部派仏教でも大乗仏教(少なくとも龍樹まで)でも一緒ですが。
ただ、涅槃を有部のように実有とするか、経部のように無(実体視しない)とするか、犢子部のように有にしてかつ無とするか、中論のように有に非ずまた無に非ずとするか、見解が色々と別れますね。
そういう歴史があるので、多分ここで議論を尽くしても答えは出ないのではないかとw
0658神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/21(火) 23:32:51.21ID:vtII2nEL
>>643自己レス

>(以下、12支全てに渡って同じ問答が続く)

蘆束経では十二支縁起ではなく十支縁起で、最後は識と名色の相互依存で終わっていました。
0659神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/22(水) 14:33:12.33ID:F/rwe2Re
>>657
なるほど、中村さんか。 どうりで詳細的確な筈だw

十分です。謝。


(これは龍樹(中観)全般についての本なので、深入りしてないけれど)
中村さんも、通仏教的縁起も、相依の縁起と見てる感じかな?
時間性はその一部、と。相依性が縁起の骨子、と。
0660神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 00:28:38.15ID:7guUGENS
チャンドラキールティが縁起を相互依存(parasparApekSA)と見てるので、その解釈が主流派な感じ
0661神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 16:06:43.67ID:g6ATg/gs
「縁起」「相互依存」 全文検索 検索結果: 147件
https://ci.nii.ac.jp/fulltext?q=%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%80%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BE%9D%E5%AD%98&;count=20&sortorder=1

なるほど。↓
「縁起」「相互依存」 論文検索 検索結果: 11件
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%80%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BE%9D%E5%AD%98&;range=0&count=20&sortorder=1&type=0

まあ、隠居との遣り取りからも仄見える今現在流布してる日本仏教の一般的縁起観も、
「心経からの解説、或いは華厳の網的世界観」ベースで、あまり時間性関係ないしね。
(言い出しっぺは誰だろ。やっぱ中村さんかしらん。)
まあ、或る意味同時存在のようなもんだけど。
(ああ、中観ではこれも「ある」とは言わないか)

こうだからこう、という因果関係が軽くなってる気がしちゃうんだよね・・。
気のせいか知らんけど。  >相互依存


関係ないけど、
「いのち(仏心・仏性)の偏在と永続、そして繋がり(絆)」も、
宗派問わず「現代日本仏教の基本スタンス」になってるし。
0665宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/27(月) 00:44:37.79ID:EyaBeGBp
>>606-609
「マハルシ」、「アートマン」、「真我」、「ヨーガ」等々...と、
そして、「仏教」(および「久遠仏」)との関係についての私見。

 『とにかく存在の問題は極めて複雑であって、後世の大乗仏教で説かれる法身仏や仏性・如来蔵と、外教が説く梵や我と、どの点がどの
ように違っているかをも仏教者としては明らかにすべきである。(p148)』
 なお我(a^tman,attan)について、仏教では外教が説くような実体本体としての形而上学的な我は、これを問題とすることを禁じ、これを
説かなかったが、常識的な我とか仏教が理想とする完成された自己としての我とかは原始経典の中にもしばしば説かれている。これは外教
の我と同じ語であるが区別せられるべきである。たとえば「如是我聞」の我は常識的な我である。また法句経160偈に、「実に自己が自己の
依主である。---中略---。」とある場合の自己(attan)とあるのが我と同じ語である。』(p163)
 『なお仏教は霊魂を説くのか否定するのかということがある。外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、
人格の主体としての 業(ごう)を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪
廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』
(p164)
 『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略--- しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では古くか
ら不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。』(p170-171)
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0666宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 00:46:30.91ID:EyaBeGBp
 『この涅槃は、異端者達が主張していたような、単なる苦行とか、単なる禅定とかによって得られるものではなかった。世界人生の真理に
関する正しい智慧によって得られなければならない。この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく
知り、それを体験することによって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼ん
ではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であると
せられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。』(p126-127)
(水野弘元著『原始仏教』2002年第16刷/平楽寺書店)
0667宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 00:47:20.52ID:EyaBeGBp
 水野氏による解説を学ぶならば、元々、仏教においてはバラモン教のようなアートマンを説かないけれども輪廻主体については説いている
ということが分かるので、“無我と輪廻は同時成立できない”といった仏教界特有の馬鹿げた議論そのものが最初から無益なものであること
がわかります。また、“仏教の目指す涅槃の境地とバラモン教の梵我一如には殆ど違いがない”としながらも、バラモン教のようなアートマ
ンを説かない仏教における法身仏や仏性・如来蔵が、外教が説く梵や我とはどこがどう違うのかについて仏教者は明らかにすべきであると主
張しています。そのことが今まさに、このスレで考察されていることとなるというわけです(尚、梵我一如と涅槃とは同一であるとする見解は
他の研究者の中にも見られる)。
 しかしながら、ブッダは決してアートマンそのものを無いなどとは言わなかったし(アートマンの有無そのものについては無記の態度をとっ
た)、ただ五蘊はアートマンではない(五蘊無我)ということと、現象界においてはアートマンは知覚されないというまでの話(元々、アートマ
ンは非物質性であるから五蘊無我とは何ら矛盾しない)。そして、ブッダが否定したアートマンとは、ウパニシャッドの説くような実体的で機
能的なアートマン観(アートマンの内在する部位やその大きさとか、またはアートマンの動きなどの機能面、等々...)に対するものであって、
アートマンの持つ基本属性であるその完全なる善と不滅性、融合意識など...>>487については、涅槃と相通じるものであることがわかります。
0668宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 00:48:42.03ID:EyaBeGBp
 マハリシの場合はというと、この方は生まれついての完成者(神の化身アヴァターラ)であって、17歳頃に体験した“死の経験”(突如、襲い掛かっ
てきた肉体死/自己消滅の恐怖)を経ることで本来の自分(生まれついての実現者としての自分とその使命)を自覚するに至ったというものであり、
しかも、マハリシのような生まれついての完成者であれば、尚更、彼の説くジュニャーナ(智恵と啓発の探究の道)のアプローチといった典型的
な不二一元論アドヴァイタにおいては、「何もする必要はない。あなたは最初から今そのままで真我アートマンであって、それ以外の何ものでもない(そ
の「実現していない」という想念を追い払いなさい!)」>>606と、言い続ける教え方を摂る傾向がより強くなる印象を受けます(一部の禅者や
勝義諦に傾倒する者の中にも修業無用を主張する者がいる)。
 この(病気でもないのに)まるで何か肉体死するかのような奇妙な壮絶体験などというのは、恐らく生まれながらの完成者といえども、肉体を
持って母胎から生れることによる必然的な物質性の覆いを取払うトリガー(引金)のような役目を持っているのだろうと思われます。このマハリ
シの事例のように、特別に永年の修行を経なくても生れつき完成されている聖者を仏教的な言い方をするとしたならば、それは「久遠仏」の意
味合いにより近いものだろうと思う。久遠仏とは、“無始より(永遠)の昔からすでに仏であった”という意味ですが、もちろん、実際にそうい
うことは在り得る筈のないことであって、当然、マハリシにおいても前世か前々世、またはそれ以前〜のいずれかの生涯において完成に至った
段階を経ている筈です。大乗(法華信仰)においては、ゴータマ仏の永年の修行と過去世の善行積徳物語ジャータカもすべて衆生を教え導くための演
技(方便)であったに過ぎないと見なすようになる(大乗僧侶たちは、自ら修行を重ねるほど自分たちとブッダとのあまりの違い故に、「我々では
到底、とてもブッダのようになることなどは不可能に思える...」ということで、遂には、ブッダは最初から我々とは違うのだと見なして、た
だひたすら衆生を救うために現れた特別な久遠仏として崇め奉るようになった...。
0669宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 00:50:29.83ID:EyaBeGBp
 とにかく、ジュニャーナ及び不二一元論アドヴァイタというのは、仏教的にいうところの勝義諦であって、「あなたはアートマン以外の何もので
もない(そのことを自覚せよ!)」という究極の真理を提示することが最大目的であって、ただし残念なことに、これ(勝義諦)によって、「はい、
そうですか!」といってアートマンに目覚める者などは皆無に等しいというのが実際(ただひたすら、「自己実現していないというその想いを追
い払え!!」といって相談者の精神ココロを追込んでゆくという手法)。そもそもこれだけで完成に至る者というのは、最初からその時点でほぼ完成
に近い段階にある者なのだということ(従って、万人には向かない)。そして尚且つ、このような勝義諦を説く者の持つ最大の問題点というのは、
その師はそれ以外(の手法や道)については認めない傾向が酷く強いということ。そのことは不二一元論アドヴァイタの創始提唱者のシャンカラチャ
リヤはもちろん、そして、20世紀の仏陀とか20世紀最大の哲人などと讃えられたクリシュナルティも(彼は、ヒンドゥー教的なアプローチこそ
使わなかったけれども)、こちらも勝義以外を決して認めないタイプだったということからも分かる(神智学協会によって巨大なオーラを放つ少
年としてインドから見出され、救世主マイトレーヤとして迎え入れられた完成一歩手前の第4段階イニシエート)。
 これに対して、マハリシの場合には同じくジュニャーナ的手法を徹底するも、これ以外の手法や道というのはジュニャーナへと至ることを助
けるためのものであるとして、その意義については認めているという点が素晴らしいところです。
0670宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 00:58:28.99ID:EyaBeGBp
 咎のない者(アルジュナ)よ、この世には二種類の道がある、とわたしは前に述べた。哲学者サーンキャの知識の実修ジュニャーナ・ヨーガによる道と、実
修者ヨーギンの行為の実修カルマ・ヨーガによる道と。(3-3) 人は行為に着手しないでは超行為の状態に達せず、また行為の遠離カルマ・サンニャーサによっての
み完成に到達するものでもない。(3-4) なぜなら、一瞬間さえも行為を行わずにいる者はないから。すなわち、すべての者は根本原質プラクリティ
から生ずる成分グナによって、いやおうなしに行為させられる。(3-5)
 (行為の)遠離と行為の実修とは、ともに至福(解脱)をもたらす。しかし両者のうちでは、行為の実修が行為の遠離よりすぐれている。(5-2)
 学サーンキャと実修ヨーガとを、異なった(結果を生ずる)ものとして愚者は語るが、しかし賢者はそうではない。たとえそのいずか一方にでも正し
く専念すれば、両方の結果を得る。(5-4) 哲学者サーンキャが得る境地は、実修者ヨーギンによっても達せられる。哲学と実修とを(同じ結果を生ず
る点で)同一であると見る人は、真に見る者である。(5-5) しかし、力の強い者よ、行為の遠離は行為の実修なくしては容易には達せられな
い。実修を修めた聖者は直ちにブラフマン(宇宙の最高原理)に到達する。(5-6)
(バガヴァッド・ギーター 第三章,第五章)
0671宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 01:02:48.06ID:EyaBeGBp
 聖典『ギーター』の素晴らしいところは、このジュニャーナ及び不二一元論アドヴァイタのみが真理だとして他を排除しがちな傾向となる勝義諦
(非行為の道サーンキャ/ジュニャーナ)のみならず、それ以外の手法と道(行為の道ヨーガ)も共に完成に至る道であるとして教え、結果的には、ヨーガ無しで
ゴールに至ることができる者などはいないことから、“ヨーガの実修は必然である”ことを明確に説いているところです。
 私はこの前、仏教というのはヴェーダを単純否定するものではなくて、当時のバラモンたちの間違いを指摘することで本来のあるべき正しい
バラモンの姿を説くものだとして、ブッダこそが“ヴェーダの達人”そのものであるといいました。当時のバラモン達の間違った伝統に対する
アンチテーゼとしての異端派(バラモン教)の一つだったものが、後に「仏教」として呼ばれるものとなったのだと。そして、私が提示したこれ
らの経文こそがその揺るぎなき確かな証拠となるものだと思います。>>202-210
 つい最近も、「ブッダの説いたものは勝義諦ではなくて、世俗諦だった」(それは意図的で必然のもの!)と、この私は言いました。何故ならば、
ブッダの教え方も実にヨーガ(行為の道)に他ならないからです。
 スマナサーラ氏はヨーガのことを何も知らず、単に憶測でもってアートマンについてアレコレと説く有我論などとして馬鹿にしていますが、
実際上は、ヨーガにおいてアートマンがどうしたこうしたなどという話が出ることなどは殆どないし、その必要性すらもない。ヨーガというの
は科学的な技法メソッドを持っており、アートマンについての哲学的思考や理論や信仰などは特に無用です(アートマンをアレコレ説くのはヴェー
ダーンタ哲学、及び不二一元論です。日常のヨーガ実修においては特に必要な話でもなく、精々、「どんな困難があってもあなたの中には無限の
力が眠っている」と激励し、実修者を力付ける意味合い程度です)。
 ヨーガは科学であり、ただ実践を繰り返し修得していけば、後はおのずとその結果が出るというだけのこと。

>>670『』綴じ忘れミスですm(__)m
0672宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 01:04:46.77ID:EyaBeGBp
 “Yogā ve jāyatī bhūri, Ayogā bhūrisankhayo;
 Etaṃ dvedhāpathaṃ Satvā, Bhavāya vibhavāya ca;
 Tathāttānaṃ niveseyya, Yathā bhūri pavaddhatī”ti. 
 (Dhammapada 282)

 『実に心が統一(yoga)されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一(yoga)されないならば、豊かな知慧がほろびる。生ずることとほろびる
こととのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。』
 注282 心が統一され ----- yoga.原始仏教もヨーガを認めていたのである。ヨーガとは「結びつける」という意味で、心を散乱させないよ
うに一つの対象に結びつけることである。しかしそれは後代の曲芸のようなハタ・ヨーガとは異なっていた。』
(中村 元訳『プッダの真理の言葉/感興のことば』岩波文庫p125)

 そして、ブッダの教えはカルマ・ヨーガの典型そのものであり、ゴータマはカルマ・ヨーガの最高達人としてヨーギン(ヨーガ道の実践者)た
ちの中では称賛されているのです。「カルマ・ヨーガ」とは、行為への専念。日常行動の全てを結果を求めずに義務の遂行を行う道(奉仕のヨー
ガとも呼ばれる)。つまり、執着の放棄を達成して、カルマ(行為/業)の束縛から解放された自由境を得ることを目指すもの。
 聖典『ギーター』の教えの要は、このカルマ・ヨーガについて教えることにあるのです(スマナサーラ氏がいうような戦争や殺人を説くものな
どではありません)。
0673宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/27(月) 01:14:10.59ID:EyaBeGBp
 『したがって、執着を離れてたえず義務的行為を行え。なぜなら、執着を離れて行為を行う人は最高所(解脱)に到達するから。(3-19) 行為は
すべて、根本原質の成分によって行われる。しかし、自我意識で心が迷った者は、「わたしが行為者である」と考える。(3-27) しかし、力の強
い者よ、個我が(根本原質の)成分および行為と異なることの真相を知る者は、「成分は成分に対して活動する」と考えて執着しない。(3-28)
 行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14)
 すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果に対す
る執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20) 期待を抱かず、
心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、なんら罪過(輪廻)を
得ることはない。(4-21) はからずも手に入れたものに満足し、相対を超え、妬み心を離れ、成功・不成功を平等に見る者は、たとえ行為をな
しながらも束縛されることはない。(4-22) 』 
(バガヴァッド・ギーター 第三章,四章)


 以上.
0674宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/27(月) 01:18:58.55ID:EyaBeGBp
>>598-599
遅レス。
あなたの方こそ、ただの悪口ばかりじゃないか?

もしも、この私(の主張)に対して反論があるのならば、
七セブンのように真正面から正々堂々と正論で向かってきなさい。
その際、理論的かつ具体的な中身で宜しくどうぞ。
それが納得いくものであれば、もちろん認めます!
0675宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/27(月) 03:41:42.17ID:EyaBeGBp
>>670
訂正:
 ×「学サーンキャと実修ヨーガとを」  
 ○「哲学サーンキャと実修ヨーガとを」
   (上から6段目)
0676偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0
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2020/04/27(月) 04:07:44.04ID:AKzdbnD4
人生とは神が作ったゲームです。
我々は全員神の子であり、もともと神の性質と能力を備えています。
神がその子供達を楽しませるために用意した最高に面白いゲームの場が宇宙であり、プレーすることが生命や人生と呼ばれるものです。
ゲームのベーシックなルールは、次元の制約、光速度不変の法則、因果の法則、などといった形で存在していますが、それ以外の細かいルールや仕様は各プレーヤーの裁量で自由に変更できます。
寿命を迎えたり何らかの原因で生命活動の維持が難しくなるとゲームオーバー。ゲームクリアは解脱であり元々の神の性質に戻ることとなります。

ゲームプレー中はこれがゲームであることを一旦記憶からなくすように定められていますので、ほとんどのプレーヤーはゲーム内ではそのことに気がついていません。ゲームステージが上がるにつれて徐々にそのことを思い出せるようにもなっています。
ゲームはそのステージによって、「苦難」「争い」「愛」「欲望」「善と悪」「男と女」といった様々なプレーヤーに共通のテーマが与えられます。すべて答えがなかなか出ない難しいテーマになっていますが、やりがいがあって大変面白く出来ています。
それらをどう解釈し乗り越えるかは各プレーヤー次第です。選択肢は無限にあります。

ゲーム終了間際、観世音菩薩という名前の超優秀なプレーヤーでありアドバイザーが現れ、問いかけます。
「いかがでしたか?神さまの造られたこのゲーム。楽しめましたか?
私もかつてこのゲームを夢中でやっていたプレーヤーの一人ですが、このゲームのおかげですっかり成長することができました。
私はあと一歩でゲームクリアなのですが、クリアしてしまうとゲーム外に出てしまいますので、それを残してゲーム内にとどまり、他のプレーヤーの手助けやアドバイスを勝手にしています。すべてのプレーヤーにクリアの道筋が立つまで自分自身もクリアしないという誓約を立てています。
あなたのゲームは一旦ここで終了ですが、ゲームクリアはなされていませんので、まだ何度でもゲームに戻りプレーを再開することができます。ゲームでやり残したことがあったり、もっともっと楽しみたい場合はゲームに戻ることを選択してください。」

観世音菩薩は様々な姿(人間、動物、芸術、哲学、娯楽)となってプレーヤーの近くに現れ、このゲーム攻略のヒントを伝えていますが、他にもゲームのカラクリを見破りプレー中に他のプレーヤーにヒントや情報を与えるプレーヤーが時々います。
よくRPGに出てくる長老のような存在ですね。ヒントは独自のものでやり方もそれぞれ異なりますが、いずれも実践することにより多かれ少なかれ確実にクリアに近づくようになります。ゲーム全体の把握はプレー中はなかなか難しいので、ある道すじへのヒントという形で示すしかありません。これを方便といい、様々な宗教が存在するのはそのためです。
中には嘘つきも存在するので注意です。
もちろん彼らの言うことを聞かずに、独自にゲーム攻略法を考案するのもアリです。

そういえば釈迦如来という長老プレーヤーの一人が、「向かうべき方向はあちら」と指し示した時に他のプレーヤーがその指ばかり見ていたので、「おいおい俺の手を拝むんじゃねえよw あっちあっち」と苦笑してましたね。
0677神も仏も名無しさん
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2020/04/27(月) 08:29:33.73ID:rvecTcu6
>>674
面従腹背の態度のどこが「納得すれば認める」なんだよw
文献弄りが目的ならここで学僧ごっこがしたいセブンに相手をして貰えばいいんじゃん?
彼にとっては態度がどうかということよりもまず言葉がどうかだろ
だから面従が通じて都合がいいんだろ

こっちは腹背の外道ぶりを問題視している
オレオレ詐欺の電話にマトモに受け応えするほど「人の良い老人」じゃないんでね
0679宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/04/27(月) 19:43:57.36ID:EyaBeGBp
>>676
アンカーが付いてないけれども、
ヒンドゥーの説くの神と人間の関係などこのような幼稚なゲームの話と何ら変わらない、
とでも言いたいということかな? 要するに、馬鹿にしてるわけだ!!

まっ、ヒンドゥーにおいては、
現象界の森羅万象というのはすべてが壮大にして美しい“神の夢”なのだと言われている。
すべては神のご意志のままであって、その気であれば譬えアートマンであれ、如来ブッダであれ、
もののまばたき一つの瞬間で掻き消えてしまう...。
ただヒンドゥーにおいては、体感して覚知したものを正直にそのまま神について説いただけ。
対して、ゴータマ・ブッダは神を説くことをしなかった、と。
ただ、(違いとしては)それだけのことだ。
0680偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0
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2020/04/27(月) 19:51:16.83ID:AKzdbnD4
>>679
決めつけはよくないぞよ^_^)
0681神も仏も名無しさん
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2020/04/27(月) 23:24:14.09ID:Lg/6drwm
 その(カースト制度の教えがある)バラモン教から発展したヒンドゥ教の思想は、『バガヴァッド・ギーター』というテキストに代表されています。
哲学思考に値する表現は数多くありますが、主なエピソードは、道徳を否定することに徹しているのです。
アルジュナという王子が国を取り戻すために戦争に出るのです。
しかし、相手は自分を育てた叔父さんたちなのです。
彼は、叔父さんたちとその子供たちが国を統治してもいいのではないかと思っていたのです。
 彼にはクリシュナという御者がいました。クリシュナはアルジュナ王子の顧問でもあったのです。
王子はクリシュナに促されて出陣するのですが、いざ戦場で叔父さんたちの顔を見たら、戦意を失ってしまったのです。
そこでクリシュナが彼を激励した言葉が、『バガヴァッド・ギーター』の内容になっています。
「大量に人を殺してでも領土を取るべきなのか?今の王様たちはうまく統治しているのではないか」と人殺しを嫌がった王子に、
クリシュナは「クシャトリア族に生まれた貴方は、自我意識を捨てて、神に定められた義務を果たしなさい。それがカルマ・ヨーガ(行為による修行)です。人を殺していると悩む貴方の心は、現象を区別している。一切即一なのです。それを理解しなくてはいけない」と説くのです。
 これは一見論理的に見えるのですが、仏教の立場から見れば、闇雲に無批判的に、「人を殺せ」というススメにしか見えません。
「生まれはどうであろうとも、精神的な成長に励む人は皆、ことごとく、完全たる解脱を得られますよ」という教えに、「悪行為は悪果を、善行為は善果をもたらす」という因果法則に、逆らっているのです。
 仏教は他宗教と喧嘩はしません。
しかし、このように「ありのままの事実に逆らう、人の精進努力を否定する、社会の差別をそのまま認める教え」には、頑として反対します。
人はとことん努力しなければいけません。常に自分の心に気づいて、心を磨かなくてはならないのです。
それしか向上する方法はないと、仏教ははっきり知っているのです。


アルボムッレ・スマナサーラ 藤本晃
ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析)
0682宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/28(火) 20:07:58.64ID:TrIKd8aZ
>>680
失礼しました。
もし、そのような意図でなかったのならば誤ります。
ごめんなさいm(__)m そういう連中ばかり多いもので、つい...。

いや、なかなかどうして神と人間との関係について
とても面白くユニークに描かれているものだなぁ〜と、感心させられます。

>>404 >>410
“UFO映像” 米国防総省が公開 “物体が何かは不明” 2020年4月28日 7時16分
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200428/k10012408331000.html
河野防衛相 自衛隊もUFO遭遇時の手順定める考え示す 2020年4月28日 13時16分
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200428/k10012408701000.html

このような政府レベルの公式なUFO認知の情報は大歓迎だ!!
河野さんは、「自衛隊はまだ遭遇体験はないようだが...」といっているけれども、
実際は、遭遇体験というのはすでに何度も起きてきた。
河野さんがそのことを何も知らないだけ。

すべてが隠蔽されてきた。
目撃情報をあまりにシツコク語る体験者などは
見せしめのために確か、左遷とかされてきた筈だ...。
それで目撃、遭遇体験があっても保身のために報告ができなくなったのです。
その結果として、何も記録がない(遭遇体験などというのはない)という話にされているだけ。
0683偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0
垢版 |
2020/04/28(火) 20:15:15.88ID:J0ATgytE
>>682
いきなりじゃったからそう思われても仕方ないのうw
こちらこそ失礼したm(_ _)m

わしゃ以前からあなたのファンでの
いつも勉強させてもらっておりまする
改めて感謝じゃよ^_^*)/
0685神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/29(水) 13:07:00.75ID:pyjZHm9Z
>けど、確かに、スッタニパータ厨って、結構多いかも・・w(自戒も込めて)

「スッタニパータ厨」wwwwww

「オレは、腐った日本仏教なんて相手にしない。真の仏教はテラワダ仏教だけだあああ」
みたいな?ww

だったら、日本でうだうだ言ってないで、とっととスリランカいって出家しろよとw

・・・・・・・・・・・・
まあ、初めて原始仏教に触れたときは、日本の葬式仏教しか知らなかった身には、
確かにその新鮮さは強烈だったけどねw
0686パーピマン
垢版 |
2020/04/29(水) 13:08:03.85ID:pyjZHm9Z
ん?? コテ入らんかったw
0687パーピマン
垢版 |
2020/04/29(水) 13:11:19.13ID:pyjZHm9Z
>すべてが隠蔽されてきた。

wwwwwwwwww

相変わらずの「ムー」ファンww
0688神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/29(水) 14:21:20.37ID:+xrnCwDo
>>685
っていうか、
ちゃんと「仏伝」(―パーリ系の話なので自ずと律蔵大品や大般涅槃経になるけど)
くらいは押さえて、伝播の歴史を概観して、
その上でスッタニパータ、って流れの方がいいんだろうな・・という話。
(ちょうど、中論(或いは心経)だけだと、空(或いは無)一辺倒の偏屈ができあがるように・・。)

更に梵網・沙門果両経やアングリマーラやシンガーラカの逸話も視界に入ってるとよいけど。


※当該のスマさんの話は、多分、
出家とは(真の坊さんとは)孤高の清貧な生き方をするものであり、
世俗の細かな義理や約束事から、果ては血縁身内に至るまでも、
障碍としてバッサリ断つべきだ(犀の角にあるように)、
という極論に対する諫めと思われる。
0689パーピマン
垢版 |
2020/04/29(水) 14:41:46.39ID:pyjZHm9Z
>>688

せめて大般涅槃経だけでも読んどくといいなw
出来れば、入滅後の仏教の変遷も概略くらいは読んどいた方が良いw

中論や心経だけかじると間違いなく、穴に落ちるw

原始仏教マンセーになるとテラワダ馬鹿か、オカルト馬鹿になって、
間違って禅をかじると「なんちゃって覚者」になるとww

難しいなw

(・・・・・・・ちなみに、最近は『縁起論争』を見直してみたけど、・・・・
う〜〜〜〜〜〜ん、木村は言うに及ばずだけど、和辻もねえw

これから、維摩をもう一度、読み直してみようと思う。)
0690ポッタン師
垢版 |
2020/04/29(水) 15:09:23.72ID:x6ercDZE
689.悟れないバカバービマンが言う、ことである。大爆笑である。
0691宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/04/29(水) 19:05:15.15ID:yWWqij7f
>>687
まっ、『ムー』も好きだけれども、
私がいってるのは、以前にTVで紹介した体験談(自衛官)のこと。
まっ、パーピはTVを全部ヤラセということにしてしまう人だからね(苦笑)。

とにかくだ!
あなた方の口癖だった“妄想扱い”なんかじゃなくてヨカッタじゃないか!!
政府も自衛隊も真剣対応するそうだからね。
あなた方はこの私からみて、ザッと35〜40年位遅れてるのよ(私と比較して)w

>>683
>わしゃ以前からあなたのファンでの

エエッ〜 Σ(゚д゚lll)ガーン 
分からずヒドイこといってしまった... ○| ̄|_ ガクッ!!

>いつも勉強させてもらっておりまする
>改めて感謝じゃよ^_^*)/

こちらこそ宜しくどうぞぉ
(-人-)南無ナム〜
0692神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/29(水) 20:43:06.92ID:HRbeATRT
> >>687
> あなた方はこの私からみて、ザッと35〜40年位遅れてるのよ(私と比較して)w

wwwwwwwwwwwwwwwww
0694神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/30(木) 00:31:02.95ID:1FDAZELu
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀がみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命であるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf
0695神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/30(木) 00:34:24.99ID:1FDAZELu
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀かみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命てあるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf
0696神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/30(木) 00:38:55.41ID:1FDAZELu
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀がみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命であるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf
0697神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/04/30(木) 07:34:29.43ID:UyLhM1Ei
書込みは一回でいいよw


また、このスレに限らず少し仏教学に入り込んだ人間なら周知の内容で、
特に真新しさもないけど。

そういう神格化部分を措いてさえ尚、押さえておくべき様々に溢れてるのがパーリ大般涅槃経。
(同様に、もし大乗仏教を語ってゆくなら、法華経・大乗涅槃経・華厳経を外すことができないように。)
0698栄進軍曹
垢版 |
2020/05/02(土) 03:21:03.44ID:AF5jb7an
俺のアートマンと、貴方のアートマンって、同一なの?

それとも別(´・ω・`)?
0699宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 03:47:47.54ID:ugU/ydKn
>>698
同一にして、また別ものでもある...。

つまり、梵我一如の境地に達しても個性は失われないといわれています。
もちろん、その個性とは我執・我見・煩悩のことではありません。
けれども、あなたとわたしとの分離意識は消散するのです。
〜それは、体験しなければわからない常人の理解を遥かに超えたことです。
0700宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 03:55:10.54ID:ugU/ydKn
>>671-673
つづき.

 仏教とヒンドゥー教とは異なる宗教であり、特に仏教側から見た場合のヒンドゥー教は外道扱い(過激派は邪教視)であるというのが一般
的な見方ですが、けれども永い歴史の中では双方が互いに刺激し合った良きライバルとして切磋琢磨してきたというのが実際のところだと
思われます。例えば、本来あるべき正しいヴェーダの理解を復興しようとしたシャンカラは、度々、仏教サンガの集いに参加していたこと
は有名な逸話とされています(それが「仮面の仏教徒」と呼ばれる所以)。つまり、当時はシャンカラが提唱した不二二元論アドヴァイタも仏教
理論(と酷似するもの)だとしてヒンドゥーの伝統信奉者からは批難されたのです。
 それから、ヨーガにおいて最も重要視されている聖典『ヨーガ・スートラ』の編纂には、当時の仏教徒たちが大きく関ったもの(ほぼ定説)
と見なされています。そして、あまり明確な名指しこそがありませんが、『ヨーガ・スートラ』の成立年代がヴァスバンドゥ(世親)以前には
遡ることができないことからみても、恐らくは『ヨーガ・スートラ』の編纂に関わったという仏教グループとは、つまり、『瑜伽行唯識派/
唯識派』(あらゆる事象は唯(た)だ識が変化したものにすぎないという唯心論を唱える,インド大乗仏教の学派。ヨーガの実修を好む瑜伽師
(ゆがし)と呼ばれる人びとによって創立された---コトバンク)のことではないかと思われます。ここまでくれば、もう殆どそれは協力関係
に等しい...。
 それからブッダも修行したとされるヨーガの源流について述べると、その古代ヨーガを伝承した人々というのは古代ヴェーダのいわゆる
祭儀式中心を説くグループとは、どうやら全くの別系統であったものと見なされています。
0701宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 03:56:10.03ID:ugU/ydKn
 『仏陀が悟りをえたのもヨーガによってであり、仏陀はインドでもっとも古いヨーガ行者の一人だともいわれている。その仏教でも宗
教実践の方法としてヨーガが取り入れられているが、バラモン正統派におけるヨーガの歴史的展開とほぼ同じような展開(古典ヨーガから
ハタ・ヨーガへ)が、仏教でも見られるという。初期仏教や初期の大乗仏教(二、三世紀)では心の作用の止滅を中心としたヨーガがおこな
われるが、七、八世紀以降、仏教タントリズム(密教)がさかんになると、精神生理学的なヨーガの修練が重視された。仏教タントリズム
において重要なマンダラは、大宇宙と小宇宙との合一を体得するヨーガの道具であり、大宇宙と小宇宙の合一は、ヴェーダーンタ哲学、
それにもとづくハタ・ヨーガの求めたものでもあったという。仏教に取り入れられたヨーガは、禅として中国や日本にももたらされた。』
 (『ヨーガの哲学』立川武蔵)
 http://togoku.net/yoga-tachikawa/

 『ブッダを始めとする仏教者たちの思想や行動が、ヨーガ学派の根本聖典である『ヨーガ・スートラ』の成立に大きな役割を果たした
ことは、否定出来ない事実である。というよりも、『ヨーガ・スートラ』は、仏教などのヨーガの思想・宗教運動を総合する形で最終的に
成立したということができる。---中略---
 『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭で「ヨーガとは心のはたらきの止滅である」と定義するが、この「止滅」と訳される言葉、ニロー
ダ(nirodha)は、仏教特有の言葉である。ヨーガ・スートラの第一章はとくに仏教の影響が非常に大きい。
識別作用(心のはたらき)が止滅(nirodha)することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。
(『スッタニパータ』1037)』
 http://samten.seesaa.net/article/431687714.html

雲井 昭善(著)『ヨーガ学派と仏教との交渉』
 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0069/DY00690L001.pdf
今西 順吉(著)『ヨーガ学派と仏教』
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_518/_pdf/-char/en
金倉 円照(著)『ヨーガ・スートラの成立と仏教との関係』
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/1/2/1_2_259/_pdf/-char/ja
0702宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 04:00:08.97ID:ugU/ydKn
>>681
>その(カースト制度の教えがある)バラモン教から発展したヒンドゥ教の思想は、

 この『ギーター』が示すものとは、カーストにより自分に与えられた立場や責任において、今、自分がしなければならないこととは何
か? そして、そのときに必要な精神態度とは何か? について説いたものです。
 もちろん、勝手に人間を生れつき差別して弱者を虐待したり、などというのは以ての外です。古来から現代までも続いているインドの
カースト制度には問題点が多く、基本的に人間差別に他ならないものです。もちろん、インドの覚者方と真実の正しい聖者であれば、当
然、これを良しと見なしているということはない。
 しかしながら、元々のカーストというのは本来はこういうものではなかったのです。それは誤用された結果なのです。

 永い歴史におけるカースト制度によってインドすべての仕組みがこれにもとづいて構築されているために、これを無くして、新たな社
会システムを導入するというのは並大抵のことでは無理な話です。もちろん、このままでいい筈はないので、時間は掛かるけれども改善
に向けて進めらなければならないと思う。今の日本が、例えば憲法九条の改正と天皇制の廃止...をしようとした場合は簡単ではないの
と同様(私個人は九条改正は内容に拠りけり、天皇制についてはその支持者でも反対論者でもない)、そして、恐らくはそれ以上の、いや
もっと比較にならないくらいの困難なのであり、そして、膨大な時間も掛かるでしょう。

シャンカラは、カーストや家柄などによって我々の内にある真実の自己が影響されることはないといい、
 『いったい、サンニャーシン(遊行僧)にとって、カーストの違いや浄、不浄にどんな意味があるのだ?」
--中略--バラモンや、チャンダーラなどというような違いは、ただ単に、狭い心が生み出すものである』(シャンカラ物語)
と説いた。
0703宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 04:01:28.95ID:ugU/ydKn
 『偉大な立法者マヌによって制定されたカースト制度は、その起源においては真に賞賛すべきものであった。マヌは、人間が、その性
質の進化程度によって四つの種別カーストに分けられると観た。すなわち、肉体労働によって社会に奉仕できる人々(シュードラ)、知力、技
能、農業、商業、交易、その他実業によって奉仕する人々(ヴァイシャ)、管理、統制、保護等の能力をもつ人々―政治家、軍人など(ク
シャトリヤ)、および、瞑想的性格をもち、霊感に恵まれ、他人にも霊的鼓舞を与えることのできる人々(バラモン)、の四種別である。
「人が“天上界に目覚めた者”(すなわちバラモン)であるかどうかは、その人の血統や家柄や、宗教儀礼や学問によって決められるもの
ではなく、性格と行状のみがこれを決定する」とマハーバーラタは宣言している (注-「インドのカースト制度において、人が四つの段階
のいずれに属するかは、本来、その人の血統や家柄によるものではなく、その人が人生の目標をどこに選ぶかという生来の性質によって
決められるものなのである」)。マヌは人々に、人は智恵、徳、年齢、親族関係、そして最後に財産、のいずれかでも持っている限り、社
会的尊敬を受ける資格があると教えている。ただし、ヴェーダを信奉していた社会では、どんなに財産を持っていても、それをただ無益
にたくわえたり、公益や慈善のために使うことを知らない者は卑しい者とさげすまされた。したがって、りんしょくな金持ちに与えられ
る社会的地位は、ごく低いものだったのである。
 だが、このカースト制度も、数世紀の内にしだいに形式化して世襲制となったため、そこから深刻な弊害が生ずるようになった。1947
年の自治回復以来、インドは、門閥によらず各人の個性や能力のみを基準とする古代カースト制度の真価を再認識してこれを復活する運
動を、遅々とはしているが着実に進めている。地球上の国はすべて、自らの手で敢然と処理解決しなければならない、その国特有の困難
なカルマを背負っている。インドは今、このカースト制度改革の大事業を、柔軟なしかも不屈の精神をもって完成するために奮闘してい
るのである。』
(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版p403-404)
0704宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 04:03:00.20ID:ugU/ydKn
 そして、カースト制度の元となったものが「ヴァルナ制度」というものですが「ヴァルナ」というのは「色」ということであり、これ
は“肌の色”の違いが階級差別にも関わっているものとして一般的には説明されています。
 しかしながら、これはすでに形骸化した間違った概念による支配なのであって、元々、本来的にはその人の霊的成長を示すチャクラの
輝きと発するオーラの色の違いを示すものでした。つまり、個人の霊的成長の度合いに応じて、その人にとって適した生活と相応しい職
業があるという意味なのであり、また、その人の(意識からくる)行為の如何によって人は評価されるということなのであって、もちろん、
単に生まれの境遇に拠って尊敬すべきものでも卑しむものでもないということだった。
 本物のインドの覚者や高度に発達した高位の弟子(導師グル)というのは、自分の弟子たちの発達具体についてをチャクラの輝きと活性化、
そして、オーラの色などを霊視することで正確に知るのです(よって、弟子の虚栄や嘘偽りはまったく通用しない)。
 それから、本来の教えの誤用ということでいえば、特に南方仏教において顕著に見られた業に拠る報いに対する誤解と偏見であり、生
まれつきの障害者に対しては酷い差別扱いを僧侶たちがしてきた、という実態がある。そのことに対して反省して、二度とそういう醜態
を僧侶が晒すことのないようにして頂きたいものと思う。似たようなことはこの日本仏教界においてもあったことであるし、また、今で
も非業の死を遂げた変死体の故人には戒名を授けない(変死者は悪人である証拠であって戒名を与えるに値しない)とする糞坊主がいるら
しい。それは悲しみに暮れる遺族の心を逆なでする酷い僧侶の態度であり、慈悲と救済の精神にまったく反するものだ。
0705宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 04:14:45.13ID:ugU/ydKn
 尚、殆ど消滅したといわれてきたインド仏教ですが、近年、そのインドにおいて再び仏教徒が増大してきているという。インド特有の
カースト制度に反対する人々やこの制度によって虐げられてきた大勢の人々(インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない
不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。---下
記リンクより)が、カーストによる生まれつきの人間差別を否定し、万人平等の救いを説く仏教への改宗運動が大きく広がっているのです。
特に、日本人僧侶・佐々井秀嶺氏による活動によるところが大きい。

インドで1億5千万人の仏教徒を導く、81歳の日本人僧「私には黒い血が流れている」
https://www.jprime.jp/articles/-/10511
 『一九五六年の仏教への集団改宗により仏教徒になった人々およびその子孫がこの集団である。 彼らはヒンドゥー教が正当化するカー
スト制度とそれに基づく差別と闘う人々である。 一九五六年の集団改宗によって、インドの仏教徒人口は〇・〇五%から〇・七%へと増
加した。 これは、インドにおける仏教復興運動として歴史的な意義をもつ。』
(インドの「闘う」仏教徒たち/改宗不可触民と亡命チベット人の苦難と現在)
http://www.fukyo.co.jp/book/b92257.html

>>700訂正:
 ×「不二二元論アドヴァイタ」
 ○「不二一元論アドヴァイタ」
0706宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/05/02(土) 04:18:00.14ID:ugU/ydKn
>闇雲に無批判的に、「人を殺せ」というススメにしか見えません。

 もし、このように『ギーター』を「殺人を奨める聖典だ」などとインドで公言していたら、たぶん大衆から投石され唾を吐きかけられ
るでしょう。これはすでに解説した通りであって、カルマ・ヨーガについて、そして、一元論的非行為の道ジュニャーナと行為の道ヨーガとの
関係について教えるものです。それは戦争に臆する青年を題材にした寓話であって、話をより分かりやすくするために敢えて極端な設定
をしたもの。もちろん、決して戦争を推奨するものでも殺人を説くものでもありません。

 しかしながら、あくまでも私個人の見解として述べさせてもらいますが、これは実際上の話においてもこのクリシュナからの教えとい
うは大きく効力を発揮するものです。
 例えば明日、死刑を執り行うことになっている執行担当者(実際にボタンを押す人間)が明日を想い心を患っていた場合、この教えは確
実にその人の心の葛藤と苦悩の軽減へと大きく繋がるものです。執行人がこの時にできることとは、ただ単に無執着に淡々と任務を遂行
することであり、そして、唯一できることが死刑によって亡くなる方が罪を悔い改め、死後には少しでも安穏で良き来世へと生まれるこ
とができるようにお祈りすることです。
 死刑というのは、死刑執行を担当する特殊任務に就いている人間のみならず、死刑制度を支持する国民すべてにその責任と罪過がある
のであって、特定の執行人個人だけの責任などではない。この私は死刑反対論者ですが、それでも明日、執行しなければならないとして
苦悩する担当者に向かって、「死刑は殺人に他ならず、殺人は最も大きな罪悪だ。そんなことをしたらおまえは地獄に堕ちるぞ。これは
ブッダが説いたことであり、そして、絶対的な真理なのだ!!」などと、その人間に説き聞かせることがその人の心の苦悩の救済になると
は決して思わない。なるわけがない。
0707宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/05/02(土) 04:20:55.07ID:ugU/ydKn
 死刑を支持する国民というのは、このような担当者たちの苦悩を知らず、そして、死刑が執行される惨たらしい実際上のリアルな情景
を知らずにのほほんと暮らしているから簡単に軽々しく支持できるわけだ。この私も死刑制度は即廃止すべきだとしており、政府にも手
紙を送付したこともある。ちなみに、死刑制度反対を明確に表明している日本仏教の宗派は残念ながら未だに浄土真宗ただの一つだけら
しい(死刑執行の度に宗派見解としての反対声明を発表してきた)。一体、他の宗派は何をしてるのか? 恐らくは政治的な口出しは敢えて
控えたいということなのだろうと、この私は見ているが...。
 それから、今は対テロ戦争の時代といわれていますが、米軍の特殊部隊のメンバーとして明日、オサマ・ビンラディンを襲撃暗殺しな
ればならない兵士たちの心の葛藤とか、この日本においてでも、北朝鮮なり中国が攻めて来てこれを迎え撃たなければならない立場にあ
る自衛官の心中(本当の戦闘は初体験であって、いよいよ実際に人を殺すことになるかもしれないという不安と苦悩の想い)を察した上で、
「殺生は悪業だ。殺人は絶対してはならないことだ。これはブッダが説いた絶対の真理なのです!」などと説き聞かせることが本当に適切
と言えるのかどうか? ここで任務を放棄して逃亡でもすれば、敵やテロリスト集団によって愛する自分の家族を含めた日本国民が大勢殺
されることとなるのです。当然、憂慮せず任務を正しく遂行していれば、僅かな死傷者だけで停戦に至ることができたかもしれないとい
うのにです...。であるから、止む得ずそのような任務を遂行しなければならない担当者には、クリシュナの言葉を心に留めて任務遂行に
あたることが推奨されるのです。
0708宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2020/05/02(土) 04:35:10.22ID:ugU/ydKn
 スマナサーラさんは、基本的にはいつもこの日本にいるのでしょう? ならば、『日本テーラワーダ仏教協会』として正式に、死刑廃止
の支持を公式表明して下さいよ!! それからブッダの教えに対する信念を以て、日本の漁業協同組合や酪農協会へと直接に出向いて、「た
だちに殺生を止めなさい。地獄に堕ちますよ。これはブッダの教えであり、絶対の真理ですから」と、説いてきてはどうですか?
 もし、これからも『ギーター』のクリシュナの教えをを批難し続けるというのであれば、どうかそれからにして下さいよ!! 私の見解
としては、全国民が不殺生を理解してベジタリアンにでもならない限りは、それらの職業に就いている一個人を批難したりするべきでは
ないし、「殺生は間違った行為だとブッダが説いた」などという言葉が、彼らの葛藤心や罪意識を救済することにはならないものと見ます
けれど、如何でしょうか?

推奨:
アムネスティ・インターナショナル
 https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html
 https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/qa.html#Q4
0709宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 04:36:09.15ID:ugU/ydKn
それから神智学の視点からやや話を発展形で述べさせて頂くならば、実は宗教というものが人間に対して過剰に罪悪感(罪の意識)を植え
付けてきたのであり、その永き伝統が今日の人類社会の進歩にとっての大きな弊害を生んでいるのです。もちろん、それは悪事をなさな
いよう大衆を仕向けることには効果があったけれども、それが過剰な強い心の呪縛をつくる恐ろしい伝統となってしまった...。
 ジャイナ教のような超極端な不殺生の態度についてはブッダは良しとはみなさなかった(仏教徒も同様、あまり不殺生に拘り過ぎの場合
は懸念がある)。そして、世界中どの宗教でも同じですが、特に一神教的な世界で顕著だったものが性に対する背徳意識の植え付けでした。
 今日の人類にとって必要なのは、宗教による呪縛であった原罪といったような“罪の意識”からの救済と解放です(もちろん、それは悪
事を推奨するということではありません)。
 それからもう一つ言いたいこととしては、宗教の歴史とは、宗教戦争と殺戮の歴史であり、そして、極端な法規で以て大衆を縛り付け、
罪意識を植え付けて苦しませてきたのです...。果たして、宗教は本当に、人間に安楽と救いを与えてきたものなのか? それとも逆に、
苦悩を与えてきたものなのか? 
 とにかく、これだけはハッキリしている。“唯一絶対の真理”を標榜する宗教にはロクなものはない、ということ。
0710宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 05:21:48.20ID:ugU/ydKn
仏教のみならず、自分自身でヒンドゥーも共に学ぶ者は、
まず例外なく、仏教の涅槃もヒンドゥーの梵我一如も同一の境地だと見なしています。
対して、「いやそれは異なる境地であり、
ヒンドゥーの境地などは仏教より遥かに低いものだ」と、
いっているのは仏教しか知らない者(僧侶と伝統信奉者だけ)です。

 『以前京都の佛教大学で学んでいた頃、T先生という方にご指導を頂きました。仏教概論の講義だったと思います。私はT先生が『ヨーガ
・スートラ』というヨーガ教典の研究もなさっているのを存じていたので、講義のあとで個人的に質問しにいきました。
「先生。仏教でいう『涅槃(ニルヴァーナ)』とヒンドゥー教でいう『解脱(モクシャ)』は、教えはともかくとして、実体験としては同じも
のでしょうか。それとも違うのでしょうか。」
 先生は「う〜ん」としばらく下を向いておられました。少しドキドキしながら待っていたところ、先生は顔を上げてこう仰ったのです。
「同じだと思います。」---中略---
 ですから「仏教の覚りもヒンドゥー教の覚りも同じ」というのは、仏教者としては中々言いにくいことなのです。私も若かったので、先生
が答えにくいことを承知で質問をしてしまいました。(済みません!)それ以来、T先生への尊敬の念を深めたのは言うまでもありません。
 究極の宗教体験という意味では、宗教・宗派の差はないのではないか。私は今もそのように思っております。』
(浄土宗林海庵)
 https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201705.html

仏教の涅槃とバラモンの梵我一如は同一の境地
 http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm
0712神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/02(土) 09:06:05.74ID:ePA57rQB
>>706
ヤクザの組長は自分の奥さんと子供にセレブ生活させるためには、
覚醒剤麻薬を流したり、
女を風俗に落として
シノギをするのも
正当だ!

という論理がギーター擁護の神智思想なわけね
0715神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/02(土) 10:18:54.43ID:aslBvZ7S
って、最後の一文は
重要な経だよって結びか。その意味で上の話を受けた引用だったか。

だとしたら、大変失礼した。 >>694
0716神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/02(土) 12:11:46.51ID:WA+pQq82
>>712
それがヤクザのスヴァダルマのはずだよね
否定するならなぜ戦士の人殺しは許されるのか知りたい
0717宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/02(土) 14:09:33.65ID:ugU/ydKn
>>712 .714. 716
自衛隊は、
あなたやあなたの愛する家族を護るために(あなたたちの代わりに)自分の命をかけているんだ。
彼らがいなければ、あなたとあなたの愛する家族が殺害されるか、
もしくは、あなたが直接その敵を殺さなければならないことになる。
反社会勢力(ヤクザ)が、君たちの代わりに覚醒剤密輸してくれてるのだとでもいいたいのかな?
ヤクザの話なんかと一緒にするでないわ!

精々、100回位は読んでよ〜く考えることだな!!
0718神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/02(土) 19:34:30.99ID:FJO4k3lo
>>717
「身内の為に体張る」のはヤクザも同じことだ

そこに職業的卑賤はない

岡村隆史と同じ偏見持ちかよ
0719神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/02(土) 19:39:44.86ID:FJO4k3lo
こんな偏見眼(邪見)に基づいて

「ヒンドゥは仏教と同じ」

などと判定

クソ笑える
0720神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/03(日) 16:59:22.02ID:+phuDXbp
先日、何chだったか忘れたがw
北インドの広範囲から、ヒマラヤ山脈の連なりがクッキリ見えた、
というニュースがあった。世界規模の自粛で、インドでも経済活動が抑えられ、
見事な景色が「復活」した、と。

皮肉な話ではあるが、本来あるべき姿かもしれん。
いつまできれいな大気がキープされるかわからんし、別件で「氷河の融け出し」も言われている。
まずは洪水の危険、そして将来の水資源の枯渇と。(豊かな湿地帯が砂漠化とか?w)

まあ、それはさておき、チベットの人々は、すぐ足下なので当然の畏怖と帰依になろうが、
遥か昔は、インド本土でさえ、神々の頂きであり、未来永劫(―常住する!―)残る雪は、
その思想や信仰形態に大きな影響を与えたろうことが実感される。 (ヒマ・アーラヤとはよく言ったもんだw)
実に神々しい。 

近年、竜巻も増えているが、日本なんか小さなもんだが、たとえば中国内地の大きなものの映像とかみると、
湖や大河から大量の水を巻上げ乍ら、黒く太い渦が天へとうねっていく様は、
そりゃ龍神様に見えるよなぁ・・と。

神話化とか神格化を、ついつい、未開の、未発達の、後進文明的な思考と見做しがちだけども、
本当は、最も大切にしなければならない心の澄み方かも・・とか思ってしまったチラ裏。

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52290073/
https://www.cnn.co.jp/world/35152184.html
https://www.asahi.com/articles/ASN4J3F4HN4FUHBI023.html
0722神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/03(日) 22:19:59.16ID:+phuDXbp
たかいなぁ とおいなぁ
あんなに遠いのに
こんなに近くに はっきりと

しろいなぁ うつくしいなぁ
世間はもろもろよごれてるのに
ぼく等はまるで能天気

染まらず 気だかく まっしろに
とけることなく 真っ白に
そこにはきっと仏さま
(なむしゃかむにぶつ なむしゃかむにぶつ)

まっしろな雪の頂に
坐ったつもりで そっと両手を合わせてみよう
0723神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/03(日) 23:47:50.95ID:aOYAzARG
>>681
クリシュナの叔父さんは死刑に相当するような罪を犯した悪人、悪徳君主だったの?
0726パーピマン
垢版 |
2020/05/05(火) 07:40:03.53ID:jpzwr8m5
>ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!

wwwwwwwww
これらの共通項は、「わかったぞおおおお」の自己体験の過信ww

この「わかった」という認識さえ、自分の脳みその中の単なる電子的変異に過ぎないことを
理解できないw

そして、その「わかった」ことも、かつて先人たちがとっくに経てきた落とし穴であることも
理解できない。(それは、ひとえに過去の資料にあたらないからw)
・・・・・・その点、宝珠は資料の点検はやっている。しかし、残念なことにその大半は、
かって読みの自説強化使用ww
(・・・・というと、「い〜〜え、仏教徒の方が釈迦の真意をわかってないから」と言うww)

・・・・・そこのマインドフル君は、自己体験マンセーの典型でしょ?w
心経ファンみたいだが、もしかしたら、中論もみたことないんじゃ?w

マインドフルは、禅のテクニカルの特化みたいな面があるし、確かにそれは仏教の裾野を
広げる可能性があって、仏教にとっても決して悪いことではないと思うが・・・・

ああも攻撃的ではねえw  マインドフルそのものが誤解されるぞw
0728宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/09(土) 08:28:52.57ID:rfJFCXCJ
>>725-726
>ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!

そんなことは思ってなどいないし、
そして、まったく言った覚えもありませんね。
ただ伝統仏教の典型的な間違いの幾つかについて指摘してるだけのこと。
それだけです。

>しかし、残念なことにその大半は、かって読みの自説強化使用ww

私は仏典経典にある言葉をただ素直にそのまま読んでいるだけですよ。
そして、それらの私の主張の多くは専門の研究者方(プロの学者陣)の意見とも合致するものです。
ていうよりは、この私がそれらの学者たちの著述を学んできたのです。

しかし、素直じゃないなぁ〜
あなた方はホントに...。
「わかりました。どうもありがとうございました」とか
「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
┐(´д`)┌ヤレヤレ

ホント.随分と永い付き合いになったけれども、
いよいよ、七セブンともパーピともお別れです。

(ノД`)・゜・。
0729偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0
垢版 |
2020/05/09(土) 08:32:55.32ID:ONSgjAkT
・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )
0730神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/09(土) 09:10:30.23ID:+lr+R5Gw
>>728
> 「わかりました。どうもありがとうございました」とか
> 「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
> ┐(´д`)┌ヤレヤレ

上から目線でサヨウナラ〜
0731栄進軍曹
垢版 |
2020/05/09(土) 10:05:19.11ID:zyNpoyO+
ヒンズーと仏教の悟りが同じなら、なぜ別の宗教とされとるんやろ(´・ω・)?
0732偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0
垢版 |
2020/05/09(土) 10:07:54.83ID:ONSgjAkT
>>731
たどり着くところは同じということじゃろて
0733ポッタン師
垢版 |
2020/05/09(土) 10:23:28.94ID:YPXsQV4J
悟れないバカバービマンとバカ宝珠とが言うことである。大爆笑である。
0735宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/09(土) 15:19:33.77ID:rfJFCXCJ
>>734
おおっ♪ これはスゴッ!!

もう〜なんなんだよぉ。
こんなにイイものを知ってるじゃないですかぁ...
ヒドイなぁ〜 (-_-;)

とにかく-- 素晴らしい餞別を有難うございます (人''▽`)
これは“宝の山”のようなサイトですね。
勉強させてもらいます -- 感謝!!
合掌
0736宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/09(土) 15:37:25.74ID:rfJFCXCJ
-----皆さまへ

最後の投稿をほぼ書き上げたので、
URLにてまもなくここにUpします(ここに直接だとたぶん荒らしになるw)。
そして、私からのお別れのメッセージと一緒に。。。

もう、暫しお待ちくださいm(__)m
0737宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/10(日) 09:48:24.80ID:hIdBpovm
おはようございます♪

わたくし宝珠は、
本日、ここへ最後の投稿にやってまいりました。
なんと2008年〜スレを立てて投稿を続けて、そこで議論を重ねてきて12年弱となりました。
当初から投稿を頂き論戦を交えてきた古参が、今も利用されている七セブン、パーピマン、
そして、最近になって途絶えた承狂さん。それから、?おじゃるさんもかなり古くからの参加者です。

私が、仏教信奉者の皆さんにお伝えしたいと思っていたことはすべて投稿できたものと思っています。
議論の内容も殆ど出尽くした感があり、これ以上ここに留まる必要もなくなったと判断しました。
今では問題ありませんけれど、まだ当初の2CHでは使い切ったスレが落ちたら最後で、
それを再び読み直そうとすることすらも簡単なことではありませんでした。
これまで過去の投稿スレのすべては、私のWebサイトで纏めてあります。
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

私が去った後のこのスレシリーズですが、
もしも、差し障りがなければこのまま『第七巻』、『第八巻』...と継続して使って下さい。
スレタイ及びテンプレなどもこのままで問題ないと思います。
(もし、必要であれば参加者皆さんで好きに修正してもらって構いません)
仏教全般の情報と意見交換の場として皆さんで利用して下さい。

それからテンプレ、アンカー>>2.の各種利用リンク集については、
以前、七セブンからリンク変更の要望があったので、次スレ『第七巻』を立てられる方は
このリンク集の最下段を以下のように変更して下さい(七セブン.これで良かったかな?)。
--------------------------------------------------------------------
(従来)
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
(変更) ↓
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
0738宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/10(日) 09:52:10.07ID:hIdBpovm
このスレを去った後は、地道に自分のWebサイトの拡充にて活動していくことにしました。
基本的には、もうこのような議論は望んでいないのでBBS(掲示板)なども設置しない方針です。
今後、このスレへは自らは投稿しませんが、もしも、この私から返答を希望する内容がある際には呼び掛けて下さい。
気付ければそのことだけは返答します。5chには、神社仏閣板で趣味の不動尊に関する事柄では
たまに“名無し”で投稿することがあるかもしれません。

それから、
もしも、個人的にこの私と連絡を希望される方がいましたら、
私のWebサイトリンク集の一番下からメールを送信することができます。

それでは永い間、本当にお世話になりました。
そして、どうもありがとうございましたm(__)m
0739偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu
垢版 |
2020/05/10(日) 09:52:27.98ID:V4K9789C
>>737
おはようさんじゃよ🌞

今までお疲れ様。そしてありがとうなのじゃ^_^)/
早速ブックマークさせてもらったのじゃ
こちらでは残念じゃが、改めてこれからもよろしくなのじゃ^_^)
0740宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/10(日) 09:54:31.72ID:hIdBpovm
では、
 これが最後のお土産となります!
      ↓
>>114
>無色界禅定で悟るんなら
>釈尊はアーラーマ・カーラーマやウッダラカ・アールニーの元で修行が終わり、
>苦行生活に入る必要も、菩提樹の下で悟りを開く必要もなーんにもなかった

以下のサイトリンクは、
「“滅尽定”は仏教だけのものであり、ヒンドゥー世界にはない。
つまり、“無色界禅定”までがヒンドゥーの限界であるから涅槃には到達できない。」
とする伝統仏教信奉者側の主張に対するこの私からの返答を中心に作成したページです。
尚、具体的な内容の投稿はこのリンクページを以て最後とさせて頂きます。

これはある程度の文章量があって、
なお且つ、適度な長さの改行すらもしていないので、
読まれる方は自分好みのウインドウサイズにてどうぞ!
内容としては、貴重で興味深い読み物をいろいろ書籍から直打ちしています。
結局、二ヵ月近くを要しました。

これを読まれるならば、
滅尽定が仏教だけのものでヒンドゥーには無理
などといった見方は完全な間違いであることがハッキリわかると思います。

 ●宝珠Webサイト
   資料3.『仏教の滅尽定とヒンドゥーのニルヴィカルパ・サマーディ』
        http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm


では、皆さんさようなら。
 そして、どうぞお元気でm(__)m
0741宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2020/05/10(日) 09:58:16.25ID:hIdBpovm
>>739
おはようございます。
こちらこそありがとうございました。
体調、コロナ等に気をつけてお元気でお過ごしください。
0742神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/10(日) 12:36:33.42ID:aMZhDWjS

http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm
仏教の滅尽定と…
…仏教用語で言えば「我論」…
  _  _  _

多分.アートマン真我のことかもしれないけど
あえて
 ↓

仮設としての
衆生は無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている.無明薫習
無明の暗闇に覆われて
渇愛が生じると
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じる

さとりに達するための.仏道への障害(「覆」)がある
我癡・我見・我慢・我愛
  _  _  _

「我ではない」というのは
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明薫習を手放しせよ
(無明に依存している)我癡・我見・我慢・我愛を手放しせよ
「〜である・〜ではない」という我執を手放しせよ

という意味かもしれない

間違ってたら スマソ m(_ _)m
0743神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/10(日) 13:25:01.65ID:aMZhDWjS

https://ci.nii.ac.jp/naid/40018822743
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン) と現代
…ゲシェ・チェカワの『七事の心の訓練法』…

…道の本体は阿頼耶の自性に置くことです…
  _  _  _

これも実践したことがないので.わからないけど

大円鏡智から → 阿頼耶識を観察せよ.という意味かもしれない

法界体性智をもって(般若の智慧をもって?)
無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83

…仏の智慧は.法界体性智…(なんちゃら…かんちゃら)
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
0744神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/10(日) 14:38:09.23ID:aMZhDWjS

5ちゃんねるの場合は
NGワード規制とか
リンク貼り付け規制とかあるので

次スレ立てるのなら

たとえば
s☆cの場合は
永久保存?(長期保存?)されるのかわからないけど

https://☆ai.2ch.☆s☆c☆/psy/
(s☆cの)心と宗教@2ch掲示板

とかの方が良いかもしれない?
0745栄進軍曹
垢版 |
2020/05/10(日) 15:33:49.53ID:8LfAU9vc
>>732
いや、悟りという出発点、スタートラインが同じなだけや(´・ω・`)
0746神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/10(日) 16:06:57.48ID:aMZhDWjS

ウィキペディア参照

バラモン教
悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱く輪廻から抜け出す解脱の道を求める

仏教
苦の輪廻が続いていくという想いを手放しさせて
苦しいという想いから解脱することを目指して逝く
  _  _  _

苦しいという想いからの解脱という意味においては
似てる気もする

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
内山興正老師語録
…昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を…

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
内山興正著.思い手放し
…「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいること…
…実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう…
0747神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/12(火) 13:19:01.87ID:rAiMlvFB
.
キチガイなんだよ。
自分で五蘊無我を説示してる経典を引用してるのに、五蘊無我と説く経典はないとか言ってるんだもん。

 >120 名前:福音伝道[] 投稿日:2020/05/12(火) 08:29:17.40 ID:PtQ3juI/ [5/11]
 >その「五蘊」は身心であり、自己である。すなわちそれは無我である、

 >163 名前:福音伝道 :2020/05/12(火) 12:21:38.12 ID:PtQ3juI/
 >五蘊無我と説く経典はない。
0748神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/14(木) 13:35:58.90ID:mLAvumKY

http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/h/paauk.sayadaw.samatha.vipassana.pdf
パオ・セヤドー
…精神性の識別
「心はどうやって観察するのか?」
(誰が何を観察するのか?)

アビダンマ・サンガハによると
有分心(bhavanga citta)は意門として機能しており
意門の心路過程は
過去の感覚を対象とすることができる(らしい?)
(今この瞬間の意識が → 過去の感覚を対象とする(らしい?))

 − これに対して −

(「大乗非仏だ〜!」と批判されているらしい?)
大乗の場合は
一切法の真実の姿を観照して知りぬく智慧を観照般若という
この観照般若の智慧によって

無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
ありのまま観る(ことができるらしい?)
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

(仏性による真如縁起)無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83
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