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2019/08/28(水) 23:35:13.91ID:NTZ0HIE9もし、下記註を承けて、「[私のもの]と言ってよい」、ならば、
二句目も【vadAmi】或いは【vadAma】でよい。こちらの対句でも、
それなりにスッキリはするけれど、【vadanti】である限り、それはない。
せめて【mamaM】ではなく、-ntiと合わせて【amhaM】他の複数形であるべきだろう。
(いや、「みんなの」でなく一人一人の個別の発言だから良いのか、単数で・・。)
*漢訳は、我、我所としているので、或いは「我」と「身体的存在(五蘊)」と
見たものかもしれないが、漢訳はまた別に考察が必要だろう。(望月辞典を参照した。)
偈が繰り返されて4種になってるし。
B、ほか異版「yamataM(PTS版)、mAnanaM(Ce.版)、maJJitaM(?)」。
(もし「水野辞書maJJanA」のAc.ならば「思惟・思弁を超えた、それらに依らない」人、
とも読める。意は835リンク先と同じい。註では、maJJanA、のこと、
「taNhA、diTThi、mAna」の三つの妄執、とする。
(PTS辞書には、maJJanA(f.):『conceit』(taNhA-, diTThi-, mAna-, kilesa-, etc.
(conceit:自負心、うぬぼれ、独断、私見。他。))
我見・我慢の文脈で見るならばこちら。片山訳はこれに拠る。
※この問いを発した神は、(原文は下記貼付註)、
≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
そのように言うのではないか?
【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
のではないか?≫
という疑問を持ったので、このように質問をした。
『まさに>>855そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。