また、mamaMは単数形なので、「人々の[私のもの]」ではない。
  もし、下記註を承けて、「[私のもの]と言ってよい」、ならば、
  二句目も【vadAmi】或いは【vadAma】でよい。こちらの対句でも、
  それなりにスッキリはするけれど、【vadanti】である限り、それはない。
  せめて【mamaM】ではなく、-ntiと合わせて【amhaM】他の複数形であるべきだろう。
  (いや、「みんなの」でなく一人一人の個別の発言だから良いのか、単数で・・。)
   *漢訳は、我、我所としているので、或いは「我」と「身体的存在(五蘊)」と
    見たものかもしれないが、漢訳はまた別に考察が必要だろう。(望月辞典を参照した。)
    偈が繰り返されて4種になってるし。

B、ほか異版「yamataM(PTS版)、mAnanaM(Ce.版)、maJJitaM(?)」。
  (もし「水野辞書maJJanA」のAc.ならば「思惟・思弁を超えた、それらに依らない」人、
  とも読める。意は835リンク先と同じい。註では、maJJanA、のこと、
  「taNhA、diTThi、mAna」の三つの妄執、とする。
  (PTS辞書には、maJJanA(f.):『conceit』(taNhA-, diTThi-, mAna-, kilesa-, etc.
  (conceit:自負心、うぬぼれ、独断、私見。他。))
  我見・我慢の文脈で見るならばこちら。片山訳はこれに拠る。

 ※この問いを発した神は、(原文は下記貼付註)、
  ≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
   なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
   「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
   そのように言うのではないか?
   【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
   のではないか?≫
  という疑問を持ったので、このように質問をした。
  『まさに>>855そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
  当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
  凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。