--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 俺のアートマンと、貴方のアートマンって、同一なの?
それとも別(´・ω・`)? >>698
同一にして、また別ものでもある...。
つまり、梵我一如の境地に達しても個性は失われないといわれています。
もちろん、その個性とは我執・我見・煩悩のことではありません。
けれども、あなたとわたしとの分離意識は消散するのです。
〜それは、体験しなければわからない常人の理解を遥かに超えたことです。 >>671-673
つづき.
仏教とヒンドゥー教とは異なる宗教であり、特に仏教側から見た場合のヒンドゥー教は外道扱い(過激派は邪教視)であるというのが一般
的な見方ですが、けれども永い歴史の中では双方が互いに刺激し合った良きライバルとして切磋琢磨してきたというのが実際のところだと
思われます。例えば、本来あるべき正しいヴェーダの理解を復興しようとしたシャンカラは、度々、仏教サンガの集いに参加していたこと
は有名な逸話とされています(それが「仮面の仏教徒」と呼ばれる所以)。つまり、当時はシャンカラが提唱した不二二元論アドヴァイタも仏教
理論(と酷似するもの)だとしてヒンドゥーの伝統信奉者からは批難されたのです。
それから、ヨーガにおいて最も重要視されている聖典『ヨーガ・スートラ』の編纂には、当時の仏教徒たちが大きく関ったもの(ほぼ定説)
と見なされています。そして、あまり明確な名指しこそがありませんが、『ヨーガ・スートラ』の成立年代がヴァスバンドゥ(世親)以前には
遡ることができないことからみても、恐らくは『ヨーガ・スートラ』の編纂に関わったという仏教グループとは、つまり、『瑜伽行唯識派/
唯識派』(あらゆる事象は唯(た)だ識が変化したものにすぎないという唯心論を唱える,インド大乗仏教の学派。ヨーガの実修を好む瑜伽師
(ゆがし)と呼ばれる人びとによって創立された---コトバンク)のことではないかと思われます。ここまでくれば、もう殆どそれは協力関係
に等しい...。
それからブッダも修行したとされるヨーガの源流について述べると、その古代ヨーガを伝承した人々というのは古代ヴェーダのいわゆる
祭儀式中心を説くグループとは、どうやら全くの別系統であったものと見なされています。 『仏陀が悟りをえたのもヨーガによってであり、仏陀はインドでもっとも古いヨーガ行者の一人だともいわれている。その仏教でも宗
教実践の方法としてヨーガが取り入れられているが、バラモン正統派におけるヨーガの歴史的展開とほぼ同じような展開(古典ヨーガから
ハタ・ヨーガへ)が、仏教でも見られるという。初期仏教や初期の大乗仏教(二、三世紀)では心の作用の止滅を中心としたヨーガがおこな
われるが、七、八世紀以降、仏教タントリズム(密教)がさかんになると、精神生理学的なヨーガの修練が重視された。仏教タントリズム
において重要なマンダラは、大宇宙と小宇宙との合一を体得するヨーガの道具であり、大宇宙と小宇宙の合一は、ヴェーダーンタ哲学、
それにもとづくハタ・ヨーガの求めたものでもあったという。仏教に取り入れられたヨーガは、禅として中国や日本にももたらされた。』
(『ヨーガの哲学』立川武蔵)
http://togoku.net/yoga-tachikawa/
『ブッダを始めとする仏教者たちの思想や行動が、ヨーガ学派の根本聖典である『ヨーガ・スートラ』の成立に大きな役割を果たした
ことは、否定出来ない事実である。というよりも、『ヨーガ・スートラ』は、仏教などのヨーガの思想・宗教運動を総合する形で最終的に
成立したということができる。---中略---
『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭で「ヨーガとは心のはたらきの止滅である」と定義するが、この「止滅」と訳される言葉、ニロー
ダ(nirodha)は、仏教特有の言葉である。ヨーガ・スートラの第一章はとくに仏教の影響が非常に大きい。
識別作用(心のはたらき)が止滅(nirodha)することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。
(『スッタニパータ』1037)』
http://samten.seesaa.net/article/431687714.html
雲井 昭善(著)『ヨーガ学派と仏教との交渉』
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0069/DY00690L001.pdf
今西 順吉(著)『ヨーガ学派と仏教』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_518/_pdf/-char/en
金倉 円照(著)『ヨーガ・スートラの成立と仏教との関係』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/1/2/1_2_259/_pdf/-char/ja >>681
>その(カースト制度の教えがある)バラモン教から発展したヒンドゥ教の思想は、
この『ギーター』が示すものとは、カーストにより自分に与えられた立場や責任において、今、自分がしなければならないこととは何
か? そして、そのときに必要な精神態度とは何か? について説いたものです。
もちろん、勝手に人間を生れつき差別して弱者を虐待したり、などというのは以ての外です。古来から現代までも続いているインドの
カースト制度には問題点が多く、基本的に人間差別に他ならないものです。もちろん、インドの覚者方と真実の正しい聖者であれば、当
然、これを良しと見なしているということはない。
しかしながら、元々のカーストというのは本来はこういうものではなかったのです。それは誤用された結果なのです。
永い歴史におけるカースト制度によってインドすべての仕組みがこれにもとづいて構築されているために、これを無くして、新たな社
会システムを導入するというのは並大抵のことでは無理な話です。もちろん、このままでいい筈はないので、時間は掛かるけれども改善
に向けて進めらなければならないと思う。今の日本が、例えば憲法九条の改正と天皇制の廃止...をしようとした場合は簡単ではないの
と同様(私個人は九条改正は内容に拠りけり、天皇制についてはその支持者でも反対論者でもない)、そして、恐らくはそれ以上の、いや
もっと比較にならないくらいの困難なのであり、そして、膨大な時間も掛かるでしょう。
シャンカラは、カーストや家柄などによって我々の内にある真実の自己が影響されることはないといい、
『いったい、サンニャーシン(遊行僧)にとって、カーストの違いや浄、不浄にどんな意味があるのだ?」
--中略--バラモンや、チャンダーラなどというような違いは、ただ単に、狭い心が生み出すものである』(シャンカラ物語)
と説いた。 『偉大な立法者マヌによって制定されたカースト制度は、その起源においては真に賞賛すべきものであった。マヌは、人間が、その性
質の進化程度によって四つの種別カーストに分けられると観た。すなわち、肉体労働によって社会に奉仕できる人々(シュードラ)、知力、技
能、農業、商業、交易、その他実業によって奉仕する人々(ヴァイシャ)、管理、統制、保護等の能力をもつ人々―政治家、軍人など(ク
シャトリヤ)、および、瞑想的性格をもち、霊感に恵まれ、他人にも霊的鼓舞を与えることのできる人々(バラモン)、の四種別である。
「人が“天上界に目覚めた者”(すなわちバラモン)であるかどうかは、その人の血統や家柄や、宗教儀礼や学問によって決められるもの
ではなく、性格と行状のみがこれを決定する」とマハーバーラタは宣言している (注-「インドのカースト制度において、人が四つの段階
のいずれに属するかは、本来、その人の血統や家柄によるものではなく、その人が人生の目標をどこに選ぶかという生来の性質によって
決められるものなのである」)。マヌは人々に、人は智恵、徳、年齢、親族関係、そして最後に財産、のいずれかでも持っている限り、社
会的尊敬を受ける資格があると教えている。ただし、ヴェーダを信奉していた社会では、どんなに財産を持っていても、それをただ無益
にたくわえたり、公益や慈善のために使うことを知らない者は卑しい者とさげすまされた。したがって、りんしょくな金持ちに与えられ
る社会的地位は、ごく低いものだったのである。
だが、このカースト制度も、数世紀の内にしだいに形式化して世襲制となったため、そこから深刻な弊害が生ずるようになった。1947
年の自治回復以来、インドは、門閥によらず各人の個性や能力のみを基準とする古代カースト制度の真価を再認識してこれを復活する運
動を、遅々とはしているが着実に進めている。地球上の国はすべて、自らの手で敢然と処理解決しなければならない、その国特有の困難
なカルマを背負っている。インドは今、このカースト制度改革の大事業を、柔軟なしかも不屈の精神をもって完成するために奮闘してい
るのである。』
(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版p403-404) そして、カースト制度の元となったものが「ヴァルナ制度」というものですが「ヴァルナ」というのは「色」ということであり、これ
は“肌の色”の違いが階級差別にも関わっているものとして一般的には説明されています。
しかしながら、これはすでに形骸化した間違った概念による支配なのであって、元々、本来的にはその人の霊的成長を示すチャクラの
輝きと発するオーラの色の違いを示すものでした。つまり、個人の霊的成長の度合いに応じて、その人にとって適した生活と相応しい職
業があるという意味なのであり、また、その人の(意識からくる)行為の如何によって人は評価されるということなのであって、もちろん、
単に生まれの境遇に拠って尊敬すべきものでも卑しむものでもないということだった。
本物のインドの覚者や高度に発達した高位の弟子(導師グル)というのは、自分の弟子たちの発達具体についてをチャクラの輝きと活性化、
そして、オーラの色などを霊視することで正確に知るのです(よって、弟子の虚栄や嘘偽りはまったく通用しない)。
それから、本来の教えの誤用ということでいえば、特に南方仏教において顕著に見られた業に拠る報いに対する誤解と偏見であり、生
まれつきの障害者に対しては酷い差別扱いを僧侶たちがしてきた、という実態がある。そのことに対して反省して、二度とそういう醜態
を僧侶が晒すことのないようにして頂きたいものと思う。似たようなことはこの日本仏教界においてもあったことであるし、また、今で
も非業の死を遂げた変死体の故人には戒名を授けない(変死者は悪人である証拠であって戒名を与えるに値しない)とする糞坊主がいるら
しい。それは悲しみに暮れる遺族の心を逆なでする酷い僧侶の態度であり、慈悲と救済の精神にまったく反するものだ。 尚、殆ど消滅したといわれてきたインド仏教ですが、近年、そのインドにおいて再び仏教徒が増大してきているという。インド特有の
カースト制度に反対する人々やこの制度によって虐げられてきた大勢の人々(インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない
不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。---下
記リンクより)が、カーストによる生まれつきの人間差別を否定し、万人平等の救いを説く仏教への改宗運動が大きく広がっているのです。
特に、日本人僧侶・佐々井秀嶺氏による活動によるところが大きい。
インドで1億5千万人の仏教徒を導く、81歳の日本人僧「私には黒い血が流れている」
https://www.jprime.jp/articles/-/10511
『一九五六年の仏教への集団改宗により仏教徒になった人々およびその子孫がこの集団である。 彼らはヒンドゥー教が正当化するカー
スト制度とそれに基づく差別と闘う人々である。 一九五六年の集団改宗によって、インドの仏教徒人口は〇・〇五%から〇・七%へと増
加した。 これは、インドにおける仏教復興運動として歴史的な意義をもつ。』
(インドの「闘う」仏教徒たち/改宗不可触民と亡命チベット人の苦難と現在)
http://www.fukyo.co.jp/book/b92257.html
>>700訂正:
×「不二二元論アドヴァイタ」
○「不二一元論アドヴァイタ」 >闇雲に無批判的に、「人を殺せ」というススメにしか見えません。
もし、このように『ギーター』を「殺人を奨める聖典だ」などとインドで公言していたら、たぶん大衆から投石され唾を吐きかけられ
るでしょう。これはすでに解説した通りであって、カルマ・ヨーガについて、そして、一元論的非行為の道ジュニャーナと行為の道ヨーガとの
関係について教えるものです。それは戦争に臆する青年を題材にした寓話であって、話をより分かりやすくするために敢えて極端な設定
をしたもの。もちろん、決して戦争を推奨するものでも殺人を説くものでもありません。
しかしながら、あくまでも私個人の見解として述べさせてもらいますが、これは実際上の話においてもこのクリシュナからの教えとい
うは大きく効力を発揮するものです。
例えば明日、死刑を執り行うことになっている執行担当者(実際にボタンを押す人間)が明日を想い心を患っていた場合、この教えは確
実にその人の心の葛藤と苦悩の軽減へと大きく繋がるものです。執行人がこの時にできることとは、ただ単に無執着に淡々と任務を遂行
することであり、そして、唯一できることが死刑によって亡くなる方が罪を悔い改め、死後には少しでも安穏で良き来世へと生まれるこ
とができるようにお祈りすることです。
死刑というのは、死刑執行を担当する特殊任務に就いている人間のみならず、死刑制度を支持する国民すべてにその責任と罪過がある
のであって、特定の執行人個人だけの責任などではない。この私は死刑反対論者ですが、それでも明日、執行しなければならないとして
苦悩する担当者に向かって、「死刑は殺人に他ならず、殺人は最も大きな罪悪だ。そんなことをしたらおまえは地獄に堕ちるぞ。これは
ブッダが説いたことであり、そして、絶対的な真理なのだ!!」などと、その人間に説き聞かせることがその人の心の苦悩の救済になると
は決して思わない。なるわけがない。 死刑を支持する国民というのは、このような担当者たちの苦悩を知らず、そして、死刑が執行される惨たらしい実際上のリアルな情景
を知らずにのほほんと暮らしているから簡単に軽々しく支持できるわけだ。この私も死刑制度は即廃止すべきだとしており、政府にも手
紙を送付したこともある。ちなみに、死刑制度反対を明確に表明している日本仏教の宗派は残念ながら未だに浄土真宗ただの一つだけら
しい(死刑執行の度に宗派見解としての反対声明を発表してきた)。一体、他の宗派は何をしてるのか? 恐らくは政治的な口出しは敢えて
控えたいということなのだろうと、この私は見ているが...。
それから、今は対テロ戦争の時代といわれていますが、米軍の特殊部隊のメンバーとして明日、オサマ・ビンラディンを襲撃暗殺しな
ればならない兵士たちの心の葛藤とか、この日本においてでも、北朝鮮なり中国が攻めて来てこれを迎え撃たなければならない立場にあ
る自衛官の心中(本当の戦闘は初体験であって、いよいよ実際に人を殺すことになるかもしれないという不安と苦悩の想い)を察した上で、
「殺生は悪業だ。殺人は絶対してはならないことだ。これはブッダが説いた絶対の真理なのです!」などと説き聞かせることが本当に適切
と言えるのかどうか? ここで任務を放棄して逃亡でもすれば、敵やテロリスト集団によって愛する自分の家族を含めた日本国民が大勢殺
されることとなるのです。当然、憂慮せず任務を正しく遂行していれば、僅かな死傷者だけで停戦に至ることができたかもしれないとい
うのにです...。であるから、止む得ずそのような任務を遂行しなければならない担当者には、クリシュナの言葉を心に留めて任務遂行に
あたることが推奨されるのです。 スマナサーラさんは、基本的にはいつもこの日本にいるのでしょう? ならば、『日本テーラワーダ仏教協会』として正式に、死刑廃止
の支持を公式表明して下さいよ!! それからブッダの教えに対する信念を以て、日本の漁業協同組合や酪農協会へと直接に出向いて、「た
だちに殺生を止めなさい。地獄に堕ちますよ。これはブッダの教えであり、絶対の真理ですから」と、説いてきてはどうですか?
もし、これからも『ギーター』のクリシュナの教えをを批難し続けるというのであれば、どうかそれからにして下さいよ!! 私の見解
としては、全国民が不殺生を理解してベジタリアンにでもならない限りは、それらの職業に就いている一個人を批難したりするべきでは
ないし、「殺生は間違った行為だとブッダが説いた」などという言葉が、彼らの葛藤心や罪意識を救済することにはならないものと見ます
けれど、如何でしょうか?
推奨:
アムネスティ・インターナショナル
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/qa.html#Q4 それから神智学の視点からやや話を発展形で述べさせて頂くならば、実は宗教というものが人間に対して過剰に罪悪感(罪の意識)を植え
付けてきたのであり、その永き伝統が今日の人類社会の進歩にとっての大きな弊害を生んでいるのです。もちろん、それは悪事をなさな
いよう大衆を仕向けることには効果があったけれども、それが過剰な強い心の呪縛をつくる恐ろしい伝統となってしまった...。
ジャイナ教のような超極端な不殺生の態度についてはブッダは良しとはみなさなかった(仏教徒も同様、あまり不殺生に拘り過ぎの場合
は懸念がある)。そして、世界中どの宗教でも同じですが、特に一神教的な世界で顕著だったものが性に対する背徳意識の植え付けでした。
今日の人類にとって必要なのは、宗教による呪縛であった原罪といったような“罪の意識”からの救済と解放です(もちろん、それは悪
事を推奨するということではありません)。
それからもう一つ言いたいこととしては、宗教の歴史とは、宗教戦争と殺戮の歴史であり、そして、極端な法規で以て大衆を縛り付け、
罪意識を植え付けて苦しませてきたのです...。果たして、宗教は本当に、人間に安楽と救いを与えてきたものなのか? それとも逆に、
苦悩を与えてきたものなのか?
とにかく、これだけはハッキリしている。“唯一絶対の真理”を標榜する宗教にはロクなものはない、ということ。 仏教のみならず、自分自身でヒンドゥーも共に学ぶ者は、
まず例外なく、仏教の涅槃もヒンドゥーの梵我一如も同一の境地だと見なしています。
対して、「いやそれは異なる境地であり、
ヒンドゥーの境地などは仏教より遥かに低いものだ」と、
いっているのは仏教しか知らない者(僧侶と伝統信奉者だけ)です。
『以前京都の佛教大学で学んでいた頃、T先生という方にご指導を頂きました。仏教概論の講義だったと思います。私はT先生が『ヨーガ
・スートラ』というヨーガ教典の研究もなさっているのを存じていたので、講義のあとで個人的に質問しにいきました。
「先生。仏教でいう『涅槃(ニルヴァーナ)』とヒンドゥー教でいう『解脱(モクシャ)』は、教えはともかくとして、実体験としては同じも
のでしょうか。それとも違うのでしょうか。」
先生は「う〜ん」としばらく下を向いておられました。少しドキドキしながら待っていたところ、先生は顔を上げてこう仰ったのです。
「同じだと思います。」---中略---
ですから「仏教の覚りもヒンドゥー教の覚りも同じ」というのは、仏教者としては中々言いにくいことなのです。私も若かったので、先生
が答えにくいことを承知で質問をしてしまいました。(済みません!)それ以来、T先生への尊敬の念を深めたのは言うまでもありません。
究極の宗教体験という意味では、宗教・宗派の差はないのではないか。私は今もそのように思っております。』
(浄土宗林海庵)
https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201705.html
仏教の涅槃とバラモンの梵我一如は同一の境地
http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm >>706
ヤクザの組長は自分の奥さんと子供にセレブ生活させるためには、
覚醒剤麻薬を流したり、
女を風俗に落として
シノギをするのも
正当だ!
という論理がギーター擁護の神智思想なわけね >>710
殺人擁護教と仏教を同一視したがる外道シツコイ って、最後の一文は
重要な経だよって結びか。その意味で上の話を受けた引用だったか。
だとしたら、大変失礼した。 >>694 >>712
それがヤクザのスヴァダルマのはずだよね
否定するならなぜ戦士の人殺しは許されるのか知りたい >>712 .714. 716
自衛隊は、
あなたやあなたの愛する家族を護るために(あなたたちの代わりに)自分の命をかけているんだ。
彼らがいなければ、あなたとあなたの愛する家族が殺害されるか、
もしくは、あなたが直接その敵を殺さなければならないことになる。
反社会勢力(ヤクザ)が、君たちの代わりに覚醒剤密輸してくれてるのだとでもいいたいのかな?
ヤクザの話なんかと一緒にするでないわ!
精々、100回位は読んでよ〜く考えることだな!! >>717
「身内の為に体張る」のはヤクザも同じことだ
そこに職業的卑賤はない
岡村隆史と同じ偏見持ちかよ こんな偏見眼(邪見)に基づいて
「ヒンドゥは仏教と同じ」
などと判定
クソ笑える 先日、何chだったか忘れたがw
北インドの広範囲から、ヒマラヤ山脈の連なりがクッキリ見えた、
というニュースがあった。世界規模の自粛で、インドでも経済活動が抑えられ、
見事な景色が「復活」した、と。
皮肉な話ではあるが、本来あるべき姿かもしれん。
いつまできれいな大気がキープされるかわからんし、別件で「氷河の融け出し」も言われている。
まずは洪水の危険、そして将来の水資源の枯渇と。(豊かな湿地帯が砂漠化とか?w)
まあ、それはさておき、チベットの人々は、すぐ足下なので当然の畏怖と帰依になろうが、
遥か昔は、インド本土でさえ、神々の頂きであり、未来永劫(―常住する!―)残る雪は、
その思想や信仰形態に大きな影響を与えたろうことが実感される。 (ヒマ・アーラヤとはよく言ったもんだw)
実に神々しい。
近年、竜巻も増えているが、日本なんか小さなもんだが、たとえば中国内地の大きなものの映像とかみると、
湖や大河から大量の水を巻上げ乍ら、黒く太い渦が天へとうねっていく様は、
そりゃ龍神様に見えるよなぁ・・と。
神話化とか神格化を、ついつい、未開の、未発達の、後進文明的な思考と見做しがちだけども、
本当は、最も大切にしなければならない心の澄み方かも・・とか思ってしまったチラ裏。
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52290073/
https://www.cnn.co.jp/world/35152184.html
https://www.asahi.com/articles/ASN4J3F4HN4FUHBI023.html たかいなぁ とおいなぁ
あんなに遠いのに
こんなに近くに はっきりと
しろいなぁ うつくしいなぁ
世間はもろもろよごれてるのに
ぼく等はまるで能天気
染まらず 気だかく まっしろに
とけることなく 真っ白に
そこにはきっと仏さま
(なむしゃかむにぶつ なむしゃかむにぶつ)
まっしろな雪の頂に
坐ったつもりで そっと両手を合わせてみよう >>681
クリシュナの叔父さんは死刑に相当するような罪を犯した悪人、悪徳君主だったの? >ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!
wwwwwwwww
これらの共通項は、「わかったぞおおおお」の自己体験の過信ww
この「わかった」という認識さえ、自分の脳みその中の単なる電子的変異に過ぎないことを
理解できないw
そして、その「わかった」ことも、かつて先人たちがとっくに経てきた落とし穴であることも
理解できない。(それは、ひとえに過去の資料にあたらないからw)
・・・・・・その点、宝珠は資料の点検はやっている。しかし、残念なことにその大半は、
かって読みの自説強化使用ww
(・・・・というと、「い〜〜え、仏教徒の方が釈迦の真意をわかってないから」と言うww)
・・・・・そこのマインドフル君は、自己体験マンセーの典型でしょ?w
心経ファンみたいだが、もしかしたら、中論もみたことないんじゃ?w
マインドフルは、禅のテクニカルの特化みたいな面があるし、確かにそれは仏教の裾野を
広げる可能性があって、仏教にとっても決して悪いことではないと思うが・・・・
ああも攻撃的ではねえw マインドフルそのものが誤解されるぞw >>725-726
>ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!
そんなことは思ってなどいないし、
そして、まったく言った覚えもありませんね。
ただ伝統仏教の典型的な間違いの幾つかについて指摘してるだけのこと。
それだけです。
>しかし、残念なことにその大半は、かって読みの自説強化使用ww
私は仏典経典にある言葉をただ素直にそのまま読んでいるだけですよ。
そして、それらの私の主張の多くは専門の研究者方(プロの学者陣)の意見とも合致するものです。
ていうよりは、この私がそれらの学者たちの著述を学んできたのです。
しかし、素直じゃないなぁ〜
あなた方はホントに...。
「わかりました。どうもありがとうございました」とか
「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
┐(´д`)┌ヤレヤレ
ホント.随分と永い付き合いになったけれども、
いよいよ、七セブンともパーピともお別れです。
(ノД`)・゜・。 >>728
> 「わかりました。どうもありがとうございました」とか
> 「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
> ┐(´д`)┌ヤレヤレ
上から目線でサヨウナラ〜 ヒンズーと仏教の悟りが同じなら、なぜ別の宗教とされとるんやろ(´・ω・)? >>731
たどり着くところは同じということじゃろて 悟れないバカバービマンとバカ宝珠とが言うことである。大爆笑である。 >>728
餞別w
https://zeropointbuddha.ha*tenablog.com/entry/brahman_buddha12
https://zeropointbuddha.hate*nablog.com/entry/brahman_buddha13
(既読かも知らんけど)
※はてなブログはNG設定かな? >>734
おおっ♪ これはスゴッ!!
もう〜なんなんだよぉ。
こんなにイイものを知ってるじゃないですかぁ...
ヒドイなぁ〜 (-_-;)
とにかく-- 素晴らしい餞別を有難うございます (人''▽`)
これは“宝の山”のようなサイトですね。
勉強させてもらいます -- 感謝!!
合掌 -----皆さまへ
最後の投稿をほぼ書き上げたので、
URLにてまもなくここにUpします(ここに直接だとたぶん荒らしになるw)。
そして、私からのお別れのメッセージと一緒に。。。
もう、暫しお待ちくださいm(__)m おはようございます♪
わたくし宝珠は、
本日、ここへ最後の投稿にやってまいりました。
なんと2008年〜スレを立てて投稿を続けて、そこで議論を重ねてきて12年弱となりました。
当初から投稿を頂き論戦を交えてきた古参が、今も利用されている七セブン、パーピマン、
そして、最近になって途絶えた承狂さん。それから、?おじゃるさんもかなり古くからの参加者です。
私が、仏教信奉者の皆さんにお伝えしたいと思っていたことはすべて投稿できたものと思っています。
議論の内容も殆ど出尽くした感があり、これ以上ここに留まる必要もなくなったと判断しました。
今では問題ありませんけれど、まだ当初の2CHでは使い切ったスレが落ちたら最後で、
それを再び読み直そうとすることすらも簡単なことではありませんでした。
これまで過去の投稿スレのすべては、私のWebサイトで纏めてあります。
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
私が去った後のこのスレシリーズですが、
もしも、差し障りがなければこのまま『第七巻』、『第八巻』...と継続して使って下さい。
スレタイ及びテンプレなどもこのままで問題ないと思います。
(もし、必要であれば参加者皆さんで好きに修正してもらって構いません)
仏教全般の情報と意見交換の場として皆さんで利用して下さい。
それからテンプレ、アンカー>>2.の各種利用リンク集については、
以前、七セブンからリンク変更の要望があったので、次スレ『第七巻』を立てられる方は
このリンク集の最下段を以下のように変更して下さい(七セブン.これで良かったかな?)。
--------------------------------------------------------------------
(従来)
大正蔵経検索
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
(変更) ↓
大正蔵経検索
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php このスレを去った後は、地道に自分のWebサイトの拡充にて活動していくことにしました。
基本的には、もうこのような議論は望んでいないのでBBS(掲示板)なども設置しない方針です。
今後、このスレへは自らは投稿しませんが、もしも、この私から返答を希望する内容がある際には呼び掛けて下さい。
気付ければそのことだけは返答します。5chには、神社仏閣板で趣味の不動尊に関する事柄では
たまに“名無し”で投稿することがあるかもしれません。
それから、
もしも、個人的にこの私と連絡を希望される方がいましたら、
私のWebサイトリンク集の一番下からメールを送信することができます。
それでは永い間、本当にお世話になりました。
そして、どうもありがとうございましたm(__)m >>737
おはようさんじゃよ🌞
今までお疲れ様。そしてありがとうなのじゃ^_^)/
早速ブックマークさせてもらったのじゃ
こちらでは残念じゃが、改めてこれからもよろしくなのじゃ^_^) では、
これが最後のお土産となります!
↓
>>114
>無色界禅定で悟るんなら
>釈尊はアーラーマ・カーラーマやウッダラカ・アールニーの元で修行が終わり、
>苦行生活に入る必要も、菩提樹の下で悟りを開く必要もなーんにもなかった
以下のサイトリンクは、
「“滅尽定”は仏教だけのものであり、ヒンドゥー世界にはない。
つまり、“無色界禅定”までがヒンドゥーの限界であるから涅槃には到達できない。」
とする伝統仏教信奉者側の主張に対するこの私からの返答を中心に作成したページです。
尚、具体的な内容の投稿はこのリンクページを以て最後とさせて頂きます。
これはある程度の文章量があって、
なお且つ、適度な長さの改行すらもしていないので、
読まれる方は自分好みのウインドウサイズにてどうぞ!
内容としては、貴重で興味深い読み物をいろいろ書籍から直打ちしています。
結局、二ヵ月近くを要しました。
これを読まれるならば、
滅尽定が仏教だけのものでヒンドゥーには無理
などといった見方は完全な間違いであることがハッキリわかると思います。
●宝珠Webサイト
資料3.『仏教の滅尽定とヒンドゥーのニルヴィカルパ・サマーディ』
http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm
では、皆さんさようなら。
そして、どうぞお元気でm(__)m >>739
おはようございます。
こちらこそありがとうございました。
体調、コロナ等に気をつけてお元気でお過ごしください。 ☆
http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm
仏教の滅尽定と…
…仏教用語で言えば「我論」…
_ _ _
多分.アートマン真我のことかもしれないけど
あえて
↓
仮設としての
衆生は無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている.無明薫習
無明の暗闇に覆われて
渇愛が生じると
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じる
さとりに達するための.仏道への障害(「覆」)がある
我癡・我見・我慢・我愛
_ _ _
「我ではない」というのは
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明薫習を手放しせよ
(無明に依存している)我癡・我見・我慢・我愛を手放しせよ
「〜である・〜ではない」という我執を手放しせよ
という意味かもしれない
間違ってたら スマソ m(_ _)m ☆
https://ci.nii.ac.jp/naid/40018822743
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン) と現代
…ゲシェ・チェカワの『七事の心の訓練法』…
…道の本体は阿頼耶の自性に置くことです…
_ _ _
これも実践したことがないので.わからないけど
大円鏡智から → 阿頼耶識を観察せよ.という意味かもしれない
法界体性智をもって(般若の智慧をもって?)
無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83
…仏の智慧は.法界体性智…(なんちゃら…かんちゃら)
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html ☆
5ちゃんねるの場合は
NGワード規制とか
リンク貼り付け規制とかあるので
次スレ立てるのなら
たとえば
s☆cの場合は
永久保存?(長期保存?)されるのかわからないけど
https://☆ai.2ch.☆s☆c☆/psy/
(s☆cの)心と宗教@2ch掲示板
とかの方が良いかもしれない? >>732
いや、悟りという出発点、スタートラインが同じなだけや(´・ω・`) ☆
ウィキペディア参照
バラモン教
悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱く輪廻から抜け出す解脱の道を求める
仏教
苦の輪廻が続いていくという想いを手放しさせて
苦しいという想いから解脱することを目指して逝く
_ _ _
苦しいという想いからの解脱という意味においては
似てる気もする
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
内山興正老師語録
…昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を…
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
内山興正著.思い手放し
…「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいること…
…実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう… .
キチガイなんだよ。
自分で五蘊無我を説示してる経典を引用してるのに、五蘊無我と説く経典はないとか言ってるんだもん。
>120 名前:福音伝道[] 投稿日:2020/05/12(火) 08:29:17.40 ID:PtQ3juI/ [5/11]
>その「五蘊」は身心であり、自己である。すなわちそれは無我である、
>163 名前:福音伝道 :2020/05/12(火) 12:21:38.12 ID:PtQ3juI/
>五蘊無我と説く経典はない。 ☆
http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/h/paauk.sayadaw.samatha.vipassana.pdf
パオ・セヤドー
…精神性の識別
「心はどうやって観察するのか?」
(誰が何を観察するのか?)
アビダンマ・サンガハによると
有分心(bhavanga citta)は意門として機能しており
意門の心路過程は
過去の感覚を対象とすることができる(らしい?)
(今この瞬間の意識が → 過去の感覚を対象とする(らしい?))
− これに対して −
(「大乗非仏だ〜!」と批判されているらしい?)
大乗の場合は
一切法の真実の姿を観照して知りぬく智慧を観照般若という
この観照般若の智慧によって
無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
ありのまま観る(ことができるらしい?)
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
(仏性による真如縁起)無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています