>>895
>>835のリンク先の相応部阿羅漢経に原文が在りますが、ブッダが認めた「私」とは自我、エゴ、マインドなどと言われるAhaṃ(英語のI)とその目的格であるMamaṃ(英語のme)までで、
私の本体であるatta(英語のmyself サンスクリット語のātman)まで使用を認めてはいません。

この経典からブッダはアートマンを認めたとするのは無理があると思います。

なお、何度も繰り返しますが、

善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである。

の但し書きをわざわざブッダが述べていることも重要かと。
私という名詞、概念は単に世間の呼称であり、慣用語であり、それ以上のものではない、ということです。

なお、経典の「漏尽者にして最後身」というのは五蘊が滅してアートマンだけの体になっているという意味ではなくで、
生存の素因(煩悩、渇愛)が尽きて輪廻における最後の身体になった、という意味ですので注意が必要です。念の為。