>>839
はい、そしてリンク先の原文では私はあくまでAhaṃであり、我attā(梵語だとātman)ではないんですよね。

アーガマで定型句となっている

比丘たちよ、◯◯は無常である。
無常であるから苦である。
苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。

はつぶさに見ていくと

わが所有 もの 「私のもの」(パーリ語: mama मम)
我 「私」(パーリ語: ahaṃ अहं)
わが本体 「私の我」(パーリ語: me attā मे अत्ता)

あくまで2番目の私ahaṃまでは阿羅漢は言い得るのであって、流石にattā(ātman)は言うということまで慣用句であるから言ってもよい、とまでは説いてないようです。

従って

 『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』
(『ブッダ神々との対話』)

という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。
この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。