--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
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4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 SN.1.3.5 arahantasuttaM
yo/hoti/bhikkhu/arahaM/katAvI,/khINAsavo/antimadehadhArI
所のものは/である・ある(いる)・なる/比丘は/阿羅漢は/作し終り/煩悩尽き/最後の身を持つ
『比丘にして、阿羅漢となり、煩悩を尽くして最後の身を持つ者は、』
片山> 阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、最後の身を保つ比丘は・・・
中村> なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は・・・
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pahInamAnassa[為格]/na/santi/ganthA
慢心の捨てられた(人)に/ない/あることが/繋縛が
『(私という)慢心が捨てられた人には、(それに)縛られるということがなく、
片山> 慢の捨断者に縛りはなく、
中村> 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。
vidhUpitA[pp.pl.N.]/mAnaganthassa/sabbe[pl.N.]
滅びた(ものは)/(彼の)慢心の繋縛の/一切は
(私という想いを始め)全ての慢心による捕らわれは滅した。
片山> 慢の縛りは、みな〔破られて〕いる、
中村> かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。
sa/vItivatto/【maJJataM】BD/sumedho
彼は/超えたものは/妄執を/優れた智慧のある者は
(愛・慢・見三つの)妄執を超えた、智慧ある者は、』
片山> その妄執を超えた賢者は・・・
中村> 聡明な叡智ある人は、【死の領域】Dを超えてしまったので、 ahaM/ vadAmItipi /so/vadeyya
vadAmi-iti-【pi】C
私は/話す-〜と-【でさえ・としても】/彼は/話す事ができる・話してもよい
『「《私が》、喋る」と、口にしても(表現しても)よいだろう。
片山> 言えるだろう、「私が語る」と。
中村> 『私が語る』と言ってもよいであろう。
【mamaM】[為格]A/ vadantItipi /so/vadeyya
Vada【nti】@ -iti- pi
(彼らは)【私に対して】/話す-〜と-でさえ/彼は/話す事ができる・話してもよい
(また、)「(世の人は)《私に》、話しかける」と、口にしても(表現しても)よいだろう。』
片山> また「かれらが私に語る」と。
中村>また『【人々が】【〔これこれは〕〈わがもの〉である】と語っている』と言ってもよいであろう。
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loke/samaJJaM/kusalo/viditvA
世に於いて/名称を/善きもの、よくできた者が/と知って
『世間の名称(の使われ方(仕組・在り様))を、賢者はよく知って、
片山> 巧みな者は世の名称を知り、
中村> 真に力量ある人は、世間における名称を知って、
vohAra-mattena/so/vohareyyA
(世の)慣例-のみによって/彼は/説明する・示す
世の習いに従って、話す(会話する)のである。』
片山> 慣用語でのみ表すであろう。
中村> 言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。
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@、人称別のきっちりした言語ではよく見られることだが、
たとえ主語として「誰それが」と明示されていなくても
動詞の語尾の形で「時制も含め、それら」が特定できる。
動詞vadが3人称複数であるので、想定される主語は当然「彼ら」であり、
中村さんも「人々が―語る」とすることになる。 AmamaMは、A、G、Dどの格でも読める語形。おそらく、中村訳漢訳も
どちらかと言えばAc.目的格・対格ととっているのだろう。(835リンク先も。)
Ac.も、時間的・地理的、或いは抽象的なものまで様々な対象を含みながら
「〜へ向かって」という意味が出るので「誰それに向かって話す」
と読むことができる。
Dat.為格・与格で読んでも、「〜の為に、に対して」という構図が取れるので
「誰それに向かって」「〜へ、〜に」という読みができる。
水野文法書の文例も、Ac.の例にはない「話しかける・働きかける」際の語形が多い。
そのため、ここは文脈(下記貼付註釈参照)から、
また、「『漏尽者による自称』の是非」というテーマの上でも、
きちんと「対(≒対句)」としたいので、寧ろDで読んだ方が良いようにも思われる。
そして語義は、「私のもの」(というGen.属格の派生的、或いは
一語内だが依主釈的読みとして)ではなく、「私」という語義のまま読みたい。
ahaM vadAmi mamaM vadantI
『「私が」「語る」』←→『(彼らが)「私に」 「語る」』
中村訳も、文庫註にあるように、下記貼付註を承けて「私のもの」
という語義で読んでいるのだろう。
しかしそれでは、漏尽者の主体及び自称の問題から離れてしまう。
≪「人々が話しかけてくる対象(主体)として『この私』が実にある」という想い≫
を、漏尽者は持っているのか?という問いだから。(漢訳もおそらくこちらではないか?)
勿論、「私のもの」という想いも、斥けられるべき、慢・見としての
基本概念なので、ここのmamaMも、前句ahaMの意味上の併列・対として
また、下記註中の、神が挙げている例からも、「私のもの」と読みたくはなる。
或いは、≪漏尽者(so)は
「(彼ら漏尽者達は)[私のもの]と言っている(vadanti)」と言ってよい≫
と読むべきか・・・。結構ややこしいが・・w。
ポイントは、「誰が」「[私のもの]と言っている」のか見えない点。
(私が岩波版で感じていたモヤモヤ&違和感はココ。) また、mamaMは単数形なので、「人々の[私のもの]」ではない。
もし、下記註を承けて、「[私のもの]と言ってよい」、ならば、
二句目も【vadAmi】或いは【vadAma】でよい。こちらの対句でも、
それなりにスッキリはするけれど、【vadanti】である限り、それはない。
せめて【mamaM】ではなく、-ntiと合わせて【amhaM】他の複数形であるべきだろう。
(いや、「みんなの」でなく一人一人の個別の発言だから良いのか、単数で・・。)
*漢訳は、我、我所としているので、或いは「我」と「身体的存在(五蘊)」と
見たものかもしれないが、漢訳はまた別に考察が必要だろう。(望月辞典を参照した。)
偈が繰り返されて4種になってるし。
B、ほか異版「yamataM(PTS版)、mAnanaM(Ce.版)、maJJitaM(?)」。
(もし「水野辞書maJJanA」のAc.ならば「思惟・思弁を超えた、それらに依らない」人、
とも読める。意は835リンク先と同じい。註では、maJJanA、のこと、
「taNhA、diTThi、mAna」の三つの妄執、とする。
(PTS辞書には、maJJanA(f.):『conceit』(taNhA-, diTThi-, mAna-, kilesa-, etc.
(conceit:自負心、うぬぼれ、独断、私見。他。))
我見・我慢の文脈で見るならばこちら。片山訳はこれに拠る。
※この問いを発した神は、(原文は下記貼付註)、
≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
そのように言うのではないか?
【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
のではないか?≫
という疑問を持ったので、このように質問をした。
『まさに>>855そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。 C、漏尽者にとって一見相応しくないように見える言葉であっても、
そうだとしても、そのような語であったとしても、の意。
D、中村訳は、PTS版yamataMに従い、且つW.L.Geigerの読解に拠ったもの。
※ahaMの初出箇所(から)にある註。
〈この神は密林に住む者である。かれは、森林住の比丘たちが
「私は食べる」「私は坐る」「私の鉢は」「私の衣は」
などと語る言葉を聞いて、考えた。
「私はこの比丘たちを漏尽者であると思うが、はたして漏尽者たちには
このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
それとも生じないのか」と。
このことを知るために、このように問うている。〉
*(片山版の体裁(記載箇所)を信じれば、「mamaMの註」というより、
この神の発言全体の総括的註か。(そこは原本見ないとわからない。)
中村訳は、文庫註の書き方から、この内容「私の鉢は」「私の衣は」から、
「私のもの」という読みをしたものと思われる。)
*mAnaganthassaは、mAnaganthA+tassa(assa)の短縮形
とも言われるが、いずれにしろD.G.で読むことになるので
それほど重要ではないだろう。もし、短縮形であるなら、
ここは詩句なので、韻律上、音韻の数の調整からのことかもしれない。
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以上、どう読んでも解釈しても、
「アートマン」(及び「真我」)が出てくる理由が見当たりません。
m(_ _)m
が、mamaM vadanti については、まだまだ要検証といったところ。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。