https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf/-char/en
付記
以上の所論は錯雑で不明瞭な点があったので、それらを表示して明確にしたい。
この表のAは正邪善悪が混在した諸法で【黒白未分の】本浄(無自性)を示し、
Bは未分が分かれて凡夫の染汚不浄の輪廻の状態を指し示し、
Cは未分から分かれて聖者の清浄解脱に向かう還滅の状態を示す。
  (別表 https://i.imgur.com/om5kpz4.png )
 この本覚はバラモン教の自我(Atman)と同じものと考えられるかもしれないが、
これを【実体我】と見れば邪説である。
  〔なおここに仏性や如来蔵を本覚とともに無自性のAに入れているが、
  仏性、真如、法界、如来蔵などは、それらの完全態としての
  常住不変の規範(norm、Sollen)は【具体的な現象ではなく】
  【形式的な理法】であって、今のA、B、Cの問題ではない。〕
AやCにこれらの規範が関連しているが、
Aに含まれている仏性(buddha-gotra)は
仏の姓(家柄)であって【仏となる可能性】を意味し、
如来蔵(tathAgata-garbha)も如来そのものではなく
「如来の胎児」であって、いずれは出産して如来となるべき可能性のあるもの
である。これは心性本浄の場合に心は本来清浄無垢の仏陀となる可能性もあるが、
有垢雑染の極悪者ともなる可能性のある【無自性のもの】である。
【本覚もここでは可能態として見た】のである。
 無自性のものであるから、善浄の完全者となる可能性があり、
それに向かって理想意識をもち、常に理想に向かって精進努力することが
仏教の根本趣旨であり、右に掲げた無常偈や三法印などはその最も一般的なものである。
釈尊が入滅近くに、自洲・法洲(自灯明・法灯明)の教えを説かれ、
【無自性の自己】を 理想規範によって、常に理想に向かって進む〔進ましむ(引用者注)〕
べきであるとされ、
また入滅直前にもvaya-dhammAsaNkhArA,appamAdena-sanpAdetha
(諸行―すべての現象―は衰滅無常のものであるから、
お前たちは放逸ならず―我儘勝手な振舞いをせず、―
法に従って理想を現成せしむべきである)と最後の遺誡をされたと伝えられている。