海豚専 2024年 Part2
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【川崎】中村憲剛の妻・加奈子さん観戦記…最後の試合終え帰宅した夫に思わず涙で「サッカーやめないで」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210103-01020225-sph-socc
1/3(日) 16:00配信
◆サッカー天皇杯全日本選手権 ▽決勝 川崎1―0G大阪(1日・国立)
川崎がG大阪を1―0で下し、初優勝を飾り、リーグとの2冠を達成した。
後半10分にルーキーFW三笘薫(23)が、準決勝のJ3秋田戦に続く決勝点をマークする大仕事。
この試合を最後に現役引退するMF中村憲剛(40)の花道を飾った。
18年間の現役生活を終えた中村の妻、加奈子夫人(40)がスポーツ報知に観戦記を寄稿した。
川崎フロンターレに関わる全ての皆様、悲願であった天皇杯優勝、本当におめでとうございます。
また、このコロナ禍において、天皇杯開催にご尽力された全ての方に選手の家族として御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
思えば4年前、大阪での初めての天皇杯決勝。タイトルを取る瞬間を見届けたくて子供3人と
遠征したのですが、前夜に長女が胃腸炎を発症してしまい、大みそかに大阪で 救急病院にお世話になり、試合もホテルの部屋で見ることになりました。
結果は1―2で鹿島に負け、「パパには心配をかけるから言わないで」と言う優しい長女の
願いもむなしく熱にうなされながら応援したパパの優勝はかなうことはありませんでした。
4年前は優勝の味を知らず、常勝軍団、鹿島アントラーズの壁は越えられそうで越えられない、
どうしたらあの届きそうで届かないあちら側になれるんだろう。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、まだなんだと思って泣きました。
長女の成長も感じながら、また大みそかでありながら、真摯(しんし)に対応していただいたホテルの方、
お医者様の優しさもあって、大阪での思い出はほろ苦くも深く心に残っています。
今年の元日、憲剛引退の日となる天皇杯決勝の対戦相手が大阪のチーム、ガンバ大阪
ということで、4年前の記憶が緊張と共によみがえりました。
高揚感と少しの寂しさを持って朝を迎え、子供たちと準備をしてかなり早くに国立競技場に到着しました。
競技場までの道すがら、ありがたいことにたくさんの方に「今日が最後ですね」と声をかけていただきました。 あぁ本当に今日が最後だなとしみじみするのは早いと思いながら、決戦が始まりました。
4年前とは違う、きっと大丈夫と思う自分と、今まで何度も見てきた勝者の背中を見つめる
愛すべき選手たちも想像してしまって。
期待と不安、気持ちが行ったり来たりして落ち着きませんでした。
正直、はっきり試合中のことは覚えていません。
あまりにドキドキして時計を見たらまだ10分しか経過していなかったこと。
次女に「おなかすいた」と買わされた、たこ焼きの味が緊張感もあってすごく後に残ったこと。
三笘選手が待望のゴールを挙げた時に競技場の隙間からちょうど西日が差してきたこと。
憲剛が選手としての役目を終えた瞬間を見届けたこと。
断片的にですが、情景とともに記憶に深く刻み込みました。
その時その時でベストの準備をしてきた憲剛を見続けてきた私としては、出られなかったことはもちろん悔しくもあります。
ですが、最後に見た風景は紛れもなく憲剛が時間をかけて愛情を持って水をかけ続けた種が大木となった瞬間でした。 5年前から少しずつ、大きく育ってほしいと願って切磋琢磨(せっさたくま)して一緒に成長させてもらった
仲間たちに囲まれる憲剛を見て、この光景を見させてもらったこと、一生忘れることはないと思います。
試合が終わり、家で憲剛を待ちながらどんな声をかけようかと思っていたのですが、帰宅した憲剛を見たら
不覚にもぼろぼろと涙が出てきてしまいました。鬼木監督の采配やかけていただいた愛情にも100%納得
していたはずなのに、驚いていた憲剛を見て出た言葉は「サッカーやめないで」でした。憲剛がボールを
蹴る姿を心から見たいと、よりによって引退の日に思ってしまいました。どこでもいい、ただ彼が楽しく
サッカーをやってるところが見たいと伝えたら、笑って、「大丈夫だよ、それはやめないよ」と言われました。
プロサッカー選手、中村憲剛としては幕引きですが、サッカー小僧、中村憲剛はきっとまたどこかで
ボールを蹴り続けると思います。背負ってきたものを頼もしい後輩に託して、ただただサッカーを
楽しむ憲剛を見てみたい自分がいます。 純粋にサッカーを楽しんで、たくさんいろんなものをインプットして、
お世話になったたくさんの方に恩返しができるように。
たくさんの子供たちの才能の種に水をかけてあげられるように。
時に叱咤(しった)激励しながら笑顔を絶やさず共に生きていきたいと思います。
きっと私たちが見せてもらった光景にはさらにその上があると剛(つよ)く信じています。
長い間、応援頂き本当にありがとうございました。
(中村 加奈子)
【取材後記】
加奈子夫人は想像より斜め上をいく。
憲剛が天皇杯決勝に出場しなかったこともあり、試合後、加奈子夫人に観戦記をやめてもいい旨を伝えると
「一度、お引き受けしたお話なのでキャンセルしなくていいですよ」と返ってきた。ありがたかった。
と同時に、試合後すがすがしいインタビューを残した憲剛の姿を思い出した。
観戦記や手記は記者が話を聞いてまとめることがあるが、今回は違った。
2日朝、取材のタイミングを相談しようとすると、加奈子夫人自ら書くという。また驚いた。 「話すと感情の整理がうまくつかなくて、支離滅裂になりそうな気がするので」。
私は話を聞いている最中に泣いてしまい、仕事にならない可能性もあったので少しホッとした。
その考えは甘かった。届いた原稿を読んでいると、涙がこみ上げてきた。会社にいたので懸命に我慢した。
4年前の吹田スタジアムは鮮明に覚えている。中大サッカー部の主将とマネジャーが結ばれた中村家の
元日夜を想像し、最良の理解者が最愛の夫にかけた言葉にまた涙腺が緩んだ。
加奈子夫人はこの観戦記を1時間で書き上げたそうだ。1700文字以上。2人にとってとても大切な
楽曲へのオマージュも含まれている。本人は謙遜するが、驚きの才能。「書くことでだいぶん整理がついた」。
そう言ってくれた加奈子夫人には感謝しかない。(08年~10年川崎担当・羽田 智之) 川崎「ふろん太」明かす中村憲剛、夜中の涙/手記
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201231-22300892-nksports-socc
2020/12/31(木) 10:00配信
川崎フロンターレMF中村憲剛(40)が、1月1日の天皇杯決勝ガンバ大阪戦(国立)をもって現役を引退する。
そんな中村の“親友”、クラブマスコットの「ふろん太」が、ラストマッチを前に日刊スポーツへ独占手記を寄せた。
18年間全ての苦楽を共にしてきた相棒が、おごらず、飾らず、前向きな、等身大の中村の姿を明かした。
◇ ◇ ◇
ケンゴと出会ったのはもう18年前。ひょろっとしてて、とてもプロのアスリートになるようには見えず、
頼りない感じだった。ま、今もパッと姿だけ見たら、頼りないけど。どんどん成長して、日本代表にも
選ばれて有名になっていっても、僕らが触れるケンゴは今も昔もそのまま。誰かと比較したり、自分の
物差しや判断基準と違う人がいても、それを一方的に批判したりはしない人。
いろんな人の意見を聞いて、自分なりに解釈して前に進む人。
みんなに感謝して、自分の言葉でありがとうを伝えられる人。 そして18年前に「結婚したいと思ってる大切な彼女がいる」って僕に話してくれた時から、
今でも変わらずただの奥さん大好き人間。「足を向けて寝られないどころか、頭が上がらない」
って、いつもいつも言ってる。きっと僕にも頭が上がらないだろうと、僕は思ってる。
1年目の開幕戦でメンバー入りした時からケンゴは、ヒロキ(伊藤宏樹=現強化部)と僕と
「今日は何人来てくれるかな」「どうやったら等々力を満員にできるかな」って話し合っていた。
今では当たり前のようにたくさんのみんなが来てくれるようになったけど、雨の予報が出てるとき、
寒いかなってとき、平日のとき、チームの調子が悪いとき…。
もう18年にもなるけど、いつもいつも気にかけて連絡してくる。
「チケットの売れ行きどう?」「明日はどんな感じ?」って。
僕はそれを見て、たくさんのみんながスタジアムに足を運んでくれることは当たり前じゃない、
努力を続けなくてはいけないんだって、毎回あらためて心にとめている。
14年のW杯ブラジル大会でメンバーから落選したケンゴの涙は、今も忘れられない。 自分自身はもちろん、周りの期待も感じていただけに、ケンゴの落胆はすごかった。
もう、全てを投げ出して辞めてしまいたいってくらいに取り乱して、そういう思いを僕にラインしてきた。
3時間くらいだったかな。夜中にずーっとやりとりをして、いろんなことを僕にぶつけてきたけど、
きっとあの時はスマホを持ちながら、たくさん泣いていたんだろうな。
ケンゴは40歳での引退を決めた5年くらい前から、「なんとか優勝したい」ってよく口にするようになった。
もちろん、ずっと前から「優勝したい」って言い続けてたけど、「引退するまでにどうしても」って
言葉を使い始めたのは、今思うとその頃からだったのかな。「自分が優勝したい、プロサッカー選手
としてそういう経験をしたい」っていうよりは、ケンゴらしく「フロンターレのためにも優勝したい」
って言い方をいつもしてた。
17年の初優勝のときは、「やっとだね。いつもありがとう。優勝おめでとう」って言ってくれた。
大泣きしてたケンゴの姿に注目が行きがちだけど、僕は(ここだけの話)試合終了の笛が鳴る前にピッチに入ってた。 いつもそばにいてくれるボランティアスタッフの「行け。いいから行け」って声に反応して、
走り始めてしまったから。どっかでその話を聞きつけたケンゴは「早くピッチに入ってたらしいな」
って、「ま、今回は許してくれるでしょう」って笑いあった。
「1回でもいいから優勝して引退したい」って言ってたくせに、数時間後には
「1回優勝したら、2回、3回と優勝したくなるよねぇ」、「そうだよねぇー」って、また笑いあった。
去年の11月、ケンゴは前十字靱帯(じんたい)を損傷した。病院から「ダメだった」って連絡が
来たけど、次の瞬間。取り乱してた僕と違って、「ここから復活したらすごいでしょ?」って、
とっくに切り替えてた。リハビリ中はまさに一喜一憂で、「今日はすごく順調だった、こんなこと出来た!」
って連絡の時もあれば、「今日は痛くてできなかった。思った以上に順調に進んでない」って言ってくる日もあった。
結局、僕はケンゴが楽しそうにピッチでプレーをしている姿を見るのが大好き。復活して等々力の
ピッチに戻ってきた時、ただただそう感じた。 背番号14番だったり、いつものお気に入りのスパイクだったり、姿や形でインプットされてる
のもあるけど、どんなに遠くからピッチを眺めても、22人の中ですぐにケンゴを見つけられる。
僕にはいつも光り輝いて見えるんだ。
僕は引退の話を聞くまではひそかに、21年シーズンにベストイレブンとMVPを取ったら
カッコいいなって、1人で大いに盛り上がってた。それくらいの可能性を秘めた選手で、
まだまだやれるってことは、フロンターレのサポーターのみんなは分かっていると思う。
そのタイミングでの引退。
「まだまだやれるよ」って何度も何度も思ったけど、ケンゴが決めたならそれがベストのタイミングだよね。
うれしいことに、まだ天皇杯が残ってる。ケンゴがプレーをする姿をまだ見られる。
ケンゴはいつものように、試合に出場するための準備、チームメートとの競争を、最後の最後まで楽しんでると思う。
いい準備をして、いつものようなプレーを僕たちに見せてほしい。
中村憲剛っていうフロンターレの歴史に残る選手のプレーを、目に焼き付けるんだ。
(ふろん太) 「日本サッカーを世界に近づけて欲しい」川崎元監督・関塚氏が将来に期待…
ありがとう中村憲剛「14」の物語―2021年元日 川崎フロンターレを引退―
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210115-01150020-sph-socc
1/15(金) 6:00配信
J1川崎フロンターレのMF中村憲剛(40)が2021年1月1日の天皇杯決勝で18年の現役生活を終えた。
憲剛と関わった人たちに、それぞれの憲剛を語ってもらう連載の第3回は川崎の元監督・関塚隆氏(60)。
就任1年目の04年、入団2年目の憲剛をボランチにコンバートするなど飛躍のきっかけを作った。
そのいきさつ、将来への期待などを明かした。(取材・構成 羽田 智之)
■ボランチコンバート
フロンターレの監督に就任する時、ジュニーニョと我那覇和樹の印象はありましたけど、憲剛の情報はほぼ持っていなかったです。
鹿島は03年シーズン、天皇杯準決勝に進んだので年末までコーチをしており、実際にプレーを見たのはチームが始動した時でした。
身体の線は細いけど、テクニック、動きを止めないモビリティーがあり、判断が非常にスピーディーでした。 プレーが連続して出来る。パスを出して、次動く。
パスを受けにいき、出てこなければ、そのまま次のところに動ける。
そういう印象を受けました。
ボランチへのコンバートはシーズン前にトライしました。
宮崎・綾町での1次キャンプから帰ってきたぐらいの時期だったと思います。
当時、コーチ陣と話をしてシステムを3-4-2-1、3バックでスタートしようと決めました。
1トップに我那覇がいて、2シャドーにジュニーニョ、マルクス、今野章、久野智昭、黒津勝がいました。
当時J2は4回戦で44試合。憲剛もそこに割って入るだけのポテンシャルもあり、ポジション争いをさせる選択肢もありましたが、
彼の前方向へのプレースピード、パススピードが素晴らしく、しかも、広角に強いパスが出せる。
前でスペースを見つけて、ボールを受けるセンスも持っているから、前線の選手をうまく操れる。
プレーメーカーとしての素養がありました。だから、「やってみないか」と提案したんです。
「僕、守備できないですよ」なんて言っていましたが、彼からすごくチャレンジしたい意欲を感じたことを覚えています。 コンバートは順調でした。選手たちとのコミュニケーションからも分かりましたが、ゲームを読む力はある。
狭いスペースでターンできるので、それはボランチでもいかされた。前を向いて、どう縦パスを入れるか。
そのためにもサイドを使う。縦と横の幅を使うセンスがある。攻撃に関して不安はなかったです。
使えるな、と思ったのは5月ぐらいだったと思います。ゴールデンウィークぐらいにレギュラーをとったと記憶しています。
当時、対戦相手は、フロンターレに対して8枚ぐらいのブロックを作って守ってきた。それをどうこじ開けて点を取るか。
彼のパスセンスがポイントになってきていたので、憲剛とはそのあたりをよく話しました。
あと、守備のところ。攻から守の切り替えのところで、そのままプレッシャーに行くのか。どの位置に戻るのか。
スイッチを入れる、パスコースの切り方など前への守備のセンスはあったけど、後ろへのディフェンスは
ウィークでしたので、ゲーム形式の練習などで、ディフェンダーとの連係を作っていきました。 ■地域で愛される選手
間違いなくJ1でレギュラーをはれる選手だと思っていました。生え抜きの選手が活躍し、地域で愛される。
当時のフロンターレはそういう選手を作ることが大事でした。
常日頃、武田信平社長(当時)、福家三男さん、庄子春男さんからそういう話を聞かされていました。
自分も鹿島で、そういう選手を見てきた。柳沢敦、平瀬智行、本山雅志、小笠原満男、中田浩二、曽ケ端準らがそう
鹿島時代、スカウトの平野さんから、預かるんだからプレーも人間性もしっかり頼むぞと言われた。
フロンターレでもそういうことは意識しました。
伊藤宏樹をキャプテンにし、憲剛がゲームキャプテンを務める期間が長かったです。彼らはすごくいいコンビでした。
何でも話せる間柄で、チームのことをすごく考えていた。2人で方向性を打ち出せもした。
武田さんを筆頭に、地域に密着したクラブを作ってきた歴史があります。企画を考える天野さんもいた。
2人は、そういう地域密着の意識を持ち、選手をまとめてくれた。井川祐輔もいいキャラクターで貢献してくれました。
1年、1年積み上げていってくれた。 私が監督になった当初、等々力陸上競技場の観衆は5000人を下回った時もありましたけど、
優勝争いした時は1万5000人以上入ってくれた。うれしかったです。
昨年はコロナ禍でしたが、最近のスタジアムの雰囲気はすごくいいですよね。
■オーバーエージ候補
憲剛にキャプテンをやってもらわなかったのは、チーム状況も大事だけど、自分のプレーを
確立して欲しいと思ったからでもあります。オシムさんに初めて日本代表に呼ばれた当時、
同世代には、中村俊輔、小野伸二、遠藤保仁、小笠原ら中盤にタレントはたくさんいた。
そのなかで、どうやって憲剛がスタイルを作っていくか。これはクラブとしても確立していかないといけなかった。
岡田武史さんが代表監督だった時、憲剛のことを話しました。
彼の最大のストロング、最も適しているポジションなどを話し合いました。あの攻撃的なセンスをどこで生かすのか。
ジュニーニョ、我那覇、テセ、黒津への縦パスについては、成功例を持っていて、経験値も上がっていた。
それは代表でも生きましたよね。岡崎慎司とはものすごく合っていたと思います。 もちろん、ロンドン五輪のオーバーエージ枠に憲剛も考えました。私を一番よく知っている。
オリンピック経由ワールドカップと言うけれど、里内フィジカルコーチ、小倉コーチらワールドカップを
経験したスタッフと話すなかで、オリンピックも結果を求められる年代だよねという認識になりました。
そういうチームにしないといけない。結果を残すという方向にシフトを変えた。
そのために誰が必要になるかと考えた時、憲剛というのはありました。
ただ、オリンピックチームの事情などをふくめ、総合的に判断して編成しなければならず、ほかの選択になりました。
■小笠原との共通点も
私は憲剛と小笠原を常に比較して見ていました。2人とも攻撃を操る、プレーメーカーとしての才能がある。
ゲームを作る能力。憲剛はより鋭さを持っていた。小笠原は守備の強さがあった。
そういう違いはあるけど、絵を描ける選手たち。ゲームを託せる、そういう存在だったと思います。
成長に携われたのは指導者として幸運でした。
憲剛が筆頭だけど、寺田周平、伊藤宏樹、谷口博之、森勇介、村上和弘もそう。 引退の連絡をもらいましたし、それはうれしかったです。
憲剛から引退の報告を受けた時、これからの話も少ししました。
フロンターレとの関わりを持ちながら、世界を広げていきたいと言っていた。幅を広げたいと。
小笠原と同じようなことを言っているなと思いました。憲剛は川崎市、神奈川県に貢献しただけでなく、
全国の子供たちにものすごく影響力があるプレーヤーとして活躍してきた。
日本サッカーは世界に追いつこうと頑張っている。彼も力を発揮して世界へと近づけてもらいたいと思う。
それは一足飛びにはいかない。どのカテゴリーから始めるのかということもあるでしょう。
自分で見つけて、素晴らしい第二の人生を歩んでいって欲しいです。 ◆関塚 隆(せきづか・たかし)1960年10月26日、千葉県生まれ。
八千代高から早大に進学。84年、本田技研入り。ストライカーとして活躍。91年に現役を引退した。
早大ア式蹴球部の監督、鹿島コーチなどを経て、2004年に川崎の監督に就任。
09年まで指揮し、強豪クラブの仲間入りに尽力した(08年はシーズン途中に体調不良で退任し、翌年復帰)。
12年のロンドン五輪では、U―23日本代表監督を務めて4強入り。
磐田、千葉などを指揮した後、18年2月に日本サッカー協会のS級指導者ライセンス講師、
地域統括ユースダイレクターに就任し、同年4月から技術委員長を務めた。
20年3月、ナショナルチームダイレクターとなり、同年11月に退任した。
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以上、保守完了! GK 1 前川 黛也
DF 24 酒井 高徳
DF 4 山川 哲史
DF 3 マテウス トゥーレル
DF 19 初瀬 亮
MF 6 扇原 貴宏
MF 96 山口 蛍
MF 18 井出 遥也
MF 26 ジェアン パトリッキ
FW 22 佐々木 大樹
FW 10 大迫 勇也
GK 99 上福元 直人
DF 31 ファンウェルメスケルケン際
DF 2 高井 幸大
DF 35 丸山 祐市
DF 15 田邉 秀斗
MF 6 ゼ ヒカルド
MF 16 瀬古 樹
MF 26 山内 日向汰
FW 20 山田 新
FW 28 パトリッキ ヴェロン
FW 18 バフェティンビ ゴミス GK 21 新井 章太
DF 23 広瀬 陸斗
DF 55 岩波 拓也
DF 81 菊池 流帆
MF 2 飯野 七聖
MF 7 井手口 陽介
FW 9 宮代 大聖
監督 吉田 孝行
GK 21 安藤 駿介
DF 13 三浦 颯太
MF 25 松井 蓮之
MF 30 瀬川 祐輔
MF 77 山本 悠樹
MF 8 橘田 健人
FW 23 マルシーニョ
監督 鬼木 達 今のは田邊に誰もフォロー行ってないのが・・・山内の役目じゃないか 田邉はカード覚悟でも行かなきゃいけないとこと、そうでもないとこの区別が甘いのかな >>82
右SBの経験は有るが左した事は無いぞ>松井 高井のポテンシャルとたまの集中力のなさは板倉思い出す ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています