▲色即是空の誤り3▲
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そろそろ私たちは5世紀に到るまで法華経教団はおろか大乗教団の遺跡が発見されていない(法華経自体は色々発見されている)ことを素直に受け止め、これら大乗経典と信仰が布薩に共に参加する上座伝統教団内のグループとし行われたと考えるべきではないのか?
そう考えると法華経に見える釈尊や仏達への形容句がデイヴィ・アヴァダーナやマハー・ヴァゥストゥと共通していくることはなんら不思議がないことになる。更に律文献に見える教団の社会対応から所謂不正腐敗と対する反発と浄化運動も推測出来ることになる。
つまり大乗と小乗は違う拠点で睨み合っていた訳ではなく寺院、チャイティアを中心に森林遊行など四方僧伽・全教団として戒を保ち律をよくして共存しながら、分裂ではなく思想闘争をしながら連綿とナーランダーのような大学まで歩んでいったという方が自然に思う。
伝統教団的に戒と律をよく行った上での大乗経の創作・解釈となると中国、日本的解釈とは異なり、インド的な戒と律で守る信仰と護られる生活があるから、親鸞さんや日蓮さんのような大胆な、極論すれば仏教から踏み外しかねない領域へは足を踏み込まないことになる 。
法華経は有る意味それまでの仏教をおさらい的に語っているところもある。インド的活動に沿って読めば迹門本門という枠組みも疑問だし、声聞縁覚と仏弟子を呼ぶのが蔑称と言うのは大乗小乗の対立を前提にした中国日本的解釈ではないのだろうか? 大乗の創作経典は、経典ではなく、劇芝居のような扱いだったのかもね。
聖職者が経典を創作するというのは、やはり不自然である。 お経読むのも、賛美歌みたいな位置付けだったのかも。
教義とは直接関係しないけど、大衆向け、新規開拓の道具として使っていた。
中国から来た留学僧に見せてやったら喜んで持ち帰った。
で、気付いたらただの賛美歌だったのが、経典扱いされてて、魔改造された教義まで作られていた。 物体は目の前にある。
確固として。
だが何百年も経過すれば朽ちる。 物質は常に変化している。
常住ではない。
であるから色は空である。
これを数学の等号の様に、
色=空と考えるとダメだ。 色が空とわかるには
時間の超越を要する。
時間が存在しない世界では色は空である。
いや色ですらない。
もんkですらない。 物は起こり続けている。
こう言うことが出来る。
色は空だが空にすることはできない。
しかしもともと空である。 眼耳鼻下身意とあって、
見て悟るか、聞いて悟るかでも、
違いがあるだろう。 目の前に置かれた
オレンジジュースが入ったコップ。
これは起こり続けている。
それがわかります。
すべて怒っている。
これをしかと見てみることです。 すべてが起こっていることを見れば
流れ始める。
それは預流果とか何とでも名づけたまえ。 >>74
だから大衆部が大乗の元だって 笑
自分達のグループも無いのに大乗の専門寺院が有ったのかよ?笑 >>86
「大乗は部派仏教の一部でしかない」は鹿野園の主張だから、不満があるなら彼に言え。
> 自分達のグループも無いのに大乗の専門寺院が有ったのかよ?
は何度も指摘してるから。
君らお友達同士、ちゃんとお話してくれ。 ガチガチの理系でも納得させるには「即是」の超越的翻訳力を要する。
空をエネルギー、色を物質質量とすると
色=E / Cの2乗 つまり空を光速の2乗で割る、というのが解になる。何を意味するか?
わかるかな >>86
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗グループはなし
という記録が残っている以上、
結論「大乗は衰退した」
これが学者の一致した見解。
まともな知性を備えていない方々が反論してるようだが、恥ずかしいぞw。 色即是空を
E イコールエ エムシーの2条
と訳した人いた? 質量とエネルギーの「等価性」を示してる。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」 >>87
俺はお前の発言に対して言ってるんだから他人のせいにするなよ( ̄ー ̄) >>89
何時の学会で一致したんだよ?
議事録は? (訂正) 空即是色を
E イコール エムシーの2乗
と訳した人いたかな? 質量とエネルギーの「等価性」を示してるんだよ。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」
或いは 空即是色の空即のあとで改行をしてみれば 分かり易いかも。
日本語には「行間を読む」という言い方があり、即はイコールで、そのすぐ後に 光速の2乗 ×
が隠れていると読む。 インドは別にしても、中国や日本では、20世紀までは大乗仏教が花盛りであった。
チベットに伝わった仏教は、大乗仏教が中心であった。 前に挙げた「エネルギーと質量の等価性」を示す式は特殊相対性理論の中の有名すぎる式だが
一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式に当てはめてみると
色は右辺の物質場の分布量と捉えられるし。
空は左辺の時空の歪み方を示す幾何学量と捉えることも可能で、これなら「即是」を只の等号と翻訳して終了です。
こちらにしましょうか 表示できるかどうか 5chの色も空なり
Gμν + Λgμν = kTμν 96のアインシュタイン方程式は空即是色を表した式と解釈可能と思いますが
単に右辺と左辺をひっくりかえせば色即是空だよなんて説明で済ましてしまったら
いかにも分別説部のことば遊びみたいでつまらないし無意味。もっと多様な解釈を織り込んだほうが
この経典の解釈として適当な感じおします 心経が創作経典であるのなら、宇宙における物の存在の仕方と
時空の歪み方が本質的に一致することを示した二十世紀物理学最高の成果の一つを
二千年近くも前に見抜いた人はどういう天才なんだという風にも言える
かと思います ガラッと変わりますが、
たとえば幼稚園児向けに空を心と解釈して、
形無き心は形に顕われる とかもありますね これだと五蘊みな心となるし
法界唯心 また別の論点
四諦を知って阿羅漢の悟りに達したり、十二縁起を独自に覚っただけでは
まだ他に法を説かない。ブッダが今なお崇拝される存在なのは衆生に法を説いたから。
だが成道後、何週間も法を説くべきか迷ったとも言われ、そのへんの逡巡に纏わる梵天勧請の伝説も残る。
つまり覚っただけではゴールとは言わず、寧ろ衆生救済のスタート地点に立ったと捉えるのが大乗の視点で
自分が覚るのも全ては衆生救済の為なのである。
また法を説いて衆生を救う段階の求道者が菩薩と呼ばれる。
ただ現代は厄介な時代ですね。ニセ如来ニセ菩薩が彼方此方に出現して似非仏教花盛りのようです。
大川隆法が如来ですか? 創価や真如苑などの名誉会長や教主などが何等かの仏に相当しますか?
熱狂的な信者からは、その如くに思え盲信させられたとしても、少なからず本当の仏教を知り、
智慧によって観察する者から見れば、彼らは哀れにも騙された獲物に過ぎないと喝破できると思います。 自分が悟るのも衆生済度のため、とはいうが、それは結果論。釈迦は衆生済度のために悟ったのではない。悟ると必然的に衆生済度心が生じ、教えに走り回るようになるという。
悟る前は、衆生済度心など、ないのが普通なんだよね。 般若心経が悟りを空としてから、仏教がデタラメになったと言える。釈迦は確かに、五蘊も十二処十八界も、空と見よと教えている。
しかし釈迦は、涅槃や12縁起やアノクタラサンミャクサンボダイまでを、空とはしていない。 般若心経は、悟りも涅槃も十二縁起も空にしてしまった。そんな「悟り=空」など、誰が真剣に欲しがるか?空しくなるだけだろう。
以降、仏教は迷信と化した。 般若心経以降、仏教がデタラメになったとレスしたが、実は、般若心経の作者は釈迦の悟りを理解していた可能性はある。
心経の中で、涅槃や波羅蜜多を空とはしていないからだ。だが心経解説者は、悟りも涅槃も空だと説明する人が多い。 105.悟れない馬鹿が言うことである。大爆笑である。 色即是空(犬は動物である)、正しい。
空即是色(動物は犬である)、誤り。 度一切苦厄は、彼岸の涅槃を得たということだが、それを空とは言っていない。究竟涅槃とあるが、それを空とは言っていない。波羅蜜多を讃えているが、それも空とは言っていない。
何でもかんでも空と説明する、解説者が間違っているのではないか? 身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。ーーそれが苦しみの終滅であると説かれる。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところーー、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/cat_50051343.html
識別がなく、無〜無〜で表すしかないのが涅槃です。
般若心経や中論の帰敬序はブッダの説く涅槃と表現法が似ていますね。
それらは涅槃を指しているから似るのだとも考えられます。 >>102
「悟りを空」というのは間違い。
観自在菩薩が、深く般若を行じた時に五蘊は皆「空」と照らし見た
つまり、悟る前の人が「空」だと見たよ、という話。
菩薩は般若に依るから無上正等覚云々
なので「悟りが空」ではなく、「般若に依って悟る」となる。
>>110の「解説者」が誰かは知らないが、それは一般人向けの本でしょ?
説一切有部とかまで説明してるようなまともな本を読みましょう。
一般人向けのは、そりゃあ一般人に受けるようなことしか書いてませんよ。(笑)
(^。^)池上某でも、一般人向けに解りやすく適当なことしか言ってないでしょ?(笑) >>92
反論するならソース出せ。
何度も同じこと言わせんな。 仏縁があって、仏教に出会い、行に出会い、あるいは師に出会い、その修行をする時間がたまたまあり、ということだから、
修行にしても涅槃にしても悟りにしても、縁起じゃないとは言えない。。
だとすれば、迷いも悟りも修行も縁起―無自性―空でしょ?
悟りや迷いや修行が空でない、とすると、それらを実体視して、それらがある、と思い込む。。
それは問題ではないか?w >>115
悟りが空なら
ブッダもいずれは煩悩に囚われるということになるんだが? 義浄の記録では、大きく四つに分かれていた部派仏教それぞれの内に、中観や唯識等の大乗を学ぶグループがあったって事でしょ。
であれば、その四部の一つである大衆部中の大乗グループが先導し、その四部それぞれにあったの大乗グループの横断的な先導を果たしたとしてもなんらおかしくないと思いますけどね。
つまり、真言さんの見解と私の見解には共通点を見出せるんです。 >>116
なりませんよ、空の中には無明も老死もありませんから。 あと五蘊皆空を五蘊非我つまり五蘊のどこにも我無しと
とる人もいます。つまり無常なるものは我がアートマンに非ずという無我相経
のアレですが、そうとると阿含と同じことになってしまうと思いますが、空を
照見する菩薩が主人公なので、そこで見ている「我」がいるのです。 >>116
そんなことないよ。。
煩悩に囚われないのも空、ということ。。 >>119
だから、空も途中のものだと思う。。
しかしながら、空をないがしろにできないというか、
いったんは理解する必要があるんでないかな? 印度では、教団の分裂は破僧(サンガ)として忌避され、アショーカ王朝時代に一旦は分裂した部派の再統一が破輪から破羯磨にその準拠が変更され、形式上は再統一されたんです(佐々木説)。
掛かる意味に於いて、中国的なカテゴリー論(玄奘・義浄)から見た印度仏教の分裂は無いという事です。 >>118
>>120
空なんだから悟りのまま留まることは不可能だろ。 心経に出て来る「無」はすべて「私のものでは無い」で、
色即是空も「この肉体も我が物に非ず」という
解釈はあまり見ませんが、それこそ正解に近いような気もして
きました。 私は何十年も般若心経を読誦して来た。解説書も何冊も読んだ。捨てたのもかなりあるが。デタラメな解説が多いと思う。仏教辞典には般若経の悟りは空だと説明している。また、大乗仏教も様々あるが、釈迦が説く涅槃と同じ内容を説くものはないな。 波羅蜜多を誰が言い出したのか知らないが、阿含経の釈迦は、波羅蜜多なんて言っていない。
六波羅蜜(施戒精忍定智)の修行法は、釈迦仏教とも似ている。釈迦仏教にも忍辱以外はすべてある。他に念、信、観、などもある。 >>123
無生法忍
仏教用語。一切のものは不生不滅であることを認めること。「忍」とは認可,認知のこと。
一切の衆生を空であるとみて邪見に落ちないのを生忍 (衆生忍) といい,一切は空であり,実相であるという真理のうえに心を安んじ不動であるのを法忍という。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-daijo/bonnou-daijo.htm
無生法忍を得た菩薩は煩悩が尽き諸法の実相、諸法空相の一切智があるので不動なのです。 >>127
それは、悟りが空であるという主張とは違うぞ。 >>125
まず釈迦が説く涅槃というものを示しましょう。 >>119
業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
五蘊皆空と照見した時には戯論は滅びて我という概念も滅するのです。 >>128
一切は空ですから悟りも空ですよ、中観では。 >>131
それはお前の解釈でしかない。
悟りも空なら悟りもいずれ滅びることになるんだから、
ブッダもいずれは煩悩に囚われるということになる。 無理してネタを作る事なく、自然の流れに任せればいいのに。 空即是色は
元々我が物でない身体も縁により父母から授けられた物である。
色不異空は この肉体は外在的・非我的なものに外ならない
とか 悟りが空とか、仏陀も煩悩に囚われる様になるとか、そういう次元の話は天空寺スレでやればどうですかね?
対話するに相応しい方々が大勢待ってますよ。 >>136
スレとずれた「大乗は部派仏教の一部でしかない」という主張を延々と繰り返しているお前がどっか他に行ったほうがいいと思うよ。 >>117
>部派仏教それぞれの内に、中観や唯識等の大乗を学ぶグループがあったって事でしょ。
グループがあったという証拠があるんですか? >>137
www
これはあなたではないの?
586 名前:神も仏も名無しさん :2020/06/18(木)
09:05:07.78 ID:Z6oVfRgm
インドじゃ大乗はすぐに廃れたんだろ?
むしろ、中国・日本に広まったのがおかしいんだよ。 >>132
だからブッダでも悟った後でも禅定などの修行を日々行していたということです。
日本でも確か平安時代のころから悟った後のブッダが悟る前と変わらず修行僧の格好をしているのは何故なのかという議論が起き、悟後の修行なのだという結論になりました。 >>113
お前のレスに対して言ってんだから文責はお前だよ >>114
奇天烈な主張をした方が先にソース出せっての 笑
ソース無いならお前の思い込みという事で良いよ >>115
龍樹曰く「空すらも空である」即ち仮に空と名付けただけの仮名に過ぎない
実有に非ず 無に非ず だね? >>145
玄奘と義浄の記録を何度も示しただろ。
ソースなしに反論するなよ、間抜け。 >>117
素直に読んで行けばそうなる筈ですからね
ガチガチの教条主義=上座部が有って 自由思想の大衆部=大乗が有れば両者の良いとこ取りをする中間的な部派が生まれるのは自然な事ですから
一方で一言一句違えるまいとする伝統派があり もう一方で違えてならないのは教条や経典ではなく その本質だと考える部派が現れたら
ブッダの遺した言葉でさえも「〜ではない」論法で本質を濾しとる流れが生まれるのも必然だし どちらも尊重しつつ更にその中道を行こうと模索する教団がでても何の不思議も無いばかりか
それこそブッタが言葉に依って言葉を打ち消した果てに残る筆舌に尽くし難い何かだという事になると思われます 例えば甲というものが◯◯はAであると記録したとしよう。
であれば、誰しもが◯◯はAと解釈し、あるいはA’と解釈する。
しかし、このスレには奇妙もそれをFと解釈する奴がいる。 >>126
忍辱の原型はアングリマーラ経に見られますから原始仏教由来と見て良いと思いますよ 義浄は「大乗は部派仏教の一部でしかない」と記述しているということで意見が一致したようだ。
結論でたな。 >>148
>素直に読んで行けばそうなる筈ですからね
まさに仰る通りです。
恣意的に改変するでもなく義浄の記録をそのままに解析してるんですが、何をどうすればあの様な奇妙な解釈が生じるのか、知っててわざとやってるとしか思えないんです。 >>132
生じたものは滅するという仏法がある時に空が生じたものならば滅しますが その場合 何から生じたのかを明確にする必要があります
果たして空は生じたものでしょうか? それとも不生不滅なのでしょうか? >>152
「大乗は部派仏教の一部でしかない」と主張していたのに、
今度は大乗グループがある?
主張をコロコロッ変えるなあ。
このスレの最初に予言した通りで呆れる。 >>154
「大乗は部派仏教の一部でしかない」と主張していたのはお前だろ。
また変えたの? >>156
そんな話はしてない。
してるというのならその箇所を提示しなさい。
いい加減にしなさい。 >>157
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗グループはなし
に対して、
大乗は部派仏教の一部だと繰り返したのはお前だろ。
それとも、玄奘の時代には大乗の独自のグループがあったのが、
義浄の時代には大乗の独自のグループが消滅していたと認めちゃうの? >>159
言い訳はいいからお前の主張は何よ?
大乗は部派仏教の一部
大乗は独自のグループ
どっちよ? >>141
それ「もしも菩薩を礼拝して大乗経典を読誦すれば大と名付ける」としか書いてなくて、
大乗「グループ」があったという証拠にはなりえず、むしろ個々人が大乗者(マハーヤーニカ)であったかどうかの判定基準なんじゃないですか >>147
>結論「大乗は衰退した」
>これが学者の一致した見解。
これのソース出せって話だろうが ど文盲
ガチの基地害かよ?笑 >>151
何時 何処で開かれた学会で参加者は誰々で議事録はこれこれこうだというソース出せと言ってるんだよ この妄想患者が 笑笑 >>148
>自由思想の大衆部=大乗
それ、違う
大竹晋先生の『大乗非仏説をこえて』に大衆部にも大乗を否定する人々がいたと書いてたはず >>166
鹿野園は逃げたから、お前でいいや。
大乗は部派仏教の一部
大乗は独自のグループ
どっちよ? >>165
大乗が上座部と大衆部のどちらから派生したかを考えた時に上座部という選択肢は有り得ないんですよ
大衆部の一部の在家に大乗否定派がいたとしてもですね >>161
その箇所を提示しなさい。
(三回目、これが最後) >>162
貴殿は四部内に ”菩薩を礼拝して大乗経典を読誦する” グループが無かったといいたいのでしょうか? >>169
自分の主張すら明示できないなら失せろよ、雑魚。
論理破綻してる自覚はあるようだなw。
お前の主張はどっちよ?
大乗は部派仏教の一部
大乗は独自のグループ >其四部之中大乗小乗区分不定
>(そこでインドの仏教事情に触れておけば、先のように大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の四部派があり、その四部派では大乗と小乗と区分が定まっていない。)
(中略)
>若礼菩薩読大乗経名之為大不行斯事号之小
>(そして、もし菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば大乗、その菩薩礼拝、読誦大乗経典をしなければ小乗と呼ぶだけのことである。)
この文章を素直に読むと、四部派は ”大乗小乗区分不定” 即ち、大乗とも小乗とも分類できないって事でしょ?
つまり、「大乗は部派仏教の一部でしかない」のであれば同時に「小乗は部派仏教の一部でしかない」という理屈も成立するんです。 >>167
お前の出したソースだと大乗寺院と上座部寺院と兼学寺院の三つが有ったんだろ?
答えが出てるじゃねぇか?笑
根本分裂以降の大衆部から大乗経典が生まれ 双方対立しながらも大乗は発展を続けて後期密教迄進化をしたと
チベット仏教の歴史迄考え合わせるとそういう風にしかならん
お前が最初に言い出した 大乗は早くに見破られて廃れたという妄想解釈はその後も経典創作が続いていた事で強く否定される
お前が文章や記録を当たり前に読み取れない馬鹿だと証明されただけ 笑 >>171
www
ですから私はそんな主張はしてないでしょ?
にも拘らず貴殿が言うから証拠の提示を求めてるんですけど?
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