▲色即是空の誤り2▲
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問い
勝議において自他の区別は存在するか?
仏陀が悟りを開いた後に弟子を導いていたのは、自他の区別が前提になるのでは。
完全論破されたカルト馬鹿の主張。
@仏陀が弟子という他人を導いていることは認める。
A勝議では自他の区別がない。だから、我も、悟っていない凡人もいなくなる。
➂仏陀は勝議の相を見る。
@とAは矛盾している。
世俗の相では自他の区別があると言い訳するんだろうけど、➂と矛盾する。
で、予想通りのいい訳が来た。
> 大学で教える事と小学校で教える事が小学生から見て違うのを矛盾とは言わないだろ? 笑
それを完膚なきまでに論破。
お前が言ってるのは、勝義と世俗が凡人から見て違うのを、矛盾とは言わないということ。
しかし、勝義を解する仏陀が弟子を導いたということが指摘されているのに、
勝義と世俗が凡人から見て違う、というのは的外れである。 >>1
動画を全部見たい人はどうぞ
1/8 【仏教】釈迦の悟った内容 - 苫米地英人
https://www.youtube.com/watch?v=6U9EURzHXQg&list=PL38CFAECDA23802A6 苫米地のアホなどあてにしとるやつがまだおるとは・・ >>5
反論が聞きたくて立てたのだ。遠慮なく語るが良い。 >>6
勝義で統一するなら、カルト外道の主張では
A勝議では自他の区別がない。だから、我も、悟っていない凡人もいなくなる。
なんだから、他者もいなくなるだろ。
じゃあ、仏陀はなんで説法したんだ?
ということになり、カルト外道はそれで論破された。 >>9
勝議では無くて、勝義だ。誤字を指摘したのだ。 ☆ ☆
☆ 人 ☆
☆ (__)
∩(____) やぁ!
|( ・∀・) ☆
/ ヽ
/ ノ"∪
バーン! ノ~ノ
/| ///
| | ///
| |ミ ///.
|/ ̄ /
" ̄ ̄ ̄ ̄ >>10
そっちね。勝義なのは知ってたんだけど、ミスった。 どうも理解できないアスペが多いようなので。
他者の存在を認めないのは、カルト馬鹿の主張であって、俺の主張ではないぞ。
A勝義では自他の区別がない。だから、我も、悟っていない凡人もいなくなる。 以下はカルト馬鹿の主張なので、違う主張でもいいぞ。
@仏陀が弟子という他人を導いていることは認める。
A勝義では自他の区別がない。だから、我も、悟っていない凡人もいなくなる。
➂仏陀は勝義の相を見る。
ただし、違う立場から主張するなら明示しろよ。
後から軌道修正するのはバカだから。 >>21-22
前スレ989でより私が書いた
>あるいは貴方は他者の存在を認めないブッダが他者を導いているのはおかしいというかもしれません。
ですがほら、やっぱりそうじゃないですか。
>>22の@とAがそうでしょう。
そしてBが間違いということも前スレに書いた通り。
その論拠となる経典も前スレに貼りました。
改めまして、その経典が腑に落ちるまで何度でも読んでくださいな。 >>24
@〜Bのカルト外道の主張を前提にした場合、矛盾が生じる。
だから、カルト外道の主張は間違っている。
こういうことだぞ。理解力低すぎるだろお前。 >>24
お前の言いたいことは良く分からんが、カルト外道の主張を否定しているようだあ。
カルト外道 vs アスペ外道
バトルの勃発だ。カルト外道はだんまりか?
どうした?反論はなしか? >>2
>苫米地英人氏は、『一生幸福になる 超訳「般若心経」 』のなかで、
>「「空」とは「有」と「無」の両方を包摂する、
>一つ視点の高い概念です」と説明しています。
>つまり、
>「「在るともないとも言える」=「空」なのです」(p147)。
「空」とは「有」(実有)と「無」(畢竟無)の両方を排斥する、見解の高い境地です
つまり、
「在るともないとも言えない」=「空」なのです 27.バカ丸出し、である。大爆笑である。
空、が理解できれば天才である。 色の無常性で壊れて消えるまでの時間は、どの現象を見ているかということによって変わります。
人間は八十年、百年で死ぬと言っても、人間の細胞を見てみると、細胞は三ヶ月しか生きていられません。
「人間」とは仮に言っているだけで本当にはいないのですが、細胞は現にありますから、人間の寿命は細胞の寿命で三ヶ月ですと言っても、まったく過言ではありません。
人間は細胞の塊で、細胞は三ヶ月の寿命ですから、それなら人間の寿命は三ヶ月とも言えるのです。
DNAはもっと早く壊れます。すぐです。
アミノ酸も、ちょっとしたことで死にます。そのレベルで見れば、人間の寿命は三ヶ月もない。もっと短いことになります。
どんな立場で見るかということによって、寿命の長さは変わります。
仏教では素粒子の変化で物を見ますから、素粒子は光の速度で変化しますから、瞬間瞬間に消えるのだと見ることができます。
アルボムッレ スマナサーラ 他2名
ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―物質の分析) (アビダンマ講義シリーズ (第1巻 物質の分析)) 解剖学の権威 養老毅博士は人体の細胞が全部入れ替わるのには六ヶ月掛かると言ってるのに 長老は話を大袈裟に盛るから批判者が多いのかも >>29
天外伺朗とかいう奴がどうして出てきたんだ?ってことな。
そして、カルト外道とどう関係してんだよ?
あやしい本だけ出されても混乱する。
繋がりについて面白い話がありそうだし、語れよ >>24
アスペ外道はどこが間違っているのか理解できていないようだから説明してやろう。
<正しい論理例>
凡人の理解:私は物を所有する。
仏陀の理解:無我であり、諸行無常。
仏陀の行:我にも、物にも執着しない。
<間違った論理例>
凡人の理解:私は物を所有する。
仏陀の理解:無我であり、諸行無常。
仏陀の行:両面を包摂して理解するので、物に執着もする。
<アスペ外道の間違った論理>
凡人の理解:他者はいる。
仏陀の理解:自他の区別はない。(外道の主張)
仏陀の行:両面を包摂して理解するので、弟子に説法する。つまり、他者に執着する。
だから、お前の理解は外道。 31.アビダルマである、か。
そうなっている、か。
なんで、そうなる、のか。
そうなっている。は科学の問題である。
なんで、そうなる、のか。は科学の問題だけではない。
実践が介入する、からである。
100歳まで生きられる、のに自殺してしまった。
交通事故で死んだ。
なんで、そうなる、のか。 「観自在菩薩は、般若波羅蜜多の修行が深まり、五蘊皆空と悟って度一切苦厄(涅槃)を得たのだよ、舎利子よ、色は空なのだ」
と、心経の冒頭に出てくるわけだが、舎利子に説法しているのは釈迦だろうね。 >>37
アスペ晒してるなあ。
具体的にどこが間違ってると妄想したのか言ってみ。 >>36
全ての経典は、釈迦からの伝聞ゲームの結果に過ぎない。
有象無象が書いただけに過ぎない。
それを後世の糞まじめな輩が、
ああじゃろか、こうじゃろかと、微に入り細に入り研究しても、
生まれるものは知識のウンコ。
釈迦もあの世で😥苦笑しているだろう。 >>39
上座部仏教の国では掛け算の九九みたいに集団で暗誦して確認し合うから誤差が出にくい
九九が何千年経っても変わらないのと同じで改竄が有れば地域や部派毎の比較で分かる様になってる
それを知らない人間が伝言ゲームの様に果てしなくズレて行くと妄想するが大乗仏教の国の根本経典と比較しても大筋で内容は変わっていない >>39
wwwwwwwwwwwwwww
辛辣な禅宗でさえ、経典は糞を拭く紙に過ぎないって言ってるのに、お前は糞も拭かないでケツに付けたままなのか?
プンプン臭くてたまらねぇなぁ?
あ?
汚ねぇからお前のその糞が付いたケツをよく拭いとけ。 上座部はとっくに滅びている。今のは分別説部といい、
スリランカの系統で、元は有部から破門されたとも言われる邪流だよ
それから心経に登場するのは、観自在菩薩とシャーリプッタ
の2名 心経の話者が釈尊と言う人を見かけるが
誰がそういう説を教えてるの?
どう解釈しても、話者は大乗の菩薩以外
あり得ないよ >>42
そんなのは知った上で便宜上上座部と呼んだ迄だよ
分別説部分派スリランカ大寺派ブッダゴーサ監修経典なんて長ったらしいからな
本上座部と目された雪山部は消息不明なんだし 中々狡いやり方ではあるけど 残ったもん勝ちだしね >>43
???
般若心経には大品と小品があるからじゃないの? 大本の小本と重なる部分まであげときます。
このようにわたしは聞いた。
あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともにラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのときに世尊は、深遠なさとりと名づけられる瞑想に入られた。そのとき、すぐれた人、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な智慧の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、――存在するものには五つの構成要素がある」――と。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。
「もしも誰か或る立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。
(中村元 般若心経の大本の冒頭部分から引用) 中村先生訳の大本の構成では
>そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。
ってなってますから、この W仏の力を承けてW の解釈をどう受け取るかでしょうね。 まぁ、多くの修行僧や求道者の前で瞑想に入られたお釈迦様について、聞き手(舎利弗)と語り手(観音菩薩)に分かれて法を説くっていう構成じゃありませんかね。 >>41
鹿野園は大山。
知識を自慢したくてしかたない。
糞なら肥やしになるが。
屁−以下じゃなwwwwwwwwwwwwwwww >>49
だから、その臭くてたまらねぇ糞を拭えよ? 主な大乗経典はみなそのあたりだが、般若経も2世紀ごろの成立
つまり仏滅後六百年以上経ってから。原始仏典で聞き手と語り手に分かれて法を説いた
構成のって何かありましたかね。大乗否定派じゃないけども六百年後に突如あらわれた
叙述法の元は何? >>50
馬鹿野園=大山の法則
急所を指摘されると、脊髄反射を起こす。
まあ、仏教書は大山セールスマンにとって飯の種だからな。
wwwwwwwwwwwwwww >>51
どうなんでしょうかね。
お釈迦様の状態を察知されて代弁されるというと、アヌルッダ尊者とアーナンダ尊者の大般涅槃経でのお釈迦様の入滅時の話を想起しますけど。 入滅時に初禅から滅尽定まで上り、また初禅まで九次第定を戻って
最後は第四禅で般涅槃という話も、弟子がブッダの内面をほんとうに
透視したのかというのもあるし、ただあれは正定の実践の重要さを伝えたくて
ああいう風な伝承がされたともとれるね 好意的にとるしかない
ただ大乗涅槃経みたいに あまりにフィクションの側面が強いと
これは作り話じゃないかと軽んじられる結果になるし、確かに
像法の時代にできた経典は どこか慧に欠けていて、覚者が作ったか
怪しいものもあるね >>54
どう解釈するかという事でしょうね。
第四禅定は止と観のバランスが程良いと言われてますから聖者の涅槃としては理想であろうし、実際にそうであられたと私は思ってます。 >>55
大乗経典は仏教文学としてある意味、読者に補完力を求めてくるところがあると思うんです。
そこがある時は薬となり、また毒にもなるとw >>42
北伝でも有分心を説く部派(テーラワーダ系)は上座部と言われてたよ
唯識派が阿頼耶識を正当化する時に上座部では有分識を説くじゃないかあれと阿頼耶識は同じだという風に持ち出すから分かるが
客観的事実としてどうかはともかく有分心を説く部派が自派を最保守とみなして上座部と名乗ってたのは間違いない 如来蔵思想も「凡夫も頑張れば覚れるんだ」という励まし
勇気付け強精剤、やる気増強用のヒロポンと捉えるなら
ビギナー向けには悪くないかも だけど、それ以上の効用は
多分ない 正法(仏滅後五百年)の時代には正しい修行法が維持されていたので無数の解脱者・阿羅漢を輩出したとも言われる。
像法以降は、歓喜地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけとか言われる為体
また正法の時代の経典がそのまま
二千年経った現代に残されているのかどうかも実は怪しい
多分、八正道や実践面のコア以外の経典類は
後付けの補完資料的なものではないのかと
択法覚支により一度は疑ってみる必要もあるかと おそらくブッダの真意として
各個人向けの対機説法によるものが多く、
十把一絡げに万人向けの教説として提示し得るものは率的に低いかもしらんから
経典編纂とか無駄なことがおやめなさい という感じではなかったのかな。
それでも後代の弟子たちには結集せざるを得ない動機が生じたと、
それは時間の経過が招く忘却や風化を恐れ、教説の消失を惜しむ気持ちからだったとも >>54
他心通があるか否かで言えばなくはないと思う
それがどの程度だったかは同程度にならないと誰にも判らないけど その時のデータは何処かに保存されてるんじゃないかと言う気もするね >>61
単純化すると常に変化し続けて生成消滅を繰り返す世界に生まれて死ぬを繰り返してる内は苦しみも尽きる事なく続く
不死となる為には通常言われてる様な永遠の生命を獲得するのではなく 寧ろ死の原因を発生に定めて それを止めるしかない
死んだ後に生まれて来なければ それ以上死ぬ事は無いと言う考えが先にあって 後は達成する為の方法論でしかない
この不死の定義付けが仏教の肝なんじゃないかと思う 死の後に業を引き受ける新しい肉体に宿らなければ 肉体の死の苦しみは受けない訳だから
再生の原因を見付けて止めるしかない 過去の行為の結果を現在の生で受けているとすれば 来世に繋がる行為を止めるのが正解
一気に全てを止めるのは難しいから 先ずは避けたい悪い報いの素となる行為を止めるしかないが簡単には行かず 継続的な訓練が必要になる
その基軸を殺害と盗みと邪な生殖と定めて その他の悪行為が無くなる迄訓練する
悪行が無くなっても未だ善行為の果報として此方からは見えない神々の世界に転生して 其処でもやはり死の苦しみを受けてしまう
其処で悪行を止滅させたまま善行も止める必要が出てくる つまり行為の止滅が解脱の条件となる
行為の止滅の中でも取り分け難しいのが心の中だけで為す行為にあるという結論に達して想念と感受の止滅も必要になる
それには瞑想が必要で 瞑想という行為に依って想念と感受という行為を打ち消すという一見矛盾した行為が重要になるのだと思う
かといって眠ったり気絶したりは覚醒とは逆だから目覚めて思わずという様な状態で居続けるという極めて特殊な心理状態が覚醒者のそれでは無かろうか? 輪廻の根本原因=割愛・妄執、執着といいますね
ミリンダ王の問いでも、生の最後において生への執着が絶たれていたならば
解脱できるというようなことが言われていたようですが、般若経典の眼目も
詰まる所は「取」の否定でしょうか? 第四禅から涅槃に入ったというのは、第四禅から横すべりに涅槃に入ったのではなくて、第四禅から次の段階に入ったのだよね。
第四禅は色界の禅定だからね。
色界無色界を超えたところに涅槃はあるわけだからね。 >>64
否定というか 輪廻がそうである様に一旦四取を認めた上で滅するのではないかなと思います 心経には度一切苦厄という原始仏教の悟りが出ている。究竟涅槃という原始仏教と同じ涅槃の言葉もある。三世諸仏アノクタラサンミャクサンボダイも同じ。
ただ、それら涅槃や度一切苦厄やアノクタラサンミャクサンボダイの定義は疑問符だね。 「人々は五欲を楽しみ五欲を喜び五欲に躍る、かかる人々には涅槃の理は悟り難い」と釈迦は言う。五欲に執着するから輪廻は止まないということか。実際、私を含め、五欲を楽しむ人は多いと思う。虚しさも感じるわけだが。 般若経典には般若理趣品があります。理趣経といわれるお経の有名な百字の偈で
輪廻も涅槃への執着すらも超越した菩薩の覚悟が説かれます。衆生救済のために
あえて涅槃に入らないというのです。無住処涅槃とも言われ
智慧あるが故に生死にとどまらず 慈悲あるが故に涅槃に住せず といわれますが
これは本来の仏教でいうと 一来果? >>64
>般若経典の眼目も詰まる所は「取」の否定でしょうか?
空の思想について龍樹は
>発疹を掻けば楽になる。
>しかしそれなら、初めから発疹がないことこそがほんとうの楽ではないであろうか。
>(龍樹 「宝行王正論」)
とその著作で述べておりますが、これを W取W の問題に還元すると、一旦は取を認めた上で、 Wそもそも取をたてないのが良いのではないか?W って解釈出来ると思うんです。
また、よく龍樹については
>有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る
という句が引用されますが、掛かる意味に於いての W取の超越W を般若経典では説いていると思ってます。 あいも変わらず、
玉ねぎ剝きをやっているのう。
自覚がないから続いてしまう。
wwwwwwwwwwwwwwwwwww 永遠に玉ねぎをむき続ける猿(笑)それが 統失創価脳ガイジ趙鮮人(笑)(笑)(笑)>>71 他人の知識や体験に対する妬みや嫉み。
見苦しいですね。
浅ましいですね。
死ぬまで変わりませんか? 医学的に言うとね、脳ガイジ創価統失に、根本的治療法はない。
精神薬を大量投与して、内蔵疾患で●すくらいしか治療法はないということ。
生きてる限り、社会に迷惑を掛け続ける。それが 統失創価脳ガイジ趙鮮人(笑)(笑)(笑)>>71 鹿野園 = 犬山 = ジャンキー薬物依存 = 統失創価脳ガイジ趙鮮人 >>71 (笑) >>75 創価統失脳ガイジの知識って、統失妄想だから(笑)
鹿野園 = 犬山 = ジャンキー薬物依存 = 統失創価脳ガイジ趙鮮人 >>71 (笑) >>65
それは初めて聞きます。
ソースはありますか? >>67
それも浅学にして初見ですが、ソースはありますか? >>65
アーナンダには読み取れなかったけれども実は瞬時に四無色定を通過
して滅尽定で大般涅槃ということはないですかね
アーナンダは若かったし泣いたり悪魔に憑かれたりと少し
頼りない >>55
それはあなたに大乗仏典で悟れるだけの機根か具足されてないというだけの話
効能書きだけで中身がないと江戸時代の学者に揶揄された法華経でも、天台智を始め日本でも聖徳太子、最澄、空海、道元、明恵、源信、法然、親鸞、一遍、日蓮、白隠、他、日本仏教の高僧の大多数が法華経で悟るか、法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
(『歎異抄』「第十五章」) 空海は法華経をそんなに買ってないと思いますよ。悪くないという感じではあるけれども 法華経で悟ったなんて話は
どこにもない いい加減な説だよねそれ また天台系に関しては より
次元の低い話になるよね 日蓮の悟り? 空海が法華経で覚ったなんて話はじめて聞いたけど
出典は?
カルト信者でもいわないよ
そんなの >>82
日蓮が覚った事を論拠をあげて論証して見せてよ >>56
四禅こそが止観均行(定慧平等)であるということが、大智度論や倶舎論、また唯識の諸々の論書にも書いてありますね。
各自、無色界禅定まで体験したからこそ、そういう見識を得たのだと思います。 如来蔵思想は如来蔵経で。それから こちらはヒロポンなんかやんなくても
きちんとした方法で修行すれば覚れるって立場なんだけどね
82こそヒロポンに頼らんと題目信心もできない”機根か具足されてない”悪覚者なん
ゃないの >>84
連投する前に落ち着いて
>>82
を再読しなさい
>法華経でも、天台智を始め日本でも聖徳太子、最澄、空海、道元、明恵、源信、法然、親鸞、一遍、日蓮、白隠、他、日本仏教の高僧の大多数が法華経で悟るか、法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
お前は先走ってしまって
>法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
ここを見落としては一人興奮してレスの連投してるんだよ
もっと心に余裕を持つことだね
『法華経開題』にみる空海の一乗思想
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/59/1/59_KJ00007115274/_article/-char/ja/
「人の心を悟りの世界に導く法華経」
http://www.hokkeshu.jp/houwa/064.html 真言はそういうとこ本当に直した方がいいぞ
じゃから議論がめちゃくちゃになるんじゃ >>88
横からですが、一点指摘をさせて頂くと、
>法華経でも、天台〜 (中略) 他、
は
>日本仏教の高僧の大多数が法華経で悟るか、
に掛かってると思います。
何故なら、その後に続く文章である
>法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
との間に句読点があるからです。
ですから、文意としては、 W日本仏教の高僧の大多数の内の一人である空海も法華経で悟ったW という読み取りが成立すると思います。
貴殿の読み取りが成立するのは、当該部分が、
>日本仏教の高僧の大多数が、法華経で悟るか、または法華経は悟りに繋がる経典であるとしている 訂正
>>88
横からですが、一点指摘をさせて頂くと、
>法華経でも、天台〜 (中略) 他、
は
>日本仏教の高僧の大多数が法華経で悟るか、
に掛かってると思うのです。
何故なら、その後に続く
>法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
との間に句読点があるからです。
ですから、文意としては、 W日本仏教の高僧の大多数の内の一人である空海も法華経で悟ったW という読み取りが成立すると思いますし、貴殿の読み取りが成立するのは、当該部分が、
>日本仏教の高僧の大多数が、法華経で悟るか、または法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
となる場合になると思うのですが。 >>91
句読点があると
>法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
の主語は誰になるというの? >>92
それが明確でないから問題になってるのではありませんか? >>94
法華経でも、天台智を始め日本でも聖徳太子、最澄、空海、道元、明恵、源信、法然、親鸞、一遍、日蓮、白隠、他、日本仏教の高僧の大多数が(法華経で悟るか)、法華経は悟りに繋がる経典であるとしている
わざわざ()を付けたけどこれでも明解ではないと思う? 法華経 じたいは別に悪くもないと思ってたし、良い部分も無くはない が、
ただやってる奴が今日の呼び込み始めバカ過ぎる 鎌倉時代からもうカルトなんだよ
そうなる原因は天台にあったし、実際邪宗という人もいる 今時智なんて聞くとはね
金輪際関わりたくないね >>95
だから、空海がどこで
法華経は悟りに繋がる経典 て言ったの? 家に全集あるしね何時でも読める
それから日蓮が悟ったって根拠は何? >>95
貴殿の主張としては通るとは思いますよ。
ただ、私個人は ”日本仏教の高僧の大多数が法華経で悟る” 云々については首肯致しかねますけどね。 釈迦はこの世の苦しみの連鎖、輪廻から逃れる方は無いのかを考え抜いたのが仏教で哲学ですな 弟子達があーだこーだ言って今に至ると お墓だの仏壇だのましてや戒名等ひと言も言ってませんな 誰かこの考えを改めさせて下さい 本心は信じたい帰依したいんです 82やO7zさんの
法華経はスゴイんだーという想いじたいも「空」なんだよね あと一遍上人なら「一道無為心」として認める
ただし鎌倉時代のカルトの妄念は仏教とは関係ない
何かを唱えてトランス状態に入るのは黒人霊歌とかでも同じ
カルト催眠の領分 空海さんはスゴイんだーという想いも「空」なのじゃな? >>102
そうですね
ただ自分は「スゴイんだー」とは思ってません
ナーガルジュナやアサンガも含めて像法の時代の方がブッダの時代と比べて
どう劣化したかを考えますね どうせ空なのじゃから
いくらでもスゴイんだーと思っておればよいではないか もう一つ言うと密教は 単純化し過ぎなのは承知の上ですが
ブッダと逆方向 つまり「梵我一如」の方から大日如来のさとりを掘り当てたような感があると
しかし天台系も同系統でシナ経由なのに どこか不徹底なんですよね それは法華経への盲信も
一因の気がしてます >>89
はあ?笑
ハンネが無かったら人の目利きも出来ない馬鹿が何の冗談じゃ?ボケ 笑
話に参加もしてないのに 頭おかしいんか?
もう死んだ方がええど オッサン >>106
後から読んで間違いと気づいたが
おぬしにしても同じことじゃろうと思うての^_^)
すまんすまん >>97
空海は法華経を顕教の初門、真言の初門としていただろう
戦利の道も一歩から、何でも初門を潜って極めていくもんじゃよ
日蓮は法華経こそが大宇宙の真理であるとし題目を唱えて真理たる法華経と一如になることで成仏できるとしたんだろう
どちらも悟りに繋がってるじゃん
アンタは法華経嫌ってるから色眼鏡で見ている
そんな平等性を欠いた目で見てたら悟りに繋がってるということは何が何でも認めんだろうがね >>98
だから悟るか、悟りに繋がるとしていると書いてるじゃん
何しれっと悟る限定にしているの
やってることが姑息だよ >>101
一遍を踊り念仏の人としか見てないのかね >>102-105
それならブッダさんもすごいんじゃーという想いも空だからとらわれないようにしないとだね
とらわれるからあれは良くてこれはダメになるんだよ
特に法華経や密教をdisり気味の人は注意することだね >>109
だから、断りを入れた上で話してるでしょ? 現代語訳大智度論 第一巻(下)
(抜粋)
また次に、すべての外道の出家は次のように考えている、「私の教えは微妙で、最も清らかである」と。
このような人は自分が実践する教えを称賛し、他人の教えを貶める。
このために、現世では互いに争いを起こし、来世では地獄に落ち、様々な限りない苦しみを受ける。
『自らの教えに執着するから、他人の教えを貶める。このような人は、たとえ戒律を守っていたとしても、地獄の苦しみを免れない』
仏は、すべての愛着を捨て、すべての偏見を捨て、すべての驕りを捨て、「わたしが、わたしが」という態度を捨て、すべてにこだわらないことを教えている。
『筏喩経』では次のように説いている、「あなたがたが筏の喩えを理解したなら、正しい教えでも捨てるべき時には捨てねばならない、ということが分かるだろう。間違った教えならば尚更である」と。
仏は般若波羅蜜において、思いを凝らすこともなく、何かに依存することもない、という態度を自ら示している。どうして他の教えに執着してよいだろうか。
このような理由で、教えの初めに「是の如く」と言う。
仏の考えがこのようであるから、その弟子は、愛さず、着さず、友を持たず、ただ苦しみを離れ、解脱することを求め、どのようなことについても議論をしない。 仏教では、囚われないようにしようとすれば、それも一種の囚われだと諭す事があります。 >>113続き
『阿他婆耆経』(『衆徳経』)には次のように説かれている。マーガンディヤは仏を非難して言った、
『確定した諸事象の中で、自由に様々な思いが生じる。自分の中と外に生じるすべての事象を捨て去ってしまったら、そこでどんな道が得られるというのか』
仏は答える、
『見るのでもなく、聞くのでもなく、知覚するのでもなく、戒律を守るのでもなく、見ないのでもなく、聞かないのでもなく、知覚しないのでもなく、戒律を守らないのでもない。
このような考えはすべて捨てて、自我と自分のものを捨て、対象の認識を捨てる。そうして道を得ることができる』
マーガンディヤは問う、
『もし、見るのでもなく、聞くのでもなく、知覚するのでもなく、戒律を守るのでもなく、見ないのでもなく、聞かないのでもなく、知覚しないのでもなく、戒律を守らないのでもないとしよう。
私の心がそのようであれば、口のきけない人の道を得たのだといえよう』
仏は答える、
『あなたは誤った考えに陥っている。その愚かさを私はよく知っている。あなたが妄想にとらわれるのを止めれば、自分から沈黙するだろう』
また次に、私の考えが真実であり、他は誤りである、私の考えが最も優れていて、他は間違いである、という考えが争いのもとである。
「是の如く」は、人に争わないための教えを説く。
他の人の考えを聞いても、その人に落ち度があるわけではない。
このような理由で、様々な経の初めに、「是の如く」と言うのである。
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron1-10/Daichidoronn01b.htm?20200614-2259 >>82
空海が法華経解題で言ったのは 法華経は抜苦与楽であるという事だけ
空海を悟らせたのは法華経じゃない
雑密の三論宗にあった虚空蔵求聞耳聡明法で神秘の扉を開けた後に夢で自分の求める経典は大日経だと告げられ西大寺にその通りの経典が有ったが
大半が行法や作法を記した儀軌で有ったが為に入唐求法し
恵果阿闍梨より当時最新の密教を授かったもの 法華経で悟ったなんて司馬遼太郎でさえ創作してない筈だが その根拠は? >>107
天台宗と真言宗に密教化された法華経が伝わってはいるけど 日蓮の押した鳩摩羅什訳とは別物や
羅什訳では儀軌が無いからな >>108
二人が言ってるのは題目の音に隠し込まれた羅什の創作真言の事だぞ?
南無妙法蓮華経に近い音の配列になる様にサンスクリット語の単語を並べたら「幻想の苦しみを取り去る 聖なる一切の空」という熟語が出てきたんだよ
空海は梵語のスペシャリストだから気付く事が出来た つまり法華経を抜苦与楽の経典だと解題したんだよ
日蓮はそれを唯一のマントラに格上げして修験道の初心者程度の作法と併せて雑密にしたけど 真言密教を超える程の法体系は無い >>101
マントラはそういう性質を元から持ってるからな
けれどマントラは突き抜けると物理現象に干渉するから 単なるトランス以上のもんだよ
念仏もマントラだし 本願寺のと高田派では音が違う為に若干の意味に違いが出てくる
天台宗の朝題目 夕念仏は理に叶ってるよ >>105
原始経典の中でブッダが生前に梵我一如出来ないバラモンは死後も出来ないと語った経典が有って密教は其処を生前に成仏出来ない者は死後も出来ないと読み替えたんだよ
それが護呪の発展と共に即身成仏思想に展開して行ったんだと思う
その意味では孔雀経と孔雀明王呪が密教の重要な起点の一つだね 本来の仏教でいう一来果とは、
釈迦がいう第二段階の悟りを得た者のことです。一来果は三界のそれぞれの煩悩をはっきり悟った者で、四無色定を修することが出来る。
菩薩の覚悟というのは、後代の仏教徒が勝手に創作した創り話です。 釈迦の説いた悟りと、大乗仏教の説く悟りは全く違うことを知る必要がある。
釈迦の説く悟りは、縁起の理を理解し・12縁起を悟り、涅槃を得ることである。
大乗経典の悟りは、空とか唯識を言い出して、全くわけわからなくなっている。 釈迦は菩薩とかの言葉は使っていない。
釈迦の弟子は、1比丘(男性出家)2比丘尼(女性出家)3優婆塞(男性在家信徒)4優婆夷(女性在家信徒)、の4種で、四部衆と呼ばれる。
菩薩のいろんな説明は、後代の仏教徒が釈迦仏教を否定するために創り出したものなのだね。 >>122
空を最初に説いたのは原始経典の釈迦だが 空小経や空大経を知らないのかな? >>123
これも原始経典の中で悟る前の自分を指して「私がまだ菩薩であった頃〜」と語っている経典がある
勉強不足だね 心経に、観自在菩薩は五蘊皆空と喝破して悟り(度一切苦厄)を得た、とあるが、諸法が空だと解れば悟りを得られるものだろうか?
釈迦は悟りを「尽苦際」とも表現しているから、度一切苦厄は釈迦の説く悟りである。 「五蘊皆空 諸法空相」と悟ったからと言って、釈迦の言う悟りを悟ったことにはならないと思うね。
釈迦は、諸法無我と説いているからね。
無我とは空みたいなものだし、諸法空相と悟ったところで何だ?という気がする。 >>108
釈迦の言葉とそれ以外を一緒にするのは外道。 経典を勉強すればすれほど知識馬鹿になる。
勉強して悟れるなら、中村元は悟れていたはず。
勉強の毎日が人生の浪費であることに気づいた者は幸いなり。 ID:DH+EzdR3 はトムだろ?
体調どうなの? >>130
出来るやつは修行も座学も出来るんだよw >>122
龍樹は
「十二支縁起はブッダの教えの宝庫の中でも最も優れた意味の深い教えであり、
だれでもこれ(十二支縁起)を正しく見るなら、その人は仏陀そのものを知り、最上のものを見るのです」
と勧誡王頌という娑多婆訶王への手紙に書き綴っています。
https://i.imgur.com/MGzXxAr.jpg
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1589&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 原始仏教で菩薩というのは、悟りを開く前の釈迦に限られているのだ。つまり、ゴータマシッダールタだけのことを言うのだ。
釈迦も空を説いているが、空を理解すれば悟りを得るなんて、説いてはいない。 >>126
諸法無我→一切皆空→因縁消滅→不再生→我の滅に依って苦の受け手が居ない→来世が無くなり その苦も消えた境地 と推測出来る 釈迦は四念処観を教えている。観想で、
1身体不淨2感受作用苦3心無常4諸法無我、を会得する修行法だ。
これをすれば、五蘊皆空など、誰でも、凡人でも思いつくことだ。諸行無常は身体無常であって、心だけ無常ということではない。 >>127
論理的な正解だけでなく 感覚的な経験が必要だと思う
経典に有る様々な悟りの証得が実際に起こらなければ まだまだだと思えばいい >>130
信仰の一環としての経典研究はどの国の仏教徒も普通にやってるし 学者の経典研究とは目的が違うよ >>134
原始仏教では釈迦も阿羅漢も等覚だから悟る前の阿羅漢は菩薩だよ ブッダを特別上位に置くようになったのは後代の上座部だから厳密には原始仏教とは言い難い
最初の独覚者に対する敬意からブッダだけを特別視してるけど そのブッダにも七人の先輩ブッダがいた訳だし >>136
例えば説一切有部
「倶舎論」(説一切有部系):各論
「観」としては「四念住(四念処)」を行います。
これは2段階に分かれていて、まず「別相念住」では身・受・識・法を個別に、次に順に合して観察します。
具体的には、「身体は不浄である」、「感覚は苦である」、「心は無常である」、「あらゆる存在は無我である」という観察です。
https://ameblo.jp/morfo/entry-10942033702.html
と説一切有部でも当然ながら四念処を行じていましたが、それによって五蘊皆空とはしていませんね。
説一切有部のアビダルマでは、色は色法として、また受と想は心所法の中に、そして識は心法として、それぞれ勝義として存在するとされています。
他の部派仏教も五蘊を勝義として認める部派が多いです(三世実有か現在のみ実有かで別れたりしますが)。
ですから四念処をすれば五蘊皆空など凡人でも思いつく、というのは違う(正しくはない)と思いますよ。 色即是空って
いまあらわれてる現象と実在は究極において変わるものでない と言ってるだけなので
それが誤りだなんて簡単には言えない筈で苫米地のも暴論。
ただ対象物の空を見抜くって言う人がいたら、時空を超えた全体が三世にわたって掴めないと
違うよね
たとえば東京の或るビルを見た時に
ここは昔は林だったけど、今はこうでも千年後は廃墟だみたいなね・・・
金持ちも七十になれば死期を意識するし、死後まで財産は持って行けず
実は何も所有物など実際には無かったのだと気付くようにー >>143
ワシガラケーやて
多分加藤がパクられて連行されたシーンの挿入歌やろうけど >>144
空すらも空なんだから常住普遍の実在なんて在るわけが無い
今ある色も空となって消え失せるし 今無い色も空から結集して現れる
その様を色即是空 空即是色と表現してるんだよ 空=理法であり、それは縁起とも言い、それが実在でもある。
この世は圧倒的な実在の世界であり、
三世の全ての瞬間の有りようを包摂する実在を空と呼ぶ
べきでは? 瞬間瞬間あらわれる現象に実体性も我体もないが実在はする
生物の身体を切断しても切断面が見えるだけで身体の全てはわからない
それはミクロの世界で粒子と反粒子があらわれては消滅する様子にも
似ている 世界が観測によって初めてその姿をあらわすのじゃとしたら
それは実在と言えるじゃろうか
ゲーム画面に現れておらん局面は
実在すると言えるじゃろうか >>148
(実在論)……実在するからこそ,われわれは言葉によって意思を他人に伝え,言葉によって考え,行動し,生活することができるというわけである。
これに対して,仏教(経量部,ないしその系統をひく論理学派)は,実在するのは刹那(瞬間)に消滅する個物のみであり,普遍などは,われわれの分別によって捏造された虚妄なもので,たんなる名称,言葉としてあるにすぎないとする。
これに類似した説を,ベーダーンタ学派,サーンキヤ学派も唱えている。…
※現在有体過未無体
仏教用語。
部派仏教のうち経量部の教説で,人間存在ないし現象界を構成するもろもろの要素 (法) は,現在現れているかぎりにおいては実有であるが,過去,未来においては無であるという主張。
説一切有部の「三世実有,法体恒有」の説に対する。 華厳十十無尽縁起より観察すれば
空とは「全」なのであり。
一なる個が纏う仮初の色も 空のあらわれの一種なのである。人間の身体も宇宙万物によって
生かされているのだから >>145
世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする♪
中島みゆきの「世情」の出だしの歌詞です。
これを聞くと、「真言宗氏」を思い出すのです。 >>151
>華厳十十無尽縁起より観察すれば
重重無尽ね。 十十 とも言います
重い という表現は好きじゃないので。 >>154
それは存じておりますが、>>151のケースでは重重の方が十十より適切だと思いましたので。 >>154
>重い という表現は好きじゃないので。
重いではなく、重なるの間違いですよね。 自分が何かで読んだ話を強制したがる方多いよね
表現の多様性も許さないような文化はファシズムだし
華厳経は難しくて法華経は易しいからとか言い出しそうで
キモイですね >>158
>一切法が一切法に相互に関連することを十十無尽と言うこともある。
>(浄土宗大辞典 重重無尽 の項)
>>151の場合は、上記の様な多対多ではなく、一対多のケースと拝見したからです。 >>157
>表現の多様性も許さないような文化はファシズムだし
私宛ですか?
だとして、正しい表現の指摘は表現の多様性を侵害することにはならないと思います。 >>147
>三世の全ての瞬間の有りようを包摂する実在を空と呼ぶべきでは?
実在と空とは対立する概念では?
仏教は唯名論であって、唯識論なので。 >>161
唯名論・唯識論・唯心論の使い分けを示せ。 >>162
簡単になw
固有の実体はなく名称である(唯名)。
認識があるから存在もある(唯心)。
認識があるから存在もあるが、認識するものは空性である。(唯識) 分かってるくせに、なんで即答レベルの問題をわざわざ出すんだろ。
余計な手間隙を掛けさせたいのかなぁ? >仏教は唯名論であって、唯識論
唯識中観の立場からはそうとしか言えないのでしょうが
もっと高い見地、華厳教学や密教から見れば実在と見ます。
ただ色に実体性があるという訳じゃない >>163
だったら、
> 仏教は唯名論であって、唯識論なので。
は間違いだろ。唯識は唯識派であって、仏教全体ではない。 >>163
> 仏教は唯名論であって
も間違いだな。極微を認める考えもある。 >>165
インド哲学では、大きく実在論と唯名論に分類されますが、基体(≒ダルミン)を認めない仏教は唯名論に分類されます。 補足しておきますが、インド哲学では基体を認める立場が実在論です。
阿頼耶識や法界、如来蔵を基体と捉える向きもありますけど、その話をするとややこしいのでここでは話しません。 >>169
明らかに矛盾しているんだが。
矛盾していないというロジックを示せよ。 >>172
誰かの主張を無批判に妄信する馬鹿かな?
自分で考えような。 >>173
逃げるなよ。
極微とは物理的実体だ。名称があろうがなかろうか、極微に相当する物が存在するのも仏教の一つの派である。
だから、お前の主張は間違い。 現象と理法は”本らい”は同じものというのが色即是空
ここで話していただけない阿頼耶識や法界
そして密教の場合こそが
大事なんです >>174
???
自分の考えを補足した資料の提示ですけど? >>177
>仏教は唯名論であって、唯識論
というのが間違いだと示したんだから、理解しろよ。 >>175
ですから、法有と唯名論は矛盾しないって話をしているんです。
その為に有部は刹那生滅を提唱したんですから。 >>179
だったら、矛盾していないというロジックを示せよ。 >>178
>というのが間違いだと示したんだから、理解しろよ。
では、間違いである根拠を示して貰いましょうか。 >>181
お前頭悪過ぎるだろ。
固有の実体はなく名称である(唯名)。
と
極微という微小な物理的実体が存在する
という立場は違うだろ。 >>185
刹那生滅だとしてどうして矛盾しなくなると勘違いしてるんだ?
その謎過ぎるロジックを書けよ。
まあ、お前はロジックを記述できない程度の知能しかないんだろうなあ…。
さっきからずっと逃げ回ってばかり。 >>186
www
極微の解釈にも実在論的な解釈と唯名論的な解釈があるんですよ。
前者は極微の恒常・連続性を説きますが、後者は刹那生滅を説き、恒常性を否定し、連続性については異熟という相続性を説いているんです。 >>187
極微の恒常・連続性を説く立場もあるんだから、
>仏教は唯名論であって、唯識論
は間違ってるな。
同じことを何度指摘されりゃ理解できるの?
いや、お前自身ではっきり言ってるじゃんw。 >>189
>極微の恒常・連続性を説く立場もあるんだから、
有部でも大乗でも、仏教ではその様な立場には立っていませんから。 >>188
どうした?自己破綻しちゃってイライラしてんの?
>仏教は唯名論であって、唯識論
と
>前者は極微の恒常・連続性を説きます
は矛盾。 分かってるくせに、なんで即答レベルの問題をわざわざ出すんだろ。
余計な手間隙を掛けさせたいのかなぁ? >>190
そんなことないな。色々勘違いしてるなあ。
みっともない奴だ。 >>191
www
ですから、刹那生滅って言ってるでしょ?
生滅する時点で恒常性や連続性という属性は解消されるんですが。 >>195
説一切有部が極微の恒常・連続性を説いていないというのなら
竜樹が批判した立場はなくなるんがwww。 >>195
>極微の恒常・連続性を説く立場
が仏教にはないとかいう妄想主張の根拠を提示しろ。 >>196
先ず、恒常・連続性を説けばそれは常見に抵触しますよね?
そこで、有部では刹那生滅という概念が要請されたんです。であれば、常見ではなくなりますから。
で、そのW刹那生滅しながらも異熟・相続するものが有るWというのが有部系の見解で、そのW有るWというのも心の顕われに過ぎないというのが唯識思想です。
で、Wそういうもの(◯◯説)はいずれにしても言語によって分節されたものですよWと説いたのが中観はです。 >>197
ですから、刹那生滅説を説いてるからです。 >>198
> 恒常・連続性を説けばそれは常見に抵触しますよね?
違うぞ。極微の構成が変化することで物も変化する。
>>199
だから、それ間違ってるから。
極微の恒常・連続性を説く立場が仏教にないというのがお前の根拠なら、お前の主張も間違っている。 >>147
実在の定義が違う
常住普遍の存在でなければ実在とは言えないし そんなものは存在しない
色界の無常の存在を実在とするのは理解が浅い >>200
???
恒常って一定で変化しない様を言うんですけどw >>200
>だから、それ間違ってるから。
>極微の恒常・連続性を説く立場が仏教にないというのがお前の根拠なら、お前の主張も間違っている。
だから、なんでですか? 刹那生滅を説く有部がなんで実在論って分類されるのかなぁ?
実在論の基底をなす恒常って、一定で変化しない事でしょう?
刹那生滅は生滅という変化でしょ? >>152
偽和尚と間違えましたm(__)m
頑固だからガラケーにしてるのではなく感染しにくいからですよ
次々新型が現れるPCウイルスの世界に於いては使用言語の異なるマイナーOSの方がウイルスの活動を抑制出来るから安全なのは知り合いのプログラマーにも確認済みです
コロナに対しては高性能防塵マスクも持ってますが普段は病院や金融機関等の人の集まる締め切った屋内に長時間滞在する時のみにして
日常の買い物は市販のサージカルマスクの中で比較的性能の良い物を使って防塵マスクを温存させています
PCやスマホにはまだ感染対策の安全性が確認取れていないのですよ
知人にはスマホに始まってタブレットもガラホも全部攻撃されてプライバシーは歪曲されて流布 端末のデータは破損 遠隔操作で覗き見されたり 勝手にヤフアカ作られて使用されたりと凄まじい被害を受けた人もいますから
頑固というのとは違います
寧ろ柔軟に幅広く情報を調べた結果ですよ >>165
密教で実在を説いた経典や註釈論を存じ上げないのですが ご教示頂けないでしょうか?
法界の存在は別としてお願いします >>205
釈迦が教えを文字にするのを嫌がっていたのは、本当ですか? >>205
ガラケーのことではありません。
経典に忠実すぎる所が、頑固かな?ということです。 表現が微妙だけど、仏教で説かれている様々な縁起は Wそれはあくまでも要請されたものW って観ないと、おかしなところでこれが正しいって争いになるんだよなぁ。 >>184
ひょっとして極微=素粒子と解しての話?
宇宙の終わりにも素粒子が存在し続けるならそうかもだけど宇宙全体が高密度の小さな球に圧縮された中で素粒子が実在出来るのかって話では?
宇宙の生滅を超えて実在出来る物は物理学でも未確認の筈だけど それは果たして常住普遍の実在なのか? >>207
おそらく本当でしょう
そもそも当時のインドには良質な紙がなく 記録として遺すには石碑等に掘るしか有りませんでしたし
しかもそれをやってしまうと諸行無常の原則に触れてしまいますので集団で確認出来る形での口伝を重んじたのだと思います
同じくインド発祥の掛け算の九九は何千年経っても変わりませんよね?
これも集団暗誦による口伝の正確さの一端だと思います
数は解釈に依って質が変わったりしないから更に正確さが変容しないのでしょうが言葉に依る経典は文字にしてからの方が変容が大きいと言わざるを得ません
漢訳小乗経典 パーリ語聖典 他の上座部の断片 それぞれに大同小異ですが 共通性だけを抽出して行けば 其処だけは元から有った‥少なくとも根本分裂以前から教団で教えていた事だと推認する事ができます
つまり文字に遺す様になって以後に変化が現れているので最初は何も考えずに算数の公式の様にひたすら暗誦して憶えるやり方の方が変化が少ないのですよ
当時の最高の教育を受けて文字や言語にも精通している釈迦だからこそ その限界と変異する性質を熟知して居たのでしょう >>208
経典を説いた主が私よりも遥かに偉大な存在だと知れば必然的にそうなります
知るべき事の大半が2000年以上も前に語り尽くされている訳ですから >>202
極微は変化しない。極微の組み合わせが変わるんだよ。
そんなことすら理解していないお前。 >>211
釈迦が教えを文字にするのを嫌がっていた理由について書かれた
ブログを見つけました。
まあ、釈迦は相手によって表現を変えていたのですから、
言った内容を全部、正確に書き留められたらマズイと思ったでしょうね。
http://m-e72e33184ada7500-m.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9744.html
◆釈迦は文字を残さなかった
引用ばかりとなってしまったが、自分なりの解釈では、柄谷行人の言う、
「一般的他者との関係」、「事象の根拠を問う弁証法」、「独我論」、「対話」、
これらを避けるために釈迦は書かなかった。 >>213
仏教では四相っていいますけど、極微自身が生住異滅のサイクルを繰り返すっていいますが。
いわゆる刹那生滅です。 >>214
???
仏教では常見を説いてないでしょ? >>213
「極微」についてじゃが、現代物理学では何に相当するのじゃ? >>216
だから、お前のその外道解釈のソースを出せよ。 >>215
上座部の教団が貝葉文字で暗誦用のカードを作ったのが紀元前一世紀頃だったと思います
まだ紙類は外国からの高価な輸入品でしかなかったと思われます
それとは別に石板等の文字に遺しても言語そのものが変質して意味が変わったり 全く無意味になったりする事も有り得るので 言葉として使い続ける必要が有ります
実際にパーリ語はインドでは使われなくなって 今では東南アジアの上座部仏教国の僧侶同士の共通語としてしか残っていません
文字よりも言葉そのものが残らなければ意味が無いし 言葉が残ってもサンスクリット語の様に専門性が要求される様な言語も本来の仏教には必要が無かったのでしょう
地域の言語で大衆にも解る様に平易な言葉を使う様に弟子達にも指導していますから 単純に文字を重視していなかったという事だと思います
なまじ文字の読める人間が経典さえ読めれば悟れると勘違いし出したら逸脱するし 修行さえしてたらというのも逸脱です
戒律と禅定と経典読誦
この基本的な三つの要素で得たものが纏まったら一応の修行完成という事だろうと思います >>211
鳩摩羅什の龍樹菩薩伝はどこまで事実なのか分かりませんが、もし90日で小乗経(阿含経とその論書)を読破したというのが本当なら、
龍樹は2世紀の人物ですが、その頃には阿含経は文章化されていたということになりますね。
龍樹が活躍していたと言われるデカン高原以南を拠点とするどこかの部派が文章化していたのでしょうかね。
(龍樹菩薩伝が事実だったとして)
当時インドには紙はまだ伝わってないので(インドへの製紙法の伝来は751年のタラス河畔の戦いか?)、椰子の葉(貝葉)とこのかに書いた教典を読んだのでしょうか?
そして、パーリの阿含経(ニカーヤ)が文字化されるのは、確か5世紀のブッダゴーサが文字化したと思ったので、分別説分は口伝が最後まで残っていた部派なのかもしれませんね。
大乗仏教になってからは在家仏教ということもあり、プロフェッショナルな僧伽と違って口伝している時間もないので、文字化・文書化したものを広めることに意義が見出されて、
お陰で初期の金剛般若経からして、この経典を授受し、読誦し、人に説けば功徳がうんちゃらという経典功徳の説法がやたらめったら出てきていますw >>219
だから、仏教では常見は説いてないでしょ? >>221
なるほど、紀元前から文字化は始まっていたのですね。 >>223
極微の組み合わせは変わり続けるんだから、常ではないだろ。
で、外道解釈のソースはないようだなあ。
やはりお前の妄想だな。 >>221
>>地域の言語で大衆にも解る様に平易な言葉を使う様に弟子達にも指導していますから
>> 単純に文字を重視していなかったという事だと思います
そういうことでしょうね。
ID:tzi7rC9h氏(勝義クン)は、そこらへんを突いて来ているのでしょうね。 >>213
>極微は変化しない。極微の組み合わせが変わるんだよ。
仏教は無常を説いてるんです。
極微、まぁ、分割出来ない最小単位、今の科学ではクオークがそれに該当するかどうかはともかく、極微さえも無常であるというんです。
四相(生住異滅)という刹那生滅である無常を繰り返す極微が、さらに様々に組み合わさってあらゆるものを仮設しているというのが仏教の説なんでです。 >>225
ですから、極微自体が刹那生滅を繰り返しているんです。
詳細を知りたければ倶舎論を紐解きなさい。 > 龍樹は2世紀の人物ですが、その頃には阿含経は文章化されていたということになりますね。
> 龍樹が活躍していたと言われるデカン高原以南を拠点とするどこかの部派が文章化していたのでしょうかね。
法華経の写本内容等から 大乗経典は当初から文字に依って編纂されていたと考えられています
>
> 当時インドには紙はまだ伝わってないので(インドへの製紙法の伝来は751年のタラス河畔の戦いか?)、椰子の葉(貝葉)とこのかに書いた教典を読んだのでしょうか?
>
シルクロードの交易以降なら羊皮紙等の普及が有ったと思います
> そして、パーリの阿含経(ニカーヤ)が文字化されるのは、確か5世紀のブッダゴーサが文字化したと思ったので、分別説分は口伝が最後まで残っていた部派なのかもしれませんね。
外国への布教ですから暗誦用の貝葉等は早くから有ったと思いますよ
>
> 大乗仏教になってからは在家仏教ということもあり、プロフェッショナルな僧伽と違って口伝している時間もないので、文字化・文書化したものを広めることに意義が見出されて、
> お陰で初期の金剛般若経からして、この経典を授受し、読誦し、人に説けば功徳がうんちゃらという経典功徳の説法がやたらめったら出てきていますw
サンスクリット語のマントラには近年脳を活性化する効果が認められていますのでサンスクリット語の写経には同様の効果は有ったと思われますが
般若心経の様に漢文でも百万遍写経で智恵が開くと言われてる経典も有るので何ともですね
一般的には書くと長文の暗記が確実になると言われていますが… >>229
???
で、その引用のどこに言語が恒常ですから不滅と書いてあるのかな?
www 訂正
>>229
???
で、その引用のどこに極微が恒常で不滅と書いてあるのかな?
www >>224
下記のサイトに依ると一世紀以降となっていますが いずれにしても龍樹の登場以前から経典の文字化は行われていたと思われます
http://www.sanriku-pub.jp/olive-tsujimura42.html
インド・南アジア地域の文書素材の歴史はやや特異である。古代インドの伝承では布や樹皮に書かれた哲学、文学、絵画などについて言及されているというが、10世紀以前の遺品は現存しない。
インド古来のバラモン教では、教義や知識は口承、口伝が主流であったので、経典などは書物の形では残されなかった。
現存する最古の挿絵入り本とされるのは、仏教の、次いでジャイナ教の経典である。この二つの宗教は、ほぼ同時期、紀元前4世紀にバラモン教より派生したが、早くから書かれた言語に拠ってきた。
1世紀初め頃よりヤシ葉や白樺皮などに経典を記し、僧院や寺院に保存したそうであるが、隆盛をみるのは8世紀以後という。 日本の仏教は悟りは他力応信によるか自力自信によるかで
他力に依らなければ浮草の様な人の心は浮きつ沈みつ
定まらない何て言いますけど、この場合の他力は
他力と言うからには何に頼り願うのでしょうか?
実際のお坊さんも他力本願で常住座臥がベーススタイルなんでしょうか?
ちなみにほぼ風聞なのでどこの宗派とかじゃないです >>226
言葉遊びがしたいだけですよ
自分の信仰を明かさないのがその証左です >>206
たとえば「般若心経秘鍵」 事理元より来同なり 恒常や常住という意味とは逆。無常こそ実在の本姓
皆さん「実在」という言葉に執着し過ぎですね。深刻な意味をなすりつけないでほしいです。そもそも密教において、この世界は
圧倒的実在の世界ですよ 常識で考えても分かるはずです。
色即是空って仏教は説いてるんです。
その色を構成する最小単位(極微)が空性でなければ論理破綻ですからね。 >>235
>>自分の信仰を明かさないのがその証左です
自分の信仰を明かさない人と話すのは、疲れますね。 日本語の言葉ちりに拘ってたら幼稚園児波の言い争いにしかなりません。
そもそも釈尊の ほんとうのオリジナル仏説は
スッタニパータの4章と1章と言われ、そこでは涅槃という言葉すらない
でもシャーリプッタさんのお蔭で源典を知ることができる >>242
>スッタニパータの4章と1章と言われ、そこでは涅槃という言葉すらない
最古層は4.5章では?
>>237
>無常こそ実在の本姓
W本性Wですよね? 知識は真理ではない 安易な妥協だ
ことばの使い方まで自分の理解に限定して
他人に押し付けようとするのはやめたほうがいい
気持ち悪い三密競技など誰もしたくない >>237
ああ その意味でならそれ以前の仏教が説いてる「実在する物は何もない」という事とは前提が違います
宇宙の全ての物が生成生滅を繰り返すので実在とは言えないという話とそれらを全て内包する宇宙という仕組みが実在するから法の披造物もそれに付随する実在であるという話は別ですから
そうは言っても個別の物事は常住ではないし 宇宙自体も成住壊空を繰り返しているので常住普遍の実在とはならないというお話です
同時に断滅でも有りませんがね
https://piicats.net/hikkenn.htm
建立如来というのは、普賢菩薩を呼んだ称号である。
普賢菩薩がさとりを得る理由は、『華厳経』の教えで説くように、宇宙万物は絶対的な実在であり、実在と現象は、本来区別あるものではなく、互いに融合しており、現象界はそのまま絶対の世界であるという三種のおしえを旨としている。
そのゆえに、「建」と名づけたのである。
また、この菩薩は、あらゆる如来のさとりを求める心と、修行と本願を本質とする存在である。
詩頌に説いていう。
現象としての物質存在(色)は、実在的在り方である空と、もともと別のものではない。
現象と理法とは、本来的に同一である。
現象と理法、理法と理法、現象と現象の三者は、それぞれさまたげあうことなく融合しあっている。 >>240
信心が無いからですよ
他人の信をただ破壊するだけという 良くない遊びです そんなの読めば子供でもわかるだろ程度のことはもう教えんよ
相手してる暇もない
これだけ他人に不快感を与えるのは仏教徒とはいえまい >>248
こりゃ
わしの質問に答えんかい
>>218 >>247
釈迦は、そういう輩に対しては、「無記」の姿勢を採ったと認識していますが? ??213じゃないですが、極微というと
実は観測不能な極小のレヴェルに「ひも」があるという仮定で
最先端の理論構築は進んでます。ひも理論、超弦理論等で検索 >>251
悟った人ならではでしょうね
場が荒れると出て来なくなる人もいますが「無記」はその場から逃げてはいませんから どうして相手が諦めたのかが謎ですね >>227
龍樹は有為法の三相(生・住・滅)は否定し、故に有為法は成り立たないとしていますよ。
「中論」第7章 つくられたもの(有為)の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507454
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon02.htm?v=20190528#no7
龍樹は上述の通り生・住・滅の三相で有為法が成立しないことを説明していますが、生・住・異・滅の四相にしても同じだと思います。
ます中論第7章の一偈では、生一つ取ってみてもそれが有為ならばその生にも生・住・滅という特質(相)がついてしまいますが、本性(自性)が生なのに住や滅という相違する相が付随するのはおかしいとしています。
二偈では、三相を別個に論ずることも和合して論ずることも成り立たないとしています。
三偈では、三相の例えばまた生一つを取ってみても、生を生起させる生生が必要となり、生生を生起させる生生起が必要となり、生生起を生起させる生生生起が必要となり…
また生生にも生生生の他にも生生住や生生滅が必要となり…
また生住にも生住生、生住生、生住滅が必要となり、加えて生住生生とか生住生住とか生住生滅が必要となり…
といくらでも繰り返さなければならない無限遡及に陥る、として三相は成り立たないとしています。
それに対する反対派の意見が四偈にありますが、五偈以降で龍樹得意の帰謬法で反駁しています。
こうして三相を否定しましたが、三相の否定は刹那滅の否定にも繋がるはずです。
もちろん、龍樹が絶対に正しいというわけではありません。
ただ、そういう三相(や四相)を否定する論もあるということです。 >>255 自己レス
>三偈では、三相の例えばまた生一つを取ってみても、生を生起させる生生が必要となり、生生を生起させる生生起が必要となり、生生起を生起させる生生生起が必要となり…
三偈では、三相の例えばまた生一つを取ってみても、生を生起させる生生が必要となり、生生を生起させる生生生が必要となり、生生生を生起させる生生生生が必要となり… >>252
大山、これについて説明は?
極微との関係は? >>254
もう少し、表現を変えて書きます。
釈迦は対機説法を行ったので、
当時も「釈迦の説法の矛盾点」を追及した人がいた・・・と思います。
釈迦は、そういう人に対して、「無記」で対応したと思います。
ID:tzi7rC9h氏(勝義クン)は、矛盾点を突いて遊んでいる
・・・という風に私は分析します。
それでも、お遊びに延々と付き合うつもりですか? >>255
先ず、横から入る時は一言あっても良いのでは?
で、今彼と話してるのは、有部における極微の解釈についてなんです。
彼は、極微は恒常不変であると勘違いしてるので、四相の話をしたんです。
有部における極微の解釈の説明する事がそのまま有部の解釈が正解だと、貴方は言いたいのですか?
変わった方ですね。 >>241
スレ違かなと思いましたが
思ったより良い加減なものでもなくて良かったです
お答え頂き感謝致します >>255
>こうして三相を否定しましたが、三相の否定は刹那滅の否定にも繋がるはずです。
面白いのでどうぞ、その話を展開されて下さい。
龍樹の手法はあくまでも言語(≒世俗諦)による分節から生じる矛盾点の指摘で、それそのものは否定してなかったどうぞ私は考えています。
(以下引用)
諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」) 色即是空 空即是色 と
一即一切 一切即一
の関係について論じた方は誰かいましたか? >>264
サンクス
で、「振動の違い」は極微ということ?
恒常で不滅ではないということ? >>267
その振動するものが極微にあてはめられるのでは? >>267
>恒常で不滅ではないということ?
そうなるでしょうね。 >>266
確かウンコマンとかいうやつがそんなこと言うてたようななかったような・・・ ものが二刹那以上に亘って存続すると矛盾が生じるっていうんです。
その根拠は、説明に相当な時間が掛かるのでしませんけど、倶舎論を紐解けば理解出来ると思います。 >>270
wwwwwwwwww
たまにはいい事言うじゃないw >>259
>仏教は唯名論であって、唯識論なので。
というお前の主張が間違っているという話だろ。
お前とは話し合っても無駄だから、明確なソースを確認中だ。ちょっと待ってろ。 >>259
それと、
> 先ず、横から入る時は一言あっても良いのでは?
とか何様のつもりだよw なんか雰囲気が大分以前に瞬殺した自爆轟沈・三毒無明のかかし丸に似てるなw
精神病院から抜け出たのか?
www >>277
気持ち悪い妄想してるお前の精神が異常だよw >>266
同じことでしょ。。
すべてが因果、因縁として連続していればそうなる。。
空というのは、全体であって、そこに個は存在しない、実体ではないというのが空ですが、
逆に見れば、個=色とは全体の一部の現れ、現象化である。。
言い換えれば、空即是色、ということになる。。
われわれは、みな人類、いや全体の代表選手、みたいなもんじゃないですか?w >>278
で、仏教は唯名論に分類されるのは理解出来ましたか? 仏教学と言うのは、近代に生じた、宗教学の一部。。
よって、西洋近代起源。。
だから、唯名論だとか、認識論だとか、存在論だとか、西洋哲学の概念で、
仏教を説明しようとする。。
説明できる、包摂可能だと思い込んでいるのかもだが、
たぶん違うんじゃないか?w
無理なんじゃないかと思うぞ。。w
近接性と言うか、近いかも、ということが言えるくらいだろう。。 西洋の思想・哲学と、仏教では、目的もちがうし、内在的な論理も違うからね。。
西洋思想の目的は、世界の解明、世界の正しい認識、というのもがもともと。。
仏教の目的は、悟り、です。。w >>283
www
要請があるから西洋哲学の概念からもスポットを当ててるだけの話でしょ? >>285
何が言いたいのか不明。。w
誰が何を要請したのだ?w >>286
スレを読みましたか?
仏教を実在論にカテゴライズしてるから、唯名論って反証したんですよ。
仏教を西洋哲学の概念にカテゴライズして咀嚼するのも、その理解の促進に資するでしょ? >>258
状況次第ですが かなり手を抜いています 笑 >>265
ありがとうございます、では展開させて頂きます。
>>227
>四相(生住異滅)という刹那生滅である無常を繰り返す極微が、さらに様々に組み合わさってあらゆるものを仮設しているというのが仏教の説なんでです。
まずこれですが、仏教の説という表現で正しいですか?
ブッダは四相と刹那生滅について何か説法していますか? 極微というのも釈迦仏教で語られているものでしょうか? >>287
悟から見たら世界は実在そのものだろうね。。w
仏教の藪の中にいたら、唯名論かもしれない。。w
そんなもんだよ、カテゴライズなんて。。w 唯名論と言うか、言語・論理の世界にいるならば、生きている実感もないだろう。。
言語・論理が外れて、実在が顕現するのが悟なんではないか?w >>265
>龍樹の手法はあくまでも言語(≒世俗諦)による分節から生じる矛盾点の指摘で、それそのものは否定してなかったどうぞ私は考えています。
それそのものが指すものを具体的に語ってみてください。
もし刹那滅や極微、更には中論7章で出てくる三相や有為や無為でしたら、龍樹はそれらを否定してなかったとお考えですか?
一切は自性においても他性においても不生であり不滅を説いた龍樹がそのようなものを認めるのでしょうか? ついでに言うと、唯名論と言うのは、中世普遍論争の用語で、「普遍が名称にすぎない」ということ。。
だから、別に実在を否定しているわけではない。。w 近現代の実在論とは、「物の実在」を言う。。
中世普遍論争の実在論とは、「普遍の実在」。。w
だから、物の実在を言っている人に対して、仏教は唯名論です、というのはそもそも、上の二つを混同しているんだよ。。w >>290
出張先で手元に資料の持ち合わせがないのですが、いわゆる原子論が教学の対象として考察される様になったのは、有部中期頃だったかと記憶しております。 >>294
段階的な受容という意味です。
趣旨は引用した通りです。 何とか論、というのは、個々の西洋哲学、個々人の思想、哲学について言われるものなので、
仏教全体が、何とか論だ、というのは、当てはまらないことの方が多いだろうね。。
しかも、日本の仏教学者は、哲学をちゃんとわかってない、というか、用語理解が厳密ではない。。
だから、なおさら、仏教学者の言っていることを鵜呑みにすると、誤る、ということだろうね。。
ご参考までに、くらいにしとくべきだろう。。w >>295
元々は有部の法有論と唯名論は矛盾してないという話をしてたんですが、その実在というのが基体を認めるという事であれば矛盾しますけどね。 >>296
私宛なら、以下の話の流れで論じてるのです。
混同されない様に。
172 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/06/16(火) 12:58:41.33 ID:xTEijTZF
念のため、
https://i.imgur.com/4NrE65X.jpg
(空の思想史 立川武蔵 より引用) >>303
よくわからんが、実体を認めるか否かの話が、いつのまにか、実在の問いへ摺り替わったりしているんでないか?w
実体と実在は違うよね。。
仏教は、実体を問題にしているんであって、西洋哲学のように、実在を問題にしているのではないのではないか? >>294
念のため確認しておきますが、そもそも私は彼と W有部で極微はどの様に解釈されているか?W を論じていたんです。
そこに貴方が、どういうわけか、中観では〜と始めたのですからね。
そこは踏み違えないで論じて下さい。 >>304
やはり、唯名論とか実在論と言うカテゴライズが厳密に言って正しいかどうかは、
疑うべきだと思うよ。。
もちろん、新書とか一般向けの本だから、あえてイージーなカテゴライズをした、というのなら、
まあわかるが、厳密な議論に適するかどうかは、疑ってみるべきだろうね。。 >>301
なるほど、レスを受けて少なくとも有為と無為については、龍樹が言う四悉檀のうち第一義悉檀以外ではブッダも用いていた言葉(名)ということで龍樹も受容はしていたと思いました。
>>290-291についても確認は出来ましたのでこれ以上の問答は控えようと思います。
レスありがとうございました。 >>306
>よくわからんが、
…話の流れを理解されてから横入りしてくれませんか?
どういう流れで彼との話が進んで、私が唯名論って反証したのかいちいち説明しろとでも? >>309
話を流れをよく読まれてから参加されてくださいね。
以上。 >>310
あなたの書き込みなら、読まなくてもだいたいわかるわ。。w
(冗談です)ww >>307
あ、レスがついてたので一言
あなたは有部では、ではなく仏教ではという言い方で彼にレスをしていました。
そこがおかしいと思ったので横からレスをさせて頂いた、というわけです。
>>227
>四相(生住異滅)という刹那生滅である無常を繰り返す極微が、さらに様々に組み合わさってあらゆるものを仮設しているというのが仏教の説なんでです。 >>311
>>313
繰り返しますが、あなたが「仏教の説なんです」と書かなければ私も横レスはしませんでしたよ。 >>312
ロンさんの仰りたい事は分からない訳でもないけど、そうしたガラパゴス的な視座では世間に通用しないでしょ? >>313
よくレスを読んで下さいね。
>169 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
>2020/06/16(火) 12:51:25.00 ID:xTEijTZF
>>>167
>法有と唯名論は矛盾しませんよ。
って書いてありますよ?
勿論、その法有が有部を示すのはご存知ですよね。 >>314
>>313
よくレスを読んで下さいね。
>169 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
>2020/06/16(火) 12:51:25.00 ID:xTEijTZF
>>>167
>法有と唯名論は矛盾しませんよ。
って書いてありますよ?
勿論、その法有が有部を示すのはご存知ですよね。 議論の前提を確認しないで、部分抜粋して論じられても困るんですよねぇ。
いい迷惑です。 大山くんこんなクソスレでよく活躍してくれとるじゃないか >>315
何がガラパゴス的なんだ?w
あなたの言っていることは、まったくわからん、と言う場合が多いのだが。。w 大山は、自分なりの解釈と言うか、思考、が自分の中にある時に、それが、他人にとっても自明であるかのように思い込んでないか?
普通は、説明しなければわからないことを、説明しなくともわかるような話し方をする。。
ちょっとだから、そこらへん、対話していると、会話にならんな〜と思う時がしばしば。。w
そういうタイプの人は、文章とか論文とか書くのは、不向きなわけね。。
客観的な他者と言うか、自分以外の人間、自分が前提としていることを前提としない他者が存在する、
ということが、わかっていないタイプの人、、なんじゃないかな〜? マイワールドの人、というか、誰でもマイワールドに住んでいるのだけれど、
同時に、他者は、マイワールドにいない、ということもわかって対話する。。
しかし、病的な人は、他者もマイワールドに属しているかのように思い込む。。
すると、対話にならないし、思考もおかしくなる、のではないだろうか?w 大山くんは
人に教える仕事が一番向いてないじゃろうな
これ前にも言うたかのう? 柄谷行人の他者論、とか読めば。。
『探求』と言う本の中にあるぞ。。w >>321
笑わせないでねw
仏教スレで自論の傍証に引用を多く用いて客観性に配慮してる人を数えてみたらw >>328
だから、そんな話はしていないんだけど。。w
何がガラパゴスなのか、まったくわかりませんが、といっているだけ。。w >>329
「西洋哲学の距離の開け方」と言う名詞句、ではなく、論理的な文にして、答えなさい。。w
記述式の設問です。。w >>332
それも、あなたのマイワールドの中だけの間違いかもしれない、とは思えない?w
そこらへん、の懐疑のないひとは、哲学とか宗教とか、向かないからね。。w >>331
仏教の理解に西洋哲学を用いることに対して批判的でしょ? >>334
それがガラパゴスである、と言うのであれば、あなたは西洋=普遍というグローバリスト的、
あるいは西洋中心主義的な思想が正しいと思い込んでいる、ということになるが。。w >>333
???
あれだけ引用をしててマイワールド?
意味がわかりませんけどw 基本的に自分の評価だけのために書き込んどるからのう
その評価もちっとも高くないんじゃがw
相手にわかってもらおうとか、相手の言うことを理解しようとか
そういう気持ちが全くないからそうなるんじゃよ
大山ファーストでしかコミュニケーション出来ないのじゃな >>336
引用がどうのではなく、今まで対話してきた実感ですよ。。w
>>337
どうして?w
>>338
>大山ファースト
まさにwww 私は話せば話すほど
説明が必要になり
説明さえも説明が必要になるようなら
お互いに
その説明することも苦痛
聞くことも苦痛になるのなら
気付いた途端にやめてしまうな
考えれば考えるほど
学ばなければならないことが
増えていくのだとしたら
私は
あまりそのやり方は良くないと思うね
もちろんそれ自体を楽しんでいるのなら
それはその人の欲求をみたすのに
とても良いことだと思うけど >>339
>引用がどうのではなく、今まで対話してきた実感ですよ。。w
貴方の大山観に興味はないからw
>どうして?w
方法論だから。 >>338
だったら議論を尽くせばいいでしょ?
分からなかったら尋ねればいいでしょ? まあ30年座ってそれがわからんのじゃからもう手遅れかもしれんのう >>341
おれだけの大山観ではない、というのが、大多数の意見なんじゃないか?w
・・方法論であれば、方法論のちがいがあるだけで、どちらかがガラパゴス、とはならんだろーが。。w >>344
だから、大山観に興味はないからw
>>344
>・・方法論であれば、方法論のちがいが
批判したのは貴方でしょw >>345
ガラパゴス、と言ったのはあなただが。。w どこで捻じ曲がったんじゃろうなあ
時代のせいもあるじゃろうな いくらスレたてても古本屋やっても
結局誰も寄り付かんじゃろ
寄り付いても自分と意見が合わなければすぐあぼーんするし
じゃからスレがすぐ終了するんじゃ
大山ファーストのスレなんてみんなまっぴらなんじゃよ >>347
俺から観てお前は ガキ な。
ねんれいでも。 >>349
いや、寄り付いてもらいたくないんだけどw >>317
だったら最後まで有部の説として書くべきでした。
それをあなたは
>>227
>四相(生住異滅)という刹那生滅である無常を繰り返す極微が、さらに様々に組み合わさってあらゆるものを仮設しているというのが仏教の説なんでです。
などと、有部の説を仏教の説として解説している。
これでは読み手に誤解を与えますよ。
あなた自身が認めていたように釈迦仏教では四相や刹那滅や極微という概念はなかったわけですが、上記引用文が「仏教の説」という言葉を用いているからには、釈迦仏教は仏教ではないという誤解を与えてしまいます。
ましてや、「三相を否定しまた刹那滅を説かなかった龍樹を祖とする中観、及び四相を否定した経量部は、仏教の説に背いているので仏教ではない、有部の思想や四相や刹那滅を説く部派こそが仏教である」、とまで読み取れてしまいますよ。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
最初からあなたが 〜というのが有部の説なんです と書いていれば少なくとも上記の誤解や誤読?は防げていました。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(中論第24章)
世俗の表現たる言葉というのは正しく使わなければ究極の真理たる勝義どころか、人に正しくモノを伝えることができなくなるのです。
この場合はあなたが「〜というのが仏教の説なんです」と書いたことが、人に正しくモノを伝える(説く)ことが出来なくなってしまっているということです、何度も繰り返しになりますが。
もっともあなたは私よりも遥かに弁は立ちますし、私も人に誤解を与える文は何度も書いています。
お互いに表現には気をつけて、誤解を与えないような表現をすることに努めていきましょう。 大山くんってわしより年上じゃったの??
なおさらびっくりじゃなwww >>353
>だったら最後まで有部の説として書くべきでした。
誰のために? >>356
wwww
そうやって寄り付いてんじゃんw ちなみにわしは55歳じゃが
それより上なん?
その精神年齢で?ww 55歳をガキ呼ばわりするんじゃから、
70歳ぐらいでしょうか? とにかくこれからは大山さんって呼ばんといかんのう^_^)
今まで失礼しましたm(_ _)m >>357
あなたと対談していた彼のためでもいいですし、不特定多数の人が見ている掲示板ということでこのスレの住民のためにでもいいです。
とにかく人に誤解を与えるような表現をしてしれっとしているのは良くない。 >>348
そうだけど?じゃなくてさ。。w
あなたは、対話と言うか議論している中で、論理の流れが読み取れなくなるよね。。w
批判されているときは、特にそうなる。。w
だから、こっちからみると、対話にならんじゃん、となるの。。w でもこういうの55歳より上の人間がすることじゃないと思いますが↓
_i⌒r-.、
,,-'´ ノ
// ./ .l
/ .人 / -O-O- l チ
/ (__) パカ (( ◯ .l .: )'e'( : . l ン
/ ∩(____) やぁ! .ヽヽ、l" ".l ポ
/ .|( ・∀・)_ \ヽ. l )) コ
// | ヽ/ 今日の糞スレはここかな? ,-'´ ̄`ゝ´ ̄`ヽ ノl ポ
" ̄ ̄ ̄"∪ .,'lニHニl .,' ◯ニ.ンl .ン
i ヽ'e'/ i lニHニl .i
ヽ、 丶 ヽ'e'/ . ノ
`'ー-.'´`'ー- ''´i .|
凵 .凵 >>292
在るという事もなければ無いという事もなく 在ると同時に無いのでもない これとかw
,, -──- 、._
.-"´ \. 今 日 も ま た 宗 教 板 か ら 逃 亡 し て や ん の w w w
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.:
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ: 宗 教 板 の 笑 い 者 w w w
:| (__人__) |:
:l ) ( l: 嘘 つ き は 消 え て く れ よ w w w
:` 、 `ー' /:
:, -‐ (_). / 偽 僧 侶 で 自 称 覚 者 の 統 失 ナ マ ポ お じ さ ん w w w
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|: 大山さん失礼を承知で言わせてもらいますけど
さすがに恥ずかしいでしょw >>365
wwwwwwwwwwwwwwwwww
はぁ?
公開討論でもなければ、私はパネラーでも司会者でもないんですが?
彼と私が有部の極微解釈について話してるのに、なんで不特定多数にそんな事を言わなければならないの?
ましてや、あなたは後から横入りして関係のない話を持ち込んだんでしょ?
少しはこちらの立場に立って考えてみたらどうですか? >>372
彼に真実ではないことを教えていたでしょう。
彼に間違った知識を与えてあなたは平気なのですか? >>372
>ましてや、あなたは後から横入りして関係のない話を持ち込んだんでしょ?
何度でも引用させて頂きますが、あなたが
>>353
>>四相(生住異滅)という刹那生滅である無常を繰り返す極微が、さらに様々に組み合わさってあらゆるものを仮設しているというのが仏教の説なんでです。
と四相による刹那滅であらゆるものを仮設しているのが仏教の説と書いた時点で、それは事実ではない(中観や経量部などそうは説かない仏教部派もあるので)ことを指摘しました。
中観では三相を否定して生滅も否定しているという実例を挙げながら。
ですから関係のない話をした覚えはありません。 >>367
だから、仏教を理解する手段として西洋哲学を利用するのに批判的だからガラパゴスって揶揄してるんですよ。
方便として有効であれば東西を問わず使えばいいじゃないですかw >>376
だから、こちらの言っていることを理解していないから、そう繰り返すわけよ。。
もう、どうでもいいけど。。ww >>373
ありがとうございます。
折角ですが既に存じてる事ですので。 とりあえずデオーに、老人はまず敬いなさいと言っておきますね^_^) さて、私はもう寝ますよ。
一つ、こちらは勝ち負けとかへのこだわりはないのでこれ以上の問答は控えます。
これ以上だと問答を超えた口論になりますしね。
反論のレスをつけるのはもちろん厭わないですよ、それに対してこちらからレスを返すことはないと上に書いていますから。 いやあ今日はびっくりしたのう
わしももう寝るぞよ^_^)/ >>375
ですから、彼とは有部の極微解釈の話をしてるんです。
その流れにおいての W仏教ではW という事です。
また、刹那生滅は、究極においては龍樹の言うように否定されるものでも方便的な教義としては大乗仏教共通の認識と考えてます。 >>381
ですから、よくスレを読んでから横槍されて下さい。
以上。 スレの流れを勝手に解釈して横槍とか、当事者からすればいい迷惑な話な訳で、それに対してなんの挨拶もないとか人間性に問題がありますね。
横槍入れるのなら、私なら一応 Wこういう主旨で話してるのですか?W って確認しますけど。 >>377
答えになってないね。
ま、関わらないでな。
以上。 >「般若心経秘鍵」によると
心経の分別諸乗分の末尾について
『法華経』や『涅槃経』などの枝葉末節をまとめて、根本に帰入させる教えは、
実に「無智亦無得 以無所得故」という十字に含まれる とありますが、
つまり 対象と主観を共に拒否することで、それらの無実体性を説いてる訳ですか??
天台系の阿弥陀仏にお縋りする「他力」信心を一道無為心とすると 第十住心に進む前に
華厳宗の極無自性心があります。これも究極の他力かもしれませんが、
庫を開く上では通るべき関門かも知れないのです >>357
あれ?論破されちゃってたのかよwww
せっかくソースを提示してやろうと思ってお前が出してきた空の思想史をチェックしていたのにw。
7章を見てみ。部派仏教のアビダルマは自性と諸要素がともに実在するというパターンを有すると書かれているぜ。
ちゃんと全部読んで万全のチェックをしてからから提示してやろうと楽しみにしてたんだがねえw。 >>357
「仏教は唯名論に分類される」というのがお前の主張だったろ。
こそっと改竄するのはみともねえよ。 >>389
改竄なんかしてないだろw
仏教は唯名論だよ。
で、有部も唯名論だしなw >>390
え?まだそれ言ってんの?
お前が出してきた空の思想史の7章を見てみ。部派仏教のアビダルマは自性と諸要素がともに実在するというパターンを有すると書かれているぜ。
ま、ソースってのはこうやって提示するもんだ。 >>390
それとさ、有部は極微が実在しないと主張しているのソースを提示しろよ。
俺みたいにちゃんとソースを提示しな。 >>393
お前馬鹿だろw。
仏教は「おおむね」唯名論に属しており
というのは、唯名論に属さない立場も仏教の中にあるということだ。
そして、7章に「部派仏教のアビダルマは(自性と諸要素がともに実在するという)パターンTを有する」と書かれているだろ。
俺の主張を裏付けるソースをわざわざ貼ってくれたの?
ご苦労さん。 空であり、実体が無いというのは、おそらく、実体視=われわれの普段の認識にも実体ないですよ、と言うのがポイントなんじゃないだろうか?
そうじゃないと、認識を滅してとか現象を滅してとか、なんか変な境地を目指さなければならなくなっておかしい。。
もともと無我であるってことは、もともとすべてに実体は無い、と同じこと。。
それを了解するってだけなんじゃなかろうか?
で、それを了解したら、その実体なき、もとのまんま、と言う気がするが。。w 心経の解説書も著者によって様々に違うわけだが、照見五蘊皆空と喝破したところで、釈迦の説いた悟りに達したとは思えないね。
釈迦は五蘊が滅尽すると説いたのであって、空と説いたのではない。 認識を滅するとかではなく、通常の認識がすべて錯誤である=すべては認識できない、を理解するだけなんじゃないかな?
もちろん、禅定の体験も相まって、ということになるだろうが。。 お釈迦さまは、非想非非想処という、当時最高とみなされた境地を達成しても、こんなんじゃダメだ、と否定された。。
ということは、境地とかじゃなくて、無常の中で、変化する中で通底しているもの=無我=因果=因縁生を悟った、ということに近いんじゃないかな?
要は、涅槃がどうたらじゃなく、どうあっても、ということだわ。。 >>394
>というのは、唯名論に属さない立場も仏教の中にあるということだ
だから、仏教は唯名論でいいだろw
それと、唯名論に属さない部派が何派かは忘れたけど現存してなかった筈だよ。 >>394
だから、唯名論と有部は矛盾しないだろ? >>398
それについては倶舎論のソースはねえの?
お前が出して来ただろ。
龍樹が反論しようとした相手は一体どこになるんだ?
実在を認める相手がいたから、実在などないと主張したんだろ。お前の理解じゃどうなってんだ? >>400
は?日本語が苦手な人か?
唯名論に属さない立場も仏教の中にあるのに、仏教は唯名論とは言わないよ。
実際、お前の提示したソースでは「おおむね」とちゃんと制限してる。 確かに原始仏教でも、「世間を空と見よ」とか、空を説いてはいるが、心経の説く空はあまりにも絶対的だ。照見五蘊皆空と喝破して度一切苦厄=至彼岸(涅槃)だというわけだ。
だが、この心経から釈迦の悟りを大きく変質させたことは間違いないね。 はじめから迷っておらず、悟ってももとのまんまだから、無智亦無得 以無所得故…ということになる。。
もちろん、業と言うものがあるから、ホントにもとのまんまでいいか、というのは、人それぞれかもしれないが。。w >>407
俺もそう認識していたんだが、
そうすると論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということになるんだが。
お前の中じゃどう理解してんのかが謎過ぎて。 >>403
だから基体を認める部派は何派かは忘れたけど異端として消滅したんだよ。
現存する大乗系も上座系も唯名論だよ。 >>408
いや、だから、ここでいう実在論って基体を認めるか否かでしょ?
仏教は、当たり前だけど基体を認めてないから。 こちらの主張点をまとめておくよ。
1.仏教は唯名論にカテゴライズされる。
2.極微は恒常ではない。 >>409
仏教は「おおむね」唯名論に属しており
部派仏教のアビダルマは(自性と諸要素がともに実在するという)パターンTを有する
と書かれたソースを元に、
> 仏教は唯名論であって、唯識論なので。
は間違いだろ。唯識は唯識派であって、仏教全体ではない。
と言っちゃうのはだめだと>>166で指摘して有るからなあ。
お前の言い訳は通用せん。素直に反省しとけ。
みっともない。 >>412
だから、基体説に立つ部派は消滅したの。
故に仏教は唯名論にカテゴライズされるの。 >>412
>部派仏教のアビダルマは(自性と諸要素がともに実在するという)パターンTを有する
つまり、基体を認めてないでしょ?
だから、唯名論だし、恒常性を否定してるの。 >>413
みっともないからいいよ。
仏教は「おおむね」唯名論に属しており
部派仏教のアビダルマは(自性と諸要素がともに実在するという)パターンTを有する
というソースを元に
仏教は唯名論であって、唯識論なので。
と主張するのが正しいとお前が言い張っていることは事実。
お前のそんな言動をどう評価するかは周りが評価すること。
みっともない。 >>412
>は間違いだろ。唯識は唯識派であって、仏教全体ではない。
仏教では全てはこころのに顕れって説いてるでしょ?
それが唯識。
で、その視座を詳細に展開して行ったのが唯識派。 >>414
>>163では
固有の実体はなく名称である(唯名)。
認識があるから存在もある(唯心)。
認識があるから存在もあるが、認識するものは空性である。(唯識)
と言ってたのに、また後から改竄かよ。みっともねえなあ。 仏教学者に言わせると、唯識は観念論。。w
すなわち、カント、ヘーゲル、フッサールと同類。。w
大山君は観念論と言っても意味わかっかな?w >>415
>>411で了解したんだね。
ならこの話は終わり。 鹿野園はみっともない言い訳するより、間違いは素直に間違いと認めたほうがいいぞ。
それより、生産的な議論をしようぜ。
>>408に回答しろよ。 唯識が観念論だということがわからないから、その限界も見えない、ということだろうね、大山君。。w 観念論と言う用語を知らなくても、直感的に頭のいい人なら、その限界はすぐにわかるはず。。w >>420
そろそろ総括するから、貴方の主張点をまとめてくれるか? >>422
回答になってねえだろ。
論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということになる。
お前の主張は倶舎論も実在を認めていない、だったんじゃねえの? 色という表層的な現象面だけにとれるなら刹那滅でもいいのだけど
それは「仮」で「空」の中では心経に説かれる通り「不増不減」
またミクロの世界で対生成対消滅が起きてるといってもエネルギーから変化してるだけなので
エネルギー保存則からしても「不生不滅」 >>425
ごまかしくれなくなって逃亡かよw。みっともないなあ。
間違いは素直に認めたほうが印象いいぞ。 部派仏教は釈迦の教えの細部の議論に拘って、釈迦の悟りから遠ざかる結果となった。心経は部派仏教の議論をまとめる役割を果たしたとも思うが、初期大乗と呼ばれるように、それまでの釈迦の悟りを、大きく変質させてしまった。 色という表層的な現象面だけにとらわれるなら刹那滅でもいいのだけど
それは「仮」の見方で、「空」の中では心経に説かれる通り「不増不減」
またミクロの世界で対生成対消滅が起きてるといってもエネルギーから変化してるだけなので
エネルギー保存則からしても「不生不滅」 >>428
だから、総括するから貴方の主張点をまとめて。 色という表層的な現象面だけにとらわれるなら刹那滅でもいいのだけど
それは「仮」の見方で、「空」の中では心経に説かれる通り「不生不滅」
またミクロの世界で対生成対消滅が起きてるといってもエネルギーから変化してるだけなので
エネルギー保存則からしても「不増不減」 >>432
総括は終わってるよ。もともと、
> 仏教は唯名論であって、唯識論なので。
というお前の主張は間違っているという話だから。で、お前が根拠としたソースには
仏教は「おおむね」唯名論に属しており
部派仏教のアビダルマは(自性と諸要素がともに実在するという)パターンTを有する
と記述されていた。
事実は明確なので、後は周りがお前のことをどう評価するか、というだけ。 何が言いたいか、どういうことか、というと、実在を否定するか否か、なんてのは、そもそも人間の認識能力を超えた問いだから、
議論しても意味が無いし、どっちでもいい。。w
すなわち真の問題ではなく、偽の問題なんだよね。。
そこらへん、西洋哲学をある程度ちゃんとやった人なら、わかるはずなんだけどね。。 心経の話者は大乗の菩薩、というレスを見かけたことがあったが、
舎利子は釈迦の十大弟子の一人で、釈迦より早く死んだ人物だよ。心経は、その舎利子に説法しているのだからさ、話者は釈迦とも十分に考えられますね。 それより、
論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということになる。
お前の主張は倶舎論も実在を認めていない、だったんじゃねえの?
に回答しろよ。 原始仏教では、涅槃を得るまでに、釈迦は四段階の悟りを説いている。四段階目の悟りが涅槃、仏陀の悟りであるわけだ。
最初の悟りの段階は、預流と呼ばれる段階だ。
心決定=仏道に不退転の心が定まる段階だ。
三結という煩悩を断つと、そうなる。 >>435
だから、>>411で双方の見解の統一を見たでいいんだな。
なら、話は終わり。 >>438
だから、有部は基体説にたってないでしょ? >>441
言い訳ばかりしてないで生産的な会話しような。
論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということはお前も認める。
そして、倶舎論は実在を認めていないという主張を修正するなら、どうするのか明示しろ。 >>442
だからさ、その言い訳は聞き飽きた。
総括は終わったから。 >>438
先ず、実在論と実在と存在をハッキリ区別てくれませんか?
私は実在論としてカテゴライズされた実在を否定はしても、存在は否定してませんから。 >>443
>>438
先ず、実在論と実在と存在をハッキリ区別てくれませんか?
私は実在論としてカテゴライズされた実在を否定はしても、存在は否定してませんから。 僕が総括してあげましょう。。w
大山氏の主張の根拠は、立川武蔵と言う学者がそう言っているから正しいんだもん、と言うことです。。w
他には全く根拠がありません。。w 訂正
>>443
>>438
先ず、実在論と実在と存在をハッキリ区別してくれませんか?
私は実在論としてカテゴライズされた実在を否定はしても、存在そのものは否定してませんから。 >>448
立川武蔵氏はちゃんとまともなことを言ってるのよ。 >>450
そうでしょうね。。w
チャート式の図表しか理解できないと、おかしな主張になるのかもしれません。。w 仏教 唯名論で検索したのかなぁ?
なんでこの程度の事でここまで引っ張るんだろ?
分かってて嫌がらせでやってるとしか思えないんだけどw >>445
最初からずっとお前の主張を問題にしているのに、どうして突然俺に聞いて来るw
お前の定義を明示しろよwww。 仏教は唯名論にカテゴライズされる。
これのどこがおかしいのだろう? で、
論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということはお前も認めるんだろ?
そして、倶舎論は実在を認めていないという主張を修正するなら、どうするのか明示しろ。 >>456
だから、実在論と実在と存在をハッキリ区別してくれませんか?
私は実在論としてカテゴライズされた実在を否定はしても、存在そのものは否定してませんから。 >>457
だからさ、
> 仏教は唯名論であって、唯識論なので。
とお前が主張したのに対して、それは間違っていると指摘した流れ。
そしたら、お前が倶舎論を持ち出してきた。
すべてお前の側からの発言なのに、なんでお前が俺に聞くんだよwww。
お前の発言なんだからお前が提示しろよ。 おはようさん^_^)/
朝から大山さんいじめか
ほどほどにのう >>163
固有の実体はなく名称である(唯名)。
認識があるから存在もある(唯心)。
認識があるから存在もあるが、認識するものは空性である。(唯識)////
一見整理しているようにみえるが、
例えば、その「実体」の意味?
その「存在」の意味?
それらの意味が既に分かっていることが前提でないと成立しない。
このような整理は、分かった気分になるに過ぎない。
泥団子遊びは楽しい? 人生は短いのに。 >>459
こっちはもう総括終了しているのに、しつこくみっともない反論して来るせいで、
だらだら続いてしまっている。
有部と龍樹の対立点については確認したいから聞いてるんだが、いちいち突っかかってこられて話が進まないw。 >>461
突っかかることが目的なんじゃよ
議論を進める気なんてこれっぽっちもないのじゃ
普通の人間という発想から離れないと
大山さんとは付き合えないと思う >>460
そうなのよね。
その辺りが不明瞭で、しかも後から修正もしてるから、鹿野園の定義がよく分からない。 そういう人間はどうでもよい点を針小棒大にしつこくついてくるのじゃ
そこにこだわっては話が進まないということなど本人も百も承知なのじゃ
確信犯じゃからな >>464
いやだからさ、お前の側からの主張があった。
で、お前の定義が不明瞭。
なんで、それでこっちが定義を提示する流れになるんだよ?
wwwwwwww >>460
>それらの意味が既に分かっていることが前提でないと成立しない。
その通り。
だから、その後視座を図表です提示したんです。 訂正
>>460
>それらの意味が既に分かっていることが前提でないと成立しない。
その通り。
だから、その視座を図表で提示したんです。 >>466
定義たる視座は図表で提示したでしょ?
見てないのかなw >>467
いやだからさ、その図表については、同じ本の記述を示しただろ。
その言い訳がものすごくみっともない。 >>463
とっくにしてるけど?
172 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/06/16(火) 12:58:41.33 ID:xTEijTZF
念のため、
https://i.imgur.com/4NrE65X.jpg
(空の思想史 立川武蔵 より引用) >>470
???
その図表ではちゃんと唯名論と実在論についての定義を述べてるけど? やはり詐話師という言い方が一番当てはまるのう
非常にサヨク的 >>472
その図表には、
存在の定義がなければ、
お前が言ってた「恒常・連続性」なども載ってないんだが。
お前の定義を明示しろよ。こっちは混乱する一方だ。 日本人が仏教によって人間性や人生を向上させることを妨害するために
この板の常駐して書き込んどるんじゃなかろうか 1.有部(倶舎論)は基体と属性の区別をしてないパターン1ってある。
https://i.imgur.com/nPpnaAh.jpg
2.基体と属性の区別をしてないのが唯名論って図表にある。
https://i.imgur.com/drLOqAH.jpg
だから、
>169 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :
>2020/06/16(火) 12:51:25.00 ID:xTEijTZF
>>>167
>法有と唯名論は矛盾しませんよ。
と言ってるんです。
でもあなたは
>171 名前:神も仏も名無しさん :
>2020/06/16(火) 12:55:08.93 ID:tzi7rC9h
>>169
>明らかに矛盾しているんだが。
>矛盾していないというロジックを示せよ。
と言ってるんです。
どちらが間違いかは明白です。 >>478
>>163の固有の実体はなく名称である(唯名)。
認識があるから存在もある(唯心)。
認識があるから存在もあるが、認識するものは空性である。(唯識)
とその図表は違う。
また、お前は「恒常・連続性」を実在の基準にしているようだけど、その図表には「恒常・連続性」は出て来ない。
それじゃ不明瞭と言わざるを得ないなあ。 >>475
>お前が言ってた「恒常・連続性」なども載ってないんだが。
えっ!?
えっ!?
えっ!?
まさか、まさか、まさかだけど、基体の意味も知らないでここまで引っ張ってたの?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
こいつただの馬鹿じゃんwwwwwwwwww >>480
うーん、アスペだなあ…。
まあ、発狂しちゃってしばらくはまともな会話が成立しないようだから、しばらく放置してみるか。 で、外道の見解とかほざいてたけど、なんの話だっけ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww いやはや、また根本的なところで致命的な勘違いですかw
さすが、自爆轟沈三毒無明のかかし丸w 大山さんもうご老体なんですから
枝葉のことばかりに執着せずに
いい加減そろそろ年齢相応に落ち着きましょうよ^_^) >>373
「本来実体的なものとして扱かわれてきた極微という概念」という記述と、
極微は実体がないという鹿野園の主張との齟齬が理解できん。
単純に鹿野園が間違っているでいいのか? だから、その問題の解決の為に、刹那生滅が要請されたんだよ。 超弦理論の弦なんて1次元の線なんじゃから
そんなよくわからんもんの正体にさほどこだわらんでもええじゃろ 刹那だけ実体として存在するってな。
それが法有。
でも(刹那)消滅するから常見にはならないと。 「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」 >>491
確認なんだが
>>402と>>407から
論理必然的に、倶舎論は実在を認める立場だということはお前も認めるんだろ? >>168
ヴェーダーンタ学派はブラフマンという明確なダルミンを認めるのに唯名論に分類されるのだが >>491
それが法有ではない
説一切有部の法有は三世実有・法体恒有
作用するのが刹那だけという教義 >>493
繰り返す様だけど、
>実在論としてカテゴライズされた実在を否定はしても、存在そのものは否定してませんから。
としか言えません。 >>495
良く分からんなあ。
その辺りについて解説している書籍はある?
倶舎論を読むしかないのか?
倶舎論は文庫本はないのかねえ。一番安い桜部建ので6000円超えてる。高いと1万以上。
桜部建でいいのか? ・仏教はインド型の唯名論。この唯名論の特徴は、基体としてのブラフマンつまり神と、現象世界との間にはっきりした区別はない。
基体つまり実体、と属性とのあいだにはっきりした区別がある説がインド型実在論。
空思想はインド型唯名論の典型であり、神としての基体の存在を認めず、基体と現象世界としての属性との本質的な区別も認めない。さらに現象世界も究極的には存在しないと考える。
・我我が用いている言葉は、ほとんどの場合日常生活において妥当なもの。例えば本を見ていてこれは本であるということは一般的には正しい表現であり、一般常識にかなうことである。ヴァイシェーシカ学派などのインド型の実在論の考え方によれば、そしてこの限りでは西洋の実在論においても同様なのであるが、本という言葉を発することができるのは、対象物としての本というものが存在するからである。そして本というものが存在するから本という言葉も発することができると考えられている。
≪このような考え方が部派仏教の一派である有部にもみられるがこの学派は仏教諸派の中では実在論に近い考えを有しているといえよう。≫
ところが、空の思想は言葉とその対象が正確に呼応するという考え方に対して根本的な懐疑を抱いた。
言葉と対象物とは明確な対応関係にないであろうと考えた。
空の立場ではどのようなものも当然ながら神もまた存在しない。
したがって、言葉は実在とともにあった、言葉は実在であった
という表現は、インド大乗仏教の空思想の文献には見られない。
空では、神であり、神とともにあるような言葉、すなわちロゴス(論理、理、理性、スピーチ)は存在しない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=140 >>496
だからさあ、お前の発言に基づいて聞いてるんだから明確に回答しような。
龍樹が反論しようとした実在を認める相手が倶舎論だと、文章としてはお前は明らかにそう言ってる。
そこで言う実在と違う意味での使い方もお前していると言いたいように思えるが、
だったら定義を明確にすべきだし、使い分けもすべきだ。
煽り抜きでお前の文章は不明瞭だ。 >>498
Wikipediaの説一切有部の説明が最も簡略にして分かりやすいよ
三世実有説
説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。
森羅万象(サンスカーラ、梵: saṃskāra)を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。
未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。
このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8
倶舎論読まなくてもこれで充分 >>498
お気持ちはよく分かりますよ。
https://i.imgur.com/Yvz9EQM.jpg
そのW実在Wについては注意して考えないといけないという指摘はありますからね。
取り敢えず、角川の仏教の思想なら安いし電子化されてるし、第二巻の存在の分析とかどうでしょうか? >>501
もともとはこんな認識をしていたのだが、
鹿野園は刹那消滅すると言ってるだろ。
鹿野園が単純に間違っているということならそれで解決なんだが、若干引っかかるものがある。 >>502
仏教の思想は持っていてチェックはしたんだけど、多少曖昧な印象。
つうか、お前のせいで良く分からなくなってると言っても過言ではない。
龍樹が実在を認める倶舎論を相手にしていたと理解していたのだが、
お前は倶舎論が実在を認めると言ったり、逆のことを言ったり。
責任取って、明確にしてくれ。 二人のレスバトル(?)を側から読んでたら思い出したw
【問い】自己は身体と命のために来世においてひとり苦楽を受けるのだろうか。身体と共に苦楽を受けるのだろうか。
【答え】この身は滅してしまうが自己は別の身体を受ける。
【問い】未来に苦楽を受ける自己とはいったい何なのか。
【答え】あなたの方が先に自己を持ち出してきたのである。どうして、又ふたたび自己があるかなどと問うのか。これは道理に合わない。
(龍樹『方便心論』一・三・八・四・三)
この問答と同じことしてない?w >>505
と
ここでのレスバトルでは問う者と答える者の立ち位置が逆になってるけど定義を首尾一貫させないとこうなるという点で同じ >>506
そうよね。
「恒常・連続性」を実在の基準にしているのかと思えば、属性と基体の関係だけが問題だと言ったり。
倶舎論が実在を認めると言う一方で、倶舎論が実在を認めないと言う。
どうも、異なる意味で使っているようだが、そこを明示せずにやられては混乱する。 >>505-506
こういうことか?
該当者無し 【問い】自己は身体と命のために来世においてひとり苦楽を受けるのだろうか。身体と共に苦楽を受けるのだろうか。
鹿野園 【答え】この身は滅してしまうが自己は別の身体を受ける。
名無し君 【問い】未来に苦楽を受ける自己とはいったい何なのか。
鹿野園 【答え】あなたの方が先に自己を持ち出してきたのである。どうして、又ふたたび自己があるかなどと問うのか。これは道理に合わない。 有部における実在と中論における実在の意味が異なるの?
鹿野園の発言からはその可能性が出て来るんだが、そうなんだろうか?
そこの疑問を解消するには、倶舎論を読むしかないのかのー。 諸行無常を細かく分析すればするほど、釈迦の悟りからは遠ざかってしまう。生住異滅と、四つだろうが、40個に分けて細かく分析しても同じことだ。物理学者のように細かく分析しても、釈迦の悟りには到達できまい。
心経は釈迦の悟りを変質させてしまった。 >>505
そうではなくて、有部で極微はどう解釈されてるかって話をしてます。 だから、実在論と実在と存在の違いを把握されて下さい。 >>510
中論の話はしてません。
有部では極微をどの様に解釈してるかの話です。 >>514
中論の話は>>402と>>407とかでしてるだろ…。
うーん…。 そもそも、お釈迦様の時代は元素論で、極微(原子論)が出てきて仏教で論じられたのは、滅仏後で600年を経ていたとされてます。
つまり、諸行無常のいうテーゼの中で極微(原子)をどう解釈するかを要請されたって事なんです。
そうした中で、元素論や刹那生滅の思想が流用されたって事です。
原子は色法に分類され有為法に包括されるので、
「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」
とある様に、刹那生滅するとされるんです。 >>516
「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」
は倶舎論のどこに出てんの?
前後も読んで確認するわ。 >>515
参考書ですけど、佐々木さんの仏教は宇宙をどう見たかもいいかもね。
これも手頃で電子化されてます。 >>508
ですから、有部では極微をどう解釈してるかの話をしてるんです。 >>511
ですから、有部では極微をどう解釈してるかの話をしてます。 >>504
>お前は倶舎論が実在を認めると言ったり、逆のことを言ったり。
実在と、存在は、別、ね。 唯識三年倶舎八年。
倶舎論を理解するのに八年、その基礎が出来て唯識を理解するのに更に三年。
難解です。 >>526
やっぱりそうかと思って探したんだけど該当箇所を見つけられなかった。
今探したら発見した。 諸行無常を悟ったとしても、涅槃寂滅は悟れない。釈迦は無上安穏涅槃と表現した。無上安穏が無常だとしたら安穏にならない。
よって、諸行無常の世界と涅槃の世界は、正反対の世界だ。それが釈迦仏教だ。しかるに、心経は涅槃をも空としたように見える。 空をいくら悟ったところで、釈迦が説いた涅槃は得られまい。と、いうのが何十年も般若心経を唱えて来た私の結論だ。
涅槃(悟り)を得るためには、釈迦が説いた四段階の悟りを経る以外にはないだろう、というのが、体験上の私の結論だ。 >>451
ロンさんよ、悪かったね。
出張中の車を運転しながらの(勿論停車中w)のモバイルポチポチで XulwCPMxさん としかレスが出来なかったので遅くなった。
今は家についてPCでレスできるから、要件をどうぞw >>527
おそらく、貴殿が疑義に思われた点については、
『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> 角川ソフィア文庫』
第二部 インド思想とアビダルマ ダルマ論の弱点
にて櫻部先生と上山先生が論じられてると思います。 >>495
> >>491
> それが法有ではない
> 説一切有部の法有は三世実有・法体恒有
> 作用するのが刹那だけという教義
根拠の提示をお願いします。 >>530
停車中に、スマホの見すぎで発車が遅れて、後続車を待たせることは無いのかい? >>533
何だかセンサーがついてて警報が鳴るのでないw >>536
ありがとうございます。
それは承知してるんですが、その引用に
>この思想は『?舎論』において「現在有体・過未無体」(現在の法のみに実体を認める)を説く経量部に厳しく批判されている。
って書いてあり、私も
>刹那だけ実体として存在する(>>491)
と言ってるのに、何故 honItnW5さん が
>それが法有ではない(>>491)
と否定してきたのか、その根拠を知りたいのです。 訂正
>>536
ありがとうございます。
それは承知してるんですが、その引用に
>この思想は『?舎論』において「現在有体・過未無体」(現在の法のみに実体を認める)を説く経量部に厳しく批判されている。
って書いてあり、私も
>刹那だけ実体として存在する(>>491)
と言ってるのに、何故 honItnW5さん が
>それが法有ではない(>>495)
と否定してきたのか、その根拠を知りたいのです。 >>538
>この思想は『?舎論』において
>「現在有体・過未無体」(現在の法のみに実体を認める)を説く経量部
>に厳しく批判されている。
>>491は経量部の「現在有体・過未無体」の見識
これも法有の形ではあるがここで問題視されている法有とは関係がない
説一切有部の
【(極微による)色や受想行識などの法は作用という形では刹那生滅するとしても三世においては実有・恒有する】
という論は仏教ではタブーとされる常見に当たるとして経量部や中観派に批判されたのは歴史的事実 補足すると、有部も経量部も少なくとも今という刹那のみの法の実在は認めており、その実在の肯定を法有というと思うんですが、それを否定されているので理由を尋ねた次第です。 >>539
書いてる途中に本人が来ましたので丁度良かった。
有部の見解では、刹那生滅の生・住・異・滅間の法の実在を説いてますよね?
それ故、法有と認識してるんですが違うんですか? >>539(続き)
補足しますけど、ここでは三相説を取り上げますが、法は一刹那の間に出現して作用して消滅する間、 実在 しますよね?
それを法有というのではありませんか?
貴殿は ”作用するのが” って仰ってます(>>495)が、有部でいうところの実在なしに作用するというのですか?
何かしらのサブスタンスもなしに作用のみがあるというのですか? 有部と経量部の有無論争にケリをつけるべく誕生したのが、有でもなく無でもない空だとした般若経だね。それを集約したのが心経だ。
だがこの心経は釈迦の涅槃寂静を変えてしまった。涅槃も無自性・空にしてしまった。
それ以降、釈迦の涅槃が消えてしまった。 >>541
>>536から丸々コピペ
有部の説く三世実有・法体恒有とは、作用をなした法を過去の法、作用をなしている法を現在の法、これから作用をなすであろう法を未来の法とし、作用の如何において法の三世を分類し、それら三世の法の実体は恒に変化せずに存在することを主張するものである。 >>543
経量部の成立が三世紀末で、般若経典群が作成されたのが紀元後から三世紀くらいとされてますが? >>544
はい、どうもです。
で、その文中には
>法の実体は恒に変化せずに存在することを主張するもの
ってありますよね?
で、わたしは
>刹那だけ実体として存在する … それが法有。
と書きました(>>491)。
しかし貴殿はそれを
>それが法有ではない
と否定されました(>>495)。
その根拠を知りたいのです。 >>528
行為が止まれば果報も止まるでしょ?
諸行無常の行が消えたら無常の果報も受けない訳
原因となる行為が無い訳だから受ける果報も身体も無くなるでしょ?
行為の滅びた者には生老病死苦も滅びるんだからこの上ない安穏な境地に達するという理屈になるのね
その表現としての空は間違いではないでしょ? 悟りスレが過疎っとると思ったら・・・
みーつけたmg(´・ω・`) そんなことは もう既に解決済みだろ。
今は そんな問題では無い。 洗脳されてるから皆 現実を直視しては なりません。 >>546
よし、分かった!
>>495を加筆訂正させて頂く
それは今問題となっている説一切有部の説く法有ではない
説一切有部の法有は三世実有・法体恒有
作用するのが刹那だけという教義
こうすれば問題ないでしょ
説一切有部では実体的なものとして極微を扱ってきたのだから
ちなみに説一切有部では法は
未来世
現世(刹那)
過去世
の三世において実体つまりそれ自体として存在するよ
だから三世実有法体恒有
現在を成立させる法は未来世にある法が六因・四縁の因縁が調ったとき「生相」の力によって現在世に生じせしめられ
住→異と変化せられ、滅相」の力によって過去世に落謝せしめられる
未来世・過去世の法は「体」はあるが「用(作用)」はなく現在世の法は両方備えているとし
時間軸の上に過去世・現在世・未来世が無数に一刹那ごとの独立体として存在している >>513
あなた自身はどう把握しているんだ?
逃げ口上にしか見えんが。。w
はい、記述式で、論理的かつ明晰に、実在と存在の違いを説明しなさい。。w >>547
168 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/06/16(火) 12:49:41.62 ID:xTEijTZF
>>165
インド哲学では、大きく実在論と唯名論に分類されますが、基体(≒ダルミン)を認めない仏教は唯名論に分類されます。
へのレスで基体を認めても唯名論に分類されるインド哲学の一派もあるということ
鹿野園氏も了解していた
ただし仏教の中でも説一切有部は唯名論と言われることは稀で実在論もしくは実念論と言われることが多いと思う >>556
とりあえず仏教に関するスレだから極力仏教の枠内でお話して頂けませんか? >>554
冗談はともかく、
で、その文中には
>法の実体は恒に変化せずに存在することを主張するもの
ってありますよね?
で、わたしは
>刹那だけ実体として存在する … それが法有。
と書きました(>>491)。
しかし貴殿はそれを
>それが法有ではない
と否定されました(>>495)。
その根拠を知りたいのです。 >>556
有部は基体を認めず、また基体とその属性の関係も区別してないのだから唯名論でしょ。 >>558
コピペ
【三世実有 法体恒有】
説一切有部の見解で特筆すべきは、それら一切は、現在の瞬間瞬間すなわち刹那において生・住・異・滅と生滅変化しているけれども、過去・未来・現在にわたって実在する、としている点です。
そのような見解を古来、「三世実有 法体恒有」と称します。説一切有部の宗義における一大眼目です。
しかし、説一切有部から直接に分立したとされる経量部などは「現在有体 過去無体」、すなわち現在の瞬間には実在するけれども過去においては実在しないとしており、また他の部派においても見解を大いに異にしています。
『倶舎論』の中で世親菩薩は、自身が説一切有部に属していながらも、有部の宗義の眼目であるこの点を大いに批判。
経量部の立場から三世に実在などせず、現在においてのみ法は実有であるとしています。
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm
同じくコピペ
【説一切有部のアビダルマ 3.刹那滅と三世実有・法体恒有】
すべての現象世界はこのダルマが無数の因果関係を結んで生起して現実の存在になる。
具体的にいうと、生起した存在は生起した瞬間に消滅し、次の瞬間には新たな因果関係が結び直されて新たな存在が生起する。
その瞬間、瞬間が積み重なってわれわれの経験的な現象世界が成り立っているという。(刹那滅)
したがって因果関係を結ぶダルマの構成が変わらず瞬間、瞬間に引き継がれて生起すれば存在に変化は起こらないが、ダルマの構成が変化すると存在も変化する。
因果関係が消滅すると存在そのものも消滅することになる。
このようにあらゆるものはダルマという要素の組み合わせ、つまり和合してできた存在である。
だから常に変化する運命にあるので不変の実在ではない「仮有」の存在とされるのである。(諸行無常、諸法無我の根拠)
一方構成単位であるダルマは、これ以上分割できない極微の単位であるから、不変の実在、つまりそれ自体で存在する「実有」とされる。
(以下も重要だが長くなるので略)
http://www.obpen.com/essay/20150901_01.html
三世実有法体恒有の論拠の先鞭「識身足論」
http://nbra.jp/publications/76/pdf/76_a-2_05.pdf
説一切有部において刹那滅するのは法の構成(法体)
一刹那毎の法体は三世に渡って実有恒有 >>559
説一切有部はその教義がイデア論と比較されることから観念論や実念論
また実有という概念からヴァイシェーシカ学派の実在論と比較されることはあっても
唯名論と称されたり実在する唯名論と比較されたりしたのを見たことは自分はないけど… 大山さん、とりあえず、よく喰ってよく眠れ。。w
あんまり余計なこと考えたり言ったり勉強したりしない方がいいタイプだと思うわ。。w >>564
説一切有部の刹那生滅についての君自身の勘違いが分かったかね?
分かったのなら満足じゃ(^。^)
じゃあサヨナラ👋 夕方に時間があったらジョギングでもしてさ。。
夜はぐっすり眠る。。w
健康的な生活すればいいと思うぞ。。
自分に合わないこと無理してやっても、まあ無理だから。。w >>567
勉強しなおしてから来てね。
さよなら。 有部で想定される二種類の時間の流れの一つの、認識し得る一刹那間の実在も法有を構成してる事も知らないで噛み付いてくるとか、おつむが半分かけてるなぁ。 引っ込みが付かなくなったから、直説関係のない事を延々と引っ張り出してお茶を濁すとか、ポタ公並みのレベルで笑えるw また、有部が唯名論にカテゴライズされる根拠は>>559の他に、前レスでの引用参照。
https://i.imgur.com/vW6gZMN.jpg スレタイについて改めて考えてみよう。
色即是空の見方については以下の三種類があると言われてる(立川武蔵 空の思想 より)
1.五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)。
2.五蘊は、自性(実体)が空であるが、五蘊の現象(言説)は存在する。
3.現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する。 ちなみに前スレの
>「色即是空空即是色」というのは間違っている。
>「色即是空空即是色」とは「有は無であり、無は有である」という意味である。
>だがそもそも無はないのだ。ないから無なのだ。無はあり得ないのだ。
>だから「有は無であり、無は有である」ということはできないのだ。
>それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつだ。
色=有の部分は的外れなので考慮しない。
>だがそもそも無はないのだ。ないから無なのだ。無はあり得ないのだ。
>それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつだ。
の部分も絡めて考えてみる。 スレ主は色即是空の構造を有・無で捉えて、絶対無の視座から否定していると思えますが、そもそも五蘊=有・空=無という図式自体が成り立つとは思えません。 五蘊は空であると云うんです。
五蘊が有であってそれが無であるとは云ってないんです。
その認識に至らないと以下の問題は検討出来ないでしょうね。
1.五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)。
2.五蘊は、自性(実体)が空であるが、五蘊の現象(言説)は存在する。
3.現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する。 >>576
般若心経は少なくても文言上はあれもなし、これもなしと書いてあるからねえ。
中論だってあれもこれも否定してるばかりで、肯定的な記述はあったっけ? 空は他人の意見は否定しまくるくせに、自分の意見は述べない印象だよね。
対論の場では説明しないくせに、「君は分かってないなあ」と言っちゃう印象。
あれ?この板によくいるタイプ? >>578
無という文字が経中に多数ありますが、それらは W空中(=空性において)W に掛かってるんですよねぇ。
すなわち、空性に於いて無(眼耳鼻舌身意、色声香味触法……)なのに、無の字だけ捉えて単純にW無いWって読んでしまってるんです。 百人いれば百通りの解釈がある、
五蘊、空、自体、自性、実体、現象、存在、本質、空性、実在
といった言葉をいくら捏ね繰り回しても、
屁しか出てこない。
どうして気づかないのかなあ。 >>578
>中論だってあれもこれも否定してるばかりで、肯定的な記述はあったっけ?
龍樹の立場からすれば、中論はその目的が謬見への論難なので、否定的なのは仕方ないと思います。 >>579
>空は他人の意見は否定しまくるくせに、自分の意見は述べない印象だよね。
そうですね。
言語による分節によって構築された虚構という視座にあってそれを否定する思想と思いますから、最終的には自分の意見(言語による分節)自体を否定(空空)しないと矛盾しますからね。 >>580
その空を明確に定義しないまま使っておいて、理解できない相手が悪いと批判するのはねえ。 インドじゃ大乗はすぐに廃れたんだろ?
むしろ、中国・日本に広まったのがおかしいんだよ。 >>585
空って、普通に W欠いてるW でいいのでは? >>587
そこが曖昧だろ。
すべてを欠いているなら無では。
何かが残っているなら有る。
どっちなの?という当然の疑問には回答せず。 >>586
その WすぐW というのが何を起点にされてるのかは存じませんが、13世紀までは存続していたそうですね。 >>588
例えば組織って言った時、それはどこにあるでしょうか?
社長ですか?役員ですか?社員ですか?
登記ですか?就業規則ですか?建物ですか?
それらの構成要素の総体を称して W組織W って名付けてるに過ぎないと思うんです。
組織という何かコアになるものそのものがある訳ではないのに、総体としては組織として作用はしています。
言い換えると、組織は有るとも無いとも…
これが空だの空性だのという事だと思うんです。 刹那生滅について、部派仏教がやれ有だ、やれ無だ、との長々し論争にケリをつける形で登場したのが、有でもなく無でもなく、空だという般若心経なのだね。
しかし、縁起・諸行無常を空と悟ったところで涅槃を悟ったことにはならないのだよ。 >>590(続き)
>組織という何かコアになるものそのものがある訳ではないのに、総体としては組織として作用はしています。
すなわち、
>組織という何かコアになるものそのものがある訳ではない
コアが欠いてる(空性)って事です。
>総体としては組織として作用はしています。
組織は空性って事です。 訂正
>>590(続き)
>組織という何かコアになるものそのものがある訳ではないのに、総体としては組織として作用はしています。
すなわち、
>組織という何かコアになるものそのものがある訳ではない
コアが欠いてる(空)って事です。
>総体としては組織として作用はしています。
組織は実体が無い(空性)って事です。 >>590
組織なんてないんだから執着するな、で終わりだろ。 >>593
組織に具体的に何か作用されたことあんの?
あるのは組織のロゴや組織のメンバーだと名乗る人だけだろ。 昔、ひろさちや氏なる人物が、無智亦無得を智恵もなければ得るものもない、と解説していた。所得を文字通り、常識的な意味の所得にして説明していた。
しかし、心経の得、所得とは悟りという意味なんだよね。仏教評論家でさえ間違えてる。 大乗仏教信奉者の評論家が間違えるのは当たり前か。今さらだが、皆さん、原始仏教でネット検索してご覧なさい。初期仏教、根本仏教、主流仏教、などの名で沢山の解説があります。大乗仏教は後世の仏教徒が創作した、偽物、フィクション仏教だよ。 >>597
得る所無き とは
我は無い(のに智慧もさとりも無い)って事では?
法華一乗の妄分別から無分別智への主客融合を説いてるのでは? 一乗だの二乗だの分別じたい無意味といいたかったのかな?
分別諸乗分ともいう位だし 説一切有部や経量部などの有無論争にケリをつけたのが空の般若心経なのだよ。これ以降、部派仏教は廃れてしまい、創作された、大乗仏教が花盛りとなるわけだね。 主客融合とは
あんまし言わないですね 主客未分ですね 智慧とか さとり(得)とかの果に
ガツガツしなさんな 見苦しいぞ みたいな
ましてや 自分がそれらを得たなんて、論外だ
って解釈は? >>570
なんだまだ己の認識の過ちに気がついてなかったの
頭が半分欠けてるなあ😥
説一切有部では二種類の時間が想定されてるって君自身何を言ってるのか分かってないまま書いてない?
随分と曖昧な書き方してるからさ
こちらも説一切有部では三世の区分を
類による(法救)
相による(妙女)
位による(世友)
異による(覚天)
の四説の中で世友の説が正義(正統派)になったとうことくらいの知識だがねw
そしてどの道 法体恒有なのは変わらない
引っ込みがつかなくなったから単語をパラパラと書いてそれ風に見せて自分の認識は深淵な論の理解にまで及んでいて正しいものなんだとアピールしているようにしか見えないね>鹿野園氏 >>572
その大雑把な分類で説一切有部が唯名論とか良く言えるなあ
ちなみに説一切有部を常見論者として批判していた経量部と中観派は西洋の学者から唯名論と言われていたというのは聞いたことがあるがね (リライト)
智慧とか さとり(得)とかの果に
ガツガツ執着しなさんな 見苦しいぞ
ましてや 自分がそれらを得たなんて自惚れるのは論外だ みたいな >>597
多分法に所有つまり実体がないので得ることがないという意味
そしてそれが般若波羅蜜であると大智度論に著されているよ
『若しは、法の所有無くして、得べからざる、是れ般若波羅蜜なり。』
また中論25章涅槃の最後は鳩摩羅什訳だと
諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、
(戯論する)人無く亦た処(=戯論の対象)無ければ、仏にも亦た所説も無し。
これはうん、涅槃のことね *空(くう):二つの意味がある。
1.無我(むが)
あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)
2.平等(びょうどう)
物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。
特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。
自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)
*無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。
何故かと言うと、その人は既に持っているからである。
人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。
※所得(しょとく)とは執著し分別するの義。
無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。
*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。
また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。
仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。
そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という 原始仏教=初期仏教=根本仏教、なんてのは仏教学者が頭の中でこしらえた仏教だ、とウェブページに出している大乗仏教の者もいる。
ここまで来ると笑うしかない。
知らせるべからずよらしむべし、の北朝鮮政策、と大乗仏教か。 >>605
追加
説一切有部は「諸行無常」という仏教の大前提を否定こそしなかったが、仏教思想史の中では実在論的要素を最も顕著に有した。
ヴァイシェーシカなどの「インド的実在論」学派は、この世界が不滅の構成要素から成立すると考えるが、説一切有部も幾つかの――例えば『俱舎論』では七五の――要素(dharma)によって世界が構成されていると考えた。
しががって、この学派では「否定されるべき俗なるもの」は専ら個体の煩悩等であった。
個体(我 atman)の活動は否定されるが、世界を構成する要素(法 dharma)は否定されない。
というこの学派の態度は伝統的には「我空法有」と表現されてきた。
http://www.totetu.org/assets/media/paper/t101_120.pdf
この説一切有部の法を基体ダルミンとみなすかどうかだろうな
俺にはみなすみなさない以前にみなせるかどうかの判別はできないがみなしても差支えはないとも思う 一切のものは平等であり、区別できないと本来悟っているが故、智も無くさとりも無い
という解釈だとすると、道元らの本覚思想っぽい雰囲気になりますね、 全ては平等であり、区別できないと本来悟っているのだから
この上、智慧やさとりを求めることに執着する必要も無し
とか >>601
インドでは大乗仏教はその後廃れて、部派仏教がほとんど。
オリジナルじゃないことはインド人にはすぐばれた。
もともとのオリジナルがなかったから、中国と日本では広まってしまったんだろう。
コンバトラーVを知らない国ではバッタモンバトラーが幅を利かせているみたいな。 >>608
その平等だと>>3、>>34に対してはどう回答する? あと空の意味についてですが
勿論、イコールと言いたい訳ではありませんが
六大の虚空と どこか響きあうケースが密教において見えるような気がする
のですが… >>604
www
また単なる情報の列挙ですか。
さよならw 華厳経や密教は毘盧舎那仏の実在性を六大の瑜伽として
説き、また究極的には「空の中には仏がいる」となるのは
空の解釈が華厳経の「一切」と重なるからだと
体感しています >>605
実在論と唯名論で二分された時、仏教は、有部は唯名論に先に提示された理由からカテゴライズされるんです。
貴殿は有部が実在論にカテゴライズされるとでも云いたいのかな?
であれば、有部が基体、並びに基体とその属性の別を説いてる根拠を提示して下さい。 >>604
>引っ込みがつかなくなったから単語をパラパラと書いてそれ風に見せて自分の認識は深淵な論の理解にまで及んでいて正しいものなんだとアピールしているようにしか見えないね>鹿野園氏
それ、モロにあなたでしょ。 >>613
> >>601
> インドでは大乗仏教はその後廃れて、部派仏教がほとんど。
一体何処の異次元の話?
イスラム教徒にナーランダー僧院を焼き討ちされる迄インド大乗は続いていたし 小乗は遥か以前に廃れて分別説部の亜流がスリランカから東南アジア一体に残っただけなんだが?
> オリジナルじゃないことはインド人にはすぐばれた。
> もともとのオリジナルがなかったから、中国と日本では広まってしまったんだろう。
インド人は最初からオリジナルかどうかには拘ってないよ
大乗の方が後から出てきたのは皆知ってる話 それでも衆生に寄り添う大乗が上座部よりも好まれたから結局融合するしかなかったんだよ
現にインド大乗の嫡流と目されるチベットにはサンスクリット語の根本経典も保存されていて 小乗を学んでから大乗 大乗を学び終えてから密教とカリキュラムが定まっているしな >>618
話が進まなくなるから その辺は一端置いときましょうか?
法界の設定が出てくる以前の仏教に止めないと話が混乱してしまいますから >>597
>無智亦無得を智恵もなければ得るものない
その文章も前文の W空中(空性において)W が掛かっています。
つまり、
W空性において智恵もなければ得るものないW
と解せると思います。 >>610
残念ながらそれは見当違いだと思いますよ。
有部は基体を説かなければ当然にその基体と属性の区分もありません。
しかし、存在論のそれとは並列するかの様に、仏教では自性と諸要素の問題が出てくるんです。
そして、有部では自性を認め、自性と諸要素の区別は明確に出ておりません。
で、それを否定したのが W五蘊皆空W に象徴されますが、般若経典群から展開した空の思想なんです。
つまり、五蘊という諸要素は空性、自性が無いと説くんです。 >>621
いやこっちの台詞だよ。
インドで大乗がメインになったとか、どこの妄想世界だよ。 >>625
ちょっとそれを裏付ける仏教史の年表出してみて
その話が本当なら出せるよな? >>626
中国からインドに来た僧がインドでは部派仏教がメインだと記述してのが残ってるんだよ。
誰だったかは覚えてなくて、今すぐは出せないが。
お前の妄想のソースは? >>627
たったそれだけでか?
資料不足だから周辺国や他の宗教の資料も併せて年表を作成して出してくれ >>627
序でに言うと部派仏教の中には上座部だけじゃなく大乗の部派も含まれてるから何の証明にもならんぞ?
インドのどの地域かも明確にしないと それだけじゃ何にも判らない >>628
何もソース出せないお前が何言ってんだ? >>627
それ、玄奘三蔵の事であれば、ナーランダー寺院においては大乗も小乗も共に学ばれていた、ってのがあったかと思いますけど、大乗が廃れたとかは初耳です。 >>631
玄奘の後だね。
玄奘のときは大乗もそれなりに盛んだったけど、それから数百年してインドに言ったら、マイナーになっていた。 あと、インドにおける大乗はヒンドゥー教に流れた。
大乗とヒンドゥー教はかなり似ているという話は聞いた事あるだろ?
大乗もインドの土着宗教を取り込んだけど、ヒンドゥーはもっとやったから、ヒンドゥーのほうが受け入れられた。 オリジナルじゃないことがインド人にばれたという分析は間違ってるかもね。
大乗はヒンドゥー教との競争に負けた。
仏教の独自性を維持していた部派仏教は残った。
そう理解したほうが適切かな。 外出中なんでソースがすぐに出ませんけど、よく仏教のヒンズー化と密教の隆盛が言われてますが、最近の研究成果によると実際にはそれほどでもなく、玄奘三蔵の時代に大小共存・共学だった様に、密教もそうであったと記憶しております。 >>635
排除したなんて誰も主張してないだろ。
僧も信徒も減ってマイナーになったというだけ。 >>630
お前が言い出したんだからお前が先に証明するんだよ
相手に出させて文句だけいうなんて通用せんよ 僧からしたらオリジナルでないことは分かる。
民衆はヒンドゥー教に流れた。
こうだな。 >>638
何も出さないのに>>628まで要求するのは違うなあ。 >>634
まぁ、仏教徒はどうしても仏教がインドで大隆盛でヒンズーが下火だったと考えてしまいますが、そもそも本当にそうだったのかという次元から見直す事は必要かもしれませんね。
日本人だって初詣しながらクリスマスを祝い、仏式で葬式しますからね。
コアな仏教徒というか、教義に通じてる人は存外少なかったかもしれません。 >>641
日本における仏教の役割も低下し続けているのが実情でしょう。
葬式仏教というのが実態だからねえ。
民衆を救えなければ、宗教としては繁栄できないのだろう。 >>640
君の弁証に証拠能力は無いんだから証拠を出した内に入らないと言っている >>645
>>644を示しただろ。
反論したいならソース出しな。 >>643
殆どの日本人は宗教が提示する死後の救いなんて求めてないよ >>644
PDFは読めないんで主張したいヶ所だけコピペよろ >>647
だから、日本における仏教の役割も低下し続けているんだろ。 >>648
「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」 >>650
チベット仏教→チベット亡命政府からの布教
アンベードガルの新仏教
スリランカ仏教
日蓮宗や創価学会等
何れも外国からの流入でインド国内に上座部仏教や大乗仏教の信仰が残っていたと証明出来るものは今のところ確認されていない >>651
だから、
義浄『南海寄帰内法伝』
現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho44-07.pdf&type=G&prt=623
ソースなしに反論すんな。
学者ですらそれ以外のソースを出してないんだから、お前の反論は無理筋。 >>650
その続きはこれだろ?笑
https://genshu.nichiren.or.jp/publications/post-576/id-623/
>「そこでインドの仏教事情に触れておけば、先のように大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の四部派があり、その四部派では大乗と小乗と区分が定まっていない。
>とくに北インドと東南アジアではもっぱら小乗である。一方これに対して中国では、その意は大乗教にある。
>そして、その他の諸国は大乗と小乗をまぜて修行しているのが、インドの仏教事情である。
>それを考察すると、大乗も小乗も共に律蔵の教えによって修養生活を検察しており、共に五篇の波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅を制定し、また大乗も小乗も同じように四諦(苦・集・滅・道)を修行している。
>そして、もし菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば大乗、その菩薩礼拝、読誦大乗経典をしなければ小乗と呼ぶだけのことである。
>さらにその大乗も二種類あるに過ぎない。一には中観、二には瑜伽である。
>しかし、二種類の大乗があると言っても、これはすべて聖教に遵っており、大乗と小乗と言っても何れが正しく、何れが間違いということはなく、みな同じように涅槃への約束、その意は煩惑を断じて衆生を救済することにある。 >>653
玄奘の頃は、大乗仏教だけを学ぶ寺もあったんだよ。
中論で部派仏教を批判しまくったのに、結局は部派仏教のお情けで一応は保管してもらえたというのがインドにおける大乗の実態。 >>653
ちなみに、義浄『南海寄帰内法伝』の続きはそんなんじゃねえぞ。 >>655
どちらも滅ばずに融合した つまり小乗は大乗に包摂されたと見るのが正しいな
どちらにせよお前が言うような大乗が直ぐに見破られて廃れたという事実が無い事がお前の出したソースからも窺える
大乗が廃れて小乗だけが残ったのはスリランカ仏教に於ける地域限定の話だし スリランカでは小乗さえもキリスト教に滅ぼされて後から再輸入されてる >>657
「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」と記録されているのに、
小乗は大乗に包摂されたと見るのが正しい、って。
自分で言ってておかしいと流石に自覚してるだろ? 心経を何万遍読誦しようが、悟りには繋がらないな。心経の役割は、刹那生住異滅についての部派仏教論争に終止符を打ったことだな。
心経以降は刹那生滅論争は廃れてしまった。
そのばかばかしさに気づいたわけだな。
悟りにはク〇の役にもたたなかったわけだ。 カテゴリー論の問題ですかねぇ。
当時のインドでは中国の様に大乗・小乗というカテゴライズが、中国的な判釈の視座からはされてなかったって事では? >>662
「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」と記録されているのがすべて。
部派仏教が残り、大乗は廃れた。 お釈迦様の時代は、煩悩が問題であった。。
大乗とか禅では、自我を問題にしているように思う。。
で、自我を問題にするときに、(自己を含めた)認識対象を空(無我)として否定、解体するという方便は有効だろう。。
言い換えれば、お釈迦様の時代には、煩悩にも迷っているものが多く、時代が下ってくると、
自我によって迷うものが多くなった、ということではないだろうか? 無我とか、本来成仏、本来は何の問題もないですよ、というのは、人間の見方ではない。。
すべてを因果、因縁和合として見る、法として見るということ。。
だけど、その理解が無ければ、大乗仏教はわからない、それができない人には、
大乗仏教は役に立たないのではないだろうか? 世俗的な自己、というか、通常の認識で認識される自己は、実際、いろんな問題を抱えていたりする。。w
しかし、それとはあまり関係ないのが、無我とか法。。w
まあ、どっちも大事なのかもしれないが。。w >>664
大乗の目的を考えるならば、民衆の救済が一番では。
本来的に自己救済であった仏教に、他者救済を追加したということは重要だと思う。 >>667
だけど、その民衆とか衆生と言うのも、最終的には、あなたの認識対象に過ぎないですよ、となるのだと思うよ。。
勝義においてはね。。
だから、無為というか、無為に近い感じになるのだと思う。。 別の言い方で言うと、大乗仏教で、空とか無我と言う理論が成立した(洗練化された)ために、
世俗を否定する必要がなくなった、世俗の中に入って行けるようになった、ということじゃないだろうか? >>669
そこが疑問ではある。
しかし、大乗において他者救済という考え方が強調されるようになったということは否定できないでしょう。
目的ベースで考察するとして、それより大きな違いが思いつかないんだが。 >>670
認識対象は空である+民衆も認識対象に過ぎない
=民衆など気にするな
となるのが自然だと思うが。 だから こまのくに(高句麗)は 朝鮮では無いのね。
それだけ死守しとけばいいの。
まぁ 隣国の子供の教科書さえ改ざんしてくる人々だから。
オラの話の内容解る ろんさん ? >>671
だから、因果とか因縁と言う理からすると、みんな平等なわけだよね。。
空と言うのは、そういうことになる。。w
自分も他人も同じもの、ということなんじゃないのかな?w >>672
だから、もともと々救われている、と言うのがベースだと思うよ。。
私が救ってあげましょう、とかではないはず。。w >>674
釈迦は家族を捨てて出家しているし、それは執着を断つ善と評価されている。
民衆など気にするな、というのが認識対象は空であることからの帰結のはず。
その論理をどうやって捻じ曲げたのか? >>675
私が救ってあげましょう、とかではないなら
各自が自己救済すればいいだけ。 >>676
空であっても、認識対象がないわけでなく、認識対象は現れる、それが空なんだけど、
同時に、物も人もある、いる。。w
大きな見方をすれば、人・もの含めた、全体が自己、みたいな意識・認識もあるわけだ。。
そういう意識、と言うか気づきと言うか、から来ているのかもね。。 >>678
空はなんでも否定するだろ。そんな解釈は空にあらず!
空と他者救済の関係は謎。
空と他者救済は別の思想として入ってきた気もする。 無色定の最初の三昧行において空無辺処を観察する実践は初期仏教からあった。
表話編歴天とも呼ばれたが、物質的存在がまったく無い虚空の無限性の観想と
一番最初に「仮」観を超えた「空」観という発想が生じたことの間に関連性は? 大衆部が独立した動機の一つに
見解の齟齬があったのは間違いないが、その内の一つが在家など衆生救済に関わる点で
「在家の衆生も如来蔵思想によってブッダになれるんだ」という姿勢があったと思われます。 で 色即是空は 解ったの ?
それで 何か変わった ? >>619-620
>>624
君は説一切有部の教義については単語をパラパラ書くだけで匂わす程度で誤魔化してるようにみえるけど
実在論と唯名論については説一切有部の教義よりは知識・認識に自信があるからか雄弁に語るね
でもいくら君一人が説一切有部は唯名論と言ってその根拠を述べても
まったく同じ分類法で実在論と唯名論(この言葉自体はインド哲学の歴史からではなく西洋哲学の歴史の中から生まれそれをインド哲学に当てはめたようだが)とを分類している立川武蔵が説一切有部は仏教思想史の中では最も実在論的要素を顕著にしたと書いてるしな
立川論だと説一切有部は唯名論と簡単にカテゴライズは出来ないようだし立川も有部を唯名論とは言ってない
大乗仏教徒は唯名論者とは書いてはいるが
また>>499のリンク先によると様々な書籍を紹介している中で中村元「龍樹」のまとめとして
・「中論」はけっして従前の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのではなくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。
概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を排斥した。
西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(リアリズム)的な思惟を排斥しているのである。
西洋の学者は経部と中観派とを唯名論者と呼んでいる。
両者が共に概念を超越的実在とみなす傾向に反対しているからである。
・東西における対応は図式化すると、
実念論 − プラトーン − 説一切有部
実念論に対する反対者−プラトーンに対する反対論− ナーガールジュナ学派
(プラトンと龍樹さんは真逆の思想。よって大乗仏教はキリスト教にとっての最大の敵の一つ)
ちなみに
『中論』の主要論敵は説一切有部(せついっさいうぶ、梵: Sarv?stiv?din, 巴: Sabbatthiv?da, Sabbatthav?da)。
有部の主張は「一切が有る」。
三世実有(さんぜじつう)、法体恒有(ほったいごうう)。
一切の実有なる法体(法そのもの)が三世において恒有(恒=つねに有る)である。
も書いてある。 また佐久間留理子氏の論文
http://library.tourism.ac.jp/07_No20noteSakuma.pdf#search=%27%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96+%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8%27
4頁目にはっきりと
図3で示される考え方は、仏教における説一切有部のアビダルマ哲学等にみられる。
この派では性質に相当するものとして、存在の構成要素である「ダルマ」(注12)が考えられ、それらは実在するが、その基体は実在しないと考える。
この立場は、インド的実在論に属すると理解されている(注13)。←←←
ちなみに説一切有部アビダルマ哲学のインド的実在論とは真逆の考え方として、ヴェーダンータ学派の性質(説一切有部だと「ダルマ」)は幻(マーヤ)として実在しないが基体はブラフマンとして実在することも前のページに書いてある
また有部実在論の記述の後には
龍樹は、あらゆるものの実在性を完全に否定する。この立場はインド 的唯名論に属すると考えられている。
とある。
ということで君がいくら「説一切有部は唯名論なんだってば」と口を酸っぱくして言ってもそう言ってる学者や僧侶はほぼ皆無(少なくとも自分は知らない)のだよ
また君が「説一切有部は唯名論」だと思っていてもそれは己一人の見解だと心に念じてそれが普遍的な学説だとはしないことだね >>620
さて
説一切有部の三世実有法体恒有と刹那生滅についてこれ以上話を続ける?
こちらはどちらでも構わん
君に任せるよ 実際、心経は、読む人の心の成長の度合い、理解の深浅に応じて
幾らでも多様な解釈を許すとこがあって、色即是空≒一即一切という見解に傾きつつはあるけれど
例えば、五大の「空」から物質世界は生じたという解釈も有得るし
実際、ミクロのエネルギーの塊からビッグバンが起きて時空が生じ、虚空から(風火水地といった
運動エネルギー、熱エネルギー、物質粒子や分子構造、時空の歪みとしての重力及び)宇宙の秩序が生じたとか
さらに時空のもっていたエネルギーがヒッグス機構によって粒子に質量を与えたという科学的根拠も見出されており、
虚空から物質世界つまり「色」が生じたとも言え、その意味で現代人の科学的認識を前提に置いた場合でさえ
色も本来は虚空と一体のものである という解釈だって有得るとは思うね >>681
それは間違いないと思う。
ただ、それと空との関係はどう解釈する? 空の思想から言って、人は厳密に因果の鎖の中で運命決定論的に固定された存在ではなく
空があればこそ執着も捨てて縁起さえ変えていけるという根拠の一つではあったかなと。
つまり、大乗以前の教義はガチガチの因縁論に縛られ、皆、閉口していたと。
>大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。
ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を根拠に、如来蔵が説かれるようになった。 >>559
インド哲学を唯名論と実名論に当てはめてるのって宮元啓一先生の影響?
あんまり生産的な議論とは思えんなあ >>689
廃れるには「はやらなくなる。流行に遅れる。」という意味があるぞ。辞書引け。
ソースとして義浄『南海寄帰内法伝』以外が出てるのを見たことない。
そして、「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」とある。それがすべて。
反論したきゃソースだしな。 >>684
ありがとうございます。
後ほど読んでレスします。 >>685
見解は先に示した通り。
君のご自由に。 >>684
確かに、例のチャートはあやしいな。
https://i.imgur.com/vW6gZMN.jpg
基体と属性に区別があれば実在論
基体と属性に区別がなければ唯名論
とあるけど、実在論と唯名論が出て、普遍と実在がごちゃごちゃになってる上に、
さらに独特な基準まで持ち出してきてて意味不明。 >>688
> 大乗以前の教義はガチガチの因縁論に縛られ
そうかあ?
決定論を説いていた印象はまったくないんだが。 >>691
年表の通りですよ。
義浄が渡印した頃には、大日経や金剛頂経の成立が推定されてますし、中観派と唯識派の融合・展開が見られますし、更には900年代には大乗系統諸派が盛んであった旨が記載されてますが? >>696
大乗が栄えていたというソースは?
歴史的文献の根拠がないのは想像でしかない。 >>696
そもそも、大乗の日本・中国は大乗に偏るのは当然。
どこの本から引っ張ってきたのか知らないけど、大乗の記述を盛ってるだろう。 >>697
義浄の渡印時期の大乗仏教の状況を検証するのであれば、仏典の他に近隣諸国の歴史書や考古学等の成果を考慮しなければならないだろうけど、密教教典成立やその後の流行、中観派と唯識派の融合・展開、諸論書が作成されていたのだし、衰えていたとは到底考えられませんけどね。
今日はちょっとバタバタしてるので、明日以降にでも検証します。 >>699
そもそも何の本から引っ張ってきたの?
ヒンドゥー教のほうが優勢になった時期を含む年表なのに、
ヒンドゥー教についての記載は見当たらない。
明らかに中立な年表ではなくて、大乗に関係することを重点的に書いてるでしょ。
こんな年表じゃソースにならない。 あともう一つ言えるのは
古代インド思想では、世界をマーヤーと捉える世界観があり、
唯識思想や空の思想が、非常に大衆に受け入れられやすい側面があったとも
言えるかも >>701
なるほど。
大乗がどこから生じたのか不明らしいけど、仏教の主流ではないことはおそらく間違いないでしょう。
普通の僧侶だったら、経典を創作するという発想がそもそも浮かばない気がする。 >>659
ならその四部派全部言ってみ 笑
小乗最大部派だった説一切有部が龍樹との論争に破れて消えたのは有名な話だが?( ̄∀ ̄) この世は神々の戯れ=リーラです、と言うのもインド思想らしい。。w >>679
最初期の金剛般若経において、世尊の説法として須菩提長老に
「自我」「個体」「生きているもの」などという想いは(※空であるが故に)本来はない。
また相(特徴)などというものも本来はない。
菩薩はそれをわきまえて、自他の差別をすることなく慈悲によって一切衆生を「悩みのない永遠の平安」という境地に導かなければならない。
(※この経典の時代には未だ空という言葉は使われてなかった)
というようなことが説かれています。
大乗仏教は、救うものも空、救われるものも空、無分別で平等であるが故に自他不二であり、だからとらわれることなく慈悲の心を起こせる、という菩薩の道が説かれます。
空なればこそ利他行ができるということです。 >>661
いや、大乗でも唯識になって大乗アビダルマが起こって法を説一切有部の五位七五法よりも更に細分化して五位百法にし、また刹那滅も世親曰く「一切のものは、他因に頼らず、自発的に消滅する」として刹那滅論を導入しました。
経量部からの流れのようです。
せっかく龍樹によって
「中論」第一八章 アートマンの考察
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
として無分別智による解脱を説いたのに、唯識で分別が復活したのは個人的には残念ですね。
いくら唯識の分別が部派のように勝義ではなく仮であり唯識三性で空を説いているとは言っても、龍樹から見れば戯論の復活になるのではないかな、と。
私は唯識にあまり興味がないこともあって唯識の分別や刹那滅の導入は残念に思う気持ちが出てしまいますね、興味がないだけにまあ良いかと思う気持ちの方があるいはもっと強いかもしれませんがww 俱舎論は、今でも通用する研究もあるが、釈迦の教えをデタラメに変えてしまって、釈迦仏教を廃れさせた原因も作った。その一つは、釈迦が教えた四段階の悟りを八段階の悟りにしてしまったことだ。これはまだ罪が軽いが、悟りの定義を変えた罪は重い。 釈迦は最初の悟りの段階を得た者を預流と呼び、それを三結煩悩を断じた者と教えたが、
俱舎論は預流を八十八煩悩を断じた者とした。
馬鹿げた話だろう。八十八煩悩なんて、種類を覚えるだけでも不可能に近い。俱舎論は、屁理屈をこねて、釈迦仏教を廃れさせた原因だな。 ニカーヤなどでも あまりにもわざとらしくややこしすぎる叙述法のもありますね
ただ大乗にしろ、前のものにせよ
創作経典ではあっても
編纂者が真理だと確信した教説の精髄を要約する形で纏めたのなら真理の集成書と見て誤りでもない
それから個別向けの対機説法として行われたブッダの仏説を
智慧ある人が 本質を損なわぬよう発展させて
万人向けに(少なくとも参考になるように)本旨から外れぬよう普遍化させた説であるのなら
般若経典や十地品のように 方便になる経と呼べるのではないかなと。
また般若経典のコアの部分や詳細な箇所に相当する説法が現在残っている原始経典内に見当たらないからといって
本当に元が無かったのか、分別説部が勝手に分別して削ぎ落した、とかいう可能性は無いのだろうか?
また分別説部は何を分別したので分別説部と呼ばれるようになった(または自称した)のですかね? 五蘊皆空であることは釈迦仏教でも説いている。十二処十八界が空であることも釈迦仏教が説いている。しかし、四諦も12縁起も空と説いたのは般若心経だ。釈迦仏教ではそこまで説いてはいない。
これをどう解釈するべきか?だな。 それは既に菩薩の悟りの段階に至った求道者が
役割を既に果たした筏は捨てねば・・・という
見道以上の段階向けでは? ボーディーサッターエー以降が(良い感じで)誇らしげに
菩薩のさとりを説く
そのすぐ前というとこがポイントだと思います。
おそらく説法者は修道以上の菩薩で
聞く側は見諦道の阿羅漢 見諦道の阿羅漢とは、大乗仏教が釈迦仏教を貶すためにこしらえた存在です。釈迦仏教で阿羅漢とは仏陀のことです。四段階目の最高の悟りを得た者が阿羅漢なのです。が、大乗仏教は阿羅漢を低い悟りの者としたのです。釈迦仏教を低い教えの小乗と呼んだわけです。 それから釈尊の母親の名が摩耶夫人というのは歴史学的に裏付けのある事実でしょうか?
もしかしてマーヤーから来てるということはないですか?
また胎蔵という思想の起源も突き詰めると仏教というよりバラモン教の範疇ですか? 俱舎論では見道、修道を論じて修行の進度を表し、それが大乗仏教に採用されたりした。
俱舎論では釈迦の教えをデタラメに変えてしまったものもあるから、注意せねばいけない。 般若心経以降、悟りの意味が変わってしまったのだよね。悟りを得たい人は、そのことを調べて理解しないといけない。
釈迦が教えた悟り=涅槃は、般若心経が説く空などという抽象的なものではない。 立川武蔵は、空の思想史、とかの本を書いているが、空が理解できた、のか。
学者で悟れば良い、が問題がある、か。 見諦道の阿羅漢とは、四諦を見道、修道で観じるなどの俱舎論をうまく利用して、釈迦仏教を貶すためこしらえたデタラメ仏教なのです。
釈迦仏教を勉強すれば、それがよく解ります。だいたい、釈迦仏教以外に、本当の仏教なんて、あるのだろうか? >>720
涅槃を言葉で表現できる限りで説明してくれんかのう? 721.涅槃は悟り、ではない。それは心理学である。
心理学者の説明が良い。 >>703
ソース読めよ。
ちゃんと書いて有るから。 >>704
釈迦もバラモンの修行をしていたし、
輪廻転生も元はバラモンの思想。
釈迦自身は自分をバラモン教徒だと考えていたのかも…。 727.AIならば誰でも見れる。簡単である。バカでもできる。 >>706
実はそういうことじゃないかという気がしていた。
やっぱりそうか!
すべてを否定した先にも、世界はある。
空はそういう思想だな。 731.どの部分に疑問がある、か。
そこを提起せよ。学者の論争が成立しない、よ。
大爆笑である。 >>732
涅槃寂静がどういうものか説明せいと言うておるんじゃ >>707
いや、無分別ならば救うべき他者などいない。
実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
分別を否定するのは空にあらず。 733.涅槃寂静のどこに疑問がある、か。
そこから学者の説明が始まる。
門、にはいれない夏目漱石である、か。
大爆笑である。 >>710
初期の経典は釈迦の言動を記録したもの。
それに反する創作も紛れ込んでしまったのだろうが、そういう意識に基づいてチェックしながらまとめたはず。
そして、できた聖典を理解し、それに沿って生きるのが信者の常識。
自分がこう理解したからといって、経典を創作するのは聖職者のやることとは思えない。
キリスト教、イスラム教で、経典を創作したなどないはず。
仏教だって、経典の創作は千年以上なされていないのでは。
経典を創作するのは、新興宗教だ。 736.和尚になれない偽である、か。
学者になれない偽である、か。
大爆笑である。 >>711
無分別の境地が至高ではない。
無分別の境地に至っても、他者はいる。
それ以外の解釈はないと思う。 番号間違えた。
>>715
無分別の境地が至高ではない。
無分別の境地に至っても、他者はいる。
それ以外の解釈はないと思う。 しかしスッタニパータの4・5・1等が最古層とするとテーラワーダとか今のスリランカ分別説部の信奉者から
見ると大変都合悪いらしいんですね。ニカーヤは凄い飛躍があると! >>711
四諦も12縁起も自己の知による解脱でである。
とするなら、自己救済の否定と解釈することができるのでは。 仏説に反する創作も紛れ込んでしまったのだろうが、そういう意識に基づいてチェックしながらまとめたはず
という思い込みの根拠 および
分別説部は部は何を分別してしまったのかが不明確ですね >>743
「方便力で、衆生の苦を観る」とか論理破綻してる。
無であるというのが真理だとしたら、
方便力によると夕に思えるといのは邪見である。
無分別ならば救うべき他者などいない。
実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
分別を否定するのは空にあらず。 >>744
釈迦の言動を記録しようと意識してまとめた、ということへの反対意見あるか? 補足
初期の経典は釈迦の言動を記録しようと意識してまとめた。 >>724
お前馬鹿だろ?笑
大衆部って大乗だぞ?
>現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。一つには大衆部で七分派に分派している。二つには上座部で三部派に分派している。三つには根本説一切有部で四部派に分派している。
四には正量部で四部派に分派している。経・律・論の三蔵は各々十万頌があり合計すれば三十万頌で、唐語に訳せば一千巻に成るという。 >>726
ブッダはリグ・ヴェーダを容認しつつ アタルヴァ・ヴェーダを否定していた
バラモン教の大元迄回帰したのかもね たとえば中部の伝車経 など
ただの言葉遊びにしか見えません
それに良くあのように長ったらしい言いかえを
くどくどと百年以上も口伝承しましたね >>749
大衆部って大乗という断定はない無知晒してるなあ。
ちゃんと調べてご覧。 はっきり言っちゃうと東南アジアとかの原始人が他国から来た
外来新興宗教を口で伝承しただけでしょ?
それにもともと分別説部がインチキなのしか持ってなかったらインチキ
しかないって事じゃないの? ザックリみると、玄奘や義浄の訪れた頃はグプタ朝で、政策としてヒンズー教を重視していたようで、その後のパーラ朝では仏教は繁盛していたようですね。
ソースは、ウィキでその王朝名で検索されて下さい。 >>754
ソースは自分で提示するもんだ。
俺だって、他の人だって自分のソースは自分で提示している。 >>752
一般には義浄の時代には既に大乗だったと考えられてる部派だよ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
音写は摩訶僧祇部。部派仏教の一つ。釈尊が亡くなってから 100年たったとき,大天が出て,五事を提議したが,これに賛同した比丘たちが,従来の保守的な修行僧たちから分れて結成した部派のこと。
保守的な修行僧たちの部派を上座部と呼ぶ。生死,涅槃は結局仮名で衆生の心性はもともと清浄であるが,煩悩にけがされているという説を説き,大乗仏教の萌芽をこのなかにみることができる。
また現在実有過未無体を説き,有部の3世実有法体恒有に対立している。 >>753
スリランカ大寺派はブッダゴーサによる教義改竄で当時のインド上座部からも除外されてるんだよね >>756
そのソースのどこから
大衆部って大乗だぞ?
と、言っちゃうんだ?
お前馬鹿だろ?笑 >>756
一般には義浄の時代には既に大乗だったと考えられてる部派だよ
というのも妄想だろ。そんなの初めて聞いたわ。 >>755
仕事中なんでw
帰宅したら他王朝との絡みも含めてまとめましょうかね。 スリランカ方面に別れて残ってる分は全て幻影
という意味での空なのだと
経という色も空なり
幻想に憑かれた者がいたからこそ実体無き色が生じた と。 >>758
めんどくさい奴だな?笑
大衆部起源説ぐらい知ってるだろうに
https://www.kosaiji.org/Buddhism/maha.htm
大衆部起源説
一方で、旧来より大乗仏教は大衆部から興ったという説があります。大衆部の教義で大乗仏教に影響を与えた考え方に次のようなものがあるそうです。
・客塵煩悩(心性本浄)
客塵煩悩(agantuka-klesa)は、煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説。塵をのぞけば本来の清らかな心が現れるという説は、後の如来蔵思想で強調されれる。
・願生説
菩薩が衆生を救うためにあえて願って苦しい生存に生まれるという説です。
文殊師利菩薩や弥勒菩薩などは、本当であればこの娑婆世界に仏以外の姿で生まれる必要のない菩薩かもしれません。しかし、私たち衆生を哀れむためにあえて菩薩として苦しみに満ちた私たちの娑婆世界に出現されたということを講義で伺ったことがあります。これが、願生説です。
・仏陀論
大衆部には仏陀の実は常住という説があり、その思想は大乗の阿弥陀仏(無量寿仏)や『法華経』の久遠実成の釈迦牟尼仏などに展開していったと考えることができます。 >>759
ほれ お前に都合の悪いソースだ 笑
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E9%83%A8
大衆部系は主として中インドから南インドに広まり、概して勢力は小さかった。大衆部は説一切有部から分裂した経量部(きょうりょうぶ)と共に「現在有体・過未無体」を主張し、説一切有部の「三世実有・法体恒有」説と対立した。
なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。 >>762
そのページにも、仏塔信仰起源説が載ってるだろ。
大衆部って大乗だぞ?
なんて断定しちゃうのは無知晒してるぞ。
お前馬鹿だろ?笑 >>763
それにも、説が分かれていると書かれているだろ。
大衆部って大乗だぞ?
なんて断定しちゃうのは無知晒してるぞ。
お前馬鹿だろ?笑
自分の主張を否定するソースを上げてることに気付いていないスタイルワロタ。 んで、
一般には義浄の時代には既に大乗だったと考えられてる部派だよ
のソースは?
バカ過ぎて理解できてないみたいだが、
大乗の起源が大衆部である≠大衆部は大乗
だぞ。 >>764
>>765
>なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。
プラークリットで記述という所を読んでもピンと来ないのか?笑 >>767
てめえの妄想はてめえで説明しような。
そのソースには、説が分かれていると書かれているというのが事実。 >>710
>また分別説部は何を分別したので分別説部と呼ばれるようになった(または自称した)のですかね?
日本語で「分別する」と言うとあまり好ましくないですが、初期仏教・テーラワーダ仏教では、自分たちのことを分別論者vibhajjavādinと言います。
大乗は自分のことを大乗仏教と言いますが、そのように我々も自分たちのことをテーラワーダ・上座部と言うよりも、もし威張って言うならば、分別論者だと言うのです。
我々は、存在という幻が消えるところまできめ細かく分析するのです。
物事をそのまま、全体的に、大乗が言うように「すべては」とか「一切は」などとまとめて説明することはしません。
そんな大雑把でいい加減な説明は、始めからどうせ間違っていますから。
真実を知るためには、分析するしか方法がありません。
総体的に大雑把にまとめてみても、いい加減なだけで、何も分かりません。
テーラワーダ仏教の特色は、本当に、とことん分析してみるということです。
その特色だけは守りましょうということで、「VibhajjavādīBhagavā.世尊は分析論者だ」と言います。
分析しないでまとめて、「すべては梵我一如*」などと言えば、それは邪見・邪教です、と簡単に捨ててしまいます。
森羅万象の中で同じ一つのものはないかと探すのも、またちょっとした心の間違いです。
もし真剣に調べて、分析して、同じ・不変の一つのものを探そうとしたら、見つかるのは「無常」ばかりです。
あるいは今説明した、積集、相続、老性、無常性の四つの共通項目しか、最終的には見つかりません。
物質をどんなに探しても梵・ブラフマンも我・アートマンも、神も見つかりません。
アルボムッレ スマナサーラ 他2名
ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―物質の分析) (アビダンマ講義シリーズ (第1巻 物質の分析)) 仏教で言う第一段階の悟り・預流果では、こういうありとあらゆる哲学・概念に対する未練が消えてしまいます。
どんな哲学を聞いても、「ああそうですか、がんばってください」と言うくらいで、自分はそこに入り込まない。
何の興味も執着もなくなります。何の意味もないと分かるのです。
「すべては空である」という大乗仏教の哲学は、ある立場から見れば正しいです。
それは初期仏教・テーラワーダ仏教でも認めます。
それに対して、初期仏教やテーラワーダ仏教が厳密に分類している物質や心の区別論・分別論が間違っていると主張するのは、大乗仏教だけです。
確かにすべてが空という立場から見れば、区別・分別は間違いです。
でも初期仏教の立場では、間違いではないのです。
物質や心の現象を徹底的に分析したときは、「すべてが空」という立場から説いたわけではないからです。
当然、その内容も間違っているわけではありません。「すべては空だ」という一つの立場に執着して、すべてをその立場からだけ見ようとすると、空論以外はすべて間違いだということになる、ただそれだけのことです。
アルボムッレ スマナサーラ 他2名
ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―物質の分析) (アビダンマ講義シリーズ (第1巻 物質の分析)) >>770
こっちは疑問が残る。
ところで、サンガ文庫でもブッダの実践心理学を出していたみたいだけど3巻までしか見当たらない。
途中で中止したのか? >>745
>無分別ならば救うべき他者などいない。
>実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
>他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
釈迦が家族を捨てて出家してるのは覚りを得る6〜7年以上前の話。
覚ってからは入滅の直前まで衆生に対して苦滅の為のの説法をしていました。
最後の方の説法の相手は教団内の比丘ではなく遊行で行く村や町の在家や異教徒です。 >>770
預流果になってからは十六観智とか七清浄とかのテーラワーダのアビダンマ哲学への興味も未練もすっかりなくなるのですかね?
その「アビダンマ講義シリーズ」というのは預流果以上にとっては不必要の書、無くても別に良い本ということになりますね。 >>773
覚りを得る6〜7年以上前の話だから何?
釈迦は家族を捨てて出家たことは変わらない。 >>774
お前のお得意の「方便力で、衆生の苦を観る、観るがゆえに、そのまま放置しない」を否定してて笑う。 >>684
お待たせいたしました。
外出先のモバイルからの返答でしたので、貴殿にご満足頂ける資料の提出等に不足があったことを先ずお詫び申し上げます。
また、数々の反証資料等を提示頂いた事、いろいろと小生の勉強不足等もあり勉強になりました事を感謝申し上げます。
さて、有部の分類問題についてですが、如何せん、貴殿の反証資料では到底納得に至りませんでした。
従いまして、有部が唯名論にカテゴライズされるという見解に変りはございません。
さて、有部が実在論的要素を含んでるというご指摘は仰る通りだと思います。
しかしながら、立川先生も
>アビダルマ仏教は、仏教諸派、とりわけ中観派と比較するならば、実在論的な要素を含んでいる。
>しかし、アビダルマ仏教はインド型実在論に属すのではなく結論的に云うならば、やはり唯名論に属するのである。
>(『倶舎論』におけるダルマについて(1) 禅研究所紀要 通号 34)
と論じられておりますし、小生もそれを支持する者です。
根拠につきましては当該論文の内容に譲ることとして割愛させて戴きます。
なお、
>ということで君がいくら「説一切有部は唯名論なんだってば」と口を酸っぱくして言ってもそう言ってる学者や僧侶はほぼ皆無(少なくとも自分は知らない)のだよ
>また君が「説一切有部は唯名論」だと思っていてもそれは己一人の見解だと心に念じてそれが普遍的な学説だとはしないことだね
という貴殿の緩解につきましては、冗文と思慮致しましたので特段の反証はございません。
以上 >>777(訂正)
なお、
>ということで君がいくら「説一切有部は唯名論なんだってば」と口を酸っぱくして言ってもそう言ってる学者や僧侶はほぼ皆無(少なくとも自分は知らない)のだよ
>また君が「説一切有部は唯名論」だと思っていてもそれは己一人の見解だと心に念じてそれが普遍的な学説だとはしないことだね
という貴殿の緩解につきましては、冗文と思慮致しましたので特段の反証はございません。
以上
×緩解
○見解 >>775
逆に家族を捨てて出家したという事実によってあなたは何が言いたいのですか?
>>776
誰が何を否定しているのかもう一度レスを読んでから再度レスをください。
何を言ってるのか分からないので。 >>779
釈迦が家族を捨てて出家してるのは覚りを得る6〜7年以上前の話。
と言ったのはお前だろ。
意味不明な絡み方してくんなよ。迷惑だし面倒。 >>777
相手は根拠を示しながら主張してるんだから
根拠は省略せずに書いたらどうかな?
読めば分かると言ったって、ネットにはないんでしょ?
置いてある図書館だって限られるし、取り寄せたとしても時間がかかる。
ここは、数日あけて議論を再開するというような場所ではない。
ポイントを示したほうが望ましいでしょうね。 義浄の訪印(AD672〜677)
グプタ朝(AD320〜550年頃)
グプタ朝はヒンドゥー教を国家の柱として位置づけ、(中略)一方で、ナーランダ僧院がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。
しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。
パーラ朝(AD750〜1162 or1174)
パーラ朝の歴代の王は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、のちのビハールの語源となるほどであった[17]。
8世紀の後半に、インド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどを、チベットへ仏教使節を派遣した。
パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。
また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名となり、その美術は「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られている。
とはいえ、民衆は仏教のみならず、ヒンドゥー教を信仰する者もいた。
ラーシュトラクータ朝(AD753〜973)
インドのデカン地方を支配したヒンドゥー王朝
プラティーハーラ朝(750〜118 or 1036)
北西インドを支配したラージプートのヒンドゥー王朝 >>781
ご指摘ありがとうございます。
敢えてそのようにさせてください。
ちなみにネットで検索すればPDFは出てきます。
根拠についてですが、その15ページに亘る論文そのものがその根拠のようなものなので… >>768
元々大乗の起源は大衆部に有ったとされてたのが別の学説で否定されていた
所が近年になって新証拠が出てきた訳だ
>なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。
それがサンスクリット語ではなく プラークリット語で書かれたものとなると大乗仏教登場以前のものという可能性が出てきた訳だよ
上座部は原則口伝だから写本は考え難い となると大衆部による可能性が高いし それが現在大乗にしか存在しない経典となると大衆部が大乗教団へと移行したと考えるのが妥当
大体大乗が滅んで四部派が残ったとすれば仏教をインドから直輸入していたチベット仏教が大乗主流な訳が無い
つまりお前の主張は破綻してるんだよ >>783
だったらそのリンク貼っておきなよ。
検索しても見つけられなかったけど。 >>784
「可能性が出てきた」のはお前が持ってきたソースに書いてあるだろ。
だから、説が分かれている。
説が分かれていると書かれているのに、お前の妄想を断定的に押し付けるなよ。
ソース「説が分かれている」
お前「こっち説は都合がいい。だから俺が絶対正しい!」
明らかにお前とソースの記述は違うよ。 >>785
そうですね、すぐには見つかりません。
悪いけど、そういう状況下で見つける作業も含めて相手の実力を見たいので。
悪しからず。 >>782
「インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。 」
「とはいえ、民衆は仏教のみならず、ヒンドゥー教を信仰する者もいた。」
と書いてあるな。ヒンドゥーに押されてしまったのは予想通り。
「パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため」ともあって、
このスレでいう大乗ではないだろ。
大乗は廃れたで合ってたな。 >>787
は?
すごい頭の悪い発言してる自覚ある?
ソースは明確に提示するものだぞ。
どこにあるか分からないソース持ってきて
「悪いけど、そういう状況下で見つける作業も含めて相手の実力を見たいので。」
とか言ってるのは、そんな発言する側の実力が低いと判定されるよ。 >>786
また相手が言ってもいない事を付け足してさも言ったかの様にする癖が出てるな?笑
何にせよ大乗の大衆部起源説は以前から言われてた事だし 説一切有部も龍樹の中観派とは論争してるが大衆部と論争した様な史料は無い訳だから 早くから大衆部の大乗化が進んでいたのだろうよ
でなければ元々上座部と大衆部の対立が有ったのに大乗の時代に大衆部の名前が上座部から出て来ないのはおかしいだろ? >>790
「大衆部って大乗だぞ?」と言ったのはお前だろ。
頭悪過ぎるお前の相手をするのはスレが汚れるだけだから終わりにするわ。
ソース「説が分かれている」
大乗の起源が大衆部である≠大衆部は大乗
お前「大衆部って大乗だぞ?」
誰が間違ったことを言ってるかは、明らかだろう。 >>780
先に絡んできたのはあなたです。
734 名前:神も仏も名無しさん :2020/06/19(金) 09:41:48.60 ID:YUA0T4RG
>>707
いや、無分別ならば救うべき他者などいない。
実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
分別を否定するのは空にあらず。
さあ、覚りを得る6〜7年以上前の釈迦、当然縁起も空も無我(非我)も無分別も未だ覚ってない。
その覚りを得る前の釈迦が家族を捨てて出家しているという事実を持って一体あなたは何を言いたいのか、改めて書いてくださいな。 >>791
義浄の時代の大衆部って大乗の事だぞと言った筈なんだがな?
龍樹以降のサンスクリット語の文献に大衆部の記述が有ったら出してみ
漢文は経典翻訳でも数字を十倍大袈裟に改竄したりして今一信憑性に欠けるからな >>792
意味不明な絡み方してくんなよ。
と言ったのが、どうしてお前から絡んできたことになる?
また意味不明な絡み方してきたなあ。 >>793
変わらんねえよ。
ソース「説が分かれている」
大乗の起源が大衆部である≠大衆部は大乗
お前「義浄の時代の大衆部って大乗の事だぞ」
誰が間違ったことを言ってるかは、明らかだろう。 >>794
意味不明で誤魔化すのは無しですよ。
>>734のあなたの発言に自分自身で責任をとってくださいな。
あなたは>>734で何が言いたかったのですか?
改めて、はいどうぞ。 確認ですが
>>794
>と言ったのが、どうしてお前から絡んできたことになる?
は
と言ったのが、どうして俺の方から絡んできたことになる?
の間違いですよね? >>796
きめえアスペの絡み方だなあ。
Q「家族を捨てて出家したという事実によってあなたは何が言いたい」
A「他者への執着捨てることの一例である。そんなことも読み取れないお前はどうなってんの?」 >>797
アスペクンさあ。
お前は「先に絡んできたのはあなたです。」と言ったことも忘れたの?
「お前から絡んできた」と俺が思ってると勘違いしたからそんな発言したんだろ?
そうじゃないならなんでそんな発言したの?
意味不明過ぎるお前。 >>798
>いや、無分別ならば救うべき他者などいない。
>他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
>分別を否定するのは空にあらず。
この部分についての解説は?
何のために上3行を書いたのですか? >>800
アスペくんさあ、
>>779「家族を捨てて出家したという事実によってあなたは何が言いたい」
と聞いたのはお前だろ。
自分で質問しておいて、何言ってんの?
アスペのお前の相手しててもイライラするだけで、時間の無駄だから終わりにするわ。
迷惑だし面倒。 >>799
それはあなたの一方的な見解です。
先に絡んできたのはあなたですし、私からみればあなたの方が意味不明です。
ですから訊いてます。 >>801
>>734のあなたの発言に自分自身責任が取れないのですね?
734 名前:神も仏も名無しさん :2020/06/19(金) 09:41:48.60 ID:YUA0T4RG
>>707
いや、無分別ならば救うべき他者などいない。
実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
分別を否定するのは空にあらず。
さあ、覚りを得る前の釈迦が家族を捨てて出家していることと、無分別なら救うべき他者などいないの関連性を説明してくださいよ。
実際に、と接続詞までつけて文を繋げているんですから関係があるんでしょ。 アスペくんさあ。
間違いは素直に認めような。
>>792 先に絡んできたのはあなたです。
>>794 お前から絡んできたとは言ってない
>>797 どうして俺の方から絡んできたことになる?の間違いですよね?
>>799 「先に絡んできたのはあなたです。」に対してお前から絡んできたとは言ってないと返した
>>802 私からみればあなたの方が意味不明
ま、アスペのおまえにとってはそうなんだね。 >>804
そうやって誤魔化すしかできないのですか?
意味不明な絡み方?というのが意味不明
では
>無分別ならば救うべき他者などいない。
>実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
>他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
>分別を否定するのは空にあらず。
と
775 名前:神も仏も名無しさん :2020/06/19(金) 13:43:07.77 ID:YUA0T4RG
>>773
覚りを得る6〜7年以上前の話だから何?
釈迦は家族を捨てて出家たことは変わらない。
との整合性は? >>805
そうやって逃げずに、さあ自分で書いた文の責任を取ってくださいよ。
覚りを得る前の釈迦が家族を捨てて出家していることと、無分別なら救うべき他者などいないの関連性を説明してくださいよ。
実際に、と接続詞までつけて文を繋げているんですから関係があるんでしょ。 >>805
思うというのはあなた一人の思い過ごしかもしれませんよ。
だから>>807 >>808
>>779「家族を捨てて出家したという事実によってあなたは何が言いたい」
に>>798で明確に回答したら
>>800と言い出すお前がおかしいのは明らかだよ。
お前は自分がアスペだと自覚しとけ。 >>809
全然明確ではありません。
>>798のレスは元の>>734と整合性が取れてないからです。
さあ、覚りを得る前の釈迦が家族を捨てて出家していることと、無分別なら救うべき他者などいないの関連性を説明してくださいよ。
実際に、と接続詞までつけて文を繋げているんですから関係があるんでしょ。 >>795
もちろん間違ってるのは大乗が廃れて上座部だけが残ったなどと凡そ一般的でない珍説を貧弱なソースに肉付けして吹聴してるお前 笑
大乗が廃れたなら華厳経から密教への発展も無かった筈なのに堂々と嘘をごり押しして 挙げ句の果てに俺が押し付けてるとかあべこべを言ってるんだからな
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou24.htm
>大衆部系はのちに大乗仏教の母体となりますので、部派仏教の特徴は上座部仏教の特徴としてとらえられます。〜
>大乗仏教の成立
>紀元前一世紀ころから戒律や教法にこだわりいたずらに伝統にこだわり形式化しつつあった部派仏教にあきたらない大衆部と在家の信者の団体により大乗仏教が生まれました。
>>811
義浄『南海寄帰内法伝』を提示してあるからさ。
お前の完敗だよ。
>>782も調べてくれたけど、結局俺の主張が正しいことの確認になった。
それをちゃんと認識できている鹿野園と比べ、お前は頭悪いなあ。 >>811
自分のソースで自分を否定するスタイルがどんだけ大好きなんだよw。
「五、六世紀頃になると大乗仏教は哲学理論や注釈学的な専門 化に陥り、衰退の兆しがあらわれ、ヒンズー教が台頭してきました。」 >>812
検証した結果として大乗が廃れたというお前の主張に該当する表現箇所は見当たらず お前の脳内だけの独自解釈に過ぎない事がハッキリしただけだな
日本だけじゃなく インドの宗教学者にもそんな馬鹿な学説は見受けられないんだから本気で言ってるなら是非とも学会に論文発表するべきだな
丁寧に突き返されるとは思うが 通ったら面白いから頑張りたまえ
健闘を祈る 笑 >>811
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou24.htm
にも、このスレで言う大乗は廃れて
密教が出てきた、と説明してるだろ。
自分のソースはちゃんと理解してから出そうや。
まあ、勝手にソースが揃うからこっちとしては楽なんだけどw。 >>814
涙拭けよ。
そして、義浄『南海寄帰内法伝』を読んでから出なおせ。
ソースもちゃんと読んでから提示しような。
俺の主張のソースをどんどん集めていると自覚できていないのがかわいそう。 >>813
ヒンズーの台頭はお前の言ってた大乗は直ぐに見破られて廃れた 上座部四部派だけが残ったというのと合致しないだろ?笑
>大衆部系はのちに大乗仏教の母体となりますので、部派仏教の特徴は上座部仏教の特徴としてとらえられます。
一体何処に大乗は直ぐに見破られて廃れたなんて幻覚が読めるんだよ?笑笑 >>816
ちょっとあなた!
早く
>>810
に答えてくださいよ!
あなたの元の書き込み>>734に対して責任のある対応してください。 >>817
「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」は義浄の記録だ。
頭悪すぎるなお前。
ここまで来るとさすがにかわいそうw。 >586 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2020/06/18(木) 09:05:07.78 ID:Z6oVfRgm [4/43]
>インドじゃ大乗はすぐに廃れたんだろ?
>むしろ、中国・日本に広まったのがおかしいんだよ。
これについて総括的に検証したてきたけど、少なくとも紀元後からパーラ朝の滅亡まではその命脈を保っていたのだから、すぐに廃れたというのは首肯できませんね。 >>820
>>691廃れるには「はやらなくなる。流行に遅れる。」という意味があるぞ。辞書引け。 >>822
このスレでは密教は区別していたと思うが。 >>823
>このスレでは密教は区別していたと思うが。
私は密教も大乗仏教の一派だと認識してます。
インドで仏教が廃れたというのは事実ですけど、そもそも貴殿の仰る ”すぐに” っていうのはどのくらいのスパンを示すのですか? >>824
それじゃ、
中観派・唯識派は廃れた
でいいでしょ。詳細を確認したければ、出てきたソースを確認するなり、
ご自身で調査するなりして下さい。
自分の理解を裏付けるソースが出て、私は十分満足なので。 密教こそヒンドゥー教に近づき過ぎて、
インドでは吸収されたという印象だけどね。 >>825
>中観派・唯識派は廃れた
そりゃそうだけどw
『南海寄帰内法伝』では大乗では中観派・唯識派が学ばれてるってありましたよね。 >>828
『南海寄帰内法伝』には大乗自体が廃れていると書かれているから。 >>829
>>734
>いや、無分別ならば救うべき他者などいない。
>実際に、釈迦は家族を捨てて出家しているんだから、
>他者への愛情や慈悲など絶つべきだという理解になってしまう。
>分別を否定するのは空にあらず。
さあ、早くこのあなたの意味不明な書き込みの解説をしてくださいな。
解説できないならできないでその旨レスしてください。
とにかく、自分の発言には責任を持ってください。 >大衆部は分別説部を仏教の根本分裂の際にほかの部派とともに生じたとみなしている。大衆部によれば根本分裂によって上座部、大衆部、分別説部の三部派に分かれたのである 苫米地なんてのインチキだよ
いまスレタイ気付いたw
どうも怪しい変だと
思たww 破戒僧率いる日本テーラワーダ仏教協会
スマナサーラの嘘を指摘し、頭のおかしくなった信者を更生させる
スマナサーラ 批判
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535982873/ スッタニパータの4・5・1等が最古層とするとテーラワーダ過激派とか今のスリランカ分別説部の信奉者から 見ると
大変都合悪いらしいんですね。ニカーヤは凄い飛躍があると
連中だってちゃんと自覚してる
経という色も空なり
幻想に憑かれた者がいたからこそ実体無き色が生じた と。 >>834
多分この箇所ですかね!?
http://s.kota2.net/1592568110.jpg
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho44-07.pdf&type=G&prt=623
義浄が行った当時のインドでは大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の四部派があり、北インドと東南アジアを除けば大乗と小乗が(同じ僧院の中で?)兼学されていた、ということかもしれません。
このpdfファイルの研究ノートからは大乗に特化した寺や教団というのは無かったように見受けられますね。
ただ、義浄よりも40〜50年前の玄奘三蔵の大唐西域記によると、「インドや西域の100カ所の寺院を訪ねた結果として、その当時、大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所であったと報告されています。」とあり、大乗の寺というのがあったとのことですが。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/pada/roots3.htm >>837
はい、その引用の四行目です。
大学にuniversityとcollegeの別があるように(日本はいい加減ですがw)、大乗・小乗の単科(分科)と両方・ヒンズーその他の諸思想を総合的に学ぶ学舎があったであろうと思うんです。 >>834
その話はもうしてるのに、
新しいこと見つけたみたいな言い方するな。
現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。
一つには大衆部で七分派に分派している。
二つには上座部で三部派に分派している。
三つには根本説一切有部で四部派に分派している。
四には正量部で四部派に分派している。
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho44-07.pdf&type=G&prt=623
とあって、お前が言ってることも載ってる。
どう読んでも、大乗は廃れたという記録だ。玄奘のときは大乗専門の寺も多少あったと記録されていることと比較すれば尚更な。 >>839
廃れたというか、その引用の訳文中には
>そして、もし菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば大乗、その菩薩礼拝、読誦大乗経典をしなければ小乗と呼ぶだけのことである。
>さらにその大乗も二種類あるに過ぎない。
>一には中観、二には瑜伽である。
>しかし、二種類の大乗があると言っても、これはすべて聖教に遵っており、大乗と小乗と言っても何れが正しく、何れが間違いということはなく、みな同じように涅槃への約束、その意は煩惑を断じて衆生を救済することにある。
>中国では、大乗と小乗と色分けして広く乱れているが、ここインドでは大乗も小乗も双行されており、道理として大乗も小乗も共に背いたり、争ったりすることはない
ってあるけど、これについて貴殿は大乗が廃れたというの? >>840
現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。
部派仏教の中で大乗も扱われていた。
という記述が残っているのに、大乗が盛んだったという解釈どうして成り立つと勘違いしてる? >>840
常識的理解ができないお前のために補足すると、
大乗を信じる僧が多数であったなら、
大乗のグループを当然形成するだろ。
大乗のグループの中で、部派仏教も扱っているという記録になる。
そのくらい察しな。頭悪い。 そもそも
こういうスレをたてる動機があるのは誰か?
テーラワーダ過激派ですねw
ワカります。 >>841
”大乗も小乗も双行されており”ってあっても、盛んだの廃れただのって書いてありませんけど? >>844
大乗のグループがないから
現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。
と記録されてるんだろ。あのさあ。 >>842
それは地域特性の問題で、インドでは他国のようなグループ形成がなされてないって事でしょ?
引用にも
>中国では、大乗と小乗と色分けして広く乱れているが、ここインドでは大乗も小乗も双行されており、
>道理として大乗も小乗も共に背いたり、争ったりすることはない。
ってありますし。 >>846
部派仏教はグループを形成しているのに、
「インドでは他国のようなグループ形成がなされてない」と言っちゃうのがアホ。
記録を公平に読めば、大乗は廃れた以外の解釈はない。
学者も当然そのように解釈している。
現実を捻じ曲げるなよ狂信者。 >>845
ですからおおよそ四グループに分かれていて、それぞれのうち
1.菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば大乗
2.その菩薩礼拝、読誦大乗経典をしなければ小乗
と呼ぶだけってことでしょ? >>848
中論で部派仏教を批判しまくってるんだから、
大乗が多くいれば大乗のグループを当然形成する。
大乗を専門に学ぶ寺がない。
部派仏教の中で大乗も一応扱ってもらっていた。
つまり、散々批判した部派仏教のお情けで、
創作経典は保管して、間借りさせてもらっていた。
まさに大乗は廃れた。 848.日本人は欲ばり、であるから御利益があれば、何でも実行する。
大爆笑である。 >>848
現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。
つまり、大乗はグループを形成できないほど廃れている。
これが文献の記述の解釈。
お前は妄想で捏造してるだけだといい加減自覚しような。 つまり、義浄の記録から類推すると以下の通り、8種類(4×2)に分類できるって事でしょ。
一次分類
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
二次分類
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者) >>848
>ですからおおよそ四グループに分かれていて、
の四グループはすべて部派仏教だろ。
あのさあ、ほんと頭悪過ぎないか? >>852
どこをどう勘違いすればそんな解釈になるんだよ。
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
の4つしかねえよ。大乗は部派仏教のお情けで間借りさせてもらってるだけ。 >>852
アスペに合わせると、
大乗の人数が十分にいれば、
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
5.大乗
になっていたんだよ。
こうなれないほど大乗は廃れた。 人数がいればこうだな。
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
5.中観
6.唯識
中観派・唯識派も一括りにさせるほど、大乗はマイナー。
部派は区別されている。
明白すぎるでしょ。 まとめると、義浄の記録から類推すると以下の通り、8種類(4×2)に分類できるって事になりますね。
1.大衆部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
2.上座部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
3.根本説一切有部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
4.正量部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者) >>857
どう考えても違うだろw。
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
5.中観
6.唯識
に決まってるだろ。
脳みそ腐ってんのか? 結論は出ましたね。
この話はこれでもういいでしょう。 >>859
部派仏教は教義によってグループを形成。
大乗はグループすらなく、中観派・唯識派も一括り。
その記録を元に「大乗は盛えていた!!」
記録をまともに理解する能力がないなら、異常者の中ではもうそれでいいよ。 >>837
玄奘の記録をちゃんと提示してくれてたのか。
ここまで提示してもらってるのに、
インドではグループを形成しなかったとか、トンデモ主張をしちゃう鹿野園って…。
もうちょっとまともだと思っていたが、さすがにこれはひどい。 >パーラ朝の王のこうした造寺活動によって、インド亜大陸で消滅する運命にあった仏教は、その最終段階で新たな隆盛をみることとなった。
>大祠堂を飾るテラコッタ・パネルは農民や音楽家、踊り手などとともに、動物や植物、魔物たちの姿をも描き、生き生きとした民衆文化を表現している。
>一方、ここにはヒンドゥ教の神々や『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』の説話なども描かれていて、ここが大乗仏教の基地でありながら、仏教がしだいにヒンドゥ教の影響を受けて密教化していったことをも示している。
>(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社) 玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
結論「大乗は衰退した。」
さすがの鹿野園も、これはもう受け入れるしかないな。 >パハルプールの仏教寺院遺跡群
>8世紀半ばから、9世紀にかけて建設された仏教寺院遺跡群。
>バングラデシュはイスラム教国であるが、当時、この地域はパーラ王朝の支配を受け、その時代には仏教が大いに栄えた。
>これと共に、この地域には多数の仏教寺院が建設され、その最大級のものがパハルプールである。
>(wiki引用) >>863
ん?
大乗っていうか、仏教はインドの歴代王朝の中で隆盛を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。
でいいんじゃない? >>865
お前はもう少しまともだと思っていたがひどいな。
都合の悪いことはすべてスルーのキチガイか。 >>866
ん?
もうだいぶ昔の話だけど、大学の東洋史でインド仏教史を受講しててそう教わったし、研究機関で務めてた時もそうした認識だったから。 >>868
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
という記録が残っているのに、
結論「大乗は衰退した。」
と認識できない馬鹿が研究者騙るとはw。呆れた。
ま、ソースの提示方法すら理解していない時点で察し。 >>815
また書いてもいない廃れたという表現が読めるのか?笑
この筆者に取っては大乗が「衰退した」と読めるのかも知れんが初期の大乗からマントラの取り込みが有る以上は遅かれ早かれ密教化するのは必至
衰退じゃなくて大乗の正常進化が密教だよ
ソースといい 勝手な付け足しといい てんで話にならんな
密教の成立
五、六世紀頃になると大乗仏教は哲学理論や注釈学的な専門 化に陥り、衰退の兆しがあらわれ、ヒンズー教が台頭してきました。
そこで民衆にとって難解な教理を、当時のインド一般の風潮であった象徴主義によって理解しやすくすると共に、ヒンズー教や民間信仰も取り入れて、仏教の理想実現と勢力回復を図ったのが密教だと言われています。
>>871
お前密教か?
こういうヤバイ奴が信徒なのかよw。 >>816
読んでもお前の脳内編集が出てくるだけだろ?笑
此方はPDF見れないと最初から言ってる通りだし PDF以外の部分にお前の主張とは違う事が書いてある以上は話にもならんよ
どうせならもう少しマシな嘘を練り上げるべきだったな? >>819
それを裏付けるサンスクリット語の文献を出せと言ってるのに見つけられないのか?
無能だな?笑 >>873
タイトルまで出てるんだから、不満があるなら自分で調べろよ。
無能過ぎる。 まぁ仏教の盛衰は、インドに限らずスリランカでも中国でも日本でもある訳でして。 法華経をめぐって 大乗仏教教団はインドに存在しなかった? https://togetter.com/li/14299 >>872
ヤバいのは書いてない事を脳内解釈で付け足すお前だろ?
それって妄想性の障害だぞ >>875
調べた上で指摘したら お前の自分勝手な解釈の付け足しが露になったというだけ
そういうのを印象操作というんだよ スッタニパータの4・5・1等が最古層とするとテーラワーダ過激派とか今のスリランカ分別説部の信奉者から 見ると
大変都合悪いらしいんですね。ニカーヤは凄い飛躍があると
連中だってちゃんと自覚してる
経という色も空なり
幻想に憑かれた者がいたからこそ実体無き色が生じたのである。 小学生の間で なんかの嘘をついたり、インチキなことやったりした時に 「大川隆法だ」って言われるそうなんだけど
苫米地もそれっぽくなってるよね近年。スマナサーラと関わったせいで可笑しくなったか
天台の寺と縁があったからって、観音菩薩も信じれないような腐敗僧の言説垂れ流すようじゃ修行も
しれたもんだったと >>873
『南海寄帰内法伝』
諸部流派。生起不同。西國相承。大綱唯四(一阿離耶莫訶僧祇尼迦耶。唐云聖大衆部。分出七部。
三藏各有十萬頌。唐譯可成千卷。二阿離耶悉他陛攞尼迦耶。唐云聖上座部。分出三部。三藏多少同前。
三阿離耶慕攞薩婆悉底婆拖尼迦耶。唐云聖根本説一切有部。分出四部。三藏多少同前。四阿離耶三蜜栗
底尼迦耶。唐云聖正量部。分出四部。三藏三十萬頌。然而部執所傳。多有同異。且依現事言其十八。
分爲五部。不聞於西國耳)其間離分出沒。部別名字。事非一致如餘所論。此不繁述。故五天之地。及南海諸洲。皆云四種尼迦耶。
諸部派の発生は多種であるが、西国〔インド〕の〔仏法の〕伝承は大別すればただ四つのみである。
(一、アーリヤ・マハーサンギーティ・ニカーヤ。漢訳すれば「聖なる大衆部」である。七部に分派している。三蔵は各々十万頌あり、漢訳すれば千巻になるであろう。
二、アーリヤ・スタヴィラ・ニカーヤ。漢訳すれば「聖なる上座部」である。三部に分派している。三蔵の規模は先と同様である。
三、アーリヤ・ムーラ・サルヴァースティ・ヴァーダ・ニカーヤ。漢訳すれば「聖なる根本説一切有部」である。
四部に分派している。三蔵の規模は先と同様である。
四、アーリヤ・サンミティー〔ヤ〕・ニカーヤ。漢訳すれば「聖なる正量部」である。四部に分派している。三蔵は三十万頌である。しかし分派先によって異同が多くある。
そして現在で言えばその〔計〕十八派は五部に分かれているというが、西国〔インド〕では〔そのようなことは〕聞かない。)
しかるに分裂・盛衰・部派の別名、事非一致は他で論じたので、ここには詳述しない。
故に五天の地と南海諸州では、みな四つのニカーヤ(部派)である。 ”こう考えますと私たちは大乗をあまりにも過大評価することによってインド仏教初期、中期におけるもっとも有力な存在を見過ごしてきたことになります。
たかだか部派内の戦闘的な少数派が前掲した「二元的区別」と「仏伝の永遠反復」思想を掲げ
「この経は法と律をよくする比丘にも理解されない」という批判的挑戦(*22)や
罵詈雑言を国王や商人・長者などの在俗の有力者に読ませ聴かせることを前提に記述し、
彼らは伝統的な生活を送り主流派であった比丘を小乗と蔑んだのです(*23)。
その経典の数があまりに多く(とは言っても今となっては論理性、構築された世界観、経・律・論の豊富なバランスにおいて質量ともに「小乗」文献の足下にも及ばないが)、
しかもそれが中国の上流階級に支持されたばかりに中国→朝鮮・日本の歴史的な仏教の印可の中に身を置いたわたしたちは主流が何であったのかを見失っていたのです。”
初期大乗と小乗僧院の社会的活動との関係について - くまりんが見てた!Part III
https://web.archive.org/web/20090214173928/http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20090210/1234273739 釈迦仏教では第一段階の悟りを得た者、預流果は三結(身有見、疑惑、戒禁取)煩悩を断じて得られる、と説いた。
しかし、俱舎論では見惑の八十八煩悩を断じた者を預流果とした。俱舎論は釈迦仏教を複雑怪奇に変えて、釈迦仏教の廃れる原因になった。 部派〜上座部の歴史は虚妄であったと
分別説部の方が認めています。
八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍がありますが、仏教史にはそのような飛躍の傍証となるような伝承が一切ない
ことに関し、何か合理的解説をできる方いますか?
つまり、般若経典が創作という以前に、原始仏典ですら既にその疑いがあると
信者は気付いてる事実に関し・・・ 確かに、預流果を得た者は、縁起の哲学的分析などに関心が無くなるだろう。そんな暇があったら、釈迦が教えた、四念処観や七覚支法の修得に励んで、第二段階の悟り、一来果の取得を目指すだろう。 『南海寄帰内法伝』は確かに当時のインドの仏教事情を知るに貴重な資料ですが、私は史学科の出身でしたから、資料批判という事もよく考えなくてはならないのでは?
例えば、日本書紀に書かれてるから事実とか、普通はそんな見方はしませんよね?
当国や近隣諸国の史書や考古学等、複眼的な視座から復元するのもでは? インドには12世紀になるまで史書が存在しなかったためインド本国の仏教を始め宗教・哲学の実情はインドに訪れた中国の三蔵法師のその時々の見聞録を第一資料とする 大乗グループ云々について論じるのであれば、それは大乗仏教の成立問題を避けては考えられない事だろうけど、確か佐々木閑先生辺りが、各部派の前衛的なグループがそれぞれに大乗思想を形成した云々と仰っていたと思います。
であれば、以下の見解(>>857)は正鵠を得てるのではないのかな?
まとめると、義浄の記録から類推すると以下の通り、8種類(4×2)に分類できるって事になりますね。
1.大衆部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
2.上座部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
3.根本説一切有部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
4.正量部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者) >>878
書いてない事を脳内解釈で付け足したという妄想がやばいよ。
密教クズ。
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
という記録が残っていれば、
結論「大乗は衰退した。」
と解釈するのが学者も含め、まともな知性のある人間の解釈。 >>879
一体何が資料と違うと判明したんだ?
密教は病気。 >>886
いろいろごまかしても、
般若経典が創作である事実は変わらないぞ。
創作に批判的な姿勢を示しては、大乗批判にしかならないだろ。 仏教の盛衰は、言わずもがなその支配王朝の宗教政策や世相と密接に関わってくるものです。
さらには、記録者の主観も関わって来ますし。 >>888
で、他のソースは?
それと、玄奘・義浄が虚偽の記述をしたと判断する理由は?
大乗の中国だから大乗の都合のいいように改竄する可能性はあるだろうが、大乗が衰退したと改竄する理由はまったく思い付かないが。
そんなお粗末な主張で研究者気取りとは呆れたもんだ。 >>890
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
と矛盾してるだろ。
大乗の寺は25カ所は消えたんだよ。
大乗は廃れた。 >>894
胡麻化すつもちなど一切ない
全ての経は後代につくられた色であり。そこには人の解釈も紛れ込み、
即ち是ら皆空なり >>891
義浄の記録には寺院数がありませんので、その視座から盛衰は論じられませんし、また各部派内に中国的な判釈による大乗系と小乗系が認められ、その割合がないので、大乗が衰退したというのは根拠に欠けると思いますけどね。
つまり、量的基準がない以上、そうした判断は私はしません。 >>898
初期経典はブッダの言動の口伝を記録したもの。
大乗経典は創作。
一緒にするのはおかしい。 >>896
義浄は W大乗が衰退したW と言ってるんですか?
どうなんですか? >>899
お前はとんどでもない馬鹿だな。
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
という記録があれば、学者含めまともな知能があれば
大乗専門の寺は消えた
と判断する。頭が悪すぎるなお前。 >>901
まともな知能があれば理解できる資料を提示されてるのに、
そんなことばかり言ってるバカなお前。 >>903
そりゃそういう地域もあったろ。
実際、中国・日本は大乗が主流。
しかし、インドにおいては小乗が主流。 >>895
>記録者の主観
義浄は大乗者なのにどうして大乗に有利な記述をしないのかな >>908
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
と言ってるんだから、乗の寺は0カ所ということだ。
ものすごいバカを相手にするのはうんざりする。 >>904
もう一度尋ねますが、義浄は W大乗が衰退したW と言ってるんですか?
どうなんですか? 八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍があ
とアンタの同輩も認めてるんだ >>901
義浄「そもそもインドには独立した大乗教団はなかった」
ベンガルの密教者アティーシャですら大衆部所属だし >>905
念のため確認しますけど、義浄の訪印後にインド東部に成立したパーラ王朝で大乗仏教が隆盛した事実は認めたのですね? >>906
>義浄は大乗者なのにどうして大乗に有利な記述をしないのかな
というか、それを検討する為の資料が(多分)ないので、義浄が有利な記述をしたかどうかは存じません。 >>911
明確に回答されたことを何度も聞くなよ。
馬鹿を晒してることを自覚しろ。
他の人も説明してくれてるだろ。 >>908
そもそもインドにおいて歴史的に純大乗の寺が存在したかどうかすら怪しい
大乗仏教の起源に関する最近の説
1. 佐々木閑のカルマベーダ起源説
『インド仏教変移論 なぜ仏教は多用化したのか』(2000)
”アショーカ王の分裂法勅 (Schism Edict) と漢訳『摩訶僧祇律』とを比較して、破僧定義に二種類があることを発見した。
一つはデーヴァダッタの釈尊の教団に対する教義的な分裂チャクラベーダ(破輪) であり、
他は教団の布薩 その他の儀式には他の比丘たちと共に出席するという点で教団の成員として認められながら
、教義の上では自由に異義を唱え得るというカルマベーダ(破羯磨) である。
この後者のカルマベーダは『摩訶僧祇律』から始まってやがてパーリ律、『四分律』、『五分律』のも採用された。
説一切有部系の『十誦律』、『根本説一切有部律』では、正式にはチャクラベーダを主張しながら、釈尊の滅後にはその教団もすでにないのであるから、
チャクラベーダも実際にはあり得ないとして、事実上、カルマベーダを容認するようになった。
この破僧の第二の定義カルマベーダを採用すれば、同じ教団のなかにとどまりながら、一部の比丘たちが、空思想を強調したり、
一方で具足戒を守りながら、在家の善男子・善女人を考慮して十善業という在家戒をも戒律と認めたり、
変成男子を介して女人成仏を認めたりしても、教団の分裂を犯さないで小乗的な比丘たちと共住することもできる。”
大乗仏教の起源に関する研究史 - いとーの部屋
https://seesaawiki.jp/w/kyoseidb/d/%c2%e7%be%e8%ca%a9%b6%b5%a4%ce%b5%af%b8%bb%a4%cb%b4%d8%a4%b9%a4%eb%ba%c7%b6%e1%a4%ce%c0%e2 >>912
勝手に同輩とされてもねえ。妄想するのは病気。
初期経典にもブッダの言動から外れた内容も一部は紛れ込んでいただろう。
しかし、根本的に創作の大乗経典とは大違い。 >>915
義浄の記録を否定したのはお前なんだが、
判断できないのかよw。
呆れた奴だ。 >>919
お前の主張は
玄奘「大乗の寺は25カ所。」
と矛盾する。
だから、お前の主張は却下される。 馬鹿の知能レベルに合わせて説明すると、
玄奘の時代は
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
5.中観
6.唯識
それが、義浄の時代は
>>890
になってるんだから、大乗の衰退は明らか。 >>917
>そもそもインドにおいて歴史的に純大乗の寺が存在したかどうかすら怪しい
その可能性はあるでしょうね。
大学にuniversityとcollegeがあり更に大学院や専科大学院あるように、寺院も類似の構造があったのではないかと思うんです。 >>920
否定?
余計な推理は挟まず漢訳から再現してるだけですけど? >>921
ですから、義浄の記録を原文のままに再構成すると、あの様になるでしょ? >>924
>>888の発言をもう忘れたのか?
資料批判の観点からしても、大乗に有利に改竄している可能性を疑うべきなんだがねえ。 >>922
>玄奘の時代は
> 1.大衆部
> 2.上座部
> 3.根本説一切有部
> 4.正量部
> 5.中観
> 6.唯識
その部分を『大唐西域記』から引用出来ますか? >>927
あー、そういう話じゃないでしょ。分かった分かった。
くだらない揚げ足取りに合わせてやるよ。
玄奘の時代は
1.部派仏教
2.大乗
それが、義浄の時代は
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗は消滅 >>914
パーラ王朝の有力寺院にして密教の根本道場ヴィクラマシーラ寺院は大衆部所属
https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A9%E6%9C%9D-116631
”アティシャが二十九歳になられた時に,ナーランダーの住人(Na len dra na gnas po)で優れて法に詳しい者に向かって,
「私は何れの部派で出家しようか」と言うと,その者が,「汝は秘密真言の行を捨てるのか捨てないのか」と訊ねた.
〔アティシャが〕「捨てない」と答えると,「それならば,大衆部僧伽の阿閣梨ジュニャーナパーダ(buddhazrIjJAna)の法統で出家〔すればよい〕」と言った.
そこで,吉祥なる金剛座の〔釈尊が〕大菩提を獲得した場所にあるmatibhihara僧院において,
大衆部僧伽の内の出世間部('jig rten las 'das par smra ba'i sde pa)の阿闍梨でジュニャーナパーダの法統にある長老で持律者であり,
修道の真実の一分に住し三摩地を獲得したzIlarakSitaというお方に親教師をお願いして,僧名はdIpaMkarazrIjJAnaと名づけられたのである.”
『アティシャと金剛乗の行』(静 春樹2013)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/1/62_KJ00008992056/_article/-char/ja/
>matibhihara僧院において,大衆部僧伽の内の出世間部('jig rten las 'das par smra ba'i sde pa)の阿闍梨で
>zIlarakSitaというお方に親教師をお願いして,僧名はdIpaMkarazrIjJAnaと名づけられた
インド密教最後期の密教行者アティーシャは大衆部僧院で出家した >>926
>資料批判の観点からしても、大乗に有利に改竄している可能性を疑うべきなんだがねえ。
疑う前に再現しないとw >>928
>玄奘の時代は
> 1.部派仏教
> 2.大乗
その部分を『大唐西域記』から引用出来ますか? >>931
???
で、念のため確認しますけど、義浄の訪印後にインド東部に成立したパーラ王朝で大乗仏教が隆盛した事実は認めたのですね? >>932
頭悪過ぎるだろお前。
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗は消滅 >>933
鹿野園は発狂してんなあw。
回答済みの質問を繰り返すだけのカセットレコーダーになってしまった。 >>929
ありがとうございます。
日本でも最澄がその道を切り拓くまでは奈良等の特定寺院でしか出家出来ませんでしたからね。
印度では大小兼住っていうのが実際だったのでしょう。 >>936
都合の悪い記述はすべて無視する馬鹿が研究者ぶるなよ。
玄奘「大乗の寺は25カ所」
呆れた奴だなあ。 >>937
>>905読めよ。発狂し過ぎて、記憶も日本語もおかしくなってんのな。 >>939
俺は記録に基づいて話しているが、
お前は妄想を繰り貸している。 >>936
勘違いしてるようだけど日本において戒壇があったのは(菩薩戒であれ具足戒であれ)純大乗の寺院であって
パーラ朝ですら密教の根本道場が小乗寺院であったということとは比較にならない ”ショペン教授は次のように言います。『私たちは小乗仏教僧院の宗教的、社会的重要性をはなはだ過小評価してきました。
主流が何であったかを完全に見失い部派仏教の僧院の宗教的、社会的な重要性を過小評価して「小乗の僧院」と呼び習わして来たのは皮肉なことです。
明らかになりつつあるのはこれら部派仏教の僧院は、相互に連動し合う宗教的、経済的。社会的な責務を通じて、
それらの地域社会によく呼応して、非常によく成功した組織として発展していたのです。
実際、彼らが成功していた状況下では、大乗が提供しようと考えていたものに在俗の人々はなんの必要性も感じなかったのでしょう』
民衆の集合的無意識に根ざしている宗教活動に応えていたのはあくまでも「小乗の僧院」だったのです。”
https://web.archive.org/web/20090214173928/http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20090210/1234273739 >>938
全然話が分かってませんね。
出家戒という入り口は部派に限定されていたという事ですよ。
大乗戒は、私の記憶では最澄が世界初で、それまでは従来の部派仏教(小乗)に継承されて来たそれでする他に無かったって事です。
掛かる意味(戒の視座)に於いて四部と紐解き、大乗グループを見ていけば、大乗が衰退したというのは過ちなんです。 >>944
玄奘「大乗の寺は25カ所」
に対する回答になってないことを理解できないお前に呆れる。 >>942
そういう意味で言ってるのではなくて、いわゆる大乗グループも出家は部派の戒に拠っていたという趣旨です。 >>945
カテゴリー論の問題でしょ?
玄奘はあくまでも中国にてカテゴライズされた大乗という視座から見てるのですから。 >>946
なんでそんな制限を大乗グループは自分らに科したと妄想してるの?
お前が妄想する理由を是非説明してくれ。 >>947
インドの視点では、
玄奘「大乗の寺は25カ所」
は何を意味することになるんだ?
お前の妄想を示せ。 つまり、
1.大衆部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
2.上座部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
3.根本説一切有部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
4.正量部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者) >>944
>出家戒という入り口は部派に限定されていたという事ですよ。
??
その小乗戒を授けていたのはチベットであれ日本であれ純大乗の寺院だったんだけど?
ショペンの指摘を考慮するならば民衆が欲するものは小乗がすでに提供していたのであって、
もしも本当に大乗が隆盛していたのであればインド周縁部のように純大乗の寺院で小乗戒が受けられたはずだけど >>948>>949
基本的に出家戒は部派仏教のどれかで行い、その後人によっては大乗に行くって事では。 >>951
>>952参照。
インドではって事です。 >>954
インド周縁部でできたことがどうしてインドではできなかったのか
民衆は純大乗の寺院を支援しなかったからじゃないの? >>953
名無しさん二人を相手に話をすると混同するのでちょうと待ってくれませんか。 >>952
玄奘のときは、大乗専門の寺があったのに、
なんで、出家は部派仏教に頼るんだ?
その理由はお前の中ではどう妄想してるのか示せよ。 >>956
言ってることはほとんど同じだろ。
お前の主張は破綻してる。
お前の主張の問題点の指摘もだいたい一致している。 いいですか?
大乗という思想が展開する一方で、出家戒は従来の小乗のそれが用いられて来ました。
それは純大乗たる寺院が成立しても変わりはなく、日本でも思想は大乗でも出家戒は小乗のそれで、その矛盾を打開したのが最澄さんという主旨です。 >>959
だから、その妄想の根拠と
そんな制限を大乗グループは自分らに科した理由は? ひいては、大乗という思想は許容されていても、戒律に関しては大乗思想に基づく戒律の創造や改編は認められなかったという事では? >>959
>大乗という思想が展開する一方で、出家戒は従来の小乗のそれが用いられて来ました。
「大乗が隆盛した」パーラ朝において純大乗寺院があったとしたらどうしてアティーシャは小乗寺院で受戒しなければいけなかったの? >>962
>「大乗が隆盛した」パーラ朝において純大乗寺院があったとしたらどうしてアティーシャは小乗寺院で受戒しなければいけなかったの?
その純大乗寺院で受戒は出来たのですか? 鹿野園の妄想によると、
大乗「部派仏教は小乗!我々こそ正義!」
民衆「大乗すごい!仲間に入れて!」
大乗「じゃあ部派仏教さんのお寺で出家してきて」
民衆「え?」
こういうやり取りになるんだろw。 >>964
思想は大乗でも、出家戒は部派(小乗)のそれに依っていたって云ってるんです。 >>965
お前の妄想が意味不明過ぎてw。
その妄想の根拠と
そんな制限を大乗グループは自分らに科した理由は? >>883
で それを裏付けるサンスクリット語の文献は?
もうその時代には大乗経典も存在してたんだから漢人の旅行記よりも正確な文書が有る筈だろ?
無いのか?笑 >>969
できるなら、大乗のグループができるのが当然だろ。
教義も違うのに。
なんで、
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
だったのが、
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗は消滅
になったの?んー? >>970
反論するならお前がソース出せよ。馬鹿だなあ。 >>969
これで答えが出たね
純大乗寺院で出家できるのにしなかった理由
それは純粋な大乗専門の寺院が存在しなかったから
だからアティーシャは大衆部系の寺院で出家しないといけなかった
大乗者は小乗僧院に依存していたということ >>973
逆にいうなら、大小兼学って事は純小乗もでもないって事でしょ? 単に思想的には大乗でも、出家の方式は部派(小乗)のそれであったって事じゃないの? >>974
大乗メインなら
1.部派仏教は消滅
2.大乗
1.中観
2.唯識
になるだろ。
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗は消滅
という記述と違うんだよ。
資料に基づかない妄想はもうお腹一杯。 取り敢えず私の見解だけど、
>>865
>大乗っていうか、仏教はインドの歴代王朝の中で隆盛を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。
これに疑義ありますか? >>976
> 2.大乗は消滅
???
消滅したのにパーラ王朝で隆盛になったのは?
www >>977
何度も同じこと言わせんなよ。
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
結論「大乗は衰退した。」 >>979
玄奘「大乗の寺は25カ所。」だったのに、
義浄の記述からは大乗グループがなくなってるだろ。
あのさあ、アスペ連発すんのうざいよ。 >>978
部派仏教の中で細々と大乗も扱われていたと認識できたようで良かったよ。 鹿野園が妄言を繰り返すだけの無意味なやり取りが続いているけど、
スレも残り少なくなったし、このまま消費だな。
鹿野園は思う存分妄想を垂れ流して恥を晒せ。
ただし、次スレには持ち越すなよ。 正量部の成立は,部派仏教における各部派の中では比較的新しいといえる。
しかし,例えば,7世紀,630年ごろから12年にもおよぶインドでの滞在を了えて帰唐した玄奘三蔵(602-664)は ,『大唐西域記』の中で,仏教の学ばれていた場所を全部で99箇所挙げているが,
その中で小乗を学ぶ所60箇所,大乗を学ぶ所24箇所,大乗・小乗兼学の所15箇所としていて,圧倒的に小乗の方が優勢であることを示し,しかもその小乗の60箇所のうち,19箇所が正量部,14箇所が説一切有部であるとして,正量部が最も盛んであった如く示している。
また,同じく7世紀,671年から25年間にわたってインド各地を巡り,後に『南海寄帰内法伝』を著わした義浄三蔵(635?713)も,当時のインドにおける部派を大別すると,大衆部,上座部,根本説一切有部,正量部の4部派に分けられるとし,しかもその中でも正量部が最も盛んであると述べている。
さらに,サールナートの碑文によると,鹿野苑の精舎はクシャーナ朝の時代には説一切有部の所領であったが,4世紀ごろには正量部のものになったといわれている。
こうしたことからみて,正量部は4世紀ごろにはすでにかなりの勢力を持っており,後代に到るにしたがって次第にその勢力を拡大し,6?7世紀ごろにはインドにおける最大級の部派として存在していたと想像される。
即ち,ここで注意する必要があるのは,この部派が勢力を持っていた時代と,後期大乗仏教の諸論師たちが活躍した時代とが重なり合うということである。
従来研究者の間では,経量部 (Sautrantika)が,小乗仏教から大乗仏教への橋渡しをした部派として,また後期大乗仏教の認識論に大きな影響を与えた部派として注目されてきたが,正量部は,後期大乗の論師たちの背後にあった部派として,もっと注意されてよいように思われる。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19021/KJ00005120629.pdf
何故かくも正量部が人気があったのか?
それは犢子部の思想を引き継ぎプドガラという常一主宰を立てたから
それはインド人でのアートマン思想の人気を示している >>891
衰退したと廃れたでは意味が全く違うだろ? ゴミクズ 笑
最後までインド仏教と交流し続けナーランダー僧院から蓮華戒を受け入れたチベット仏教が取り入れた大半が大乗経典なんだから寧ろ小乗よりも大乗の方が教学の主流としてインド仏教はその幕を閉じたと見るのが正常な感覚だよ 基地害 笑
小乗が主流ならナーランダー僧院もそうあった筈だが 実際はそうはなっていない
始めに根本経典を学び 次に大乗経典 これ等を学び終えたと承認されて密教の学習が許可されるという歴史的成立順とも矛盾しない教学体系がチベット仏教にしっかり残っているのだからな
小乗だけなら仏像やマンダラも無いからイスラム教徒からの攻撃も無かった筈だが その矛盾に対する説明も一切無い
とんでもない欠陥理論だわ 笑 今外出中で、他にもいろいろバタバタしてて、腰を落ち着けてレス出来ないけど、
そもそも教団の分裂は忌避すべき事だけど、思想的に分裂したのもを再統一するのは困難でしょ?
そこで持ち出されたのが戒律なのでは?
であれば、玄奘の報告も義浄の報告も矛盾しない。
新アジア仏教2の大乗仏教成立辺りを見て下さい。
キンドルなら、一か月の無料体験あるし。 思想が大乗でも戒が部派(小乗)のそれであったのはそれで説明出来るし、また、印度で大小の区別なしというのもそれで説明できる。 >>892
お前の言う様に大乗が直ぐに見破られて廃れたというのが事実なら唯摩経 法華経 般若経典群辺りで経典作成も止まった筈で華厳経や大日経 金剛頂経等の後期大乗経典なんて存在する訳が無いだろ?
何処が廃れてんだよ?笑
経典だけじゃなく作法もヒンドゥーを取り込みながらも動物の生け贄を廃する仏教化が行われてるんだから 衰退処か発展と見るのが正常だろ?
事実を無視した頭でっかちの学者だけが正しいと信じるなら仏教じゃなくて単なる仏教学じゃないか?
病気は誰が見てもお前だよ?笑 分かるかな?
教団分裂の定義が破論(思想)から破羯磨(戒律)になった名残りって事ね。
掛かる意味に於いて、インドでは仏教教団は分裂していなかったって事。 原本がプラークリット語で見つかったという事は元々大乗経典ではなく上座部の何処かが保有していた経典の可能性が有るという事だぞ?
それも理解出来ないのか?
>なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。 >>985
廃れたを辞書で引けよ。日本語不自由くんw。 >>989
中観派・唯識派と密教は違うだろ。
密教くんさあ。 >>989
インドの密教はヒンドゥーに吸収されたというのは
学者の意見として一致しているはずだが。
お前が持ち出したソースにもそう書いてあったろ。 >>900
上座部が廃した経典の復古版かも知れない経典が初期の大乗経典にあるのだが?笑
大乗経典はサンスクリット語ベースだから わざわざプラークリット語に直す必要も無いしな
パーリ語に代表されるプラークリット語は釈迦の意向で上座部教団の特徴だし 般若経典のルーツが上座部にあるとしたら経典の削除を行った上座部に過失が有る事になる
>なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。 最後になったが、
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗グループはなし
という記録が残っている以上、
結論「大乗は衰退した」
これが学者の一致した見解。
まともな知性を備えていない方々が反論してるようだが、恥ずかしいぞw。 >>905
小乗が主流なのに各地の仏教遺跡から仏像礼拝の痕跡が見付かるのか?
面白いな?笑 >>996
大乗が経典を創作したのは常識だろ。
それを否定するとかさすがに無理だ。
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