▲色即是空の誤り3▲
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>科学も宗教も、人間が認識したもの、というだけ。。
それがどうかしたの?
www ろんの話しはマンネリ・ワンパターンで全然面白くない。 色即是空 とは即身成仏なり
この身このまま仏陀に成る事を示す四字の聖句なり
空即是色 とは仏陀が色身を得て現象世界に顕われ出る大事を示す四字の聖句なり
この身が仏に成るというより、元より仏心が現象界に降臨している。皆本来仏なることを覚知するよう示唆することば おっ、役者がそろってきましたね。
でも、今日はスーパー銭湯に行く。
(。・_・。)ノ 活仏転生のもとは犢子部ですかね?
チベット仏教は犢子部と上座部とインド密教とボン教などが混ざったもの? >>925
着替え、移動時間を含めて時給計算しますと
枕経・日程調整 3H
通夜 4H
葬儀から初七日を1日でやると 9H
合計16時間
32万円÷15時間=2万円(時給)
まあ、私は、お布施を時給換算する外道なので、放置推奨ですが、
あなたの宗派を伺ってよろしいですか? >>957
訂正します
× 32万円÷15時間=2万円(時給)
〇 32万円÷16時間=2万円(時給換算) 色即是空、空即是色は死語なり
役に立たないからいらない言葉になったから要らないなり >>927
>それとも未来世から常に諸行無常の句身法が来てるので刹那滅しても次の諸行無常の句身法が未来世から来て〜を繰り返すから諸行無常の命題は不変となるということ?
それだと
無為法(むいほう):梵語asaMskRta−dharma、巴梨語asaGkhata−dhamma、
部派仏教の阿毘達磨において、一切法を五位に分類するようになった時に、諸法の中で、不生不滅で変化しないと考えられるものを無為法とした。倶舎、唯識、成実等における無為法がそれである。(以下略
(大智度論 巻第四十三之上)
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron41-50/Daichidoronn43a.htm?20191211-1406
において、諸行無常の句身を有為とするのは「刹那滅であるが故」にだけとなって限りなく無為法に近づくことになりますね。
多分龍樹は、句身はそれ自体として(自性を持つ法として)成立しているのに生滅変化するのはおかしいというようなことを中論で指摘しているのでしょうね。 >>928
唯識の五位百法での(心)不相応行法は刹那滅するのでしょうか? 色とは成仏の因である、(色即是空)
成仏の因より色を承けたのである
色という因と道諦の実践という縁により成仏という果を得るのだ。 >>930
仏教では人に我ありとすることは出来ないので、法有我として諸行無常を説明する必要があった、というようなことを中村元先生が「龍樹」の中で書いていましたよ。
>部派教団の多くは、釈迦の教えに従い、諸行無常を説き、我(アートマン)を否定する一方で、独自に法(ダルマ)の実有を主張しました。
>特に強く法の実有を説いたのが、説一切有部でした。法(ダルマ)を精緻に分解してみせることによって苦を滅し、涅槃に至る道を示そうとした説一切有部にとって、世界の真理を言葉で説明することは、どうしても必要なことでした。
>そのために、釈迦の教えから一歩踏み込んで、スヴァバーヴァ《常にそれをそれであり続けさせているもの》を前提にすることによって、世界を法(ダルマ)の観点から体系的に説明づけたのでした。
>説一切有部は、アートマンのような実体を認めず、一切の存在は刹那刹那に生滅変遷すると説きましたが、その一方で、法(ダルマ)とは自然的存在を可能ならしめているあり方であり、諸行無常を諸行無常たらしめている無常ならざるもの(=スヴァバーヴァ)を想定することによって、この世の無常を説明しました。
>思えば、これは、しごくまっとうな考え方です。この世の真理を何らかのルールで説明しようとした場合、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理があるのではないか、と考えるのはごく自然の流れであり、現代の私たちにとってもまったく違和感はありません。
>説一切有部は、さらに、「諸行は無常である」という命題自体も、変化しない真理(=スヴァバーヴァ)といえるのではないか、と考えたのだと思われます。
>このような高次のあり方そのものが、法(ダルマ)の領域で「もの」として有る(=実有)、自性として存在する、とされたのです。
>大乗仏教が批判の対象としたのは、まさに、この点でした。
>釈迦が説いた諸行無常の世界をより体系的に説明するために説一切有部が拡大解釈してしまったわずかこの一点に対して、大乗仏教徒たちは、痛烈な批判を加えたのです。
般若心経解説サイトからの引用ですが(NGワードに引っかかるようでURLの貼り付けはできません)、このサイト主の主張は中村元先生の「龍樹」に書いてあることのまさに要約ですね。 >>941
宇宙(世界)そのものが消滅(帰滅)を繰り返している論は、長部経典の梵網経や起源経などでブッダが説いていますね。
起源経
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=30601040
(宇宙帰滅論は内容の違いこそあれインド哲学全般に見られるようですが)
相応部では無始相応として、「比丘たちよ、輪廻はその始めもなきものであって、生きとし生けるものが、無智に覆われ、貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したる始原は知ることを得ない」と。
ということは、宇宙が帰滅しても業は消えないということになりますかね。
「中論」第一一章 前後の究極に関する考察
一 偉大な聖者は、『以前の究極(はじまり)』(括弧:J追加)は知られない、と説かれた。何となれば、輪廻は無始無終であり、それには始まりも無く、終わりも無いからである。
二 始めもなく、終わりも無いものに、どうして中があろうか。それ故に、ここでは前も後も同時も成立しえない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507546
おっと、この章も宇宙論ではなく無自性の証明論?でした。
でも
「中論」第二七章 誤った見解の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530389
では
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
とも説いているんですよね。
この一九章で言いたいことは、輪廻に始まりがないならば輪廻が尽きる(解脱する)こともなくなるだろうからそれはあり得ない、ということのようですが、一一章との整合性はどうなるのでしょうか?w >>957
曹洞宗です。
うちの最も最寄りの寺が曹洞宗なので自然とその檀家になっています。
もっとも、近所には氏寺が浄土真宗の家もありますが。
(引っ越しとか実家の関係で必ずしも最寄りのお寺が氏寺になるというわけではないということですね) >>965
因果の法に依って業の滅は因の滅以外では起こらない筈ですから宇宙が滅んでも再生した時に因があればまた生死輪廻を繰り返すでしょうね
原因があるのに果報を受けないという事は不可能ですから >>842
>>空においてはその犬、猫、虎、熊、猿、そして動物という名字(概念)すらも無分別智により滅するのに、
刹那生滅の様子を「色即是空 空即是色」と表現している可能性もありますね。
https://ameblo.jp/hereandnow100/entry-10426385729.html >>921
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ初めまして宜しくお願いします♪
>「諸行無常」の裏を返す・・・とかけて
裏返し作業が無限に循環する・・・と解く
その心は?
一即多 多即一であり全てが無礙 >>962
勉強不足でその個所を存じないのですが、阿頼耶識の刹那滅が前提とされてる以上、刹那滅するものと思います。 >>969
深いですね・・・
https://dictionary.goo.ne.jp/word/無碍/
む‐げ【無×碍/無×礙】 の解説
[名・形動]妨げのないこと。何ものにもとらわれないこと。また、そのさま。「融通無碍」
「―な、それ故、ひとしお魂にしみる哀感で」 >>964
GJ!ですね。
まさにご指摘されてる通りと私も思います。
有部では、三世実有・法体恒有(ならしめるもの・実体・スヴァバーヴァ・ドラヴィア)と刹那滅(なっているもの・現象)を以って諸行無常を証明しており、そこが有部の弱点でもあると。
>けれども、『?舎論』ばかりでなくて仏教全体にそうですが、とにかく“諸行無常”ですから、そのほうが大前提ですから、そういうドラヴィアが体験的時間の中で、不変の状態で持続するということは、アビダルマでも認めないわけです。
>ただ体験的世界を構成する基本的要素としてのダルマは、体験的時間の上では瞬間に生滅するものでありながら、それ自体「ドラヴィアとして」未来・過去・現在にわたって存在する、というのです。
>上山春平;櫻部建.仏教の思想2存在の分析<アビダルマ>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.3455-3460)..Kindle版.
>上山 これはたいせつな点だと思うのですが、ドラヴィアというのがもしアリストテレスなんかの「実体」と近い概念だとしたら、仏教ではほんとうは認められないはずのものですね。
>実体はある意味で不変でしょう。
>それを「法体恒有」というふうな形でいうとしたら、ある意味で間違われやすいですね。
>無常論と矛盾するというのと、ドラヴィアであるはずのアトムも認めるわけですから。
>服部 『中論』が批判するのはその点ですね。
>上山春平;櫻部建.仏教の思想2存在の分析<アビダルマ>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.3471-3475)..Kindle版. >>964
>>般若心経解説サイトからの引用ですが(NGワードに引っかかるようでURLの貼り付けはできません)
もし、よろしければ、下記スレに貼っていただけますでしょうか。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1198392316/ ついでに
櫻部 それで『?舎論』と仏教の他学派、とくに大乗仏教の諸派、との関係に自然話が行くわけですけれども、説一切有部は今おっしゃった点を他学派のみんなから衝かれるわけです。
そういうものを認めるならば、諸行無常ではないではないか、それは仏教ではないではないか、というふうに皆から言われる。
それを説一切有部の立場から釈明すれば、それはスヴァバーヴァがなければダルマとはいえないのだけれども、そのダルマはみんな瞬間滅であってけっして常ではないんだ、
法体恒有なんだけれどもしかも瞬間滅で無常なんだ、と言うのです。
その二つ(法体恒有ということと瞬間滅ということと)をそれぞれにはっきりさせないから誤解が君たちに生じるけれども、われわれの考え方からいえば、
むしろ法体恒有であればこそ諸行無常ということも成立するんだ、と言うのです。
(上山春平;櫻部建.仏教の思想2存在の分析<アビダルマ>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.3475-3482)..Kindle版.)
という文中の
>その二つ(法体恒有ということと瞬間滅ということと)をそれぞれにはっきりさせないから
と云うのもインド的唯名論の証左と言えるでしょう。 >>966
曹洞宗ならば、般若心経の解釈は、本家ですね。
私は、浄土真宗なので、野次馬根性で 般若心経の解釈をしているようです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1592925387/33
レス番号33
無量寿経は、お布施の元を取るために、真剣に勉強しましたが、
般若心経の勉強は、かなりいい加減です。
私は、そろそろ、撤退したほうがいいかも知れませんね。 ろんさんみたいな ”うにゃうにゃへにゃへにゃほにゃほにゃ” はつまらないけど、きっちりソースを提示して詰めてくる方の文章は読んでて楽しい。 ま、法は筏だから、要らんとは言わんけれど、法があったら、それを認識する我がある、ということ。。
あっても邪魔にならん、であればいいかもだけれど。。
邪魔になるのであれば、煩悩だよね。。w 馬鹿鬼みたいに ”○○なのじゃ〜仏教” は、読んでると吐き気がするんだよなぁw ”認識に過ぎない” だの ”観念に過ぎないのじゃ〜” とか、だから何?
それがどうかしたの?
www
人間生活を歩んでるんだから、認識だの観念だの、それが空性を知りながらも、それを前提に高めていけばいいじゃないかwww
糞下らなくてアホすぎwww 訂正
”認識に過ぎない” だの ”観念に過ぎないのじゃ〜” とか、だから何?
それがどうかしたの?
www
人間生活を歩んでるんだから、認識だの観念だの、その空性を知りながらも、それを前提に人間性を高めていけばいいじゃないかwww
糞下らなくてアホすぎwww 英語学科だかを出た人が変な解釈をしたというとこに鍵がある。
要するに、心経の英文への翻訳が稚拙で、そっちが正しいと思っちゃったって事
英語ヴァージョンはまさに未了義経 >法があったら、それを認識する我がある
ご本人がどういう意図で書いたかは分からないけど、こうした表現がされてる限りにおいて、これはインド的な実在論に分類されるんでインド的唯名論にたつ仏教的な見方でなはいんです。 まぁ、あんまり厳密にいうと萎縮して文章を書き辛くなるでしょうから、これ以上は突っ込みませんけどw >>975
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ説一切有部はファジー論理に似ていますね
URLは貼れませんでした
>ファジー論理とは、さらに境界を細分化することで物事を捉えるやり方です。
ファジーとは元々英語の“fuzzy(「曖昧な」、「ぼやけた」を意味する)”からきています。
例えば、「山である」/「ほぼ山である」/「山と言えなくもない」/「ぎりぎり山である」/「山ではない」というように細分化が為されます。
このように、連続的な変化として、物事を捉えると、「一粒でもチョコの山」なんておかしな結論は出なくなります。
そうすると、確かに、前提とされる「チョコの山から一つ食べても、チョコは依然として山であり続ける」という部分は、
少なくとも否定されますので、パラドックスは解決されるように思われます。
それでも、やはり問題は残されます。
各々の状態の境界はどこにあるのか、と。
言語規定による解決
三値論理や、ファジー論理のような多値論理的解釈に解決方法を求めるやり方には
「境界の曖昧さ」という問題が残されます。そこで、言語規定によって問題解決が考えられるです。
つまり、「チョコの山」とは何個以上の、あるいは、どれくらいの体積の複数のチョコがあれば、
認められるのかを厳密に規定するのです。
そうすれば、「何個食べても、チョコの山は依然として山であり続ける」なんて結論は出なくなります。
数学的問題において、このようなパラドックスがみられないのはここに原因があります。数学では言語規定がきちんと為される。
全ての言語には定義が与えられる。
従って、曖昧なまま言語を用いないので、答えは明確に出される。
日常言語と数学的言語の大きな違いはここにあるのです。
この場合、「山である」という述語に、明確な言語規定が為されていない。
このような形式を「曖昧な述語論理」などと言ったりしますが、バートランド・ラッセルなどの著名な哲学者は、曖昧な述語論理を厳密な意味での論理に当てはめることはできない、としています。
曖昧な概念を論理に当てはめるから、この種のパラドックスが起こると言うのです。 >>964
お釈迦様の言葉が、風の如きもので、体系化、形而上学化を嫌った、あるいは、そうするつもりはなかったのにもかかわらず、
説一切有部が、形而上学化を行ったのであれば、大乗がそれを批判する、という成り行きは当然かもしれませんね。。
いつかは誰かが気づいて批判する、あるいは、批判されるであろう、というような「学説」を構築してしまった、ということでしょう。 >>984
現象学的な意味で言ったんですよ。。w
あるいは、心理学的な原理に過ぎません。。 仏教は教えではなく、悟ってもいないバカ坊主が持論を積み重ねていっただけw 空は無ではなく「あると思われる何かが欠けている状態」をいう意味だって誰でも知ってるよね。 というより
実体があると思い込んで執着してしまう状態から
離れさせるための
教えだよ ナーガルジュナも
「全ての誤った見解を断つ為に聖なる教えを説き示された
ゴータマブッダに礼拝いたします」と
記している 犬山みたいな「あなたご存じ?知識ヒケラカシ」文章は見てて恥ずかしくなるんだよなあ タチンボに中出し自慢するチワワ犬とか
色欲絶倫だよなあwww 無常・苦・非我なるものは
無常・苦・非我なるものと如実に観察すれば
涅槃を知る事が出来、またその逆も真
プッタタートという20世紀タイの高僧も
「何事も私、私のものと執着するべきでない
という教えが、三蔵中のたった一粒のダイアモンドと言っている。
そうまで言ってくれている「たった一粒」を心経の空と「無」に当てはめれば全部意味が通る。
五蘊にも我は無い(私のものは無い)十二処、十八界にも無いし
覚ったと思った縁起や四諦ですら自分のものでは無い、執着する理由は無い、
菩薩は全ての囚われから解放されて真の自由を得ている・・・
そういう事では? その指している対象が無いんじゃなくて
概念が無い、我は無い、執着する根拠となる実体は一切無い、私のものでない・・・ とはいうものの四諦説法も大事ですね
それに異論はありません。
お疲れ様でした。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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