X



トップページ心と宗教
1002コメント644KB
坐禅と見性第121章麦の秋、ひばり舞い歌う [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/05/11(木) 18:47:06.59ID:AiEhpwb9
このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
スレッドは来(きた)る者を拒(こば)まず、去る者は追わず。
会うものは、別れるものである。
遠山は青く、我を旅立ちへ誘う。
白い雲は、山にかかると、さっと左右に分かれ、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出し大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの修行僧が風景に溶け込む。
因縁果があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、次のステップである。
真理、ダルマ、法である、ほとけである、われら、
問う、「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
スレのお決まり、名無しは荒らし、と言う受け取りです、書き込みは固定ハンドルネームを付けてください。
【前スレ】
坐禅と見性第120章山の端に入道雲の湧き上がる音すなり [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1492668857/
【過去スレ】
坐禅と見性第119章丘の上に坐しポーンと投げ込み散骨す [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1491034101/
坐禅と見性第118章海底からの上昇流と海面からの下降流、休まず [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1489598771/
坐禅と見性第117章禅のアヒルは、泥水に注がれたミルクだけを飲む [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1488207163/
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486825130/
坐禅と見性第115章信念は無いけど新年 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483456330/
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止](c)2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/
坐禅と見性第113章銀椀裏に雪を盛る(ぎんわんりにゆきをもる) [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1481366150/
0665素人A
垢版 |
2017/05/30(火) 08:32:47.64ID:nNK92yEF
玉城さん、タンマの顕現 ・・道元禅師はなかなか複雑な方で、天才道元にして初めてあの『正法眼蔵』九十五巻を述作し得
たところの、たぐいまれな仏教者でありますが、その道元禅師が只管打坐という事を言われました。身も心もその全体が打つ
て一丸となり、全身心でひたすら坐る。その坐る事は、仏の自受三昧のことで、弘法大師は全宇宙が大三昧、すなわち法界定
であると言われた。地・水・火・風・空・識の六大無疑、すなわち全宇宙がそのまま三昧に参加することが只管打坐である。
これは単なる言葉ではなく事実だと思います。さつき法然聖人の念仏になぞらえて、凡人の実態を
さらけだしてしまいましたが、これが大三昧にあずかる凡人の実態です。そこがなんとも奇妙な所で人間の不思議というか、
大三昧そのものの不思議な力というか、どうともいいようがありませんが、ともあれ禅定に入って大三昧に吹きとおしにな
るとき、道元のいわれるようになってしまうのですね。
唯識とかマナ識とか、阿頼耶識とか言いますが、そんなものは吹き飛んでしまいます。マナ識ていうのは我執でしょう。
0666素人A
垢版 |
2017/05/30(火) 08:33:35.80ID:nNK92yEF
我執と言つても、ちようど樹の根っこの、細い細い白根のように大地の底深く、無意識の果てのなかに喰いこんでいる
のでしょう。第六意識の我執はなくなつても第七の我執は、睡眠のときも働いているでしょう。いくらそう言つたつて、そんな
ものは跡形も無く根絶やしです。だつて宇宙そのものと吹き通しになつていくので゛すから。
それが原始経典・大乗経典を通貫する如来というものでしょうか。ところがそれで終結しないのが大事なところです。
もうひひとつその先がある。先と言うか、根底というか、あるいは自己の共同体の、もつとも宇宙そのものの基礎と
いいましょうか。仏陀はそれを業熟体と言われた。業体、宿業体ですね。今日の言葉でいえは、人格的身体とでもいい
ましょうか。ここのところが仏道の最終的に最肝心の所ではないでしょうか。
玉城さん 仏より働かされている。・・このように見てくると、日本の仏教はさまざまな大乗の各学派に育てながら展開して
来たのであるが、結局我々は何に元ずいて救われていくのか。何によつてこの身が目覚めていくのかという切り詰めた問題に
対して、鎌倉の宗祖たちがそれぞれの解答を出したのです。ひたすら念仏して仏に帰衣していく、ただ坐ることによって仏に裏
打ちされれていく、身も心も仏の家に投げ入れて随っていく、信心は如来より賜りたるものなれば、信じるものは如来と等しい、
劣悪の己心のままが仏より立て直されていく、等等。それぞれの形で鎌倉宗祖たちは教えたのです。ここは共通の土俵が現れて
おる。すはわちわれわれは働きに先立つて仏に裏打ちされ、仏より働かされていると言うことです。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況