般若心経 実践篇
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ほとけの心は「で・あ・い」の三つに尽きる。
「で」は「デタラメ!」、
「あ」は「あきらめ!!」、
そして「い」は「いい加減!!!」
(ひろ・さちや)
般若心経
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522314305/ >>1 ひろさちや
☝ (;゚;ж(;゚;ж(;゚;ж(;゚;ж;゚;)ж;゚;)ж;゚;)ж;゚;)スペシャルブッ 君たちのようなめちゃくちゃな民族は後にも先にも君ら以外いないよ。
( ͡° ͜ʖ ͡° ) >>168
Don't think, feel ! 今日はショックが強すぎて、何も出来ない。
西城さんは、向こうに行くのが早すぎたな。 法華経と般若心経は、同じことを別の角度から説いたものです。
ですから、どちらの方が勝れているというような見方はできません。
理想は、般若心経(智慧)を学び、次に法華経(真理)を学んで、さらに智慧と真理とを統合することです。両方を学ぶことによって成仏に近づきます。 般若心経は、法華経よりも後に作られた経典ですが、般若心経の元となる摩訶般若波羅蜜経(般若経)は、法華経以前に作られています。
般若心経は、摩訶般若波羅蜜経から抜きだした文章と呪文とをミックスさせたものです。内容としては、摩訶般若波羅蜜経を要約したものです。
摩訶般若波羅蜜経というのは「大いなる智慧の完成についての教え」という意味です。
智慧というのは、真理を観察する知的能力のことです。
よく第三の眼と喩えられる様に、肉眼ではなく、知力にて真理を観ます。 法華経は、般若経の後に作られました。
般若経では、主体としての智慧をテーマにしているのに対し、法華経は、智慧によって観察される対象(客体)をテーマにしています。
つまり、仏が観察した真理について説いています。法華経とは、妙法蓮華経の略です。妙法というのが「正しい真理」という意味です。 般若=智慧(主体)
妙法=真理(客体)
ただし、智慧を完成させるということは、智慧と真理との一致のことですので、般若経も法華経も同じことを説いています。
主体と客体というのは、因縁(関係)ですが、覚った時には因縁を超えて、一切が空だという結論になります。
法華経のほうが勝れている、般若心経のほうが上だ、というのは、宗派や教団による見解であって、本来はそういう区別はしないほうがいいように思えます。 法華経方便品の「正直捨方便」の真実
坂本・岩本訳注「法華経・上」(岩波書店)のサンスクリット語に対応した和訳が分りやすいので引用します。
『そのとき、余はうれしくなり、自信をもち、ためらう心をすべて捨てて、仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった』
となっていて、それ以前に何か説かれていたものを、捨てるべきであるというような意味は含まれてないことが分ります。 「ためらう心をすべて捨ててかれらに「さとり」を勧めた」という原意を、正直捨方便という漢訳語に引きずられて、
『方便を捨てよと説かれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよと説かれて候』(「南条兵衛七郎殿御書」日蓮)と誤解してしまったのも分らないでもないですが、
もし、そうであるとすれば、声門、縁覚に対する教えや二乗作仏という法華に見える思想は、如何に解釈してよいのか?となります。 中村元博士は、著書の中で次のように解説しています。
『大乗仏教はそれまで、ただ小乗仏教をけなすだけでしたが、『法華経』では小乗をも容認しています。
私は本書の第二章に「宥和の思想」というタイトルをつけましたが、(略)法華経の宥和の立場は徹底しています。
『法華経』の広い立場にたつと、法華信仰と浄土信仰は決して矛盾したものではない、ということになります』 法華経には、折伏という言葉は出てこない。
法華経には、折伏に関する経文もない。 この経を説こうとするならば、仏道を学ぶ者を軽蔑し罵って、その長所短所を追求するようなことをしてはならない。
もしこの経を説こうとするならば、嫉妬心や、憎しみや、高慢さや、へつらい心や、欺く心や、偽りの心を捨てて、常に素直であらねばならない。
人を軽蔑してはならないし、教えについていたずらな論議をしたりしてはならない。
他人に向かって、「おまえは仏になれない」などと言って、その心を混乱させてはならない。
この仏の子が教えを説くときは、常に柔和であって、よく耐え忍び、一切の者を慈悲して、怠け心をおこしてはならない。
十方の大菩薩で生ける者たちをあわれむ心から道を行ずる者に対しては、「この人はわたしの大いなる師である」と恭敬の心をおこせ。
もろもろの仏に対して、「無上の父である」という思いをおこし、高慢な心を打破して、教えを説くのに障碍がないようにせよ。
(法華経 安楽行品) 『法華経』のサンスクリット語の原典『サッ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ』の直訳を読めば理解できますが、
インドに於ける『法華経』は「宥和一致」すなわち、仏教徒は属している部派や大乗・小乗等の区別は本来無く、
それらは仮初めの相違であって、全ては等しく仏となる尊極の存在であるから、
決して仲違いしてはならないと説く経典です。 初期大乗仏教の大論師である聖ナーガルジュナは
『中論』に於いて膨大な『般若経典群』に説かれている「空」に論理的な根拠を与えて
「法」(ダルマ)を実体視する「説一切有部」の教説を完膚なきまでに論破していますが、
決して古来より各部派が編纂した原始佛典を軽視していた訳ではありません。 彼は、仏陀の言葉を比較的ストレートに伝える原始佛典を尊重すると共に、
おおよそ彼の時代に創作されたであろう『法華経』や『阿弥陀経』と言った大乗仏典についても、
その偉大な価値を認めて『大智度論』等において絶賛しています。
殊に『法華経』は、アビダルマ佛教と大乗佛教の対立を解消する「開三顕一」と「開近顕遠」が説かれた「諸経の王」として尊重されてきました。 本来の『法華経』の精神は、
仏教の中の教えは全ては釈尊の衆生を救済せんとする慈悲心の発露から生まれたものであり、
そこには本質的に上下・勝劣は無く、
全ては時間と空間の制約を受けない「久遠の釈尊」の教えであると説いているところにあります。 『安楽行品』の文句は、その為の持経者の心構えを説いたものです。
今風の言葉で言えば、
仏教にはナンバーワンは無く、オール・オンリー・ワンなのだと説いたわけです。
ところが、喧嘩の仲裁に入った者が、
かえって喧嘩の両方の当事者から袋叩きに遭うようなもので、
『法華経』を奉じた人々が、
その「宥和一致」の思想のゆえに、
他の仏教徒から白眼視され迫害を受けるといったこともあったようです。 その為に、「譬喩品」には
「もしも、ある人が法華経を信ぜずして、この経典を馬鹿にして謗るようなことがあれば、その人は死後に阿鼻地獄に堕ちるであろう」
と説いて誡めているのです。
要するに、「喧嘩は止めましょう」と言う平和主義者を迫害する人が一番罪が深いですよ。と言っているのです。
この『法華経』の平和の精神は、
『華厳経』の「法界縁起」の思想や
『阿弥陀経』などの浄土経典とも何一つ矛盾することはありません。
まして、原始佛典の最古層に属する『スッタニパータ』に見られる仏陀本来の思想とも合致します。 ところが、仏教が中国に伝来すると、
多くの経典のサンスクリットの原典が漢訳されるに及び、インドとは異なり、
実体的言語である漢字に経典が翻訳された為、
「空」「無我」「中道」と言う概念すらも実体論的に解釈されるようになり、
本質的に仏教は変質したと言われます。 ことに『法華経』は「諸経の王」と言う文句がクローズアップされて、
この経典を翻訳した羅什三蔵は「創作経典の創作的翻訳」と西洋の研究者から後世に揶揄されるくらいに、中国人好みの文学的翻訳を行いましたので、
彼の翻訳した『妙法蓮華経』の評判は当時の中国に於いては高かったのです。
また、権威付けの為に「四十余年未顕真実」の文句のある『無量義経』というメイドインチャイナの経典まで偽作されて、いよいよその権威は高まりました。 元来、王権が脆弱であったインドとは違い、
統一主義・歴史主義の色彩の濃い中国文化にあっては、
インドでの経典成立の事情や
翻訳家の意図を知らない多くの佛教家達は、
経典は全て
「釈尊一代の金口の直説」
であると受け止め、
釈尊の生涯の何時頃どの経典が説かれたか、或いは経典の上下・勝劣等のランク番付を行い、
一番勝れていると思われる経典を拠りどころにして「宗旨」を立てました。 隋の時代の佛教家である天台大師は「五時八教判」によって、
釈尊一代の経典の中で釈尊の真意を説いているのは『法華経』であり、
他の経典にもそれぞれ意義はあるが、それらは全て仮初めの経典であり、
『法華経』を蔑ろにするならば、仮初めの教えを『法華経』の立場から破折しなければならない。
と説きました。
これが有名な「法華折伏破権門理」です。 中国佛教の影響を受けた我が国の佛教の考え方も概ね「教判佛教」なので、
天台宗出身の日蓮が「法華折伏破権門理」の天台の言葉を崇めて、
末法の世には『法華経』に帰依して「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしか救われる道は無く、他の経典を尊重している宗派は全て邪宗である。
として、彼独自の宗旨を建立したのです。
要するに天台大師も日蓮も、
インドに於ける経典成立の過程を知らず、
サンスクリット語の原典を読んだ訳ではないのです。 「地涌の菩薩」が迫害されるという記述は法華経にない。
「不軽菩薩が」難に遭う。
天台教学で法華涅槃と一つに括った事から、
涅槃経に書かれている折伏思想のコンセプトで、
法華経も解釈した為に「法華折伏」となった。
少し纏めると、
不軽菩薩の様に行動出来る人が法華経の行者。
他人を誹謗中傷罵倒するのではなく、
他人から誹謗中傷や罵倒されても堪え忍ぶ人が法華経の行者。
ということです。 常不軽菩薩は礼拝行です。
折伏ではありません。
『常不軽菩薩品』は、釈尊の得大勢菩薩摩訶薩へのこの言葉から始まります。
このことを念頭に置いて読まないと、へんてこな解釈をすることになります。
汝、今当に知るべし。もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の法華経を持たん者を、もし悪口・罵詈・誹謗することあらば、大なる罪報を獲んこと前に説く所の如し。その所得の功徳は向に説く所の如く眼・耳・鼻・舌・身・意清浄ならん。 このことは、法華経の大きなテーマです。
一切衆生は成仏の可能性がありますから、誰もが修行次第で成仏ができます。
そのことを常不軽菩薩は、行き交う人に伝えてまわりました。
しかし、譬喩品では、
「無智や慢心の人にこの教えを説いてはいけない」
と戒めています。
この言葉をむやみに説けば、怒りだし攻撃してくることが予想できるからです。カースト差別、男女差別、仏教教団内の差別のあった時代ですから、
一切衆生の平等を告げる常不軽菩薩は、人々から非難を受け、誹謗され、暴力を受けました。 常不軽菩薩は、
ずっと礼拝行を続け、死ぬ間際に空中の声を聞きました。
それは、仏陀の声であり、法華経二十千万億の偈だったといいます。
そのすべてを受持した常不軽菩薩は、その功徳によって六根清浄を得て寿命を永らえました。
その後、常不軽菩薩は、説教苦的に法華経を説いて回りました。
以前に常不軽菩薩を誹謗した者たちも教えを聞きに集まりました。
しかし、常不軽菩薩を誹謗した罪によって、阿鼻地獄に墜ち、千劫もの間大苦悩を受けたと言います。
罪を滅し終えてからは、再び常不軽菩薩のもとに生まれ、修行をしています。
この常不軽菩薩というのは、過去の釈尊であり、常不軽菩薩を誹謗した者たちとは、今、釈尊の説法を聞いている会衆です。 日蓮の在世には、正しく仏教の歴史を知る術はありませんでした。
伝承に従うしか無かったわけです。
また日蓮は天台の影響を受け、
五時八教を根拠に他宗批判をしていました。
「四十余年 未顕真実」を根拠に法華経以外の経典を爾前権教といい、排斥しました。
それは五時八教が正しいという前提の解釈ですから、
近代仏教学で、五時八教が否定されてしまった以上は成立しません。
日蓮が本仏ではない証拠ですね。
日蓮も人間だということです。 常不軽菩薩の「二十四文字の法華経」とは、
「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏」
(私は深くあなたたちを敬い、決して軽んじない。なぜかといえば、あなたたちは皆、菩薩の道を行じて成仏することができるからである。) 一般の創価学会の信者に邪な人は居ません。邪なのは、信者を騙し続ける創価学会です。
仏教を騙り
法華経を騙り
日蓮聖人の教えを騙る
似非仏教集団の闊歩する時代。
巧妙に嘘とデタラメを
真実と偽る集団に、
国政を任せてはなりません。 上座部系
ttp://suttanipata.com/2017/10/20/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A4%EF%BC%98%EF%BC%94%EF%BC%97%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC/
スッタニパータ 847
仮設としての
縁起している世界の中で
掴もうとしている
想いと偏見とに固執した人々は
無明に依存して
互いに衝突しながら、世の中をうろつく
− これを対処するために −
非想非非想も超えて
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない
法界体性智からの
智慧と慈悲によって
無明から
解脱した人には、迷いが存在しない はっきりいって、研究者になりたいのか、求道者になりたいのか、
そこははっきりさせたほうがいい
仏教を研究したいのか、自分で実践して真理を会得したいのか、
この両者ではアプローチはまったく違う >>69
ちょっとゾッとしました。。
心からご冥福をお祈りします(-∧-) http://zen.halfmoon.jp/yonnseiku.html
四聖句
達磨大師が言われたとされる禅の根本思想。
「不立文字」(ふりゅうもんじ)
「教外別伝」(きょうげべつでん)
「直指人心」(じきしにんしん)
「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)
この4つの句は別々の独立した教えではなく、4句が繋がりあって禅のいうところの悟りの到達までの道標を示すものである
六祖壇経
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rokusodannkyou4.html
慧能
その〈不立〉ということばがやはり文字であるのだ。経典をそしってはならぬ。 >>203
dp9さん
おはようございます。
西城秀樹さんの急逝は、凄いショックでした。
秀樹さんの歌は、カラオケでも何回も歌いました。
心からご冥福をお祈りします。 >>202
別に専門家になるつもりは、ありません。
何気ない日常生活に活かしてこその宗教・哲学だと思います。 「わたしはどんな苦しい場面でも直面しても
『えい!くそ、やれるだけやってやれ』
という開き直りができるのが、自慢ではないが、わたしの精神力のたくましさだと思っている」(アントニオ猪木:談) >>205
おはようございます。バルタンさん(*゚ー゚)v
ショックでしたねえ。。
日本の偉大な人がまた一人逝ってしまいました。
彼のダイナミックな歌が、私の音楽的素養の原体験の一つだったことは間違いないと思います。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E7%A6%85
無明に依存している
増上慢(ぞうじょうまん)?
我癡・我見・我慢・我愛
ttp://www5.kcn.ne.jp/~kannon/buddhism/MiniSermon201109.html
般若の大悲・大智によって → 信と解に応じる
信と解が ← 般若の大悲・大智を受け入れる
ttp://suttanipata.com/a/
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
光り輝いている大悲・大智が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
ttps://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
人々の心に合わせて導く
各人の宗教的能力に合わせて導く
煩悩ぼんのうを打ち砕いて導く
真理に直接導く( ← これが禅宗系なのかしらん?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82
真如(しんにょ)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97
臨済宗(りんざいしゅう)
(仮設としての色受想行識が依存している)
依他起性している世界を超えて
光り輝いている仏性(如来蔵)そのもの
言葉による理解を超えた世界そのもの
ttps://kotobank.jp/word/%E9%A0%BC%E8%80%B6%E7%B8%81%E8%B5%B7-147875
頼耶縁起(らやえんぎ)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
種子は
阿頼耶識を飛び出して
→ 末那識・意識に作用することがある
→ 前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると
→ 外界の現象から縁を受けることもある
→ 前五識から → 意識・末那識を通過して
→ 阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される とりあえず、「正法眼蔵」がいいらしい。
曹洞宗の高僧とか、在家の修行者でも、
これを読んで悟りを開いた人が、昔から非常に多いことで有名らしい。
他に、「歎異抄」によって目を開かれたという人は沢山いる。
経典では、「法華経」を熟読することによって
悟りを得た人も多いと言われる。 名も無く地位無く姿無し。
されど、この世を照らす光あらば、
この世を斬る影もあると知れ。
天魔伏滅! インドでは、釈迦が仏教を創始する以前から、
パリッタという呪文が民間に流布していた。
毒蛇に噛まれたときや病気平癒、雨乞いなど何か危難に遭ったときに、人々は呪文をとなえて災厄をのがれようとした。 釈迦は呪文や呪術的な呪いなどを用いることを厳しく禁じていた。
仏教は神のいない宗教であり、釈迦の教えに従って生きることによって、
人間が持つ短所が次第に無くなり、やがては完璧な人間になることを目指す。 しかし、仏教が広い地域に住む様々な階層や種族の間に広まっていく過程で、
その地域の人々の習俗や信仰を取り入れていく必要に迫られた。
そこで、釈迦の本来の教えに反して、呪文や呪術が仏教にも取り入れられたのである。 般若心経の言葉も、インドから中央アジアの広い地域で唱えられていた呪文なのである。
漢語に音訳したもの
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい はーらーそうぎゃーてい ぼーじそうか [呉音] )
サンスクリット語の読み方
gate gate para-gate para-sam-gate bodhi svaha
(ガテーガテー パーラガテー パーラサンガテー ボジスヴァハ)
真言 (マントラ) として、この部分を唱えます。 般若心経の作者は、大乗仏教の根幹を成す「空」の思想を広めるために短い経典を作り、
その末尾に漢語に音訳したもの
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
の呪文を加えたのである。 このような多くの呪文が次第に仏教に取り入れられ、次第に醸成されたのが密教で、
古い時代に呪文を集積した密教を「雑密」と呼ばれ、
そして、それらの呪文を整理して組織体系化し仏教的に整備したものが「純密」と呼ばれた。 閑話休題
真言立川流は、
慶長以後に殆ど絶えてしまっているため資料は少なく、その実態は捉えにくい。
「陰陽思想や陰陽道の要素が取り入れられている」
「南北朝期に文観という僧侶が中興の祖として広めた」
などと語られる。
また、
「オーガズムが即身成仏の境地であり、性的な結合により悟りに近づくという教えのため、男性の精液と女性の愛液の混合物を本尊である髑髏に塗りたくるという儀式を行っていた」
などと言った扇情的な風説は特によく知られるところである。 「性的な邪流」という立川流の評価が定まった理由を探ると、
1375年に宥快という真言宗の僧が著したという「宝鏡鈔」という文献内で、立川流が上記のような儀式を行っている、として糾弾されているところに遡れるという。
その「宝鏡鈔」は、さらに以前の時代に心定という僧が記した「受法用心集」の内容を引用している。 教団の本尊は髑髏であり、
その髑髏は智者、行者、国王が良いとされ、
漆を塗って歯をつけ箱に納めるという。
そして、その前で男女和合し、その混ざり合った体液を髑髏に塗りつける事を120回繰り返すという凄まじいものである。
毎夜丑三つ時に反魂香を1000回炊き込み、
和合し混ざった体液で曼陀羅を髑髏に描き、
女性の経血で染めた錦で何重にも重ね置くと、本尊が眼前に現れ、
過去・現在・未来の事を告げ、行をしている本人は神通力が身に付くという。 インドでは、仏教が起こる以前から、「タントラ」という西洋でいう「性魔術」が行われていた。
タントラでは、万物は男性の原理と女性の原理が一体となったときに生じる生命力によって成り立っていると考える。
男性原理を象徴するヒンドゥー教の最高神シヴァと、
その妻で女性原理を象徴するパールヴァティーの結婚で生じる「シャクティ」と呼ばれる絶大な生命力が、
森羅万象を生々流転させると考える。 このタントラ密教は「左道密教」と呼ばれ、チベットなどで取り入れられて大いに栄えたが、
中国や日本では、隠蔽されて表舞台には現われなかった。
空海がもたらした「理趣経」は左道密教の系統に属し、立川流の典拠の経典の一つになっている。 タントラの秘儀とは、
シャクティを覚醒させるために五つのMを実践する。
これは、密教で「五魔事」と呼ばれる。
酒(マドゥヤ)
牛肉(マーンサ)
魚(マツヤ)
炒穀(ムドラ)
性交(マイトゥナ)
どれも仏教の戒律では厳しく禁止されているものである。
特に太古から牛を神聖視してきたインドで牛肉を食べることは、極めて恐ろしい破戒行為だった。 秘儀では、
髑髏を本尊とし、
その前で酒や牛肉を次々と飲食し、
最後に麻薬をあおってボルテージを最大限に上げたうえで、
髑髏の前に敷かれた曼荼羅の上に男女が横たわって性交する。
ここでボルテージは極限に達し、
シャクティが全開になって悟りに達するという。
立川流の秘儀は極秘裏に行われていたが、ときに発覚して官憲に弾圧されたのである。 九字護身法(くじごしんぼう)とは、
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。
ただし本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられる作法ではなく、
道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、
その他の様々なものが混在した日本独自の作法である。 六甲秘呪は『抱朴子』内篇第四「登渉篇」に晋の葛洪が「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」と唱えたとある。
日本での九字作法は、
独股印を結んで口で「臨」と唱え、
順次に大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、宝瓶印(別称:隠形印)を結び、
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」を唱える。
次に刀印を結んで四縦五横の格子状に線を空中に書く。
道教では縦横法と称し、修験道等では俗に「九字を切る」と称する。 修験道では九種類の印にそれぞれ、
毘沙門天・十一面観音・如意輪観音・不動明王・愛染明王・聖観音・阿弥陀如来・弥勒菩薩・文殊菩薩を本地仏に配当する説がある。
ただし不動明王の印である独股印が毘沙門天、金剛界大日如来である智拳印が阿弥陀如来など、
印の形と本地仏とは関連性のない配当がされており根拠は不明である。
また外獅子印、内獅子印の二つはインド撰述の密教経典には見られない、日本独自の印である。 九字は中世には護身、戦勝の利益があるとして、武人が出陣の際の祝言に用いるようにもなり、やがて忍者の保身の呪術としても使われた。 早九字護身法
主に忍者が使っていたとされるのがこちらです。
右手を刀に、左手を鞘に見立て、縦4回、横5回に空を切る動作を行う。
横、縦の順にマス目を描くように切る。
はたから見るとクリスチャンの十字を何度も切っている感じ。 空を切るその様子から、俗に「九字を切る」と呼ばれる早九字護身法。
いちいち複雑な印は結ばず、手刀で空を切る動作に簡略化されている。 その簡便性から、臨時の精神集中や厄除けの手段として武士や忍者にも広く用いられた。
忍者達は戦の前に、落ちつくための精神統一法として印を結んでいました。
伊賀忍者たちも、戦の前はもちろん、
朝は太陽に、夜は月に向かって、朝晩2回九印を結び、日々気を高めていたと云われています。 『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!』
戦や潜入作戦の前に、印を切る。
忍者たちはそれにより「自分は神仏の加護を得ている」「守られている」と強烈な自己暗示をかけていたのだ。 忍者や忍術のルーツは古代中国とも言われており、兵法家の孫武の書に間諜(スパイ)に関する解説があります。
『日本書紀』には敵国新羅から間諜が潜入した旨が記されており、
聖徳太子も「志能便(しのび)」と呼ぶ役割の者に政敵の内情を探らせていたと言われています。
このことから、日本で忍者の祖先が暗躍し始めたのはおそらく6世紀頃からのようです。 その後忍者は
山岳修行や修験道を介して地方の権力者と結びつき、
多くの技を磨きながら情報ネットワークを形成していきました。
ただし「忍者」という言葉が定着したのは昭和時代以降で、
しのび、軒猿、水破(すっぱ)、突破、草、隠密、お庭番、甲賀者、伊賀者など各地で多様に呼ばれていました。 忍者の任務には暗殺や破壊活動も含まれる危険な仕事。
日々様々な技を鍛錬していました。
主な技としては
「隠れる」「水を渡る」「登る・飛ぶ」「歩く・走る」「伝える」などの行動を磨いたものや、
「侵入」「盗聴」など敵地に乗り込む際に必要な能力、
「矢止め」「針術・火術・手裏剣」など敵との闘いに欠かせない技術が挙げられます。
さらには人を惑わす「幻術」「人心掌握術」「占術」、「消臭」や「秘毒・秘薬」作りまで、信じられないほど多岐にわたる技を身に着け、
どれほどの訓練が必要なのかと驚くばかりです。 全国各地で忍者は活躍していましたが、有名なのは三重の伊賀者、滋賀の甲賀者ではないでしょうか。
特に忍者といえば真っ先に名の上がる伊賀者ですが、
元々は地侍の総称で四方を山に囲まれた地で勢力が分立し、
室町時代まではそれぞれに傭兵として時の権力者たちに用いられていました。
伊賀者が結束し名を馳せたのは
攻め入った織田信長を一度撃退したことと
徳川家康の伊賀越えを警固した功績が大きく、
特に服部半蔵は家康に重用された忍者として有名です。 私、すでに武士道を日々の生活で実践しておりますので、これに密教を加えたら
それこそ忍者になってしまいそうですねww
それはなんかちょっと嫌だなw
くのいち、とかって聞いてもいまひとつ心が踊らない、
っていうか基本的に殺しの専門職、スパイ、ですからね。
峰不二子みたいになっちゃうんでしょうか?
ちょっとカッコいい気もするけど・・やっぱ自分には向かないww
でも立川流とかの性交儀式は・・クラクラするほど心惹かれちゃいますね(o ̄∇ ̄;)o
やっぱり自分は煩悩だらけなのでしょうか・・ >>239
今晩は。
「ウォッカマティーニをシェイクで」
ジェームズ・ボンドが愛飲したカクテルを楽しみましょう。
ウォッカマティーニは、1962年に公開された映画『007』の第1作「ドクター・ノオ」に早速登場します。
アメリカとソ連の冷戦下、味方の諜報部員の死の背景を探るため、ジャマイカに飛んだMI6のエリート諜報部員ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)。
記念すべき最初のウォッカマティーニは、南国のホテルのスイートでルームサービスから供された一杯でした。
サービスの男が「ミディアム・ドライ・ウオッカ・マティーニ。
ご注文通り、ステアでなく、シェイクで」と告げ、ロックグラスにオリーブをあしらった一杯をボンドに渡します。
これ以降、映画007シリーズには、華麗なシャンパンとともに、しばしばこのカクテルが登場することになります。 >>239
煩悩だらけでいいじゃありませんか。
神様に逆らいましょう! >>239
こんばんは^^)
まあそこは仕方ないですよね。
別に自分で抑える気もないし。
武士道の修行では煩悩は無くならないみたいです^^;)
神様っていうのはどの神様ですか?
私は唯一絶対神は信じていませんし。
あなたもスーパーエコドライブぐらいやってみませんか? >>242
神様は人それぞれでいいと思います。
私は神と闘う側ですので(V)■¥■(V) どれだけ武道やら格闘技にのめり込んでも、
読書の習慣のある人間は、のめり込んでいる自分の位置がわかる。
客観的なもう一人の自分が、自分を見つめる。
そうでないと、何も見えなくなるよ。 >>244
全くその通りだと思います。
逆に私は読書ばかりなので、本当は「武」の方を鍛えなければいけませんが、
私にとってはそれが「芸能の道」なのだろうと考えています。 「心の動きを鎮める、心をコントロールする」ためには「呼吸をコントロールする」ことが大切です。
呼吸は脳の活動と密接につながっていて、深くゆったりとしたリズミカルな呼吸は、
心を落ち着かせ、穏やかで満ち足りた心の状態を作ります。
呼吸法
https://youtu.be/2MXd75Z56io おやよう・・
こんなところにいたんだw
君のいる町 TV episode 03(中字)
https://www.youtube.com/watch?v=-rRpfpIJ-s4&list=PLxb5X3nMKLneDmteT5mBHiBOoOZOjvJcX&index=3
君のいる町 TV episode 04(中字)
https://www.youtube.com/watch?v=R_jifp6NRDg&index=4&list=PLxb5X3nMKLneDmteT5mBHiBOoOZOjvJcX
彼女にふられて、その彼女が友人と付き合っていた。
その友人は、そのことを知らない。
どうしたらよろしいでしょうか?
呼吸法じゃ、絶対に無理だと思います。 >>247
おはようございます^^)
諦めるしかないんじゃないでしょうか?
辛いことなんて、それに代わる幸せなことがあればすぐに乗り越えられます。
新しい彼女を見つけに大海原に漕ぎ出しましょうp( `o´ )q
みんなそうやって生きています。
友人には自分からは何も言わないほうがいいでしょう。
付き合っていたことを他の友人も知っているのであれば、どのみちすぐに友人の耳に入りますし。
自分で伝えるのはそれこそトラブルの元です。 >>248
p( `o´ )q
ありがとうございます。
https://www.youtube.com/watch?v=kZBwnLzDGOk
木の芽風 ハヤテver.
愛されたい 触れられていたい
求めるばかりの気持ちは 日々を曇らせてた
友人曰く、見守る愛もある。
それはさておきw
この作品は、ヒロインが主人公の友人を本当に好きなのか、同情なのか。
最後まで曖昧で、読者に考えさせるというところかもしれませんが。
読者としては、はっきりしろよって感じです。
そのために、全巻買ってしまった。
いや、本題そんなことじゃなかった。
呼吸法で、ふられた気持ちを落ち着かせることが出来るか。
でした。
にわか仕込みじゃ。駄目でしょうね。 この作品は、ハヤテのごとく!じゃなくて
君のいる町です。 >>249
呼吸を整えることも含めて、リラックスは全ての基本だと思います。
そうなれた時に新しい発想や気持ちの切り替えができるものです。
そこに万能性を求めることはお門違いだと思いますが、
日々の心がけとして実践することは大変意味のあることだと思います。 dp9さん、タさん、おはようございます。
>>247
この作品は原作もアニメも観てないのですが、
友人と彼女が付き合っているが付き合っているというシチュエーションなら、10代の頃に経験があります。(遠い昔だなぁw)
結果としては、友人と彼女の二人と縁を切りました。
選んだ道は、第三の道です。自分のダンディズムに従った。 文がおかしいですね。
〇友人と彼女が付き合っているというシチュエーションなら もし、友人が私と彼女の関係を知ってて、付き合ったなら、喧嘩になったでしょう。
友人は知らなかった。罪は無いです。
この時は、彼女にガッカリしました。こんな奴いらん!となったわけです。 今夜はモロボシ・ダン(ウルトラセブン)と鏡京太郎(ミラーマン)に会いに行きます。
http://www.jolichapeau.com/smartphone/ >>251
感心しました。
でおーが目を止めるわけですね。
その行為は、求道者ですね。
>>252
>(遠い昔だなぁw)
思い出話をありがとうございます・・
この作品は、
イラストと音楽とヒロインの声のマッチングいいんだよ。
虜になりましたw
今でも時たま、思い出します・・ ウルトラセブンとミラーマン。
ヒーローは歳をとっても格好いい!
http://kohji.moritsugu7.net/20131214.jpg
これは数年前の写真ですが、今日もこんな感じでした。 空の人
哲学者・ガッツ石松の名言集
新幹線こまちに乗っている時「いやーまちこは快適だなー」
「いやぁ〜、怖いのが半分、恐ろしいのが半分でしょうね」
ドッキリで宇宙人相手に「こらー近所迷惑だからやめろ!」
タクシーの運転手に「そこ右に左折して!」
司会者:「では、ガッツさん、好きな数字を選んで下さい!!」
ガッツ:「じゃあ、ラッキー7(セブン)の3!!」
あるインタビューにて、
ガッツさん「私はボクシングで人生が380度変わりました」
ガッツさんがスピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」のオーディションを受けに行った時の面接にて・・・。
スピルバーグ監督「君はなぜこのオーディションを受けたのですか」
ガッツさん「事務所が行けといったから」
クイズ番組にて、
司会者「太陽はどこから昇るでしょうか?」
ガッツさん「太陽が昇るのは右からだろ」 クイズ番組にて、
司会者「次の曲を歌っているヒトは誰ですか?」
〜♪もしも私が家を建てたなら…(小坂明子「あなた」より)
ガッツさん「オンナの大工!」
クイズ番組にて、
司会者「世界の三大珍味です。トリフ、フォアグラ、もうひとつは?」
ガッツさん「サキイカ!」
司会者「残念ですが違います」
ガッツさん「あっ、思い出した・・・キャタピラ!」
クイズ番組にて、
司会者「同意語の問題です。ファスナー、チャック、もう一つの言い方は?」
ガッツさん「社会の窓!」
司会者「う〜ん、いいでしょう特別に正解とします」
クイズ番組にて、
司会者「アップダウンクイズ、司会はわたくし○○です。そしてアシスタントは・・・」と
隣のアシスタント役の女性にふったその時、解答者席のガッツさんがピンポーン。
ガッツさん「佐々木みえ!」
クイズ番組にて、
司会者「実力があるのに寧ろそれを隠すようなことを、日本のことわざでは、
能ある鷹は○○○○○と言います。さて何と言うでしょうか?」
ガッツさん「えぇ…えぇ…わかった!のうあるタカは・・・アタマがデカイ!」
クイズ番組にて、
司会者「ガッツさんナゾナゾ問題ですよ。よく考えて下さいね。
5+9+3は(ごくろうさん)。それでは、1+9+3は?」
ガッツさん「えぇ…えぇ…わかった!12!」
司会者「残念!答えは(一休さん)でした」
ガッツさん「あっ!そうだった…ナゾナゾだったんだよな。オレ、マトモに計算しちゃったよ」
時代劇の撮影を終えたガッツさん、ちょんまげのカツラを脱ぎながら一言。
ガッツさん「こんなに暑いものを毎日かぶって、昔の人は大変だったんだね」 世界タイトルマッチの解説で挑戦者の気持ちを尋ねられ衝撃のコメント。
ガッツさん「いや、怖いのが半分、恐ろしいのが半分でしょうね」
同窓会に参加して、
ガッツさん「お〜、老けたな〜!いくつになったんだ?」
土木作業員のことを土曜日と木曜日しか働かない人だと思っている。 ガッツさんが選挙に出馬したとき、
ガッツさん「いざとなったらこの右ストレートで乗り切ってみせます」と言って左手を前に出していた。
世間で新人類なる言葉がブームになっていた頃、
ガッツさん「今いろんな奴がいるけど、俺だって昔は類人猿っていわれてたんだよ」
「ゆりかご」が正解の連想ゲームにて・・・。「赤ちゃん」→「入れるもの」→
ガッツさん「コインロッカー」
急ぎの時は電車の先頭に乗る。 サインに「ガッツ右松」と書いた。
パスポートの申請で性別(SEX)の欄に週一と書いた。
バナナがうまいのは20本まで。
ん〜、オフの日はあんまり仕事していないよ。
きょうは歯が痛いから、歯医者をサボった。
ガッツ家の猫の名前は「ネコ」だそうだ。 (「倒壊のおそれがあり、渡るな!」と看板が立っている橋で)ああ、これ知っているよ〜、俺 “一休さん”を見ていたもん(と真ん中を歩いていった)
「世の中ってのはふり≠ェ必要なんだよ。怒ったふり∞知らんぷり∞死んだふり≠ニいうね」
東洋ライト級王者時代、池袋の路上で弟にからんだヤクザ8人を相手に喧嘩をし、
たった一人で全員KOしたという事件を起こし(この事件の新聞の見出しは
「石松、場外で8人KO」だった)、
現行犯逮捕された(後に正当防衛を認められ釈放された)。
その時の事情聴取でガッツは
「チャンピオンは“いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならない”と賞状に書いてある」
と供述したため、
これ以降チャンピオンに渡される賞状からその文言が削除されている
(本来は「組まれたマッチメイクを受ける義務」の規定である)。
ちなみにさすがのガッツでも8人と同時に喧嘩をしても勝ち目はないと判断したのか、
細い路地に誘い込み8人に対して常に「1対1」で勝負して勝ちを収めた。 >タクシーの運転手に「そこ右に左折して!」
ふかいなぁw
俺も自慢じゃないが、右と左を間違えるんだ。頭の中じゃ右なのだが、口じゃ左って言ってしまう。運転している人に怒られる。
ガッツさん、凄い!
>ガッツさん「私はボクシングで人生が380度変わりました」
笑い焦げたが、意味がわからん・・
>ガッツさん「社会の窓!」
だめだ。笑い転げた。 すべては実相。
これを許せるかどうかでしょうね。
ということは自分が許せるかということでしょうね。
相手を許すとは自分を許すことなのでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています