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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2008年(主日A年) 6月22日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
マタ 10:5-42 は、12人 (使徒たち) へのイエスの教えとしてまとめられています。
マタイ福音書の編集者は、他の福音書の中に散在している同じ数々の伝承を、彼の時代の教会の教師や指導者のためのいわばマニュアルとして、ここに集めました。
私たちは、新約聖書を単純な歴史の記録や伝記のようなものと考えてはなりません。
それは歴史的事実と、その事実に対する使徒たちや福音書記者たちの解釈と、この二つを共に含んだ福音証言の文書であることを理解する必要があります。
主イエスは復活して、天と地の一切の権能を授かりました(マタ 28:18)。
今や、全世界に福音を宣べ伝える使命が、教会に与えられています(マコ 16:15)。
この福音は、覆われ、隠され、暗闇で耳打ちされているようなものであってはならないと、マタイ福音書は訴えました。
O.クルマンは “原始教会の信仰告白” という本の中で、次のように述べています。
「それゆえ原始キリスト教の信仰の中心点に位置するものは、その復活と神の右に挙げられたもうたことに端を発する、キリストの現実の支配である。
キリストが現に全宇宙を統べたもうこと、天にありまた地にあるすべての力が彼に与えられたことを肯定することが、歴史的にまた神学的に、われわれの研究対象とするキリスト教信仰告白の核心である。
その最も単純な表現は、主キリスト (ΚΥΡΙΟΣ ΧΡΙΣΤΟΣ) という定式である。」
この “イエス・キリストは主である” という定式が、迫害の際には異教徒の総督や王の前で宣言されました(マタ 10:16-20)。
キリストの福音を宣べ伝え、この信仰を証言することが、教会の教師や指導者の資格であると、マタイ福音書は語っているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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|ミシ ̄━━i,,〜,,i━━!'''" “王貞治は王である” という定式
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| . |  ̄ ̄`ー--‐′ >>583 神学者の学説を短文で引用しても意味はありません いきなりのレス違いお許し下さい
細かくは書けませんがカトリックに助けて頂きました
一言お礼が言いたくて
ほんとうにありがとうございました。 2005年(主日A年) 6月26日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
福音書に収録されているイエスの語録は、これを編集した当時の教会の信仰による再解釈を伴って伝えられて来ているということを、理解しましょう。
それは至極当然なことであって、福音書は昔のイエスの思い出の教えを集めた単なる記念文集ではありません。
その当時の教会の置かれている状況の中で語られる神のことばとして、それらは再解釈され、編集して収録されました。
これらの編集された語録を通して語っておられるのは、思い出のイエスではなくて、復活して天におられる現在のキリストでありますから、
その再解釈とは人間の勝手な創作ではなくて、天の国に至る救済史を導いておられる神からのものであると、私たちは承知しなければなりません。
教会の福音宣教を支え、これを導いておられる方が、宣教の奉仕者たちに向かって語っておられるのです。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ vv.37-38)
御国の福音を宣べ伝えるという教会の使命は、多くの大切な使命の中の一つ、多くの良き業の中の一つではなくて、まさに使徒継承の教会に復活の主から委ねられた最大かつ第一の課題であることを、私たちは福音書から聞き取らなければなりません。
この使徒的使命は教会の教導職だけのものではなくて、等しく信徒にも委ねられているものです。
自ら受けた救いと神の国の希望について弁明出来るように備えていることは、すべてのキリスト者の当然の自覚でなければならないからです(Iペト 3:15 参照)。
教会憲章は次のように述べています。
「信徒の使徒職は教会の救霊活動そのものへの参与であり、すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される。」(33)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より PONTIFICAL COUNCIL FOR INTER-RELIGIOUS DIALOGUE
DIALOGUE AND PROCLAMATION (対話と宣言)
3. INTERRELIGIOUS DIALOGUE AND PROCLAMATION 1. INTERRELATED YET NOT INTERCHANGEABLE
78. Awareness of the circumstances (周囲の状況を知ること)
私はこの 78 に深い関心を持ちました。教会がその使命を果たすためには、祈りのこもった識別 (prayerful discernment) が
要求されると書いてあるので。
ttp://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_councils/interelg/documents/
rc_pc_interelg_doc_19051991_dialogue-and-proclamatio_en.html ┏━━━━━━┓
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 ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ ̄ イエスは禁欲なんかしていません。
自分のことを、大酒のみの大食漢と評しています。
人を裁くファリサイ派にお前も、情欲の目で人を見たことがあるだろう、
人を裁くなという意味で言った言葉を、曲解しないで下さい。
現代国語の先生が、「情欲の目で人を見るな」と
「情欲の目で人を見るのは姦淫に等しい」と
同じ言葉だと教えるでしょうか?まったく意味が違います。 >>591
>現代国語の先生が、「情欲の目で人を見るな」と
>「情欲の目で人を見るのは姦淫に等しい」と
>同じ言葉だと教えるでしょうか?
教えません。それは現代国語の先生が他者の霊魂の救いを
まったく考えない者としての発言だからです。(あ。そうか)
イエス様は、霊魂の救済の観点から、教えを説かれています。
心の中でも情欲をもって人を見るのは姦淫に等しいとして、そのような心が
自分に湧いたならば、その都度、反省して生きたほうがいいのです。
そういう心で生きていると、女性の第六感でイヤらしいと判定されることのない
事実、内側から上品な人となるのです。このように叫びたくなってしまうのは
私だけではないのです。 >>592
カトリックでは、同性愛は罪であると
いまだに教えているみたいだけど
不倫とか婚前交渉、女癖の悪さとかは
信仰の力で治す事ができるけれど
同性愛は、生物学的にも
同性愛者は、異性愛者と脳の構造と機能
染色体などが違うから
治せませんよ! そういうのよりも
女性に成り済まして2ちゃんスレに書き込むおっさんとかの方が
よほど罪深いと思うけどね >>594
隠していれば大丈夫。
ただし、カミングアウトをしたら白眼視。
信者が告解の場で神父に話したら聖餐停止。
女装または男装していたら「次から来ないで」と言われる。
カトリックはそういうところです。 >>596カトリックは、ガリレオのときと同じ
間違いを犯しています
ローマ法王は謝罪するべきです >>594
カトリックならカトリックLGBTジャパンがある。
http://lgbtcj.org/
プロテスタントなら日本基督教団に以下の教会がある。
新宿コミュニティ教会
富貴島教会
三・一教会
チャペル福音館
東北キリスト者虹の会
https://tohokucrainbow.jimdo.com/
キリストの風集会
http://kirisutonokaze.c.ooco.jp/ >>599
カトリックもこういうのやってるんですね!
知らなかった! >>596
兄弟が同性愛なのはカミングアウトしても大丈夫? パウロの罪を十字架のイエスに謝罪するようにローマ教皇に
祈り求めていきましょう。同性愛者が一緒に生活していくことは、
姦淫ではありません。
パウロの罪は現代科学のよって明らかです。
フランスの古文書には、第三の性を授かって生まれた子供を
悪魔の子供として殺した事が記述されています。
こうした事が二度と起こらない世の中にするには、パウロの罪を
認めることが必要です。
イエスは一言も、同性愛者を差別迫害していません。
イエスの奇跡はすべて正のベクトルの奇跡です。
イエスが目の見える人を見えなくして、恐怖心から人の心をコントロールした
事は、イエスの性格からしてありえません。パウロのインチキを
認め、パウロの罪を謝罪しましょう。 イエスは弟子たちに予行演習で、パンを配らせました。
すると、もとのパンのかさよりも、パン屑のかさの方が増えてしまったのです。
これは、後の世に、クリスチャンの多くがパリサイ人のパン種に
汚染され、旧約聖書にはこう書いてある、とか、ソドムとゴモラの
罪とか、神の罰を受けて同性愛の不自然な情欲に引き渡された
とか、言って人を裁き、殺害し、ガス室で殺すような
キリスト教徒や、中南米のインディオやオーストラリアの原住民アボリジニを射殺しその数を競い合うようなキリスト教徒
ばかりになることを予見していたのです。
ファリサイ人とは、人を裁き、自分の優越感をかてにして、
信仰心を燃え上がらせる人を指すのです。
パウロはまさに、ファリサイ人でした。ですから、同性愛差別を
しても、心が痛まなかったのです。まさに野蛮な性格は
回心した振りをしても、もとのままでした。
しかし、この世界にはイエスの御ことばが、種蒔かれ、
芽吹き、人権思想、立証法、隣人愛のまことの実をもたらして
下さいました。同性愛者が婚姻できる現代社会は、
イエスが性のマイノリティーだったラザロを蘇らせ、
第二の人生を授けた奇跡と重なるのです。イエスの再臨まで
まもなくです。パウロの罪を認め、十字架のイエスに謝罪しましょう。 わし何もイエスに悪いことしてないで
だから謝罪とかしませんけど。
パウロがしたのならパウロが謝罪するべきだろ。 同性愛なら仏教やれよ仏教
仏教なら同性愛なんて普通だぞ 仏教は次の3界を教える
無色界 これは見えないいわば形而上的なものを言う
色界 これは目に見える物質全て物理学など
欲界 これは本能に基づく性欲 食欲など
欲界を離れて 色界 さらに無色界に向かいなさいとの教えである
ただし非常に難しい。言葉は優しいけど体験するのが難しい。 >>605
仏教だと罪悪感拭えなくない?
存在の罪悪感みたいな 町子さんは、吹田の女装サロメおじさんを
ご存知ですか? >>601
兄弟の情報は自分の信仰生活とは何の関係もないので話す必要はないのでは? >>610
兄弟キリスト教興味ありそうだから時が来たらいろいろ話してみたいと思って
教会で実際はどう扱われるかが気になった
本人は世間にオープンにしてる
でもやっぱカトリックって頭がかたそうだね 兄弟がキリスト教を勉強したいという気持ちがあるなら、>>599に出ている教会や団体に連絡を取ってみたらいいと思います。
カトリックLGBTジャパンにまず連絡を取るのはだめですか?
もし兄弟がプロテスタントのほうがいいというなら、新宿コミュニティ教会がこの業界では一番有名ですので、中村牧師をたずねると
いいでしょう。中村牧師は学生時代はカトリックに通って勉強をしていた人ですので、プロテスタントにもカトリックにも詳しいので
しっかり勉強したいならおすすめです。 >>612
ありがとう
メモっときます
LGBTの人も人間としてみんなでミサに与れれるようになりますように! LGBTと4つまとめる発想が間違っている。
少なくとも「T」は新約聖書で聖フィリポがエチオピアの宦官に洗礼を授けたから認められている。 2002年(主日A年) 7月7日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
“新しい世” として到来する将来の神の国は、主なる神が再び来て御自分の民の中に住まわれることによって実現するというメッセージを、キリスト教会は聞き続けて来ました。
それはかつての主イエスの受難のためのエルサレム入城の日から始まって(マタ 21:1-9)、今日に至るまで私たちが聞いているものです。
「主はこう言われる。 わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう。 エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。」(ゼカ 8:3)
「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。 雌ろばの子であるろばに乗って来る。」(ゼカ v.9)
ゼカ9章 の表題に 「諸国民の裁きとイスラエルの救い」 とある通り、それは終末の裁きを超えて主の民に与えられる慰めであります。
ヨハネ黙示録は解説して、次のように語っています。
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙 7:17)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>603 イエスの再臨までまもなくです。
ルカによる福音書 第21章 口語訳新約聖書(1954年版)
21:1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、
21:2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て
21:3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。
21:4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、
持っている生活費全部を入れたからである」。
21:5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、
21:6「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、
来るであろう」。 >>616 続き
21:7 そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。
またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。
21:8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、
自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。
21:9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。
21:11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。
21:12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、
わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。
21:13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。
21:14 だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。
21:15 あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。
21:16 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。
21:17 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。
21:19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。 >>617 続き
21:20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。
21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。
また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。
21:22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。
21:23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、
21:24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、
異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
21:25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、
21:26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
21:28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。 >>619 続き
21:29 それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。
21:30 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。
21:31 このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。
21:32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。
21:34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、
その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。
21:35 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。
21:36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、
絶えず目をさまして祈っていなさい」。
21:37 イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。
21:38 民衆はみな、み教を聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった。 2008年(主日A年) 7月6日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです。 父よ、これは御心に適うことでした。」(マタ vv.25-26)
イエス様は子供たちを大切にされたというので(マタ 18:1-5)、昔から教会は幼児教育に力を入れて来ました。
しかし、子供を教えるぐらいのことは、だれにでも出来るというような安易な考え方で、ただ熱心なだけの善意の奉仕者にこれを委ねて来たというのが、その実態ではなかったでしょうか。
使徒パウロは Iコリ で、 「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」(1:20-21) と述べて、
「キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせる」(1:17) ことに心を砕いて来たと言っています。
“幼子のような” とは、レベルが低いということではなくて、多くの大人たちが “この世の知恵” を得ることによって失ってしまったものを指しています。
聖書を学び、使徒たちの宣教した福音を理解するには、私たちは幼子のようになって素直に、「人の知恵によってではなく、神の力によって信じる」(Iコリ 2:5) という修練を積むことが大切です。
もし私たちが “幼子のような者” になるなら、聖書はその意味を教えてくれることでしょう。
「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Iペト 2:24-25)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 天才の時代は終わったわ
使徒の時代に帰りましょう。💜 >>620 「こじか」を読まれたことはありますか?
ttps://www.oriens.or.jp/kojika/kojika_recent.html
東京教区ニュースの謎の4コマ漫画より、「こじか」の裏表紙の4コマ漫画(問いかけ
を伴った)の方が私は良いと思います。
2017 7/2, No. 2569, 年間第 13 主日では、マタイによる福音書の第 10 章 37 節から 42 節
が載っていて、その箇所に対して、神父様が「愛」を主題として解説されておられます。
多くの箇所で、子供達が能動的に聖書を学べるように工夫してあると思います。 2014年(主日A年) 7月6日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
「イエスはこう言われた。 “天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです。 これは御心に適うことでした。”」(マタ vv.25-26)
世間でも “幼子” という表現は、純真であるとか無垢であるという意味でよく使われますが、どういう訳か多くの大人が “無批判” や “思考停止” という自らの浅はかさを弁護するために、これを誤って利用する傾向があります。
右傾左傾を問わず、原理主義的な主張をする人々の多くが、自分は純真で無垢だと思い込んでいるのです。
しかし、聖書が “幼子” や “乳飲み子” などという表現を使っているときには、それはいつも信仰について言っているのであって、神に対して “純真で素直” という意味であることを特に強調したいと思います。
それは福音に関する健全な知識と判断力を養うことであって(ロマ 12:2、エフェ 4:13)、決して盲目や思考停止などではありません。
キリストの福音は、“神秘としての神の知恵”(Iコリ 2:7) でありますから、この世の知恵で説明したり理解出来るのではなくて(Iコリ 1:21)、聖伝と聖書を通して聖霊が信仰者に啓示してくださるのです(エフェ 1:17-19)。
そのためには “耳を傾けて聞く”(ロマ 10:17) ことが必要であって、健全な知識と判断力が大いに要求されます。
“幼子のようになる” とは、そのような素直な熱心さを持つことに他なりません(Iペト 2:2)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>623『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
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/ `ー ´ `ー- /へ 2002年(主日A年) 7月14日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ 8:18〜23 マタ 13:1〜23
使徒パウロは、私たちキリスト者が神の国に復活する将来への希望を語るのに、「栄光」(ロマ v.18) という言葉を用いました。
そのギリシア語 (ドクサ) の背景には、旧約聖書のヘブライ語 (カーボード) があって、それは多くの場合 “主の栄光” という形で用いられているものです。
本来神のものである 「栄光」 こそが、私たちキリスト者が受け継ぐ終末的な希望なのです。
神のことばである御国の福音は、将来の神の国の希望に生きる教会を生み出しました。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ロマ 6:3) キリスト者は、キリストと共に神の国の相続人となりました(ロマ 8:17)。
キリストの死にあずかるために洗礼を受けた 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ 3:3-4)
これが、主日のミサを共にささげている群であります。
代々の教会はこの希望によって救われ、現代のキリスト者である私たちと共に、「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ v.23)
実に 「希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:5)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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/ `ー ´ `ー- /へ 2005年(主日A年) 7月10日 年間第15主日 2005年(主日A年) 7月10日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ 8:18〜23 マタ 13:1〜23
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。」(イザ v.11)
なんと慰めに満ちた言葉でしょう。
紀元前6世紀の預言者を通して、神は今も私たちに語りかけておられます。
ユダヤ教の祈祷書の中にある 「願わくは神が、あなたの生ける間に、あなたの盛んな時に、そしてイスラエルの全家の生ける間に、御国をうちたてたまえ」 という言葉は、キリスト教の主の祈りに 「御国が来ますように」(マタ 6:10) という表現で受け継がれました。
新約聖書の 「永遠の命」 は、当時のユダヤ教の用語の 「来るべき世の命」 と同意語でありました。
今も私たちのミサの中で、拝領前の信仰告白で唱える 「あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧」 は、まさにその意味であり、信者は 「来るべき世の命の糧」 として聖体を拝領しているのです。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙 1:4) キリストに、 ハレルヤ、 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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/ `ー ´ `ー- /へ 2011年(主日A年) 7月10日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ8:18〜23 マタ 13:1〜23
「耳のある者は聞きなさい。」(マタ v.9)
新約聖書の中でも特に福音書は、そこに収録されているイエスの言葉や数々の出来事とそれが初代教会によって文書化されるまでの間には、かなり長い期間があったということを理解する必要があります。
私たちは体験的に、“十年一昔” という言い慣わされた表現を知っていますが、福音書が成立するまでには初代教会にとっての “次々に変化して行く” いくつもの “十年一昔” がありました。
今朝の福音のテキストには、最初のイエスの言葉からその後の教会による解釈のいくつもの段階が一緒になって伝えられているのです。
「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ 8:18) という警告が意味を持つのです。
「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」(マタ v.11) とは、使徒たちとその後継者である教父たちを指しているものと、初代教会は確信していたに違いありません。
それでは会衆一人一人はどうなのでしょうか。
彼らの間には “見ても聞いても理解できない人々” が混じっていることは否定出来ない事実でありました。
そして説教者は “御言葉を聞いて悟る人になりなさい” と奨めていたに違いありません。
「御言葉」 と翻訳されている場合には、それは “福音” の意味であって、聖書学で “イエスの語録” と呼んでいるものは通常これと区別して “お言葉” と書きます。
しかし教会には実際、イエス様のおっしゃった “お言葉” はすべて有り難い神のことばなのだと単純に考えている人もいるのです。
使徒たちを通して 「救いをもたらす福音」(エフェ 1:13、ロマ 1:16) を聞き、そして信じて教会に加えられた人々が、「困難や迫害」(マタ v.21) 「世の思い煩いや富の誘惑」(マタ v.22) によってその信仰の有能さと純正さを試されて行った
いくつもの “十年一昔” がすでにあったことを、現在の福音書は示しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペについて』>>634
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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\ _ノ _/ / | ノ \ ノ L_い o o 2005年(主日A年) 7月17日 年間第16主日
知 12:13〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
主イエスによって蒔かれた神の国の種は、芽を出し育って歴史の教会となりました。
それはすでに天上の神の国の先取りではありますが、未だ終末の日の完成を待っており、不完全でその中に悪人と反キリストをさえ抱えている共同体です。
復活されたキリストは御自分の教会と共に、特にミサのうちに現存してその民を導き、私たちを天上の典礼に参加させてくださり、救済史の完成の日を待ち望ませてくださいます(典礼憲章 7,8)。
使徒たちと初代教会が、かつてのイエスの語られた語録や譬え話群を新しい時代の状況の中で再解釈して行った成果が、現在私たちが手にしている新約聖書であります。
今朝のテキストでも、マタ vv.36-43 が元来のイエスの譬え話である マタ vv.24-30 の再解釈であることは、容易に判断出来ることです。
元来のイエスの譬え話の主張の中心点は、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタ vv.29-30) でありました。
しかし同時に初代教会は、その群の中に神の国の種からではなくて毒麦の種から育って来た人々が混在しているという事実と、神の国を受け継ぐのは御国の子らだけであることを、厳粛に受け止めざるを得ませんでした。
歴史の教会は人間の能力によってではなくて神の力によって成長して行くとしても(マタ vv.31-33)、だからと言って教会がキリスト教本来の神概念と信仰を失う危険性を最小限にとどめるために戦うことは、排除されてはなりませんでした。
私たちは聖書からイエスのおとぎ話を創り出すのではなくて、使徒たち以来の現実の教会の信仰的神学的戦いを学び、それを現代に継続させることが必要なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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/ `ー ´ `ー- /へ 2008年(主日A年) 7月20日 年間第16主日
知 12:13,16〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
私たちは、そして私たちの信仰は、あまりにも “弱い”(ロマ v.26)けれども、“イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら”(ロマ 8:11)、
その “霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる(ロマ v.26)ことを、キリストの祭壇を囲んでミサをささげる私たち会衆は信じてよいのです。
この地上の組織としての教会、この世の宗教の一つとしてのキリスト教に、現代人はもはや期待出来ないと考えるようになりました。
特に欧米におけるキリスト教会の急速な凋落は、そのことを明らかに示しています。
今年に入ってからのニュースでも、2月には “米国で、その大半を占めるプロテスタントの人口が減少傾向にあり、若者を中心に宗教離れが進んでいる、1960年代の調査時から約3分の2にまで減少した”、
3月には “米カトリック教会ニューヨーク大司教区は、信者数に対し神学生の数が少なく、深刻な聖職者不足に直面している”、5月には “ドイツのキリスト者は減少する一方で、教会が資金難に陥っている、
会堂を他の用途に宛てたり、リースに出した教会もある、今後全国の教会の30〜40%が閉鎖される可能性があるという” と報じています。
これらの事実にもかかわらず、“聖なる者たち(キリスト者)のために、聖霊が今も執り成してくださっている”(ロマ v.27)という聖書の言葉と、私たちがささげるミサとの間に、
現在も将来も生きたつながり(救済史的な連続性)があることをあえて信じる人々を、どうか主が残してくださいますように(ロマ10:4-5)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、 そんなつもりはないんです〜〜♪
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
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r//////////// ミミミヾ))))) そんなつもりじゃなくても、お前の娘をひき殺して、
ノノノ///////// ミヾ)))))))))
ノノノノ//////// ミ)))))))))ノ 『神のみこころですから〜〜』って言われているのと同じ〜〜〜♪
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ノノノ.((((/////ノ. ヾ゙ゝ // ./''" ノノ((((((ノヾ 嗚呼、それじゃ、しょうがありませんね!
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((((((((((.\_| / ( (._) )\ |/))))))))) そんなつもりが無かったら〜〜
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λヾヾヾヾヾヽ l.`、.LlLlLlLlLl 7´.l ./ノノノノノノノ そんなつもりが無かったらいいの〜〜〜♪
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λヾヾヾ| ヽ\ /./ノノノノ お前の娘が交通事故でひき殺されて死んでさ、
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/ ヾヽ \```ー.´´/ \ 「わたしはひくつもりは無かったんです。
でもこの世で起こることはすべて『神のみこころですから〜〜』 有難く受け入れないといけない」
って言われたら腹たたない? 2011年(主日A年) 7月17日 年間第16主日
知 12:13,16〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
「天の国は次のようにたとえられる。 ・・・・・ 」(マタ v.24)
マタ vv.36以下 の説明によると、この譬えは世の終わりに出現する神の国を指していると理解されます。
「人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。
彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」
これは明らかに初代教会による解釈であって、教会はそのように宣教し、人々はそのように信じたのです。
現代の信仰者は、この初代教会の宣教の集成である新約聖書を通して、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」(使 20:21)を学んでいます。
この譬えでイエスが語っておられることには、しかし、もう一つのもっと実際的な意図があったように思われます。
それは、マタ vv.36以下 の解釈をいったん脇へ置くと見えて来ます。
つまり “終わりの日に出現する神の国” と並んで、“現在の神の国” についてのイエスの説明です。
この理解の仕方については、教会憲章の次の言葉が参考になります。
「教会は、 ・・・・・ この国の地上における芽生えと開始となっている。」(5)
現在の教会の実状が 「自分のふところに罪人を抱いている」(教会憲章 8)からといって、すでにそこに神の国が芽生えている現実を見落としてはならないということです(マタ 12:28 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2005年(主日A年) 7月24日 年間第17主日
王上 3:5〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「天の国は次のようにたとえられる。 畑に宝が隠されている。 見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。 商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタ vv.44-46)
これらの二つの譬え話は、何か一般的な知恵を説明しているのではなくて、イエスが私たち教会をその相続人として救い入れてくださった神の国について語っています。
両者とも、ある人が突然莫大な価値のある宝物に出会った光景を描いており、イエスはそれを私たちが全財産を賭けて獲得するようにと招いておられます。
神の 「秘められた計画」(エフェ 1:9、ロマ 15:25)をそのように理解し、異邦人である私たちがユダヤ人と共に神の国を受け継ぐ(エフェ 3:6)ことを知るために、主が私たちの心の目を開いてくださいますように(エフェ 1:17-18)。
主イエスはすべての人に向かって呼びかけましたが、直ちにそれに続いて天の国には人々を選別する過程があることを告げられます(マタ vv.47-50)。
漁師の網にかかるものは皆魚である。 しかし岸に引き上げると、漁師は良い魚と悪い魚を選別する。
そのように教会の中には良い魚だけではなくて悪い魚も共に存在しているのです。
最終的にはその選別は神の審判そのものでありますが、だからといって私たちがその現実に対して盲目であって良いわけではありません。
「天の国のことを学んだ学者」(マタ v.52)とは、共にキリストの体を造り上げて行く自覚的なキリスト者たちのことであります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日A年) 7月27日 年間第17主日
王上 3:5,7〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ v.28)
これは、何という驚くべき言葉でしょう。
それは聖霊によって新しく生まれた人(テト 3:5)だけが理解出来るものです。
なぜなら、聖霊によらなければだれも “イエスは主である” とは言えないし(Iコリ 12:3)、キリストにおける救済史の展開を信じることが出来ないからです(エフェ 1:3-7)。
キリストがその長子である神の国の相続人たちの共同体、それが聖霊に導かれている教会です。
この地上ではあらゆる種類と状態の人々が混在していて、神の審判による選択が今は保留されているとしても、神は救済史を確実にお進めになり、御自分の民を神の国にお集めになります。
歴史の教会は、その外見上の破れと悲惨にもかかわらず、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように」 父なる神によって導かれているということを、私たちは信じてよいのです。
使徒たちの宣教が、この “福音の希望”(コロ 1:23)を私たちに確信させてくれます。
代々の教会は聖伝と聖書によって、この使徒たちの宣教を受け継いで来ました。
私たちの小教区のミサで、私たちの神父がこの “福音の希望” を力強く説教するように祈りましょう。
聖職位階にある人々は、そのために召されて(IIテモ 2:2)教会に奉仕している人たちだからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 7月24日 年間第17主日
王上 3:5〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください。」(王上 v.9)
「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタ v.46)
私たちも、“持ち物をすっかり売り払って ・・・・・ 買う” 価値のある宝を見分け、聖伝と聖書を通して神が語られる御言葉を聞き分ける心を、与えてくださいと祈ろうではありませんか。
司祭の説教が、神がキリストによって世を御自分と和解させてくださった贖いの福音を語ることなく、ミサが終わって御聖堂の庭に出た信者たちの会話が、福音の宝を見分けた喜びとは何の関係もない、お天気の話や世間話である ・・・・・
というような現状に対して、“あなたがたは皆、主の言葉を聞け” と神は今朝の朗読聖書を通して呼びかけてくださっているのです(エレ 7:1-11 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>651
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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人 ビデオ屋さんの前で無理矢理勧誘されて顕正会に暫く通い続けた
けど、会館で、皆が、
南妙法蓮華経と唱えてるのに、
聖なるかな聖なるかな聖なるかなと
独り唱えて居た、会館は汚いし、仲間は貧乏人ばかりだし、人間の屑見たいな、最低の人が多いし、行くの辞めて、教会に戻りました、教会の仲間は親切で優しいし、天国と地獄はまさにこの事かと、 >>649
>>651
老クリスチャンへ
あなたのことが書かれてあります。
『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著) P103より
悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。
邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志
もった男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。
『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著) P104より
「転落の前にうぬぼれあり」とはよく言われることであるが、いうまでもなく、一般の人がうぬぼれ
と呼んでいるものは、しゃれた精神医学用語でいう「悪性のナルシシズム」のことである。
悪の根源に【うぬぼれ】がある以上、キリスト教教会当局が一般に【うぬぼれ】を第一の罪のひとつ
と見なしているのも偶然ではない。
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人 2006年(主日B年) 8月6日 主の変容
ダニ 7:9〜10,13〜14 IIペト 1:16〜19 マコ 9:2〜10
「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに ・・・・・ 」(IIペト v.16)
いつの時代にも、聖書に書かれているのは “作り話” だと思う人々がいるものです。
しかし、聖書に集められている諸文書はすべて、もともと人々がその通りに素直に信じることを、そしてイエス・キリストの救いを受けることを期待して書かれました。
使徒パウロも自分の手紙について、「優れた(難解な)言葉や知恵を用いませんでした。 ・・・・・ それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」 と言っています(Iコリ 2:1,5)。
IIペト は、「キリストの力に満ちた来臨」 を宣教することに特に力を入れている手紙です。
死人の中から復活して天に上げられたキリストは、現在力に満ちて生きておられます。
そしてやがて力に満ちて来臨されるのです。
そのことを宣教している使徒たちの中に、主の変容の目撃証人であるペトロが立っていました。
私たちの聖書は、使徒たちによるキリストの福音の証言であり、私たちはそこで使徒ペトロの叫びも聞くのです。
そのペトロを頭とする使徒たちの宣教、キリストの福音の証言に、今も外ならぬ “やがて力に満ちて来臨されるキリスト” 御自身が共におられることを感謝して(マタ 28:20)、私たちは福音を聖書に書かれている通りに素直に信じようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 3月20日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8b〜10 マタ 17:1〜9
「一同が山を下りるとき、イエスは、“人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない” と弟子たちに命じられた。」(マタ v.9)
イエス・キリストがその死と復活を通して成し遂げられた御業を、原始教会がどのように理解したかを知ることは、現代の教会にとって必須のことであると、先ず強調しておきましょう。
なぜなら、現代の多くのキリスト教信者たちが、使徒たちから伝えられたのとは違う、自分たちで勝手に考え出した “新作のキリスト教” を、論じたり宣べ伝えたりしているからです。
キリストの復活を抜きにしては理解することの出来ない福音を、使徒たちは宣教しました。
原始教会の信仰は、キリストの勝利の復活を抜きにしては決して説明の出来ないものであったということ、
そして古代教会はこの主張を守るために、信条の最終的確立に至る激しい戦いを経験しなければならなかったことを、現代の信者はしっかりと認識しなければなりません。
御子キリストは、これまで人間を隷属させてきた罪と死の力、すなわち悪魔を滅ぼすために(ヘブ 2:14-15、Iヨ ハ3:8)、私たちの間に宿られました(ヨハ 1:14、フィリ 2:6-8)。
そして、復活によって勝利されたのです(Iコリ 15:54-56、コロ 2:15)。
これを “ナザレのイエス” という “一人の人物” の個人プレーのように解釈してはならないと、原始教会は マタ v.9 のイエスの言葉をここに添えることによって警告しました。
イエスの受肉と死と復活は、父なる神の御業であり(マタ v.5)、しかも救済史の過程の中での御業であったことを(マタ v.3)、この福音書の伝承(変貌の物語り)は強調しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメ★おたあ 吹田市在住 女装が趣味! 祖国の風習!
▲「糞盗み」〓北朝鮮に位置する平安北道江界(ピョンアンブクと・カンゲ)では、
旧正月の早朝、農民は鶏が鳴くのを待って、富農のたい肥を盗んで
自分のところのたい肥に投げかける習慣があった。裕福な家の気運が移って
くるといういわれがあるためだ。15日のテボルムの日に裕福な家の土を盗んで
自宅の土に散らす「福土盗み」も、同様の意味合いで行われていた。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2005020733288
李朝時代の歴史書「弘化雑記」には糞嘗遊戯の様子が書かれています。
両班高官の宴会後に行われた「糞嘗会」では、十数名の趣味人が参加し
味覚と嗅覚を競い合ったとの事です。 >>658 「使徒パウロも自分の手紙について、「優れた(難解な)言葉や知恵を用いませんでした。 ・・・・・
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」 と
言っています(Iコリ 2:1,5)。」 本当ですか?
ペテロの第二の手紙 口語訳新約聖書(1954年版) 第3章
3:1 愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙
によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。
3:2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた
主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、
自分の欲情のままに生活し、
3:4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは
天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言に
よって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、
滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。 >>662 続き
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、
千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対して
ながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、
天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に
待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、
天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
3:14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、
安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
3:15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの
愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、
わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、
無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
3:17 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の
惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
3:18 そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます
豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 2014年(主日A年) 3月16日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8b〜10 マタ 17:1〜9
「高い山に登られた。」(マタ v.1)
“高い山” が、地理的にどこの山であったのかということに、この物語りの伝承は全く関心を示していません。
大切なことは、この山がいわば第二のシナイ山であって、六日の後(マタ v.1)に三人の弟子たちは雲の中からの神の声を聞いて、イエスが “来るべき方”(マタ 11:3)であるとの確信を与えられたという事実でありま
した。
救済史の主体は神であって、神が私たちの救いをやがて達成して(フィリ 2:13)、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)
「一同が山を下りるとき、イエスは、“人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない” と弟子たちに命じられた。」(マタ v.9)
主の復活を抜きにしては、福音の希望(ロマ 5:2、Iペト 3:15)は理解出来ないからです。
聖なる者たちの復活の希望を抜きにしては、キリストの福音は決して語り得ないのです。
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20)
こうして、原始教会にとって、預言の言葉はいっそう確かなものになったのでした(IIペト 1:19)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>664
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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王上 19:9〜13a ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33 2008年(主日A年) 8月10日 年間第19主日
王上 19:9〜13a ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「(イエスは) ・・・・・ 祈るためにひとり山にお登りになった。 夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 ところが、舟はすでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」(マタ vv.23-24)
初代教会は、しばしば敵意を持った世界の中にあって、逆風のために波に悩まされていました。
苦労してもごく僅かしか前進しないように思えたかも知れません。
しかし夜が明ける前、すなわち夜のいちばん暗い時刻に、イエスは幽霊のようにではなく、完全に現実の姿で、救う力にあふれて来られる。
そして “安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない”(マタ v.27)と言ってくださる。 教会が体験するキリストの臨在は、決して幻影ではない。
明らかにこのようなメッセージを込めて、福音書はこの物語りを伝えました。
“わたしだ(マタ v.27)” という言葉は、旧約聖書の神顕現の言葉に結びつくものとして意図的に使われています。
“わたしはある。 わたしはあるという者だ”(出 3:14)、“わたしは主である”(イザ 41:4)、“わたしがそれだ”(イザ 43:10, 52:6 他)という主の宣言の言葉が、どれほどイスラエルにとって慰めに満ちて聞かれたことでしょう。
今、教会に対して、復活されたキリストがこの言葉を力強く語ってくださるのです。
“強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた”(マタ v.30) “ただの人間”(使 10:26)に過ぎないペトロを、教会の土台岩としてくださったのはキリストであります。
ペトロと共におられるキリストを、教会という舟にお迎えすることが、現代の教会をも前進させるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「彼らはイスラエルの民です。 神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ロマ vv.4-5)
第二バチカン公会議と共に始まったカトリックの典礼刷新の前段階に、ピオ12世教皇の1956年の演説があったことを、“ローマ・ミサ典礼書を公布する使徒憲章” は述べています。
この典礼刷新は、聖書に関する刷新と合流し(典礼憲章 51,52)、啓示憲章は “聖書研究はあたかも神学の魂のようなもの”(24)と明確に述べました。
そしてカトリック教会は、この ロマ 9:1-5 を ロマ 11:17-24、エフェ 2:14-16 と共に、“忘れることができない” と宣言したのです(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)。
ここで、先に述べた “ペトロは怖くなり、沈みかけた。 しかしついに、イエスが彼を捕まえた” という福音書の物語りを思い起こしましょう。(マタ vv.30-31)
その上に教会がうち立てられているペトロの信仰さえ、それ自体ではもろいものであり、教会は人間の力量にではなく、常にキリストに依り頼まねばならない。 ペトロは “信仰の薄い者よ” と言われた人物である、という事実です。
この逆風と波に悩まされた過去を持つカトリック教会に、主は第二バチカン公会議という出来事を通して、ロマ 9:1-5 を再認識させてくださったのでした。
ですから先に引用した宣言は、「肉によればキリストも彼らから出られた」 を言い換えて、“キリストは(ユダヤ人である)処女マリアの子である” と敢えて述べ、
“教会はさらに、教会の土台であり支柱である使徒 ・・・・・ がユダヤ民族からの出身者であったことを想起する” と記しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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× ロ α ノ こ 2014年(主日A年) 8月10日 年間第19主日
王上 19:9〜13a ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。」(王上 vv.12-13)
神のことばを聞くということが、どういうことであるかを、私たちは学ばなければなりません。
なぜなら世間では、“時のしるしを見る” とか “時代の声に耳を傾ける” などと称して、まるで新聞やテレビの報道から神のことばが聞けるかのような誤解がまかり通っているからです。
しかし、神のことばを聞くためには、聖伝と聖書という “洞穴”(王上 v.9)に退くことが必要なのです。
私たちは神に対する真の畏れを抱いて(外套で顔を覆い)、“静かにささやく神の声” に耳を傾けなければなりません。
あわてて軽率に、風や地震や火の中に神のことばが聞けると誤解してはならないのです。
“わたしだ”(ἐγώ εἰμι/マタ v.27)と話しかけてくださるイエスの神顕現が、現代の教会にとっても主日毎のミサの体験でありますように。
“その(秘められた)計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。”(コロ 1:27)
わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを、待ち望んでいます。 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 アーメン、ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>672
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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l ヽ、 >‐---イ 2002年(主日A年) 8月18日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
第三イザヤの語る 「安息日を守り」(イザ vv.2,4,6)を、私たちの “ミサを共にささげること” に置き換えて読むならば、私たちはそこから現代の教会に向かって語りかける神のことばを聞くことが出来ます。
ミサは神の民である教会の祭儀ですが、それは先ず何よりもキリスト御自身の行為であって、主キリストはミサにおける “ことばとしるし” のうちに現存し、その御業を行われます。
ですからミサ典礼書の総則は、その第一章の冒頭で次のように述べています。
「実に、ミサの中にキリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点があり、また人々が、神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点がある。」
これが私たちのミサです。 そしてそこに集まった会衆に、神は語りかけてくださいます。
「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザ v.7)
いわゆるユダヤ人という民族と、殆ど全く歴史的に無縁であった日本人にとって、現代のイスラエル共和国の国民とそれを取り巻く全世界のユダヤ人の存在は、身近な問題ではありません。
しかし、主日のミサに共に集まる私たちキリスト者は、神が決してそのユダヤ人について無関心ではないことを、聖書を通して聞かされるのです。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ロマ v.29)
私たちが共にささげるミサで、自分たちは “主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬” のようなものであることを思い起こして謙虚になるとき、
元のオリーブの木(ロマ vv.23-24)であるユダヤ人への神の恵み(ロマ 11:5、イザ 56:1)の出現への期待に、いつまでも無関心のままでいることは出来ません。
私たちの歌う “あわれみの賛歌” は、今朝ここに集まっている者たちだけのためではなくて、もっと広く “すべての人”(ロマ v.32)のための祈りの歌でもあるのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「主はこういわれる。 正義(ミシュパート)を守り、恵みの業(ツェダーカー)を行え。 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業(ツェダーカー)が現れるのは間近い。」(イザ v.1)
ミシュパートは神の律法を人が守ることの意で用いられ、ツェダーカーは神による救済史の実現を指しています。
人が信仰によって神の御心を行うのは、自らがキリストの救いの中に入れられている(招かれている)からであり、先ず神の愛が先行しているからであって、それは人間の功績ではないのです。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:8)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ 4:10)
多くの人が誤解していますが、旧約聖書において律法は、イスラエルの民にとっての喜びでありました。
後のユダヤ教における律法主義と、旧約聖書における本来の律法理解とは別のものでした。
そのようにキリスト教会の道徳主義や教条主義と、聖書を通して語られるキリストの福音との間には、かなりの隔たりがあります。
信徒一人一人が聖書に親しむことは、現代のカトリック教会にとっての希望であり、差し迫った必要であります。
天上のキリストは聖書を通してあなたに、私に、生ける神のことばを語っておられるからです。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 8月17日 年間第20主日
イザ 56:1,6〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「女は言った。 “主よ、ごもっともです。 しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです”」(マタ v.27)
私たちのミサでは、交わりの儀で唱える “拝領前の信仰告白” は次のようになっています。
“主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。”
これは大変素晴らしい祈りですが、実は日本独自のものであって、元来のローマ・ミサでは伝統的に、マタ 8:8 の百人隊長のことば “主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません ・・・・・ ” が用いられています。
第二バチカン公会議と同時期に、米国メソジスト教会で改訂された新しい礼拝書では、この マタ 15:27 に基づいて “私たちはあなたの食卓の下でパン屑を拾うにも値しない者ですが ・・・・・ ” という言葉が採用されていますが、これも伝統の線に沿ったものと理解されます。
私たちは、謙遜というものを人間社会の美徳と考える価値観によって欺かれて来たのではないでしょうか。
聖書は人が神に対して、神の救いの恵みに対して徹頭徹尾、信仰によってへりくだることを訴えているのです。
「主の前にへりくだりなさい。 そうすれば、主があなたを高めてくださいます。」(ヤコ 4:10)、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェ 2:8)と記されているとおりです。(ルカ 1:51-53、ロマ 3:27-28 参照)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より /|\
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\|/ >>675-677『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>675 「現代のイスラエル共和国の国民とそれを取り巻く全世界のユダヤ人」
全世界のユダヤ人の定義を教えて頂けますか? >>676 「キリスト教会の道徳主義」とは何を意味しているのでしょうか? (説明はカトリック教会
の道徳主義だけで結構です) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています