カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
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三三ヲ ヽ: : : : : : : : : / l三三三三三三三三三三三三三三ヲ三ヽ 2008年(主日A年) 8月24日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「シモン・ペトロが、“あなたはメシア、生ける神の子です” と答えた。」(マタ v.16)
マタイ福音書は、ここで二つの別々の伝承を一つの物語りとして組み合わせているように思われます。
一つは マタ v.13 から始まり マタ v.28 で終わるフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白の伝承で、そこに マタ vv.17-19 というもう一つの重要な伝承が挿入された可能性が大きいのです。
第一の物語りでは、マコ 8:29 と ルカ 9:20 の併行記事に見られるように、ペトロは 「あなたは、メシアです」 と答たものと思われます。
第二の物語りである マタ vv.17-19 に対応するペトロの答えは、「あなたは、神の子です」 であったと思われます。
この “神の子” という呼び方は、ヨハネ福音書、パウロの手紙、ヘブライ人への手紙、ヨハネの手紙で顕著に用いられていて、原始教会の宣教において用いられたことが分かります。
そこで展開された神の子キリスト理解が、この第二の伝承でペトロが言い表した信仰でありました。
そしてその信仰を私たちが正しく理解するとき、主イエスが言われた 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ v.18)という言葉の重要性も理解出来るのです。
ヨハ 3:16、 ロマ 1:2-4、 ヘブ 1:2、 Iヨハ 4:9-10 を見れば、この神の子理解が原始教会の宣教で果たした役割の大きさが理解出来ることでしょう。
また私たちは使徒信条では “父の独り子、私たちの主イエス・キリスト” と、ニケア・コンスタンチノープル信条では “主は神の独り子、すべてに先立って父より生まれ” と、教会の信仰を宣言するのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>681
あなたがカトリックの信者でしたら、逆に私の方から質問させていただきたいと思います。
カトリック信者としての 「守るべき定め/戒律」 更には 「信仰上の義務」 「日常生活での義務」 などを、きっと大切にしておられることでしょう。
それらの 「いわゆるカトリックの道徳」 は、あなた自身と教会の救いおよび信仰にとって、どのような位置づけにあるのでしょうか?
私はプロテスタントの出身なので、そのような道徳主義の典型の一つとして、ピューリタンの信仰が及ぼした影響を思い浮かべます。 >>684 「カトリック信者としての 「守るべき定め/戒律」 更には 「信仰上の義務」
「日常生活での義務」 などを、きっと大切にしておられることでしょう。 」
戒律とは何を指しておられるのでしょうか? 受洗したときに、神父様からいただいた本
「カトリック祈祷書」 カトリック東京教区司祭協議会編(1975 年初版)の
付録 II 信徒の心得(要約)
1. 復活祭を大切にしましょう。(イ)心を神に向けましょう。(ロ)四旬節を、応しい回心の季節
にしましょう。必要ならば回心の秘蹟を受けましょう。
2. 教会維持費について。(分に応じて)
3. 転・出入について。
4. 結婚について。
5. 病者の聖体拝領。
6. 病者の塗油の秘蹟について。
以上です。
「心を神に向けましょう」がすべてのように思います。言葉で多くの事を規定しようとして、
虚しくなることはありませんか? 2011年(主日A年) 8月21日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ロマ v.33)
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ロマ v.36)
歴史を学び、歴史を直視することによって、“神はいない”、“もはや神など信じられない” と言う人々が一方にいます。
そして他方には、歴史の現実に目をつむって “盲目的に神を信じる” 原理主義者がいるのです。
しかし本当に聖書を学んで神のことばを聞いた人はヨブと共に、「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」 と告白するのです(ヨブ 42:3,6)。
私たちは神のことばを聞くために、今朝もミサで朗読聖書に耳を傾けているのです。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」(エフェ 1:17-18)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>687
老クリスチャン氏 本日のみことば
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老クリスチャン氏 本日のみことば
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カトリック京都 老クリスチャンさん、桁違いのパージに対して無抵抗に見えるけど
やっぱり、長編コピペの書き込みが抵抗みたいに見えてムカつくのですかね? 行ってはいけない教会の田中さんみたいに
何でもアリの分身防衛戦術で頑張る人に比べたら
よほどクリーンに見えますけどね >>687 「原理主義者」 また言葉遊びをする。
>>685 心を神に向けた状態において、祈ったり聖書を読まないと、神よりも自分の願望が
上位にきたり、聖書の分析が主目的になってしまうという意味ですよ。 2014年(主日A年) 8月24日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。 彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。」(イザ v.22)
ペトロに天の国の鍵が授けられたと言われているのは、彼がキリストの忠実な僕となって(マタ 24:45-51)、その秘義(μυστήριον)の宣教のために神の民に奉仕する使徒団の頭とされた、という意味でありました。
ですからヨハネ黙示録では、イエス御自身が “ダビデの鍵を持つ方” (黙 3:7) “死と陰府の鍵を持っている”(黙 1:18)方として描かれています。
そして誰かに鍵が授けられるとは、僕としての責任を委ねられることでありますから、教会憲章は使徒団の後継者である司教の役務をこの観点から理解して、次のように述べています。
“実際、聖なる権能をもつ役務者は、自分の兄弟たちに奉仕する”(18)、
“主が自分の民の牧者たちに託した任務は真の奉仕であって、それは聖書の中で、意義深くも 「ディアコニア(奉仕)」 すなわち役務と呼ばれている”(24)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>693
老クリスチャン氏 きょうのみことば
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カトリック京都
がハゲ増しあう場所 >>693
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ∧∧∧∧λ∧∧∧∧∧∧∧∧λ∧∧∧∧∧∧∧∧λ∧∧∧
< 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) HAGEMA Maschinenbau GmbH + Co. KG
Bahnhofstraße 6-8, 28790 Schwanewede, Deuchland
ttp://hagema.de/
金属製品を作っている会社のようです Fotos の Wasserspender(冷水機)は頑丈そうで
かつ美しいです
ttp://hagema.de/fotos.html
Gutenberg も金属加工職人ですね くわっぱ!≡3≡3≡3
すべて
まるっとお見通しだ! 老クリスチャン氏がいらっしゃらないスレは過疎る!
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) 2005年(主日A年) 8月28日 年間第22主日
エレ 20:7〜9 ロマ 12:1〜2 マタ 16:21〜27
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」 という言葉を、現代の用語に直すと、「自分の人生のすべてを ・・・・・ 」 となります。
使徒パウロはこれを普遍的な道徳の一項目として述べたのではありませんでした。
そうではなくて、神の秘められた計画(ロマ 11:25)の完成する日を間近に待望する(ロマ 13:11)切迫感の中で、ローマの教会の信徒に向けて語りました。
それは使徒ペトロに続いて自らも殉教することになるローマへの旅を目前にしての、いわば人生への決別の勧めでありました。
平和な時代の暮らしの中での美徳として、聖書からいろいろな教訓を学ぶということは、このようなテキストの本来の意図とは全く関係のないことです。
ペトロが主から 「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」 と言われたのは、まだ主の受難と死を予想することも出来ない頃のことでした。
彼が主の御言葉を自らの決断としてローマに赴いたのは、ずっと後のことでした。
使徒パウロの言葉も、いわば私たちの将来の決意を準備させる勧めであって、私たちは 「心を新たにして ・・・・・ わきまえるようになりなさい」 と語りかけられているのです。
そして今日私たちが聞いている神のことばは 「生きている」(ヘブ 4:12)ことを知る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>711
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し`J し`J ∪" >>711
『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著) P103より
悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。
邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志
もった男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。
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【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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(((_)☆ 2008年(主日A年) 8月31日 年間第22主日
エレ 20:7〜9 ロマ 12:1〜2 マタ 16:21〜27
ペトロが弟子たちを代表して、イエスに 「あなたは、メシアです」 と言った後、イエスはこれをだれにも話さないようにと命じられました(マタ 16:20)。
そして弟子たちには、御自分がどのような意味でメシアであるかを説明されました。
それが マタ vv.21以下 のテキストの内容です。
わたしは確かにメシアである。 しかし、あなたがたが考えているメシアとは全く異なる。 それは、受難し、拒否され、殺されるメシアである(マタ v.21)。
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 “主よ、とんでもないことです。 そんなことがあってはなりません。”」(マタ v.22)
このペトロの抗議は、最も親しい弟子団でさえ、イエスのメシア召命の本来の意味を把握していなかったことを示しています。
ペトロもまたメシア召命を、悪魔が誘惑物語りの中でイエスにこの世の王国を提供しようと言ったとき(マタ 4:8-9)のように、悪魔的に政治的に理解していました。
ペトロがあえてイエスをいさめたということは、弟子たちのこのときの失望がいかに大きかったかを証明しています。 (つづき)
イエスは非常に厳しい言葉をペトロに向けられます。
「サタン、引き下がれ。」(マタ v.23)
それは、かつてイエスが誘惑を受けたときに、悪魔自身に向けて言われた言葉でした(マタ 4:10)。
“イエスに、彼が神から与えられているものとは別なメシア使命を押しつけようとする者は、あるいはまた、イエスを神から与えられた使命から引き離そうとする者は、悪魔の器である ! ”
マタイ福音書だけが、この物語りにもう一つ全く別の信仰告白を組み合わせました。
それが 「あなたは神の子です」(マタ v.16)というイエスへの告白であり、この告白のゆえにペトロは教会の土台岩となりました。
すでに マタ 14:33 でも同じ告白がなされていて、これらは明らかに原始教会の信仰を反映しています。
このような正しいキリスト理解と信仰によってイエスの伝承を解釈することこそが、使徒たちによる宣教の重要な役割であったことを考えると、この福音書の二重構造が理解出来、さらに マタ vv.24以下 も理解し易くなります。
使徒たちはイエスの復活の後に、イエスがキリストであることを初めて正しく理解したのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 大豆は体に悪い
http://i.imgur.com/DwmoJx2.jpg
加工デンプン(増粘剤)はデンプンを凄まじく化学処理した薬品
http://i.imgur.com/wDUoGXz.jpg
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断糖と高濃度ビタミンCで癌と闘え 西脇俊二(ハタイクリニックの医師)
統合失調症、うつ病、パニック障害は糖を抜くと3日で治った。
http://i.imgur.com/MmLHog5.jpg
http://i.imgur.com/hm0OLR0.jpg
植物性なら安心なんて大ウソ!生活習慣病には「サラダ油」が一番危険
毒を食べているようなもの
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50458
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炎症がうつ病の原因 2015.12.9
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ダダモ博士のNEW血液型健康ダイエット
http://www.amazon.co.jp/dp/4087604330
O型は、小麦、トウモロコシ、豚肉、大豆、チーズ、蕎麦、ピーナッツ、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
B型は、小麦、トウモロコシ、鶏肉、カニ、貝、エビ、ピーナッツ、蕎麦、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
日本人は牛乳を消化することができない
植物油は体に悪い最悪の食べ物
アメリカとオーストラリアの牛肉は成長ホルモンが大量に含まれてるので体にすごく悪い
養殖のサーモンには抗生物質が、マグロには水銀が大量にあるので体にすごく悪い >>716-717
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承認されない自己を
貼り付けて自己実現気分。 2011年(主日A年) 8月28日 年間第22主日
エレ 20:7〜9 ロマ 12:1〜2 マタ 16:21〜27
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ロマ v.1)
ここで用いられている “体” とは、“あなたの人生” “生涯にわたるあなたの生活” というような意味なのですが、これを神に喜ばれるいけにえとしてささげる理由が、「神の憐れみによって」 と説明されています。
それはこれまで(ここでは特に ロマ 8章 で)説かれて来た “神の私たちに対する憐れみ深い御業” を指していて、それを理解し信じることから始まらねばならないことを意味しています。
つまり、私たちの罪を取り除くために、神が御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、受難し拒絶されるメシアにおいて罪を罪として処断されたということ(ロマ 8:3)、
それによって私たちは神の子とされる希望、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望む者とされた(ロマ 8:23)ということです。
キリスト者として生きるということを、多くの人々が正しい善良な人間になることだと早合点してしまって、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」(マコ 5:19)を深く理解し信じることを軽んじ、
イエスから 「退け、サタン ! 」 と叱責されたことなど “未熟だった頃の古い失敗談” として、忘れてしまってもよいと考えるのです。
しかし、それは間違っています。
私たちは今朝、この ロマ 12:1-2 を通して、迫り来る神のことばに直面しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>721
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(((_)☆ 2002年(主日A年) 9月8日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタ v.20)
教会の頭であり、その執り成し手である主キリストが共におられるところに、主の教会があります。
この “共におられる主” から離れては、教会という共同体は成り立ち得ません。
マタ v.18 の 「あなたがた」、マタ v.20 の 「二人または三人」 というのは、決して単なる “個人数名” という意味ではなくて、共にミサをささげている共同体のことなのです。
ですからここで取り上げられている事柄は、個人的な人間関係や利害に関する問題ではありません。
そうではなくて、全体教会に対する地方教会、共にミサをささげている個々の小集団のための指針なのです。
どのような小集団も、それが共にミサをささげている共同体であるなら、それはキリストの体を造り上げて行く教会であり、「わたしもその中にいる」(マタ v.20)と主は言っておられるのです。
このことについて教会憲章は次のように宣言しています。
「キリストのこの教会は信者の正当なすべての地方的集団の中に真実に存在する。 ・・・・・ これらの共同体が、しばしば小さく貧しく散在しているものであっても、キリストはそこに現存し ・・・・・ 」(26)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>736
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
“互いに愛し合う” という言葉を、“教会を造り上げる” という目的としっかり結びつけて理解することが大切です。
キリストの祭壇のもとに集まって共にミサをささげる群としての “教会を造り上げる” ことを、使徒たちは “互いに愛し合う” という言葉で表現しました。
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」(ロマ v.8)
すでに久しく、人々は宗教や信仰を単なる個人の心の問題として考え、神の秘められた計画として(ロマ 11:25)理解するという観点を見失って来ました。
神の国を相続する(ロマ 8:17)のは、切り離された個人ではなくて、教会という群である(ルカ 12:32)ことを理解しましょう。
だからこそ 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」 と、使徒ペトロも勧めたのです(Iペト 2:5)。
そのような “教会を造り上げる” 愛が、私たち一人一人のうちに生まれることを願って、主は聖書を通して今朝も語りかけておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>739
キターー―――(・∀・)――――――――!!
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< 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) 大好きな?老クリさん、来ましたよ
【教会探し】行ってはいけない教会36【教会相談】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1499297539/
どうぞ盛り上げてください 2008年(主日A年) 9月7日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
南王国ユダの滅亡を目前にして(エゼ 33:21)、バビロンの地で預言者エゼキエルは、捕囚の民に悔い改めと信仰を説教しました。
今朝のテキストは、単なる個人の道徳責任を主題としているのではありません。
そうではなくて、イスラエルの神の救済史への全き信頼を前提にして(エゼ 34章)、誤ったエルサレム不落信仰への警告を語ったのです。
バビロンの捕囚民も、ユダの残留民も、エルサレムが不落であることに期待しつつ、しかもその窮状に怯えていました。
しかし、大切なのはエルサレム不落ではなくて、それを越えて神がお進めになる救済史への信仰なのです(エゼ 33:10,23-29,37:11-14)。
今年になってからのニュースで、英国人の半分以上は、キリスト教が一世紀以内に英国から消滅すると考えていることが分かった、というのがありました。
冷静に日本の教会の実態を観察すれば、これは我が国でも当然の結論なのです。
なんと預言者エゼキエルの置かれていた状況に似ていることでしょうか。
教会の存続に期待しつつ、どこまでこれを維持出来るかという不安に心を奪われている我が国のキリスト者に、それを越えて神がお進めになる救済史への信仰を、キリストは旧約の預言者を通して呼びかけておられます。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。 ・・・・・ 立ち帰れ、 ・・・・・ イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼ 33:11)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>743
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>743
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) 2002年(主日A年) 9月15日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7 ロマ 14:7〜9 マタ 18:21〜35
罪という同じ語が使われてはいても、実際にはいろんな程度、いろんな種類のものがあります。
人に対する罪があり、神に対する罪があります。
個人に対する罪があり、共同体に対する罪があります。
現代は個人の主体性や尊厳が重んじられる時代なので、多くの人は個人的な人間関係の中での罪であれば、実感したり理解したりすることが容易です。
ですから、そのような罪に対して復讐するな(シラ v.1)、赦せ(シラ v.2)、憤り続けるな(シラ v.5)と語るシラ書の教訓は分かりやすいのです。
しかし旧約聖書の続編であるシラ書には、やや控えめではあるけれども、イスラエルの信仰をその前提にして、教訓が語られていることに注目したいのです。
シラ vv.6-7 の “掟” とは、神とその民である共同体の同胞を愛するという律法のことです。
“隣人” とは神との契約(旧約)による “共同体の同胞” のことです。
同胞に対する個人的な罪が、根源的には、その民をエジプトの国、奴隷の家から導き出した主なる神への罪として理解されているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>746
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
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人 2005年(主日A年) 9月11日 年間第24主日 2005年(主日A年) 9月11日 年間第24主日
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタ v.35)
「赦す」 とは、どういうことでしょうか。
もちろんここで問題になっているのは、“罪の赦し” です。
罪人を赦して義とされるのは神であって、それは人間には出来ません。
人間に出来ることは、他人の悪に悪を返さず(ロマ 12:17)、他人の罪を裁かない(ロマ 14:10、Iコリ 6:7)といった類のことでしょう。
「心から兄弟を赦す」 とは、 「自分で復讐せず、神の怒りにまかせ」(ロマ 12:19)ることであり、
「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」(ロマ 14:15)ことと、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つ」(ロマ 14:10)ことを思って忍耐することだと、使徒たちは教えました。
”仲間を赦さない家来” の譬え話は、マタイ福音書では 「兄弟が “わたしに対して” 罪を犯したら」 というペトロの言葉で始まっています。
またルカ福音書の平行記事では、「“悔い改めます” と言ってあなたの所に来るなら」(ルカ 17:4)という条件が付けられています。
ですからここで取り上げられているのは、あくまでも自分に対する誰かの罪のことであることに注意せねばなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人
804 :老クリスチャン[] :2017/09/16(土) 12:07:57.07 ID:Z7FY1oDU
2011年(主日A年) 9月11日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7 ロマ 14:7〜9 マタ 18:21〜35
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。 従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。」(ロマ v.8)
私がこの “聖書の学び” を書き始めて、今年で12年目になります。
その間ずっと私のこの学びを支えて来たものは、“神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会(使 20:28)を愛しておられる、その愛に、しもべも与らせてください” という祈りでした。
前回にも書きましたように、人間はもともと遺伝的に攻撃性を受け継いでいるものなので、同じカトリックの信者の間でも、互いに出身や教養そして習慣の違う人々に対して、通常先輩に当たる古い信者の一部から、厳しい批判の声が発せらたりします。
歴史的に教会という共同体は、しばしばいくつかのグループに分かれて互いに批判し合うということを繰り返して来ました。
共同体の一人一人の信者のために、その兄弟のためにも、キリストは死んでくださった(ロマ 14:15)ことを思うと、“私は教会を愛している!” と叫ばずにはいられません。
それは分裂や争いがないからではなくて、それにもかかわらず “死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるイエス・キリストが、(今も)神の右に座っていて、教会のために執り成しておられる”(ロマ 8:34)ことを信じているからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486378456/804 キリスト、キリスト教は東洋の術にだまされやすい。
阿含宗及び桐山管長は悪いほうへ行ってしまったと聞いたのでダメだが、原始仏教である
阿含教の7か37道品ははやく解読しきり具体的には何をやるのかネットなどに載せ
コースも作るところは作って出来るようにすべきである。そうしないと本当の悟りは
いつまでたっても得られない。よく禅宗の坊さんが悟ったと言ったことがあるのを聞いた
ことがあるが、故桐山が生前言うには違うものだと言う。グモンジソウメイホウも
空海が出したまんまたどっただけでは違うものらしい。いぶきながよのほうもそうなのだろう。
ただ釈迦にも欠点はあり7か37道品の最後の八正道は中道を軸に作っているが。
中道でいいところはいいが、裏目に出ると肝心のところで中道ではなく中途半端に
(中途挫折)に物事が終わってしまう。しかも釈迦は自分がそれで失敗すると、なんでも
正当化して、しかも本当に成功してる者を二面性屁理屈などをつかってけなして騙し
全部中途半端に引きずり落としてしまう。これでは今度は悟り以外なんともならなくなる。
ここはどうにか改良、改善して使わなければならない。
どうにか静と動になるようにしたい。 ____
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人 2005年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜27a マタ 20:1〜16
天の国についてのこの譬え話から、私たちはイエスとその十字架の死がどういうものであるかを説明する使徒的宣教の神髄を聞く思いがします。
この譬え話を通してイエスは、天の神がこのような方であるから、私もそのように行動するのだと言われたと、福音書記者は理解しました。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ロマ 5:8)と使徒パウロが語ったように、
イエスの死はことばと行為をもって神の赦しの恵みを宣べ伝えた “彼の和解の務め”(エフェ 2:16-17)の頂点でありました。
疑いもなくイエスは、夕方五時頃に雇われた労働者たちをもって、神の国への彼の招きに応じる徴税人や罪人たちのことを言おうとしました。
そして最初から雇われていて主人に不平を言った抗議者たちは、その功徳に応じて神から特別な報酬を受けられると思っていた律法学者やファリサイ派の人々のことを指していたに違いありません。
イエスの譬え話へのこのような理解は、使徒時代の教会の体験そのものでありました。
「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。 このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。 それは誰も誇ることがないためです。」(エフェ 2:8-9)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より _,. -‐、────- 、
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イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜24,27a マタ 20:1〜16
使徒パウロは獄中にあって、フィリピの教会の人々のことを心に留めて、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(フィリ v.27)と書き送りました。
それは 「キリストの日に備えて」(フィリ 1:10)、その日に彼らが 「共に(神の国の)恵みに与る者」(フィリ 1:7)となるために、使徒としての自分の労苦が無駄にならないため(フィリ 2:16)を思ってのことでありました。
彼はいわば “ぶどう園に最初に雇われた労働者の一人” として、自分だけ約束の賃金を貰えれば後はどうでもよいとは、どうしても考えられませんでした(フィリ vv.23-24)。
彼の福音理解は、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」 ということであり(フィリ 3:9)、
フィリピの教会の信者たちを、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(フィリ v.17)と励ますことが必要であると知っていました。
著作の場所については諸説ありますが、フランシスコ会の聖書(合本)の解説では、エフェソ説を採用しています。
使徒パウロが、「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」(フィリ 1:7)、このようにひたすら 「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらす」(フィリ 1:25)ことに心を尽くしてくれた、その恩恵に現代の私たちは与っていることを感謝しましょう。
主は今も聖書を通して私たちに福音を語ってくださるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日A年) 9月21日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜27 マタ 20:1〜16
「天の国は次のようにたとえられる。 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(マタ v.1)
これは現代流に言うと、一日一デナリオンの雇用契約に基づいてぶどう園に送られた労働者の譬え話です。
聖書において譬え話というのは、神に対する信仰について説明するための手段であって、それ自体をそのまま律法や戒めのように受け取ってはなりません。
教会の教導職や一般信徒を、キリスト教という宗教のために雇用された労働者のように考えるのは間違っています。
・・・・・ プロテスタントでもカトリックでも、そんな勘違いが潜在的にかなり一般的であるような事例を、私は過去にいくつも見て来ました。
“神父 ・・・・・ 、しっかり働け ! ” などという暴言が、突然飛び出したりすることがあるのです。
去る8月24日の学びで、教会憲章の 「主が自分の民の牧者たちに託した任務は真の奉仕であって ・・・・・ 」 という言葉を引用しましたが、実は教導職だけではなくてすべての信者は皆キリストの奴隷(δοῦλος)なのです(Iコリ 7:22)。
新約聖書では “僕” と翻訳されることも多いのですが(ルカ 17:7、フィリ 1:1)、これが労働者と違うのは、その働きに応じた報酬(成功報酬や能力給など)を受けるような契約関係がないということです。 (つづき)
「自分の分を受け取って帰りなさい。 わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタ v.14)
救いも、永遠の命も、神の国の約束も、ただ恵みであって報酬ではないということを語るために、その譬え(比喩)として労働者が登場しているに過ぎないということを、正しく理解しましょう。
この機会に、教会での信徒の奉仕について一言触れておきたいと思います。
多くの信者や求道者たちが教会の活動に参加するとき、“教会のお手伝いをしている” とか “神父や修道者を助けるために” などと理解していることが多いのです。
“神はぶどう園の労働者が足りないと困るので ・・・・・ ” などという読み方をしているとしたら、それは全くの見当違いです。
救われてキリストの体の部分とされた私たち(Iコリ 12:12-31)は、神に感謝して自らを献げるのであって(ロマ 12:1)、「それは香ばしい香りであって、神が喜んで受け入れてくださるいけにえ」(フィリ 4:18)でなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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× ロ α ノ こ >>764-766
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
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カトリック京都が励ますし
Hagemasushi
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人 2005年(主日A年) 9月25日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28 フィリ 2:1〜11 マタ 21:28〜32
「ところで、あなたたちはどう思うか。 ある人に息子が二人いたが ・・・・・ 」(マタ v.28)
先週のテキストと同じく、イエスがこの譬え話で兄を徴税人や娼婦たちに、弟を律法学者やファリサイ派の人々に当てはめて話されたことは、容易に理解されます。
「言うだけで、実行しない」(マタ 23:3)律法学者やファリサイ派の人々よりも、罪を悔いる徴税人や娼婦たちのほうが神の恵みにより近いことを、イエスは語られました。
それでは現在自らキリスト者であると公言して人生を歩み、主日には共にミサをささげるために御聖堂に集まる私たち一人一人は、この兄弟のどちらに当てはまると考えたらよいでしょうか。
楽天的で善良なカトリック信者の多くは、自分は 「お父さん、承知しました」 と答え、「父親の望み通りにした」 息子に当てはまると思っているのではないでしょうか。
ところがこの譬え話には、たまたまそのような “出来の良い息子” は登場しないのです。
福音書を生み出した一世紀の教会の体験によれば、「後で考え直して」 という悔い改めを抜きにしては、救いの恵みを語ることが出来ませんでした。
「悔い改める必要がない」(ルカ 15:7)(と思っていた)律法学者やファリサイ派の人々ではなくて、
使徒たちが宣教する 「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(使 20:21)によって 「立ち帰った」(エゼ 18:32)羊たちであるというのが、初代教会の人々の自己理解でありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
>>777 :老クリスチャン :2017/09/28(木) 11:25:49.46 ID:RUdZfe0l
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) 2011年(主日A年) 9月25日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28 フィリ 2:1〜11 マタ 21:28〜32
「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ v.8)
確かにある意味で、これは私たちキリスト者が見習うべき手本です(ヨハ 13:15 参照)。
しかし、キリストの従順は私たちのため、私たちの罪を身代わりに担って(Iペト 3:24)、御自身が神の裁きに身を任せる従順(ガラ 3:13)でありました。
「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ 53:5)のです。
ですから私たちキリスト者は、善い行いによって一人一人が “小さなキリスト” になろうとしているのではありません。
そうではなくて、キリスト・イエスに結ばれる洗礼によって罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて新しい命に生きるのです(ロマ 6:3-11)。
新約聖書が語る “従順” は、私たちにとっては 「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった」(Iヨハ 4:10)から、だから、という救いを前提にした 「信仰の従順」(ロマ 1:5)なのです。
私たちは 「イエス・キリストは主である」(フィリ v.11)という信仰宣言を、そのように理解しようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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