▲色即是空の誤り3▲
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四十九年一字不説、すなわちお釈迦さまは、成道の後、なんにも説かなかったそうだ。。w これを書いた方、いらっしゃいますか?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1589542437/
720 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2020/06/10(水) 20:06:17.94 ID:riBszQLu [2/22]
>>719
それよりもこのスレの誰一人としてあなたの意見に賛同してないことについて感想をどうぞ 釈迦は言葉で表現し得ない悟りを、言葉で表現した。それを世俗諦というならそれでもいいだろう。だが、第一義に達した者は、なぜその世俗諦を捨て去るべきなのかね?川を渡ったら、たしかに筏は捨てるべきだ。しかし、12縁起は筏ではない。八正道が筏だろう。 お前らもよくインド人が言うことなんか真面目に考えられるよなw >>659
苦諦 集諦 滅諦 道諦の四諦が真諦に於いては成立しないという事
それが般若智で有るなら無は付かない >>662
十二支(相応部の城邑経など経典によっては十支)を滅したところに彼岸があるので
無明滅すれば則ち行も減す、行滅すれば則ち識も減す、識滅すれば則ち名色も減す、
名色滅すれば則ち六入も滅す、六入滅すれば則ち触も減す、触滅すれば則ち受も減す、
受滅すれば則ち愛も減す、愛減すれば則ち取も減す、取滅すれば則ち有も滅す、
有減すれば則ち生も減す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩も減する。
川を渡った時点で十二支は捨てられる、というよりも滅しているということになりますでしょうか。 真俗二諦
真諦は、「第一義諦」の項に、梵語パラマールタ・サティヤ(paramārtha-satya)の意訳。世俗諦に対する語。勝義諦・真諦ともいう。真如法性、真如実相などに同じ。言説を絶した仏自内証の正覚の内容であり、出世間の真理をいう。
俗諦は、「世俗諦」の項に、梵語のサンヴリティー・サティヤ(samvrti-satya)の意訳。第一義諦に対する語。俗諦、世諦ともいう。仏の正覚の内容について仮に説きあらわされたものをいう。
龍樹の真俗二諦
龍樹は、仏陀が有と説く説法形式を世俗諦とし、空と説く説法形式を第一義諦とし、仏陀の説法に二種の形式があるとする約教二諦説を主張しているのである。
即ち『般若経』では諸法実相の妙理である第一義諦の境地を説くのに亦有亦無の世諦があるとしたのに対して、竜樹では世諦、第一義諦ともに中道実相の理を説く一つの表現形式であるとするのである。
かくて、世俗諦と勝義諦は対等の位置をもつことになったのである。
仏陀の聖なる教えは 二種の真理に依存している。
条件付きの真理と、 超越的真理である。
これら二つの真理の違いを 知らない者は、
意味深い仏教の真髄を 知ることができない。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー の意味は
行け 行け 彼岸に行け 彼岸に正しく行け
菩提(さとり)を成就せよ
ですよね? どの道、十二支を滅して解脱したのならその十二支縁起の理法には執着せずに理法を手放すものだと思います。 行け 行け 彼岸に行け 彼岸に正しく行け
菩提(さとり)を成就せよ
行け 行け 彼岸に行け 彼岸に正しく行け
菩提(さとり)を成就せよ
色即是空
空即是色
別に問題ない。 >>670
サイトによって微妙に訳が違いますがだいたいはそんな感じですね。
同じ真言を勿論唱えているチベット語の般若心経の訳だと↓
http://www2.tst.ne.jp/yakushou/madhya/madhya3.html >>2
空においてはあらゆる概念は滅せられるのに空を概念としているところに矛盾があるようです。
八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507743
苫米地英人氏もある種の空見を抱いているのかもしれません。 >>674
あらゆる概念がなくなるのに悟りはあるとか言っちゃうお前が何言ってんのさ? wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 初めに有空を説く人尽く執す
後に空有を非とすれば衆皆な損(えん)す 『十玄談』
・・・空と言う概念の中にいるうちは、難しいところかもしれない。。 >>675
悟りのないのがいい悟りって、よく言うじゃないか。。w そこら辺の普通の仏教書を見れば書いてあることを、何も調べもしないでおかしいとか云うんだろうねwww
知ってて嫌がらせで書いてるとしか思えないんだけどwww これを引用するのも何度目になるのでしょうかw
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
これが龍樹や中観派にとっての悟り(ブッダの悟りも多分同じ)であるとして、
言語の対象もなくなるので無分別になるので悟りという概念もなくなる、その境地を悟りと(仮に、世俗に於いて)名付ける、ということになりますかね。 >>678
だから、お前とID:1ze5AJxPは違うこと主張してるから。
何度も同じこと言わせんな。 >>681
概念としても悟りもないと認めるのか?
昨日は体験できるからあると言ってたのに?
ころころ変えるなあ・・・。 >>683
早い話が、「悟りという概念までもがなくなるのが悟りと名付けられている境地だ」ということです。
今回もこれ以上は付き合いませんので悪しからず。
本来はレスしなくても良いくらいなのですがね。 >>681
あとさあ、概念がなくなるなら他者もなくなるなあ。
他者救済という大乗の謳い文句も消えるなあ。
まーた、「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」とか言い出すの?
概念が消えるのが空だと言ったと思えば、
他者という概念は否定されないと言ったり、
完全に論理破綻した外道。 >>684
だったら、「他者」もなくなって、大乗も無になるな。
大乗は虚妄。 大乗非仏説
大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経典の範囲が確定していた可能性は高い。
つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典のどこにも場所を持たなかったと考えられるのである。
初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、
少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC 大乗仏教とは「経典捏造による謗法」や「仏教教義からの逸脱」であるとして、
大乗仏教出現以来、現在に至るまで展開されている論説である。
大乗経典は元々の口伝による伝承そのものが存在しないという主張がある。 1だが、この点についての意見を聞きたい。
625 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2020/06/24(水) 15:37:51.79 ID:hRAxnRhW [3/13]
>>622
ただね、説法者が釈尊だとしたら
心経の末尾でマントラを唱えるのは変なんですよね
654 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 19:41:30.72 ID:1ze5AJxP [6/11]
>>625
最後の呪文は大般若波羅蜜多経にはないです。
また観自在菩薩も大般若波羅蜜多経には登場しなかったはずです。 まだ、やっているw
大乗非仏説がでてきた。
仏説というのは、非仏説、故に仏説
なんてねw
ダンマパタ
一七一 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。
金剛般若経
一切の有為法
夢、幻、泡、影の如く
露の如く、又雷の如し
まさにかくの如し観をなすべし
それではどうのように説いて聞かせるのであろうか、
説いて聞かせにようにすればよいのだ。
それだからこそ、
説いて聞かせると言われるのだ。
ちゃんちゃんW
(。・_・。)ノ 一般的に、大般若波羅蜜多経を要約したものが般若心経であると言われているが、
最後の呪文や、観自在菩薩は、大般若波羅蜜多経には登場しなかったらしい。(私は未確認ですが)
本当に、大般若波羅蜜多経には登場しなかったのか?
もし、そうなら、なぜ、呪文と観自在菩薩を加筆したのか? >>692
>説いて聞かせにようにすればよいのだ。
間違い
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
"(-""-;)"
ブッタは何も説かなかった。
別に問題なしW
(。・_・。)ノ 693.観自在菩薩は智慧を持った主体である、として登場する。 695.観自在菩薩は私である、と説明した禅師が居た、とか。 世俗諦の言葉で真諦は表現出来ない、ということだが、だが、それは無駄ではない。釈迦が梵天勧請の経で、法を説くべきか悩んだのもそのことだ。しかし、釈迦は世間を観察して、言葉で説いても、理解出来る人が居ると判断して、法を説く決断をした。 ブッタは何も説かなかった
ブッタじゃない、
だってボサツだもの。 釈迦は、世俗諦の言葉で法を説いても、真諦を理解出来る人が居ると判断して、法を説き始めたわけです。
だから、言葉で真諦は表現出来ないと、それが無駄かのような意見は間違いですね。釈迦の判断を否定してはダメですよ。 698.理解できない人はいない、と判断して法を説く決断をした。 釈迦の時代も、諸法は無常にして無我と説き、空と同趣旨を説いた。しかし、悟り=涅槃までを無常無我とはしなかった。無常無我の滅を涅槃としたわけです。般若心経以降、諸法の中に悟り=涅槃をも含めて、空としてしまった。釈迦の涅槃を変えたわけです。 無苦集滅道も 無い、等と言ってるのじゃなく、「もう執着する必要は無いんだよ」と説いてるだけでしょう
またアートマンが五蘊の中にアートマンが無いと照見するお経かもしれないが
そうだとすると それはやはり仏教の枠を超えた教えになり、それを示すために
マントラが添えられ、密教経典と呼ばれたりしたとか・・・ ただ言葉の問題として、仏教はアナートマンだからアートマンという訳にいかない
しかし、如来蔵とか、活仏転生とか
実質アートマンだし、日本の仏教だって梵我一如ですよね もう一つ
マハルシの真我の探求
実は重要です 日本の仏教も結局
同じ >>678
君の立場を確認しよう。
涅槃も含め、概念はすべて消え去る。
こういう主張? >>703
律蔵付随 Vinayapitaka ParivaraJ には
「諸行は無常なり,苦なり,無我なり,有為なり,涅槃も施設も無我なりと決定する」と明記されているよ
律蔵付随は分別説部の律蔵パーリ率だから部派仏教の頃から涅槃は無我だよ
っていうか釈迦仏教のときでも無我の滅を涅槃とする教えはないよ多分… 律蔵付随は分別説部の律蔵のパーリ律だから部派仏教の頃から涅槃は無我だよ 大乗さん「悟りという概念までもがなくなるのが悟りと名付けられている境地だ」
賢者「他者という概念も消えるんだよね?」
大乗さん「お、おう…」
賢者「他者救済もなくなるね?」
大乗さん「いや、根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」
賢者「悟りは否定したのに、他者は否定しないの?」
大乗さん「…」
大乗さん、論理破綻してるなあ。 悟りだの他者だのという実体はない(空)けど、そうした作用は認める(仮有)って事でしょ?
先のインド的唯名論の件でも少し説明したけど、ダルミンとダルマの明確な分離を仏教ではしていないんです。 釈迦仏教の涅槃は無我ではないよ。
釈迦仏教で、諸法は無常にして無我だが、
涅槃は、無上安穏にして寂滅なのだよ。
無我とは、無常にして実体がないこと。
釈迦仏教の涅槃は、無上安穏にして寂滅であること、この本質は変わらないのよ。 >>707
こりゃまた、ネタの投下ですか?
世に宗教といわれるものは、他宗教(宗派)との関係において、
1.排他主義
2.包括主義
3.多元主義
4.混淆主義
があると思うんです(意味については其々ご自身でお調べください、4.はシンクレティズムとも言われますが、仏教スレでそれを持ち出して階層的に仏教を組み込むと荒れますよ? 涅槃とか悟りの境地みたいなものを認めてしまうと、無常と背反する。。
だから、涅槃も悟りもいったん明らめたのちは、忘れるというか、無常なるまま、だろうね。。
揺れ動くままに解脱、あるいは、輪廻するもよし、くらいじゃないかな? 部派仏教での涅槃には、無我とするものも、あるだろうね。部派仏教から、釈迦仏教がかなり変えられた部分があるからね。 >>714
そうすると、他者もなくなり、必然的に他者救済もなくなる。 ヒンズー思想は(インド的)実在論、仏教思想は(インド的)唯名論。
両者を同一視するのはいかがなものでしょうかね? アートマン、我の中心、司令塔、がない、ということで、
縁のまま、縁に応じて感受する、反応する、
そこから、縁に応じて自在、縁に応じるままに不動、ということになる。。
あるいは、縁に応じない、動かされない、と言う可能性も生まれるということかな?
時に縁を転じ、時に縁に転ぜられ、動の中にあっても、平和、安心がある、というくらいだろう。。
そして、その我、はあっても、同時に、ない、認められない。。 >>718
だから、そういう風に、有無のどちらかに滞らない、ということでしょ? >>721
「涅槃も含め、概念はすべて消え去る。」というのが君の立場だと認めたばかりなのに、それ? >>721
君、完全にこれじゃん。
大乗さん「悟りという概念までもがなくなるのが悟りと名付けられている境地だ」
賢者「他者という概念も消えるんだよね?」
大乗さん「お、おう…」
賢者「他者救済もなくなるね?」
大乗さん「いや、根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」
賢者「悟りは否定したのに、他者は否定しないの?」
大乗さん「…」
大乗さん、論理破綻してるなあ。 >>722
安心して輪廻すればいいだけじゃないか?
輪廻もできないでは、仏じゃないだろう?w 根本智は持ち出してないから修正。
大乗さん「涅槃も含め、概念はすべて消え去る」
賢者「他者という概念も消えるんだよね?」
大乗さん「お、おう…」
賢者「他者救済もなくなるね?」
大乗さん「いや、有無のどちらかに滞らない」
賢者「悟りは消え去るのに、他者は有無のどちらかに滞らない?」
大乗さん「…」
大乗さん、論理破綻してるなあ。 W他者がなくなるWとか説明してるから矛盾を突かれてしまうんですよ。
他者というのは相依性という縁起の法で成立してるもので、他者というものそのものが実体・単体として成立してる訳ではないって事でしょ?
だから、他者というのは有るでもなし、無いでもなしなんです。 >>723
立場なんて知らん。。w
>>724
他者も実体としては認められない、いない、でも、いないがゆえに、実体を認めないがゆえに、
救うことができる、ということだろうね。。
あるいは、既に救われているものとして、接する、でもいい。。w 相手が悲しんでいるとか不安があると言った時、実体を認めるならば、それに引っ張られて、同情しちゃうのがわれわれ凡夫でしょ?w
そうではなく、理解しつつも、実体ない、空、と言う風に見ているから、それを転ずることができる、ということではないのかな? ダライ・ラマは「次は女に生まれる」ことを仄めかしたり
シナじゃなくてインドに生まれると言ってるらしいけど
そこまで制御できるのだろうか? 慧可が、不安があります、と言った時に、達磨大師は、ならばその不安を持ち来たれ、と返した。。
それによって、慧可は、不安に実体のないことを知り、安心を得た、なんて話もあるね。。
達磨安心、と言うお話。。 何が何で悲しんでいるのかの
理由の何もかもが
手に取るように見えるのなら
何が何で悲しむのか?
になってしまうかもね >>729
空を救済?
空っぽな虚妄だなあ。他者救済は虚妄。 他者という実体はなくても、縁起の相依性で存在している他者は在るのだし、救済、つまり煩悩に対するそれも、同じく実体はなくても作用としてあるでしょ。
それだけの事。 >>734
>>他者救済は虚妄
なんだ。お前も立派な「大乗派」やな。 なんか変なスレだねぇ。
ネタ作りの為に意図的にしてるんだか、突っ込みの入れ方に多少の無理があるんだけど、いかんせん、突っ込まれた方も分かってないで説明してるからスレがカオス化してる。
中味としてはおもしろくないんです。 >>741
まあ、「般若心経」も「大般若波羅蜜多経」を読ませるために
意図的に論争を呼ぶような書き方をしていますからねえ。
「般若心経」をテーマにすれば、カオス化するのは必然かも?です。 >>740
上手いですね。
色即是空受想行識亦復如是で終わりになれば諸法は空にして無分別ですから自他の分別もなくなる。
でも大乗仏教はそこから空即是色の後得智に続きますからね。
後得智
〘仏〙 現象界の個々の物事の相違を認める智慧ちえ。あらゆる物事が無差別であると知る根本智ののちに得られる。仏は衆生の差別を知って救済しようとするので、衆生を救済するのは後得智とされる。
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E5%BE%97%E6%99%BA-503031
これを何回言っても暇つぶしをしたいのか同じ突っ込みしてくる人がこのスレには居ますが。
また金剛般若経だと
「諸々の菩薩摩訶薩は、まさに、かくの如く、清浄の心を生ずべし。まさに色に住して心を生ずべからず。まさに声香味触法に住して心を生ずべからず。まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし(応無所住而生其心)」と説かれていますが、
これが空即是色に即した大乗の菩薩行でしょうね。 参考までに金剛般若経
第三章
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、
次のような心を、起こさなければならない。」
『生きとし生けるもの、
卵から、生まれ出たもの、
母胎から、生まれ出たもの、
湿気により、生まれ出たもの、
他から生れず、自ら生れたもの、
形のあるもの、と、形のないもの、
想のあるもの、また、想のないもの、
想があるでもなく、ないでもないもの、
そのほか、ありとあらゆる生けるものを、
私は、無余涅槃に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、生きものという実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩と、言えないからである。」
「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、自我や生命という実体に、囚われたり、
もし、個体や個人という実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩とは、言えないからである。」
第十四章
「しかし、師よ、実に、彼らには、
自己、人生、個人、個体という思い、
思いという思い、思わないという思い、
このような思いなど、生じることがない。
仏陀とは、一切の思いを離れたものゆえに。」
https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291549474.html >>743
>でも大乗仏教はそこから空即是色の後得智に続きますからね。
そうでしょうね。
灰身滅智よりも無住処涅槃にウエイトを移したって事でしょうね。 >>743
ありがとうございます。
ただし、その説明では彼は納得しないでしょうね。
なぜなら、私は、「空即是色」は間違っていると思っているからです。
しかしながら、私の脳内では、彼は大乗派に分類されます。 般若心経はある意味、ロゴスからレンマに一気に飛躍する様を説いたお経だと思うんです。
その飛躍の鍵が訳されない W呪W なんです。
言語により分節され構築された世界を破壊する W呪W なんです。 禅宗でいう無字も乾屎橛も、かかる意味に於いて W呪W なんです。 空即是色って、五蘊(色受想行識)は空性で、その空性である五蘊が因縁仮和合して相依性の中で存在している。
そんな意味ではないのですか? >>749
ROM者向けに、初心者にもわかるように説明します。
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
とは
色即是空 空即是色
受即是空 空即是受
想即是空 空即是想
行即是空 空即是行
識即是空 空即是識
を省略した記述である
ということで、よろしいですか? 空即是色の誤り…
掘り返す様ですけど、スマサーラ長老が「般若心経は間違い?」を出された時、仏教界は殆ど反応しませんでしたね。
石飛先生が「空の発見」で反証されてはいましたが。
一般に市販されている般若心経の解説書で私のお気に入りは、「真釈 般若心経」(宮坂侑洪)です。 般若心経にも大本があり、そこではお釈迦様の意を受けた舎利弗が聞き手、観音様が語り手的な構成でなってます。 >>751
鹿野園さんのお叱りを受けるかもしれませんが、
文法上の問題で間違っていると思います。
実は、>>1に貼った苫米地氏の動画ですが、50%は支持する部分がありますが、
残りの50%ほどの部分は違和感があります。
まず、支持する部分
6/8 【仏教】釈迦の悟った内容 - 苫米地英人
https://www.youtube.com/watch?v=YcCKWfmT2Bo
2分30秒から5分30秒の地点
犬は動物である 動物は犬である
猫は動物である 動物は猫である
虎は動物である 動物は虎である
熊は動物である 動物は熊である
猿は動物である 動物は猿である
ということになり、「おかしいでしょ?」ということになります。
******
しかし、2分30秒から5分30秒の地点の最後のほうで、苫米地氏が言う
「色即是無 無即是色」には違和感があります。 >>753
小本では、「お釈迦様の意を受けた舎利弗が聞き手」という
大事な部分が省略されています。
非常に不自然な省略の仕方だと思います。
空即是色
空即是受
空即是想
行即是行
空即是識
を、削除して、「お釈迦様の意を受けた舎利弗が聞き手」ということを強調すべき
と思いますが、
確信犯かもしれません・・・ >>754
分かりますよ。
先程、掘り返す様です云々言いましたが、その問題に対する見解は既に石飛先生の本では明確に反証されてますし、それに対してのスマサーラ長老の反証は存じてません。
簡単に説明しますと、 W五蘊=一切=空W という等式において、空即是色って事なんです。
熊だの虎だの犬だのは動物の部分ですから、五種類の動物を集めても動物の部分に過ぎませんか、仏教における五蘊は一切を分類すると五蘊に分析されるという前提での意味(一切=五蘊)でなので、空即是色が成立するって事です。 >>751
図書館には、
宮坂 宥洪著 般若心経の新世界
しかありませんでした。
とりあえず、借りてきます。 >>755
>確信犯かもしれません・・・
はい。
仮説ですけど、サンガには声聞道を歩むグループと菩薩道を歩むグループが発生し、後者が大乗仏教の起源という説もあります。
であれば、声聞道のシンボルである舎利弗尊者が菩薩道を歩むグループの仮想叩き台にされるというのはある得ると思います。
その傾向は特に維摩経にはありますね。 >>756
>>簡単に説明しますと、 W五蘊=一切=空W という等式において、空即是色って事なんです。
なるほどです。
五蘊即是空ですね。
これなら、空即是五蘊と強調できます。
反論しないほうが賢明ですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています