▲色即是空の誤り3▲
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釈迦仏教を勉強すると、第二段階の悟り、一来あたりまでは普通の人でも、努力すれば行けると感じる。
しかし、第三段階の悟りの不還は、かなり難しいと思う。ここから神通の能力が生じると、説かれているからね。 >>388
お前「レッテル貼るな」と言った直後にレッテル貼った馬鹿だろwww。
お前みたいな馬鹿は無職だろうなあ。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その1)
>諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(龍樹 「中論」)
この文章から
世俗諦〜ことばによる説明。
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、ことばによる説明によらないと説かれ得ない。
って紐解けると思うんです。
で、世俗諦については特段の説明は要しないでしょう。
一点注意するとすれば、”言葉による説明” と ”理解” と云うのは、中観派においてはシノニムの関係という事です。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その2)
言語によって説明(=理解)されたものが世俗諦って云う限りにおいて、勝義諦は言語によって説明されるものではないと云うのはお分かり頂けるものだと思います。
では、それ(勝義)が何かというと…
その ”何かというと” と云うのは、そこに既に言語による説明が要請されている事にお気づきでしょうか?
語るに落ちるって言葉がありますが、語ってしまうとそれは世俗諦に墜ちてしまうんです。
ひいては それ っていう事自体も世俗諦に墜ちてるって事です。
この構造が理解できれば、CJmWiSr9さんが話されている事に合点がいくと思うんですがね。 >>389
結論は出ています。
貴殿の暇つぶしの為に振出しに戻って最初から語る気はありません。
休憩時間も終わりなので、中座します。 >>394
お前の完敗で結論が出てるのに、蒸し返すなよ。
どうせ悔しくなって、
別人格としてもどってくるんだろwww。 訂正
>仏教はインドの歴代王朝の中で盛衰を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。 >>163の要求をスルーして何逃げてんだよ 笑
脳内資料による妄想って事でOK? これも返事が無いから論破確定だな? 笑
>>190
> >>176
>
> それお前だから 笑
>
> 直ぐに見破られて廃れた筈の大乗経典がその後も創作され続けて後期密教迄 チベットに輸出されてる以上は 直ぐに廃れたというお前の主張と事実とで時系列に多大な誤差が有ることを否定出来ないんだよ >>397
だからさ、
玄奘と義浄の記録を何度も示しただろ。
お前も、鹿野園の別人格?
w >>399
>
> >結論「大乗は衰退した」
> >これが学者の一致した見解。
>
> これのソース出せって話だろうが ど文盲
>
> ガチの基地害かよ?笑 >>370
全く世話が焼けますねえw
凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
勝義として悟りは無分別故に滅する概念であるが、世俗である現象社会においては、悟りは、般若心経で他に無とされている十二支縁起や四聖諦同様に因縁によって成立する。
菩薩は現象社会の悟りという概念は否定することなく衆生への説法として用いる。
ブッダは悟りよりも解脱の方をよく使っていましたが、解脱においても同じことです。
以上、もうこれ以上は説明しませんからねw ちなみにじゃが、このスレ最初に立てたやつは、
人生相談板ではふんはふんおふんおふん、って言うとるやつ >>402
説明できてないことを自覚しような。
> 凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
それじゃ、凡夫の世俗諦と覚者の世俗諦は何が違うかと説明になってねえよ。
違うから智をつけたり付かなかったりしている。結果的に区別しているから、それが違うって、循環論法だぞ。間抜け。
勝義においては、十二支縁起や四聖諦も否定されているんだろwwww。
否定した概念を使うなよ。ほんと馬鹿だな。
どこがおかしいと指摘されているのかも理解する知能がないのかよ。 >>402
そもそも説明してるというのが勘違い。
お前の主張の欠陥を指摘されてるんだよwww。 >>401
お前はめんどくさいから相手にしてないだけだぞ。
アホ過ぎて相手にする価値もないからスルーしてることを理解しとけw。 >>406
ちゃうちゃう
鬼和尚のスレとかにおるぞよ >>394
休憩時間とか取り繕わなくてもいいですよ
いつでも降臨してください >>408
なるほど。そのまんまじゃの。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1585267583/554
554 名前:太上天君[] 投稿日:2020/05/14(木) 20:29:53.55 ID:0YuLyLoQ
ぬしゃらよ、はいぎぃ〜っぬしゃらあ「色即是空空即是色」というのは間違っておる。
よいか「色即是空空即是色」の意味は「有は無であり、無は有である」という意味じゃ。
だが無はないのじゃよ。ないから無なのじゃ。無はあり得ないのじゃ。
だから「有は無であり、無は有である」ということはできないのじゃ。
それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつじゃなw
はふんはふんおふんおふん。 >>404
僕なんかは、十分納得してしまったけど。。w >>407
つまり学会の一致した見解だというソースも無しにデタラメこいて証明不能という事だな?笑
ハッタリばっかかますから そういう事になるんだぞ?
二度と根拠の無いデタラメ言うなよ ( ̄ー ̄) >>412
だからさ、違うこと言ってる学者を出せよ。
ソース出せないお前だっさw。 >>411
それなら俺の指摘に代わりに回答してくれよ。
回答できないなら考えが浅い! >>413
全会一致した学会の日時と議事録はよ 笑
昨日から言ってるのに出せないからスルーして逃げたんだろ?
卑怯な奴だ( ̄ー ̄) >>392,393
では、それ(勝義)が何かというと…
その ”何かというと” と云うのは、そこに既に言語による説明が要請されている事にお気づきでしょうか?
語るに落ちるって言葉がありますが、語ってしまうとそれは世俗諦に墜ちてしまうんです。
ひいては それ っていう事自体も世俗諦に墜ちてるって事です。 ///
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、ことばによる説明によらないと説かれ得ない。 ///
前者はことばでは説明不可といいながら、
後者はことばでないと説明できないという。
矛盾しとるが。
大山大先生。 >>414
解脱とか涅槃とか悟りと言うのは、迷える衆生に対して示された仮の道しるべです、
というようなことだろう。法華経で言えば、化城だよね。。
本来は迷悟はない、空と言う意味でもないし、無分別であれば、識別されない、認識されない。。
しかし、その本来と言うか、無分別智を得ていないものにとっては、迷悟なんてありませんと言ってもわからない、
ということだろう。。
だから、本来を知るものにとって、世俗諦で、悟りはあります、は仮の意味として、さらには、無分別智として、
理解されたものとしてあるのに対して、凡夫が言う迷悟はありますは、ホントの迷悟がわからないで言っている、
ということだと理解したんだが。。 釈迦は、阿含経(釈迦仏教)で、勝義諦や世俗諦などと区別した言葉は使っていない。
そういう言葉があること自体が、後世の仏教徒が無責任に、創り出した仏教だと分かるわけだよ。 般若心経に説かれる波羅蜜多は、その原形が釈迦仏教にある。六波羅蜜の忍辱が、釈迦仏教にないと思ったが、誰かがアングリマーラ経に忍辱行の原形があると指摘した。なるほど、アングリマーラが民衆から迫害された時、釈迦の助言は、耐え忍べ、であった。妙薬はないのだ。 >>416
言葉では説明不可って言葉で説明する他にないでしょw >>419
如何に悟りを開いた阿羅漢と言えど 因果の道理に基づく業の果報からは逃れられないという事です
阿羅漢達の死に様も牛車に轢かれて死んだり 殺されたり 病で苦しんだりと様々ですが凡夫と違うのは それが最後の苦だという事ですね wikiダルマ より
真俗二諦(しんぞくにたい)
漢訳仏典の中でも古い経典とされる阿含部の経典では二諦の語は『増一阿含経』第三の「阿須倫品」に説かれるものが指摘されてきた。
しかし、『増一阿含経』そのものが経典成立からいえば、相当に新しい部分の初期経典であるので、二諦の説をもっとも古いものとすることには問題がある。
といえ、二諦の語そのものは相当古くから用いられていた。
最も古いとされる、仏陀の言葉を直接伝えたものを多く含んでいると考えられる『経集』(suttanip?ta)に「パラマットハ」(paramattha)、「サンマティ」(sammati)という語があり、前者は「勝義」、後者は「世俗」を意味する。
しかし、ここでのこの二語は決して対語として用いられているわけでないから、後世の真俗二諦と同じようには考えられない。
したがって、真俗が対語として用いられるもので最も古いものは『ミリンダ王問経』ということになり、時代的には大分後のものとなる。
漢訳阿含経でみれば真俗二諦について、『中阿含経』第四十二巻「分別六界経」に
>真諦とは、いわく如法なり。
>妄言とは、いわく虚妄法なり
とあって、真諦と妄言ということで如法と虚妄法という形の二諦をといている。
これと同じような筆法で二諦を説くものを考えると、「世俗」(loka)と「出世間」(loka-uttara)、「第一義空」と「俗数法」、「世俗常数」と「第一之義」などがある。 >>418-419
そのとおりじゃ。
やっと、まともな論者が現れたようじゃ。 普通、人は、相手の頭がイカレテいると思った場合、精神病院へ行け、なんて言わない。
相手にしないだけだ。
馬鹿野の場合の、精神病院へ行けは、直感的に議論しても負けると分かった時の、議論を避けるための決め言葉なのだ。分かるだろう。 >>424
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
精神病院に逝きなさい。 >>418
>阿含経(釈迦仏教)で、勝義諦や世俗諦などと区別した言葉は使っていない。
>説眞諦義現一切義由彼世尊
>(中阿含経 第四十二巻 分別六界経) >>420
指一本立てるだけで十分だろ。
ことばは要らん。
ここは5chだから仕方なく言葉を使うが。
言葉で分析してくるものを叩いてもいい。 >>427
そんなもんは単に表裏の関係なだけでしょ。 >>417
そうすると、覚者にとって悟りは存在しない、ということになるんだが。
悟りは方便ということだろ。 >>430
そういうことでしょ。。
覚者すらいない。。 >>431
表裏は表裏でしょ?
指一本とか言っておいて、どっちが表裏かってやるとか、ズレてるよw >>433
正直に答えてよ。
「単に表裏の関係なだけでしょ」って? >>432
「悟りは方便であり、真実は存在しない。」という主張であれば、その説明ですっきりする。
しかし、「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」とか言ってるから、
「悟りはやっぱりある」という主張だと思うぞ。 >>436
「何が表で、何が裏?」と聞かれて、
「単に表裏の関係なだけ」 と返す。
相変わらず君はアスペだなあ。 覚者の有無とか真実の有無とか、二元論的な見解で目も当てられない低次元の解釈でレスの応酬がされてますね。
根本中論頌(中論)の24章の観四諦品にて
1.空観を踏みはずした無の立場(1偈〜6偈)
2.空観を踏みはずした有の立場(20偈〜30偈)
が述べられていますが、一瞥されては如何ですか。 勝義に入れば悟りという言葉(名)・概念は当然なくなります。
しかり勝義に入れば悟りという言葉が示すものを体感することになります。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
今日は中論第18章七偈の引用が多いですね、私w >>437
止めておきなさいw
tYfXnwwvさんとは、言語による分節を超えた世界をどう表現するのかの問題を論じてるんです。
指を一本立てるのも、言葉では説明不可って言葉で説明するのも、所詮は表裏の関係に過ぎないって事なんです。 >>432
ほらね。
>>439とか言い出した。
悟りという言葉はなくなるけど、体感できるから有る!だってよ。
やっぱり君の理解とは違うことを言ってるじゃん。
だから、俺の指摘は正しいんだよ。 >>439
悟りという言葉はなくなるけど、体感できるから有る!
とか、珍妙な解釈ですなあ。 >>428
前のスレで紹介させて頂いた
「ヴァジラー経」(『相応部』5-10)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn05/sn05c10.htm
相応部経典 1.有偈篇 1.天相応 3章.剣の章 阿羅漢経
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html
の二つの経典ですね。
他にも例えば長部ポッタパーダ経では
「じつにポッタパーダよ、私にとって、我の獲得体は三〔種〕あります。(略)
チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我の獲得体)による言説をなします〔が〕、じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c00.html
と世俗としての慣用語があること、そしてそれ以外の勝義があることまで示唆していると思います。 そうした中で、8世紀半ばにベンガル地方に興った非ラージプート系のパーラ朝は仏教を庇護し、インド亜大陸における最後の崇仏王朝となった。
その第2代国王で自身も熱心な仏教徒であったダルマパーラ王時代に建立されたヴィクラマシーラ僧院は、先行のナーランダ僧院と並ぶ仏教の二大教学機関として栄えた。
ヴィクラマシーラ僧院は特に密教の中心地となり、11世紀に出た僧院長アティーシャはチベットから招聘され、布教活動を行い、チベット仏教に大きな影響を及ぼした。
しかし、10世紀以降弱体化が進んだパーラ朝は、最終的に11世紀後半、ベンガルのヒンドゥー系新興勢力セーナ朝によって滅ぼされた。
さらに8世紀以降インドにも到達したイスラーム勢力の攻勢が強まる中、1193年にはナーランダ僧院が、1203年にはヴィクラマシーラ僧院が相次いでトルコ・イスラーム勢力によって破壊された。
以後、北インドではいずれもイスラーム系のデリー・スルタン朝が興亡し、南インドではヒンドゥー系諸王朝が興亡する構図となり、仏教を庇護する王朝はインド亜大陸からは姿を消した。
これにより、インドにおける仏教の衰滅は決定的となった
https://cocomasak.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-1d38.html
ということで、インドでイスラムに滅ぼされるまで、つまり最後までの残っていた仏教は密教であるとのこと
(日本の真言宗とは違い、タントラ系の密教だったそうです)
。 現実にこなれる。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 現実にこなれる。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 外圧によるナショナリズムの高揚と仏教の密教化による表層的なヒンズー化によって、ある仏教徒はヒンズーに吸収され、或いはアンチカースト系の仏教徒はモスリムに改宗したっていう視座もある様ですね。 >>435
だから、悟りと言っても法とか、真如とかがあるだけ。。
そこに迷悟とかはない。。
迷悟なんてどこにもないのが悟りだよね。。w >>441
いや、同じことを言っているんだけど。。w 夢や希望を持たない。
現実にこなれる。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 >>448
>>449
それなら「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」とかいらんでしょ。 覚者なんていないと言っても、そこでは、全世界が目覚める、真理が顕現する。。
その時我はいないけれど、それを悟と言うこともできるかもしれない。。
でも、それを悟としてしまうと、迷悟が分裂して、また失墜してしまうという。。w >>452
迷悟が分裂して、また失墜してしまう???
何言ってんだ??
お前も意味不明だなあ。 このように空を理解していると自称する連中を何人か集めて語らせると、
矛盾したことを言い出すから呆れる。
お前ら何も理解できてないだろ。 >>451
そんなこと誰も言ってないだろ?w
>>364
>悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違います。
>後得智の人は言語表現だけのものとわきまえて使うからです。
あたりを誤解してるんじゃないの? >>455
ID:CJmWiSr9は「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」と言ってるんだから、
お前と違うという指摘な。
根本的なところでお前はID:CJmWiSr9の主張を誤解している。 >>456
誰がどこでそんなこと言ってんの?w
調べたけどないぞ。。w >>457
検索もできないほどの馬鹿なの?
>>360
いちいち手間掛けさせんなよ。 夢や希望を持たない。
現実をこなす。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 如実知見(にょじつちけん)。
夢や希望を持たない。
現実をこなす。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 >>206
お待たせしました(待ってない?😲)
インド哲学版普遍論争 説一切有部編ですが
大山氏に提示頂いた資料を読むにそのインド型の唯名論と実在論はその定義をしたローゼンベルグ
そしてそれを日本に紹介した立川武蔵氏が権威となっているので
彼らが説一切有部は◯◯論であると言えば「あー、権威あるあなた様がそう言われるなら左様でございます」というしかないというのがあるかな〜
その論文の最後は
これ以後の考察において見ていくように、『倶舎論』においてはダルマが基体として考えられることがたしかにある。
ロー ゼンベルグはヴァイシェーシカ的なダルマ基体論には反対するのであるが、ある種のダルマ基体論を唱えているので ある。
われわれは、それを「唯名論的基体論」と呼ぶことしたい。
となんとも折衷案で終わってるのだが😅
それでも権威となってる立川氏の言うことなので「左様でございますか」と従うしかないかな?
でも前スレでは全く同じ唯名論実名論の定義法で説一切有部はインド型実在論としたまた佐久間留理子氏の論文を紹介したり
http://library.tourism.ac.jp/07_No20noteSakuma.pdf#search=%27%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96+%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8%27
それ以外の定義法で(おそらく実在論の説一切有部と対立していたという意味で)西洋の学者は経部と中観派とを唯名論者と呼んでいる
と中村元の龍樹に書いてあることも紹介したけど
つまりは一人一人の定義や認識が異なるので統一見解がないならば正解はないんじゃないかな?
あるいはローゼンベルグ-立川論が既に一般論となってるのかもしれないけどね
まあでも立川武蔵が説一切有部を唯名論としていたのは知らなかったよ
教えて頂いたことには感謝するよ☺
因み俺自身は未だに説一切有部は自性のある法が実在していると説いているんだから実在論でいいじゃんと思ってるけどね(笑)
実際龍樹や経部にはそう思われていたみたいだし
でもその自説にも固執はしないよ 如実知見。
夢や希望を持たない。
現実をこなす。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 色即是空は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。
それに対して、空即是色は何も存在しない無という極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。
空即是色は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。
言葉による認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。
この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。
後得智を使う菩薩は諸法の実相を知る根本智を得ているので、後得智で使う世俗諦は凡夫の世俗諦とは違って勝義の方を指しています。 >>463
>後得智で使う世俗諦は凡夫の世俗諦とは違って勝義の方を指しています。
だったら、悟りはなくなるだろ。
根本的なところから理解できていないな。 如実知見(にょじつちけん)。
夢や希望を持たない。
現実をこなす。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 >>391
あ、お前!
確認のためにお前は働いているのかと聞いたら答えられなかっただろ😜>>18-20
はっきり答えられない奴はニートと疑われても仕方ないことぐらい理解しような
小学生じゃないんだからさ🤣🤣 >>466
醜態の>>13は引用しないという姑息さに呆れるw。 >>467
またそうやってごまかす
ワンパターン極まりないな🤣
こっちはサービス業で働いてて今日も残業してきたんだ😜
んでお前は働いてるのかニートなのかハッキリせえよ
それともはっきりできない理由でもあるのか? >>468
ニートなのか?と確認しているレスだな
それにもお前は答えられなかったわけだ🤣 >>469
知能が低いから頭脳労働は無理だもんな。予想通り。
こちらは頭脳労働ですわ。 後得智を得た仏や菩薩に世俗諦で悟りや悟りへの道を教えられて、教えてもらって修行した結果いざ勝義という究極の真理、即ち悟りの世界に入ったら悟りはなくなるとおかしなことを言い続けている人がいますね。
なくなるのは「悟りという概念」だということが未だに理解できてないようです(呆れ笑
何度言っても堂々巡りになって切りがないから彼とは直接的なやりとりはしませんけどね。 >>473
お前の珍妙な解釈は他の人にも理解されてないだろ。
「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」って何よ?って言われてる自覚ないのかな? >>472
勤務中ずっとスマホ触っていられてリロードしまくり誰かがスレに書き込みしたら脊髄反射で直ぐにレスすることができる
随分暇な職場での頭脳労働者だな😒😒😒
まあお前みたいなバカが忙しい職場で働けるわけないけどな🤣😜 >>475
おはようございます
夜遅くて朝早いですね施設警備員か何かされてるんですか?
僕はニートですけど 悟ったら迷悟がなくなる、悟りの世界には迷悟と言う概念がない。。
これはこれでいいんんだろうけれど、そこから見ると、もともと迷っていなかったとか、はじめから迷悟なかったじゃないか?
という知見も生じるんじゃないかな?
もちろん、もともと迷っていなかったとは言えども、無明はあり、苦しみがありの世界にいたことは確か。。w
しかし、ホントはそれも法と言うか、別に迷いとかではない。。
迷悟が概念に過ぎないとは、そういうことでもある。。
自分が勝手に迷っていると思い込んでいた、他に悟りがあると思い込んでいた、というだけのこと。。
究極で言えばそういうことになるんじゃないかな? 477.迷、があり、悟、がある。
それだけのことである。
その両者の統一がある、のではない。
それは一方通行である。
不可逆である。 そりゃあ迷わんと悟れんじゃろ
時間を取っ払えばハナから悟っとることになるというだけじゃ
映画観とる間もハッピーエンドはすでに存在しておるのと同じじゃ 479.偽の和尚が、存在しとる、のと同じである。
大爆笑である。 仏教の枠や言葉にとらわれすぎるでない
全ては方便なのじゃ >>476
おはよう☀
販売業で人を使う仕事だね
昨日はゾロ目の日の売り出しで社員に残業させるわけにもいかないんで残って店内整理をしてたんだよ
今日も頑張るよ💪 何のために坐禅や瞑想をするのか
仏教を忘れるためじゃ^_^) 真俗二諦だが、そりゃ、仏陀が言う八正道と凡人が言う八正道は、八正道の意味内容が違うさ。悟った者の言葉と、悟っていないものの言葉では、同じ言葉でも意味内容が違う。
しかし、それについての議論は時間の無駄だ。
それどころか悟りへの弊害にしかならない。 真俗二諦だが、阿含経では凡人の場合は八正道、悟った者の場合は聖八正道とか、使いわけをしている場合もある。
そんなこたぁ、分かっているのだ。
しかし、そんなくだらないこと議論しても、
悟りへは何の役にも立たないということだ。 たとえば五位七十五法、なんてのがある。
これなど、勉強すればするほど、悟りからは遠ざかる典型的な例だ。アビダルマ論師たちが暇に任せてくだらない研究をまとめた例だ。
少し修行が進むと、無駄な知識と、有用な知識との区別がつくようになってくるのですよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています