▲色即是空の誤り3▲
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>>346
世俗諦は否定されるための真実ではないですよ。 >>347
ID:afsQRLbJ氏の宗派は何だと思いますか? >>347
だから、そう言ってるだろ。
「悟りは世俗諦」
「世俗諦は否定されるための真実ではない」
というお前の主張から導かれる結論は
「悟りは真実ではない」
悟りがなくなってしまった。 >>349
世俗諦の諦が真実という意味です。
仏教では基本中の基本なので押さえておきましょうね。
もう一度言葉を少しだけ変えて言えば
世俗諦は否定されるための諦ではないですよ。
となります。 >>351
「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ? >>350
勝義においては世俗諦の分別が無くなるの方がより正しい表現じゃないかと。 >>353
世俗諦における分別を、勝義においては否定してるだろ。
お前まじで何言ってんだ?
意味不明過ぎて。 >>352
>「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
まあ諦が何かを知らないあなたでしたら脳内補完するのも無理はないですね。
>世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ?
違いますよ。 >>355
妄想垂れ流すなよ。
>>353で、世俗諦における分別を、勝義において否定してるのはお前だろ。
まじで意味不明。
論理的な日本語でお前の主張を書けよ。 >>318
それは無智亦無得が該当するんじゃない
>>353
分別がなくなるから世俗諦で認められてたものが成立しなくなると言った方が正しい
世俗では人はあるけど、勝義では人は成り立たない >>355
んじゃ、世俗諦においても我はない。
これがお前の主張? >>356
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
後得智(Ⓢpṛṣṭhalabdha-jñāna)は後得清浄世間智ともいわれ、根本智が衆生の済度にはたらくために世間的に具現した智慧をいう。
根本智を得た人が語る世俗諦は否定されないということです。
「世俗諦なら悟りは否定されてしまう」というあなたのレスがまず違うと思います。 >>360
「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」
こんな珍妙は主張は初耳だわ。
悟っていない人が語る世俗諦
と
本智を得た人が語る世俗諦
は一緒なの?違うの? >>357
不二論では迷悟一如を説くところから無迷無悟しました。
無知亦無得だと>>314へのレスとして直接的ではなくなりますからね。
勝義においては成立しないはいい表現ですね。 >>362
珍妙な主張どころか定説ですよ。
ちゃんと正しい言葉遣いをしているということです。
もちろん勝義において悟りが成立しなくなるのは後得智においても同じです。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違います。
後得智の人は言語表現だけのものとわきまえて使うからです。 >>364
だったら、悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 悟りとは?人間とは?生きるとは何か?
そのすべての答えがここにある。
宗教と科学の融合。目覚めよ!
https://youtu.be/yp0ZhgEYoBI >>365
>>318からの一連の流れの中で説明したのが振り出しに戻ってますね。
もう一度振り出しから確認してください。 >>369
まったく説明になってないことを自覚しような。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 確かに、論理破綻した主張を繰り返す点は似ている。
疑問点を指摘すると、説明済みやらお前が理解していないやら、ごまかす点も。 >>369
横からすみません。
貴殿の主張は正鵠を得てると思いますが、如何せんafsQRLbJさんが二諦を理解されてない故に混乱されてるように拝察します。
老婆心ながら、二諦の説明をされては如何でしょうか。 >>373
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』には
俺の主張を裏付ける記述しかないからなあ。
反論するなら具体的な箇所を明示すりゃいいだろ。
ん?明示できないの?
また、お前の完敗だなあ。 きっと本人は自演がばれていないと思っているのだろう。
楽しい人だよw。 >>375
www
貴殿の脳内論破に興味はありませんのでwww >>378
該当箇所を明示できないからお前の完敗なんだよw。
妄想ではない。
実際に、お前が提示できないからお前の完敗。 >>379
念のため確認するけど、何の件についての該当箇所ですか?
書いてない事を書いてあるとか、そういうのはなしでお願いします。 >>380
お前の意図は俺には理解不能だよw。
俺に反論するために持ち出して来たんでしょ?
俺の主張を裏付ける記述しかないじゃん。
それとも、俺の主張を裏付けるために資料を出してくれたの?
ご苦労さん。 >>381
念のため確認するけど、何の件についての該当箇所ですか?
書いてない事を書いてあるとか、そういうのはなしでお願いします。
(2回目) 釈迦が阿含経で「悟り」の言葉を使っているのだから(勿論インド語の)、凡人も使ってよいだろ。
般若心経の内容は、釈迦仏教と大差ないと思うが、悟りに大きな誤解を与える結果になった。
釈迦仏教では四段階の悟りを説くからだ。 >>382
お前が資料を持ち出して来たんだから、
その意図はお前が説明しろよ。
お前の意図は俺には理解不能だよw。
(3回目) 日本テーラワーダ仏教協会では、悟りに四段階のステージがある、と説明していた。
釈迦仏教の四段階の悟りを説明しているのだね。
般若心経では、何やら、優れた人は一気に最終の悟りを得られるかのような、誤解を与える。 >>384
>仏教はインドの歴代王朝の中で隆盛を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。
この命題を傍証する為に義浄の記録やパーラ朝の記録を出したでしょ? ID:afsQRLbJは相変わらず吠えまくってるなあ🤣
しかもどのレスにも脊髄反射で即レスしているのはニートで時間が沢山あって暇だからだろう🤣
まあ時間が沢山あるんだから有効に使って仏教の勉強でもしていなさい😌
本当はお前の親御さんは不埒な息子に悲しんでいるだろうから就活するのが一番なんだがお前にいっても無駄だしな😜 >>387
>>293と言ってること違うなあ。
間違いに気付けたようで何より。
もっと素直に認めような。 釈迦仏教を勉強すると、第二段階の悟り、一来あたりまでは普通の人でも、努力すれば行けると感じる。
しかし、第三段階の悟りの不還は、かなり難しいと思う。ここから神通の能力が生じると、説かれているからね。 >>388
お前「レッテル貼るな」と言った直後にレッテル貼った馬鹿だろwww。
お前みたいな馬鹿は無職だろうなあ。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その1)
>諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(龍樹 「中論」)
この文章から
世俗諦〜ことばによる説明。
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、ことばによる説明によらないと説かれ得ない。
って紐解けると思うんです。
で、世俗諦については特段の説明は要しないでしょう。
一点注意するとすれば、”言葉による説明” と ”理解” と云うのは、中観派においてはシノニムの関係という事です。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その2)
言語によって説明(=理解)されたものが世俗諦って云う限りにおいて、勝義諦は言語によって説明されるものではないと云うのはお分かり頂けるものだと思います。
では、それ(勝義)が何かというと…
その ”何かというと” と云うのは、そこに既に言語による説明が要請されている事にお気づきでしょうか?
語るに落ちるって言葉がありますが、語ってしまうとそれは世俗諦に墜ちてしまうんです。
ひいては それ っていう事自体も世俗諦に墜ちてるって事です。
この構造が理解できれば、CJmWiSr9さんが話されている事に合点がいくと思うんですがね。 >>389
結論は出ています。
貴殿の暇つぶしの為に振出しに戻って最初から語る気はありません。
休憩時間も終わりなので、中座します。 >>394
お前の完敗で結論が出てるのに、蒸し返すなよ。
どうせ悔しくなって、
別人格としてもどってくるんだろwww。 訂正
>仏教はインドの歴代王朝の中で盛衰を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。 >>163の要求をスルーして何逃げてんだよ 笑
脳内資料による妄想って事でOK? これも返事が無いから論破確定だな? 笑
>>190
> >>176
>
> それお前だから 笑
>
> 直ぐに見破られて廃れた筈の大乗経典がその後も創作され続けて後期密教迄 チベットに輸出されてる以上は 直ぐに廃れたというお前の主張と事実とで時系列に多大な誤差が有ることを否定出来ないんだよ >>397
だからさ、
玄奘と義浄の記録を何度も示しただろ。
お前も、鹿野園の別人格?
w >>399
>
> >結論「大乗は衰退した」
> >これが学者の一致した見解。
>
> これのソース出せって話だろうが ど文盲
>
> ガチの基地害かよ?笑 >>370
全く世話が焼けますねえw
凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
勝義として悟りは無分別故に滅する概念であるが、世俗である現象社会においては、悟りは、般若心経で他に無とされている十二支縁起や四聖諦同様に因縁によって成立する。
菩薩は現象社会の悟りという概念は否定することなく衆生への説法として用いる。
ブッダは悟りよりも解脱の方をよく使っていましたが、解脱においても同じことです。
以上、もうこれ以上は説明しませんからねw ちなみにじゃが、このスレ最初に立てたやつは、
人生相談板ではふんはふんおふんおふん、って言うとるやつ >>402
説明できてないことを自覚しような。
> 凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
それじゃ、凡夫の世俗諦と覚者の世俗諦は何が違うかと説明になってねえよ。
違うから智をつけたり付かなかったりしている。結果的に区別しているから、それが違うって、循環論法だぞ。間抜け。
勝義においては、十二支縁起や四聖諦も否定されているんだろwwww。
否定した概念を使うなよ。ほんと馬鹿だな。
どこがおかしいと指摘されているのかも理解する知能がないのかよ。 >>402
そもそも説明してるというのが勘違い。
お前の主張の欠陥を指摘されてるんだよwww。 >>401
お前はめんどくさいから相手にしてないだけだぞ。
アホ過ぎて相手にする価値もないからスルーしてることを理解しとけw。 >>406
ちゃうちゃう
鬼和尚のスレとかにおるぞよ >>394
休憩時間とか取り繕わなくてもいいですよ
いつでも降臨してください >>408
なるほど。そのまんまじゃの。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1585267583/554
554 名前:太上天君[] 投稿日:2020/05/14(木) 20:29:53.55 ID:0YuLyLoQ
ぬしゃらよ、はいぎぃ〜っぬしゃらあ「色即是空空即是色」というのは間違っておる。
よいか「色即是空空即是色」の意味は「有は無であり、無は有である」という意味じゃ。
だが無はないのじゃよ。ないから無なのじゃ。無はあり得ないのじゃ。
だから「有は無であり、無は有である」ということはできないのじゃ。
それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつじゃなw
はふんはふんおふんおふん。 >>404
僕なんかは、十分納得してしまったけど。。w >>407
つまり学会の一致した見解だというソースも無しにデタラメこいて証明不能という事だな?笑
ハッタリばっかかますから そういう事になるんだぞ?
二度と根拠の無いデタラメ言うなよ ( ̄ー ̄) >>412
だからさ、違うこと言ってる学者を出せよ。
ソース出せないお前だっさw。 >>411
それなら俺の指摘に代わりに回答してくれよ。
回答できないなら考えが浅い! >>413
全会一致した学会の日時と議事録はよ 笑
昨日から言ってるのに出せないからスルーして逃げたんだろ?
卑怯な奴だ( ̄ー ̄) >>392,393
では、それ(勝義)が何かというと…
その ”何かというと” と云うのは、そこに既に言語による説明が要請されている事にお気づきでしょうか?
語るに落ちるって言葉がありますが、語ってしまうとそれは世俗諦に墜ちてしまうんです。
ひいては それ っていう事自体も世俗諦に墜ちてるって事です。 ///
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、ことばによる説明によらないと説かれ得ない。 ///
前者はことばでは説明不可といいながら、
後者はことばでないと説明できないという。
矛盾しとるが。
大山大先生。 >>414
解脱とか涅槃とか悟りと言うのは、迷える衆生に対して示された仮の道しるべです、
というようなことだろう。法華経で言えば、化城だよね。。
本来は迷悟はない、空と言う意味でもないし、無分別であれば、識別されない、認識されない。。
しかし、その本来と言うか、無分別智を得ていないものにとっては、迷悟なんてありませんと言ってもわからない、
ということだろう。。
だから、本来を知るものにとって、世俗諦で、悟りはあります、は仮の意味として、さらには、無分別智として、
理解されたものとしてあるのに対して、凡夫が言う迷悟はありますは、ホントの迷悟がわからないで言っている、
ということだと理解したんだが。。 釈迦は、阿含経(釈迦仏教)で、勝義諦や世俗諦などと区別した言葉は使っていない。
そういう言葉があること自体が、後世の仏教徒が無責任に、創り出した仏教だと分かるわけだよ。 般若心経に説かれる波羅蜜多は、その原形が釈迦仏教にある。六波羅蜜の忍辱が、釈迦仏教にないと思ったが、誰かがアングリマーラ経に忍辱行の原形があると指摘した。なるほど、アングリマーラが民衆から迫害された時、釈迦の助言は、耐え忍べ、であった。妙薬はないのだ。 >>416
言葉では説明不可って言葉で説明する他にないでしょw >>419
如何に悟りを開いた阿羅漢と言えど 因果の道理に基づく業の果報からは逃れられないという事です
阿羅漢達の死に様も牛車に轢かれて死んだり 殺されたり 病で苦しんだりと様々ですが凡夫と違うのは それが最後の苦だという事ですね wikiダルマ より
真俗二諦(しんぞくにたい)
漢訳仏典の中でも古い経典とされる阿含部の経典では二諦の語は『増一阿含経』第三の「阿須倫品」に説かれるものが指摘されてきた。
しかし、『増一阿含経』そのものが経典成立からいえば、相当に新しい部分の初期経典であるので、二諦の説をもっとも古いものとすることには問題がある。
といえ、二諦の語そのものは相当古くから用いられていた。
最も古いとされる、仏陀の言葉を直接伝えたものを多く含んでいると考えられる『経集』(suttanip?ta)に「パラマットハ」(paramattha)、「サンマティ」(sammati)という語があり、前者は「勝義」、後者は「世俗」を意味する。
しかし、ここでのこの二語は決して対語として用いられているわけでないから、後世の真俗二諦と同じようには考えられない。
したがって、真俗が対語として用いられるもので最も古いものは『ミリンダ王問経』ということになり、時代的には大分後のものとなる。
漢訳阿含経でみれば真俗二諦について、『中阿含経』第四十二巻「分別六界経」に
>真諦とは、いわく如法なり。
>妄言とは、いわく虚妄法なり
とあって、真諦と妄言ということで如法と虚妄法という形の二諦をといている。
これと同じような筆法で二諦を説くものを考えると、「世俗」(loka)と「出世間」(loka-uttara)、「第一義空」と「俗数法」、「世俗常数」と「第一之義」などがある。 >>418-419
そのとおりじゃ。
やっと、まともな論者が現れたようじゃ。 普通、人は、相手の頭がイカレテいると思った場合、精神病院へ行け、なんて言わない。
相手にしないだけだ。
馬鹿野の場合の、精神病院へ行けは、直感的に議論しても負けると分かった時の、議論を避けるための決め言葉なのだ。分かるだろう。 >>424
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
精神病院に逝きなさい。 >>418
>阿含経(釈迦仏教)で、勝義諦や世俗諦などと区別した言葉は使っていない。
>説眞諦義現一切義由彼世尊
>(中阿含経 第四十二巻 分別六界経) >>420
指一本立てるだけで十分だろ。
ことばは要らん。
ここは5chだから仕方なく言葉を使うが。
言葉で分析してくるものを叩いてもいい。 >>427
そんなもんは単に表裏の関係なだけでしょ。 >>417
そうすると、覚者にとって悟りは存在しない、ということになるんだが。
悟りは方便ということだろ。 >>430
そういうことでしょ。。
覚者すらいない。。 >>431
表裏は表裏でしょ?
指一本とか言っておいて、どっちが表裏かってやるとか、ズレてるよw >>433
正直に答えてよ。
「単に表裏の関係なだけでしょ」って? >>432
「悟りは方便であり、真実は存在しない。」という主張であれば、その説明ですっきりする。
しかし、「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」とか言ってるから、
「悟りはやっぱりある」という主張だと思うぞ。 >>436
「何が表で、何が裏?」と聞かれて、
「単に表裏の関係なだけ」 と返す。
相変わらず君はアスペだなあ。 覚者の有無とか真実の有無とか、二元論的な見解で目も当てられない低次元の解釈でレスの応酬がされてますね。
根本中論頌(中論)の24章の観四諦品にて
1.空観を踏みはずした無の立場(1偈〜6偈)
2.空観を踏みはずした有の立場(20偈〜30偈)
が述べられていますが、一瞥されては如何ですか。 勝義に入れば悟りという言葉(名)・概念は当然なくなります。
しかり勝義に入れば悟りという言葉が示すものを体感することになります。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
今日は中論第18章七偈の引用が多いですね、私w >>437
止めておきなさいw
tYfXnwwvさんとは、言語による分節を超えた世界をどう表現するのかの問題を論じてるんです。
指を一本立てるのも、言葉では説明不可って言葉で説明するのも、所詮は表裏の関係に過ぎないって事なんです。 >>432
ほらね。
>>439とか言い出した。
悟りという言葉はなくなるけど、体感できるから有る!だってよ。
やっぱり君の理解とは違うことを言ってるじゃん。
だから、俺の指摘は正しいんだよ。 >>439
悟りという言葉はなくなるけど、体感できるから有る!
とか、珍妙な解釈ですなあ。 >>428
前のスレで紹介させて頂いた
「ヴァジラー経」(『相応部』5-10)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn05/sn05c10.htm
相応部経典 1.有偈篇 1.天相応 3章.剣の章 阿羅漢経
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html
の二つの経典ですね。
他にも例えば長部ポッタパーダ経では
「じつにポッタパーダよ、私にとって、我の獲得体は三〔種〕あります。(略)
チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我の獲得体)による言説をなします〔が〕、じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c00.html
と世俗としての慣用語があること、そしてそれ以外の勝義があることまで示唆していると思います。 そうした中で、8世紀半ばにベンガル地方に興った非ラージプート系のパーラ朝は仏教を庇護し、インド亜大陸における最後の崇仏王朝となった。
その第2代国王で自身も熱心な仏教徒であったダルマパーラ王時代に建立されたヴィクラマシーラ僧院は、先行のナーランダ僧院と並ぶ仏教の二大教学機関として栄えた。
ヴィクラマシーラ僧院は特に密教の中心地となり、11世紀に出た僧院長アティーシャはチベットから招聘され、布教活動を行い、チベット仏教に大きな影響を及ぼした。
しかし、10世紀以降弱体化が進んだパーラ朝は、最終的に11世紀後半、ベンガルのヒンドゥー系新興勢力セーナ朝によって滅ぼされた。
さらに8世紀以降インドにも到達したイスラーム勢力の攻勢が強まる中、1193年にはナーランダ僧院が、1203年にはヴィクラマシーラ僧院が相次いでトルコ・イスラーム勢力によって破壊された。
以後、北インドではいずれもイスラーム系のデリー・スルタン朝が興亡し、南インドではヒンドゥー系諸王朝が興亡する構図となり、仏教を庇護する王朝はインド亜大陸からは姿を消した。
これにより、インドにおける仏教の衰滅は決定的となった
https://cocomasak.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-1d38.html
ということで、インドでイスラムに滅ぼされるまで、つまり最後までの残っていた仏教は密教であるとのこと
(日本の真言宗とは違い、タントラ系の密教だったそうです)
。 現実にこなれる。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 現実にこなれる。
坐禅、坐禅。
柔軟心(にゅうなんしん)。
和尚が一つの円を描いて言う。
「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ。」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています