▲色即是空の誤り3▲
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大縁方便経にある自我の説明は、感受作用とその主体を元に考察させたものと記憶しているが、結論としては、「自我は有りかつ無い」であったと思う。
心経の空みたいなものではなかろうか。 >>298
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
以下は般若心経、般若波羅蜜多経、中観などの勝義、つまり空を世俗諦で表現したものだと思いますよ。
「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530364 自ずとわかったのは、無我の意味で
我が無い というだけでは誤解を招き
五蘊の中に我は無い または 五蘊は我に非ず
常識ですよね? >>300
その経典、長部15経(大縁方便経、大因縁経)では我(アートマン)は一切肯定はされていませんよ。
もちろん、「我は無い」とまでは説かれていないですが。
大因縁経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c00.html あとサーンキヤ学派のプラクリティ・プルシャ(梵我)と
五蘊の関係に、大乗の我と五蘊の関係が少し近いようですね。
インド哲学と全く同じに受けとめる訳にも行きませんが、大乗の世界観は
ヤージュニャヴァルキヤと同じだと決めつける分別説部の方もいます。 >>293
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』は
俺の主張を裏付ける記述しかなかったな。
俺のためにソースを出してくれてご苦労さん。
もう一人の人格は今日は登場しないのかな?ん? ヤージュニャヴァルキヤはブッダシャキャムニに大きな影響を与えたと
されています。ただブッダは祭祀主義に批判的であったようですが、
これも何処かで後代の見解が紛れ込んだ可能性もあるとは思いますが、果たして
どうでしょうか? >>306
出たーーッ。生臭坊主の言い訳。
空は言葉で説明できるようなものではない!
お前は説明できないだろ。 >>309
それじゃ大乗は部派仏教と何も違わないだろ。 >>314
少なくとも般若心経では悟りは名前であり分別されたものであり世俗諦だと思います。
般若心経で
是故空中
の後に
無迷無悟
とあってもおかしくはないと思います。 >>316
わしゃそんなこと一言も言うておらんし、
そもそも言葉で完全に説明できたらそれは空ではないな
空の表面にすぎん
カラッカラじゃ >>321
う〜む
わしにもわからんのう
そもそもめんどくさいし
おぬしの「勝ち」でええぞよ^_^) あえて もう1,2点つけ加えると
仏説の前提として、輪廻も当然あったし
アートマンも同様だったという感じは
するのです >>326
それもうわしではないぞよ
わしはこっちじゃ 勿論みんなが色んなこという位ですから
積極的明示的には言わない
また自明なことだから、わざわざ前提を強調したりは
しない 無我に関して根本的に違った解釈があるようなんですよね
ただ大乗涅槃経は幼稚園児向けのおとぎ話みたいなとこがありますが
常楽我浄というのはアートマンと同じみたい
ですよね >>319
悟即是空という根本智が得られた後に衆生に悟りを説くために空即是悟という後得智が生まれます。
※大乗仏教の場合、まあ元ネタは阿含経にあるのですが。
<根本智の参考までに>
「中論」第一八章 アートマンの考察
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。 (これが根本智になるかと思います)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993 >>332
空即是悟という後得智??
何それ?
悟りは世俗諦だというのがお前の主張だろ? >>304
現象としての輪廻がある前提でないと戒律で行為の止滅をして瞑想で思いの止滅を目指す意味が無いんじゃない? 今日は暇なので検索してたら、。、
苫米地ってサイゾーの主要株主のようだね。
必ずしも悪い本ばかりでもないが、仏教に関しては、テーラワーダ・カルト並み。たぶんスマナサラに洗脳されてる。
変わったこと言えば本が売れるという戦略かもしらんが、知識の少ない一般人もいるので有害。
>運営会社はサイゾーで、幹部は元「噂の真相」。 サイゾーは他に、おたぽる、トカナ、ビジネスジャーナル、ヘルスプレスなど
複数のダミー会社を使い分けて世論誘導を工作している。
「ええ、うちには在日コリアンがいっぱいいますよ?それが何か」と開き直った事も ... >>336
暇なのでテキトーにテンプレを書いたのだが、
次スレ用に面白いテンプレを考えてくれないか? >>336
サイゾー→ゴシップ専門のゲスゴミ・サイト トカナ→ムーとどっこいのオカルト・サイト
後は推して知るべしって所だね?笑 >>337
タイトル;色即是空の ノ後に 解釈の と入れてよいのなら
よろこんで考えましょう。 そこまでいうならそもそも「誤り」が不自然じゃろ
最初からバイアスがかかっとる
「真意」とかにしてはどうかの? >>337は、最初のスレを立てた奴ではないのでは?
勝手に自分の偏見を放り込んでおいて、今さら中立演じるとか、どうなの? >>339
貴方におまかせします。それでは、よろしく 最初にスレを立てたやつなら知っておるぞ
わしが断りを入れておこうか? >>342
>>343
最初のスレをそのままコピペでいいだろ。
>>337が偏見入れるからおかしなことになった。 >>344
世俗諦なら、悟りは否定されてしまうだろ。
その指摘に対して世俗諦を持ち出すなよ。論理を理解してないなあ。 >>346
世俗諦は否定されるための真実ではないですよ。 >>347
ID:afsQRLbJ氏の宗派は何だと思いますか? >>347
だから、そう言ってるだろ。
「悟りは世俗諦」
「世俗諦は否定されるための真実ではない」
というお前の主張から導かれる結論は
「悟りは真実ではない」
悟りがなくなってしまった。 >>349
世俗諦の諦が真実という意味です。
仏教では基本中の基本なので押さえておきましょうね。
もう一度言葉を少しだけ変えて言えば
世俗諦は否定されるための諦ではないですよ。
となります。 >>351
「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ? >>350
勝義においては世俗諦の分別が無くなるの方がより正しい表現じゃないかと。 >>353
世俗諦における分別を、勝義においては否定してるだろ。
お前まじで何言ってんだ?
意味不明過ぎて。 >>352
>「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
まあ諦が何かを知らないあなたでしたら脳内補完するのも無理はないですね。
>世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ?
違いますよ。 >>355
妄想垂れ流すなよ。
>>353で、世俗諦における分別を、勝義において否定してるのはお前だろ。
まじで意味不明。
論理的な日本語でお前の主張を書けよ。 >>318
それは無智亦無得が該当するんじゃない
>>353
分別がなくなるから世俗諦で認められてたものが成立しなくなると言った方が正しい
世俗では人はあるけど、勝義では人は成り立たない >>355
んじゃ、世俗諦においても我はない。
これがお前の主張? >>356
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
後得智(Ⓢpṛṣṭhalabdha-jñāna)は後得清浄世間智ともいわれ、根本智が衆生の済度にはたらくために世間的に具現した智慧をいう。
根本智を得た人が語る世俗諦は否定されないということです。
「世俗諦なら悟りは否定されてしまう」というあなたのレスがまず違うと思います。 >>360
「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」
こんな珍妙は主張は初耳だわ。
悟っていない人が語る世俗諦
と
本智を得た人が語る世俗諦
は一緒なの?違うの? >>357
不二論では迷悟一如を説くところから無迷無悟しました。
無知亦無得だと>>314へのレスとして直接的ではなくなりますからね。
勝義においては成立しないはいい表現ですね。 >>362
珍妙な主張どころか定説ですよ。
ちゃんと正しい言葉遣いをしているということです。
もちろん勝義において悟りが成立しなくなるのは後得智においても同じです。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違います。
後得智の人は言語表現だけのものとわきまえて使うからです。 >>364
だったら、悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 悟りとは?人間とは?生きるとは何か?
そのすべての答えがここにある。
宗教と科学の融合。目覚めよ!
https://youtu.be/yp0ZhgEYoBI >>365
>>318からの一連の流れの中で説明したのが振り出しに戻ってますね。
もう一度振り出しから確認してください。 >>369
まったく説明になってないことを自覚しような。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 確かに、論理破綻した主張を繰り返す点は似ている。
疑問点を指摘すると、説明済みやらお前が理解していないやら、ごまかす点も。 >>369
横からすみません。
貴殿の主張は正鵠を得てると思いますが、如何せんafsQRLbJさんが二諦を理解されてない故に混乱されてるように拝察します。
老婆心ながら、二諦の説明をされては如何でしょうか。 >>373
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』には
俺の主張を裏付ける記述しかないからなあ。
反論するなら具体的な箇所を明示すりゃいいだろ。
ん?明示できないの?
また、お前の完敗だなあ。 きっと本人は自演がばれていないと思っているのだろう。
楽しい人だよw。 >>375
www
貴殿の脳内論破に興味はありませんのでwww >>378
該当箇所を明示できないからお前の完敗なんだよw。
妄想ではない。
実際に、お前が提示できないからお前の完敗。 >>379
念のため確認するけど、何の件についての該当箇所ですか?
書いてない事を書いてあるとか、そういうのはなしでお願いします。 >>380
お前の意図は俺には理解不能だよw。
俺に反論するために持ち出して来たんでしょ?
俺の主張を裏付ける記述しかないじゃん。
それとも、俺の主張を裏付けるために資料を出してくれたの?
ご苦労さん。 >>381
念のため確認するけど、何の件についての該当箇所ですか?
書いてない事を書いてあるとか、そういうのはなしでお願いします。
(2回目) 釈迦が阿含経で「悟り」の言葉を使っているのだから(勿論インド語の)、凡人も使ってよいだろ。
般若心経の内容は、釈迦仏教と大差ないと思うが、悟りに大きな誤解を与える結果になった。
釈迦仏教では四段階の悟りを説くからだ。 >>382
お前が資料を持ち出して来たんだから、
その意図はお前が説明しろよ。
お前の意図は俺には理解不能だよw。
(3回目) 日本テーラワーダ仏教協会では、悟りに四段階のステージがある、と説明していた。
釈迦仏教の四段階の悟りを説明しているのだね。
般若心経では、何やら、優れた人は一気に最終の悟りを得られるかのような、誤解を与える。 >>384
>仏教はインドの歴代王朝の中で隆盛を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。
この命題を傍証する為に義浄の記録やパーラ朝の記録を出したでしょ? ID:afsQRLbJは相変わらず吠えまくってるなあ🤣
しかもどのレスにも脊髄反射で即レスしているのはニートで時間が沢山あって暇だからだろう🤣
まあ時間が沢山あるんだから有効に使って仏教の勉強でもしていなさい😌
本当はお前の親御さんは不埒な息子に悲しんでいるだろうから就活するのが一番なんだがお前にいっても無駄だしな😜 >>387
>>293と言ってること違うなあ。
間違いに気付けたようで何より。
もっと素直に認めような。 釈迦仏教を勉強すると、第二段階の悟り、一来あたりまでは普通の人でも、努力すれば行けると感じる。
しかし、第三段階の悟りの不還は、かなり難しいと思う。ここから神通の能力が生じると、説かれているからね。 >>388
お前「レッテル貼るな」と言った直後にレッテル貼った馬鹿だろwww。
お前みたいな馬鹿は無職だろうなあ。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その1)
>諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(龍樹 「中論」)
この文章から
世俗諦〜ことばによる説明。
勝義諦〜ブッダの教えにおける深い真実、ことばによる説明によらないと説かれ得ない。
って紐解けると思うんです。
で、世俗諦については特段の説明は要しないでしょう。
一点注意するとすれば、”言葉による説明” と ”理解” と云うのは、中観派においてはシノニムの関係という事です。 勝義諦と世俗諦について簡単に説明させて戴きます。(その2)
言語によって説明(=理解)されたものが世俗諦って云う限りにおいて、勝義諦は言語によって説明されるものではないと云うのはお分かり頂けるものだと思います。
では、それ(勝義)が何かというと…
その ”何かというと” と云うのは、そこに既に言語による説明が要請されている事にお気づきでしょうか?
語るに落ちるって言葉がありますが、語ってしまうとそれは世俗諦に墜ちてしまうんです。
ひいては それ っていう事自体も世俗諦に墜ちてるって事です。
この構造が理解できれば、CJmWiSr9さんが話されている事に合点がいくと思うんですがね。 >>389
結論は出ています。
貴殿の暇つぶしの為に振出しに戻って最初から語る気はありません。
休憩時間も終わりなので、中座します。 >>394
お前の完敗で結論が出てるのに、蒸し返すなよ。
どうせ悔しくなって、
別人格としてもどってくるんだろwww。 訂正
>仏教はインドの歴代王朝の中で盛衰を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。 >>163の要求をスルーして何逃げてんだよ 笑
脳内資料による妄想って事でOK? これも返事が無いから論破確定だな? 笑
>>190
> >>176
>
> それお前だから 笑
>
> 直ぐに見破られて廃れた筈の大乗経典がその後も創作され続けて後期密教迄 チベットに輸出されてる以上は 直ぐに廃れたというお前の主張と事実とで時系列に多大な誤差が有ることを否定出来ないんだよ >>397
だからさ、
玄奘と義浄の記録を何度も示しただろ。
お前も、鹿野園の別人格?
w >>399
>
> >結論「大乗は衰退した」
> >これが学者の一致した見解。
>
> これのソース出せって話だろうが ど文盲
>
> ガチの基地害かよ?笑 >>370
全く世話が焼けますねえw
凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
勝義として悟りは無分別故に滅する概念であるが、世俗である現象社会においては、悟りは、般若心経で他に無とされている十二支縁起や四聖諦同様に因縁によって成立する。
菩薩は現象社会の悟りという概念は否定することなく衆生への説法として用いる。
ブッダは悟りよりも解脱の方をよく使っていましたが、解脱においても同じことです。
以上、もうこれ以上は説明しませんからねw ちなみにじゃが、このスレ最初に立てたやつは、
人生相談板ではふんはふんおふんおふん、って言うとるやつ >>402
説明できてないことを自覚しような。
> 凡夫の世俗諦には菩薩の後得智のような◯◯智が付かない。故に凡夫の世俗諦と根本智を得た覚者の世俗諦は違う。
それじゃ、凡夫の世俗諦と覚者の世俗諦は何が違うかと説明になってねえよ。
違うから智をつけたり付かなかったりしている。結果的に区別しているから、それが違うって、循環論法だぞ。間抜け。
勝義においては、十二支縁起や四聖諦も否定されているんだろwwww。
否定した概念を使うなよ。ほんと馬鹿だな。
どこがおかしいと指摘されているのかも理解する知能がないのかよ。 >>402
そもそも説明してるというのが勘違い。
お前の主張の欠陥を指摘されてるんだよwww。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています