▲色即是空の誤り3▲
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>>278
「部派仏教が盛んであった」という記述しかないんだが。
「大乗が盛ん」なんてどこに書かれているんだ?
具体的にどうぞ。 >>282
で?
大乗が盛んというお前の主張の根拠として出したんじゃねえの? >>283
>法顕・玄奘・義浄の記録から再構成した当時のインド仏教についてまとめてあります。
って書いてあるのが見えませんか?
パーラ朝はその後の時代なんですけど。 >>280
>有意義な議論を進めて行きましょ🙇♂
ありがとうございます、勿論賛成です。
小生も勤め人なので、レスが遅れる場合は悪しからずご了承下さい。
テーマは、誰かがおもしろいネタを投下してくれれば乗るんですけどね。 >>284
で?
お前の持ち出した資料なのに、理由も説明できないとはw。 五蘊皆空と五蘊非我は別物ですか?
心経の無や空は、どこにも我は無い と言ってるだけで色即是空は
「色蘊にも我は無い」と言ってるだけでは? 又この場合の「我」とは個我じゃなくて
法性、如来そのものと 弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう 無我も空も非我も無常も、似たようなものでしょう。「無智亦無得」で検索すると、智恵も悟りも実体はない、との仏教学者の代表的な答が出てくる。
が、私は最近、この答に疑問がある。これは智恵も悟りもない、と解釈すべきだと思う。 是故空中〜無智亦無得、とあるから、空の中では智恵も悟りもない、と解釈すべきだと思う。
どのような智恵かというと、無苦集滅道無智とあるから、八正道の悟りに至る智恵のことだ。空の中ではその智恵もないという。
ではどこに智恵と悟りはあるのか? 反日朝鮮カルト思想というのは、
・生まれつき脳に器官的異常がある発達障害(脳ガイジ)の社会不適応者
・脳ガイジの毒親からの虐待による二次障害・激しい被害妄想・統合失調者
・脳ガイジ、家庭内虐待、統失 負の連鎖 ガチ基地反日朝鮮人
の集団被害妄想である。
つまり、まったくの 家庭内問題 を社会に八つ当たりしたもの。毒親に反抗すらできないヘタレ集団
朝鮮 近親相姦 遺伝子異常 で検索
在日朝鮮人の先祖 白丁奴隷 で検索
済州島 虐殺 密入国 反日 で検索
毒親 虐待 二次障害 統失 で検索
※ちなみに近親相姦性遺伝子異常は死ななきゃ治らない。 >>235
般若心経を日々読誦してる宗派なら凡そ有り得ない事ですね? >>286
義浄の件は新アジア仏教で、パーラ朝の件はwikiで傍証したんですけど。 >>287
我を厳密にアートマンだけに限定せずに「恒久不変でそれ自体(自性)のある実体」と定義を広げればそう解釈しても良いと思います。 >>288
「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。
六 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして【他のものに】依らずに存するであろうか【しからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる】。何となればいかなる有も【他のものに】依らないでは存在しないからである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
ニルヴァーナ 無為はどの仏教でも同じ。
それを有とするか無とするか有と無の合成にするか有でもなく無でもなくとするかで各教派の見解が分かれます。 本来、照見する我は一つでは?
ただ個別的な因縁によって下階層に位置する各人の五蘊に分岐してるだけ
大多数の人は覚ってないから五蘊が「我」と思い込む。
無為法の智に拠ればわかる。 心経は勝義にまでは言及してない?
三世諸仏依ーあたりは、もう仏の悟りの話と
受け取ってましたが あと大縁方便経だったか
「唯一にして絶対のもの
アートマンすなわち真我」とあります。
皆、シカトしてる? 観自在菩薩は般若波羅蜜多の行が深まって悟りを得た。菩提サッタは般若波羅蜜多に依って究竟涅槃を得た。三世諸仏も般若波羅蜜多に依ってサンミャク三菩提の悟りを得た。と、心経は般若波羅蜜多を讃えている。般若と究竟涅槃とサンボダイの悟りは空とは違う感じだな。 空と言うのは、教科書的には、縁起で無自性だから、空である、というのだけど、
こちらからの是非善悪とか、肯定・否定の判断作用、認識作用のようなものが落ちた状態を空、
と言う師家もいる。。
人間の認識を離れて万物がある、すべてのものがそのものとしてある。
そういう感受の仕方を空と言う場合がある。。
こっちは理屈ではない。。
こういう空を見るというか、体験するために坐禅があるんだろうけれど、これを悟りとし、
是非善悪を迷いだとか思ってしまうと、またちがう。。
是非善悪し、思考し、感情が動きと言う、それら全部ひっくるめて空であり、真理である。。
そうでなければ、新たな分別を作り、取捨し、好悪することになってしまう。。 だいたい何で悟り=空であるとか珍妙な考えが出てきてしまうのかのう
悟ったらこの世が空であることがはっきり把握できた、でよいではないか 空とか唯識無境ということで、認識対象を迷いとして理解する、空じて行く、
ということも大事なんだろうけれど、認識や思考を迷いとして厭う、否定する、というのも、
空であれば、おかしい、ということになる。。
そこらへん、迷悟とか、輪廻と解脱とか、ホントは無いんですよ、同じですよ、と言う方向へ行かないと、
ちがうんじゃないかな〜? 涅槃とか解脱がないなんて、そんなに言いたいわけじゃないんだが、空ということであれば、
理として、同じだよ、と言う理解は、必要だと思うが。。
逆にそういう理解から、涅槃とか解脱へ向かって行く流れが生じるのではないかな? 論や教学ばかりが先に立つと、修行や坐る前にすでに、
この方向に行かなければならないとか、こうなってはダメだとか、そういう迷妄が邪魔しすぎるじゃろ
経・律・論バランスよく並行してやって行かんと思考の堂々巡りになると思うがの
自ずとわかるのに任せておればよいのじゃないかの? 大縁方便経にある自我の説明は、感受作用とその主体を元に考察させたものと記憶しているが、結論としては、「自我は有りかつ無い」であったと思う。
心経の空みたいなものではなかろうか。 >>298
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
以下は般若心経、般若波羅蜜多経、中観などの勝義、つまり空を世俗諦で表現したものだと思いますよ。
「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530364 自ずとわかったのは、無我の意味で
我が無い というだけでは誤解を招き
五蘊の中に我は無い または 五蘊は我に非ず
常識ですよね? >>300
その経典、長部15経(大縁方便経、大因縁経)では我(アートマン)は一切肯定はされていませんよ。
もちろん、「我は無い」とまでは説かれていないですが。
大因縁経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c00.html あとサーンキヤ学派のプラクリティ・プルシャ(梵我)と
五蘊の関係に、大乗の我と五蘊の関係が少し近いようですね。
インド哲学と全く同じに受けとめる訳にも行きませんが、大乗の世界観は
ヤージュニャヴァルキヤと同じだと決めつける分別説部の方もいます。 >>293
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』は
俺の主張を裏付ける記述しかなかったな。
俺のためにソースを出してくれてご苦労さん。
もう一人の人格は今日は登場しないのかな?ん? ヤージュニャヴァルキヤはブッダシャキャムニに大きな影響を与えたと
されています。ただブッダは祭祀主義に批判的であったようですが、
これも何処かで後代の見解が紛れ込んだ可能性もあるとは思いますが、果たして
どうでしょうか? >>306
出たーーッ。生臭坊主の言い訳。
空は言葉で説明できるようなものではない!
お前は説明できないだろ。 >>309
それじゃ大乗は部派仏教と何も違わないだろ。 >>314
少なくとも般若心経では悟りは名前であり分別されたものであり世俗諦だと思います。
般若心経で
是故空中
の後に
無迷無悟
とあってもおかしくはないと思います。 >>316
わしゃそんなこと一言も言うておらんし、
そもそも言葉で完全に説明できたらそれは空ではないな
空の表面にすぎん
カラッカラじゃ >>321
う〜む
わしにもわからんのう
そもそもめんどくさいし
おぬしの「勝ち」でええぞよ^_^) あえて もう1,2点つけ加えると
仏説の前提として、輪廻も当然あったし
アートマンも同様だったという感じは
するのです >>326
それもうわしではないぞよ
わしはこっちじゃ 勿論みんなが色んなこという位ですから
積極的明示的には言わない
また自明なことだから、わざわざ前提を強調したりは
しない 無我に関して根本的に違った解釈があるようなんですよね
ただ大乗涅槃経は幼稚園児向けのおとぎ話みたいなとこがありますが
常楽我浄というのはアートマンと同じみたい
ですよね >>319
悟即是空という根本智が得られた後に衆生に悟りを説くために空即是悟という後得智が生まれます。
※大乗仏教の場合、まあ元ネタは阿含経にあるのですが。
<根本智の参考までに>
「中論」第一八章 アートマンの考察
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。 (これが根本智になるかと思います)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993 >>332
空即是悟という後得智??
何それ?
悟りは世俗諦だというのがお前の主張だろ? >>304
現象としての輪廻がある前提でないと戒律で行為の止滅をして瞑想で思いの止滅を目指す意味が無いんじゃない? 今日は暇なので検索してたら、。、
苫米地ってサイゾーの主要株主のようだね。
必ずしも悪い本ばかりでもないが、仏教に関しては、テーラワーダ・カルト並み。たぶんスマナサラに洗脳されてる。
変わったこと言えば本が売れるという戦略かもしらんが、知識の少ない一般人もいるので有害。
>運営会社はサイゾーで、幹部は元「噂の真相」。 サイゾーは他に、おたぽる、トカナ、ビジネスジャーナル、ヘルスプレスなど
複数のダミー会社を使い分けて世論誘導を工作している。
「ええ、うちには在日コリアンがいっぱいいますよ?それが何か」と開き直った事も ... >>336
暇なのでテキトーにテンプレを書いたのだが、
次スレ用に面白いテンプレを考えてくれないか? >>336
サイゾー→ゴシップ専門のゲスゴミ・サイト トカナ→ムーとどっこいのオカルト・サイト
後は推して知るべしって所だね?笑 >>337
タイトル;色即是空の ノ後に 解釈の と入れてよいのなら
よろこんで考えましょう。 そこまでいうならそもそも「誤り」が不自然じゃろ
最初からバイアスがかかっとる
「真意」とかにしてはどうかの? >>337は、最初のスレを立てた奴ではないのでは?
勝手に自分の偏見を放り込んでおいて、今さら中立演じるとか、どうなの? >>339
貴方におまかせします。それでは、よろしく 最初にスレを立てたやつなら知っておるぞ
わしが断りを入れておこうか? >>342
>>343
最初のスレをそのままコピペでいいだろ。
>>337が偏見入れるからおかしなことになった。 >>344
世俗諦なら、悟りは否定されてしまうだろ。
その指摘に対して世俗諦を持ち出すなよ。論理を理解してないなあ。 >>346
世俗諦は否定されるための真実ではないですよ。 >>347
ID:afsQRLbJ氏の宗派は何だと思いますか? >>347
だから、そう言ってるだろ。
「悟りは世俗諦」
「世俗諦は否定されるための真実ではない」
というお前の主張から導かれる結論は
「悟りは真実ではない」
悟りがなくなってしまった。 >>349
世俗諦の諦が真実という意味です。
仏教では基本中の基本なので押さえておきましょうね。
もう一度言葉を少しだけ変えて言えば
世俗諦は否定されるための諦ではないですよ。
となります。 >>351
「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ? >>350
勝義においては世俗諦の分別が無くなるの方がより正しい表現じゃないかと。 >>353
世俗諦における分別を、勝義においては否定してるだろ。
お前まじで何言ってんだ?
意味不明過ぎて。 >>352
>「世俗諦は否定されるための真実ではない」が意味不明過ぎて脳内補完してたわw。
まあ諦が何かを知らないあなたでしたら脳内補完するのも無理はないですね。
>世俗諦においては我はある。これ、お前の発言だろ?
違いますよ。 >>355
妄想垂れ流すなよ。
>>353で、世俗諦における分別を、勝義において否定してるのはお前だろ。
まじで意味不明。
論理的な日本語でお前の主張を書けよ。 >>318
それは無智亦無得が該当するんじゃない
>>353
分別がなくなるから世俗諦で認められてたものが成立しなくなると言った方が正しい
世俗では人はあるけど、勝義では人は成り立たない >>355
んじゃ、世俗諦においても我はない。
これがお前の主張? >>356
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
後得智(Ⓢpṛṣṭhalabdha-jñāna)は後得清浄世間智ともいわれ、根本智が衆生の済度にはたらくために世間的に具現した智慧をいう。
根本智を得た人が語る世俗諦は否定されないということです。
「世俗諦なら悟りは否定されてしまう」というあなたのレスがまず違うと思います。 >>360
「根本智を得た人が語る世俗諦は否定されない」
こんな珍妙は主張は初耳だわ。
悟っていない人が語る世俗諦
と
本智を得た人が語る世俗諦
は一緒なの?違うの? >>357
不二論では迷悟一如を説くところから無迷無悟しました。
無知亦無得だと>>314へのレスとして直接的ではなくなりますからね。
勝義においては成立しないはいい表現ですね。 >>362
珍妙な主張どころか定説ですよ。
ちゃんと正しい言葉遣いをしているということです。
もちろん勝義において悟りが成立しなくなるのは後得智においても同じです。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違います。
後得智の人は言語表現だけのものとわきまえて使うからです。 >>364
だったら、悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 悟りとは?人間とは?生きるとは何か?
そのすべての答えがここにある。
宗教と科学の融合。目覚めよ!
https://youtu.be/yp0ZhgEYoBI >>365
>>318からの一連の流れの中で説明したのが振り出しに戻ってますね。
もう一度振り出しから確認してください。 >>369
まったく説明になってないことを自覚しような。
悟ってない人が語る世俗諦と根本智を得た人が後得智として語る世俗諦は違いを明確に示さそうな。
それと、勝義においては悟りがないのが、どうして、根本智を得た人が後得智として語る世俗諦では悟りがあることになるんだ?
論理的にどうぞ。 確かに、論理破綻した主張を繰り返す点は似ている。
疑問点を指摘すると、説明済みやらお前が理解していないやら、ごまかす点も。 >>369
横からすみません。
貴殿の主張は正鵠を得てると思いますが、如何せんafsQRLbJさんが二諦を理解されてない故に混乱されてるように拝察します。
老婆心ながら、二諦の説明をされては如何でしょうか。 >>373
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』には
俺の主張を裏付ける記述しかないからなあ。
反論するなら具体的な箇所を明示すりゃいいだろ。
ん?明示できないの?
また、お前の完敗だなあ。 きっと本人は自演がばれていないと思っているのだろう。
楽しい人だよw。 >>375
www
貴殿の脳内論破に興味はありませんのでwww >>378
該当箇所を明示できないからお前の完敗なんだよw。
妄想ではない。
実際に、お前が提示できないからお前の完敗。 >>379
念のため確認するけど、何の件についての該当箇所ですか?
書いてない事を書いてあるとか、そういうのはなしでお願いします。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています