▲色即是空の誤り3▲
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大衆部は分別説部を仏教の根本分裂の際にほかの部派とともに生じたとみなしている。大衆部によれば根本分裂によって上座部、大衆部、分別説部の三部派に分かれたのである
破戒僧率いる日本テーラワーダ仏教協会
スマナサーラの嘘を指摘し、頭のおかしくなった信者を更生させる
スマナサーラ 批判
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535982873/ 分別説部が勝手に分別して削ぎ落した、とかいう可能性は無いのだろうか?
たとえば中部の伝車経 など
ただの言葉遊びにしか見えません
それに良くあのように長ったらしい言いかえを
くどくどと百年以上も口伝承しましたね
スリランカ方面に別れて残ってる分は全て幻影
という意味での空なり
経という色も空なり
幻想に憑かれた者がいたからこそ実体無き色が生じたのである 部派〜上座部の歴史は虚妄であったと
分別説部の方が認めています。
八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍がありますが、仏教史にはそのような飛躍の傍証となるような伝承が一切ない
ことに関し、何か合理的解説をできる方いますか?
つまり、般若経典が創作という以前に、原始仏典ですら既にその疑いがあると
信者は気付いてる事実に関し て あとスレタイから受けた印象として
このスレは苫米地の本を売るためにたてられたものか?
そうとしても その戦略に乗るほど迂闊な者はおらぬだろう
奴の言説の要旨をネタバレさせるだけだな >>このスレは苫米地の本を売るためにたてられたものか?
違う。
>>3を発狂させるために建てたのだ。 ただ奴は偽経説をとって
心経は間違いです、等と力説してたよな?
あつスマナに影響されてる様子で、要するに赤銅に交わり
染まり切った挙句に大乗を忘れ分別説部の誤謬に堕ちた坊主じゃ? >>10
お前は直ぐにアスベとか言って人をレッテル貼りしたりと5ちゃんねるに染まりすぎてる
一日中朝から晩までレスしてるところからするとニートなのか?
だとすると2ちゃんねる〜5ちゃんねるばっかりやってるとお前みたいな人格になってニートになるのかニートだから5ちゃんねるに染まっているのか?
5ちゃんねるで煽ってマウント取ることくらいしか生き甲斐がないのかな?寂しい奴だわ >>13
レッテル貼るなと言ってるお前が妄想レッテルとか
頭悪すぎるなあwww。 このスレでの最初の発狂はID:9ENcgeKdになりそうだな。 大乗の菩薩が阿羅漢に説教するとは怪しからんとかも
原始人の感情問題で、分別を説きながら
てめえらの感情面も分別できない、する気もない
恣意的分別だね ブッダはなぜ女嫌いになったのか (幻冬舎新書)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1580160007/3
ブッダの実母マーヤーは、ブッダを生んで7日で亡くなった。
ブッダの養母マハーパジャーパティ(父の後妻)とは、歳の差もなく、小さいころから仲良しだった。
ブッダは、マハーパジャーパティを愛していて、肉体関係もあった(と、著者は書く)。
しかし、父の後妻で、自分の養母だから、愛することはできない。
ブッダは、妻を持つが、これが欲深な悪妻ヤショーダラーだ。
ヤショーダラーはブッダとの間に、ラーフラを生む。
しかし、ラーフラはブッダの子供ではなくて、別の男(デーヴァダッタ)の子らしい。
だからブッダは、子供にラーフラ(邪魔者)という名前を付けた。
好きでもない妻から、生まれた子供の父親がはっきりしないので、世の中すべてが嫌になる。
ブッダはそれが理由で、お城を飛び出した。
結局ブッダの悩みは、女性関係のものだったんだね。
だから、確かに、若い時の男性の悩みは、女性問題だけだ。
ブッダの悩みは、生老病死ではなくて、セックスと女性関係だったと理解すれば、単純明快になる。
でもこんな単純な話で、仏教を割り切っていいものだろうか。 >>18
「妄想レッテル貼るな。」
これ、お前の発言だろwww。 >>19
妄想関係ない
働いているのかそれともニートなのか事実関係の確認をしている 前スレ1000 名前:神も仏も名無しさん :2020/06/20(土) 14:54:23.28 ID:GKJYp2K/
結論「大乗は衰退した」
仏教はインドの歴代王朝の中で隆盛を繰り返し、パーラ朝での隆盛を最後に13世紀にはインドから事実上消滅した。
これでいいんだよね。 >>21
その話は前スレで終了な。
まともな根拠を提示してきたら相手してやるけど、どうせないんだろ。
前スレであれだけ聞いても出てこなかったからな。
これ以上、やっても無駄。 >>5
根本分裂当時は上座部と大衆部の二部派だけ
それから枝末分裂でそれぞれ分派が立てられて行ったという見方が主流で いきなり二十前後の部派が出来た訳じゃないよ >>22
この際ハッキリと申し上げる。
あなた、異常です。
以上。 >>6
スリランカ大寺派は分別説部からも切られた異端だから可能性は多いに有るよ
ブッダゴーサの改竄以降はインド上座部にもカウントされて無いから 現行自称上座部は総てその名残りだし 原始経典が創作ならば、
釈迦という人物も創作ということになるな。 『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』の第三章 仏教教団の展開のP 154〜160に、法顕・玄奘・義浄の記録から再構成した当時のインド仏教についてまとめてあります。
(キンドルであれば、今は一ヶ月間無料で見れます。) >>26
>原始経典が創作ならば、釈迦という人物も創作ということになるな。
考古学的な考証からそれはないとされてます。 >>28
考古学で、仏教を開いた釈迦という人物がいたかどうか、わかんの?
証拠は? >>29
仏滅二百年後の人物と言われるアショーカ王がブッダの生地に碑文を残していたのが十九世紀に発見されてブッダ架空説には一応の決着がついている
またアショーカ王は仏塔から仏舎利を取り出して各地に仏塔を建立させたという記録もある 994:神も仏も名無しさん 2020/06/20(土) 14:47:49.26 GKJYp2K/(42/46)引1AANG
>>989
中観派・唯識派と密教は違うだろ。
密教くんさあ。
その両者の教えも密教には受け継がれてるのだが 空海の著作は読んでないみたいだな?
大乗経典の延長線上に密教経典が有る事は法華経と華厳経が証明してるのに それさえも知らないのか?笑
999:神も仏も名無しさん 2020/06/20(土) 14:53:28.15 GKJYp2K/(45/46)引1AANG
>>996
大乗が経典を創作したのは常識だろ。
それを否定するとかさすがに無理だ。
諦めメロンw。
大衆部が八千頌般若経のプラークリット語原本と関わっているから大衆部が大乗仏教に発展したと長く考えられて来たんだろ?
>なお、大衆部を大乗仏教の源流とする説がある。一時これを否定する説が出されて顧みられなくなっていたが、近年これを再び見直す可能性のある八千頌般若経の古写本(サンスクリットの原本をプラークリットで記述)が発見され注目されている。 三縁
@衆生縁(しゅじょうえん)。
衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
A法縁(ほうえん)。
衆生の実体はないが、個体を構成する五蘊ごうんの法体は実有であるとする小乗の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
B無縁。
差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の菩薩や仏のおこされる大悲をいう。
三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。
我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。
法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。
我という実体はないという道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。
無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。
人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E7%B8%81 >>30
>教団分裂の定義が破論(思想)から破羯磨(戒律)になった名残りって事ね。
破「論」じゃなくて破「輪」。あるいは破法輪ね
チャクラは輪っかだから
本当に研究者なのか怪しいけれど >>34
研究者ではありませんよ。
出向で一時期事務方をやってたんです。 >>35
誤読したんだよね
それとも「ろん」って打つと「輪」が出てくるように登録してるのかな 舎利子の時代に、観自在菩薩は仏教の世界には居なかった。釈迦に言わせたら、観自在菩薩は外道の崇拝対象であった。 >>39
確かにシヴァが観音に変化したという人がいますね。
不動明王という人も多いでしょうが、決定的とも言い難いようです、
あと、大黒とか色々 >>38
老眼でアイホン6&変換予測を使ってるのでw >>24
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗グループはなし
という記録が残っている以上、
結論「大乗は衰退した」
これが学者の一致した見解。
まともな知性を備えていない方々が反論してるようだが、恥ずかしいぞw。 >>32
中観派・唯識派と密教を区別しないのはお前だけだろ。
他の連中は一緒にすんなと思ってるぞw。 >>42
『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』の第三章 仏教教団の展開のP 154〜160に、法顕・玄奘・義浄の記録から再構成した当時のインド仏教についてまとめてあります。
(キンドルであれば、今は一ヶ月間無料で見れます。) >>43
横からだけど、中観や唯識は密教の中に階層的に取り入れられてると思いますけどね。 >>45
そんな当たり前のことはいちいち言う必要ないよ。 >>45
そのレベルで言うと、
「大乗仏教も部派仏教の影響を受けているよね。」
こんな感じ。
当たり前過ぎていちいち言うなよ!と思うだろw。 >>44
大乗は思想としてはどんどん新しい教えが世に現れたけど非主流派に留まったということでしょう
疑問なんだけどどうしてインドで大乗仏教が隆盛してないといけないのか分からない
インドの非主流派がインド周縁の国々で独自のサンガを形成して大繁栄した、ではダメなのか? 尖っていた初期仏教を円熟させたのが大乗仏教。
大乗仏教(宗派には拘らない)に帰依することによって自我を再構築する。
みんなと仲良くする。
みんなで助け合う。
みんなのお陰様。
目指すべきは、老成円熟。 >>43
中観派や唯識派の「延長線上に」密教があると言っているのだが 頭の配線をどう短絡したら三者が一緒だと言ってる様に読めるんだ? 笑
誤読も其処まで行くと宗教学じゃなくてお前個人の認知の問題だろ?
どんな文章読んでも脳内編集で付け足しや削除してるもんな?
脳機能に問題があるとしか思えんな >>47
大乗が密教登場の七世紀迄 廃れてなかったって事じゃねえか 笑笑笑 >>48
インド直輸入のチベット仏教に大乗が取り込まれてる以上は周辺国じゃなくてインド自体が大乗を受け入れてないと成り立たないでしょ?
自分達が認めてない教えまで指導者派遣して伝えるなんて有り得ないでしょうに >>51
「大乗も部派仏教でしょ」と言うレベルだよ。 >>48
それってグレゴリー・ショペンの周辺地起源説の事ですか? >>54
違う
ただ単に大乗はインド国内の非主流派だったってことね 鹿野園は言われたことに反対するタイプなんだろうな。
もし、「大乗は部派仏教の一部でしかない」と言われてたら、
「大乗と部派仏教はまったく違うグループだ」と主張したはず。 >>56
ただし独自の教団を保てるほどの思想潮流ではなかった
後期密教行者のアティーシャが小乗仏教寺院で出家して小乗僧院に属していたのがその証拠 大乗仏教には、インド伝来の釈迦仏教(原始仏教)以来の伝統があります。戒・定・慧の三学を兼修して総合的に学ぶことです。鎌倉新仏教(祖師仏教)のように、宗祖が選び取った一つの行を専修する方法は大乗仏教のあり方ではありません。宗祖が選んだ易行を専修する「撰択の仏教」には、釈迦の精神を継承する正当性や正統性が欠落しています。大乗仏教の精神を継承する適格性があるとは考えられません。「宗祖が選び取った教え」を仏教の全てと考えることは、釈迦仏教を否定し、大乗仏教の精神を否定することになるのです。これを布教する行為は、妄想を語るプロパガンダでしかないと考えられます。
http://shukyo-kataru.com/archives/3152 戒律は一系統(部派系(小乗・上座))
思想は二系統(大乗とその他従来教理)
ってだけでしょ?
前スレ後半から何を揉めてんのか理解できんw
印度大乗に律はない。よって大乗での出家はない。
大乗の戒壇ができて初めて、大乗教団(大乗サンガ)が成立する。
現行パーリでも、同席する比丘の人数も決まっていれば、細かな次第や作法がある。
これのインド大乗版があるなら、それによって、「大乗の僧」としての出家もあり得ようが、
そうではない。出家者としては皆、従来の手順で出家をしている。
その意味では出家者は一系統一種しかいない。
ただ、思想的相違によって大乗小乗(部派)の別があるだけ、
と大学では教わったけど、今は新しい知見が出てんのかな? >>61
中国にもチベットにも大乗の戒壇があったのにインドにはなかった
ただそれだけなんだけどね >>60
経典創作したことに比べりゃ
そんなのは瑣末なことでしかない >>61
部派仏教を批判しまくってんのに
結局、部派仏教に頼るのかよw
ってなるがなあ
大乗の僧もそう感じていただろ
経典を創作してるのに、なんでそっちは創作しなかったんだ? >>64
>>62にあるように、
従来の風土、慣習、文化、雰囲気、といったものが無意識の圧となって、
行動(自分たちの生き方ルール創設)に至らなかった、と。
経典は、教理だから、本筋は仏陀に通じている、という体裁がとれるけど、
律、受戒は、釈尊その人によって定められた「具体的内容」であって、
本質云々の話じゃすまない。
(本質云々なら、現代日本仏教も形は破戒かもしれないが、本質精神は護戒だという言い訳が立つ)
ましてや、授戒の作法となれば、
それは、仏弟子としての儀式だから、「変える意味や都合」もなかったろうし。
違う国・地域、違う風土・文化の中へ入っていったとき、初めてそれらが要請されてくる。
律の細部の違いの多くは、その辺に由来してるんじゃなかったかな。
で、それが、比丘の姿勢・生き方に関する領域に及んだ時、
「十事」や「五事」或いはデーヴァダッタの事件となる、と。 >>65
律を変更するかどうかで、根本分裂が生じたのに、
なんで律が変更できないと勘違いしてる?
部派仏教の中には隠遁して暮らせという律があるものもあったろ?
説明になってない。
自分の頭で考えてないんだろうな。 >>65
それと律があったところで、
それに従って大乗の中でやればいいだけ。 最低限、具足戒と布薩が守られていれば、思想的自由がある程度は担保されていたって事でしょ。 前スレでも話したけど、破僧の準拠が破輪から破羯磨に変容したから、最低限、具足戒と布薩が守られていれば、思想的自由や他部派への批判もある程度は担保されていたって事でしょ。
だから結局、
1.大衆部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
2.上座部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
3.根本説一切有部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
4.正量部
A.大乗(菩薩を礼拝し大乗経典を読誦する者)
B.小乗(A.の菩薩礼拝、読誦大乗経典をしない者)
って事でしょ。 >>70
ふーん、大乗は部派仏教の一部でしかなくて、自分らのグループすらなかったんだ。 >>53
だから根本分裂以降の大衆部が大乗化して密教に発展したと言ってるの
大乗発生以前にスリランカへ移植された分別説部大寺派には仏像以外の大乗の影響が殆ど見られないぐらいだから 上座部に大乗思想は元々存在しなかったんだよ 大乗非仏説の中心は仏を生身とみるか、法身とみるかの問題です。
しからば、小乗教のように生身の釈迦の説のみに限定する必要はありません。
仏教とは歴史上に存在する生身の釈迦の説法のみをいうのではなく、釈迦を悟りに導いた法身の説法もまた仏教に相違なしと考えることができるのです。
悟りの本体である真理や法則は過去・現在・未来の三世に普遍的な存在と考えるべきです。
http://shukyo-kataru.com/archives/145
大乗仏教には、インド伝来の釈迦仏教(原始仏教)以来の伝統があります。戒・定・慧の三学を兼修して総合的に学ぶことです。鎌倉新仏教(祖師仏教)のように、宗祖が選び取った一つの行を専修する方法は大乗仏教のあり方ではありません。宗祖が選んだ易行を専修する「撰択の仏教」には、釈迦の精神を継承する正当性や正統性が欠落しています。大乗仏教の精神を継承する適格性があるとは考えられません。「宗祖が選び取った教え」を仏教の全てと考えることは、釈迦仏教を否定し、大乗仏教の精神を否定することになるのです。これを布教する行為は、妄想を語るプロパガンダでしかないと考えられます。
http://shukyo-kataru.com/archives/3152 >>72
分かった、分かった。
大乗は部派仏教の一部でしかなくて、自分らのグループすらなかったから、
そういう関係ね。 そろそろ私たちは5世紀に到るまで法華経教団はおろか大乗教団の遺跡が発見されていない(法華経自体は色々発見されている)ことを素直に受け止め、これら大乗経典と信仰が布薩に共に参加する上座伝統教団内のグループとし行われたと考えるべきではないのか?
そう考えると法華経に見える釈尊や仏達への形容句がデイヴィ・アヴァダーナやマハー・ヴァゥストゥと共通していくることはなんら不思議がないことになる。更に律文献に見える教団の社会対応から所謂不正腐敗と対する反発と浄化運動も推測出来ることになる。
つまり大乗と小乗は違う拠点で睨み合っていた訳ではなく寺院、チャイティアを中心に森林遊行など四方僧伽・全教団として戒を保ち律をよくして共存しながら、分裂ではなく思想闘争をしながら連綿とナーランダーのような大学まで歩んでいったという方が自然に思う。
伝統教団的に戒と律をよく行った上での大乗経の創作・解釈となると中国、日本的解釈とは異なり、インド的な戒と律で守る信仰と護られる生活があるから、親鸞さんや日蓮さんのような大胆な、極論すれば仏教から踏み外しかねない領域へは足を踏み込まないことになる 。
法華経は有る意味それまでの仏教をおさらい的に語っているところもある。インド的活動に沿って読めば迹門本門という枠組みも疑問だし、声聞縁覚と仏弟子を呼ぶのが蔑称と言うのは大乗小乗の対立を前提にした中国日本的解釈ではないのだろうか? 大乗の創作経典は、経典ではなく、劇芝居のような扱いだったのかもね。
聖職者が経典を創作するというのは、やはり不自然である。 お経読むのも、賛美歌みたいな位置付けだったのかも。
教義とは直接関係しないけど、大衆向け、新規開拓の道具として使っていた。
中国から来た留学僧に見せてやったら喜んで持ち帰った。
で、気付いたらただの賛美歌だったのが、経典扱いされてて、魔改造された教義まで作られていた。 物体は目の前にある。
確固として。
だが何百年も経過すれば朽ちる。 物質は常に変化している。
常住ではない。
であるから色は空である。
これを数学の等号の様に、
色=空と考えるとダメだ。 色が空とわかるには
時間の超越を要する。
時間が存在しない世界では色は空である。
いや色ですらない。
もんkですらない。 物は起こり続けている。
こう言うことが出来る。
色は空だが空にすることはできない。
しかしもともと空である。 眼耳鼻下身意とあって、
見て悟るか、聞いて悟るかでも、
違いがあるだろう。 目の前に置かれた
オレンジジュースが入ったコップ。
これは起こり続けている。
それがわかります。
すべて怒っている。
これをしかと見てみることです。 すべてが起こっていることを見れば
流れ始める。
それは預流果とか何とでも名づけたまえ。 >>74
だから大衆部が大乗の元だって 笑
自分達のグループも無いのに大乗の専門寺院が有ったのかよ?笑 >>86
「大乗は部派仏教の一部でしかない」は鹿野園の主張だから、不満があるなら彼に言え。
> 自分達のグループも無いのに大乗の専門寺院が有ったのかよ?
は何度も指摘してるから。
君らお友達同士、ちゃんとお話してくれ。 ガチガチの理系でも納得させるには「即是」の超越的翻訳力を要する。
空をエネルギー、色を物質質量とすると
色=E / Cの2乗 つまり空を光速の2乗で割る、というのが解になる。何を意味するか?
わかるかな >>86
玄奘「大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所」
1.部派仏教
2.大乗
義浄「現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。」
1.部派仏教
1.大衆部
2.上座部
3.根本説一切有部
4.正量部
2.大乗グループはなし
という記録が残っている以上、
結論「大乗は衰退した」
これが学者の一致した見解。
まともな知性を備えていない方々が反論してるようだが、恥ずかしいぞw。 色即是空を
E イコールエ エムシーの2条
と訳した人いた? 質量とエネルギーの「等価性」を示してる。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」 >>87
俺はお前の発言に対して言ってるんだから他人のせいにするなよ( ̄ー ̄) >>89
何時の学会で一致したんだよ?
議事録は? (訂正) 空即是色を
E イコール エムシーの2乗
と訳した人いたかな? 質量とエネルギーの「等価性」を示してるんだよ。つまり
空即是色の即是の意味は「イコール 光速の2乗 ×」
或いは 空即是色の空即のあとで改行をしてみれば 分かり易いかも。
日本語には「行間を読む」という言い方があり、即はイコールで、そのすぐ後に 光速の2乗 ×
が隠れていると読む。 インドは別にしても、中国や日本では、20世紀までは大乗仏教が花盛りであった。
チベットに伝わった仏教は、大乗仏教が中心であった。 前に挙げた「エネルギーと質量の等価性」を示す式は特殊相対性理論の中の有名すぎる式だが
一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式に当てはめてみると
色は右辺の物質場の分布量と捉えられるし。
空は左辺の時空の歪み方を示す幾何学量と捉えることも可能で、これなら「即是」を只の等号と翻訳して終了です。
こちらにしましょうか 表示できるかどうか 5chの色も空なり
Gμν + Λgμν = kTμν 96のアインシュタイン方程式は空即是色を表した式と解釈可能と思いますが
単に右辺と左辺をひっくりかえせば色即是空だよなんて説明で済ましてしまったら
いかにも分別説部のことば遊びみたいでつまらないし無意味。もっと多様な解釈を織り込んだほうが
この経典の解釈として適当な感じおします 心経が創作経典であるのなら、宇宙における物の存在の仕方と
時空の歪み方が本質的に一致することを示した二十世紀物理学最高の成果の一つを
二千年近くも前に見抜いた人はどういう天才なんだという風にも言える
かと思います ガラッと変わりますが、
たとえば幼稚園児向けに空を心と解釈して、
形無き心は形に顕われる とかもありますね これだと五蘊みな心となるし
法界唯心 また別の論点
四諦を知って阿羅漢の悟りに達したり、十二縁起を独自に覚っただけでは
まだ他に法を説かない。ブッダが今なお崇拝される存在なのは衆生に法を説いたから。
だが成道後、何週間も法を説くべきか迷ったとも言われ、そのへんの逡巡に纏わる梵天勧請の伝説も残る。
つまり覚っただけではゴールとは言わず、寧ろ衆生救済のスタート地点に立ったと捉えるのが大乗の視点で
自分が覚るのも全ては衆生救済の為なのである。
また法を説いて衆生を救う段階の求道者が菩薩と呼ばれる。
ただ現代は厄介な時代ですね。ニセ如来ニセ菩薩が彼方此方に出現して似非仏教花盛りのようです。
大川隆法が如来ですか? 創価や真如苑などの名誉会長や教主などが何等かの仏に相当しますか?
熱狂的な信者からは、その如くに思え盲信させられたとしても、少なからず本当の仏教を知り、
智慧によって観察する者から見れば、彼らは哀れにも騙された獲物に過ぎないと喝破できると思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています