古本屋のつぶやき
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仏教思想のあれこれについて思った事を勝手につぶやくスレです。 1.sage進行でお願いします。 2.荒らしは完全スルーで。 3.体験談や雑談はお断り。 4.質問等には基本的に応じません。 5.コテハン・トリ付き推奨。 6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。 7.その他、スレ主の指示にはご協力を。 *仏教辞典(出版社不問)等は必携です。 お前の正体は分かってるんだよ。 スレが汚れるからやめろ。 四記問或いは四記答(一向・分別・反問・捨置) 相手方の質問形式の違いにより 一向 ~ 適切であればそのままに肯定 分別 ~ 理に適うかをどうかを分別して諾否する 反問 ~ 即答を避け反問して問意を問い、或いは反語してその誤謬を悟らしむ 捨置 ~ 非理・無効化の場合に沈黙し放置する 真如諸縁 『起信論』には、真如に不変真如と随縁真如とを説く。「真如」を明瞭に説くことは、中観派にはまだなく、瑜伽行派になって明確に説き出された思想である。 しかし唯識派の真如は「真如凝然」であって、現象の諸行無常の世界に無関係な真如であった。真如は請法の内面的な実性であるが、しかし諸法の外面の差別相の、その差別の原理とはなりえないと考えられていた。 「真如」とは何かというに、真如は現象世界の本質である。一切のものが真如である。真如でないものはない。したがって真如を認識の対象として理解することは不可能である。真如を認識の対象とすると、自己は真如から漏れてしまい、真如でないものになってしまうからである。それでは「一切が真如である」ということはできない。そこに、真如が理論理性では捉えられないもの、禅定における般若の直観によってのみ把捉できるといわれる理由がある。換言すれば、真如を知るとは、自己が真如であることを自覚することである。それは、真如がみずから真如であることに目覚めることである。そこでは主客の区別は消失しており、一切が真如になった世界である。それ以外に真如を知る方法はない。換言すれば、悟りの智慧が真如である。唯識ではこれを、根本無分別智という。無分別とは直観をいう、洞察のことである。 (続く) 次に、この無分別智の洞察に立ちながら、相対的な差別の世界を認識するのが、後得智である。これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。 『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。 すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。 (続く) 先に、真如を知るとは真如になることであり、真如と真如を知る智慧とは別のものではないといったが、ここに悟りの智慧が、すなわち真如であるという結論になる。『起信論』が、真如を如来蔵と見る理由はここにある。 しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。 この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。 この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。 これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。 本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。 始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。 (大乗起信論 正宗分・解釈分) 大乗起信論に曰く >本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。 >始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。 >(大乗起信論 正宗分・解釈分) 初めて覚ることに依って、本来覚ってる世界があることを否定しようがない、って事だと思うんです。 本来覚っているからこそ不覚があり不覚があるからこそ始覚が有るという理屈なんです。 だからこそ「悉有仏性」であり「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」なんです。 何かしらの真如や法性が存在してると云うのは発出論であり、仏教の主張するところではないんです。 (大乗起信論を読む 竹村牧男 P73 ) 490 鹿野園 (ワッチョイW 9521-KpJo [60.132.241.135]) [sage] 2023/04/07(金) 08:40:51.47 ID:vrO6wJNp0 削除対象アドレス: https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/611-613 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/615-616 削除理由・詳細・その他: 5 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 6 連続投稿・重複 491 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d (ワッチョイW 1d21-De/q [60.132.241.135]) [sage] 2023/04/08(土) 11:12:08.80 ID:xw/V2+A+0 削除対象アドレス: https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/624-626 削除理由・詳細・その他: 5 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 6 連続投稿・重複 >これがあるとき、かれがある。 >たとえば、長があるとき、短があるように。 >これが生じるとき、かれが生じる。 >たとえば、灯火が生じるとき、光が生じるように。 >一方また、短がなければ長は自体として存在しない。 >また灯火が生じなければ、光もまた生じない〔49〕 >(『大乗仏典14 『龍樹論集』 「宝行王正論(一連の宝珠─王への教訓)」 瓜生津隆真訳 中公文庫 より) 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死 → 発生順~順観、生起門(無明があるから行がある・・・) 消滅順~逆観、還滅門(無明が滅すれば行も滅する・・・) ← 原因へ~往観(老死の原因は生である・・・) 結果へ~還観(無明が原因で行がある・・・) 「私は(~を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。 それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。 >面前聴法底の人は、「眼耳鼻舌身意」の個一者で、しかしまた実に「色声香味触法」の超個者であるから、最も現実具体性をもった実有なのである。 >臨済の人は、いつもこの角度から見て行かなければならぬのである。 >無依の道人は、個即超個・超個即個であるから、個一者としての衣装は、いつもその用いるべき境に随って、自由に取り換えられるのである。 >(臨済の基本思想 鈴木大拙) 直接経験 例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。 実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。 これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。 そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。 直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。 しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。 例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。 「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。 また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。 >たとひ大道を悟尽すとも、なをこれ暫時の伎倆なり。 >(悟ったといっても、それは一時的なはたらきにすぎない。) >(正法眼蔵 大悟 より) >この「一時的なはたらき」であることの気づきが、先の、自分という枠組みが消え去った「脱落」という状態において認識されることが、「身心脱落」だったということができるであろう。 >(構築された仏教思想 道元 仏であるがゆえに坐す 石井 清純 より) 此処だろうね。 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 本当に、麦と鹿は悪質です! ◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 本当に、麦と鹿は悪質です! ◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 問う、是の如き一法界・一道真如の理をば、究竟の仏とや為ん。 竜猛菩薩の説かく、 「一法界心は百非に非ず、千是に背けり。中に非ず、中に非ざれば天に背けり。天に背きぬれば、演水の談、足断って止まり、審慮の量、手亡じて住す。是の如きの一心は、無明の辺域にして、明の分位に非ず」と。 秘蔵宝鑰 一道無為心 那伽羅樹那菩薩の説かく、 「清浄本覚は無始より来た、修行を観たず、他力を得るに非ず。性徳円満し、本智具足せり。 亦た四句を出で、亦た五辺を離れたり。自然の言も自然なること能わず。 清浄の心も清浄なること能わず。 絶離・絶離せり。 是の如きの本処は無明の辺域にして、明の分位に非ず」と。 覚心不生心 >空性は、間違って理解すると、捕まえ方を間違えた蛇のように、あるいは間違って唱えた呪文のように、愚か者を破滅させる。 >(根本中頌 24-11 訳本は 「龍樹『根本中頌』読む」 より) 鹿君は反省が足りておらぬ! だから、下のようなネットの声があがっているのじゃろう。 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 本当に、麦と鹿は悪質です! ◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている (増支部) 比丘たちよ、そのようにして、無明の滅によって行の滅がある。 行の滅によって識の滅がある。 識の滅によって名色の滅がある。 名色の滅によって六処の滅がある。 六処の滅によって触の滅がある。 触の滅によって受の滅がある。 受の滅によって愛の滅がある。 愛の滅によって取の滅がある。 取の滅によって有の滅がある。 有の滅によって生の滅がある。 生の滅することによって、老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩が滅するのである。 これがすべての苦の集積の滅する所以である。 比丘たちよ、〈これで滅することができるのだ。これで滅することができるのだ〉と、いまだかつて聞いたこともない真理に、わたしは眼をひらき、智を生じ、慧を生じ、悟りを生じ、光明を生ずることをえた。 大釈迦牟尼瞿曇 南伝 相応部経典 一二、一〇、大釈迦牟尼瞿曇/漢訳 雑阿含経一二、三、〔*〕仏縛 カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。 また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。 カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。 (カッチャーヤナ(迦旃延) 南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延) 鹿は、「猛省」しておらぬので、 下のような苦情の書き込みを受けておるのだぞ。 ↓↓ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 本当に、麦と鹿は悪質です! ◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 二物相合 ~ 別体の合一 背面相翻 ~ 流出論的、随縁的 当体全是 ~ 矛盾的同一 当体全是といい、相対種ないし敵対種開会といい、実は相対・対立の現実相の認識から生まれたものであった。 それゆえにこそ、統一的真理は対立的現実と別ではないとされ、その意味において、全是とか開会などといわれたのである。 ところが、別ではないとか、全是・開会などということばを直線的、一元的にうけとって、現実そのままよしとし、ひいては相対・対立の現実相を捨象してしまう傾向が現われた。 (仏教の思想 5 絶対の真理<天台> (角川ソフィア 文庫 田村 芳朗 梅原 猛 より) ) お釈迦様の基本的なお立場は >世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 >ただ永久のものだと想像しているだけである。 >かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。 >(スッタニパータ 886) でありましょうし、具体的には >師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。 >無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。 >それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。 >(スッタニパータ 839) ということなのでしょう。 しかしながら >わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。 >もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。 >(スッタニパータ 837) であると。 鹿君は反省が足りておらぬ! だから、下のようなネットの声があがっているのじゃぞ。 ↓↓ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 本当に、麦と鹿は悪質です! ◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!! 『大法鼓経』 『内在する仏 如来蔵』(シリーズ思想としてのインド仏教) 構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版) 空海 ○道元 親鸞 一遍 蓮如 覚鑁 妙好人 ○ゴータマ・ブッダ ○龍樹 ○法蔵 ○ツォンカパ シリーズ 思想としての仏教 (春秋社) ブッダ 律蔵 アビダルマ 中観 唯識 ○如来蔵 密教 >諸仏によって「自己はある(有我)」とも仮に説かれた(施設された)。 >「自己はない(無我)」とも説かれた。 >「なにか自己と呼ばれるものがあるわけでもなく、自己のないものがあるわけでもない(非有我非無我)」とも説かれた。(三句分別) >(根本中頌 18−6 訳は龍樹『根本中頌』を読む | 桂 紹隆, 五島 清隆 より) 何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。 (増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7−9) 一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。 (開目抄 より) 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う 此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す (観心本尊抄) >もとから解決しています、というのは、ホントだけど、 ↓ >世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 >ただ永久のものだと想像しているだけである。 >かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。 >(スッタニパータ 886) 自身の思う最高が他者の最善とは限らないと思うんです。 また、 何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。 (増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7-9) と云いますし、以下の様にも云われるんです。 世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 ただ永久のものだと想像しているだけである。 かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。 (スッタニパータ 886) 死と生の仏教哲学 親鸞と空海を読む…立川武蔵著 5月1日 『正法眼蔵』生死の巻 「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」 禅はまったく論理や分析の上に築かれた哲学ではないのである。 いずれかと言えば、禅は論理の正反対である、すなわち論理は思考の二元的様式を具えたものである。 が、禅は心の全部であるから、禅のうちには知的要素があるとも言えるが、心とは多数の機能に分割されたり、または解析の終わった後に何物も余さぬような合成物ではないのである。禅は知的分析の方法に依っては何ら吾々に教えるところなく、またその教徒に課するに何か規定せられた教理なるものをも持っていない。 この意味で禅は無秩序であるとも言える。 禅教徒は一、二の教理を持っていることもあろうが、それらは皆自分の便宜のためであって、禅そのものから出たものではない。ゆえに禅には聖典とか、独断的教義とかいうものはなく、あるいはまた禅の意義が徹底せしめられるような象徴的な様式などもないのである。 しからば禅は何を教えるかと問うものがあれば、私は答える。 禅は何物をも教えないと。 禅にある教訓が何であっても、それは皆人々自身の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない。 もしこの道を示すことが教訓と言うなら、そんな教訓はある。 そのほかには基本教義として、あるいは根本的哲学として、ことさらに設けられたものは、禅には全然ないのである。 自我について、wikiからの引用 >哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。 カッチャーヤナ(迦旃延) 南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/ 漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。 その時、尊者カッチャーヤナ(迦旃延)は、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。 その傍らに坐した尊者カッチャーヤナは、世尊に申しあげた。 「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」 「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。 カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。 カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。 だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、〈これがわたしの我なのだ〉ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。 カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。 カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。 また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。 カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。 先ず、こういう説示がある事を確認しておきたいんです。 ↓ >何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。 >(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7-9) >世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 ただ永久のものだと想像しているだけである。 >かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。 >(スッタニパータ 886) [二九]妄想 問。何をか妄想といふや。 答。浄土・穢土隔てあり、迷悟凡聖同じからずと思へるは、妄想なり。 聖凡の隔てもなく浄穢の別なしと思へるも亦、妄想なり。 仏法に大小・権実・顕密・禅教の差別ありと思へるも、妄想なり。 仏法は一味平等にして、すべて勝劣なしと思へるも、妄想なり。 行住坐臥、見聞覚知、皆これ仏法なりと思へるも、妄想なり。 一切の所作所為を離れて別に仏法ありと思ふも、妄想なり。 万法は皆実有なりと見るは、凡夫の妄想なり。 万法は皆これ無常なりと見るは、小乗の妄想なり。 万法の上において、常見・断見を起こすは、外道の妄想なり。 或は如幻即空と知り、或は中道実相と悟るは、菩薩の妄想なり。 教外別伝の宗旨あることを知らずして、教門を執着するは、教者の妄想なり。 教外別伝とて、教門よりも勝れたる法門ありと思へるは、禅者の妄想なり。 かやうの法門を信じて、さては一切皆これ妄想なりと思はば、亦これ妄想なり。 昔、無業国師、一生の間、学者の問を答ふるに、ただ莫妄想の一句を以てす。もし人この一句を透得せば、本有の智恵徳相、便ち現前すべし。 (夢窓疎石 夢中問答 より) 了別とは自己限定、分節だろうな。 そこに大法に対するメタレベルからの認知が成り立つ。 そこで十二支の行は、無明の限定というのが成立する。 貴闘力 絶対ギャンブルはしないと思っていたけれど それで、(中学校)卒業してから相撲部屋に入ったんですけれど、相撲部屋っていうのは、ほとんどギャンブルばっかりしているような人間が多くてですね。「お前、ギャンブルぐらいできなきゃ、相撲取りじゃないよ」みたいな。 全体の8割、9割はギャンブルしてました。小学校のときにものすごい嫌な思いをして、借金取りに追われて転々と逃げて、「こんな状態は絶対に嫌だな」と、ずっと思いながらしてるんだけど、やっぱりDNAがギャンブルになってるんでしょうね(笑)。 「もう、絶対にギャンブルしない!」と思ってた俺が、ふと、先輩のお相撲さんに「ちょっとお駄賃やるから、馬券買って来い」と言われて、たまたま馬券を買ってしまったんですよ。それが、日頃の行いがいいのか悪いのか、5,000円が40万円になりまして。 関取になったときも、十両に上がったら、化粧まわしとか、いろんなものを作らないといけないので、だいたい400万円くらいの、お金がかかるんですよ。それを相撲協会が出してくれればいいのに、出してくれないで「後援会で集めてこい」って言うんですよね。 普通はそんなのあり得ないんだけど、地元帰ってお金を集めてきたんです。その集めてきたお金を、ちょっと人に預けてたら、それをギャンブルでみんな使われてもたんですよね。 (会場笑) それで「どうしようか……」とか言って、化粧まわしも作れない、締め込みも作れない。「これはどうしようか……」と思って、部屋の師匠にもうふてくされながら、「400万貸してください」って言ったら、どつきまわされて、「お前、何考えてるんだ!」とか言われてね。 それで、しゃーないから、大井競馬場に行ったんですよ。たまたま、みんなから集めた10万円持ってね。それがまた、日頃の行いがええのか悪いのかわからんで、400万になってもたんです。 (会場ざわつく) 十二支縁起はブッダの悟りの内容なのか。 悟りの内容とまではいかなくとも肯定的に捉えるべきものなのか。 それとも戯論、妄分別として最終的には斥けられるべき対象なのか。 これは縁起をめぐる重大な論点の一つであり、二度の縁起論争にも深く関わっている。 (宮崎哲弥 仏教論争──「縁起」から本質を問う (ちくま新書) より ) 識が輪廻転生の主体であるという説の否定。 マッジマ・ニカーヤ 大愛尽経 サーティ 因果律はそれ自体で実在する原理ではない。 いかに根本的とは言え、道具を発明した人間の、思考の道具である。 道具それ自体など存在しない。 それは何らかの目的のために使われて、初めて道具である。 道具それ自体など無い。 因果律もそうである。そもそも、後に「結果」とされる事態に直面して、しかる後に「原因」が「発見」されたり、「特定」されたりするのである。 「原因」は「ある」のではなく、「認識される」のだ。 とすれば、要するにこれは「結果」とされる事態を操作する目的のためにどうするかという思考の道具に過ぎない。 (南 直哉 「仏教入門」 講談社現代新書 より) 構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版) 空海 ○道元 ◯親鸞 △一遍 ◯蓮如 覚鑁 ◯妙好人 ○ゴータマ・ブッダ ○龍樹 ○法蔵 ○ツォンカパ シリーズ 思想としての仏教 (春秋社) ブッダ 律蔵 アビダルマ 中観 唯識 ○如来蔵 密教 まぁ、倶舎や成実は附宗だからともかく、三論宗が吸収され消滅してしまったのは、経済基盤やバックに有力な勢力が無かったからなのかねぇ。 以下、八宗綱要より。 一には、外道実我の邪見を破し、 二には、毘曇実有の執見を破し、 三には、成実偏空の情見を折し、 四には、有所得大乗の見解を摧く。 至道は是れ玄極なれば、言論及ばず。有と言えば則ち愚に返り、無と語れば則ち智に非ず。善吉(須菩提)呵せられ、身子(舎利弗)責めらる。有に非ず、無に非ず、亦有亦無にも非ず、非有非無にも非ず。言語の道断じ、心行の処滅す。湛湛として寄る無く、寥寥として拠を絶す。知らず、何を以ってか銘けん。強いて顕正と名づくるなり。 自性霊妙、常住の法に於いて、断滅の見を生ぜざるを名づけて不殺生戒となす。 自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗戒となす。 自性霊妙、無着の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲戒となす。 自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語戒となす。 自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒戒となす。 自性霊妙、無過患の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪戒となす。 自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他戒となす。 自性霊妙、真如遍法界に於いて、一相の慳執を生ぜざるを名づけて不慳貪戒となす。 自性霊妙、無我の法中に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝戒となす。 自性霊妙、一切法中に於いて、生仏の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝戒となす。 結局、宗教も科学も哲学も、世界を何らかの形で記述して説明しようという試みの一つであるが、それはようするに、何らかの言葉の組み合わせであり、何らかの「囲い(文章)」を作ることなのだから、その囲いの外側には「他者」──すなわち「違うと否定するもの」「囲いに含まれないもの」が必ず存在してしまうのである。 この他者論という観点に立つならば、「誰にも否定されない絶対的な真理」をつくり出すことは、どうあがいたって不可能である。 その原理的な構造が明らかになった以上、ソクラテスから始まった哲学の「絶対的真理の探究」の旅はすでに終わっているといえる。 人類は「他者」という異形の怪物の前になす術もなく敗北してしまったのだ。 取急ぎ 私の認識 仏教とは 己を整えて 己の心を整えて これなら他と交えても争い起こらないよね!状態 では。社会に出て他者と接してみよう! 社会実習 社会研修 楽しくて続けるも良し異質の異なる部分を知り、意思の屈曲現実の認識の甘さを知りどうするのか。 続けるも良し!安全地帯に戻り改善策を練り鍛え直すも良し! ただ、曲がり屈曲し、他を乱し汚すような腐れ人間にはなるな!ではないのか? 7:鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe :[sage]:2023/05/18(木) 19:39:24.06 ID:mV9EkNdC 参照まで 駒澤大學佛敎學部硏究紀要第 79 號 令和 3 年 3 月 (81) 宝性論の仏説観(1) ― 第 5 章 18・19 偈とその背景― 加 納 和 雄 (善説について) なお、『発勝志楽経』所説の上掲定義の背景の一例として、『スッタニパータ』 「善説経」が「善説(subhāsita)・法(dhamma)・愛語(piya)・真実(sacca)の四条件(aṅga) を備えた言葉を語れと戒め、この説法を聞いて閃く(paṭibhāti)ものがあった長老 ヴァンギーサ(Vaṅgīsa)が説法の主旨に沿った数偈でもって世尊を讃嘆する」という一節を若原は紹介する。『四分律』はこの四条件に「利益」を加えて「善 説」の五条件を説く。藤田は、この「利益」が『発勝志楽経』の第三・四定義 に近い定義であると指摘する 。 また同経所説の「弥勒よ、何であれ善く説かれたものは、全て仏説である」(yat k i ṃ c i n m a i t r e y a s u b h ā ṣ i t a m , s a r v a ṃ t a d b u d d h a b h ā ṣ i t a m 、 上 記 引 用 中 の 3 ) と い う 考 え 方 は 『ア ングッタラ・ニカーヤ』をはじめ、広く初期仏典にも披見される 。 またアショーカ王碑文にも、「尊者よ、何であれ仏世尊によって語られたことは、すべて善説に他ならない」(e keci bhaṃte bhagavatā buddhena bhāsite savve se subhāsitevā)とい う表現がみられ、この文の主文と副文が反転すると、善説ならば何でも仏説とする考えとなる。 http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/ 駒澤大学仏教学部研究紀要/駒澤大學佛教學部研究紀要79/駒澤大學佛教學部研究紀要%2079%20006加納,%20和雄「宝性論の仏説観%20(1)%20:%20第5章18・19偈とその背景」.pdf 本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。 ヨーロッパの唯心論として、例えば次のようなバークリー(1)の主観的観念論があります。「実在するものは、神(god)と心(spirit)と観念(idea)だけである。それ以外に物(thing)といわれるものはない。現象世界を構成するのは心と、および心の中にある観念だけである。さらに現象世界の背後に観念を心に与える神が実在する」ところで、このようなバークリーの考えは、「唯だ心のみがあり、ものはない」というように「ある」か「ない」かという有無相対の存在観の立場をとります。そして、唯だ心だけがあるという主張は、最終的には神の実在を証明するためのものでした。これに対して、唯識思想の唯心論とはどういうものなのでしょうか。結論からいえば、それは「他者を救い、自らも救われていくための、救済のための唯心論である」といえるでしょう。唯だものだけがあるという唯物論に対して、唯だ心だけがあるという唯心論ではなく、いかに他者と自己とが迷いの世界から悟りの世界に至ることができるか、という観点から、「心は仮にある。その仮にある心を筏にして、迷いの此岸から悟りの彼岸に到ろう」という意味での、唯心論的傾向が強い思想であるというべきです。 (横山紘一 唯識の思想) 衆生の内なる如来蔵〜如来法身ではない(四句※が冠されていない)。 ※四句〜常住・堅固・寂静・恒常 可能性〜仏性・如来蔵≠如来法身(常住・堅固・寂静・恒常) 等質性〜アートマン=如来法身(常住・堅固・寂静・恒常) 三時教判〜無我・空性・不空 バーヴィヴェーカ(清弁)の「勝義」解釈(般若灯論) (勝義は勝と義の複合語としての視点から) 1.同限定複合語として → 優れた(勝)対象(義)として 2.格限定複合語として → 優れたもの(勝)の対象(義)、すなわち概念的思惟を離れた知(無分別智)の対象として 3.所有複合語として → 勝義を持つものとして (1)勝義を対象として有する無分別智、すなわち対象は存在しないという仕方での無分別智 (2)不生等の教説とその聴聞・思考・習修(瞑想)から生じる智慧(般若)。 それらは勝義を理解する手段として無謬(無転倒)なので マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。 それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。 そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。 サルトル 嘔吐 から。 純粋レンマ的知性が有情のアーラヤ識に送り込まれるやいなや、瞬時にしてそれは(アーラヤ識内の)レンマ的知性とその変異体であるロゴス的知性に分解を起こす。 二つの知性は互いに「直交」しているので、ロゴス的知性は自分自身の本体をなすレンマ的知性の存在を認識することができない。 人間の意識はロゴス的知性の制圧下にあるので、意識はレンマ的知性のとらえている世界認識を直接感知することができない。 ただ無意識だけがそれを直観的に知ることができるのである。 (レンマ学 中沢新一) . 如来蔵(純粋レンマ的知性) . ↓ . 阿頼耶識 . ↓ ↓ .ロゴス的知性(変位体) レンマ的知性(真正体) 中観派(カマシーラ)のよる外縁起と内縁起 外縁起原因依拠 種→芽→双葉→葉片→茎・・・ �処ヒ拠 地・水・火・風・虚空・時間 外界の成立 内縁起�エ因依拠 十二支縁起 条件依拠 地・水・火・風・虚空・識 身体の成立 縁起は勝義諦と世俗諦の両方からバランスよく観る事で中道への歩みが担保されるのだと。 問「縁起は縁によって生じるのであるから、どうして不起生という側面を(持つと)考えるのか」 答「諸条件から生じる(無自性=恒常不変の本性がない)なので」 客体として把握(所取)と主体として把握(能取)されるものを持つ通常の知の対象とならない。 不起性等の勝義は、認識対象が現れず、概念的拡散(戯論)の無い非日常的な知(出世間知)、つまり、所取と能取の二区分を離れた無二知さえも無顕現なる知によって直接的に理解される。 このことが「いかなることも見ないことが真実を見ることである」という『法集経』の云うところ。 原因の消滅と結果の生起→天秤の両端の上下運動の隠喩。 → 断見の排除。 世俗結果は、原因の第一瞬間から間隔を置かずに、第二瞬間において存在する(カーマシーラ 『真実綱要細疏』) → しかしそれは勝義において否定される。 ↓ 部分を持たない瞬間がその部分を持って他の部分に接触することは無いから。 ↓ 有部で云う刹那滅は世俗諦であって、勝義においては否定される。 ↓ 「諸行無常」は世俗諦!! 捏造と不当な排除の両極端の排除・・・この訳はなんか馴染めないけど、それを包括して概念的拡散とし、その止滅した勝義が中道であるというのがカマラシーラの見解。 非存在の概念 「存在が(勝義において)不成立ならば非存在も(勝義において)成立しない」(中論15.5ab) ここはカマラシーラのシャーンタラクシタ同見解。 つまり、否定対象が存在しなければ、その否定も存在しない。 ひいては、「存在の捏造」のみの否定でもこの理路は成立する。 尋(vitaruka)と伺(vicra)。旧約では覚と観を訳されるようです。 雑阿含経(相応部)では「まず尋求し、伺察して、その後に言葉を発する。それ故に尋伺は語行である」とあり、言葉を発せしめる心の働きとされるようです。 五位七十五法では不定法に分類され 対象を粗放に考察すること → 尋 細微に考察すること → 伺 とされ、瞑想の深まりとともに失われるものとされ、色界初禅は有尋有伺で中間定では無尋唯伺、二禅以上は無尋無伺とされるそうです。 ダニヤ経(スッタニパータ) 悪魔パーピマンがいった、「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」 師は答えた、「子のある者*は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」 構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版) 空海 ○道元 ◯親鸞 ◯一遍 ◯蓮如 覚鑁 ◯妙好人 ○ゴータマ・ブッダ ○龍樹 ○法蔵 ○ツォンカパ シリーズ 思想としての仏教 (春秋社) ブッダ 律蔵 アビダルマ ◯中観 唯識 ○如来蔵 密教 はい、真言や称名或いは題目を禅定(此処では集中行として)として捉える方がおられます。 まぁ、間違いでもないのですがw お念仏には一念義と多念義があるそうですが、一念で禅定とかwww まぁ、そういう方もいるのかも知れませんけどw 真宗なんかは他力のお念仏だそうですが、禅定を収めるのって自力じゃないんですかねぇ。 また、日蓮さんは >口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、 >梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、 >仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、 >されば『若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり』と説き給うは此の心なり >(法華初心成仏抄) って仰ってるそうですが、それって禅定なんでしょうかねぇ、 www 「もし神が存在するなら、悪はどこから来るのか」という問いは、確かにこの世界を満たす甚だしい悲惨、堪え難い不正を前にしての人類の永遠の歎きであるが、哲学的にはこの問いは「どこから」と問うことが空虚で無意味な虚無、もしくは単純な否定に他ならないものを、実在と取り違えたことに基づく偽の問いにすぎない。 縁起しているもの、それを、空性であるとわたしたちは説く (ya pratītyasamutpāda śūnyatā tā pracakmahe)。 それ(空性)とは、執って仮設することであり、まさに中道そのものである。 (『中論頌』二四・一八) カッチャーヤナよ、この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無とである。 もしも人が正しい知慧をもって世間(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観じるならば、世間において無はありえない。 また人が正しい知慧をもって世間の消滅を如実に観じるならば、世間において有はありえない。 カッチャーヤナよ、「あらゆるものがある」というならば、これはひとつの両極端である。 「あらゆるものがない」というならば、これも第二の両極端である。 人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中〔道〕によって法を説くのである。 (『サンユッタ・ニカーヤ』) 三諦 空 仮 中 三観 従仮入空(二諦観、仮空、空用)…相依性故に空と観ずる(色即是空) 従空入仮(平等観、空空、仮用)…仮は空、空も亦空(色即是空↔空即是色) 中道第一義(上記両観の双存・双用、空仮相即の中、双遮双照) 仮空・空空…双遮、空用・仮用…双照 三止 体真止…空の体得しそこに住する 方便随縁止…仮相に随縁しそこに住する 息二辺分別止…空と仮の二辺分別に不偏する中道に住する。 ただし上記の段階的な説明(次第三観)は理解のためで、本来は同時(不次第)、すなわち即空即中即仮(一心三観、円頓止観)である。 【漢訳本文】 舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。 【読み下し】 舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。 【原典和訳】 シャーリプトラよ。ここにおいて、存在するものはすべて空性を特徴としていて、生じたというものでなく、滅したというものでなく、汚れたものでなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることもない。 形相(エイドス) アイティア(4つの原因) 形相因 動力因(作用因) 形相因 目的因 質料(ヒュレー) 質料因 可能態(デュナミス) 現実態(エネルゲディア) 中論頌24:18 中村訳(『龍樹』講談社学術文庫) >どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 >それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 桂・五島訳(『龍樹『根本中頌』を読む 』 春秋社) >縁として生起することを、我々は空であることと言う。 >それは因として、概念設定されることであり、その同じものが中道である。 鳩摩羅什訳 >衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。 >亦たこれ仮名と為す。亦これ中道の義なり。 流通している訳 >衆因縁生の法、我即ち是れ空なりと説く。 >亦たこれ仮名と為す。亦これ中道の義なり。 110 鹿野園 ◆00MWura8lSZF sage 2023/08/14(月) 08:08:17.06 ID://64qryE いわゆる「三諦偈」なのですが、ここで中村先生は、 >因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現われる。 >因縁によって生ぜられたもの事物を空ずるから非有でありその空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。 >ほぼこの様に中国以来伝統的に解釈されてきた。 と述べ、更に >しかし、この天台以降の解釈がはたしてナーガーリュジュナの原意を得てるであろうか。 と疑義を呈している訳です。 115 鹿野園 ◆00MWura8lSZF sage 2023/08/14(月) 10:00:06.82 ID://64qryE で、 >要するに第二十四章の第十八句に関して後世中国においては三論宗も天台宗も種々複雑な説明を試みるに至ったのであるが、インドの諸注釈によってその原意を探るならば、縁起、空、仮名、中道の四つの概念が同趣意でものであるということを説いたにほかならず、後世におけるように空をさらに空じた境地に中道が現われると考えたのではないということが明白だろう。 >もちろんわれわれは中国仏教思想の独自の意義を認めるのにやぶさかではない。 >ただわれわれとしては、中国仏教における解釈がインドのもとのものと違うということを指摘するのである。 >(中村元 『龍樹』 講談社学術文庫 より) な訳です。 シャーリプトラよ、如来の知っている諸々の法について、如来こそが説き示すであろう。それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのか──ということを、如来だけが明瞭で明らかに見ているのである」 アリストテレスの10範疇 アリストテレスのじゅうはんちゅう アリストテレスは『オルガノン』 Organon第1部の『範疇論』 Categoriaeにおいて,範疇とは存在者に関する述定の普遍的形式であり,同時にこれらの存在者が,その名のもとに包含される最高類概念であるとして,10種の範疇を提示した。すなわち,実体 ousia,量 poson,性質 poion,関係 pros ti,場所 pou,時 pote,位置 keisthai,状態 echein,能動 poiein,受動 pascheinの 10種であるが,このうち実体のみは述語とはならない。アリストテレスはかかる 10種類の根本的な実在形式があるとしたが,これらの範疇表は,原理的なものから導き出された厳密なものというよりは,経験的に文法を手掛りとして数え上げたものであって,のちにカントにより批判された。なお,ギリシア哲学史上の範疇思想は,まずピタゴラス派により確立された 10種の対立概念の表であり,これはアリストテレスの『形而上学』でも言及されている。さらにプラトンは,有,異同などの最高概念をあげて論じたが,これらの説を展開させてまとめたのがアリストテレスである いわゆる「十如是」は無為法って事ではありませんから。 何故なら、無為法とは基本的に作用しないダルマをいうからです。 また、先に「十如是」といったのは、サンスクリット語訳では >シャーリプトラよ、如来の知っている諸々の法について、如来こそが説き示すであろう。それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのか──ということを、如来だけが明瞭で明らかに見ているのである。 >(植木雅俊 訳) と五つのカテゴリー列挙であり、「十如是」は鳩摩羅什の"積極的誤訳"だと思われるからです。 参照 https://i.imgur.com/EdZEF1C.jpeg (仏教の思想 5 絶対の真理<天台> (角川文庫ソフィア)より) さきに仏教のすべての学派が刹那滅論を主張する、といった。説一切有部も、もとより、すべてのものは瞬間的にしか存在しないということを強調する。 認識態(同分 sabhga)にあるという。猫が室から出ていって見えなくなったということは猫が私によって認識されないこと、非認識態(彼同分 tatsabh�ga)にあるということである。 インド 初期仏教(仏陀) 部派仏教(倶舎) 中観仏教(龍樹) 唯識仏教(無著・世親) 中国 天台仏教(智) 華厳仏教(法蔵) 浄土仏教 禅仏教 六大すなわち法界体性が能造(造る側。能成・能生)であり、各仏身、衆生身、あるいは器世界等、ありとあらゆる現象が所造(造られる側。所成・所生)であることが強調されている。 ただし能造・所造等と言っても、そこに能・所の二元対立的な関係があるわけではない。 最後に、無礙(互いに妨げあうことがない)にして常に瑜伽(結びついている)なのは、けっして六大ではなく、その六大すなわち法界体性による所成の身であることが明かされていく。 (竹村 牧男 空海の哲学 (講談社現代新書)より) 要は空海によれば、六大は如来内証の阿字本不生の世界の諸相をいうものなのであり、元素のことではなかったのである。 すなわち、この六大は、如来内証の世界の本体が、本不生・離言説・離塵垢・遠離因縁・等虚空であり、かつそれらの覚証の智慧でもあること(理智不二)を物語るものと理解すべきなのであり、いわば、理智不二の真如、本覚真如の世界のことだというのである。 それを空海は後に、法界体性と表現する(「仏、六大を説いて法界体性と為す。」 (竹村 牧男 空海の哲学 (講談社現代新書)より) ・空海ー即身成仏への道/平井宥慶 ・覚鑁: 内観の聖者・即身成仏の実現/白石凌海 ・悟りと解脱―宗教と科学の真理について/玉城康四郎 ・唯識説の深層心理とことば 『摂大乗論』に基づいて/小谷信千代 ・古代哲学史/田中美知太郎 ・私・今・そして神 開闢の哲学 /永井均 ・インド最古の二大哲人/宮元 啓一 共相の種子感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する 不共相の種子�エ受を伴う・・・対治されて消滅 共相の種子感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する 不共相の種子�エ受を伴う・・・対治されて消滅共相の種子感受を伴わない 共相の種子〜感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する 不共相の種子〜感受を伴う・・・対治されて消滅共相の種子感受を伴わない これは初期仏教の「認識器官(六内処)/認識対象(対境)」の二分法に基づく修道論であり、後代の大乗仏教では、直接知覚とその対象との間に言語的分節(分別)の介在を認める。 初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。 (『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥) 古本屋て「キリスト教の歴史」とかは残しても ヒエロニュムス集とか護教論集とか捨ててるんかな 「真実の心の主体に、二つのはたらきがある。第一は自性の本用で、われわれの心そのものの本来的なはたらきであり、第二は随縁の応用で、対象を予想するものである。いま、銅鏡を例にとっていえば、鏡というものがらは、われわれの主体としての心そのもので、鏡が本質的にものを映すという透明な性質は、自性の本用であり、個々の影像が映し出されるのは、随縁の応用である。いわば、鏡に映る個々の像は、個々の対象を待ってはじめて映るのであり、映されたもの ある。いわば、鏡に映る個々の像は、個々の対象を待ってはじめて映るのであり、映されたものは千差万別であっても、それらを卵際に映し出すはたらきは、覚のそのものの本質約な作用であって、個々の対象にかかわることなしに、つねに透明さをたもっているのであり、そうした鏡の透明な本質は、絶対であり、平等である。それは、われわれの心が、つねに静かにおさまっているのが自己の主体であり、そうした静かなおさまった心が、つねにものを知るという本質をもっているのが、主体的な作用にほかならぬのにたとえてよい。したがって、われわれが現にものをいったり、分別し動作したりするのは、すべて随縁の応用であって、自性の本用ではない。 洪州宗で、われわれが現にものをいうなどの行動を担えて、それをただちに仏性の作用だとするのは、すべて随縁の応用であって、自性の本用を穴くものだ」 メモ 新熏種子 しんくんしゅうじ 二種の種子(本有種子・新種子)の一つ。 後天的に表層の行為によって阿頼耶識のなかに植えつけられた種子。 習所成種とおなじ。 →本有種子 →習所成種 メモ 本性住種ほんしょうじゅうしゅ 二種の種(本性住種・習所成種)の一つ。 種とは阿頼耶識のなかにある種子で、先天的に有している種子を本性住種という。 本性住種子・本有種子ともいう。また種子(bija)を種姓(gotra)と言い換えて本性住種姓ともいう。習所成種の対。 →習所成種 →本性住種姓 S prakrti-stham bijam (出典)種子各有二類。一者本有。謂、無始来、異熟識中法爾而有、生蘊処界功能差別。 世尊、依此、説諸有情無始時来有種種界、如悪叉聚、法爾而有。余所引証、広説如初。此即名為本性住種。(「成論」2、大正31・8b) 種子論では難陀は新熏説、護月が本有説、護法は本有新熏合生の説を立て、 (wikiダルマ) 756:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/01/23(火) 19:13:49.24 ID:4TuDuGRJ https://youtu.be/-AVggxkBnCE https://youtu.be/VYyPDwT1c2c 04:20〜07:20 >>203 >お茶とか雨音の認識がないところ 認識はありますけど対象化されてません。 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。 >取ること全無には非ず。 >(成唯識論) しかし宗教板って本当に気狂いの巣窟だな。 知的障害者、統合失調者、認知症、メンヘラ…… 八割がそれで、普通の人が一割、残り五分が少し詳しい人。ちゃんとやってる人はほぼ居ない。 たとえば、ある物の長さを物差しで量るとき、量られる物と量る物すなわち物差しとがあり、前者は所量、後者は能量といわれる。 この場合、それが何センチであるという認識が成立するためには、「物」と「物差し」だけでは不十分であり、それに加えてそれは何センチであると「判断する心」が必要であり、この判断する心の働きがあってはじめて物を量るという一連の認識が結果として成立する。この意味で、この心の働きを量果という。このように所量と能量と量果の三つが存在して、ある一つの認識が成立するが、この三つが順次、相分と見分と自証分とに相当する。 これら三つの部分に加えて、さらに自証分の働きを確認する心の領域を考え、それを証自証分と呼び、全部で4つの分を立てるに至った。 境に似たるは相は所量なり。 能く相を取るとは自証とは、即ち能量と及び果となり。 この三は体別なること無し、という。 又た心・心所を、若し細く分別するに、応に四分有るべし。 三分は前の如し。 第四の証自証分有り。 此れいい若し無くんば、誰か第三を証せん。 心分ということは既に同なるをもって、応に皆な証すべきが故に。 又た(若し第四分無くんば)自証分は、応に果有ること無かるべし。 諸の能量は必ず果有るが故に。 見分は是れ第三が果には応ぜず。 見分は或る時には非量にも摂むるが故に。 此れに由りて見分は第三を証せず。 自体を証するは、必ず現量なるが故に。 相分 (能量) 見分 (所量、現量・比量) 自証分(量果、現量) 証自証分(現量) お茶を戴くときについて、私がお茶を飲むという事は、私が何かを飲むということですが、私を離れて飲むがあるわけでもなく、飲むを離れて私があるわけでもありません。 また、ハッキリというのは量果ですから現量ではありません。 出典は 『「悟り体験を」読むー大乗仏教で覚醒した人々ー』 大竹晋 です。 1.自他忘失体験 いまだ通常の心である”自我の殻”を残しているにせよ、自己と他者の隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験である。 2.真如顕現体験 通常の心である”自我の殻”を破って、真如が顕現する体験である。 3.自我解消体験 真如ー法無我ーが顕現したことによって、通常の心である”自我の殻”が解消されることである。 4.基層転換体験 通常の心である自我の殻≠ェ解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験である。 5.叡智獲得体験 叡智獲得体験とは、存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験である。 ちなみに自他亡失体験は、悟り体験にカウントされない。 解深密經卷第三 大唐三藏法師玄奘奉詔譯分 毘鉢舍那和合倶轉善男子若正思惟 心一境性 世尊云何心相善男子謂三摩地所行 謂縁彼影像心奢摩他所縁 世尊云何 心一境性 善男子謂通達三摩地所云影像唯是脱七十五千菩薩獲得廣大瑜伽作意 解深密經 卷第三 質問 心一境性(心を一点に集中させること)とは何でしょうか。 回答 三摩地(サマーディ。集中状態)の所行(対象域)である、その影像(イメージ)に対し”これは唯識である”と観察し、それを観察してのち、真如に対し作意することである。 (SNS VIII,9) 7種。了相作意・勝解作意・遠離作意・摂楽作意・観察作意・加行究寛作意・加行究寛果作意 ほんと、宗教板は知障や統失、認知症やメンヘラや気狂いの巣窟だな。 四尋思 1.名称に係る考察(名尋思) →名称に係る考察に基づく如実智(名尋思所引如実智) 2.事物に関わる考察(事尋思) →事物に関わる考察に基づく如実智(事尋思所引如実智) 3.本質の言語表象に関わる考察(自性仮立尋思) →本質の言語表象に関わる考察に基づく如実智(自性仮立尋思所引如実智) 4.属性の言語表象に関わる考察(差別仮立尋思) →属性の言語表象に関わる考察に基づく如実智(差別仮立尋思所引如実智) 四尋思と四如実智 1.名称に係る考察(名尋思) →名称に係る考察に基づく如実智(名尋思所引如実智) 2.事物に関わる考察(事尋思) →事物に関わる考察に基づく如実智(事尋思所引如実智) 3.本質の言語表象に関わる考察(自性仮立尋思) →本質の言語表象に関わる考察に基づく如実智(自性仮立尋思所引如実智) 4.属性の言語表象に関わる考察(差別仮立尋思) →属性の言語表象に関わる考察に基づく如実智(差別仮立尋思所引如実智) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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