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古本屋のつぶやき
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0001古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/23(土) 12:46:15.66ID:FdRK1oG6
仏教思想のあれこれについて思った事を勝手につぶやくスレです。

1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き推奨。
6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。

*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。
0002偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu
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2020/05/23(土) 12:51:48.76ID:sYluWMUI
大山くんは仏教スレにはなくてはならない人物
大山くんをみんなで応援しよう🇯🇵
0003古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/23(土) 13:57:31.59ID:FdRK1oG6
私は古本屋に居つく本の紙魚みたいなもんです。
そんな古本屋の紙魚に興味がある人とか、変わった人なんでしょうねw
0004古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/23(土) 14:30:17.14ID:hyQWGMhZ
表現が難しいけど、体験や知識を我としてアイデンティティを形成するのではなく、体験や知識は非我としてアイデンティティを形成するのが仏教ではありませんかねぇ。

非(無)我の我って事です。

勿論これはジレンマですけど、そのジレンマを超克する体験や知識が修行の過程で要請されるのが仏教だと思うんです。
0005古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/24(日) 18:28:38.31ID:Hf1uZTkM
>五蘊とは、仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示す。
>(wiki引用)

飽きれてものも云えない。
個々の構成要素である 色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊 がそれぞれ非我であれば、トータル(一切)として無我が成立し、五蘊(一切)無我説ってなる。
応用が利かないというか、限定解釈と云うか、非我といったら非我として何でも解釈してしまうから斜め上の方向にいってしまう。
0006古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/24(日) 23:31:11.96ID:Hf1uZTkM
>コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。
>つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。
>そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。
>(井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて)


分ってしまえばごく普通に当たり前なんですが、その当たり前に至るまで結構大変で、一生かけてもこれが分らない人もいる。
0007古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/25(月) 08:44:33.73ID:ZSCAeXpm
>問うて曰く、若し是の如き義ならば、諸の衆生等云何が随順し而して能く得入せん。
>答えて曰く、若し一切の法は説くとは雖も能説と可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念と可念と無を知る、是を随順と名づく。
若し念を離るるを名づけて得入となす。
>(大乗起信論)

随順・・・知的に深く了解する事。
得入・・・実際に悟りをひらくこと。

起信論は中国撰述のパッチワークらしい。
で、律蔵や阿含をみると、知見を経て解脱したというのが散見されますが、これもそのような記述ですね。
0009古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/25(月) 12:05:46.75ID:ZSCAeXpm
「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。
有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。

西谷啓治
0011古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:02:24.55ID:oyL/OzUk
くだらないことを考えた。

一体 ”自分の手” と云ったとき、それはなんなんだろうか?
これは ”自分の所有する手” ってパラフレーズできると思う。
また、手は足だの脳だの他のものに置き換えられる。

それを考えた時 ”自分” ってなんなんだろう、自分ってどこにあるんだろう?
0012古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:08:47.73ID:oyL/OzUk
”私は考える”と云ったとき、これもどうだろう?

考える以前に私というのがあって、それが考えると云うんだけど、先程の”自分の手”問題と一緒に考えると ”考える以前の私” ってどこにあるんだろう?
また、私を離れて ”考える” というのが独立してあるんだろうか?
0013古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:14:00.26ID:oyL/OzUk
”私”というのが単体であるのでもなく、”考える”というのが単体であるのでもなく ”私は考える” でひとつの何かが成立するのではないのだろうか?

つまり、何かの作用を伴うことなしに私と云うのは成立しないと思う。
0014古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:20:38.99ID:oyL/OzUk
仮に、自分の体のどこかに”自分の”と思う本体があるとしよう。

しかしそれは ”自分のX” とはいえない。
なぜなら、そのXの外に自分が設定されるから。

それ故に、仮にその”X”があるとしても、それは認識のしようの無いものとしか言いようがない。
0015古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:27:12.99ID:oyL/OzUk
掛かる意味において、ヤージュニャヴァルキヤの ”〜に非ず、〜に非ずとしか言いようがない” というのは正鵠を得てる。

初期仏典に説かれてる五蘊無我説もある意味そのパラフレーズに他ならない様に思える。
0016古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:37:46.50ID:oyL/OzUk
しかし、だ。

身体を構成する五蘊のそれぞれが非我であるのなら、総体としての我は当然に無我という事になる。
でなければ、五蘊の他に何かしらの我があることになってしまう。

この身体を離れてどこにそんなものが存在するといえるんだろうか?
0017古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:45:55.02ID:oyL/OzUk
メンインブラックという映画で、身体の中に異星人が居てロボットのように操作しているシーンがあった。

仮に私の中にそんな私が居るとしても、無限退行のマトリョーシカ人形状態に鳴るし、其の中の私も構成要素に分解されるに他ならないw
0018古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 07:55:41.38ID:oyL/OzUk
ところで輪廻の問題。

輪廻の全容を知るには輪廻から離れなければその全容は掴めない。
であるなら、輪廻の中にあるものはその輪廻の全容は知れない事になる。

己事についても同じことがいえよう。
己事は己事を離れなければそのすべてを知りようがない。

それでは我とはなにか?

それはともかく ”我を設定してること自体大きな過ち” という答えも考えられる。
問題自体がそもそも間違っているというのである。
0019古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 08:00:44.57ID:oyL/OzUk
”これは私ではない” ”これも私ではない” って否定を重ねていっても、最後にはその否定するものが残ってしまう。
これは、小空経の結論と類似している。

その最終的に否定するものって?

思考している自分。
0021古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/26(火) 14:28:54.73ID:oyL/OzUk
”自分を観察するのじゃ〜”と嘯くものがいます。

これも上記の例外ではありません。

観察をするには観察されるものの外に立たなくては全てを観察することは出来ません。
つまり、観察されるもの=自分ですから、自分を観察する為には自分の外に立たなくてはなりません。

これもおかしな話です。
どうして自分が自分の外に立てましょうか?

仮に自分が自分の外に立てたとしても、その外に立てた自分を観察するために更にその外に自分を立てなくてはならなくなります。
これは無限退行であって、何時まで経っても自分自身を観察することは出来ません。
0022古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/27(水) 09:23:57.66ID:eLb/mp/m
>今まで一つの全体である何かとして、どこにも裂け目を見せず、捉えどころもない無規定、無分節的様態で現前していたにすぎないXが、理性の存在論的分析の光に照明されて、「存在」と「本質」との組合せになる。
>つまり、「Xは実在する」「Xはである」という二つの命題が同時にここで成立する、ということだ。
>Xが存在する、だが、ただ存在するだけでなくて、として(例えば花として)存在する、というのである。
>(井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて)

そういう事でしょう。
0025古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/05/27(水) 16:06:21.38ID:eLb/mp/m
”言葉は真理そのもの” と ”言葉では真理を表せない” は矛盾しません。

例えば ”あ” と言う言葉。
”あ”と言う言葉は”あ”の言葉そのままに真理ですけど、他の言葉をもってそのままに表現は出来ません。

また、”あ”と言う言葉はパラフレーズすると ””あ”という言葉以外を否定する言葉” ってなると思うんです。
つまり、”あ”と”あ以外の文字”は相依(相即)して成り立ってると思うんです。
0027古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/05/31(日) 13:40:25.49ID:uC5gLpm6
やっぱり仏教は奥が深い。
何劫にも亘って生まれ変わり仏教を学ぶのが分るような気もする。
0028古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/05/31(日) 13:45:27.90ID:uC5gLpm6
>六識がはたらかない滅尽定の状態が、異熟識はあっても、「無心」といわれるのである。
>(上山春平;服部正明.仏教の思想4認識と超越<唯識>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.2041-2043)..Kindle版.)

ちょっとした体験程度で悟りとかとんでもないって事なんです。
冗談が過ぎるんです。
0029古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/02(火) 02:27:07.63ID:GbzMoCUE
>ところで注意すべきことは、哲学理論としての頂上が、しばしば宗教実践としては谷底であることである。
>(田村芳朗;梅原猛.仏教の思想5絶対の真理<天台>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.823-824)..Kindle版.)

お釈迦様以来、変遷しながらも脈々と受け継がれてきた仏教思想は、或る意味日本において天台本覚思想としてその頂点に達したのかもしれません。
しかし、上記に言われるように ”宗教実践としては谷底” というのも紛れもない事実でしょう。
0030古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/02(火) 02:36:59.87ID:GbzMoCUE
仏教スレでさえ、佛教に対する理解不足と行き過ぎた真理顕在論から、明後日の方向に逝ってる方が殆どという悲しい現実。

ちょっと仏教を学べば、真如にも無漏の真如と有漏の真如があるというのに…
0031古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/02(火) 20:41:16.63ID:GbzMoCUE
天台の性具と華厳の性起。
煩悩を視座に置くと前者が内在で、後者が縁起に拠る外来って事になるのかな。
0032古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/04(木) 01:14:04.96ID:/hhDPp5c
仏教スレ特有の仏教思想や哲学に対する一種のオリエンタリズムとそのエピゴーネンには吐き気がする。
この糞どもは野蛮人だから表象の危機って言葉も知らないんだろう。

猿だ。
0035古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/04(木) 01:41:26.76ID:/hhDPp5c
禅宗かぶれが過ぎて仏教全体を俯瞰する事が出来なくなり、一種のオリエンタリズムと云うかデリダの云うところの二項対立に陥ってるんだよ。
掛かる意味においてそういう輩は○○正宗と志向性が変わらないんだよ。

禅宗って云うの本来そういうのを一番嫌う宗派なのになに馬鹿をやってるんだろうね?

同じ禅宗だからそういうのは余計にウザく感じる。
いい加減に脱構築しろってなる。
0037古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/04(木) 10:26:19.17ID:/hhDPp5c
創発って術語がある。
ある意味仏教でいう縁起に近いものがあるのではないか?
0038古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/04(木) 10:29:58.40ID:/hhDPp5c
原因や根拠を追求していっても、言語的な問題もあるけど、結局は無限遡及が循環、独断になるのではないか?
掛かる意味において、華厳教学の説く重重無尽縁起はそのトリレンマを解消(解決ではなく)してると思うんです。
0039古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/10(水) 13:54:14.23ID:Xm+U5Kyo
阿頼耶識が現量であることについて分り易く説明書ましょう

仏教では全ては心の現れと説きます。
その心とは唯識仏教では根本識として阿頼耶識が説かれており、表れとはその阿頼耶識中の種子(≒過去業の痕跡)が見分(見るものと)と相分(見られるもの)に分析され、それを自体分が認識する事を言います。
つまり

                                →見分(見るもの)    
 阿頼耶識に貯蔵された種子 + 縁 → 自分が                に分析される   <  その分析されたものを自分が自体分として認識する 
                                →相分(見られるもの)

となります。 
0040古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/10(水) 14:02:03.29ID:Xm+U5Kyo
阿頼耶識中の種子とは過去に行動した記録がデータとして阿頼耶識に蓄積されたものです。

ところで、その時どのように阿頼耶識にデータとして蓄積されるかですが、リンゴをリンゴとして認識するとそのままに種子として蓄積され、リンゴを梨と勘違いして認識してもそのままに、勘違いしたままに蓄積されます。

そして、何かを縁が生じてその種子が再び現れた時、リンゴをリンゴとして認識・蓄積された種子も、リンゴを梨と勘違いして認識蓄積された種子もそのままに顕れます。

すなわち、これが阿頼耶識が現量であることの証左となるでしょう。
0041古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/10(水) 14:20:50.51ID:Xm+U5Kyo
認識の過程を唯識仏教では以下の通り説明しております。

 1.卒爾心(対象の感覚的認識)
  ↓
 2.尋求心(対象を判別するはたらき)
  ↓
 (この間、阿頼耶識に蔵されてる種子が与力(=参照)として働く)
  ↓
 3.決定心(対象の判別) 
  ↓
 4.染浄心(対象の分別)
  ↓
 5.等流心(記録)

意識と末那識は1〜5の全てが認識の過程で起こりますが、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と阿頼耶識は1と5のみって事です。
0042古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/10(水) 14:25:51.46ID:Xm+U5Kyo
上記中の

 >(この間、阿頼耶識に蔵されてる種子が与力(=参照)として働く)

と云うのが阿頼耶識が現量であることの説明ですが、認識が等流心としてそのままに阿頼耶識に記録されたのが、再びそのまま(=現量)に、2.尋求心と 3.決定心の間に呼び起こされるって事です。

よく言いますyね、”記憶違いとか”。
違って記憶されたそれが違った記憶のまま出てくるのが阿頼耶識が現量であることの証左となりましょう。
0044鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/06/16(火) 11:20:58.46ID:xTEijTZF
間違った事を鼻息を荒くして吹聴する姿は、滑稽を通り過ぎて哀れみさえ覚える。
知識の不足なら補えても、ああなるともう手の付けようが無いのかも知れない。
0045古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/18(木) 14:59:20.27ID:peI3dEmy
レスの問題に関係ない周辺情報の列挙とか、わざとでなければ、病んでるな。
0046鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/06/23(火) 12:08:41.45ID:qGx/QPvA
本当に無(非)我なんだろうか?

そうした疑問から発した分析の結果が、五位七十五法なんですけどね。
つまり、あらゆる法を分類した結果、五位七十五に分析されだけど、そのどれもが我ではなかったって事なんです。

確かに煩雑なアビダルマではありますが、そうした背景も知らないで批判するとか、識者から見ればまさに無明そのものの愚かで哀れな衆生という事です。
0047鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/06/25(木) 13:00:02.26ID:nGljnePi
分かって無い者が説明し、理解力に乏しい者が解釈する。
低次元でくだらないレスの応酬が延々と続く馬鹿らしさ。
0048鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
垢版 |
2020/06/25(木) 13:02:59.87ID:nGljnePi
普通に市販の仏教書でも読んでりゃわかる事なのに。
まぁ、自分にとっての当たり前が他人にとっての当たり前ではない事はよくある事にしても、もう少し勉強してもらいたいものですね。
0049鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/06/26(金) 07:35:56.70ID:vgpHKhOA
廃スレにしたのを知ってて書くとか、どんだけ嫌がらせが好きなんだろう。
0050鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/06/26(金) 07:49:27.23ID:vgpHKhOA
空っぽというのは、なにものかを入れる器が予め想定されてる言葉なのでは?

だとして、その器が無いとした時、その空っぽというのはどうなるのでしょう。

色(物質)は空間の隔たりによって成立してるのであれば、その隔たりがないとした時、その色というのはどうなるのでしょう。
0052古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/06/28(日) 11:30:45.72ID:xr8Ayx5W
もし、この世に論がなくて惑い途方にくれる者が多いならば、世間のよこしまな知恵や巧みな言い回しのために、共に惑わされてしまい悪い行いをなして、悪しき境涯に輪廻し、真実のことがらを見失ってしまう。
もし、論に到達するなら、おのずから善悪の特徴と空の特徴を理解して、仏教の反対派であれ、他学派の者であれ、謬見を持つ者であれ、皆悩みなくさまたげをなすことがない。
それ故に、私は人々の利益となるように望むために、この論を造るのである。
(「方便心論」)
0053古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/06/28(日) 14:33:08.88ID:xr8Ayx5W
折空・体空、甲内・界内外、担空・不担空、住空・不可得空
0054古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/06/29(月) 14:00:39.21ID:zy6t1vD+
諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。
0055古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/06/29(月) 17:32:34.09ID:zy6t1vD+
本覚思想の二つの系統について。

空思想に基づく本覚 〜 空のシノニムとしての不二、空の視座からのジレンマの解消と還元
基体説に基づく本覚 〜 真如無為法(あるがまま)の視座
0058鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
垢版 |
2020/06/30(火) 01:41:13.13ID:aVsZxTHG
如来一音演説法、衆生随類各得解。
(維摩経だったかな?)

もし、この世に論がなくて惑い途方にくれる者が多いならば、世間のよこしまな知恵や巧みな言い回しのために、共に惑わされてしまい悪い行いをなして、悪しき境涯に輪廻し、真実のことがらを見失ってしまう。
もし、論に到達するなら、おのずから善悪の特徴と空の特徴を理解して、仏教の反対派であれ、他学派の者であれ、謬見を持つ者であれ、皆悩みなくさまたげをなすことがない。
それ故に、私は人々の利益となるように望むために、この論を造るのである。
(「方便心論」 龍樹)
0059鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
垢版 |
2020/06/30(火) 12:25:34.73ID:aVsZxTHG
対象物そのものに成り切れば、そこに構築される我は無いから新たな業を作る事はない。
その理屈で、輪廻そのものに成り切れば輪廻から解脱するって理屈でしょ。

また、煩悩と菩提は不二、この不二は空のシノニムなんだけど、どちらも空性であるから不二って事でしょ。
或いは、如来蔵縁起でも法界縁起でも、全てはその真如の顕れという視座において、煩悩も菩提も相即って意味でしょ。
0060鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
垢版 |
2020/07/02(木) 13:31:26.75ID:xHIuDXZX
ネタはそれなりにある。
それをスレタイにして話を進める事が望ましいのだけど、どこからと知れず勘違い馬鹿がやって来てはオナニーを始める。
結果、スレが陳腐化してつまらなくなる。
嵐との言い合いになる。

所詮は猿の集まりなんだな。
0064古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/07/08(水) 15:24:27.39ID:6nioLzPe
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg
0065古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/07/09(木) 12:23:24.70ID:UUTpUSLf
北宗 自性清浄・客塵煩悩・如来蔵に近しいか?
南宗 空性故位に?

 離念 観心論(北宗) 〜 自己の心の清浄と汚染の二つのはたらきを内観せよ

 無念 南陽和上頓教解脱禅門 直了性壇語(南宗) 〜 自己の心そのものはもともと空寂である
0066古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
垢版 |
2020/07/09(木) 12:42:50.33ID:UUTpUSLf
煩悩即菩提と云うのは、一つには両方とも空性故に相即であるというのと、もう一つは華厳経学でいう有力と無力の関係において相即という考えがあるんです。

後者においては自性清浄と客塵煩悩の関係においてやはり払拭と云うか鏡を知らないとッてことなのでは?

 1.理性起(因) 〜 生まれながらに仏性を有する
 2.行性起(プロセス) 〜 修行によってそれが明らかになってゆく
 3.果性起(結果) 〜 仏果を感得する
0069鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/07/16(木) 20:35:54.26ID:bY5a9+Zd
何であれ善く説かれたものであれば、それは全て 釈尊のことばである」(『増支部経典=アングッタラ・ ニカーヤ』)
0070古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/07/23(木) 09:23:48.50ID:6sUt9Vrb
406 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:15:34.23 ID:GQR5qNtD [4/17]
>>373
先ず、阿頼耶識は ”無覆無記(唯識三十頌)” であって、 種子と阿頼耶識の関係は ”不一不同(摂大乗論)” とされています。

”阿頼耶識から虚妄が生じる” と言う言葉が馴染まないのは、掛かる意味からもいえると思うんです。
また、種子はあくまでも果が生じての因であって、また縁がない限り果は生じませんので、この意味からもそれは馴染まないと思います。
更には、包丁の喩を出しましたが、包丁そのものは無記であるように、種子も無記ですから掛かる意味からも馴染みが無いも思うんです。

また、例えば川の源流から水が流れている場合、下流で毒が流されて毒水となった場合、それは源流から生じてるといえるでしょうか?
同じように、阿頼耶識は川の源流のようなものですし、虚妄は末那識や意識で生じるのですから、その言葉は馴染みません。
0071古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/07/23(木) 09:24:06.02ID:6sUt9Vrb
410 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:30:19.08 ID:GQR5qNtD [5/17]
>>392
先ず、阿頼耶識は ”無覆無記(唯識三十頌)” であって、 種子と阿頼耶識の関係は ”不一不同(摂大乗論)” とされています。
掛かる意義において唯識では種子は無記とされております。

また、無記というのは異熟性を云うのですが、これについて説明しましょう。

世間では悪因悪果・善因善果と云いますが、これは間違えで、正しくは善因楽果・悪因苦果なのはご存知だと思います。
なぜなら、悪因悪果ではその悪果の悪が因に転化(刹那生滅による業の相続)し、再び悪因悪果となり未来永劫繰り返すことになってしまうからです。

つまり、これは阿頼耶識が現量であることにも関わって来るのですが、善悪の行為として阿頼耶識に薫習された種子は、異熟により無記化するって事なんです。
要するに悪因悪果として永劫に繰り返すのではなく、一旦は結果とし成熟し(悪因苦果)て清算され、その後、再び刹那生滅異熟展開していくという事です。
0072古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/07/23(木) 09:24:50.77ID:6sUt9Vrb
428 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 22:14:37.56 ID:GQR5qNtD [17/17]
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。
0073古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/07/28(火) 09:27:42.02ID:adhOT0jq
>カントは我々主観の側が世界を了解する時、因果関係という形式のなかで了解していくのであって、それは悟性という主観が、世界を捉えるときの形式なのと説きます。
>(成唯識論を読む 竹村牧男)
0076鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/09(日) 22:24:23.58ID:+BSHJBg+
大型連休は何かテーマを決めて本を買って読み込むんだけど、今回はお財布事情が厳しいw

キンドル読み放題です我慢だなw
0077鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/11(火) 00:31:30.04ID:709YsyB6
宗教板は真性のキチガイの集まりだな。
異常だよ、狂ってる。
0078古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/08/13(木) 00:26:42.74ID:Bk4P2OHq
解深密経(中期大乗経典) 三時の教判

識の所変 〜 識体転じて二分に似る。...その二分に依って我法を施設する。(成唯識論)
0079古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/08/13(木) 00:33:16.13ID:Bk4P2OHq
想とは、境の上に像を取るをもって性とし、種種の名言を施設するをもって業となす。(成唯識論)
0083古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/08/15(土) 22:31:20.02ID:UQa5B/QL
1.シャーンディリヤ
 心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
 …心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
 かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。かれはこの一切を自分のうちに包含している。かれは語らず、かれは悩むことがない。
 ─これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。
 わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。
 ─と、このようにシャーンディリヤは言った。
 (チャーンドーギヤ・ウパニシャッド)
2.ウッダーラカ・アールニ
 わが子よ、蜜蜂たちは蜜を作り、いろいろな木の花の液汁を集めて、これをひとつのものとする。
 それらの花の液汁がそのひとつのもののなかで、『わたしは、これこれの木の花の汁である』『わたしはこれこれの木の花の液汁である』と弁別されないのと同じように、わが子よ、この世のあらゆる生きものは有に入ったとき、『わたしは有に入っているのだ』と知らないのである。
 …この微細なるもの、この世のすべてのものはこの有を本質としている。それが真実に存在するものである。それはアートマンである。
 シュヴェータケートゥよ、汝はそれである。
 (同上)
3.ヤージュナヴァルキヤ
 アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。
 (中略)アートマンについては『に非ず、に非ず』としか言えない。
 それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。
 それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。
 ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?妻よ。不死というのは、こういうことなのである
 (ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
0085鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/19(水) 15:26:24.99ID:1rwLwEUE
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
0086鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/19(水) 15:43:43.32ID:1rwLwEUE
四〇
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
(ダンマパダ 中村元訳)
0087鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/21(金) 15:29:09.64ID:L16aSFfT
初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。  自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。
(ブッダ伝 中村元)
0088鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/21(金) 15:38:04.44ID:L16aSFfT
ブッダは、我(アートマン)を形而上学的に実体視することを極力排除しました、ただし、「自己に頼れ」というときの自己(アートマン)は、実践活動の主体としての我、自己自身として認めていました。
(ブッダ伝 中村元)
0090鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/08/22(土) 01:31:18.29ID:sCNV2g8Z
>>740

初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。  自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。
(ブッダ伝 中村元)
https://i.imgur.com/LFBWpXf.jpg


ブッダは、我(アートマン)を形而上学的に実体視することを極力排除しました、ただし、「自己に頼れ」というときの自己(アートマン)は、実践活動の主体としての我、自己自身として認めていました。
(ブッダ伝 中村元)
https://i.imgur.com/ArtlwRH.jpg
0091古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/08/24(月) 21:03:57.89ID:zQlU0Sfy
 >カッチャーヤナよ、「あらゆるものがある」というならば、これはひとつの両極端である。
 >「あらゆるものがない」というならば、これも第二の両極端である。
 >人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中〔道〕によって法を説くのである。
 >(『サンユッタ・ニカーヤ』 中村元 仏陀伝より)


 >五種の構成要素(五蘊)を、〔アートマンとは異なった〕他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。──毛の尖端を矢で射るように。
 >(『テーラガーター』 中村元 仏陀伝より)
0092古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/09/01(火) 09:22:38.78ID:PDplKXgC
同じ共通性をもったものを「同じもの」として認識して、ひとくくりにするカテゴリーが生まれるとき、「ゼロ」が活動し始めています。
この「ゼロ」は概念化されたものでなく、ニューロ系の物質過程の中で自然に発生する、概念以前の「ゼロ」です。
人間はのちにその働きを「ゼロ」という概念として自然の内部からつかみ出すようになりますが、それは人間のこころがすでに「ゼロ」の働きによって稼働しており、無意識にその存在を知っているからです。
ここにもニューロ系とこころ系の同型性を見出すことができます。
ニューロ系もこころ系も、「ゼロ」の基礎の上に形成されているのです。

中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4107-4113).講談社.Kindle版.
0093古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/09/01(火) 09:22:58.05ID:PDplKXgC
ホモロジーはニューロ系にもこころ系にも、自然なかたちで適用可能な数学です。
生物は感覚ニューロンにおいて、すでに情報の縮減をやっています。
ニューロン発火にあらわれる同じパターンの反復を無視する(ゼロとみなす)ことによって、感覚領域でカテゴリー形成をおこない、さらには記憶の基礎を固めています。
いわば神経回路全体が、ホモロジーをアルゴリズムとして動いています。

中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4209-4212).講談社.Kindle版.
0094古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/09/01(火) 09:23:37.78ID:PDplKXgC
仏教は二千五百年も前に、すべての意識作用(こころ)をもつ存在を「有情」と呼び、有情のこころの本質を「空」としてとらえていました。
仏教はあらゆる心的現象の解明をめざしましたが、そうした心的現象の基底にはゼロがなくてはならない、と考えたのです。
空、シューニャー、すなわちゼロです。
数のゼロという概念を発見したのはインド人だったと言われています。
ゼロという数もシューニャーです。
数のゼロと空には共通性があります。
しかし仏教思想はその二つの間にある本質的な違いにも、鋭く着目しています。
驚いたことに仏教は、私たちがニューロ系とこころ系のそれぞれで働く「ゼロ空間」の違いを、じつに正確に取り出して見せるのです。

中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4293-4299).講談社.Kindle
0095古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/09/01(火) 09:27:31.27ID:PDplKXgC
仏教では、この「ゼロ空間」に一種の内部構造を考えます。
それは「縁」に結ばれた無限のネットワークであり、どこにも実体をもつものがないから、その本質は空にほかなりません。
仏教哲学(中観仏教)ではこの空の中に、二つの種類の空がある、と説明しています。
すなわち「なにも生まない空」と「生産性をもった空」の二つです。
「なにも生まない空」はデジタルなゼロのように、それ自身ではなにも生み出さないのですが、ものごとを思考するときに必要な「否定辞」としても機能します。
私たちは情報を流したり遮断したりするシナプスの働きの中に、そのような空=ゼロの働きを見てきました。
このゼロはあたかも内部構造など持たないようにして、否定をおこなうのです。
もう一つの「生産性をもった空」は、こころ系に内蔵された別種の「ゼロ空間」に対応しています。
ニューロ系のゼロが「点」のように広がりを持たないのに対して、人間のこころにおいてあらわに浮上してくるこちらの空では、情報と情報がキアスム(交叉)的に結合することによって、新しい第三の意味が生産されてきます。
こころ系の「ゼロ空間」はじつに巨大な広がりと、複雑な結びつきを生み出すことのできる内部構造を備えています。
その内部構造を幾何学化すると曼荼羅があらわれてくることになりますが、この曼荼羅の根元もじつは、ニューロ系からこころ系までを貫くゼロの作用にほかなりません。

中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4303-4315).講談社.Kindle版.
0096古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2020/09/01(火) 09:35:46.02ID:PDplKXgC
意識のゼロ・ポイントであって、同時に存在のゼロ・ポイント。
まさにサーンキヤ哲学のいわゆる「未展開」(avyakta)である。
従って、「已発」とは、意識のゼロ・ポイントから、なんらかの方向に発動した状態における心であり、同時にまた存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指す。

井筒俊彦.意識と本質−精神的東洋を索めて(岩波文庫)(Kindleの位置No.1653-1657).株式会社岩波書店.Kindle版
0100鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/15(火) 22:07:49.15ID:b0fRKtyG
>>99
そうかもしれませんね。
私は学舎を出てオアシスにまで本を持ち込んでガチガチなのかもw
0101まなみ ◆7bSIO.1SUI
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2020/09/16(水) 06:10:55.18ID:9nc14CiH
>>100
学舎とは?
わたしも本が大好きです、本が人生そのもの。
古代からの知恵がありますからね。
よくブックオフに行きます、それでこのスレを覗いてみました。
0102鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/16(水) 11:12:05.52ID:SoJgoU0d
>>101
寂しさや心の癒し、心のオアシスを求めてスレに来られた方に対して、仏教辞典等を引いて応じていたのかなぁ、とw
0104鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/19(土) 03:11:52.84ID:X2YxGgrk
クリスレで遊ばせて貰ってるけど、僅かながらでも対話が出来る方がいて良かった。
でも、残念ながらクリスレも仏教スレ同様にキチガイの巣窟と化している。
0108鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/23(水) 14:26:15.04ID:fKbd+ZV1
非限定と無限定はやっぱり別物でしょ。
それは、仏教の非我と無我の関係に近しいかもしれない。

仏性を非限定と捉えるか、無限定と捉えるか?
0109鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/23(水) 14:37:14.75ID:fKbd+ZV1
うん、やっぱり非限定でしょう。

非とは非ずで、何かしらの対象の存在を想定してる言葉だと思うけど、この場合の非は仏教の非と同じで、体即用(相依的)なものでしょう。
0111鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/25(金) 15:16:35.86ID:BEpL9J0W
845 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] :2020/09/25(金) 14:39:14.85 ID:BEpL9J0W
ここにレスをさせて頂くのも何かのご縁ですし、スタンダードな仏教の救済観を話させて頂きますが、それを思考とか分別とか分節とか限定とかと呼ぶのはさておき、そうした作用に依拠する救済や非救済を超越したところ、これを思考以前だの無分別だのと呼ぶのはともあれ、そうした相対を超越した絶対の処に仏教は真の救済を認める訳なんです。

その体験が三昧や禅定、まぁはからいを離れつつも主体性を失う事なく、投げ入れるとかお任せするって事です。
0112鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/25(金) 15:21:43.06ID:BEpL9J0W
仏教の特色は基体と作用の関係について、非同非異にしてそれぞれが独立してあるとは説かないところにあると思うんです。
その原則はいわゆる釈迦仏教も日本の大乗仏教も変わりはないんです。
ただ日本の大乗仏教はその理論を極点までに推し進めているとは思いますが。
0113鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/09/25(金) 15:24:43.76ID:BEpL9J0W
掛かる意味に於いて、称(唱)えるときや坐禅するとき、阿弥陀様と一体であって妙法と一体って言う事なんです。
理屈的にはそうであって、体感的にも三昧や禅定中は脳内の分け隔てを司る物質が減少すると言います。
0117鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/07(水) 12:43:34.16ID:vn8RuxQz
>カントは我々主観の側が世界を了解する時、因果関係という形式のなかで了解していくのであって、それは悟性という主観が、世界を捉えるときの形式なのと説きます。
>(成唯識論を読む 竹村牧男)

一定の形式の中で把握された了解知に過ぎないのに、それを実体視したり所有出来ると錯誤してる。
その事を仏教は指摘しているのでしょ?

そして、その錯誤を指摘する空や縁起の教えや、ひいては悟りさえも、一定の形式の中で把握された了解知に他ならないって事だと思うんです(貼紙するなの貼紙の様に、貼紙がなくなればそれは不要になって剥がされるように)

ともあれ、その一定の形式とは何かというとW言語という分節Wだと思うんです。
そうした言語による分節を超越(≒破壊)して、破壊されたままじゃ生きていけませんから、再び言語の世界に還ってくるのが即非って事じゃないんですか?

山は山に非ずそれ故に山である、ってね。
0118鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/08(木) 05:13:34.50ID:ifeCYBk3
>縁起であるものをすべてわれわれはすなわち空であると説く。
>その空は相対的な仮説である。
>これが実に中道である。

インド仏教思想史 三枝充悳
0119神も仏も名無しさん
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2020/10/08(木) 06:38:53.15ID:3PPIN5nx
>>118
うんだから中道って何 ?
0120まなみ ◆7bSIO.1SUI
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2020/10/08(木) 07:11:02.28ID:HZH9i7/s
>>118
> うんだから中道って何 ?


高井戸↔小牧、中央自動車道の略でしょ。
0121鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/17(土) 14:39:25.55ID:BaPCrxCh
否定に立脚する肯定。
0122ポッタン
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2020/10/17(土) 14:41:03.69ID:mG/m4U3T
悟れないバカまなみ、と馬鹿野園とが言うことである。
大爆笑である。
0124鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/19(月) 23:58:59.25ID:5mNmhXn3
神社・仏閣板や哲学板って宗教板のキチガイが荒らしてる様だけど、酷いもんだなぁ。

時間のあるキチガイが5chでは最強なんだろうw

人間ってどうすればあんな風に狂ってしまうんだろうな。
五姓各別でしょ、やっぱり。
キチガイのままに佛のいのち?
ないないwww
0125鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/20(火) 00:09:00.47ID:TGv0dfdh
キチガイとの社会生活的な共存は可能だけど、宗教板での思想的な共存は出来ませんw
0126鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/20(火) 00:17:40.05ID:TGv0dfdh
宗教に対する価値観の共有を考えた場合、似而非覚者は最初から外れてるって事だよだな。
で、キチガイとは殆ど共有しようがない。
0127鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/25(日) 05:22:11.27ID:AS68YrWd
キチガイの相手は時間の無駄だな。
宗教板はキチガイばかりでまともな対話が成立する事が殆どない。
壮大な時間の無駄の様だ。
0128鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/10/30(金) 16:20:18.18ID:b5Ljdez+
不確定性原理のうち、いわゆる観測者効果は小澤の関係式で解消される見込みだけど、揺らぎの問題はロゴス的な手法では解決されないので、レンマ的なアプローチが注目されているって事でしょ?
0130鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/08(日) 18:26:46.70ID:jqx5RGiv
直観の言語化はアフォーダンスの問題でもあろうから、それによって認識世界が広がるって事ではありませんかね。

統語。
0131鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/08(日) 18:45:19.40ID:jqx5RGiv
【仏教】 仏教思想について考えるスレ 【思想】
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1589298921/

レンマ学(中沢新一)について少し考えてみた
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1589770841/

【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1593822625/

坐禅と見性 第百十九章「胡乱より後三十年、塩?を少かず」
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1539424984/
0132鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/08(日) 19:03:02.43ID:jqx5RGiv
アフォーダンスと仏教について考察してみよう。

我々は普通、環境に対して言語や概念等の意味付けをしていると考えられている。
しかしこれを逆転させると、そもそも環境自体になんらかの言語や概念があり、それを追認してるって事になる。

認識論の180度逆転ってなる。

唯識仏教の視座からも、環境とは器界という阿頼耶識の様々な種子の現行に過ぎないから、アフォーダンス理論に合致するものがある。
0133鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/08(日) 22:11:13.96ID:jqx5RGiv
仏教の先人の中で特定の方は、存在の根源というとんでもないところまで至ってのかも知れない。
0136鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/28(土) 13:39:55.20ID:CGjAOmcc
自身が怠惰なのはあるのだけど、仕事をしながら仏道を歩むのはなかなか大変。
その苛立ちがニートに向かってる事は否定しない。

ある意味ニートは仏道を歩むにいい環境だから。
0137偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu
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2020/11/28(土) 13:41:37.08ID:KiCjaJr8
死ぬほど勉強も修行もする時間あるくせにおまえらはなんだ!
という気持ちが起こってきてしまうのですね
0138鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/28(土) 14:05:37.34ID:CGjAOmcc
>>137
そうですね。

ニートとはいえ、他人が仏道を成就されんと歩まれる事は素晴らしい事です悦ぶべき事なのでしょうが、ああした態度を取られるとイラッとくるのでしょう。
0141鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/11/30(月) 23:33:18.82ID:51ZhYKun
私は、お釈迦様は無上正覚であらせられても、仏教は教えとして完成してる訳ではないと思ってます。

中観や唯識を出すと阿含等を出してきてWお釈迦様はそんな事を言ってなかったWという輩が時折います。

敢えて言わせて貰いますが、それ馬鹿です。

勿論、阿含がお釈迦様の直説であるという保証がないというのはさて置き、阿含だけでは解決の付かない問題もあるから倶舎や中観、唯識が要請されたんです。
0142鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/06(日) 17:31:51.38ID:Xc7HRwsK
何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊のことばである」(『増支部経典=アングッタラ・ニカーヤ』)
0143鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/10(木) 02:39:00.46ID:Z2SJkA8+
まさにこれ。

中観でいうところの言語の虚構性を持ち出したり、「それも思いに過ぎない」とか言って宗教板でのレスの応酬を否定や中断するのは、それを知らない人にはある意味有効な方便ではあるのでしょうが、禁則みたいなものだし場違いな思考放棄なんです。
0144鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/10(木) 15:29:51.74ID:Z2SJkA8+
何であれ善く説かれたものであれば、 それは全て釈尊のことばである
増支部経典
0145偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu
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2020/12/10(木) 16:00:14.89ID:9wDU/f1/
法華経にも
而実不滅度 常住此説法 我常住於此
以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
とありますからそのようですね
0146鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/16(水) 04:42:15.70ID:QQ0Xfl4C
>>454(その他諸々の)
その程度の事は少し仏教を齧ればわかる事ですし、世俗諦に拠らなければ勝義諦は解かれ得ません。

こうした義論の場で、中観でいうところの言語の虚構性を持ち出したり、「それも思いに過ぎない」とか言ってレスの応酬を否定や中断するのは、それを知らない人にはある意味有効な方便ではあるのでしょうが、禁則みたいなものだし場違いな判断停止・思考放棄です。

ここは議論の場ですから、あくまでも世俗諦にて話を進めるのが基本です。
0147鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/16(水) 10:09:09.20ID:QQ0Xfl4C
言葉それそのものはそのままで真理だけど、言葉が何かを言い表してる時は、その何かはその言葉ではないし、その言葉はその何かではありません。
0148鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2020/12/16(水) 10:16:06.59ID:QQ0Xfl4C
何をどう正確に伝えようと、それは言い表し、つまり「」(カツコ書き)の中に入るもので、それそのものではありません。
0149鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/01/01(金) 12:22:29.09ID:Fo9wF+dS
智(ジュニャーニャ)
智慧(プラジュニャー)

得(プラープティ)
非得(アプラープティ)
0150神も仏も名無しさん
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2021/01/01(金) 20:17:48.99ID:mHTsJFIQ
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|        ::|                /:池沼::::::::::::統失:::\〜 〜∞←脳障害 精神分裂病
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||| :| ::| ::::|::|:|| ./  /     \   '- .ィ ネット廃人    「 , '
||| :| ::| ::::|::|:|| i            i    | :。::   メ :。:: ! i
||| :| ::| ::::|::|:|| .!            !    ノ #脳障害メ   ヽ、 ←のキモオタ童貞の実態は、
朝から晩まで2chを1分単位でリロードするネット廃人。現実でもネットでも誰にも相手にされない
全生物の最底辺のゴキブリや蛆虫以下の存在。2次元キャラを嫁と思い込んでおり、少しでも叩かれると火病る。
部屋はペットボトル尿とゴミとフィギュアの山。萌えキャラのポスターに白いしみだらけ。親からは見捨てられ、殺されかけたことがあるので部屋を厳重に施錠している。
外見は冗談なしにこれ → http://omoro.cside9.com/gazou/manafter/z2.jpg
0151鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/01/01(金) 22:03:39.77ID:VdO2Uryw
「ハエにハエとり壺から出口を示してやること」
ウィトゲンシュタイン
0152神も仏も名無しさん
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2021/01/02(土) 03:20:50.31ID:gLDIciJW
「朝鮮総連の大罪」から引用|集団ストーカー被害者の会
引用

「先輩、あの人は絶対に僕たちの尾行に気づいていたと思うのですが」
「当たり前だろう。そのためにやってるんだから」
「えっ!?」
「こうやって神経をまいらせるんだよ。あいつは陰で次期議長の金炳植副議長の悪口を触れ回っている不心得者だから、
こうしてお灸をすえているのさ。しかし今日、浮気の現場を抑えたから、あいつももう終わりだ。それにしても、お前
けっこう筋がいいな。これから、もっと働いてもらうぞ」
「筋がいい」といっても能力を評価されたのではない。先輩の言うことに何でも口ごたえせずハイハイと従うところが
評価されたに過ぎなかった。しかし、人を疑うことを知らない当時の宋さんはそんなことにも気づかなかった。
こうして、なし崩し敵に宋さんは、朝鮮総聯の秘密部隊「ふくろう部隊」の手下となった。これは総聯の若手エリート集団
ということになっていたが、実態は金炳植の手先として、反主流派の幹部をつけまわし、一挙手一投足を監視し、報告する
のが主な仕事だった。夜中に繰り返し無言電話をかけたり、匿名で脅迫状を送ったりもした。幹部本人だけではなく、その
家族をつけまわしたり、脅したりした。
0153鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/01/29(金) 14:37:23.83ID:Ql0bIbh9
いいですか?

三昧・禅定によるW理の体感的な覚知の度合いWを、こうした掲示板でW俺は分かってるけどお前は分かってないとかWって言い合う事に何の意味があるんでしょうかね?

大事なのは他人にも把握し得る理事の言語による説明じゃないんですか?



諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)
0157鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/09(火) 01:04:01.67ID:BeiGTEHc
真理の探究よりも、真理を探究する事とは?とメタの視点から考える。
0158鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/12(金) 10:49:43.17ID:quLfN3Yp
メモ

非還元的な物理主義者の誰もが受け入れているのが付随性(「スーパーヴィーニエンス」)のテーゼである。これは、心的状態は物理的状態に付随するが、物理的状態に還元可能ではない、というテーゼである。「付随性」は関数的な依存関係をあらわしている。つまり、物理的なものに変化がないかぎり、心的なものにも変化がない[44]。
0159鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/12(金) 10:51:44.98ID:quLfN3Yp
メモ

心身問題に答えようとするこれらの問題はどれも大きな問題に直面する。哲学者の中には、そうなってしまうのは概念的な混乱が背後にあるからだと論じる者もいる[45]。したがって、これらの哲学者たち、たとえばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと言語的批判におけるその追従者たちは、心身問題は錯覚であるとして拒絶する[46]。彼らは心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。むしろ、単に、人間の経験はいろいろな仕方で記述できる---たとえば心的な語彙で記述したり生物学的語彙で記述したりできる---のだということを受け入れなくてはならない。錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈で使われたりしたときに生じる[46]。これはたとえば、脳の心的状態を探したりするときに生じる。脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである[46]。
0160鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/13(土) 23:04:27.76ID:Eshnmcvd
メモ

アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。
0162鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/16(火) 01:22:39.87ID:KfWARFd5
食事の時にW好き嫌いはないWと言ったとして、Wそれは好き嫌いなのではWというのは成立しない。

何故なら、好き嫌いの対象が食べ物だから。
0163鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/16(火) 09:12:55.82ID:KfWARFd5
まぁ、W認識や作用をするものWって事も言えるかも知れないけど、認識も作用も何かしらの対象があって初めて成立するものだし、それ単体での認識だの作用なんてありませんからね🤔

とどのつまり無(非)我って事なんでしょうけど。
0164鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/19(金) 00:49:08.75ID:agL30gs+
光そのものは見えない。
分光しても紫外線赤外線も見えない。
0168鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/25(木) 23:51:15.05ID:+WO7NbcK
普通の人が知らない雑魚の名前が共通して出てくるって事は、スピ・ニューエイジ系の胡散臭い奴らが一定数宗教板にいるって事だな。
0171鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/26(金) 14:33:23.50ID:TfwbLiXH
そりゃそうした承認欲求が作用してる現象世界そのままに、佛さまの眼から見れば唯佛与佛で諸法実相・事事無碍でそのままに仏性の顕れでしょうけど。
0172鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/02/26(金) 15:25:11.65ID:TfwbLiXH
悟りも方便なんですよ。

そうでも言っておかないと耳を傾けないから。

法華経はそこら辺の消息をよく伝えてる。
0173鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/01(月) 23:52:08.95ID:EtHhQtw3
返事してがねーからここに保存しておこ😂

288 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/03/01(月) 21:04:38.37 ID:EtHhQtw3
>>284
禅のカテゴリーに分類されるその個人の限界が色究竟天という証拠はありますか🙂
0174鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/02(火) 09:42:34.67ID:5FfEpsZK
古代インドでは解脱の方法として、知識に依ると主張するグループと瞑想(瑜伽行、ヨーガ)に依ると主張するグループがあったんでしょ😦

仏教がどっちかというのはよく分からないけど、瞑想によって根本智を直感し、知識によってそれを後得智として確立するんじゃないのかな🤔
0176鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/05(金) 14:35:57.80ID:N5W+7sw8
無明とは智慧の欠如。
智慧の欠如とは空性を知見しない事。

空性を知見すればそもそも無明もなく、無明があってそれが尽きるというような妄想もない。

こんなところだな。
0177鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/05(金) 14:37:27.39ID:N5W+7sw8
訂正

無明とは智慧の欠如であって、智慧の欠如とは空性を知見しない事。

空性を知見すればそもそも無明もなく、それを前提とした無明があってそれが尽きるというような妄想もない。

こんなところだな。
0179鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/05(金) 14:48:10.81ID:N5W+7sw8
あれをリテラルに読もうが、支縁起の頭ごなしの否定に読もうが、智慧の欠如で通用する。
0180鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/11(木) 11:14:59.90ID:65+1hKx6
色は無常である。
無常なるものは苦である。
苦なるものはアートマンにあらず。
アートマンにあらざるものは、私のものにあらず。
われにあらず。
われのアートマンにあらず。
このごとく正しき智慧によって如実にみられるべきである。

私の総体という前にある私とは?

www
0181鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/11(木) 19:42:09.48ID:kSzkaLPR
龍樹は大智度論にて、

問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや

と問い、

無我は了解しているが、俗法(言語習慣、言い習わし)に随って我といったので、それは実我ではない

と述べている。
0182鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/12(金) 16:57:16.27ID:iSQKQ8ls
でおーは、W見て見て!聞いて聞いて!Wって、漸く自他の関係において世界の広がりを認識し始めた10歳児位の発育で成長が止まってるんですよ。

つまり、永遠の10歳児。

そんなのが大人の宗教掲示板にくればこうなってしまうのも道理な訳で。

対して、カムイは中学生くらいの発達段階で成長我止まってしまったってことでしょうね。
0183鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/14(日) 01:00:47.33ID:66eWMVOA
唯識学派はこれらの諸学派とは見解を異にして、知識は知識である限り自己自身を認識する、と主張するのである。
われわれは、青いいろを知覚するとき、同時にその知覚を意識している。この意識がなければ、青いいろが知覚されたということもわからない。灯火が対象を照らすだけで自己自身を照らさなければ、見えるのは対象だけで灯火自体は見えないから、対象がそれ自体で顕現しているのか、灯火がそれを照らしているのかわからないであろう。灯火は自己自身を照らすことによって、対象が灯火によって照らし出されたのだということをも明らかにする。
知識は灯火のように自己自身を照らし出し、そのことによって対象が知識によって照らし出されたことを明らかにするのである。そして、これが無感覚な物体とは異なる知識の特質である。
0184鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/14(日) 01:01:52.44ID:66eWMVOA
したがって、対象が認識されるということは、われわれの知識の中に、知識によって照らし出された対象とその対象を照らし出す知識という二つの契機が同時にあるということを意味する。
知識は必ずそれ自身の内部にこの二契機をもっている。
そうであるとすれば、知識の対象となるのは、知識の内部にある対象、すなわち、すでに知識の中にとり入れられ、知識の一部となっている対象であるということになる。
われわれは知覚された青いいろ、知識の内部にある青いいろを知るのであって、外界にある青いいろを知るのではない。外界実在論を批判した上でディグナーガが明らかにしたのはこのことであった。
0185鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/14(日) 01:06:13.51ID:66eWMVOA
想起は必ず過去に経験したものについておこる。
過去に見たこともない動物を想起することはありえない。
さて、われわれはきのう机上に置いてあった壺を想起するのみではなく、きのう机上の壺を見たことをも想起する。すなわち、想起されるのは対象だけではなく、対象の知識も想起されるのである。
このことは、対象の知識がきのう経験されたこと、換言すれば、見られた対象とそれを見るものとをその内部にふくむ知識がきのう発生したことを意味している
0186鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 15:28:25.79ID:MtZf4BiQ
なり切る以前にそうした作用を伴わない我という基体を仏教は認めない訳です。

つまり、迷いとは作用を伴わない我を実体視する妄想が原因だと思うんです。

なり切る何者かがあるのではないんです。
0187鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 15:44:43.58ID:MtZf4BiQ
本来、なり切る必要もないんです。
既になり切ってるもないんですから。

しかし、方便として成り切っていく中でそこに気付くわけです。
なり切ろうとする事が成り切ってるんです。
0188鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 15:50:40.27ID:MtZf4BiQ
わたしとは他の否定であって、そこには作用のみがある訳です。

勿論、作用する個体はあります。
ありますが、分解するとやはりW私Wはないんです。
0189鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 15:54:59.94ID:MtZf4BiQ
その構成要素(素粒子)が実有か空かは分かれる所ですけど。

心は心自身を知ることが出来るけど、その正体は知りようがないのでは?
0190鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 16:00:07.09ID:MtZf4BiQ
作用に我を妄想すればそれは輪廻であって、無ければ菩提なのでは?

作用とは縁起の法。

業の行為者は存在しない。行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。
これが真理であり、正見である
(清浄道論 Visuddhi Magga)
0191鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/03/15(月) 16:05:06.20ID:MtZf4BiQ
分離を結合するのではない。
分離以前に還るのでもない。

作用してるそれ。
0193鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/04/01(木) 08:21:17.12ID:Pur4i5Ml
キチガイだよなぁ😯

唯識という事自体が外界実在論の否定なのに。

仏教学者と哲学者の対談でもその前提で対談されてるのに、それは学者が勘違いしてるとか😲

馬鹿鬼と同じキチガイだよ😦
0196鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/04/16(金) 01:18:48.03ID:K3jJeGO3
宗教板はキチガイと知障の集まり。まともな議論になりません。

どうすればこういう馬鹿が生じるんでしょうね。
0197鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF
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2021/04/16(金) 01:28:18.90ID:K3jJeGO3
まぁ、知障やキチガイは相手にしないのが一番いいのだろうね。

ともあれ、我々在家一般人が仏教を学ぶ路はひらかれているか?と云うと、どうなんだろうね。
せいぜい巷の仏教書を読んだり街の坐禅会に行くとかその程度だろうね。
まぁ巷の一般書でも精読すればそれなりに学べるとは思うけど。

まぁ、何にしても宗教板は酷い。
知障にキチガイに勘違い… 魑魅魍魎の世界。
0200神も仏も名無しさん
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2021/05/04(火) 04:32:25.72ID:z4V3Jb9D
      (6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/
         |     ,.'  i、     |}
       ',     ,`ー'゙、_    l
       \ 、'、v三ツ   /
        |\ ´  ` , イト、
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0202鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/07(金) 13:06:04.41ID:19Z8eqwH
822 名前:鹿野園#Buddhist-Rinzai :2021/05/07(金) 13:05:41.05 ID:19Z8eqwH
>>805
wwww

調べたぞwwww

「何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊のことばである」(『増支部経典=アングッタラ・ニカーヤ』)
0203鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/10(月) 13:36:30.88ID:bo3BQK9M
飲酒しながらネットするのは自由でしょうけどね。
ただ、相手のいる事ですし。
0205鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/10(月) 14:07:13.67ID:bo3BQK9M
スパムメールの大量送信みたいなものだな。

まぁ、コピペでない限りいずれ力尽きて終わるだろうから放置するのがいいだろう。
0206鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/10(月) 18:49:30.55ID:DhzWwZkp
クリスレで仏教を語る奴は仏教スレで相手にされない奴。
仏教スレでキリストを語る奴はクリスレで相手にされない奴。

知障やアル中の屑。
0207鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/10(月) 18:51:46.75ID:DhzWwZkp
禁断症状はなんとかなっても、アル中は治らない。

一度でも脳に出来てしまった回路は消えない。
0209鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/24(月) 01:23:23.20ID:3/HvPCOL
ハンス・アルバートが20世紀に示したひとつの議論に「ほらふき男爵(ミュンヒハウゼン)のトリレンマ」と呼ばれるものがあります。「トリレンマ」というのは道が3つある≠ニいう意味で、ある議論を根拠付けるために、その理由を問い続けていくと、次に示す3つのうちのどれかに必ず陥るという議論です。ひとつ目の道は、相手の答えに対して、その理由を延々と問い続けていく「無限背進」。理由を無限に問い続けるので、最終的な根拠を出すことはできませんし、いつまでたっても議論が終わらないのです。そして、2つ目の道が「循環論」。つまり、理由を問い続けると、いつの間にか最初の根拠に戻ってしまい、議論がぐるぐる回ってしまうということです。最後の3つ目は「独断的な中断」で、理由を問われ続けている途中で、「これが最終的な理由だ」といって議論を無理やり打ち切ってしまうことです。よく親が、「どうしてダメなのか?」と聞く子供に対して、答えようがなくなって「悪いものは悪い!」といってしまうのは、まさにこの「独断的な中断」にあたるのです
0210鹿野園#Buddhist-Rinzai
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2021/05/24(月) 01:24:57.04ID:3/HvPCOL
議論をする中で、理由を問い直し続けると、必ずこの3つのうちのどれかに行き着くほかにないということを「ほらふき男爵のトリレンマ」と呼ぶわけですが、「無限背進」「循環論」「独断的な中断」の3つは、すべて議論としては誤った進み方、あるいは終わり方なのです。そうなると、哲学的な議論においても、その根拠を問い続けると、この中のいずれかにしか行き着かないということになるわけですから、それ以外の形で根拠付けることがどうすれば可能になるかというのは、非常に大きな問題となるのです。そういう意味では、議論を行う場合、勝ち負けという観点で言えば、必ず問い詰める立場になることが重要で、逆に自分が問い詰められる立場、つまり説明責任を負わされると、かなりつらい状況になることがわかります。
0213鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/06/24(木) 22:11:27.06ID:UQJudc2V
キリスト教スレでの質問の非対象者メモ。
 ラピス、カムイ、鬼子、でおー、ロゼ
0214鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/07/05(月) 22:59:56.73ID:Tft2FakY
メモあげ
0215鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/07/05(月) 23:00:33.84ID:Tft2FakY
それにしてもキリスト教のスレが乱立するのは何故なんでしょうね?

ちょっと順不同・敬称略で整理してみましょうか。
(間違っていたら済みません)

【教会スレッド】キリスト教@質問箱 ラピス、カムイ
【初心者】キリスト教@談話室 まなみ
【初心者】キリスト教@歓談室35 福音伝道、キョ
【イエス】癒し主 救い主 ◆JmSbZpDnkn6F、まちこ
【野に咲く】 愛からの旅立ち 
キリスト教@質問箱 Part 0001
0216ちゆり ◆tdj5ePZmStPO
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2021/07/05(月) 23:06:33.79ID:WxYC03kO
結構ちゆりのことで怒ってたんだね。ごめんね
0219鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/07/16(金) 19:24:27.21ID:6BVmX2aK
「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人あるのである」(『善の研究』)というわけです。」(p.57)

「「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。」(p.103)

「西田は「物となって考え、物となって行う」といいました。そしてそれをまた「行為的直観」ともいいました。」(p.98)

「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」(p.193)


「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かあかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」(「国家理由の問題」)」(p.194)
0220鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/07/16(金) 19:30:14.54ID:6BVmX2aK
新スレを立てようと思ったけど、ここでボヤく事にした。
宗教だの思想だの哲学だのと云った処で話す相手がいるわけではないからな。
0221鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/25(日) 05:15:41.11ID:wK5VC3Sd
在ること、ただ在ること。
それは善であって限定されず、慈悲。

虚無と空は別物。

悪とは善の欠如、存在の欠如、虚無。
0222鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:18:50.12ID:xsbJSU/d
「この世界の「実体・本質」的存在が何であるか」を考察する「存在論」に対して、「目的論」は、「人間を含む諸存在が、(究極的に)どこに向かって(何を目指して、何(どのような状態)を達成・実現すべく)存在・活動しているのか」を考察する。
したがって、全般的には、前者の「存在論」は世界に対する「静的」(static) な考察という性格が強いのに対して、後者の「目的論」は事物に対する「動的」(dynamic) な考察という性格が強い。
(ただし、とりわけマルティン・ハイデッガー以降の欧州(独仏)を中心としたいわゆる現代哲学では、存在自体も自己の関心(世界との向き合い方)によって産出されると考えるので、両者は動的な観点によって統合されることになる。)

また、近代初頭の17世紀的、デカルト的、古典力学的な、静的な因果律構造のみを想定した「機械論」に対して、終局・目的から遡って合目的に情報を秩序立てるあり方として、「目的論」が対置されることも多い[1]。この対比は、とりわけカントの理論理性に対する実践理性、人間の自由・道徳法則を巡る議論を理解する上で、とても重要になる。
0223鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:23:11.50ID:xsbJSU/d
静的、 static

古代ギリシャ語 statikos(立ち止まった)→histemi(立つ)+-ikos(〜の)→sta-が語源。「立ち止まった状態であること」がもともとの語源。stand(立つ)と同じ語源をもつ。
0224鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:24:29.39ID:xsbJSU/d
 >それともこれまでの道が間違っていたというのなら、我々が新たに行くべき道を探して先人よりも仕合わせになるためには、どんな指示に頼ったらよいのだろうか。
 >そこで私は、次のようなことをしてみたらどうかと思うのである。
 >コペルニクスは、すべての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、
 >天体の運動の説明がなかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、
 >その周囲を観察者に廻らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、このことを試みたのである。
0225鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:30:29.11ID:xsbJSU/d
「宗教はその本質上行動たることをやめないし、哲学は何よりもまず思考たることをやめない」

ベリクソン
0226鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:31:44.65ID:xsbJSU/d
「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。大切なのはそれを変更することであるのに」

マルクス
0227鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/30(金) 08:40:54.16ID:xsbJSU/d
ベルクソン哲学の基本概念
べるくそんてつがくのきほんがいねん

純粋持続(じゅんすいじぞく) durée intérieure
 ベルクソン哲学の中心観念。いっさいの言語・概念・記号を振り払って自己内界に深く深く沈潜するとき、そこに直覚的に感得される生動そのものとしての自我・人格の存在形式。内容的には過去の全体的保存ともいえるが、刻一刻の質的変化を伴うことから過去の現在化であり、また新しい質の創造をも含意するから未来への伸長なる側面ももち、さらには自覚的体験の域を超えた無意識的な領域をも統合していくところから、別称「純粋記憶」ともよばれるにもかかわらず、単に心理学的・認識論的レベルにとどまらず存在論的射程をもあわせもつ。その創造性、包摂性がやがて、前者はエラン・ビタール、後者はエラン・ダムール観念にそれぞれ発展する。
0228鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/31(土) 19:37:39.68ID:2wVB1H69
持続と自由

ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。通常、自由といえば、選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在」において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。

他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。物質は「自らを破壊する」のに対して、生命は「自らを形成する」。つまり、生命には、「物質が降りていく坂を登ろうとする努力」をみることができる。宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開なのである。そして、緊張の極にあるのが、エラン・ビタール(生の躍動)である。
0229鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/07/31(土) 19:38:41.30ID:2wVB1H69
純粋持続と真の時間

たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。

この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって、古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。したがって、真の実在認識は、(もちろんカントのいう感性的直観や悟性によってではなく)超知性的な直観によって可能となる。
0230鹿野園 ◆dhoWvnPbujg0
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2021/08/03(火) 14:36:18.09ID:oBaiz18w
そうした思いが結生の識という因となって縁を得て再生するのかもしれない。
0231鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/10(火) 15:03:51.50ID:hcmEE2lx
「危険を冒しなさい。独り立ちでふらふらしながら新しい道を進んでゆきなさい。……ここで人間の歩む道は分かれるのだ。おまえがもし魂の安らぎと幸福を得ようと努めるのなら、信仰をもつがいい。もし真理の使徒であろうとするのなら探究するがいい」

ニーチェはやりすぎたかも。
0233鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/21(土) 23:18:03.66ID:nN3Cp2KD
絶対と云へば、云ふまでもなく、対を絶したことである。
併し単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何等かの意味に於て、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。
併し又単に対を絶したものと云ふものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。
如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによつて、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによつて絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。
……自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。
而して自己の中に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となると云ふことでなければならない。自己が絶対的無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとは云はれない。
故に自己が自己矛盾的に自己に対立すると云ふことは、無が無自身に対して立つと云ふことである。
真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。
神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によつて有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。
(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六─三九八ページ)
0234鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/22(日) 01:45:14.70ID:mkAukzdn
『般若経』には到る処に「AはAにあらず故にAなり」と云ふ論理が説かれてある。「世界は世界に非ず故に世界なり」とか、「一切法は一切法にあらず故に一切法なり」とか、「仏土荘厳は荘厳にあらず故に荘厳なり」とか云ふやうな形で随処に出くはすのです。これを普通の言葉で云へば、白は白にあらず(黒なり)故に白である、又は牡丹は牡丹でないから牡丹だ、山は山であつてまた水である、水は流れずに橋はながれる、空手で槍を使ふ、鞍下に馬なく鞍上に人なし──このやうな矛盾の文字に入れ替へられるのです。これを即非の論理と云つておきますが、仏教者はこれを存在の根本義と致します。 (「仏教の大意」鈴木大拙全集第七巻三九─四〇ページ)
0235鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/23(月) 23:29:16.08ID:YLqzNAr4
しかしながら、自己絶対化が同時に無的であるならば、対立はあっても、相互否認は起こりえない。
対立・対論は必要なのである。
必要というより、必然的なのである。
これがなければ、真理性の放棄に等しい。
互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。
単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。
真理と真理とは対立しつつ融和するものである。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫)  量 義治  )
0236鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/24(火) 13:20:40.24ID:38BkfHqx
それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。

従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。

しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。
けっして有限性の自覚に存するのではない。

人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。

しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。

各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。

しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。

しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。

(宗教哲学入門 (講談社学術文庫)  量 義治  )
0237鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/26(木) 18:17:13.49ID:JEuCXeXM
一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより妄念の始めなどは無いのだ。
それは、微細な妄念の動きを遠離しているのであり、そうした心の内面を見とどけることができてこそ、心はつねに安住するのであり、これを絶対の目ざめと名づける

(大乗起信論)
0238鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/26(木) 18:18:43.16ID:JEuCXeXM
一切の言説は仮名にして実無く、担だ妄念に随いて不可得なるを以っての故に、真如と言うは亦た相有ること無し。
謂わく言説の極、言に因りて言を遣るなり。

此の真如の体は遣るべき有ること無し、一切の法は悉く皆な真なるを以っての故に。
亦た立つべき無し、一切の法はみな同じく如なるを以ってが故に。

当に知るべし。一切の法は説くべからず念ずべからざるが故に名づけて真如となす。

(大乗起信論)
0239鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/29(日) 12:06:12.55ID:MudaLA+o
人間を中心に置いて万事を考えるとは何も特別のことではなく、われわれが感覚でもって認識する「外の世界」にもっぱら心を向ける生き方である。
その場合、人間は外界の物体的事物や現象を知覚し、認識する「主観」、そこからすべてのものを見る「点」となる。
その意味では世界・万物の「中心」であるが、それ自身は存在ではなく、「点」に過ぎない。
奇妙なことであるが、人間が自己中心的に物事を考える立場をとると自己は認識の外に置かれ、すべてを自己が使用し、所有するように見えて、自己は単なる「点」となり、その存在は消滅するのである。  
これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。
この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するもののすべてと合一することによって)「全体」となるのである。
0240鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/08/29(日) 12:14:02.40ID:MudaLA+o
「私たちが会話のさい、時間ほど親しみ深く熟知のものとして言及するものは何もありません。それについて話すとき、たしかに私たちは理解しています。他人が話すのを聞くとき、たしかに私たちは理解しています。ではいったい時間とは何でしょうか。誰も私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです」

アウグスティヌス 告白 より
0241鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/09/05(日) 11:17:56.67ID:PaKyjxvI
マルティン・ブーバー

マイスター・エックハルト

汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。
0242鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/09/19(日) 09:44:37.86ID:euaXkls6
>捨濫留純識とは事理皆識を離れずと観ずと雖も、然も此の内識に境有り心有り。
>心の起きる事は必ず内境に託して生ずる故に、但だ識のみに唯と言うて、唯境とは言わず。
>(「大乗法苑義林章」巻第一)

認識の形態
 1.体はあるか
 2.どういう性分があるか。
 3.どういう相があるか。
 4.どういう働きをしてるか。 

濫  = 外境
外境 = 識を見分として相分の事相物象の世界(器世間)。色・声・香・味・触・法の諸境。
見分 = 認識する側
相分 = 認識される側


 >識は唯内のみに有り。境は亦外にも通ず。(成唯識論10)
 >識は境に託して心となす。(成唯識論述記10)

 
0243鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/09/19(日) 09:57:15.28ID:euaXkls6
六識  = 眼・耳・鼻・舌・身・意
前五識 = 眼・耳・鼻・舌・身
意識  = 統覚(前五識からきた情報、認識内容がまとまるところだから)
第七識 = 末那識(恒審思量識、染汚意(ぜんまのこころ))
第八識 = 阿頼耶識

末那識
 >転識と名くる・・・転といふは、謂く、流転なり。
 >此の識は恒に彼の識(阿頼耶識)に依って、所縁を取るといふことを顕示するが故なり。

阿頼耶識 〜 蔵識(能蔵・所蔵・執蔵)
0244鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/09/19(日) 10:19:04.22ID:euaXkls6
>二空に於いて迷謬有る者に、正解を生ぜしめんが為の故なり。
>解を生ぜしむることは、二の重障を断ぜしむが為の故なり。
>我法と執するに由って二障具に生ず。
>若し二空を証せば、彼の障も随って断ずべし。
>障を断ぜしむることは、二の勝果を得しめむが為の故なり。
>生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を証し、解を礙ふる知障を断ずるに由るが故に大菩提を得。
>(「成唯識論 1」)
0245鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/09/27(月) 11:13:09.47ID:ePQPGj1/
>そして、意識構造と存在構造とは対応を成している。
>すなわち、表層意識は表層存在に対応し、深層意識は深層存在に対応している。
>意識が表層に止まっているかぎりは、存在深層は開示されない。
>意識が表層から深層へと深化してゆくとき、それに応じて存在の深層が開示されてくる。
>経験的意識とその対象はそれぞれ表層意識および表層存在である。
>宗教的意識は深層意識であり、そこにおいて深層存在としての宗教的存在が開示される。
>したがって、宗教が可能になるためには、意識の深層が開かれる必要がある。
>このためになされるのが修行である。
>(宗教哲学入門 (講談社学術文庫)  量 義治  )
0247鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/10/15(金) 11:25:10.28ID:LqcDKiEH
宗教を論ずるものは、少くも自己の心霊上の事実として宗教的意識を有つものでなければならない。
然らざれば、自分では宗教を論じて居る積りでゐても、実は他のものを論じてゐるのかも知れない。
(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三七三ページ)
0248鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/10/15(金) 21:59:53.60ID:LqcDKiEH
仏教も仏・菩薩像などの礼拝にこの習慣を受け継いでいるが、像崇拝の意味は同じでなく、像を通して法とその働きへの礼拝が主で、像そのものの礼拝ではない。
岩波仏教辞典 第二版
0249鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/10/20(水) 14:58:36.03ID:icQlUoKQ
たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?

もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)

続く
0250鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2021/10/20(水) 14:59:01.36ID:icQlUoKQ
(続き)
では見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰? ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(〜を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。
基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=アートマン)があるとしたら、そういうものは自分のどこにあるのだろう。そんなものは、自分のどこにも、きっとないにちがいない。
ウィトゲンシュタインも言っている、私は歯が痛いというのは、ナンセンスだ。歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。そんなものはあるとは思えない、言えない、と(拙著『インド仏教の歴史──「覚り」と「空」』講談社学術文庫、二〇〇四年、二〇六頁参照)。
これは龍樹の言っていることと同じことである。というわけで、結局、「私は(〜を)見る」という文章は成り立たないのである。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
0251鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/11/06(土) 07:12:25.16ID:6iLWcINZ
思い出した。

億劫相別 而須更不離
尽日相対 而刹那不対

これ。
0252鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2021/11/06(土) 07:13:31.35ID:6iLWcINZ
おくごうあいわかれて しゅゆもはなれず、
じんじつあいたいして せつなもついせず。
0256神も仏も名無しさん
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2021/12/15(水) 05:17:52.93ID:oavbOqH1
キチガイを巷で見かける事はあるけど、宗教板のその頻度はは異常だな。

ポタ公、でおー、ファビョリンマン、アホラフキン、エロ、ひふみ、ハゲ、柿猫、バカムイ、馬鹿鬼、魚……

この人達はリアルでどんな生活をしてるんだろ。
家族とか居るんだろうにね。
0257神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/12/15(水) 05:27:18.02ID:oavbOqH1
そりゃ宗教板だから、心を病まれてる人はいるでしょうけど。
0258鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2021/12/17(金) 03:06:18.71ID:+Q8Ei8+b
師 茂樹
最澄と徳一 仏教史上最大の対決 (岩波新書 新赤版 1899)
5つ星のうち4
0259鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
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2021/12/18(土) 00:46:40.93ID:mUyn0Bsr
保守法然と言うは、諸法の自然に是の如くなることを顕す。具足とは成就の義、無闕少の義なり。

以下、空海はあらためて「法然具足薩般若」の句の意味について解説する。
「法然」について、「自然に是の如くなること」を表しているという。
誰も作業を施さなくても、もとよりそのようであることが、法然である。
「具足」は、「成就の義、無闕少の義」であるという。すべて欠けることなく、すでに完成していることが具足である。
ここの成就は、これから成就するというのではなく、すでに成就しているの意である。
0260鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
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2021/12/18(土) 00:47:17.06ID:mUyn0Bsr
法然と言うは、諸法の自然に是の如くなることを顕す。具足とは成就の義、無闕少の義なり。

以下、空海はあらためて「法然具足薩般若」の句の意味について解説する。
「法然」について、「自然に是の如くなること」を表しているという。
誰も作業を施さなくても、もとよりそのようであることが、法然である。
「具足」は、「成就の義、無闕少の義」であるという。すべて欠けることなく、すでに完成していることが具足である。
ここの成就は、これから成就するというのではなく、すでに成就しているの意である。
0263神も仏も名無しさん
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2021/12/29(水) 20:02:05.34ID:w8h/407P
◆◆◆1/20縁命乞い人形(人類60億救済プロジェクト)◆◆◆

人類60億の救済を祈る「1/20縁人形」が、今年も行われることになりました。
これは神様が、昨年1年を通して60億人の人形潔斎を達成した私たちの功を愛で、「今年も行うべし」との
許可を下さったものです。

◆ 伊勢の失敗を繰り返さない
昨年の伊勢岩戸開き大神事は参加者の誠が極まらず、雅子様のご流産という形で神様から警告があったこと
は、皆さんも記憶に新しいことと存じます。また1/20縁人形も、神事当日になっても目標の60億まで数
億人分足りなかったのです。
こうした状態の中、深見先生は神事に先立ってこうおっしゃいました。
「皆が情熱をもってやらなかったら、やらなかった分だけ、災害が弭化できない。1/20縁人形を書ききれ
なかった人数の分だけ、救済の手が届かない…。
神事とかご神業というのは、そんなに甘いものではありません。……1/20縁人形をやろうよと口でいかに
言っても、実践が遅れたらこうした災いが起こるんだという神様のきつい戒めです」
この衝撃的なお話しを受け、神事会場の参加者は必死になって人形を書き続けたのです。そしてその結果、補
足神事(昼版)になってようやく目標を達成することができたのです。
「今年は同じ失敗を繰り返さないよう、普段から日本と世界の人々の幸せを祈り続け、人形を書き続けて下さ
い。皆さんの誠が極まった分だけしか、世界の人々は救われないのですから」
と深見先生はおっしゃっています。私たちはこのお言葉を真摯に受け止め、鹿島海原びらき大神事に向けて祈
りを極め、1/20縁人形をかいていかなければなりません。
0264さぁばんと Servant ◆8c/Sw4f94s
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2021/12/29(水) 23:36:57.31ID:qQI9iMhR
 戯 論 。
0265さぁばんと Servant ◆8c/Sw4f94s
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2021/12/30(木) 00:02:41.03ID:iMOXlfQd
仏法とは、経典を読むことではない。
0266古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2022/01/10(月) 04:35:10.02ID:5SzEffXj
『倶舎論(くしゃろん)』に不純な布施の七つが挙げられている。

一、随至施(ずいしせ)―あまりにしつこく乞われるので断りきれずにする布施。
二、怖畏施(ふいせ)―それをしないと具合が悪くなりそうなので、しかたなくする布施
三、報恩施(ほうおんせ)―恩返しのためにする布施
四、求報施(ぐほうせ)―返礼を期待してする布施
五、習先施(しゅうせんせ)―習慣であり、先例にもとづいてする布施
六、希天施(けてんせ)―その功徳によって天界に生まれたいと希望してする布施
七、要名施(ようみょうせ)―名声を高めるためにする布施
0267古本屋 ◆JW9aY6YQtyhR
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2022/01/10(月) 04:39:19.92ID:5SzEffXj
《「利益 (りやく) 衆生」の意》仏語。仏・菩薩 (ぼさつ) が衆生に利益を与えること。また、その利益。
0269鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/01/13(木) 15:55:13.28ID:xQCer2Rf
1 自他忘失体験  
2 真如顕現体験  
3 自我解消体験  
4 基層転換体験  
5 叡智獲得体験
0271鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
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2022/01/15(土) 01:26:41.83ID:q37iSbGE
ウィトゲンシュタインのパラドックス

>それゆえ、〈規則に従う〉ということは一つの実践である。
>そして、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。
>だから、ひとは規則に〈私的に〉従うことができない。
>さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じととになってしまう だろうから。
0274鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
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2022/01/16(日) 13:46:39.01ID:2s2UVG4u
科学と宗教の違い

反証可能性が無い言明や言説の典型例として、「神」・「魂」・「信仰」や宗教的発言等がある。
例えば1991年湾岸戦争で、イスラエル政府は国民に防毒マスクを無償で支給することにした。
しかし一部のユダヤ教徒はマスクを拒否し、その理由を次のように述べた。

「われわれは科学ではなく神を信じている。防毒マスクを着用しなくても,神がわれわれを救うつもりなら,われわれは助かるし,神に救うつもりがなければ,防毒マスクを着用したところでわれわれは助からないであろう。」

「この発言はそもそも反証可能ではない」とされている。
何故ならこのような「絶対的」発言は、批判やテストを受けても「絶対」に揺るぎない前提を置いているからである。
科学を超越した前提に従えば、どんな選択肢を選んでも、科学を超えたもの(神)が引き合いに出され結論付けられてしまい、結果として「批判的テスト」が行われない。

この点が、科学と宗教の決定的違いとして挙げられている。
科学は、自らに対する反証可能性を認めている。
つまり科学は「相対的言明」であり、自らが批判的テストを受けて、反証され得ることを認めている。
一方で、宗教は試されることを拒否する。
すなわち宗教は、いかなる事態が生じようとも、全てを「絶対的言明」 ―― 神や聖なる存在の意志・行為など ―― によって説明する。
「絶対的言明」は、自らが相対化される可能性を ―― つまり、批判的テストを受けて反証される可能性を ―― 認めようとしない。

科学的・反証主義的な考え方は、反証可能性を前提としており、そこには
 「宗教=信仰不可欠」
 「科学=信仰不可欠ではない」
という図式がある。
反証主義者の代表例であるポパーによると、世界に科学への信仰が存在しているとしても、科学にとって信仰は不要である。
0275鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/01/16(日) 14:04:03.86ID:Ho339cos
探求のパラドックス
探求の対象が何であるかを知っていなければ探求はできない(さもなくばそれは顔も名前も知らない人を探すようなものである)。しかし、それを知っているならば既に答えは出ているので探求の必要はない。プラトンがメノンにて指摘した。
0276鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
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2022/01/20(木) 13:28:01.15ID:OJNhz3wG
もし自我が身心の諸要素と同一であるならば、それは生滅するものとなろう。
身心の諸要素と別ならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。

自我がないときに、どうして自己の所有があるであろうか。
自我と自己の所有の消滅によって、ひとは自我意識もなく、所有意識もない者となる。

自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。
自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実を)見ない。

内と外とに、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。
0277鹿野園 ◆.bOjS/xXHtJZ
垢版 |
2022/01/21(金) 00:30:32.95ID:HkbUrIcv
『般若心経』にも見られるように、「五蘊は自性を欠いている」(つまり空である)というのが空の表現の基本である。
『廻諍論』の中で竜樹は「すべてのものは空である、自性がないから」と明言する。
しかし、逆に「自性がない故に空である」というようには決していわない。
「自性がない」というときの「自性」とは何かという問題は、後の仏教史を決定づけるほど重要なものであった。
0278鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/01/21(金) 15:29:12.11ID:D5huhXQ2
変化前

正 縁起せる故に空
誤 空なる故に縁起してる

 理由:縁起
 帰結:空

正 縁起せるが故に無自性
誤 無自性なるが故に縁起してる

 理由:縁起
 帰結:無自性

正 無自性の故に空である
誤 空なる故に無自性である

 理由:無自性
 帰結:空

 理由:縁起 帰結:空
 無自性は縁起に対して帰結で空に対して理由
0281鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/01/22(土) 03:13:56.98ID:RrnCW/2Y
『廻諍論』は出版されてるから、それが読解出来れば分かるかも知れないけどね。

理由と帰結が逆転してるって事がどういう事なのか、それが要なんですけど。
0282鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2022/01/26(水) 08:42:22.86ID:WFsQzUnw
いわゆる悟り体験と異常心理の違いは、智慧の発現の有無に判定されるらしい。
0283鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2022/02/06(日) 15:42:55.00ID:iTCYzmmw
「悟り」や「成仏」がないって事ではないと思うんですが、それが「悟った」とか「成仏した」って概念化・対象化されるのは実在論他ならないから、そうした体験があっても「これは悟りに非ず」「これは成仏に非ず」という無限後退な否定をする他にないのでは。

つまり、ない訳ではないのでしょうが、無限後退という否定の限りに於いて、≒悟りはない、≒成仏しない、ってなるのだと思うんですけどね。
0284神も仏も名無しさん
垢版 |
2022/02/10(木) 23:32:12.73ID:A2nReTgE
それについては、紀元二世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスが、「不合理なるがゆえに我信ず」という言葉を残している。「合理」であるならばそれは理知の及ぶ世界、信じる必要はない。合理の世界から跳躍する、「信」とはそういう言葉なのである。
0285神も仏も名無しさん
垢版 |
2022/02/13(日) 06:48:21.93ID:Yesqip8F
なんてこったい。

東京のど真ん中に 化け物 住んでやがる。
0287神も仏も名無しさん
垢版 |
2022/02/24(木) 10:04:40.61ID:6YhjLhrb
真理などない!と云った途端にそれが真理化される。
空っていうのも同じ。

これが真理であると云った途端にそれを括弧書きし否定する他者が現れる。
0288神も仏も名無しさん
垢版 |
2022/02/24(木) 11:40:59.26ID:6YhjLhrb
シチズンシップの純化が却ってそれを分からなくするのか。
0291鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2022/04/30(土) 15:07:29.89ID:qIpn3xiO
地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。
サン=テグジュペリ
0292鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2022/05/07(土) 10:40:36.77ID:oqM84JW5
非概念的な生の事実と非概念的という概念の互換性の成立が言語。
0293鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/05/11(水) 10:52:59.16ID:giWpzdNE
またロンが偏見に堕ちているしwww

 ↓

>空は、独立・固定の実体観を破したものであった。
>したがって空が立てられたからといって、その空を固定視すると、空の真実義に反することになる。
>そこで『般若経』に空もまた空(空空、空亦復空)と説かれてくる。
>これをいいかえれば、空なる真理は、現実の事物(色)を否定し、捨象していってつかまれるのではなく、それに即して存するということである。
>『般若経』に、「色を空ずるを以ての故に色空ならず。色即ち是れ空、空即ち是れ色」(「幻学品」第十一)
>「空の中には滅あることなく、また滅せしむるものなし。諸法畢竟空、即ち是れ涅槃」(「実際品」第八十)
>などと説くところである。
>『般若経』と同一系統の『維摩経』にも、
>「色即ち是れ空。色滅して空なるにあらず。色性自ら空」(「入不二法門品」第九)
>と同様のことが説かれている。
>これを『法華経』にのっとって積極的に表現すれば、無限・絶対の普遍的真理ないし統一的真理は、有限・相対の多様な現実相に即して見られるものであり、それと離れて存するものではないということである。
0294鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
垢版 |
2022/05/11(水) 10:53:45.26ID:giWpzdNE
>一般によく、無限・絶対の真理は普遍的なものとして、有限・相対の現実相(現象)のはるかかなたに超越して存するとか、本質として内在する場合も、現象の奥深くにひそんで存するということがいわれる。
>たとえば霊魂不滅説における霊魂、インドのウパニシャッド哲学におけるブラフマン(brahman 梵)ないしアートマン(ātman 我)、あるいは西洋のプラトンにおけるイデア(idea)、キリスト教における神などは、本来そのようにして立てられたものである。
>したがって、普遍的真理が本質として現象の中に内在している場合、現象の皮をむいていって、あるいは現象の衣を捨てていって(捨象、抽象)、それをとりだすことができると主張されてくる。つまり、普遍的真理は抽象的なものということである。
>しかし、ヨーロッパ近世になって現実が重視されるにいたると、普遍的真理は抽象的なものという考えに批判が加えられるようになった。
>そうして、普遍的真理は具体的現実(現象)と相即するものであると説かれた。
>普遍的なるものは具体的なるものということ、すなわち抽象的普遍にたいする具体的普遍の強調である。
>普遍的真理の具体性ということは、ヘーゲルがいいはじめたので、かれの『法哲学綱要』の序文に、「理性的なるものは現実的、現実的なるものは理性的」と説かれている。レーニンになると、「真理は常に具体的であって、抽象的真理は存しない」と明言されてくる。
>それまでは、具体的なるものは特殊的なるものとして、普遍的真理から排除されたのであるが、具体的現実の重視にともなって、普遍と具体の対立観念が止揚・統一されるにいたったのである。
0296鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2022/05/17(火) 07:13:18.52ID:niWYoZl5
悟りとか涅槃は、法としてどうカテゴライズされてるのでしょうかね。
「倶舎論」では、現代科学でいうところの物質・精神・エネルギーの何れにも属さない法として、無為法と呼ばれるのですが、「択滅」「虚空」「非択滅」をあげており、それは

「絶対に、いかなる作用もしないことが確定している存在」である。(同著)

だそうです。
0297鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/05/17(火) 07:13:57.50ID:niWYoZl5
で、

択滅は物質でも精神でもエネルギーでもなく、いかなる作用にも関わらない不活性な存在なので、別枠として扱われる。ほかにも別枠の法は二つあって、一つは「空間」、もう一つは、ややこしい定義だが、「未来に存在している法を、決して現在へ移行することができないようにする特別な存在」である。これをそれぞれ、「虚空」「非択滅」という。
(同著より)

だそうです。
0298鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/05/21(土) 14:29:06.28ID:BpDEdKGr
自性霊妙(じしょうれいみょう)、常住の法に於いて、断滅(だんめつ)の見を生ぜざるを名づけて不殺生(ふせっしょう)戒となす。

自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗(ふちゅうとう)戒となす。

自性霊妙、無着(むじゃく)の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲(ふいんよく)戒となす。

自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語(ふもうご)戒となす。

自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒(ふおんじゅ)戒となす。

自性霊妙、無過患(むかかん)の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒となす。

自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他(ふじさんきた)戒となす。

自性霊妙、真如遍法界(しんにょへんほっかい)に於いて、一相の慳執(けんしつ)を生ぜざるを名づけて不慳貪(ふけんどん)戒となす。

自性霊妙、無我の法中(ほっちゅう)に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝(ふしんしんふじゅざんしゃ)戒となす。

自性霊妙、一切法中に於いて、生仏(しょうぶつ。衆生と仏)の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝(ふぼうさんぼう)戒となす。
0299神も仏も名無しさん
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2022/05/24(火) 01:20:24.17ID:D0YtDfj2
ど〜ん
0300鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/05/25(水) 06:22:01.54ID:EC4jcCk/
確かに語りえないことは存在する。それは自らを顕示するのであり、それが神秘である。
ひとが語りえないことについては、ひとは沈黙しなければならない。
0301鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/05/28(土) 10:00:23.59ID:kQYnnaNX
問う、是の如き一法界・一道真如の理をば、究竟の仏とや為ん。  竜猛菩薩の説かく、 「一法界心は百非に非ず、千是に背けり。中に非ず、中に非ざれば天に背けり。天に背きぬれば、演水の談、足断って止まり、審慮の量、手亡じて住す。是の如きの一心は、無明の辺域にして、明の分位に非ず」と。
0302鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/05/28(土) 10:01:09.86ID:kQYnnaNX
問う、このような一法界の道理、一道真如の真理は、究竟の仏というべきでしょうか。  答う、『釈摩訶衍論』で竜猛菩薩は次のように説いています、「この一法界の心は、あらゆる否定によっても表現できないし、あらゆる肯定によっても表現できません。では肯定と否定の中間にあるのかといえばそうでもないのです。中にも非ずとすれば第一義の天にも背いています。そして第一義の天に背いているとすれば、流水のような広長な談話をもってしてもとてもこれを言いあらわせませんし、深い思慮をもってよくよく考えたところで、これについて考え及ぶこともできないほどのものなのです。しかし、このような一心でさえも、いまだ無明の辺域であって、真実のさとりの分位ではありません」と。
0303鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/01(水) 05:20:01.57ID:I+I2TsOZ
真理を巡って・・・

 1.対応説(知性と事物の一致)
 2.名証説(名証的、自明的)
 3.一致説(意見の一致)
0304鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/01(水) 05:52:29.89ID:I+I2TsOZ
キチガイがスレを乱立するから、仏教思想・哲学のスレが落ちてやんの。
迷惑だよなぁ😦
0305鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/02(木) 23:09:38.98ID:WbrRwZh4
パリナーマ・ヴァーダ(転変・開展説)
因中有果論
ヴェーダ・ウパニシャッド、サーンキヤ学派・ヨーガ学派

アーランバ・ヴァーダ(積集・集合説)
因中無果論
ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派、ミーマーンサー学派もこジャイナ教の原子説、仏教の五蘊説


ヴィヴァルタ・ヴァーダ(化現・仮現説)
結果の実在性を否定した因中有果論

ヴェーダーンタ学派、大乗仏教の唯識説
0306鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/04(土) 08:51:44.77ID:LnBuacn6
横から済みませんが、ちょっと……😅


> 上の坐禅和讃にも「因果一如」という言葉がありますが、それが、因果はあっても、空である、実体が無い、ということなんでしょう。。

 違います。
 説明は煩雑なので中論(龍樹)を読んで下さい。


> 仏教は、因果は認めるので、自業自得とか、悪因悪果なんて見方もあります。

 これもよく誤解されてるのですが、仏教は「悪因苦果」を説きます。
 何故なら、「悪因悪果」なら悪果が悪因となり無限ループになり、解脱が不可能になるからです。


> 現代の自己責任論に通じるものです。

 www www www

> だけど、そういう自分の中の因も、縁起によって生じたもの、因縁生なので、実体が無い、ということでしょう。。

 初期仏教は因中無果論(五蘊説)で、大乗では結果の実在性を否定した因中有果論です。
 
> 因は、何かの果です。またその果が即因となって、次の結果に連鎖する、これが因果一如で、 空ということと同じだと思います。

 違います。
 仏教は、無因有果や有因無果も説きます。
 何故ならそうでないと解脱の説明がつかないからなのですが、煩雑なので世親の著作をご覧下さい。


> だけど、だからと言って、因果が無いとまでは考えません。。

 これも、龍樹の二諦説を学んで下さい。

> 宿命論、運命論みたいに、主体性や自由意志の否定ではないからです。

 でしょうね。

> それは、外道の考えで、仏教では、実体が無いけど、ある、あるけど実体が無い、と考えます。
> これを中道と言います。

 それ、中道の意味ではありません。
 空・仮・中の三諦説を学ばれて下さい。

> 因果を無化して、何にも無い、空しかないと考えるのが、断見です。

 www www www
 空しかない?

> また、因果や自他を実体視するのは、常見です。

 www www www

> これらの両極端ではない、中道が正しい見方だ、ということだと思います。

 真ん中って事ではありませんからね🤭
0307鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
垢版 |
2022/06/06(月) 13:20:15.43ID:1uHynH45
24−8
 a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。
 b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。
 c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。
24−9
 a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。
 b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。
 c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。
24−10
 a.言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。
 b.世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
 c.言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。
0308鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/06(月) 13:37:55.15ID:1uHynH45
a.仏教の思想 3  空の論理<中観>  角川文庫ソフィア 文庫
b.龍樹 中村元 講談社学術文庫
c.龍樹『根本中頌』を読む  桂 紹隆 、五島 清隆 春秋社
0309鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/06(月) 21:02:11.76ID:1uHynH45
死者と霊性の哲学 ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧 (朝日新書) Kindle版

末木 文美士  (著) 
0311鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/10(金) 21:21:17.08ID:ofCusdHg
絶対者ブラフマンはいかなる限定も持たない、常住・不変・無差別・不可分の最高の唯一の実在者である。われわれの個我もその本体においては、この絶対者ブラフマンとまったく同一のものである。同一であるのにもかかわらず、われわれの経験する現実の世界において個別的な多数の個我が現出しているのは、無明(アヴィディヤー 無知)の力のはたらきによる。無明がはたらいて、われわれを迷わせて「自分という中心主体が存在する」と妄想させている。
0312鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/11(土) 12:27:50.06ID:8390Tdki
道元の〈哲学〉: 脱落即現成の世界
竹村 牧男  | 2022/6/15


空海の究極へ──『秘密曼荼羅十住心論』を読む 
2022/04/27 竹村 牧男
0313鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/11(土) 15:29:29.96ID:L0hgPEi1
「ゾーエ」(zoe、剥き出しの生、生物的な生)と「ビオス」(bios、社会的な生、政治的な生、生活形式における諸活動)、そして、ビオス・ポリティコス(偉大な行動と高貴な言葉を生きること)
0314鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/15(水) 22:22:26.83ID:tRkoJ+Gv
科学的知識によっては確証できない神の存在についてエポケー(判断中止)の態度をとることを「無神論」と呼ぶのであれば、それは決して「迷信」ではない。
しかし、そこからただちに「神は存在しない」という結論をひき出し、この結論を自らが人間として下すすべての判断の最高基準にまで高めるのであれば、そのような無神論はもはや「科学的」(scientific)理論ではなく、むしろ「科学主義的信仰」(scientistic belief)と呼ぶべきであり、一種の迷信と見なしてよいのではないか。
0315鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/19(日) 20:45:03.88ID:iHB0tIJP
存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもをも研究する、一つの学がある。この学はいわゆる部分的〔特殊的〕諸学のうちのいずれの一つとも同じものではない。というのは、他の諸学のいずれの一つも、存在を存在として一般的に考察はしないで、ただそれのある部分を抽出し、これについてこれに付帯する属性を研究しているだけだからである、たとえば数学的諸学がそうである。……それゆえに我々もまた、存在としての存在の第一の原因をとらえねばならない。(アリストテレス、前掲訳書、一一二頁)
0316鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/21(火) 12:00:57.63ID:HqMsrUpC
ところで、存在について一般的に考察した論文に『形而上学』という名称が付けられているのは、アリストテレスの著作を編集したロドスのアンドロニコス(前七〇頃)が「メタ・タ・フュジカ」つまり「自然学のつぎに来るもの」とそれを命名したことによる。自然学が存在の特殊な側面を捉え、その原因や法則を研究するのに対し、形而上学は自然現象として「形」をとって現われているものよりもいっそう「上」位の原因や根拠を考察する。したがって、形ある現象がいっそう深い内的な根拠から生じている点を解明し、「第一原因」や「万物の始原」に「根拠の根拠」までも探求しようとする。

(同上)
0317鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/21(火) 12:32:04.61ID:HqMsrUpC
数学の哲学(すうがくのてつがく、英: philosophy of mathematics)は、哲学(科学哲学)の一分野で、数学を条件付けている哲学的前提や哲学的基礎、そして数学の哲学的意味を研究するものである。

数理哲学(すうりてつがく、英: mathematical philosophy)という用語が、しばしば「数学の哲学」と同義語として使われる[1]。しかしながら、「数理哲学」は、別の意味を少なくとも二つ持っている。一つは、例えばスコラ学の神学者の仕事やライプニッツやスピノザの体系が目標にしていたような、美学、倫理学、論理学、形而上学、神学といった哲学的主題を、その主張するところでは、より正確かつ厳密な形へと形式化するプロジェクトを意味する。さらに、個々の数学の実践者や、考えかたの似た現場の数学者の共同体が日頃抱いているものの考え方(=哲学)を意味する。
0318鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/21(火) 22:01:28.65ID:aZjL2Tn2
「倦怠。人間にとって、完全な休息のうちにあり、情念もなく、仕事もなく、気ばらしもなく、集中することもなしでいるほど堪えがたいことはない。すると自己の虚無、孤独、不足、従属、無力、空虚が感じられてくる。たちまちにして、彼の魂の奥底から、倦怠、暗黒、悲哀、傷心、憤懣、絶望がわき出るだろう」

(パスカル パンセ より)
0320鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/22(水) 11:10:53.61ID:WhZlnqPj
(声字実相義)
五大にみな響あり、十界に言語を具す、
六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。

(現代語訳)
地水火風空の五大に皆それぞれ響きがあります。また、下は地獄から上は仏界までのあらゆる世界にそれぞれ言語があって意志を伝え合い表現し合っています。そして眼耳鼻舌身意という六根が対象とするいわゆる色声香味触法の六境(六塵)も広く理解すればすべて文字(メッセージ)だといえます。そう考えますとこうした声字の当体としての法身が実在するということになります。
0321鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/22(水) 22:10:44.60ID:B8XYPMSp
『宗教論』では「宗教の本質は知識でも行為でもなく、直観と感情である」(Über die Religion, Phil. Bibl. S.255)と簡潔に語られている。
したがって、宗教は知識や哲学でもなく、行為や道徳でもない。
とくに啓蒙主義者が蔑視するような幼稚な哲学でも、カントが説いたように道徳の付録でもない。
哲学は実在しているものを考察して対象化し、「自分自身の中から世界の実在性と世界の法則とを紡いで」(ibid., 24)、観念的世界を造りだしている。それに対し宗教は人間が能動的に産出するものを超えたもの、「人間がそれに対し根源的に受動的なものとみずから感じるもの」によって「子どものような受動性で捉えられ、満たされようとする」。
これが宇宙として捉えられた実在に根拠を置く「高次の実在主義」である(ibid., 29, 31)。
この実在をとらえる働きがシュライアマッハーにより「直観」(Anschauen)とか「感情」(Gefühl)といわれるものである。
この直観は受動的なものであるから、高次の実在の側からの作用によって生じる。
「あらゆる直観は、直観されるもの〔対象〕の直観するもの〔主観〕への影響から、すなわち直観されるものの本源的にして独立せる行為からでてくる。こうして直観するものは、直観されるものの行為を直観されるものの性質に従って受け取り、総括しかつ会得する」(ibid., 31)。
また直観は主体における有意義な体験となって生じるので「感情」とも呼ばれている。
さらにこの直観の対象はロマン主義の概念によって「宇宙」また、「一者」「全体」「無限者」「永遠の世界」「天上のもの」「世界精神」とも呼ばれる。それは万有に働きかける創造的主体としての神性を意味し、有限なる存在が自己の有限性の自覚によってこの無限者なる神性と合一するところに、宗教は成立する。ここに神秘的合一を目指すドイツ神秘主義のモチーフが見出される。
(ヨーロッパ思想史 ─理性と信仰のダイナミズム 金子 晴勇 著 より)
0322鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/22(水) 22:46:41.73ID:B8XYPMSp
そこで二元論的な匂いからできるだけ離れたいということから、ものごとの「立ち現われ」、という奇妙で未熟な言葉を使わざるをえなくなった。世界のものごとが、意識とか心とかに「映ずる」のではなく、単にそこにじかに立ち現われる、このことを表現するためである。いわば、世界の「像」と思われがちな知覚風景を、世界そのものの「立ち現われ」として世界の側に返還するためである。 この返還は単に知覚風景の返還にとどまることはできない。一切の「心の中」のできごとと思われがちなものすべての全面的返還であり、元利、頭をそろえての全額返済なのである。すなわち、記憶、感情、意図、空想、等々これら一切の「心的なもの」の返済なのである。当然、言葉の「意味」といわれるものもこの返済に含まれなければならない。
「心」の底をはたいて、内なる「心」は文なしになる。だが、それは同時に私の「心」がいわば世界の側に乗りうつることでもある。認識論的には私と世界、主観と客観、との間に切れ目はなくなり、ただ生存と行為において私は世界の他のものと鋭く区切られ、時として敵対することにもなる。 それが一切合切の返済であることからして、「誤り」とか「想像」とか、世界に「実在」しないと言われるものまで世界の側に返されることになる。当然そこで、「現実」だとか「実在」だとか、より広く言えば「真理」ということが見直しをうけざるをえなくなる。簡単にいえば、「実在」と「空事」とは真偽無記の立ち現われ群の中の組織的分類(ただし、命を賭けての)である(*)、ということになる。幽霊のような幻も世界の中(例えば墓地に)の立ち現われであって「心の中」にではないように、噓や空想もまた世界の中の立ち現われの一種なのである。

(物と心 (ちくま学芸文庫) Kindle版 大森荘蔵  (著) より)
0323鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/23(木) 00:01:21.75ID:lbaOu6I5
こんなシーンがあった。突然、空の一隅にカッターで切ったような亀裂が走り、そこから青空がペロリと剥がれて、宇宙人がのっそりと入ってくる。
彼らは四次元の世界の住人だから、三次元には縛られない。彼らにかかれば立体も平面のようなものでしかないのである。
そう言えば、やはり子供の頃に読んだ科学読み物のなかにこういう話があった。
一次元の世界、つまり、一本の線だけからなる世界に住んでいる人は、前と後ろには進むことができても、横に進むとか上や下に進むということができない。いや、できないというよりも考えられない。だからその一本の線の道の行く手に岩があれば、そこから先へは進めなくなってしまう。
それを見ている僕たち三次元の世界の住人からすれば、ああ、なんて馬鹿なんだろう、ちょっと横に回ればいいのにと思うが、一次元の彼にはそんなことは想像することさえできないというのだ。
二次元となると、岩があっても楽によけて通ることができる。だが、たとえそれが石ころほどの大きさでも、やはりよけて通るしかない。ひょいと一跨ぎするということができない。考えも及ばない。
とすれば、同じように、僕たちもまた、四次元人たちから嘲笑われてはいないだろうか。彼らのひょいと一跨ぎが、僕らには永遠の壁なのだ。
0324鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/25(土) 07:07:10.16ID:xCRXzFuF
二に阿字の義とは、訶字の中にすでに阿の字が含まれていますように、阿字はすべての文字の母ともいえますし、すべての声の本体だともいえますし、つまりすべての存在の源といえるのです。『大日経疏』巻七にも「最初に口を開いて音を出せば、まず阿の声が出ます。もし阿の声が無ければその他のすべてのことばは存在しなくなります。この故に阿は、すべての声の母となるのです」といっています。この故に、阿字を離れて一切の言説は無く、一切の諸法も空無であることが知れます。これが阿字の字相であります。
0325鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/25(土) 07:10:24.76ID:xCRXzFuF
阿字を観想することによって一切のものが本来的に生じたものではなく、縁によって生じていることを知るのです。
およそこの世のことばというものは名称からはじまります。しかもその名称は字によって示されます。
したがって梵字の書体の阿字も他の字の母とするのです。
他の字はすべて阿字が変化したものだからです。
阿字を観想して真実を知る時も同じです。
阿字はすべての教えの中に行きわたっているのです。
つまり一切の教えは例外なく多くの縁によって生じ、縁から生ずるものはすべて、縁となっているそれぞれの始めがありそれが本になっているのです。
いまその本となっている縁を考えますと、これもまたまた多くの縁によって生じています。
これをどこまでもさかのぼって考えても何が本になっているかわかりません。
こう考えていきますと、すべてのものは本来的に存在するのではないことが知れますし、これがすべてのものの真実のすがたなのです。
なおすべてのことばを聞くときにひとりでに阿の字を聞いていると同様に、すべてのものが生じていくのを見る時に、やはり阿字の存在をひとりでに見ていることになり、これを阿字本不生というのです。
このように阿字本不生の実体を見るものは、真実の自分の心を知ることになりますし、自心の真実の内容を知ることができれば、この心こそ仏陀大日如来の一切智智と同一だといえるのです
0326鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/25(土) 10:27:54.84ID:xCRXzFuF
一六、学生モーガラージャの質問

一一一六
モーガラージャさんがたずねた、 「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙*(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。

一一一七
この世の人々*も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません*。

一一一八
このように絶妙な見者におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

一一一九
(ブッダが答えた)、 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない*。」
0327鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/25(土) 10:28:33.75ID:xCRXzFuF
以上のように、そこに生じないものについては「それは空である」と見る。
しかし、そこに残っているものについては「これは存在する」と知る。
アーナンダよ。このようにして……如実、不顚倒、清浄なる空性が現れる。
0328鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/28(火) 13:45:39.49ID:dCO232YO
「西田のいう『純粋経験』、主客未分、主客合一、主観相没した意識の状態は、この『空』に似ているが『空』と同じではない。竜樹においては実在が否定される。世界を一旦『空』に帰した者にとって、世界とはあくまで『仮説』のものとして観想される。西田の考えは、これとはちがう。西田は『純粋経験』こそ『真の実在』とする」「この考えは、実証主義を経過した実在論の範疇にある」(鈴木 前掲論文)
0329鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/28(火) 14:42:58.39ID:dCO232YO
たとえば、「私は(~を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(~を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。
すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。
第一、その私って、いったい何なのだろう?
0330鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/28(火) 14:44:30.58ID:dCO232YO
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。
ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
では見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰? ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。
逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(~を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。 
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=アートマン)があるとしたら、そういうものは自分のどこにあるのだろう。
そんなものは、自分のどこにも、きっとないにちがいない。
ウィトゲンシュタインも言っている、私は歯が痛いというのは、ナンセンスだ。歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。
そんなものはあるとは思えない、言えない、と(拙著『インド仏教の歴史──「覚り」と「空」』講談社学術文庫、二〇〇四年、二〇六頁参照)。これは龍樹の言っていることと同じことである。
というわけで、結局、「私は(~を)見る」という文章は成り立たないのである。
0331鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/28(火) 15:12:29.34ID:dCO232YO
唯識によれば、認識というのは識が転変して、分別するもの(見分)と分別されるもの(相分)とに分かれることによって成立するものでした。これは、外界の客体を主観が認識するという主客二元ではないにしても、心に浮んだ影像相分を見分が認めるという二元の構図であることには違いありません。そういう影像相分には、本質相分と違って実体性は認められていないわけですが、真如というものがそういう構図で理解されるのであれば、それは真如でもなんでもないものです。現前に立てられた少物とは、そういう影像としての真如のことで、加行位は、そうした誤りを正していく階位です。
0332鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/28(火) 15:24:46.17ID:dCO232YO
ただ、識が転変して分別する側(見分)と分別される側(相分)に分かれることによって認識が成り立っていることが、まだ完全に納得できていない状況です。そのため、心に浮んだ真如(という相分に過ぎないもの)を真如そのもの、つまり、それこそ唯識実性だと勘違いするのです。そもそも真如は、見分・相分とか、主観・客観というような二元対立の構図で把捉できるものでありませんから、この階位では、まだ唯識実性の何たるかが理解されません。
0333鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/29(水) 06:52:05.45ID:643r8vOM
純粋否定(ない)と相対否定(それ以外はある)、二重否定


存在
(a,-b) → (a,- -a) → (a,a) → (a)
非存在
(b,-a) → (-a,-a)→ (-a,-a)→ (-a)
存在かつ非存在
(a,b) → (a,-a)→ (a,-a)→ (a,-a)
存在でも非存在でもない
(-a,-b) → (-a,- -a)→ (-a,a)→ (a,-a)
0334鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/06/29(水) 07:00:20.51ID:643r8vOM
純粋否定(ない(~))と相対否定(それ以外はある(ー))、二重否定


存在
(a,ーb) → (a,ーーa) → (a,a) → (a)
(a,ー~a)
非存在
(b,-a) → (-a,-a)→ (-a,-a)→ (-a)
(ーa,~a)
存在かつ非存在
(a,b) → (a,-a)→ (a,-a)→ (a,-a)
(a,~a)
存在でも非存在でもない
(-a,-b) → (-a,- -a)→ (-a,a)→ (a,-a)
(ーa,ー~a)
0335鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/06/29(水) 20:31:57.48ID:643r8vOM
a存在
b非存在
純粋否定(ない(~))
相対否定(それ以外はある(ー))
二重否定(下の段)


存在
(a,ーb) → (a,ーーa) → (a,a) → (a)
(a,ー~a)
非存在
(b,-a) → (-a,-a)→ (-a,-a)→ (-a)
(ーa,~a)
存在かつ非存在
(a,b) → (a,-a)→ (a,-a)→ (a,-a)
(a,~a)
存在でも非存在でもない
(-a,-b) → (-a,- -a)→ (-a,a)→ (a,-a)
(ーa,ー~a)
0337鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/03(日) 13:22:50.05ID:p7Sf7hvF
現実や現象をありのままに見ることができない凡夫のあやまった観念を打破するため、現象を成り立たしめている真理の領域にひとたび考え方を還元する必要が生じる。
そのために設定されたのが第二理法界の世界である。
理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。
この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。
すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。
理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。

仏教の思想 6 無限の世界観<華厳> (角川文庫ソフィア)より
0338鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/03(日) 15:20:20.44ID:38QHMhJu
日蓮について語るのは難しい。日本のインテリは一部の熱狂的な日蓮信者を除けば、多くは日蓮嫌いである。それは「我は日本の柱なり」などとぬけぬけという日蓮が国粋主義者の像と重なって何かいかがわしく見えるのである。いかがわしいと思わぬ人も、そういう大胆な自己肯定あるいは自己宣伝を恥ずかしいと思うのである。それは謙遜という日本社会の美徳と相反するものである。
0339鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/03(日) 20:09:37.01ID:38QHMhJu
さて「空亦復空(くうやくぶくう)」について考えてみましょうか。
特に断りがなければ中村先生の「龍樹」を準拠にしてる事を断っておきます。

先ず、その目的は「空見の排斥」ってズバリ仰ってますね。

そして、その空見とは「本来非有非無の意味であるはずの空を誤解して、それを有の意味に解するか、無の意味に解するか、いずれかであり(以下略)」と二種類の空見を指摘しております。
更には「空という原理を想定する空見」がその根本にあるとし、最後に「要するに空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の場に引き落として考えることである」とまとめておられます。
0340鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/03(日) 20:17:28.21ID:38QHMhJu
縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。
その空は相対的な仮説である。
これが実に中道である。
(龍樹 「中論」)

空であると説くべきではない。
空ではないとも同様である。
その両者であるとも、その両者でもないとも説くべきではない。
それは仮の名称のために説かれる。
(龍樹 「中論」)

依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。
その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。
依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。
(龍樹 「中論」)
0341鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/04(月) 08:54:47.23ID:U8cz6mec
>道元における個、宗教的実存の構造は、脱落即現成として、脱落底において一であり、その現成底において他の一切のかかわりのうちにあると言い得よう。
>脱落即現成とは、華厳にいう理事無礙法界であり、この現成底が他の一切の現成底とのかかわりのうちにあるということは、事事無礙法界であろう。
>事とは物ではなく、言ってみれば行為である。仏道では、修証である。
>この多個の修証がたがいにに無碍に関係しあうのである。
>華厳の事事無礙法界を、これほどまで正に事に即して活き活きと描き出した人は、かっての道元の他にいないのではないかとおもわれる。
>我々の実存はあくまでも単独者ではなく、関係に結ばれた多個というところにその原点があり、そこからあらゆる修証は始まるのである。
>(道元の哲学 脱落即現成の世界 竹村牧男 より)
0343鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/07(木) 23:40:00.43ID:/TwbJttP
クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。
クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。
すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。
中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。
対立したものに調和をもたらそうという自身の思想の実現の為、東西教会、キリスト教とイスラム教やユダヤ教、公会議派と法王派など、つねにいろいろな立場に理解を示し行動を続けた。
また、ジョルダーノ・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、ゴットフリート・ライプニッツ、カール・ヤスパースなど、後生の顕学にも多大な影響を与えた。日本でも生誕600年を期に注目が高まって研究が進んでおり、関連書籍の出版などが続いている。
0344鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/07(木) 23:41:31.42ID:/TwbJttP
反対の一致
はんたいのいっち
coincidentia oppositorum

ニコラウス・クザーヌスの重要な概念。
『知ある無知』 De docta ignorantiaにおいて展開されている,神の属性に関する思想。
絶対者たる神は有限者のあらゆる対立・矛盾をこえ総合する絶対的,統一的存在である。
すなわち可能であるとともに存在であり posse-esse,最大であるとともに最小である maximum-minimum。
したがって神は「反対の一致」としてとらえられ,われわれが神に近づきうるのは識別的悟性認識ではなく,「知ある無知」「理解なき直観 visio sine comprehensione」によってである。
0347アラフェス
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2022/07/08(金) 21:28:52.17ID:lLjKEKKc
>>346
そうでもありませんよ。向上心に満ちた神々に対し、人類から出るのは不満と愚痴ばかりですから。
0348鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/08(金) 23:22:05.04ID:MTTuH2Ca
現実や現象をありのままに見ることができない凡夫のあやまった観念を打破するため、現象を成り立たしめている真理の領域にひとたび考え方を還元する必要が生じる。
そのために設定されたのが第二理法界の世界である。
理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。
この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。
すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。
理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。
0349アラフェス
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2022/07/08(金) 23:49:38.34ID:lLjKEKKc
中国の仏教は儒学に基づいているとでも言いたいんでしょうが、あれは焚書になったし、
残っているのは共産主義に基づいたなけなしの自由と各自治区の制限された行いくらいですかね。
0350鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/11(月) 08:21:14.24ID:PWzWSKti
アリストテレス(範疇(カテゴリー)論)
 「実体」「量」「質」「関係」「場所」「時間」「位置」「所有」「能動」「受動」

法華経(或いは鳩摩羅什の加筆)
 「相」「性」「体」「力」「作」「因」「縁」「果」「報」「本末究竟等相」
0351鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/11(月) 08:23:17.26ID:PWzWSKti
アリストテレス(範疇(カテゴリー)論)
 「実体」「量」「質」「関係」「場所」「時間」「位置」「所有」「能動」「受動」

→存在論、実体論

法華経(或いは鳩摩羅什の加筆)
 「相」「性」「体」「力」「作」「因」「縁」「果」「報」「本末究竟等相」

→関係論・相即論
0352鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/11(月) 22:46:09.24ID:PWzWSKti
そこから現象界の構築があるブラフマンは、はじまりももたず終わりももたず、言葉の本質であり、不滅の字音であり、意味=対象=事物として[この現象界に]変成する。 (『文章単語論』第一巻第一詩節 バルトリハリ より)


・・・空海さんのそれと似てるような。
0353鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/11(月) 22:48:43.66ID:PWzWSKti
あーやっぱり此処に来るわけだwww

 ↓

一者であるそれを、「構築」の違いによって、人は多種多様に区分する。
人は、文法学を習得してはじめて、その最高のブラフマンに到達する。
(同第一巻第二二詩節)

絶対無分節のブラフマンを、分節して理解する、つまり「構築」するためには、文法学の習得が必要だ、というわけである。
バルトリハリは、ブラフマンについて語っているのだろうか。それとも言葉について語っているのだろうか。
ブラフマンと言葉は、ここで一体化してしまっているようだ。
しかしこれこそがバルトリハリの言語哲学なのである。

イスラーム思想の研究で国際的な学者として広く知られ、『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)などの著作で有名であった井筒俊彦(一九一四─一九九三)は、死の直前まで、「東洋哲学全体の新しい構造化」をめざしていた。
その井筒が、シャンカラの哲学について語った言葉をここで思い出しておくことにしよう。

我々の経験的世界は、我々自身の意識の「付託」的働きによって、様々に分節されて現われるブラフマンの仮象的形姿にほかならない、ということになる。どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形でわれわれの表層意識に映るのだ。絶対一者が客観的に自己分節するわけではない。 (『意識と本質』)
0354鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/11(月) 22:54:31.87ID:PWzWSKti
(一)根源的一者から多様な事物が産出される[増殖説]
(二)根源的一者によって多様な事物が作り出される[創作説]
(三)根源的一者が変容して多様な事物(実在)が実際に現れてくる[開展(転変説)]
(四)根源的一者が変容して多様な事物(非実在)が幻影的に現れてくる[仮現説]
0355鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/12(火) 12:25:28.82ID:ODm9EXts
すなわち経験的世界におけるあらゆる事物事象の生起は「語・梵」(シャブダ・ブラフマン)の自己分節によるのであります。
しかも「語・梵」はその本性上、永遠不断に自己分節の過程にあるのでありまして、ここでもまた禅の場合と同じように、根源的非言語が絶えず自己を分節して具体的な個々の語となり、それらの語が個々の事物事象を現成させて、その結果、我々の経験界が現われてくるという考えであります。
(『意識と本質』「対話と非対話」)
0356鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/12(火) 12:46:35.67ID:ODm9EXts
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
0357鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/12(火) 12:47:31.01ID:ODm9EXts
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
0358鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/12(火) 14:25:20.11ID:pqNafSlB
つまり、人は仏性をそなえたときに「仏」となる。
あるいは、人には仏性が本来的にそなわっている、その仏性が輝き出たとき、人は仏となる。
あるいはまた、人には最初から仏性がそなわっている、だから人はそのまま仏である。
0359鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/12(火) 14:31:55.37ID:7vakStWd
 ここに見る問題は、実はわれわれがこれまでの講義で何度も見てきた、因中有果論と因中無果論の間の解決困難な難問にあたるものである。つまり、「人が仏になる」のは、原因である人にすでに結果としての仏性があるからだと考える立場と、「人が仏になる」にしても、それは原因である「人」に仏性があるからではなく、仏性が「人」に新しくそなわる瞬間があるからだという立場との、対立である。
0360鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/13(水) 13:47:20.56ID:kQ9kiWaR
>禿子がいふ無理会話、なんぢのみ無理会なり。
>仏祖はしかあらず。
>なんぢに理会せられざるとて、仏祖の理会路を参学せざるべからず。
>たとひ畢竟じて無理会なるべくは、なんぢがいまいふ理会もあたるべからず。
>しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。
>あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。
>在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理会の邪計なるのみなり。
>たれかなんぢにをしふる、天真の師範なしといへども、自然の外道児なり。
>(正法眼蔵 山水経 より)
0361鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/15(金) 16:41:26.91ID:WaC3qNr5
>「生起」とは、ものがそれ自身の本性を獲得することを言うものである。
>そして、獲得されるべきものが獲得されるのは、現に存在しているものによってである。
>しかし、それが現に存在しているのであれば、なぜそれが生じるのか。
>しかし、もしそれが現に存在していないのであれば、どのようにしてそれは生じるのか。 (『文章単語論』バルドルハリ)
0362鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/16(土) 14:28:14.22ID:iBUsvsiV
『法華初心成仏鈔』

問うていはく、仏の名号を持つやうに、法華経の名号をとりわけて持つべき証拠ありや、いかん。

答へていはく、経にいはく、「仏もろもろの羅刹女に告げたまはく、善哉、善哉、汝らただよく法華のみ名を受持する者を擁護せん、福量るべからず」と云々。
この文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給へるを、大覚世尊讃めてのたまはく、善哉善哉、汝ら南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくらほどとも計りがたくめでたき功徳なり、神妙なりと仰せられたる文なり。
これ、われら衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしといふ文なり。
およそ妙法蓮華経とは、われら衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連らの仏性と文殊・彌勒らの仏性と、三世の諸仏の解の妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。
故にひとたび妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天一切衆生の心中の仏性を、唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。

わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふところを仏とは云ふなり。
たとへば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。
空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするがごとし。
口に妙法をよび奉ればわが身の仏性もよばれてかならず顕はれ給ふ。
梵王・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給ふ。
仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。
されば「もししばらくも持つ者は、われすなはち歓喜す。諸仏もまたしかなり」と説き給ふはこの心なり。
されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもつて仏に成り給ひしなり。
三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法といふはこれなり。これらの趣をよくよく心得て、仏になる道には、我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべきものなり。
(前掲書第二巻一四三二―三三ページ参照)
0363鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/16(土) 14:29:15.46ID:iBUsvsiV
口に妙法をよび奉ればわが身の仏性もよばれてかならず顕はれ給ふ。
0364鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/16(土) 16:06:35.00ID:iBUsvsiV
理性 reason
悟性 understanding
知性 intelligence
感性 sensitivity
霊性 spirituality
0366鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/16(土) 23:49:19.64ID:iBUsvsiV
>たとえそうでもいいじゃないか! やっとお前も察したな。
>事実そのとおりさ、実際その一点だけにすべての秘密があるんだよ。
>だが、はたしてそれが、たとえ彼のように荒野での苦行に一生を台なしにしながら、なお人類への愛を断ち切れなかった男にとってだろうと、苦しみではないだろうか? 人生の終り近くなって彼は、あの偉大な恐ろしい悪魔の忠告だけが、非力な反逆者どもを、《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》を、いくらかでもまともな秩序に落ちつかせえたにちがいないと、はっきり確信するのだ。
>そして、こう確信がつくと、死と破壊の恐ろしい聡明な悪魔の指示に従ってすすまねばならぬことが、彼にはわかるし、またそのためには噓と欺瞞を受け入れ、人々を今度はもはや意識的に死と破壊へ導かねばならない。
>しかもその際、これらの哀れな盲どもがせめて道中だけでも自己を幸福と見なしていられるようにするため、どこへ連れてゆくかをなんとか気づかせぬよう、途中ずっと彼らを欺きつづけねばならないのだ。
>そして心に留めておいてほしいが、この欺瞞もつまりは、老審問官が一生その理想を熱烈に信じつづけてきたキリストのためになされるのだからな! これが不幸ではないだろうか?
(カラマーゾフの兄弟 大審問官 より)
0367鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/16(土) 23:50:04.02ID:iBUsvsiV
あんたも同じだよ
この世の凡庸なる者の一人
私は その頂点に立つ
凡庸なる者の守り神だ
 
凡庸なる人々よ
罪を赦そう
罪を赦そう
罪を赦そう
罪を赦そう
汝らの罪を赦そう


(映画アマデウスのラストシーン サリエリのセリフ)
0368黄金虫
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2022/07/17(日) 08:24:37.85ID:N/gNB8eD
モーツァルトの数々の楽観的な音楽も、それらの元ネタである民族音楽にはかなわない。
0369鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/27(水) 22:27:03.33ID:FrolQFcU
高野山総持院で高野山大学学監長岡秀善師と対座したピーパー教授が単刀直入に「大乗仏教の本質とは」と問いかけられたのに対して長岡師は即座に「即身成仏」と答えられた。
その意味をめぐって緊迫した問答が交わされたが、結局のところピーパー教授は「即」ということを認めれば人間は絶対者との合一を目指して「旅する者」ではなく、当初から「到達者」であることになる、それでは貴方がたの修行の意味はなくなる、と主張し、長岡師は「即」を認めなければ仏道が目指す「悟り」はその真実の意味を喪失すると応じてやまなかった。
この対話はカトリシズムの霊性と日本的霊性の微妙な相違に光を当てるものと考え、ここに紹介したが、この対話を豊かな実りへと向けていかに進めるべきかは読者の判断に委ねたい。
0370鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/27(水) 22:53:58.44ID:FrolQFcU
しかし無限な神の不興を好意に転じることは有限な人間には全く不可能であり、唯一の可能な道は神が人間と成ることによって、神の力でこの罪を贖うことであり、神の言の受肉はそのために必要であった、とアンセルムスは論を進めている。
0371鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/27(水) 23:00:40.55ID:FrolQFcU
なんとなくカトリックと受肉の神秘・三位一体というのが分かってきた。
0372鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/07/27(水) 23:01:38.91ID:FrolQFcU
純朴に信仰する事ができる人は或る意味恵まれているのかもしれない。
0373鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 09:46:12.55ID:WTuWFoyN
一 絶望が死に至る病であるということ。

A、絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。絶望して、自己をもっていることを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。
B、絶望の可能性と現実性。
C、絶望は「死に至る病」である。
0374鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 09:49:29.81ID:WTuWFoyN
三 この病(絶望)の諸形態。
A、絶望が意識されているかいないかという点を問題とせずに考察せられた場合の絶望。したがってここでは綜合の諸契機のみが問題となる。
a、有限性と無限性との規定のもとに見られたる絶望。  
 α、無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。  
 β、有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。
b、可能性と必然性の規定のもとに見られたる絶望。  
 α、可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。  
 β、必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。

B、意識という規定のもとに見られたる絶望。
a、自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望。換言すれば自分が自己というものを、しかも永遠的な自己というものを、もっているということに関する絶望的な無知。
b、自分が絶望の状態にあることを知っている絶望。それでここではひとは自分が自己(したがってまた或る永遠的なるもの)をもっていることを意識している、そして絶望して自己自身であろうと欲しないか絶望して自己自身であろうと欲するかのいずれかである。  
 α、絶望して自己自身であろうと欲しない場合弱さの絶望。
  1、地上的なるものないし地上的なる或る物に関する絶望。
  2、永遠的なるものについての絶望ないしは自己自身に関する絶望。  
β、絶望して自己自身であろうと欲する絶望強情。
0375鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 09:50:22.64ID:WTuWFoyN
B、罪の継続。
a、自己の罪に関して絶望する罪。
b、罪の宥しについて絶望する罪 (躓き)。
c、キリスト教を積極的に廃棄し、それを虚偽なりと説く罪。
0376鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 10:01:06.21ID:WTuWFoyN
「この病は死に至らず」(ヨハネ伝十一・四)。

それにもかかわらずラザロは死んだ。
キリストの弟子達が、「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起さんために往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子達に直截にこう語った、「ラザロは死にたり」(十一・一四)。

かくてラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。
ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。

もっとも我等はキリストがそのとき当時の人々に「もし信ぜば神の栄光を見せしむ」べきはずであった(十一・四〇)奇蹟のことを考えておられたことを知っている。

キリストがラザロを死人の中かららしめたあの奇蹟、かくて「この病」はただに死に至らなかったのみではなく、キリストが予言したように、神の子がそれによって栄光を受け神の栄光が顕わされるに至った(十一・四)かの奇蹟のことをキリストは考えておられたのである。
おお、されど、もしキリストがラザロをらしめなかったとしても、この病が、いな死そのものさえもが、死に至るべきものでなかったということは同様に真ではないであろうか? 

(キェルケゴール 『死に至る病』より)
0377鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 13:34:31.18ID:vGQ5HcEn
探究するものが探究されるものであると知る時、対象化しない探究となり、それそのものであり続ける第二の探究が始まるのでは?

だから、他所に求める探究が止むのであって、探究そのものが止むのとは違うと思うのです。

つまりどこまでも止むことが無い 己事 究明なのでは。
0378鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/07/29(金) 22:04:06.50ID:fig6iOeg
人それぞれにいろいろな考えはあるのでしょうが、キェルケゴールが『死に至る病』で

 >この病は死に至らず。
 >(ヨハネ11:4)

を取り上げて、それが絶望という罪で

a、自己の罪に関して絶望する罪。
b、罪の宥しについて絶望する罪 (躓き)。
c、キリスト教を積極的に廃棄し、それを虚偽なりと説く罪。

を挙げていたのは一瞥に値するのでは。
wikiには

・信じもしないが判断も下されない段階
・キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
・キリストを否認する段階

って解説されてますけど。
0380鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 05:35:04.21ID:mh1GS6XZ
およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。
だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。
そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。

意識と本質―精神的東洋を索めて  (岩波文庫)  井筒 俊彦 
0381鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 10:51:06.67ID:mh1GS6XZ
今まで一つの全体である何かとして、どこにも裂け目を見せず、捉えどころもない無規定、無分節的様態で現前していたにすぎないXが、理性の存在論的分析の光に照明されて、「存在」と「本質」との組合せになる。
つまり、「Xは実在する」「Xはである」という二つの命題が同時にここで成立する、ということだ。Xが存在する、
だが、ただ存在するだけでなくて、として(例えば花として)存在する、というのである。

意識と本質―精神的東洋を索めて  (岩波文庫)  井筒 俊彦 
0382鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 11:01:30.91ID:mh1GS6XZ
深層意識における「未発」のこの自覚について特に注意すべきは、宋学ならびに東洋哲学一般の特徴として先に一言した意識即存在という形而上的体験の事実によって、意識のゼロ・ポイント、すなわち「未発」の極点、が同時にまた全存在界のゼロ・ポイントでもあること、さらに、意識「未発」が意識「已発」の源泉であることによって、そのまま全存在界生起の源泉でもあるということである。

意識と本質―精神的東洋を索めて  (岩波文庫)  井筒 俊彦 
0383鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 11:07:36.56ID:mh1GS6XZ
仏教、特に禅は「無心」ということをよく云々するが、「無心」とはたんにAにたいする非Aという形での、「心」の矛盾概念ではない。
「心」に矛盾し、「心」を論理的に拒否するところに成立する純粋に消極的な否定概念でそれがないことは勿論、主体的体験としても、ただ何も意識しない状態、存在認識機能がまったく停止した状態、ノエーシスの完全に消滅してしまった境位、を意味するのではない。
反対に、純粋無雑なノエーシス、つまり個別的対象としてのノエーマのないノエーシスそのものをそれは意味する。

意識と本質―精神的東洋を索めて  (岩波文庫)  井筒 俊彦 
0384鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 11:12:44.84ID:mh1GS6XZ
要するに禅の術語としての「無心」はあらゆる意味での「心」のない状態であるどころか、むしろ「有心」の極限なのである。
すなわち「無心」は字義どおりの無─心ではなくて、かえって「心」の基底であり、本源的本来性における「心」そのものだということ。
つまり意識(と存在)の究極的原点である。
後述するように、禅では「無心」と「心」とが屢〻完全な同義語として使われるが、この言語慣習はまさにここに由来する。
つまり、「無心」と「有心」とが互いにまったく同義的であり得るような境位が、ここに成立しているのだ。

意識と本質―精神的東洋を索めて  (岩波文庫)  井筒 俊彦 
0385鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/04(木) 11:22:43.44ID:mh1GS6XZ
ドイツの哲学者フッサールの現象学用語。
フッサールによれば、意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。
指向とは、意識が実的(レーエル)な作用としての自己自身を越え、対象的なものにかかわる超越の働きであるが、その際の対象が、思考されたものそれ自体としてのノエマ的―意味的な対象である。

 フッサールによれば、庭の樹木を意識している場合の「樹木の意識」における引用符内部の「樹木」は、たとえば燃やしてしまえばなくなる実在物としての対象ではなく、イデエルな「意味」的対象=ノエマとしての「樹木」である。
「樹木の意識」という現象自身、燃えればなくなるような実在物ではない以上、その意識が指向的にかかわる対象も物的対象ではなく、ノエマ的対象である。

[山崎庸佑]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
0386鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/07(日) 09:52:12.95ID:czmPljgG
救いだの悟りだのって極々ほんの一部の人の事の様な気がする。
宗教の本質は、万人救済と云いつつ、実はほんのごく一部の一握りの人しか通れない極めて狭き門なのかもしれない。

ドストエフスキーの大審問官と法然上人が重なるんだけど。
0387鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/07(日) 11:07:56.89ID:czmPljgG
なぜなら、その決定こそ、個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、たいへんな苦労から、彼らを解放してくれるからだ。
そして、すべての人間が幸福になることだろう。
彼らを支配する何十万の者を除いて、何百万という人々がすべて幸福になるのだ。
それというのも、われわれだけが、秘密を守ってゆくわれわれだけが不幸になるだろうからな。
何十億もの幸福な幼な子と、善悪の認識という呪いをわが身に背負いこんだ何十万の受難者とができるわけだ。
彼らは静かに死に、お前のためにひっそりと消えてゆき、来世で見いだすものも死にすぎない。
しかし、われわれは秘密を守りとおし、彼らの幸福のために天上での永遠の褒美で彼らを誘いつづけるのだ。
なぜなら、かりにあの世に何かがあるとしても、もちろん彼らのような連中のためにあるわけではないのだからな。
0389鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/07(日) 18:17:50.02ID:1TWuSid7
一切のものは縁起によって成り立ち、その本性は無自性・空であるとするのが、理法界の立場であるが、さらに現象としての事と、理体としての真如との相即円融の関係を説明するのが、第三理事無礙法界の立場である。
ここに縁起している諸法を、現象的立場からみれば事法界、無自性・空という本来的な立場からみれば理法界となるのであって、事法界と理法界とはまったく別な世界をいっているのではない。
どこまでも同じものの二面性ともいえるものである。
現象的立場にたってみるのと、本来的立場にたってみるのとの相違によって、二つの法界に分かれているのであって、二つの区別は現実にある一つのものの見方の相違によるものであることがわかるであろう。  
0390鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/10(水) 20:12:49.06ID:qI50ebim
けだし隻手の声とは如何なることぞとならば、即今両手打ち合わせて打つ時は丁々として声あり、唯だ隻手を挙ぐる時は音もなく香もなし。
これかの孔夫子のいわゆる烝天のことといわんか、はたまたかの山姥がいいけん、「一丁空しき谷の響きは無生音をきく便りと成る」とはこれらの大事にや。
これ全く耳を以て聞くべきにあらず、思慮分別を交えず、見聞覚知を離れて、単々に行住坐臥の上において透間もなく参究しもて行き侍れば、理尽き詞究まる処において忽然として生死の業根を抜翻し、無明の窟宅を劈破し、鳳、金網を離れ、鶴、籠を抛つ底の安堵を得。
この時に当たりて何時しか心意識情の根盤を撃砕し、流転常没の幻境を撥転し、三身四智の宝聚を運び出し、六通三明の神境を超越す。
貴ぶべし。隻手纔かに耳に入る時は、仏声、神声、菩薩声、声聞声、縁覚声、餓鬼声、修羅声、畜生声、天堂声、地獄声、世間所有の一切の音声毫釐も聞き残すことなし。
これを清浄の天耳通という。
隻手纔かに耳に入る時は、広大劫来輪転昇沈の跡、塵点劫後往復遷流の影、照々焉として宝鏡に対するが如し。
これを清浄の宿命通という。
隻手纔かに耳に入る時は、喫粥喫飯、運動施為これ修得底にあらず、学得底にあらず、人々本具の活三昧なることを徹了す。
この時に当たりて、「華厳の四種の法界」、「法華の唯有一乗」、「空手にして鋤頭を把り、歩行にして水牛に騎る」、「穢土を転じて浄土となし、凡身を変じて仏身と成す」等の大事、粲然として目前に充塞す。
これを清浄の神境通という。
隻手纔かに耳に入る時は、自心、他心、親戚心、仏心、神心、衆生心、一見に見透して疑惑なし。
これを清浄の他心通という。
隻手纔かに耳に入る時は、人々本具の心上一点の無明なく一点の生死なし。広大円明、高閑虚凝、これを清浄の漏尽通という。
この時に当たりて百千の法門無量の妙義、世間所有の宝荘厳、尽く自己の心上に具足して毫髪ばかりも欠闕なし。
初めて知る、六度万行体中に円かなることを。
人間天上の善果、何事かこれに勝らん。三賢四果の歎喜も、豈にこれに過ぎんや。
(『藪柑子』)
0391鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/12(金) 07:39:12.89ID:vkOQFFQa
個物の実在はその意味に対応するとして、神はその意味に限定されない。
実在を超えており、実在たらしめるものであろうか。
超実在というべきか。
0392鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/12(金) 08:36:33.23ID:vkOQFFQa
キルケゴールの思想の根底にある考えによれば、科学にせよ、宗教にせよ、わたしたちのどんな自己イメージにせよ──すなわち、わたしたち自身と、そのつどの意味の連関のなかでのわたしたちの位置づけとについてのどんなイメージにせよ──いずれも精神を証し立てるものでもある。
わたしたちが自身について記述するとき、そこには規範的な自己理解──すなわち、わたしたち自身がどうありたいと思っているのか──も書き込まれるわけです。これをキルケゴールは「神」と呼んでいますが、思いどおりにならないものへと開かれた人間の精神にこそ宗教は関係しているのだとするかぎりでは、わたしたちもキルケゴールに賛成することができるでしょう。
とはいえ、開かれているからといって、何でもよいから好きな対象や対象領域を選んで、それを神格化してよいということにはなりません。それは迷信、あるいはフェティシズムにほかなりません。

>なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)  マルクス・ガブリエル  (著), 清水 一浩 (翻訳) 
0393鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/15(月) 07:49:26.66ID:Spgzw3cY
唯識思想も如来蔵思想も、空観に密接に連関しているのです。
空観はすべてのものに固定的な本性があるかのように思いこんでいる常識的立場や、それを理論的に基礎づける学説を否定する意図をもって説かれたのですが、その否定によって開示される真理を、「最高実在」として肯定的にとらえていったのが如来蔵思想です。
空の思想を基礎にしながら、『法華経』には久遠実成の仏が説かれ、『華厳経』には法身の遍満ということが説かれているわけですが、そういう経典の思想を背景にして、空の真理を肯定的に、法界・法性・真如、あるいは法身・仏性などの語によってあらわしたのが如来蔵思想で、唯識でも、アーラヤ識の否定によって開示される世界の叙述になると全く同じことです。

仏教の思想 4 認識と超越<唯識> 角川文庫ソフィア文庫 服部 正明  (著), 上山 春平  (著)
0394鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/15(月) 12:21:49.17ID:Spgzw3cY
如来蔵思想はダルマパーラのとは異なった系統の唯識思想と深い関係にあります。
どちらも『華厳経』の「三界一心作」の思想の展開ですが、心を真如とするのが如来蔵思想で、心をアーラヤ識とするのが唯識思想です。
そして、唯識では、アーラヤ識が究極的には否定されるのですが、そのことは真如が心の本質として自覚されるということです。
自覚されてもされなくても、真如が本来心の本質なのだという点を重視すれば、如来蔵思想になるでしょう。
初期の唯識派の論書――つまりマイトレーヤの名で伝えられている論書には、真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されていて、アーラヤ識という輪廻的存在の根拠が無であることを悟れば、法界に融けこんで真如そのものとなること、――その人の仏性が開顕して、人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが、はっきり説かれています。

仏教の思想 4 認識と超越<唯識> 角川文庫ソフィア文庫 服部 正明  (著), 上山 春平  (著)
0395鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/15(月) 17:54:59.17ID:Spgzw3cY
では、自然科学的な諸対象についてはどうか。
電子、光子、ニュートリノなどの素粒子がこの宇宙に存在することは、現代物理学の基本原理が正しい限り必然的であると、相関主義者を含めて多くの人が考えるだろう。
しかし、そうした現代物理学の基本原理自体が存在することに必然性はあるのか。
自然科学は、個々の対象の必然性を根拠づける原理の必然性というメタレベルの問題に関わらない。
相関主義的に考えれば、それは認識主体である私たちと対象との相関関係の「外部」のことなので、私たちにはそれが絶対的必然性かどうか分からない、ということになろう。
どのような存在者についても、それが存在しない宇宙は論理的に不可能だと断言することはできない。
このように、私たちに認識できる限界の「外部」を考慮に入れると、いかなる存在者にも必然性はない。
メイヤスーによると、それは私たちが現に存在している世界と無関係な、単なる仮想の話ではない。
無限の時間の流れのどこかで、私たちが存在している世界の自然法則が変化し、現在の私たちから見てあり得ない法則が成立する可能性は排除できない。
そうした意味で、「必然的存在者」が不可能であるという事実は「絶対的」なのである。
現代哲学の最前線 (NHK出版新書)  仲正昌樹  (著)
0396鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/15(月) 18:04:05.15ID:Spgzw3cY
自然科学者たちは、経験的データの収集と帰納法によって自然法則を明らかにしようとしてきたが、自然法則が安定しているという前提がなければ、いくらデータを収集し、それに基づいてより厳密に法則を定式化しても、〝自然法則〟それ自体に近づいているという保証はない。確率論的アプローチを採用するにしても、「全体」が一つの法則に従っている必然性がない以上、私たちが経験したことの外部にまで、無条件に適用することはできない。
0397鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/16(火) 09:28:06.88ID:gtlfyjUu
十二姿支縁起
 無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死

能引支(業種子)
 無明・行
所引支(名言種子)
 識・名色・六処・触・受
能生支(業種子と名言種子を潤す(潤生))
 愛・取・有
所生支
 生・老死
0398鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/21(日) 10:50:03.89ID:au7gClIX
 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
 >取ること全無には非ず。
 >(成唯識論)

つまり、見分は有っても能取がないということで、知的活動がないわけでもない、って事です。
何かに執着したり対象的に認識認識する事ではない、と。

 >相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。
 >如に離れざるが故に。
 >自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。
 >(成唯識論)

”相分は無しと雖も”、相分がない、つまり”知る対象がないのに何を知るのか?”という事になりますが、
”如の相を帯して起こる”、つまり、真如そのものの体相を帯びる(挟帯)との事です。
体は、体・用・相の体でしょうね。
0399鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/21(日) 10:50:19.04ID:au7gClIX
竹村先生は解説書で

 >相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略)
 >智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。
 >そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。
 >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。

と解説されております。
また、

 >相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。
 >したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。
 >また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。

とおっしゃってます。
0400鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 10:56:02.95ID:au7gClIX
興禅大燈國師遺誡

汝等諸人此の山中に来つて道の為に頭を聚む
衣食の為にする事なかれ
肩有つて着ずと云ふ事なく
口有つて食はずと云ふこと無し
只須らく十二時中無理會の處に向つて
究め来り究め去るべし
光陰箭の如し謹んで雑用心すること莫れ
看取せよ看取せよ

老僧行脚の後或は寺門繁興佛閣経巻
金銀を鏤め多衆閙熱
或は誦経諷呪 長座不臥 一食卯斎 六時行道
直饒 恁麼にし去ると雖も
佛祖不傳の妙道を以て
胸間に掛在せずんば忽ち因果を撥無し
眞風地に墜つ、皆是れ邪魔の種族なり

老僧 世を去る事久しくとも
兒孫と称する事を許さじ

或は一人有り野外に綿絶し一把茅底
折脚鐺内に 野菜根を煮て喫して日を過すとも
専一に己事を究明する底は
老僧と日々相見 報恩底の人なり
誰か敢て軽忽せんや
勉旃勉旃
0401鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 10:57:11.42ID:au7gClIX
コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ だ。

(井筒 俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めてより)

つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。
そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。
(井筒俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めて)

「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」
(大乗起信論)
0402鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 10:57:38.17ID:au7gClIX
禅本来の見所から言うと、「山は山にあらず」という矛盾命題の指示する絶対無意味の次元から、
人はさらに翻ってまたふたたび「山は山」という有意味性の次元に戻らなくてはならない。
(井筒俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めて)
0403鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 10:59:17.87ID:au7gClIX
変とは謂わく 、識体 (自体分 )転じて二分 (相分と見分 )に似る 。
(中略)その二分に依って我 ・法を施設す 。
(成唯識論)

触 (心を認識対象に接触させる )
作意 (心を起動させる )
受 (認識対象を 、苦または楽 、あるいは 、そのどちらでもないと受けとめる )
想 (受けとめたものを自己の枠組みにあてはめる )
思 (認識対象に具体的にはたらきかける )
0404鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:00:03.15ID:au7gClIX
自性霊妙、常住の法に於いて、断滅の見を生ぜざるを名づけて不殺生戒となす。

自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗戒となす。

自性霊妙、無着の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲戒となす。

自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語戒となす。

自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒戒となす。

自性霊妙、無過患の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪戒となす。

自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他戒となす。

自性霊妙、真如遍法界に於いて、一相の慳執を生ぜざるを名づけて不慳貪戒となす。

自性霊妙、無我の法中に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝戒となす。

自性霊妙、一切法中に於いて、生仏の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝戒となす。
0405鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:00:33.14ID:au7gClIX
煩悩の止滅といっても無くなるわけじゃない。
心相続が煩悩の拘束から離れるだけ。

我~常・一・主・宰
法~任持自性、軌生物解
0406鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:01:40.84ID:au7gClIX
本来の悟りの境地には、智者の相もなく、愚人の相もない。
それなのに、妄りに智者・愚人の相を見る、これを愚人と言うのだ。
それ故、智者・愚人の相を見ないのを、真実の智者というのだ。
世間一般の愚かな人と違って、才智弁説があるのを智者と言うのは、世俗の沙汰である。
この故に、本来具えているはずの大智を会得した人は、「おれは智者だ」と慢心を起こさない。
そのわけは、本来の大智に行き当たってしまえば、智とか愚とかの差別の相を見ないからだ。
おれは智者だと思っていても、智者のふりをしないというのではない。
(夢中問答集)
0407鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:02:45.31ID:au7gClIX
誰でも、本来具えている悟りの境地では、迷・悟、凡・聖の病相のごときものはない。
教と禅と、煩悩の苦を断つ法の説き方は、誰のために用うべきものなのか。
けれども、迷いの病苦がたちまちに発って、種々身もだえする苦痛が生ずる。
仏がこれを憐れんで大医王として、種々の性質・楽欲に随って、さまざまの教えを説かれた。
仏法の教えは種々の差別があるけれども、その趣旨をつきつめれば、それはただ衆生の迷・悟、凡・聖を分別する病苦をなおして、本来具わった安穏の悟りの境地に到達させんがためである。
種々の迷妄を断つ教法のあり方を衆生に教えようというためではない。
誰でも、迷いの妄想という病苦がとりのけられてしまえば、生死の変化が輪廻するのも見ず、凡聖迷悟の差別もなくなる。これこそ、因縁の働きを断ち、煩悩の苦を脱れた人といってよい。
これを大悟の人と名づける。
(夢中問答集)
0408鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:03:10.19ID:au7gClIX
一つには愚夫所行禅、これは凡夫・外道が心念を起こさず、分別を生じないのを禅定だと思っている者だ。
二つには観察相義禅、これは小乗および三賢位の菩薩が、教えの義理を観察し思惟する分際である。
三つには攀縁如実禅、これは地上の菩薩が、非有・非空の実相が中道であるとの真理に安住して、身・口・意の動作をかりない妙行である。
四つには、如来清浄禅、これは如来の境地に入って、みずから覚った聖智が現われた相である。
(夢中問答集)
0409鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:03:53.86ID:au7gClIX
問う、あらゆる存在が空である以上、いったい何人(主体)が道を修するのですか?

答う、何人(主体)なるものが有るなら、道を修しなければなりません。
しかし、もし何人なるものが無ければ、もう道を修するに及ばぬのです。
何人というのは、つまり我のことです。
もし我がなければ、あらゆる物に逢うて是非を生ずることはありません。
是を是とするのは、我が自分でそれを是とするのであって、物そのものは是でないし、非を非とするのは、我が自分でそれを非とするのであって、物そのものは非ではないのです云々

(二入四行論)
0410鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:04:48.34ID:au7gClIX
一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより妄念の始めなどは無いのだ。
それは、微細な妄念の動きを遠離しているのであり、そうした心の内面を見とどけることができてこそ、心はつねに安住するのであり、これを絶対の目ざめと名づける

(大乗起信論)


妄念の初動はすでに不可得である、というのもやはりおなじところを指している。
『起信論』は、もともと実体のない猛風の出所や行方を追うことをやめて、波が水の動き以外のなにものでもないことを、まずしっかりと内省せよと教えるのである。
それは、煩悩の非本来性と、真如の体が不生不滅であり、無自性空であることを前提している。

(井筒俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めて)
0411鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:05:47.35ID:au7gClIX
縁縁 ~ 所縁は心法が起こる縁となるゆえに所縁縁(しょえんねん)という。

 境(対象・相)があって識が生じる ~ 境がなければ識もなくなる・・・境識倶ミン(サンズイ+民)
 相を持つ心を”己が相を帯せる心”という

  帯~帯似(似て非なる帯び方)・挟帯(けったい)
  相~相状(対象の表層的姿)・体相(対象そのもの)

    日常心の認識 ~ 識の認識 ・・・ 帯・帯似、相・相状
    無分別智の認識 ~ 智の認識 ・・・ 帯・挟帯、相・体相
  
      無分別智 ~ 所縁能縁平等平等智

無分別智とは、「体相を挟帯」つまり、主客未分の認識である。

帯似→挟帯に、相状→体相に自己の心を変革する事。
0412鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:06:14.34ID:au7gClIX
有漏のから生じた八識 → 無漏の種子から八識に転じる(転識得智)

成所作智・・・五識
 → 有情を利益し安楽せしめる為にあらゆる場所において様々な変化身を示現して、有情救済のために作すべきことを成就するはたらきがある。
 → 感覚なく無くして人々は救い得ない。

妙観察智・・・意識
 → 巧みにものを観察する智慧。
 → 自相とは、共相とはなにかを見抜く智慧。

平等性智・・・末那識
 → 自己と他者が平等であるとみる智慧。
 → 慈悲心の展開へ

大円鏡智・・・阿頼耶識
 → 心の本体である阿頼耶識から完全に汚れが取り除かれた状態。
0413鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:06:38.32ID:au7gClIX
業を造るもの
 ~ 第六識の意識と随する前五識
 → 阿頼耶識と末那識は無記なので作業しない

業そのものは刹那生滅により消滅するが、阿頼耶識に薫習される。
薫習されたその種子は、潜在的なはたらきとなる習気(気分・種子)となる。
0414鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:07:03.14ID:au7gClIX
一切の言説は仮名にして実無く、担だ妄念に随いて不可得なるを以っての故に、真如と言うは亦た相有ること無し。
謂わく言説の極、言に因りて言を遣るなり。

此の真如の体は遣るべき有ること無し、一切の法は悉く皆な真なるを以っての故に。
亦た立つべき無し、一切の法はみな同じく如なるを以ってが故に。

当に知るべし。一切の法は説くべからず念ずべからざるが故に名づけて真如となす。

(大乗起信論)
0415鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:07:43.73ID:au7gClIX
問うて曰く、若し是の如き義ならば、諸の衆生等云何が随順し而して能く得入せん。

答えて曰く、若し一切の法は説くとは雖も能説と可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念と可念と無を知る、是を随順と名づく。
若し念を離るるを名づけて得入となす。

(大乗起信論)


随順・・・知的に深く了解する事。
得入・・・実際に悟りをひらくこと。
0416鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:08:30.40ID:au7gClIX
空性について

実に(主観・客観の)二つのものが無であることと、(その)無が有であることとが空(性)の相である。
有ということでもなく、また無ということでもない。
別である、あるいは同一である、という相ではない。

(世親 中辺分別論)
0417鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:09:32.18ID:au7gClIX
「業の行為者は存在しない。行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。これが真理であり、正見である」
(清浄道論 Visuddhi Magga)
0418鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:10:24.22ID:au7gClIX
三類境~性境・独境・帯質境

見分・相分は同じ種子から生じるのか?それとも別の種子から生じるのか?
・・・同種所生(仮法)と別種所生(実法)
 同種所生(仮法)~第六識の意識の分別力が見分から相分という影像を作り出す。

三種類の見解 ~ 相見同種説、相見別種説、相見或同或異説

相見或同或異説(護法)
0419鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:10:40.03ID:au7gClIX
相境(相分)~見分とは別の種子から生じる
 阿頼耶識が縁ずる五根・器世間・種子
 五識の相分
 五具の意識の相分
 無分別智が縁ずる真如

独影境~見分と同じ種子から生じる、本質の無いもの(ex:兎の角・カメの毛)、遍計所執性
 第六識が無法を縁ずる時の相分
 第六識が仮法を縁ずる時の相分
 第八阿頼耶識に相応する心所の相分
 
帯質境~相境ではあるが第六識の意識の分別力が絡み錯覚したもの
 第七末那識が第八阿頼耶識の見分を縁ずる場合の相分
 第六識が非量するときの相分
0420鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:10:57.48ID:au7gClIX
円成実性・・・・実有
依他起性・・・・仮有~実法、仮法
遍計所執性・・畢竟無~無法 
0421鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:11:16.55ID:au7gClIX
仮法~存在はしなくとも想像上存在するもの(ex:兎角亀毛)
無法~決して存在しないもの
0422鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:11:40.54ID:au7gClIX
不相応行法 ~ 有部では実法、唯識では仮法とみる。

得~得る者と得る物の和同・・・仮法

成就 ~ (悟りを得る)
 自在成就~加行(実践・修行)によるもの
 種子成就~本来そなわっているもの
 現行成就~得ることの顕在化

命根 ~ 肉体のあたたかさと心のはたらき、生き続ける限り命を保つ力
 生識の用~来世の阿頼耶識を生じる作用
 住識の用~一期の間、阿頼耶識を相続せしめる作用
0423鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:12:02.16ID:au7gClIX
所縁縁 ~ 所縁は心法が起こる縁となるゆえに所縁縁(しょえんねん)という。

 境(対象・相)があって識が生じる ~ 境がなければ識もなくなる・・・境識倶ミン(サンズイ+民)
 相を持つ心を”己が相を帯せる心”という

  帯~帯似(似て非なる帯び方)・挟帯(けったい)
  相~相状(対象の表層的姿)・体相(対象そのもの)

    日常心の認識 ~ 識の認識 ・・・ 帯・帯似、相・相状
    無分別智の認識 ~ 智の認識 ・・・ 帯・挟帯、相・体相
  
      無分別智 ~ 所縁能縁平等平等智
0424鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:12:32.05ID:au7gClIX
種子 ~ 色心の諸法の気分(法相二巻鈔) ※気分:現象的存在が残した残気、習気、薫習。
  新たに作られたもの新薫習子
  本来のもの~本有種子(法爾種子)

 Xを見るという眼識が働くとき、その見分と相分が阿頼耶識に植え付けられる(→新薫習子)。

薫習
 するもの(所薫)とされるもの(能薫)に分類される。

 所薫の四性質(を備えたものを阿頼耶識という)
   堅住性、無記性、可薫性、能所和合性
 能薫の四性質(を備えたものを他の七転識という)
   有生滅、有勝用、有増減、能所和合性転
0425鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:13:26.41ID:au7gClIX
有漏位では八識、無漏位では四智。

有漏位:八識>四智 八識が四智に勝る状態
  ↓
(転識得智)
  ↓
無漏位:四智>八識 四智が八識に勝る状態


三品の無漏

見道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
修道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
佛位の無漏種子 ~ 四智全て(+成所作智、大円鏡智)

見道において妙観察智・平等性智の二智が起こり、分別起の二障を断じて二空所顕の真如を見る。

第六識が尋と伺によって諸法を観察し、その結果意識が妙観察智に変化する。
その結果、二空と見る妙観察智の影響が末那識に及び、末那識が平等性智に転識する。
0426鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:14:01.03ID:au7gClIX
三品の無漏

見道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
修道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
佛位の無漏種子 ~ 四智全て(+成所作智、大円鏡智)

見道において妙観察智・平等性智の二智が起こり、分別起の二障を断じて二空所顕の真如を見る。

第六識が尋と伺によって諸法を観察し、その結果意識が妙観察智に変化する。
その結果、二空と見る妙観察智の影響が末那識に及び、末那識が平等性智に転識する。


尋~言葉に発せず心の中で言葉の表現を探すこと。考える事。
伺~心の中で推察すること。
0427鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:15:01.34ID:au7gClIX
直接経験
例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。
実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。
これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。
そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。

直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。
しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。
例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。
「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。
また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。
0428鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:15:24.02ID:au7gClIX
5.63 
私とは私の世界である。
5.631 
思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 
主体は世界に属するのでなく、それは世界の限界である。
5.64 
ここにおいて、独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致するということを見て取れることができる。
独我論の私というものは、広がりを持たない点へと収縮し、その私と対応する実在がそのまま残る。
0429鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:15:48.27ID:au7gClIX
「知覚されている」とはかならず「思いをこめて知覚されている」ことなのである。
思いが全くこもらない知覚(知覚的立ち現れ)はありえない(悟性的要素を全く排除した直観の多様などありえない)。
しかし、たとえ思いがいかに濃密にこもっていようとも、机を「見る」こと「触れる」ことと、見も触れもしないでただ(心に、頭に)「思う」こととの分別は子供にも見誤ることのない歴然たるものである。
ただ全く純粋な知覚的立ち現れとは、感覚与件と同様考えることのできぬものであり、すべての知覚は思いのこもった知覚である、このことを忘れてはならない。いかなる知覚も思いをこめての知覚なのである。

大森荘蔵
0430鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:16:08.07ID:au7gClIX
意識が五感に対して言葉を適用すると、その経験が意識下の阿頼耶識に保存され、その後、その意識の言葉による分節に見合うあり方で諸感覚が生起してくるというのだ。

竹村牧男 入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)
0431鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:16:29.14ID:au7gClIX
認識とは?

1.○○が眼に入った瞬間(=卒爾心)

2.意識に移動 → あれは何?(=尋求心)

3.阿頼耶識・末那識の種子(能縁)から情報提供(花)


4.これは花だ!(=決定心)
5.綺麗な(汚い)花だ(=染浄心)

卒爾心・尋求心・決定心=無記
上記は弾指頃(だんじきょう)、一瞬でなされる
 

1.花=相分 眼識=見分
2.眼識=見分 意識=相分(所縁縁)
0432鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:16:48.00ID:au7gClIX
外境の器物

五根・五識

(卒爾心)

第六識
(尋求心) →  
         阿頼耶識・種子
(決定心) ←

末那識

(染浄心)

阿頼耶識
0433鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:17:53.62ID:au7gClIX
定には二種類ある
 1.生得定 ~ 一般的な集中する事
 2.修得定 ~ 戒・定・慧の定
0434鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:18:46.76ID:au7gClIX
本性住種姓 ~ 元より阿頼耶識に依りついてる(依附)無漏法の種子を持つ者。
習所成種姓 ~ 修行する中で作られ薫習されていく種子。

※経典論書は真如の世界から流れ出た言葉であり、その言葉を聞く(多聞薫習)事、実践することによって無漏の種子が育てられていく。
※悟りの智慧は有為法。




資糧位 ~ 順解脱分
加行位 ~ 順決択分
通達位 ~ 諸菩薩所住の見道
修習位 ~ 諸菩薩所住の修道
究竟位 ~ 無上正等菩提住
0435鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:19:05.17ID:au7gClIX
資糧位 ~ 順解脱分
 唯識の教えをよく聞いて実践する。聞・思・修(教えの深い理解という知的活動)

加行位 ~ 順決択分
 執着しているあり方を抑える。執着のはたらきの元になる種子の除去

通達位 ~ 諸菩薩所住の見道
 ありのままの認識

修習位 ~ 諸菩薩所住の修道
 無分別智の修習。二障(煩悩障・所知障)の種子を断じる。

究竟位 ~ 無上正等菩提住
 智慧の完成と慈悲の実践。
0436鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:20:03.16ID:au7gClIX
1.智慧が何故有為法に分類されるという事ですが、先にもレスした通り事法であり心作用だからでしょう。
当然に五位百法の無為法の虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如には分類されないという事です。
これについては、下記の転識得智の仕組みを調べる中で明らかにされます。

2.転識得智の仕組みですが

見道・修道にて、
 1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
 1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
 1.-3. 意識が妙観察智へ
 2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
 2.-2. 末那識が平等性智へ
 3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
 3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
 4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
 5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
 5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
 6.-1. 3.-2に同じ
 7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。

と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。

<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~  悔・眠・尋・伺

四智生起の位次
0438鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:21:55.75ID:au7gClIX
思考停止論者の馬鹿どもに言っておく

 >正法を聴く事によって薫習される有漏の種子を増上縁として、
 >本来有する無漏の種子が増長・展開し、見道により無漏心が生じる。
 >(成唯識論)

という事なんだよ。
流れ的には

 1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
 1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
 1.-3. 意識が妙観察智へ
 2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。

ということな。
その無漏智っていうのは

 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
 >取ること全無には非ず。
 >(成唯識論)

つまり、 ”自受用の知的活動” なんだよ。
思考停止じゃないんだよ。

異見があるなら具体的に反証して欲しいね
0439鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:23:04.29ID:au7gClIX
>故に円覚経に謂わく、念を動ずるも迷なり。
>念をやむるも亦迷なりと云云。
>(夢中問答 夢想疎石)
0440鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:24:02.35ID:au7gClIX
心法
  眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
 心所法
  遍行心所
   触・作意・受・想・思
  別境心処
   欲・勝解・念・定・慧
  善心所
   信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害
  煩悩心所
   貪・瞋・癡・慢・疑・悪見
  随煩悩心所
   小随煩悩
    忿・覆・慳・嫉・悩・害・恨・諂・誑・?
   中随煩悩
    無慚・無愧
   大随煩悩
    掉挙・?沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
  不定心所
    悔・眠・尋・伺
 色法
  眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法処所摂
 不相応行法
  得・命根・衆同分・異生性・無想定・滅尽定・無想報・名身・句身・文身・生・住・老・無常・流転・定異・相応・勢速・次第・方・時・数・和合性・不和合性
0441鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:25:53.43ID:au7gClIX
心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。

所謂、心性は不生不滅なり。

一切の諸法は唯だ妄念に依ってのみ差別あり、もし心念を離れれば、即ち一切の境界の相なし。

是の故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。

故に真如と名づく。

一切の言説は仮名にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。

謂わく、言説の極みは言に因つて言を遣るなり。

此の真如の体は、遣るべきものあることなし。

一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。

亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。

当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。

(大乗起信論)
0442鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:27:00.02ID:au7gClIX
生死
 1.分段生死~過去業に規定されるもの
 2.変易生死~自分の意志によるもの

生死輪廻 ~ 八識およびそれらに相応する心所有法の中にある因縁によって生じ、外界を必要としない。(「外縁を待たず。故に唯だ識のみあり。」)

因~「因というは謂わく、有漏と無漏の二つの業ぞ。」

生死輪廻の原因~業  (…本来、業果の因は名言種子)

(阿頼耶識の相分→有根身・器世間)の種子→因 + 縁(業種子) 



「縁というは謂わく、煩悩と所知との二の障ぞ。助けて生死を感ず。故に説いて縁と為す。」

有漏の業 → 分段生死
無漏の業 → 変易生死
0443鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:28:06.35ID:au7gClIX
ヒンドゥー教と仏教の違いはなにかというと、ヒンドゥー教の方では世界の根本としての、属性を吸い込むような「場」を認める。そして、これが神になるわけです。仏教ではそういった神は認めず、属性のあらわれだけを認めるのです。
ところが空思想では、この属性もなくなってしまう。属性もなくなって、空だというわけです。じゃあ、虚無になるかというと、そうではなくて、蘇るんです。
ただし、ことばによって、すなわち名づけられるものとして蘇るだけで、実在として蘇るわけではないんです。ことばの世界としてあるというだけなんです。アメリカに行って、わたしはこの実在論の方の哲学を研究したんです。前に勉強した「中論」はいわばこの対極にあったわけです。こうして対極にあるものをみながら、インドの哲学を実体と属性という観点からみようと考えたんです。
(立川武蔵氏へのインタビュー記事)
0444鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:29:08.72ID:au7gClIX
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
>捉えることができない。捉えられないから。
>壊れることがない。壊されないから。
>こだわりがない。こだわらないから。
>つながれず、動揺せず、損なわれない。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
>ヤージュニャヴァルキヤ 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』


>われわれが出会うことのできる唯一の存在は、『認識されるもの』である。
>『認識するもの』は存在するのではない。『認識するもの』は捉えられない。
>(中略)『認識するもの』が、担いうる唯一の性質づけは、まさに、『それは、これこれの対象であらぬ』ということである」
>サルトル 『存在と無』
0445鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/21(日) 11:30:18.33ID:au7gClIX
1
由仮説我法 有種種相転 彼依識所変 此能変唯三
2
謂異熟思量 及了別境識 初阿頼耶識 異熟一切種
3
不可知執受 処了常与触 作意受想思 相応唯捨受
4
是無覆無記 触等亦如是 恒転如暴流 阿羅漢位捨
5
次第二能変 是識名末那 依彼転縁彼 思量為性相
6
四煩悩常倶 謂我癡我見 併我慢我愛 及余触等倶
7
有覆無記摂 随所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有
8
次第三能変 差別有六種 了境為性相 善不善倶非
9
此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定 皆三受相応
10
初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同
11
善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害
12
煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見 随煩悩謂忿 恨覆悩嫉慳
13
誑諂与害驕 無慚及無愧 掉挙与昏沈 不信併懈怠
14
放逸及失念 散乱不正知 不定謂悔眠 尋伺二各二
15
依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水
16
意識常現起 除生無想天 及無心二定 睡眠与悶絶
17
是諸識転変 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識
18
由一切種識 如是如是変 以展転力故 彼彼分別生
19
由諸業習気 二取習気倶 前異熟既尽 復生余異熟
20
由彼彼遍計 遍計種種物 此遍計所執 自性無所有
21
依他起自性 分別縁所生 円成実於彼 常遠離前性
22
故此与依他 非異非不異 如無常等性 非不見此彼
23
即依此三性 立彼三無性 故仏密意説 一切法無性
24
初即相無性 次無自然性 後由遠離前 所執我法性
25
此諸法勝義 亦即是真如 常如其性故 即唯識実性
26
及至未起識 求住唯識性 於二取随眠 猶未能伏滅
27
現前立少物 謂是唯識性 以有所得故 非実在唯識
28
若時於所縁 智都無所有 爾時住唯識 離二取相故
29
無得不思議 是出世間智 捨二麁重故 便証得転依
30
此即無漏界 不思議善常 安楽解脱身 大牟尼名法
0446鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/23(火) 10:48:47.85ID:x9soeOtY
さて、『他者論』ていうのがある訳です。

その詳細は調べて頂くとして、それを宗教に当て嵌めた場合、以下の三層があるのだと(※)。

 >第一層として、私たちが通常公共的次元で交流できる人間の裏側の了解不可能性、
 >第二層は死者、
 >第三層は神仏である。
 >時間性という点から考えれば、第一層の他者は、同時的存在としての他者であり、
 >第二層はかつて存在し今は非在の他者、
 >第三層は過去も今も非在の他者として区別される。
 >非在というのは、存在しないというのではなく、公共的な場で把握できないという意味である。

また、此処で云う公共とは、

 >後期のウィトゲンシュタインの用語を使えば、公共性の領域は「言語ゲーム」が成り立つということに当たるだろう。

という主旨だそうです。

(※死者と霊性の哲学 ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧 (朝日新書)  末木 文美士  (著) )


(続く)
0447鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/23(火) 10:52:14.93ID:x9soeOtY
>>880(続き)
第一層は言葉としての公共性が流通するのですが、第二層と三層は必ずしもそれが明確でない、或いは矛盾律や同一律に準じないケースが往々にしてよくある訳です。
それは、

 >もし公共性のレベルの言葉しか認めないのであれば、このような第二層、あるいは第三層の他者と関わる言葉の使い方は、誤用であり、ナンセンスということになるだろう。
 >近代啓蒙は、それを迷信として切り捨てようとした。
 >しかし、実際に多くの人が神社で祈願しているのだから、それを単に公共性のレベルだけで切り捨てることはできないであろう。
 >それとは異なるレベルの言葉として、真偽が確定できない曖昧な言葉の領域を認めなければならないであろう。
 >それは、キューブラー=ロスのいう「象徴的言語」に当たるものである。

と、指摘されております。
0448鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/08/23(火) 11:00:24.10ID:x9soeOtY
掛かる意味に於いて、仏教経典や聖書等は宗教に於ける「他者」の第三層(神仏)から与えられる言語に属する「象徴的言語」に該当するものって事になるのでしょう。
そしてそれは、

 >ところで、これらは贈与されるにしても、ひとまず人間にも理解できる普通の言葉で書かれている。
 >もっともそれが本当に人間に理解できるのかどうか、与えられた言葉をそのまま文字どおりに読み取ればよいのか、その点が問題となる。
 >そこで、贈与された言葉をより根源的に捉えて、贈与者の意図を汲み取る秘儀的な解釈が展開される。
 >キリスト教においては、早くも『ヨハネ福音書』に、キリストの出現に神の深い意図を読み取ろうという神学的な意図が見られる。
 >注目されるのは、その冒頭は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(新共同訳)と始められていて、キリスト自身が「神の言(言葉)」とされていることである。
 >キリストは神の子であり、神から遣わされた神の言葉であり、その言葉を読み解かなければならない。

というように、予め矛盾律や同一律に反したものとして読み解く能力が要求されるものではないのでしょうか。
0449鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/08/26(金) 07:19:55.26ID:qBHD2E5O
「業の行為者は存在しない。行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。これが真理であり、正見である」
(清浄道論 Visuddhi Magga)
0450鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/01(木) 04:45:54.24ID:N52rTbWn
「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。
そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。

(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)
0451鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/01(木) 04:48:15.30ID:N52rTbWn
現に、西谷啓治自身も「空と歴史」という論考において、「空の場に性起する現存在が『無我』的であり『自他不二』的である」(同前、289頁)と述べています。

「現存在」は、20世紀を代表する哲学者だったマルティン・ハイデッガー(1889~1976)が提唱した概念で、「自己を現に存在していると自覚する自己」を意味します。人間以外の動物は、そういう自覚をおそらくもっていないでしょうから、現存在は人間を人間として特徴づけているといえます。
0452鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/01(木) 04:48:50.99ID:N52rTbWn
自と他も、それぞれが彼等自体であるところにおいて、絶対に断絶的であると同時に絶対に合一的、寧ろ自己同一的である。絶対の二と同時に絶対の一である。大燈国師の「億劫おっくう相別れて而も須臾しゅゆも離れず、尽日相対して而も刹那も対せず」である。(同前、115頁)
0453鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/01(木) 04:50:00.39ID:N52rTbWn
ここでしばしば仏教、特に禅仏教の立場が取り上げられたとしても、その根本理由は、そこにかの本来相が最も直截に現れてゐると考へるからである。
少し前には、そのリアリティと人間との本来相を、道元の「生死すなわち仏の御いのち」とこころ得るといふところに認め、それを「如来」のこころのリアリゼーション(現成即会得げんじょうそくえとく)と解し、そしてそのことによって自己があくまで自己自身に「なる」といふことが、無我からの性起としての自己の「自然」であると語った。
併し、同じことは、例へば絶対他力の法門に依る清沢満之の有名な言葉、「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、此の眼前の境遇に落在せるもの、即ち是れなり」にも現れてゐる。
そしてその言葉は、更に遡れば、親鸞の「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしきとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」とか、「念仏は無碍の一道なり」とかいふやうな言葉にもつながるであらう。(同前、288頁)
0454鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/01(木) 10:57:07.92ID:vkRcLGaN
1 自他忘失体験
2 真如顕現体験
3 自我解消体験  
4 基層転換体験  
5 叡智獲得体験
0456神も仏も名無しさん
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2022/09/16(金) 17:20:32.25ID:/mxZK8qE
>>454精緻な論述を理解するのは中々困難ですが、俗に例えると素人さんは言うでしょう。
この立派な医学書から治病の処方薬を直ぐに出して呉れますか?
然し乍ら貴君の論を何度か読み返すことを約束し、心底から
今後のご活躍に期待します。
一心に行に励む者に、法佛の加護必ずありと励ましの言葉を贈ります。
0457神も仏も名無しさん
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2022/09/17(土) 21:03:46.06ID:LjlzZG/U
>>456
人が説教を喰らって、望ましき改心や人格の変化を興すか?
先ず在り得ないでしょう、其れは説教をする者の満心?を聞いて喰らう方が
弱者の立場で、逃げるに逃げられぬ状況にある故です。
「俺は御前に言いたいことは、、、、」そんな物でして時間の無駄でしょう。
望まぬ言葉に従うの人は本当の奴隷です。
人生運航選択に良くない心癖、なくて七癖、ジッケ習気の事ですが、此れを改善、抜け出すには
妄想に直面し逃避しない瞑想を選ぶ、とっくに御存じのご様子ですが無心定に至る過程が肝心。
無心は時間を忘れ己を忘れ、悪も善も忘れ、その様な状況に定を得るなら満足な過程です。
この定に住する時間中に自我意識(説明不可能)が身体が倒れぬようにコントロールしています。
生きる死人と成り果て云々でしょう。
知命と思われる貴殿に合掌
0458鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/09/18(日) 03:46:57.57ID:3b5tgH6B
低いものについて確実な認識を得ることよりも、ささやかながらも崇高なものについて認識を得るよう憧れることが大切である。
(ヨゼフ・ピーパー編著『言葉の鎖 トマス・アクイナス』フリードリヒ・ビールブセ訳、エンデルレ書店)


実にいい言葉だなぁ、
0459鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/09/18(日) 04:34:41.51ID:3b5tgH6B
宗教板の住人の多くはイデオロギーを論じてる。
でも私はコスモのジーを話してる。

その違いかもな。
0461鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/18(日) 10:43:23.51ID:wPsv2JBi
コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。
イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力をもっている。
イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。
この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となってくる。
(河合隼雄 『明恵 夢を生きる』(講談社+α文庫)より)
0462鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/18(日) 11:19:28.42ID:7C4l4WMk
最高の形相は、最低の質料を形相化するものでなければならない。
絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。
神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。
単に鞫く神は、絶対の神ではない。
斯くいうのは、善悪を無差別視するというのではない。
最高の完全者を神と考える如きは、我々の心霊上の事実からではない。
対象論理的に神を考えているのである、推論によって神を考えているのである。

by 西田幾多郎
0463鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/18(日) 12:14:59.95ID:T8vxdnr/
神の叡智に結びつけられるために、自分の知恵や賢さに頼ろうとするものは、神のみ前において無知も甚しいものであり、その叡智からはるかに遠ざかることになる。
なぜなら、聖パウロが言っているように、このような「知恵は、神には愚かなるもの」であり、無知は、真実の知恵とは何であるかということを知らないからである。

十字架の聖ヨハネの著作(カルメル山登攀)の意訳
0464鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/09/21(水) 13:08:49.29ID:Vc9C1Dpl
役に立つ言葉はその場でコピペしておかないとダメだなぁw

教学がある程度極まって禅にいくっていう道元さんのそれがあったはずなんだけど。
0465鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5
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2022/09/25(日) 21:23:39.02ID:OgKAhQzv
「宗教上の神仏とはその本質は愛であると云ってよいと思ふ。知識の竟まるところ人格となりてこの人格はCoincidenti oppositorumであるが Coincidentia oppositorumが結合するものが神又は仏であって、愛がそのessenceである。それで是はあくまで知識の対象となることはできぬが情意の要求によってこれを味ひこれに結びつくことができる。故に神を知識的に限定する事は中世の否定神学の云ふがごとく不可能である。而しCoincidentia oppositorum は一切の人間活動の基礎となり、愛の形によってその極致が示されるのである。即ち極めて論理的な概念が現実生活に極めて密接な事実となる。仏教でも、華厳などから、浄土真宗に移るところにこんな意味がありはしないかと思ふ。(西田幾多郎全集13:86)」

 
0466犬山敏郎屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェ~(^^♪
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2022/09/29(木) 17:19:09.44ID:HexKkH4s
病名:脅迫性人格障害のインチキキチガイイヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌヤマ談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ!
イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷。
イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか、俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)

ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は、誰からも疎まれる。
イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾ス。

5ちゃんねるの会話はバトル形式、馴れ合いを禁じる。ググるシッタカイヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。 相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価です。荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。

食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーだったに過ぎず仏法からは門外漢だね。 だから、しったかぶる以外に存在承認欲求を満たすものは一切無い

① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる
② 放置された廃人知障イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;障碍者基礎年金受給者イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除

多数者を演じて孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物むらりひょんイヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療対象者。
虚言癖病:鬼子鬼和尚エロ和尚アカベイ偽和尚糖質イヌヤマ軍曹安堂麦野良屁魔女は異名同一人物がキャラ変で世をたばかる極悪人
0470鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/10/01(土) 10:59:47.32ID:eBgtMp6W
 「神を感じるのは心であって、理性ではない。これこそが信仰である。理性ではなく、心に感じられる神」


 「心には心なりの理由があり、それは理性には知りえない」

「地獄落ちの罪人は、自分の理性によってキリスト教を断罪したつもりでいるが、まさにその理性のゆえに断罪されるのである。これは彼らの困惑の種のひとつだ」


 「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」


 「理性は、おのれが服従すべき場合があると判断しないかぎり、決して服従しないだろう。/したがって、おのれが服従すべしと判断するとき、理性が服従するのは正当である」


 「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」
0472鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/10/18(火) 20:27:32.07ID:mDI8cA3g
人から「長短」とか「美醜」とか「生死」とか、そうした相対概念を全て除外していって、最後に残るのものそれが「いのちそのもの」だと思うんです。

他スレでアホが「無為の真人〜」とかほざいてますけどね。

そこで想起されるのが以下の偈です。

 億劫相別れて而も須臾も離れず
 尽日相対して而も刹那も対せず
0473神も仏も名無しさん
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2022/10/18(火) 20:47:30.72ID:ueADOmUZ
此の理人々之れ有り。
如何なるか是れ恁麼の理。
伏して一言を聞かん。

昨夜三更、露柱、和尚に道い了れり。

二十年来辛苦の人、春を迎えて換えず旧風烟。
着衣喫飯、恁麼に去る。
大地何ぞ一塵有らん。
弟子、此の悟処有り。
師何を以てか朕を験す。
老僧既に恁麼に験す。
にい。
0474鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/10/28(金) 21:32:36.95ID:xr+lFDZy
布薩(ふさつ、巴: Uposatha(ウポーサタ)[1]、梵: Upavasatha(ウパヴァサタ)[1]、Poṣadha (ポーシャダ)[2])とは、仏教において、僧伽(僧団)に所属する出家修行者(比丘・比丘尼)達が、月2回、新月と満月の日(15日・30日)に集まり[3]、具足戒(波羅提木叉)の戒本を読み上げ、抵触していないか確認、反省・懺悔する儀式。戒律が実践されているか確認するために必ず出席しなければならず、無断欠席は許されない[2]。

在家信者においては、毎月の六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)に、通常の五戒から八斎戒と、より厳しい戒律を守ることを言う[4][5]。
0476鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/01(火) 18:27:13.82ID:CUeLot/k
前六識は所生に随って繋せられない。
末那識は所生に随って繋せられる。

所生(三界〜欲界・色界・無色界)
0477鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/03(木) 12:52:52.12ID:ucnmpebz
(一)根源的一者から多様な事物が産出される[増殖説] (二)根源的一者によって多様な事物が作り出される[創作説] (三)根源的一者が変容して多様な事物(実在)が実際に現れてくる[開展(転変説)]
(四)根源的一者が変容して多様な事物(非実在)が幻影的に現れてくる[仮現説]
0478馬鹿な日本人鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/03(木) 13:58:02.46ID:MU+oCxY5
大楽三昧というのは、大いなる絶対の安楽の境地であって、それはあらゆる存在するところのものが清らかな宇宙生命の活動そのものとして開けている絶対の風光をいう。
たとえば、一般仏教(顕教)では断つべきものとされるわれわれの煩悩も、密教のさとりの立場からみるとき、それは宇宙生命の発現なのであって、取り除くべきものでなく、制御し浄化されるべきものである。
したがって、大楽三昧においては捨つべきものも取るべきいかなるものも存しない。  
それは俗なるものに対してシビアな否定精神を媒介した絶対肯定の世界であり、本経が生命讃歌の経典として仏教思想史上特異な意義と位置とを有するゆえんであろう。
(宮坂 宥勝 密教経典 大日経・理趣経・大日経疏・理趣釈 (講談社学術文庫)より)
0479鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/05(土) 19:06:52.09ID:KAVceK81
「ああ、キリストの死によって消し去られたアダムの罪は確かに必要なものであることよ。このようにも偉大なる贖い主を報いとして得るとは、ああ何と幸いなる過失よ。」

復活祭蠟燭の祝別式の中で唱えられる祈り
0480鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/07(月) 09:27:09.02ID:j6DAPVig
さて、「原罪認識」は果たしてネガティブなものでしょうか?

わたしはむしろ原罪認識によって神との繋がりが築かれ保たれると思うのですが?
「我は神なり」もいいのでしょうけど、それは神との繋がりを絶ち阻害する事にもなりませんでしょうか?
仏教では「増上慢」と「卑下慢」を説き中道の歩みを勧めますけどね。


「原罪とは何か?」

この探究の葛藤から霊的な成長を経て

「ああ、キリストの死によって消し去られたアダムの罪は確かに必要なものであることよ。このようにも偉大なる贖い主を報いとして得るとは、ああ何と幸いなる過失よ。」
(復活祭蠟燭の祝別式の中で唱えられる祈り)

となり、ネガティブからポジティブへの転換、霊的な生まれ変わりが起きるのではないのでしょうか。
0481鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/15(火) 10:40:27.46ID:OTEaXDEY
現代では、抽象的一般名詞は心の中の概念を直接指している言葉であって、プラトンのイデア論のように、そのイデアがどこかかなたに実在しているなどとは、だれも考えないだろう。
0482鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/11/15(火) 16:07:14.77ID:tbcknLyL
>我々が「真理」や「理法」があると考えるのは、「悟り」があると思うからだ。
私は「悟り」とか「目ざめ」(bodha)という言葉に、極めて非宗教的なひびきを感じる。
「悟りなどない」と言ったのが道元禅師ではなかったか。
もしも「悟り」があるとすれば、その対象として「理法」は必ず存在する。
そして「理法」が存在するならば、すでに「個物」はその存在が認められており、「個物」は絶対化されるに至る。
これを「実在論」と呼ばずして、何と呼べばよいのだろう。
私は仏教が宗教であることを信じて疑わない。しかもなお、原始仏典といわれるものに、「悟り」と訳されうるような様々の言葉が頻出するのを好ましくは思っていない。仏教がいつまでも「悟り」の宗教とみなされるなら、それは仏教に寄生してしまった非宗教性、つまり仏教が荷わされている業なのだ。
(松本史朗)
0483鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/17(木) 11:55:03.91ID:a+EqLdeP
カムイとロンはともに錯誤してるんですよ。
あんたら、どう錯誤してるか分かりますか?

 カムイの錯誤~「我→渠」(「我今これ渠にあらず」だけの片手落ちで「渠今正に是我」がない)
 ロンの錯誤~「渠=我」(「渠今正に是我」だけの片手落ちで「我今これ渠にあらず」がない)

って錯誤ね。
以下の意味をよくよく噛み締めて精進されて下さい。

 >処処渠に逢うことを得
 >渠今正に是我、我今これ渠にあらず
 >(洞山過水の偈)

 >億劫相別れて而も須臾も離れず
 >尽日相対して而も刹那も対せず
 >(大燈国師)

まず、「渠」にあって(見性して)下さい。
話はそれからです。
0484鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/11/20(日) 07:47:17.53ID:2YJyCVSR
一七段のうちで最も重要なのは、第一段と第一七段とである。
第一段には理趣会曼荼羅の基礎となっている十七清浄句が説かれる。
これは男女の恋愛関係の過程をきわめて率直かつ大胆に一七段階に分析したものであって、すべてが清らかであると高唱している。
が、これはもとよりさとりへの道を比喩的に説いたものである。
これを文字どおりに具体的に実践したのが、真言宗の異端と目された立川流である。


密教経典 大日経・理趣経・大日経疏・理趣釈 (講談社学術文庫)宮坂 宥勝
0485鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/11/21(月) 13:36:00.38ID:G7v27ueh
神と人間との間に無限の質的相違が存するというその点に、取り去ることのできない躓きの可能性が存する。
愛の故に神は人間となる、神は語る、「見よ、ここに人間の真の姿がある、おおされど」と彼は附け加える、「汝心せよ、我は同時に神である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」神は人間として卑しい下僕の姿をとる、誰も自分は除けられているなどと考えぬように、また人間を神に近づけるものは人間的な声望や人間の間の声望であるなどと考えぬように、神は卑しい人間であることの何たるかを目のあたり示すのである。
いや、彼は卑しい人間である、そして彼は語る、「我を見よ、そして人間の何たるかを悟れ、おおされど汝心せよ、我は同時に神である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」或いは逆に、「父と我とは一つである、されど我はこの孤独なる卑しき人間である、貧しく、見捨てられ、人々の手に付され我に躓かぬ者は幸いなるかな。」「我、この卑しき人間たる我こそ、聾者を聞かしめ、盲人を見せしめ、跛者を歩ましめ、癩病人を潔め、死人をらしむる者である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」



自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。
0486鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/11/23(水) 12:31:14.24ID:7UhhBMkN
「神を感じるのは心であって、理性ではない。これこそが信仰である。理性ではなく、心に感じられる神」

「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」

「理性は、おのれが服従すべき場合があると判断しないかぎり、決して服従しないだろう。/したがって、おのれが服従すべしと判断するとき、理性が服従するのは正当である」

「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」
0488鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/01(木) 11:08:17.40ID:r/zkRRgv
ヘブライズム(Hebraism)とは、「ユダヤ人(ヘブライ人・ユダヤ教)風の文化性」のこと。一般的には、ヨーロッパにおけるキリスト教の文化性を指し、「ヘレニズム」(ギリシャ風の文化性)と共に、欧州文化の二大源流の1つとして言及する文脈で持ち出される。

「ヘブライズム」の特色は、すなわち「ユダヤ教・キリスト教」の特色であり、「ヘレニズム」との対比においては、「人間性」「理性」「論理性」が際立つ「ヘレニズム」に対し、

一神教
啓示・啓典・預言
戒律
終末思想
といった性格が際立っている。
0489鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/05(月) 10:18:31.53ID:KddFbLVK
岩波のキリスト教辞典から 神(観) について時代に沿って一部抜粋しました

 天地創造としての神
 契約しともにある「アブラハム・イサク・ヤコブ」の神
 愛と義の神
 終末的な審判の神
 超越的律法的な神

 受肉し反律法的な神の国を説いて刑死し復活したイエスの神

 三位一体の神
 無である神側面、愛による一致の目的である花婿としての神の側面
 
 形而上学の保証者(デカルト)
 神即自然の汎神論的神(スピノザ)
 哲学道徳の根拠(カント)
 歴史哲学の主催者(ヘーゲル)

 心理学の対象(ユング)、実質的な無神論(レヴィナス)
 実存者の生ける神(パスカル、キェルケゴール)
0490鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/05(月) 10:30:27.87ID:KddFbLVK
【共時的な(神の)特徴】 同じく岩波のキリスト教辞典より一部抜粋

①唯一神である
②絶対的唯一神ではなく三位一体である
③プロノティス的な流出論ではなく、ロゴスによる創造説
④非人格的な宇宙の理法ではなく、ペルソナ的、自己啓示・自己贈与な神
⑤契約を通して人類に関わる歴史内在的な受肉の神、非歴史的な不動の動者(アリストテレス)ではなく、終末論的な救済摂理の神
⑥人間の魔術的な制御を超えた自由な超越神
⑦ゆるし、愛、義、心砕かれた小さきものの神、自力的修業によって接する事はできず、信仰と祈りと希望のある共同体に現存する
⑧聖霊の働きを通じて通して苦難や体験等に隠れて現存し、未来を抜く隠れた神
0491鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/06(火) 00:16:41.20ID:ySFmap6Y
本覚法門は、こうした一念覚知速疾成仏の教理を確立し、 現世における我が身の成仏を主張したといえるが、この教理が極まった末に生じたのが天真独朗観であり、修行不要の成仏論であったといえる。


一方、本来清浄の法身を基底とする如来蔵思想では、色や煩悩は空であるが、心や菩提は空ではないと位置付ける。
そうであるから『起信論』では先述した「心の生滅」を説く前に真如を言説によって空と不空に分け、究竟して実を顕す如実空と自己に内在する常恒不変の浄法としての如実不空を説いたり、本覚が染に随う相を智浄相と不思議業相に分けて説く中で、智浄相を論じるに当たり、水と風と波動の譬喩を説くのである。要するに、真如を随縁・不変として相対的に観じながら、随縁であるがゆえの不変真如の存在と、不変であるがゆえの随縁的な真如の顕現を説くのである

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86%20%2042/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AB%96%E9%9B%86%20%2042%20009%E6%B8%85%E9%87%8E%20%E5%AE%8F%E9%81%93%E3%80%8C%E9%81%93%E5%85%83%E7%A6%85%E5%B8%AB%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E6%B3%95%E9%96%80%20%EF%BC%9A%20%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E6%95%99%E5%AD%A6%E3%82%92%E9%80%9A%E8%B7%AF%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%80%8D.pdf
0492鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/06(火) 00:22:58.34ID:ySFmap6Y
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。
0493鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/06(火) 00:29:43.76ID:ySFmap6Y
宝慶記より

道元
魚が水を飲んで冷・暖を自覚するよ うに、この自覚は覚であり、菩提の証果であると言うが、その自覚が正覚であるのならば一切衆生には自覚がある。
衆生はその自覚によって正覚の仏であるか。
また、一切衆生は本来的に仏であるとも言う。
更に、一切衆生は必ずしも仏ではなく、自覚性智の者が仏であり、そうでないものは仏ではないとも言うが、これらの説は仏法であるのか?

如浄
仮に、一切衆生が本来的に仏であると言えば、それは自然外道の見解と同じである。
自己と自己の所有する主体を以て、諸仏と比べれば、未だ証果を得ていないのに得たと思い、未だ仏法を証していないのに証したと思う増上慢の者の見解を免れることはできない。
0494鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/06(火) 00:33:18.54ID:ySFmap6Y
しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず、その一端なり。
>(正法眼蔵 仏教)
0495鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/10(土) 10:57:39.49ID:JPewI1hF
天台智顗は、絶対ということについて、相対的絶対(相待妙)と絶対的絶対(絶待妙)の二種あることを注意している。
つまり、相対的存在にたいして立てられた絶対的存在は、相対的存在にたいするものとして、真の絶対とはいえず、いわば相対的絶対として、それ自身、相対的存在におちいるということ、したがって、真の絶対的存在は、相対的存在と絶対的存在との相対・対立をもう一歩、突破・超絶した、いわば絶対的絶対として存するということである。
たとえば、相対的存在として人間がとりあげられ、それにたいして唯一絶対の神が立てられるが、そのようにして立てられた神は、人間に相対・対立するものとして、真の絶対的存在とはいえず、真に絶対的な神は、人間と神との二元対立を、いま一歩こえたところに見られるということである。
凡夫と仏についていえば、凡夫と仏との相対・対立を超絶した非凡非仏、仏凡不二一体のところに、真に絶対的な仏が存するということである。

(仏教の思想 絶対の真理 天台 角川ソフィア文庫 より)
0498鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/13(火) 12:05:41.29ID:CfN9RZNd
イマヌエル・カントは哲学を営む能力である理性の関心について、『純粋理性批判』において次のように述べている。

わたしの理性のあらゆる関心は(思弁的関心も実践的関心も)つぎの三つの問いに集約される。
 わたしはなにを知ることができるか。
 わたしはなにをなすべきであるか。
 わたしはなにを望むことを許されるか。

別の箇所では、ここの第一の問いに答えるのは「形而上学」であり、第二の問いに答えるのは「道徳」であり、第三の問いに答えるのは「宗教」であると述べている。
そして、「人間とはなんであるか」という第四の問いを立てて、これに答えるのが「人間学」であると述べている。
そしてさらに、最初の三つの問いは最後の問いに関わるのであるから、形而上学、道徳、宗教の全体を結局、人間学と見なすことができる、と述べている。

カントは形而上学と道徳と宗教とを人間学としてまとめているが、最初の三者は並列的関係にあるのではなくて、発展的関係にあるのであるから、人間学の中心は宗教である、と言ってもけっして失当ではないであろう。
したがって、カント哲学は、全体として宗教哲学以外のなにものでもないという解釈も、あながち牽強付会とは言えないであろう。
形而上学的な問いから始まって人間学的な問いにいたる過程は、いわば直線的である。
そして、この直線は定直線であって、人間学的な問いはその終点である。
この終点を超えてさらに問うとき、新しい次元の問いが生まれる。
それは「神とはなんであるか」という神学的な問いである。
そしてさらに、この問いを超えて問うとき、「人間とはなんであるか」という問いがまた新しく問われることになる。
言い換えれば、人間学的な問いと神学的な問いとは循環しているのである。
実際、人間はその神関係において、そして神はその人間関係において、自らを開示するのである。
こうして、哲学と宗教とはある種の緊張関係にあるのである。
0499鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/13(火) 12:05:48.62ID:CfN9RZNd
しかしながら、自己絶対化が同時に無的であるならば、対立はあっても、相互否認は起こりえない。
対立・対論は必要なのである。
必要というより、必然的なのである。
これがなければ、真理性の放棄に等しい。
互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。
単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。
真理と真理とは対立しつつ融和するものである。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫)  量 義治  )
0500鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/13(火) 12:14:06.14ID:CfN9RZNd
知ること、実践すること、向上することって事でしょう。
或る意味、公案の理知・機関・向上と同じ。
0501鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/19(月) 14:45:53.31ID:UdgTQd0u
参考まで

求道者(きゅうどうしゃ) (ラ)catechumenus (英)cate-chumen
キリスト教の教を学び、回心と信仰の道を歩み始めた者の事。
(中略)
求道期には((ラ)catechumenatus)キリスト教的な生き方や教えの基本を学び、祈りの仲間に加わる。
(中略)
洗礼を受ける意思が明確になると洗礼志願式を受け、洗礼志願者と認められる。
(岩波 キリスト教辞典 より)


求道(ぐどう)
(前略)
仏教語としては、仏道を求める、仏の教えを願い求めることで、求法(ぐほう)に同じ。
(岩波 キリスト教辞典 より)


求道(ぐどう) の意味
1 仏語。仏の教えを求めること。求法 (ぐほう) 。
2 真理を求めること。きゅうどう。
(goo辞書 より)
0502鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/20(火) 06:05:37.44ID:9GXQVH1W
reason
理由,わけ,動機,(…の)理由,道理,理屈,理性,思考力,判断力,分別

intelligence
知能,理解力,思考力,知性,聡(そう)明,(すぐれた)知恵,機転,知恵,賢明にもこと,知性的存在

understanding
理解,会得,理解力,知力,(非形式的な)合意,了解,申し合わせ,合意,(他人に対する)わかりのよさ,同情心
0503鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/20(火) 14:13:37.07ID:a2hF2vNK
理性と信仰の問題について悩んでた小森くんは、或る時禅宗の老僧を訪ねて問いました。

小森「理性と信仰の対立はどう克服するされますか?」
老僧「小森さん!」
小森「はい?」
老僧「それは理性かな?信仰かな?」

小森「……、あーーーっつ!!」

小森くんはその問題を克服しましたとさ。
0507鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/24(土) 13:08:52.07ID:V6q18UWE
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」
アリストテレス(『形而上学』岩波文庫 21頁)
0508鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/24(土) 13:15:19.59ID:V6q18UWE
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」
(アリストテレス『形而上学』より)

人は問うわけで、それに対して答えるのが真理です。

その真理に対して、

 正しい推論を重ねて到達しようというのが哲学(理性)
 啓示や創唱によって既に示された真理を解釈するのが神学

だと思うんです。
0509鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/24(土) 18:14:57.13ID:sM7Wk0lN
トマス・アクィナスの神学は、主知主義の神学である。主知主義とは、知性とか理性と呼ばれる認識能力が、人間のもつ意志という主体的実践能力がはたらく前に対象を認識して、意志が「自由にはたらくことができる場」をあらかじめ用意している、という思想である。つまり理性の認識こそが意志の自由を保障している、理性こそが自由の根拠である、という思想である。
0510鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/25(日) 19:41:47.19ID:H9kQWSNU
【キリスト教での理性解釈について~キリスト教では理性をどう見るか?】

聖書的な知(グノーシス)と異なる哲学的思惟や歴史自然の合理的法則。
キリスト教的神学や哲学は、ギリシャ哲学の理性(ヌース)を成立基盤の一つとしている。
(中略)
キリスト教は啓示宗教であるので、ギリシャ神学のように神と人間理性との間に質的連続性をおくことに疑義が生じた。
従って教父時代から中世にかけて啓示と自然本性的理性、信仰と理性の関係が深刻に問われた。
(岩波キリスト教辞典より)
0511鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/25(日) 19:48:57.74ID:H9kQWSNU
【キリスト教での理性解釈について~キリスト教では理性をどう見るか?(2)】

キリスト教信仰こそが哲学であるとしたユスティノス以来、極端な不可知論に陥ちることなく啓示と理性の調和がはかられ、その立場は「恩恵は自然(理性もここに含まれる)を破壊せず、むしろこれを完成する」という、トマス・アクィナスの言葉に表現される。
しかしその際、神を人間的理性概念で規定しようとする異端的立場は極力避けられ、逆に「神が何であるかというよりも何でないか」を知るという否定神学が根本的な理性の態度とされた。
(岩波キリスト教辞典より)
0512鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/25(日) 19:53:49.47ID:H9kQWSNU
【知解を求める信仰】
神の存在証明の古典として知られるアンセルムスの書物「プロスロギオン」の原題であり、広くはキリスト教教学一般の標語。
彼は自らの信仰経験を純粋に理性と論証(文法学と弁証法)とによって解明すべく<信仰に知解を与える神>に呼びかける。
0513鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/26(月) 11:55:51.99ID:k7guETve
前スレ>>992
> ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラそーギャーテー
> ボージーソワカーの意味はわかりますか?

勿論、意味は存じておりますし訳す事も可能ですけど、敢えて訳さずに真言として説いたところにこのお経の深い妙味があるんです。
その理由について説明すると相当に長くなりますので割愛しますが・・・

以下の本が分かりやすいでしょう。
 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫) 文庫 – 2004/8/25 宮坂 宥洪  (著)
0514鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/26(月) 11:59:10.52ID:k7guETve
前スレ>>998
> アドルノは否定弁諸法、デリダは、ディコンストラクション。。
> 否定神学者ではありません。。
> こんなの常識だよ。。w

???

誰が神学者とかいいました?
否定神学に連なるって事ですよ?

それのどこが間違いなんですか?

ロンさんは 岩波のキリスト教辞典が間違ってる! と言いたいんですか?

www
0515神も仏も名無しさん
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2022/12/26(月) 12:28:23.67ID:YN4SnU8c
>>975
> >等しく西洋でも否定神学というのがあり、現代でもアドルノやデリダ等がその例ですよね。
> またデタラメ。。w


バーカ、否定神学の要素を持つことと否定神学であることはまったくちがうんだよ。。
おまえは、否定神学の例が、アドルノやデリダであると言ってる。。
それはまったくデタラメ。。w
お笑いです。。w

そもそもA的な要素を持つものが、Aであるとか、Aの例であるとする、鹿の頭が悪すぎ。。w
イルカや猿にも人間的な要素があるから、イルカや猿は人間の例である、という論法。。w
単にバカ、論理的な思考、理解ができないのである。。w
0516鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/26(月) 13:12:06.59ID:k7guETve
カテキズム要約(コンペンディウム)より理性に関する項を抜粋。

1-1-3
理性の光だけでどのように神を知ることが出来ますか。

人間は、創造から出発して、すなわち世界および人間の人格から出発して、理性だけで確実に神を、万物の起源や目的として、また、最高の善、真理、無限の美として知ることが出来ます。

1-1-4
神の神秘を知るためには理性の光だけで十分ですか。

人間は理性の光だけで神を知ろうとするとき、多くの困難に出会います。
しかも、自分だけでは神の神秘の内奥に入ることは出来ません。
このため、神は人間の理解を超えた真理だけではなく、それ自体、理性によって到達できる宗教的、道徳的真理についても、啓示をもって人間を照らそうと望まれました。
それは、これらの真理が、すべての人に、容易に、ゆるぎない確実さをもって、誤りを混じえないで知られ得るためです。 
0517鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/28(水) 11:19:52.46ID:qGnshDZM
ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。
思考がこのロゴスを実行に移すには、言語によらなければならない。
人類のあらゆる言語は統辞法にしたがうので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸にしたがって伸びていく「線形性」を、その本質とすることになる。
これにたいしてレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。
語源的には「事物をまるごと把握する」である。
ここからロゴスとは異なる直観的認識がレンマの特徴とされる。
言語のように時間軸にそって事物の概念を並べていくのとは異なって、全体を一気に摑み取るようなやり方で認識をおこなう。
(中沢新一 レンマ学 より)
0518鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/28(水) 11:29:54.40ID:fVBw/fC/
第三問 神の単純性について  或るものについて、そのものの「在る」ということが知られた場合、探究すべくなお残されている問題は、「どのように在るか」であり、このことが問われるのは、そのものの「何であるか」を知るためである。しかしわれわれは神について、その「何であるか」を知りえず、ただ「何でないか」を知りうるのみであるから、われわれは神について「どのように在るか」ではなく、むしろ「どのようにないか」を考察しうるのみである。それゆえわれわれはまず第一に、神はどのようにないかを、第二に、われわれによってどのように知られるかを、第三に、どのように名づけられるかを考察しなければならない。(トマス・アクィナス『神学大全』)
0519鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/28(水) 11:44:06.66ID:Df9dvCcD
トマス・アクィナスがここに示しているのは、東方で発生しそののち西欧に広がった「否定の道via negativa」と呼ばれる神探究の方法である。
神(一者)の超越性を強調してそれを思考と言説を超える者として、否定的に規定する方法である。この方法は新プラトン主義のプロティノス(二〇三頃‐二七〇頃)にはじまって、しだいにキリスト教に受容されていった。
この否定神学の背後には、ロゴス的知性を重視したギリシャ哲学の強い影響を見ることができる。真理を語る言説と思考は、正しい言語用法、すなわちロゴスにもとづいていなければならないという前提に立つと、神はその言語的ロゴスから超越する者である。
神は啓示と恩寵をつうじて人間に知られるが、それはロゴス的知性からは超越している。
したがってその超越者である神について、思考と言説によって「かくかくの存在である」として語ることはできない。
それゆえ、啓示の神については、「どのようにしてないか」という否定的な形をとおしてしか、語ることができない。
(中沢新一 レンマ学 より)
0520鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2022/12/28(水) 21:10:49.57ID:OApigLCl
【肯定神学】(岩波キリスト教辞典より抜粋)

否定神学の対極をなすもので、神について語る時に、「神は・・・である」と正面から述べていくことを中核とする神学。
神が何であるかは、もとより十全な仕方で述べえないのもであるが、人間理性の能力の可能な限り、神のあるべき姿を記述し、それによって神を理解し、人に伝え、信仰の授けとしておくことを目的とする。

(中略)

教父の場合は特に、学問としての神学よりはむしろ、神に向かう態度をさしていると考えてよい。
0521鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/29(木) 08:18:38.26ID:pDohUhfp
古代ギリシャでは理性という言葉で、二つの意味が同時に言われていた。
一つは今日でも認められているこの言葉の通常の用法、すなわち「事物をとりまとめて言説化する」という意味であるが、そこにかつてはもう一つ別の意味が加わっていた。
それは「直観によって全体をまるごと把握し表現する」という意味である。
前者は普通に「ロゴス」と呼ばれたが、後者には「レンマ」という別の呼び方が与えられた。
理性には「ロゴス的な知性」と「レンマ的な知性」の二つの知性が共存しているのである。
(中沢新一 レンマ学 より)
0522鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2022/12/29(木) 11:36:26.28ID:L6NbyXKD
ヨーロッパ哲学における「否定神学」の論理は、ナーガールジュナがレンマ的な知性を表現として用いた「否定の論理」とは違う。
0523鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 08:49:21.10ID:bH9TcYSO
癒やしスレでは神について、旧約と新約の連続性が話題になっている。

これについて、例えば満潮の時に見えた二つの岩が引き潮の時に一つだった事は往々にしてよくある事で、どちらを真実と或いは錯誤とするものなのかを考えた場合、観点或いは遠近主義(パースペクティヴィズム)というのがあるわけで、掛かる意味に於いて、どちらも真理でありどちらも錯誤と云える。

もっとも公理上は新旧の神が連続とされるけど、それは一旦さておき、禅や西田哲学に惹かれてる者からすれば、むしろその「連続と非連続に通底するもの」に関心がある。
0524鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 09:40:21.04ID:bH9TcYSO
未分節も分節もいわゆる純粋経験(=意識現象)という西田哲学。
0525鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 09:57:56.82ID:bH9TcYSO
対立する未分節と分節を包括する「自覚」という西田の思想。
0526鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 10:26:33.00ID:bH9TcYSO
AはBであるというとき、その判断は主語と述語の一致や結合ではなくて、一般者の自己分化ないし自己限定である!?
0527鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 13:58:18.53ID:bH9TcYSO
もしあらゆる述語一般を超越した個物がなお判断の対象となりうるとすれば、その場合、もはや個物を述語する一般者はないのだから、主語である当の個物自身が自己の述語となると考えるほかはない。
しかるに、それは個物が無限大の述語をもつということであり、主語が自分自身の述語となるということである。
すると、ここに包摂関係の逆転が生ずる。
つまり判断における述語(一般)と主語(特殊)の包摂関係を無限に拡大していけば、特殊化の極限にあると考えられる個物は、逆に最大の一般者、「一般者の一般者」つまり一般者の極限となり、したがって絶対無となる。
なぜなら、それはもはやどのような一般者としても規定されないからである。
そしてすべての特殊は、このような無限大の一般者すなわち「絶対無の場所」に映されると考えなければならない。
それをいいかえれば、個物は自ら無にして、自己の内に自己自身を映すのである。
それは主語が述語となり、述語が主語となるということにほかならない。
もちろん、ここでいう述語は単なる一般者すなわち抽象的一般者ではなく、具体的一般者であって、前者は後者の抽象的限定面と考えられなければならない。
こうして真の個物である真正の自己は絶対無であることになる。
それゆえ絶対無の場所は自己の内に個物を包むとともに、個物は自己自身の内に絶対無の場所を包むのである。
「包むもの」が同時に「包まれるもの」であり、反対に、「包まれるもの」が同時に「包むもの」である。こうして個と普遍は相即相入の関係にあることになる。

西田幾多郎の哲学――物の真実に行く道 (岩波新書) 新書 – 2022/5/20

小坂 国継  (著)
0528鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/01(日) 14:00:14.04ID:bH9TcYSO
見るものが見られるものというのは直観的に把握されるけど、論理的に説明するとこうなるってお手本のような文章。

 これは 💮 だなw
0529鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/01/02(月) 09:53:06.27ID:Kxgr/kOl
勿論、正当性云々は論じませんけど、マリア崇敬がカトリックの大事な事は存じております。

賢明な皆さんはニーチェの遠近主義(パースペクティヴィズム)をご存知かと思いますが、例えば満潮の時に見えた二つの岩が引き潮の時に一つだった事は往々にしてよくある事で、どちらを真実或いは錯誤とするものなのかを考えた場合、観点或いは遠近による視差が避け難い事は往々にしてよくある事だと思うんです。

掛かる意味に於いて、どちらも真理でありどちらも錯誤と云えるでしょうし、また、宗教や哲学者では「原典の積極的誤読」により新たな思想や信仰の水平線が切り拓かれる事はよくありますよね。
0530鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/01/07(土) 13:18:35.38ID:exVE/IRP
絶対は自分自身を否定し、その否定した自分自身に対するのである。
というのも絶対は相対に対することはできないが、しかし何ものにも対しないのは、それ自身、何ものでもないからである。
絶対とは、いわば自己否定の働きであって、不断に自分自身を否定する。
そうしてそのように否定された自分自身に対するのである。この絶対の否定態こそ相対にほかならない。

この意味で、相対は絶対の顕現であり、自己限定の諸相である。
絶対は自己を否定することによって自己を相対化し、そして相対化した自己に対するのである。
これが絶対と相対の真実の関係である。

同様に、相対はそれ自身では絶対に対することはできない。
もし相対が絶対に対するとすれば、その場合、相対はもはや相対ではなく、絶対であることになるだろう。
あるいは相対に対する絶対はもはや絶対ではなく、一つの相対であることになるだろう。  

では相対はどのようにして絶対に対することができるだろうか。

西田の考えはつぎのとおりである。  
相対は自分自身を否定することによってはじめて絶対に対することができる。
しかるに相対が自分自身を否定するとは、相対であることを否定して絶対になることである。
それゆえ相対は自己を否定して絶対になることによってはじめて絶対に対することができる。
だとすれば、絶対も相対も、ともに自己を否定することによってはじめて相対することができる。
対極の位置にある絶対と相対は相互の自己否定をとおして対面していることになるだろう。
そうして絶対と相対との間のこうした相互否定的な対応関係を、西田は「逆対応」と呼ぶ。
宗教的信仰において人間と神、衆生と仏が相対するのは、こうした逆対応によるのである。
0531鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/01/09(月) 19:26:52.98ID:tuG6zC7/
神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によつて有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有である

by 西田幾多郎
0532鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/01/14(土) 20:28:10.62ID:WS5/8j/K
『ハディース イスラーム伝承集成』のⅤは「婚姻の書」ではじまっていますが、ムハンマドは結婚しないと言っている者に対して、「なぜあなた方はそのようなことを言うのだ。わたしは誰よりも神を怖れ畏んでいるが、断食しては食べ、礼拝しては眠り、また女を娶りもする」と述べた上で、「このわたしの習わしを嫌う者はわたしの仲間ではない」と言いきっています。  
禁欲についてもそれを斥け、「せっかくアッラーが許し給うたおいしいものを勝手に禁忌にしたりしてはいけない」とさえ述べていました。禁欲主義は、アッラーの教えに反するというわけです。

島田 裕巳 性(セックス)と宗教 (講談社現代新書)
0536鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/01/21(土) 20:05:52.48ID:N906RcoK
1.挟帯の読み

 =けったい
(唯識とはなにか「法相二巻抄をよむ」横山紘一 新装版第一刷 P251)
 横山紘一は法相宗僧侶

 2.無分別智を得るとあるのだから、有因有果
 
 無分別智は無為法なので非該当(ちなみに後得智は有為法)


3.眼識は無記・現量
 
 (唯識とはなにか「法相二巻抄をよむ」横山紘一 新装版第一刷 P89)


4.>>末那識は「有覆無記」「恒審思量」なのですが、
  >>意識に対してその勢力は弱く間接的とされてます。
  >>言わずもがな無記、つまり中性ですからそうなのでしょう。
  >こんなことを主張する学者も僧侶もいない

 (唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) 多川 俊映(二 第二能変 第七末那識ー意識下の自己中心性ー 末那識の性質 の項))
0537鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/01/31(火) 13:26:19.77ID:cUISQhIj
いま、ニコラウス・クザーヌスの「学識ある無知について(山田桂三 訳 平凡社 刊)」を読んでるのですが、こんなのがあるのです。

ところで、全て探究者という者は不確実なものに対して何らかの判断を下そうとする場合には、そのものをあらかじめ前提されている確実なものと比例的な仕方で比較する。
それゆえに全ての探究は比較によって行われる。
そして、求められているものが、比例的還元(proportionalis reductio)にあたって前提と少ししか離れていない場合には、それを捉える判断は容易である。
しかし、〔大きく離れていて〕多くの中間項を必要とする場合には、厄介で困難である。
このことは数学では周知のことであって、より先なる命題は最もよく知られている基本的諸原理に易々と還元されるが、より後なる命題は前者を媒介にして初めて可能なのであるから、その還元はより困難である。  
それゆえ、探究は全て、難易の差はあっても、比例による比較によって成り立っている。したがって、無限なるものは、無限者としてどのような比例関係をも超えているために、知ることができない。
0538鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/02/10(金) 12:19:38.14ID:jo3Ak58m
この第二の側面に関して先ず注意されなければならないのは、「無」といい「空」という絶対無分節の形而上的状態としての「現実」はそれ自身のうちに自己分節への存在的傾向を内包しているという事実これもまた禅においては理屈ではなくて体験的事実なのですがであります。
絶対無分節者はいわばどうしても自己自身を分節せずにはおられない。「無名」は「有名」に転じていかずにはおられないのです。
0539鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/02/10(金) 12:20:32.61ID:jo3Ak58m
しかしながら、この「無名」の境地が禅の究極するところではないことにもまた注意する必要があります。
もしこれが究極の境地であるなら、一度言語分節の存在的次元を超え出てしまったら、もう言語など、なんの用もない、無用の長物ということになりましょう。
言葉もなければ対話もなく、一切の言語活動はただ純粋に否定的意義においてしか問題にもならないことになるはずでありましょう。
なぜなら、言語は「現実」の偽りの図像を描き出してみせる存在的悪にほかならないのですから。
そして事実、私はここまで、ただ言語的意味分節の否定的側面だけを論じてきました。
だが本当は、言語にたいする禅の見方には、これとは反対の積極的、肯定的な側面もあるのです。
0541鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/15(水) 23:52:23.04ID:/lpqVcZz
朝日新聞出版
死者と霊性の哲学
ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧
末木文美士
0542鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/15(水) 23:56:48.49ID:/lpqVcZz
霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うもの
(鈴木大拙 日本的霊性)
0543鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/16(木) 11:20:51.59ID:KOFmH1tb
霊性の定義については、一応、大拙さんのそれを目安にしておこう。
勿論、異論はご自由にだけど、レベルが低いのはチョットなぁ。

 ↓

霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うもの
(鈴木大拙 日本的霊性)
0545鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/19(日) 11:14:08.14ID:57cSCWhT
『死者は生きている 「見えざるもの」と私たちの幸福』 町田宗鳳著 筑摩書房
0548鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/02/21(火) 15:01:28.75ID:lSfRzktB
「実存」とは自らを客体化し事物化してとることなく、あくまでも主体的に人格として常に神聖なるものの現前において、しかり「神の実存的現前」において「時間」の根源性において意識することである。
日常性の神学的意識とはこのことを意味するのである。
この人格的存在として実存者なる人間はかくして無限性への可能性において自らの良心的倫理性の内面性を常に人格的に決意し改悔し奉献し、最も人格的なるまさにこの人格自らの創造主なる父なるものへの対話的立場に立つものである。
これはそれ故にこの世に死して生くる「愛」の出来事としての根源的歴史性の行動でなければならない。
それ故またそれは新しき高き実在の発見としてその栄光の「視」として天使の歓喜と祝福をかいまみる「詩」的創造の瞬間でなければならない。
(吉満義彦 詩と愛と実存 ー序論に代えてー より)
0549鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/23(木) 11:54:06.71ID:PV7HMlDD
埃まみれでも鏡は鏡に変わりはなくとも埃は鏡では無い。
0550鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/02/24(金) 13:28:31.71ID:eXGsst0c
ここには、北宗禅がもっていた定より悟りへの行道の立場が完全に突破されて、体用不二の徹底がみられる。それは現実的な用としての行道の契機であった分別や妄念の偶然性を批判して、絶対的な空寂の本体に帰入せしめることによって、透徹した一元論の立場を貫くものとはなったが、反面に本知の対象を欠くゆえに、用をたんなる気まぐれな遊びとし、ひいては体をすら無意味で偶然的な存在とする悪しき形而上学と化する危険性をはらむものであった
0551神も仏も名無しさん
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2023/02/26(日) 16:42:21.56ID:Ty1DNX38
        r-──-.   __
     / ̄\|_D_,,|/  `ヽ   【呪いのパンダ】
    l r'~ヽ ゝ__.ノヽ/~ ヽ l
    | |  l ´・ ▲ ・` l   | |  とてもカワイイこのAAを旧統一教会関係者の荒らしが見たら即タヒします♥
    ゝ::--ゝ,__∀_ノヽ--::ノ   他の場所にコピペしても無駄です♥
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      .〔:::::l     l:::l
      ヽ;;;>     \;;>
0552鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/03(金) 14:11:28.89ID:ikM03M/a
行為と煩悩の止滅によって解脱がある。
行為と煩悩は思惟より生じる。
それらはことばの虚構による。
ことばの虚構は空性によって滅せられる。

(中論 龍樹)
0553鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/03(金) 14:14:59.39ID:ikM03M/a
心の対象が止滅するときにはことばの対象も止息する。
というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。
(中論 龍樹)
0554鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/03(金) 14:22:24.97ID:xhHF2qq3
他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構をによって論じられる事なく、思惟を離れて、種々性を越える。
これが真実の形である。
(中論 龍樹)
0555鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/04(土) 11:51:35.14ID:83F/fCx6
七)。教理としての理解にのみとどまる者は、無自覚的に、自我意識による増上慢におちいっているのである。自我意識が否定され尽して、捉えるものと捉えられるものとの二元性を離れた超世間的知識が得られたときにはじめて、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻の世界の全貌が明らかになる。
0556鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/04(土) 14:37:23.14ID:vZj5gI41
>末那識は、常に自我に執着しているのですが、しかしこの悪の業には関与しないのです。
>善の業や悪の業は、実は意識的な行為によるものなのです。
>(『成唯識論」を読む 竹村牧男 P118  「有覆無記に摂めらる。」)
0557鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/04(土) 14:51:17.93ID:vZj5gI41
>現量・・・現前にある対象をことばを用いること無く対象そのものを直接に認識する。
>(中略)
>この現量は術語を用いて表現すれば「任運にして無分別なり」「諸分別の行解を離れて任運に境の自相に称う」「境に任せてこれを縁ずる」などと定義される。
>とくに「分別を離れて境の自相に称う」という点に注目すべきである。
>境の自相とは対象の自体そのものいい、それを認識することを境の自相に称うという(現量が境の自相を認識するということは、つぎの比量が境の共相を認めるということと対比する)。
>(唯識とは何か ― 『法相二巻抄』を読む 横山 紘一 P117 )
0558鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/04(土) 15:52:13.03ID:vZj5gI41
「一心にもっぱら彌陀名号を念じ、行・住・坐・臥(一切の生活のあり方を通じ)に時節の久近(時間の長短)を問わず、念々にすてざる者を是を『正定之業』と名づく。かの仏の願に順うがゆえに。もし礼拝読誦等に依るは、すなわち名づけて助業となす」(散善義)
0559鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/04(土) 17:53:36.14ID:vZj5gI41
>仏教では真理の基準に、現量・比量・聖教量の三つの基準を立てている。
>現量は直接経験のことであり、それは疑いようのない事実であるので真理とされる。
>比量は推論による正しい認識で、論理的に正しいので真理とされる。
>聖教量は仏の説法(仏説)である経典の言葉であって、仏説は真理とされるのである。
>(唯識・華厳・空海・西田: 東洋哲学の精華を読み解く 竹村牧男  P45)
0561鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/05(日) 10:15:01.27ID:q6RpluyS
達磨不会禅(達磨禅を会せず) 夫子不知字(夫子字を知らず) (大慧)

地獄與天堂(地獄と天堂と) 総是閑家具(総にこれ閑家具) (普灯二九)
透過是非関(是非の関を透過して) 不住羅籠裏(羅籠裏にも住らず)

長伸両脚睡(長く両脚を伸べて睡れば) 無偽亦無真(偽も無く亦真も無し) (伝灯一五)


丁寧損君徳(丁寧は君徳を損じ) 無言真有効(無言真に功有り) (無門二七)
貪看天上月(天井の月を貪り看て) 失却掌中珠(掌中の珠を失却す) (類聚七)

独坐人不知(独坐人を知らず) 孤月照寒泉(孤月寒泉を照らす)
入林不動草(林に入って草を動ぜず) 入水不動波(水に入って波を動ぜず) (会元一六)
0563鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/06(月) 06:24:23.61ID:XixQXusL
・悟りの智慧は有為法で、それがはたらくためにはその種子が必要というのが法相宗の論理。
・その種子は無漏法の本性住種姓が持つ。
・その本性住種姓が法界より等流せる法(経論)の熏習によって開発され習所成種姓となる。
0564鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/06(月) 06:40:40.46ID:XixQXusL
資糧位
・所取・能取の二取に執着し、種子として蓄えられている(随眠)。
・仏性~本性住種姓(本来持っている)と習所成種姓(修業によって開発される)。
0565鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/06(月) 10:16:54.82ID:XixQXusL
>現前に少物を立てて、是れ唯識の性なりと謂えり。所得有るを以ての故に、実に唯識に住するに非ず。
0567鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/09(木) 10:11:54.40ID:soMT4Y8w
嫌がらせで変なの書くなよな。
吐き気がするんだよ、知障には。
0568神も仏も名無しさん
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2023/03/09(木) 11:27:26.09ID:TU8/2SK5
今迄自分の書いた事
全部やって。皆が思うこと
全部やって。皆が想う事。
よろしくどうぞ
0570鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/09(木) 19:04:53.07ID:D/KwapX1
何でこういう嫌がらせっを平気でするんだろうな?
知障のやることは理解不能。

せっかくのスレが汚れる・・・
0571鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/09(木) 21:22:33.08ID:D/KwapX1
鈴木大拙さんが面白いことを仰ってる。

>元来、「自性は常に清浄である」から、清浄を求めんとするときかえって清浄から離れ去る。
>求めんとする道程そのものが自性なのだから、これからそれへと進み行くことはない。
>これがそれで、それがこれだから、この二つをわけて、その間の移動を作るは、雲なき空に雲を出して天日を遮るものである。
>それは見性ではない。
>見性は直ちに見性で、性を見んとするとき、即ちそこに何かの技術か手段か媒介かを入れると、性は見えなくなる。
>見得たるものがあるとすれば、それは能所の上、知性的論理面の話で、見性の事実ではない。
>此処に修禅の本質的矛盾がある。
>神秀と慧能、北宗と南宗の分裂は、この矛盾そのものを表象していると云ってよい。
>悟りは元来悟りで、悟ることではないのである。
>それでも悟ると云わなければならないように人間が出来ているので葛藤がある。
0572鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/11(土) 11:49:15.85ID:+wysqww9
だが現代仏教学のファウンダー、中村元はこれをあからさまに否定した。「チベット『律蔵』および漢訳『有部律破僧事』によると、釈尊はすでにさとりを開いたあとで、しばらくたってから十二因縁を観じたのであり、縁起説とさとりとのあいだに本質的な連関は存在しない」(中村『ゴータマ・ブッダ普及版上』春秋社)
0574鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/11(土) 12:43:24.26ID:sdoU6cgk
また知障の嫌がらせか。
こんなことをしてタダで済まないだろうな・・・
0575鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/11(土) 23:51:29.97ID:sdoU6cgk
諸行無常というとき自己言及のパラドックスが生じる訳ですが

「すべては無常である」といわれるが、このばあい、説こうとされていることを知らねばならない。
なぜなら、無常なるものも恒常なるものもなんらないからである。
もし存在があるならば、恒常なるものか無常なるものかであろうが、それらの存在がどこにあろうか、どこにもない、と説いたのである」

(瓜生津隆真訳「空七十論(七十詩頌の空性論)」『大乗仏典14 龍樹論集』中公文庫 p132)。

と、龍樹菩薩は答えてる。
0576鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/11(土) 23:53:11.17ID:sdoU6cgk
論理操作の対象ではなく、危機意識という自覚に過ぎない。
0577鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/12(日) 00:30:38.12ID:6cnOBXa5
中論

勝者(=佛)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であると言われた。
しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。
(13−8)
空性は、間違って理解すると、捕まえ方を間違えたヘビのように、あるいは間違って唱えた呪文のように、愚か者を破滅させる」
(24−11)
したがって、この[空性の]教え(法)は愚者たちに理解しがたいと考えて、[釈迦]牟尼はそれを説くことを躊躇されたのであった
(24−12)
0578神も仏も名無しさん
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2023/03/13(月) 00:42:39.53ID:bHp4cr1J
樋口カッター!


お前も、か~い


セックすセックす自分がセックす馬鹿組織
0580鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/15(水) 16:16:59.76ID:UKVBow/K
何の引用からかは忘れたw

直接経験
例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。
実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。
これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。
そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。

直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。
しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。
例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。
「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。
また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。
0582鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/18(土) 19:55:26.29ID:ZSSXXhIo
妄想がなにかに関連付けられて起こるのなら、関連されるようなものが少ないほうが楽といえば楽。
0583鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/18(土) 20:07:07.54ID:ZSSXXhIo
認識するものそれ自体は決して認識されません。
そして、ヤージュニャヴァルキヤはそれは「非ず、非ずとしか云いようがない」と云ったわけです。
つまりそれは概念操作の対象ではないという事なのですが、それがいつの間にか概念操作の対象となり、「認識されなくとも、認識がある以上は認識するものがあるのではないか」ということから、真我論が形成されてその探求が為されていくようになったのではないのかと思うんです。

そしてお釈迦様もそれを探求するために苦行を行ったわけですが、いくら苦行を重ねても真我を得ることはなかったのです。

そりゃ、そうですよね。
概念操作の対象とならないものを概念化してそれを探求していたんですから・・・
0584鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/18(土) 20:11:36.33ID:ZSSXXhIo
苦行以前にお釈迦様は、アーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[4]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。
0585鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/18(土) 21:10:48.36ID:ZSSXXhIo
有部は六根・六境・六識の実在を説く、まぁ、外界実在論なのですが、大乗仏教は識のみとする訳です。
唯識は基本的に四分説(見分(所量)・相分(能量)・自証分(果量)・証自体分(量果))を説くのですが、その発生に時間的な差異を認めません。

   相分(能量) ←(三量)← 見分(所量)

            ↑(三量)
       
          自証分(果量)

       (現量)↑ ↓(現量)

          証自証分

(現量は直接経験のようなもの(P87))
0586鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/19(日) 00:14:15.72ID:4ZOJuWNz
ヴェーダでは宇宙の根本原理としてブラフマン(梵)という常住が説かれ、アートマン(我)はそれに他ならないとされたわけです。
つまり、ここでは我=常住という図式が成立するわけです。

しかし、ブッダは五蘊は無常と喝破しました。つまり、五蘊は無常ですから我に非ずと。
0587鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/19(日) 08:42:04.06ID:4ZOJuWNz
五蘊説の蘊とはあつまりの意味であるから、五蘊とはつぎの五つのあつまりをいう。
 色(ルーパ)─いろ・かたちのあるもので、感覚的・物質的なるものをいい、肉体もこれに入る。
 受(ヴェーダナー)─感じてあらゆるものを受けいれる作用。
 想(サンニャー)─表象作用、すなわちイメージを構成すること。
 行(サンカーラ)─潜勢的な形成力で、能動的な心のはたらきをいう。
 識(ヴィンニャーナ)─了別といわれ、認識・判断の作用。
この五つがあつまって、人間の自我を形成しているが、自我については、先に論じたように、無我であり、したがって「五蘊無我」という術語を生じた。

(インド仏教思想史 (講談社学術文庫) 文庫  三枝 充悳  (著) より)
0588鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/19(日) 11:08:28.88ID:4ZOJuWNz
874ありのままに想うものでもなく、誤って想うものでもなく、想いなきものでもなく、想いに消滅したものでもない。
このように行じたものの形態は消滅する。
けだし(世界の)ひろがりの意識は、想いを縁として起こるからである。 

1037認識作用が滅することによって、名称と形態とがのこりなく滅する。

スッタニパータ
0590鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/21(火) 22:19:16.05ID:tw6zCH0P
加行位での修行(順決択分)
 順決択(智慧)分~煖・頂・忍・世第一法を行じる

  煖にて下(明得定)の頂にて上(明増定)の四尋思、所取は空なりと観ずる
  忍にて下(印順定)の四如実智、所取・能取はともに空なりと観ずる
  世第一法にて上(無限定)四如実智、所取・能取の空を印じて無間に見道に入る

   四尋思~名・義の自性・差別の空なることの観察
    名~能詮、名前
    義~所詮、名前に依って表わされるもの)
    自性~名前に依って自体(体性)としてとらえられたもの
    差別~主語・述語の中で認識されるもの
   四如実智~名・義の自性・差別の空なること决定(印)、見道へ・・・

   「名詮自性、句詮差別」

   明得定~意識の中で捉えられる対象(所取)に実体はないと観ずる
   明増定~上記を深く観じる
   印順定~下忍で所取の無、中忍で能取の無へ、上忍で能取の無を認め(印す)る。
   無間定~所取・能取ともに上記を深く観じその無なるを明瞭に認める
0591鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/21(火) 23:26:00.03ID:tw6zCH0P
お釈迦様の基本的なお立場は

 >世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
 >ただ永久のものだと想像しているだけである。
 >かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
 >(スッタニパータ 886)

でありましょうし、具体的には

 >師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。
 >無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。
 >それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。
 >(スッタニパータ 839)

ということなのでしょう。
しかしながら

 >わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
 >もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
 >(スッタニパータ 837)

であると。
 
0592鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/22(水) 16:32:39.09ID:htiKuo3G
人は、>>246というように言語を仮設して、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いている、と識ったのですよ。
0593鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 08:42:44.60ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい】


先ず、以下のような神話があり、

 >世の始まりにおいて、この世はないものであった。それがあるものであった

 >(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19)

それがウッダーラカによって否定されたんです。

 >息子よ、はじまりにおいて、この世はあるもの(サット)に他ならなかった。

 >(6−2)

そして

 >それは思慮した。私は多くなろう、私は増殖しよう、と。

 >(中略)まさにその神格は思慮した。

 >「さて、私は、これら三つの神格に、個体の生命であるこの自己をもって入り込み「名称と形態を様々に区分して作り出そう」と。

 >(6−2)

とアートマンの由来と「梵我一如」を説いています。。

また、その根元的一者の「自己分節」によってこの世が創り出されたと。

 >実にそのとき、世界は未分化であった。

 >それは、「名称と形態」によって区分された

 >ーそれは、これこれの名称をもち、これこれの形態をしている、と。

 >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1−4)
0594鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 08:48:26.71ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい 1】

先ず、以下のような神話があり、
 >世の始まりにおいて、この世はないものであった。それがあるものであった
 >(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19)
それが以下のようにウッダーラカによって否定されたんです。
神話から哲学への途が拓かれたと云ってもいいでしょうね。
 >息子よ、はじまりにおいて、この世はあるもの(サット)に他ならなかった。
 >(6−2)
そして
 >それは思慮した。私は多くなろう、私は増殖しよう、と。
 >(中略)まさにその神格は思慮した。
 >「さて、私は、これら三つの神格に、個体の生命であるこの自己をもって入り込み「名称と形態を様々に区分して作り出そう」と。
 >(6−2)
とアートマンの由来と「梵我一如」を説いています。。
また、その根元的一者の「自己分節」によってこの世が創り出されたと。
 >実にそのとき、世界は未分化であった。
 >それは、「名称と形態」によって区分された
 >ーそれは、これこれの名称をもち、これこれの形態をしている、と。
 >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1−4)
そして「汝はそれである」と説かれるんです。
 >この世界の一切は、この微細なものをそれ自身としている。
 >それは真実在であり、それは自己である。おまえはそれである。
 >(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19)
0595鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 09:18:31.97ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい2】


次にアートマンについて見てみましょう。

 >心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。

>(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。

>かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。

>かれはこの一切を自分のうちに包含している。

>かれは語らず、かれは悩むことがない。

>──これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。

>わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。

>このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。

>── と、このようにシャーンディリヤは言った。このようにシャーンディリヤは言った。」
0596鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 09:41:35.02ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい2】

次にアートマンについて見てみましょう。
 >心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
 >(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
 >かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。
 >かれはこの一切を自分のうちに包含している。
 >かれは語らず、かれは悩むことがない。
 >──これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。
 >わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。
 >このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。
 >── と、このようにシャーンディリヤは言った。このようにシャーンディリヤは言った。」
 >(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−14)
そしてそれは、ヤージュニャヴァルキヤによって
 >見るという作用の主体たる見る者を見ることはできない。
 >聞くという作用の主体たる聞く者を聞くことはできない。
 >思うという作用の主体たる思う者を思うことはできない。
 >知るという作用の主体たる知る者を知ることはできない。
 >(中略)万物を認識する認識主体を、どうして認識することができようか。
 >だからこれを、『ではない、ではない、のアートマン』という。
 >(中略)それは把握できないものであり、不可説である。
 >破壊されることもなく、汚れに染まることもなく、加えることも減ずることも出来ない。
 >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
と喝破されたんです。
0597鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 09:51:16.20ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい3】

ここまでのまとめ
 1.シャーンディリア ~ 「梵我一如」
 2.ウッダーラカ ~ 「汝はそれである」
 3.ヤージュナヴァルキア ~ 「~ではない、~ではない」
0598鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 10:01:46.22ID:7bpX4+Ls
【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい3】

ここまでのまとめ
 1.シャーンディリア ~ 「梵我一如」
 2.ウッダーラカ ~ 「汝はそれである」
 3.ヤージュナヴァルキア ~ 「~ではない、~ではない」


ブラフマンという根元的一者が、その思慮に依り名称と形態によって自己分節をし、個体(アートマン)となったのだと。
それ故に、「梵我一如であり」また「汝はそれである」と。
しかしその個体(アートマン)はそれを認識するもので、認識するものそれ自体は認識されようがないから「~ではない、~ではない」としかいいようがないと。

参照
 岩波仏教辞典、インド哲学10講(赤松明彦)、インドの思想(川崎信定)他
0599鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 10:38:01.28ID:7bpX4+Ls
>心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
>(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。

非常に面白い話ですね。
つまり、それは極大にして極小とでもいうのでしょうか。

こういう考察は、ニコラウス・クザーヌスも「無限なるもの」として、比例関係を超えたものとして、以下のように捉えてるようですが。

 >ところで、全て探究者という者は不確実なものに対して何らかの判断を下そうとする場合には、そのものをあらかじめ前提されている確実なものと比例的な仕方で比較する。それゆえに全ての探究は比較によって行われる。
 >そして、求められているものが、比例的還元(proportionalis reductio)にあたって前提と少ししか離れていない場合には、それを捉える判断は容易である。
 >しかし、〔大きく離れていて〕多くの中間項を必要とする場合には、厄介で困難である。
 >このことは数学では周知のことであって、より先なる命題は最もよく知られている基本的諸原理に易々と還元されるが、より後なる命題は前者を媒介にして初めて可能なのであるから、その還元はより困難である。
 >それゆえ、探究は全て、難易の差はあっても、比例による比較によって成り立っている。
 >したがって、無限なるものは、無限者としてどのような比例関係をも超えているために、知ることができない。
 >(学識のある無知について)
0600鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/26(日) 10:49:06.17ID:7bpX4+Ls
ここら辺は西田幾多郎も

 >我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。
 >絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。
 >故に我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である。
 >自己が自己自身を知る自覚ということが、自己矛盾である。
 >故に我々はの自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。
 >(「場所的論理と宗教的世界観」より)

と云ってますね。
0602鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/29(水) 07:53:49.69ID:S3PDw0GK
『小川 隆 禅思想史講義 』

 北宗    長安 神秀・普寂
 浄衆宗   四川 浄衆無相
 保唐宗   四川 保唐寺無住
 洪州宗   江西 馬祖道一
 牛頭宗   江南 牛頭法融
 南山念仏門 四川 果閬宣什
 荷沢宗   洛陽 荷沢神会
 (圭峰宗密 『円覚経大疏鈔』『裵休拾遺問』 (上記による))
0603鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/03/29(水) 12:37:54.41ID:S3PDw0GK
師地を掃く次、叫寺主、師に問う「何ぞ自ら駈駈たらんを得ん?」
師曰く、「一人有りて駈駈たらず」
寺主曰く「何処にか第二月有る?」
師掃箒を竪起して云く、「これは是れ第幾月ぞ?」
寺主無対。
(祖堂集 雲巖章)

「月に両箇有るを知らざれば、洞上の種草となること能わず」
瑩山
0604鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/29(水) 13:42:37.48ID:sJeNiC+L
自性霊妙(じしょうれいみょう)、常住の法に於いて、断滅(だんめつ)の見を生ぜざるを名づけて不殺生(ふせっしょう)戒となす。
自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗(ふちゅうとう)戒となす。
自性霊妙、無着(むじゃく)の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲(ふいんよく)戒となす。
自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語(ふもうご)戒となす。
自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒(ふおんじゅ)戒となす。
自性霊妙、無過患(むかかん)の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒となす。
自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他(ふじさんきた)戒となす。
自性霊妙、真如遍法界(しんにょへんほっかい)に於いて、一相の慳執(けんしつ)を生ぜざるを名づけて不慳貪(ふけんどん)戒となす。
自性霊妙、無我の法中(ほっちゅう)に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝(ふしんしんふじゅざんしゃ)戒となす。
自性霊妙、一切法中に於いて、生仏(しょうぶつ。衆生と仏)の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝(ふぼうさんぼう)戒となす。
(達磨大師相承一心戒文)
0605鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/04/01(土) 13:29:05.32ID:quLsVig0
対象化し得ないものを対象化して元に戻そうとするからおかしくなる。
0606鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/02(日) 09:27:55.99ID:Grix4A4T
正見というのは

>カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における集起(集まり起こること)を見るものには、世間において「無いこと」はない。
>カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅を見るものには、世間において「有ること」はない。
>(『サンユッタ・ニカーヤ』一二・一五)

という事なんですけどね。
なんか特殊な見解を云うことのように言ってる方が某スレに居られるようですが😯
0607鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/02(日) 09:51:54.42ID:Grix4A4T
>存在するもの(有)と存在しないもの(無)とをよく知る世尊は、「カーティヤーヤナの教誡」の中で、「何かが存在する」ということと「何かが存在しない」とういこと、そのいずれも否定された
>(中論頌15・7)

>「何かが存在する」というのは常住論であり、「何かが存在しない」というのは断滅論である。
>したがって、賢者は存在・非存在(有無)に依拠してはならない。
>なぜならば、「およそ固有の性質を持って存在するものが存在しないことはない(=かならず存在する)」と考えるなら、常住論が付随し、「それは過去に存在したが、今は存在しない」と考えるなら、断滅論が付随するからである。
>(中論頌15・10,11)
0608鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/02(日) 14:21:08.13ID:Grix4A4T
天台智顗 538年~598年(天台)
玄奘三蔵 602年~664年(法相)
慧能大鑑 638年~713年(禅)
恵果   746年~806年(密教)


百丈懐海 749年~814年(禅)


道昭 629年~700年(法相宗)
最澄 766年~822年(天台宗)
空海 774年~835年(真言宗)
0609鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/02(日) 17:26:14.48ID:Grix4A4T
>一切諸法は因縁によって生ずるから自性はない。
>これを真実の空(実空)とする。
>真実の空であるから、特徴がない(無相)。
>特徴がないから行為することがない(無作)。
>行為することがないから、生ずること、あるいは、滅することに住する法を見ることがない。
>この智慧のうちに無生法忍の門に入る。
>(大智度論)
0610鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/04/06(木) 10:57:43.45ID:u6lX+cQ5
空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。
一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。
(『中論頌』一三・八)

「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。
空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。
もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。
そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。  
したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。
「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。
空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。
0614鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/04/06(木) 12:34:59.30ID:SJMgETH6
お前の正体は分かってるんだよ。

スレが汚れるからやめろ。
0617神も仏も名無しさん
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2023/04/08(土) 07:56:19.72ID:5WDsz88X
四記問或いは四記答(一向・分別・反問・捨置)
相手方の質問形式の違いにより
 一向 ~ 適切であればそのままに肯定
 分別 ~ 理に適うかをどうかを分別して諾否する
 反問 ~ 即答を避け反問して問意を問い、或いは反語してその誤謬を悟らしむ
 捨置 ~ 非理・無効化の場合に沈黙し放置する
0618鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 09:43:32.88ID:5WDsz88X
真如諸縁
 『起信論』には、真如に不変真如と随縁真如とを説く。「真如」を明瞭に説くことは、中観派にはまだなく、瑜伽行派になって明確に説き出された思想である。
 しかし唯識派の真如は「真如凝然」であって、現象の諸行無常の世界に無関係な真如であった。真如は請法の内面的な実性であるが、しかし諸法の外面の差別相の、その差別の原理とはなりえないと考えられていた。

「真如」とは何かというに、真如は現象世界の本質である。一切のものが真如である。真如でないものはない。したがって真如を認識の対象として理解することは不可能である。真如を認識の対象とすると、自己は真如から漏れてしまい、真如でないものになってしまうからである。それでは「一切が真如である」ということはできない。そこに、真如が理論理性では捉えられないもの、禅定における般若の直観によってのみ把捉できるといわれる理由がある。換言すれば、真如を知るとは、自己が真如であることを自覚することである。それは、真如がみずから真如であることに目覚めることである。そこでは主客の区別は消失しており、一切が真如になった世界である。それ以外に真如を知る方法はない。換言すれば、悟りの智慧が真如である。唯識ではこれを、根本無分別智という。無分別とは直観をいう、洞察のことである。

(続く)
0619鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 09:43:51.37ID:5WDsz88X
 次に、この無分別智の洞察に立ちながら、相対的な差別の世界を認識するのが、後得智である。これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。
 『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。
 すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。

(続く)
0620鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 09:43:57.87ID:5WDsz88X
 先に、真如を知るとは真如になることであり、真如と真如を知る智慧とは別のものではないといったが、ここに悟りの智慧が、すなわち真如であるという結論になる。『起信論』が、真如を如来蔵と見る理由はここにある。
 しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。
 この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。

 この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。
 これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。
0621鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 10:32:12.68ID:5WDsz88X
本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。
始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。
(大乗起信論 正宗分・解釈分)
0622鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 10:47:56.50ID:5WDsz88X
大乗起信論に曰く
 >本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。
 >始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。
 >(大乗起信論 正宗分・解釈分)

初めて覚ることに依って、本来覚ってる世界があることを否定しようがない、って事だと思うんです。
本来覚っているからこそ不覚があり不覚があるからこそ始覚が有るという理屈なんです。

だからこそ「悉有仏性」であり「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」なんです。
0623鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 10:50:46.31ID:5WDsz88X
何かしらの真如や法性が存在してると云うのは発出論であり、仏教の主張するところではないんです。
(大乗起信論を読む 竹村牧男 P73 )
0627鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/08(土) 11:15:01.91ID:5WDsz88X
490 鹿野園 (ワッチョイW 9521-KpJo [60.132.241.135]) [sage] 2023/04/07(金) 08:40:51.47 ID:vrO6wJNp0
削除対象アドレス:
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/611-613
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/615-616
削除理由・詳細・その他:
5 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿
6 連続投稿・重複

491 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d (ワッチョイW 1d21-De/q [60.132.241.135]) [sage] 2023/04/08(土) 11:12:08.80 ID:xw/V2+A+0
削除対象アドレス:
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/624-626
削除理由・詳細・その他:
5 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿
6 連続投稿・重複
0629鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
垢版 |
2023/04/08(土) 14:16:58.37ID:5WDsz88X
>これがあるとき、かれがある。
>たとえば、長があるとき、短があるように。
>これが生じるとき、かれが生じる。
>たとえば、灯火が生じるとき、光が生じるように。
>一方また、短がなければ長は自体として存在しない。
>また灯火が生じなければ、光もまた生じない〔49〕
>(『大乗仏典14 『龍樹論集』 「宝行王正論(一連の宝珠─王への教訓)」 瓜生津隆真訳 中公文庫 より)
0631鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
垢版 |
2023/04/08(土) 15:10:03.70ID:5WDsz88X
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死

 発生順~順観、生起門(無明があるから行がある・・・)
 消滅順~逆観、還滅門(無明が滅すれば行も滅する・・・)

 原因へ~往観(老死の原因は生である・・・)
 結果へ~還観(無明が原因で行がある・・・)
0633鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
垢版 |
2023/04/09(日) 08:32:02.29ID:fWE4PYwI
495 まとめ (ワッチョイ e3e1-Ay2p [27.82.195.172]) 2023/04/09(日) 03:25:14.06 ID:JvS4MAUK0
ここまでのまとめです。
[最終処理報告 2023/03/02 (>>488)]
[処理後初依頼 2023/04/07 (>>489)]
ローカルルール:https://rio2016.5ch.net/psy/head.txt

dat落ちを除いた>>494までのまとめです。

GL5 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 + GL6 連続投稿・重複
>>489-491,493-494
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1590205575/611-613,615-616,624-626,628,630,632
>>492
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1680850405/5-6,11,13,47-48

以上です。
0634鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/09(日) 08:39:21.44ID:fWE4PYwI
「私は(~を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。 
0635鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/09(日) 10:53:19.80ID:fWE4PYwI
>面前聴法底の人は、「眼耳鼻舌身意」の個一者で、しかしまた実に「色声香味触法」の超個者であるから、最も現実具体性をもった実有なのである。
>臨済の人は、いつもこの角度から見て行かなければならぬのである。
>無依の道人は、個即超個・超個即個であるから、個一者としての衣装は、いつもその用いるべき境に随って、自由に取り換えられるのである。
>(臨済の基本思想 鈴木大拙)
0636鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/09(日) 11:29:36.22ID:fWE4PYwI
直接経験
例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。
実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。
これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。
そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。

直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。
しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。
例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。
「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。
また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。
0637鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/09(日) 20:22:31.18ID:fWE4PYwI
 >たとひ大道を悟尽すとも、なをこれ暫時の伎倆なり。
 >(悟ったといっても、それは一時的なはたらきにすぎない。)
 >(正法眼蔵 大悟 より)

 >この「一時的なはたらき」であることの気づきが、先の、自分という枠組みが消え去った「脱落」という状態において認識されることが、「身心脱落」だったということができるであろう。
 >(構築された仏教思想 道元 仏であるがゆえに坐す 石井 清純 より) 

此処だろうね。
0638神も仏も名無しさん
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2023/04/13(木) 18:27:34.54ID:g0iWVfUU
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!



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  ◆      本当に、麦と鹿は悪質です! ◆
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宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
0639神も仏も名無しさん
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2023/04/13(木) 18:30:39.35ID:g0iWVfUU
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!



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  ◆      本当に、麦と鹿は悪質です! ◆
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宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
0640鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/13(木) 19:59:33.94ID:OsPSg3Fh
問う、是の如き一法界・一道真如の理をば、究竟の仏とや為ん。  竜猛菩薩の説かく、 「一法界心は百非に非ず、千是に背けり。中に非ず、中に非ざれば天に背けり。天に背きぬれば、演水の談、足断って止まり、審慮の量、手亡じて住す。是の如きの一心は、無明の辺域にして、明の分位に非ず」と。


秘蔵宝鑰 一道無為心
0641鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/13(木) 20:08:40.89ID:OsPSg3Fh
那伽羅樹那菩薩の説かく、 「清浄本覚は無始より来た、修行を観たず、他力を得るに非ず。性徳円満し、本智具足せり。
亦た四句を出で、亦た五辺を離れたり。自然の言も自然なること能わず。
清浄の心も清浄なること能わず。
絶離・絶離せり。
是の如きの本処は無明の辺域にして、明の分位に非ず」と。

覚心不生心
0642鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/13(木) 22:47:13.16ID:OsPSg3Fh
>空性は、間違って理解すると、捕まえ方を間違えた蛇のように、あるいは間違って唱えた呪文のように、愚か者を破滅させる。
>(根本中頌 24-11 訳本は 「龍樹『根本中頌』読む」 より)
0643ラピスラズリーKoD ◆hjQLLZb4oYPL
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2023/04/14(金) 07:34:20.80ID:55Ptk6E2
鹿君は反省が足りておらぬ!
だから、下のようなネットの声があがっているのじゃろう。


宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!



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  ◆      本当に、麦と鹿は悪質です! ◆
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宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
0644鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/14(金) 07:57:27.44ID:H2YZEhUt
比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている

(増支部)
0645鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/14(金) 07:58:56.33ID:H2YZEhUt
比丘たちよ、そのようにして、無明の滅によって行の滅がある。
行の滅によって識の滅がある。
識の滅によって名色の滅がある。
名色の滅によって六処の滅がある。
六処の滅によって触の滅がある。
触の滅によって受の滅がある。
受の滅によって愛の滅がある。
愛の滅によって取の滅がある。
取の滅によって有の滅がある。
有の滅によって生の滅がある。
生の滅することによって、老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩が滅するのである。
これがすべての苦の集積の滅する所以である。
比丘たちよ、〈これで滅することができるのだ。これで滅することができるのだ〉と、いまだかつて聞いたこともない真理に、わたしは眼をひらき、智を生じ、慧を生じ、悟りを生じ、光明を生ずることをえた。


大釈迦牟尼瞿曇 南伝 相応部経典 一二、一〇、大釈迦牟尼瞿曇/漢訳 雑阿含経一二、三、〔*〕仏縛
0646鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/14(金) 08:00:28.69ID:H2YZEhUt
カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。
また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。
(カッチャーヤナ(迦旃延) 南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延)
0647ラピスラズリーKoD ◆hjQLLZb4oYPL
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2023/04/14(金) 12:32:25.83ID:55Ptk6E2
鹿は、「猛省」しておらぬので、
下のような苦情の書き込みを受けておるのだぞ。
↓↓

宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!

宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!

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  ◆      本当に、麦と鹿は悪質です! ◆
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宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!

宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!

宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
0648鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/14(金) 17:36:36.56ID:H2YZEhUt
二物相合 ~ 別体の合一
背面相翻 ~ 流出論的、随縁的
当体全是 ~ 矛盾的同一
0650鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/14(金) 19:21:04.15ID:H2YZEhUt
当体全是といい、相対種ないし敵対種開会といい、実は相対・対立の現実相の認識から生まれたものであった。
それゆえにこそ、統一的真理は対立的現実と別ではないとされ、その意味において、全是とか開会などといわれたのである。
ところが、別ではないとか、全是・開会などということばを直線的、一元的にうけとって、現実そのままよしとし、ひいては相対・対立の現実相を捨象してしまう傾向が現われた。
(仏教の思想 5 絶対の真理<天台>  (角川ソフィア 文庫  田村 芳朗  梅原 猛 より)

0651鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/04/14(金) 20:38:00.96ID:SXzOM464
お釈迦様の基本的なお立場は

 >世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
 >ただ永久のものだと想像しているだけである。
 >かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
 >(スッタニパータ 886)

でありましょうし、具体的には

 >師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。
 >無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。
 >それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。
 >(スッタニパータ 839)

ということなのでしょう。
しかしながら

 >わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
 >もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
 >(スッタニパータ 837)

であると。
 
0652教誨師ラピス ◆hjQLLZb4oYPL
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2023/04/16(日) 18:48:38.65ID:qFEVfqDy
鹿君は反省が足りておらぬ!
だから、下のようなネットの声があがっているのじゃぞ。
↓↓

宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
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  ◆      本当に、麦と鹿は悪質です! ◆
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宗教板で傍若無人にふるまう「鹿」こそが、出て行きなさい!!
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0653鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/22(土) 11:47:12.85ID:uSBXEbQw
『大法鼓経』
『内在する仏 如来蔵』(シリーズ思想としてのインド仏教)
0654鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/23(日) 21:45:52.04ID:1sb4hj4d
構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版)

空海
○道元
親鸞
一遍
蓮如
覚鑁
妙好人

○ゴータマ・ブッダ
○龍樹
○法蔵
○ツォンカパ

シリーズ 思想としての仏教 (春秋社)

ブッダ
律蔵
アビダルマ
中観
唯識
○如来蔵
密教
0655鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/23(日) 23:55:37.54ID:1sb4hj4d
>諸仏によって「自己はある(有我)」とも仮に説かれた(施設された)。
>「自己はない(無我)」とも説かれた。
>「なにか自己と呼ばれるものがあるわけでもなく、自己のないものがあるわけでもない(非有我非無我)」とも説かれた。(三句分別)
>(根本中頌 18−6 訳は龍樹『根本中頌』を読む | 桂 紹隆, 五島 清隆 より)
0656鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/26(水) 11:03:14.58ID:DYhX8Hol
何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。
(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7−9)
0657鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/04/30(日) 22:54:52.50ID:DFLJaRvg
一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。
(開目抄 より)

一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う

此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す

(観心本尊抄)
0658鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/05/03(水) 12:09:19.90ID:OlKQsqC5
>もとから解決しています、というのは、ホントだけど、

 ↓

>世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
>ただ永久のものだと想像しているだけである。
>かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
>(スッタニパータ 886)
0659鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/04(木) 20:02:40.35ID:UQY3fDJy
自身の思う最高が他者の最善とは限らないと思うんです。
また、

何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。
(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7-9)

と云いますし、以下の様にも云われるんです。

世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
(スッタニパータ 886)
0660鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/07(日) 11:52:18.22ID:eAuCR8i+
死と生の仏教哲学 親鸞と空海を読む…立川武蔵著
5月1日
0661鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/07(日) 21:10:26.68ID:21WKbEyL
『正法眼蔵』生死の巻

「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」
0662鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/08(月) 11:44:10.42ID:H2/zu5TW
禅はまったく論理や分析の上に築かれた哲学ではないのである。
いずれかと言えば、禅は論理の正反対である、すなわち論理は思考の二元的様式を具えたものである。
が、禅は心の全部であるから、禅のうちには知的要素があるとも言えるが、心とは多数の機能に分割されたり、または解析の終わった後に何物も余さぬような合成物ではないのである。禅は知的分析の方法に依っては何ら吾々に教えるところなく、またその教徒に課するに何か規定せられた教理なるものをも持っていない。
この意味で禅は無秩序であるとも言える。
禅教徒は一、二の教理を持っていることもあろうが、それらは皆自分の便宜のためであって、禅そのものから出たものではない。ゆえに禅には聖典とか、独断的教義とかいうものはなく、あるいはまた禅の意義が徹底せしめられるような象徴的な様式などもないのである。
しからば禅は何を教えるかと問うものがあれば、私は答える。
禅は何物をも教えないと。
禅にある教訓が何であっても、それは皆人々自身の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない。
もしこの道を示すことが教訓と言うなら、そんな教訓はある。
そのほかには基本教義として、あるいは根本的哲学として、ことさらに設けられたものは、禅には全然ないのである。
0664鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/15(月) 17:13:31.99ID:I6Jr+i/O
自我について、wikiからの引用

>哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。
0666鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/05/15(月) 20:56:27.57ID:blx9qmph
カッチャーヤナ(迦旃延)
南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/
漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、尊者カッチャーヤナ(迦旃延)は、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

その傍らに坐した尊者カッチャーヤナは、世尊に申しあげた。
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」

「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。
だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、〈これがわたしの我なのだ〉ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。
カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。
また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。
0667鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/16(火) 19:26:52.52ID:EkN9R1sT
先ず、こういう説示がある事を確認しておきたいんです。

 ↓

>何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。
>(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ 164.7-9)


>世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。 ただ永久のものだと想像しているだけである。
>かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
>(スッタニパータ 886)
0669鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/18(木) 12:59:58.48ID:vrTlxsQZ
[二九]妄想
問。何をか妄想といふや。
答。浄土・穢土隔てあり、迷悟凡聖同じからずと思へるは、妄想なり。
聖凡の隔てもなく浄穢の別なしと思へるも亦、妄想なり。
仏法に大小・権実・顕密・禅教の差別ありと思へるも、妄想なり。
仏法は一味平等にして、すべて勝劣なしと思へるも、妄想なり。
行住坐臥、見聞覚知、皆これ仏法なりと思へるも、妄想なり。
一切の所作所為を離れて別に仏法ありと思ふも、妄想なり。
万法は皆実有なりと見るは、凡夫の妄想なり。
万法は皆これ無常なりと見るは、小乗の妄想なり。
万法の上において、常見・断見を起こすは、外道の妄想なり。
或は如幻即空と知り、或は中道実相と悟るは、菩薩の妄想なり。
教外別伝の宗旨あることを知らずして、教門を執着するは、教者の妄想なり。
教外別伝とて、教門よりも勝れたる法門ありと思へるは、禅者の妄想なり。
かやうの法門を信じて、さては一切皆これ妄想なりと思はば、亦これ妄想なり。
昔、無業国師、一生の間、学者の問を答ふるに、ただ莫妄想の一句を以てす。もし人この一句を透得せば、本有の智恵徳相、便ち現前すべし。
(夢窓疎石 夢中問答 より)
0671鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/22(月) 11:24:36.62ID:BI6eJ51f
了別とは自己限定、分節だろうな。

そこに大法に対するメタレベルからの認知が成り立つ。
0672鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/22(月) 11:25:52.10ID:BI6eJ51f
そこで十二支の行は、無明の限定というのが成立する。
0675神も仏も名無しさん
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2023/05/23(火) 05:55:45.39ID:te3kwCJ/
貴闘力

絶対ギャンブルはしないと思っていたけれど

それで、(中学校)卒業してから相撲部屋に入ったんですけれど、相撲部屋っていうのは、ほとんどギャンブルばっかりしているような人間が多くてですね。「お前、ギャンブルぐらいできなきゃ、相撲取りじゃないよ」みたいな。

全体の8割、9割はギャンブルしてました。小学校のときにものすごい嫌な思いをして、借金取りに追われて転々と逃げて、「こんな状態は絶対に嫌だな」と、ずっと思いながらしてるんだけど、やっぱりDNAがギャンブルになってるんでしょうね(笑)。

「もう、絶対にギャンブルしない!」と思ってた俺が、ふと、先輩のお相撲さんに「ちょっとお駄賃やるから、馬券買って来い」と言われて、たまたま馬券を買ってしまったんですよ。それが、日頃の行いがいいのか悪いのか、5,000円が40万円になりまして。


関取になったときも、十両に上がったら、化粧まわしとか、いろんなものを作らないといけないので、だいたい400万円くらいの、お金がかかるんですよ。それを相撲協会が出してくれればいいのに、出してくれないで「後援会で集めてこい」って言うんですよね。

普通はそんなのあり得ないんだけど、地元帰ってお金を集めてきたんです。その集めてきたお金を、ちょっと人に預けてたら、それをギャンブルでみんな使われてもたんですよね。

(会場笑)

それで「どうしようか……」とか言って、化粧まわしも作れない、締め込みも作れない。「これはどうしようか……」と思って、部屋の師匠にもうふてくされながら、「400万貸してください」って言ったら、どつきまわされて、「お前、何考えてるんだ!」とか言われてね。

それで、しゃーないから、大井競馬場に行ったんですよ。たまたま、みんなから集めた10万円持ってね。それがまた、日頃の行いがええのか悪いのかわからんで、400万になってもたんです。

(会場ざわつく)
0676鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/05/23(火) 09:55:39.53ID:owFnIv0F
十二支縁起はブッダの悟りの内容なのか。
悟りの内容とまではいかなくとも肯定的に捉えるべきものなのか。
それとも戯論、妄分別として最終的には斥けられるべき対象なのか。
これは縁起をめぐる重大な論点の一つであり、二度の縁起論争にも深く関わっている。
(宮崎哲弥 仏教論争──「縁起」から本質を問う (ちくま新書)  より )
0678鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/05/27(土) 10:13:10.59ID:ERpZggiO
識が輪廻転生の主体であるという説の否定。
マッジマ・ニカーヤ 大愛尽経 サーティ
0680鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/06/13(火) 13:30:14.73ID:7wFw3gB7
因果律はそれ自体で実在する原理ではない。

いかに根本的とは言え、道具を発明した人間の、思考の道具である。  道具それ自体など存在しない。
それは何らかの目的のために使われて、初めて道具である。
道具それ自体など無い。  

因果律もそうである。そもそも、後に「結果」とされる事態に直面して、しかる後に「原因」が「発見」されたり、「特定」されたりするのである。
「原因」は「ある」のではなく、「認識される」のだ。
とすれば、要するにこれは「結果」とされる事態を操作する目的のためにどうするかという思考の道具に過ぎない。

(南 直哉 「仏教入門」 講談社現代新書 より)
0681鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/06/13(火) 15:57:53.72ID:pw7NV6qE
構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版)

空海
○道元
◯親鸞
△一遍
◯蓮如
覚鑁
◯妙好人

○ゴータマ・ブッダ
○龍樹
○法蔵
○ツォンカパ

シリーズ 思想としての仏教 (春秋社)

ブッダ
律蔵
アビダルマ
中観
唯識
○如来蔵
密教
0684鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/06/18(日) 11:47:27.95ID:6OeM+GF+
まぁ、倶舎や成実は附宗だからともかく、三論宗が吸収され消滅してしまったのは、経済基盤やバックに有力な勢力が無かったからなのかねぇ。
以下、八宗綱要より。

一には、外道実我の邪見を破し、
二には、毘曇実有の執見を破し、
三には、成実偏空の情見を折し、
四には、有所得大乗の見解を摧く。

至道は是れ玄極なれば、言論及ばず。有と言えば則ち愚に返り、無と語れば則ち智に非ず。善吉(須菩提)呵せられ、身子(舎利弗)責めらる。有に非ず、無に非ず、亦有亦無にも非ず、非有非無にも非ず。言語の道断じ、心行の処滅す。湛湛として寄る無く、寥寥として拠を絶す。知らず、何を以ってか銘けん。強いて顕正と名づくるなり。
0692鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/06(木) 14:11:31.80ID:w+icIaL2
自性霊妙、常住の法に於いて、断滅の見を生ぜざるを名づけて不殺生戒となす。

自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗戒となす。

自性霊妙、無着の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲戒となす。

自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語戒となす。

自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒戒となす。

自性霊妙、無過患の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪戒となす。

自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他戒となす。

自性霊妙、真如遍法界に於いて、一相の慳執を生ぜざるを名づけて不慳貪戒となす。

自性霊妙、無我の法中に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝戒となす。

自性霊妙、一切法中に於いて、生仏の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝戒となす。
0693鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/06(木) 22:20:54.24ID:/xHHe2fx
結局、宗教も科学も哲学も、世界を何らかの形で記述して説明しようという試みの一つであるが、それはようするに、何らかの言葉の組み合わせであり、何らかの「囲い(文章)」を作ることなのだから、その囲いの外側には「他者」──すなわち「違うと否定するもの」「囲いに含まれないもの」が必ず存在してしまうのである。
この他者論という観点に立つならば、「誰にも否定されない絶対的な真理」をつくり出すことは、どうあがいたって不可能である。
その原理的な構造が明らかになった以上、ソクラテスから始まった哲学の「絶対的真理の探究」の旅はすでに終わっているといえる。
人類は「他者」という異形の怪物の前になす術もなく敗北してしまったのだ。
0694鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/11(火) 10:11:44.87ID:XamgUmfA
5ch存続記念アゲ
0695独楽
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2023/07/11(火) 11:01:22.07ID:oo3vYOjw
取急ぎ
私の認識 仏教とは
己を整えて 己の心を整えて
これなら他と交えても争い起こらないよね!状態
では。社会に出て他者と接してみよう!
社会実習 社会研修 楽しくて続けるも良し異質の異なる部分を知り、意思の屈曲現実の認識の甘さを知りどうするのか。

続けるも良し!安全地帯に戻り改善策を練り鍛え直すも良し!
ただ、曲がり屈曲し、他を乱し汚すような腐れ人間にはなるな!ではないのか?
0696鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/13(木) 09:01:38.59ID:GgHg8MOP
7:鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe :[sage]:2023/05/18(木) 19:39:24.06 ID:mV9EkNdC
参照まで

駒澤大學佛敎學部硏究紀要第 79 號 令和 3 年 3 月 (81)
宝性論の仏説観(1)
― 第 5 章 18・19 偈とその背景―
加 納 和 雄

(善説について)
なお、『発勝志楽経』所説の上掲定義の背景の一例として、『スッタニパータ』 「善説経」が「善説(subhāsita)・法(dhamma)・愛語(piya)・真実(sacca)の四条件(aṅga)
を備えた言葉を語れと戒め、この説法を聞いて閃く(paṭibhāti)ものがあった長老 ヴァンギーサ(Vaṅgīsa)が説法の主旨に沿った数偈でもって世尊を讃嘆する」という一節を若原は紹介する。『四分律』はこの四条件に「利益」を加えて「善 説」の五条件を説く。藤田は、この「利益」が『発勝志楽経』の第三・四定義 に近い定義であると指摘する 。
また同経所説の「弥勒よ、何であれ善く説かれたものは、全て仏説である」(yat k i ṃ c i n m a i t r e y a s u b h ā ṣ i t a m , s a r v a ṃ t a d b u d d h a b h ā ṣ i t a m 、 上 記 引 用 中 の 3 ) と い う 考 え 方 は 『ア ングッタラ・ニカーヤ』をはじめ、広く初期仏典にも披見される 。
またアショーカ王碑文にも、「尊者よ、何であれ仏世尊によって語られたことは、すべて善説に他ならない」(e keci bhaṃte bhagavatā buddhena bhāsite savve se subhāsitevā)とい う表現がみられ、この文の主文と副文が反転すると、善説ならば何でも仏説とする考えとなる。

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/駒澤大学仏教学部研究紀要/駒澤大學佛教學部研究紀要79/駒澤大學佛教學部研究紀要%2079%20006加納,%20和雄「宝性論の仏説観%20(1)%20:%20第5章18・19偈とその背景」.pdf
0697鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/07/15(土) 11:11:21.27ID:93wCg5Qv
本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。
よくよくよういあるべき事をや。
0700鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/17(月) 11:31:58.76ID:KeCw5JAN
ヨーロッパの唯心論として、例えば次のようなバークリー(1)の主観的観念論があります。「実在するものは、神(god)と心(spirit)と観念(idea)だけである。それ以外に物(thing)といわれるものはない。現象世界を構成するのは心と、および心の中にある観念だけである。さらに現象世界の背後に観念を心に与える神が実在する」ところで、このようなバークリーの考えは、「唯だ心のみがあり、ものはない」というように「ある」か「ない」かという有無相対の存在観の立場をとります。そして、唯だ心だけがあるという主張は、最終的には神の実在を証明するためのものでした。これに対して、唯識思想の唯心論とはどういうものなのでしょうか。結論からいえば、それは「他者を救い、自らも救われていくための、救済のための唯心論である」といえるでしょう。唯だものだけがあるという唯物論に対して、唯だ心だけがあるという唯心論ではなく、いかに他者と自己とが迷いの世界から悟りの世界に至ることができるか、という観点から、「心は仮にある。その仮にある心を筏にして、迷いの此岸から悟りの彼岸に到ろう」という意味での、唯心論的傾向が強い思想であるというべきです。

(横山紘一 唯識の思想)
0701鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/07/17(月) 21:31:10.24ID:UoHCX4I2
衆生の内なる如来蔵〜如来法身ではない(四句※が冠されていない)。

 ※四句〜常住・堅固・寂静・恒常
0702鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/07/17(月) 22:06:41.36ID:UoHCX4I2
可能性〜仏性・如来蔵≠如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)
等質性〜アートマン=如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)

三時教判〜無我・空性・不空
0703鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/07/17(月) 22:08:47.20ID:UoHCX4I2
・・・方便としての。
0704鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/20(木) 13:52:58.73ID:zAdNTqTo
バーヴィヴェーカ(清弁)の「勝義」解釈(般若灯論)
(勝義は勝と義の複合語としての視点から)

 1.同限定複合語として → 優れた(勝)対象(義)として
 2.格限定複合語として → 優れたもの(勝)の対象(義)、すなわち概念的思惟を離れた知(無分別智)の対象として
 3.所有複合語として → 勝義を持つものとして
  (1)勝義を対象として有する無分別智、すなわち対象は存在しないという仕方での無分別智
  (2)不生等の教説とその聴聞・思考・習修(瞑想)から生じる智慧(般若)。
     それらは勝義を理解する手段として無謬(無転倒)なので
0705鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/23(日) 17:58:57.35ID:JTRfuWX7
マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。
それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。
そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。

サルトル 嘔吐 から。
0706鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/24(月) 07:15:45.65ID:xV2TcM90
純粋レンマ的知性が有情のアーラヤ識に送り込まれるやいなや、瞬時にしてそれは(アーラヤ識内の)レンマ的知性とその変異体であるロゴス的知性に分解を起こす。
二つの知性は互いに「直交」しているので、ロゴス的知性は自分自身の本体をなすレンマ的知性の存在を認識することができない。
人間の意識はロゴス的知性の制圧下にあるので、意識はレンマ的知性のとらえている世界認識を直接感知することができない。
ただ無意識だけがそれを直観的に知ることができるのである。
(レンマ学 中沢新一)
                          
.     如来蔵(純粋レンマ的知性)  
.           ↓
.         阿頼耶識
.   ↓            ↓  
.ロゴス的知性(変位体)  レンマ的知性(真正体)
0708鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/27(木) 07:48:54.17ID:0NJCTkS5
中観派(カマシーラ)のよる外縁起と内縁起

外縁起原因依拠 種→芽→双葉→葉片→茎・・・
   �処ヒ拠 地・水・火・風・虚空・時間
    外界の成立

内縁起�エ因依拠 十二支縁起
    条件依拠 地・水・火・風・虚空・識
    身体の成立
0709鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/27(木) 09:18:56.59ID:0NJCTkS5
縁起は勝義諦と世俗諦の両方からバランスよく観る事で中道への歩みが担保されるのだと。

問「縁起は縁によって生じるのであるから、どうして不起生という側面を(持つと)考えるのか」
答「諸条件から生じる(無自性=恒常不変の本性がない)なので」

客体として把握(所取)と主体として把握(能取)されるものを持つ通常の知の対象とならない。
不起性等の勝義は、認識対象が現れず、概念的拡散(戯論)の無い非日常的な知(出世間知)、つまり、所取と能取の二区分を離れた無二知さえも無顕現なる知によって直接的に理解される。
このことが「いかなることも見ないことが真実を見ることである」という『法集経』の云うところ。
0710鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/27(木) 09:31:35.59ID:0NJCTkS5
原因の消滅と結果の生起→天秤の両端の上下運動の隠喩。 → 断見の排除。

世俗結果は、原因の第一瞬間から間隔を置かずに、第二瞬間において存在する(カーマシーラ 『真実綱要細疏』) → しかしそれは勝義において否定される。
 ↓
部分を持たない瞬間がその部分を持って他の部分に接触することは無いから。
 ↓
有部で云う刹那滅は世俗諦であって、勝義においては否定される。
 ↓
「諸行無常」は世俗諦!!
0711鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/27(木) 13:47:42.82ID:0NJCTkS5
捏造と不当な排除の両極端の排除・・・この訳はなんか馴染めないけど、それを包括して概念的拡散とし、その止滅した勝義が中道であるというのがカマラシーラの見解。

非存在の概念 「存在が(勝義において)不成立ならば非存在も(勝義において)成立しない」(中論15.5ab)
ここはカマラシーラのシャーンタラクシタ同見解。

つまり、否定対象が存在しなければ、その否定も存在しない。
ひいては、「存在の捏造」のみの否定でもこの理路は成立する。
0713鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/27(木) 17:19:02.19ID:0NJCTkS5
尋(vitaruka)と伺(vicra)。旧約では覚と観を訳されるようです。
雑阿含経(相応部)では「まず尋求し、伺察して、その後に言葉を発する。それ故に尋伺は語行である」とあり、言葉を発せしめる心の働きとされるようです。
五位七十五法では不定法に分類され
 対象を粗放に考察すること → 尋
 細微に考察すること → 伺
とされ、瞑想の深まりとともに失われるものとされ、色界初禅は有尋有伺で中間定では無尋唯伺、二禅以上は無尋無伺とされるそうです。
0714鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/07/29(土) 03:03:34.75ID:wUzbx2Ze
ダニヤ経(スッタニパータ)
悪魔パーピマンがいった、「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
師は答えた、「子のある者*は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
0715鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/07/29(土) 16:41:37.98ID:TmOBpmX2
構築された仏教思想 シリーズ (佼成出版)

空海
○道元
◯親鸞
◯一遍
◯蓮如
覚鑁
◯妙好人

○ゴータマ・ブッダ
○龍樹
○法蔵
○ツォンカパ

シリーズ 思想としての仏教 (春秋社)

ブッダ
律蔵
アビダルマ
◯中観
唯識
○如来蔵
密教
0716鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/01(火) 11:32:53.07ID:KWEPlfOJ
はい、真言や称名或いは題目を禅定(此処では集中行として)として捉える方がおられます。

まぁ、間違いでもないのですがw

お念仏には一念義と多念義があるそうですが、一念で禅定とかwww
まぁ、そういう方もいるのかも知れませんけどw

真宗なんかは他力のお念仏だそうですが、禅定を収めるのって自力じゃないんですかねぇ。

また、日蓮さんは

>口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、
>梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、
>仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、
>されば『若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり』と説き給うは此の心なり
>(法華初心成仏抄)

って仰ってるそうですが、それって禅定なんでしょうかねぇ、
www
0717鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/02(水) 22:07:07.55ID:iX3zgp9S
「もし神が存在するなら、悪はどこから来るのか」という問いは、確かにこの世界を満たす甚だしい悲惨、堪え難い不正を前にしての人類の永遠の歎きであるが、哲学的にはこの問いは「どこから」と問うことが空虚で無意味な虚無、もしくは単純な否定に他ならないものを、実在と取り違えたことに基づく偽の問いにすぎない。
0718馬レまたろう
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2023/08/05(土) 10:56:12.34ID:q8Bl4dGP
縁起しているもの、それを、空性であるとわたしたちは説く (ya pratītyasamutpāda śūnyatā tā pracakmahe)。
それ(空性)とは、執って仮設することであり、まさに中道そのものである。
(『中論頌』二四・一八)
0719馬レまたろう
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2023/08/05(土) 11:15:13.62ID:q8Bl4dGP
カッチャーヤナよ、この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無とである。
もしも人が正しい知慧をもって世間(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観じるならば、世間において無はありえない。
また人が正しい知慧をもって世間の消滅を如実に観じるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ、「あらゆるものがある」というならば、これはひとつの両極端である。
「あらゆるものがない」というならば、これも第二の両極端である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中〔道〕によって法を説くのである。
(『サンユッタ・ニカーヤ』)
0720鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/05(土) 17:37:38.99ID:CrLHLtIe
三諦
 空
 仮
 中
三観
 従仮入空(二諦観、仮空、空用)…相依性故に空と観ずる(色即是空)
 従空入仮(平等観、空空、仮用)…仮は空、空も亦空(色即是空↔空即是色)
 中道第一義(上記両観の双存・双用、空仮相即の中、双遮双照)
  仮空・空空…双遮、空用・仮用…双照
三止
 体真止…空の体得しそこに住する
 方便随縁止…仮相に随縁しそこに住する
 息二辺分別止…空と仮の二辺分別に不偏する中道に住する。

ただし上記の段階的な説明(次第三観)は理解のためで、本来は同時(不次第)、すなわち即空即中即仮(一心三観、円頓止観)である。
0721鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/10(木) 13:29:05.12ID:N09RpEiw
【漢訳本文】
舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
【読み下し】
舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
【原典和訳】 シャーリプトラよ。ここにおいて、存在するものはすべて空性を特徴としていて、生じたというものでなく、滅したというものでなく、汚れたものでなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることもない。
0722鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/11(金) 06:14:57.60ID:zQT9Muh/
形相(エイドス)
 アイティア(4つの原因)
 形相因
  動力因(作用因)
  形相因
  目的因
質料(ヒュレー)
 質料因

可能態(デュナミス)
現実態(エネルゲディア)
0723鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/14(月) 07:59:44.02ID://64qryE
中論頌24:18

中村訳(『龍樹』講談社学術文庫)
 >どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。
 >それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。
桂・五島訳(『龍樹『根本中頌』を読む 』 春秋社)
 >縁として生起することを、我々は空であることと言う。
 >それは因として、概念設定されることであり、その同じものが中道である。
鳩摩羅什訳
 >衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。
 >亦たこれ仮名と為す。亦これ中道の義なり。
流通している訳
 >衆因縁生の法、我即ち是れ空なりと説く。
 >亦たこれ仮名と為す。亦これ中道の義なり。
0724鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/14(月) 10:07:34.85ID://64qryE
110 鹿野園 ◆00MWura8lSZF sage 2023/08/14(月) 08:08:17.06 ID://64qryE
いわゆる「三諦偈」なのですが、ここで中村先生は、

>因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現われる。
>因縁によって生ぜられたもの事物を空ずるから非有でありその空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。
>ほぼこの様に中国以来伝統的に解釈されてきた。

と述べ、更に

>しかし、この天台以降の解釈がはたしてナーガーリュジュナの原意を得てるであろうか。

と疑義を呈している訳です。
0725鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/14(月) 10:07:57.54ID://64qryE
115 鹿野園 ◆00MWura8lSZF sage 2023/08/14(月) 10:00:06.82 ID://64qryE
で、

>要するに第二十四章の第十八句に関して後世中国においては三論宗も天台宗も種々複雑な説明を試みるに至ったのであるが、インドの諸注釈によってその原意を探るならば、縁起、空、仮名、中道の四つの概念が同趣意でものであるということを説いたにほかならず、後世におけるように空をさらに空じた境地に中道が現われると考えたのではないということが明白だろう。
>もちろんわれわれは中国仏教思想の独自の意義を認めるのにやぶさかではない。
>ただわれわれとしては、中国仏教における解釈がインドのもとのものと違うということを指摘するのである。
>(中村元 『龍樹』 講談社学術文庫 より)

な訳です。
0726鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/17(木) 11:09:29.98ID:UT12A/pa
シャーリプトラよ、如来の知っている諸々の法について、如来こそが説き示すであろう。それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのか──ということを、如来だけが明瞭で明らかに見ているのである」
0727鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/17(木) 11:19:40.05ID:eKkjMeLT
アリストテレスの10範疇
アリストテレスのじゅうはんちゅう

アリストテレスは『オルガノン』 Organon第1部の『範疇論』 Categoriaeにおいて,範疇とは存在者に関する述定の普遍的形式であり,同時にこれらの存在者が,その名のもとに包含される最高類概念であるとして,10種の範疇を提示した。すなわち,実体 ousia,量 poson,性質 poion,関係 pros ti,場所 pou,時 pote,位置 keisthai,状態 echein,能動 poiein,受動 pascheinの 10種であるが,このうち実体のみは述語とはならない。アリストテレスはかかる 10種類の根本的な実在形式があるとしたが,これらの範疇表は,原理的なものから導き出された厳密なものというよりは,経験的に文法を手掛りとして数え上げたものであって,のちにカントにより批判された。なお,ギリシア哲学史上の範疇思想は,まずピタゴラス派により確立された 10種の対立概念の表であり,これはアリストテレスの『形而上学』でも言及されている。さらにプラトンは,有,異同などの最高概念をあげて論じたが,これらの説を展開させてまとめたのがアリストテレスである
0728鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/17(木) 11:28:48.92ID:eKkjMeLT
いわゆる「十如是」は無為法って事ではありませんから。
何故なら、無為法とは基本的に作用しないダルマをいうからです。

また、先に「十如是」といったのは、サンスクリット語訳では

>シャーリプトラよ、如来の知っている諸々の法について、如来こそが説き示すであろう。それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのか──ということを、如来だけが明瞭で明らかに見ているのである。
>(植木雅俊 訳)

と五つのカテゴリー列挙であり、「十如是」は鳩摩羅什の"積極的誤訳"だと思われるからです。

参照
https://i.imgur.com/EdZEF1C.jpeg
(仏教の思想 5 絶対の真理<天台> (角川文庫ソフィア)より)
0729鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/18(金) 08:01:47.03ID:+VkvVnCF
さきに仏教のすべての学派が刹那滅論を主張する、といった。説一切有部も、もとより、すべてのものは瞬間的にしか存在しないということを強調する。
0730鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/18(金) 08:02:51.99ID:+VkvVnCF
認識態(同分 sabhga)にあるという。猫が室から出ていって見えなくなったということは猫が私によって認識されないこと、非認識態(彼同分 tatsabh�ga)にあるということである。
0732鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/08/22(火) 07:46:05.80ID:l2puGap6
インド
 初期仏教(仏陀)
 部派仏教(倶舎)
 中観仏教(龍樹)
 唯識仏教(無著・世親)
中国
 天台仏教(智)
 華厳仏教(法蔵)
 浄土仏教
 禅仏教
0736鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/25(金) 15:49:34.61ID:Swdn1IFB
六大すなわち法界体性が能造(造る側。能成・能生)であり、各仏身、衆生身、あるいは器世界等、ありとあらゆる現象が所造(造られる側。所成・所生)であることが強調されている。
ただし能造・所造等と言っても、そこに能・所の二元対立的な関係があるわけではない。
最後に、無礙(互いに妨げあうことがない)にして常に瑜伽(結びついている)なのは、けっして六大ではなく、その六大すなわち法界体性による所成の身であることが明かされていく。
(竹村 牧男 空海の哲学 (講談社現代新書)より)
0737鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/25(金) 16:00:28.22ID:Swdn1IFB
要は空海によれば、六大は如来内証の阿字本不生の世界の諸相をいうものなのであり、元素のことではなかったのである。
すなわち、この六大は、如来内証の世界の本体が、本不生・離言説・離塵垢・遠離因縁・等虚空であり、かつそれらの覚証の智慧でもあること(理智不二)を物語るものと理解すべきなのであり、いわば、理智不二の真如、本覚真如の世界のことだというのである。
それを空海は後に、法界体性と表現する(「仏、六大を説いて法界体性と為す。」

(竹村 牧男 空海の哲学 (講談社現代新書)より)
0738鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/08/29(火) 07:01:27.89ID:BV/Y9OBb
・空海ー即身成仏への道/平井宥慶
・覚鑁: 内観の聖者・即身成仏の実現/白石凌海
・悟りと解脱―宗教と科学の真理について/玉城康四郎
・唯識説の深層心理とことば 『摂大乗論』に基づいて/小谷信千代
・古代哲学史/田中美知太郎
・私・今・そして神 開闢の哲学 /永井均
・インド最古の二大哲人/宮元 啓一
0739鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/09/04(月) 23:33:41.89ID:VNG78rw8
共相の種子感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する
不共相の種子�エ受を伴う・・・対治されて消滅
0740鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/09/04(月) 23:35:22.34ID:VNG78rw8
共相の種子感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する
不共相の種子�エ受を伴う・・・対治されて消滅共相の種子感受を伴わない
0741鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
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2023/09/04(月) 23:37:41.65ID:VNG78rw8
共相の種子〜感受を伴わない・・・見方だけが清浄化する
不共相の種子〜感受を伴う・・・対治されて消滅共相の種子感受を伴わない
0743鹿野園 ◆00MWura8lSZF
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2023/09/24(日) 06:09:01.41ID:Qr662nLc
これは初期仏教の「認識器官(六内処)/認識対象(対境)」の二分法に基づく修道論であり、後代の大乗仏教では、直接知覚とその対象との間に言語的分節(分別)の介在を認める。
初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。
(『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥)
0745神も仏も名無しさん
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2023/10/17(火) 12:10:25.62ID:H3RZPpjN
元創価の小野不一スレかと思ったわ
0748栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2023/12/05(火) 17:28:32.19ID:gAtMsRbs
保守あげでんがな。
0749神も仏も名無しさん
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2024/01/01(月) 22:10:15.21ID:x89Lqi+g
安堂が生意気云ってて抱腹絶倒の保守アゲ
0750神も仏も名無しさん
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2024/01/04(木) 00:33:40.36ID:4dgjIdsY
古本屋て「キリスト教の歴史」とかは残しても

ヒエロニュムス集とか護教論集とか捨ててるんかな
0751栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/01/12(金) 10:51:21.79ID:QLsRg4Nv
「真実の心の主体に、二つのはたらきがある。第一は自性の本用で、われわれの心そのものの本来的なはたらきであり、第二は随縁の応用で、対象を予想するものである。いま、銅鏡を例にとっていえば、鏡というものがらは、われわれの主体としての心そのもので、鏡が本質的にものを映すという透明な性質は、自性の本用であり、個々の影像が映し出されるのは、随縁の応用である。いわば、鏡に映る個々の像は、個々の対象を待ってはじめて映るのであり、映されたもの
ある。いわば、鏡に映る個々の像は、個々の対象を待ってはじめて映るのであり、映されたものは千差万別であっても、それらを卵際に映し出すはたらきは、覚のそのものの本質約な作用であって、個々の対象にかかわることなしに、つねに透明さをたもっているのであり、そうした鏡の透明な本質は、絶対であり、平等である。それは、われわれの心が、つねに静かにおさまっているのが自己の主体であり、そうした静かなおさまった心が、つねにものを知るという本質をもっているのが、主体的な作用にほかならぬのにたとえてよい。したがって、われわれが現にものをいったり、分別し動作したりするのは、すべて随縁の応用であって、自性の本用ではない。
洪州宗で、われわれが現にものをいうなどの行動を担えて、それをただちに仏性の作用だとするのは、すべて随縁の応用であって、自性の本用を穴くものだ」
0753栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/01/15(月) 20:04:13.92ID:BvCOF0q3
メモ 

新熏種子 しんくんしゅうじ
二種の種子(本有種子・新種子)の一つ。
後天的に表層の行為によって阿頼耶識のなかに植えつけられた種子。
習所成種とおなじ。
→本有種子
→習所成種
0754栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/01/15(月) 20:07:45.56ID:BvCOF0q3
メモ

本性住種ほんしょうじゅうしゅ
二種の種(本性住種・習所成種)の一つ。
種とは阿頼耶識のなかにある種子で、先天的に有している種子を本性住種という。
本性住種子・本有種子ともいう。また種子(bija)を種姓(gotra)と言い換えて本性住種姓ともいう。習所成種の対。
→習所成種
→本性住種姓
S prakrti-stham bijam
(出典)種子各有二類。一者本有。謂、無始来、異熟識中法爾而有、生蘊処界功能差別。
世尊、依此、説諸有情無始時来有種種界、如悪叉聚、法爾而有。余所引証、広説如初。此即名為本性住種。(「成論」2、大正31・8b)
0755栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/01/15(月) 20:32:59.46ID:BvCOF0q3
種子論では難陀は新熏説、護月が本有説、護法は本有新熏合生の説を立て、
(wikiダルマ)
0758栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/22(木) 10:17:05.54ID:tPxeMu4X
>>203
>お茶とか雨音の認識がないところ

認識はありますけど対象化されてません。

>見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
>取ること全無には非ず。
>(成唯識論)
0759鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/23(金) 00:06:53.92ID:hyVX1cFr
しかし宗教板って本当に気狂いの巣窟だな。

知的障害者、統合失調者、認知症、メンヘラ……

八割がそれで、普通の人が一割、残り五分が少し詳しい人。ちゃんとやってる人はほぼ居ない。
0760鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/25(日) 08:15:36.05ID:C40FqXcK
たとえば、ある物の長さを物差しで量るとき、量られる物と量る物すなわち物差しとがあり、前者は所量、後者は能量といわれる。
 この場合、それが何センチであるという認識が成立するためには、「物」と「物差し」だけでは不十分であり、それに加えてそれは何センチであると「判断する心」が必要であり、この判断する心の働きがあってはじめて物を量るという一連の認識が結果として成立する。この意味で、この心の働きを量果という。このように所量と能量と量果の三つが存在して、ある一つの認識が成立するが、この三つが順次、相分と見分と自証分とに相当する。
 これら三つの部分に加えて、さらに自証分の働きを確認する心の領域を考え、それを証自証分と呼び、全部で4つの分を立てるに至った。
0761栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/25(日) 09:12:40.02ID:C40FqXcK
境に似たるは相は所量なり。
能く相を取るとは自証とは、即ち能量と及び果となり。
この三は体別なること無し、という。
0762鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/25(日) 09:18:04.43ID:C40FqXcK
又た心・心所を、若し細く分別するに、応に四分有るべし。
三分は前の如し。
第四の証自証分有り。
此れいい若し無くんば、誰か第三を証せん。
心分ということは既に同なるをもって、応に皆な証すべきが故に。
又た(若し第四分無くんば)自証分は、応に果有ること無かるべし。
諸の能量は必ず果有るが故に。
見分は是れ第三が果には応ぜず。
見分は或る時には非量にも摂むるが故に。
此れに由りて見分は第三を証せず。
自体を証するは、必ず現量なるが故に。
0763栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/25(日) 09:26:19.91ID:C40FqXcK
相分 (能量)
見分 (所量、現量・比量)
自証分(量果、現量)
証自証分(現量)
0764栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/25(日) 11:47:47.37ID:C40FqXcK
お茶を戴くときについて、私がお茶を飲むという事は、私が何かを飲むということですが、私を離れて飲むがあるわけでもなく、飲むを離れて私があるわけでもありません。
また、ハッキリというのは量果ですから現量ではありません。
0766神も仏も名無しさん
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2024/02/25(日) 21:00:29.12ID:C40FqXcK
出典は 『「悟り体験を」読むー大乗仏教で覚醒した人々ー』 大竹晋 です。

1.自他忘失体験
 いまだ通常の心である”自我の殻”を残しているにせよ、自己と他者の隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験である。
2.真如顕現体験
  通常の心である”自我の殻”を破って、真如が顕現する体験である。
3.自我解消体験
 真如ー法無我ーが顕現したことによって、通常の心である”自我の殻”が解消されることである。
4.基層転換体験
 通常の心である自我の殻≠ェ解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験である。
5.叡智獲得体験
 叡智獲得体験とは、存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験である。
0767鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/02/27(火) 16:35:53.22ID:jbESV8ew
ちなみに自他亡失体験は、悟り体験にカウントされない。
0768栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/07(木) 04:35:00.70ID:7gosVNTE
解深密經卷第三 大唐三藏法師玄奘奉詔譯分

毘鉢舍那和合倶轉善男子若正思惟 心一境性
世尊云何心相善男子謂三摩地所行
謂縁彼影像心奢摩他所縁
世尊云何 心一境性
善男子謂通達三摩地所云影像唯是脱七十五千菩薩獲得廣大瑜伽作意
解深密經 卷第三
0769栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/07(木) 06:40:59.24ID:7gosVNTE
質問
心一境性(心を一点に集中させること)とは何でしょうか。
回答
三摩地(サマーディ。集中状態)の所行(対象域)である、その影像(イメージ)に対し”これは唯識である”と観察し、それを観察してのち、真如に対し作意することである。
(SNS VIII,9)
0770栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/07(木) 06:43:39.81ID:7gosVNTE
7種。了相作意・勝解作意・遠離作意・摂楽作意・観察作意・加行究寛作意・加行究寛果作意
0771栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/13(水) 06:48:49.50ID:QxH5rJ7n
ほんと、宗教板は知障や統失、認知症やメンヘラや気狂いの巣窟だな。
0772848
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2024/03/13(水) 10:38:55.26ID:n6GvV3b5
このスレには来るけど、もう去る。
0774栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/14(木) 22:11:43.87ID:RcotqQ2G
四尋思
 1.名称に係る考察(名尋思)
  →名称に係る考察に基づく如実智(名尋思所引如実智)
 2.事物に関わる考察(事尋思)
  →事物に関わる考察に基づく如実智(事尋思所引如実智)
 3.本質の言語表象に関わる考察(自性仮立尋思)
  →本質の言語表象に関わる考察に基づく如実智(自性仮立尋思所引如実智)
 4.属性の言語表象に関わる考察(差別仮立尋思)
  →属性の言語表象に関わる考察に基づく如実智(差別仮立尋思所引如実智)
0775栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm
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2024/03/14(木) 22:15:53.87ID:RcotqQ2G
四尋思と四如実智
 1.名称に係る考察(名尋思)
  →名称に係る考察に基づく如実智(名尋思所引如実智)
 2.事物に関わる考察(事尋思)
  →事物に関わる考察に基づく如実智(事尋思所引如実智)
 3.本質の言語表象に関わる考察(自性仮立尋思)
  →本質の言語表象に関わる考察に基づく如実智(自性仮立尋思所引如実智)
 4.属性の言語表象に関わる考察(差別仮立尋思)
  →属性の言語表象に関わる考察に基づく如実智(差別仮立尋思所引如実智)
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