--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 無明を除いた本来の心は空であり、アートマンではない。
本来無一物とも言う。涅槃とも言う。
涅槃には、良心もなく、汚れもなく、無明もない。
あらゆる概念を持ってきても捉えられず、言語で述べることもできない。 >>437のつづき.
Re:[10833]「Re:[10831] 無我とアートマン」
>しかし、その時、ジーヴァ・アートマン(個我)とパラマ・アートマン(最高我)の区別が生まれます。
何故ならば、ジーヴァ・アートマン(個我)はアートマンそのものではないからです。
彼ら(ヒンドゥー)は輪廻の主体を「ジーヴァ」(ジーヴァ・アートマン/個我)と呼び、これも無明から生じた幻(マーヤー)に過ぎぬものと説きます。
これは魂であり、仏教の説く輪廻主体「識」(後の「阿頼耶識」)に相当するものです。もちろん、これは「アートマン」ではない。
このことについては、ラマナ・マハルシもこう述べています。
『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ(個的生命)
とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在 sat (Self) を覚智現成し、
アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それはジーヴァ(個的生命)あるいはその知
覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704)
>区別があるということは、ブラフマンはブラフマンと考えているからです。
>ブラフマンがアートマンになったら、もはや、ブラフマンの名前はなくなり、アートマンだけが残る、ということではありませんね。
いえ、これはそういうことではなくて、
例えていうならば、“大海の海水がブラフマンであり、これをコップで汲み取ったものがアートマン”だということになります。
区別とはいってもこういうことなのであって、けれども中身はもちろん同質のままです。
これは単に、個的な意味合いを持つかどうかの差異なのです。 >涅槃に入ったならば、自己はありません。
すみません。
ここへ少し長めに引用させてもらいますが、
これらの先生の主張は一体、いつ撤回されたのでしょうか?
【つまり、自己はあるまたは自己はないと書くことができるか、ということが問題となる。もしこのように述べられるのであれば、「自己」は、
おそらく「法」と呼びうる存在であり、そして、当然「生じ滅する存在」とブッダが承認したことになるのである。
しかし、このようなことは阿含経典の中には見当たらない。これにかんしては、中村元博士の『原始仏教の思想』(上巻一六五頁)にも、初期仏
教では「アートマン(アッタン)は存在しない」とは説かれていない、と明言されている。
したがって、ブッダにとって「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅
する法として「自己はある」も語っていなければならないからである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。--中略--
それだから、ブッダは「自己はない」とは語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。いや、語りえなかったと述べた
方がいっそう正しい。(p161-162) --中略--
実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっ
きりしている今となっては、これは当然のことだが。】(p166)
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社2005年刊) 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」の文の、述語に
置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我
ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ論理学』の
【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べる
ことができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。ただ、いつの頃からか「無我
(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(管理人エム著/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
先生もここで「部派」について言及されていますが、
パーリ聖典といえども、その成立過程というのは部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、
そして、それがそのままこれらの部派教団によって今日まで所持されてきた。
そして、その教義の拠り処はアビダンマなのであって、仏典とは必ずしもイコールでありません(一切法についての判断が異なっている)。
つまり、仏教史的には「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」ということなので、
現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派というのは一つも存在していません。
この仏教者たちにとって現在でも一般的な認識となっている、“アートマンは無い”ということを勝手に言い出したのは部派仏教であることについては、
すでに多くの研究者たちによっても明らかになっているものと思われますが? 如何でしょう? 「涅槃においては自己はない」が、自我意識の喪失とするならばヒンドゥーでも同じだと思います。
アートマンを自覚するということは、つまり、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するということだからです。
分離意識は自己からは無くなり、分別の消滅した全体的な融合意識へと変性する。
つまり、あなたとわたし、それとわたしという分離ではなくなり、すべてが一つの融合された自己意識として自覚します。
そういう意味においては、ヒンドゥーにおいても“自己(個我)はない”として説かれます。
【〔アートマンは〕行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生である(『ムンダカ・ウパニシャッド』
二・一・二参照)から、どうして、誰が、それに対して「〔これは〕私のものである」「〔これは〕私である」という観念をもつことが出来るで
あろうか。(18)
「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって、〔アートマンに〕誤って想定されたものである。アートマンが
唯一である、という〔知識〕がある場合には、この観念は存在しない。種子が存在しない場合は、どこから結果が生まれようか。(19)
アートマンを、未だ果たし終わっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という
観念をもたない、と見るその人は〔真理を〕見る。(22)
もし「私のもの」とか「私は」という観念や努力や欲求は、本性上、アートマンにはない、ということを知ったならば、自己自身に安住し
続けよ。努力は一体何の役に立つであろうか。(23)
アーマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。
それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である。(24)
「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを
知っている者となる。29】
(同『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.) 或いは、まさか先生...は、涅槃とは何もない「無」の意味として“自己はない”と述べていますか?
それとも、涅槃は「空」であるからという意味で“自己はない”と述べたのですか?
しかし、「空」というのは縁起の性質を示したものであって、ただ同じことを別の言葉で表現しただけのことです。
これは一切法(有為)のことであって、涅槃(無為)には該当しません。
『ウダーナ』において説かれた通り、涅槃(無為)とは縁起には拠らない一切外のことなのですから。
そして、元々から無為的性質であるところのアートマンが一切法(有為法)に抵触する筈がないのです。
従って、つまり一切法(有為)においてアートマンを認識することがないからといって、それを以て「アートマンが無い」ことの証明にはなりません
(一切法の中に無為を含め、涅槃を空/無我としたのは部派の間違いです)。
【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。】
(『ウダーナ』8.3正田大観訳)
さて? この『ウダーナ』に示されたように涅槃を涅槃であるとして、
有為からの出離をそれとして覚知しているものは一体、何(誰)なのでしょうか?
要するに、この有為からの出離を覚知し、縁起に拠らない無為を自覚しているものこそがアートマンなのではないか、
とするのが、この私の見解なのです。
だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。
すべて、辻褄が合っていると思います。
〜これを以ちまして、先生からのレスに対する私からの返信としたいと思います。
元々、先生とは議論する目的ではなくて、アンケート調査の一環として先生のご見解を確認するためのものなのでした。
この後はまた続けて、その他の研究者の先生方にも同じ質問をぶつけてみたいと思っている所存です。
この度は、ご多忙のところを大変、ありがとうございました。
感謝!!
合掌 >また、その説は釈尊はアートマン説だったが部派以降、ほとんど無我説になったというような論理だと思われます。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)
正確には、
ブッダがウパニシャッドと同じアートマンを説いたと主張しているのではなくて、
「アートマンは無い」などとブッダが説いたということは部派仏教の勝手な論理であって、到底、本来のブッダの言説とは見なされない。
それにも変わらず、アートマンを説くヒンドゥーは有我論(妄想)であるとして馬鹿にしている
平均的な仏教徒らの愚かな姿勢のことを私は指摘していっているのです。
ブッダが、「アートマンは無い」などと説くことがないのは、自らがその理由について述べた無記の姿勢からみても明らかなことです
(もちろん、その逆の「アートマンが在る」とも説きませんが...)。
【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(『サンユッタ・ニカーヤ』44 第10経/森 章司訳)
>本質的にはパーリ『梵網経』などに明らかなようにアートマンに執着していては解脱、
>涅槃、戯論寂滅に至らないというのが仏教に一貫してあると思います。 「アートマンは無い」という見解に固執することもまったく同質の執着なのですから、こちらも同様にして涅槃には至らないでしょう。
パーリ『梵網経』の主旨とは、“アートマンではないもの”をアートマンと誤認している
当時のバラモン行者たちの間違いを指摘したものだと私は解しています。
彼らが誤認したものが「魂」(ジーヴァ)、輪廻主体の「識」です。意識の焦点をここに定めることに成功した行者は、
驚異的な神秘体験(能力)を得ることができるからです。
すみませんが、
私には議論する意図はないのでこれにて失礼します。
互いの更なる進歩向上を心より平安を祈念します。
ご意見をありがとうございました。
(以降、特にどうしても必要と思われない限りは投稿を控えたいと思います)
Re:[10902]-2
あっ、すみません。
もう一言だけ付け足しておきたいと思います(汗)。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)
基本的には、すべての仏教諸派が無我説に立っていることは存じています。
だから、現存するすべての仏教諸派というのは、アビダンマに立脚するために根本的に間違っているのだとこの私は主張します。
涅槃(無為)は、無我/空ではありませんから(アートマンが実在かどうかは別に置いておくとしても...)。
「空」というのは縁起する現象界の性質についての別表現です。なので、涅槃は縁起に拠らない境地(『ウダーナ』8:1)なのですから、
これを「空」とする理解は間違いです。
『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。--中略--
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』
(『ウダーナ』8:1片山一良訳) ふむ。
石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw
最後のも、
訳した片山さんに、 「そこにアートマンがある・いる」 という意図は
微塵も欠片も河沙の砂粒ほども無かろうてw
まあ、それでも、 「仏典を読んでください」 としか、先生は言わないだろうけどw 同じく、「無我」(「アートマンではない」の意)についていうと、
ブッダは『苦なるものは無我である』(SN.111)といっているのですから、苦を滅した安楽の境地である涅槃が無我である筈がないのです。
これはもう、殆どトンチンカンのレベルです。この馬鹿げた矛盾というのは、すべての伝統仏教が仏典の記述を無視して、
ただ伝統と称して与えられたもの(部派のアンビダンマ教学や部派口伝)を有難く盲信してきた結果です。
『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91)
無我についても同様で、
これは現象界(有為)の性質についての実態を示したものであるので、有為を解脱した無為である涅槃が無我である筈がないのです。
ブッダは「苦なるものはわたしの我ではない」といっているのですから、これを仮にそのまま言い換えるとしたならば、
苦を滅した涅槃の境地は“わたしの我である”ということにも言葉上としては成り得ることになります。
これは、例えばですけれど...。 ゴータマが自らが説いて直接指導し、その教えも経典としても残されたというのに、
では何故? ゴータマ以降の第八番目の仏陀は輩出しないのでしょうか?
もしかしたら、随所において仏典を無視して部派のアビダンマ教学を盲信
(例えば、無我説の「アートマンはない」という見解に執着)してしまっている間違いが影響しているのかなぁ...
などともすら、この私は勘ぐってしまいます。
弟子たちは私(ゴータマ)には従わないとも、予言(SN.20.7.4-5)によって見通されてしまっていますし...。
『彼らはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持すべくよく
熟達すべきものであるとは考えないであろう。--中略-- 弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとし、
耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。』
(『サンユッタ・ニカーヤ』20.7.4-5中村 元訳)
以上です。
では、失礼しました。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- >>438>>442
自分の言葉はないのか?
あなたにはそんな些細な常識すらもない?
>>451
はぁ? 「法」には真理という意味、存在という意味の二つある。
「無我」には私、私のものでないという意味と、実在、実体は無いという意味がある。
諸法無我には、存在には実在は無い、実体は無いという意味もある。
全ての存在は頭の中にあると言ってもいいかもしれない。
そういう意味では、私もアートマンも、猫も杓子も、釈迦も達磨も、どこにも実体は無いと言える。
どこにも、何も無くなった状態が涅槃であり、不戯論。
そこから見ればもう何も議論することは無くなる。
あれこれ考える必要が無くなる。頭の中が空になる。 >>454
だからw
片山先生にも直談判しに行けよ、ってこと。
>自分の言葉はないのか?
ID:hl7qebxF師匠が中観帰謬を理解してるのか?わからないけど
とりあえず中観帰謬の場合なら
仮設としての
無明に依存している
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
(無明に依存して)いま我らによって分別されている
中観帰謬を理解した上で、中観帰謬を前提とするのなら
仮設としての
無明に依存している
自分の見解は
>自分の言葉は↓
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
(無明に依存しているのなら)
是の人達は皆、仏を見ることはない
ちなみに
おじゃるは、中観自立で おじゃります m(_ _)m
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
>>459の補足
いま我らの見解(分別)に依存して
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」が
現れ変化して滅しているので
それゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
自相(自性)ではない
それゆえに
中観帰謬の場合は
そのような自相(自性)を、世俗の次元でも否定します
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。と掴もうとしている想いも手放して逝く
↑中観帰謬の場合
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
基本的には、無明に依存している
>自分の言葉
という中観帰謬としての対機説法で おじゃります >>447
訂正:
(29)節
×『アーマンを、「私」という観念の主体であり、』
○『アートマンを、「私」という観念の主体であり、』
>>448
>だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。
補足:
これが核心に迫る決定的な根拠部分でしょう!
【〔尊師いわく、---〕
[なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。]
[心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまったので、『わたし
が語る』といってもよいであろう。また人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいであろう。] 】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)
【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248) >>451
>石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw
読解力ないな...。
さすがのセブンも歳をとったか?
(まっ、お互いさまだけれどw)
>>457
一代も推奨の“直訳”の先生か...
はい、アンケート候補に検討しておきますよ。
>>455
【警告】
自分自身の言葉を語らず、
ただ黙々とコピペ転載やリンク貼りばかりしかしない者にも当スレからの退場を願う。
これも、当スレの戒律(マナーとルール)「条項」に加えさせて頂く!!
>>458
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。
真っ当な議論ではこの私に勝目がないものと分かると、
今度は、ただの荒らしへと成り下がるのが自称仏教徒の姿ということなのか? >>461
サンユッタニカーヤからの引用はその後の
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。
を入れないのはミスリードを誘うことになる
自分の都合の悪い箇所を削るのは卑怯というもんやで宝珠さん
(l.3.5)【敬わるべき人】(第三章 剣)サンユッタ・ニカーヤ I
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html
ID:CgQX8rBP師匠?
(宗教とかに興味がない人の)誤爆?
(あるいは)嫌がらせ?
牛丼とか書いてあるので
「坊さんが肉食べても良いのか?」とすれば
仏教議論になるかもしれない
宗教による制限
…
原始仏教では、比丘(僧侶)は糧(かて)をその日ごとで乞食(こつじき)することにより食を得
与えられた余り物の食べ物に肉が入っていようがなかろうが差別なく食べることになっていた
とくに南伝(上座部のパーリ経典)および北伝(大乗仏教)のなかでも古い経典においては
釈迦その人が肉食をしたことが記述されている
さらに、釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は
提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからである
と記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている
…
生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が
殺す所を見なかった肉
供養のために殺されたと聞かなかった肉
自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた
おじゃるは
焼肉カルビも食べたい おじゃる 涅槃を覚知する、無為を覚知することはできない。
覚知するという行為がサンカーラ、有為になってしまうから。
だから涅槃には「なる」ことはできても「知る」「感じる」ことはできない。
自分、私が存在するという意識が全くなくなった状態が涅槃だから、以降その人には「慢」が無い。
慢が無いとは、私という存在は実在しないと知っているという意味。
私は実在しない、無我であると正しく知っているからこそ、「私が語る」と言ってよい。
なぜならそれは執着、苦しみを生まないから。
無明に依存することのない
仏そのもの
般若の智慧と慈悲をもって
解脱智見
四神足をもって
円成実性をもって依他起性を見る
(無明に依存することのない)
このときにおいて
真に力量ある人は、世間における名称を知って
言語表現だけのものとして
〔(「仮設としての」という意味において)仮に〕そのような表現をしてもよいのである
↑こんな感じで おじゃりますな?
>涅槃を覚知する、無為を覚知する
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
上座部 パオ・セヤドー
…
阿羅漢たちは答えました
「もし、八定と五神通を証悟していないのであれば、あなた方は、どのようにして阿羅漢果を証悟したのですか?」
…
…
仏陀は言いました
「先に法住智、その後に涅槃を対象とする道智」
(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
(主体でもなく・客体でもない)涅槃の世界において
般若の智慧によって観照された対境としての一切法の真実絶対の姿を実相般若という
円成実性をもって → 依他起性を見る
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
我所ではない・我でもない。と知覚して住むことである
(そして涅槃も知覚して住むことである) >>467
>(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)
解脱智見
解脱すれば、解脱したとの智が生じ、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>
と知るのである。
これが解脱来た時の決まり文句っぽくなっている となれば、涅槃にもある種の智慧、気づきが残っていることになりますね。
スッタニパータと矛盾するような気がします。
細かいことは気にするなという事でしょうかw
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?
おたずねしますが、そのことをわたしに説いてください。」
1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅(しめつ)することによって、
名称と形態とが残りなく滅(ほろ)びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」 >>470
宝珠さんに言わせれば名称と形態が残りなく滅びた場合、つまり涅槃において現象世界からの出離を覚知する主体は、
五蘊の何かじゃなくて真我アートマンである、ということになるんじゃないかな?
(無明に依存することなく)
智慧をもって
識別作用が止滅した。と知覚して住んだときに
解脱智見を知る
阿摩羅識(あまらしき)
真我 = 真如、如来蔵
唯識学会
第九意識とは完全なる涅槃
という真如縁起としての対機説法であるけれども
ただし
中観帰謬の場合は
真我である。という『想い』も手放して逝く よく読んでみると、確かにブッダは智慧と気をつけることが止滅するとは言ってないですね。
アジタは智慧と気づきが消滅するんですか?と聞いたのに、ブッダは答えていない。
識別作用と気づきは別ものだとブッダは捉えてるみたいですね。
よくよく考えてみれば、「識」は無明由来だから、気づき、智慧とは無関係でしょうね。
勉強になりました。 >>463の通りなんだがね・・(苦笑
なんか、「やり方(≒読み方)」が一在家っぽくなってきたなw >>宝珠 >>463
ご指摘ありがとうございます。
別に、何の都合も悪くはないですよ。
確かに、そこまで全部とも考えましたが、ただ長くなるだけなので止めたまでです。
理由としては、私がアピールしたいこととは直接的には関係がないので...。
そして、強調したいがために敢えてピックアップ的に抜き出していますから。
ただし、○○であるからとして、前段の文意に大切なただし書きが付くものとして、
その部分が必要不可なに場合には、もちろん省かないほうが賢明なことについては了解しています。
(省略した後半部分の内容については)
そりゃ〜すべて所詮は、ただの言語上の表現に過ぎないのだから、
そんなことはもちろん、仏教を論じる我々にとっては当り前のことですよ。
この経文で肝心なことは、“涅槃に到達した完成者は”『わたしが語る』(または<わがもの>)
と言ってもよいということの意味ですよ。
つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない、と。
その資格がないということになるのだから。
では一体、それは何故なんだ?? ということが重要でしょう。 >>475
>つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない
>では一体、それは何故
凡夫の口にする 「私は」「私が」 は、
まさに我見の見本、象徴、極みとしての
「オレがオレが私が私が」「オレの物私の物」
に他ならないから。 行、サンカーラにも二種類あるようで、ひとつは現象、存在としてのサンカーラ。
そちらは無明に依存している。もうひとつ、身口意の三業を生むサンカーラ。
身口意の三業には善と悪がある訳だから、気づきは身口意の善の意業だろう。
となれば、無為涅槃という場合には、停止しているサンカーラは現象、存在としてのサンカーラで、意業、気づきはあり続けている。
涅槃、無為を覚知するのは気づきであり、智慧である、という事でいいんじゃないでしょうか。
アートマン無しでも説明できますよ。
有学は、「わたし」の本質、無我を理解していないのだから、「わたしが語る」と言ってはいけない。
執着を強化する。自分でもよく分かっていない単語を使ってはいけない。という理由じゃないでしょうか。 >>476
そりゃそうだ。
>>477
だから〜
涅槃に達した完成者こそが真人、
真実の自己(アートマン)に目覚めた者だいってるわけですよ。
別に、バラモンたちの語るアートマン云々ということではなくて、
あくまでも仏教の説く境地としての涅槃の状態=真実の自己の状態(真我)として。
では、涅槃とはどんな...
>涅槃とはどんな
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
(無明が依存している)縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
_ _ _
↓大乗の場合は
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
般若の智慧と慈悲をもって
円成実性をもって → 依他起性を見る
移り行く世界の様を、ありのまま見つめている
無住処涅槃
智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず
しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらない
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>478
> そりゃそうだ。
w
だから、悟られた方に「我」がある筈がないのだよwwwww
まだ理解できない?w ┐(´ー‘)┌
>悟られた方に「我」がある筈がない
(無明に依存することのない)
四神足の智慧をもって
我所という『想い』でもない
我という『想い』でもない
自相(自性)という『想い』でもない
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンという『想い』でもない
想うという『想い』でもない
想わないという『想い』でもない
非想非非想も手放して超えて逝く わしが 「おまえさんは男かい ? 」と質問したとする 。
おまえさんの答えは 「はい 」かな ?
こういうやりとりは 、現象の表面上に表れたものに関するものじゃ 。
しかし 、おまえさんは本当は、四大 (地水火風 )が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりにすぎないのじゃ 。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない 。 「大きい 」 「小さい 」 「あなた 」 「私 」など存在しないのだ 。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我 (アッター)も無我もないのだ。
私たちは、何かを得るためではなく 、手放すために修行をするのです 。
しかし 、名(ナーマ)と色(ルーパ )に対する執着を手放すことができるようになる前に、私たちはこれらの真の姿を知る必要があります 。
そうすれば 、自然と厭離の心が生じます 。
「私」とか 「私のもの」などといえるものはなく、すべてのものは無常無常なのです 。
私たちは 、なぜ「ニッバーナを得た」という言い方ができないのでしょうか ?
なぜなら 、ニッバーナを体験した人は 、もはや「私 」とか「私のもの」という考えを持たないからです 。
もし、そのような言い方をするのであれば、その人はニッバーナを真に体験してはいないということです 。
はちみつの甘さを知っている人は 、たとえそれを知っていても、わざわざ 「私ははちみつの甘さを味わっている 」などとは考えないものです。
(アーチャン・チャー) 隠居は、頑として了承しなかったがw、
仏法ってのは、主語の無い文法なのよね・・。 ブッダが「わたし」と書かれた箱を開けて、中身を見てみたが何も無かった。空だった。無我だった。
それに対して、「箱の中にはアートマンがあるんですよ、絶対に見えませんけど。縁起から離れていて、永遠に変化しないアートマンがあるんです。」
と言ってみても、まわりくどいだけ、言葉遊びのようなものだと思いますが。 かなり上手い喩えなんだが(>>484)、
宝珠には兎の毛ほども理解できんだろうな・・・ orz
>兎の毛ほども理解できん
その理由は
さとりに達するための修行の障害(覆)がある
有覆無記
我癡・我見・我慢・我愛に依存しているから
(他に依存することなく成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(他に依存することなく成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性
たとえば
おじゃるの場合は
落武者の霊は居る。という『想い』が現れ変化して滅している
_ _ _
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。という『想い』が現れ変化して滅している
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない
遍計所執性をもって依他起性を見ることはできない
それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別) >>484
箱の中に在る筈がないでしょうよ。
見えるも見えないも...
アートマンはそういった物理的な場所のどこかに在るわけじゃないから。
最初から、それは何処そこに在るなどというものではないから。
そんな喩え話など、
ただのトンチンカン()を露呈してるだけ。
┐(´д`)┌ヤレヤレ >>480
悟られた方にとって--無い--のは、
“我執の自己”であり、“煩悩塗れの自我”であり、
そして、“業報に流されている自我”、“流転変滅を続ける無常の自我”です。
何故、涅槃に到達した完成者は“真実の自己”だということになるのか?
どうして、新しい自己とか進化した自己ということではなくて、
あくまでも「真実の自己」だといっているのかが重要だということ。
つまり、完成者となって初めて『わたしが語る』と言ってもよいということは、
それまで語ってきた自身における自己は“偽りのわたし”だったいうことを意味します。
無くなるのは。その偽りの自己です。
『言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである』>>463
セブンは、この後半部分を指して、ただ言葉上での仮の表現に過ぎないのであって、
だから、それはアートマンが在るという意味などではない。
アートマンが無いから言葉の表現を使っているだけだ。
もしも、本当にアートマンが在れば、ゴータマはハッキリ「在る」と断言している筈だ。
という見解でしょう。
わたしは、
ゴータマがアートマンを存在論で以て解釈されることを避けたいが為、
そして、第三者によって客観的に確認できるような実体とは異なるものであるから
(つまり、あくまでもその境地にある当人だけにしか知覚されない主観の世界だ)
だと見ています。 〜もしも、セブンが唯物論を捨てるのであれば、
少しはあなたの見解の妥当性についてもその検討の余地が出て来るかもしれませんが...。
つまり、「心霊存在と輪廻する魂については認めるが、永遠なるアーマンについては無い」という見解なのであれば、
それはあっても可笑しくはない一つの意見だとして認めてもいいかもしれない。
しかし、そうではなくて、あなたはただ人間の死後はすべての意識が断滅消滅するものとみているから、
当然、アートマンなど認めるわけがないわけなのですよ。
そういうのを、ただの唯物論(断滅論)というのです。
仏教では、一番最初に否定され捨てられる最低の見解です。
輪廻する魂(アートマンではなく)についても客観的に検知することはほぼできませんが、
ただし、転生現象の有無については、すでに膨大な検証データが蓄積されているので、
それらについて知ることができます。
また、心霊存在(これも肉体崩壊後の残存意識の一つ)については、
これは、もし旨くいけば誰でも遭遇体験は可能なことです。
検証確認のために自分で自ら動こうという気があるかどうかですよ。
わたしはすでに確認済ですが、セブンには自己確認する気があるのか? です。
どう?
もう、唯物主義は捨てられるのかな?
あなたの卒業はいつなの? みなさんはどう?
すでに心霊存在(心霊体験)は確認した?
まっ、こんなもん体験せずとも知的に理解は可能ですが...。
どう、とっくに卒業できた?
こんな低レベルであるのかないのか?
いや不思議だぁ〜とか、未だにやってるんではとても話にならないから。
(別に在っても当たり前のものを普通に体験しただけだと...)
当然、おじゃるさんは卒業生だよな! >>487
この心臓内部の私のアートマンは
米粒よりも 麦粒よりも 芥子粒よりも
芥子粒の核よりも小さい
この心臓内部のアートマンは
大地よりも大きく 空よりも大きく 天よりも大きく
これら諸々の世界よりも大きい
(シャーンディリヤ)
後段はアートマンは真には梵と一如であるということを言ってるのだろう http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/624
> ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、
別に愚弄しているわけではなくてw、それは「仏法」ではないのでは?
と言ってるだけでしょ、皆。 ヒンドゥに限らず、他宗教他思想を愚弄する気は誰も持ってないでしょ。
勿論、「一神教的世界観、考え方」に対して、「世界の見方・視線としてどうなのか?」
という疑義はあったとしても。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/625
> >>http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/604
> >実は神智学徒だったのカモナー・・・
>
> ミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を神智学のせいにしたり
だからw ミスでも何でもなくて、誰のせいにもしていず、皆さん誰もが、
「仏教」として正しい、という確信のもとにレスしてるだけでしょ。 貴方がしているのと同じように。
中身を別にすれば、両者の言説は同一だよw 双方ともに、「違う」と言ってるだけ。
又、上の一文は、「臨済禅師の幾つかの言葉も、真我を見据えた発言だったのか?」
という禅宗史禅思想史の根幹に関わる問題を茶化して述べただけ。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/624> そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、この場合「行」は
> 五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。
> “苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、
> 「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがない
> 涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
> その境地は、“一切とはまったく異なるだからw そういう括りの「一切」なら、その通り。
誰も何の異論も挟まないでしょう。 120%あなたの言う通りw
ただ、「一切法」と限定的謂いをした場合は、ちっとばかり事情が異なってくる。
「一切行」と「一切法」は同か異か。 一切善と一切悪は同か異か。一切仏と一切衆生と一切経とetc.etc.
だから、君がすべきことは、単なる「一切として云々」「一切の中に涅槃は云々」ではなく、
≪「涅槃」を「法」に含めるか否か≫を論証(≒議論)することだ。
勿論、基本、諸法(諸存在)は諸行に他ならないのだけれども、
「asankhataなもの(境地thAna)がある」と説かれたことを承けるなら、
それは法なのかどうかは非常に重要だ。諸々の存在(現象事象)としての法でなく、
理(ことわり)、真実、真理・勝義、修行者の目指すべき寂静としての法(ダルマ)がある、
と言い得るかどうか、と。 そしてそれは同時に、有名な二句
sabbe sankhArA dhukkhA. sabbe dhammA anattA.
とリンクする。 なぜ、 sabbe dhammA dhukkhA でないのか? と。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と
> 同じものならば >覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する
うんうんうん、全く、完全に、1000%その通りだね(´∀`)b
でも、その時は、主体は無い・居ないんだよね、文法的に。
「○○【を】(××【が】)知る」ではなく、「○○【が】知られる」としか言われていない
ことに注意しなければならない。 『誰それによって知られる』という言い方すら、ウダーナではされていない。
つまり、〔≪『誰それ【の】』涅槃≫がある〕のではなく、〔ただ、≪涅槃(という)≫境地のみがある〕 と。
> “涅槃とは無為”であり、
> 「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
> 元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明
意味不明w ≪ 【同等に】 、アートマンを肯定する根拠でもない≫わなwwwww
> 仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)
ここと、Dhp160偈が、考察の対象となるわけだが、
それでも、Dhpの方は(まさに禅家の言う「主人公」としてであり)
「主体的に生きる存在」としての私であり、
Mvの方も、森で遊び呆ける彼らにとって大切なものへ寄せた言い方であり、
その後、実は彼らにその答えは与えられていない。(彼らもまた求めていないが・・。)
なぜか? 不要無用だから。
「その方向(≒真我)を希求することこそが、そもそも、苦の因 に他ならないから。
> そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
>>463に尽きるw http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> 本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)
> 「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )と、説かれたゴータマの教えが
> アートマン性質の核コア部分に相当する
別にアートマンでなくてもいいじゃんw 本来清浄(無地)なだけだから。
ブッダの身体は金色に云云というのも、
土着のドラヴィダ人と比べて色白(或いは黄色系)だったからかもしれんわけで。
アジア人が黄色い猿と言われるのと変わらん。 汚れてなければ、そりゃ白くて清浄でしょうよw
> 素直に受け止めなければならない事実
だからw 一在家のような【ねじ曲がった読み】はやめろ、とw
> 仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって
だからぁw 『説いていない』 ということが重要なの。
ブッダは握り拳の中に教えを隠さなかったの。
全て、示し切っているの。
だから、大般涅槃経の遺言が成立するの。
> 「在る筈がない」だのということはできない
だから、「在る筈だ」だということもできないのw http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/635>>635
> 貴重な学生時代のテキストの
そんな昔じゃねーよ。
つい最近(数年前)、作ったばかりのもんだw 決着シリーズ中期ごろのこと。
> だから、仏典に出てくるアートマンについては、
それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
うんうんうんうん。 まったくその通りだね。 (だから「文言非我、文脈無我」だと。(´∀`)b)
> 当時のセブ ンはそのことをあまり取り合わないようで
いやいやw それは寧ろ一代のスタンスw
なぜか? 日常に於いてさえ昨日の私と今日の私の同一性が疑えてしまうのに、
どうして、それ以上の同一性が担保想定し得ようか、と。
だから、一代は、世俗(日常)だろうが勝義だろうが、「私」に差異を見る必要はなく、
【どちらも】仮設されたものに変わりない、と。
「両義を見据えた上で、どっちにしても「わたくし無し」と断じたブッダの言い回し」
を褒めちぎっていたよw
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/636
> 制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
> 〜如何ですか?
だ〜か〜ら〜w
制御が必要なもの(心だろうが意だろうが識だろうが)は、「真我」足り得ないでしょ?と。
心性本浄の「心性」も、心の性質であるならば「真我」である筈がないでしょう? と。
*(実際、原文ではcittaの一語しか出て来ない)
また更に、心を制御した先に顕れるものなれば、これまた尚更、
制御される前のものと同じである筈もないのは理の当然。
https://i.imgur.com/mSHvPWT.png
>おじゃるさんは…
大日如来からの
↓
宇宙すべて一切の諸法
↓
ヒンドゥー(バラモン)
↓
仏教
↓
チベット
↓
シパ・バルドゥ − 再生へ向かう迷いの中有
トゥルパ − マナス(意、心)が成した身体 − 意成身
ヤブユム − 男女両尊
ということで
(金銭的に余裕があるのなら)
これからも
たとえば、お寺での怪談会とか
あるいは、マインドフルネスとか
神社・仏閣・霊場(心霊スポット)などにも逝ってみたい所存で おじゃります m(_ _)m
https://www.youtube.com/watch?v=PL9nc7wf4i0
京都怪談 >>487
> 最初から、それは何処そこに在るなどというものではないから。
うん。 だから「無我」でFAだね?www
> 箱の中に在る筈がないでしょうよ。
> 見えるも見えないも... アートマンはそういった物理的な場所のどこかに在るわけじゃないから。
> そんな喩え話など、ただのトンチンカン()を露呈してるだけ。
> ┐(´д`)┌ヤレヤレ
箱=五蘊(色(身体))/(箱に書かれた)「わたし」=世俗の言辞・ラベル(名(概念))
まさに、「名色 nAma-rUpa (≒名称と形態)」の喩えになってんのw
┐(´д`)┌ヤレヤレ
で、我々は、まさに、そうした五蘊の総体として、鈴木さんや田中さん、
そして、私やあなたといった名札を付けて、それを識別認識し合って生きているの。
それが、世俗に(世俗で)生きるということなの。
だから、如来も又、その慣習に従って、「私は〜」云々の言辞を用いるの。
でも、「如来の私」には、「オレがオレが私が私が」がないの。
ただただそれだけなの。
>>489
> 〜もしも、セブンが唯物論を捨てるのであれば
wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww
唯物論とか関係ないからw
魂があろうが生まれ変わりがあろうが、「無我」は「無我」なの。
少なくとも『一代はそうだった』ろ?w
また、ワシが、一時期、輪廻による相続肯定側で立論してたの読んでなかったか?
我(アートマン、真我)無くとも輪廻は成立しちゃうのw うん、アートマンなどなく、しかし輪廻も霊も神々も妖怪も有って、しかし、いわゆる「個人主体の生まれ変わり」とか初期の「プトガラ」とか本当の私なんてもんは無いんだよ。
(^。^)そうゆう迷信があるだけ。(笑) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/756
> >>716
> 手法が異なるから別の宗教だとはもちろんその通りです。それはいい。
> では、手法が異なるとその結果(そのゴール)も異なるのか、否か?
この場合の 『結果が同じ』 は、そういう単純な比較に収められないの。
サッカーで一点を取る方法とバレーボールで一点を取る方法は当然違う。
が、同じ「一点」だから、同じだと言えないのと同様、
(特に修道に関しては)手法・方法論が違うというのは決定的差異になっちゃうの。
(だから、大乗非仏説が言われて、一代がイラつくんじゃないw)
或いはまた、同じように治癒したからといって、
西洋的外科薬科治療と漢方鍼灸が同じだとは言えまい?
「医療」として同じというなら、「宗教」として同じと言っているだけにしか過ぎない。
また仮に、ゴール(目的地)が同じであれば尚更に、
『どのような方法を採るか』こそが「違い」であり、
それぞれの存在意義(選択の幅、向き不向き、ニーズへの適合)になってしまうわけでね。
> ヒンドゥーを間違いと決め付けて馬鹿にする。
だからw ≪ブッダの説法とは違う≫ ってだけでしょ。
> 尚且つ、仏教だけが唯一の真理でありそれ以外は間違った低いものと断罪
だからw ≪仏法の上では≫仏法が唯一の真理であり、それ以外がないのは当然だろがw
キ教でもイ教でユ教でも同じだろ。 それぞれ唯一で他は無いだろ?
なに寝言言ってんだとしか思えないわw
>
> 私は、“自分の信じる宗教だけが唯一の真理”と説いているところでロクなものを知らない。
> そのようなことを主張する宗教にはロクなものがないのは歴史が証明してきた。
いやいやw 今の貴方が、まさにそういう人になってますよ?w 久しぶりの逐言レス(≒揚げ足レス)は疲れたw ノシ 諸行は縁起により生滅する全ての現象、六根、五蘊だよね。
諸法は概念、思考、妄想、認識も含む、意門の対象、全ての存在、だよね。
だから涅槃は諸行ではないけども、諸法だよね。
涅槃は無常ではなく、苦ではないが、無我だよね。 >>502
>諸法は概念、思考、妄想、認識も含む、意門の対象、全ての存在、だよね。
概念は想
思考、妄想、認識は識(妄想は想になるかも)
で五蘊の内
しかしながら
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk
#jtba :ブッダの教え。諸行は無常です。諸法は無我です。(中部45) >・・・しかし輪廻も霊も神々も妖怪も有って、・・・
妖怪つれてこいw
(希望・・こなきじじい)w >>501
マウントしてド素人をいたぶるイキリハゲの姿が、そこにはあった。(笑)
(^。^)本当にハゲボウズって、ろくなの居ないよな。(笑)
>>504
お前さんが輪廻を連れてきてくれたらね。(笑)
因みに、かの水木御大は「妖怪とは、そうした雰囲気であって、それを視覚的に判るように書いてる」てなことを言われている。
俺にしても、そうした雰囲気を感じるだけで、見たことも触ったこともないよ。(笑)
そう言えば、昔、拝み屋さんの手伝いしてたとき、霊感ある人に「お不動さんカンジョウしてます」って言って実はゴウサンゼさんカンジョウしてみせた事があるんだが、「あれ?ゴウサンゼ明王が見えます」って不思議がってた。(笑)
本当に見えてんだな、とか思いながら「不思議ですねぇー」とか惚けてた事がありました。(笑)
> カンジョウ
仏に勧めて、法を説いたり、世に久しく住することを請う勧請(かんじょう)?
戒律や資格を授けて正統な継承者とするための灌頂(かんじょう)?
《神》の《定》準となり《神定(かんじょう)》となり?
> ゴウサンセ
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)?
_ _ _
> 希望…こなきじじい
おじゃるは貧乏なので
承狂元密教僧の神通力をもって
見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらす座敷童子(ざしきわらし)を
連れて来て欲しいので おじゃります
地蔵菩薩 オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
>マウントしてド素人をいたぶるイキリハゲの姿が
>ハゲボウズって、ろくなの居ない
(中国経由の)日本の禅宗系とかは
キツイ性格の僧侶が多い?(かもしれない?)
ベトナム出身のティク・ナット・ハンとかは
優しい口調で
仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっていたらしい
https://www.youtube.com/watch?v=j3zi7HljYIM
ティク・ナット・ハン
(真如縁起をもって)ひとりひとりがブッダとなる
https://www.youtube.com/watch?v=EZrHRWkXA0k
ダライ・ラマ 輪廻 転生ラマ
https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k
プラユキ・ナラテボー 瞑想実践
ちなみに
スマナサーラ師匠も激論口調になる場合もある(かもしれない?) 体罰が駄目なことは、今から800年ほど前に曹洞宗の開祖たる道元禅師も言及している。
たとえ師であっても、弟子に暴力を振るってはならないと。
弟子の悪口を言うこともなく、教え導かなければならないと。
とは言っても、道元禅師が中国に渡り、そこで師とした如浄禅師は、坐禅の時に居眠りしている弟子を、履物で容赦なく打ち叩いていた。
そして、如浄禅師は、弟子にそのことを釈明した。
本来は、そのようなことはすべきではないが、仏道修行のために、仏に成り代わってやっているのであるから、慈悲の心でもって許してもらいたいと。
それを弟子は、涙を流しながら聞いたという。そして打たれることを喜び、そんな師を褒め称えたと。
道元禅師は、かくあるべきである、とも言っている。
>仏道修行のために、仏に成り代わってやっている
最終的に
『仏である』と気づくことができるのなら
>智慧と慈悲の心でもって許して
も良いのかもしれないけど
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているので
それゆえに
やはり
誰もが成仏するわけではない(五性各別)。という感じがするので おじゃります
仮設としての
無明を手放しすることが出来れば良いのかもしれないけど
我癡・我見・我慢・我愛を手放しするのは難しい
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/563
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】6
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1245923448/243
〔 『法』の多義性、その定義の範囲 概略 〕 (仮)
「法」( dhamma )
┃
┣「摂理、理法、自然的因果」( dharma / dharmin ?)
┣「理屈、ことわり、論理的整合性」
┃
┣「おしえ」( sAsana )
┃ ├「縁起」
┃ ├「四諦」
┃ └「種々説かれた個々のおしえ、法門」(八万四千云々)
┣「経」
┃
┣「識の対象(法境)」
┣「(根境色の)境」(色声香味触法)
┗「一切の(認識可能な)存在、“もの”“こと”」(「名色」「五蘊」「五蘊十二処十八界」)
└「上記プラス無為法」
└「上記プラス 認識不能な領域に属する“真理”“真の在り様”“存在を有らしめるものとしての根源”」
(→後期大乗としての、法界、真如、華厳界、曼荼羅etc.etc.の先にあるもの、
或いはそれらを支え、成立せしむるもの)
参:
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/566-567
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/586 ◆本文◆
566 神も仏も名無しさん 2009/09/09(水) 20:41:27 ID:KFALggyU
>> 563
どうよ
172 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:34:50 ID: aY704kGy
>> 169
核心的問いですね。頭のいい方ですね。
法とは「釈尊が再発見し説かれた理法」で十分ではないかというのが現在の私の理解です。
これは石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』46頁に依っています。
石飛先生は、天才ですね。仏教の難問を美しく整理して再現しているようです。
>仏教徒が三宝に帰依を表明するときの「法宝」を説明した古くからの定型句も、
定型句とは「法は1.世尊によって善く説かれ、2.自ら見るべく、3.無時的で、
4.来たり見るべく、5.導き、6.識者が各自に覚知すべきものである」でしょうか?
この1.が正に「釈尊が説かれたこと」でしょう。2., 4., 6.は自分で体験する、
3.は行ずれば即時的に結果が出る、5.虚妄ならざる真実に導く教えである。
ということで、1.以外は、全て釈尊が説かれた教えの属性、特性を示しているので、
この定型句は明らかに法とは釈尊の教えであるということで問題ないと思います。
以上に関してはご覧になっていると思いますが、
水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版98頁以下で再確認してください。
ブッダゴーサの四分法も「釈尊が説かれたこと」を基本に特性を述べたと考えられるでしょう。
その水野先生の解釈は圧巻です。素晴らしい! 567 神も仏も名無しさん 2009/09/09(水) 20:42:20 ID:KFALggyU
173 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:35:50 ID: aY704kGy
>「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」だの「依法依不人」だの「法燈明」だの、簡単に言いますが、実際はさまざまな場面でその意味内容を使い分けているようです。
上の用例は、「見る」を体験、体得すると考えれば、全て教えと置き換えて問題ないでしょう。
原始仏典で「 x は法である」とは、定型句の1〜6の特性を全て釈尊が認めたということです。
逆に釈尊が人に質問されて「私はそうは説かない」と仰る場合は、1〜6を満たさないので認めない。
つまり、悟り、解脱に導かない体験できない結果のでないので法と認められないことです。
問題は、「一切法」「諸法」という用例です。これはよく諸現象とか物事、万物という
意味に解されますが、原始仏教に限ってはどうも誤解のようです。
では、何か。これも釈尊が縁起を悟ったことで明らかになった様々なことと考えると、
釈尊が悟った時に「諸法顕現せり」と伝承されることも理解できるでしょう。
そしてこの明らかになった様々なこと、つまり悟りの体系は、釈尊の意識内の出来事でしたが、
それを人に説く時に、「一切法」「諸法」などと呼ばれました。
つまり、「一切法」「諸法」は釈尊が悟った体系を、人に説いたもの。
釈尊が悟り、解脱に役にたつと認めたことが、法というわけです。
以上については、村上真完<最初の仏語「諸々の法が明らかになるpatubhavanti dhamma」考>印度學佛教學研究 54に依っています。以下で読めますのでご覧ください。
http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku
村上先生のこの解釈も素晴らしいものだと思います。
他に「滅法」といった要素、性質と訳される場合も、
滅と「釈尊が説かれたこと」が要素、性質という意味であると考えれば問題ないと思います。
その後、部派仏教時代にたぶん行のために「一切法」をまとめる論書が出現し、
分析探求、論理構築が進んで複雑なアビダルマ体系になったと思います。
このアビダルマを見ると、非常に難解で異説が多いので混乱すると思います。
◆元URL◆
【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1230059903/172-173 ドゥッカのドゥ(>>493)はdのみだったか・・ 失礼 >>ALL
三相(さんそう、ティラッカナ)
無常(anicca アニッチャ)諸行無常
苦(dukkha ドゥッカ)一切皆空, 一切皆苦, 一切皆苦
無我(anatta アナッタ)諸法非我, 諸法無我
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
上座部 パオ・セヤドー
…
法住智の「法」とは、諸々の行法とその無常・苦・無我の三相の事です
「住」の意味は、「立脚して」;「智」は智慧の事です
故に
法住智は
(般若の智慧と慈悲をもって観照する)
諸々の行法の無常・苦・無我の三相に立脚した観智、という事になります 515.般若の智慧と慈悲をもって観照する、か。
それでは忙しいことになる。バカ丸出し、である。
多忙が好きなのかや。大爆笑である。 >>506
う〜む
全くその通りなので弁明の欠片も持ち合わせないがw、
「宝珠の“一在家化”」を、心の底から残念に想うのでね・・・。 ああ、
でも、ワシの方は、最初の 決着アートマンスレ からすれば、
かなり 「一代化」 してるかもしれんからな・・・w
他人のことは言えんか・・・。 >>517
なるべくしてそうなっちゃったんだから仕方ないよ。(笑)
(^。^)上も下も果てしねぇしな。(笑) >>507
カンジョウは勧請。
勧め請うという意味ですね。
神道では降ろすとか言いますが、密教だとこう言います。
密教では主に修法の最中に行いますが、私はそうした手順を踏まずにときどきこっそりやってました。
密教的には…どうなんだろ?(笑)
昔話とかでそんな記述あったような、それを真似してたんだっけ?
(^。^)まぁ、ネット上の与太話だと思って忘れてくれ。(笑) >>606
なんかようかい♪
その“妖怪”(の話)が一体、どこからきたのかは知らないが...
私が、これは実在するだろうとして見ているものは、
UMA(未確認動物)の水棲巨大生物、ミゴー、クッシー、オゴポゴ。
巨大猿人類のイエティ、ビッグフット、野人、ヒバゴン。
また吸血鬼は、異食症の一つとしての「血液嗜好症」(ヘマトフィリア)、「吸血病」(ヴァンパイアフィリア)として医学的に確認されている事実。
あと、妖怪に分類されているけれども、是非、セブンに宿泊をお薦めしたいのが童子の霊とされる東北宿の「座敷わらし」だね。
これは現象遭遇率が非常に高いと評判ですから。
その他に可能性として気にしているものは、河童とツチノコ、沖縄諸島の精霊キジムナー。
そして、チュパカブラってとこか...。
まっ、こんな感じですかね。
あとはただの昔話的迷信と信憑性に欠けるものが多いかなぁ〜
>「あれ?ゴウサンゼ明王が見えます」って不思議がってた。(笑)
>本当に見えてんだな、とか思いながら「不思議ですねぇー」とか惚けてた事がありました。(笑)
う〜む。
“秋月慈童の秘儀”>>183とも通じる世界だな...。
ということは、承狂さんは
心霊次元レベルなんぞはとっくにごく当たり前のものとして認知していて、卒業なんだよね?
>>520
ホー、サスガは元、
破門された密教僧の端くれだけのことはあるなw >>521
訂正:
アンカー>>606は間違い。>>506でした。
>>501
はーい、セブンお疲れさん♪
しっかし、凄い揚げ足取りだらけの長文連投でしたね!!
(これも仏の慈悲の体罰なのか?)
そして、また随分と溜め込んでたようで...
これで少しはスッキリできましたか?
あとで“御礼”しますね。 >>521
「心霊次元」なんて有りませんけど。(笑)
(^。^)新痴学さんとは全く違う考えなので、一緒にしないでね。(笑) >>522
謙遜遠慮、慈悲憐みで 「揚げ足」 と申告しただけで、
全て、本音本心老婆心、正確な苦言だからw
だから寧ろ 心地よい疲労 だよ (´ー`) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533980076/378>>378
> ある男が冒険の旅に出た。洞窟の奥深くで大きな宝箱を発見した。
> しかし鍵がかかっている。鍵は無い。しょうがないので男は宝箱を担いで家に向かった。
> 帰り道、山賊に狙われたり、川で溺れそうになりながら、ようやく家に帰った。
> 専用の工具なんかを使ってその宝箱を開けてみると、中身は空だった。男はズッコケた。
>
> 無我を悟って、有身見が無くなると、その50倍はズッコケます。自分というものは無い、空だった。
> 空の為に今まで何十年も無駄に苦労してきた。なんて馬鹿だったんだ、無知だったんだと気づきます。
> 同時にもう二度と、存在しない自我の為に苦労する事は無いと知って、安心感が芽生えます。
> 自分は無いのだから、死のうが生きようが、焼かれようが刺されようが、どうでもいい事じゃないか、と頭では理解しますが、
> 心にはまだ恐怖、不安、欲、が残っていることに気づきます。まだ修行が残っていることに気づきます。
> 無常、苦、無我をいちおう理解しているので、特に混乱することなく、たんたんと残りの修行を続けます。 仏陀と神通力対決したカッサパ長兄って神通力が使えたのだから、対決した時点では仏陀に帰依はしておらずに外教のリーダーであったのに既に阿羅漢果に達していた覚者だったのだろうか? >>526
漏尽がないから応供じゃないんです。
仙位と覚位は違うのです。
承狂師匠
(難しくて意味が、わからなかったけど、とりあえず)
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
_ _ _
>カッサパ長兄
プーラナ・カッサパ(不蘭那(不蘭)迦葉)
霊魂の不生不滅を説いて
人間はどんな行為をしても善にも悪にならないとして
因縁や業を否定し無道徳を説いた
↓こっちでつね?
優楼頻螺・迦葉(ウルヴェーラ・カッサパ)
ウルヴェーラ・カッサパはこの地の
バラモン出身で、頭に髷を結い、ヴェーダ聖典を読誦し火神を祀る事火外道の師だった
_ _ _
漏尽通
煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力
解脱智見
般若の智慧と慈悲をもって → 解脱智見を知る
四神足
自在力(神通力)
般若の智慧と慈悲をもって → 依他起性を観照する 解脱智見
比丘たちよ、多聞の聖なる声聞がこのようにみるならば、彼はまた、色かたちを厭い、また感受作用を厭い、また識別作用を厭い、また記憶力などの作用を厭い、また判断作用を厭う。
厭うならば欲を離れる、欲を離れたならば解脱する。
解脱したならば、私は解脱したという知識が生じ、
〈生は尽きた、清浄な行にすでに住した、なすべきことをなし終えた、さらなるこのような [輪廻的な生存という]状態はない〉、
と正しく知ることになる。
(宮元啓一著「仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む」春秋社)
またスッタニパータにも
「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
そうして◯◯さんは聖者の一人となった。
という定型句が散見されます。
解脱智恵とはその名の通り輪廻から解脱して次の生はもうない(生は尽きた)と正しく知ることであります。 529.530.それは迷信である。バカには理解できない。大爆笑である。 『サンユッタ・ニカーヤ』12.70(PTS Text,Vol.II,pp.119-128)
スシーマ
14 その時、尊者スシーマは、それを聞きました。
すなわち、多くの比丘たちが、尊師の面前で、完全智に達したことを明らかにし、
『滅尽したのは生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられて、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』
とわたしたちは知ります」と述べているのを。
15 そこで、尊者スシーマは、比丘たちに近づきました。
近づいて、かれら比丘たちと挨拶を交わしました。
親しみのある礼儀のこもったことばを交わして、一方の隅に坐りました。
16 一方の隅に座った尊者スシーマは、かれら比丘たちに、こう言いました。
「尊者たちが、尊師の面前で
『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』
とわたしたちは知ります、と答えているのを聞きましたが、それは、本当ですか」
「本当です、友よ」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/susima.html
この後尊者スーシマは解脱した比丘達に「それなら、あなた方尊者は、このように〜が出来るのですか?」
と色々な神通力が使えるのかどうか尋ねるのですが、
その度に比丘達に「いや、友よ、そのようなことはありません」と否定されます。
つまり釈迦の教団では修行して解脱しても神通力を使えるようになるわけではなかったのです。 >>526
“神通の獲得”=完成者ということではないです。
神智学的には、2.0段階以上のイニシエートから神通を発揮できる者が現れてきます。
仏教でいえば「斯陀含」クラス以上からとなる。
スシーマ経における神通力に関する話のポイントは二つかな。
まず一つは、このスシーマという人物はそもそも神通力が目当てでゴータマの教団に近づいてきた好からぬ人物だということ。
ゴータマは彼の狙いなどはとっくに見抜いており、こういう人物には神通の秘密(獲得方法)は明かすことがないのです。
そして、もう一つは(だからこそ彼には)、解脱には必ずしも神通が必要ということではないことを示すべく、
神通を得ていない解脱者たちの存在を示したということでしょう。
解脱(阿羅漢)には大きく三つの種別があって、
それが「信解脱」(信仰型)、「慧解脱」(理論型)、「倶(分)解脱」(理論+禅定型)です。
実際、三明六通という神通を発揮できるのは、この中の「倶(分)解脱」だけらしい。
なので、阿羅漢だからといっても神通が発揮できるということではない。
それから、たまに見られる勘違いした者の誤読によって、
神通などは在り得ないといった唯物論の肯定に使用するような愚かは止めましょうね。
尚、三明と解脱の関係についてはあくまでもパーリ仏教上の解説であって、
しかし、事実としては、阿羅漢というものは総じて如来の階層よりも一段階、“低い境地”であると、この私は見ています。
これについては私も大乗の見解を支持したいと思います。
如来で神通の発揮できない存在はいない、と。 容量の使用が激しくなってきているので、
一応、次スレを早々に建てておきました。
尚、この現行スレを使いきってからで皆さま宜しくお願いします。
--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541436305/l50 >>523
>「心霊次元」なんて有りませんけど。(笑)
仏教徒というものは総じて無知が多い。
また、仏教用語に無い言葉だと急に“狸と化してすっ呆ける癖”がある。
自動的に、日常用語を仏教的に脳内変換(その逆も然り)できないのなら、一般人とも常識的な対話すらもできないでしょう。
一般社会では、死んだ人間の死後意識を総じて普通に「霊」とか「霊存在」といってる。
これの出現したものが“心霊(存在) ”と呼ばれているのであり、要するに、目撃者は「幽霊を見た!」などとと表現をする。
死後の霊存在そのものには元々、“悪いもの (良くないもの) ”という意味はないが、
一般人が目撃遭遇するものは必然的に良くないものが殆どとなる(状態の良い霊存在は次元が高くなるために遭遇しない)。
浄化(昇華)されてない霊は一般的に「不成仏霊(未成仏霊)」といわれる。
また彷徨っている状況は浮遊霊、自殺や他殺の場合にはその場所に留まるために地縛霊と呼ばれる。
これらの霊存在についての認識のことを、わたしは---心霊次元---と称したまでのこと。
この心霊次元程度はとっくに理解して、ごく当たり前のものとして認めているのかな?
ということをあなたに確認したまでです。
尚、仏教においては詳細解説はなく、単に悪しき状態の霊状態のことを「餓鬼(preta)」と称しています。
目撃した幽霊とは、つまり、仏教の説く餓鬼存在なのだと理解すればいい。
>新痴学
可哀想に字も分からないらしいがw、
「神智学」では幽霊のことは“カーマローカ”という。
霊存在としては、「アストラル想念形態」、そして、生存者の状態においては「アストラル体」と呼んでいる。 資料:
『 2)餓鬼(preta)
Pretaという語は元来は「死者・死人・亡霊」の意味であつて, 生前の悪業のために色々な醜い姿となって, 閻魔(Yama )大王の世界に生まれ,
飢渇に苦しんでいる亡者を指した。したがって, Preta は地獄の苦しみの一つのようなもので, 地獄と餓鬼との区別はもともとあまり明瞭では
なかったのであるが, 後には「餓鬼道」として, 地獄とは別の一世界と見なされ, その種類や状態なども詳細に説かれるに至った。』
(外薗 幸一著『業報輪廻の倫理観(六道輪廻説を中心として)』)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181106030728.pdf?id=ART0007405593
【◆餓鬼道に落ちた者たちが繰り広げる51の物語◆
『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などと同等の経典として大事に伝えられてきた初期仏教経典『餓鬼事経』を、解説付きの現代語訳で読む!
◆餓鬼たちが述べる ◆
◆悪因苦果と善因楽果の因果応報を ◆
◆幽霊のお話として説き聞かせながら、◆
◆人びとに正しい道を指し示す物語! ◆
『餓鬼事経』は、ペータ(peta 死者・餓鬼)を共通のテーマとして、全部で51の偈経というか物語を編纂したお経集です。物語の多くは、前世
で悪業をなして餓鬼界に生まれた者(いわゆる幽霊)が人間の前に姿を現わして(不思議なことに、『餓鬼事経』に登場する人間たちは餓鬼を見ても
怖がりません)、自分が前世でおこなった悪業と今受けている苦果を述べ、悪因苦果の因果応報を自ら証明します。ときには、自分が受けている苦
しみから救ってほしくて、人間に功徳廻向を頼みます。その場合は人間も心得たもので、たとえばお布施をして、その功徳を餓鬼に廻向して救っ
てあげます。(「はじめに」より) 】
(藤本 晃著『初期仏教経典 現代語訳と解説―餓鬼事経―死者たちの物語』サンガ刊) 【仏の世界】密教系の30歳の住職だけど質問ある?
http://somanyjobs.doorblog.jp/archives/52258869.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f2c519fe5384e767e1c9e99abdcfc293) >>533
追記:
要するに、この『スシーマ経』というのは、
解脱(悟り)には特に神通は不要であって、神通を持たない阿羅漢がいることを知りなさい。
その上で、あなたが求めているものは悟りなのか? それとも神通なのか?
もしも、神通目的ならばここは向いてないから立ち去りなさい。
ということを問うているのではないかな...。
というのが、この私の感想です。
>>537
いや〜〜
これはメチャメチャにウケた!!(爆)
>幽霊はいますか?
>>いますよ
承狂さんとは違って、
「それってナニよ?」とか、「そんなものある筈がない」などではなくて、
「いますよ」の“即答(了承) ”だからな! W
日常会話(一般用語)でそのまま自動変換だしね。
そして、この方はなんとキャバクラ通って欲情しまくりだしなぁ(笑)
ところで、「キャバクラ」って仏教用語だとなんというのかな?
また、パーリ語ではどうでしょうか? (^。^)まぁ、確かに俺が宝珠さんを肯定することは絶対ないよ。(笑) >>377
に対するのが>>380だとちょっぴり足りなかったんで。今ごろで悪いけど。(笑)
例えば全て仮想世界上で起きた情報をあたかも身体からの情報として直接脳にぶちこむ、
つまりやがて実現するだろう完全なバーチャルゲーム体験だと、
その中で初めて家事を修得したら現実には全く使えないままか?
そんなことはないだろうってのが大方の予想だよな。
攻殻なんてのはそんな漫画だったが、そうした方向で国家も企業も動いてる。
しかしその攻殻でも「ゴースト」と呼ばれるものは複製出来ない、とされていた。たぶん。(笑)
水槽の脳に戻るが、外部情報を完全再現したなら、その脳には現実だし、
比較対象を知らなければドット絵でもリアルでしかない。
一方で、心臓移植で人格が変わる、つまり脳に与えられずに心臓の違いで意識が変わるなんてこともある。
これは医学でもまだよく解ってないので、頭部移植なんかしちゃったんだろうが、
まだ不確定要素が他にもある。
憑き物なんてのは、まぁパーマンとかは笑うんだろうが、(笑)
俺には外部から何かがとりついたとしか考えられないし、その想定で対処してきたわけよ。
従って、学習出来る内容なら、それこそフロッピー化出来るが、(笑)
魂とか、ゴーストとか、悟りとか、愛(笑)なんてものは単なる情報ではないと考えてる訳だ。(笑)
(^。^)くっさ。(笑)
うわー、くっさ。(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています