因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimmáça)の三つの語が用いられているところから、「citta」
の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
の語を使い分けしてるのでしょう。
 ユング心理学では人間の意識レベルを、「表層意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」、「類心的領域」という段階によってその意識
の深さを説明します。「citta」にも本当は、「識」の中の最奥深層域である阿頼耶識(魂)の意味を含めて語る場合も当然あるのだろうし、
その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。

で、結論なのですが、
道の修行において自己の心(citta)を制御することなく、
真我(アートマン)や“仏教の説く真実の自己”でもいいですが、
それが顕れることができるとする教えが何処かにあるのならばどうぞ教えてください。
私はそんな教えは、仏教にもヒンドゥーにもまったく皆無だと思っていますが...
制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
〜如何ですか?

水野氏は、
あなたの学んだその大学総長にして名誉教授。そして、宗門の大先達ですよ!
是非、心を開いて水野氏の言葉に向き合うことを私はお薦めしますが...。