仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。
ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりにして衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。
であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがないのです。
涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
その境地は、“一切とはまったく異なるもの”です。
それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。
そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている
(当たり前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。

“涅槃とは無為”であり、
「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。
仏教においては確かに、ヒンドゥーのようなアートマンは説かないが、
仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)、本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)、
そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
と、説かれたゴータマの教えがアートマン性質の核コア部分に相当することは素直に受け止めなければならない事実だということ。
従ってつまり、最終的な結論としては、仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって、
彼らの実体験に基づくアートマンについての教えを「妄想だの」、
「在る筈がない」だのということはできない(そういう発言は恥ずかしいから辞めなさい)。
まして、ゴータマが「アートマンは無い」といったなどというのは、
自分たちの無知からくるまったくの妄想に過ぎないことを恥じて早く自覚しなさい、
ということです。