--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう) 3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。 5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!! 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 >>540 これを仏教っぽく書くと。(笑) 色受想行これ即ち識を元とす。 識無くば受くることなく、想うことなく、行ずることなし。 もって色もあることを知ることなし。 七氏曰く受無くば想なしと。 これ非なり。 念念従心起念念不離心とは、受によりての想に非ず、只識に依りたり。 識に依りての行も同じ。 色無くとも識に依りての受もこれあり。 無きものを見ること嗅ぐこと聞くこと味わうこと感じたること能ずとは言えず。 経に曰く空中無色とは、正に相依性なるが故に一々の別なしと説きたもうか。 但しこれ所詮凡夫が私記なり。具には各々師に又は己が心に問うべし。 ってなトコカ?(笑) (^。^)いみじくも>>538 で宝珠さんが書いた通り、仏教とは求菩提のために凡て説かれているんだから、 霊がどうの、霊界がどうの魂がどうのなんて道から外れた話はどうでも良いんだけど、(笑) 今の坊主も現代教育のせいで偏ってるからなぁ。(笑) 普く供養、とか書いてても俺以下の世代だと現代科学の知識をベースにするから、「ハイハイ、喩乙」になっちゃうだろ。(笑) 俺より上だと、まだウッスラ親から教えられてるけど。(笑) 雑阿含経 「好戦経」 このように私は聞きました。 ある時仏は、王舎城のカランダ竹園にとどまっておられました。 その時に、十大弟子の一人であり、神通第一の聖者と呼ばれたモッガラーナ尊者とロクシュナ比丘が二人で托鉢に出掛けました。 托鉢をしている最中に、ある路上にて、モッガラーナ尊者が意味深長な微笑を浮かべました。 そこで、ロクシュナ比丘は問いました。 「今なぜ、微笑されたのですか?」 モッガラーナ尊者は答えました。 「今は托鉢中なので、帰ってから、仏陀の御前でお話しましょう。」 托鉢を終え、帰ってきて、仏陀にご挨拶をし、二人は仏陀の御前に座りました。 ロクシュナ比丘が先ほどのことを問いただしました。 「モッガラーナ尊者よ。 あなたは、先ほど、私と托鉢中に、意味深長に微笑されました。 なぜ、あの時に、あなたは意味深長に微笑されたのですか?」 モッガラーナ尊者は答えました。 「私はあの時、路上にて、一人の大きな男が空中に浮遊するのを見ました。 皮がなく、肉団子のようになったそのものは、ふわふわと空中を歩いて行きました。 カラス、トビ、クマタカ、ワシ、ヤカン、イヌなどの霊界のものがその男にまとわりつき、噛みついてその肉を食らい、その男は、あまりの苦痛から、声を出して泣き叫んでいました。 私はその光景を見て思ったのです。 なるほど、こういう人間は、こういう身体になって、こういう苦しみを味わうという報いを受けるのだな。 そうだったのか・・・ そう思って、私は思わず微笑したのです。」 仏は、諸々の弟子たちに向かっておっしゃいました。 「よろしい。 さて、皆さん、仏道を修行し、真実を観る目を養い、智慧を会得した者は、この様な霊を見るのです。 仏もまた、この様な霊を見るのですが、人々にその存在を説くことはありません。 なぜならば、そのことを説いた時に信じない者が出るからです。 如来の説く内容を信じない者は、智慧のない者であり、その業によって、地獄に落ちてしまうため、その者たちが地獄に落ちぬように、信じられないことを私は説きません。 皆さん。モッガラーナの見た霊は、過去世の時、この王舎城において戦争を好んで楽しみ、多くの人々を刀剣にて傷つけました。 すでに、数千年もの間、地獄に落ちて、無量の苦しみを受け、地獄の余罪によって、今は、この世界にて、霊体の身を得るも、続いてこのような苦を受けるのです。 皆さん。モッガラーナの見たことは、真実にして間違いはありません。 まさに、この事実を受けて心に刻んで下さい。」 仏がこの教えを説き終えた時、諸々の弟子たちは、今聴いた教えを深くかみしめ、歓喜して、その後の修行に活かしました。 こういう人は 「釈尊は脇腹から産まれて直ぐに七歩歩いて、その足跡からは蓮華が咲いて天上天下唯我独尊と言った」 というのも「経典にあるから」そのまま信じてるんだよな?(笑) (^。^)釈尊は人類ではなかったと。(笑) >>544 仏もまた、この様な霊を見るのですが、人々にその存在を説くことはありません。 なぜならば、そのことを説いた時に信じない者が出るからです。 如来の説く内容を信じない者は、智慧のない者であり、その業によって、地獄に落ちてしまうため、その者たちが地獄に落ちぬように、信じられないことを私は説きません。 >>540 言わんとするところは分かるが、(つか、あの時も分かってはいたがw) そういう 「完コピ(及びその「実行、実動」)」 が、そもそ「ヒトという生物」で可能か? ということ。 (攻殻はともかくw)、たとえ、入力が完全に遂行されたとしても、 それが【実際に出力される(行動として顕れる)】とき、コピー元と全く同じ行動(動き・)となるだろうか。 これは、「最終的に筋肉を動かしてゆく神経系(伝達)の話」と、 まさに、活動する「筋肉(の動き)そのもの」にかかわる所だけれど、 その仮想話では、そうした出力(運動)の側面でも言えるのかな? と。 *(たとえばお相撲さんの股割りとかwも、入力さえ完全に為されれば、 誰一人の例外なく、(同じ角度で)大開脚できるだろうか?) > 空中に浮遊するのを見ました > 皮がなく、肉団子のようになったそのものは、ふわふわと空中を… ID:xE2lM5Fx師匠 ご教示ありがとうございます m(_ _)m _ _ _ > (^。^)釈尊は人類ではなかったと。(笑) https://en-park.net/words/7441 仏教の開祖は釈迦であり、この世ではじめて悟りを開いた人物ですが 大日如来はその釈迦をも創りだした創造主… なので 大日如来からの → 宇宙 ↓ 承狂師匠という感じで おじゃりますな? _ _ _ 入力を完全に為されたとしても (無明に依存しているのなら) (同じ角度で)大開脚できるだろうか? さとりに達するための修行の障害(覆)がある 我癡・我見・我慢・我愛 有覆無記(うぶくむき)で おじゃりますな? >憑き物なんてのは、まぁパーマンとかは笑うんだろうが、(笑) ・・・ どわっはっはっはっはっは〜〜〜〜〜 >>546 完全な再現性なんて生物に求めんなよ。(笑) 爺になって昔みたいなことが出来なくなっても同じ個人だろ。(笑) クローン群の個体間で同一情報を共有しててもその後の学習や身体機能の変化で解釈は変わるだろうし。 じゃあ個人とは何か、意識とは何かになるが、 釈尊はそうした問題は十四無記で関わるなと言われてる訳だ。(笑) まあ、個人的には、股割を入力されたら「出来て当然」と思って実行して股関節脱臼靭帯断裂とかすると思います。(笑) (^。^)お前らも歳を取れば、昔は出来たのに、とか思うんだよ。(笑) >>548 だから、密教は大日如来所説だと。(笑) >>549 密教は大日如来所説なんだよ。(笑) (^。^)んなこたぁないか。(笑) >>550 だから、(心技体じゃないがw) 身体含めた「行」なしに悟りはあるのか? という問いに戻るじゃないかw 勿論、 「悟り」が、「知識のみのこと」 であるなら、 遠い将来、(浦沢直樹プルートゥのゲジヒト等じゃないがw) 『頭にSDカード差し込めばみんなブッダ』 な時代が来るかもしれんけど。 >>551 いや。(笑) 悟りが単なる情報群なら、「コピー機も写経し続けたら悟るってこと」になると思うが。(笑) 縁覚ってあるとされてるんだから在るんでしょう。(笑) 現に釈尊はそうだったんだし。 その覚りが、単なる人格の最上位か、原理主義者の言うような超人なのか、もっと別の何かなのか。(笑) それは個々の信仰心の問題でしかないんだから、実際がどうだったのかなんて個々には関係ないし。(笑) (^。^)俺的には、釈尊云々より大日さんがどうなんかが最優先だし。(笑) 552.551.悟り、はコピーできる。バカには理解できない。大爆笑である。 それは、図書館の蔵書と変わらない。 人間がいなくても悟りが存在するとか。大爆笑である。 >>553 >>552 いや、だから、そうじゃなくて、 (つか、元ネタの番組見てからレスしてくれ。論点や、話の起点はそこじゃないから。) いわゆる ≪身に付く≫ という事象が、仏道を『歩む』上で、不要なのかどうか、ということなんだけど。 もっと言えば、 「修行する必要はない」 と言ってしまっていいのか? ということ。 んと今回は、全く噛み合ってないんだなw ああ、 八正道も、八つも要らないという話になっちまうわけでね・・・。 >>554 えー? 全く違う仏教観で討論するって趣旨じゃないの?(笑) (^。^)そこからやるのも良いけど、以前やった時は咬まなかったのに。(笑) えー、AIやってる連中とかのはハードウェアにソフト入れたら演算出来る。だから、その延長線上にAI出来ますってもの。 何度となく書いてきたがオカルト側から言わせれば、これはナンセンス。 >>541 でも触れたように、三界虚仮但是一心作で色受想行は識有っての話で、この識には色界などと同様に意識界が物理的な存在ではないが、実在すると認識した方が府に落ちるわけよ。 まぁ、無色界とか有頂天とかの話はないと思うが。有頂天の大自在こそがキリスト教の禍津八十(以下略) で、ハードでソフトが演算してるって世界観じゃなく、(ゴウンの前4つが仮設の識を、ではなく) ハードでソフトを意識が演算してるってのがゴウンの世界観だと俺は考えてる訳だ。(前4つを仮設の意識がー) 例えば気功は「情報の交信」ではなく、気が交わる事で情報が構築されてる、とね。 だから、水槽の脳にデータを入力出来と某かの意識が生じるなんて事はなく、 データが入力出来るなら、そこに既に何らかの意識がある、となる。 覚り云々も同じで、データで意識が変わるのではなく、意識がデータで確証を得ているだけ、 これが、自性清浄とか光明とか如来蔵とかの話だと考えてる。 この、最適化にも様々な段階があって、羅漢果とか如来位になると。 (^。^)この前提の違いを黙ったまま、ウダウダ議論を重ねるのが皆好きなんじゃないの?(笑) 1個大事な事を忘れてた。 何度も書いてるが、あくまで私見だからな。(笑) 伝統的な解釈は違うかも知れん、というかこの辺は各自で悟ることで、こういう事かくのは駄目なのかもしれん。 経典でも意識界とかさらっと流してるからな。 てか、書いてること知っただけだとどうしてもバイアス掛かるから、(俺が違うかもってのは大前提だが。)正確には伝わらんし。(笑) (^。^)て訳で特におじゃるさん、俺が書いた事は全文忘れて下さい。(笑) >>544 あのね...味噌も糞も一緒にしなさんな! それらの単なる神格化による迷信と、事実としての現象(心霊、神通、奇跡など)は賢く識別しましょうね。 この私は、糞で創られた味噌汁は飲まないから。 たかが心霊程度レベルも理解できないようでは、御山(高野山)を降ろされても当然でしょうね。 そんな唯物論もどきじゃ〜密教僧の資格なし。キャバクラ通い僧よりも劣るとはとてもザンネン...。 あなたには、東北の座敷童のお宿をお薦めします!! とにかくこの私は、 宗門はすべての唯物主義者を“排除すべき”だと強く主張します。 『NK.(vol.T p.050, 南伝28 p.107);(夢の中で)菩薩は白色の優れた象となって……母〔妃の臥する〕臥榻の周りを、 右の方へ三たび繞り、〔母妃の〕右脇を開いてその胎に入られたようであった。斯うして菩薩は、阿沙陀祭最後の日に (uttarAsALha-nakkhattena)、母胎に宿られたのである。』 『MV.(vol.U p.020,JonesU p.018);菩薩の母は普通の女性のように横になったり座ったりして出産せず、立ったまま で出産する。菩薩は母の右脇から何らの害を与えることなく生まれ出る。』 http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/0506.html これらの仏伝によれば、(六本のキバを持つ)白象が右脇腹から入る霊夢を見て懐妊して、その右脇腹から出生したとされます。 これは要するに、処女懐胎ということを謳っているわけですよ。このようなもので良く知られて有名な話としてはキリスト教の イエスです。それは、天使ガブリエルから処女懐胎の告知を受けた聖母マリアが至潔の処女のままイエスを出産したというもの。 処女懐胎の信仰というものは、処女性の持つ汚れ無き神聖なイメージと結びつけたものに過ぎない神格化であって、この手法 は何もイエスやブッダに限ったものではありません。 インドの聖英クリシュナはデバキという貞淑な処女から産まれた。ペルシャのゾロアスター(ゴータマよりも170年ほど前の ゾロアスターはイエス同様、誕生以前から数々の奇跡現象によって予言者たちによって未来の 誕生が知られていた)や王キュ ロスもそうであり、またタイや中国にも処女出産の聖者がいる。エジプト神話のホルス神が処女神イシスから産まれたというの も同じことです。 また、ブッダの話の“右脇腹”に拘る理由が、もしもあるとすれば、インドの一般世間においては身体の左側は不浄の概念を 持っているからではなかろうかと推察します。 “天上天下唯我独尊”というのは、弟子たちが仏陀という存在はこの世で最も尊いものだと説いていたものが、後に、ブッダ 自らがそう誇示したという神格化となったものでしょう。“産まれて直ぐに七歩歩いた”というのも神格化でしょうね。これらは 別に不可能であるとかと、絶対に在り得ないものという意味ではなくて、後代の弟子たちによる神格化なのだろうということ。 >>542-543 >>545 『好戦経』の提示に感謝です!! そうそう。如来の教えを否定して信じない者が可哀想なことになるから、 普段は説かないようにしているというところが重要なのですよね。 >>555 「八正道」というのは修行法なのではなくて、 実際には、完成者としての“結果”のことではないのか? と、以前から思うことが、この私にはある...。 > 例えば気功は「情報の交信」ではなく、気が交わる事で情報が構築されてる、とね > だから、水槽の脳にデータを入力出来と某かの意識が生じるなんて事はなく > データが入力出来るなら、そこに既に何らかの意識がある、となる > 覚り云々も同じで、データで意識が変わるのではなく、意識がデータで確証を得ているだけ > これが、自性清浄とか光明とか如来蔵とかの話だと考えてる > この、最適化にも様々な段階があって、羅漢果とか如来位になると > (^。^)この前提の違いを黙ったまま、ウダウダ議論を重ねるのが皆好きなんじゃないの?(笑) > そこに既に何らかの意識がある たとえば そこに既に 大日如来からの → (仮設としての)色受想行識の仮和合がある 仏そのもの 仏性からの真如縁起 ↑こんな感じかしらん? _ _ _ > おじゃるさん、俺が書いた事は全文忘れて下さい。(笑) おじゃるは 脳に障害があるので 記憶力は、かなり悪いので おじゃります m(_ _)m > 「八正道」というのは…“結果” たとえば (中国経由の)日本の禅宗系とかの場合は そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており 修行したり、悟り証したりすることもないはずである (仏性からの真如縁起)を前提として http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗 内山興正 … この坐禅中の心構えを一口にいうならば 坐禅の姿を 骨組と筋肉でねらい > 身体含めた「行」をもって 「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません _ _ _ 自性清浄の光り輝いている(仏そのもの)前提かもしれない 菩提分法 四神足 般若の智慧と慈悲をもって → (仮設としての)思惟観察する >>561 ちゃいます。(笑) 大日如来からの、ではなく、大日如来の中の一部が様々に縁起しての、我々などの様々な在り方なんです。 キリスト教の神とは全く違う話です。 っていうと、「この宇宙が大日如来ソノモノ」とか即物的な安直な考えする人がハゲでも居ますが、 宇宙が密教を説く訳ないよな?(威圧) (^。^)仏から縁起とか訳が判らん。(笑) なんなん、真如縁起て。(笑) >>541 > (^。^)いみじくも>>538 で宝珠さんが書いた通り、仏教とは求菩提のために凡て説かれているんだから、 >霊がどうの、霊界がどうの魂がどうのなんて道から外れた話はどうでも良いんだけど、(笑) 確かに、パーリ仏教においては、 神通がなくても阿羅漢足り得るということ。 つまり、悟り(完成=阿羅漢)のためには神通は直接的な関係ではない、と。 しかし、そのことは良いとしても、 “霊存在”についての理解というのはどうでも良いということではない。 これも我々には肉体が在ることと同様の認識で以て、その存在を認めていく必要性がある。 何故ならば、餓鬼道に堕ちている精霊は自業自得とはいえ苦しみもがいている哀れな存在であり、 また、その苦悩の余波と悪しき波動が周囲の人間たち(遺族子孫や自縛している場所にいる人間など)にその悪影響を及ばすからです。 これを一般に“霊障(霊障害) ”といっているのです。これは放置していて良いというものではなくて、 手を差し伸べて早期に事態を救済していく必要性があるのだということ。 だから、仏教では“餓鬼救済(施餓鬼) ”について口酸っぱく説いているのです。 よって、この問題を無視して僧侶(仏教徒)足り得る筈がない。 そのことに比べれば、 「魂」存在については知らなくても特に不具合はないかも知れない...。 肝心なことは、前世〜来世へと継承される“転生”(業報輪廻)について理解されていれば問題ない。 【京都】「お寺、仏教はこういうものである」 ダンスミュージックあわせ合掌、お坊さんバンドも 知恩院が攻めのPR 仏教離れ防げるか ・ https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541500370/ >>564 鉄道オタクがJR 職員にアドバイスしても大抵はトンチンカンな内容にしかならない。 二千五百年の歴史ある組織に、社会的信用は殆どない同好会を独学してるだけの人のアドバイスが有効だと、 なぜそう思えるのが本当に不思議でなりません。 それとも、実際に霊的な相談などにのっているんですか? 払ったことが一度でもある? そうは思えんがなぁ。(笑) (^。^)なんでもそうだが、虚構と実際は別物ですよ。(笑) 承狂元密教は > 実際に霊的な相談などにのっていた (成仏供養、護摩法?をしてた)んですよね? その時の、お話しを、ご教示願います m(_ _)m 下ヨシ子の娘 下昇恵の場合の成仏法?↓ https://www.youtube.com/watch?v=xe1ri54cigQ ↑ヤラセ、仕込み、合成動画かもしれないけど、とりあえず >>567 俺は拝み屋さんで、祓うのを手伝ってただけで、 実際に相談に乗ったことはありません。(笑) おじゃるさんが考えてるようなマンガみたいなのは全くなく、 端から見たら単なるオマジナイ、儀式でしかありませんから。(笑) やってる本人としても俺みたいに見えない人は変な疲れかたする儀式でしかありません。(笑) 気が判るとオゾマシさとかも判るけど、見えてる人みたいな恐怖はない。(笑) ヘドロに腕突っ込むみたいな気持ち悪さと言えば伝わるかな?(笑) (^。^)色んな人が色んな流派で色んな事をやってるけど、何が本当かは判らん、というか全部間違ってるような気がして辞めました。(笑) 小部経典「 餓鬼事経 」 舎衛城に コーサラ国王の 二人の王子がいました 。 どちらも ハンサムで若く、しかし それに溺れ、他人の妻たちと 不倫したりしていました 。 彼らは、亡くなると 城外の堀で 餓鬼 ( 幽霊 ) に生まれ、夜な夜な 恐ろしげな声で呻いていました 。 人々は その声を聞いて気味が悪くなり、仏 ( ブッダ ) を上首とする比丘サンガに 大いなる お布施をして、 「 このように お布施をしたら、この 薄気味悪い兆しも和らぐでしょう 。」 と 考え、世尊に事情を打ち明けました 。 世尊は それをお聞きになって、 「 信者たちよ、これは 危険なものではありません 。」 と、以下の偈で その原因を説き明かされ、さらに説法なさいました 。 「 ヒマラヤ山脈に接する 舎衛城という都市がある 。 そこに、王の息子であった 二人の少年がいたと 私は聞いている 。 誘惑して、五感を満足させる喜びを 見つけることだけに心奪われ、彼らは この世の快楽だけを渇望して、来世のことに注意を払わなかった 。 そして 人界から堕ち、悪い境涯に生まれて、彼らは今、見えないけれど、彼らが 過去世で ( 人間であったとき ) 犯した 悪行を嘆いているのだ 。 『 たくさんのものが 目の前にあり、功徳を積む準備は できていたのに、私たちは 自分に幸せをもたらす善業を、ホンの少しも しなかった 。 これよりも 悪いことがあろうか 。 私たちは 王家から滑り落ち、飢えと 渇きに苦しむ 餓鬼に生まれたのだ 。』 と 。 この世界で ずっと支配者であったのちに、あちらでは もはや支配できない 。 飢えと渇きに さいなまれながら、ただ うろつくだけである 。 人間の中で 最上の地位を誇った者たちが、今や 最低のところにいる 。 権力に溺れることに起因する不利益が結果を出して終わったとき、そして もはや権力に溺れることを捨てたとき、その者は天に赴く 。」 人 「 餓鬼 ( 幽霊 ) たちは、人間もそうですが、善行為を しなかったので、苦しみに 陥っているように見えます 。 天人たちのように、人間も幸福になれる境涯なのだから、あとで 幸福を経験できる ( 善 ) 行為をするべきです 。」 ブッダ 「 この世において 善をなし、亡き者たちの為に供養をし、勝 ( すぐ ) れた おこないをした後、施主は 天界に赴く 。」 しゃべくりだったか?以前モンゴル出身の横綱がテレビで ジュース飲む前とか指で数滴供養してから飲むって言ってたな。 (^。^)供養はマジで大事だぞ。(笑) 無明に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 遍計所執性に依存して 誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので、それゆえに > 善行為をしなかった(できなかった)ので、苦しみに 陥っている という感じで おじゃりますな? _ _ _ > (^。^)供養はマジで大事だぞ。(笑) いつも、ご教示ありがとうございます m(_ _)m ↓拝火教(ゾロアスター)由来の? 4K 高野山 真言密教護摩焚き https://www.youtube.com/watch?v=9JsHo1XGm10 ↑成仏供養法ではないかもしれないけど、とりあえず 供養は大事。 なんだが、じゃあ何をどうすれば供養か? 貧者の一灯という言葉があるわな。 密教の法だと、一粒一滴で雲海と為して普く供養する、なんて観想もある。 要は誠、誠意が天に通じるということ。 先に「身体感覚器官のフィードバック無しに経験は得られるか」と問いに「当然」と答えたが、これもまた同じっちゃあ同じ話で、 極論すれば、だが、正しき意志があるなら、それだけで供養足りうるし覚位に至れる。 至誠があるならそれだけでも供養だろ。 諸尊とはそうしたものだと思う。 じゃあ具体的にはどうなんだって問いには、 そんなもんお前が考えろ、としか言えんわな。(笑) マニュアル化が出来ないから、言語不可得だしな。(笑) 無尽だから八万四千で、諸尊も無尽なんだろって話。 しかし、こんなん考えながらバカカルトみたいな腐った魂の相手とか、まぁ、無理ゲーだとしか俺には思えない。(笑) (^。^)だから、経典コピペとかもだが、俺は何か間違ってるんだろう。(笑) 小部経典 7.ティロークッタ・スッタ(戸外経) 1.〔餓鬼たちは〕諸々の壁の外に止住する――さらには、諸々の十字路や丁字路に。 〔餓鬼たちは〕諸々の門の両脇に止住する――自らの家屋に帰り来て。 2.沢山の食べ物や飲み物が、固形の食料や軟らかい食料が、〔施食として〕奉仕されたとき、誰も、それら〔の餓鬼たち〕のことを思い浮かべない。 〔それらの〕有情たち(餓鬼たち)には、〔そのような〕行為の縁(業縁)あるがゆえに。 3.彼ら(施者たち)が、慈しみある者たちとして〔世に〕有るなら、このように、〔彼らは〕施す――〔過去の〕親族たち(餓鬼たち)のために、清らかで精妙なる飲み物と食料を、適確なる時に。 4.〔すなわち〕「これは、まさに、〔過去の〕親族たちのためと成れ。〔過去の〕親族たちは、安楽の者たちと成れ」〔と〕。 しかして、それら〔の餓鬼たち〕は、そこにおいて、集いあつまって〔そののち〕、 集いあつまった〔過去の〕親族たる餓鬼たちは―― 5.沢山の食べ物や飲み物にたいし、恭しく随喜する。 〔すなわち〕「わたしたちの親族たち(施者たち)は、長きにわたり生きよ。彼らを因として、〔わたしたちは、安楽を〕得るのだ。 6.しかして、わたしたちのために、供養は為された。しかして、施者たちは、果なき者たちにあらず」〔と〕。 なぜなら、そこにおいて、耕作は存在せず、ここにおいて、牧畜は見い出されず―― 7.商売やそのようなものは存在せず、金による売買は〔存在せず〕、ここから施されたものによって〔身を〕保ち行くからである――命を終えた餓鬼たちは、そこにおいて。 8.たとえば、高きに雨降った水が、低きへと転じ行くように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。 9.たとえば、諸々の水流が満ち溢れ、海洋を遍く満たすように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。 10.〔すなわち〕「わたしのために、〔あの人は〕施した。わたしのために、〔あの人は〕為した―― わたしの、親族として、朋友たちとして、しかして、友人たちとして」〔と〕、 過去に為されたことを随念しながら、餓鬼たちのために、施物を施すがよい。 11.まさに、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらには、すなわち、他の、嘆き悲しむことも、それは、餓鬼たちの義(利益)のためならず。 このように、〔過去の〕親族たちは、〔虚しく〕止住する〔だけのこと〕(泣き悲しむことは無意味である)。 12.しかしながら、まさに、この施物 が、〔僧団に〕施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、その〔餓鬼の衆〕の利益のためとなり、即座に役立つ。 13.しかして、それが、親族の法(教え)であり、これが、〔ここに〕実示された。 しかして、餓鬼たちのために、盛大なる供養が為された。さらには、比丘たちのために、活力となるものが奉施された。 あなたたちによって、少なからざる功徳が求め作られたのだ。ということで―― 〔以上が〕ティロークッタ・スッタとなる。 正田 大観. 小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)〜正田大観 翻訳集 ブッダの福音〜 10.〔すなわち〕「わたしのために、〔あの人は〕施した。わたしのために、〔あの人は〕為した―― わたしの、親族として、朋友たちとして、しかして、友人たちとして」〔と〕、 過去に為されたことを随念しながら、餓鬼たちのために、施物を施すがよい。 11.まさに、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらには、すなわち、他の、嘆き悲しむことも、それは、餓鬼たちの義(利益)のためならず。 このように、〔過去の〕親族たちは、〔虚しく〕止住する〔だけのこと〕(泣き悲しむことは無意味である)。 12.しかしながら、まさに、この施物 が、〔僧団に〕施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、その〔餓鬼の衆〕の利益のためとなり、即座に役立つ。 >>560 >完成者としての“結果”のことでは 面白い視点だが―言わんとするニュアンスもよく解るがw―、 「具体的に何をしたらいいのか」という「方向性」「方法論」「事例」無しに”道”はなかろうて。 また、それこそ「何でもあり」でしょう。 確かに結果かもしれないが、同時に、(子供の成長・教育じゃないが) 「【何を・どこを】(【どう】)伸ばせばよいのか」 という向上のための指針でもあるわけで。 仮に、「色々選択肢はある」、と言い得たとしても、 ブッダがお示しになった方法論(方向性)を採っているもの(それを提示しているもの)を、 「仏教」(・・・ブッダサーサナ)と呼び、その途の上にある者を「比丘」(釈子、仏弟子)と呼ぶのではなかろうかいね・・。 徒然草 第百六段 高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曳きける男、あしく曳きて、聖の馬を堀へ落してンげり。 聖、いと腹悪くとがめて、 「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。 かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入けいれさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、 口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、 上人、なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学の男」とあらゝかに言ひて、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。 尊かりけるいさかひなるべし。 https://tsurezuregusa.com/106dan/ >>579 それは、どの方向性での問題提起? ・僧侶(比丘)の資質の話? (→それを踏まえた上でのコスプレ批判?) ・仏弟子たる必須スキルの吟味? ・自称仏弟子への批判? ・出家←→在家の区分批判? ・在家(→比丘でない・僧侶でない・釈子でない者)でも仏弟子足り得るという声明? (出家でも、仏弟子足り得ないという批判?) ・日本は、そうした分類が適用できない、異質な文化、社会、気質の地域だという提示? (´・ω・`) >>582 >>579 のリンク先の現代語訳を見るに身分とか位にこだわって僧侶にあるまじき癇癪起こした高野山の上人への冷やかしではないでしょうか? >>583 そうじゃなくて、 「>>579 氏が、それを貼った意図」 を尋ねている。 >>583 579が、そのタイミング(578の16分後)にレスされたことに、 何らかの意図があるんじゃないか?と。 いや、比丘という言葉に反応しただけw 徒然草に見られるように日本にも比丘や比丘尼や優婆塞、優婆塞という言葉はあったのに何故一般に普及しなかったのだろうか? > 比丘や比丘尼や優婆塞 たとえば 南伝の場合は 四向四果 預流 − 須陀洹(しゅだおん) 一来 − 斯陀含(しだごん) 不還 − 阿那含(あなごん) 阿羅漢 − 応供(おうぐ) _ _ _ 北伝の場合は …衆生皆菩薩 衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性がある 一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)などの如来蔵思想や… たとえば 大乗の場合は 優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)とか 比丘(びく)・比丘尼(びくに)など 「それ以外の衆生と分別するな!」 「一切悉有仏性だ!」みたいな感じ? >>586 それも面白い研究テーマw まあ、(比丘尼はともかく)「比丘」という呼称は、 ―今現在もそうだけど―内々の(自負のような)自称としては使用されても、 昔から、一般には使われていないようだし。 日本に入ってきた時点で既に、(サンガという組織が無い状態として)「僧(尼僧)」一択に近かったのかも。 しかも、女子も少ないから、自然的に「特別な存在」として「比丘尼」という呼称は使用された、と。 また、在家信者に至っては、「信者、信徒」といった 『積極的信仰を持ち』或いは『その規範に則って生きる』ような人物は、鎌倉地代以降までは存在しなったろうし、 鎌倉地代以降であっても、「ウバソク(ウバイ)」という音写語を使ってまで、 わざわざ差別化して信仰や庇護者・施与者であることを強調する必要もなかったろうし。 寧ろ、神仏の加護を祈願するだけの、大衆、マスでしかないだろうし。 (で、檀家制度も、実は、その「顔の無い大衆性」の上に乗っかってるんだろうし。今でも。) だから、日本に於いては、仏教伝来以来ずtっと、「一般人」と「僧」(僧侶)という二分だけで十分だったのでしょう。 正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってるね。 でも道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だったから、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷よりもより好んで用いた用語は善男子、善女子かな? 居士も使ってたと思う。 比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかもしれない!? >>540 >一方で、心臓移植で人格が変わる、 >つまり脳に与えられずに心臓の違いで意識が変わるなんてこともある。 臓器移植(や輸血)については、 肉体が持つカルマを混乱させるため基本的には望ましくありません。 なので、臓器移植ではなくて“人工臓器(及び人工血液)の開発”が急務なのです。 〜するのが、神智学の採る立場です。 つまり、細胞の一つ一つにまで個人の情報データ(意識を含む)が刻まれているとということかな...。 だから、他人の肉体細胞を取り込むのは止めるべきです。 (もちろん、それはエホバのように輸血否定までして死を選択するというものではない) たとえば、 植物にも感情(意識)があるらしいということは、 すでに何十年も以前から科学実験によって確認されています。 今日、一部農家では野菜果物の成長を促進する音楽を聞かせるところや、 観葉植物にも優しく声を掛けていると良いともされています。 ならば、その感覚器官は植物の中のどこにあるのか? 植物の生体の一体どこに脳ミソや脳神経組織ニューロンがあるというのか? だから〜こうしてみると、意識そのものというのは脳ミソでも脳神経組織などでもないのだということが理解されるのです。 脳ミソも神経組織もそんなものはただの“意識”の道具にしか過ぎないのだから。 全国には、巨木を切り倒して呪われたという話は多く、 また、今日では癒しのパワーを受けるということで、御神木や巨木に抱き着くことがブーム。 インドにおいても樹下は生命の宿る神聖な場所とされ、ゴータマを含めて過去仏は特定の樹下(菩提樹下)において成仏したという。 情報: (植物にも感情がある! それはまるで人間のようだ) https://matome. (NGワードにて「ネバー」を変換して).jp/odai/2147522773530177101 >>578 >「具体的に何をしたらいいのか」という「方向性」「方法論」「事例」無しに”道”はなかろうて。 >また、それこそ「何でもあり」でしょう。 “「方向性」「方法論」「事例」無し”で良いという話ではなく、 ゴータマの説いた成仏法が『三十七菩提分法』であるとしてみた場合には、 この中の「八正道」は、もちろん道を歩む上での必要な精神態度であることは当然としても、 どちらかということ、これは完成者が示し得る精神性の状態 ---つまり結果---的な意味合いが強いのではないか? ということ。 例えば、“八正道の「正見」(正しい見解)”といった場合に、 我々は物事について正しい見解を持てないからこそ苦悩しているのであって、 最初から正しい見解が持てていれば何も苦悩していない...。 つまり、正しい見解というものは完成者の状態のことなのであって、 我々というのは、そうなれることを目指して修行していくんだという意味です。 なので、 具体的な修業についての手法部分というのは、その他の“六科” (菩提分法というのは全部で“七科”あって、八正道はその中の一つである) において説かれているということかな? と。 しかし、内容の意味合い的にはかなり重複しているので、 実際上においては八正道の他というのは二科程度なのでしょうかね...。 ---------------------------------------------------------------------------- 【三十七菩提分法】 1. 四念住(四念処) 身念処、受念処、心念処、法念処 2. 四正断(四正勤) 断断、律儀断、随護断、修断 3. 四神足(四如意足) 欲神足(欲如意足)、精進神足(精進如意足・進如意足)、 心神足(心如意足・念如意足)、観神足(観如意足・思惟如意足・慧如意足) 4. 五根 信根、精進根、念根、定根、慧根 5. 五信 信力、精進力、念力、定力、慧力 6. 七覚支 念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支 7. 八正道 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 > 日本に於いては、仏教伝来以来ずっと… やはり 「南伝と北伝は違う!」 という感じで おじゃりますな? _ _ _ > 正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた > 道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってる > 道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だった > 比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかも 大変勉強になります ご教示ありがとうございます 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m > 完成者が示し得る精神性の状態 たとえば 無明に依存している、おじゃるが観察するのか? あるいは 無明に依存することのない 般若の智慧と慈悲として(おじゃるが?)観察するのか? 自在力(神通力) 四神足 智慧をもって → 思惟観察する _ _ _ 円成実性を見ずして (無明に依存して)依他起性を見ることはできない という感じで おじゃりますな? >>587 ナンデンはよく知らんけど、 基本的に原始仏教➡説一切有部などの諸派➡大乗又は上座 という流れなので、 ビクビクニウバソクウバイって言葉は上座も大乗も同じく使うはずですよ。 四向四果は、アラカン以下の覚悟の段階なので、ビクビクニウバソクウバイとは別の話。 ビクビクニは男女の出家者で、ウバソクウバイは在家の仏教徒のことだから。 昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです。 たしか日本領域(変換出来ない)とかの古典でもウバソクとか出てたはずですよ。 > 昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです そうだったんでつね? 知りませんでした さすが元密教僧で おじゃりますな? いつも ご教示ありがとうございます m(_ _)m > 日本領域(変換出来ない) 日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)? 日本霊異記? 成立年ははっきりしないが、序と本文の記述から、弘仁13年 (822年) とする説がある 著者は奈良右京の薬師寺の僧、景戒である 景戒は 下の巻三十八の自叙伝において妻子とともに俗世で暮らしていたと記しており 国家の許しを得ない私度僧に好意的で 自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという >>596 そう、その「日本リョウイキ」です。 (^。^)変換面倒くさかったです。すんまそん。(笑) セブン氏はセブン比丘と尊称すればいいの? それともセブン和尚? セブン尊者? セブン長老? セブン上人? セブン禅師? 曹洞宗の場合は 道元禅師 臨済宗の場合は 江戸時代に白隠禅師 禅宗系なら せぶん禅師匠みたいな感じ? 正しく生きる道は一つしかない 〜微笑みが絶えない八正道〜 「幸福になりたければ、死後永遠の天国に行きたければ、唯一の神を信じなさい」と言われると、そんなものがいるか否かも調べることなく信じるのです。 「罪を悔い改めなさい」と言われると、罪を犯した覚えが全くないにもかかわらず、また、「私は何の罪を犯したのか?」と相手に訊くこともなく、涙と鼻水を垂らしながら懺悔して、犯したといわれる、わけもわからない罪を悔い改めるのです。 「唯一の神を朝晩、または一日五回褒めたたえなさい」と言われると、真剣にやるのです。 「全知全能の神なのに、毎日讃えたり、祈りをしたりしないとダメなのですか? 神は認知症ですか?」とは問わないのです。 地理的にガンジス河の源流はどこかと皆知っているにもかかわらず、「神の髪の毛からその河が始まる」と真面目に信じているのです。 ひどく汚染されているその河に日の出前に飛び込めば、すべての罪が洗い流されて心が浄化して幸福になると信じるのです。 罪とは、汗と埃のことなのでしょうか。罪とは、怒り憎しみなどではないでしょうか。 馬鹿を信じる者にとって、そんな疑問はどうでもいいのです。 河で、また洗礼することで、心の罪が洗い流せるのであれば、人間どもは必死で魚やカエルや水蛇、カメなどを礼拝したり、拝んだりした方が理にかなっているでしょう。 なぜならば水の中で生まれて生きていて、水の中で死ぬから、その生命の心の清らかさは言葉で言い表せないほど高いはずです。 「南無妙法蓮華経」という宇宙大曼荼羅の呪文を唱えれば、商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災、ではなく、世界支配までできると思っている方々は、決して、ふざけているわけではないのです。 真剣真面目なのです。 しかし結果は、皆に煙たがれる、家庭は崩壊する、試験は落第する、お医者さんの腕がなければ病気で死ぬことです。 http://www.j-theravada.net/howa/howa160.html 空に足跡なし 〜現象に対する無執着は解脱です〜 概念の並べ替えで、面白い新しい概念、新しい思考が現れたと思いがちですが、必ずしもそうはなりません。 実在もしない、理屈にもならない、概念思考などはいくらでも作れます。 思考の、妄想の遊びをする人は、やがて自分が考えたことが本当にあると勘違いするのです。 永遠の天国、永遠の地獄、永遠の魂、絶対的唯一の神などの概念は、妄想と戯れた結果なのです。 このような概念は、道の重さを考えて出した答えのようなものです。答えを出しても、その答えが成り立たないのです。 インドの宗教家、哲学家たちがおおいに議論した十種類の項目がありました。 一、魂と身体は別々なものか 二、魂と身体は同一か 三、世間は有限か 四、世間は無限か 五、世間は永遠か 六、世間は永遠ではないか 七、真理に達した人は死後存在するのか 八、真理に達した人は死後存在しないのか 九、真理に達した人は存在すると同時に存在しないのか 十、真理に達した人は存在することも存在しないこともないのか。 この十問に、お釈迦さまは回答しませんでした。これらは実在しない概念の空回りだからです。 ウサギの角について、「長いですか? 短いですか?」とさまざまな議論をするようなものです。 仏教の立場は、長いか短いか答えることではないのです。まず、ウサギの角が実在するかしないのか、質問者の方で立証しなくてはならないのです。 魂と身体が同一か異なるかと答える前に、「魂の存在」を立証しなくてはならないのです。 人間は幻覚を作って、この幻覚が実在すると勘違いして、それからその幻覚について語ったり、対話したりします。 それは時間の無駄。どこにも進まないのです。 様々な幻覚を生み出す親玉は、「私がいる」という幻覚です。 仏教を実践する人は、まずその幻覚を破り、悟りの第一段階に達するのです。 その人には、この世で現れる全ての疑問に回答があります。だから、悟った人に「疑」はないのです。 >>601 続き ヒンドゥ教の哲学では、我々の現象の世界は幻覚(mâyâ)であると語る場合があります。修行でこの幻覚を破ることを勧めているのです。 真理は一つであって、その真理に達すること(梵我一如)を最終目的にしていますが、決して解脱ではないのです。 個我が消えて、真我に達することなのです。これも何かの境地に執着することです。解脱にはなりません。 大乗仏教で語る「法身」も似かよった考えです。真理という絶対的境地を設定して、そこから現象の世界のありさまを説明する。 このような思考には、一つ弱点があります。不二である真理から現象の世界が現れたならば、現象である個が幻覚を破って真理に達しても、その真理は限りなく現象の世界を作り続けているでしょう。 ここで、反論する必要さえもないのです。 全て、人間の頭の中で考える概念に過ぎません。妄想概念の次元を破る方法を語っているのは、ブッダだけなのです。 >>602 続き Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。 因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。 ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。 ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。一つである真理の裏と表の考えなのです。 仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。 「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。 ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。 大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。 「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。 だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。 http://www.j-theravada.net/howa/howa148.html 宮崎哲弥氏は >無霊魂説、無我説が究極の真理であるならば >「輪廻転生が存在しない」のは理の当然である 『新世紀の美徳』(朝日新聞社) と主張し彼が信奉する中観仏教正系帰謬論証派では輪廻を否定しているとしています。 逆に、宮崎さんは『憂国の方程式』(PHP)において唯識思想を 批判してこう書いておられます。 >唯識とは、まさしく、仏教のヒンドゥー教への融解のはじまり、 仏教解体の端緒となった「反動思想」である。 >阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做すこの説は、無我説の意義を薄め、中観の空思想と鋭く対立した。 >仏教の認識論的 革命性に耐え得なくなった知的怠惰がインドの土着宗教、 神秘思想への回帰を促したのである。 >(中略)かかる仏教観が三島自身のものであったとしたら、彼の仏教理解は極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない。(P130〜P131) パパンチャ?ということで、とりあえず http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html … 六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)に、外部の情報(色声香味触法)が触れると それぞれの器官に認識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が生じ そこから感受と知るという働きが生まれるのです … 知るという働きの後には、ヴィタッカが生まれます ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います … 妄想を作る働き ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔 嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです これをパーリ語で「パパンチャ」と言います パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう 実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです _ _ _ 縁起している世界の中において (空性に依存しないものは)存在しないにも関わらず (空性に依存しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性 無明に依存して 無いものを有ると考えて、実体化、固定化して 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない アートマンである。という『想い』が、現れ、変化して、滅している > 輪廻を否定している http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 渇愛(タンハー) … 無明から渇愛が生まれるのです 無明と渇愛が絡み合って、無始なる過去から(輪廻を繰り返し)終わりなく苦しみをつくり出しています 客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92 無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている 真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習 http://www.kisc.meiji.ac.jp/ ~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有 http://www.asahi-net.or.jp/ ~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3 曹洞宗 内山興正 「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません 「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます 仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ,そのまま説いているわけです _ _ _ ↓唯識系の瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 … 我愛と戯論と善悪業により輪廻を繰り返す 「宮崎『ただ、アートマンがないとすると、輪廻の主体や自業自得の法則の当体とは一体何か。仏教はこの問題を抱え込んでしまった。』」(p.218) 佐々木氏は要素をアビダルマ的に捉えていて 「その要素が集合したり雲散霧消したりする現象のことを無我と言い表しているだけで、それらの要素を集合させるエネルギーが輪廻して来世に伝わっていくと考えることに違和感はない。」と言う。 しかし、龍樹の中観派はその要素の実在性を否定するのだから、そうした関係の束でしかない以上自業自得の原則も成り立たないと、宮崎氏は言う。 「無我輪廻説というのは、無我と矛盾するどころか、無我だからこそ輪廻があるとする説です。 ・・・主体、当体『この私』などと仮設されたものは実体的でも固定的でもなく、この一刹那も留まらず変化し続けている。縁起し続けている。昨日の自分は今日の自分と同一でない。 しかし完全に異なってもいない。この流動は誕生も死も関わりなく、ライフタイムを超えてずっと続く。こうして輪廻が成り立つのだとする。」 だから同一性のある主体がないなら、 「自業他得でも他業自得でもかまわないじゃないか、という話になってしまいます。無我輪廻説だと、おそらくかまわないのではないかと思われます。持続しているものはあるが、無我なのでそれに自も他もない、ということですから。」(p.219) とそんなふうに宮崎氏は述べる。 (ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』佐々木閑×宮崎哲弥 もう一度リセットして仏教を考えてみたい人に) >>607 佐々木が言ってる要素を集合させるエネルギーが仏教では行とか業と呼ばれるもの 行(業)によって識が形成され識が母胎に入ることによって名色は成長する >>604 いくら中観が空思想だからといって輪廻までは否定していない 龍樹も無明に捉われたものは輪廻すると述べている で、今度は 「サンサーラ」の語義解釈の問題になる、とw 三世に跨る暴流(繰り返し)か、今生で自覚される暴流(繰り返し)か。 ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。 龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。 具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、 次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html おじゃるは(「仮設としての」という意味として)輪廻肯定だけど、とりあえず https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB 輪廻 - サンサーラ 仏教内における輪廻思想の否定 ブッダの教説は 輪廻の存在を認めるものなのか、否定するものなのかという議論は 現在も、少なくとも日本の仏教学会では続いている 現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻を否定した」という主張が少なくない 松尾宣昭によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが (1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と (2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり 両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする (1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ (2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず 「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」 という趣旨の「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる 一方で パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し ある種の「仏教の本質(涅槃?)」を想定することで そこから帰結的に輪廻否定(涅槃?)が導出されるとする立場もあるとする ↑『涅槃は輪廻ではない!』みたいな感じ? 【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】6 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/300 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/305 305 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:43:38 ID:gozG82uQ >> 279 だからそれは漢訳などの伝統に従っているだけで、 (「輪廻」「来世」「前業」などは全て漢訳。我々は、未だに日本語やパーリ語でもサンスクリット語でもなく、 定義の不明な第三外国語(中国語)を滑稽にも使用して議論している) 本当の意味は「世界」「世の中」という程度の意味なんですよ。そういうメタファー・修辞表現なんです。 メタファーを物理的事実と混同することが間違いの元です。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/306 306 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:48:30 ID:gozG82uQ >> 300 そのチャプチャプと音を立てて流れること、この「流れること」がサムサーラで、漢訳すると「輪廻」という言葉なんだな。 (オカルト的な)生まれ変わりという概念とは関係ない。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/309 309 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 13:17:54 ID:gozG82uQ サムサーラ→輪廻→生まれ変わり と訳した後で、逆にサムサーラの意味が生まれ変わりであると誤解することは、 culture→文化 と訳した後でcultureの意味は、文に化けることなんだ、と分けの分からないことを言い出すようなもので、ギャグとしても低レベル。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/312 312 神も仏も名無しさん 2009/01/19(月) 13:34:47 ID:gozG82uQ >> 310 私の理解は、中村氏の>>225 の解釈と相違ありません。 語源は「流れること」「走り回ること」という意味で、「生まれ変わり」という意味はありません。 >南方上座部でも世間といった意味で用いられている、ということでしょうか? そんなに単純なことではありません。彼らも魂の生まれ変わりとは考えていないが、 心のエネルギーが次々と生滅していく現象と考えているようです。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/367 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/368 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/369 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/380 380 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 23:09:05 ID:gozG82uQ >> 369 >『PTS』1.『モニエル』『アプテ』3. が語釈として出しているTransmigrationは輪廻転生に他なりません。 一体何をやっているのか・・・循環論的な混乱に陥ってないかい?? 英語でも、transmigrationの第一義の意味は「移動」であって、輪廻転生は後付け。 samsara「流れること、流転すること」にtransmigration「移動」という訳語を当てたので、漢訳 の「輪廻」と合わせてsamsara=transmigration=輪廻となっているのであって、 samsaraを英語辞書で確認してtransmigrationだから輪廻転生などというのは、 本末転倒、というか、何の説明にもなっていない。詳しい情報を書いてくれることはありがたいけど。 ともかく、transmigrationは「移動」であり(生まれ変わりという意味はない).『モニエル』『アプテ』も samsaraは第一義は”going or wandering through ” ” Course, passage.”であって、 単に「流れること」であることは明らか。「生まれ変わり」というのは後付の派生的なものでしかない。 しかも誤訳から逆算して原義に組み入れてしまった可能性が高い。 生死についても、仏典では頻繁にメタファーとして使われていて、本当に「生きる」「死ぬ」で使われている 例は少ない。正確に訳す場合は「死の境地」「死の境涯」「死のようなものである」と訳している。 だから「生死と訳された言葉がサムサーラで〜」というのも、何の説明にもなってない。 >辻先生の『ウパニシャッド』でも原先生等の『インド思想史』でも輪廻は生まれ変わり死に変わりの経巡りを意味しています。逆に「生まれ変わりという概念とは関係ない」という説は誰が言ってるのでしょうか? そりゃ「ウパニシャッド」ではそうですよ。ウパニシャッドの時代頃からサムサーラに「生まれ変わり」の意を(派生的に)もたせるようになったのだから。 言葉の意味というのは、時代背景・文化背景・文献によって違うのは当然なんですよ。「ウパニシャッド」ではこういう意味だからといって、仏典でも 同じ意味で使われていると思ったら間違い。 だから、枠組みを無視して「生まれ変わりという概念とは関係ない」と言っているわけではない。 むしろ、釈尊自身が「生まれ変わり」を説いた、と主張している(まともな)学者なんているんでしょうかね? ◆2 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/397 397 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 01:16:56 ID:/Asf4Tge 参考までに、米国で最も広く使われているWebster's New World College Dictionary の第4版(1999)におけるSamsaraの定義は、次のとおり。 「(Hinduism) the continuing cycle in which the same soul is repeatedly reborn」 1.Hinduismにおける用語となっている。古い辞書では、Hinduism & Buddhissm となっているものや、両者で意味を使い分けているものもある。 2.「生まれ変わり」に相当する「reincarnation」という言葉は使われていない。 3.語源は、「共に、流れる」の意味。 新しい辞書では、「ヒンドゥー教の用語」としているものが多いのが、意味が あるね。「仏教の用語」とは解していないということ。 現代では、「魂(精神、思考・感情)は肉体の死と共に消滅すると解するのが 一般だから、この語は、現代では意味を持ち得ないことになる。 ◆3 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/446 446 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 18:19:44 ID:HI7fFWH9 >> 397 《西洋的な(西洋における)「生まれ変わり(→)」という概念とは違う》 ということなんでしょうね。 (これは、「転生」や「生まれ変わり」という概念とも違うことを示唆しますが・・・。) ※そのWebなんちゃらでは“reincarnation”は、どう解説されてるんでしょう? また、それってアメリカ人の一般的(≒大衆的)理解と見ていいんでしょうか。 てか、意外に安いなw 買っとくか・・・。 破壊と創造が繰り返されるインド思想に於いて『次の生を受ける』ということは、 『現代日本や、そうした西洋的生まれ変わり(→過去のあらゆるもの(様々なもの)を引き継いだ生)』 ではないのだろう。 ここに於いて【業果の相続(≒行為の報い)(のみ)】を前面に押し出した点に、 仏教の特異性があったのかもしれない。 「次の生を受けるに際し、何を引き継ぐのか?」が重要なのかもしれない。 勿論この時、「次の生」とは(宗教学的に言う“再生”“宗教的再適応”という意味での) 「新たな、心の在り様の誕生」を意味する、と読む(解釈する)ことも可能だろう。 (それがブッダの本意であったかどうかは別にして。)そう、まさにアングリマーラのように・・・。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/469 469 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 22:45:04 ID:XZ40Vvs+ >> 446 "Reincarnation"の定義は、次のとおり。 "rebirth of the soul in another body, as in Hindu belief". また、「ヒンドゥー教の概念」と言っているw。英米人にとっては、 「生まれ変わり」とは、どうやら「ヒンドゥー教」と関連させるのが、一般の理解のようですね。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/473 473 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 23:31:13 ID:HI7fFWH9 >> 469 感謝。 別の肉体への「ソウル」の再生(再び生まれる)、か・・・。 >> 363に見るように、(そして意味的にも)、確かに「再」と訳さざるを得ない側面はあるのだが、 個人的感想を言えば、 「仏教における輪廻の中の“再生”」は、【ニュアンス的には】「新生」だと思うんだよな・・・。 この流れで英語を使うなら“new-birth”とか“neo-birth”とかwww その意味で、(ソウル云々は別問題としても)reincarnationと英訳したら座りが悪いな。rebirthも。 何度も何度も繰り返す輪廻の(中にあるという)ニュアンスも伝わらないし・・・。 けど、“re-”には「あらためて」というニュアンスもあるようだし、まあいいか・・。 日本語訳としてもこなれてないし・・・。(無難な所で「次の生」って感じ?) ちなみに、PTSのpunaの項の用例中で(puna自体はagain。) punabbhava は、『renewed existence、new birth』 に、 puna-abhinibbatti は、『birth in a new existence』 になってるなw まんざら妄想でもないかも?w http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/476 476 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 23:40:56 ID:woNxlAcR >> 473 最近の英訳では transmigration ではなく cyclic existence などと訳されます。 483 神も仏も名無しさん 2009/01/21(水) 00:02:36 ID:XvY8VkXi >> 476 それはsamsaraの訳の話?流を見失った・・・ ”transmigration”は原語のニュアンスを伝えているが、 "cyclic existence "にはそれがないので、 「ヒンドゥ」の思想としても ”cyclic existence” と訳すことには反対。 スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して(輪廻を超えて) すでに渡りおわり、彼岸に到着している(輪廻から解脱してる) もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ _ _ _ 5ちゃんねる掲示板で 書き込みをしてた禅宗系の たとえば 机師匠とかは↓こんな感じだったような気がする 道元 普勧坐禅儀 そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており 仏法 = 涅槃 = 元々すでに渡りおわり、彼岸に到着している それゆえに 修行したり、悟り証したりすることもないはずである _ _ _ 真如、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる 元々、仏そのものである。みたいな感じ? http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=740 成田山 東京別院 深川不動堂 (仏性からの真如縁起だからこそ、それゆえに) 仏さまの教えにより心の安らぎを得て、何事にも動じない境地に至る http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 真俗二諦 その当時のインドの人達にとって 仏教を理解せしめるためには その当時の、その地域の、世間的な『想い』を一応認めて、さらにその理解のうえで 仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった それゆえに (仮設としての)輪廻という『想い』を一応認めた対機説法だった − これに対して ↓ https://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1232767495/ 68 :神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 20:27:53 ID:XYCyD47T 『ミリンダパンハー』ですが そのなかでミリンダ王は輪廻に対して疑義を呈していたと記憶しますが それに対してナーガセーナが答えて納得させていたと思います 問題となるのは、輪廻がどの国の起源かではなく 輪廻説を盲信しているインド人のために釈尊が方便で説いたとするなら 輪廻を信じない外国人に方便で説く必要などないということです それなのに輪廻を外国人に説く必要があるということは 仏教にとって必要な説であるからということです _ _ _ 知りませんでした ご教示ありがとうございます m(_ _)m >>621 そうして、あたかも「仏像の前提が個人主体の転生」であるかのようにミスリードしたがる連中って本当にどうしようもないね。(笑) ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではないが輪廻していると重ねて説いてあるというのに。 (^。^)我執を仏説と偽るなんて、バカカルトと同罪だろうに。(笑) 中村元はバラモン教徒や在家信者に対しては勧善懲悪の方便として輪廻と業報を説いたと言ってたと思ったが、 仏典ではむしろ比丘たちに対して輪廻や業を説いていることの方が多い。 宮崎哲弥の言ってることはパーピマンが言ってることと変わらんような気がする >>624 同じ価値観で同じ問題をかんがえてんだから、結論が似るのは当然。 (^。^)俺も仏教入る前は同じだったし。(笑) > ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではない いつも、ご教示ありがとうございます m(_ _)m https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84 ナーガセーナ長老は 「今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる _ _ _ > (^。^)俺も仏教入る前は同じ(輪廻否定?)だったし。(笑) 中論 第二十七章 見解(邪見)の考察 仮設としての この現世だけに限定したとしても、それでも 地水火風の微細な粒子に依存している 色受想行識の仮和合は 縁起に依存して、変化しているので、それゆえに 「私は過去に存在していた」と言うことは妥当ではない 過去に存在していたものは 今、現在の私と同一ではないからである それゆえに 前世からの → 現世のものについても 今、現在の私と同一ではない ↑こんな感じ? おじゃる? 先にあるミリンダ王の問いにある通りです。 同じ火ではないがーとか同じ女ではないがーとか。 全く同じではないけど、ある意味同じって話ですね。 じゃあどーゆー意味かってのは、俺も想像でしかないからね。(笑) (^。^)少なくとも、漫画の輪廻転生と、仏教の輪廻とは別物なんすよ。(笑) >>603 この私が永年、セブンと対論を続けているのは、 彼は自分自身のしっかりとした見解を持ち、そして、それを自分自身の言葉で語ってくるからです。 けれども、あなたはそうじゃない。 自分では何も語らずに、 ただリンク貼りやコピー転載だけを続けるというやり方というのは、 “嫌がらせの無言電話”を続けてるとの一緒です。 >だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。 嘘ばかりです。 その結果など出てないじゃないですか! ゴータマ以降の覚者(生ける如来)の出現はまったくなく、ただ話だけの阿羅漢の存在ばかりです。 その阿羅漢(テーラワーダの完成者)というのは、比較的にいえば圧倒的に容易い境地です。そもそも五百羅漢というくらい。 真実の完成者たる生ける如来のブッダというのは、未来仏の弥勒までは出現しないとゴータマによって明言されています。 『仏教学においても釈迦の直説が含まれると推定される阿含経においても、阿羅漢と仏陀は明確に区別されており、ゴータマ・シッダールタ 以外の阿羅漢が如来十号の他の九つで呼ばれることはない。阿含経の一部『ドナ・スッタ』では仏陀は「神でも人でも魔でもない」とされる。 阿羅漢と仏陀の主な違いとしては ・阿羅漢は女性もなれるが、仏陀は女性はなれない。 ・仏陀は宇宙が何十億年の年月の単位である「劫」レベルの膨大な年数のうちに、一つの世界に一人だけ現れる存在だが、阿羅漢は(特に) 釈迦在世時には多数輩出された。 がある。』(阿羅漢と仏陀の違い) https://dic.pixiv.net/a/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2 >仏教にしか現れないのです 仏教だけが唯一の真理であって、 他はすべて間違いだなどという偏狭なことをゴータマは説かない。 『かれらは自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚人であると見ることができようぞ。 他の説を、愚かである、不浄の教えであると説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。』 (Sn.893) 仏教の発祥以前における太古の仏陀存在(覚者)は、 当然、仏教に拠らない更にもっと古い宗教的教えの伝統の中から出現したもの。 仏教で説かれる過去七仏の概念というのも、仏教徒によるヴェーダ(バラモン伝統)からのパクリに他ならない。 『仏教によれば、ダルマをさとった人がすなわち覚者なのであるから、覚者はいかに超人化・神化して考えられようとも、決して 唯だ一人の人格的存在者であるということはできない。ゴータマのほかにもなお覚者が存在し得るはずなのである。そこで過去未来 の諸仏と現在における一人の仏を立てて考える。特に過去七仏の観念は古く成立し、その名称はすでにガーターの中に伝えられている。 過去七仏とはパーリ語でヴィパッシン(Vipassin)、シキン(Sikhin)、ヴェッサブ(Vessabhu)、カクサンダ(Kakusandha)、コーナー ガマナ(Konāgamana)、カッサパ(Kassapa)および第七に釈尊をいう。そうして仏は「第七の仙人」と呼ばれている。過去七仏の観念が もとをたどれば、『リグ・ヴェーダ』に由来することは、すでに指摘したとおりである。』 (『中村元選集・11巻・インド仏教の諸問題』春秋社P.515〜516) >>566 >二千五百年の歴史ある組織に、 確かに、史実のゴータマから数えれば二千五百年ですが、しかし、二千五百年の歴史ある組織などは世界中を探しても一つもありません。 もちろん、ゴータマの教えを正しく忠実に継承している団体についても皆無です(あるなら、何処にあるのか教えて欲しいくらい)。 日本に仏教が伝来したのは6世紀です。チベットは7世紀、中国は1世紀。スリランカの仏教は古くて前2-3世紀頃からですが、しかし、 現存する現代のテーラワーダの正体は、『分別説部大寺派』というものであり、これは部派仏教の中の『分別説部』(Vibhajjavādin)にお いて、その中でも更にマイナーだった『大寺派』(Mahāvihāravāsin)が今日まで生き残ったものです。つまり、現在のテーラワーダ仏教の 直接的な起源としての「大寺派」はこの法燈を嗣ぐもので、その確立は5世紀頃だったとされています。 その他、同じテーラワーダであるビルマやタイの南方仏教は12-13世紀です。 >それとも、実際に霊的な相談などにのっているんですか? 私の心霊に対する理解は、神智学とそれから仏教以前から傾倒した心霊科学の知識によるものが中心です。 また、霊的能力のある密教僧からの教えなどもとても参考にしています。 それからまた、私自身が、自分で心霊体験を何度も持つので 心霊存在の“実在性”については100%を保証しますよ。 >>569 >俺は拝み屋さんで、祓うのを手伝ってただけで、 --略-- >(^。^)色んな人が色んな流派で色んな事をやってるけど、何が本当かは判らん、 >というか全部間違ってるような気がして辞めました。(笑) それって、やっぱり密教系? しかし、せっかく拝み屋さんにて助法されていたというのに、 それが能力者として本物であったかどうかすらも確認できなかったと? 普通、何度も携わっていれば分かる筈ですが? いつもデタラメばかりだったならば相談者や信者らにバレるのだから。 もしも、ただのインチキだったならば、あなたも人の弱みに付け込む金取り詐欺に加担していたこととなり、 大変な悪業を積んだことになるでしょうね。 こちらの近郊には、 地元ではかなり知られた能力者(真言系)がいます(まっ、近年は亡くなられて今は二代目が継いでいるけど)。 私も若い頃に一度だけ行ってみたことがありますが、その能力だけは本物のようです。 その頃は小さな平屋の古い個人住宅だったのに、 彼女に救われたという感謝の寄付とお布施で大きな立派な寺院が建設されましたね。 中には一千万単位や全財産を捧げたという人もいたらしいからね。 >>631 本当に理解出来ないんで質問しますが、 「シンチガク」でも仏教でも何でも、それが「本物」ってどうやって決めてんの? 単に自分の好みでしょ。 実際に自分が霊的な事象や相談などを何年かこなして検証してないってことは客観的な判断基準はない訳だから。 で、その「本物」を知りたいだけなの? それで世の中の役に立てようとか、自分が神仙の位に昇りたいとかは考えてない訳でしょ。 何がしたいのか理解出来ない。 単なる趣味で、マニアとして収集してるだけってことでいいのか? それとも、シンチガクの瞑想か何かしてて神秘体験でもしてるのか? だが、それも単なる個人的体験でしかないから客観的な判断基準とは言えないが。 (^。^)正直、バカカルト信者の意見と同じで、何を言われても全く意味がないとしか思えないんだが。(笑) > 「本物」ってどうやって決めてんの? 仏教の対機説法としては 仮設としての 無明に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して その人、個人にとっての「善である・悪である」 という『想い』が、現れ、変化して、滅している _ _ _ > 瞑想か何かして たとえば上座部系なら 我所も我も 地水火風の微細な粒子に分解して 最終的には滅して逝く 因縁生滅智 刹那生滅智 という観察法? http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 上座部 パオ・セヤドー >>310 臨済宗の栄西はイニシエート2.2で斯陀含クラスの覚者です 曹洞宗の道元はイニシエート1.5で預流果クラスの覚者です >>634 そうした理屈はありますが、じゃあ霊的な事象、そもそもこれは精神的な病かもという問いも含めて、 そうした事象に、物理の追実験並の再現性で解消出来ることはあり得ない訳。 で、その失敗する理屈も色々な話があるが、そんなもんでいいなら、その辺の詐欺師でも成功率の違いこそあれ、結果は同じって話になります。 勿論仏教は、そうした事は本筋には関係ありませんが、(悟ったなら出来るというスタンスだから) 「本物」と判ったとするなら、仏教では悟ったから判ったって話しかあり得ない、という事に。 (^。^)勿論、信仰は自由ですが、俺は屁理屈で納得は出来んし。(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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