マインドフルネス瞑想 Part8
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part7
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1516060118/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ >>640
《冥想の勧め》
冥想をするのに、冥想の成果にこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために冥想しなさい。
もし良い結果を求めてすれば、その結果がやってこないとき落胆することになります。
バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。
(パラマハンサ・ヨガナンダ)
https://blog.goo.ne.jp/akibus/e/43e00584f51865fc3a826db2f5f4b84f >>643
Q 坐禅をすれば邪念がとれ、精神修行ができると思っているのですが、正しいでしょうか。
どうすれば邪念がとれ、精神統一ができ、不動心になれるのでしょうか。
坐禅を重ねることによって修行をつみ、精神統一、不動心をもつことができるのでしょうか?
A 心を正念と邪念に分け、邪念を否定し、正念を肯定するのは分別です。
一切の先入観をすてて、迷悟にとらわれずにただ坐禅をすることを只管打坐(しかんたざ)といいます。
従って、精神統一、不動心をすらめざしません。
「何か」をめざすということは、坐禅を「何か」の手段に用いることになり、それでは受験勉強と同じことになります。
「善悪を思わず、作仏を図る(さとりを得ようと期する)ことなかれ」と道元禅師は示されています。
http://www.soto-kinki.net/zazen/faq.php 瞑想の目的は瞑想すること
と言ってるだけなのに、色んなこと考えすぎでは >>649
その疑問がどこから出てきたのかわからないので答えられない。
なんでなんでと思ったかは俺にはわからん。 >>648
そう思った理由をヨガナンダや道元のように説明できないの?
ただの思いつきですか? ってことで、リアクション動画
なかなか良いリアクション
https://youtu.be/Yb-KXCuHBVg?t=72
「フアッハッハッハ、 No!! ウァーッツ!! スライス。」 アナタ>>649がなんでなんでと思ったかわかるの?
>>650が、なんでなんでと思ったかわからないかなんでわからないアルか あいや
>>655
は
>>651
宛のレスアルよ >>652
大事な事だから三回言ったんじゃね?
ただの思いつきで、パラマハンサ・ヨガナンダのような説明を試みる。
>>640
《冥想の勧め》
冥想をするのに、スレを上げることにこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために保守しなさい。
もし良い結果を求めてすれば、DAT落ちしたとき落胆することになります。
バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。 ところで、苦行は必要かどうかはどうでしょうか?
必要でないという人もいるけど、やはりかなりストイックになることに加えて、瞑想することで悟りやすくなると思いますが。
瞑想だけではなかなかうまく行かないですね。
苦行の代わりに慈悲があれば良いという人もいるでしょうけど。 >>659
苦行は大いに結構だと思いますよ
まずは観察を2時間ぶっ続けから初めて
最終的には起きている間中 最後は寝ている間もと進んでいきましょう
これだけやれば2週間もかからずに..... 起きているとき観察はやっていますが
寝ているときはどうするのですか? >>652
ヨガナンダや道元のようになりたくて瞑想してるんですか >>662
ヨガナンダや道元のようになりたくて、ではない
ヨガナンダや道元のように根拠をもって説明できるように、だ あと
ヨガナンダや道元のようになりたくて瞑想
という結びつきは強引極まりない
そういうのを短絡的思考という つまり崇拝するヨガナンダや道元の言ってることに縛られてるわけでしょ >>660
寝ている間も起きているときと同じように観察できるのですか?
夢の中でなく夢も見てない熟睡中も観察できますか?
そうだとしたらそのときは何を対象に観察してるのですか? >>666
どうしてと訊かれたら答えられる?
あなたは何のために瞑想してるの?
と訊かれたら瞑想するためと答えるの?
では何のために瞑想するために瞑想するの?
と訊かれたら…と考えたら無限後退していくのに気づかない? 随分と執着しますね
瞑想するために瞑想するで話は終わりですよ >>669
想念を落とす理由ですか
心を静かにする為に決まってるでしょう
いつもいつも、じぶんの営為で、詰まってるのを、静かにして、なにも得ることない
瞑想に投じることで、わたしへの囚われを解いている時間を作るわけです
それが日常で生きるように準備してる
刺激の中では、見失いやすいから、腹を作る必要がある
まあ個人意見です >>670
一方的に自説を述べてそれに対する質問はシャットアウトするという姿勢はコミュニケーションで成り立っている掲示板には相応しくはないですね
>>671
あなたは瞑想の理由を自分の言葉で説いていますね
リスペクトします >>673
いや、朝晩とそれぞれ15分以上は瞑想してますが
瞑想も自分の場合5分程度では呼吸が整わない
整わない呼吸を観察するというのも出息入息法としていいのだが10分以上して呼吸が整ってきた時の静寂
これを求めて瞑想している部分がある
心がリセットされて次の行動にでるエネルギーが湧いてくるからね
夜の場合はそのエネルギーとは熟睡に向かうエネルギーとなる
自分の場合はね みんな正直にね
生きている意味を知りたい 一番価値のある正しいものを知りたい 苦しみから逃れたい いっぱしの人物になりたい
なんでも良いんだよ
自分を観察する瞑想は深まってくると自己を忘れる瞬間がやってくるようになっているし その瞬間はほんの短い時間なんだ
それにその時は向こうから勝手にやってくる 必要なことは目を背けない勇気と深める努力
その瞬間に起きる理解はエゴによる理性の努力や理解が霞んでしまうぐらいハッキリわかるからね 深めましょう 瞑想始めて2年経ちます。
ようやくウ・ジョーティカ師の本に書かれていることの3分の1くらいは理解できるようになりました。
私の考えですが、瞑想のために瞑想をするなんて凡夫にはまず無理ですね。
生まれてこの方ずっとdoingモードで生きてきたんだから、いきなりbeingモードで生きられるならそもそも瞑想なんて始める必要ないですからね。
私も以前はいろいろ悩んだりしましたし、それを解決したいがために瞑想してたのですよ。 >>677
自分を感じようと日常でも、そうする
自分が世界を見ていて、自分なしで、他だけが認識されているのが、普通になっている
この見失われている自己の感覚を呼び起こしていくこと
これが瞑想であり、集中すれば、刺激のあるところでも可能になってくる
ただし、集中とは、硬くなることではないです
静かに澄んでいる
動揺しないで受動的であることです
個人意見 瞑想やマインドフルネスの正しい目標は、思考に埋没した意識を
そこから引き離すということ。
たとえば、階段を降りる時、大抵の人は考え事をしながら降りたり、
無意識の楽な状態で降りてる。
思考は常に、意識をそういう世界に埋没させようとしている。
なぜなら、思考(空想、快楽を味わう、思考を遊ばせる)世界は、
常に自分にとって楽だからだ。
たとえば大きな例でいうと、現実生活に目を向けるより、パチンコやゲームを楽しんでる方が
自己にとっては非常に楽ということ。
反対に言うと、パチンコやゲームの世界に浸ってる意識を、現実生活に向けるということは
非常に酷だということになる。
だから人は思考の世界に常に浸りたいということになってる
瞑想やマインドフルネスの目的は、そこから意識を引き離すということ。
たとえば、考え事や思考が自由になっている状態で階段を降りようとしている時に、
一歩一歩意識して降りるということをやった場合、
意識は思考のフリー状態から引き離される。
たとえば、美味しいものを食べている時に、一噛み一噛み数えるとしたら、
美味しさを味わうという思考状態から、意識が引き離される。
しかしこれを日常で目標とするならば、その人は全ての快楽や空想や思考を遊ばせることを
捨てなければならなくなる。
これは普通の人にとっては非常に困難なことだよね。
だけど、やろうと思ったら出来ないことはない。
ようはその人の決断次第だ。 そこで問題なのは、マインドフルネスや瞑想をやろうとしている人の中には、
ある一定の時間だけそうしたことをやって、その他のほとんどの時間を
思考を遊ばせた状態にしているということ。
これは前で説明した通り、両立出来ないことだよね。
そしてまた問題なのは、瞑想やマインドフルネスで何らかの満足を得ようとしている場合も、
それ自体が思考の遊びの世界に意識が埋没していることになりかねないということ。
意識を引き離すつもりでやってることが、「今のは上手くいかなかった、あ〜イライラする。
今のは上手くいった。 あ〜キモチイイ」と、修行自体が意識を埋没させていってる。
で、問題になってくるのは、快楽とマインドフルネスは本当に両立しないのかということ。
これを考察するには、親鸞の念仏の教えと比較してみるのがいいかもしれない。
親鸞の教えは、人間の欲求を容認しているようにみえる
しかしそれでいて、念仏によってそれを引き離そうとしている。
親鸞の教えは思考フリーの状態をそのままにしながら、しかも念仏という単純な反復動作を繰り返させ、
自然に意識が統一していくような修行のやり方を目指してる。
つまり、意図的に意識を向けるのではなくて、自然に意識が向かうやり方をしてる。
道元の教えも全くこれと同じやり方。
なぜこういうやり方が正道のように扱われるかというと、それは前で言った通り、
意図的に修行をすれば、それ自体が思考の遊び状態になってしまう
という恐れがあるからだよね。 食べるマインドフルネスというのは見た目・匂い・食感・味・等をすべてをしっかりと体感することであって、噛む回数を数えることに集中するのではないでしょ
数えるのだけに意識が没頭してたら、それこそが思考に埋没した状態であって、マインドフルネスとは真逆 >>677
バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。
「何か」をめざすということは、坐禅を「何か」の手段に用いることになり、それでは受験勉強と同じことになります。
「善悪を思わず、作仏を図る(さとりを得ようと期する)ことなかれ」と道元禅師は示されています。 念仏という作業が瞑想であると言うことは
自分でもよくわかる
全部瞑想になってしまう。 https://i.imgur.com/9cE6ZMr.jpg
結跏趺坐ってこの写真でいえば左足が右の太ももからずり落ちそうになり
ずり落ちないようにするのに微妙に力が入るから決してリラックスした座り方ではない
しかし半結跏趺坐や胡座よりは背筋が伸びるので長時間座ることは可能ではある
結跏趺坐で左足がずり落ちるベクトルに力が働くのを食い止める方法ってありますか? >>686
何度かやれば足がずり落ちずに安定して留まるポイントが分かるようになるよ
この写真で言えば右脚を折り曲げた窪みに左足のくるぶしをひっかけるようにするとか
あと、足のかかとは出来るだけ手前(身体側)に引き寄せるように曲げたほうがいいですね >>660
>>>659
>苦行は大いに結構だと思いますよ
>まずは観察を2時間ぶっ続けから初めて
>最終的には起きている間中 最後は寝ている間もと進んでいきましょう
>これだけやれば2週間もかからずに.....
1時間くらいからのスタートで、仕事をしていない間中なら可能かもしれません。
それでも、2週間くらいで悟れるとは思えませんが。 初に思考をやめた時には、あなたは思考なしには何も経験している気がしないでしょう。
経験が、とても曖昧になるのです。
それは無意味になる。実際、経験は無意味なのです
思考のゆえに、私たちは何かをより強烈に経験するのです。
ですから、考えることをやめて、ただそれに気づくようになった時には、
私たちは何かを本当に強く感じるということがもうありません。
ウジョーティカ 気づきを保つことができるのは座る時だけではないですよ。座る瞑想はあくまでも気づく練習。
手作業をしている時は手が動いていることに気づく、歩いている時は足の動きに気づく。
心も同じ、雑念がわいたらそれに気づく、イラっとしたらそれに気づく、怒りがわいた時、悲しみがわいた時も同様にただ気づく。
一日の中で気づいてる時間が伸びるにつれて、気づきは自然なものになる。
そのうちに、ある意識状態が生まれてくる。
今まで誰もそんな感覚で物事を見たことがないので、人に説明してもわかってもらえないですけどね。
テーラワーダでは見清浄とか、名色分離智とか言われてますね。
タイのカンポンさんや、プラユキ師は「観る人」と言われてましたね。
始めてこの意識状態を体験したら本当に驚きますよ。
でもそれは本当に、真剣にやった人にしかわからない。
ほとんどの人はそこまで(一日中気づきを保つこと)ができなくて挫折してしまうのでしょうね。
でも真剣にやれば2週間で十分ですよ。
大事なのは、それを疑うことなく信じてやり遂げられるかですね。 >>687
でもなんだかんだ言ったところで半跏趺坐の方がリラックスできなくね?
2500年前のインド人ならともかく たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないなら、その人は怠っているのである。ーー牛飼いが他人の牛を数えているように 人がやるかどうかはどうでもいい
自分がやるかどうか このスレって自己承認欲求の強い人がたくさんいるよね >>683
あなたはまずマインドフルネスの基本すら分かってないよね 大丈夫かい? 迷ったりどう理解したら良いかわからないことはないかい?匿名なんだし遠慮せずに聞いとくれよ
努力 理性で変わるんではないよ 観ること 観察することで崩れ堕ちていくんだよ 本当に観るだけなんだ
意識が何に向いているか 心は何に反応するか ただ観るだけ 発生する瞬間を逃さず捉え続け消えるのを観るだけだよ
時期が来ていない人は無理することない 大きな音が鳴った時
嫌な言葉を聞いた時 聴いている自分 胸がモヤモヤする自分に気づくだろう? それに気づけたら大丈夫だよ >>692
背筋や腰に負担がない、力を抜いても安定して背筋を伸ばしていられる姿勢のバランスが掴めないうちは結跏趺坐は有効だと思う。
身体に緊張があるうちは意識はその肉体的緊張に影響されて瞑想に入りにくいからね。
センターの感覚が掴めると座り方はなんでもいいだろう。 座禅だと意識が脚にいって気になって仕方ないわ
慣れると足の感覚が全く無くなるのかね? 瞑想ってなんで仰向けだとダメなんだろ
単純に寝ちゃうからなのかな 半結跏趺坐は結跏趺坐よりは下半身は楽だけど法界定印の収まりが良くない
手が片足の上にしか乗らないからね
https://hotokami.jp/img/magazines/132/%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E8%B6%BA%E5%9D%90.jpg
足に乗らない方の手は力を抜けば当然下がる
下がると姿勢が歪んでしまい長時間の坐禅には今ひとつ向かないような気がする
あと結跏趺坐でも半結跏趺坐でも法界定印ではなくヨガのように膝の上で印を組む方法
https://flareplus.com/cms/wp-content/uploads/2016/10/padmasana_chinmudra.jpg
やってみれば分かると思うけどこれも姿勢が前屈みになって肩凝りや腰痛を引き起こしてしまうので良くないと思う
5分程度の瞑想ならこれでもいいが
ヨガで膝の上に印を結ぶのは安楽座ですることが多いがこれも動画を見る限り足の柔軟性は必要だし背筋を伸ばし辛い姿勢だしで一筋縄では行かないように思う
https://youtu.be/v3EgFnYzpvc
結局は座布団を使った結跏趺坐になるかなあ
組んで上になってる方の足がずり落ちないように下半身を整えてからね
よくいう石の上での瞑想は平らな石じゃないとバランスを欠いてこれまた体の半身に負担がかかりそうだw
https://i.ytimg.com/vi/MbXm5FcnWQg/maxresdefault.jpg >>696
どこがですか
俺の書いた食べるマインドフルネスはティクナットハンやカバットジンなんかも行ってる基本的なものですけど >>701
臥禅もあるよ
白隠の内観法も臥禅の一つ >>703
あなたみたいな人をバカと言う。
ティクナットハンのそうした教えはもちろん知ってる。
>数えるのだけに意識が没頭してたら、それこそが思考に埋没した状態であって、
>マインドフルネスとは真逆
もはやこれはバカとしか言いようがない。
わからないなら他の人に聞いてみなさい。 >>705
バカは自分じゃないんですかね
噛む回数を数えるのに没頭してたら食事のマインドフルネスにはならないでしょ
考え事に意識を持っていかれてるのと同じだ >美味しさを味わうという思考状態
味わっているのは思考状態ではない >>701
やっぱそれはあるかとw
眼を瞑って羊を数える瞑想やってみぃ
大半があっという間に寝るだろ? マインドフルネスストレス低減法のボディスキャンは横になってやるよ 仏は苦しまない存在だから坐禅して仏ぽくすると苦しみが消えると思い込めるので悩みがあっても苦しくないって理屈ですか >>701
気づきと集中力が十分なら仰向けでもできるよ
身体の感覚がはっきり捉えられるようになると意識が冴えるから眠くはならない
慣れたら歩いたり立ったままでもサマーディに入れるしね かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、仰せられた。
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。
無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するならば、遠い過去をふり返ってああ思いこう思うこともない。
遠い過去をふり返ってああ思いこう思うことがなければ、遠い未来を思いやってああ思いこう思うこともないであろう。
遠い未来を思いやってああ思いこう思うことがなければ、しつこい執著もないであろう。
もはやしつこい執著がなくなれば、その心は、色(肉体)において執するところなく、煩悩を離れて解脱し、
・・・受(感覚)において、・・・想(表象)において、・・・行(意志)において、・・・また識(意識)において執するところなく、煩悩を離れて解脱するであろう。
解脱するがゆえに、もはや動揺することなく、動揺せざるがゆえに充ち足り、充ち足りるがゆえに恐怖せず、恐怖せざるがゆえに、おのずからまったく涅槃して、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>
と知るのである」 日常生活に瞑想を取り入れると自分が怒りだらけで
通勤なんかで電車やバスに乗ってると自分の嫌いな人が本当に多いです
今まで気づかないようにしてたんでしょうね
慈悲の瞑想していないと瞋恚に飲み込まれてしまいそうで落ち込んでしまいます
こんな怒りだらけでも改善していくものなんですか? >>714
ほー 怒りを感じるんですね 怒るのは悪いことだとか 自分の怒りが恐ろしくて無意識に気を逸らしていたような感じなのかもしれませんね
できることは怒りが発生した瞬間の自分に気づくことが第一で 怒りの場合は結構長引くかもしれません
同時に今まで見ないようにしてきた怒りを直視することで抑えが効かない瞬間が出てくる可能性もあり得ます
一気に観ないで落ち着いて丁寧に 今 怒りを感じている と観た方が良いかもです
もちろん改善していきます きちんと観れているから怒りが表出してきたんだと思いますよ 頑張れ! >>711
最近ようやく分かったんだけど、見識のレベルの低いヤツで、しかも
自分の意見を主張するヤツには要注意なんだよ。
こういうヤツに何を言ってもムダ。
簡単に言うと、頭が悪いのに自分の意見が100%正しいと言い張るような
自己愛性の強い人間に何を言ってもムダということ。 そもそもその思い込みに囚われてる姿勢がマインドフルネスでもなんでもないですね
>>716 バーカバーカって叫ぶやつってこうなんだよな
お山の大将おれひとり〜♪ >>714
瞑想をやるほどネガティブな感情は意識に上がってきますよ
瞑想をやると知らない間にポジティブになってネガティブな感情がなくなっていくようなイメージですが、ネガティブなカルマが表層化するのが瞑想で、ネガティブを落ち着いて見つめるのはカルマを解消する事と同じ原理であると聞きましたよ >>714
愚人おもはくは、利他をさきとせば、みづからが利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻 このスレは面白いね。
バカというと途端に反応するヤツが出てくる
たとえば自己紹介などと言ってるやつが
まさに自己紹介なんだよね
そのほか反応したやつも、まさに言ってることが
自分に返ってくるわけだ。
ここはこういう化け物が常住しているスレ。
だからちっとも何も進歩しない。
建設的な議論がちっとも出来ない。
かならずこういうバカが出てきて自分の我を通す。
こういうスレの流れだと、>>683のような意見が通っちゃうわけだよ。
一発でこのスレの異常性とレベルがわかるよな。
だから、何を言ってもムダだっていうんだよ。
だからバカにして終わりした方が早い。
たとえばそのバカに懇切丁寧に説明してもだ、
結果はこういうことになるわけ。
目に見えてる。
で、前からここはこういうやつが出てきて、自分の意見を押し通して、
不思議とその低レベルなレスを批判すると、それに対してバカにするような
レスが続くんだよな。
これは不思議なくらいだ。
何か人が斬新なレスを付けたり、良い議題になるようなレスをすると、
必ずこういう結果になる
やる前から分かってるんだよね。
だから最初からそいつをバカにしたわけだ。
なんて言えばいい?
数息観をマインドフルネスじゃないと言ってるのと同じだぞ?と、
そのバカに言えばいいのか?
あるいは、てめーの言ってる味覚を精細に味わうマインドフルネスと、
こちらの言ってる欲で美味しい食べ物を食べる状態と、その違いもわからねーで人に
批判的レスしてんじゃねーぞボケナスとでも言えばいいのか?w
数を数えて没頭することがマインドフルネスじゃないなんてバカに、なんて言えばいいんだ?
このバカは、マインドフルネスの基本をバカにしてるんだぞ?
それが分かった上でイチイチ上でまた突っかかってくるようなレスを付けてるヤツは、
とてつもない間抜けというこになるな。
いや〜、このスレは、とんでもないマヌケスレだわ。 >>683
とりあえず、お前はマインドフルネスを理解できるレベルにないから、
マインドフルネスには関わらない方がいい。 >>719
こいつもレスに頭の悪さが
にじみ出てるよな
なんでこういうバカが
このスレにいるの?
マインドフルネスをオカルトか何かと
勘違いしてるんじゃないか?w 瞑想は現代人にとってシャブ断ちのようなもの。
TV ゲーム スマホ、ありとあらゆる情報で雑念を紛らす
そうしている間だけはとりあえず平静でいられる。
それらを止めて瞑想をしたらどうなる?
禁断症状が出るに決まってる。
瞑想する前ほど憂鬱なものはない。 >>714
瞑想で雑念が減ってくると、抑圧してきた感情が表層まで上がってきますからね。
気づきが高まるにつれて、自然に感情に巻き込まれなくなってくるから、気にしなくて良いですよ。
瞑想を継続して、特に法レベルの観察までできるようになれば、怒りの根底には不安感や孤独感など色々な感情が絡み合っているのが見えてきます。
実は怒りって大事なメッセージを伝えていることが多いんですよ。
無理に追い払おうとしないで、しっかり受容してあげてくださいね。 >>725
まったくその通り。
我思考とマインドフルネスっていうのは
両立しないんだよね
どっちかを諦めないといけない
オレも散々、この二つが両立するんじゃないかと思って
いろいろ考えてきたけど、どうも両立はしないんじゃないかって
結論になってきてる。
親鸞は欲を肯定してるように見えるけど、それは出るものは仕方ないって程度で、
完全な欲の肯定じゃないんだよね
道元も然り。
雑念は頭の中をぐるぐる回っててもいいが、型をしっかりと
保たなくちゃいけない
型を保つことによって我思考の行為を中断しないといけない
理趣経の欲を肯定する教えと、なんからの瞑想の手法が両立するようなものが
あるんじゃないかと思ってきたけど、今のところそれは発見できないな
理趣経では怒りすら尊い菩薩の境地だからね
結局は、我思考の優勢の度合いを、マインドフルネスなどで徐々に
逆転させるしかないってことかな
憂鬱なのは問題ない
只やることが問題だから >>722
マインドフルネスというのは、単に意識を集中して思考を止めるものではなく
今ココにあるものを、思い込みから離れて、ありのままに受容するものだということは解りますよね
食事の時に、噛む回数に意識を集中して(あなたの言い方を借りるなら)
「美味しさを味わうという<思考状態>(?)から、意識を引き離す」というのでは、マインドフルネスというよりも現実逃避的な行動
味わうということから意識を引き離して数えることに集中するのでは、そこにあるものを受容できない
また、数息観についてですが、それをすることによって何が浮き彫りにされるかというと
何もしていない状態の時の意識のゆらぎであって
それをマインドフルイーティングに当てはめることは出来ない
マインドフルイーティングは食事をしているのだから、それはありのままに受容する >>722
単純にマインドフルネスというモノの定義の問題に思えますよ
例えば、これ↓について…
> 数息観をマインドフルネスじゃないと言ってるのと同じだぞ?と、
> そのバカに言えばいいのか?
自分の定義では、数息観はマインドフルネスじゃないですよ
自分の定義はマインドフルネス=観瞑想で、メディテーションアンカーをパンニャッティに置くものは観瞑想ではなく止瞑想です
「数」は典型的なパンニャッティですからね
といっても、他の人が(例えば貴方が)自分と違う定義を使っていても、別にそれでいきり立ったり、それが間違っていると主張する気も無いですが
単に違う意味で言葉を使っているってだけなので
ああこのままじゃ話が通じないなあ定義を擦り合わせたいなあ、とは思いますが
貴方も自分のマインドフルネスという言葉の定義を率直にさらけ出して、定義の擦り合わせをした方が良いのでは? >>730
まず、あなたの言ってる主張はいちいちおかしい。
「食べることより数えることの方に集中する」と言っているが、
食べることと数を数えることは分離していないよね?
噛みながら数えるわけだから、あくまで数えるのは補助だ。
またたとえ数を数えることだけに集中したとしても、
それも立派なマインドフルネスだ。
「そこにあるものを受容できない」というのはおかしくて、
数を数えるているのが今で、今そこにある現実に意識を
向けていることになるんだよ。
たとえば歩く時に、左、右、左、右と意識を向けて歩くのも
全く同じ。
これも数を数えながら噛むのと同じだ。
それは歩いている現実により意識を向けるための補佐だ。
で、あなたはいろんなところでいろんなものを混同している
たとえば、「ありのままを受容」と言っているが、それは観察のことだよね
食べ物を味わうというのは、こちらから意図的に意識を向けることであって、
ありのままの受容とはちょっと違う。
そしてそれらが全てマインドフルネスの一種であるにもかかわらず、ある特定の手法に固執して、
他のマインドフルネス的な手法をマインドフルネスじゃないと否定している。
ここまでくると支離滅裂だよね >>732
あなたの言い方だと、噛みながらスマホやテレビに意識を向けていてもマインドフルネスだということになりゃしまそんか あと数えることによって「味わうことから意識を引き離す」と言ってるわけだから、分離してる状態になるということですよね >>731
マインドフルネスというのは「意識が今に満たされている」ということ。
他に注意が反れていないということ。
簡単にいうと、今ここに意識が向いていなくて、
紛らわされている状態
マインドフルネスというのは瞑想の中のある種の手法の一つが
そうであるということではなくて、非常に基本的で
広義の範囲に及ぶものなんだよ。
あなたはそれをある種の一つの手法のように考え、
非常に狭い狭義のものにしちゃってる
だから上のような批判で突っかかってくることになる。
それを定義の問題だと誤魔化すことで、
更にこういう話を混乱させちゃう。
定義も糞もない。
書道も武道も茶道も、立派なマインドフルネスの手法と言えるし、
ただそこで数を数えることに集中するのも立派なマインドルネスだ。
あなたの主張を呼んでいると、非常に説得の難しい相手だと感じるし、
そもそもマインドフルネスの議論にならない。
根本的にマインドフルネスを勘違いしているように感じる。
ただ文献だけで、頭だけで理解しようとしてきた感じで、
体感的にマインドフルネスの道理を分かってない感じだ。
非常に議論するのが無意味。
説明すればするほど、わけのわからない複雑な反論に
拍車がかかるだろう。 >>735
訂正。 文章が抜けてた。
>簡単にいうと、今ここに意識が向いていなくて、
>紛らわされている状態
(他に注意が反れるということはどういうことかというと)簡単にいうと、今ここに意識が向いていなくて、
紛らわされている状態。 >>733
スマホやテレビに意識が向いている(意識が沈殿して思考の渦の中にいる)ということは、
「噛む」という今ここの動作から、完全に意識が外れいているということだよね?
それは食べながら考え事をしている状態と同じだ。
ふつう、一般の人は食事する時にいちいち細かいことまで意識を向けない。
「コップを取ります」「飲みます」「今噛みます」 という風に・・。
それらは全て「今」だよね。
つまり人は普段、「今」にほとんど注意を向けてないということになるね。
もし「スマホやテレビに注意を向けてるだろ」というのなら、たとえば字の色や形、表示の仕方など、
(思考が飲み込まれている)内容ではなく、今ここの現実に向けてないとおかしいよね。
ドラマの内容ではなく、たとえば映画監督の卵が一つ一つドラマの作りを観察して、
つぶさに研究するようにだ。
これだと思考に溺れてる状態じゃなくて、マインドフルネスの状態と言えるだろう。
それはあなたが言ってた食事のマインドフルネスと同じだよね。
美味しいという欲で味に心が奪われるのではなく、一つ一つの繊細な味を味わうという。
あなたは前に言ってることと今言ってることが完全に
矛盾を引き起こしてるよね。
あなたの最初の論理で、今のあなたの主張を相手に批判されてるんだよ。 >>735
マインドフルネス状態というものがあり、それを実現する方法として茶道や武道もあり、というのは全くOKですが
それを自分は通常はマインドフルネスという言葉では表現しません
ただそれだけの話です
理解しているものや体験の諸々の全体の、どの部分を「マインドフルネス」と呼ぶかというだけですよ
それから、自分は何も批判はしてませんからね
貴方が貴方の言葉としてマインドフルネスはこういうものだと主張されるのはOKですよ
ただ、自分の思うマインドフルネスと他者の思うマインドフルネスが違うからといって、定義の確認もせずに他人をバカ呼ばわりするのは、誠意に欠けるのではないかなと思った次第です
まあ >732 で表明されたようですから、もういいと思いますがw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています