坐禅と見性第120章山の端に入道雲の湧き上がる音すなり [無断転載禁止]©2ch.net
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このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
禅は、来(きた)る者は拒(こば)まず、去る者は追わず。
スレの興隆は、いっときもとどまらず、恒常が無い。
遠くの山々は、青く、我を旅立ちへ誘う。
遠く青い山並みの向こうに、何があるのか。
白い雲は、山にかかると、さっと左右に分かれ、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出し大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの修行僧が風景に溶け込む。
因縁果があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、次のステップである。
真理、ダルマ、法である、ほとけである、われら、
問う、「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
【前スレ】
坐禅と見性第119章丘の上に坐しポーンと投げ込み散骨す [無断転載禁止]©2ch.net
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【過去スレ】
坐禅と見性第118章海底からの上昇流と海面からの下降流、休まず [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第117章禅のアヒルは、泥水に注がれたミルクだけを飲む [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第115章信念は無いけど新年 [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第112章ホワイトオータムからブラックウインターへと [無断転載禁止]©2ch.net
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下三行は私の感じたことで、マハラジの言葉ではありません。
念のため…。 碧巌録(へきがんろく) 第73則? 馬祖先四句百非
挙(こ)す
?
ある時、僧が馬祖大師に尋ねた、「すべての理論や四句論理を離れて、私に 禅の究極のところ(西来意)を示して下さい」。
馬祖は言った、「私は今日は、ぐったりとくたびれているのでだめだ。智蔵のところに行って聞いてくれ」。
僧は、智蔵のところに行って尋ねた。
智蔵は云った、「何で老師に聞かないんだ」。
僧は云った、「和尚は、あなた(智蔵)のところに行って聞けと言われました」。
智蔵は云った、「あいにくおれは今日は頭痛がして休んでいるところでだめだ。懐海(海兄)のところに行って聞いてくれ」。
僧は懐海兄に尋ねた
懐海は云った、「実はわしも、そこがわからんで困っているんじゃよ」。
僧は師匠や兄弟子達にタライ回しされて元の馬祖大師のところに戻って来た。
馬祖に以上のことを報告すると、馬祖は云った、「どちらもどちらじゃのう」。 』
僧が馬祖大師に問います。 『四句を離れ、百非を絶し、願わくば、私に西来の意を直指して下さいませ』。
馬祖云く、『儂は今日疲れておるので、お前の為に説くこと出来ず。 知蔵 (ちぞう) に聞いてみよ』。
僧、知蔵に問う。 知蔵云く、『何でそんなこと和尚に聞かないのだ』。
僧云く、『和尚様が貴方様に聞けと申されました』。
知蔵云く、『儂は今日頭痛がしてならん。お前の為に説くこと出来ず。 海兄 (かいひん/懐海) に聞かれよ』。
僧、海兄に問う。
『儂もこのところは分からんのじゃ』。
僧、馬祖に事情を報告す。
馬祖大師云く、『知蔵は白く、海兄は黒し』。? 』
⇒ 説明などできない、不立文字である。
不立文字であるがゆえに、真理さとりである。 >>63
>そして、固定させています。
>固定させては、いけません。
はて?
事実の検証結果を事実の固定化と非難するなら、何故貴方は反証しないのかな?
反証しないから固定化(事実認証)されるのだけど。
また、「固定させては、いけません。」というのも固定化ではないのかな? >>63
>教条主義では、仏教はここまでもたなかったのです。
>そう言うところから、あなたは、反仏教ですよね。
あなたは教条主義の意味をご存知無いようだね。
仏教は基本的に形而上学は論じませんし、私の検証も事実と仏説を対比した上で論理的に行ってますよ?
一体どこが無批判的な独断に基づく検証ですか?
反仏教はむしろ、形而上学的な持論の展開しか出来ないあなたですね。 >>67
いけませんね。
いつもそうなんですが、この語録の主旨から全く外れているんですよ。
あなたは三人ともズバリ祖師西来意そのもので寸分の違いが無い事も見分けられないのですね。 それを言うなら
>無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。
ってのも破仏法だね
一如の如しもどうかと思うけど、上記も十分アドヴァイタだし
身の行為を静止させ、口は黙り、意に於いては非思量
この境地に一だの無だのが有るとか無いとかを無門は説いてない
やり直しだよ全くw 無門が重要視した「無」ってのはさ
レンマに属さないんだぜ
つまり、
有と言う見解にも無と言う見解にも属さず
有であり無であると言う見解にも属さず
有に非ず無にも非ずと言う見解にも属さない
世間ではこの四つ「有と、無と、有且つ無と、非有非無」のどれかに必ず属して識別される
これを仏道・仏陀は世間・世界と呼んだのよ
でも仏の境地は出世間だから、このレンマのどれにも属さないのよ
それだから
>無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。
も成立しないって訳 >⇒ 説明などできない、不立文字である。
> 不立文字であるがゆえに、真理さとりである。
真理さとりって何か新興宗教みたいな言い回しだよね
祖師西来意と訊いて、問われた各師はちゃんと答えてるでしょ
空海によれば「声字実相」と言い、意を以て答えるそれらも文字であると言います
万象の有り様は全て文字であると、これを以て仏教界随一ただ一人、果分不可説を翻して果分可説と言ったとか
ポッたん、「小鳥さんがちゅんちゅんこんにちは」もこれに入るじゃありませんか
違うと言うんでしょうかねえw >>73
カカシちゃんおはよう。
先ず「無」だけど、比縁性縁起と説明したよね?
アドヴィダは真我説(常見)、あなたは「無い」(断見)、仏教はその二見を排して縁起説なわけ。
どこがアドヴィダなの? >>74
>>76参照。
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」(仏陀) >>74
レンマに属さないから「ムー」となるんだけど? >アドヴィダは真我説(常見)、あなたは「無い」(断見)、仏教はその二見を排して縁起説なわけ。
と言う説明の時点でアドヴァイタなのよ
縁起も、比縁性だの相依性だの拘る時点で説似一物即不中
「私の正体とは煩悩である」
君はこれを認められないんでしょ
だから分からないんだよ、アドヴァイタの本質ってものがさ
自己と呼ぶその思念全部が既に煩悩なのであり
その煩悩は先ず最初に識ありて全て起こってる訳
身を静止させ、口を黙らせ、意を非思量にしたときに
それでも残ってる僅かな僅かな感覚すら「私」じゃない訳
その辺から、果ては宇宙全域に至る現象それ自体を自己と考え
自己と一如だとするのがアドヴァイタの序の口にあたる
拗らせるとね、無と言う我などと言い出す訳
分かんないなら仕方ないよね
無我は非我とも言う訳で、どこにも例外無く我と呼べるものは無くて
それは断滅になるんじゃなく、最初から無いのだから始まってすらないんだよ
常見と断滅との二見は煩悩が起こすんだよ
無門の言う無とは出世間だから二見にも四句にも属さない
そもそも仏性は縁起しないのだから、最初から始まってない
だから終わらない、故に断滅にもならんって事
アドヴァイタの連中にはこれが分からん訳
君はどうかな? カカシちゃん、何がまた根本的な勘違いをしていないかな?
話の流れを整理した方が良いのでは? 理解できない君が悪い
そもそも無問自説とは相手の事など考慮されない カカシちゃん、話の整合性が取れていないでしょ?
我は無い(存在しない)のに、自己の本性は煩悩とか。
我は無いは断見で自己の本性は煩悩は常見では? 一念でも拘りがあればアドヴィダという(?)のも、はて?
果たしてアドヴィダの意味わかってるの? 運転中だから途切れ書悪しからず。
そもそも煩悩単体では存在しないでしょ。
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」(仏陀)
煩悩単体で存在するというなら、それは常見、真我説ですよ。
故に「自己の本性は煩悩である」は仏説ではないのは明白でしょ?
それ故「自己の本性は無性(無我説)」なんですよ。 が皆さんの会話の相手しないと?会話とは相手に合わせてそうだねえというか、いやそれは違うというか、主婦の井戸端会話
ではしゃべり始めた人に合わせないと自分のしゃべりたい事聞いてもらえない、そんな頭使うのは私には脳力もなく時間も無い
論議で相手に反発するにも頭つかれる。みなさんは色々な事考える事ができるけど、私は普通何にも見ないでここでは適当に
先も見ずかきはじめたり、兎に角ほか他で24時間以後が待っていて時は金成に急がされている将棋の歩で適時んに行ければ
金になるいまは歩むしかない、なんかの修行しているのだろうけど私の身えるぶぶんも観えないひとも未知しるべーでまあ良い
かなんでか朝は2ちやんのノルマで書かないと如何ルールになり辛いじかんなのかそんなに辛くない。内容なくても長くすれば
よいので適当で適当にすましたりあとはメモコピーしたり本やネット貼り付ける毎日とにかく主人公は長く書くか意味不明の
様でも穴多のほっとけ内ひとが聞き流してくれば良いかも?頭で考えたり間違いを訂正したりすれば仏を馬鹿にしている事に
なるし、とにかく仏は勘違いが多く書くことで経験をつむのかもしれないこれも修行か自己弁護師が今弁護した。 以前と重複するけど、仏教もアドヴァイタも自他一如は説くけど、仏教は無我(縁起)説、アドヴァイタは真我(常見)説。 ひふみ神示 黒鉄(くろがね)の巻
第19帖
愛から離れた理解はないぞ
善から離れた真理はないぞ
種(タネ)無くて芽は出ん道理
人間の智で分からん事は
迷信じゃと申しているが
神界の事は神界で呼吸(いき)せねば
分からんのじゃ
分からん人間だから何と申しても神を求めるより
愈々になったら道ない事ぞ
学に囚われて
まだ目覚めん気の毒がウヨウヨ、気の毒じゃなぁ
人間は霊人のカタシロになるからこそ
養われているのじゃ
生長して行くのじゃ
血は愛によって生き
愛はヨロコビによって生きるのじゃ
ヨロコビ無き所に愛は無いのだぞ
「﹅ 」ないところ生命(いのち)栄えんぞ 第17帖
霊ばかりよくてもならん
体ばかりよくてもならん
持ちつ持たれつの世であるぞ
分からんのは
我(われ)が偉いと思っているからぞ
目覚めればその日その時から良くなる仕組
結構楽し楽しで
どんな世でも過ごせるのが神の道
智の中に悪を取り入れるゆとりの出来ん様では
マコト成就せんぞ
智の中には総てを取り入れて
理解出来る様になっているのであるぞ
愛の中に悪入れてはならんぞ 智の中に悪を取り入れるゆとりの出来ん様では、マコト成就せんぞ
自他共に、悪を抱き参らせる寛容さがなければ何事も成就しないと…。 私はし今頃気がついた。生物というソフトはトーテンポールみたいに
見える仏見えない仏神様あくまでも霊が傘夏て観察といか座禅というかコンビニ
に今ま見えて宇宙も夢中も全員修行しているというか生きているのか適当。
あアンパンマンの歌が出てきた。
ぼくらはみんな生きている https://www.youtube.com/watch?v=AiieZXIUzAo カカシちゃんの過ちが分かってきた。
驀然打発って知ってるか?
三昧境はまさに説似一物即不中、無い自覚さえ無いけど、仏教ではそこから驀然打発し、説似一物即不中を知り、その三昧の自覚、無自覚の自覚があり智慧(無我や縁起の覚知)が生じるんだけどね。
まさに、無の我がある事を知る(無分別の分別)わけ。
そもそも、説似一物即不中という自覚無しに説似一物即不中は説けないからね。
説似一物即不中は説似一物即不中に非ずとなる。 >>79
>無門の言う無とは出世間だから二見にも四句にも属さない
だからこそ「無などは「無い」」ではないんだな。
「ムー」なんだよ。
そんな観念や知見解の禅じゃ、臨済じゃ即、鈴だ。
分別や無分別を知識として知っていても、カカシちゃん、あなたは無分別の分別(無分別智)が分からないんだな、無分別の分別(はたらき)が出ないんだな。
だから拘りとかアドヴァイタとか言い出す。 >>64-65
ありがとう。
素晴らしい!
>>ポッたん氏
戦争が起きたら困りますよ。
当たり前でしょ・・・。
さっきまでNHKで「唯識」やってた・・・。 禅が即だのなりきるというのはそこなんだけどね。
分別が煩悩なら煩悩そのものになりゃ分別(煩悩)は消える。(そういう意味での自他一如)。
ただし、自然(しぜん)ではない、自然(じねん)ね、自(みずか)らではない、自(おのずか)ら。
ここを履き違えるから煩悩即菩提、あなたみたいに煩悩即煩悩になる。 煩悩そのものになれば煩悩は消えるかもしれんが、
周りから見れば煩悩の塊に見えたりしてww 無字の公案
山川草木国土悉有仏性(さんせんそうもくこくどしつうぶっしょう)
新参の修行僧、問う、門前のあの痩せ狗にも仏性がございますか?
師、答える、有。
古参の修行僧、問う、門前のあの痩せ狗にも仏性がございますか?
師、答える、無。
野狐の公案
修業僧問う、悟後の人はおしゃか様のおさとりである因縁果の因果の法(しんり)に拘束されますか?
師、答える。因果の法に落ちず(不落、ふらく)。
修業僧問う、悟後の人はおしゃか様のおさとりである因縁果の因果の法(しんり)に拘束されますか?
師、答える。因果の法くらまされず(不昧、ふまい)。
> 同じ事をこの二つの公案は老婆親切にも姿を変えて、問い、答えている >>98 修行が足らんのう
煩悩が消える瞬間は、境地に入る瞬間じゃ 99.
犬に仏性はない。人間にも仏性がない。
親鸞は自分に仏性がないことを発見した。
因縁、因果の法、か。
さとれば、不落、不昧、である。
なんでか。 88-93 名前:素人A[] 投稿日:2017/04/22(土) 09:28:55.56 ID:lpVWX4T2 [1/2]
皆さんの会話の相手しないと?
会話とは相手に合わせてそうだねえというか、いやそれは違うというか、
主婦の井戸端会話ではしゃべり始めた人に合わせないと 自分のしゃべりたい事聞いてもらえない、
そんな頭使うのは私には脳力もなく、時間も無い
論議で相手に反発するにも頭つかれる。
みなさんは色々な事考える事ができるけど、私は普通何にも見ないでここでは適当に先も見ずかきはじめたり、
兎に角ほか他で24時間、以後が待っていて、時は金成に急がされている
将棋の歩で敵陣に行ければ金になるいまは 歩むしかない、
なんかの修行しているのだろうけど 私の身えるぶぶんも観えないひとも未知しるべーで まあ良いか
なんでか朝は2ちやんのノルマで書かないといかんルールになり、辛いじかんなのか、そんなに辛くない。
内容なくても長くすればよいので適当で適当にすましたり
あとはメモコピーしたり本やネット貼り付ける毎日
とにかく主人公は長く書くか
意味不明の様でも穴多のほっとけ内ひとが聞き流してくれば良いかも?
頭で考えたり間違いを訂正したりすれば仏を馬鹿にしている事になるし、とにかく仏は勘違いが多く
書くことで経験をつむのかもしれない
これも修行か自己弁護師が 今弁護した。
私はし今頃気がついた。
生物というソフトはトーテンポールみたいに見える仏、見えない仏、神様 あくまでも霊が重なって 観察と言うか座禅というか コンビニに 今 見えて
宇宙も夢中も全員修行しているというか 生きているのか適当。
あアンパンマンの歌が出てきた。
ぼくらはみんな生きている
https://www.youtube.com/watch?v=AiieZXIUzAo
> 内容なくても長くすればよいので 適当で、適当にすましたり、あとは メモコピーしたり 本やネット貼り付ける毎日 』
そこの部分は 大いなる勘違いです。 長文で、切れ目が無いので、目が悪い私には、地獄の責め苦ですー ・・・アセアセ(;^ω^)タラー 犬に仏性はない。人間にも仏性がない。
親鸞は自分に仏性がないことを発見した。
因縁、因果の法、か。
さとれば、不落、不昧、である。
なんでか。 104.
バカ鬼和尚の登場である。坐禅バカの代表者である。 106.
バカ鬼和尚は坐禅をしているだけの才能である。
それでエバレルからして楽な商売である。内容がない。 それが、悟った者と修行をしない凡人の差なんじゃないか?! 108.
早く悟れ、は私の言葉であるよ。
バカ鬼和尚の言うことは、坐禅せよ、だけである。 いいぞー
鬼和尚
もっと言ってやれ!!
ピーピー!! 112.
バカ鬼和尚の言うことは他人が言った言葉である。 >>75 名無しは荒らし、と言う受け取りでスルーを原則としてます。次回からは固定ハンドルネームを付けてください。
説明などできない、不立文字である。
不立文字であるがゆえに、真理さとりである。
> 真理さとりって何か新興宗教みたいな言い回しだよね、 祖師西来意と訊いて、問われた各師はちゃんと答えてるでしょ、 空海によれば「声字実相」と言い、意を以て答えるそれらも文字であると言います
万象の有り様は全て文字であると、これを以て仏教界随一ただ一人、果分不可説を翻して果分可説と言ったとか
ポッたん、「小鳥さんがちゅんちゅんこんにちは」もこれに入るじゃありませんか 違うと言うんでしょうかねえw(笑い) 』
岩山が語り、岩清水が歌う、
すでに説かれています。 71 返信:ジャンキー大山[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 05:12:03.76 ID:ZZcHw+xj [2/14]
>>63
教条主義では、仏教はここまでもたなかったのです。そう言うところから、あなたは、反仏教ですよね。
> あなたは教条主義の意味をご存知無いようだね。仏教は基本的に形而上学は論じませんし、私の検証も事実と仏説を対比した上で論理的に行ってますよ? 一体どこが無批判的な独断に基づく検証ですか?
反仏教はむしろ、形而上学的な持論の展開しか出来ないあなたですね。 』
自己肯定に固執する固定的であるがゆえに、それは仏教ではない、教条主義である のです。 103 名前:まこと[] 投稿日:2017/04/22(土) 16:28:47.66 ID:UXkco7It
犬に仏性はない。人間にも仏性がない。 親鸞は自分に仏性がないことを発見した。
因縁、因果の法、か。 さとれば、不落、不昧、である。 なんでか。 』
> なんでか
と、理由を言えば、理解(りげ) です。 >>116
先ず、教条主義とは何かについて調べなさいよ。
意味の履き違えをしていますよ?
さて、論理的に導き出された結論を主張するのが何故固執になるのですか?
私には、あなたが自論の破綻を指摘された事への腹いせで固執云々と言ってる様に思えますが?
固定化されてはいけないという言葉事自体、パラドクスをはらんでいる事にもお気づきでないようで。 >>117
>と、理由を言えば、理解(りげ) です。
それが分別なんだけどなぁ・・・
分別と無分別を超越したところに仏教の智慧(無分別の分別)があるんだけど。 119-121 名前:ジャンキー大山[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 19:00:11.57 ID:9aqEggyw [3/5]
>>116
先ず、教条主義とは何かについて調べなさいよ。
意味の履き違えをしていますよ?
さて、論理的に導き出された結論を主張するのが何故固執になるのですか?
私には、あなたが自論の破綻を指摘された事への腹いせで固執云々と言ってる様に思えますが?
固定化されてはいけないという言葉事自体、パラドクスをはらんでいる事にもお気づきでないようで。
>>117
>と、理由を言えば、理解(りげ) です。
それが分別なんだけどなぁ・・・
分別と無分別を超越したところに仏教の智慧(無分別の分別)があるんだけど。
>>99
いや、別物なんだけど。 』
> ある女子大生が、教授とのやり取りに 必ず 「定義せよ」 と迫り、着k見分けないので、肝心の話しが飛んでしまう、という事があったと言う。 >>122
定義(ていぎ)は、一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業。
一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で行われる。基本的に定義が決められる場合は1つである。これは、複数の場合、矛盾が生じるからである。(wikiより)
・・・肝心の話が飛ぶか否かとは関係ないのでは? > ある女子大生が、教授とのやり取りに 必ず 「定義せよ」 と迫り聞き分けないので、肝心の話しがどこかへ飛んでしまう、という事があったと言う。
ミーイズム、とでもいうのか。
123 返信:ジャンキー大山[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 21:07:09.48 ID:9aqEggyw [6/6]
>>122
定義(ていぎ)は、一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業。
一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で行われる。基本的に定義が決められる場合は1つである。これは、複数の場合、矛盾が生じるからである。(wikiより)
・・・肝心の話が飛ぶか否かとは関係ないのでは? 』
ピン止め、してしまう、という事と言えば、コミュニケーションが取れるのだろうか。
こういう具合で、手続きに時間、手間を取るばかりで、ねぇ。
困ったチャン、なんだろ、日常的に、さぁ。 碧巌録(へきがんろく) 第74則? 金牛飯桶 (きんぎゅう はんようず )
?
挙(こ)す
?
〇 金牛和尚、斎時に至る毎に、自ら飯桶をもって僧堂前において舞を作(な)し、呵々大笑(かかたいしょう)して云(いわ)く、「菩薩子、喫飯来(きっぱんらい)」と。
雪竇(せっちょう)云く、「しかもこの如くなりと雖(いえど)も、金牛これ好心にあらず」。
修業僧、長慶に問う、「古人いわく、『菩薩子、喫飯来という意旨如何?』」。
慶云く、「大いに斎に因って慶讃するに似たり」。
〇 昼食時(斎時)になると金牛和尚は飯桶を抱えて僧堂前で踊りながら、呵々大笑して言った「さあさあ、菩薩の子供達よ、飯ができたから食べなさい」。
雪竇は言う、「うっかりするなよ、金牛はこのようにしていても好意で言っているのではないのだ。用心しなさいよ」。
ある僧が長慶慧稜禅師に聞いた、「昔、金牛和尚は飯桶を抱えて僧堂前で踊りながら、『菩薩子、喫飯来』と言ったと言われます。 その意味は何でしょうか?」。
?
〇 金牛和尚、斎時 (さいじ) に至るごとに自ら飯桶 (めしびつ) をもって僧堂の前に舞をなし呵呵大笑して云く、『菩薩子、飯を喫し来たれ』と。
雪竇 (せっちょう) 云く、『かくの如くなりと雖 (いえ) ども、金牛は是れ好心 (こうしん) ならず』。
僧、長慶に問う、『古人道 (いわ) く、「菩薩子、飯を喫し来たれ」とは意旨如何 (いかん)』。
長慶云く、『斎に因って慶讃 (けいさん)するに大いに似たり』。
⇒ 一日の食事、朝とお昼の食事のうち、最後のお昼のご飯を炊いて修行僧たちに、ご飯が炊けたよ、食べよう、と呼びかけ、かっかっかと大笑いをし踊りながら帰って行った、と言う。
わたし達は、生きとし生けるもの、動植物、地球そのものが、つまりは、たいようのわかれであり、ぎんがのわかれ、ぎんがけいうちゅうのわかれ、うちゅうそのものです。
食事は、太陽のエネルギーを補給しているのです。
そして、小さな太陽、となります。
金牛和尚、肩を組み、笑い、歌い、手を叩き、足を踏み鳴らし、舞い踊る、ゆえんがそれです。 ジャンキー大山は
ひっかかる人だけ対象にしておらられる・・・・
プライオリティーとかいうのか・・・・。
じゃあひっかからない人はどうしたらよいのか・・・・。
禅の指導形態は無責任極まりない・・・・。 112.
バカ鬼和尚の言うことは他人が言った言葉である。 おまえさんは、ドツボに嵌まっとるのう
そのとおりじゃが、他人が言ったということは
独りよがりではない証拠じゃ つまり、まことは、鬼和尚の言っていることを
認めているということじゃないか! 知識というのは、読書をしなければ、入って
こないからねえwww
さしずめ、オレの話も、著書のことだなww マハラジは、物事はただ起こっては消えると表現していましたが、それは全ては、世界はあるがままにあるからだと
この言葉の意味するところは、全ての物事は湖に降り注ぐ雨粒が波紋を描きながら、それぞれ複雑に影響しあって
全体を覆い尽くすようなものであると、一つの雨粒の軌跡を最初から最後まで正確に追うことは不可能ではあるけれども
その一つ一つが確実に全体に影響を及ぼしていることを理解出来れば、他の人の為に苦しむことも、自分の行いで全く知らない誰かが
苦しむことも不思議ではなくなると、何故ならば全ては繋がっているのですから、それを縁起と表現したのが御釈迦様であるのだと思います。
悟った方は、あるがままの世界で苦しむことは卒業されたのだと思っております…。 統合失調症の分裂病の所以か
逃げ癖がついてる人間に多いらしい 昔から、まことは
逃げている
と、言われると、嫌がるよな! 仏性 ・・・全世界は悉く主体性そのものであつて、対象物は一物もない。今日只今のところには、第二物は無い
のであつて、ただ第一人のみである。「根源はすでに断ち切れているのに、人は気ずいていない。茫漠として業力
にひかれていく我々の意識はいったいいつ休止するのであろうか」。しかし実はそのままが仏性なのである。
全世界は、虚実の縁起による存在ではない。なぜならば一物も隠すことなくむき出しのままであるからである。
むき出しのままというのは全世界がそのままの存在であるというのではない。外道の誤った見解では、全世界は
悉くわれの存在であるというが、もとより正しくはない。また全世界は本来的の意味の存在でもない。なぜなら、
古えにも充足し、今にも充足しているからである。あるとき初めて現われる存在でも無い。なぜなら一つの塵さえも
加わることはないから。別々に別れた存在でもない。なぜなら全体が一つであるから。無限の過去から存在でも無い。
なぜなら究極ギリギリの、即近のところであるから。あるとき初めて現われて存在している存在でもない。日常の心
がそのまま仏道であるから。まさに知るべきである。このような悉く有るのなかでは、我々衆生は良い便りに逢う事
は難ずかしい。それは悉有の抜け殻である。このように悉有を得ているのであるから、悉有それ自体は透徹し脱落し
ているのである。・・?悉く或るは我々の身心からー脱落してて小さな修生の目がついて意ていて今は春課此処で働
く用になっている。私も昔の思いの着物脱ぎ変えて衣類はコート要らずのサンマーディの春の午前は
銀の椀に雪を盛るのは無理?脳内には宇宙が広がっていその中に私が居てその中に宇宙の春もある野鴨 私は悟っていないので、たった一つの音楽のフレーズで勇気づけられたり、涙したり
アンパンマンのテーマソング大好きですが、愛と勇気だけが友達だというのが切ない、そこに弱さも入れて欲しい
ヒーローは弱さを見せてはいけないのか?アンパンマンが健気すぎる、なんて、馬鹿なことを感じたりして。
やなせさん揚げ足取ってごめんなさい…。 125.
食事をしなくてもよい、という答えを出すべきである。
師はバカである、という前提を忘れている。 まだまだ此の世界の瑞々しさに浸っていたいのかもしれませんね。
いや、何、負け惜しみの独り言でありますが…。 >>141 おまえさんは凄いのじゃ
自分で負け惜しみと言えるのは凄いのじゃ そういや、ウォータームーンで、坊主役の
長渕剛が、萩原聖人に
「自分で弱虫と言えるのは偉いな」
と、言ってたっけ おそらく、まことは、そのシーンを知らないだろうな!
意外に、まことは、長渕剛ファンではなかったんだな! 御釈迦様は私たちを此の世界から解脱させる為に法を説かれたし、それは今に受け継がれていると思いますし
イエス様はこの世界を救う為に今も御活動されているのだと妄想しているだけでありますが…。 余談だが、法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。要するに、タクシーで新宿にいってくれというやつを勝手に渋谷にいき正当化してごまかしてくるようなモン。
こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
会社ぐるみでやってるサギはただのひとりよがりのキチガイなので、少なくとも完全ににそれらが直り用を成せるまでは関わらない方が無難。
山べ容疑者みたいなもん。依頼は1つもかなわない。 142.141.143.
人生論をやっている場合ではない。
早く悟れ、や。 早く悟るのじゃ、と、言われて、いつ
オウム返しをするかと思ってたがな(笑) 148.150.
笑っている場合ではない。
バカ丸出しである。 152.
バカ鬼和尚の登場である。
バカ合戦の達人である。
バカになりたい人はバカ鬼和尚が募集している。 宗教以外のバカ話も面白い。
バカ鬼和尚の得意分野である。 >>154
>>155
おまえさんも、儂のように、早く悟るのじゃ 156.
バカ鬼和尚のようにバカ話をするのじゃ。
悟った、と言うのは冗談であろう。笑い。 ひふみ神示 月光の巻 第14帖
流れ出たものは又元に帰ると申しても
そのまま帰れないのであるぞ
天から降った雨がまた元に昇るには
形を変えるであろうが
この道理を弁(わきま)えんと
悪神懸かりとなるぞ
それはそなたの自己慾から出ているぞ
自己慾もなくてはならんが
段々浄化して行かねばならん
浄化して大き自己の慾とせよ
自分のみの慾となるから弥栄えんのじゃ
弥栄えんもの神の御心(みこころ)に逆行
自分で判断出来る事を何故に聞くのじゃ
神に聞けば神に責任を着せるのと同様ぞ
人間の悪い癖ぞ、出直せよ 156.
バカ鬼和尚のようにバカ話をするのじゃ。
悟った、と言うのは冗談であろう。笑い。 >>124
で、話を元に戻すけど、
1.「あれれ、私が無い!?」は見性体験ではない。
2.「一の如し」を(最終的な)真理悟りとするのは不二一元論。
と検証した事に対する反論は無いのね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています