坐禅と見性第119章丘の上に坐しポーンと投げ込み散骨す [無断転載禁止]©2ch.net
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このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
禅は、来(きた)る者は拒(こば)まず、去る者は追わず。
スレの興隆は、いっときもとどまらず、恒常が無い。
遠くの山々は、青く、我を旅立ちへ誘う。
遠く青い山並みの向こうに、何があるのか。
白い雲は、山にかかると、さっと左右に分かれ、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出し大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの修行僧が風景に溶け込む。
縁があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、次のステップである。
真理、ダルマ、法である、さとりである、ほとけである、われら、
問う、「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
【前スレ】
坐禅と見性第118章海底からの上昇流と海面からの下降流、休まず [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第117章禅のアヒルは、泥水に注がれたミルクだけを飲む [無断転載禁止]©2ch.net
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コテなし鬼和尚!
止観とは何ですか?
鬼和尚は毎日どの位坐禅していますか? >>674
下痢止めを飲めば座り糞は
回避出来るのじゃ! >>668
本物の鬼和尚さん
止観とは何か教えてください! >>663
>五薀(我を構成するもの)は仮化合
仮化合って何だろう
仮和合の間違いかな
>詐称覚者が「あれれ、自分が無い」などと嘯いているが、それは妄想。
自分とか自己とか俺とか私とか、どんな言葉で言おうが己だと指してる実感は自分じゃ無いんですよ
これが分からない人は、「自分が無い」と言う言い回しに過剰反応する訳です
その原因は
>我というのは有るでもなし、無いでもなし。
と、実感は確かにしてるから無い訳では無いんだ、と観念してしまっているから
本当に我が有るでも無いでもないなら「無我」とは言わなかったんですよ
我は無いんです、でも実感は確かにするから「自分」と呼んでる妄想の対象が空で無いとは言い切れないってだけなんですよ
「自分」は妄想ですからこれも勿論無いんです、「我」も勘違いなので無いんです、無我ですから、非有非無ですらありません
我と言う妄想をわずかにも残しちゃダメなんですよ、それこそが我執です
我執が残るうちは我空がわからん筈です
父母未生以前自己本来面目とは眼耳鼻舌身意各々のことでしょう
どこに自己があるんでしょうねえ 因みに、無我がわからん人は必ず唯識の基本を何とかして否定したりします
所謂「万象は悉く識より起こり、それ以外に万象は無い」が認められない訳です
これがわからない人にどうして「父母未生以前自己本来面目」が腑に落ちるでしょう
自己本来面目とは、自己と呼んでしまうその現象の本来の起点を指していて
自己を指してる訳じゃないのにです 仮観をすっ飛ばして空観を分かった気にになった人は
我空のことを「我とは無いのではなく空なのだ」と観念する様です
この様ですから当然、他己が曖昧なんです、他己は仮観の事ですから
仮観も空観も、順番はどうでも良くて、両方修めなきゃ
「自分が無い」に過剰反応する病を起こす訳です
そんな病の人にどうして、自己と呼ぶ身体が既に他己だったと気付けるでしょう
五蘊皆空なのですから、色受想行識は全て「我と呼べる有」ではなく「空」だと言う訳です
空は有ではありませんから、有でないものは我とは呼べずそれは非我になります
非我は非自己なので他己の事です、そもそもウパニシャッドな自分探しの言う自分とは我の事なんであり
仏教が再確認したらそんなものはどこにも無かったから無我な訳ですから
もう一度言います、我は無いんです
有るでも無いでもないのではなく、無いんです
何故なら、呼び間違えの勘違いだったんですから
どうしてもここが腑に落ちないと、アドヴァイタと同じになりますので要注意です
アドヴァイタなら宇宙全部こそが我と同じと言って、それは空だと言う訳です
仏教を挫折した人が陥りやすい邪義です、チラっとでも見かけるともうそれが観念に染み付く厄介な汚れなんでしょうね
中々厄介な連中だと随分研究しました
コップが自分、自分はコップ、と彼らは言ったりします
禅の公案にも、花が私を見て、私が花を見る、的なのがあります
でも禅は仏教ですから無我であり、わたしは無いんです
徹底的です あともう一つありましたね
華厳経で言う「常楽我浄」
本来は否定される筈の「無常・苦・無我。不浄」が、華厳経だと常楽我浄になり肯定されると言う勘違い
この勘違いに固執する人は大抵「一即多・多即一」を言い出し拘ります
これは仏陀の視点に立てばそうだ、と言う一種の方便です
我々は妄想なので仏陀じゃありません、妄想をかき分け排除出来た暁が仏陀なのであり、それは我々じゃありません
故に、空は私の本性じゃありません、涅槃も私じゃありません
前者が我執、後者が現世涅槃と言う邪義になります
身心脱落したとき、それは自己の身心も他己の身心も抜け落ちてる状態なので
自己も他己も無い筈です、つまり常楽我浄は無いんです
それが常楽我浄だと分かるまで、手放しましょうその固執 またおかしな事を言ってるね。
先ず、自性については「縁起―無自性―空」が一般的な解釈(『中観』)だし、自分の体験もそうだったから。
また、無我を「我が「無い」」と解釈するのは、上記により誤りだね。縁起や因縁和合が仏説だし。 また、本来の面目だけど、それ知見解だね?
あなた、見性体験や公案で言うところの初関を透ってないでしょ?
「大いなるものに懐かれある事を今朝吹く風の涼しさに知る」
無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。 あと貴方は我執とか執着について拘りがあるようだけど、拘らない事に拘わるのは拘りだから。
>我と言う妄想をわずかにも残しちゃダメなんです
>よ、それこそが我執です
↑
これ自体が我執なわけ。
瘡蓋みたいなもん、血で血を洗うようなもん。
気づけばいい、それだけ。いじらない。
つまり見性体験なり禅定力を養う事なんだけどね。 >>683
一般的な解釈?一般的で良いんですか?仏法畢竟=悟りは超俗ですよ
解釈は妄想の仕業ですから、妄想で結論しちゃそれは超俗じゃありません、世俗にあたります
>また、無我を「我が「無い」」と解釈するのは、上記により誤りだね。縁起や因縁和合が仏説だし。
因縁和合を我だとする経文がどこかにありますか?
我は妄想した結果に名付けられた解釈に過ぎませんよ
どこにありますか、無いでしょうどこにも
>>685
>無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。
アドヴァイタですね
無を妄想の産物として思われた我と命名してしまう、それはある種の病です
>>686
本当にそれで納得してるなら反論は起きない筈です
説明を説明と理解できない君が、自分で弄っている事に気付いていない
だから
>無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。
がアドヴァイタの見解になる事にも気付けないんですよ
アドヴァイタは外道です、仏教と混ぜちゃいけません あと、真我と無我について良く調べて見たら?
不二一元論について貴方は根本の所を見落としてない?
自他一如でも根本に真我説(アドヴァイタ)をとるか無我説(仏教)を取るかで全く違うでしょ? >>688
>無の我が在ると受け止めた方がわかり易いかも知れません。
と取らない立場なので言わずもがなですよ >>687
「しるべし、今生の人身は、四大五蘊因縁和合して、かりになせり。」『正法眼蔵』「出家功徳」巻
ダンマパダや他の経典にもあったかと思うけど? >>690
それのどこが我の証明なんですか?
どうして我など無いと納得できないんでしょうね
そこが納得できなきゃ苦滅は無理ですし、無字も透過出来てない事になりますよ?
仏性は有無以前に縁起しないんですから、有り様がありません >>687
無の我がある云々は説明の為の方便ですが?
勝手にアドヴァイタのレッテル貼られてもなぁw
つまり、因縁和合でなっている我の事だけど。 >>692
レッテルじゃ無くてアドヴァイタの見解と同じだと言ってるんです
それだけアドヴァイタの見解は容易に到達できるって話です
仏道が難解だからと挫折するとみんなそれを見つけて「ああそうか」とやらかすんですよ
因みに、「因縁和合は我ではありません」 >>693
いや、素朴な疑問だけどさ、アドヴァイタと仏教の根本的な違いは真我説と無我説じゃないの? なんか根本的な所で全くの勘違いをしている様な気がするんだけど・・・ >>696
>アドヴァイタと仏教の根本的な違いは真我説と無我説じゃないの?
それはそうかも知れないけど、問題はこの両者で無理やり言う事があるのが「非我説」
無我とは我が無いではなく非我の事だ、と豪語したがる人が居るんですよ
アドヴァイタはぶっちゃけ我は確認できないから有るとも無いとも言えず、それは宇宙全体と同じでそれこそが真我だ、とやらかすんです
仏教は畢竟無我ですから、我なるものはどこにも存在しないんです
妄想の産物なだけですから
>>697
>我は因縁和合したものでしょ?
違います、我は想像上のものに過ぎません
因縁和合の結果を我だと妄想命名しただけです
やめられませんか?その妄想
妄想はしてるから確かに無いとも有るとも言えませんが、それは妄想という器に関してだけです
妄想の内容としての我に関しては絵空事ですよ >>702
我が無いと納得できなきゃダメなんですよ
無い訳じゃ無いし有る訳でもないとやらかすと
例えば因縁和合が我だとか縁起が我だとか始まっちゃう訳です
我とは言わないけど「これこそがそれだ」とね
違うんです、一切合切我はどこにも無いんですよ
真だろうと無だろうとです >>701
いやはや、あなた、やっぱり根本的な所で全くの勘違いをしているよ。
妄想って意味分かる?
妄想と分別は違うよ? >>705
>妄想と分別は違うよ?
分別するから妄想なんですが?
仏見法見を起こす一闡提も分別と言う妄想がその原因ですよ >>704
これも根本的な所で全くの勘違いをしている。
俺は仏説と体験に基づき話しているつもりだけど?
何で貴方の説に従わなければならないの? >>706
は?
妄想で辞書引いて見な?
分別で辞書引いて見な?
からかってるのか? 法華転法華 法達「私は法華経を三千部も読じゅしました」慧能「たとい一万部読じゅしても、経の意味を
理解しなければ、自分の過ちさえ知ることは出来ないだろう」法達が答えた。「私はまことに愚鈍です。これまでただ文字の
意味にまかせて読んできただけです。どうしてその意味がわかりましょう」慧能が言った「では一度読んでみなさい。おまえ
に解説してあげよう」そこで法達は『法華経』を読み始めたが「方便品」まできたとき慧能が言った。「そこでやめなさい。
仏がこの世にお出ましになるいわれ、これがこの経典の中心である。多くの喩えがこの経には説かれているけれども、これに
勝るものはない。ではそのいわれとは何かといえば、ただ一大事という事である。一大事とは何かといえば、仏の知見である。
仏の知見とは何かと言えば。開示悟入である。それが自ずから仏の知見になっているのである。すでに知見が備わっているの
であり、衆生の一人一人が、すなわち仏であると言うことである。おまえはいままさに信じるがよい。仏の知見とはお前自身
の心である事を」?一番大事なのはこの世うにして来たのが位置盤大事な夢中仕事なのかぽつ師匠一の仕事いや如しと言う師 分別は妄想の原因だけど、分別=妄想じゃないんだけど? 704.
我がない、か。
それは実体の問題ではなくして、方法の問題である。
有が無に展開するだけのことである。
その一時点に、とどまる、か否かの問題である。
そこにストップするのが仏教かいな。 質問者 誰もが聖典を引用します。
マハラジ 聖典のみを知るものは、実際には何も知らない。
知ることとは、在ることだ。私は、私が私が言っていることを知っている。
それは人から聞いたことででも、読んだことでもない。
質問者 私はある教授のもとでサンスクリット語を学んでいます。でも、本当はただ聖典を読んでいるだけなのです。
私は真我の実現を探求しており、必要な指導を受けに来たのです。どうか、どうすればよいか教えてください。
マハラジ 聖典を読んだのなら、なぜ私に尋ねるのかね?
質問者 聖典は一般的な指示を示しますが、個人は個別の指導が必要です。
マハラジ あなた自身があなたの究極の師(サットグル)だ。外側の(グル)は、ただの道しるべにすぎない。
あなたの内なる師がともにゴールまで歩いてくれるだろう。なぜなら、彼がそのゴールだからだ。
質問者 内なる師には簡単には出会えません。
マハラジ 彼はあなたのなかにいるのだ。困難であるはずがない。内側を見なさい。彼はそこにいる。 私たちは自分の目を直接自分で見ることは出来ませんが、その存在を他の人に確かめる必要はありません。
それはその仕事によって確認出来るので疑う必要がないからです…。 多分カカシちゃんなんだろうけど、訳がわからん。
この人根本的な所でいつも致命的な勘違いするから。
基本的に仏教は無我説をアドヴァイタは真我説を。
だから、無の我があると考えるとわかり易い云々言ったのに。何でこれがアドヴァイタなのか?
真の我があるというならアドヴァイタだろうけど。 言葉そのものよりもその指し示すものの意味を知ることでしょうか…。 >>715
>無の我があると考えるとわかり易い云々言ったのに。何でこれがアドヴァイタなのか?
アドヴァイタと同様です
無は宇宙大な訳で無分別です、それを我と言うなら
真我を説く彼らと同じ理屈を説いてる事になりますよ
無我はあくまで人無我法無我なのであり、五蘊皆空故に諸法無我なんです
どこにも我は認められず、無いものを我と認める訳にはいきません
わからないならそれまでの話ですね >>717
>無は宇宙大な訳で無分別です、それを我と言うなら
ん?
誰がそんな事言ったの?
>どこにも我は認められず、無いものを我と認める
>訳にはいきません
ん?
だから我というのは因縁和合と言ってるよ?
だから無我だと。 >>717
>無いものを我と認める訳にはいきません
ん?
我は無いと言ってたよね? まぁ、論より証拠、百聞は一見にしかず。
坐禅して実際に仏説を確かめられては如何?
それと少し調べたけど、シャンカラって仮面仏教徒と呼ばれたくらい、その思想は仏説に近かったと聞いてる。昔、前田専学先生の本(ウパーデ何とかw)を読んだ時もこれ仏教?と間違う様な内容だったし。
俺の言うことや禅でいうところの自他一如が類似してるからそれはアドヴァイタと判断するのは間違いだね。
同じ自他一如でも仏教は無我説、アドヴァイタは真我説だから。
俺は真我説は言ってないから。 北朝鮮は微妙な所でメンツ保つてミサイルは花火でわざと失敗とたのかと疑う
何かトランプさんと金さんは阿吽の呼吸で微妙なところで遭うんだろうか
世界とか宇宙の真実も本当とも言えないと嘘とも言えない微妙なところに
真実の演技画あるのたろうか 矛盾や疑問が、通訳もなく、そのまま残っているのにな! おいおい
沈黙を通してみろよ!
がっかりさせるなよ! しかし、境地を得たオレに、まことは
嫉妬しているみたいだなww そういえば、まことは、妄想とか書いてたよな!
で、いつものとおり、どう妄想かは書いてないんだよな! まあ、井上希道の修行はかなり厳しいぜ
1年7ヶ月で境地を得たが、結局、2年で
その修行は、やめたからた 聞くところによると、必ず一度は気が狂うんだってな! オレも気が狂いかけたな
元に戻してくれるのは、師匠なんだよ
師匠無しでは、危険と思ったから、止めたんだよ
井上希道曰くの、悟りを開くのは、ほとんど
不可能ってことだな 今目の前にキチガイがいるよ。
カバンからタクアンを取り出してニヤニヤしているわ。 つうか、オレの中では悟ったと思っている
だって、文献と同じことが起きているんだもーん まことは、悔しいの意味も知らんわけだな!
さすが、中卒だ! >>743
だから、境地って、書いてるじゃん
どこかの誰さんは、悟り、と、書いてるけどな
まこととは言わんがww >>757
まこと君
おまえ、キチガイとか悔しいに、トラウマがあんの? >>759
キチガイとか悔しいに、トラウマがあんのか
聞いてんだよww >>761
キチガイとか悔しいに、トラウマがあんのか
聞いてんだよww >>763
キチガイとか悔しいに、トラウマがあんのか
聞いてんだよww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています