坐禅と見性第119章丘の上に坐しポーンと投げ込み散骨す [無断転載禁止]©2ch.net
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禅は、来(きた)る者は拒(こば)まず、去る者は追わず。
スレの興隆は、いっときもとどまらず、恒常が無い。
遠くの山々は、青く、我を旅立ちへ誘う。
遠く青い山並みの向こうに、何があるのか。
白い雲は、山にかかると、さっと左右に分かれ、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出し大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの修行僧が風景に溶け込む。
縁があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、次のステップである。
真理、ダルマ、法である、さとりである、ほとけである、われら、
問う、「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
【前スレ】
坐禅と見性第118章海底からの上昇流と海面からの下降流、休まず [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第117章禅のアヒルは、泥水に注がれたミルクだけを飲む [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
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強引に連れてくるの奴隷は駄目だろ・・・。
今画像検索したら、「土人」とか書いてあった。
黒人もアジア人も色が黒ければ土人あつかいなんだな。
主計長(N氏)の命令らしいです・・・。
静岡県警の刑事部長 10日から所在わからず
4月12日 18時35分
静岡県警察本部の刑事部門のトップを務める刑事部長が、10日の夜から所在がわからなくなり、
警察は行方を捜すとともに、別の幹部を事務代理とする人事を発令しました。
所在がわからなくなっているのは、静岡県警察本部の伊藤博文刑事部長(58)です。
警察によりますと、伊藤刑事部長は10日、職場から静岡市内の自宅に帰ったあと、
午後9時ごろ1人で外出し、その後連絡が取れなくなったということです。
自宅には携帯電話や財布が残されていたほか、車で出かけた様子もないことから、家族が捜索願いを出し、
警察は、静岡市内の山間部を中心におよそ60人態勢で行方を捜していますが、これまでに有力な手がかりは見つかっていません。
伊藤刑事部長は、静岡県浜松市内の警察署の署長を経て、去年3月から県警本部の刑事部長を務めていました。
県警本部は、12日付けで刑事部参事官の警視を刑事部長の事務代理とする人事を発令しました。
静岡県警察本部警務課の森本俊典課長は「今のところ、体調不良やトラブルがあったとは聞いておらず、
まずは行方を捜したい」と話しています。
まず『伊藤博文』という名前が驚く・・・。
警察本部の刑事部長は幹部だ。
階級は警視長や警視正クラスの人が就く高級幹部だ。 >>366 Ann ちゃん
調べたら出てきたんですか、
わたしは冬至の兵隊の証言とか、少女の証言をN放送局が番組を提供しているのを見ました。
残念な事実ですね。インドネシアに於いては。 >>367 Ann ちゃん
いじめによる自殺、なのかなあ。。 >>361
アホか?
定義仕様がないものを空性と呼んでるだけだろがw >>370
説似一物即不中なんですから拘ったらアウトなのよん
指摘されて気に入らないその気持ちが君の無明なんだな >>372
バカだなぁ
何でいくら正しそうに説いても中らないのか考えないのかい?
「つ鏡」とか幼稚な事やってる場合じゃ無いと思うよ
そういう「お前だって論」は詭弁だよ
仏道にあるものは詭弁を使っちゃダメだろ こだわらない事にこだわっていれば、それはこだわっているのと変わらないよ。
坐禅しろ坐禅!
坐禅だよ坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅! >>374
結局論点ズラしには変わらないよね
じゃあ、何で坐禅なの? カカシはな、三昧や見性してからだよ。
体験無しの妄想など話にならん。 >>375
いいから坐禅しろ坐禅!
坐禅だよ坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅! >>376
カカシって何の話だい?とぼけないように
何で坐禅かって質問してるんだから答えなさい
三昧だの見性だの体験だの、妄想な話は要らないから答えてね >>377
いや、良くないから
君は外道なのかな? 見性だの三昧だのの言葉に逃げる様じゃダメだよ
坐禅坐禅ってしか言えないのは、それしか知らないからだろ
君のそれは精々阿羅漢モドキで自己満足なんだよ
君はそれで良いだろうが、人様に指図出来る位にはなってないよ
何故坐禅なのか、説明宜しく >>383
あらら、何故坐禅するのか、何故それが良いのかひょっとして知らないのかな?
どうなの?答えられないの?
何の為に坐禅するの? 坐禅する意味も知らないで坐禅坐禅言ってるんじゃ
信心の意味が解らない創価の妄信信者と変わらんじゃないか 坐禅もせん、三昧も無し、見性も無し。
話が合わんわx とにかく、坐禅しろ坐禅!
坐禅だよ坐禅!
坐禅!坐禅、坐禅! 結局坐禅の意味を知らない訳だね
だから自己の本性は空性だと平気でガセを吐ける訳だ
説似一物即不中なんだから煩悩が幾ら自己を説こうとしても世迷言しか言えないんだよ
それと、坐禅する意味は自己と言う誤解を即今止めるって事なんだよ
自己と言う誤解が止まれば三業が止められる
三業が止められなきゃ見性もへったくれも無いだろ
坐禅もしねえで坐禅坐禅言ってても世迷言だよ 毒矢の喩えだよ。
坐禅の意味なんかより坐禅!
祖師方が嘘吐きでない!
坐禅だよ坐禅! 自灯明法灯明
祖師は無関係
釈尊は他所を頼るなと教えたでしょ >>394
アホw
やっぱりカカシだね〜。
やっぱり坐禅してないなw
妄想するなかれ! >>396
アホw
自他一如だろがw
坐禅してないから分からないんだろ? >>397
君、言われた事あるだろ?「為にする坐禅じゃダメ」って
しかも「坐禅は修禅に非ず」だろ
知らなかったのかな?見性してるんだよね?
見性したんなら知ってて当たり前なんだけど?
何で牛を叩くのか考えた事無かったんじゃないのかな >>398
>自他一如だろがw
そのままだとアドヴァイタだよ?
さて、どうするのかね?
生半可はみんなそこで迷う訳だけど
わたしに教えを乞うかね? 本性は煩悩、無字はどうでもいい、
他にもいっぱいあったけどw
自爆自沈の三毒煩悩カカシ丸、今日も自爆自沈か? >>401
その物言いってそのまま煩悩でしょ
違うのかな?
認められないそれ全部煩悩だよ?
君、見性してるんでしょ?どうして吹っ切れないんだい? >>400
アホw
何故話がそこに飛躍する。
体験の共有がアドバァイタになるのか? >>403
アドヴァイタが何て見解するのか君はしらないのか?
梵我一如=非二元=ノンデュアリティ=アドヴァイタ(不二一元)だよ?
体験を共有する意味があるのか?
唯仏与仏乃能究尽で仏同士しかそれは出来ない筈だろ
君はブッダなのか? カカシや?
下らん屁理屈ばかりで話にならんよ。
ガーッと坐ってこいや?
共有出来んよ、非体験者とは。
坐ってこいや、坐って! 忠告しとくよ
坐禅して煩悩滅尽に成功したのなら、他人に勝手にあだ名付けて呼ぶ煩悩も手放した方がいいよ
過去を引っ張ったって仏道には良い事一つもないんだから、坐禅を無駄にしない事
一期一会で今世最初で最後の話だと、見性したなら分かってる筈なんだから注意する事
日々是好日なのはそう言う事なんだよ
ちゃんと坐れちゃんと
よそ見してんじゃないよ >>405
仏陀には及ばないけど、その体験は寸分も違わないよw >>409
アホw
結局何も分かって無いじゃないか、あれから何の工夫も無いじゃないか。
もういい加減屁理屈はいいから、坐禅しろ坐禅!
何が日々是好日だ?妄想だろ、それ。
見性もなし、無字も分からんで能書き垂れても仕方なかろうに? >>411
ダメだよその書き方じゃ
暴言ダメ、戯論もダメ
君は全然出来てないんだよ
ああ、趣味でやってんだっけか?
道楽の癖に見性やら無字やら、寝言は寝てる時に言えと言われてるでしょw 坐禅をしないで坐禅を語るとか頭がピヨピヨだろ。
それなりに坐禅してれば、相手の程は分かるわ。
この板にも体験者と思われる方は何人かいる。
でも、案山子やポタ公は体験者じゃ無い。
でおーは論外。
見性は言うまでもなく三昧の経験さえないだろ。
話にならん。
とにかく坐禅しろ坐禅! >>412
アホw
呆れてるんだよ。
坐禅しろ坐禅! >>411
いいか?
自慢したい煩悩を説法に使うんだよ、法を説く知恵に変えて語るんだよ
煩悩を絶つとは転換させる事なんだよ、生きてるうちは煩悩は新たに起こる訳で
それは避けられない、だから人々を誘因する言葉を工夫して語るんだよ
君のはバカの一つ覚えで坐禅しか言ってない、それは一回言えば良いんだよ
で、何で坐禅するのか、坐禅に至らせる誘因の言葉を君が工夫して語らないでどうするの?
それで見性したとかちゃんちゃら可笑しいんだよ
阿羅漢果だけで良いなら2ちゃんで語る資格なしだよ
坐禅は自分の事だろ、人様には法を語れよ
それが菩薩行だろ、阿羅漢で良いなら口出すなよ
人に教えるのも煩悩なんだからな
涅槃智の事は分ったからそろそろ本気出して所知障断絶の智慧を使ったらどうかな?
出来ない知らないは通用せんぞ?見性したら自ずからわかる事なんだからな
如来禅ならな >>413
だから君は坐禅してないだろ
嘘言ってもダメだよ 案山子や?
ヒントをやるよ。
ミミズを真っ二つに切るとしよう、どっちが元のミミズだ?
結局南泉斬猫も同じだよ。
透徹してないから、自己の本性が煩悩だの幽霊だの、無字がどうでもいいとかピヨピヨになるんだよ。
禅語を引用しても然り。
自爆自沈の三毒煩悩カカシ丸、お前の艪で漕げや?
意味わかるか? >>417
お前の自慢に付き合う気は無いよ
>透徹してないから、自己の本性が煩悩だの幽霊だの、無字がどうでもいいとかピヨピヨになるんだよ。
下らない事に拘ってないで、こっちの言ってる事が解ったのかさ
無字に拘ってる時点で全然無理みたいだけど
それでホントに坐禅してるって言えるの?
何で過去の事に拘るの?
坐禅出来てないじゃんそれ >>416
アホw
坐禅もせずに無字を許す老師がどこにいるw
ちゃんと正師に参禅してからそうした口をきけ。 >>419
アホw
無字も分からんで坐禅を語るとかw >>418
自慢は要らないって言ってるでしょ
ここでいくら「俺は無字分かったから」とか連呼したって
何の証明にもならないよ
ってかさ、密室の事をここで書けるとしてるお前はどうかしてるし
今時公案で坐禅やってる寺がそうそうあるとか幻想もいい加減にしてもらいたいよ >>420
お前は僧侶なのか?
一般に公案を出してる寺を言ってみなよ >>421
見性自慢や悟り自慢も一闡提堕地獄なんで宜しく >>423
やっぱり何も知らないんだなw
そんなので知ったか振りして坐禅を騙ってw
恥を知れ、恥をw >>425
お前の寺はどこなのよ
嘘吐きはお前だろ
授戒の文言を書いてみろよ >>426
いいや、坐禅しか言わないお前が増上慢の自慢野郎だよ
無字無字坐禅坐禅、そればっかじゃないか 居士向けに公案出してくれるとこなんざいくらでもあらぁなw
自分でしらべろやw >>428
ほぉ、お前には無字や坐禅の文字列が高慢に見えるのか、妄想だな、それw 居士とか簡単に言うよねぇw
無知ってホントに底無しだ >>431
アホw
居士身の師家もいて公案くれるよw
また知ったか振りだなw カカシや?
坐禅しろ坐禅!
坐禅だよ坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅! どうしたその連投は、嘘がバレて狼狽えてるのかw
お前、居士が何だか分かってないよな
もし、本当に公案透過したなら、お前自身が居士な筈だろ
ならどうして授戒文が書けねえのよ、ん? >>438
アホw
また知ったか振りだなw
相見香ならともかく、公案もらうのに授戒文とか、何処の新興宗教だよw 因みに俺は臨済宗じゃないから、公案透過の必要は無いのよ
無字はムー、これで十分、言えるのはこれだけ
>>439
誰が公案貰うためって言った?
何、授戒してないってそれ、坐禅会に出ただけって事じゃん
流石趣味禅だよねぇww
道楽禅は言う事が違うねw >>441
アホw
話の流れで突然授戒の話を持ち出したのはお前だろがw
話を飛躍させるな。
授戒文なw
結婚式の時に一応やってたかもなw >>443
もういいや
インチキなのは分ったから、話しかけるなよ >>445
お、自爆自沈の三毒煩悩カカシ丸、オチかw >>441
>無字はムー、これで十分、言えるのはこれだけ
駄目だなw ちなみに結婚式は曹洞宗の宗務総庁のあるとこなw
勿論仏式www. インチキの御託はもう言うなよ
授戒と受戒の違いを指摘出来なかったお前はインチキなんだからさ
チャンスやったのにバカな奴だw
戒も受けないで坐禅坐禅とか、ポッタンと変わんないよ >>448
仏式の結婚式って新郎新婦は
棺桶に入って坊主の御経を聞
いているのかな?σ(^_^;) >>449
アホw
普通は授戒して仏教徒になってから仏式で結婚式を挙げるんだがw
また知ったか振りだなw 珍妙な無師独覚論をかざすくせに授戒とかの形式には拘り頼るんだなw
自灯明とか言ってるのになw >>451
式が終わったら霊柩車に
乗せられて地獄巡りの新婚
旅行に旅立つんですか? >>453
厳かでなかなか良かったよ。
旅行はスリランカの仏跡巡りw
仏歯寺で長老とかという方に会った。
場所が変わると仏教も変わるんだなと。 カカシの言う事は論理破綻してるか稚拙なの。
>>361を見ての通りだよ。
何の脈絡も無しに「おさらい」とか、一体誰と対話していたんだよw
「「自己の本性とは空性である」は誤り」とか仏説じゃないだろうが。 >仏教の畢竟は「自己と呼べる根拠はどこにも無い」
>のであり、ほんの少しでも、たとえ仮にでも
>自己を定義したがるのは煩悩障の現れなのであり、
>仏教の見解としては誤りとなる
と自分が定義しているしw
また、「自己と呼べる根拠はどこにも無い」と観ずるのは定義付けか?
ありのままに見た事を他人に伝えるため表現するのは定義付けか? カカシは自分が何を言ってるのか全く認識していないのではないか?
「「自己の本性とは空性である」は誤り」と言いなが数行後には「自己と呼べる根拠はどこにも無い」とも言っている。
こいつも施設入所者か? 質問者 誰が世界の絵を描いたのでしょう?
マハラジ 画家は絵の中にいる。
質問者 あなたはどのように世界を見ているのでしょうか?
マハラジ 私は画家が絵を描いているのを見ている。
その絵を私は世界と呼び、画家を神と呼ぶ。私はそのどちらでもない。
私は創造しないし、創造されたものでもない。
私はすべてを含み、私を含むことのできるものは何もないのだ。
画家は欲望で世界を描くのか?
神の正体を知るものは目覚めた人だけなのでしょうか…。 質問者 夢は考えることによって起こるのでしょうか。
マハラジ すべては観念の戯れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
質問者 私の意志で、ではないのでしょうか?
マハラジ またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。 意不足生涯者の私が下記映しても実行は泣く世界は白いキャンバスに精神統一して凝念如雨露三昧でアートなんだろうけど現代
は色々たこ足配線の時代で皆落ち着く心も無くビルの間でさまでぃまで彷徨っている野鴨。今日も煩悩に急がされ下記混んだ。
全体性・部分・輝き 宇宙意識より 何とか三昧? 夢中の説明化 絵や音楽や詞や芸術?自然の風景?坐禅や名僧の中?仏仏?
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにあります
それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺めて、
創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それはもは
や、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外にある
ものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブの言
葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。(続く ガンバつて貼ろう今ワーク中なんだけど寂しい私でも相手してくれる人が居るから?
(続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。(続く) (続き)〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。こ
れはイタリアの生理学者ルイジ・ガルヴァーニがシェリーのものに劣らず美しい言葉で心の魅惑とよんだ心臓の状態に、非常に近
い霊的状態なんだ。」まさにこれひそが芸術の存在理由であり、その治癒力と奇跡を説明するものなのです。つまり認識された美
がこのような諸感覚を照明し、精神を鎮め、心を魅惑する力をもつということです。(続く) (続き)「芸術は自然と相似した偉大な線を浮かび上がらせるという言葉を自分の座右の格言の一つとして挙げていたことを
思い出します。周知のとおり、自然は私たちの外部にあると同時にに、私たちの内部にもあるからです。芸術はこの両者の境界に
ある鏡なのです。儀式もそして神話も同じであって「自然の偉大な線を浮かび上がらせ」、それによって私たち自身の奥底にある
真理、あらゆる存在と共有している真理において回復させるのです。したがつてこのような「本来的な」やりかたで仕事をしてい
る芸術家は、その世紀の真の見者にして予言者であります。彼は生の擁護者です。生の擁護者でありますから、もちろん一人の
革命家です。その時代の社会的仮面を貫いてその背後にあるものに到達するという点において、単にもう一人の不自然な仮面の名
において舗道を血に染める狂信的な理想主義者よりもはるかに根本的な革命家なのです。」(つづく) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています