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975 :老クリスチャン[]:2017/03/10(金) 10:32:03.47 ID:KNbfI7kW
2008年(主日A年) 2月17日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8〜10 マタ 17:1〜9
「福音のために苦しみを忍ぶ」(IIテモ v.8) とは、神の 「計画と恵み」(IIテモ v.9) を宣教することです。
キリスト教的な価値観や道徳という 「わたしたちの行い」(IIテモ v.9) を賞賛することではなくて、救済史が今や救い主キリスト・イエスの出現によって (IIテモ v.10) 完成に近づいていることを、宣べ伝えることです。
人々がキリスト教を、またいわゆる宗教というものの目的を、一人一人の人間や社会にとって “都合の良い”(IIテモ 4:3) 世の中を建設することだと、声高に主張している今の時代にも、
それでもなお神は、教会に “神の国に至る救済史” を宣教する十字架の福音を委ねておられること、それを聖霊によって守ることがお出来になることを(IIテモ 1:12-14)、使徒たちと共に信じることの出来る人は幸いです。
今年の四旬節にあたり、あなたの信仰は、使徒パウロの心に、その後継者テモテの心に共感して、燃えていますか ?
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創 v.3)
救済史の開始を告げるこの言葉は、旧約聖書の冒頭にある原初史を締め括っています。
“聖書の原初史の最後はバベルの塔の物語ではなく、創世記 12:1-3 のアブラハムの召命である。 ・・・・・ 実に原初史と救済史をかすがいでとめることによって、・・・・・ ” とフォン・ラートが述べているように、
旧約聖書で創造は科学的起源の記録としてではなくて、神の救済の業として理解されているのです。
感謝すべきことに “信条” は、明確に “神の国に至る救済史” を今日まで宣言し続けて来ました。
「わたしは信じます。 唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を」 という創造の業への信仰と、
「死者の復活と来世の命を待ち望みます」 という救済史への信仰が、一つの信条の中でその最初と最後に置かれて結びつけられていることを、私たちは深く注目しなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
654 :老クリスチャン[]:2017/03/10(金) 10:33:28.69 ID:KNbfI7kW
2008年(主日A年) 2月17日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8〜10 マタ 17:1〜9
「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」(マタ v.4)
このイエスの変容の物語りの土台が、旧約聖書とユダヤ教から生み出された終末論的主題であることを明らかにしたのは、20世紀の聖書神学の貢献でありました。
ペトロが口にした 「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(マタ v.4) は、明らかに仮庵祭を念頭に置いての言葉です。
仮庵祭はイスラエルの三大祭の一つで、イスラエルのエジプトからの贖いを記念する祭りでしたが(レビ 23:43)、やがて終末的な “主の日” と結びついて語られるようになります(ゼカ 14:16)。
神の国の到来を予告する者であるイエスが、この場面では大祭司なるメシアとして光り輝いて、三人の弟子は神の国の夜明けを目撃しました。
それは一瞬の出来事でしたが、「わたしたちがここにいるのは、素晴らしいこと」 である救いの完成の日の予兆でありました。
「これに聞け」(マタ v.5) という雲の中からの声を、今朝私たち教会は聞き取らなければなりません。
福音書はイエスの死と復活から “聞く” ことを、福音とは “十字架の言葉”(Iコリ 1:18) であって、イデオロギーや哲学ではなくて “神の秘められた計画” であることを理解するために “聞く” ことを、呼びかけているのです。
救済史の目標である神の国を信じないで、まるでただの作り話のように考える人々は、いつの時代の教会にも存在するものです。
新約聖書が成立した時代にもすでに、使徒たちはそれに反論して福音を語らねばなりませんでした(IIペト 1:16)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より それでもなお神は、教会に “神の国に至る救済史” を宣教する十字架の福音を委ねておられること、
それを聖霊によって守ることがお出来になることを(IIテモ 1:12-14)、使徒たちと共に信じることの出来る人は幸いです。 / | __ /__ 〃 ― / / /  ̄/
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 ̄ ̄ ̄ oO ̄ ̄ ̄ ̄ 2005年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
当初ユダヤ人に向けて語られたキリストの福音は、教会の誕生後間もなくの頃から異邦人へと伝えられ、初代教会は各地で異邦人をその構成員として受け入れて行きました。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ロマ 1:16)と使徒パウロが後に手紙に書いたように、初代教会の宣教において重視されたのは信仰でありました。
この(マタイ福音書の)テキストの趣旨は明快であって、一人のカナンの女の謙遜でしかも一途な信仰が主に受け入れられたということであり、それが初代教会の福音理解であったということです。
従来のユダヤ人たちに忘れられていた 「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」(マタ v.27)という謙遜な信仰が、ひときわ素晴らしいものとして賞賛されているのが分かります。
このような生き生きとした信仰を、現代のキリスト者も自らのものとするために、再び目覚めなければなりません。
党派的な、教条主義的な、独善的で排他的な傾向の強いキリスト教ではなくて、主キリストとその福音への謙遜で一途な信仰を大切に考えるキリスト教になるために、私たち一人一人が聖書から神のことばを聞くことは21世紀の課題です。
主日のミサで、福音書を朗読するのは通常司祭ですが、その他の朗読は信徒が行います。
当番で奉仕者となる信徒が、よい準備をして、自らそのテキストに心を打たれて朗読するなら、神のことばはより強く会衆に伝わることでしょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
今朝の朗読が ロマ vv.16-28 を省略しているのは、単なるミサの時間配分のためであって、その部分が重要でないという意味ではありません。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。 ・・・・・ 神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」(ロマ 11:22)
福音を正しく理解していない人は、神の慈しみが見出せないような状況に追い詰められると、“神はいるのだろうか” と反抗し始めます。
神が人間を慈しむのは当然であって、人間にとってそれは特権だと考えているからです。
しかし、「もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(同)
さらに、「彼ら(ユダヤ人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。 神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。」(ロマ 11:23)
ですから信仰に入った異邦人は、ユダヤ人に対して誇る何の理由をも持たないことをよく理解する必要があります。
ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、「実に、神は唯一だからです。 この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」(ロマ 3:30)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日A年) 8月17日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、 ・・・・・ 」(ロマ v.15)
現代ユダヤ人哲学者として高名な E.レヴィナス は、旧約聖書に書かれている出エジプトやバビロン捕囚から、近代のヒトラーやスターリン等の迫害に至るユダヤ人の受難を、決して偶発的な災禍とは考えませんでした。
“それはユダヤ人がこの世界で果たすべき民族的な責務ゆえの必然なのである。 ユダヤ人はそのために諸国民の中から選ばれたのである” と言うのです(内田樹の書籍から引用)。
600万ユダヤ人の大虐殺(いわゆるホロコースト)を経て、なお神の民イスラエルの選びと使命を信じる現代ユダヤ人哲学者の声に、私たちキリスト者は襟を正す謙虚さを持つべきでありましょう。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ロマ v.29)
私の個人的な体験から言うと、多くの一般的キリスト者の理解では、この言葉がイスラエル人を指して言っていることにほとんど気付いていないように思えるのです。
その第一の原因は聖書を断片的にしか読んでいないことにありますが、それと並んで聖書を勝手に料理して捻出した(非現実的な)キリスト教的道徳やスローガンが、真の神のことばを排除してまかり通っていることにあります。
E.レヴィナスは彼の著書 “全体性と永遠”(岩波文庫)の冒頭を、“私たちは(いわゆる)道徳によって欺かれてはいないだろうか” と書き始めています。
聡明であるなら、戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ないと言うのです。 “戦争によって道徳はわら(嘲笑)うべきものとなってしまう。”(同)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>654-656
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
∧_,,∧ ∩
(*`∀´)彡 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!
⊂彡 ,,..,,_
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l__ 、、、_ } { _、、、 __.l 老クリスチャン
{l〈 ヽ., --)-(-=- _ノ 〉!}
ヾ|  ̄ノ  ̄ |シ ますますパワーアップ !
l (、{,___,},.) l
l\ `ニ´ /:l
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_ノ '-====-'ヽ
, .-‐- くJ `ー'" ゝ-rr- 、
/Y ,r 、 `ー r'"^〃 、 つヒヽ
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i! ,∠-―-、、 `ー'フヾ、 j
f'´ ノし `丶、 ー=ミ-JE=- /
ヾ=ニ- 彡^ 〃 ,,>、、`''ー-::,,_,,ノ
``ー--┬:, ''"~´フ ソ´`7'' ''"´
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45: 老クリスチャン [] 2015/10/23(金) 14:45:38.65 ID:lFNBxZz9
たいへん暇そうなスレなので、「聖書と信仰」についての私のお話を、ここにも UP してみます。
理解する能力のある方にとっては、真面目に読んでいただければ、きっと実り多いスレになることでしょう。
日本語の文章を、読んで理解する能力に欠ける人 ・・・・・
まともな日本語で Res が書けない人 ・・・・・ も、
2ch にはたくさんいらっしゃるようですが、そういう方々は 「荒らし」 で、ご自分の欲求不満を発散してください。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1422185303/45
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46: 老クリスチャン [] 2015/10/23(金) 14:46:31.47 ID:lFNBxZz9
「聖書と信仰」というテーマは、キリスト教について、しかもそれを自らクリスチャンであるという立場と責任において語ろうとするとき、十分に正当なテーマだと思います。
しかし、私がそこで救いを受けて歩んでいる「キリスト教」は、決して「書物の宗教」ではありません。
そうではなくて、神がキリストによって語ってくださった「出来事としての福音」による宗教なのです。
従来、ユダヤ教の律法主義と対比させて、キリストへの、あるいはキリストの福音への信仰を強調することは、特にプロテスタントの特徴であり、常識でありました。
ところが実際には、教会の現場での通俗的な理解では、聖書という書物が律法主義的に読まれ解釈されて、あたかも道徳の教科書、あるいは人間の行為の正邪を判定する(過去の裁判の)判例集ででもあるかのように扱われて来ました。
いったい私たちの信仰にとって、「聖書」とはどういうものなのか ? 少し考えてみたいと思います。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1422185303/46
☆○o。 。o○☆老クリスチャン万歳*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
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E.レヴィナスの書名か論文名を書かないと。
「戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ない」
戦争のない平和な世界に近づけるために、対話を通して努めている、ということでしょう。
聖書を都合よく用いて、 E.レヴィナスとあなたの見解だけから短絡的に結論を導かないで
ください。 もっと謙虚にならないと。 >>664
> >>656 酷い引用の仕方です。 「 ・・・と言うのです(内田樹の書籍から引用) 」
> E.レヴィナスの書名か論文名を書かないと。
> 「戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ない」
> 戦争のない平和な世界に近づけるために、対話を通して努めている、ということでしょう。
> 聖書を都合よく用いて、 E.レヴィナスとあなたの見解だけから短絡的に結論を導かないで
> ください。 もっと謙虚にならないと。
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288 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 12:35:02.55 ID:pTK1p7HU
2010年(主日C年) 7月4日 年間第14主日
イザ 66:10〜14 ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(ガラ v.14)
私たち信者が "キリストを誇る" と言うとき、それは "私はキリストと共に死に、今はキリストと共に生きている" ということです(ガラ 2:19-20、ロマ 6:3-11、コロ 2:12)。
決して自分の善行や知識を誇ることではありません(ロマ 3:27、Iコリ 1:29)。
そしてそうであれば当然、私もキリストの十字架の福音を宣べ伝えて歩んで来たということを、誇ることが出来ます(ロマ 15:17-19、IIコリ 10:12-18)。
私たち信者は、この点でいささかも聖職位階にある人々よりも、自分は責任が軽いなどと思ってはなりません。
それで教会憲章 30 は、 「神の民について言われたすべてのことは、信徒、修道者、聖職者に平等に向けられている」 と述べているのです。
「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び踊れ、彼女を愛するすべての人よ。」(イザ v.10)
キリスト者とは、天のエルサレムを待望し、愛する人々です(エフェ 1:18-23、黙 21:1-8)。
この希望を理解しない人は、聖書を読んでも何も得ることが出来ないし、カトリック教会のミサや秘跡にあずかっても "神からの慰め"(イザ vv.11,13) を受けることが出来ません。
この 「聖書の学び」 が、「主の羊たちが御言葉によって命を受けるため」(ヨハ 10:10) の、
またイエス・キリストが罪と死と悪魔の支配からの救いをもって、「すべての町や村を」(ルカ 10:1) 訪れてくださるための、それに先立つささやかな奉仕となりますように。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
307 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 12:40:38.70 ID:pTK1p7HU
2013年(主日C年) 7月7日 年間第14主日
イザ 66:10〜14c ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20
「"神の国はあなたがたに近づいた" と言いなさい。」(ルカ v.9)
新約聖書がその読者に、「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1:15)、「悔い改め、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使 2:38)、「主イエスを信じなさい」(使 16:31) という使信を伝えるとき、
それはすべて "神の国は近づいた" ということを前提にした宣教なのだということを、よく理解する必要があります。
教会憲章は次のように述べています。
「キリストは ・ ・ ・ 地上に天の国を開始し ・ ・ ・ た。 教会、すなわち秘義としてすでに現存するキリストの国は、神の力によって、世界において可見的に成長する。」(3)
「それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。」(2)
「教会は、神の国の地上における芽生えと開始となっている。 教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。」(5)
真面目で教養あるキリスト者は、現代の司教や司祭の説教がほとんど全く "神の国は近づいた" という使信を伝えていないことを、前向きに批判すべきではないでしょうか。
率直に言って、私たちのミサの説教によって 「サタンが稲妻のように天から落ちるのを」、天上のイエスが見ておられるだろうかと、はなはだ疑問に思えるからです。
そのような司教や司祭を生み出したのは、他ならぬ私たちの共同体であることを思い起こして、真剣に主のあわれみと助けを願おうではありませんか。
私たち現代の信者一人一人こそが、"悔い改めて福音を信じ" るようにと、今朝呼びかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
128 :老クリスチャン[sage]:2016/07/02(土) 12:42:35.55 ID:pTK1p7HU
2013年(主日C年) 7月7日 年間第14主日
イザ 66:10〜14c ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20
「"神の国はあなたがたに近づいた" と言いなさい。」(ルカ v.9)
新約聖書が語っている宣教とは、イエス・キリストの死と復活によって開始され、今やその完成の日が近づいている "終末的な神の支配" を宣べ伝えることであります。
9章にある 12人の派遣の話に加えて、ルカ福音書はここで 72人の派遣を述べていますが、その目的は同じであって、"神の国は近づいた" という使信を広く伝えることでありました。
新約聖書によれば、宣教とは、終末的な神の国を 「前もって味わい、これに参加する」(典礼憲章 8) ための行為であって、ミサはキリストの血による新しい契約の記念 (Iコリ 11:25) であります。
それ故、この宣教を受け入れない町は、神の裁きを逃れることは出来ないと知らなければなりません(ルカ v.11)。
今朝の朗読配分からは、この裁きを語る部分が省略されていますが(ルカ 10:13-16、イザ 66:14d)、さらに深く学ぶ意欲のある人は心に留めるべき部分でしょう。
それよりもむしろ、真面目で教養あるキリスト者は、現代の司教や司祭の説教がほとんど全く "神の国は近づいた" という使信を伝えていないことを、前向きに批判すべきではないでしょうか。
率直に言って、私たちのミサの説教によって 「サタンが稲妻のように天から落ちるのを」、天上のイエスが見ておられるだろうかと、はなはだ疑問に思えるからです。
そのような司教や司祭を生み出したのは、他ならぬ私たちの共同体であることを思い起こして、真剣に主のあわれみと助けを願おうではありませんか。
私たち現代の信者一人一人こそが、"悔い改めて福音を信じ" るようにと、今朝呼びかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
427 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 12:43:53.86 ID:pTK1p7HU
2010年(主日C年) 7月4日 年間第14主日
イザ 66:10〜14 ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20
1.ルカ
我が国の現在の翻訳聖書では、福音書の中の段落毎に、他の福音書に共通箇所がある場合にはそれが示されています。
今朝の福音書の朗読部分にそれが欠けているのは、これがルカ特殊資料と呼ばれるものだからです。
この部分はおおむね マタ 9:37-38, 10:7-15 と共通していて、ルカは同じ資料を使ってこの物語りを書いたと推測されます。
私たちは、イエスの語録や御業に関する伝承がいくつもの段階を経てその材料として採用された、いわば "出来上がった福音書" を読んでいるのです。
そういう意味での、そのあるがままの聖書から、神が現在の私たちに何を語っておられるのかを聞くという姿勢が、主の羊である私たちには大切なのです。
イエスは御自分が自ら進み行くのに先立って、72人を派遣されました(ルカ v.1)。
彼らの使命は、ルカ 9:2 にもある通り、"その町の病人をいやし、神の国はあなたがたに近づいたと宣べ伝える" ことでありました(ルカ v.9)。
恐らくルカ福音書はここで、キリストの福音が当時の地中海世界にくまなく伝えられて行った使徒たちの宣教を、念頭に置いていたことでしょう。
神の国を宣べ伝えることと、キリストの福音を宣教することは一つでありますから、これを切り離したり、一方を除外して他方のみを語ることは出来ません。
キリストの福音は、私たちを罪と死と悪魔の支配から救う神の力ですから、使徒たちの宣教には病人を悪霊から解放するいやしが伴いました。
しかし、イエスは言われました。
「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ v.20)
"信じる者すべてに救いをもたらす神の力"(ロマ 1:16) である福音が、確かに宣教されているということがなければ、教会のどのような慈善も愛の奉仕も、それだけでは "神の国を宣べ伝えている" ことにはなりません。
"その名が天に書き記されている人々"(ダニ 12:1) の意味を、真剣に考えるようにしましょう。 >そのような司教や司祭を生み出したのは、他ならぬ私たちの共同体であることを思い起こして、
>真剣に主のあわれみと助けを願おうではありませんか。
>私たち現代の信者一人一人こそが、"悔い改めて福音を信じ" るようにと、今朝呼びかけられているのです。
395 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 12:44:47.16 ID:pTK1p7HU
2013年(主日C年) 7月7日 年間第14主日
イザ 66:10〜14c ガラ 6:14〜18 ルカ 10:1-12,17-20
今朝の朗読聖書によれば、イザ v.14 が一部を省略されて次のようになっています。
「主の御手は僕たちと共にあることが、こうして示される。」
第三イザヤと呼ばれるイザ 56-66章 の特色は、救済預言と審判預言とが相互に絡んで混在していることです。
捕囚から帰還した民の困窮と失望が、神の都を再建される神への希望の使信と共に語られる中で、預言者は歴史の両面としての救済と審判を同時に告知しました。
カトリック教会が、ミサの朗読配分によって、救済預言である "神の国の福音" を伝えようとしているのは、復活の主による宣教命令 (マコ 16:15-16) に応えるためであることを、感謝のうちに理解しましょう。
「大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラ v.15)
これは、ガラテヤの信徒への手紙全体の結論であって、"神の国の福音" を受け入れる人にとっての中心主題であります。
どうか、このテキストだけを切り離して、自己流に解釈しないでください。
今朝の朗読部分は、ガラテヤの信徒への手紙全体を十分に咀嚼して初めて納得出来る箇所なのです。
そして、その理解を補う別の表現を、私たちは同じ使徒パウロの書いた IIコリ 5:17-21 でも見出します。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、 ・・・・・」
「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、 ・・・・・」
「わたしたちは ・ ・ ・ キリストに代わってお願いします。 神と和解させていただきなさい。」
私たちのミサの中で、司祭の語る説教がいつもこのような説教となるように、祈ろうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
604 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 13:21:44.35 ID:pTK1p7HU
>>592 まちこさんが正しい信仰のあり方をしている代表格であり
その中心にいるといった、とんでもない ・・・・・ 態度であるから、
お久しぶりです。
私は以前にも書きましたが、私とまちこさんとでは、いろいろ違った面もありますが、でも ・・・・・
彼女の信仰は、生きている! 本物です!
パウロが次のように言ったとき、それは傲慢だったのでしょうか?
「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリ 3:15)
605 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 13:22:16.16 ID:pTK1p7HU
いろんな傾向の 「信仰理解」 はあり得ますが、
私は 「正しい信仰のあり方をしている代表格」 の一人であると主張出来ないような信仰は、本物ではありません。
「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(フィリ 3:16)
355 :老クリスチャン[]:2016/07/02(土) 13:27:16.06 ID:pTK1p7HU
>>354
あなたの頭の中にナイだけの話。
大学は、文系だった?
数学は、学んだことがない? >あなたの頭の中にナイだけの話。
>大学は、文系だった?
>数学は、学んだことがない? >>656 酷い引用の仕方です。 「 ・・・と言うのです(内田樹の書籍から引用) 」
E.レヴィナスの書名か論文名を書かないと。
「戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ない」
戦争のない平和な世界に近づけるために、対話を通して努めている、ということでしょう。
聖書を都合よく用いて、 E.レヴィナスとあなたの見解だけ書いて短絡的に結論を導かないで
ください。 もっと謙虚にならないと。
「この言葉がイスラエル人を指して言っていることにほとんど気付いていないように思えるのです。 」
28 節から続けて読んだだけでも、イスラエル人を指していることはわかると思いますが。 >>682
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校長 廣岡政幸
> ご自身が在日韓国人であることを隠すことなくはっきりと明言されました
> 嘘だと思われるのでしたら廣岡政幸さんにお会いする機会があったときに伺ってみると良いです
815 :名無し専門学校:2017/04/23(日) 15:41:19.44
ネットの廣岡信者の主張を見ると、確かに無職/ニート/ひきこもり(ネトウヨ)
に対する、強い憎しみがあるみたい。言葉では更正を願ってるようだけど、
子供を入れたらいじめで殺されそう。
> 773 :名無し専門学校:2017/04/09(日) 12:54:01.39
> > 602 :名無し専門学校:2017/02/04(土) 05:45:15.08
> > ネトウヨ=無職・ニート・ひきこもり=社会悪
> > だから俺達は悪くない
> > みたいな論理破綻した在日論はよくネットで見かけるけど・・・
>
> その在日の妄想を正当化するための広告塔として
> 祭り上げられたピエロが廣岡政幸 342神も仏も名無しさん2017/08/22(火) 02:32:45.42ID:/hDSI8ze
吹田市吹東町在住の元食口
●國会と光●社に狙われてる小●浩=みっくtet999=薮下●文=東北大ち●ち●野郎
ネカマトンスルおじさんは
返す返すもハードボイルドなプロフィールだったわ ヤーウェは仏教や東洋の術のことを「それらの術は我々の?何千年と進んだ科学を下ろしてるに
すぎない」といっておきながら東洋の術に弱く何回も東洋の悪霊の術にひっかかりだまされ正しく
正常に物事とりかえそうとしてる人の邪魔をしてくる。
キリスト及びキリスト教も同じだ。「取り返したげるからね」とまでいっておきながら
東洋の悪霊の術にだまされ?正常に物事取り返そうとしている人の邪魔をしてくる。
だから、今はKSAの神仏しか信用できない。 >>682
> >>656 酷い引用の仕方です。 「 ・・・と言うのです(内田樹の書籍から引用) 」
> E.レヴィナスの書名か論文名を書かないと。
> 「戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ない」
> 戦争のない平和な世界に近づけるために、対話を通して努めている、ということでしょう。
> 聖書を都合よく用いて、 E.レヴィナスとあなたの見解だけ書いて短絡的に結論を導かないで
> ください。 もっと謙虚にならないと。
>
> 「この言葉がイスラエル人を指して言っていることにほとんど気付いていないように思えるのです。 」
> 28 節から続けて読んだだけでも、イスラエル人を指していることはわかると思いますが。 2005年(主日A年) 8月21日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタ vv.18-19)
マタイ福音書が教会におけるペトロの比類のない権威を伝えたこの言葉は、初代教会の信仰を証言する重要なテキストです。
教会とは他のどの個人の信仰よりも、ペトロの信仰の上に建てられたのだという歴史上の事実を象徴的に表現するものとして、このテキストは現代の私たちにとっても重要なものです。
私たちが知っている通俗的主張の多くは、ペトロやパウロという使徒たちによる証言を相対化して、現代人が現代的感覚で独自にキリストと父なる神を再発見することが出来るという、新しいキリスト教、新しい福音を提唱するものでした。
人々から権威を認められているようなキリスト教会の有力者が、現代的な正しい教えによって会衆を養っているのだから、信者は今さら過去の使徒たちにさかのぼって学ぶ必要はないと、多くの人が考えて来ました。
二つのことを、ここで述べなければなりません。
先ず、カトリック教会の司教たちは使徒の後継者、その中でローマ教皇は使徒ペトロの後継者であり、司祭は司教に従属してその任務に共に与って、教導職として教会に仕えているということです。
彼らは使徒の後継者であって、新しい使徒ではありません。
教会憲章が 「ただし、彼らは信仰の神的遺産に属するような新しい公の啓示を受けない」(25)と述べているのはそのためです。
神の啓示に関する教義憲章も 「この教導職は神のことばの上にあるものではなく、むしろこれに奉仕し、(使徒たちから)伝えられたことだけを教えるのである」(10) と明言しています。 (つづき)
第二に、私たちが使徒たちの証言をそこから聞くのは聖伝と聖書からであるということです。
使徒たちがいなかったら、その後継者もいなかったし、聖伝と聖書も存在しなかったことでしょう。
イエス・キリストについて私たちが知っていることは、すべて使徒に起源しているのです。
私たちは聖書を通してペトロの証言に出会うことが出来ます。
しかしペトロと知り合いになろうとして(ガラ 1:18)エルサレムに上ることは出来ないし、ローマ教皇といえども彼はペトロ自身ではありません。
このように、聖伝と聖書という教会への委託物を軽んじて、別のところで現代人が直接にキリストとその福音を再発見出来るなどと考えてはなりません。
使徒ペトロは、歴史の教会と受肉された神の子イエスとの連続性を保証する者として、聖伝と聖書を通して今も生きており、岩、つまり教会の土台であり続けているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 人間なは啓示無くしても人間自身が本来持っていてそして啓示の中で言わば甦っている「啓示能力」または「言語能力」または「呼びかけられうる能力」というものがあります♪ 『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>690-691.
老クリスチャン氏 勢い落ちる 2レスで終了
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690 :老クリスチャン[] :2017/08/23(水) 11:09:25.52 ID:AL0eweX7
2005年(主日A年) 8月21日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタ vv.18-19)
マタイ福音書が教会におけるペトロの比類のない権威を伝えたこの言葉は、初代教会の信仰を証言する重要なテキストです。
教会とは他のどの個人の信仰よりも、ペトロの信仰の上に建てられたのだという歴史上の事実を象徴的に表現するものとして、このテキストは現代の私たちにとっても重要なものです。
私たちが知っている通俗的主張の多くは、ペトロやパウロという使徒たちによる証言を相対化して、現代人が現代的感覚で独自にキリストと父なる神を再発見することが出来るという、新しいキリスト教、新しい福音を提唱するものでした。
人々から権威を認められているようなキリスト教会の有力者が、現代的な正しい教えによって会衆を養っているのだから、信者は今さら過去の使徒たちにさかのぼって学ぶ必要はないと、多くの人が考えて来ました。
二つのことを、ここで述べなければなりません。
先ず、カトリック教会の司教たちは使徒の後継者、その中でローマ教皇は使徒ペトロの後継者であり、司祭は司教に従属してその任務に共に与って、教導職として教会に仕えているということです。
彼らは使徒の後継者であって、新しい使徒ではありません。
教会憲章が 「ただし、彼らは信仰の神的遺産に属するような新しい公の啓示を受けない」(25)と述べているのはそのためです。
神の啓示に関する教義憲章も 「この教導職は神のことばの上にあるものではなく、むしろこれに奉仕し、(使徒たちから)伝えられたことだけを教えるのである」(10) と明言しています。
691 :老クリスチャン[] :2017/08/23(水) 11:09:56.49 ID:AL0eweX7
(つづき)
第二に、私たちが使徒たちの証言をそこから聞くのは聖伝と聖書からであるということです。
使徒たちがいなかったら、その後継者もいなかったし、聖伝と聖書も存在しなかったことでしょう。
イエス・キリストについて私たちが知っていることは、すべて使徒に起源しているのです。
私たちは聖書を通してペトロの証言に出会うことが出来ます。
しかしペトロと知り合いになろうとして(ガラ 1:18)エルサレムに上ることは出来ないし、ローマ教皇といえども彼はペトロ自身ではありません。
このように、聖伝と聖書という教会への委託物を軽んじて、別のところで現代人が直接にキリストとその福音を再発見出来るなどと考えてはなりません。
使徒ペトロは、歴史の教会と受肉された神の子イエスとの連続性を保証する者として、聖伝と聖書を通して今も生きており、岩、つまり教会の土台であり続けているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ァ / ¨>、 ァ,、
,、'` 厶/wwゝ ,、'` しばらくお待ちください。
'` ノリ ^ヮ^ ハ ァ / ¨>、 ァ,、
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'` ノリ ^ヮ^ ハ ァ / ¨>、 ァ,、
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'` ノリ ^ヮ^ ハ 2002年(主日A年) 8月25日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
使徒ペトロはその名を主イエスから与えられました。
ギリシア語で “岩” を意味するこの名は、使徒たちの中で特に彼に主がお与えになった重要な役割りを意味するものでした。
教会はペトロの上に建てられているのだということの意味を考えることは、単に聖職位階に属する人々だけではなくて、私たち信者会衆にとってもまた有益なことです。
私たちが現在使用しているミサ典礼書では、感謝の典礼の中の “拝領前の信仰告白” のところで、司祭の 「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」 という呼びかけに応えて、会衆は使徒ペトロの言葉を借りてその信仰を告白します。
「主よ、あなたは神の子キリスト(マタ v.16)、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう(ヨハ 6:68)。」
このように私たち会衆は、ミサの中で御聖体を拝領するごとに、主がペトロの上に教会をお建てになっていることを覚えるのです。
「わたしはなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタ v.19)
使徒ペトロは他の使徒たちと共に、しかもその中の第一の使徒として、今日に至るまで教会の土台であり続けています。
どのような時代にも、教会は人間の知恵や時代の思想などによってではなくて、神から出た土台によって保たれて来たのだということを理解しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 聖霊論的出発は人間となることの成しうる新しい強調の可能性よ♪👰 >>703
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イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
キリストの福音は、世々にわたって隠されていた “秘められた計画” を啓示するものです(ロマ 16:25、エフェ 1:9, 3:3-9 他)。
十字架の福音はこの “秘められた計画” を宣べ伝えるものである(Iコリ 2:1-2)ことを、使徒たちは明確に語りました。
そのことを前提にして初めて、私たちは使徒パウロのこの言葉を正しく理解出来ます。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ロマ v.36)
私たちはイザヤ書のこの部分で取り上げられている件について、具体的な事情を何も知りません。
ただここで確かなことは、神がシェブナを捨ててエルヤキムを 「エルサレムの住民とユダの家の父」 とし、彼に 「ダビデの家の鍵を置く」 と、イザヤが預言したということです。
神の民イスラエルの歴史を、ヤーウェの救済史として見るとき、それは神の “秘められた計画” の歴史であることを知ることが出来ます。
歴史の支配者は人間ではなくて神であることを、私たちは聖書から学ぶのです。
そのように、“秘められた計画” に与る教会は、「使徒たちや預言者という土台の上に建てられています。 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」(エフェ 2:20)ます。
教会は、聖伝と聖書を通して今も生きている岩(ペトロ)によるキリスト証言を土台として、これからも立ち続けて行くのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 8月24日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
シェブナという王家の家令は、宮廷を支配する栄誉をひととき与えられていたものと思われます(イザ 22:15 参照)。
このような職務、このような地位には、いつもイスラエルへの神の救済の約束が結びついていました。
彼に与えられていたほとんどメシア的な全権が、彼から取り上げられて、ヒルキヤの子エルヤキムに委譲されます。
「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く」(イザ v.22)と主なる神は言われました。
しかし、やがて彼も挫折するときが来ます(イザ 36章)。
旧約聖書では、神の救済行為が、多くのカリスマ的指導者や偉大な職位者たちの召命と挫折の繰り返しによって、常にまた新しい目的地に向かっています。
それらの挫折の物語りにおいて、それに結びついていた神の約束は完了せずに残されました。
「かくして “ダビデの鍵” の職位は意外にも、キリストの足元に置かれるまで、そのまま残るのである(黙 3:7)。」(フォン・ラート/旧約聖書神学II p.506)
マタ 16:19 に言及されている “天の国の鍵” は、最終的には救済史をその完成へと導かれるイスラエルの神のものであることを、歴史の教会は忘れてはなりません。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように。」(ロマ 11:36)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>711-712
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'` ノリ ^ヮ^ ハ >>711-712
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,、'` 厶/wwゝ ,、'` 老クリスチャン氏 本日のみことば
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\〃 / しばらくお待ちください。 2014年(主日A年) 8月24日 年間第21主日
イザ 22:19〜23 ロマ 11:33〜36 マタ 16:13〜20
「あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタ v.18)
使徒ペトロは、教会がその上に建つ岩としてイエスによって選ばれました。
主イエスは、かつての古きイスラエルに代わる新しい神の民として、この岩の上に御自分の教会を建てることを約束されました。
神の選びというものを新約聖書がどのように理解しているかを、私たちはここで明確に知るのです。
主イエスはペトロを、彼自身以上によくご存じであり、試練の日に彼が主を裏切ることを前もって知っておられました。
“だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。”(ルカ 22:32)
古きイスラエルの選びと同様に、ペトロの選びは秘義(μυστήριον)でありました。
彼が初代教会における最初の司教であった記憶が、ヨハ 21:15-17 には残されているように思われます。 (つづき)
しかし私たちは、“イエス・キリストが教会を建てる” と言われた言葉を、“キリスト教主義者の集団を育てる” というような意味での宗教活動として理解してはなりません。
イエスはキリスト教の開祖というような存在ではなくて、教会そのもの(Iコリ 12:27)、各自が洗礼によってその部分とされた一つの体の頭です(ロマ 12:5、エフェ 1:22)。
この “建てる”(οἰκοδομήσω)というギリシア語は未来形なので、口語訳では直訳して “わたしの教会を建てよう” となっていました。
つまり歴史の教会は、キリストの死と復活の後になって初めて、聖霊が降って誕生したのであり(使 2:14-42 参照)、その仲間(信者たち)は、イエスの取り巻き連中やファンではなくて、新しく生まれた者であるからです(ヨハ 3:3、IIコリ 5:16-17)。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタ v.17)
秘義(μυστήριον)という言葉がわざわざ使われていない場合でも、信仰の神秘は父が現してくださるものであり、それは知らされた後にもなお “秘められたもの” であり続ける秘義です。
そして教会の宣教の第一の主題は、現代においても、キリストの人格の秘義(マタ v.13)、天の国の秘密(マタ 13:11)、神の救いの “秘められた計画”(エフェ 1:9)であって、決して人間の優れた言葉や知恵ではありません(Iコリ 2:1)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>724-725
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| 〆ヽ/ >>724-725
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ なぜか、カトリック信徒のみなさんが正式なカトリックスレッドという
コンセンサスをなんとなくもっていた以下のスレッドが削除されたみたいですね。
十十十 カトリック250 十十十
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1491417518/
そして、
カトリック信徒の投稿はほとんどゼロの、このスレッドが残ってしまいました。
ザンクト・ガレンさんの音楽関係の投稿もまったくありません。
砂漠に老ヘビだけが棲息するスレッドが残ったのは残念です。
十十十 カトリック250 十十十が、850投稿で削除されるというのは
異例のことであり、
だれかが削除要請を出したと思われます。 クルリンパ!( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
By ダチョウ倶楽部 >>728 Thread の容量がその上限に達した事が原因ではないでしょうか? >>730
そういうこともあるのですね。
ということは「老クリの長文マルチコピペ=荒らし」が原因ということ
ではないですか。
とうとう実害が発生したということですよ。 カトリック関係のスレッド全体から、
信徒さんがほとんどいなくなってしまいましたからね。
老クリさんは未だに
「電車の中で足踏みしたり、手振りしたりする老害のお爺さん」
であることを自覚してくれません。
早く回心して欲しいものです。
しかし、何十年も飼い慣らしてきた独善と傲慢の軍団(レギオン)は
なかなか出てかないでしょうな。
それらが出て行くときには引きつけを起こして命が危ないような気がします。 >>728
> 砂漠に老ヘビだけが棲息するスレッドが残ったのは残念で
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`' 二ゝ .\ l l >>728 AD SUM!^^
HEBDOMADA VIGESIMA PRIMA 年間第廿一の主日
IN.T入祭唱 第一旋法
[Ps.86(85),1a.2b.3.-4 〜詩編86(85)編]
Inclina,* Domine,aurem tuam ad me,et exaudi me:
主よ、我に 御耳を傾け給え、我を 聞き入れ給え。
salvum fac servum tuum, Deus meus sperantem in te.
御身の僕を 助け給え、我が神 御身に依り頼み奉りし者なればなり。
miserere mihi,,Domine,quoniam ad te clamavi tota die.
我等を 憐み給え 、ひねもす御身に叫び奉ればなり。
Ps.Laetifica animam servi tui:
― 喜ばしめ給え、御身が僕なる魂を。
quoniam ad te,Domine,animam meam levavi.
御身に、主よ、 我が魂を捧げ奉ればなり。^^♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=7_8XNYvZGaM
GR.X 昇階唱 第五旋法
[Ps.92(91),2 .-V.3 〜詩編92(91)編2.-頌句3]
Bonum est *confideri Domino:et psallere nomini tuo,Altissime.
げによきかな 主を祝ぎ奉るは。而して いと高き御者の 御名を誉め奉るは。
V.Ad annuntiandum mane misericordiam tuam,et veritatem tuam per noctem.
[頌句]朝まだきより 御身が慈みを、 夜もすがら 御身がまゝこゝとゝを 知らしめ奉る。^^♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=giF-9song0s ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています