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2011年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜24,27a マタ 20:1〜16
「主人はその一人に答えた。 “友よ、あなたに不当なことはしていない。 あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 ・・・・・ ” 」(マタ v.13)
父親から小遣いを分けてもらった子供たちが文句を言って、“お父さんはいつも末の弟には甘いんだから ・・・・・ ” と抗議する場面を想像してみましょう。
こんな不公平を体験したり、聞いたことがあるでしょう。
ところが人間は一人前の大人になって、取引や交渉などということが理解出来るようになっても、不思議なことに自分の損得に関わるような場面では、相変わらず幼児的な発想から “不公平だ” “不当だ” と言ってしまうものなのです。
この譬え話の主人が不当なことはしていないということは理解出来るのですが、それでも何となくやっぱり不公平感を感じてしまうというのが、普通の人間のありのままの姿です。
つまり人は聖書を読んでも、ただそれだけではダメで(ヤコ 1:23-24 参照)、そこからキリストの福音を聞き取って、信仰に目覚めてこそ初めて、神をほめたたえることが出来るのです。 (つづき)
神の義は、罪によって全く無益な者になっているイスラエルを、“御自身のために” 救うという、あの第二イザヤの福音(イザ 44:24-25)を、キリストは実現されました。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
それは “最後に雇われて、一時間しか働かなかった労働者” だけではなくて、“最初に雇われて、まる一日、暑い中を辛抱して働いた人たち” にとっても同じ神の恵みであることを、理解する信仰を要求します。
1999年に、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会によって、“義認の教理に関する共同宣言” が調印され、その5年後に日本福音ルーテル教会と日本カトリック教会の協力によって、日本語共同訳が出版されました。
そこで確認されたことは、「人間はその救いのために神の救いの恵みに全く依存する」 という一点です(本文 19)。
日本カトリック司教協議会会長の野村純一司教による推薦の辞には、特に 「まさに罪人でありながらも主に愛され義としていただいた者として ・・・・・ 」 という神学的表現が用いられています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より /|\
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>836
2017/09/23(土) 12:08:53.59
2017/09/23(土) 12:08:55.14
高橋幸宏の叩くドラムのように正確ですね
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748 :老クリスチャン[] :2017/09/23(土) 12:07:56.80 ID:ZE+n+Tqm
2011年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜24,27a マタ 20:1〜16
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。 呼び求めよ、近くにいますうちに。 ・・・・・ 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザ vv.6-7)
教会がその信者たちに “悔い改める” “回心する” ということを教えて来たことは、だれもが知っています。
しかし、それが “神に立ち帰る” ことであることを、多くの人が知りません。
先月やっと、フランシスコ会訳の 「聖書(合本)」 が発行されて、名実共にカトリックの “原文校訂による聖書” が入手可能になりました。
多くのカトリックの子らが “自分で” “聖書全体にわたって読む” ようになり、すでに耳慣れたこの “回心する” という言葉の本来の意味を、正しく理解するように願わないではいられません。
私のインターネットサイトには、先月初めからその紹介ページを掲載していますが、その中に次のような一文を書いておきました。
「どうか皆さまが、読みもしないで万歳だけを叫ぶ “愚かなカトリックシンパ(党派心による護教家)” になることがありませんように。」
この 「聖書(合本)」 の緒言にある次の言葉は、現代の日本カトリック教会の信者一同への、まさに主の呼びかけに外なりません。
「この聖書が、生活の歩みの中で、日々の祈りの中で、またキリスト者並びにキリストに惹かれる方々の家庭の中で座右の書となり、人々に感銘を与え、その心を動かすことができますよう、研究所一同心から祈るものであります。」
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
ローマカトリック教会20170328
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1490654997/748
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人 >>850 Hgema in Sweden
HAGEMA AB, Bolshedens Industriv 26, 427 50 Billdal, Sweden
ttp://www.hagema.se/hagema.html
Aluminum, copper(銅), brass, titanium, steel, stainless steel and plastics を材料とした
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 2002年(主日A年) 9月29日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28 フィリ 2:1〜11 マタ 21:28〜32
「キリストは、神の身分でありながら、 ・・・・・ へりくだって、 ・・・・・ 」(フィリ vv.6,8)
現代のイスラエルは、未だキリストの福音を受け入れていません。
しかし彼らに代わってキリストに接木された教会は、思い上がってはならない(ロマ 11:20)のです。
十字架の死に至るまでへりくだって従順であったキリストを、「神は ・・・・・ 高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ v.9)
こうして今や人が立つのも倒れるのも、その鍵は、「イエス・キリストは主である」(フィリ v.11)と公に宣べる信仰なのです。
我が国のキリスト教は過去40年ほどの間、その教勢がひたすら下降線をたどって、司祭の数も信徒数も共に減少し、その上急速に高齢化してしまいました。
にもかかわらず一般信徒たちの間で、肌で感じるような危機感が乏しいように思えます。
ユダヤ人にとってだけではなくて、我が国のキリスト者会衆にとっても、「後で考え直して出かけ」 るときがまだ来ていないように思えるのです。
過去に一方(異邦人)は 「いやです」 と言い、他方(ユダヤ人)は 「お父さん、承知しました」 と言いました。
しかしどちらもキリストの福音に対して、その心に覆いが掛かったまま(IIコリ 3:14)なのです。
「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(ロマ 11:1)という懐疑と無気力が、我が国のキリスト教会を支配しています。
そして、「決してそうではない」(ロマ 11:1)という信仰の確信は、会衆の一人一人がキリストの福音を自ら聞き(ロマ 10:17)、キリストによって自らの心の覆いを取り去っていただくときに(IIコリ 3:16)、初めて与えられるのです。
思い上がるのではなくて、へりくだってキリストの福音を自ら聞き、共にイエスの御名にひざまずく(フィリ v.10 )ことから、すべては始まるのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>865
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) >>865 「一般信徒たちの間で、肌で感じるような危機感が乏しいように思えます。」
そのような事はありません 。日本で少子化がこのまま続けば、その事のみによっても、
(日本人の)聖職者や信徒の人数が極端に減少する事はだれにでもわかる事です。
信徒数が少ない教会のミサに与った事はありますか?
9/28 聖トマス西と十五殉教者(記念日) 結びの祈願
司 聖なる父よ、あなたは聖トマス西と十五人の同志を聖霊によって強め、キリストのあかし
として苛酷な迫害に耐え、殉教する力をお与えになりました。聖人たちの殉教を記念する
わたしたちに、信じるために必要な謙虚さと信じたことを宣言する (proclaim) 勇気を
お与えください。 わたしたちの主イエズス・キリストによって。
答 アーメン。
9/29 聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使 (祝日) >>867 訂正 結びの祈願 聖務日課(時課の典礼)より >>864
Basia Singing "HaGeMa", May, 2014
ある女性が熱唱しています 歌の内容は(私には)不明
ttps://www.youtube.com/watch?v=7IjKrpUkgrc
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< "HaGeMa"! "HaGeMa"! "HaGeMa"!!! >>>869
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) 2008年(主日A年) 9月28日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28 フィリ 2:1〜11 マタ 21:28〜32
「聞け、イスラエルの家よ。 わたしの道が正しくないのか。 正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」(エゼ v.25)
現代のカトリック信者も、世の中を批判し、国家やその政治を批判して、“世の中が間違っている” と言います。
戦争があり、自然災害があり、エイズや未知のウィルスによる疫病の恐怖があるこの世界に、神は本当に存在するのかと、ある高位聖職者の口からさえ疑義が出されるのを、私たちは聞かされています。
しかし、その神が私たちに向かって、「正しくないのは、お前たちの道ではないのか」 と語られるのです。
現代の誇り高きカトリック信者たちは、“あなたの信仰の道は正しくない” と言われたら、きっと間違いなく憤慨することでしょう。
しかし事実、今日の我が国のカトリック信者は、聖書を殆ど読んでいないし、それ故キリストの福音を殆ど全く学んでいません。
神が御子キリストによって私たちのために実現してくださった救いの出来事について、カトリック信者はいわば “噂話のようにおぼろげに聞いている” だけで、自分で直接使徒たちの伝えた宣教から聞き、学び、信じているのではないのです。 (つづき)
“神の啓示に関する教義憲章(21)” は明確に、「教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」 と宣言しました。
「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら」(エゼ v.27)とは、カトリック信者が 「悔い改めて」、これまで聖書を読まず、福音を自ら本気で学ぼうとしなかった 「すべての背きから離れ」(エゼ v.28)ることであると、理解すべきです。
洗礼と堅信の秘跡を受けてカトリック教会の信者になったという事実に安心していてはいけません。
「“お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。 イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 わたしはだれの死をも喜ばない。 お前たちは立ち帰って、生きよ” と主なる神は言われる。」(エゼ 18:31-32)
これは今朝の典礼で、カトリック教会の司祭と信者一同に向かって神が語っておられる、愛の呼びかけなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>867
うろたえているのと、(信仰的な!)危機感を持つこととは別なのです。
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< 老クリスチャン! 老クリスチャン! 老クリスチャン!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( ) >>873 「うろたえているのと、(信仰的な!)危機感を持つこととは別なのです。」
うろたえているの主語は何でしょうか? あなたはどうして意味が不明瞭な文を
しばしば書くのですか? 他人に自分の考えを伝えることの難しさがわかって
おられないのではないですか? 一度この文を、西欧の言語で表現されたら良いと思います。
そうすれば、いかにこの文の意味が不明瞭であるかが良くわかると思います。 >>871
>現代の誇り高きカトリック信者たちは、“あなたの信仰の道は正しくない” と言われたら、
>きっと間違いなく憤慨することでしょう。
長年、独善と傲慢の軍団(レギオン)を飼い慣らしてきたマムシの目と心をもつ者
に言われたら、だれだってイヤな気がすると思うのです。
ある意味、老クリさんの半生は、カトリックから「あなたの信仰の道は正しくない」と言われ
続けてきたようなものだったではないですか。それで
ここ17年は、カトリック信徒へ向けて、その恨み?をぶつけておられるのではないかと
首を傾げたくなってしまうのです。 そうです。
老クリさん自身が、カトリックに“あなたの信仰の道は正しくない” という
無言のプレッシャーを受け続けてきたのです。
それで、事実、老クリさん自身の「信仰の歪み」を半強制的にじわじわと、
カトリックの司祭や信徒の「信仰のあり方」へと変えさせられてきたのです。
悔しいでしょう。わかりますよ。
「最初からカトリックにしておけばよかった!そうすれば今ごろ司祭となって
説教することができていた!」
と、叫びたくなってしまうのではないでしょうか。
戦わないといけないのはカトリックの司祭や信徒ではありません。
老クリさん自身の中に巣食う、独善と傲慢を長とする軍団(レギオン)なのですよ。 2014年(主日A年) 9月28日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28 フィリ 2:1〜11 マタ 21:28〜32
「ところで、あなたたちはどう思うか。 ある人に息子が二人いたが、 ・・・・・ 」(マタ v.28)
旧約聖書ではしばしば、神の民イスラエルが神の “子” と呼ばれてます。
「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」(出 4:22)
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセ 11:1)
旧約聖書全体を通して “子” という呼称は、その父に服従する(仕える)者であるという意味で用いられています。
ですからエジプト王ファラオは、「わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよ」(出 4:23)と命じられました。
このような背景の理解を前提にして福音書を読むことは、たいへん重要なことなのです。
それは “子” という表現が “神の民である教会” を指しているのであって、決して一般的な個人の尊厳や価値のようなもののことを言っているのではないからです。 (つづき)
旧約聖書で使われているもう一つの表現に、神の民イスラエルをぶどうの木、あるいはぶどう畑に譬えているものがあります。
「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを(約束の地に)植えられました。」(詩 80:9)
「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。」(イザ 5:7)
福音書においても、ぶどう園の譬えはそのような背景で理解するのが正しいのです。
ぶどう園で働くとは、神の民である教会に仕えることであって、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)ということから切り離して理解してはなりません。
「キリストと共同の相続人」(ロマ 8:17)として 「神の国に入る」(マタ v.31)、すなわち “御国を受け継ぐ教会”(エフェ 1:14)のことを真剣に考えましょう。
神は今朝の朗読聖書を通して私たちに、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(マタ v.28)と招いてくださっているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>878-879
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ τί δὲ βλέπεις τὸ κάρφος τὸ ἐν τῷ ὀφθαλμῷ τοῦ ἀδελφοῦ σου,
τὴν δὲ ἐν τῷ σῷ ὀφθαλμῷ δοκὸν οὐ κατανοεῖς;
キタ━━━ヽ(●`∀´)ノヽ(´∀`)ノヽ(´∀`*)ノ━━━!!!
∧_∧
( ・∀・)/ヽ
ノ つつ 老 ) 老栗 チャッチャッチャッ♪ 老栗 チャッチャッチャッ♪
⊂、 ノ \ノ
し'
∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
. /\. (`・ω・´) /ヽ
| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
ヽ/ / く \ /
(ノ⌒ヽ) バチカン大使の証言。
「1人の信者の証言」ファティマ−アムステルダム−秋田
http://subetami.divinemercy.jp/worldwide/w-wprayerday/2016/08/w1998-testimony/
今はすでに天国においでの秋田のヨハネ伊藤前司教は、生前、書簡によって、教皇様に秋田での出来事を報告し、伊藤司教が司祭職上取るべき措置をヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の判断に委ねた旨、私に知らせて下さいました。
伊藤司教ご自身にとって、秋田がファティマの続きであることは明白でした。また、ラッツィンガー枢機卿は、この2つのメッセージは本質的に同じものであると、私に個人的に確証なさいました。
伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実であることを証明するものだと考えておいででした。そして彼は「共贖者、仲介者、執りなし手」という称号を確固として擁護なさいました。
仮に、アムステルダムのメッセージが本物でないならば、天は秋田で奇跡を起こさなかったでしょう。なぜなら、秋田の聖母のご像は「すべての民の御母」を模したものだからです。
アムステルダムのメッセージが真実ならば、「すべての民の御母」が「共贖者、仲介者、執りなし手」のドグマを告知するようにとの要求もまた真実であります。なぜ、この真実の告知を抑圧するのでしょうか? 「ファティマの聖母」秋田入り、「涙流したマリア像」と対面 東西の“奇跡”に多くの巡礼者
「涙を流したマリア像」で知られる秋田市添川湯沢台のカトリック女子修道院「聖体奉仕会」に14日、第一次大戦中にポルトガル中部ファティマに聖母マリアが現れたと伝えられる
「ファティマの奇跡」から100年を記念して作られた聖母像がやってきた。ファティマと秋田はともに北緯39度線近くにあり、「東西の奇跡」の対面に、
日本だけではなく世界各国から訪れた約500人が祈りをささげた。
涙を流した聖母像は、台座を含めて高さ120センチの木彫りの像。昭和50年1月に、両目に涙が浮かんでいるのを修道女が気づき、56年9月まで101回、涙を流したとされ、
多くの目撃者もいる。涙は秋田大と岐阜大の法医学教室により「ヒトの体液」と鑑定された。「アワ・レディー・オブ・アキタ」(秋田の聖母像)と呼ばれており、海外でも広く知られている。
一方、ファティマの聖母像は1917年5月13日、ファティマで3人の羊飼いの子供の前に聖母マリアが現れ、毎月13日に同じ場所に来るよう告げたという伝承から100年を記念して作られた。
ファティマの聖堂にあるものと同じ大きさで、冠を除いた高さは105センチ。日本各地を巡回中で、15日まで聖体奉仕会に安置され、最終的には広島市のカトリック幟町(のぼりちょう)教会に納められる。
奇跡の聖母像の対面には、2日間で1千人以上が訪れる見込みだ。海外からはオーストラリア、韓国、フィリピン、台湾などからの信者が来日する。
聖体奉仕会の小川恵子会長は「100年の節目で、多くの方がいらした」と話す。メキシコから来た大学院生のオリビア・ナイジェリさん(36)は「日本人は奇跡を信じる人が多い。今回の対面を題材に論文を書きます」と話していた。
http://www.sankei.com/smp/life/news/170914/lif1709140026-s1.html 日本ピンチ! 9月14・15日「ファティマの聖母」と「秋田の聖母」が奇跡の対面→第三次世界大戦勃発か!?
「ファティマの奇跡」からちょうど100年経った今年2017年、世紀の対面が日本で果たされる……!
しかし、この最終予言がまもなく日本において成就されるかもしれない。なんと今月14・15日、
ファティマの聖堂にあるマリア像が、秋田市のカトリック女子修道院「聖体奉仕会」にやって来て、
かの有名な「涙を流した秋田の聖母像」と対面を果たすというのだ。
■ファティマと因縁の深い秋田の聖母
「秋田の聖母像」に最初の奇跡が起きたのは、1973年7月12日のことだった。シスター笹川が礼拝中、
いきなり聖母像の右手のひらに十字架が刻まれ、血が流れ出したのだ。そして1975年1月4日には、
同じ聖母像から涙が流れるという奇跡も起きたのである。その後も落涙は続き、なんと1981年9月15日(悲しみの聖母の記念日)まで101回も続いたという。
さらに驚くべきことに、最初の奇跡を体験したシスター笹川は、光り輝く聖母マリアにも遭遇していた。そしてシスターは、
降臨した聖母マリアから「ファティマの祈り」を教えられている。この「ファティマの祈り」は、1917年にファティマに降臨した聖母マリアから、
3人の子どもたちが教わったものと同じだ。しかし1970年代当時、まだ「ファティマの祈り」は和訳されておらず、日本では誰も知らない状態だった。
つまり、シスター笹川に「ファティマの祈り」を教えた聖母マリアは、ファティマに降臨した聖母マリアと同一の存在であったと考えられるのだ。
このように、ファティマの聖堂にあるマリア像と、秋田の聖母像には深い因縁がある。ポルトガルでの奇跡から100年の時を経て果たされる“世紀の対面”には、
何か重要な意味があるのではないだろうか?
http://tocana.jp/2017/09/post_14436_entry.html 「ファティマの聖母」9月に秋田へ 「涙流したマリア像」と対面 東西の“奇跡”がコラボ
http://www.sankei.com/life/news/170713/trv1707130004-n1.html
第一次大戦中にポルトガル中部ファティマに聖母マリアが現れたと伝えられる「ファティマの奇跡」から100年を迎えたのを機に、ファティマの聖母像が9月、
「涙を流したマリア像」で知られる秋田市添川湯沢台のカトリック女子修道院「聖体奉仕会」にやってくる。
「東西の奇跡」が対面する場で祈りをささげようと、国内外から多くの巡礼者が訪れそうだ。
■海外で有名
一方、秋田の聖体奉仕会の聖母像は台座を含めた高さ120センチの木彫りの像。昭和50(1975)年1月4日の朝、両目に涙が浮かんでいるのに修道女が気付いた。
以来、56年9月15日まで101回、涙を流し、当時の高田景次秋田市長も含め約500人が目撃したという。その液体は秋田大と岐阜大の法医学教室によって「ヒトの体液」と鑑定された。
■ “集客”に期待
ファティマと秋田はともに北緯39度線近くにあり、「奇跡の共通性」を指摘する声もある。
秋田に来る聖母像はファティマの「聖母出現」100年を記念して新たに作られた。
ファティマの聖堂にあるものと同じ大きさで、冠を除いた高さは105センチ。
既に日本国内を巡回していて、100周年の5月13日にはカトリック関口教会(東京都文京区)でミサが行われた。最終的にはカトリック幟町(のぼりちょう)教会(広島市)に納められる。
聖体奉仕会では9月14、15の両日に像が安置され、法王庁のジョセフ・チェノットゥ駐日大使も参列してミサなどが行われる。国内外から数百人の巡礼者が見込まれるという。
聖体奉仕会の小川恵子会長は「世界中がファティマの聖母ご出現100年を大事にする中、秋田に聖母像が来るのは意義深い。私たちの信仰生活に生かしたい」と話している。カトリック教徒以外も注目している。
秋田県や秋田市は以前から聖母像の“集客力”に期待。地元ホテルの中には、聖体奉仕会までの送迎無料の「巡礼者特別プラン」を設けているところもある。 2005年(主日A年) 10月2日 年間第27主日
イザ 5:1〜7 フィリ 4:6〜9 マタ 21:33〜43
イエスはこの譬え話を、有名なイザヤ書のぶどう畑の歌からの引用によって語り始められました。
当時の聴衆たちが、主のぶどう畑がイスラエルを意味することをよく知っていたので、祭司長たちやファリサイ派の人々はそれが 「自分たちのこと」 であるとすぐに気づいたと報告されています(マタ 21:45)。
主イエスは間近に迫っていた御自分の死と、その後にやって来るユダヤ社会の瓦解を、この譬え話で予告されました。
初代教会の伝承の過程で叙述が幾分か押し広げられたために、ユダヤ人が退けられて異邦人が選びに入れられたという理解がより明確にされ、詩 118:22-23 の引用がキリスト証言のために付け加えられたと考えられます。
宗教的指導権は、今やユダヤの権威者たちからキリストの使徒たちに移ったというのが、初代教会の見解でありました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています