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983 :老クリスチャン[]:2017/06/16(金) 11:00:11.26 ID:3rH0+1WY
2008年(主日A年) 5月25日 キリストの聖体
申 8:2-3,14-16 Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
この 「主の口から出るすべての言葉」 とは、律法のことだと旧約のイスラエルは考えていました。
しかし 「キリストは、律法の終わり (テロス) となられた」(口語訳 ロマ 10:4) のです。
新共同訳聖書はこれを 「律法の目標」 と訳出し、フランシスコ会の聖書は訳注で 「律法を完成する」 と説明しています。
それは、ヨハネ福音書が 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 と、イエス・キリストの受肉の出来事を説明している通りです(1:14)。
この 「言」 を、フランシスコ会の聖書が 「御言葉」 と訳しているのは、示唆に富んでいます。
このようなわけで、私たち会衆が共にミサをささげるとき、「キリストは常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している」(典礼憲章 7) のであり、
そこでは御言葉となられたキリストが食され、心は恩恵に満たされて、神の国の民である共同体がその旅路の力を得るのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世が回勅の中で、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」 と語られたのは、ほんの7年前のことでした。
今年もキリストの聖体の祭日を祝う全世界の教会の上に、神が知恵と啓示との霊を与えて信者の心の目を開いてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
29 :老クリスチャン[]:2017/06/16(金) 11:35:15.90 ID:3rH0+1WY
2008年(主日A年) 5月25日 キリストの聖体
申 8:2-3,14-16 Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
この 「主の口から出るすべての言葉」 とは、律法のことだと旧約のイスラエルは考えていました。
しかし 「キリストは、律法の終わり (テロス) となられた」(口語訳 ロマ 10:4) のです。
新共同訳聖書はこれを 「律法の目標」 と訳出し、フランシスコ会の聖書は訳注で 「律法を完成する」 と説明しています。
それは、ヨハネ福音書が 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 と、イエス・キリストの受肉の出来事を説明している通りです(1:14)。
この 「言」 を、フランシスコ会の聖書が 「御言葉」 と訳しているのは、示唆に富んでいます。
このようなわけで、私たち会衆が共にミサをささげるとき、「キリストは常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している」(典礼憲章 7) のであり、
そこでは御言葉となられたキリストが食され、心は恩恵に満たされて、神の国の民である共同体がその旅路の力を得るのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世が回勅の中で、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」 と語られたのは、ほんの7年前のことでした。
今年もキリストの聖体の祭日を祝う全世界の教会の上に、神が知恵と啓示との霊を与えて信者の心の目を開いてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >私は趣味でキリスト教や教会を研究している好事家ではありませんし、
>ましてカトリック教会の司教の一人ではありませんから、日本のカトリック教会の
>現状をあれこれ批判する立場にないことを自覚して来たのです。
-=・=- i、-=・=_
472 :老クリスチャン[]:2017/06/16(金) 10:46:19.51 ID:3rH0+1WY
>>469
私が毎週 2ch で紹介させていただいている文章は、カトリック浜松教会のミサに参加させていただきながら、2000〜2014年の15年間に書いた 「聖書の学び」 からの抜粋です。
私は一人のキリスト者として、浜松教会の皆様とともに 「ミサを生きる」 歩みをして来ました。
(注)「ミサを生きる」 は、1980年に別冊出版されたミサ総則初版の序文で用いられている長江恵神父の言葉です。
ですから、“典礼憲章” も “ミサ典礼書の総則” も、我が国のカトリック中央協議会から発行されているもので学び、それを基準として日本のカトリック教会の現状を (あるがままに) 観察して来ました。
私は現場の教会がこのような指針を大切にして、これを活かすことを強く願ってしばしば発言して来ましたが、あたかも外部の第三者のような立場で日本のカトリック教会を批判することは決してしませんでした。
私は趣味でキリスト教や教会を研究している好事家ではありませんし、ましてカトリック教会の司教の一人ではありませんから、日本のカトリック教会の現状をあれこれ批判する立場にないことを自覚して来たのです。
>もう、聞くに堪えない騒音 ! 拷問であって、
お気持ちは、私にも分からないではありませんが、教会内の不適切、あるいは無能な人材を拒否してみたところで、「教会を造り上げる」(Iコリ 14:5,12,26) ことにはならないのです。
私が病に倒れる一年ほど前に書きました下記の小論を、もし気が向きましたらお読みください。
http://www.kuwaei2000.com/Essay.html → ★ミサを考える資料★
458 :老クリスチャン[]:2017/07/01(土) 09:55:28.76 ID:KV8KoFD8
2002年(主日A年) 6月30日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
現代のキリスト教会で、使徒たちの後継者である全世界の司教たちと、この司教たちに従属する各地の司祭たちとは、マタイ福音書によれば、この主イエスによる12弟子への要求と派遣の直接の対象となっている人々です。
“使徒” という名称そのものが “遣わされた者” という意味であるように、これら現代の司教たちと司祭たちも確かに主によって “遣わされた人々” であります。
この司教および司祭たちのもとにある信者会衆は、すべて洗礼の秘跡によってキリストの死に結びつけられ、神に対して生きるようになった人々です。
「それともあなたがたは知らないのですか。 キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」(ロマ v.3)
洗礼は初期には “イエス・キリストの名による洗礼”(使 2:38, 19:5) と呼ばれていましたが、やがて “父と子と聖霊の名による洗礼”(マタ 28:19 ) という呼び方が定着するようになります。
いずれの呼称が用いられてもその意味するところは同じで、この秘跡は受洗者を主イエス・キリストの死と復活に結びつけるものとして、すべての信者会衆の信仰生活の出発点であり続けて来ました。
もし人が終末の裁きと神の国への復活の希望に生きているなら、それはその人がキリスト・イエスに結ばれる洗礼(ロマ v.3) を受けているからであり、「(教会の) 信仰と希望とは神にかかっているのです。」(Iペト 1:21)
私たちの復活の希望は、私たちが受けた洗礼の秘跡と切り離して考えることの出来ないものです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ロマ v.8)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ∧_∧ ∧,_,∧
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543 :老クリスチャン[]:2017/07/01(土) 09:57:06.46 ID:KV8KoFD8
2005年(主日A年) 6月26日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
預言者エリシャの行った数々の奇跡物語りが、列王記下には集められています。
彼はエリヤの後継者であって、エリヤから始まったバアル宗教との戦いを押し進めて遂にイエフ革命にまで至らせたことが記録されています(王下 10:28)。
しかし、このエリヤ、エリシャ、イエフの伝説の本当の主役はヤーウェでありました。
エリヤがこの戦いを突然開始するに当たってその論拠としたのは、「イスラエルの神、ヤーウェは生きておられる」(王上 17:1) という宣言でありました。
ですからエリシャの数々の奇跡物語りは、あのナアマンの 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」(王下 5:15) という告白に到達するための伝説であったと言うことが出来ます。
神の怒りによって最終的には滅びに至るこの世の歴史とは区別された、それよりももっと確かな現実である神の救済史に目を向けましょう。
私たちキリスト者は 「秘められた計画」 に従って生きており、 「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られて」 いるのですから(Iペト 1:5)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
587 :老クリスチャン[]:2017/07/01(土) 09:58:39.00 ID:KV8KoFD8
2005年(主日A年) 6月26日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
福音書に収録されているイエスの語録は、これを編集した当時の教会の信仰による再解釈を伴って伝えられて来ているということを、理解しましょう。
それは至極当然なことであって、福音書は昔のイエスの思い出の教えを集めた単なる記念文集ではありません。
その当時の教会の置かれている状況の中で語られる神のことばとして、それらは再解釈され、編集して収録されました。
これらの編集された語録を通して語っておられるのは、思い出のイエスではなくて、復活して天におられる現在のキリストでありますから、
その再解釈とは人間の勝手な創作ではなくて、天の国に至る救済史を導いておられる神からのものであると、私たちは承知しなければなりません。
教会の福音宣教を支え、これを導いておられる方が、宣教の奉仕者たちに向かって語っておられるのです。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ vv.37-38)
御国の福音を宣べ伝えるという教会の使命は、多くの大切な使命の中の一つ、多くの良き業の中の一つではなくて、まさに使徒継承の教会に復活の主から委ねられた最大かつ第一の課題であることを、私たちは福音書から聞き取らなければなりません。
この使徒的使命は教会の教導職だけのものではなくて、等しく信徒にも委ねられているものです。
自ら受けた救いと神の国の希望について弁明出来るように備えていることは、すべてのキリスト者の当然の自覚でなければならないからです(Iペト 3:15 参照)。
教会憲章は次のように述べています。
「信徒の使徒職は教会の救霊活動そのものへの参与であり、すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される。」(33)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
39 :老クリスチャン[]:2017/07/01(土) 09:59:41.50 ID:KV8KoFD8
2002年(主日A年) 6月30日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
主イエスが、お選びになった12弟子を派遣するに当たって語られた教えの最後の部分を、今朝私たちは聞かされています。
人はだれでも自分の父や母を大切に思い、自分の息子や娘を愛しているものです。
しかし使徒たちには、これらのもの以上に主を愛するという覚悟が要求されました。
「主よ、 ・・・・・ あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ 13:37) と叫んだペトロの言葉は、すべての使徒たちの思いでもあったに違いありません。
私たちキリスト者はだれでも、この思いを十分に理解することが出来ます。
しかしだからと言って、その生涯の中で実際に 「自分の十字架を担って主に従う」(マタ v.38) という、いわば極限状態に私たちが立たされるようなことは殆どありません。
しかしマタイ福音書はこの物語りを、主イエスが使徒たちに求められた特別な要求として、私たちに読まれることを期待していました。
現代のキリスト教会で、使徒たちの後継者である全世界の司教たちと、この司教たちに従属する各地の司祭たちとは、マタイ福音書によれば、この主イエスによる12弟子への要求と派遣の直接の対象となっている人々です。
“使徒” という名称そのものが “遣わされた者” という意味であるように、これら現代の司教たちと司祭たちも確かに主によって “遣わされた人々” であります。
ですから、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタ v.40) という言葉は、私たちの司教と司祭に当てはめて読むことが出来ます。
このように私たちの教区の司教および司祭たちは、実際に私たち信者にとって特別な人々であるのです。
主イエスは言われました。
「はっきり言っておく。 わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタ v.42)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
40 :老クリスチャン[]:2017/07/01(土) 10:10:20.83 ID:KV8KoFD8
2005年(主日A年) 6月26日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
「それともあなたがたは知らないのですか。 キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ vv.3-4)
使徒パウロは、これを信仰の事実として述べています。
それは出来事であって、決して一つの思想、一つの哲学ではありません。
洗礼を受けてキリスト者となった人は新しく生まれた人であって、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロ 3:3) のであり、
「秘められた計画」 に従って生きており(エフェ 1:8-14)、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(Iペト 1:5)
この 「秘められた計画」 は神のものでありますから、神の怒りの下にあるこの世の歴史とは区別された、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」(Iテサ 1:10) 神の救済史に属しています。
キリストの福音は、この 「秘められた計画」 を啓示するものなのです(ロマ 16:25)。
そして神の救済史は、私たちの眼前にあるこの世の歴史よりももっと確かな現実であります。
「このように ・・・・・ 考えなさい」(ロマ v.11) と使徒は教え、それを彼は 「(使徒たちから) 伝えられた教えの規範」(ロマ 6:17) と呼びました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ vv.37-38) 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ vv.37-38) >そして神の救済史は、私たちの眼前にあるこの世の歴史よりももっと確かな現実であります。 神の怒りによって最終的には滅びに至るこの世の歴史とは区別された、
それよりももっと確かな現実である神の救済史に目を向けましょう。 神の怒りによって最終的には滅びに至るこの世の歴史とは区別された、
それよりももっと確かな現実である神の救済史に目を向けましょう。 教会憲章は次のように述べています。
「信徒の使徒職は教会の救霊活動そのものへの参与であり、
すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される。」(33) 神の怒りによって最終的には滅びに至るこの世の歴史とは区別された、
それよりももっと確かな現実である神の救済史に目を向けましょう。 神の怒りによって最終的には滅びに至るこの世の歴史とは区別された、
それよりももっと確かな現実である神の救済史に目を向けましょう。 : ノ´⌒ヽ,,
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891 :老クリスチャン[]:2017/03/09(木) 12:18:15.57 ID:aOVC5X+S
2002年(主日A年) 2月24日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8b〜10 マタ 17:1〜9
「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。 すると “これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。 これに聞け” という声が雲の中から聞こえた。」(マタ v.5)
その公生涯を主の苦難の僕として(イザ 42:1-4)、同時にメシア的な王として (詩 2:7) 歩み始められた主イエスは、ここで弟子たちの目の前で栄光の姿に変わり、一同は主が洗礼をお受けになったときに聞いたのと同じ天からの声 (マタ 3:17) を聞きました。
しかし今回は、もう一つの重要な言葉がそれに加えられていました。 「これに聞け」 であリます。
四旬節は私たちが復活の祭儀 (過越の神秘の祭儀) に備える期節です。
それは教会が “主の受難と復活からなる過越の聖なる三日間” を記念し、復活節を歓喜に満ちて祝うためです。
このキリストの福音の神秘を、教会は代々にわたって受け継いで来ました。
それぞれの時代の教会が、自分たちの前の時代の教会からキリストの福音を受け継ぎ、そして自分たちの次の時代の教会へとそれを伝えることによって、今日の私たちの教会は使徒たちの時代の教会と同じ教会であり続けているのです。
しかしこのような福音の伝承を、単なる人間の文化の伝達のように考えてはなりません。
歴史の経過と共に、その起源から遠ざかることによって、人間の文化は変化したり発展したりするものです。
しかし 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブ 13:8)
それは教会が福音の伝承を受け継いで行くとき、その福音の伝承を天上の復活のキリストがいつも導いてくださっているからです。
私たちの教会の主は、死者の中から復活して天の父の右の座に着いておられるキリストです。
教会はこの “生けるキリスト” に 「聞け」 と、いつも呼びかけられて歩んで来ました。
私たちの教会における福音の伝承は、決してただの人間の言い伝えとは違うのです。
605 :老クリスチャン[]:2017/03/09(木) 12:26:22.69 ID:aOVC5X+S
2002年(主日A年) 2月24日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8b〜10 マタ 17:1〜9
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」(IIテモ v.10)
テモテは使徒の後継者の一人として、使徒たちの福音を委ねられました。
この福音の現代にまで至る伝承を導き支えておられる方が、他ならぬ復活のキリストであることを、私たちは今年も四旬節に際して思い起こさなければなりません。
使徒パウロはこの後に続けてこう述べています。
「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(IIテモ 1:12)
アブラム (アブラハム) の召命の物語りは、現代の私たちに向かってキリストの福音を証ししています。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。 ・・・・・ 地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創 vv.2-3)
やがてアブラハムが自分の独り子である息子のイサクをささげようとした後に、神は再び語られました。
「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創 22:18)
そして使徒パウロはその手紙の中で次のように述べています。
「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して “子孫たちとに” とは言われず、一人の人を指して “あなたの子孫とに” と言われています。
この “子孫” とは、キリストのことです。」(ガラ 3:16)
そしてこのキリストは、私たちの主日のミサに天から降りて来てくださって、司祭を通して御自身の聖体を会衆に分け与えてくださるキリストに他なりません。
それは決して昔話の中の “思い出のキリスト” ではなくて、「今 (生きて) おられ、 ・・・・・ やがて来られる」(黙 1:4) キリストなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
971 :老クリスチャン[]:2017/03/09(木) 12:31:41.43 ID:aOVC5X+S
2005年(主日A年) 2月20日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8〜10 マタ 17:1〜9
主の変容の物語りが、カトリック教会では第二バチカン公会議後の典礼刷新によって、四旬節第2主日に朗読されることになったことは、意味のあることです。
主の受難と復活の神秘を理解する光をこのテキストに見出したルター派の教会は、古くからあった8月2日の主の変容の祝日を移動させるという方法で、四旬節直前の主日にこの福音書の物語りが教会で朗読されるように配慮して来ました。
カトリック教会はより積極的に、これを四旬節第2主日の福音朗読に配分したのです。
そのような歴史的背景の重さを心に留めて、私たちは今朝の福音書の朗読に耳を傾けましょう。
「一同が山を下りるとき、イエスは、“人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない” と弟子たちに命じられた。」(マタ v.9)
主の受難と復活は、私たちの罪を償う、私たちの贖いと救いのための 「ただ一度、永遠に成し遂げられた」(ヘブ 9:12) 御業であって、神はキリストを通して私たちを御自分と和解させ (IIコリ 5:18) てくださったことを、使徒たちは宣教しました。
主の受難と復活は、この神の勝利の光の中でこそ正しく理解出来るのです。
四旬節に教会が仰ぐキリストは、復活して栄光に輝く勝利者以外の何者でもありません。
私たちが信じているのは “かつて十字架に死んだ思い出のキリスト” ではなくて、今生きて私たちと交わってくださる栄光の勝利者、復活のキリストです。
この方が私たちの間に来てくださって、自ら教会の典礼を司り給うことにより、歴史の教会は歩んで来ました。
共にミサをささげる会衆は、神がキリストの受難と復活によって勝利されたその勝利に与ります。
罪と死への勝利は私たちの善行と功徳によってではなくて、既に成し遂げられた勝利者キリストの永遠の贖い (ヘブ 9:12) によって与えられることを感謝しましょう(Iコリ 15:57)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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649 :老クリスチャン[]:2017/03/09(木) 12:35:17.20 ID:aOVC5X+S
2005年(主日A年) 2月20日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8〜10 マタ 17:1〜9
「一同が山を下りるとき、イエスは、“人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない” と弟子たちに命じられた。」(マタ v.9)
四旬節に朗読される主の受難の物語りも、そこに挿入される主の変容のテキストも、もしキリストの勝利の復活と切り離して語られるなら、それは使徒たちが伝えた宣教とは異なったものになってしまいます。
キリストが死者の中から復活するまで、使徒たち自身も天の栄光の顕現の意味を理解出来ませんでした。
しかし教会は、神の勝利の光の中でこの期節の朗読配分を聞くことを通して、受けた救いの恵みを味わいます。
キリストの受難と復活は、神の愛の業であり、もはや何ものも私たちをこの神の愛から引き離すことは出来ないのです(ロマ 8:39)。
神はその救済史の初めに、父祖アブラハムを召し出して祝福をお与えになりました。
この祝福を実現するために、神はその子孫からイエス・キリストをお遣わしになりました(ガラ 3:16)。
ですから、洗礼の秘跡によってキリスト・イエスに結ばれた人はアブラハムの子孫であり、約束による神の国の相続人です(ガラ 3:19)。
私たちはキリストの復活に与って、やがて新しい命に生きる希望に歩んでいます。
今年の四旬節を、キリストがその受難と復活によって実現された勝利に、再び私たちが目を向ける時にしましょう。
「罪が支払う報酬は死です。 しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ロマ 6:23)
・・・・・ 以下、本文参照。
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49 :老クリスチャン[]:2017/03/09(木) 12:16:57.23 ID:aOVC5X+S
皆さん、とても素直に聖書を読んでいらっしやることが、素晴らしいと思います。
今年の四旬節が、ご一同にとって、恵み豊かな期節となりますように、 ┃│警││警│ || ┃
┃│護││護│ || ┃ ┃└─┘└─┘ || │ ┃
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37 :老クリスチャン[]:2017/03/10(金) 10:28:18.28 ID:KNbfI7kW
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」 と弟子たちに命じられた。」(マタ 17:9)
896 :老クリスチャン[]:2017/03/10(金) 10:29:37.75 ID:KNbfI7kW
2005年(主日A年) 2月20日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8〜10 マタ 17:1〜9
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(IIテモ v.10)
キリストの福音は死への勝利の福音であることを、現代の教会は忘れてしまったのでしょうか。
カトリック教会のミサ典礼書も、葬儀の儀式書も、使徒たちが伝えた福音を正しく今日に伝えています。
しかし実際に私たちが目にし耳にしている教会の働きは、それとはかなり違ったものです。
例えば現代の末期医療の多くが、苦痛と死の恐怖の除去を目標にするようになり、そのような方向付けをキリスト教会からの奉仕者たちが支持しています。
しかしそれは、“人間にとって死は怖くない、キリストの救いのあるなしは問題ではない” と言っているのと同じなのです。
また、葬儀に際しては、死者は全員天国に直行したかの如き口上が、司式者や参列者によって述べられるのが普通ですが、キリストによる死への勝利の福音に対する期待が共有されるような司牧を経験することは、滅多にありません。
カトリック教会の葬儀の儀式書は、その緒言の中で次のように述べています。
「教会は葬儀において、何よりも復活信仰を表明し、キリストによって死者を神のみ手にゆだねる。
・・・・・ それは、 ・・・・・ 故人が清められて、聖なる選ばれた者と共に受け入れられ、キリストの再臨と死者の復活を待ち望むよう (一同が) 祈るためである。」
キリストが復活して勝利されたその死への勝利に、代々のキリスト者が与る復活の日に期待する信仰を、使徒たちは教会に伝えました。
この復活の日への期待の信仰を忘れることは、「御自身の計画と恵みによる」(IIテモ v.9) 救いを見失うことです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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613 :老クリスチャン[]:2017/03/10(金) 10:30:55.92 ID:KNbfI7kW
2011年(主日A年) 3月20日 四旬節第2主日
創 12:1〜4a IIテモ 1:8b〜10 マタ 17:1〜9
「一同が山を下りるとき、イエスは、“人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない” と弟子たちに命じられた。」(マタ v.9)
イエス・キリストがその死と復活を通して成し遂げられた御業を、原始教会がどのように理解したかを知ることは、現代の教会にとって必須のことであると、先ず強調しておきましょう。
なぜなら、現代の多くのキリスト教信者たちが、使徒たちから伝えられたのとは違う、自分たちで勝手に考え出した “新作のキリスト教” を、論じたり宣べ伝えたりしているからです。
時代が変われば、信仰の対象であるキリストも “別の新しいキリスト” に置き換えられるのだと、冷ややかに主張する人々とは一線を画すことが必要なのです。
キリストの復活を抜きにしては理解することの出来ない福音を、使徒たちは宣教しました。
原始教会の信仰は、キリストの勝利の復活を抜きにしては決して説明の出来ないものであったということ、
そして古代教会はこの主張を守るために、信条の最終的確立に至る激しい戦いを経験しなければならなかったことを、現代の信者はしっかりと認識しなければなりません。
御子キリストは、これまで人間を隷属させてきた罪と死の力、すなわち悪魔を滅ぼすために(ヘブ 2:14-15、Iヨハ 3:8)、私たちの間に宿られました(ヨハ 1:14、フィリ 2:6-8)。
そして、復活によって勝利されたのです(Iコリ 15:54-56、コロ 2:15)。
これを “ナザレのイエス” という “一人の人物” の個人プレーのように解釈してはならないと、原始教会は マタ v.9 のイエスの言葉をここに添えることによって警告しました。
イエスの受肉と死と復活は、父なる神の御業であり(マタ v.5)、しかも救済史の過程の中での御業であったことを(マタ v.3)、この福音書の伝承 (変貌の物語り) は強調しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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