【隔離】GLAを憂う元会員の独り言【ちらしの裏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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関芳郎と茶坊主どもは、全くウィズダムを
作成せずに「7つのプログラム」を進めようとしたのではないかと
私は考えている。勿論、それは個別のプログラム(歴史の整備、
研鑽の充実等)のウィズダムではなく、「7つのプログラム」の
進め方を決定するウィズダム、という意味である。
その考えが正しいと仮定して、今後何が起こるか考えてみたい。
原始GLAの時代の初代弟子の活動は、未来千年に渡って注目され
参照され続けることになるだろう。「GLA創立40周年記念事業」も、
初代弟子の活動として、語り継がれてゆくだろう。
「GLA創立40周年記念事業」は、「菩提心発掘」をメインテーマ
とし、「喜捨行」、「書写行」、「7つのプログラム」という
3つの柱から成っていた。このうち「喜捨行」と「書写行」は
滞りなく進行し終了したが、どうゆうわけか「7つのプログラム」
だけは全く何も進まなかった。
未来の人々は、「一体、なぜ、何も進まなかったのか?」と
興味深く、また不思議に思い、残された記録を精査するだろう。
すると、なんと、
「全くウィズダムを作成せずに進めようとしていた」
という驚愕の事実にぶち当たるだろう。 黙って出版すれば黙って購入する
講演会を開けば黙って集まる
これもケツなめ行為 >その前に「畜生界」をどうにか
>しないと、汚物垂れ流しのまま、社会発信を続けることになるだろう。
大丈夫。
過去何十年、いくら大きな話を社会発信しても世間からは完全無視されているから。 >>460
もう、重箱の隅をつつくような投稿はやめたらどうでしょうか。
GLAにだって、お金が必要です。
これは、ただ、お金を集めるための方便でしょう。
教義や死生観とかは、関係ありません。
http://megalodon.jp/2014-1112-0925-12/https://www.gla.or.jp:443/support/kinenkan/p7.php
>人生祈念館地階には、人生を支えた肉体への感謝を込めて、「ご遺骨」
>をお預かりする「納骨室」も設けられました。大いなる存在の光が常に注がれ、
>見守られている中で、ご遺骨は安置されます。
>とりわけ、祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと共に
>奉納できることは、魂の道を歩む一人ひとりにとっての歓びであり、
>このうえない誇りにほかなりません。 新興宗教を辞めてみて分かった「世間一般から見た宗教に対する感覚」
https://togetter.com/li/1052127 >自分は小学3年生くらいから母に連れられてこの教団で活動を始めました
>どういった教義・活動内容かは詳しく書けないけど基本的には
>神から教祖に悪い予言が降ろされ、それを阻止するために会員みんなでお祈りする、という内容だった
>しかし甘い。甘すぎる。新興宗教を舐めちゃあいけない。
>予言した災難が当たらなければ信者の布施と教祖様のおかげだとして教団の実績になるし、もしも万が一偶然にも当たればそれは信者の布施とお祈りが足らなかったということになる
>信者は恐怖に震えて、数千円〜数万円の布施を払って祈祷会に参加し、神へのお祈りで世界の危機を救おうとする
>こういうのが1年に何度も何度も開かれる
>予言は当たらないから毎度毎度世界と多くの人を救ったという実績を積む
>信者は布施と祈祷で世界を救った気になっていて、使命感と正義感を持つようになる
>信者たちは
>「自分たちは特別な神に選ばれた人間であり、信者でないものは神には選ばれなかった哀れな人間だ」という考えを次第に持つようになる
>変な階級意識のようなものが付き、色々と苦労しました
>他にも「世の中には理解できる1割の人間と9割の人間がいる。君は9割の人間だったのだろう」
>と言われました。地区長は60歳くらいなんですが、まんま私自身がが子供の頃信者として抱いていた選民意識を持っているんですよね。
>いくら困窮して困っていた旨を伝 >えてもそこは分かってくれない。あらゆる不満は「勉強が足りない」言うなれば「信仰心が足りない」ということに繋がる
>「教団に不満を持つならなんで君はそこに(熱心な信者である母のもとに)生まれてきたの?」とも言われました。
>普通に考えれば生まれる場所は選べません。しかし教団では子供は生まれる前に母を選ぶという教義があります。
>もう完全に常識とはかけ離れた倫理観をお持ちのようでした。
>「あなたは理詰めで考えるけど私達は違う」と言われたな
>世の中は理詰めでは割り切れないんだとか
>そら宗教なんて理詰めでは成り立たないもんなー
>脱会して一般人としてこの教団の信者と話をして始めて、宗教を客観的に見ることが出来ました。常識とかけ離れたことを信じている人間がいかにおぞましく気持ち悪いか。
>思想・信条が違う人間が話し合うことの困難さ。全てを感じ取りました。 >母にこのことを話し、教団の教義の信憑性について疑問をぶつけました
>教祖の予言は適当に言ってても成り立つよと言っても聞いてくれません
>教祖はすごい力を持ってるのになぜ震災や戦争を止められなかったのと聞いても「教祖様の力があったからもっと酷い災難をこの程度にできた」と言います。
>教団には教祖と神様のおかげで健康に豊かに暮らせているという人がいましたが
>ぶっちゃけ平均取れば普通の人と同じです。糖尿・ガンもいます
>それどころか物的な生活の質で言えば明らかに落ちてると思うんですよね
>大企業のリーマンとか公務員なんて皆無でしたから
>非正規・自営業が目立つんですよ
>親から信仰を受け継ぐ2世の問題って本当に根深くて。 世間的に常識とされていることと離れていることを教えられても価値観がまだ固まっていない時に教え込まれると拒否なんてできないですからね。
>個人個人によっても違うでしょうし。ちなみに私は教団についてネットで見た検証記事を始めてみた時に自分の認識していた教義と実態との違いに相当なショックを受けましたし、実際それで病む人もいるのだろうなと >社会問題などに「真面目な人」はカルトにはまりやすい
>海外問題や社会問題に興味がある人はカルトにはまりやすい傾向にあります。
>興味を持ってカルトを調べていくうちに実態の一面を見ただけで世間が思っているほど悪質ではないなどと錯覚を起こしのめりこんでいきます。
>「完璧主義な人」はハマりやすい
>まじめで融通が利かず「こうでなければならない」と決めてかかる人は実は宗教にハマりやすかったりします。
>思春期〜青年期の若い人はハマりやすい
>思春期〜青年期は漠然とした不安や恐怖を抱えている子が多いもの。
>そんな人たちの将来や社会への漠然とした不安を煽り巧みに心理をついて引き込んでいきます。
>孤独な人はハマりやすい
>孤独感を感じている人ほど大きな心の隙間があります。
>そんな隙間に少しずつつけこんで、引き込んでいきます。
>また、大人数で教祖をあがめたり講演やデモなどで一体感を煽り気持ちよくさせるのです。
>”みんながやっているから”という「一体感」で依存性を高めていきます。 >カルト団体は教祖や教団組織に盲従するよう信者を仕向けるため、組織以外の世界に興味を持たせない様、団体の外のことを極端に悪く言う傾向にあります。
>最悪の場合は親や信者の人間関係にまでネガティブなことを吹き込んで亀裂を生み出させ、信者が団体だけに依存する様仕向けていきます。 GLAには表裏ふたつの死生観があるようですね。
表の死生観は、「永遠の生命」、「円環的人生観」として発表されています。
これは会員を集めるための死生観です。
裏の死生観は、「祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと
共に遺骨を奉納することで、このうえない歓びと誇りを得る」という死生観です。
これは、会員からお金を集めるための死生観です。
二つの死生観、表裏一体の双方が揃ってこそ、高橋一族が潤うのでしょう。 ムー大陸はあった? いいえ。ありませんでした
http://www.arito.jp/oth_Mu.shtml
>理論的にあり得ない
>そもそも大陸地殻が沈んで深海底になったり、海洋地殻が浮上して巨大な大陸になったりしないのです。
>ここんとこが大事です! 大陸地殻と海洋地殻は全く別物なのです。
>まさに水と油。水と油を混ぜておいたら、ある日勝手に水の一部が油になったり、油の一部が重くなって沈んだりしないように、
>大陸地殻と海洋地殻が勝手に入れ替わったり、大陸が沈んだりしてはいけないのです。
>そもそも大陸と海洋とは全く異なる別物なのです。つまり地球表面のうち、なんとなく高い部分が陸地となり、ややへこんだ部分が海となっているわけではない、
>ということです。両者は厳然として別のもので、妥協を許さぬ両者は、地球表面に高さの違う2つの面をつくります。
>頻度分布を見ると標高の高い大陸地殻のピークと低い海洋地殻のピークを持つ2つコブのグラフができます。これがもし、干からびたリンゴの皮のシワシワならどうでしょう。
>もとは同じものが、たまたまでっぱたり、へこんだりしています。この頻度分布なら、中くらいの高さをピークとする一つコブのグラフが描かれるでしょう。
>二コブのグラフは、もともと違う別の面が存在することを意味するのです。それはちょうどテーブルの上に本を置いたような状態です。高さの分布は、テーブル表面の高さと、本の高さの二つしかありません。
>中間はないのです。このように地球の表面は、大陸と海洋の2つの面にくっきり分かれるのは、両者が互いに相容れない別の存在だからです。あいまいな立場は認められません。
>どっちにつくのか、陸か海か、白か黒か、花崗岩派か玄武岩派か。二者択一の厳しい世界です。 スピリチュアルが嫌われる理由@ 「二極化」は詐欺の常套句
https://ameblo.jp/tkadomatsu/entry-11765085062.html
>それでは、スピリチュアルはなぜ嫌われるのか。今回もまた、結論を先に言いましょう。
>自分が本物でもなければ人格者でもない、一介の未熟者に過ぎないのに、自分が信じるスピ思想に基づいて、上から人々を裁き、見下し、排除しているからです。
>もう少しまとめますと、
>@宗教ではないふりをするので、逃げ場を与えない(→こちらにストレスを与える)
>A「二極化」という言葉で目覚めた「スピリチュアル」と目覚めない「アンチスピ」に分ける(→こちらに不快感を与え、人によってはトラウマを与える)
>スピリチュアルに関わらなくとも、スピ職人が欲望にまみれた心をオブラートに隠して本能のままに生き、煩悩礼賛な人生(=あまり尊敬できない人生)を送っていることは見れば分かります。
>そのような人から、思いやりのない態度で(スピリチュアルにおいては、「苦しみ」は全て自分の心の持ちようから創り出されるものとされるので、人の痛みを理解することができなくなり、いつしか人の持つ思いやりが消えていきます。
>スピの「全部自分に還元主義」(全ての物事は自分次第で、良くも悪くもなるというスピの根本思想。私はこれを、全部自分に還元主義と呼んでいます)な言葉を浴びせられた日には、不愉快を通り越し、バカバカしくて付き合いきれません。
>また、人生のヒントが見つかるかもしれないと期待して、まともに彼らの話を聞いてみようと思った人は、一応耳を傾けてみて、付き合ってきた時間の分だけ、深手を負って行きます。 >私はこの「二極化」という言葉を使ったところで、スピリチュアルが尻尾を出したと思いました。この言葉こそ、スピリチュアル思想の欺瞞が象徴されているのです。
>「二極化」という思想は、二つの大きな意味を持ちます。
>そのうちの一つ、「二極化」という言葉を使った時点で、スピリチュアルがまやかしであり詐欺的であることの証拠になるということを説明しましょう。
>詐欺師というのは大抵、「二択」を迫ります。「これを申し込めば凄く儲かりますよ?申し込まなければ得るものはありませんよ?」100かゼロか、です。中間はありません。そして、考える余裕も与えてくれません。
>詐欺ではありませんが、大昔に振り袖を買おうとした際、百貨店のセールス担当者からいいことを聞きました。
>人は、あれかこれか迷った場合は選べるが、選択肢が3つ以上になると選べず、「また考え直す」と言われてしまうので、二択に絞るのがいい・・・のだとか。心理学的に、人間は選択肢が多いと選べないんですって。
>確かにその通りになり、候補4着の振り袖を前に、結局選べず、あれだけ時間を割いたにもかかわらず振り袖は買えませんでした。
>「母さん助けて詐欺」「オレオレ詐欺」も同じです。そこにある選択肢は、電話の向こうの息子を、助けるか、助けないか。「ちょっと考えさせてくれ」「後で電話をかけ直す」「家族に相談してみる」という選択肢はありません。
>電話の向こうの息子が「今すぐに助けて欲しい」と言ってるので、助けるか、助けないかの二択です。
>しかしここで大きな過ちがあります。
>その二択の前提そのものが、存在していないのです。
>「儲かる話」など存在しない。息子は助けを求めてなどいない。
>しかし、騙される人というのは、その前提の存否を考えてみることもなく、詐欺師に与えられた前提を所与のものとして、受け入れてしまう。
>二択を選ぶという時点で既に、騙されているわけです。 スピリチュアルはカルトです!思考を奪われ、お金を奪われ、人生を奪われないよう気をつけてください!
http://c-sakuranbou.hatenablog.com/entry/2016/06/24/083000
>スピリチュアルリーダーに傾倒している人というのは、
>自分の考えに自信がないか、
>自分で考えることをしてこなかった人だと思うんですよね。
>もしくは自分で考えることが出来ない精神状態に陥っているか。
>例えば、医者だ、弁護士だって、
>頭がいいと言われる職業の人でも、
>自分の頭で考えてない人っていると思いますよ。
>テスト範囲はここから、ここまでです!
>この仕事はこうやります!
>と言った決まり切ったことを覚えるのは得意、
>「与えられたこと」をこなす能力は長けてはいても、
>自分の頭で考えるって別物だと僕は思うんですよね。
>自分の頭で考えなきゃ楽ですからね。
>人に判断を委ねているから、スピの住人さんは、
>スピリチュアルリーダーの言葉を
>無条件に受け入れてしまうんでしょうね。
>そのスピリチュアルリーダーが批判されると、
>自分自身が否定された気持ちになり、
>ヒステリックになる。
>そうじゃないですかね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>人に判断を委ねていると(依存していると)、
>いつまでたっても幸せにはなれません。
>自分の力で幸せを手に入れることなんて出来ません。
>思考を奪われ、お金を奪われ続けますよ。
>そして最終的には人生を奪われます。 >彼らスピリチュアルリーダーは、
>いかに依存させ、
>いかにお金を払ってもらうかしか考えていません。
>彼らの言動を見てください。
> 依存させるようなことばかり言ってるでしょ。
>人を依存させて、承認欲求、自己顕示欲、
>金銭欲を満たしているんですよ。
>生きながらにして餓鬼道に堕ちたとしか思えない。
>まあ、彼らは彼らなりに自分の幸せを
>追求しているのでしょうが、
>彼らの幸せというのは、
>誰かの犠牲の上に成り立っていますからね。
>彼らはそれに気がついてないのか、
>気がついていても、何をしてもこの世はOK!
>と思っているのか。
>よくまあ、そんなことが出来るなと思います。
>てめえらの血はなに色だー!
>と言いたくなりますよ、ほんと。
>幸せって、自分で見つけるもの、
>自分の力で手に入れるものですよ。
>スピリチュアルリーダーなどに頼らず、
>占い、引き寄せにも頼らず、
>自分の力で幸せを見つけましょう。
>幸せを手に入れましょう。
>その力があなたにはあります! 洗脳―スピリチュアルの妄言と精神防衛テクニック@
https://misakiooi.wordpress.com/2014/03/29/tomabechi-8/
>■カルトの教義はシンプル
>≪≪宗教には、独自の教義があります。カルトも大きくなると教義を定めますが、基本的には3大宗教の教義に手を加えたものばかりです。オリジナリティは皆無と言ってよいでしょう。
>カルトにとって教義は、信者への指針となることは勿論、お金を集める為の方便となります。(中略)カルトの教義はとてもシンプルです。日本では日本仏教と神道をアレンジした程度が大半です。
>逆に、力を入れて複雑な教義にすると、かえって自分の首を絞めかねません。
>第1章でも述べましたが、カルトには必ず魂の永続性や、生まれ変わりの論理が入ってきます。後は、カルマか穢れのどちらを取り入れるかでしょう。
>カルマは自分自身の生まれ変わりに関係していますが、穢れは道教や神道の概念で、人から人へと移ります。
>親から子へ、或いは周囲の人へと、伝染病のように移ると考えられています。
>被差別民や月経中の女性を近寄らせず、忌み嫌ったのは穢れが移るという概念からです。
>日本仏教には、生まれ変わりやカルマ、或いは穢れの概念が少なからず入っています。
>その為、日本人はこれらの概念を信じ易いものです。
>しかし、何度も言うようですが、これらの概念は信仰と結び付くことで圧倒的な差別主義を生み出します。
>しかし、カルトにとっては、差別主義かどうかなど関係ありません。
>死後の世界における、これらの概念は日本人には受け入れられ易いので嬉々として取り入れています。
>カルマの論理で言えば、前世という概念を使うかどうかは別として、魂は永遠です。
>死後の世界もあります。「今、あなたが苦しいのは、魂が磨かれている証拠。
>その苦しみを受け入れると、あなたの魂は大いに磨かれ、来世では良いことがあるでしょう」となります。 >更に、もう1つ教義に何か加えるとしたら、「執着、煩悩をなくせ」という考えでしょう。
>これは一見、もっともな考えと思う人もいるかも知れませんが、裏を返せば、「全財産を置いていけ」を意味しています。
>カルトはお布施を貰わなくてはいけないので、「この世で苦しんだほうがいい」という論理も認めさせなければなりません。
>「この世で苦しむ=お布施を払う」というわけです。カルトの殆んどは、これも取り入れています。
>但し、表現としてはあくまでもオブラートに包んでいますが。
>後は、誰もが共感する道徳的な訓辞を適当にまぶしておきます。「皆に親切にしましょう」とか「人には愛をもって接しましょう」「大きな声で挨拶をしましょう」などです。
>基本的にカルトの教義には、好いことしか書いていません。「金を搾取する」「日本人は皆殺し」と書かないのは当たり前です。これはスピリチュアリズムも同様です。
>霊や占いという不確かなものに、小学校でも学べる当たり前の道徳をミックスさせて「なるほど」と思わせています。≫≫ GLAには表裏ふたつの死生観があるようですね。
表の死生観は、「永遠の生命」、「円環的人生観」として発表されています。
これは会員を集めるための死生観です。
裏の死生観は、「祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと
共に遺骨を奉納することで、このうえない歓びと誇りを得る」という死生観です。
これは、会員からお金を集めるための死生観です。
二つの死生観、表裏一体の双方が揃ってこそ、高橋一族が潤うのでしょう。 http://kennsyoukai.info/syukyo-hamaru-riyu-sinri/
>一度入ると抜け出せない「迷宮」。それがカルト宗教の世界です。
>では実際に、僕がカルト宗教にハマっていた当時の心境を回顧し、経験則の上からお話していきたいと思います。
>まず、「ハマる」というのはどのような心理状態かというと、それは即ち、
>「依存している」
>ということです。
>依存ですから、しばらくそのことに触れていないと「禁断症状」が生起されます。
>顕正会の場合、キーワードは「感激」。
>「感激」を端的に説明すれば、「この宗教は絶対だ!」という感覚的な「確信」。「ぅおぉぉ〜!スゲ〜!」という胸の高鳴り。連続的な恍惚感です。
>「感覚的」なものですから、根拠はありません。しかし、「教え」に触れることによって、その「感激」が活性化されることを「感覚的」に理解しているのです。
>しかし、「教え」に触れて膨らませた「感激」は、一旦教団の活動から離れ、外界の情報に晒される中に、徐々にしぼんでいきます。
>すると「危機・恐怖・焦燥感」が湧き上がってくるのです。
>早く「教え」に触れなければ、生活は空回り、何かとんでもないことに巻き込まれるかもしれない…。
>例えば、喫煙者の「ニコチン切れ」のようなもので、急いで供給しなければならないわけです。
>彼らは「感激」を供給するために足繁く会館に通ったり、会が発行する機関誌を繰り返し読んだり、仲間や先輩、後輩と常にコンタクトを取るのです。
>一定の「感激」を保っていないといられないのです。
>これはもう「依存」なのです。 https://blogs.yahoo.co.jp/swkn777/31958289.html
>自己啓発本は、成功事例の寄せ集めである。要は、自慢話。「上から目線」にて「ああしなさい」「こうしなさい」の連続。
>「目標達成」「夢を叶える」「楽しく幸せに生きる」といったバラ色人生をタイトル(ニンジン)にして「カモ」を誘き寄せ、
>あたかも「真似をしたら、成功できる」と匂わせる。「カルト」なら「題目を唱えたら幸せになる」と匂わせ、
>「スピリチュアル」なら「パワーストーンブレスレットをはめたら恋愛成就する」と匂わせ、
>「占い師」なら「〇〇線が長いから長生きできる」と匂わせ、「霊能者」なら「お墓参りをしたら幸せになれる」と匂わせる。
>皆さん、上記を読んで何か共通点に気づきましたか?
>そう。「自分の意思で何も判断していない点」(依存)はっきり言っておきます。
>彼らに頼ったら、「お金」だけでなく「魂」までも奪われ続けますから。おまけに言われ放題、馬鹿にされ放題である。
>そもそも、「鵜呑み」がよくない。「自己啓発本の著者」「カルト教祖」「スピリチュアルカウンセラー」「占い師」「霊能者」もあなたと同じ人間。
>当然、間違えます。だから、しっかりと「疑うべき」です。「私の言うことは、絶対正しい」なんてありえないのですから。
>特に実績や部数に拘る詐欺師にはくれぐれも御注意ください。お金儲けしか考えていないと言ってもよい。
. どなたか新スレ立てて頂けませんか?無理そうなら、分家(SC)の方に立てますが。
タイトル: GLA【高橋佳子】の死生観
名前: 神も仏も名無しさん
内容:(以下の通り)
このスレッドは、宗教法人GLA(主宰:高橋佳子)の死生観、その他、宗教法人GLAに
関する話題を議論するスレッドです。
GLAでは、「人間は永遠の生命を抱く魂の存在」と捉え、「死んだら終わり」
ではなく、魂はこの世(現象界)とあの世(実在界)を往還しながら、進化と成長を
果たしてゆく「円環的人生観」が説かれています。さらに、そのような死生観に基づき、
GLAでは独自の葬儀や人生祈念館への人生記録・ご遺骨の奉納、特別供養などの葬送が
行われていること、そのことによって人生がまったく変わり、希望と安らぎを得ている
会員の実践についても日々発表されています。
しかし、GLAの死生観について、若干の疑問の声があることも事実ですので、ぜひ、
GLA会員の皆様からのご教示をお願いします。
(参考スレ)
GLAの遺骨崇拝 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1415245309/
GLA【高橋佳子】の遺骨崇拝2 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1451819519/
GLA【高橋佳子】の遺骨崇拝3 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/
【隔離】GLAを憂う元会員の独り言【ちらしの裏】 "http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1485339463/467-n" SCのほうに立てました。■は削除で
http://ai.2ch.s■c/test/read.cgi/psy/1512431122/ 墓とか遺骨ビジネスは、近所の久保田家晃進からパクったのかな? 死んだら終わりじゃないから
死んでから先を考えてどうこうは結局の所、
従来からある宗教と同じ非常で非常に俗っぽい考えではないだろか?
その不安と下世話な思いと微かな願いに付け込んだビジネスが遺骨崇拝であり奉納であり供養である。 GLA独自の教義って無いよねw
どれも元ネタがあるwパクってパクって寄せ集めw無能かな? 三代目は、どうする気?
やっぱり身内からだろうけど候補者とかいるの? 2014年、関芳郎は、次のような奇怪な言葉をGLAホームページに掲載した。
http://megalodon.jp/2014-1112-0925-12/https://www.gla.or.jp:443/support/kinenkan/p7.php
> 人生祈念館地階には、人生を支えた肉体への感謝を込めて、「ご遺骨」
> をお預かりする「納骨室」も設けられました。大いなる存在の光が常に注がれ、
> 見守られている中で、ご遺骨は安置されます。
> とりわけ、祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと共に
> 奉納できることは、魂の道を歩む一人ひとりにとっての歓びであり、
> このうえない誇りにほかなりません。
この奇怪な言葉は、今日もなお、GLAそして佳子先生を貶め続けている。
この「貶め」は、一体いつまで続くのだろうか?それは、現状を放置する限り、
際限なく続くであろう。この事態が何を呼びかけているのか、明らかであろう。
既に述べたことと重複するが、改めて述べることにする。
まず、「GLA」の名によって社会発信された奇怪な言葉は、「GLA」の名
によってのみ、撤回することができる。具体的には、GLAホームページに、
「お詫びと訂正」の記事を掲載するしかあるまい。 次に、愚かな社会発信が再びされないように、システムを整えることだ。
そのためのヒントは、「コミュニティ・デザイン2001」、「社会発信力の強化」
という形で、既に佳子先生が示されている。
私は、その具体的な内容はほとんど知らないが、少なくとも
「社会発信は、社会発信の智慧の鍛錬を受けた者が担うこと」、
「社会発信の内容は、複数人の智慧を結集して合議により決定すること」、
等は含まれているだろう。この2点だけでも実現すれば、「関芳郎の軽薄さ」が
そのまま「GLAの軽薄さ」という形で社会に垂れ流しにされることは防止できる。
そして、>>268-270に書いた通り、関芳郎を問い質し、奇怪な言葉がGLAホームページ
に掲載された経緯を明白にすることだ。
関芳郎が奇怪な社会発信をした背景には、必ず佳子先生の御指示が存在するに
相違ない。そして、その御指示の中には、例えば、「信次先生の遺骨を
祀れるようになったことに、GLA会員の皆様が歓びと誇りを感じられるようにせよ」
とのお言葉が含まれていたものと考えられる。
佳子先生の御指示の内容を明白にしなければ、それを遂行してゆくことはできない。
それゆえ、関芳郎を問い質し、経緯を明白にしなければならないのだ。 私は、これまで、上述したことを「関芳郎と茶坊主どもが遂行すること」
を求めてきた。それは、彼らとて、内界を看取り、自らのカルマを掴む鍛錬を
積んできたはずであり、「自浄能力」を発揮できるはずだと考えていたからだ。
しかし、この点では、私の考えは間違っていたと認めざるを得ない。
関芳郎は、己の見栄と体面に執着し、己の見栄と体面を傷つける行動を
取ることは望まないだろう。茶坊主どもは、己の保身、快苦に対する執着
から逃れられず、関芳郎に媚び、関芳郎のケツの穴を舐め続けるだろう。
関芳郎と茶坊主どものカルマは深く、腐れ根性が魂に染みついている。
彼らに「自浄能力」なるものを求めるのは無理なのだ。
既に述べたように、GLAの事務局には、志ある職員も多く存在するが、
この問題に対しては一切動かないように、佳子先生がストップをかけられて
おられるように見受けられる。 佳子先生が志ある職員にストップをかけられている理由は、在家の会員が
覚醒してこの問題を解決してゆくことが呼びかけられているからであろう。
GLA誌2001年6月号には2001年善友の集いの特集記事が組まれており、61ページには、
「二十一世紀に向かうGLAのヴィジョン」が示されている。その中の一つに、
「共同体の変革一 ――押し上げる力の結集」というものがある。
在家の会員が覚醒するということは、2001年に予言された「押し上げる力の結集」
を具現してゆくということである。そして、押し上げる力を結集してゆくことは、
「GLAホームページに奇怪な言葉が掲載された」という問題を解決するのみならず、
未来のGLAにとって欠かすことができないものであろう。
今、在家の会員が声を上げて、次の4点を実現することが呼びかけられている。
在家の会員の皆様には、是非それを実現して頂きたい。
(1)GLAホームページに訂正記事を掲載させるよう、事務局に要求すること
(2)社会発信のシステムを整えるよう、事務局に要求すること
(3)奇怪な社会発信をした経緯を明白にするよう、事務局に要求すること
(4)経緯が明白になり、佳子先生の御指示の内容が明白になった後は、
在家の会員が率先してその内容を吟味し、遂行してゆくこと。 在家の会員が、「押し上げる力」を結集して関芳郎と茶坊主どもを
動かしてゆくこと ...... それは、関芳郎と茶坊主どもにとっても、
おぞましきカルマを超えてゆける稀有な機会であると言えよう。 2018年新年早々から「ケツ舐め」言いたかっただけやん 宗教は絶対服従社会。
教祖が白といえば白。黒といえば黒。
思考すら自由性を失墜させられ都合良き価値観を植え付けられていく。
スレ主自体が教祖のケツを舐め続けている実態に気付いていないのは滑稽の極みである。 遺骨を髪の毛や爪に置き換えてみよう。
この上ない歓びの正体がどんなものか分かる筈です。 >>501-505 に書いたことは少しおかしかったと思う。もう一度検討してみた。
GLA会員の中には、「自分は神理を世界に広めるため、伝道に尽くしたい。しかし、
GLAホームページに奇怪な言葉が書かれたことによって、伝道に支障が生じている。
なぜ、このようなことが起こっているのだろうか?」と疑問に思っている人が
いるかもしれない。
なぜ、このようなことが起こっているだろうか?
その前に、「伝道に支障が生じている」とは、具体的にどのような事なのだろうか?
GLAに縁のなかった人が佳子先生の御著書に触れたとき、その内容に共感する人が
しばしば現れる。「共感する」ということは、GLA、佳子先生に対してプラスイメージを
抱くということである。その人がGLA、佳子先生に興味を持って、インターネットで
検索したところ、GLAホームページに掲載された「奇怪な言葉」に出会ったとしよう。
その時、その人は、GLA、佳子先生にマイナスイメージを抱くことになるだろう。
ここで「プラスイメージ」と「マイナスイメージ」のどちらが大きいのか、
それは人それぞれであろう。「プラスイメージ」が大きい人を「A群」と呼び、
「マイナスイメージ」が大きい人を「B群」と呼ぶことにしよう。 A群の人の想いを言葉で表すと、例えば、次のようになるだろう。
「開祖の遺骨を使ってお金を集めようとするGLAの姿勢は理解に苦しむ。しかし、
高橋佳子先生の説かれている神理は、叡智に満ちた素晴らしいものであり、
その点を否定することはできない。釈然としない点はあるが、とりあえずGLAに
入会して神理を学んでみよう」
一方、B群の人の想いを言葉で表すと、例えば、次のようになるだろう。
「GLAの主張の中には、もっともらしいものが様々含まれている。しかし、実際に
やっている事は何だ?GLAは、遺骨に対する会員の執着心や選民意識を煽り、
遺骨ビジネスを展開しているではないか。そのような教団は信用できない」
A群の人は、「神理を理解する力」に優れ、それゆえにプラスイメージがマイナス
イメージを上回ったのだ。B群の人も、「神理を理解する力」を備えている。しかし、
それはA群の人ほど強いものではないため、プラスイメージよりもマイナスイメージ
のほうが強くなってしまったのだ。
「伝道に支障が生じている」とは、「B群の人に対して」ということであり、
A群の人に対しては、さほどの影響は無いということになる。 「B群の人に対する伝道」に支障が生じたのは、表面的には、関芳郎がGLAの
ホームページに奇怪な言葉を書き込んだためである。
しかし、関芳郎がそのような行為に及ぼうとしたとき、佳子先生がストップを
かけられなかったのも事実である。すると、「GLAのホームページ奇怪な言葉が
書き込まれたのは、佳子先生の御意向に基づくものである」と言えるだろう。
そのことは、さらに、「神の御意志による」とも言えるだろう。
過去20年以上に渡り、佳子先生はB群の人をGLAに迎え入れるため、様々な
準備を果たされたように思う。そのうちの一つは、佳子先生の御著書がより
多くの人に共感して頂けるよう、読みやすい内容になってきたということだ。
また、B群の人をGLAに招いてゆく「願い」と「志」を現在のGLA会員に醸成する
ために、1999年には「千年構想」を呼びかけて下さった。さらに、現在のGLA会員の
菩提心を発掘しつつ、B群の人を招いてゆく具体的準備を整えてゆくため、
2008年には、「7つのプログラム」の実践を呼びかけて下さった。 その結果はどうだろうか。過去20年近くの期間内に、「御著書」の面では、
確かにB群の人に共感して頂けるものが揃ってきたと思う。
しかし、「B群の人を迎え入れてゆく態勢」についてはどうだろうか?
「千年構想」は20年近く放置されてきたし、「7つのプログラム」は
10年近く放置されてきた。B群の人を迎え入れてゆく態勢は、何一つとして
整っていないのだ。つまり、「御著書」と、「GLAの態勢」との間に
大きなアンバランスが生じてしまっているのだ。
「B群の人を迎え入れてゆく態勢」が整っていない以上、B群の人を入会
させてはならないのだ。それゆえ、御著書に共感した人々のうち、A群のみを
GLAに入会させながら、B群を排除する「障壁」が必要になったのだ。
GLAホームページに掲載された「奇怪な言葉」とは、正にそのB群を排除する
「障壁」であり、その障壁は、現在のGLAにとって必要だから設けられたものなのだ。
「御著書」と、「GLAの態勢」とのアンバランスを解消してゆく目途が立たない限り、
「障壁」を撤廃することは佳子先生が許されないだろう。 「千年構想」も、「7つのプログラム」も、なぜ放置されてきたのだろうか?
「関芳郎や茶坊主どもが放置したから」というのは一つの事実であろう。
しかし、その事実を認識しながら、「関芳郎や茶坊主ども“を”放置した人間」
が存在するのではないか?
関芳郎や茶坊主に意見をすれば、彼らとの間に軋轢が生じるのは避けられない。
それは「苦」であろう。また、「千年構想」や「7つのプログラム」を進めよう
とすることも「苦」を伴う。しかし、何もせず、眺めているだけなら、「楽」
であり、「快」であるのだ。
「関芳郎や茶坊主どもを放置した人間」は、己の「苦」を避け、「快」を
追及する道を選んだのだ。その結果、千年構想も、7つのプログラムも、
20年に渡り、全く何も進まなかったのだ。
快苦に縛られて、「関芳郎や茶坊主どもを放置した人間」とは、一体誰か?
もしかすると、それは「あなた自身」ではないのか? 最初の問いかけに戻ろう。
「自分は神理を世界に広めるため、伝道に尽くしたい。しかし、GLAホームページ
に奇怪な言葉が書かれたことによって、伝道に支障が生じている。
なぜ、このようなことが起こっているのだろうか?」
このような疑問を抱く人に対して、私は次のように回答したい。
「“伝道”と“お世話”は一如であり、
お世話が可能な相手でなければ、GLAに入会させてはいけない。
あなたは、己の快苦に縛られた結果、
関芳郎や茶坊主どもを放置してきたではないか。
その結果、千年構想も、7つのプログラムも、放置されているではないか。
それは、それを必要とする人の“お世話”を放棄したということである。
“お世話”を放棄したならば、その対象者をGLAに入会させることはできない。
だから、その人々に対する伝道に支障が生じているのだ。」 GLAホームページに掲載された奇怪な言葉は、外部からB群の人々が集うことを
排除するとともに、「既にGLAに集っているB群の人々」をGLAから排除する力も
備えている。本スレを見ると、その兆候を強く感じるのだ。
> GLA【高橋佳子】の死生観
> https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512523045/
既に集ったB群の人々がGLAから去ってゆく直接的な理由は、GLAホームページに
掲載された「奇怪な言葉」であるかもしれない。しかし、その根底にある理由は、
「神理が理解できないから」である。神理が理解できないのは、彼らを神理の理解に
導ける研鑽、お世話の態勢が整っていないからだ。彼らは、神理が理解できないゆえ、
GLAの一つの汚点を見つけたら、GLAの全てが汚く見えてしまうのだ。
1980年代、GLAでは、既に集っている会員を外に弾き出す「会員の選抜」が断行された。
http://file.copyman.syoyu.net/GG.pdf
それから30年以上経た今、この悲しい歴史が、再び繰り返されようとしている。
それを押しとどめるためには、B群の人々をお世話してゆく態勢を整えるしかない。
快苦に翻弄される己自身に打ち克ち、千年構想、7つのプログラムを進めてゆくのだ。 ミニ北朝鮮だな。
狂信者諸君が、あの国の映像を見ると
とても他人事とは思えないだろうねw GLAの中で「世界に満ちる困に立ち向かってゆきます」などと誓願を立てる人がいる。
誓願するのは結構だが、具体的にどのような方法で、世界に満ちる困に立ち向かって
ゆくつもりなのだろうか?
自分で色々考えて実行しても、一時的なものに終わったり、局地的なものに
終わったりするだろう。それが全て悪いと言うつもりはないが、世界全体のことを
考えたとき、具体的な方法とは、佳子先生が示されている方法以外にはあり得ないのだ。
すなわち、千年構想のヴィジョンを描き、7つのプログラムを実践するしか無いのだ。
これらを放置しながら、「世界に満ちる困に立ち向かってゆきます」などと言うのは
「一時的な気分の高揚」に過ぎないことを自覚すべきだろう。
多くの人は、「自分のこと、家族のこと」で手いっぱいで、「世界のこと、全体のこと」
には無関心なのだ。だから、これまで、千年構想も、7つのプログラムも放置してこれたのだ。 ただ、多くの人は「伝道したい家族」、「神理を伝えたい家族」がいるのではないだろうか。
あるいは、「GLAに入会はしたけれども、神理にさっぱり関心が無い家族」がいるのでは
ないだろうか。そのような家族は、上に挙げた「B群」に属する人だろう。
ならば、その家族に神理を理解して頂き、神理に関心を持って頂くための最も早道は、
「B群の人々全員に道をつけること」であろう。すなわち、「千年構想のヴィジョンを
描き、7つのプログラムを実践する」ことなのだ。「世間のB群の人は放置しておいて、
自分の家族のB群の人だけに道を付ける」というのは、かえって難しいことなのだ。
「世界のこと、全体のこと」に無関心であったとしても、「自分の家族のこと」に
ついては無関心でいられないだろう。ならば、自分の家族のために千年構想の
ヴィジョンを描くことはできないだろうか?自分の家族のために7つのプログラム
を実践することはできないだろうか?
その実践は、とても大きな意味を持つだろう。実践をスタートするときの願いは
「自分の家族のため」であったとしても、実践の内容は、「一切の人のため」の
ものになる。その「行為=実践の内容」から入って、願いの内容を
「一切の人のため」に昇華させてゆける可能性があるのだ。
このように、自分の目的をより昇華させてゆくこと、高度化してゆくこと、言葉を
換えれば、「個の目的」を「全体の目的」に一致させてゆくことは、「悟りの九段階」
の表を見れば解るように、菩薩になってゆく上で欠かせないことではなかろうか。 7つのプログラムの中の示されている様々な普通名詞を、
固有名詞に置き換えてみるといいかもしれない。
例えば、「研鑽の充実」については、『会員お一人お一人の条件とライフ
スタイルに応じ、「魂の学」を体得できる研鑽システムを整える』という
テーマが示されている。
この、「会員お一人お一人」というのを、神理が理解できず、神理に関心
が持てない、あなたの息子の「○雄」に置き変えてみたらどうだろうか。
すなわち、「研鑽の充実」とは、『「○雄」の条件とライフスタイルに応じ、
「魂の学」を体得できる研鑽システムを整える』ものになる。まさに、
その通りであり、「○雄」のために「研鑽の充実」があるのだ。
ならば、関芳郎や茶坊主どもが何もせずに「研鑽の充実」を放置している
のを見て、あなたは黙っていられなくなるだろう。 >ならば、関芳郎や茶坊主どもが何もせずに「研鑽の充実」を放置している
> のを見て、あなたは黙っていられなくなるだろう。
直接自分で言え。
直接自分が言え。 こんにちは。
スレ主です。このスレは私が立てました。
「GLAを憂う元会員」が立てたわけではありません。
私は彼が皆の意見や指摘を無視した発言を続けている様子を見て
隔離し、彼に自由に『持論』をどうぞ!
という気持ちでこのスレを立てました。
これからも彼は『持論』を曲げずに押し通すでしょうから
彼への無駄で無意味なツッコミはやめましょう。
GLAを憂う元会員は、永遠に関芳郎氏への積年の不満や恨みを語り死を迎えるでしょう。
誰よりも関芳郎氏のケツの穴を舐める事を生きがいにしている男です。
どうか皆様、彼の『持論』のためのスレですので、スルーしてくださいね。 関先生のことより、もっと世界にはびこる闇について憂えてほしいものである。関先生は、佳子先生がいるから大丈夫でしょうに。久々の書き込みだけど、来てみると延々と続いているものだね。 >>521
GLAの会員です。
彼の持論はいまいち、わかるようなわからないような感じです。佳子先生の言葉はあれほどわかりやすいのに、彼の論は難解です。悟るということは、自分の世界をとおして相手がわかる、皆同じ心の世界ですから、必ず相手にわかるように説けるはずなのです。
わかりにくいのは、彼だって私達一般会員と同じように本当には悟っていないからです。みのほどを教えてあげてください。 (>>517-519 の続き)
既に述べたように、関芳郎と茶坊主どもは、佳子先生がご指示下さった
「千年構想」、「7つのプログラム」を放置している。そして、大多数の
会員は、関芳郎と茶坊主どもを放置している。
そのような放置プレイが20年に渡り続いた結果、>>517-519 に述べたように、
明らかに目に見える形で歪が起こり、既に多くの痛みが生じている。
これらの痛みのうち幾つかは、あなたの目前で生じている場合もあるだろう。
あなたは、この結果を見て、まだ事態を放置するのだろうか?
「誰かが動いてくれるはず」と思って傍観しているのだろうか?
ならば、あなたは「果報側人類」に違いない。
(但し、佳子先生からストップをかけられている人は例外として除く)
「果報側人類」と「因縁側人類」の区分けは、状況、条件によって異なる。
自分の家庭や職場の問題で「因縁側人類」として振る舞えたとしても、
GLAの問題に関しては、あなたは明らかな「果報側人類」である。 「果報側人類」が「因縁側人類」に転換してゆくには何をすればいいだろうか?
そのためには、なによりも「自分が果報側人類である」ことを自覚することであろう。
あなたは「佳子先生のご指導を愚直に実践してゆこうとする弟子である自分」
というセルフイメージを持っていないだろうか?そのセルフイメージは全く
の誤りである。あなたが関芳郎と茶坊主どもを放置している理由は、
「己の保身のみ」であり、それは「愚直さ」とは全く無縁のものである。
誤ったセルフイメージを持ったままでは、「因縁側人類」に転換してゆくことは
難しくなる。誤ったセルフイメージを捨てて、「自分が果報側人類である」
ことを自覚し認めることだ。そして、果報側人類としての自分が引き起こした
現実を直視すべきなのだ。
そうすれば、そこに「後悔」が生じ、「新生の願い」が生まれるであろう。
「新生の願い」を真に抱くならば、「果報側人類」から「因縁側人類」に
転換してゆける道が付いてくるだろう。 >GLA【高橋佳子】の死生観
>https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512523045/82-115
本スレでは、GLAホームページに掲載された「御魂を奉納する」、「光の柱」
などの言葉を巡って議論が起きているが、この議論も佳子先生のお言葉と
関芳郎の言葉がごっちゃ混ぜになっているから起こっているのではないだろうか。
世間では、「魂」や「心」というものの定義が曖昧で、両者の区別も
はっきりしない。しかし、佳子先生は「魂」や「心」という言葉を、かなり
厳密に区別して使っておられる。佳子先生が示された神理によれば、「魂」や
「心」というものは、建物(人生祈念館)に奉納できるはずがないのだ。
「建物に魂を奉納する」するような言い方をしているのは、関芳郎や茶坊主
どもの仕業であるとしか考えられない。このように、佳子先生が示された
神理から全く外れた主張がGLAホームページに展開され、これによって誤解が
生じているとするならば、それは正に「社会発信力の強化」を放置してきた
結果であろう。 ある会員が、どこそこ支部に「光の柱」が建つ光景を霊視で見たそうです!
とかいう実しやかなGアルアルの噂話w
失笑話でしかないアホエピソードw 「千年構想」と「7つのプログラム」について、「難しい」と思っている人は
多いかもしれない。何が「難しい」かと言うと、例えば次のようなものだろう。
・態勢作り、役割分担等のお膳立てができていない。
・内容が高度である。
・ヒントとなる情報が少ない上に難しい。
:
では、なぜこれほど難しい課題を佳子先生が与えて下さっているのだろうか?
その答えは、「全ては一人の菩薩を産み出すため」である。
佳子先生が「お膳立て」をしっかり整えられ、解りやすいヒントを多く
出して下されば、「千年構想」も「7つのプログラム」も、スムーズに進捗
するだろう。しかし、それでは菩薩を産み出すことはできないのだ。
「GLA創立40周年記念プロジェクト」のテーマは、「全ては一人の菩薩を
産み出すため」であった。すると、喜捨行も書写行も、「一人の菩薩を
産み出すため」のものであったことになる。また、GLAの様々な研鑽や行も、
「一人の菩薩を産み出すため」のものである。 しかし、喜捨行や、書写行にいくら取り組んでも、それで菩薩になれるという
わけではない。同様に、止観シートを何万枚書いたとしても、それで菩薩に
なれるというわけではない。
これは、「数学者になるためには、まず小学校レベルの四則演算を修得
しなければならない」ということと似ている。四則演算を修得しない限り、
数学者にはなれない。しかし、四則演算をいくら極めたところで、
数学者にはなれないのだ。
これに対して、「千年構想」と「7つのプログラム」は、より直接的な意味を
持っている。それは、「今生の人生で、現実に菩薩になる」ということだ。
だから難しいのだ。だから、志、愛と智慧を湧出させない限り、何も進まないのだ。 今生の人生で、「現実に菩薩になる」というテーマを逃してしまえば、
そのテーマは、来世以降に持ち越すことになる。しかし、今生与えられた
チャンスを逃してしまえば、来世以降にそのテーマを果たすことは極めて
困難であり、事実上不可能と言い切ってもいいだろう。
それは、「一人の菩薩を産み出すため」に、佳子先生が何を果たして
下さっているかを見れば明らかである。佳子先生は、少なくとも次の
三つの力を発揮して下さっていることが解る。
A.十年先、二十年先のことを見通す力
B.ぎりぎりの線を見極めたヒントを出す力
C.菩薩の力をを封じる力
では、三つの力のそれぞれについて、説明しよう。 【A】十年先、二十年先のことを見通す力
「千年構想」については約二十年、「7つのプログラム」は約十年、
何も進まず放置されている。そして、これまで述べたように、
放置されていることによって様々な弊害、痛みが生じている。
しかし、それは「取り返しがつかない」というわけではない。今からでも
取り組めば、充分に果たしてゆけることである。このことは、十年前、
二十年前に遡って眺めてみると、佳子先生は「十年先、二十年先に必要な
ことを見通され、的確に提言された」ということになる。
菩薩になれる可能性のある人が、その事に目覚め、挑戦を果たす
ようになるまで、十年、二十年という時間が必要になるのだろう。
一人の菩薩を産むためには、その期間「待つ」必要がある。
「十年先、二十年先のことを見通す力」が無ければ、それだけの期間
「待つ」ことは不可能である。つまり、それができない指導者は、
自分の手で具現するしか方法がなくなる。 【B】ぎりぎりの線を見極めたヒントを出す力
一人の菩薩を産むためには、ヒントを出して具現を果たさせる必要がある。
しかし、ヒントが難しすぎた場合には、具現を果たせない。
一方、ヒントが易し過ぎた場合は、具現はスムーズに進むが、
それでは菩薩の境地を育むことができなくなる。
一人の菩薩を産み出すために、難しすぎず、易し過ぎない、ぎりぎりの線を
見極めたヒントを出す力が無ければ、一人の菩薩を産むことは困難である。
【C】菩薩の力をを封じる力
過去世において、既に菩薩の境地を獲得している人は、GLAにとって必要な
存在である。しかし、未だ菩薩の境地を獲得していない人の中から、
一人の菩薩を産み出そうとしているとき、既に菩薩の境地を獲得している人が
手出し、口出しをすれば、それは「修行の妨害」でしかない。
「既に菩薩の境地を獲得している人」とは一体誰なのかを見極め、その力を
的確に封じることができなければ、一人の菩薩を産むことは困難である。 「今生与えられたチャンスを逃してしまえば、来世以降にそのテーマを
果たすことは極めて困難であり、事実上不可能」と言ったのは、
この「三つの力」を発揮できる人には、まず出会えないからである。
歴史上の人物の中で、この三つの力を兼ね備えた人を一人でも
知っているだろうか?一人もいないであろう。
ならば、来世に出会うことも、到底期待できないだろう。
三つの力が働かないところで菩薩になる修行をするのは、
非常に難しく、厳しいものである。
だからこそ、今生与えられた稀有なチャンスを、
絶対に逃してはならないのだ。 >>530->>535
GLAを憂う元会員氏、あなたは初めて持論を丁寧に解説してくださった。
このように「関芳郎のケツの穴を舐める茶坊主ども」という言葉を省くと
あなたは論理的な考えをちゃんと持っているかただと理解できました。
もちろん、私は退会者なのでアンチではありますが
下品な言葉を使わなければ、あなたの持論・意見に賛同されるかたも出てくると
思います。
関芳郎氏も高齢なので、高橋佳子氏を支える陰の統括本部長として
これからもあなたなりの解釈・持論を展開していってください。
そのために私はこのスレを立てました。
どうかこのスレを有意義にお使いください。
スレ主より。 >>536
なんだか意外ですね。
アンチの方が>>530-535 を理解して下さるとは、
思ってもみませんでした。
>>530-535 が理解可能であれば、この2つのレポートはどうでしょうか?
http://file.copyman.syoyu.net/GB.pdf
http://file.copyman.syoyu.net/GC.pdf
特に、この2つのレポートにある、「煩悩地図の原理」
「魂の因果律の全体像」というものは理解可能でしょうか?
もし、理解可能でしたら、話の続きをしたいと思いますが。 >>537 様
こんばんは。スレ主です。
「理解」はしておりません。
GLAを憂う元会員氏に対する「持論」への敬意とでも言いましょうか(笑)
ケツ舐め発言さえなければ、彼の「持論」のスレとして成り立つのでは、
という思いです。
真意は『GLAを憂う元会員氏もいつまでも退会した部外者がグダグダとネットの片隅で
関芳郎氏のような小物に対して同じことばっか言ってんじゃあねぇよ!」です。
乱筆乱文しんづれいしますた! >>538
> ケツ舐め発言さえなければ、彼の「持論」のスレとして成り立つのでは、
> という思いです。
残念ながら、「関芳郎のケツの穴を舐める茶坊主ども」
以上にぴったりした言葉は見つかりませんでした。
GLAの事務局はブラックボックスであり、外から中の様子を直接見る
ことはできません。しかし、ブラックボックスから時折出てくるものによって、
ブラックボックスの中の風景が見えてくることがあります。
私の目に映った「GLAの事務局」の風景は、「関芳郎が黙ってケツを
突き出せば、茶坊主どもが寄ってきて、ケツの穴を舐める」というものです。
実におぞましい風景ですが、実際にこの言葉通りのことがGLAの事務局で
起こっているようにしか見えないのです。おそらく、そのようにする
風土というか、暗黙の了解のようなものが、GLAの事務局に醸成されている
のでしょう。 >>539 様
こんばんは。スレ主です。
私の「持論」ですが、もはや高橋佳子氏もあなたの仰る「ケツ舐め星人」に
操られているのでは?と思っています。
若干19歳の女子大生が教祖になったわけですから、
関芳郎氏の力や茶坊主どもの協力なしでは現在のGLAはなかったことでしょう。
…と、まぁ再び「ケツ舐め論」になるので
これにて失礼いたします。 「ケツ舐め星人」とか「ケツ舐め論」とか
どんな宗教だよ ケツ舐め行為に疑問を持つ者は会員の選抜により退会したようです。
これが神の計らいなんですよ。 >>540
同感ですなw
彼女は親父さんの意向で
本人の意思に関係なく象徴として祀り上げられたんだと思います。
バックアップとして当時の若手講師団が任命され
邪魔な古手講師は権力によって排除されていったんでしょう。
祖師から上手にフラれ排除された講師達が、その後も祖師と法に片思いし続けた構図です。
彼等は利用価値がなくなったんでしょう。
若手達よりもずっと純粋だっただけ実に哀れですな。
まあこれは単なる邪推ですからw悪しからずw ケツ舐め関連の話題が止まりませんなw
実際には個人崇拝信者、個人崇拝信仰自体がケツ舐め行為に等しいわけw
分かるか?君達w
心の中の叫び
(先生!先生!)
これって精神的ケツ舐め行為だろ? 園頭広周、平井和正、罰天使…。これまで、GLAを誹謗中傷した
人間は何人も存在した。しかし、関芳郎と茶坊主どもほどGLAを
そして佳子先生を貶めた人間は、存在しない。
関芳郎と茶坊主どもは、GLA、佳子先生を貶めたことでは、
右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
例えば、誰かが「GLA会員は、高橋信次の遺骨とともに納骨できることに、
歓びや、このうえない誇りを持っている人たちだ」と著書に書いたとしよう。
そして誰かが、GLA会員に向かって、これが真実か否か質問したとしよう。
GLA会員はどうすればいいだろうか?簡単なことだ。
「その本に書いてあることは全くのウソです」と言えばいいのだ。 では、同じことが、GLAの名で、GLAホームページに掲載されたらどうだろうか?
「そのページに書いてあることは全くのウソです」と言えば、
「では、GLAはホームページに全くのウソを書くのですか?」と質問されたら、
何も答えることができないだろう。
このように、関芳郎と茶坊主どもは、「GLA」の名で、「GLAホームページを使って」
GLA、佳子先生を貶めたのだ。これは、末端のGLA会員が対処しようとして
対処しきれるものではないのだ。だから、関芳郎と茶坊主どもは、
GLA、佳子先生を貶めたことでは、右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
この行為によって、様々な痛みが既に生じている。
>>509-515に書いた「B群」の人々をGLAから徹底的に排除するという
結果を生み出しているのだ。
関芳郎と茶坊主どもは、自分たちの行為に対して、
どのように責任を取り、どのように償うつもりなのだろうか。 >>549
それは、責任の所在を曖昧にしておけという意味かな?
そうすると、同じような事が形を変えて何度でも起こるということだ。
関芳郎と茶坊主どもは、多くの人々を神理の道から排除した責任を取るべきだ。
責任を取るまで、何度でも追及すべきだ。
「責任を取る」とは、このような事が何故起こったのか?二度と起こらないように
するにはどうすればよいのか、明らかにすることだ。
その解答は既に何度も述べている。
一切の原因は、「千年構想」「7つのプログラム」を放置してきたことだ。
二度と起こらないようにするには、「千年構想」「7つのプログラム」を推進
することだ。関芳郎と茶坊主どもは、それを自ら述べ、実行することだ。 >>550
力強い言い切った文章、あっぱれ!
『お前が舵を取れ!』
長渕剛より >>548の続きだが、
関芳郎と茶坊主どもは、自分達の行為に対して、どのように責任を取れば
良いのか解らないかもしれないので、述べておこう。連中がGLAの
ホームページに書き込んだ奇怪な言葉は簡単に削除できることであるし、
現実に、既に削除されている。
しかし、「GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた」という事実は
未来永劫消し去ることはできない。そして、その事実によって、GLAに対して
人々が抱くマイナスイメージというものも消し去ることはできないのだ。
しかし、マイナスイメージがあるからと言って、それが直ちに、「B群」の
人々(>>509-515)をGLAから排除する結果にはつながるとは限らない。
>>509-515に述べたように、GLAを忌避するかどうかは、プラスイメージと
マイナスイメージの相対的な比較によって決まるのだ。
すなわち、大きなマイナスイメージが生じたとしても、それを上回る大きな
プラスイメージを醸成すれば、「B群」の人々を引き留めることができるのだ。 では、「大きなプラスイメージ」を醸成するにはどうすれば良いだろうか?
それは既に佳子先生が解答を示して下さっている。
非会員である「B群」の人々に対しては、「社会発信力の強化」によって
プラスイメージを醸成すればよい。会員である「B群」の人々に対しては、
「研鑽の充実」、「人生同伴態勢の充実」、「通信ネットワーク環境の整備」、
「拠点の充実」によってプラスイメージを醸成すればよいのだ。
そして、既に述べたように、GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた
背景には、千年構想を放置したために信次先生の遺骨を祀る意味が全く
理解できなかったということがあるだろう。
佳子先生が信次先生の遺骨を祀られた理由と考えられるものは、次のリンクに
既に書いている。
"http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640"
千年構想を放置してきたから、このことが見いだせなかったのだ。
ならば、同じような愚行を繰り返さないためには、「千年構想」を推進するしかあるまい。 では、千年構想と7つのプログラムを推進するには、何をすれば良いのだろうか?
千年構想にしても、7つのプログラムにしても、推進するには「智慧」が必要だ。
しかし、関芳郎や茶坊主どもには智慧が無い。智慧が無いのであれば、3万人の
GLA会員に、智慧を借りればよいのだ。
関芳郎や茶坊主どもに求められていることは、在家の会員同士で智慧の交換が
できるよう、例えばネットワーク上で意見交換できるような場を整え、その
場のコーディネートを果たすことだ。関芳郎や茶坊主どもに智慧が無いと言っても、
場を整え、場のコーディネートを果たせる程度の智慧は持ち合わせているだろう。
職員が場をコーディネートすべきことは、佳子先生が元々示されたテーマからも
明らかに読み取れることだ。 GLA誌1999年11月号の記事「GLA 魂共同体千年構想の始動」には、「GLA共同体の
千年構想の青写真に、一丸となってアクセスする」(79ページ)というテーマが
示されている。「誰か一部の人がアクセスする」のではなく、「一丸となって
アクセスする」ためには、千年構想についてネットワーク上で意見交換できるような
場を職員が整え、そのコーディネートを果たさなければならないことは明らかであろう。
また、7つのプログラムについて佳子先生が元々示された「願い」は、「菩提心発掘」
であった。すなわち、7つのプログラムは、ただ遂行すれば良いわけではなく、
「菩提心発掘」を伴わなければならないのだ。
「菩提心発掘」とは、誰の菩提心を発掘することだろうか?勿論、それは
「3万人のGLA会員全員の菩提心」に相違ない。7つのプログラムの取り組みを通じて
3万人のGLA会員が菩提心発掘を果たして行くためには、ネットワーク上で7つの
プログラムの意見交換ができる場を整えなければならないことは明らかであろう。 関芳郎よ。茶坊主どもよ。
お前たちであっても、智慧ある在家の会員から智慧を借りれば、千年構想も、
7つのプログラムも、推進できるのだ。そのために、
在家の会員がネットワーク上で意見交換できる場を直ちに整えよ。
そして、その場のコーディネートを果たせ。
お前たちは、GLAのホームページに奇怪な言葉を書き込んだ。
これは、既に述べたように、過去の歴史上、GLA、佳子先生を最も貶める行為だ。
お前たちの行為によって、GLAが嘲笑され、誤解を受けているのだ。
お前たちの行為によって、多くの人々の内に、佳子先生、GLAに対する
マイナスイメージが醸成され、その人々がGLAから排除されているのだ。
お前たちの行為は、万死に値する大罪と呼ぶしかあるまい。
お前たちが犯した大罪を償うには、千年構想と7つのプログラムを
推進するしか道は無いのだ。 >>558
そのような事を言うなら、佳子先生に言うべきだな。「やる気のない
人間をつついて動かす」というのは、実に非効率なやり方だ。
関芳郎に全くやる気がないならば何もやらなくていい、とも思うのだ。
関芳郎はさっさと引退させて、後任の総合本部長(誰になるかは知らないが)に、
関芳郎の尻拭いを担ってもらったほうが効率的だと思う。
しかし、おそらく佳子先生は、「効率/非効率」だけで判断されている
わけではない。「自分の尻拭いができないまま人生を終わる」というのは、
魂の次元から眺めると「実に悲惨な人生」になるのではないかな。
だから佳子先生は「せめて自分の尻拭いができるようになった後に
引退してほしい」と願っておられるのではないかな。そうだとすると、
現状のまま関芳郎本人が引退を希望しても、佳子先生は許されないだろう。 >>558
あなたは部外者です。
"You are a fucking loser !!"
ミカエルボーイズ&ガールズ(MBG)より
MBGの人たちってどのぐらい残ってるんだろう?
今はMJB? http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
実を言うと、さきの『大バリニッバーナ経』において死を前にしたブッダは、自分の死後、遺骨の供養にかかずらうようなことをしてはいけない、ということをいっている。
後に少し考えてもみるが、ひとこと付け加えておく。ブッダの死後、遺体は火葬に付されている。そのうえ、あとにのこされた骨灰は分配され、それをもとに仏舎利崇拝が生ずるようになった。
遺骨の供養にかかわるなといったブッダの遺言を、弟子や信者たちが裏切り、その生前の意志をふみにじってしまったのである。
ブッダはそのことを、死の瞑想のなかですでに予感していたのではないだろうか。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
つぎに『大バリニッバーナ教』が提起する第二の問題が、ブッダの遺体の処理に関わる裏切りである。思えば、この裏切りは決定的であった。
その後の仏教の運命を決定的にしたといってもよいからである。はたしてそのことについて、ブッダ自身は期がついていたのであろうか。
この経典の最終尾にあたるところで、ブッダはほとんど遺言をのこすようなことをいっている。おそらく気になってしかたなかったのであろう。それは一体何であったのか。
ブッダの次のような言葉をみてみよう。
『アーナンダよ。お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』
要するに、葬式と遺骨崇拝に心をわずらわせるな、といっている。遺骨を焼いて、その後で骨を拾ったり供養の対象にする必要はないとさとしている。
なぜなら大事な事は「正しい目的」のために努力することだけだからだ……。
ぶっだの遺言は明瞭である。その一点の曇りもない言葉をアーナンダとて疑う事はなかったであろう、が、本当に心のそこから納得していたのだろうか。
というのもそのブッダの遺言は裏切られ、その簡明な言葉を裏切るようなことが弟子や信者たちによって行なわれるようになる。
その動きをアーナンダはおしとどめる事ができなかったのである。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
こうしてブッダの遺骨に対する供養が始まった。搭に納められたブッダの遺骨、すなわち仏舎利にたいする崇拝が始まった。遺骨の供養を中心とする葬儀の原型がそのとき定まったといってもよいだろう。
だが、今述べたようにブッダ自身は、自分の遺骨の供養といったことにはいっさいかかずらうな、といいのこしていた。遺骨崇拝に走ることをかたく戒めていたのである。そのブッダの意志が一顧だにされず踏みにじられてしまった。
ブッダの最後の言葉にもかかわらず、あとに残された者たちの願望が強かったということになるのだろう。仏陀にたいする尊敬の念がブッダの気持ちを押しつぶして、大きく膨らんでいったのである。
『大溌涅槃経』というテキスト自体がブッダの遺言を裏切ってしまうということは、しかしながら、その裏切りは、死にゆくブッダにたいする追慕と喪失感がそれほど強大であったという意味でも有る。
死は人々は不安と混乱の淵につきおとす。その無秩序からはいあがるために、ブッダの遺骨に執着し、それを分配して搭に納められずにはいられなかった。
ブッダの遺言に反してまでも・…・事実はそう言う事ではなかったのではなかろうか。
アーナンダの裏切りによって仏教の歴史は始まり、そして今日のわれわれもまたそのようなアーナンダの徒として、仏教という一筋の縄にすがり付いているのである。
以後、アーナンダの徒はそのような死の荘厳と遺骨の崇拝を出発点として、仏教の歴史を動かしてきているのである。いまさら一体、誰がそのような仏教の運命から脱がれることができるというのか。
われわれはアーナンダから出発するほかない。ブッダの言葉を聞き誤まったアーナンダの徒として生きていくほかない。
あえていえば仏教の伝統はそこを原点として形成されたのである。仏教はブッダ殺しによって歴史の一ページをふみだしたのである。 リンク先が必ずしも真実じゃないんだから長文コピペやめれ
2500年以上前の事なんてネットの1個のソースくらいじゃ信憑性ないわ 火葬と土葬の結合と遺骨崇拝の成立
http://s-eizen.com/page36
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20090319/1237469639
>まず第一に、お墓があるのは、仏教国では日本だけである、ということを認識する必要がある。
>日本人は、仏教と言えば、お墓を連想するほど、お墓は仏教にとって不可欠のもの、仏教の一部だと、思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにもしない。しかし、 麻原、大川、藤谷のもとになったカルト
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