数理論理学(数学基礎論) その13
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数学基礎論は、数学の基礎づけを目的として誕生したが
現在では、数理論理学として、証明論、再帰的関数論、
構成的数学、モデル理論、公理的集合論など、 多くの分野
に分かれ、極めて高度な純粋数学として発展を続けています。
(「数学基礎論」という言葉の使い方には、専門家でも
若干の個人差があるようです。)
応用、ないし交流のある分野は、計算機科学の諸分野や、
代数幾何学、英米系哲学の一部などを含み、多岐にわたります。
(数学セミナー98年6月号、「数学基礎論の学び方」
ttp://www.math.tohoku.ac.jp/~tanaka/intro.html
或いは 岩波文庫「不完全性定理」 6.4 数学基礎論の数学化などを参照)
前スレ
数学基礎論・数理論理学 その12
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1509638068/ つまり
人→A
とは
矛盾を定義しているということ >>575
矛盾律は同一律や排中律とともにアリストテレス論理学からある2000年以上の歴史を持つ由緒正しい用語なのでそのような誤用は望ましくない
20年以上前にこの誤用が話題になりその時にはまだ爆発律という用語は無く適切な用語があるといいなという話になっていた
人はその頃はむしろ⊥より多く使われていた ちなみに無矛盾律
¬(A∧¬A)
は最小論理で証明可能な定理であって
「律」(≒公理)というのは面はゆいかも このスレって前から哲学系の学部1,2年生みたいなのが多いよな
矛盾律がうんたらかんたらいっても、形式論理学の入門書1冊やったら明確な答えがすぐに分かるやろ
何をそんな話題にずっとグダグダやっとんねん
ええ加減に先の話題に進まんかいや 所詮言葉だから誤用が広まれば使ってしまうこと自体は仕方ないのはわかる Aが真でもなければ偽でもないときは、¬¬A→Aは少なくとも偽ではない。
だから¬¬A→Aは排中律ではない >>583
Aが真でもなければ偽でもないときは、¬A∨Aは少なくとも偽ではない。
¬¬A→Aと¬A∨Aの真偽は一致するから排中律と呼んでも良い >¬A∨Aは少なくとも偽ではない
少なくとも真ではない、だろw >>586
>間違った。¬A∨Aは偽だ。
なんばボケちょるかw
偽ではなくて、恒真だろがwww ■論理は言葉なのか
“人間は言葉で考える”
これはあちこちで言われる定説のようなものですが
子供の頃は、これに対して非常な抵抗がありました
同じように感じる人もおられるかもしれない
思考というのは言葉に限定されるようなものじゃなく、
もっと広いものだ
言葉にできない“思い”はいっぱいあると、
そんな感覚というか確信があったわけです
ところがそこそこ歳をとって、浅知恵がついてまいりますと
言葉で表現できないようなものはそもそも思考ではない
それは単に上手く説明できない自分に対しての
悶々とした気分にすぎないのだ
などと思うようになりました、いい加減なものです
しかし子供の頃に感じたあの確信は、果たしてそのまま
ゴミ箱に捨ててよいものなのか
たとえば、計算はそれ自体、言葉なのか
それがもし言葉でないとするなら計算は思考ではない
ことになるが、そうなのか >>584
最小論理では排中律¬A∨Aから二重否定除去¬¬A→Aは導けない
逆は言えるけど “人間は言葉で考える”なんてイメージ思考ができない奴の戯言じゃん
イメージ思考は負荷が大きいから必要ない場合は手軽な言語思考で済ませるが
覚えておいて損はないぞ
俺は高校くらいの頃に立ち読みで知ったけど随分得した
本のタイトルなんぞ覚えてないから紹介はできんが >>588
恒真というのは任意の真理値が前提とされる ■人間やモノ不在のまま論理や集合を考える
なにも無い、としたいが、「無」は「存在」しない
なんらかの「存在」が必要なのだが、論理や集合は、
それに答えてくれるのだろうか
論理でもっとも基本的と考えられるのはTRUE,FALSEであろうか
これらはどこに「存在」するのか?
集合でもっとも基本的と考えられるのは空集合であろうか
これもどこに「存在」するのか?
論理は論理空間における位置の問題であるとしてもよいが、
集合は、そのものが空間である
空集合とは何か、そこから考えるのがよさそうだ
気が向いたら続きを考えよう 存在するしないが議論できるのも「場」があってこそだろ間抜けの空論。 >>594
同値というのは恒真という意味ではないのだが >>599
同値というのは、aとbが両方真か両方偽のとき真となる言明だ。 >>601
直観主義論理は二重否定除去をもっていず ┏┓┏┓ ┓┏┓
┏┛┃┃ ┃┗┫
┗┛┗┛ ┻┗┛
謹┃賀┃新┃年┃
━┛━┛━┛━┛ 考えるということはユニタリ変換であって、
情報が失われることはない、と考えたい
どのようなユニタリ変換をするということが
考えるということである
そうすると、集合とはなんなのか
素朴に考えれば情報の集まりとしての情報である
集合も考えるということのひとつになる
とすれば、情報の存在論が自然数論なのだろう
自然数論が存在論で、集合論が意味論であるならば、
論理学は...変換・変形なのだから...
なんだ?
哲学のなんらかの論に相当すると思われるのだが...
美学的ななにか?...倫理?...思想?...?
とするならば、認識論とはユニタリ変換である
可逆でなければならない
ほんとか? >>528
a/b ÷ c/d = (a/b)/(c/d) = (a/b)*b /(c/d)*b
= a /(c/d)*b = a*d/(b*c/d)*d
= a*d/b*c
∴ a/b ÷ c/d = a*d/b*c ■
#数学基礎論とは、さして、関係ないな。w 直観主義論理というのは実無限、選択公理に対する疑念がその起源だったはず。
排中律が実無限に拠っているということでその論理式であるp∨¬pをそれより弱い主張の(p→q)∧(p→¬q)→¬pに替えて使うのがハイティンクの直観主義的命題算。
その命題算はこれと残りの古典論理から導かれる。
¬¬p→pというのはヒルベルト=ベルナイスが示した公理系にある恒真式の一つ。 >>611
聞いただけ?
「もっていず」とは「公理ではない」という意味ではなくて? >>612
可逆計算と量子計算は普通に密接だろ。
そこら辺の話の元ネタが「ファインマン計算機科学」に載ってる。
日本の人文系基礎論厨房は実学寄りの計算機科学のお勉強すらしないの?。 このスレに数学基礎論知ってる人いないだろいい加減にしろ 私(わたくし)は。師_Alfred N. Whitehead と 私との共著である大糞本”Principia Mathematica”
並びに私の著 "Introduction Mathematical Philosophy"(「数理哲学序説」岩波文庫)
において、”PならばQである”と”PでないかまたはQである”とは(実質的に)同値である
旨のことを書いたのでしたが、これは完全なる誤謬であって、結果的に「20世紀の
論理学」をミス・リードしてしまいました。本当に御免なさい。 m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m >>589132人目の素数さん2019/01/08(火) 05:30:20.17ID:10lDqOPT
>■論理は言葉なのか
論理法則は、二階の命題であって、それらは言葉*でも*表わすことが
できるけれど、言語自体ではありません。
赤という色が、”赤”という漢字自体ではないのと同様に。
http://www.age.ne.jp/x/eurms/ >>620
Inter-universal geometry と ABC予想 36
ってスレでまさに言ってるが…… ytbさん、逆数学と二階算術は
ちゃんとした本じゃないと言いたいのかな?
田中さんは逆数学の専門家なので、彼の著書を貶して
専門家ではないスティルウェルの訳書を持ち上げるのは
いろいろおかしい。
だいたい彼は無駄にいろんな人をdisり過ぎだと思う。 ytb自身が数理論理学の専門家ではないしな
ShoichiroTにも「教員の立場として公の場での発言では配慮してほしい」と軽く注意されてるし、Twitterやらせちゃいけない系だと思う
哲学で数理論理学にそこそこ精通してるのは日本では貴重だから、そこは頑張ってほしいんだけどな >>627
>そこは頑張ってほしいんだけどな
何を呑気なことを言ってなはるの。自分で研究して御覧なさいな。
私はアメリカのとある大学の教員をしています。 大学は東大の
院をでたのですが、上には上があって苦労の連続です、、、、。 >>615
>p∨¬pをそれより弱い主張の(p→q)∧(p→¬q)→¬pに替えて使う
後者は最小論理で示せるぐらいだからあんまり意味ないんじゃ?
p, (p→q)∧(p→¬q) |- p, p→q
p, p→q |- q
p, (p→q)∧(p→¬q) |- p, p→¬q
p, p→¬q |- ¬q
p, (p→q)∧(p→¬q) |- q, ¬q
(p→q)∧(p→¬q) |- ¬p
この主張は
pを仮定して矛盾が出たら¬pを結論するっていう最小論理の公理と同値で
q, p→¬q |- ¬p
のタイプの背理法とも同値
直観主義論理で排除される背理法は
q, ¬p→¬q |- p
あと
(¬p→q)∧(¬p→¬q)→p
を公理にすると排中律が出ると思うよ 数理論理学以外の分野ではなぜ自然数nにたいして n+1=n∪{n} が意識されないように議論されてるんですか? それは単にZFCのuniverse Vの中で
自然数全体と同型な構造を構成する
一つの方法なだけなので。
n+1 = {n}と決めて解釈しても別に構わないし
同じように自然数の理論は展開できる訳で。
無限順序数の話は出来ないけど、あまり普通の数学で
無限順序数って頻繁に使われる訳じゃないよね。
自然数は数学のほぼ全ての分野で使うけど。
実数を構成するのに有理数体から、
デデキントの切断とコーシー列とどっちを使っても
同型の構造が作れるのと似たような話。 >>632
ペアノの公理を満たすものであれば何でもいいと言うことですかな。
でも数理論理学以外の数学ってZFCの基に議論が成り立っている(はず?)であり、
ZFCの公理から自然数はn+1=n∪{n}として構成されているのだから、
わざわざ同型な他の対象をもってして自然数として考えるというのは不自然だと思います。 そんなこと言ってると実数に含まれた自然数は自然数でない事になるぞ 自然数nの後者がn∪{n}と定義されるのってなんか本質的じゃない気がするんだよね。
nの要素数とnが一致するからってのは何か釈然としない。 そりゃ本質は公理系にあるわけで、具体的な構成方法に本質はないでしょ 本質が公理系にあるってどうゆう意味?
ZFCが本質的なのであって構成法は本質的云々言うべきじゃないって事? ペアノの公理系に本質があるってのならめっちゃ同意だけど実際ペアノの公理系は公理系として扱われてないでしょ 順序対を{{x},{x,y}}と定義することなんか、
性質だけが重要でコーディングの詳細はほとんど
どうでもよく非本質的である例の最たるものだけど、
そうは言っても最初に勉強するときは、
実際にはこの特定のコーディングの仕方に
依存して理論を作っていっているようにも
見えるので、ちょっとこういう
「お気持ち」を理解するのは難しいかも。
それに数理論理は分野によっては
(特に証明論系の分野では)
コーディングに依存しまくった定義や議論をするので
コーディングがどこまで本質的かは微妙な問題だよね。 物事を統語論的な面と意味論的な面に分けて考えた時に
統語論的側面にはそういう、意味の分からない煩雑さの
中に捉えどころのない物事の本性が隠れ棲んでいるような
ところがある。これを証明論の研究者のvan Dalenは
論理学のesoteric秘教的で神聖な’sacredな’側面であると
比喩的に呼んでいて云々、みたいな話を前したことあるな 圏論のLeinsterが、Rethinking set theory
https://arxiv.org/abs/1212.6543で、
ZFCを基礎とした公理的集合論を批判してて、
まあ個人的に八割がた難癖みたいに聞こえるんだけど、
直観的に実数と実関数は型が違う対象であるはずなのに、
全ての数学的対象を集合とみなして、コーディングを
デコードする人のキモチで区別するのっておかしくない?
みたいなこと言ってて、まあそれはその通りなのかなあ、
とも思うんだよね。 実数も関数も微分形式もスペクトルも集合な方が分かりやすいし、レンスターには同意できんな
レンスターのベー圏は原著が無料だったから読んで三章以外好きだけどね >>642 で俺が言いたい事を完璧に表現してくれた。
コーディングってのは俺の言う構成法の事でしょ。
レンスターはその「お気持ち」を理解した上でzfcを批判してるんだろうけど俺は理解せずに批判しているって事やね。
その「お気持ち」と言うのはさ、申し訳ないがどうにか噛み砕いて教えてもらえないかな。 お気持ちなどない
あえて言うなら、ただの記号列でそれを操作するゲーム、と捉えるのが気持ちだろう それについては分かってるつもりだよ
642で言われてるお気持ちと言うのが何なのかを知りたいわけ
じゃあさ、実数が集合の方が分かりやすいってのは何でそう思うの?
「1」と言う実数が集合であろうがなかろうが数学をする上で困らない様に思うんだけど 642で言ってるのは順序対の定義を変えれば他の結果も自明な変更で対処できるから、あえて別の定義を使う理由もないということだと思う
困らないけど分かりやすいじゃん
微分形式もスペクトルも取りかかる際「単に直感から生まれたもの」と捉えるより「直感から生まれた集合」の方が地に足がついてて安心感あるしね ん?順序対の定義を変えるとってどうゆう事だ?
要するにzfcさえ真理として認められてれば他に順序対だの実数だのは自明で決まるから新しく公理を認める必要がない的な? Wikipediaを見ればわかるが順序対の定義は上のだけではない
どれを使っても別に良いんだが、
直感的な理由で上のを定義として採用してるだけ
そうは言っても初学者が最初に勉強するときには、上の定義の形をあえて採用する理由があると捉えてしまいやすい
実際には「順序対の定義は性質が大事で、上の定義は性質を満たすもののうちの一つを何となく選んだだけ」というお気持ちがあることを初学者は気づきにくい
ということだろう あともう一つzfcを否定する理由があるんけどさ、
グッドスタインの定理ってのがあるらしくてこれはペアノ算術では証明できないけどzfcの上では成り立つらしい。
ペアノ算術は自然数の基本的な本質だけを記述してるけどzfc上での自然数はペアノの公理を満たした上でそれより少し強い性質を持ってるんだよね。
だからzfcを認めると本来自然数が持つべきでない様な性質を持って良い事になっちゃってる様な気がするんだけど。 集合は何か数学的対象の模型を作りたい時の
マテリアルとしては便利なんだけど、
所詮は石膏とか大理石とか粘土みたいなものに過ぎず、
イデア、概念はまた別にある。
そこら辺を区別せず、
万物は石膏でその像を形造る事が出来る、
と言うべきところで
万物は石膏である、みたいな言い方するから
「な訳ないやん」と反論されることになる >>652
自然数については、
そうではなくて寧ろ、本来自然数が持っているはずの
性質でも、ペアノ算術+一階述語論理の公理系から
導けないような種類の性質が存在する、と考える方が
普通だと思うけど。
実際、排中律が正しいならグッドスタインの定理と
その否定のどちらかは正しい事になるけど、
否定が成り立っていると考えるべき理由はないよね wikiの順序対見てきたけど、どの定義もzfcを認めた上での定義だから俺からしたら全部同じに見えるしそういう意味で言えばその「お気持ち」は俺には分かるよ。
さっきの定義で言えばクラトフスキーの定義に入るんだろうけど、別にどれを使っても良いと言うのも分かる。
まあ何と言うか俺は弱い定義とか公理を使って議論した方が良いと思ってるんだよ。
それで本質だけを示した定義か公理ならそれが最も弱いものになるだろうって感じ。
順序対のそう言う定義を考えるなら、
1.二つの要素を取ってきて、順序対を返す様な関数がなくてはならない。
2.任意の順序対には1番目の要素を取り出す関数と2番目の要素を取り出す関数が存在していなければならない。
3.1の引数と2の返値は一致していなければならない。
こんな感じかな。全然厳密ではないけど。
zfc上での順序対じゃなくてこっちを使いたい。 >>654
なるほどね。
つまりAかAの否定のどちらかは証明できる様な公理系を使うべきだって感じ?
完全性だっけ?
ちなみにグッドスタインの定理はペアノでは証明も反証もできないって事でペアノが排中律に反する事の証明にもなってる。
まあzfcでも何でも完全性の証明はできないらしいけど今の所排中律に反するようなものがzfcから見つかってないらしいからね。
それは俺が>>652で言いたかった事とは明後日の方向の返しではあるんだけどまあ一理あるとは思う。
じゃあ俺が>>652とか>>655で言ってる様な事と完全性は両立できないから完全性を取ろうって事でみんなzfcを認めた上で議論してるのかな。
俺的にはどうせ証明できない様な完全性よりも本質を捉えた定義の方が大事に思えるけど。 >>652では俺の言い方が悪かったよ。
本来自然数が持つべきでない様な性質を持って良い事になっちゃってる
って言ったけど。
zfcでの順序対がクラフトスキーの定義である様にzfcでの自然数はフォンノイマンによる定義。
だからこの自然数の事をフォンノイマンの自然数と呼ぶ事にする。
で、フォンノイマンの自然数はペアノシステムを満たしてるわけじゃん。
ペアノ算術だけで証明できる事って要するにペアノシステムを満たす自然数全てに共通して成り立つ事だけを証明できるって事だよね。
グッドスタインの定理をペアノで証明も反証もできないってのはフォンノイマンの自然数以外の自然数では成り立たない事もあるって事じゃん。
だから自然数と言っただけではグッドスタインの定理が成り立つとは言い切るべきじゃないと思うんだよ。
任意のペアノシステムで成り立つかって言う命題なら否定はできるわけだしその意味じゃ排中律に反してないし。
だからzfc上ではなくてもっと弱い数理システム上で話を進めた方が良いんじゃないかって思ってる。 >だから自然数と言っただけではグッドスタインの定理が成り立つとは言い切るべきじゃないと思うんだよ。
グッドスタインの定理がペアノの公理系で証明も反証もできない以上、
「グッドスタインの定理が成り立つべき」という立場が厳密には正しくないのは
その通りだが、じゃあグッドスタインの定理が成り立つ場合と
成り立たない場合を見てみると、成り立たない場合では
自然数の「有限性」について我々が標準的には期待しない性質が
出てきてしまうので、心情的には「グッドスタインの定理が成り立つべき」
という立場に傾いてしまう 詳しく言うと、グッドスタインの定理が成り立たないようなペアノシステムでは、
グッドスタイン数列が停止しない自然数が存在することになる
ここでは、そのような自然数を1つ取って n と置く
ところで、"具体的に書ける自然数" においてはグッドスタイン数列は
必ず停止するので、グッドスタイン数列が停止しない自然数 n について、
その n は "如何なる具体的に書ける自然数" よりも大きい自然数となる
たとえば、100000000<n とか 10000000000000000<n とかが必ず成り立つことになる
しかも0の個数はいくら(具体的に)増やしてもやはり "1000…000<n" が成り立つ
こうなると、n は無限大やんけと思ってしまうが、
しかしこのようなペアノシステムでは n は無限大ではなく「自然数」である、
……という、自然数の有限性について我々が標準的には期待しない性質が
出てきてしまうので、心情的には「グッドスタインの定理が成り立つべき」
という立場に傾いてしまう そういうのに拘らない数学者はZFC上で、グッドスタインが成り立ってて何も困ることはないのが事実
よくは知らないけど逆数学なんかは平均値の定理みたいな普通の定理をどれだけ弱い算術で示せるかみたいなのを研究してたはずだから、そっちが向いてるんじゃね >>656
グッドスタインの定理がどうとかいう話がしたいなら
まず不完全性定理がどういう定理かという事を
きちんと理解すべき。その後の話。 >>659
aが停止する自然数ならa+1も停止するってことが証明できないということ?不思議ね >>662
aが停止することを仮定した上で、
ペアノの公理系の範囲内でa+1も停止することが証明できてしまったら、
それはただの数学的帰納法であって、ペアノの公理系の中で
グッドスタインの定理が証明できたことになるので、
証明も反証もできないことに矛盾する
…と考えると、別に不思議ではないような >>659
詳しい事は分からないけどペアノで本来自然数が持ってるべき性質をペアノの公理じゃ記述仕切れてないって話なのかな?
zfcだとそれが記述仕切れてると。
それならzfcがどうとか以前にペアノの公理の方に問題があるって事にならない?
俺の主張としてはzfcを使うより本質を表した公理を使いたいって事だからペアノが自然数の本質を表しきれてないならペアノを改良した公理を用いればzfcはいらないしその傾いてしまうってのも解決できるよね?zfcがなくても グッドスタインに関してはちょっと勉強してみるよ。
ペアノを改良するならどうすれば良いのかっての考えてみる。 暗唱を発達させていけば、新しい数式が記述されるのか? 普通に考えてペアノの公理に単純な問題があるだけなら既に解決してるし、
ペアノの公理を発展させるだけでZFCがいらなくなるなら既にZFCは使ってないよね
キューネンの集合論という本を読めば分かるがZFCで普通の数学が扱えることをきちんと示している
一方ペアノ程度の弱い表現力では無理
まずは勉強して土台に立つところからだな 有限個の公理系では対象を唯一に指定できないんだから
自分の好きなようにすればいい
大体、本質なんて見方次第でどうにでもなるもんだから
それを逆手にとって成果を出すのが数学ってもんよ >>665
>グッドスタインに関してはちょっと勉強してみるよ。
順序数の何とか表記で証明は簡単に理解できるけど
それがペアノから証明も否定もできない(否定はできなくて当然)てことを
証明するためには
どうも超準的な自然数(ペアノを満たす)を利用するらしいから
かなり難しそうだよ >>668
>有限個の公理系では対象を唯一に指定できないんだから
これも不思議
実数論を展開できる可算集合の存在ってのがどうも腑に落ちなくて
あと
ペアノの公理って2階じゃないの?2階なら確定するらしいけど そうだよ
668が間違ってる
一階述語論理ではペアノの公理、特に数学的帰納法は無限個の公理だが、
二階述語論理では量化記号の適用範囲が広がるから有限公理化できる 横だけど>>668はモデルが一意に定まらない(カテゴリカルでない)と言ってるんじゃないの?
公理が有限個か無限個かではなく? ∀S∋0[ ∀n∈S[suc(n)∈S] ⇒ N⊆S ]
数学的帰納法ってこれじゃダメ?
一階述語論理の1つの公理で表せてない? 圏論は基礎論の一分野なの?
それとも代数学の一分野なの?? >>674
ペアノの公理を書く言語ではその論理式が書けない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています