数理論理学(数学基礎論) その13
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数学基礎論は、数学の基礎づけを目的として誕生したが
現在では、数理論理学として、証明論、再帰的関数論、
構成的数学、モデル理論、公理的集合論など、 多くの分野
に分かれ、極めて高度な純粋数学として発展を続けています。
(「数学基礎論」という言葉の使い方には、専門家でも
若干の個人差があるようです。)
応用、ないし交流のある分野は、計算機科学の諸分野や、
代数幾何学、英米系哲学の一部などを含み、多岐にわたります。
(数学セミナー98年6月号、「数学基礎論の学び方」
ttp://www.math.tohoku.ac.jp/~tanaka/intro.html
或いは 岩波文庫「不完全性定理」 6.4 数学基礎論の数学化などを参照)
前スレ
数学基礎論・数理論理学 その12
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1509638068/ 「有限な自然数をすべて含む集合は無限集合である」
↑
これって矛盾じゃないの? 「有限の自然数が無限に存在する」というのが受け入れられない。 >>6
無限って限りがないことよ
限りが有るとしたら+1で次が出るから矛盾になる
スゴイ単純すぎるアホみたいな背理法だけど? 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 無限って宇宙すべての原子を使って表される数と同じこと 数学板の住民なら一度は「無限ホテル」くらい泊まったことあるでしょ。
あのホテル便利だよね。満室になってもすぐに対処して待ち行列作ることもないから >>11
n番目の部屋から2n番目の部屋までの移動距離ってnが大きくなるほどでかくなるから、そこの客はかなり不自由させられるぞ いや、当無限ホテルでは満室の際には、お客様の移動はすべてn+1となっておりますので、
そのような御不便はおかけしません N 自然数全体の集合
∃可逆写像f:N→N ∀可逆写像g:N→N ∃k k≦∀n g(n)<f(n)
は真ですか? ゲーデルはカントールの連続体仮説を偽であると強く信じていたようだけど、
もし、それが正しいとしても、その具体的な集合としてアレフゼロと連続体濃度の
間にある中間の濃度として、どんな集合の実体が考えられるの?
例えば有理数の可算濃度に、ある操作を施したものとかを考えるのかな。 >>19
超巨大奇数を使うよ
具体的にはサッパリ分からないけど存在が出る 逆に言えば
実数がアレフ1なら超巨大奇数は存在しないってこと >>21
その巨大基数を使った中間の濃度の集合が仮に存在したとしたら、それは
可算濃度と非可算濃度のどっちになるんですか?濃度の質が変わるのだから、
後者の非可算無限の方が適した感触はありますが。
あと、>>21の意味が分からないけど、もし、その巨大基数絡みの集合の濃度が
連続体仮説を否定する範囲内に見つかれば、その新しい集合が今度は
アレフ1となって、実数の無限集合など今までアレフやアレフ・ワンに
入っていたものの集合が、その暁には、アレフ2へと移動しなければいけないから
という意味ですか? 数学基礎論って「ZFCは無矛盾である」っていう宗教だよね だが23
数学はZFCの上でしかない
物理学も、生物学も、情報学も、経済学も、統計学も、心理学もZFCを矛盾してると思ったことはない >>22
可算濃度と連続体濃度の中間の濃度は可算濃度ではないんだから非可算濃度でしょ >>22
定義からして非可算
巨大基数の存在を仮定すると
実数の濃度はアレフ2となるらしい
ゲーデルもアレフ2が適当だと思ってらしいよ こんどは、新アレフ0と新アレフ1のあいだとか、新アレフ1と新アレフ2のあいだはないのって話にはならないの? >>27
アレフ0の次がアレフ1って定義だからない
変わってるのは実数の濃度だからな >>24
自然界にZFCは存在しない
公理的集合論は証明の便宜のために生み出された人工的な構造 >>30
自然数も自然界に存在しないんですがそれは >>30
大体何が「存在」してるかとか
烏滸がましいにも程があると
考えたことなさそう >>24
ZFC唯一教の人かも知んないけど
残念ながらZFCが矛盾してるかどうかとかそういう話はなくって
信じられているのは「ZFCから矛盾命題を導けない」ということで
矛盾命題が導かれたら任意の命題が正しくなってしまう、というだけ
あと実際は選択公理を課さずにやってるところも一部分あるし、もっというなら無限集合の存在公理すら課さない公理系でやってる人もいる
又は逆にZFCに到達不能基数の存在公理を課したり、NBGでやったりというのもある(こちらはそれなりにポピュラー) >>34
いや知ってて言ってるんだが
自分がやってる研究が爆発律から導かれると思ってる学者なんていない
むしろZFCが無矛盾であることを疑ってかかることが多いのは数学基礎論
ということを知ってて24を書いてる 何を基礎にするかってのは
妥当性の共通認識にしか掛かってないということが
分かっただけでも現代数学基礎論の存在意義はあった
今後も有り続けるという保証が有るわけでもないが 人間やモノ不在のまま論理や集合を考える
なにも無い、としたいが、「無」は「存在」しない
なんらかの「存在」が必要なのだが、論理や集合は、
それに答えてくれるのだろうか
論理でもっとも基本的と考えられるのはTRUE,FALSEであろうか
これらはどこに「存在」するのか?
集合でもっとも基本的と考えられるのは空集合であろうか
これもどこに「存在」するのか?
論理は論理空間における位置の問題であるとしてもよいが、
集合は、そのものが空間である
空集合とは何か、そこから考えるのがよさそうだ
気が向いたら続きを考えよう 自然数の定義は我々の知る「数」と合うように公理を選んでいる
ゆえに自然数の無矛盾性は明らかだが、ZFCはそうではない >>38
なおレーヴェンハイムスコーレムの定理から直感に反するモデルが作れる模様 >>38
我々の知る「集合」と合うように公理を選んでるよ
なぜ「自然数の無矛盾性は明らか」? 各形式記号に1対1対応するゲーデル数は、テキストによってまちまちであるのはなぜなの?
統一表記にした方が便利だと思うのだけど >>41
それ俺も思ってた。
論理式に対応したゲーデル数を定義する時に後々の議論の展開上の関係であるやり方の方が都合良かったりってのがあった
具体的には厄介だから今ココでは言えないけど でもさ、
自由変数を含む論理式のゲーデル数の定義ってよくよく考えると結構厄介で、これだけでも本によって幾通りもある。
左から右に向かって捜査する感じで自由変数を見つけようとする定義もあれば、論理式の構成に関する帰納法的な定義もある(あったような記憶がうっすらある)
こういう議論の関係上で記号に対するゲーデル数化が決められてたはず ゲーデルの原論文は素数が無限個あることを暗黙の前提にしているが、限定算術の立場からはそれは都合が悪い。 目標達成しちゃったから次何すればいいのかわかんなくて不安みたいな。
自分たちの価値感の軸をこれからなにに持って来ればいいのかわからんみたいな。
今言ってもあんまり聞いてもらえないかもしれないので、ちょっと冷静になった
時分にでも思い出してもらえればいいけれど、人間ずっと虚無ばっかり考えられる
もんじゃないよ。 みんな投げやりな気持ちを2年も3年もずっと持ち続けるなんて無理なんだから、
そろそろ熱が冷めてきたらどういう心持ちになるのかなとか、
あんまり聞きたくないだろうけど考え始めた方がいいのかなって。 >>41
Blum complexity measure(抽象的計算量)とか考えるときは
帰納的関数のナンバリングがアクセサブルであることが重要になるのでは? ゲーデル数化というのはもともとヒルベルトのプログラムでヒルベルトが、
弟子のアッケルマンが自然数論の領域ではヒルベルトのプログラムを達成しつつ
あると報告したもんだから、じゃあ他の領域の証明を自然数論に帰着させて
しまえばいいじゃないか、という流れで出てきたアイディアで、別に特定の
対応付けの仕方とかにはウェイトが無かったようだから決まってないんじゃないの。
ゲーデルの不完全性定理の論文は1928年のボローニャ国際会議でのヒルベルトの講演
『数学基礎論の諸問題』を受けての論文だと考えるべきだと思う、という前提で。 完全性定理までの理解なら
論理学をつくる
戸田山 和久
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ゲーデルの第一不完全性定理までの理解なら
現代論理学 単行本 ? 1991/5
安井 邦夫 (著)
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が非常に分かりやすい 対角線論法のような形式を用いて導出されたゲーデル文Gは、
そのシステム内では証明も反証もできない証明不能命題Gが
存在するという意味なので、これは哲学の文脈だと真偽の決定が宙吊り、
もしくは永久に保留となった「アポリア」やベイトソンの「ダブルバインド」
の理論とのアナロジーも感じられる。 ダブルバインドの例で、たとえば、生物の間で交わされるメッセージには
複数のレベルが存在することをラッセルのパラドックスなどを通して
ベイトソンは明らかにした。例えば犬が戯れに噛み合うとき、
1.これは「噛むこと」を意味しているというメッセージ
2.これは本気で「噛むこと」ではないという、メッセージについて言及するメタメッセージ
があるというものである。これらのメッセージを区別するためには、ラッセルの
論理階型理論が用いられる。簡単に言うと「私は嘘つきである」という言明からだけでは、
私が嘘つきか正直者であるのか決定・証明不能というのがゲーデル文Gなのだろう。
なぜなら、嘘つきが自分を嘘つきだと正直に言うのは変だし、また、正直者が自分を嘘つきというのは、前提である正直者と嘘つきという意味内容が齟齬・矛盾をきたしているから。 >>48
まあ、虚無も大事な要素ではあると思うよ。プログラミングならnullという値は
必要だし、集合なら空集合Φは必須。命題において事実は実在の半面に過ぎず、
偽なる命題=虚無、反事実を含めてこそ、ようやく実在の全体を記述できる。
赤いバラもあれば白いバラもあるように、真の命題もあれば偽の命題もある。
命題論理で面白いのは、それが命題の形式を有していなくても、すべての事実や
実在は命題の形で存在しているということ。例えば、ある未知のダークマターx
という物質は、たとえ今の私たちには認識できないレベルにあっても、それは
命題の形で存在している。
また、科学的な言説はのちの観測や実証で誤謬が判明し修正されることがあるのに
対して、論理学はそれらの外在的な具体的な事実性の有無にかかわらず、それを
算術を扱うような形式で客観的、普遍的、確実性もって扱えるのが魅力でしょう。 噛むことに見せかけて噛むことではないことを提案したら、嘘つきがパラドックスに
陥ってるとかω無矛盾だとか隙がなくなんも反論できない論文出されてあえなく倒壊。
嘘つきと言われた方はめげずになんとか直観的な本とか弟子の仕事を擁護する本とか出した。
当初は意味わからなかったけど、晩年になってあれはもしやと思い到ると神がどうたら
とか神経衰弱になって事情がわからない人は混乱、という理解。 >>55
「実在性」というものに対して今までみたいに素朴にはいえなくなったという
状況があると思うんだ。これからどう実在性というものを定義づければいいのか、と。 回りくどかったよすまんね。
ω無矛盾ってωを立て直すと無矛盾じゃなくなるから、古典論理っぽく書くと
¬ω = ε
つまりε無矛盾、ではないという意味で、ε公理を対象にした論文だったんだね。
知ってて知らないわからないと言ってたとはね思わないよ。
ただねやっぱり時分はやっぱり過去の亡霊には取り憑かれたくないな、
供養したい方なわけなんだよ。 亡霊の供養をしないと論理的な結論を得られないなんて、なんて非論理的、って話だけど、
自分はねやっぱり亡霊に取り憑かれるのが怖いんだよ。 >>61
問題の枠組みとしてはもろに様相論理が土台となってる話だな
スマリヤンの様相論理の本に類似問題あったけどどうやって解くのか忘れたわ 差が激しすぎて、もはや一つの学会内ですら意見統一ができなくなった? ウェーブレットの時みたいに、各領域で「自分は異端だから」と思って黙っていた人が、
アホを通して各領域での自称異端がだいたい同じことを目指していたことが判明、っていう感じ? ほぼ全て完了しているなんて、こんなバカな話あるか。 >>61
>答えは「taksはyesですか?と聞いたなら、taksmanはyesと答えますか?」です
全然ダメじゃん 別分野で「集合論は勉強しました」って言ってる人、
大抵無矛盾性証明とか知らない説 技術思想はあるのか、無いからこそ喋ることができないんじゃないか。
何も無い土壌に、もし受け止めきれない結果をポンと出してしまえば、
誰だっておかしくなるよ。現に、自分も飲み込まれないよう必死だ。 nankahennnayatugaituichattana >>68
しらない、しらない。だって読んでもわからないもの。
わかるようにしていこうとすると、違うと怒られるし。
自分の理解では、論理主義の論理を数学よりも先に持ってこようというのに
無理が大きいのかなって。
作図だと見てすぐ無矛盾というのはわかるけど記号だけだと見えないから
定規使わずフリーハンドで線引けるみたいな操作が入っていないかわからないんで
証明がいるとかそんなイメージしかない。 ヒルベルトにとって無矛盾性イコール数学的対象物の実在性であったのは、
幾何学が念頭にあったからだと思う。
点と線に対応するものの存在はすぐイメージできるものだったから、
論理として矛盾しないのであれば、その点とか線の間の数学的関係性の
実在性は自明だと考えたのかなと。
ヒルベルトは作図だけ考えていたけど、ブラウワーはトポロジストだったので
トポロジーが念頭にあったのかなとか。
なんかそういう話から発展させるべき話なんじゃないかとか思うけど。 ωの要素を自然数と定義する
と
0をφと定義する
って(前者は人間が呼ぶだけ、後者は論理に立ち返って新たな記号を追加する、という意味で)違う概念なのに、あまり区別されてなくね? 高添沼田(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
高添沼田の親父「関東連合文句があったらいつでも孫を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!!糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」ベストセラーだけど読んだ人いる?国連でも公演ってどゆこと?? 新井先生って
本当に数理論理学者なの?
ってくらい数理論理学について話してるところを見たことがない >>52
『論理学をつくる』などと言うのは。表題からして、間違っている。
論理法則は発見するものであって、つくるものではない。 >>81
むしろ論理学は人為の塊だろ
「つくる」で合ってる 「PならばQ」の真偽値なんて「つくる」の典型だよな 質問です。
Vωが(ZFC−無限公理)のモデルになっているのは有限の立場でそう言えると考えていいのですか? >> 84
>「PならばQ」の真偽値なんて「つくる」の典型だよな
「PならばQ」が真理表で定義できると考えるのは、愚の骨頂である。
http://www.age.ne.jp/x/eurms/Ronri_Kaikaku.html はじめまして、論理学に詳しいだろうみなさんに質問があります。
質問の趣旨は、
数理論理学(記号論理学)、いわゆる記号を用いて数学の計算をするようなものがありますが、
記号を用いることで、自分が主張・立論・反論する内容について、正しい論証ができているか、つまり、論理的に瑕疵がないかどうかを
検証することが可能なのですか?
現在、
「論理学入門/野矢茂樹」などを読み論理学を学んでいるところです。
記号を用いなくても、「ならば」の前後関係が正しいかどうか、などを自分で精査すれば、
正しい論証ができているかを検証することはできるのではないか?と感じています。
記号論理学は、記号を用いているためか、ハードルが高く、これから身につけようという気になぜかなれません。
記号を用いて検証(?)をするメリットなどを教えていただけると嬉しいです。
正しい論証をしたいことがあって、その論証に瑕疵がないかどうかを自分で調べたいと考えているからです。
こういった掲示板で質問するのは初めてですが、よろしくお願いします。 数理論理学は、記号を用いて計算する分野ではなくて、
論理学のメタ理論に数学を用いて研究する分野
従ってこのスレに沿ったメリットとしては、記号を使うことで数学を用いることができる点 >>89
記号論理学は論理の中身に興味はなく、外面の形式にのみ注目します
ですから、記号論理学を勉強しても論理的な検証などということには向かないでしょう C言語記号論理学ぐらい進んでるんじゃないの?AAも含めて。 >>89
> 記号論理学は論理の中身に興味はなく、外面の形式にのみ注目します
と考えがちだが、それは愚か。 >>89
「記号を用いて数学の計算」って何の事言ってんの? けれど「ならば」の真理値表は納得いかない人が多い
おそらく2値論理に拘泥しているからではないか
2値論理以外でもっと腑に落ちる定義はないかな >>99
ウィキペディアによれば
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