数理論理学(数学基礎論) その13
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数学基礎論は、数学の基礎づけを目的として誕生したが 現在では、数理論理学として、証明論、再帰的関数論、 構成的数学、モデル理論、公理的集合論など、 多くの分野 に分かれ、極めて高度な純粋数学として発展を続けています。 (「数学基礎論」という言葉の使い方には、専門家でも 若干の個人差があるようです。) 応用、ないし交流のある分野は、計算機科学の諸分野や、 代数幾何学、英米系哲学の一部などを含み、多岐にわたります。 (数学セミナー98年6月号、「数学基礎論の学び方」 ttp://www.math.tohoku.ac.jp/~tanaka/intro.html 或いは 岩波文庫「不完全性定理」 6.4 数学基礎論の数学化などを参照) 前スレ 数学基礎論・数理論理学 その12 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1509638068/ このスレの人達的には、Woodinが進めてるUltimate L projectはどうなの? そうか じゃきっと2値論理以上に納得いかない定義でありそう 高校数学の命題論理で「命題pをx=6とする」とかってあるが、 これって一階述語論理をメタに集合論を作って集合論をメタに命題論理を扱ってるってこと? 「ならば」が真理表で定義できると考えている単純なアフォが少なからずいるようだが、 例えば、真理表では、「T(P)=0 で T(Q)=1 ★ならば★ T(P→Q)=1 という具合に ★循環論法★になっていることに気づくべきだ。 例えば、真理表では、「T(P)=0 で T(Q)=1 ★ ★ T(0→1)=1 という具合に ★ ★になっていることに気づくべきだ。 循環論法にはなっていないな。無理やりそうしたい人が約1名いるだけでw >>14 1 >そのならばばはメタですよね そう来ると思っていたよ。w メタだったら、★ならば★は定義無用とでも言いたいのか? >>115 Most stupidly wrote 例えば、真理表では、「T(P)=0 で T(Q)=1 ★ ★ T(0→1)=1 という具合に ★ ★になっていることに気づくべきだ。 このスレの基礎論の専門家に質問させて頂きます。背理法についてです。 証明したい命題をAとします。このとき、¬Aを仮定して、 矛盾(¬C∧C)を導いて、排中律より命題Aを真とするのが背理法と思います。 したがって、背理法は、命題の対偶を証明する対偶証明とは、 本質的に異なる証明法であると私は理解しています。 しかしながら、一部の数学書に、ある命題とその対偶命題が同値であることを、 背理法の原理と書いていたり、p⇒qのタイプの命題の対偶から、 ¬qを仮定して、¬pを証明するいわゆる"対偶証明"を、 背理法であると書いていたりしているものがあります。 p⇒qという命題を背理法で証明するならば、 ¬(p⇒q)を仮定して、(¬C∧C)を導くことになると思います。 背理法と対偶証明を混同している数学書は、一つや二つではありません。 かなり有名な名著と呼ばれている本にもこの間違いが見られます。 日本の数学者は、こんな基本的な間違いをなぜ問題にしないのでしょうか。 近年、背理法というタイトルの数学書が、 4人の著名な数学者の連名で出されましたが、 なんというのか、数学エッセイのような本で、 背理法がこのように間違って流布している現状について、 全く気づいていないのか、あるいは見て見ぬふりをしているかのようです。 もちろん、正しく記載されている本も多いのですが、そのような本でも、 背理法には、このような誤解が多いので、 気をつけるようにというコメントはありません。 また寡聞にして、数学会が背理法に関して注意を促したという話も聞きません。 なぜ日本の数学書はここまでひどい状態なのでしょうか。 それとも、わたしの背理法の理解がおかしいのでしょうか。 どなたかご教示ください。よろしくお願いします。 「対偶」は論理学ではContrapositionであるが、機械工学ではpairである。 ペアと考えたほうがおもしろい。 機械工学的論理を考えてみるのもおもしろそうだ。 非古典的論理のありかたを考えるメタ論理が必要なのかもしれない。既にあるのか? 論理計算を考える場合、計算のありかた、となる。 古典的論理において、見逃されてきた、捉え/捕らえきれなかったなにものか。 機械工学でいう対偶は論理学的なものではなく、ある種の部品の組のことですが >>118 たとえばどのような本にどのような記述があるんですか? >>118 確かに¬Aを証明する際にAを仮定して矛盾を導きそれによって¬Aが証明されたとする証明法も背理法と呼んでいるケースは 数学の教科書などでも時々見掛けますが、これを背理法と呼ぶのは明らかな間違いで、これは自然演繹で言えば ¬-導入という推論規則を使っているに過ぎませんからね。 残念ながら「背理法」という呼び名をこの場合に誤用するケースは普通の数学の教科書でもさほど珍しくありません。 背理法とは帰納法である 帰納法から導けるのは仮説のみ >118 >証明したい命題をAとします。このとき、¬Aを仮定して、 >矛盾(¬C∧C)を導いて、排中律より命題Aを真とするのが背理法と思います。 そのように考えたのは、B Russel や D Hilbert に引きられた”前世紀の論理学者たち” の「愚かなる誤り」だったのです。 背理法(と呼ぶよりも”帰誤法”と呼んだほうが適切ですがw)の原理は、 "P(x) ならば Q(x) である"を証明するのに 「 "P(X)&¬Q(x)"から" x に関する矛盾"0(x)" が導かれることを示せば充分である」というものです。 尚、" x に関する矛盾"0(x)" とは、例えば、「(2<x」&(x<x)」の如き述型です。 >>116 関数の定義って知らないの? 真理値表ってのは 「T(P)=0 かつ T(Q)=1 かつ T(0→1)=1」が真 という具合に8通りの組合せのそれぞれが真か偽か定義したうちの真のところだけを書いてるのよ >>113 >>116は、 P,Q,P→Q 1,0,0 0,1,1 0,0,1 1,1,1 で表される真理表だと思っていたけど >>125 の言うような意味で「かつ」の∧を使っているの ならば少し書き直して、最後の項も>>125 の意味なら、 P∧Q∧(P→Q)で、 P,Q,P∧Q,(P→Q),P∧Q→(P→Q),P∧Q∧(P→Q) 1,0,0,0,1,0 0,1,0,1,1,0 0,0,0,1,1,0 1,1,1,1,1,1 あれ、これだと8通りにならないな。2^3通りと言っている んだろうけど。4通りになる。訳分からないので、>>116 と>>125 には 命題の論理式と真理表を書いて欲しいんだけど。 あと「ならば」は普通、「→」の箇所を呼ぶ時に使うものでしょ? >>113 の使い方だと、 「((T(P)=0)∧(T(Q)=1) の時) → (T(P→Q)=1)」は 真で1だという風にも解釈できるし、単に、T(P)=0、T(Q)=1 の時は、T(P→Q)=1で、それが★循環論法★・・・と言っている のか。論理をやる時は、定義が曖昧な日本語使うと混乱するので、 論理式と真理表を取りあえずは書いて欲しいなあ、と。 >>125 >真理値表ってのは >「T(P)=0 かつ T(Q)=1 かつ T(0→1)=1」が真 >書いてるのよ 爆笑 ヽ(^o^)丿 >>124 >B Russel や D Hilbert に引きられた は「B Russell や D Hilbert に率られた」のミスでしたので、お詫びして訂正します。 >>124 ,>>128 私の背理法の定義とどこが違うのですか。 変項xがあるかないかの違いにしか思えないのですが・・・。 変項xがない命題論理の場合は、 同じ論理展開でも背理法ではないということでしょうか。 >>122 >>118 の書き込みでは、 あなたのおっしゃっている否定の導入については触れていません。 >>121 軽い寸評や批判的なニュアンスの感想程度なら、 書名を出してもいいのですが、 今回のものは明らかな間違いの指摘になります。 個人攻撃になりかねませんので具体例は差し控えたいと思います。 「ならば」は論理学を圏論の射で表現しようと思うと、モニック、エピそしてその混合に 分類できる。Pという論理式とQという論理式があってそれらを真判断させるつなぎ方 がざっくりと「ならば」という概念であって、つなぎ方としては論理式に注目するか その証明に注目するかで少なくとも2種類あると思う。 背理法は歴史的な経緯を考えればよくて、背理法とその批判は概ねヴォルフとカントの 対立にまで遡れると思う。この対立は歴史的に繰り返している。 背理法がOKで背理法を使わない論証方法が実質タブーなのは直近のマルクス某の影響だと思う。 >>127 やれやれ 関数の定義 ホントに知らないらしいわ 129132人目の素数さん2018/09/03(月) 21:37:06.20ID:eWEDmVjm >>124 ,>>128 >私の背理法の定義とどこが違うのですか。 >変項xがあるかないかの違いにしか思えないのですが・・・。 まさしく、ソレが違うのです。えらい違いなのです。変項のあるかないかが!!! 同じ論理展開でも背理法ではないということでしょうか。 129132人目の素数さん2018/09/03(月) 21:37:06.20ID:eWEDmVjm >>124 ,>>128 >私の背理法の定義とどこが違うのですか。 >変項xがあるかないかの違いにしか思えないのですが・・・。 まさしく、ソレが違うのです。どえらい違いなのです。変項のあるかないかが!!ヽ(^o^)丿 [2<x]&[1>x] は(x に関しての)矛盾ですが、[2<3]&][1>3] は『単なる偽』です。 >>132 >「ならば」は論理学を圏論の射で表現しようと思うと、モニック、エピそしてその混合に >分類できる。Pという論理式とQという論理式があってそれらを真判断させるつなぎ方 >がざっくりと「ならば」という概念であって、つなぎ方としては論理式に注目するか >その証明に注目するかで少なくとも2種類あると思う。 > >背理法は歴史的な経緯を考えればよくて、背理法とその批判は概ねヴォルフとカントの >対立にまで遡れると思う。この対立は歴史的に繰り返している。 >背理法がOKで背理法を使わない論証方法が実質タブーなのは直近のマルクス某の影響 圏論に関しての「貴重」な投稿に謝意を表します。 私は、不覚にも、表題の"categorical logic"に釣られて "Introduction to categorical logic" by L_LAMBEC etc,Cambridge Univ. Press を買ったのですが、失望以外の何物でもありませんでした。 ”マルクス何某とは、ワスのことか?” と Karl Marx (1818-1883) >>128 ネットの鬼:松芯痰をみごと退治された「エムスラ御大」のご降臨である! 下郎ども、控えよ !!!!!!!!!!! 論理学を勉強する理由を思い出した方がいい。 混沌を整理するために発展した体系なのに、それ自体が原因で思考が混沌としているなら それは間違っているよ。価値観を別のところに持っていかないといけいないということだと思う。 >>138 Quite Agree with You. 殆どの数学は公理的集合論を土台にして議論されていると思いますが、その公理的集合論は形式化されています。 圏論は形式化されているんですか? そんな本があるなら教えて欲しいです Nito ou mono wa, itto womo ezu. to ifu. Dewa, sannto (3-to) ou mono wa nani wo eru-ka ? 4-to or rather 4-tou ou mono wa nani wo eru-ka ? Dewadewa_no_Dewa, mugen enpou wo ou mono wa nani wo eru-ka ? >>135 >>118 で導いているのは、偽命題ではありません。 矛盾を導いています。 <や1や2に関する公理を仮定しないとだめなんですよ 公理と、その論理式が矛盾してるんです 12132人目の素数さん2018/07/28(土) 22:25:25.75ID:J0KB/xmw >モデル理論、ぶっちゃけよくわからん 心配ない。 モデル理論は論理学の本質がわかっていないアホ達が考案した 「アフォホ達のアフォ達によるアフォ達の為の糞理論」だからだ。 世界の全てに到達したのはわかるんだけど、 なんでゲームバランスぶっ壊してんの? y=f(x)って数学基礎論的にはどういう意味なの? 集合として等しいのかすら疑わしいけど f(x)は多項式環の元(つまり多項式)を環準同型で代入した関数であり、 一方でyは∃z(z=f(x))なるyのこと(写像の定義よりこれを満たすzは一意)で、 この上で集合としてy=f(x)を満たす これを「関数y=f(x)」と呼称してるのか 言い方が整理ついてないな、すまん http://arxiv.hatenablog.com/entry/2016/06/05/225527 におけるψ(f)を普通の呼称でf(x)と呼ぶ 一方で∃z(z=f(x))が真であればこのzをyと呼ぶ このときy=f(x)が成り立ち、「y=f(x)」をメタレベルでf(x)のことを表す単語とする というのが答えか >>160 数理論理的には、自由変数x,y、述語記号=,関数記号fがあつて、=(y,f(x))という論理式が成り立っている、としか言えません 数理論理はあなたが思ってる以上にドライな学問です 数式から意味と形式を分離して、形式だけに注目します だから、ただ数式だけ見せられてこれは何か?と聞かれても、知るか、としか言えないんですね 意味を聞きたいならモデルを設定しろとなってしまうんです 質問を続けたいならもっと詳しく説明してください マウント取りしたいならTwitterにでも呟いてくださいね >>161 高校数学が展開できる程度の普通のZFCのモデルの話だが 多項式のfと関数記号のfは違う概念だし(前者はある数式をf(x)と置き換えているだけでfそのものは意味を持たない)、yは上で書いている通り束縛変数zを個体定数yで名付けたものだと思うんだが、 素直に疑問で、このスレの人なら専門だろうと質問したらマウントと取られるのは心外 してないよ、は言いすぎかも しないように体裁を整えられる、かな >>166 より詳しい説明をしていただけないでしょうか むり 〜が真 〜に対応する真偽値が真 =(〜,真)が成り立つ =(〜,真)に対応する真偽値が真 =(=(〜,真),真)が成り立つ =(=(〜,真),真)に対応する真偽値が真 =(=(=(〜,真),真),真)が成り立つ =(=(=(〜,真),真),真)に対応する真偽血が真 >>168 対象言語とメタ言語とを混同している、0点 やり直し コーエンってフィールズ賞から死ぬまでの40年間功績0だけど、研究やめちゃったんだろうか 基礎論は面白くない どうしよう グラフ理論も面白くないが 賢くないと無理とか言ってるけど 結局は著者の説明を理解できるぐらいの脳があるかどうかって事なんだよね つまり、アホでも分かるぐらいに馬鹿丁寧に解説してる書籍ならアホでも分かるんだよ 戸田山の「論理学を作る」がまさにそれ 最近ようやくわかったんだが、モデルって論理式のある一つの解釈のことか。 群はどっちかというと抽象的実在感が強いのでモデルって感じしないですね。 巡回群とか置換群が群公理のモデルというべきでは。 群公理で特定できるわけではないけれど、体である有理数体も群公理の 一つのモデルになるのではないでしょうか。 群拡大したもののモデルは元の群公理のモデルでもあるわけですよね? >>180 そう。具体例とかインスタンスのことをモデルと称していると読めると思うんだ。 あれってわざとわかりにくくするように書いてんの? >>179 >群はどっちかというと抽象的実在感が強いのでモデルって感じしないですね。 けど モデル の具体例 >>182 自由群に強い実在感を持てる人がいたら尊敬するわ 語の問題なんて相当具体的な操作とアルゴリズムが伴ってるけど?。 不完全性定理って再帰的モデルはあるけど論理式で記述はしきれないとかそういう意味 含んでいるの? >>186 自分にはただの記号列と操作ルールでしかない 実在感覚が持てない >>188 イデアルなんかはその中で閉じた代数操作そのモノだけど どう脳内で落とし前つけて理解把握してるかが気になるな。 たとえば、『「馬であり」かつ「額に一つ角を持つ」動物』という論理式であれば、ふつう 想像上の動物である一角獣をモデルとして解釈することになると思う。 このとき、実在性感覚はほとんど馬に依存しているから「一角獣は速く走ることができる」とか 「一角獣は草食動物である」という命題に対してはその実在性感覚を元にある程度の 真偽判断ができる。 しかし、「一角獣の角は1年に一度生え変わる」とか「一角獣の角の長さは20cm程度である」 というような命題に対して自分はそこまで一角獣に対して実在性を持っていないので、判断できない。 ただ、仮に「馬であり」かつ「額に一つ角を持つ」動物について述べた幾つかの命題の集まりが あって、その幾つかについて真判断可能であったとき、それらを組み合わせることで、 上の判断できない命題の真偽の判断をすることもできることがある、と思う。 なんというか命題とそれから直観把握された構成に関するBHK解釈みたいなものだと思う 命題とそのモデルって。 記号がすべて それに対してどう思うかは人それぞれだよ >>188 対消滅する文字列って実在感ないの? ブレードとかどうよ >>192 >ID:19IleQFr いつものあほ? genericフィルターGに対して(x-check)^G=xとなるのって何ででしょうか? 最大限1はフィルターの中に入るから (x-check)^G =x-check ={<y-check, 1>:y∈x} のままで、xと集合として等しくならないと困惑しているのですが 一角獣(ユニコーン)は未だ捕獲されていない現時点では架空の伝説上の動物 なので、それを事実命題に入れたら、その否定以外は、偽になるに決まっているので、 それに恣意的に馬からの依存性云々するのは、そもそも論理学に反しているんじゃないの。 ラッセルがよく、論理の説明で一角獣を使っていたけど、当然、それは偽となる 命題の例として扱っていたと思うけど。 事実命題として面白いのは、たとえば、 「seahorseは存在する」といった命題。 これは、タツノオトシゴの意味でSeahorseを考えているのなら真であるけど、 馬頭魚尾の怪物の意味のSeahorseなら偽となる事実命題となるだろう。 ただ、ユニコーンも馬頭魚尾の怪物Seahorseも将来見つかるかもしれないので、 その時点では真となる。だから、論理って、限定された条件でのゲームなので あって、科学的な真偽自体は論理だけでは問えず、その点が事実の検証が必要な 科学とは大分異なりそうだ。 >>197 それは「馬でかつ額に一つ角をもつ動物が、地球上に存在する」の真偽判断が偽になる という話でしょう。自分が述べたいこととしては、上の表現は 「ある動物は馬でかつ額に一つ角を持っている」と「その動物は地球上に存在している」 の二つに分離できて、一角獣は前者のインスタンスになるうるということ。 後者については、一角獣をuとすると、 u は、地球上に存在しているすべての動物 a と一致することはない(∀a . u ≠ a)、 だろう、から偽判断になる。 なので、「馬でかつ額に一つ角をもつ動物が、地球上に存在する」はふつう偽判断される。 しかしながら、上で見たように偽判断するにしても馬でかつ額に一つ角をもつ動物について なにか想像上のものであったとしてもモデルを決めないと、偽であるにしても後者の 論理式の評価ができないので偽判断を得ることができない。文が偽判断されるということと 文として意味をなさないこととは別なんで。 地上に存在しないかもしれないけど、もし「馬でかつ額に一つ角を持つ動物は草食動物だと 思いますか?」と聞かれたら、一角獣は現実に存在しないんでその命題は全く意味をなさない という人もいるだろうけれど、その動物として一角獣を想定する人もいるだろうから、 想像上の対象でも一角獣に実在性感覚を持っていれば、具体的に一角獣は草食動物か どうか検討するというステップに入ることはできる。 seahorseという動物は自分は全然知らないので、想像上の動物であったとしても 「seahorseは草食動物である」の判断はできない。seahorseの意味する対象に 実在性の感覚がないから。 ちょっと自分でも整理してみた。直接に一角獣という名詞使う。 1「一角獣は、想像の世界において存在する」と2「一角獣は、現実の世界において存在する」 の二つの論理式があって、 共通の「ある動物は一角獣である」と 「その動物は、想像の世界において存在する」、 「その動物は、現実の世界において存在する」に分離するとする。 想像上の動物である一角獣をuとすると 「uは、想像の世界において存在する」は真判断されるし、共通の「ある動物は一角獣である」という 表現も別に問題ない。 一方で、 「uは、現実の世界において存在する」は偽判断されるし、共通の「ある動物は一角獣である」も 否定的に考えなくてはならない、というのはまず思考プロセスとして変だろう。 現実に存在するか否かに関わらず、一角獣という名詞で直観把握されるものがあるならば、 なにか一角獣という名詞の解釈をもっていて、その解釈されるものを元に想像上のものか現実に 存在するものかどうかについて真偽の検討をしているものではないか、ということを言いたい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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