坐禅と動中の工夫5
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。
念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。
どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。
ですから寝てはいけません。
次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになる事もあります。
また、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
これが正念相続です。
坐禅を続けてますと色んな変化、気づきがありますがそれは結果でありそれに踊らされてはいけません。
あくまでも、「息を離さない様にそれに徹して行く」
これだけを一心不乱にやって行く。
これだけに徹していれば自分が望む所に勝手に運んでくれます。
動中の工夫
動中の工夫は坐禅の延長みたいなもので、坐禅の時と同じ様に今度は動きに成り切ります。
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
自分はあるのかないのかわからないと言う事実。
風景は確実にあると言う事実。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
徹し切った姿が只なんです。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今を離さないように、只、抜かりなくやる。 >>197
本来人間は、思考分別を使わなくても、「無為自然」にすべてが成り立っていけるようになってる
それが聖書にいう、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」ということ
すべてが叶うようになってる
世俗の生活というのは、思考分別によって分離的に見てるから、「不幸と幸福」「良し悪し」などの価値判断によって、
常に葛藤する状態で「苦」を生み出す
思考分別は「一体性」から外れたものであるから、全体の流れの中で生かされるというよりも、
ちっぽけな自分の個我の自力で生活することになるから、最終的には行き詰っちゃう
「我」を「無」にしなければ、一体の中から無為自然に出てくる生活になれない
この二つは両立しない >>197
「世俗の生活」とはつまるところ、「マーヤーの生活」ということになる
お釈迦様はこのマーヤーを越えろと言っているわけだから、それはすなわち、思考分別の世界を越えろってこと たとえば、「色即是空 空即是色」 という場合、
最初の「色」がマーヤーで、最後の「色」が「無限の一なる世界」という解釈もあるんだが、どうだろうか
つまり、認識対象で分離した世界が空になった・・・ それらが空になるということは、無限の一なる世界が現れるということだ、
という解釈
「即是」というのがこの場合、どういう意味から分からないけど、
単なる反転の意味なのか・・
「色は空なんだよ、空は色なんだよ」 とすると、後半がおかしくなる
「空、すなわち、それが色だ」 という、後にかかる感じなんだろうか
ここがずっと謎 >>202
その辺の解釈が、君の一だと、超越一本。
大乗だと、色即是空、空即是色の
色は、ある意味、世俗をも含む、
このあたりから177のような縁起解釈のバリエーションがでてくる。
世俗での判断の智慧の成立を狙うのが本来の大乗仏教。
その辺の構造の存在論、認識論が
鹿野園は全く解っていない笑。
狂ったレスしている時点で鹿野園は
笑 >>203
そうかw
あなたの信仰は否定しないけど、勝手な思い込みで仏説云々を言われるのもなんだから、起きてから少し遊ばせて貰うよ。 空海とか、昔の悟った人たちは仏の世界を見ていたわけだよね
だから、仏像とか、曼荼羅とかを残してる
極楽浄土というのも、思考分別を越えた「一なる世界」ということだよ
対象的に描かれているが、思考分別で見る対象感とは違うでしょう
浄土教にも、思考分別を越えた世界というような意味の文章が、頻繁に出てくるでしょ >>203
狂人鹿野園だけでなく、
狂人栄進という、狂人鹿野園に依存する狂人がいるすれなんて〜〜
笑。
狂人二匹が腐った幼稚なテンプレのスレなんて〜〜笑
だな。 >>205
>大乗だと、色即是空、空即是色の色は、ある意味、世俗をも含む、
色は五蘊(色・受・想・行・識)の一部って事で書かれてるんだよ、ペットw >>204
仏教は如実知見だからな、
ありのままに見る
だからな。
ま、俺も
イエス・キリストの圧倒的霊力を味わうと、
君の言う一なる世界の認知もできないでもないが。 >>205
よく分からないのが二点
>色は、ある意味、世俗をも含む、
「色」というのはイコール「世俗」としてもいいと思うけど
「も含む」とは、世俗以外で含むものとは一体何か・・?
>世俗での判断の智慧の成立を狙うのが本来の大乗仏教。
これはおかしいと思うな・・
「智慧」というのは、仏教的に言えば悟りから来るものでは?
つまり、無為自然の中から、個我とは関係なく、分離のない一なる世界から来るもの・・ >>212
その「ありのままに見る」というのが、「智慧」ということだよね?
その「ありのままに見る」というのは、「無分別に見る」ということでしょう?
「世俗の判断」では、分別が入って、「ありのままに見る」ことは出来ないでしょう >>206
ぜひ遊んでもらいたい
あなたの意見は非常に勉強になるよw >>208
真言密教だと、177の六大縁起とかで、
我流で三昧決めて遊ぶけど、
超越一本じゃないんだよな、
外部存在をも含めて六大、意識も含む(ということは世俗の意識も含むという意味もある)物質の構成要素が、自分と外部が相互に混じり合う(空海は即身成仏義で、六大無礙、重々帝網と記している)、
そういう感じなのよ、存在論、認識論は、
単純な一なる世界観ではない。
浄土教学あたりだと、一なるぽい解釈はできそうだけど、浄土真宗なんかの三昧改造解釈は、
それでいけそうだけど。 >>212
たとえば、人間の思考分別の葛藤っていうのは、
たとえば、「雑念」と「無念」という価値判断があったとするでしょ?
そうすると、「無念」を目指して「雑念」と葛藤するわけだよね
そこに「苦」が生まれる
これは思考分別で価値判断してるわけだよね
ところが、両者に価値判断することもなく、「ありのまま」に見れば・・・
それはつまり、分別による「差が生じない」ということだけど、
そうなると、両者に差が無くなって(差がゼロになって)、
平等になるわけだよね?) >>212
平等になって差が一切無くなるってことは、どういうことかというと、
「そこに差をつけていたもの」・・・ 名称とか、「無念」「雑念」という両極の実体というものが、
無意味になる・・・ 空になる、ということだよね?
両極の差がゼロで、両極の体が無意味・・ ということになれば、
その両極は「一」に帰したと言える
一つだよね
つまり、縁起の状態 >>215
>「智慧」というのは、仏教的に言えば悟りから来るものでは?
つまり、無為自然の中から、個我とは関係なく、分離のない一なる世界から来るもの・・
世俗を断つという南方仏教なら、そうだけど、
大乗仏教で菩薩行というのだから、
他者を救うという発想だと、
世俗の者をも救うという幅がでてくるので、
世俗で作用できる智慧
、このあたりが、177の縁起のバリエーションの成立の理由なんでしょう、
その方向性から存在論、認識論のバリエーションが増えてきて笑。
むろん浄土教だと。末法で世俗を断つ方向性と智慧を求めるというふうに行っちゃいますからね。 >>216
天台小止観ぽい方向性で説明すると
色即是空は、
世俗から悟りへ、
空即是色
悟りから世俗へ、
菩薩行で他者を救うというシステムを構築したのよ、
物好きな大乗仏教は笑。
世俗と悟りを分離しない手法を狙ったんやろね。
そのあたりから、三昧と存在論と認識論のバリエーションご増えたんやろね。 >>218
>自分と外部が相互に混じり合う
これがだから縁起のことじゃないの?
縁起というのはどういうのかというと、さっきので言うと、
「雑念」と「無念」というのは両極で分離してるように見えるけど、
その二つは相依関係にある
この二つを「分離」と見ているときは、世俗的な見方で見ているわけだよね
つまり、この二つは世俗のもの、ということになる
ところが、この二つを相依と見る場合は、世俗の分離ではなくて、「縁起」となるわけだから、
それがインドラ網のようなものになる
インドラ網に世俗的なものが一緒に含まれている、ということではなくて、
インドラ網(縁起)になったときは、即是、世俗は空になって消えた・・・ ということでしょ >>222
色即是空は、
世俗から悟りへ、
空即是色
悟りから世俗へ、
浄土真宗的に言えば、往相と還相ってことになるのかな・・・?
これも、結局、この世界は分離的に見ていてマーヤーということなんだけど、
分離の無くなった悟りの目から見ると、仏の世界そのままになる・・ という解釈になるんじゃないかな
つまり、世俗の世界と悟りの世界が全く違うところにあるんじゃなくて、
簡単にいうと、見方の違いによって、同じものが違うように見えてるだけだと・・ >>224
これは、>>221にも言えることだと思うんだけど 真言密教の金剛界曼荼羅は、
外側なら真ん中へのコース
悟りに登る方向の修行(向上)と、
真ん中から外側に向かうコース
世俗に向かう方向の修行(向下)があるの。
当然、最初は、悟りに、向かう修行をし、
悟った後は、世俗に向かい衆生済度の修行をする構造な訳。
狂人鹿野園はナルシズムで登りつめて、たにに暴言を吐き、威張り倒すだけの
恥知らず餓鬼だが
笑 >>221
なるほど、
>世俗の者をも救うという幅がでてくるので、
>世俗で作用できる智慧
これはこういう考えというより、
他者を救う時には、もはや個我(分離の世界)を越えて、一体(縁起)の世界から来てるわけだから、
さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
「世俗で作用できる智慧」という考え方ではなくて、仏の世界の作用がそのまま凡夫の世界に現れ出てる・・・
その現れが、「智慧」になる・・、と
「仏の世界」と「凡夫の世界」が分離してるんじゃなくて、
凡夫の世界がそのままで仏の世界になる・・
こういう感じだと思いますけどね・・ >これも、結局、この世界は分離的に見ていてマーヤーということなんだけど、
ありのままに見て、
を完成した後では、
狂った世俗も、穏やかに見える、
狂った鹿野園の暴言も腹立たないなあ俺様は笑。
狂っている、世俗を分析し、対処して他者を救い導く智慧がある状態は、
一なる、
というよりも、
世俗、相手に応じた
対機説法が重視するんだろうなあ、世俗云々どと。
一なるだと、超越し過ぎていて
対機説法はできんやろな。
俺は修行足らんので
対機イジり笑 >さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
その辺は唯識ぽいね。唯識はそういう感じだろね。
天台、真言密教だと、その感覚ではないな。 >>226
>当然、最初は、悟りに、向かう修行をし、
>悟った後は、世俗に向かい衆生済度の修行をする構造な訳。
これが、つまり・・・
「世俗に向かい衆生済度」 というところがポイントだと思うんだけど、
どうやって「衆生済度」をするか
これは一見、悟って仏(あるいは菩薩)が凡夫の世界に降りてきて、
凡夫の世界を救済してあげる・・・ と、いっけん、見えるけど、
これも、そうではなくて、この場合の「衆生済度」というのは、
仏の世界がそのまま凡夫の世界に現れ来る・・・
つまり、菩薩の(我、思考分別、凡夫の世界によらない、)自然法爾の行いが、
「衆生済度」という意味
さっきの話で言えば、「空即是色」と、縁起の世界を現わしてくる・・・
それが「衆生済度」ということいなると 天台、真言密教の存在論、認識論は、
ある意味あり得ない発想やからな。
薬師寺の唯識の有名な僧侶、橋本凝胤さんは、
強烈な平安鎌倉仏教批判論者だった。
>さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
が唯識に近いやろな。 >「仏の世界」と「凡夫の世界」が分離してるんじゃなくて、
凡夫の世界がそのままで仏の世界になる・・
こういう感じだと思いますけどね・・
そのあたりから、空海の著作では
天台以上のゾーンの存在論、認識論に入るね。 >>229
ようは、分離的に見ているか、縁起的に見ているか、ってことで、
分離的に見るのは思考分別の働き
縁起的に見るのは、分別が無くなって、価値判断が無くなって、物事をありのままに見ている状態
世界を、見方によって、それぞれ変わってるだけで、
縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
当然、一なる世界から現れてくる働きは、完璧な調和ということになるから、
それがそのまま衆生済度につながっていく 一なる、に関してだけど、
ラーマクリシュナは
神の一なる時は、普通に他人と話ができない、
意識飛んでたりする。が
神と一なる、
でない時は他者と話ができる、
てあったな。
俺もキリスト教カトリックのミサ、初めて出て家に戻った時、意識が飛びそうになったが、
神秘主義否定主義者の禅のプライドで抵抗したな笑 もしも、仏の世界と凡夫の世界が別もんで、仏や菩薩が凡夫の世界を救うんだ、ということになれば、
凡夫の世界はいつまでも仏の世界にならないということになるよ
凡夫が物質的に幸せになるように・・・ ってことになる
たとえば、病気を治してあげる、豊にしてあげる、感情的な喜びを与えてあげる、
不幸を無くしてあげる・・・ 等々
本当の幸せとは、幸不幸、苦楽、を越えたものにあるわけだから、それが衆生済度ということになるわけだよね
それがつまり、衆生を凡夫の世界的に救うのではなく、(仏の世界と凡夫の世界が別別になっているのではなく、)
凡夫の世界に仏の世界を現わしていく・・・
そうすると、二元相対的な分離の凡夫の世界は消えていき、仏の世界そのままが現れると
形的に凡夫の世界を救っていたのでは、凡夫の世界は消えないですよ >縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
その縁起解釈ですら、
衆生済度の感覚も
存在論、認識論も
バリエーションがあるからな。
天台、華厳、真言密教も各々違うからな。
禅ですら、
臨済宗と曹洞宗ですら、違いがあるからなあ笑。
鹿野園は衆生済度の視点がないから、
暴言、狂人ぶりを発揮できる
笑 >縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
その縁起解釈ですら、
衆生済度の感覚も
存在論、認識論も
バリエーションがあるからな。
天台、華厳、真言密教も各々違うからな。
禅ですら、
臨済宗と曹洞宗ですら、違いがあるからなあ笑。
鹿野園は衆生済度の視点がないから、
暴言、狂人ぶりを発揮できる
笑 >>234
こういう話は面白くていくらでも続けられるんだけど、
今日はちょっと時間がないので、
また今度 >>235
俺は質問される、話の流れが出ない限り
情報は出さない、
カムイや鹿野園みたいに話の流れもなく、質問もされないのに情報垂れ流さない笑
今日は禅に関しては全く情報供給していない。
あんまり、やる気がないけど、元々、
禅以外の情報は楽しめる派やなあ笑 >>235
>凡夫が物質的に幸せになるように・・・ ってことになる
たとえば、病気を治してあげる、豊にしてあげる、感情的な喜びを与えてあげる、
不幸を無くしてあげる・・・ 等々
そのレスをみて、真言密教に物足りなさを感じる部分がある、
それ故にダライ・ラマの中論で強化したくなる笑
ダライ・ラマ中論密教カッコイイ〜〜笑 >>204
文字通りなんじゃないのでしょうか
色は空に異ならず、空は色に異ならない、マーヤとしての色も、一空としての存在も、1つの世界であるのような
つまりイコールということです >>238氏、でおー氏、鹿野園氏、皆さん各々の世界観と知識をお持ちで、俯瞰するだけで精一杯でw、どちらがと言う判断は無理、拝見するのみです
。 >>240
真言密教に物足りなさを感じる部分がある、
ダライラマの本、本屋にあったね、読んでないけど、しかし即身成仏すればしたなりの世界と救済方法が分かるのでしょうね >>181
岩波の仏教辞典に
(大乗)仏教は、存在論は空を説き、認識論は無相を説いてる。
と書いてあるのかね?(笑)
低レベルとかまたゴマカシと虚勢を書いちゃってるけど、君ってハッタリ君だね(笑) まあ大山は勘違いしたままで良いけど他の皆さんが大山の言ってることを鵜呑みにしてしまうと気の毒なので、一応元の文章貼っときます。
一方、『般若経』で強調された空・無相・無願という三つの三昧は、それぞれ、存在論的・認識論的・宗教的ないし心理的な意味あいをもっている。
(仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫―角川文庫ソフィア) >>243
ダライ・ラマの中論講座関連動画山程ある、
あれを見るとシビレルわあ〜〜笑。
禅ではない三昧世界観があるからなあ、
教義的にも、三昧的にも別物でオモロイ。
ダライ・ラマの中論密教解釈で
天台、華厳、真言密教の再解釈すると
オモロイ感じやわあ〜〜
むろん我流やけど笑 >>244
大山は八宗綱要を精読せずに、
そのような定義寝言をレスしているからな。 >>245
鹿野園は大乗仏教各派の多様な存在論、認識論の構造を知らずに、
創作的に一元的ハッタリ定義をレスし、
麦、栄進あたりを、惑わしているからな
笑 公案を知らないバカが多い。
公案の答え、が悟り、である。
これが常識だが臨済宗の密教となっている。
公案の問題を素通りして、完結できると思うバカが多い。
大爆笑である。 >>245
鹿野園は大乗仏教各派の多様な存在論、認識論の構造を知らずに、
創作的に一元的ハッタリ定義をレスし、
麦、栄進あたりを、惑わしているからな
笑 さて、冗談の羅列はともかくここから本題に入りましょうかw
大乗仏教の基本は言わずもがなW空Wなんです。
有部は法有を説きますが、大乗では人空・法空の二空を説き大乗を称する宗派でその立場に立たない所は寡聞にして存じません。
(大乗)仏教は存在論として空を説く。
当然の帰結だと思いますけどね。
で、認識論としての無相。
(二)空を説くのであれば、これも当然にそこに帰結するわけで反証はないと思います。 251.悟っていない馬鹿野園が言うバカである。大爆笑である。 ところで、唯識思想には無相(無形象)唯識派と有相(有形象)唯識派がありますが、いずれも大乗仏教(当たり前ですけど)で二空を説くものです。
有相・無相の違いはありますが、いずれも外界実在論にたつものではなく、表象(イメージ)、つまり心の中に現れたものという視座にたってます。 251.空を理解できれば天才である。
馬鹿野園は天才でなくして愚才である。
大爆笑である。
空を理解していない馬鹿野園が言うバカである。
大爆笑である。 254.空とは欠いている、ことである。by馬鹿野園である。
それでは物理学の問題となる。
バカには理解できない。
大爆笑である。 253.では心理学の問題となる。
バカには理解できない。
大爆笑である。 西欧哲学かぶれが抜け切らん鹿野園らしいや笑
反証してやらんでもないが
狂人鹿野園にはレスしねえ
笑 馬鹿野園が言うバカである。
宗教と他の学問との分離と関係とが理解されていない。
そんな指摘をされても理解できない馬鹿野園である。
大爆笑である。 ここで有相(有形象)唯識派と無相(無形象)唯識派の違いについておおよそのところをまとめておきましょうか。
両派とも基本的に外界実在論にはたたず、現象は心の顕れ(イメージ)と説いてますが、有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し、無相派はないと主張します。
勿論、あらかじめ備わっているイメージといっても因縁仮和合して形成されたものですからね。
(大乗)仏教は認識論として無相(form less)を説く。
なんらこれを妨げるものではないのは明白ですねw >>257
ペットは黙ってなさい。
仏教の視座から(西洋)哲学上の問題を考えてるんだよ。 >>242
知障と並列関係で列挙するのは嫌がらせ? >>242
八宗綱要をマジメに読めば、
鹿野園が西欧哲学かぶれのデタラメのレスしているか理解できるさ。
笑 >>262
www
反証するか、チンチンするか?
どっちだよ、マイペットw だぁれもいない作業場の
黄色い染みにこだまする
罵声に震えるでおーくん
今日もネットでごくつぶし 鹿野園、悟りスレで
サーバントクラスの狂態連投レスで
狂ってるナウ
さすがやな〜〜
鹿野園
笑 鹿野園を見ていると、
サーバントの気持ち理解できたです
笑 で、反証するのか?チンチンするのか?
どっちだ?
でおー ザ マイペット w >有相・無相の違いはありますが、いずれも外界実在論にたつものではなく、表象(イメージ)、つまり心の中に現れたものという視座にたってます。
外界は可視光線の反射で脳に表象したものでありイメージと言えばそう言えます
それを実際に知る為の行として、チベット密教では暗闇の中で数ヶ月も過ごし瞑想します
これにより、実際の外界と違わない映像を見るような体験を経験すると言います、それにより世界は意識から現れることを如実に知ることになるようです >>269
鹿野園は「視座」で西欧哲学的な定義の中で固定化するからな、
鹿野園の解釈は西欧哲学的単純化
解釈。
だから唯識に関してツッコまれるんだろうな。 >>269
>それを実際に知る為の行として、チベット密教では暗闇の中で数ヶ月も過ごし瞑想します
!
それは初耳ですけど、たしかに眼への光が遮断、おそらくは前五識への刺激を極力避ける環境ってことなのでしょうが、唯識でいうところの独頭の意識がはたらいて瞑想が深まる環境に適するって事でしょうね。 >>270
ペットは黙ってなさい。
でおー ザ マイペット w >>270
無理して首を突っ込まなくていいの。
バカムイもそうだけど、知障が無理して、知ったか振りして、背伸びして語るから白けるの。
身の丈でいいんだよ、身の丈で。 >両派とも基本的に外界実在論にはたたず、現象は心の顕れ(イメージ)と説いてますが、有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し、無相派はないと主張します。
故油井真砂禅尼には、人生の諸問題を相談にくる相談者が頻繁にきていました
それは油井真砂禅尼に、人の因縁を修正できる神通力を持たれていたからでした
ある時相談者を前にして深い禅定に入られ、相談女性の前世に遡り、カルマの修正を行っていました、火に関係するカルマだったそうです
禅尼が禅定から出定すると、手にはそれ迄無かった火傷ができていたそうです、それについて禅尼はこう言われました、
『注意していたが仕切れずにカルマを少しうけてしまった、』と
つまり、『有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し』この事は上記のエピソードによればその通りと言えないでしょうか? >>274
油井真砂禅尼については貴殿がここで紹介されるまでは存じておりませんでしたけど、相当な神通力をお持ちだったとか。
阿頼耶識縁起によれば、過去の行為がそこに種子として蓄積されて縁によってそれが現象するとされてますので、その話が事実であれば禅尼はその方の阿頼耶識を調整されたって事になるのでしょうね。
あくまで阿頼耶識縁起の立場からですけど。 カルマの修正な、
難しいテーマやな、修験ぽい。
その辺の探求はしたことないなあ。 >>240
たとえば、密教の曼荼羅の世界観を、世俗の人の思考分別の感覚で、認識対象的な世界だととらえてはいけないと思うんだよね
世俗的に見ると、曼荼羅の仏や菩薩の世界は、認識対象としての世界のように見える
しかしあれは、認識対象を越えた、いわゆる、すべてのものが空となった「一」なる世界のものであって、
そこを混同してはいけないとお思う
究極的にはすべての仏教は言ってることが同じで、世俗的な救いを与えるのではなくて、
世俗を越える・・・、 認識対象(マーヤー)が作られる世界を越えることを、
衆生済度と言っている、ということだと思う。 >>274,275
この世でもっとも美ししものは人の頭脳の中にある。
この世でもっとも醜いものも人の頭脳の中にある。
この世でもっとも優れた人格も人の頭脳の中にある。
人の頭脳の無制限な力を借りるものはオカルトに足を奪われる。 >>241
同じことを言っているとすると、なぜ還相的な言い方をするんだろうか・・・?
「色即是空」だけでいいよね?
「色」は「マーヤー」であるから、仏教的にはある意味、否定されるべき対象ではある
だから、「空」は「マーヤー」だよ、っていう言い方は、どうしても解せないんだよね・・
「空」を「マーヤー」と同じこと、にする意味は、ちょっとおかしい感じがする >>277
>しかしあれは、認識対象を越えた、いわゆる、すべてのものが空となった「一」なる世界のものであって、
そこを混同してはいけないとお思う
そのイメージは俺的には、修験や浄土教の感覚で、そのように思う感じがある。
いや、俺流で、修験や浄土教を、そっち的に解釈しているという感じか、
修験の方が、まだ大自然という空間認知の感触があるかな。
真言密教の曼荼羅は、もっと外部の存在、他者をも含めた空間要素がある。
真言密教坊主の動画では、そのような事言っていたな、やはり想定しまてた感覚だったと、
その動画を見て思った。
その動画は、どのやつか忘れた、アップできればいいんだけど。 >>253
空とか、縁起とか、そういうのを、例え話にすると・・・、
たとえば、人が三日月を見ているとする・・
光ってる部分が実体で、それとは別に、欠けた部分も別に存在していると思ってる。
この時点で、人の認識は、「三日月型の月」と「欠けた形状の月」と、二つの実体を認めていたとする。
しかし、認識を越えた人から見ると、縁起が見えるわけだよね・・・
つまり、「三日月型」という実体も、「欠けた形状のもの」も、実体としては存在しない
すなわち、空ということになる >>253
縁起としての「一つの月」が現れるとき、その認識の台上にあるものは、
空となるわけだよね
で、「一つの月」を、認識の台上で語ってはいけないということになるでしょ
認識の台上はすべて空になるわけだから
「一つの月」というのは、認識の台上の人たちからは、指し示すことはできない
認識という分離を越えているから
だから、「一つの月が在る」と言うときは、認識上の「在る」ではなくて、
認識を越えたところの意味であるから、認識上の「在る」と勘違いしてはいけないと思う
認識上ではあくまで、「空」というところで止まるでしょ
それ以上は認識では語れない >>279
横からすみません。
>「色」は「マーヤー」であるから、仏教的にはある意味、否定されるべき対象ではある
五蘊は空って般若(心)経で説かれてるんだけど、WマーヤーWをその空(スーニャ)のシノニムにするのはおかしいと思うけど? >世俗を越える・・・、 認識対象(マーヤー)が作られる世界を越えることを、
衆生済度と言っている、ということだと思う。
その辺だと唯識の感じかな。
世俗そのものの中に、
というのが
華厳あたりの。
八宗綱要ていうのがあるんだか、
色即是空、空即是色の解釈の仏教各派の解釈論がある、鹿野園はこれを理解できていないのだが。
そこには、
事法界、理法界(唯識(南方仏教)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
とあり、
色を事、
空を理、悟り
と当てはめて、存在論、認識論が成り立っている。鹿野園は、その辺の理解せず、西欧哲学かぶれで理解しようとするんだが。
悟りと世俗の関係の存在論、認識論の。
バリエーションが…… 事法界(南方仏教)、理法界(唯識)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
とあり、
に修正。 >>280
よく、世界のすべてのものが、自分に見える、って話あるでしょ?
自然のもの・・、岩や山や木、花が、全部自分に見える
他人を見ると、それも自分に見える
これはここでもカムイが言ってたよね
これはどこでも悟った人の話として、よくある話だから、受け売りが出来るんだけど、
この論理的な意味をカムイは分かってなかった
つまり、分別思考が止んで、認識対象というのは結局、区別する、分ける、ということだから、
他との違いを鮮明にすることで、認識対象になるわけだから、
その区別が止むことで、すべての認識対象が平等になるわけだよね
差が無くなる 差がゼロになる
そうすると、個別のものが認識できなくなる
すべてのものが平等になれば、それまであった「個別」はすべて「空」になるということで、
あるのは、すべてのものを平等に見ている自分の意識だけ・・・ ということになる
だから、全部自分に見えちゃう、という論理になるね
この論理は正しいと思う >>283
ちょっと専門的なことは分からないので、言っている意味を明確に捉えることが出来ないんだけど、
「五蘊」は「マーヤー」の範疇に入らない・・、 ということを言いたいの? >>284
…デタラメが過ぎるんだよ。
用語を羅列してるだけで支離滅裂、意味を成してないの。 >>286
禅も、まあ、事事無礙法界にはいるんだろうけど。
外部の対象そのもの、世俗も含めたそのもの自体に真実の相を見る。
こうなると、一なるだけではない。
華厳では一即多、多即一
というのです。
外部の対象そのもの(多と言ってもいいでしょうけど)に見る、
このあたりて衆生済度の精神作用の方向性を見るのでしょう。
俺の世話になっている坊主は、
「死にたい」と言ってきた奴の首を絞めてやったらしいですから、その首を絞めるという精神作用?笑。
ヒデェ〜〜〜
笑 >>287
つーか、マーヤーはそもそもヒンズー教の術語で仏教用語でないでしょ。
概念が違うって事です。 >>289
だから、用語を列挙してデタラメ言うな。 事事無礙法界となると、
事、そのものへの直接作用があり、
暗室修行のニンマ派の悟りの境地は、
煩悩が起きると即、そのまま、リクパ(明知)によって分解され消えるとかいう悟りの境地に関する内容の本を読んだことがある、
俺もそのチベット密教の感触を
我流で真言唱え倒し観想しながら農作業の筋肉痛相手に試してやり切ったことかある笑、呼吸が乱れても疲れない笑
事事無礙法界とは、
世俗の対象そのままを直接的に関与する方向性がある。悟りの世界からというのではなくて。 >>293
だから、用語を列挙してそれっぽい事を言うな。
デタラメ言うな。 >>284
>事法界、理法界(唯識(南方仏教)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
デタラメな。
参考までに、かなり古いけど、井上円了博士の資料をあげとく。
あくまで教義思想上のウエイトを視座に分類されたものだけどね。
https://i.imgur.com/BvL7GUI.jpg 狂人鹿野園に理解を期待していない
レスはしない
狂ってるから
笑 >>284
>>289
事事無礙法界とか、ここまで来て初めて聞いたけどね、
まさに、そういうことだよね
つまり、さっきの月の話じゃないけど、
「光ってる部分の月」と、「欠けてる部分の月」、という風に分離的に見ているのが世俗の世界ということなんだけど、
同じ月を見ていることには変わりはない・・・、ということになるよね?
ただ、これをして、この分離の世界を肯定しちゃうと、間違っちゃうと思う
あくまでも分離的に見ている世界は空になって消えるもので、
それは二つの世界が別個にあって、片方の世界を消せって言ってることじゃなくて、
一つの世界の見方の違い・・・ ってことだよね
同じ世界を見ている・・ でも、片方の見方は間違っている
だから、見方だけを修正すれば、同じ世界に仏の世界が現れる でおーは仏教用語を継ぎ接ぎにしてそれっぽい文章を作って主張してるけど、中身はデタラメなんです。
敢えて私が言うまでもありませんが、多少の仏教を学んだ方なら、仏教用語のサラダボール状態で、支離滅裂なのは分かると思います。 でおーは知障(統失も?)ですから。
以下、証拠をあげます。
↓
731 :神も仏も名無しさん :2018/08/05(日) 18:17:03.82 ID:5Du8J09e
突発性難聴で入院してた時、夜中に水の落ちる音が少しづつ自分のベットに近いづいてくる笑。
近いづいてきた時に俺はカーテンを開け、心の中で「じゃかましいわっ!」と気合一発、それで静かになったわ笑。10年以上前のことやけど笑。 76 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/03/20(火) 11:05:21.18 ID:maCfZlOC [4/21]
しゃろん、おはよう、
高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています