坐禅と動中の工夫5
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。
念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。
どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。
ですから寝てはいけません。
次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになる事もあります。
また、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
これが正念相続です。
坐禅を続けてますと色んな変化、気づきがありますがそれは結果でありそれに踊らされてはいけません。
あくまでも、「息を離さない様にそれに徹して行く」
これだけを一心不乱にやって行く。
これだけに徹していれば自分が望む所に勝手に運んでくれます。
動中の工夫
動中の工夫は坐禅の延長みたいなもので、坐禅の時と同じ様に今度は動きに成り切ります。
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
自分はあるのかないのかわからないと言う事実。
風景は確実にあると言う事実。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
徹し切った姿が只なんです。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今を離さないように、只、抜かりなくやる。 >>144
あなたは念を唱えているんだよ。
途切れることなく。
それもまた風流かもしれんね。 公案の答え、が悟り、である。
馬鹿野園は失格である。
大爆笑である。 狂人鹿野園と狂人栄進二匹の
プロデュース成功や笑
えいえいおーーー
笑 自分から目を離さない。
これはカモイくんのテンプレからのコピペな訳だが
これは大悟する以前の修行者には、やろうとしても出来ない、
真似事をやったとしても精々肉体の自分にフォーカスするのみ、か、自分の想いに戻るくらい
何故なら真の自己、つまりは自我(七識)を超えた者を悟る前は知らないからです
言葉の意味からして、眼根眼識に可能なのは色境だからです、つまり知らない人が想像で作った言葉といえるのですよ
何も非難してる訳ではなく、自分とは真の自分とは何か?を探る切っ掛けになればと、まあでもカモイくんは考えることはせず反発するでしょうがw でおーと鹿野園
宿縁の激突ですな、お互いに相手をコントロールしているように思い、🌪竜巻のように2つが回転しながら巻き上がる様
只罵りあうだけでなく別次元での闘いを期待しますよ、鹿野園さんの今度の休み何時かなw >>155
はぁ?
あんた、何様のつもりだ?
そういう冗談はやめてくれ。
あれは知的障害者だろ?
彼に対するそれまでの宗教板の住人の対応が余りにも緩いから、ああしたおかしな人格に歪んでしまったんだよ。
彼をおだててWそう者こそ神に愛されるWだの、W人にはない感性があるWとか、皮肉混じりで言った事も知障の彼にはイロニーとして受け止められないんだよ。
だから、厳しく当たってんの。
勘違いするな。 でおーがここで勘違いしてる事をリアルでやったらそれこそ悲惨で彼のためにならないだろうに。
現に出入りを断られたお寺や教会があるんだし。 >>42
>0037 鹿野園 ◆xMO7PWTGf7cR 2021/01/21 21:49:22
>(大乗)仏教は、存在論は空を説き、認識論は無相を説いてる。
これ改めてだが、(大乗)仏教は、なんて書くのは誤解を招くもとだわ。
>>44のように般若経とか、あるいは般若経に説かれている三解脱門ではとかの表現にしないと大乗仏教全般においての認識論とは無相であると曲解されるわ。
その意味で>>44のように「認識論的な意味合いを持っている」とかのボカシが必要、「(大乗)仏教は〜認識論は無相を説いてる。」などと断定してはいけない。 例えば
陳那
インドの仏教論理学者。サンスクリット名はディグナーガDignāga、域龍(いきりゅう)とも訳す。
(略)
ところで近年の研究により、彼の思想的立場はアサンガ(無著(むじゃく))やバスバンドゥのそれとはかなり異なり、認識論と論理学を飛躍的に発展させていることが明らかとなった。
その認識論はバスバンドゥの『唯識二十論』の外界否定の理論をさらに進めたもので、認識の対象は外界に在存せず知識のなかにある対象の形象であるとし、そのうえにたって唯識説を解釈している。
そのため彼の唯識説は「有相(うそう)(表象主義的)唯識」といわれる。
(略)
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E9%82%A3-82371
ここで
>(大乗)仏教は、存在論は空を説き、認識論は無相を説いてる。
という断定文を思い出したら、「あれ?陳那は大乗仏教じゃないんだっけ?」と思われる可能性大だぞ。
もっと言葉を慎重に使うべきだったな。 >>161
先にどのくらい調べたか成果を報告するのが礼儀ってもんだろ?
何勘違いしてるんだw >>160
その程度じゃまだまだだなぁ、浅い浅いwww
先ずは認識論としての無相と、唯識の無相(無形象)の語源から当たりなさい。
で、そこで類似してるからって同じだって結論付けないでなw
先ずはそこまでやってみなさいw >>155
狂人鹿野園に燃料投下、お見事である笑
>>160
有相唯識あたりから、
天台、真言密教がでてくるからな、
禅は唯識より南方仏教寄り(とはいえ、鹿野園の定義内ではない)なんだろうな、
このへんが、アタマワルイ狂人鹿野園は理解できないやろな。
笑笑 ちなみに俺は有相(有形象)唯識派の方なんだぜ?
そこまで知ってて、認識論の無相と無相(無形象)唯識のそれの意味の相違を言ってるんだよ。
いつもみたいに後で恥掻きたいのならこのままやるもよし。 >>162-164
また虚勢を張ってゴマかすのに必死だねえ(笑)
>(大乗)仏教は、存在論は空を説き、認識論は無相を説いてる。
これがおかしいと反証しといるのに見てみるふりをしているね、君は(笑) >>165
>有相唯識あたりから、天台、真言密教がでてくるからな、
www
はいはいw
阿頼耶識縁起と如来蔵縁起は違うんだよ。 >>166
もう一度
>>159
を読み直すと良いよ。 >>167
wwwwwww
またまた、そんな虚勢張っちゃってw
あんたも懲りないねぇ?
またまたまたまた間違ってるのが証明されて後で恥をかくだけなのにさぁw >>169
ダメだなぁ、結論出すのが早過ぎるんだわ。
もっとちゃんと調べてから結論を出しなさい,
どうせ後で仏教界の碩学がそう言ってる部分を俺に引用されて終わるんだからw
お前の勉強の為にそれを出すのを引き伸ばしてるんだぜ? >>171
>どうせ後で仏教界の碩学がそう言ってる部分を俺に引用されて終わるんだからw
ほう、その部分をここに出してみなされ。
俺は今から風呂に行くからゆっくりでいいですぞ、一時間以内ならな(笑) >>170.間違っているのは馬鹿野園である。
バカには理解できない。
大爆笑である。
本証をやれ。
反証は必要ない。
大爆笑である。 >>173
ダメ。
そこであなたの探究が終わるから。 ● 認識の対象は外界に在存せず【知識のなかにある対象の形象】であるとし
●【阿頼耶識縁起と如来蔵縁起】は違うんだよ。
難しいこと言うね〜コレどういうこと❓ http://www.kotobuki-p.co.jp/bukkyousi/engi.htm
縁起(えんぎ)
釈迦の教えの中核のひとつ。梵語(サンスクリット語)のpratityasamutpadaの意訳で、因縁生起(いんねんしょうき)を略したものだ。
因とは果を生起させる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を指し、因と縁とが関係しあって、あらゆる現象が生起していることを意味している。
広義には法(ダルマ)と同一視され、宇宙の万物の生滅変化を貫く理法とみなされた。
最も狭義には部派仏教で説かれた🌕1【業感縁起】(ごうかんえんぎ)を指す。人間の幸不幸、社会生活の成功・失敗を、人間の行為(業)の結果とするものだ。
唯識法相(ゆいしきほっそう)では阿頼耶識(あらやしき)に縁起の原理を求める🌕2【阿頼耶縁起】、
『大乗起信論』では如来に縁起の原理を求める🌕3【真如縁起】(しんにょえんぎ)や🌕4【如来蔵縁起】、華厳では🌕【法界縁起】(ほっかいえんぎ)が説かれる。
また、宇宙の構成要素である四大(地水火風)に空と識を加えた🌕【六大縁起】も説かれた。
おいおい一体幾つ有るんだよ‼ ってとこだな >>176
簡単にいうと、
>● 認識の対象は外界に在存せず【知識のなかにある対象の形象】であるとし
心の中に写し出されたイメージって事でしょう。
>●【阿頼耶識縁起と如来蔵縁起】は違うんだよ。
阿頼耶識の性質はノーマルだけど如来蔵は真如って事でしょう。 >>175
はい、またゴマカシ、虚勢、話のすり替え、が出ました。
要するに引用できないんだろうが(笑)
君こそ三解脱門を唯識の認識論に結び付ける大いなるチャンスだぞ。
頑張って探求して証明してみたまえ! >>176
>● 認識の対象は外界に在存せず【知識のなかにある対象の形象】であるとし
唯識の立場の解釈。認識側に真理が成立する。
>●【阿頼耶識縁起と如来蔵縁起】は違うんだよ。
その鹿野園の返答は的外れであるのだが
如来蔵縁起は、天台や真言密教とは無粥系、
真言密教は177の六大縁起である、
天台は、お勉強不足で笑、如来蔵縁起ではないでしよう。八宗綱要や、空海の著作を見る限り、
色即是空、空即是色の存在論、認識論によって、縁起解釈に差が出て、
177のようなバリエーションが宗派別に成立する。鹿野園は、そういう存在論、認識論の差を理解せずに、単純化させた結論を出すので、
鹿野園は大乗仏教の存在論、認識論が解っていない、
と言った訳、
178の鹿野園の説明と
俺の説明、
どっちがわかりやすいかね?
笑 >>179
…いい加減に面倒だから、岩波の仏教辞典でも買ってくれないか?
写メしてもいいけど、つーか、写メしちゃいけないんだけどな。
いちいちお前の様な低レベルな奴らが絡んで来る度になきちんと正答を調べて引用や写メするのは大変なんだよ。 阿頼耶識縁起は、唯識の上での縁起、
有相唯識から、天台、真言密教の系譜がでてくるのは、
ただ識のみがあるという、
識を認めるあたりから、唯識は第8識だが
真言密教は第9識があるというように
時系列に発展していったという意味。
禅とは別系譜ね。 >>176
鹿野園の知識はハリボテ要素満載なので
信用できない
笑 結局さ、世界は「一」しかないんだよね
「一」しかないってことは、「無限」なんだよ
内と外がないから
で、「一」しかないってことは、「対象」が生まれない
ところが、人間の思考分別は対象を作って、世界を分離させちゃう
アラーの神の像を作ったり、絵を描いて祭ったりすると、
「私と神」という風に、主体と客体に分離しちゃう
アラーは一なる存在で、「おまえも私も」アラーの中に溶け込んでいるのにだ >>180
相変わらず支離滅裂で言葉のサラダボール状態だな。
そもそも
>有相唯識あたりから、天台、真言密教がでてくるからな、
って書いたのはおまえだろ?
阿頼耶識縁起(法相宗)は、天台・真言宗等で説かれてる縁起説とは別物なんだよ。
レベルが低すぎて話にならない。 >>183
知障だから保護されてる事を忘れて調子に乗るな。 人間の思考分別が世界を分離させている
それがマーヤーというわけだ
本来、「一」なるもので、あれもそれもこれも分離はないわけで、
人間の思考分別が認識対象を作り出すわけなんだけど、それは言い換えると、「価値判断」ということになり、
それはどういうことかいうと、他との差を作り出す・・・
「認識対象」と言った時点で、他との差を認めている・・・
これが、「平等」であれば、「認識対象」とはならない
差が無く、一列一平であれば、差を認めるものがなくなる
つまり、認識対象となるものがなくなる 法相宗は八識、天台宗九識、真言宗は十識。
その根本(識)のところに真如性を認める(天台・真言等)か認めないか(法相宗)で二分される。 鹿野園のレスに
マジメに返す、議論する気が起きん笑
だって狂ってるだも〜〜〜ん
笑 >>187
反証出来ないとそれ。
つまり敗北宣言。
去れ。 ゲス氏へのレスはしても、
狂人鹿野園へのレスはノーサンキュー
狂っているから〜〜
笑 >>188
否定はしないけど、どの宗教のどの宗派の主張なのかはレスに添えて下さい。
仏教的にはその見解は肯えない部分もありますから。 この認識対象が無くなることを、「空」というわけだよね
差が無くなって全てのものが平等になれば、「差が生じている個別のもの」が一切無くなる
「一」を分離的に見ていた・・・ マーヤー的に見ていたものが、
平等になって差がゼロになることで、一切の「認識対象(マーヤー)」が消える
「無限の一」というのを大きな無限の袋にたとえると、今まで袋の中にいっぱいものが詰まっていたのが、
「(空)からになる」 ということ
空になると無限の一が現れてくる
「縁起」というのは、「無限の一」とも置き換えられる >>188
普通の生活で精緻な認識行動を想定する場合、
その方向では無理がある。
その方向性の場合、
神のみの生活と
世俗の生活が分離しないといけなくなる。
ヴィーヴェカーナンダは世俗の社会奉仕活動の際は、一なる神の生活を選択できなかった。
死が近づいてきた時、一なる神のみの生活ができた。 >>193
特定の宗教の見解ではなく、総合的に見て、洞察したものです
あらゆる宗教の本質的な部分を洞察して・・ >>197
本来人間は、思考分別を使わなくても、「無為自然」にすべてが成り立っていけるようになってる
それが聖書にいう、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」ということ
すべてが叶うようになってる
世俗の生活というのは、思考分別によって分離的に見てるから、「不幸と幸福」「良し悪し」などの価値判断によって、
常に葛藤する状態で「苦」を生み出す
思考分別は「一体性」から外れたものであるから、全体の流れの中で生かされるというよりも、
ちっぽけな自分の個我の自力で生活することになるから、最終的には行き詰っちゃう
「我」を「無」にしなければ、一体の中から無為自然に出てくる生活になれない
この二つは両立しない >>197
「世俗の生活」とはつまるところ、「マーヤーの生活」ということになる
お釈迦様はこのマーヤーを越えろと言っているわけだから、それはすなわち、思考分別の世界を越えろってこと たとえば、「色即是空 空即是色」 という場合、
最初の「色」がマーヤーで、最後の「色」が「無限の一なる世界」という解釈もあるんだが、どうだろうか
つまり、認識対象で分離した世界が空になった・・・ それらが空になるということは、無限の一なる世界が現れるということだ、
という解釈
「即是」というのがこの場合、どういう意味から分からないけど、
単なる反転の意味なのか・・
「色は空なんだよ、空は色なんだよ」 とすると、後半がおかしくなる
「空、すなわち、それが色だ」 という、後にかかる感じなんだろうか
ここがずっと謎 >>202
その辺の解釈が、君の一だと、超越一本。
大乗だと、色即是空、空即是色の
色は、ある意味、世俗をも含む、
このあたりから177のような縁起解釈のバリエーションがでてくる。
世俗での判断の智慧の成立を狙うのが本来の大乗仏教。
その辺の構造の存在論、認識論が
鹿野園は全く解っていない笑。
狂ったレスしている時点で鹿野園は
笑 >>203
そうかw
あなたの信仰は否定しないけど、勝手な思い込みで仏説云々を言われるのもなんだから、起きてから少し遊ばせて貰うよ。 空海とか、昔の悟った人たちは仏の世界を見ていたわけだよね
だから、仏像とか、曼荼羅とかを残してる
極楽浄土というのも、思考分別を越えた「一なる世界」ということだよ
対象的に描かれているが、思考分別で見る対象感とは違うでしょう
浄土教にも、思考分別を越えた世界というような意味の文章が、頻繁に出てくるでしょ >>203
狂人鹿野園だけでなく、
狂人栄進という、狂人鹿野園に依存する狂人がいるすれなんて〜〜
笑。
狂人二匹が腐った幼稚なテンプレのスレなんて〜〜笑
だな。 >>205
>大乗だと、色即是空、空即是色の色は、ある意味、世俗をも含む、
色は五蘊(色・受・想・行・識)の一部って事で書かれてるんだよ、ペットw >>204
仏教は如実知見だからな、
ありのままに見る
だからな。
ま、俺も
イエス・キリストの圧倒的霊力を味わうと、
君の言う一なる世界の認知もできないでもないが。 >>205
よく分からないのが二点
>色は、ある意味、世俗をも含む、
「色」というのはイコール「世俗」としてもいいと思うけど
「も含む」とは、世俗以外で含むものとは一体何か・・?
>世俗での判断の智慧の成立を狙うのが本来の大乗仏教。
これはおかしいと思うな・・
「智慧」というのは、仏教的に言えば悟りから来るものでは?
つまり、無為自然の中から、個我とは関係なく、分離のない一なる世界から来るもの・・ >>212
その「ありのままに見る」というのが、「智慧」ということだよね?
その「ありのままに見る」というのは、「無分別に見る」ということでしょう?
「世俗の判断」では、分別が入って、「ありのままに見る」ことは出来ないでしょう >>206
ぜひ遊んでもらいたい
あなたの意見は非常に勉強になるよw >>208
真言密教だと、177の六大縁起とかで、
我流で三昧決めて遊ぶけど、
超越一本じゃないんだよな、
外部存在をも含めて六大、意識も含む(ということは世俗の意識も含むという意味もある)物質の構成要素が、自分と外部が相互に混じり合う(空海は即身成仏義で、六大無礙、重々帝網と記している)、
そういう感じなのよ、存在論、認識論は、
単純な一なる世界観ではない。
浄土教学あたりだと、一なるぽい解釈はできそうだけど、浄土真宗なんかの三昧改造解釈は、
それでいけそうだけど。 >>212
たとえば、人間の思考分別の葛藤っていうのは、
たとえば、「雑念」と「無念」という価値判断があったとするでしょ?
そうすると、「無念」を目指して「雑念」と葛藤するわけだよね
そこに「苦」が生まれる
これは思考分別で価値判断してるわけだよね
ところが、両者に価値判断することもなく、「ありのまま」に見れば・・・
それはつまり、分別による「差が生じない」ということだけど、
そうなると、両者に差が無くなって(差がゼロになって)、
平等になるわけだよね?) >>212
平等になって差が一切無くなるってことは、どういうことかというと、
「そこに差をつけていたもの」・・・ 名称とか、「無念」「雑念」という両極の実体というものが、
無意味になる・・・ 空になる、ということだよね?
両極の差がゼロで、両極の体が無意味・・ ということになれば、
その両極は「一」に帰したと言える
一つだよね
つまり、縁起の状態 >>215
>「智慧」というのは、仏教的に言えば悟りから来るものでは?
つまり、無為自然の中から、個我とは関係なく、分離のない一なる世界から来るもの・・
世俗を断つという南方仏教なら、そうだけど、
大乗仏教で菩薩行というのだから、
他者を救うという発想だと、
世俗の者をも救うという幅がでてくるので、
世俗で作用できる智慧
、このあたりが、177の縁起のバリエーションの成立の理由なんでしょう、
その方向性から存在論、認識論のバリエーションが増えてきて笑。
むろん浄土教だと。末法で世俗を断つ方向性と智慧を求めるというふうに行っちゃいますからね。 >>216
天台小止観ぽい方向性で説明すると
色即是空は、
世俗から悟りへ、
空即是色
悟りから世俗へ、
菩薩行で他者を救うというシステムを構築したのよ、
物好きな大乗仏教は笑。
世俗と悟りを分離しない手法を狙ったんやろね。
そのあたりから、三昧と存在論と認識論のバリエーションご増えたんやろね。 >>218
>自分と外部が相互に混じり合う
これがだから縁起のことじゃないの?
縁起というのはどういうのかというと、さっきので言うと、
「雑念」と「無念」というのは両極で分離してるように見えるけど、
その二つは相依関係にある
この二つを「分離」と見ているときは、世俗的な見方で見ているわけだよね
つまり、この二つは世俗のもの、ということになる
ところが、この二つを相依と見る場合は、世俗の分離ではなくて、「縁起」となるわけだから、
それがインドラ網のようなものになる
インドラ網に世俗的なものが一緒に含まれている、ということではなくて、
インドラ網(縁起)になったときは、即是、世俗は空になって消えた・・・ ということでしょ >>222
色即是空は、
世俗から悟りへ、
空即是色
悟りから世俗へ、
浄土真宗的に言えば、往相と還相ってことになるのかな・・・?
これも、結局、この世界は分離的に見ていてマーヤーということなんだけど、
分離の無くなった悟りの目から見ると、仏の世界そのままになる・・ という解釈になるんじゃないかな
つまり、世俗の世界と悟りの世界が全く違うところにあるんじゃなくて、
簡単にいうと、見方の違いによって、同じものが違うように見えてるだけだと・・ >>224
これは、>>221にも言えることだと思うんだけど 真言密教の金剛界曼荼羅は、
外側なら真ん中へのコース
悟りに登る方向の修行(向上)と、
真ん中から外側に向かうコース
世俗に向かう方向の修行(向下)があるの。
当然、最初は、悟りに、向かう修行をし、
悟った後は、世俗に向かい衆生済度の修行をする構造な訳。
狂人鹿野園はナルシズムで登りつめて、たにに暴言を吐き、威張り倒すだけの
恥知らず餓鬼だが
笑 >>221
なるほど、
>世俗の者をも救うという幅がでてくるので、
>世俗で作用できる智慧
これはこういう考えというより、
他者を救う時には、もはや個我(分離の世界)を越えて、一体(縁起)の世界から来てるわけだから、
さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
「世俗で作用できる智慧」という考え方ではなくて、仏の世界の作用がそのまま凡夫の世界に現れ出てる・・・
その現れが、「智慧」になる・・、と
「仏の世界」と「凡夫の世界」が分離してるんじゃなくて、
凡夫の世界がそのままで仏の世界になる・・
こういう感じだと思いますけどね・・ >これも、結局、この世界は分離的に見ていてマーヤーということなんだけど、
ありのままに見て、
を完成した後では、
狂った世俗も、穏やかに見える、
狂った鹿野園の暴言も腹立たないなあ俺様は笑。
狂っている、世俗を分析し、対処して他者を救い導く智慧がある状態は、
一なる、
というよりも、
世俗、相手に応じた
対機説法が重視するんだろうなあ、世俗云々どと。
一なるだと、超越し過ぎていて
対機説法はできんやろな。
俺は修行足らんので
対機イジり笑 >さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
その辺は唯識ぽいね。唯識はそういう感じだろね。
天台、真言密教だと、その感覚ではないな。 >>226
>当然、最初は、悟りに、向かう修行をし、
>悟った後は、世俗に向かい衆生済度の修行をする構造な訳。
これが、つまり・・・
「世俗に向かい衆生済度」 というところがポイントだと思うんだけど、
どうやって「衆生済度」をするか
これは一見、悟って仏(あるいは菩薩)が凡夫の世界に降りてきて、
凡夫の世界を救済してあげる・・・ と、いっけん、見えるけど、
これも、そうではなくて、この場合の「衆生済度」というのは、
仏の世界がそのまま凡夫の世界に現れ来る・・・
つまり、菩薩の(我、思考分別、凡夫の世界によらない、)自然法爾の行いが、
「衆生済度」という意味
さっきの話で言えば、「空即是色」と、縁起の世界を現わしてくる・・・
それが「衆生済度」ということいなると 天台、真言密教の存在論、認識論は、
ある意味あり得ない発想やからな。
薬師寺の唯識の有名な僧侶、橋本凝胤さんは、
強烈な平安鎌倉仏教批判論者だった。
>さっきも言ったように、凡夫の見る分離した世界に、そのまま仏の世界を現わしている状態・・・
が唯識に近いやろな。 >「仏の世界」と「凡夫の世界」が分離してるんじゃなくて、
凡夫の世界がそのままで仏の世界になる・・
こういう感じだと思いますけどね・・
そのあたりから、空海の著作では
天台以上のゾーンの存在論、認識論に入るね。 >>229
ようは、分離的に見ているか、縁起的に見ているか、ってことで、
分離的に見るのは思考分別の働き
縁起的に見るのは、分別が無くなって、価値判断が無くなって、物事をありのままに見ている状態
世界を、見方によって、それぞれ変わってるだけで、
縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
当然、一なる世界から現れてくる働きは、完璧な調和ということになるから、
それがそのまま衆生済度につながっていく 一なる、に関してだけど、
ラーマクリシュナは
神の一なる時は、普通に他人と話ができない、
意識飛んでたりする。が
神と一なる、
でない時は他者と話ができる、
てあったな。
俺もキリスト教カトリックのミサ、初めて出て家に戻った時、意識が飛びそうになったが、
神秘主義否定主義者の禅のプライドで抵抗したな笑 もしも、仏の世界と凡夫の世界が別もんで、仏や菩薩が凡夫の世界を救うんだ、ということになれば、
凡夫の世界はいつまでも仏の世界にならないということになるよ
凡夫が物質的に幸せになるように・・・ ってことになる
たとえば、病気を治してあげる、豊にしてあげる、感情的な喜びを与えてあげる、
不幸を無くしてあげる・・・ 等々
本当の幸せとは、幸不幸、苦楽、を越えたものにあるわけだから、それが衆生済度ということになるわけだよね
それがつまり、衆生を凡夫の世界的に救うのではなく、(仏の世界と凡夫の世界が別別になっているのではなく、)
凡夫の世界に仏の世界を現わしていく・・・
そうすると、二元相対的な分離の凡夫の世界は消えていき、仏の世界そのままが現れると
形的に凡夫の世界を救っていたのでは、凡夫の世界は消えないですよ >縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
その縁起解釈ですら、
衆生済度の感覚も
存在論、認識論も
バリエーションがあるからな。
天台、華厳、真言密教も各々違うからな。
禅ですら、
臨済宗と曹洞宗ですら、違いがあるからなあ笑。
鹿野園は衆生済度の視点がないから、
暴言、狂人ぶりを発揮できる
笑 >縁起的に見ている人がこの凡夫の世界を歩めば、その行いは無為自然に縁起の世界を写していることになる・・・
その縁起解釈ですら、
衆生済度の感覚も
存在論、認識論も
バリエーションがあるからな。
天台、華厳、真言密教も各々違うからな。
禅ですら、
臨済宗と曹洞宗ですら、違いがあるからなあ笑。
鹿野園は衆生済度の視点がないから、
暴言、狂人ぶりを発揮できる
笑 >>234
こういう話は面白くていくらでも続けられるんだけど、
今日はちょっと時間がないので、
また今度 >>235
俺は質問される、話の流れが出ない限り
情報は出さない、
カムイや鹿野園みたいに話の流れもなく、質問もされないのに情報垂れ流さない笑
今日は禅に関しては全く情報供給していない。
あんまり、やる気がないけど、元々、
禅以外の情報は楽しめる派やなあ笑 >>235
>凡夫が物質的に幸せになるように・・・ ってことになる
たとえば、病気を治してあげる、豊にしてあげる、感情的な喜びを与えてあげる、
不幸を無くしてあげる・・・ 等々
そのレスをみて、真言密教に物足りなさを感じる部分がある、
それ故にダライ・ラマの中論で強化したくなる笑
ダライ・ラマ中論密教カッコイイ〜〜笑 >>204
文字通りなんじゃないのでしょうか
色は空に異ならず、空は色に異ならない、マーヤとしての色も、一空としての存在も、1つの世界であるのような
つまりイコールということです >>238氏、でおー氏、鹿野園氏、皆さん各々の世界観と知識をお持ちで、俯瞰するだけで精一杯でw、どちらがと言う判断は無理、拝見するのみです
。 >>240
真言密教に物足りなさを感じる部分がある、
ダライラマの本、本屋にあったね、読んでないけど、しかし即身成仏すればしたなりの世界と救済方法が分かるのでしょうね >>181
岩波の仏教辞典に
(大乗)仏教は、存在論は空を説き、認識論は無相を説いてる。
と書いてあるのかね?(笑)
低レベルとかまたゴマカシと虚勢を書いちゃってるけど、君ってハッタリ君だね(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています