坐禅と動中の工夫5
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。
念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。
どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。
ですから寝てはいけません。
次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになる事もあります。
また、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
これが正念相続です。
坐禅を続けてますと色んな変化、気づきがありますがそれは結果でありそれに踊らされてはいけません。
あくまでも、「息を離さない様にそれに徹して行く」
これだけを一心不乱にやって行く。
これだけに徹していれば自分が望む所に勝手に運んでくれます。
動中の工夫
動中の工夫は坐禅の延長みたいなもので、坐禅の時と同じ様に今度は動きに成り切ります。
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
自分はあるのかないのかわからないと言う事実。
風景は確実にあると言う事実。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
徹し切った姿が只なんです。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今を離さないように、只、抜かりなくやる。 まあ大山は勘違いしたままで良いけど他の皆さんが大山の言ってることを鵜呑みにしてしまうと気の毒なので、一応元の文章貼っときます。
一方、『般若経』で強調された空・無相・無願という三つの三昧は、それぞれ、存在論的・認識論的・宗教的ないし心理的な意味あいをもっている。
(仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫―角川文庫ソフィア) >>243
ダライ・ラマの中論講座関連動画山程ある、
あれを見るとシビレルわあ〜〜笑。
禅ではない三昧世界観があるからなあ、
教義的にも、三昧的にも別物でオモロイ。
ダライ・ラマの中論密教解釈で
天台、華厳、真言密教の再解釈すると
オモロイ感じやわあ〜〜
むろん我流やけど笑 >>244
大山は八宗綱要を精読せずに、
そのような定義寝言をレスしているからな。 >>245
鹿野園は大乗仏教各派の多様な存在論、認識論の構造を知らずに、
創作的に一元的ハッタリ定義をレスし、
麦、栄進あたりを、惑わしているからな
笑 公案を知らないバカが多い。
公案の答え、が悟り、である。
これが常識だが臨済宗の密教となっている。
公案の問題を素通りして、完結できると思うバカが多い。
大爆笑である。 >>245
鹿野園は大乗仏教各派の多様な存在論、認識論の構造を知らずに、
創作的に一元的ハッタリ定義をレスし、
麦、栄進あたりを、惑わしているからな
笑 さて、冗談の羅列はともかくここから本題に入りましょうかw
大乗仏教の基本は言わずもがなW空Wなんです。
有部は法有を説きますが、大乗では人空・法空の二空を説き大乗を称する宗派でその立場に立たない所は寡聞にして存じません。
(大乗)仏教は存在論として空を説く。
当然の帰結だと思いますけどね。
で、認識論としての無相。
(二)空を説くのであれば、これも当然にそこに帰結するわけで反証はないと思います。 251.悟っていない馬鹿野園が言うバカである。大爆笑である。 ところで、唯識思想には無相(無形象)唯識派と有相(有形象)唯識派がありますが、いずれも大乗仏教(当たり前ですけど)で二空を説くものです。
有相・無相の違いはありますが、いずれも外界実在論にたつものではなく、表象(イメージ)、つまり心の中に現れたものという視座にたってます。 251.空を理解できれば天才である。
馬鹿野園は天才でなくして愚才である。
大爆笑である。
空を理解していない馬鹿野園が言うバカである。
大爆笑である。 254.空とは欠いている、ことである。by馬鹿野園である。
それでは物理学の問題となる。
バカには理解できない。
大爆笑である。 253.では心理学の問題となる。
バカには理解できない。
大爆笑である。 西欧哲学かぶれが抜け切らん鹿野園らしいや笑
反証してやらんでもないが
狂人鹿野園にはレスしねえ
笑 馬鹿野園が言うバカである。
宗教と他の学問との分離と関係とが理解されていない。
そんな指摘をされても理解できない馬鹿野園である。
大爆笑である。 ここで有相(有形象)唯識派と無相(無形象)唯識派の違いについておおよそのところをまとめておきましょうか。
両派とも基本的に外界実在論にはたたず、現象は心の顕れ(イメージ)と説いてますが、有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し、無相派はないと主張します。
勿論、あらかじめ備わっているイメージといっても因縁仮和合して形成されたものですからね。
(大乗)仏教は認識論として無相(form less)を説く。
なんらこれを妨げるものではないのは明白ですねw >>257
ペットは黙ってなさい。
仏教の視座から(西洋)哲学上の問題を考えてるんだよ。 >>242
知障と並列関係で列挙するのは嫌がらせ? >>242
八宗綱要をマジメに読めば、
鹿野園が西欧哲学かぶれのデタラメのレスしているか理解できるさ。
笑 >>262
www
反証するか、チンチンするか?
どっちだよ、マイペットw だぁれもいない作業場の
黄色い染みにこだまする
罵声に震えるでおーくん
今日もネットでごくつぶし 鹿野園、悟りスレで
サーバントクラスの狂態連投レスで
狂ってるナウ
さすがやな〜〜
鹿野園
笑 鹿野園を見ていると、
サーバントの気持ち理解できたです
笑 で、反証するのか?チンチンするのか?
どっちだ?
でおー ザ マイペット w >有相・無相の違いはありますが、いずれも外界実在論にたつものではなく、表象(イメージ)、つまり心の中に現れたものという視座にたってます。
外界は可視光線の反射で脳に表象したものでありイメージと言えばそう言えます
それを実際に知る為の行として、チベット密教では暗闇の中で数ヶ月も過ごし瞑想します
これにより、実際の外界と違わない映像を見るような体験を経験すると言います、それにより世界は意識から現れることを如実に知ることになるようです >>269
鹿野園は「視座」で西欧哲学的な定義の中で固定化するからな、
鹿野園の解釈は西欧哲学的単純化
解釈。
だから唯識に関してツッコまれるんだろうな。 >>269
>それを実際に知る為の行として、チベット密教では暗闇の中で数ヶ月も過ごし瞑想します
!
それは初耳ですけど、たしかに眼への光が遮断、おそらくは前五識への刺激を極力避ける環境ってことなのでしょうが、唯識でいうところの独頭の意識がはたらいて瞑想が深まる環境に適するって事でしょうね。 >>270
ペットは黙ってなさい。
でおー ザ マイペット w >>270
無理して首を突っ込まなくていいの。
バカムイもそうだけど、知障が無理して、知ったか振りして、背伸びして語るから白けるの。
身の丈でいいんだよ、身の丈で。 >両派とも基本的に外界実在論にはたたず、現象は心の顕れ(イメージ)と説いてますが、有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し、無相派はないと主張します。
故油井真砂禅尼には、人生の諸問題を相談にくる相談者が頻繁にきていました
それは油井真砂禅尼に、人の因縁を修正できる神通力を持たれていたからでした
ある時相談者を前にして深い禅定に入られ、相談女性の前世に遡り、カルマの修正を行っていました、火に関係するカルマだったそうです
禅尼が禅定から出定すると、手にはそれ迄無かった火傷ができていたそうです、それについて禅尼はこう言われました、
『注意していたが仕切れずにカルマを少しうけてしまった、』と
つまり、『有相派は識にあらかじめイメージが備わってると主張し』この事は上記のエピソードによればその通りと言えないでしょうか? >>274
油井真砂禅尼については貴殿がここで紹介されるまでは存じておりませんでしたけど、相当な神通力をお持ちだったとか。
阿頼耶識縁起によれば、過去の行為がそこに種子として蓄積されて縁によってそれが現象するとされてますので、その話が事実であれば禅尼はその方の阿頼耶識を調整されたって事になるのでしょうね。
あくまで阿頼耶識縁起の立場からですけど。 カルマの修正な、
難しいテーマやな、修験ぽい。
その辺の探求はしたことないなあ。 >>240
たとえば、密教の曼荼羅の世界観を、世俗の人の思考分別の感覚で、認識対象的な世界だととらえてはいけないと思うんだよね
世俗的に見ると、曼荼羅の仏や菩薩の世界は、認識対象としての世界のように見える
しかしあれは、認識対象を越えた、いわゆる、すべてのものが空となった「一」なる世界のものであって、
そこを混同してはいけないとお思う
究極的にはすべての仏教は言ってることが同じで、世俗的な救いを与えるのではなくて、
世俗を越える・・・、 認識対象(マーヤー)が作られる世界を越えることを、
衆生済度と言っている、ということだと思う。 >>274,275
この世でもっとも美ししものは人の頭脳の中にある。
この世でもっとも醜いものも人の頭脳の中にある。
この世でもっとも優れた人格も人の頭脳の中にある。
人の頭脳の無制限な力を借りるものはオカルトに足を奪われる。 >>241
同じことを言っているとすると、なぜ還相的な言い方をするんだろうか・・・?
「色即是空」だけでいいよね?
「色」は「マーヤー」であるから、仏教的にはある意味、否定されるべき対象ではある
だから、「空」は「マーヤー」だよ、っていう言い方は、どうしても解せないんだよね・・
「空」を「マーヤー」と同じこと、にする意味は、ちょっとおかしい感じがする >>277
>しかしあれは、認識対象を越えた、いわゆる、すべてのものが空となった「一」なる世界のものであって、
そこを混同してはいけないとお思う
そのイメージは俺的には、修験や浄土教の感覚で、そのように思う感じがある。
いや、俺流で、修験や浄土教を、そっち的に解釈しているという感じか、
修験の方が、まだ大自然という空間認知の感触があるかな。
真言密教の曼荼羅は、もっと外部の存在、他者をも含めた空間要素がある。
真言密教坊主の動画では、そのような事言っていたな、やはり想定しまてた感覚だったと、
その動画を見て思った。
その動画は、どのやつか忘れた、アップできればいいんだけど。 >>253
空とか、縁起とか、そういうのを、例え話にすると・・・、
たとえば、人が三日月を見ているとする・・
光ってる部分が実体で、それとは別に、欠けた部分も別に存在していると思ってる。
この時点で、人の認識は、「三日月型の月」と「欠けた形状の月」と、二つの実体を認めていたとする。
しかし、認識を越えた人から見ると、縁起が見えるわけだよね・・・
つまり、「三日月型」という実体も、「欠けた形状のもの」も、実体としては存在しない
すなわち、空ということになる >>253
縁起としての「一つの月」が現れるとき、その認識の台上にあるものは、
空となるわけだよね
で、「一つの月」を、認識の台上で語ってはいけないということになるでしょ
認識の台上はすべて空になるわけだから
「一つの月」というのは、認識の台上の人たちからは、指し示すことはできない
認識という分離を越えているから
だから、「一つの月が在る」と言うときは、認識上の「在る」ではなくて、
認識を越えたところの意味であるから、認識上の「在る」と勘違いしてはいけないと思う
認識上ではあくまで、「空」というところで止まるでしょ
それ以上は認識では語れない >>279
横からすみません。
>「色」は「マーヤー」であるから、仏教的にはある意味、否定されるべき対象ではある
五蘊は空って般若(心)経で説かれてるんだけど、WマーヤーWをその空(スーニャ)のシノニムにするのはおかしいと思うけど? >世俗を越える・・・、 認識対象(マーヤー)が作られる世界を越えることを、
衆生済度と言っている、ということだと思う。
その辺だと唯識の感じかな。
世俗そのものの中に、
というのが
華厳あたりの。
八宗綱要ていうのがあるんだか、
色即是空、空即是色の解釈の仏教各派の解釈論がある、鹿野園はこれを理解できていないのだが。
そこには、
事法界、理法界(唯識(南方仏教)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
とあり、
色を事、
空を理、悟り
と当てはめて、存在論、認識論が成り立っている。鹿野園は、その辺の理解せず、西欧哲学かぶれで理解しようとするんだが。
悟りと世俗の関係の存在論、認識論の。
バリエーションが…… 事法界(南方仏教)、理法界(唯識)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
とあり、
に修正。 >>280
よく、世界のすべてのものが、自分に見える、って話あるでしょ?
自然のもの・・、岩や山や木、花が、全部自分に見える
他人を見ると、それも自分に見える
これはここでもカムイが言ってたよね
これはどこでも悟った人の話として、よくある話だから、受け売りが出来るんだけど、
この論理的な意味をカムイは分かってなかった
つまり、分別思考が止んで、認識対象というのは結局、区別する、分ける、ということだから、
他との違いを鮮明にすることで、認識対象になるわけだから、
その区別が止むことで、すべての認識対象が平等になるわけだよね
差が無くなる 差がゼロになる
そうすると、個別のものが認識できなくなる
すべてのものが平等になれば、それまであった「個別」はすべて「空」になるということで、
あるのは、すべてのものを平等に見ている自分の意識だけ・・・ ということになる
だから、全部自分に見えちゃう、という論理になるね
この論理は正しいと思う >>283
ちょっと専門的なことは分からないので、言っている意味を明確に捉えることが出来ないんだけど、
「五蘊」は「マーヤー」の範疇に入らない・・、 ということを言いたいの? >>284
…デタラメが過ぎるんだよ。
用語を羅列してるだけで支離滅裂、意味を成してないの。 >>286
禅も、まあ、事事無礙法界にはいるんだろうけど。
外部の対象そのもの、世俗も含めたそのもの自体に真実の相を見る。
こうなると、一なるだけではない。
華厳では一即多、多即一
というのです。
外部の対象そのもの(多と言ってもいいでしょうけど)に見る、
このあたりて衆生済度の精神作用の方向性を見るのでしょう。
俺の世話になっている坊主は、
「死にたい」と言ってきた奴の首を絞めてやったらしいですから、その首を絞めるという精神作用?笑。
ヒデェ〜〜〜
笑 >>287
つーか、マーヤーはそもそもヒンズー教の術語で仏教用語でないでしょ。
概念が違うって事です。 >>289
だから、用語を列挙してデタラメ言うな。 事事無礙法界となると、
事、そのものへの直接作用があり、
暗室修行のニンマ派の悟りの境地は、
煩悩が起きると即、そのまま、リクパ(明知)によって分解され消えるとかいう悟りの境地に関する内容の本を読んだことがある、
俺もそのチベット密教の感触を
我流で真言唱え倒し観想しながら農作業の筋肉痛相手に試してやり切ったことかある笑、呼吸が乱れても疲れない笑
事事無礙法界とは、
世俗の対象そのままを直接的に関与する方向性がある。悟りの世界からというのではなくて。 >>293
だから、用語を列挙してそれっぽい事を言うな。
デタラメ言うな。 >>284
>事法界、理法界(唯識(南方仏教)、理事無礙法界(天台)、事事無礙法界(華厳、真言密教)
デタラメな。
参考までに、かなり古いけど、井上円了博士の資料をあげとく。
あくまで教義思想上のウエイトを視座に分類されたものだけどね。
https://i.imgur.com/BvL7GUI.jpg 狂人鹿野園に理解を期待していない
レスはしない
狂ってるから
笑 >>284
>>289
事事無礙法界とか、ここまで来て初めて聞いたけどね、
まさに、そういうことだよね
つまり、さっきの月の話じゃないけど、
「光ってる部分の月」と、「欠けてる部分の月」、という風に分離的に見ているのが世俗の世界ということなんだけど、
同じ月を見ていることには変わりはない・・・、ということになるよね?
ただ、これをして、この分離の世界を肯定しちゃうと、間違っちゃうと思う
あくまでも分離的に見ている世界は空になって消えるもので、
それは二つの世界が別個にあって、片方の世界を消せって言ってることじゃなくて、
一つの世界の見方の違い・・・ ってことだよね
同じ世界を見ている・・ でも、片方の見方は間違っている
だから、見方だけを修正すれば、同じ世界に仏の世界が現れる でおーは仏教用語を継ぎ接ぎにしてそれっぽい文章を作って主張してるけど、中身はデタラメなんです。
敢えて私が言うまでもありませんが、多少の仏教を学んだ方なら、仏教用語のサラダボール状態で、支離滅裂なのは分かると思います。 でおーは知障(統失も?)ですから。
以下、証拠をあげます。
↓
731 :神も仏も名無しさん :2018/08/05(日) 18:17:03.82 ID:5Du8J09e
突発性難聴で入院してた時、夜中に水の落ちる音が少しづつ自分のベットに近いづいてくる笑。
近いづいてきた時に俺はカーテンを開け、心の中で「じゃかましいわっ!」と気合一発、それで静かになったわ笑。10年以上前のことやけど笑。 76 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/03/20(火) 11:05:21.18 ID:maCfZlOC [4/21]
しゃろん、おはよう、
高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・。 やっぱり大山の有相唯識と認識論における三解脱門の無相(三昧)の整合性は
>>74の方向性でつけてきたか
でもね、唯識の人に「大乗仏教の唯識派の認識論って三解脱門の無相ですよね?」って聞いたら多分、ほとんどの人に「え?」という顔されると思う(笑)
瞑想者の認識をめぐる考察
──仏教認識論・論理学派を中心に──
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/14.pdf
そもそも
一方、『般若経』で強調された空・無相・無願という三つの三昧は、それぞれ、存在論的・認識論的・宗教的ないし心理的な意味あいをもっている。
(仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫―角川文庫ソフィア)
この梶山雄一さんの書き方にも問題あるわな。
空というのはそもそも存在するものではなく認識するものなので、空三昧も認識論的とも言える。
混乱を招くだけだろう。
恐らくは増一阿含経の
「これに三三昧あり、云何が三と為す、空三昧、無願三昧、無相三昧なり。云何が彼を名づけて空三昧と為す、謂わゆる空とは一切の諸法は皆悉く空虚なりと観る、これを謂って空三昧と為す。云何が彼を名づけて無相三昧と為す、謂わゆる無相とは一切の諸法に於いて都て想念無く、また不可見なる、これを謂って無相三昧と為す。云何が名づけて無願三昧と為す、謂わゆる無願とは一切の諸法に於いてまた願求せざる、これを謂って無願三昧と為す。かくの如く比丘、この三三昧を得ざることあらば、久しく生死に在りて自ら覚悟する能わず」
の不可見の文字から認識論”的”だーと思ったんだろうけど。 290 :神も仏も名無しさん :2018/08/28(火) 19:08:32.02 ID:abFYbNxh
残念ながら、イエスが余りにもいい奴なので、派遣労働風にお手伝い笑。
お礼に修行が進む笑。
結構、俺は操られているんだぞ笑。 >>291
いやー、仏教は基本的に、仏教以前のインドの考え方を基本にして、そこに過ちを修正したり、
正しい部分を改めて言い直したり、
ってことだと思う
マーヤーの考え方は、仏教にそのまま引き継がれて、それを土台にして進化してると思うよ
もともとインドの昔の考えたでは、唯一主だけが絶対で、分離はない、ってことで、
そこにマーヤー(分離的な認識対象)がうまれたってことで、
これが「空」というわけだよね
後のインドの頭の悪い人が、この唯一主を対象化し、「あなたと私」という風に、
主体と客体を分離しちゃった
そこを仏教が修正していった・・・ という感じだとも思うね 308 :神も仏も名無しさん[]:2018/09/11(火) 16:58:28.21 ID:QUDqQNzi>>300
承狂氏来てたので、ネタを、
山伏的密教の秘密が・・・少し解ったような・・・。
浄土宗西山派寺院で、阿弥陀仏に入我我入で笑。
けっこう飛びます、飛びますで・・・・・笑。
山伏&、新義真言の真言念仏のイメージが・・・・・笑。 149 :神も仏も名無しさん :2018/09/11(火) 17:56:47.05 ID:QUDqQNzi
夕、こっちにいたので、浄土宗西山派寺院で、山伏密教解釈で禅定ライディングしてきたぞ笑。
やっと、山伏密教の世界の正体が明白に・・・・。
あと、相手してくれない真言宗御室派の末寺の魔法陣プレイ成功笑。
今まで、本堂中に入ろうが、まったくマックスジャンピングしないくせに、本堂中に入らずに気合い入れずに魔法陣ぶちかましたら、
マックスジャンピングしました笑。いったい何なんだ笑? 424 :神も仏も名無しさん[]:2018/09/13(木) 10:00:50.83 ID:nNPgkEOS
坊主のお経の成果で、例の有名キリスト教会の施設関連で、キリスト教に無関心な人(心迷える人)に、その仏教路線で、その成果を実践して暴れていると笑。
イエスが対抗して、今朝、教えに来た笑。 でおーの実態についてはこのくらいにしておきますけど、彼は知障なんですよ。
というか キチガイ なんです。
相手にするのはご自由ですけどね。 >>301
>でもね、唯識の人に「大乗仏教の唯識派の認識論って三解脱門の無相ですよね?」って聞いたら多分、ほとんどの人に「え?」という顔されると思う(笑)
そんな話はしてないし、そりゃそうだろw >あくまでも分離的に見ている世界は空になって消えるもので、
空だけの理法界という扱いになります。
菩薩行、衆生済度で、ややこしい、対象への直接認識が
はいっていない。
日蓮宗が寝言で言っている、
天台あたりの、十界互具という、アホみたいな仏教用語を検索してみると、
そういう方向への展開はないのがわかる。 >>303
>そこにマーヤー(分離的な認識対象)がうまれたってことで、これが「空」というわけだよね
誤解されてますね。
違う概念です。
また、仏教ではW常・一・主・宰Wなるものを否定します。 鹿野園狂ったな
笑、
議論よりも絶叫優先!
さすがやな〜〜
鹿野園
笑 >>309
今笑ってしまったのは、その理法界というのを調べてたら、
全く自分と同じことを言ってる人がいたw
華厳経の世界 3.中国で生まれた華厳宗
http://www.obpen.com/essay/20161221_03.html
「事法界と理法界は、見方が違うだけで同じこの世を指している。
われわれはこの世に住みながら、この事法界から理法界に見方を変えなければならない。
それが悟るという意味である。
事法界と理法界はお互いに妨げあわない無礙の関係にある。
そのことを理事無礙法界という。」 >>310
>仏教ではW常・一・主・宰Wなるものを否定します。
これもさっき言ったように、認識の台上の上では、全ては空として否定されるわけだけど、
「一」とか「主」とかいうものは、認識の台上の上で語られているものではなく、・・・ つまり、対象としての存在ではなく、
認識上では表現不能な世界を、あえて表現している、ということで、
こういう説明をふまえれば、仏教の否定と矛盾はしないと思う
ただあくまで凡夫は、認識の対象上としてとらえやすく、そこを注意して仏教は教えを作り上げてると思う
それで、マーヤーについて、どのように違う概念か、出来たら説明してもらいたいんだけど・・ >>312
だから、ペットは黙ってなさい。
余計な事を言って馬鹿にされるよりマシだろ? >>314
狂人鹿野園より、俺様の方が、
話の間口は広いやろ。
鹿野園の仏教知識は所詮西欧哲学かぶれのバッタもん
笑 鹿野園の西欧哲学かぶれの仏教知識、故に、
西欧の神学者みたいな、中途半端なカチコチさがある。
笑 >>314
>これもさっき言ったように、認識の台上の上では、全ては空として否定されるわけだけど、
認識されたものとして現象しているのは疑いようのない事実ですからそこは否定されませんけど。
>認識上では表現不能な世界を、あえて表現している、ということで、
つまり、否定的な表現でしか示せないってことでよね。
故にW常・一・主・宰Wが否定されるのです。 >>313
>事法界と理法界は、見方が違うだけで同じこの世を指している。
われわれはこの世に住みながら、この事法界から理法界に見方を変えなければならない。
それが悟るという意味である。
事法界と理法界はお互いに妨げあわない無礙の関係にある。
そのことを理事無礙法界という。」
理事無礙法界は天台だな、
天台あたりは、そのような論理的構造が残るからな。
対象そのものへの直接的関与まではいっていない、華厳は、そのゾーンやからな。
I >>314
>それで、マーヤーについて、どのように違う概念か、出来たら説明してもらいたいんだけど・・
空(スーニャ)とマーヤー(幻影)って事でしょうが、仏教ではヒンズー教とは違って、現実世界をマーヤーと見て本質界があるとは説いてないんです。 >>322
お前がしゃしゃりでるからだよ。
ペットは黙ってなさい。 簡単にいうと、事は差別で理は平等って事で、(大乗)仏教の修行論は事→理→事って事です。
この構造は般若心経の色即是空・空即是色に類似してますけど、上記でいう最初の色や事は、後の色や事とは空や理を経ているから別ともいえます。
実相って事でしょう。 悟っていない馬鹿野園が言うバカである。大爆笑である。 >>326
知った風なハッタリを
懲りん奴だな
鹿野園のいつものことたが。
笑 >>328
ペットは黙ってなさい。
反証するかチンチンするか決めなさい。 >>331
そういうのはわざわざ要らないから。
ペットは黙ってなさい。
でおー ザックリ マイペット w まあ まあ まあ〜落ち着いて、落ち着いて
ポッタン師まで煽らないで >>333
止まったな。
鹿野園ご機嫌ナナメやし
笑 >>335
ペットは黙ってなさい。
でおー ザ マイペット w >>333
理事無礙法界について、
流れがでたら、レスするわ
笑 悟っていない馬鹿野園が言うバカである。大爆笑である。 0338 カムイ ◆wxnBcJ8ZogOS 2021/01/23 21:43:10
皿に自己を吸わせる
ポッタン師ホレ!カモイくんの公案だろコレ、答えてくれ
毒を食らわば皿まで
尾を踏まば頭まで
濡れぬ先こそ露をも厭え
カムイ
皿に自己を吸わせる
新しいことわざっぽいなw 某老師の回顧録みたいな本にバカムイみたいな劇場型猿真似禅をする奴が出てきて、そいつがその老師の師にボロカスに〆られて叩き出されるシーンがあったなぁ。
橋流水不流って禅語があるけど、WそこWを透らないで猿真似して皿に自己を吸わせるとか、奇を衒うというか、まさにカルトそのもの、精神病院に行ってくださいなんだよ。
こいつは本当にダメだな。
猿真似だけ。 空海
谷響きをおしまず、明星来影す
これは空海が虚空蔵菩薩求聞持法を満願成就した後でしたためた有名な言葉です
これを宗教的というか、唯識で理解するとどうなるでしょうか?どの様な意識状態と思われますか?
どなたか思うところあれば聞かせてください 禅堂が急に静かになった。
禅堂だからずっと静かだったんだけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています