ひろゆき「実数は実在するが虚数は実在しない。わからない人はバカ」
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https://youtu.be/●?t=1m53s ●=BPTwVYRiKug
1:53〜
ひろゆき「虚数の説明も前にしたと思うんすけど、基本的には掛け算をすると必ずプラスになっちゃうんですけど、掛け算をした結果マイナスになるっていう謎の数字っていう虚数っていうのを作りますと、
それを使った方が計算がしやすい場面っていうのが、実は存在しますよっていうのがあるので、現実には虚数は存在しないんですけど、ただ虚数っていうのを利用した方が計算しやすいっていうのがあるので、虚数を使いますよって話なんすよ。
虚数をつかうは正解なんすよ。要は虚数は現実には存在しないんですけど、計算上虚数って概念を使った方が計算しやすいので虚数を使いますよって話なんすよ。
「幻の数 虚数」って書くんですけど、なので、実数って例えば指が1本2本3本4本5本って説明できるじゃないすか。
なので実際に現実に存在するんですけど、虚数自体は現実に存在しないんですけど、計算上は虚数を使った方が計算しやすいって話なんすよ。
なので虚数は存在しないって言ってるんですけど、これも理解できない人は…」
コメント「虚数は幻じゃねぇよ」
ひろゆき「だから虚数は実在しないでしょ?wって話なの(笑) 要は実在はしないけど虚数を利用して計算した方が計算しやすい場合があるので、概念上の虚数というものをつかって計算してますよって話なんですよ。これそんなに難しい話?(笑)」
コメント「それを言うと実数も存在しない」
ひろゆき「この人達はバカなのかな?wwwww
(コップを指差し)例えばこれが1っていうのは、存在してるじゃないすかw
なので、実数というのは存在するんですけど、虚数というのは存在しないけど計算上使ったほうが楽だよねって話なんですけどーw
これそんなに難しい話なの?(笑)」 >>3
虚数って2次実正方行列の部分集合のことだろ。
実数は存在するけどベクトルや行列は存在しないとかそういう主義なんじゃね? 物理で複素数使わないと表現できない現象を観測したってニュースみた気がするんだが >>1
実数も虚数も仮定された条件に基づく計算式を成り立たせるための架空の数字でしょ
なら借金はどう理解するんだよ ひろゆきの
「実数は実在するけど、虚数は実在しない」
の主張の論拠が分からんね
もしかして「実」だから実在し、「虚」だから実在しないっていってる? そもそも 数って実在するのか?
2個のリンゴっていうけど、リンゴの実はよくみりゃそれぞれ異なるじゃん
でも「まあ、同じとみなそうや」って考えるから、2個っていうわけじゃん
それって頭の中の想像じゃん 実在じゃないじゃん どうなのよ 別にこんなん
「その通りなんじゃないんですか」
って言っときゃいいんじゃないの
「実在」って言葉の使い方でモメることに何の意味があるの >(コップを指差し)例えばこれが1っていうのは、存在してるじゃないすか
存在してるのはコップであって1じゃないんだが
いや極端にいえば、存在してるのはある物体であって
それを「コップ」と読んでるだけだが
もっと極端にいえば、「ある物体の存在」を感覚してるだけなので
感覚抜きに存在するかどうか論じる意味はないかもしれんが(カントか!)
さすがにカントは
「コップがあると思ってるだけで、存在するかどうかわからんじゃん」
といった連中(ヒュームとか?)に対して面と向かって馬鹿とはいわなかったが
「存在する!と証明はできないが、そんなこと否定してどうすんだよ
何も考えらんないじゃん!」
とは思っただろうな(それがリコウなのかどうかは今となっては疑わしい) ひろゆきが実数が数直線で表される様に複素数も数平面で表される事を知らんわけは無い
数直線・長さを実在とするなら数平面・広さも実在とすべきで
実数直線は実在だが複素数平面は存在しないとする考えは誤り。
複素数の直交座標表現にせよ極座標表現にせよパラメータに成る難は有るにせよ。 回転をリアルに認識できる、という点からいえば、
虚数(というか正確には複素数)がリアルだと感じても
別にそれほど違和感はない
じゃ、四元数はリアルじゃないのか?
いやまあ、3次元回転もリアルに認識できるし
絶対値1の四元数の積も3次元回転に対応づけられるから
(残念ながら1対1ではなく2対1だが)
やっぱリアルと感じてもいいんじゃないか? >>11
「『2個』の『リンゴ』」なので数は『具体的』とは言えるが『概念的存在』であり『2個“そのもの”』は存在しない。 >>14
もしかしてひろゆきは
「数とは順序構造をもつものだ」
という固定観念があるのか
だとすると、複素数には自然な順序構造がないから
こんなの(ほんとは)数じゃねえ、というかもしれん
(ちなみに、無理矢理なら順序はつけられる) >>16
そういうことなら回転も具体的なので、複素数も具体的といっていいよな 結局のところ、「存在するかしないか」じゃなくて
「数と思うか思わないか」なんだと思うけどな
回転というのは、今まで数と思ってなかったけど
これを数(の積)と考えることができる、っていうのが
ポイントなんだと思うがどうよ 数nについて、n倍を
(1<n)伸長
(n=1)等倍
(0<n<1)収縮
(n<0)反転&伸縮
とするとき
虚数iを導入すれば
「90度の回転」
と考えることができる
確かに「個数」とか「量」とかいう形では表せないが
だから実在しないという言い方は「数量原理主義」なんじゃないだろうか? いや単に複素数をつかわないと表現できない物がないと思ってるだけでしょ >>21
うむ、ひろゆきは「量」として表現できないと「数」として実在しない
というナイーブな考えにとらわれてる気がする
で、その場合の量のイメージは「離散量」と「連続量」なんだな
ただ、その場合厳密にいうと負数は「量」ではないような気がする
ひろゆきが「負数」の存在をどう正当化するのか(それともしないのか)
大いに興味がある 何をもって実在するというのか定義が曖昧。
実際複素平面上では存在するしね。
この人は自分の初心者向きのあいまいな説明を
他人が理解してくれないとバカという癖があるみたいだ。
一種のヒステリーだな。
あと数学の講義はやめたほうがいい笑
ひろゆきより詳しい人なんて山ほどいるw 少なくとも数学の世界で「常識でしょ?」なんて言う奴こそ馬鹿w。 アスペの言う事をまともに理解しようとか時間の無駄だよ 虚数は現実には存在しないんですけど 虚数は現実には存在しないんですけど
虚数は現実には存在しないんですけど
何回か繰り返し唱えていると
2乗して正になるという数は、日頃私たちが日常使用している現実の数の世界には
存在しないんですけど
という風に読めてきますが、違いますか? An Imaginary number is not a real number
を日本語に直訳しただけじゃないんか e^iθ=cosθ+isinθ
虚数が存在しないなら三角関数も存在しない 存在する数字というか、具体化できる数字のことだろ
自然数は、りんごとかバナナの数で具体化できる
2+3は、2つのりんごと3つのバナナで、合計5つって
分数も2分の1は、りんごを半分に割って具体化できる
虚数が具体化できないというのは事実でしょ >>1読む限り、実数と自然数の区別ができていないように思うんだが >>30
じゃあ位相があるから虚数も実在するわけだな。 「虚数は日常生活で使わない」なら
「だよね、」で終わるのに「実存」とか言うから話がおかしくなる 物理的小ささには限界があるんだから
実数(の軸)も具体的には存在しないんだよね 素粒子の大きさが定まってる以上、
√2という無理数の実数の長さは物質化できないんだよね 2乗して正になるという数は、日頃私たちが日常使用している現実の数の世界には
存在しないんですけど
ここで話を途切らせずに
存在しないんですけど、現実の数を数直線上の点と対応付けて四則演算に幾何学的な意味づけができるのと同様に、虚数を平面上の点とみなすことによって虚数同士の演算にも同様の幾何学的意味づけをすることが可能です。
せめてここまでは続けないといけなかった。 ひろゆきに
「あなたのいう「存在する数」「存在しない数」の区別の基準って何?」
って聞いてみたかったね
ま、ヘラヘラと嘲笑して答えないんだろうな 高校で数学教えてる人でもこんな言い方で分かったつもりになってる人いっぱいいると思いますけどねー >>38
わかり方はいろいろあってよいが
(√-1)^2<0 にペケをつけないでほしい 自分が口を出せる話題になると喜々として書き込み出す奴 でも、自然数と虚数を同じに扱うのもちがくないかw
虚数なんて便宜上作られたものだろう
でも、自然数、2個のりんご、三つのみかんは日常に存在するだろう
いわば、動物にも存在する概念だけど、虚数は動物にはわからんだろう 三角形の二辺の和が他の一片より長いことは
馬でもわかるといったのは
菊池寛という雑誌編集者だった >>47
>2個のりんご、三つのみかんは日常に存在するだろう
2個とか三つとかいうのは認識であって
例えば、動物はそうは認識してないんじゃね? 虚数の測定に成功したようです。
3月1日に『Physical Review Letters』(理論パート)と『Physical Review A』(実験パート)に掲載された論文によれば、量子の世界において虚数で表現される部分が、粒子の状態において決定的な役割を果たすことが示されました。
具体的には、もつれ状態にあり、かつ実数部分の情報が同じで見分けがつかない光子のペアを、虚数部分の情報を元に見分けたのです。
何を言っているのかわからないと思いますし、にわかには信じがたい内容ですが、論文が掲載された『Physical Review』は物理学では最も権威がある科学雑誌であり、信ぴょう性は高いと言えます。
https://nazology.net/archives/87973?amp ひろゆきは中途半端だな。数学界には少数派だけど実数を認めないっていう人たちも存在する。
「無限」という存在自体を認めないで有限の手続きで定義できるものだけを存在するという人がいるんだよ >>53
>実数を認めない
というより「実数は多すぎる」と思ってる人はいるみたいね
構成可能な実数だけが存在するとすればいいだろう、という人はいる
そういう人にとっては「実数は非可算だ」というのは、
サンタクロースとか神武天皇の実在について語るような
ナンセンスなものだと思うんだろうね >掛け算をすると必ずプラスになっちゃう
−2×2=4
こうですか?>< >>22
負数の存在?電子や陽子の個数
(-e)+(+e)→0
2つ有る電子の内で世に馴染みの陰電子と、一方で陰電子の反物質である陽電子、其の和合は無である。 自然数だって実在しないぞ。
モノは有限だが
自然数は無限も取り扱うからな 1のコップが存在してるから実数が存在するっていう理屈が分からんのやけど、自然数から実数を構成出来るから実数が存在するって理屈なんかな?
でもそれ言ったら複素数も構成できるから、ひろゆきの理論と矛盾して訳分からんけど
それともコップの長さが1だから実数として存在するって理屈やとしたら、作図不可能な実数はどうするんやろうか
まぁひろゆきはそんな実数は存在しないって言うか、この話を知ってるならば、そもそもコンパスと定規の使い方がおかしくってみたいな話で終わらしそうな気はするけど 「虚数は実在する物の個数や分量を表すのに使える数ではない」
という命題が否定されたってこと? >>60
時間依存する波動関数の値としては使えるだろ わからない人はバカにワラタ
すずまろはバカーみたいだなwww 二乗するとマイナス1になる実数はそんざいしない
が
仮にそういう数があったと仮定しそれを虚数と呼ぶことにする
が正解
なので虚数は存在する
(実数の中に存在するわけではないが) おい、ひろゆき。実数は存在するんだろ?じゃあ今すぐ『円周率π“そのもの”』と『ネイピア数e“そのもの”』を
買って来いや、駄目だぞ“リンゴ”とかで“表し”ちゃ。“そのもの”の“現物・物質・物体”を買って来て見せろや
複素数も実数も代数的実数でも有理数も整数も自然数も物差しの為の指標でしかねぇよ、
指標だよ指標つまり存在って言ったって“概念的存在”だから“共有幻想”で“虚構”で“現物存在”なんかねぇよ。 そもそも物ってホントに存在するのか?
それこそすべては「共有幻想」ではないの?
なんちって >>65
そんなこと言い出せば、幽霊も妖怪も宇宙人もみんな存在することにならないか?
まあ、数字そのものはイデアだから現象界にはみんな存在しないんだが >>65
つまり、現実の数以外にそういう数を考えた時
それによって自家撞着が生じないことを確認できて初めて
幽霊や妖怪や宇宙人とは区別すべき「存在」となる。 ところで
「原子論が正しいから、自然数のみが実在する数であって
(正の)実数はもとより、(正の)有理数ですら実在ではない」
とかいう奴はいないか?(クロネッカーかよ)
実数も虚数も数学上の存在。
実数:連続性を満たす順序体Rの元
複素数:Rに√-1を添加した拡大体の元
虚数:実部が0の複素数
「実在する」の定義を定めずに実在性を論じる方がバカ。 現実世界をユークリッド空間ととらえるなら確かに虚数は無いように見える 位置も座標系の取り方に依存するから、安易に実在するとは言えない 位置も座標系の取り方に依存するから、安易に実在するとは言えない ひろゆきの中では割り切れない円周率は存在しないんだろうな 単振動の方程式
md^2x/dt^2 = -ω^2x (ω∈R)
の一般解は
x(t) = Acos(ωt) + Bsin(ωt)
で、cosやsinはもちろん微分作用素d/dtの表現行列
[[0 -ω]
[ω 0]]
の固有空間の基底だ。この作用素の固有値は±iωで、
exp(iωt), exp(-iωt)
の線型結合がこの微分方程式の一般解を与えることを表している。 虚数なんて量子力学やらシュレディンガーでも普通に出てくるし、まあ一般人の理解なんてこんなもんてことや >>68
そら幽霊や妖怪や宇宙人は存在してるとも存在してないとも言えるやろ 10000円の10000は実数ではあるが自然数ではない。
1枚の1は実数でもあり自然数でもある。
という理解ではダメ? >>84
実数なんて自然界には存在しない
そんな精度で物の量を測れないし可算無限個のものなどない 太古の昔から考えられてきた素朴な自然数だけで数学を考えるとやがて破綻する。
そこで数学者は自然数に厳密な定義を与えた。それがペアノの公理。
ZF公理系はペアノの公理を満たす自然数のシステム(ペアノシステム)が実際に構成できるよう設計された。
何が言いたいかと言うと「現代的な見方では自然数も実数や虚数と同じく数学において定義された概念である」ということ。 ひろゆきの言い方だと
ものの捉え方次第では負の数も実在しない事になるんだが
そこんとこ分かってるんかな? ひろゆきの言い方だと
ものの捉え方次第では負の数も実在しない事になるんだが
そこんとこ分かってるんかな? ひろゆきの言い方だと、たとえば
2^(2^(2^(2^2)))
とか実在しないってことになるんだが
(この個数の物が存在し得ないと思われる)
ま、これは
「10進表記できるだろ」
といって誤魔化すとしても、さすがに
2^(2^(2^(2^(2^2))))
には、その言い訳は通用しない
(この個数の10進表記を記載する場所が存在し得ないと思われる) ひろゆきに論理的にものを言って理解できるわけがない
昔からいうだろ、馬鹿というやつは馬鹿なんだよ ひろゆきのフランス・パリ在住は完全なフェイク
本当は埼玉県の西川口に潜伏中
ひろゆきの生配信はフランス時間では昼間に行われることが多いが、背景は「時間の経過によっても一切変わらない明るい住宅地の景色」が多用されている。
その出来合いの背景が使われないときは、フランス時間では昼であるにも関わらず日の光が入ってこない部屋が背景に移っている。
明るい背景はあまりに動きが無くはめ込み背景である可能性が大、日の光が入ってこない部屋が本物で撮影環境はフランス昼、日本夜でひろゆきの家も夜だと言われている。
何故なら彼の住処は埼玉県蕨市南町、JR京浜東北線西川口駅・蕨駅徒歩15分の木造2階建アパートだからだ。
アパートは築37年、家賃は管理費込で57000円(管理費込)。間取りは2DKで風呂無し(近くにコインシャワーはあるよう)、トイレは和式。
ちなみに事故物件(前住者は孤独死、腐乱死体で発見。「フランス在住」のキャラ設定は「腐乱」とかけている)。
何故こんな物件に住んでいるかというと、彼に課された約30億円の損害賠償のほとんどが請求訴訟の公示送達による時効の中断で、いまだ債務として生き続けているからだ。
ひろゆきは結婚により戸籍上の名前を妻の姓である植木に変えた。今の本名は植木博之。Hiroyuki Ueki名義で海外に隠し口座がある。
ちなみに表札は掲げていない。
アパートの両隣の部屋に住んでるのはそれぞれパキスタン人の解体工3人、ネパール人の飲食店員4人。全員オーバーステイ。
彼ら曰く「2日に1回は夫婦の怒鳴り声と、食器が割れる音が聞こえる」とのこと。
同居人同士で談笑していると高確率で壁ドンしてくるとも。「外国人は出ていけ!」と怒鳴りこんでくることもよくあるらしい。
ひろゆきは西川口のドンキホーテで頻繁に目撃されている。動画配信に出てくる海外のビールもそこで購入している様子。蕨中央公園のベンチで一人発泡酒を飲む姿も目撃されている。
風俗は妻の目もあるため西川口ではなく、2000円ピンサロの街大塚を利用している模様。 >>92
理解しなければ負けないとかいう手法だからな >>96
セタは、そもそも国語力が著しく低い
だから、数学書が正しく読めず、大学数学の入り口でザセツ
言葉じゃなく映像でしか数学を理解できない人は
大学数学の壁を乗り越えられない 実数なんて素朴な考え方なら有理数や無理数を含んでいるんだがな。無限小数や負の数なんてものが現実世界に存在してるとは思えんが。
そもそも数の概念なんて、現実世界には存在していない。ただの対応と写像なだけ。 ひろゆきが実在を認める数って、せいぜい正の実数だろうな
負数はアヤシイ というか 負数が認められるなら複素数も認められる
正の実数の全体:半直線 (原点から一方向に伸びる)
実数の全体:直線 (原点から二方向に伸びる)
複素数の全体:平面 (原点を中心として半直線を一回りさせる) 電磁気学で使われなくなってしまった四元数はどうだろう ひろゆきに突っ込むのは酷だけど、数学なんて全て世に存在しない分野だぞ
現実世界の指って単に並んでるだけだ。それに数という空想概念を取り入れるから数えられるようになる。 real numbers are real
Imaginary numbers are imaginary
と言ってるだけな気が >>101
そうね 実は数学は自然科学じゃないから
なんで数学科が理学部にあるのか謎 e^xのマクローリン展開式に
実数xに虚数ixを代入でモチロン
オイラーの公式が導き出すとモチロン
e^(ix) = cos(x) + i・sin(x)
この証明、モチロン超完全に超正しい
実数xに虚数ixを代入しても良いのだ。
∵モッピロン、虚数∈実数
だから、モチロン
∴実数は存在する⇒虚数は存在
さらに、対偶をとると
∴虚数は存在せず⇒実数すら存在せず
by ∃👾∈地球人, ∀👾∋地球人 数字って定義の上に成り立っているわけだから、実在って意味でいえば実数も虚数も存在しないやろ
定義上存在するので実在するってみなすなら実数も虚数も存在するんじゃないか ひろゆきは、虚数について、「習った記憶はあるけど、何だっけ?」っていう人たち
向けに話したのだと思うんだけど、その場合、どう話せばよかったのか、どなかた
ご提案ください。 >>107
> ひろゆきは、虚数について、「習った記憶はあるけど、何だっけ?」っていう人たち
> 向けに話したのだと思うんだけど、その場合、どう話せばよかったのか、どなかた
> ご提案ください。
できれば、あなた自身がその「提案」を断固として行わない理由をまずご教示ください。 ひろゆきでもわかる”実数、虚数”
https://youtu.be/dZOZ46Q7IoM
しが数さんの動画相変わらず面白いわw >>108
いやあ、私には、この件に関してそもそも
批判できる能力がないので、提案などできません。 >>110
まあ、そうなんですけど
それはいったんおいといて
ひろゆきが
「実数は存在するけど、虚数は存在しない」
と考える理由を、ひろゆき自身に語らせたい
つまり、それはひろゆきが「(数の)存在」という言葉を
どういうふうに用いているのか知りたい 「回転」云々の話は、
例えば遠山啓の「数学入門」(岩波新書)の中でも
伸縮と回転という章で語られてるんですよね
あの章の意図は
「実関数としてのexpもcos,sinも、
実はある複素関数expのそれぞれ異なる側面を見たに過ぎない」
という点にあると思ってますが
まあ、しかし、これを「長さと角度の組み合わせ」って安直に理解しちゃうと、
複素数自体は人間の発明品としかとらえられないのかもしれませんがね
(ついでにいうと、角度って結構ヤッカイです) >>105
それは哲学的な話で、この世の全ては空想であるんじゃないかと言う別の命題でしょ
あくまでも目に見えるものは存在すると言う前提条件を置いた上で、数という概念がなくてもこの世界は何一つ矛盾なく存続できている、故に数というのは空想概念であると言う話 有名人の雑談レベルでスレで話題にする程のものでない
幽霊は存在するかしないかの議論でもさせておけば良い(笑)
アホらしい、いろんな意味で 【虚数iは存在しない を証明してみたぁ】
二次関数 y=x^2の最小値は0
∴全て実数xで、y≠-1
∴虚数iは実数ではない。 >>119
もしかしてひろゆきがいいたいことってこういうこと?
1.実数のみが実在する
2.虚数は実数ではない
3.だから虚数は実在しない
これってほぼトートロジーだよね?
で、ひろゆきにとって1.は公理?だから
「なんで1.が正しいんだ?」とツッコまれると
反論できずにブチきれる、とw >>119 >>120
なるほど
ただ実数のみが存在するって公理は無理があるやろうなぁ
これが公理化されるならば、平面の回転も実数のみを用いて記述されなければいけないけど、回転行列全体は単位円周上の点と同型になって数学的には虚数は存在すると言えるから、そもそもの実数のみが存在するって言う公理に矛盾してる気がするけどなあ >>120
そうだよ。
菅は最高の政治家である。
ただし、ここで言う最高の政治家とは、現在の日本国の総理大臣のことである。
反論あるやついる?? 現実世界に実在する度合いでいえば自然数>実数>>>>>>>>複素数なのは事実だしなあ 正整数→有理数→正実根→正実数
↓
非負整数→非負有理数→非負実根→非負実数
↓
整数→有理数→実根→実数
↓ 複素整数→複素有理数→複素根→複素数
→:細分化 ↓:位相拡張 正整数→正有理数→正実根→正実数
↓
非負実整数→非負実有理数→非負実根→非負実数
↓
整数→有理数→実根→実数
↓
複素整数→複素有理数→複素根→複素数
→:細分化 ↓:位相拡張 ひろゆきは、よく頭が悪いというが、ひろゆき自身が「あたまが悪い」事を、示したんだな。 数の概念がまだ理解出来てないのは分かる、説明が下手すぎ
頭の良し悪しとは別の次元 せっかくなら、四元数も、というウザいつっこみ(笑)
某予備校講師は数学を教えようとしたけど、数学のこといつも考えている奴には
敵わないとかの理由で現代文を教える事にした
ひろゆきはどんな意図か分からんけど、数学ネタときどき振って叩かれる
結局ネットで調べてしやべってるだけで、議論には慣れていても知識は限定なのねという結論 >>128
理解出来てないのを自己認識できないのが頭が悪い証拠 ひろゆきも嫌いだけど、叩いてる方も何目指してんのかわからん
「そうですね。数量やその増減とは対応しないですね」
で終わる話だろ 自然数→整数→有理数は、四則演算が可逆になるような拡張
有理数→実数、p進数は、完備(コーシー列が収束)になるような拡張。実数はアルキメデス的、p進数は非アルキメデス的
有理数→代数的数、実数→複素数は、代数方程式が解を持つような拡張
だから、代数方程式の解を求める操作に対応した現実の現象を探せばいい 一部の代数的数は作図と関連しているが、やはりいちばん一般性があるのは、表現行列を対応させることではないかと思う。つまり
体の拡大K/R or Qと、KのR or Q上の基底をとり、元α∈K\R or Q倍写像の表現行列を、代数的数や複素数のリアルワールドへの実現だと考える
√-1なら、これはπ/2回転する行列だ 総実な代数体、たとえばQ(√2)、の元にも行列表現があるから
もしかしたら距離による実現との関連性も見い出せるかもしれない 現実は「実」ではない。現実とは「実」と「虚」の組み合わさり方のことだよ。 >>138
いいね、それだ零元だ。それで徹底的にひろゆきを追い詰めたら良い。白旗を挙げようが挙げまいが構わず詰り倒すのや。
「ぁあ?お前さっき実数は存在するって言ってたじゃねぇか零元は実数だろうが何を今さら例外づくりし始めてんだよオイ」
ってね。句読点を感じさせないほど途切れ無く取り着く島も無い追い詰め方をすべし。
ご自慢のキックボクシング経験を振るって来たらシメたもの、暴行ないし傷害の現行犯で準現行犯逮捕してやれば良い。
警察の人間なら準現行犯逮捕でなく現行犯逮捕そのものに成るので尚のこと良い。併せて隠し撮影録音。
嫁さんに離婚される羽目に陥らせてやるべし。まぁキックボクシング経験を振るって来る迄はしないだろうけど万が一に。 「リンゴが一つも無い状態」が実在する
とか言いそうw むかし読んだ相間の本に
マイナスの数は存在しない。『リンゴが-1個ある』という状態はありえないから
とか書かれてたけど、ひろゆきはどう考えるんだろ
〇〇に対応しないからといってその数が存在しないということにはならない
とか言うのかな 数学の世界では存在とか非存在なんて議論にはならないだろ? 少なくともそれが論理化出来るなら、「存在しないことを証明する」という悪魔の証明が解決してしまう。実際最近「素粒子の世界では虚数が実在する」という論文が発表された。存在か非存在かを軽々しく断じるのは愚か者。 学生に授業するならひろゆきの説明で良いかもしれないが、「本当に虚数って存在しないんですか?」と学生に聞かれて「お前バカか?存在するわけねーだろ」と答えるのは教師として頭がパッパラパー。 このスレで暴れてる奴は病気だよ
考えてもみろ
「ひろゆきが『虚数は実在しない』と言った」
かどうかなんて、お前の生活には何の関係も無い
自分が被害を受けたわけでもないことに憤るのは異常者のすることだぞ このスレに書いてる人間のいったい何%が最先端の数学の論文を読めるのか
ほとんどは安易に意見を述べられる話題に虫のように集まっただけだろう
そういう人間が、いっぱしに科学知識を啓蒙できる気になって、他人を批判しているのは非常に滑稽だ 2ちゃん創設者が分析「炎上を起こす人」の生態
https://toyokeizai.net/articles/-/393574
芸能人のスキャンダルとかに炎上してるならともかく
いやしくも学問を論じようという人間が、大衆の典型みたいなことに興じているのは、情けないねぇ F爺でもそうだけど、どんだけ学問的な事でアホを晒しても信者は崇めてくれるし、メディアは
取り上げてくれるしで、このまま世間的には識者ポジションを確立するんだろうな。
つーか、ネットニュースでこいつを見ない日はないからマジでどうにかならんか。
こんな奴の言う事をわざわざ有難がって取り上げんなよ。 >>120
存在するってのが定義じゃなくて実際に触れるってレベル考えてそう
実数も虚数も触れないが >>146
ひろゆき流に言えば、
お前頭が悪いな。
専門知識が無くても、間違いを正すことは出来るし、何も問題ないだろ。
ひろゆきは、影響力が大きいだけに、間違いは正す必要がある。
オレは、一流大学ほ数学科を卒業してる。 >>149
ネットニュースなんか見なきゃいいじゃん
ついでに5chも
文句言いつつ進んで時間を浪費する理由が分からん 「の」を「ほ」とタイプミスする一流のずっこけ人生に暗雲多し
早とちりレッド!ためらいブルー!ずっこけイエロー!うっかりグリーン!かんぐりピンク!
会話飛躍戦隊!ケアレスミス! >>152
ひろゆきのためにネットニュース見ない方がよっぽど馬鹿げてるわ 補数学科を民明書房風に解説されたし
除数0の制限を設計に盛り込まれなかった計算機は引き算を2進法的補数表現による代替加算で永遠に続ける事が知られている ほ数学科はさぞかし頭が良い方が行くところなんでしょうね
我々底辺の大学にも行けない高卒の愚民とは大違い 物理系では、調和振動をシンプルに記述するのに虚数は必須。
電気通信系の仕事でも、フーリエ変換等で複素関数は必要
ひろゆき氏がウェブ上で偉そうにしてる間
裏方の通信系では複素数使った仕事してると思われます。 ひろゆきの痛いところは自分がいかに分かってないかが分かってないところ。
もし分かってたら解説者の立場に立とうなんて気は起きないだろう。
2ちゃんで一儲けしたという限られた少数の成功経験だけで識者気取りしてるのも痛い。 >>153
>早とちりレッド!ためらいブルー!ずっこけイエロー!うっかりグリーン!かんぐりピンク!
ももクロか?w
ボクはBABYMETAL派なんですが
ショッカー首領みたいな感じですかね?
https://www.youtube.com/watch?v=HPAmQ0vsmGw&ab_channel=AndyRethmeier >>151
一流大学ほ数学科は、
一流大学の数学科の間違いだった。 >>165
pを素数として
1 + p + p^2 + ...
は有理数体のある完備化で収束しますが、これは実数なんですか? 俺もそう思うわ
どこがかは分からないけどコイツ何も分かってなさそう >>167
距離とは何か、から突き詰めることを勧める。 >>167
有理数体のある完備化には√-1が含まれますが、これは実数ですか? >>170
知ってなきゃそこで距離とは出ないでしょ >>166
p進数体での収束先は1/(1-p)でこれは有理数。したがって実数とみなせる
実数体では1 + p + p^2 + ...は収束しない 何か言えば言うほど>>167がいかに議論を先取りしてたかあらわになってく >>167はユークリッド距離のことさしてるのは明らかだし、p進距離持ち出すのは流石に違う 東京駅から博多駅に向かう大円上に数直線を考えると、鳥取の位置は実数で表せない。
よって鳥取は実在しない。 (距離空間、とくにユークリッド距離をとったものの)完備化と言えば揚げ足を取られず済みそう 多分、ひろゆきは中学レベルの数学でとまってるから
頭の中でイメージできる図形や立までしかわからないんだろ
行列の計算とかもできないんだろ 工学的には、周期性のある現象の
微分方程式を解析するのに必要、
ゲームのプログラマーでは、3次元のグラフィックの回転を扱うのに
実数行列の回転よりも、虚数の入った行列で表現できる
四元数のほうが便利。 途中のレス読まずにコメントするが
数学的対象の存在論って数学の哲学のわりとポピュラーな問題だよな。
小平邦彦はたしかヒルベルトの形式主義を批判して実在論的な立場を取ってたと思う。教科書のまえがきか何かに書いてあった。
ひろゆきは実数が実在すると主張する点でプラトニストだな。虚数の存在を認めないのもまあ珍しい思想ではない。 別に虚数が実在してようがしてまいがかまわん
実在してなければ便利な実在してない道具として使えばいいだけ 別に整数の範囲でも「マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる」からして
あんまり実在性ないだろ
単なる「操作」だ。しかし操作としては確かに存在している
虚数だって
「i」という対象にそれ自体を「掛ける」という操作をしたら「-1」という対象になりますよというふうに
「i」「掛ける」「-1」のそれぞれの役割を定めた単なる「操作」なんだからちゃんと存在している >>1
この人は、数学に無明なサイコパスという
お話だった
スレ終了 コメント
「ひろゆきがデジタル庁に応募したというのも驚いたけど、落とされたっていう事に更に驚いた。
彼なら長官として最適な気がする。
彼みたいな人が責任者なら日本も変わると思うけどなぁ。」
2021/09/05 11:15
6180件のリツィート 3069件の引用ツィート 3.2万件のいいね
孫 正義 @masason
http://twitter.com/masason/status/1434339273352749067
「変わるとは思いますが、良い方向とは限らないかもしれません。。。」
2021/09/05 16:02
1356件のリツィート 218件の引用ツィート 1.4万件のいいね
ひろゆき, Hiroyuki_Nishimura @hirox246
http://twitter.com/hirox246/status/1434411681627639809
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) このひと、「あっ、実在って、そういう意味じゃないんです」と、どこまでいっても平行線議論を続けるタイプの人、かな? デジタル庁の石倉監ですが
PIXTAの購入前、決済前の画像をそのまま無断でホームページにアップ
「私はデジタルの専門家でも、エンジニアでもない
そういう意味ではデジタルの知識のある人間ではない・・」
ネットショッピングのルールすら知らない人で
日本は大丈夫なんだろうか? 量子力学も正則関数も留数定理も知らんのだろうというのはわかる。
話すだけ無駄だなと。 西村ひろゆき氏が、官庁の採用に落ちるのは当たり前なんだけど
アフリカや太平洋の謎のサーバー経由したりで、
どこからでも言いたいことをいう人間は危なすぎるし。
菅総理は全体的におじいちゃんで、総理もほとんどデジタル知識なさそうなんだが。 なぜ、韓国人はマウントを取りたがるのか
なぜ、ひろゆきはマウントを取りたがるのか
見栄を大事にし相手をやり込める
自身の非は認めず逃げ出す
非常に似ている人たちである。 虚数の実在性を説明する際に波動関数の存在を持ってくる人がいるけど、波動関数って結局存在確率はその絶対値の二乗で与えられるじゃん
それってひろゆきの考える虚数の実在性には当てはまらなそう
まあ俺はそもそも虚数なんていう概念に実在云々を考えること自体が無意味だとは思うけど でもそれ言い出したら観測しないとき物質波は存在しないことに…
と思ったけど彼その辺の理解も怪しかったんだっけ二重スリットやらの反応見るに ひろゆき氏は、知ったかぶりで議論する人が嫌いなはずなんだけど。
この議題に関しては、ひろゆきが完全に勉強不足
虚数の「虚」という文字は翻訳の都合上でできたもので
字面に反応するのは意味がない
有理数、無理数の「無理数」という言葉も日本人の翻訳ミスからきている 有理数、無理数は 比「ratio」と
合理的「rational」を取り違った日本人が作った言葉
無理数は、無理のある数ではないと
「オイラーの贈り物」を書いた吉田武さんが言っている。 それと、「実数」といっても
有理数でない実数は、現実に存在する物体との
一対一の対応ができない、
自分は対角線論法はわかるけど
連続体仮設となると、さっぱりわからん。 >>201
> ひろゆき氏は、知ったかぶりで議論する人が嫌いなはずなんだけど。
自分と同じスタイルで自分より上に立たれるのが嫌いなだけ
ひろゆきこそ、知ったかぶりで語る典型例 >>202
正しくは有比数、無比数
今からでも言い直せば? >>206
いくら掛かると思う?何でも金だ。
国連が日本を世界最悪の国と定め続ける為の機関として存在し
尚且つ米ドル発行権を独占しているにも関わらず民間企業連のFRBが世界の資本を牛耳ってる以上
日本は世界の家畜ですらない餌であり続ける、この状況。 「実数は存在するけど虚数は存在しない」
数学徒(コイツ馬鹿っぽいな…)
「虚数が存在するかはともかく超越実数よりは代数的虚数の方がまだ存在しそう」
数学徒(お、コイツはわかってそう) 人格破綻王ひろゆきの悪事歴
〇1999年、あめぞうを盗作し、2ch開局
〇本家アメゾウを荒らして潰す
〇経歴詐称(開局当時に、米国留学がウソだとバレるが、いまだ詐称)
〇ログ取っているのに、完全匿名制掲示板と嘘を付いて集客開始。
〇初期は、ユーザのログを無断で大手通信社に売却し、キックバック。以降も、ログデータを企業に販売。
〇アクセス数を少しでも増やす為、それまで守られてきたネチケット文化を崩壊させる
〇ネオ麦茶の投稿を改竄し、西鉄バスジャック事件の犯行予告が書き込まれていたと偽り、メディア進出に成功
〇2001年8月末、2chを使った風説の流布で、株価操作をして儲ける。
(公式雑誌2ちゃんねる+Vo1.1 19p(平成15年3月22日発行)で株価操作を暴露)
〇プロ固定(サクラ要員)を使った印象操作や炎上商法をくり返す。
(公式雑誌2ちゃんねる+Vo1.1 68-69p(平成15年3月22日発行)でプロ固定を暴露)
〇プロ固定による企業叩きと、2chの炎上火消し企業「ガーラ」や「ホットリンク」と結んでマッチポンプビジネス
〇プロ固定に炎上商法(祭り)をやらせすぎ、自殺者を含む被害者が続出。
〇被害者からログ開示請求されても、プロ固定にやらせていた事を隠す為、開示拒否。
〇複数の訴訟沙汰となるも、全て無視し、裁判に出席すらせず。
〇述べ30億円の賠償金を踏み倒し。
〇2009年、パケット社に2chを譲渡したと嘘を付き、その嘘を本にまでして出版
〇強制執行対策の為に所得を隠し、節税・脱税し放題。
(2013年に一億円の申告漏れがバレて追加徴税)
〇2014年、2ch運営から追い出され、偽2ch騒動を起こす
http://tarakoumihe.wiki.fc2.com/
(ホットリンクとのインサイダー取引も発覚)
〇2021年、300人分のキャンセル料踏み倒し
参考サイト
http://resistance333.web.fc2.com/top_index.html ガロア理論とか代数的な方向を勉強すると実数より虚数のが自然には感じるようになる。
結局その程度の話だけど。 初等整数論を勉強すると実2次体より虚2次体の方が色々やさしいように思える 正の実数だって存在しねーよ
誰か1を見たか?2や3を見たことがあるか?
5が秋葉原の駅前歩いてるか?
無限も直線も完璧な円も図形も存在しないよ
あくまで人間が理念の上で作り上げた架空の存在だよ
そういうイデアを操ると現実の問題が魔法のように解けてしまうのが数学ってもんだろ
ひろゆきが指出して1は存在するって
それはおめーの指だよバカ
1じゃねーよ ひろゆきは中央大に入学した天才!(笑)
親の金でニートして
親の金で留学して
親の金で2chをやって
たまたまあたっただけのクズw
2chに集まったクズの集合体みたいな奴(笑) ニュースサイトでひろゆきの時事問題への意見記事取り上げすぎ 数字ってあくまで人間が生み出した「概念」だからなあ
事実に限り無く近いってだけで 小学校でならった足し算の「しかた」の先に思いは至っていないのだろう。
抽象化を学べなかった悲哀の出現例。可哀想だね。 陰陽とかも理解出来無いんだろうな
この宇宙は当たり前に陰陽で出来てる事も 最近作ったサービスのペンギン村とか見てるとほんと終わってんなと思うわ。
過去の資産でなんとかしようっていう老害感がすごい。 親の金で遊んでて
たまたま当たっただけであの自信過剰感は
ある意味すげ一というか本物の基地外と思います 人間の指と対応するから、1−10(足の指加えたら20)は存在する程度の話
人類が数概念を獲得してきた歴史を学んでない(説明できてないという事実)
社会時事ネタを解説するのとは違い、予備知識が足りないという事実
ひろゆきの算数数学についての説明能力はそんな認識 2chの構築は結構大変だったと思うよ、ネットワークやサーバー周り、いわゆるインフラ
例えば、テキストデータを数百(数千)という多重度で一瞬で読み書きすること(を捌くこと)
意外にムズい、使い物にするためには、金かければ別だけど
金儲けのしくみ、運用ルールや裏で動く仕掛けとか、UNIXのOSやシェルの知識とか
よくやった(実現した)と思う(もちろんひろゆき一人だけではないけど) >>228
ネット黎明期はトラフィックが少なく大した処理は必要なかった
例えばニフティは9600bpsやせいぜい28800の時代である
perlのCGIの先人やノウハウはすでにあって
ひろゆきの技術面での果たした役割は特にない
しいていうとモナーの首吊りなどのアスキーアート天才に恵まれたのが大きい >>228
ムズくはないですよ
>>229の指摘の通りですし、
技術的にはDB側で同期処理して
くれるので、単にDBの読み書きで作れます。
帯域については
ひろゆきは裕福な親の金でやってたので
全く問題なしでしょ?
親の金で留学して、
親の金で25歳頃までニート、
親の金で2chをはじめたのです
ひろゆきはニートしてたとはいいますが、
親の金で、というのは絶対に一言もいいません。
叩かれるからです。
そん正義も親がパチンコチェーンの
経営者で大金持ちだったから留学できたし
ソフトバンクを始められたんですが
親の金で、とは絶対にいわない!
親の金で事業を始めてたまたま
うまくいった奴らは、
絶対に『親の金で・・・』とは
言いませんから。 ソフトバンクの経営理念について説明を求められると唐突に「なぜ日本が好きじゃいけないんだ」という語りから
苦労話をしつつ、一方で白州次郎一家をこき下ろした揶揄した白田次郎一家シリーズでCM展開する日本国家嫌いの孫正義 >ネット黎明期はトラフィックが少なく大した処理は必要なかった
>例えばニフティは9600bpsやせいぜい28800の時代である
Niftyは電話回線+モデム クンロクでも速かった、1990年代前半までは
1995年ぐらいの、windows95発売のころまでは、うちはISDNだった(笑)
でも、2000年前半からADSLや光の普及で1.5Mbpsや100Mbps まであがった
トラフィック劇的増加で、通常のUNIXOS,DBやPerlCGIで処理できないレベルだと思う
1999年5月に2ch開始らしいから、世間がADSLや光に移行しはじめたころと重なる 2000年前半だと間違っている
2000年代前半、2000年ー2004年のころの約5年間に訂正 2chで永久に名誉を傷つけられた人たちは
堀江氏と同じ理由でひろゆき氏と縁を切っている 掛け算をしてマイナスはあ
二乗してマイナスのこと? >>234
> 2chで永久に名誉を傷つけられた人たちは
> 堀江氏と同じ理由でひろゆき氏と縁を切っている
同じ理由ってなーに?
ホリエモンは、ひろゆき嫌いなの? ネットどころかリアルで、ホリエモン被害店にクラウドファンドを提案する助言をした事により
世間に「曝し被害を与えたホリエモンと窮地に助言を与えたひろゆき」の構図のイメージを与える事に成りに
不意とは言えホリエモン側をリアルで曝し上げにする事態に至らせた。
歯っ切り言って此の件に関してはホリエモンが悪い。 数一般は存在しない
不確定性原料で解るように近似値でしか測定不可能
0に限りなく近いが0ではないという不思議な定義は有を無で規定するから
数は対象により増える
−、無理数、虚数など
必要により増える 座標原点は存在しない
ここからここまでは存在しない
数、次元は認識に現象した自然の抽象
認識された自然は自然そのままではない 認識に現象した自然が=自然ではない
→地動説で気がつく
光速度一定の原理はここからは存在しないことを示す
つまり自然は運動するエネルギーの濃淡です 0次元は大きさが無い
1次元は幅が無い
2次元は厚みが無い
3次元は運動しない
4次元は運動しない3次元の無限集合
無い無い尽くし
数の存在は頭の中だけ >>5
それは、複素数の構成法の1つで、数多くの構成法がある。
重要なのは、本質的にただ1つということ。 >>243
△そうは思わない人が多い
○どうとも思わない人が多い
◎どうでも良いと思う人が多い
こうして日本人は不作為を尽くし凋落していった。
>>244-248
お前、他スレで院生を自称していた奴じゃないか?同じ事を言ってるだけじゃない、言葉選びも同じ、口調も同じだぞ。 >>1
ひろゆきはそういう人
いまさらなんとも思わん 「1が存在する」とはどういうことか?
その存在の在り方とは、どのような意味での在り方なのか?
たとえば、1そのものに物理的な実体はあるのか?もし「ある」とすると、
・ 1 はどういう原子で構成されているのか?
・ 1 は固いのか、やわらかいのか?
・ 1 は食べられるのか?焼くとおいしいのか?煮るとおいしいのか?
・ 1 はどんなニオイがするのか?無臭か?
ということになってしまう。しかし、このような問いは明らかに意味を成さない。
すなわち、「1が存在する」と言ったときの存在の在り方とは、
少なくとも「物理的な実体を持って目の前にある」という意味ではない。
つまり、1そのものに物理的な実体はない。 この時点で、「1が存在する」と言ったときの存在の在り方は抽象的なものにならざるを得ない。
そして、その抽象度は、実は数学的には「虚数が存在する」と言ったときの抽象度と変わらない。
つまり、1が存在するという立場の人は、虚数も存在すると言わなければダブルスダンダードだし、
同じように、1は存在しないという立場の人は、虚数も存在しないと言わなければダブルスダンダード。
この点において、「1は存在するが虚数は存在しない」という立場は完全にナンセンス。 自然数は代数的な概念であり、その定義は、計算ツールとしての側面だけが反映された定義になっている。
そもそも、計算ツール以外の余計な情報を反映させたら代数から逸脱してしまうので、自然数にならない。
つまり、自然数とは、その定義の時点で計算ツールの側面しか持ち合わせていない。
・ 自然数が単なる計算ツールでしかないなら、なぜそれが現実世界の色々な場面で応用できるのか?
→ 逆である。余計な情報を盛り込まず、抽象的な計算ツールに徹しているからこそ、色々な場面で応用できるのだ。
たとえば、自然数という概念がリンゴに特化した概念であるなら、その自然数はリンゴにしか使えない。
こういうバカな状況にならないように、自然数という概念は代数的な計算ツールの側面だけが反映された定義になっている。
ゆえに、自然数が存在するかしないかを聞かれたら、
「自然数は存在しない。自然数はただの計算ツールにすぎない」
という立場を採用した方が自然である。 もちろん、実数も虚数も同様で、
(1)「自然数は存在しない。自然数はただの計算ツールにすぎない」
(2)「実数は存在しない。実数はただの計算ツールにすぎない」
(3)「虚数は存在しない。虚数はただの計算ツールにすぎない」
ということになる。この中で、(3)については、実際に(3)のように思っている人は多いだろう。
それなのに、なぜか自然数については、(1)のようには考えず、計算ツールから逸脱して
「自然数は 存 在 す る 」
というナンセンスな考え方をする人が一定数でてくる。 自然数が "存在する" と思っている人がよく具体例に挙げるのは、
「目の前にコップがある。ゆえに1は存在する」
といった説明である。しかし、自然数が存在しないと思っている人にとって、
この説明は意味を成さない。なぜなら、
「実在するコップと、実在しない1を対応づけても、1が実在することにはならない」
としか思わないからだ。 今度は虚数を例に挙げると、虚数の "存在性" を説明するのによく使われるのは回転操作である。
「 i を掛け算することは、90度回転に対応している。
そして、90度回転という操作は現実世界に存在する。よって、虚数は存在する」
……といった説明はよく見られる。しかし、虚数が存在しないと思っている人にとって、
この説明は意味をなさない。なぜなら、
「実在する90度回転と、実在しない虚数を対応づけても、虚数が実在することにはならない」
としか思わないからだ。そして、この理屈は実際に正しく、
回転操作を例にして虚数の実在性を説明するのは一種のナンセンスである。 このように、虚数の場合には、
「実在するAと、実在しないBを対応づけても、Bが実在することにはならない」
という論理が正しく働くのに、なぜか自然数になると、この論理を無視して
「目の前にコップがある。ゆえに1は存在する」
といったナンセンスな説明が復活する。認知が歪んでいる。
回転操作を例にしても虚数の実在性の説明としては機能しないように、
コップを例にしても1の実在性の説明としては機能しない。
実在するコップと、実在しない1を対応づけても、1が実在することにはならない。
自然数も虚数も存在しない。どちらも単なる計算ツールにすぎない。 別の変化球として、次のような意見も見たことがある。
「人類の歴史上、リンゴやミカンなどが自然数の概念の元になっている。
そして、リンゴやミカンは実在する。ゆえに、そこから派生した
自然数という概念もまた実在する。」
しかし、これもナンセンスである。
自然数という概念のルーツがリンゴなのだとしても、
いったんリンゴの概念から自然数の概念を抽出し終わった後の段階になったら、
その自然数の定義の中には「この自然数はリンゴをルーツとして作られました」
という、ルーツの痕跡が全く残っていない。
なぜなら、自然数は代数的な概念なのであって、代数的な性質のみが
自然数の定義に含まれるのであり、そうでない余計な情報は自然数の定義には記述されないからだ。
特に、リンゴがルーツであることが分かるような情報は、自然数の定義の中には残っていない。
それなのに、メタ視点で「人類の歴史ではリンゴがルーツだ」と言ってみたところでナンセンス。 あるいは、次のような思考実験をしてみるとよい。
・ 人類とは全く異なる文化圏の知的生命体Aが存在していて、Aの歴史の中では、
Aの中で流行していた抽象的かつ人工的な何らかのゲームから「自然数」が生まれた。
この場合、Aにとっての自然数は、その人工的なゲームがルーツなので、
Aにとっての自然数はまさしく「存在しない」ことになる。
しかし、人類が到達した自然数と、Aが到達した自然数は、全く同じ概念である。
それなのに、ルーツが違うだけで、人類にとっては自然数は実在し、
Aにとっては自然数は実在しない。……それはおかしい。
つまり、メタ視点で「〇〇が自然数のルーツだ」と言ってみたところで、
そのような情報は自然数の実在性を論じるのには使えないのである。 別の言い方をすると、自然数の実在性・非実在性を論じる場合、
自然数の定義だけから導出できる性質のみを使って
実在性・非実在性を論じなければ意味がないということ。
自然数の定義からは導出できない、全く別の情報源からの情報を
追加することで実在性・非実在性を論じるのはナンセンス。
「 人類の歴史ではリンゴがルーツだ 」
「 Aの歴史では人工的なゲームがルーツだ 」
といった情報は、自然数の定義からは導出できない、全く別の情報源からの情報である。
そのような情報を追加して自然数の実在性・非実在性を論じるのはナンセンス。 そして、自然数の定義だけから導出できる性質のみを使うと、やはり
「自然数は存在しない。自然数はただの計算ツールにすぎない」
という立場が自然である。なぜなら、自然数は代数的な概念であり、
その定義の時点で計算ツールの側面しか持ち合わせていないからだ。
実在するコップと、実在しない1を対応づけても、1が実在することにはならないし、
メタ視点で「人類の歴史ではリンゴが自然数のルーツだ」と言ってもナンセンス。
自然数も虚数も存在しない。どちらも単なる計算ツールにすぎない。 虚数はimaginary numberだから想像上の数ではあるな 絶対座標→存在しない
<ここ>から<ここ>までが存在しない
だから1 というか数全般は無い
無は存在しない
有だけ
0に限りなく近いが0ではない
不確定性原理
認識が近似値である所以
数学もケンチャナ・・・
嫌だがしゃあない
=なんてことは無い 認識に現象する自然は=自然じゃない
静止を認識するが自然には存在しない
→地動説、光速度一定の原理
認識に現象しないが存在する
→ディラックの海
視覚としてなら沢山あるし
聴覚、臭覚、触覚
味覚もそうか
五感全てか
逆に幻覚は存在しないが現象するよな
認識に現象しても存在しない例だな
静止が存在しない
運動は自然の存在形態
→自然理解の導きの糸 でも数には大きさがないって定義を物理学が裏付けているよな
数学万歳! w まあ有限が無限の数でってのも背理だわな
無限は有限でってのもさ
大きさの無い数は大きさを形成する?
全部片桐はいりです
全部約束事だわな
で=じゃなくて近似で良い
=なんて無いんじゃないかな >>269
感覚は聴覚は上限下限があるってことです
低音高音聴覚範囲がある
感覚一般がそうかと
存在しても認識できない 学問は発展途上でしょう
科学も時間、重力の正体は未だに?
決めつけるのは疑問です 座標原点設定して<決めつけ>るが座標原点自体は存在しない >>267-277
極限概念ごとき正確に理解できる様になるまで黙れ、
物理学の量子論の不確定性原理を数学に混ぜるな、この『クソもミソも一緒』野郎。
お前の脳内だと『規定は否定』なんだろ?なら『否定は規定』でもあるよな?
だったら『クソはミソ』を『否定』したら『規定は否定』で『否定は規定』で『規定』に成る。
お前の人前で『味噌汁』ならぬ『糞汁』を飲まざるを得なくなる。
それが、お前が選んだ観念世界であり、お前が選んだ人生。でも、どうせ『糞汁』を呑んで見せる事からも逃げるんだろ? 数学は約束事なんだわ
数には大きさがない
座標原点は存在しない→自然に数は存在しない
有を無で規定する
無が無限に集まっても無です 対象、認識
数とは?
自然とは?
学問とは?
次元、力は観念にしか存在しない
光速度一定の原理
観測問題、不確定性原理は何を語るか
数学という学問もまた一般論を前提にしないとな
位置付けという意識ないと 有は無で規定する
さてどういう意味か
わたしという自己言及
学問は根源として自己言及です
自己言及とは何か
数は自然には存在しない
どういうことか
否定とは
認識とは 0に限りなく近いが0ではない
無意識に規定の性格を前提にしている
スゴイが何を意味するかは理解はしていない
不確定性原理との関係
光速度一定の原理との関係
科学も数学も発展途上
そこに希望もある
最終方程式?
妄想です 哲学板でやれクズ哲
あと極限概念を間違った解説してる罪悪自覚を持て そいつの持論『規定は否定』からすると『論理は非論理』だから『哲学は非哲学』だし『学問は非学問』だろ、
そんな事を言ってる奴は仏教でも密教でもユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でもゾロアスター教でも地獄最下層行き >>287
はいはい 笑
まあたミニ鴎外、と学会の登場か >>277
どこを座標原点と決めつけても同じ物理法則で自然が説明できる
それが相対性
座標原点は遍在する >>288
と学会はテメェだろ嘘極限布教者が
テメェからしたら現代数学はと学会なんだろ
世間からしたら、と学会はテメェだテメェ >>291
力学が分からなきゃ相対性力学も量子力学も理解できねーよバーカ。
物理学的学問熟練度を上げるには先ずは曲率0で相対論効果も量子論効果もオフにした古典物理学から熟知しろっての。
で、マクロスケールでの理論誤差回避は相対論、ミクロスケールでの理論誤差回避は量子論。
ミクロ&マクロケースのユニバーサルスケールでの理論誤差回避は、達成されてないので無い物ねだり。
あぁ、量子軌跡痕跡を元にした因果永久履歴説が有り、全ての因果は量子論的ミクロスケールでは消えないって説が有るが
あれは量子スケールの話であり、お前が他スレでオカルト妄想展開理論、
俺流に漢字尽くしで題してやると「除数0による0乗算前復元結果特定の為の0乗算前因数履歴法」さ、
あれは量子スケールどころじゃない0、漢数字で零、つまり零スケールだから、無理。
例えばブラックホールなら量子スケールの情報も崩壊して量子痕跡は残らない零。復元不能。
また、ブラックホールじゃなくても、海のさざ波音波不可聴音域や休火山のマグマ胎動音波不可聴音域
が奏でる豊富な周波数の音波で量子痕跡は、いとも簡単に消える。晴れた日の太陽光でも消える。はい残念。
更に未来測定は人間はおろか、物理学量子論不確定性原理により神(とか言うオカルト存在)ですら不能である事が公知。
未来測定が無理と分かってるのに、何で新発見の0とやらの因数も暫定で決められるの?何で勝手に
君が言う『番号振り0理論』で言う所の『1番の0』と決めちゃうの?違うでしょ、君自身が
「『0除算した時』に1になる0、2になる0、3になる0、4になる0、5になる0、…」って決めてくって言った時の
『0除算した時』の0こそが基準の0であり『1番の0』でしょ。なら、人類史上空前新発見の0を勝手に『1番の0』にしたら
ふざけてるでしょ、暫定なら暫定の暫定新番でしょ。
何で君は、君自身の理論に対しても、糞いい加減なんだ? 次元が存在するって理解がわからん
終始があるって理解がわからん
エネルギー保存則は生死はないってことだし
不確定性原理があるから近似値測定は必然なのにエネルギー保存則の破れを語る人がいるし
観測問題が解決してないのにさ
秀才なのになあ
お馬鹿な素人にはわからないってか? テメェよぅ、疲れるとか言いつつOversimplicationしようとしてんじゃねぇよタコが >>295
電車の中で物を落とす様子はニュートンの運動方程式で説明できる
電車に乗ってない人から見てもニュートンの運動方程式で説明できる
それが相対性
どこでも座標原点にできる、すべての点は座標原点になれる 認識に現象しても存在しない
認識に現象しなくても存在する
30+30=30
30−30=30
認識と科学の枠組
0→1 有限の中の無限の数
無限の中の有限
約束事でしょう
=ってのはいろいろ幻想 わたしは貴方、植物、金属ではない
しかし物理の一形態であり否定関係ではない
同一を非同一
わたしは生まれてから大きく物理状態が変化しているが同一のわたし
ていうか同一であるってことは無い
非同一を同一
0、1、2、3、4次元はナイナイづくし
物理は無で規定される
有限は無限で
無限は有限で
運動は静止で
つまり規定は否定ってこと
無矛盾は規定を否定すると得られる
座標原点は静止
静止で運動を規定して静止の存在は否定される
→自然は無矛盾
数全般は存在しない
<ここ>からは存在しないから
<ここ>までもまた クレタ人の逆説
→対象をその否定で規定するから決定不能に
有限を無限で規定する
運動を静止で規定する
まあいろいろ決定不能
因みに<わたし>という自己言及もいろいろ面白い 光速度一定の原理は座標原点の存在を否定する
→数の存在否定、つまり数には大きさがないってことを物理学が裏付けます
有を無で規定する
0に限りなく近いが0ではないって規定は有を無で規定するから
→運動を静止で規定するから不確定性原理も必然
自然は運動するエネルギーの濃淡
粒子は波が渦を呈した状態
認識を媒介にした物理存在の抽象が次元 物理は近似値だし
因みに科学革命は皆認識する側は自己言及してその存在が否定される
地球が静止しているって前提で天体観測
進化論は人間もまた諸生物の仲間で観察する特別な立場は存在しない
光速度一定の原理は座標原点で規定するが存在しない
皆自己言及 光速度一定の原理が示すこと
数は存在しない
無は存在しない
静止は存在しない
有を無で規定する
規定は否定です
決定不能は対象の規定が否定であること、つまり否定が存在しないこと、対象が無矛盾であることに因ります それで理解するがそれは存在しない
無、静止、座標原点、次元など
数で理解するが数は存在しない 学問は発展途上では?
現状の学を絶対化することは如何なものかと 対象をその否定で規定して自己言及する
→決定不能
科学は自然の一部である人間の自己言及
<わたし>の表現の分析はなかなか面白い
自己言及が地図を描くことと認識論としては本質的に同じなんだが
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」参照
因みに著者は共産主義者で共産主義が成立しないことを示す端緒になった論文を五十年前に書いた
弟子はソ連崩壊を七十年代に予測した
新約誓書学、数学、共産主義の学的展開の結論は衝撃的です
ことごとく学者の意図を打ち砕いた
次は物理学かと 学問の現在を固定化するなかれって素人には思える
最終方程式?
かなり怪しいんじゃないかと 学問は本質として現実の影かと
手にしているスマホは素晴らしいが科学は一面時間、重力がまだわからない
時間非在説を唱える学者は結構でてきた
重力も否定する学者も
現象理解が間違えで力と理解するのは違うってことです
数学もまた現状理解を相対化する理解があるかと
基本〜で理解可能だからといって〜の存在を意味するかはどうかと
静止、次元
最小単位、粒子は<ここ>からが自然にないからなあ
さて素人の妄言、妄想の正否は如何に w 自然は<一>で<多>じゃない
多で理解しているが多ではない
科学の歴史は否定関係を否定していく歴史ではないかと
観測問題は仕上げと映るが
つまり粒子は波の一形態
静止は運動の一形態
生物非生物は物理の一形態
無は有の一形態 (真空はエネルギーの基底状態 ディラックの海)
自然は無矛盾ではないか?
運動するエネルギーの濃淡
その親和反発の過程で様々な物理状態を呈する過程
生も死も物理の一形態で否定関係ではないってことです 学問は人間が滅亡するまで永遠にとじないかと思われます それでも枠はあるかと
それを確定したい
さてどういうことになりますか
余談
AIは人間を越えないのでは?
藤井を将棋で勝つソフト出現
→そのソフトに勝つソフトは人間が作る
AIは作ることが出来るか?
そのAIを越えるAIを人間が作る・・・
コンピューターって人間の認識を置き換えた算盤と本質的に違うのかな 非学者論に負けずか
でも無が有るって筋が通っているのかな
教えて学者さん w いろいろ初歩がわからず理解できないかと探究したらますます理解できないことがでてきた
0に限りなく近いが0ではない、観測問題、不確定性原理、光速度一定の原理、ゼノン、二律背反、ヘーゲルの運動規定、不完全性定理、クレタ人の逆説を納得できる形の結論を知りたいだけ
学問、自然、生きること
誰か教えてくれないかと探究したが自分でやるしかなかった
自己満足でしかないが達成した
結論は藤村操と変わらない
違うのは不可解と可解したってこと
この結論の正否はわからないが w
基本科学、数学という学問は素晴らしいが本質として現実の影じゃないかな
偉大だが、人間の僕かと >>302-315
お前を親に持った子供は理系には成れないな
> 0に限りなく近いが0ではないって規定
こんな盛大な躓き方をしといて、躓いて無い振りをして妄想を御高説ぶっこかれた日にゃ
子供は理系どころか文系にも成れん低学力層に成るだけだな
低年齢層を相手に妄想仲間づけりすんの、止めてくれっか?全世界共通公害でしかねぇよ、お前の持論は。 >>302-315
結局お前もゲヘナ(虚無)主義の1人でしか無いって事だな。
各定義の解釈のし難さを前に妄想曲解を積み上げた結果が、その14レスもの俄か哲学オタク臭ぇポエムじゃねぇか。
テメェのポエム尽くしの14レスの恥の積み重ねっぷりを目を見開いて直視しろや。
何なんだそのポエムは?え?顔写真と名前つきプロフィール付きでテメェの歴代学級や歴代職場に回して見ろや、
下手すると自殺レベルに恥ずかしい目に遭わせられるけどなぁ。あーあ。 コイツを教主にした学習機関に通い詰めた子供たち皆が無能化して無駄妄想だらけのゴミ人間になるな。
しかもコイツ「叩き潰してくれよ」と言ってるが「『非学者論に負けず』型の『無敵の人』化した無能」だから
『絶対』に『何も認めない』奴だからな。こんなんもう、口で言って頭で分からねぇ人間の1人じゃねぇか。
口で言って頭で分からねぇ人間は、拳に言わせて体に分かる様にしてやらなきゃな。
要するに脳じゃなくて脊髄に教え込んでやらなきゃ駄目。そういうタイプが多いんだよな、アジア人って。
取り敢えず首から下の四肢込み胴体を潮が退いた海浜に埋めてやる心身更正法が思い付いたけど、どうだろ? すべての点を座標原点とって同じ法則が成り立つ
電子と陽電子の対消滅で残る電荷はきっちり0 あなたの今いるそこが座標原点
私の今いるここも座標原点
どこも座標原点になる
それが相対性原理 東京から見て鳥取は西にある
福岡から見て鳥取は東にある
西にあるのか東にあるのか異なっているから鳥取は存在しないかというとそんなわけはない
どこを座標原点にとっても鳥取は存在する
東京でも鳥取でも同じ法則がなりたっている >>328
存在しねぇのはお前の正当性で存在してるのはお前の不当性だ なあ、俺は現在の学問が絶対という理解に疑問があるだけなんだ
エネルギーの保存則を絶対座標否定の光速度一定の原理を無視する仮説の跋扈
次元は否定されているし
数は存在するのか? 最小単位探究は怪しい
紐が発見されるかも知れない
しかしそれは紐に成るってだけじゃないかな
ある物理状態がある物理条件で紐に成るってだけ
人間、生物、地球、銀河系・・・
エネルギーが〜に成るってこと
静止する何物もなかったら<ここ>からは在るのかな
座標原点の存在は否定されている 大構造生成にはかなりの時間が必要
宇宙年齢の数倍 笑
保存則、光速度一定の原理が無視されている
背景放射は天文学者が違う現象が可能と異論を提出しスムート博士は否定できないとコメントした
最先端学説が一番怪しいと医学者は語る
科学もまた
因みにノーベル賞はいろいろやらかしているとか
今世紀に入っても三つが?だとか
さてどういうことになるかな
数学も進展して現在の理解が相対化されるかも
学問というか人間のため、文化のためには吉じゃないかな 冷静になろうよ
俺の理解の何処がおかしいか指摘している人はいない 俺は自然は無矛盾で理解可能だと光速度一定の原理が示したって考えている
しかし規定は否定だから決定不能だと 対象をその否定で規定する
対象に論理は存在しない
自然の存在理由はない
ただ在るのみ 物理なんて全て経験則なんだから
正しい証明など不可能
存在?
まずは存在とは何かを定義してください 光速度一定の原理→静止は存在しない
→自然は無矛盾
しかし規定は否定で、つまり運動を静止で→決定不能
論理は自然には存在しない 人間は自然の一部
自然の自己言及が科学
<わたし>という自己言及の認識構造を理解する必要がある
有を無で規定する ニュートン力学、アインシュタインの理論は予想したことが起きて「証明」された
まあ適用範囲はあるが いろいろ人間も学問もまだまだじゃないかな
現在の学の水準を絶対化すると過つかと ひろゆきがバカなのは認識に現象する自然がそのままの自然ではないことを示してきたのが科学ってこと
見た通りなら天動説が正しい 訂正
ひろゆきがバカなのは認識に現象する自然がそのままの自然ではないことを示してきたのが科学ってことがわかっていないこと
見た通りなら天動説が正しい
ひろゆきはコペルニクス以前の頭 量子力学は新しい理論が求められていると立花隆が語ってたな
研究者らしき人が光が見えないって書いていた
茂木、竹内共著でも新しい観点が求められている似た認識 科学の歴史は否定関係の否定
静止は運動の一形態とか
粒子は波が渦の状態かと
ちなみにこの理解は古代ギリシャ、十九世紀英国科学者、現在ではブリゴジン学派がこの予想で研究している
珍しい理解ではない
俺は自然に否定関係は存在しないって予想した 時間非在説も昔からあるとか
二十世紀にドイツ科学が可能性を指摘
今世紀に入ってから雑誌に特集されたり
次元って無い無い尽くしだし
主流に限らなくても良い
新しい考え方模索する必要があるって思う そりゃ俺は未熟、無学だが、きちんと指摘してくれない限り納得できないのは当たり前
成熟した博学の学徒の筋が通った理解を誰か披露して欲しい >>349
訂正
ドイツ科学→ドイツ科学者
もしかしたら学問の現在は本質として中世の亡霊がとりついているかな
西洋は科学者でさえ天地創造神話に囚われている
エネルギー保存則、光速度一定の原理がトドメさしているのに 学の現在は無学の俺を一蹴できる水準じゃないってことでしょう
学問はまだまだ発展途上
そこに絶望も希望もあるってことではないかと 俺は自分の理解が真理だとは主張しない
こういう風に理解したら自然は無矛盾だと考えているってだけ
専門家には笑止かも知れない
それを学んだ貴方たちが具体的に指南もせず罵倒するだけというのは如何なものかと
エネルギー保存則は死守したい
光速度一定の原理を理解したい
科学は自然を無矛盾に理解するのが目標では無いか?
科学の歴史は否定関係の否定の歴史では無いか?
静止が運動の一形態であるように、観測問題は粒子は認識に現象する波の一形態と理解出来る可能性があるのでは? わたしは静止は存在しないと理解する
つまり自然の存在形態は運動で無矛盾だと
始まりも終わりも無い
エネルギーの濃淡が運動変化して物理状態の差異が親和反発の過程を経て違う物理状態に生成変化する過程として自然は存在する
<ここ>からは無い
粒子は波の一形態
最小単位は無い
素粒子に紐に人間に生物に金属に地球に銀河系に生成して行く過程として自然は存在する
そしてまた違う物理状態に生成して行く
何も生まれない、無くならない
ただただ流転していく過程として自然は在る
八十年代に生死判定で論争があったが、物理として生死は存在しないことを前提にしていないことに驚いた
光速度一定の原理の理解もさ
最小単位探究、観測問題等々
俺には科学革命前夜に映る
九十年代初頭に語った科学者がいる
七十年代にもハイゼンベルク、武谷三男らは現代物理学の傾向に疑問を呈している 俺は自然は<一>で<多>ではない、つまり無矛盾だと理解する
それが自然を理解する導きの糸だと考えている
認識に現象する自然=自然ではない
だから認識の在り方も探究すべきかと いずれにしても学問はまだまだではないのかな
科学でさえ
貴方たちもまたニュートン、アインシュタイン、ボーアに成れる可能性はあるのではないかと
数学の認識論的な基礎を築いたらユークリッドに成れるかも
いずれにしても認識論は必要かと ウイルスは生物非生物と分類困難なのは物理として差異だから
つまり否定関係ではないが規定は否定だから
理系もまた認識論は基本を抑えるべきかと 人間はまだまだで学問もまた
枠はゴールはあるが物理の展開は無限でゴールはないのではと 俺は年寄りだから自分の理解の正否は多分確認できない
幸か不幸かはわからないが w
でも問題提起としては十分かと
潰すなら跡形も無く潰してください 宇宙、凄い
https://www.msn.com/ja-jp/news/photos/TB/ss-BBVPAV5?ocid=JPTB_GES&utm_source=taboola&utm_medium=referral&tblci=GiBiRE3in5nubP_5gJ8AF0PqKbJcmIAXFyttZ2q_el87fCDxm08o7bra6aCB58OXAQ#image=1 ライプニッツは重力概念には納得しなかった
未だに「概念」は未解決です
しかし学問は疑問から始まるんじゃないのかな
数には大きさがないと規定
全て値が違うのに=?
無限を踏破する?
=なら理解不能
認識であり近似で良いって言うなら納得する
もともと論理は存在しないし 数の大きさ、が何を指すか意味不明
1/2=3/6 同じ数は出てこないが値は同じ
終わりがない、には1通りしかない、終わりがある、を終わりなく調べる必要はない >>363
おい、物理学研究科院生の貴重な時間を俺理論展開で絡んで台無しにした妄想野郎
もうそろそろ罪悪感を覚えろ 音楽、文芸、哲学分野はいろいろまだまだ
過去にかなりドタバタやらかしている
政治学でソ連崩壊をかなり前から予想した学者が科学に遥かに及ばない経済学にも政治学はおよばないと語った
科学はかなりの分野だがそれでも基本はかなり怪しい
無学素人の俺の疑問に罵倒しか出来ないのかなって思った
でもこれからの学徒には新たな展開の可能性がまだまだあるってことで希望に満ちているんじゃないかな マイナスを二回かけ算したらプラスになるっていうのも「そう考えたら矛盾がない」ってだけの話でしょ?現実に目の前で観察するのは無理。だったら二回掛けてマイナスになる数も、そう考えて矛盾が生じないなら認めていいと思う。 物理学の結論はヒトを絶望させるかな
物理学者も人類も結論は拒否したいだろう
大バッハの至福はフィクションに基づく
彼の代表作はフィクションのまたフィクションに基づく
ブルトマンは憎まれるが自然を理解した物理学者は殺されるかもなあ
宗教に逃げますか
これでいいのだ w >>361
いや単純でもねぇよ、何せお前はゴールポストを永遠に動かし続けるからな。
つまり、お前は死ぬまで我が儘を言う人間。だから負けても勝ち誇るし
負けを認めざるを得ない状況に於いても言い訳に逃げるのみ。
そう、お前は負けを認められない類いの人格障害に至ってる事に成る。
>>366
自惚れるな挫折者、お前ごときで潰れる院生など地球上に存在しない。
お前は1秒たりとも院生の邪魔をしちゃいけないんだよ、邪魔をしない一貫で極力、関わっちゃいけないんだよ >>377
そもそも話の土台であるお前の主張その物が具体性の無い妄想を並べてるからな 罵倒観音
罵倒星雲
牛頭馬頭 - 仏教用語の一つで、地獄で亡者達を責めさいなむ馬の頭部を有する獄卒鬼のリーダー。
古代日本の官制で馬寮の実質的な長。左馬頭・右馬頭があった。馬寮を参照のこと。
馬頭町 - かつて栃木県那須郡に存在した町。現在の那珂川町の一部。
馬頭温泉郷 - 栃木県那珂川町にある温泉郷
馬頭(鯛) - 魚の「マトウダイ」の別称。
馬頭(魚) - 広東語でマータウ(ユー)と読み、魚の甘鯛を指す。
牛頭馬頭
牛頭馬頭(ごずめず)とは、仏教において地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をした馬頭をいう[1]。
『地獄草紙』断簡 盗コ地獄(シアトル美術館蔵)に描かれる馬頭羅刹
牛頭馬頭は漢訳語であり、元のサンスクリット名は牛頭はgośīrṣa(ゴーシールシャ)、馬頭はaśvaśīrṣa(アシュヴァシールシャ)である[1]。 理数系もまだまだって言われるのは不愉快だろうが事実
でも自分が変えられる可能性もあるってことでしょう
宗教なら疑われるのは不愉快だろうが科学はさ
まあ真理だって思うから突き進めるんだから疑われるのは不愉快か
文系は魑魅魍魎だから新説出てきて未解決問題を納得できるような片付け方してくれたら乗り換えるからな
確立してない分良くも悪くも柔軟
・・・いい加減とも言うが 「実在」を「存在」に変えたら、それほど変に思えないが。。
存在しない数と教わったが、虚数って存在するの?
詳しい人教えて。 >>382
全ての数は存在しません
りんごが1つりんごが2つと数えてみた
↑存在しているのはりんごです。数ではありません
1,2,3と鉛筆で描いてみた
↑存在しているのは数字です。数ではありません 数学の世界では
集合の元であること
定義されて無矛盾であること
の2種類の意味がある
(他にもある?)
ひろゆきの定義は?
>>386の定義は? まあ普通は数学では存在は扱わないわけですけど、well-definedなら存在すると言っていいんじゃないですかね >>385
むしろ、お前の価値の全てが存在しません
存在しているのは人権だけであり、お前そのものの価値は全く有りません
無賃労働させても損益が利益を上回り、肥料にするにも雑多かつ余計な養分ばかりで他の肥料の邪魔です
よって、お前は屑鉄溶解炉にぶちこまれ不要溶出物行きとなるべきです
屑鉄の屑成分と共に廃棄されるが、お前が歩み往くべき道です >>385
だよね
ひろゆきの理解はコペルニクス以前の自然理解
地動説は認識に現象した自然は自然を直接反映しないことを示す萌芽
静止は認識に現象するが自然には存在しない
光速度一定の原が決定的に示したこと
絶対座標は存在しない
→自然は運動するエネルギーの濃淡
0、1、2、3、4次元
大きさ、幅、厚み、運動→無し
4次元→運動無しの3次元の無限集合
でも0を無限集めも0
つまり数は認識に現象した物理存在の抽象 光速度一定の原理は運動の否定である静止で理解するが静止は存在しないことを示す
ここで規定の在り方を簡単に考察する わたしはあなた、植物、金属では無い
しかし物理としては同一
わたしは常に運動変化している
生まれてから現在まで、この今も同一ではないが同一と規定する
規定は否定
運動 静止
同一 非同一
非同一 同一
有限 無限
無限 有限 対象はその否定で規定する
対象の否定だから当然対象には存在しない
静止は存在しない
光速度一定の原理からは粒子、つまり<ここ>からは存在しないから<ここ>までも存在しない
粒子は波が渦の状態ということに
自然は運動するエネルギーの濃淡で反発親和して様々な物理状態に生成していく過程
紐から成るのではなく紐に生成するってことです
人に植物に金属に地球に銀河系に成る 今には幅が無い
有を無で規定しているから
0に限りなく近いが0ではない
不確定性原理
測定が近似の所以 生→物理状態の変化
死→物理状態の変化
違う物理状態に生成していくだけ
というかこの今も非同一
であって、ではない
規定は否定だから 数一般が存在しない
数で規定、理解するが自然には存在しない 認識に現象する静止は運動の一形態
粒子は波の一形態
有限は無限の一形態
無は有の一形態(ディラックの海)
自然は無矛盾
否定で規定するから決定不能に ウイルスは生物、非生物と分類困難
生物、非生物は物理状態の差異であり否定関係ではない
規定すること自体が問題
決定不能もまた デモクリトス、ピタゴラスは認識の話
ヘラクレイトス、パルメニデスは自然の話
自然はエネルギーから成り様々な物理状態に生成していく過程
<一>だが差異を否定で規定する 科学は自然の一部である人間の自己言及
わたしという表現を認識論で解明することが必要だけど
認識主体は認識対象の一部
ここでも否定関係は否定されますが・・・
まあ良いか >>391
じゃあお前、そいつのID辿って各スレでのアンチ数学レス内容を見てみろよ。そいつは
「0/0は不定形にせず値を記録して、未知の0/0も暫定で1にしてしまえばいい」だの「0.999…<1」だの「1=0」だの
トンデモ主張や、>>394-405でグダグダ語りなんかを各スレで言って回ってんだぞ、それも
小中学校範囲の算数・数学の問題のスレ
でまでやってやがんだから。小中学生の中には、コイツのレスに出会わなきゃマトモに勉強していけただろうけど
コイツのレスに出会ったが為に勉強の度にいちいち哲学評論する性格になってしまう子供もクラスに0.8人は居るだろ。
害悪でしかねぇんだよ。亡者の仲間作りでしかねぇんだよ。 ID:FrP69Wbyの必死見てもここと分かスレしか出ないが… 私は>>394の方とは別人ですよ
数とは大きさや量を表す概念ですから、実在とか存在とかするしないという時点でそもそもおかしいんですよ
強いて言うなら概念は実在もしくは存在しないわけです
現実にあるのは、数という抽象概念と現実世界に実在する対象物との対応関係だけであって、その対応関係を認識することで私たちは数が存在するという風に理解しているわけです なので虚数が存在すると言いたいのであれば、実学に使われている具体例をあげればいいわけですね
複素平面で平面上の一点を表せるだとか、物理の回路の問題解くのに使われるとか、量子力学で使われるとか
そうすることで、本来抽象概念でしかないはずの数を存在していると誤魔化すことが可能になりますね 近似値じゃないですよ
大きさや量という概念自体に近似値という概念は付随しません
現実にあるものの大きさや量を図ろうとする時に近似値の概念が出てきます 大きさは認識に現象する自然の抽象じゃないんですか?
概念自体は人間の産物で自然には存在しない
<ここ>から<ここ>までも自然に存在しない 大きさって認識に現象する物理状態の理解ですよね
大きさには認識の在り方がつきまとう
認識した対象=対象ではない 大きさ理解は<ここ>から<ここ>までってことだが<ここ>からは無いし・・・
よくわからないです >>416-417
お前みたいな奴を「『ミソもクソも一緒』にする奴」と呼ぶ。 どう見ても違うだろ>>414-416は。何でもかんでも不確定性原理で考えるバカだろ。
他スレで生と死の区別も着けない様な物の言い方してた奴。ライフスペースの高橋弘二じゃあるまいし。 虚数は実存しないし、実数も存在しないといいきったとき、
ひろゆきとかいうもんは、はずめて尊敬を勝ち取ることができるのだらんべーる、
なじぇならば小数点以下に無限に数字を並べることはなにぶとにも生きてはなしえない、
まいこんにも不可能であることに気が塚ねばだ山脈。 実数は直線、虚数には回転が宿っているのだ、
1は絶対値1で偏角2nパイの複素数が整数濃度で折りたたまれていることに気が塚ねばだ山脈のとき、
1は回転し渦巻いているのがみえなさい。 x^2+y^2=1は円だけどx^(2.1)+y^(2.1)=1,x^(2+無限小)+y^(2+無限小)=1
は突然に、非連続的に第一象限にしか描画されなくなった,
すなわち1+無限小*√(−1)は存在しない。
これに対し|x|^(2+無限小)+|y|^(2+無限小)=1は円からなめらかに連続的に変形するのである。 物質は存在しているのでない、実際は存在と非存在の間を行ったり来たりしてる物質歯なのでである、
従って1は存在し√(ー1)は存在しないはまさに当を得た正論なのである。 訂正
数字は実在してるわ 文字だから
数は実在してるのか だな 文字も実在してねえな
文字をかたどった物質が集合してるだけだもんな 数は存在するか?という問いは、概念は存在するか?という問いに還元される >>433
そんなこと、言えんぞ。
言えるのは、存在するとしても矛盾しないということ。 違います
数学は何かの存在を議論するためのものではないのです
なので、そもそも数の存在について議論すること自体意味のないことですが、強いて言うなら、矛盾のないことというのが数学という学問の中で考えるに足る対象に要求される条件ということで、それが数学における存在ということなのです
数理論理の言葉を借りれば、完全性定理ですね
無矛盾な公理系があるならば、それを充足するような数学的構造の存在を示せます >>1
1+1=田んぼの田っていうレベルのサイコパスが
ひろゆき >>434基礎から概念が微塵もなかったねサイコパス モチロン、虚数iは、存在する
∵モピロン、面積−1の正方形は、存在
ピミ達の地球人は、面積−1が見えない
だろうけど、ポクは、見えます。
確かモチロン、定積分の
∫[0,1]1 dx は、 -1 になることを習うだろ
でさ、とにかく、マイナスの面積が
モピロン、アルのでアル。
んで、きっとマイナス1となる正方形も
絶対、きっとアルのでアルゥゥゥゥ〜
∫[i,0]i dx は、−1かな。❓
地球人はどう計算するかな。
と思ったけど、ヤッパリ虚数とか
存在しないだろう。 >>452の微訂正
❌ ∫[0,1]1dx = -1
⭕ ∫[-1→0]1dx = -1
かも知れない >>452 超修整
❌ 虚数とか存在しない
⭕ 虚数は、実在する。
にモチロン、修正する。気分が変わった
で、モピロン、実在証明した
箱🎁の中に、赤林檎🍎が実在しない時
箱🎁の中には赤林檎🍎が0個実在する。
と言うことが、よくアルっぽい。
実在しないは、ゼロと同じなんです。
スナワチ、
虚数は実在しないなどと仮定✦
しちゃうと、i=0になるぢゃないですか
両辺を自乗というか、二乗すると
-1 = 0 になり矛盾 故に✦を否定
虚数は実在する (QED)
by 👾は虚数がzeroでない証明に成功 >>452-454
見えるんだな?よしじゃあ買って見せて来い フランスに住みながら数学と科学の否定とかどんだけ逆張りしてんだよこの馬鹿
フランスの歴史を知ってたら絶対できない愚行 >>458
エジプト遠征の時に発掘されたファラオがきっと呪ってるんだろ ガチ理系にとっちゃ「実数は存在して虚数は存在しない」ってのは大きな間違いだが、数学弱者に虚数という概念を教えるならこれくらいでいいっしょ
複素数の回転の話が出てくるのは数IIIから
文系がやる数IIまでだと、「(数直線上には)存在しないけど、二次方程式の解なしを上手く回避できる便利な数」くらいの説明しかされないし… コップで例えるなら負の数は存在しないと言われたらどうするのかな 反物質製コップ怖いよー、ストレンジレットと同じくらい怖いよー だって座標原点存在しないし
0次元は存在しないし
数で理解するが数は存在しないってことかと
静止は存在しないが静止で運動理解する >>467
お前もう考えるな
思考ツールでしかないと教えて貰って
『杞憂』
な事を考え続けたいなら、暫く学問理系板に来ないで哲学板に行け
思考ツールの存在非存在を問う事自体が『杞憂』である事が
“既に”“公知”かつ“自明”
にも関わらず、まだ悩むなら、もうそれは、理学的な問いではなく
哲学の形而上学的な問いだ。 オブジェクト指向の用語で言えば
数学はクラスの一般論そのものであって
当然インスタンスではない 認識器官という物理状態、物理条件に自然は現象する
対象である自然は同一だが認識器官の有りようで生成される自然像には差異が生じる
静止は運動の一形態だという理解は地動説が端緒で光速度一定の原理が静止の存在を否定する
つまり自然の存在形態は運動
運動を前提にしたら量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡という理解が正当であることになる
座標原点を媒介に運動は規定される
〈ここ〉からは存在しないが〈ここ〉からで規定する
規定は否定
物理状態は差異だが否定で規定する
生物非生物も差異だが否定で規定する
だからウイルスみたいな分類困難な対象が出てくる
これは対象の問題ではなく規定するから
数で規定するが数は否定で存在しない
有を無で、運動を静止で規定する
0に限りなく近いが0ではない、不確定性原理とかは否定で規定するから
自然は〈一〉で次元は認識に現象する物理の抽象で次元は存在しない
それは〈ここ〉からが存在しないことでも裏付けられる
〈ここ〉までも存在しない
数で規定するが数一般は存在しない わたしという物理存在は他に対して同一を非同一で規定する
植物、金属は物理の一形態でわたしも同様
自己に対しては非同一を同一で規定する
わたしという物理状態は同一であることは無いが同一で規定する
宇宙は非同一だが宇宙という同一で規定する
対象をその否定で規定するから決定不能になる
対象は無矛盾だが規定は否定
自然は無矛盾、〈一〉だが規定は〈多〉
対象ーその否定
運動ー静止
有ー無
カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定はそういうこと
観測問題、不確定性原理も対象と認識の在り方の関係
認識の在り方が様々な問題を出来させるだけ
なんら対象の問題ではなく規定するから
極めて単純な けっきょく科学というか学問は自己言及でしょう。
人間は自然の一部です
自然科学は基本として自己言及です
言語も〈わたし〉という表現は自己言及です
対象ー認識ー表現が言語表現の構造です
この場合対象と認識主体が同一です
街の地図を描く場合に観念的に空の視点で描きます
三浦つとむという言語学者はこのことを観念的な自己分裂と名付けました
この能力で地球や銀河系などが描けます
また古今東西にも頭の中で行き来可能ですし、小説やドラマの主人公に成れます
子供がヒーローに成ったつもりで遊ぶこともできます
〈わたし〉という表現は現実の自己を観念としての自己が他者として認識します
そして〈わたし〉と表現します わたしは唯物論者ですが共産主義は支持しません
三浦つとむさんは社会科学の方面も展開しましたがその結果
共産主義は成立しないという結果を導く論文をものし弟子筋の
滝村隆一氏はそれを受けて半世紀前の本の末尾に共産主義は実現し難いと記しました。
八十年代末に本格的に論じましたが、ソ連崩壊は予想はその前だったような記憶があります
学問は面白いというか残酷というか
新約聖書学の結論は信者でないわたしも読んだ時の衝撃はまだ覚えています
共産主義は成立しないという結論はマルクスの学的方法が導いたということです
数学もヒルベルトが愕然とする結論でした
十年以上前にある物理学者が人間がどこから来てどこに行くのかを知りたいと語りました
それを見ていて、たぶん絶望する結論になりそうだと予想しました
学問は人間とは何か、それを理解するために自然とは何か、論理とは何かを前提に納得したかった
その中で数学の性格を知りたいということです 数とは何かはピタゴラス学派とパルメニデスとその弟子ゼノンが論争しました
その結果がゼノン4つの逆説で、山川偉也さんが「ゼノン4つの逆理」で解説しています
わたしは光速度一定の原理はパルメニデスの自然観、つまり〈一〉ということを支持していると理解します。
パルメニデスは自然は一であるが、それを規定するのが多、つまり数であることは否定しません
静止は運動の一形態であることを科学は示しました
わたしは真空もディラックの海がありますし、エネルギーの一形態と理解します
つまり無は有の一形態です
座標原点、〈ここ〉からは存在しないのですが〈ここ〉からで自然を規定します
〈ここ〉からは〈ここ〉までです
数には大きさが無いという規定は光速度一定の原理が裏付けます
数は認識に必要ですが自然には存在しません 光速度一定の原理は座標原点が存在しないことにより自然が無矛盾であることを示したと考えます
つまり規定すること、理解することの自然存在を否定して無矛盾という理解が得られるのだということです
この原理は科学、認識の在り方の自己言及であり、また自然の自己言及だということです
規定すること、理解すること、このことを理解することが要なのではないかということです
そして理解すること自身が様々な問題を出来するということです
ウイルス、観測問題、不確定性原理
カント、ヘーゲル、スピノザ
ゼノン、ヘラクレイトスなどなど
これらを理解可能な視点を光速度一定の原理は指し示しているということです
自然は運動するエネルギーの濃淡で親和反発して様々な物理状態を生成する過程として在るという理解です
進化論を裏付けますし、万物は流転するという理解も導くことが可能です
光速度一定の原理は自然理解とその規定、論理の性格理解の基本を導くことが可能だということです
繰り返しますが数一般は自然に存在するという理解はわたしには受け入れられません
それはあくまでも規定の一つです 認識器官の在り方に自然は現象しますから諸生物の認識器官の態様により自然像は差異があります
対象である自然は同一ですがそれを認識する認識器官という物理状態、物理条件がもたらすわけです
つまり認識そのものも認識しなければならないということです
地動説はその端緒です
静止として認識に現象しますがそれは運動の一形態です
わたしたちの前に否定関係として現象する対象は実は差異であり自然は〈一〉であり無矛盾です
てことをわたしは主張します 去年今年貫く棒の如きもの
虚子だったんですね
自然は運動、規定は否定
これが棒の如きもの、普遍かと考えています
〈一〉が〈多〉となり、〈多〉が〈一〉となり ということです 睫毛はあまりにも近くて認識困難です
認識困難性は認識自身にあるのではないかと
今のところは言いたいことはこれだけです
人は現在を固定して捉えがちだと大哲学者は語ります
自然は過程です
学問もまた過程が普遍、変わることが変わらない、変わらないことが変わるということかと
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ーミス・マープル
学問もまた 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子
あの夏のかぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
小野茂樹
虹自身時間はありと思いけり
阿部青鞋
詩人永瀬清子 「短章集」
知っていて好みはこのくらいかな 数には大きさが無い
0に限りなく近いが0ではない・・・
わたしはあなたではない
だが人間としては同じ
植物でも金属でも無いが物理として同じ
同じではないが同じ
静御前は死んだら何処に行くのかなんてことも考えました
ゼノン、パルメニデス、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理
知れば知るほど判らないことばかりになりました
わたしは光速度一定の原理に自然と規定を理解する鍵があると考えます 認識は天動説です
それは相対化しなければならない
地球を静止していると<仮定>して観測する
光速度一定の原理はそういうことです
全ての個別科学理論の性格です 科学は否定関係で理解する対象が差異の一形態として理解する
地球 諸天体
人間 諸生物
静止 運動
無 有
多 一
粒子 波
自然は無矛盾 1000億本の指は存在しないので1000億という自然数は存在しない? 実数は存在すると簡単に言ってるけどどうやって存在を認識したのかね
√2が存在することを認識するのも簡単ではないだろうに >>67
お前に見えてるものはお前の脳の中で再現されたものでしかないから
共有ですらないんじゃないの
色とか歪みも見え方に個人差あるだろうし 生物により認識器官は違いそれぞれの態様に従い自然像は生成される
見たものそのままが自然では無いこと示す端緒が地動説
光だけ認識する、可視範囲、可聴範囲が広い生物と多様
ある意味小麦粉という物理状態は調理法、つまり物理条件で様々な料理となるのと変わらない
どれが正しいとかは無い
認識器官の違いによるだけ
静止は存在しないが静止で規定することを示したのが光速度一定の原理
座標原点は存在しない
運動Aを静止非Aで規定する
静止は運動の一形態なんだけど否定関係とする
規定は否定とスピノザは語る
わたし、植物、金属は物理状態の差異で否定関係では無い
それを否定で
物理としてのわたしは運動変化が常態で同一であることは無い
それを同一のわたしと規定する
運動という有は静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないというのはこういうことかと
不確定性原理は=ではなく近似値が必至ということ 座標原点、つまり運動の否定である静止の存在は否定されている
運動は自然の存在形態
ならば自然は運動するエネルギーの濃淡
つまり〈一〉
認識器官はそのまま自然を捉えられない
真空はディラックの海を考えるとエネルギーの基底状態
つまり真空、無は有の一形態
静止が運動の一形態だが認識器官には否定として現れるように
認識器官には自然は〈多〉として像を結ぶ
次元はその認識器官の在り方の抽象
0次元は存在しないし1次元2次元3次元も存在しない
4次元が存在するなら運動しない3次元が無限に存在することとなる
自然に数は存在しない
静止が認識器官に在るだけと同じこと 全ては幻であるなら、この認識自体も幻でなければならない >>495
>次元はその認識器官の在り方の抽象
訂正
次元は自然の濃淡が認識器官の在り方に結んだ像の抽象 ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになりますとパルメニデスの自然は〈一〉であるという理解を擁護したもの
山川偉也氏「ゼノン4つの逆理」参照
自然は一であり、その否定の多で理解するということ
規定は否定
光速度一定の原理はこのことを裏付けるとわたしは理解する >>492
脳自体も幻、認識自体も幻ってことかと
自己言及してみりゃ幻想説は否定されるのでは? ひろゆきは見たものがそのままの自然という天動説論者 規定は否定
対象をその否定で規定する
一を多で、運動を静止で、同一を非同一で、非同一を同一で
有を無で
数は存在しない
数は規定 つまり
お前の存在意義も否定
お前の意識も無意識
お前に規定された人権も否定 >>503
うん、物理しては無いよ、そんなのは w 実在するだのしないだの言ってる人ってそもそも数学を自然科学かなんかと勘違いしてるのがほとんどだよね
形式科学であって現実とはなんの関係もないのに、数学が現実世界を記述してると思ってるのかもって感じる 関係なくはない
静止は存在しないが静止は認識器官には存在する
見たものが自然そのままではないとは地動説が示す
静止は認識器官に生成される運動の在り方
静止は認識器官に生成される運動の一形態
0次元1次元2次元3次元は物理存在の抽象で独自には存在しない
四次元が存在したら静止である三次元が無限に存在しなければならない
次元は対象である自然の抽象で独自に存在しない
一つ誤魔化しているが面倒なんで略 w 実数も虚数も実在しないと思います。
それらは純粋に人間の脳の系にかかわる認知的構築物であって
知覚できる実在世界とモデルとの単なるマッピングにすぎないんじゃないかと。 実物としての『木』は存在するが、
言語としての『木』は存在しない的なことがいいたいのかな? もう実数も虚数も複素数も行列も概念的な物差し、つまり指標でしか無いって皆もう分かってるんだろ?
>>502以外は だから数は理解の媒介
ゼノンは数が自然存在ならこうなりますよ、と逆説でその存在を否定する
光速度一定の原理は座標原点、静止が自然に存在しないと示す
つまり自然の存在形態は運動
量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡であり〈一〉
ディラックの海は真空はエネルギーの一形態ということを示す
生物学は諸生物の諸認識器官に生成される像は物理条件である認識器官のそれぞれの在り方に左右される
小麦粉が様々な料理法、つまり物理条件に対応し違う物理状態になるのと同じ
どの生物の諸認識器官に生成された自然の像が正しいわけではない
地動説は認識に存在する静止は存在しないが、静止で理解するということを示すきっかけになる
規定が否定、つまり静止で運動を理解する
自然は濃淡だが、淡である真空は認識には反映されない
だから〈一〉である自然は認識には〈多〉として像を結ぶ
〈ここ〉から、つまり座標原点は存在しないが認識には存在する
次元は存在しないが次元で規定する
次元は認識に像を結ぶ自然の抽象
0~4というか次元は物理状態の抽象で独自に存在しない
4次元が存在するのならば静止する三次元の無限集合が自然に存在することになる
0に限りなく近いが0では無いという不思議な規定は運動を静止で規定するから
ヘーゲルは今、ここと指示すると飛び去ると語る
それは今、ここという規定が静止だから
今とは物理に伴うし、ここは運動するから
時間は直接運動を捉えられないから量として理解するしかないから
数は自然には存在しないが、規定には必要
言い換えれば、静止、座標原点で規定するがその存在は否定されているということ ウイルスは生物非生物と分類困難
物理として生物非生物は差異であり否定関係では無い
地球も諸天体も差異
人間も諸生物も否定関係では無く差異
真空も生物、金属もエネルギーとしては差異
観測問題は波が渦の状態が認識には粒子として像を結ぶ、つまり否定関係では無い
科学は否定関係が差異であることを示し、無矛盾ということを示す
つまり理解出来るということ
しかし規定は否定だから、決定不能となる
クレタ人の逆説は対象の否定で規定するから決定不能となることを示す
カントの二律背反は終始で規定するが自然に終始は存在しないことを示す
ヘーゲルの運動定義は運動を静止で規定するから 科学はかなり前からその在り方に疑問を呈されている
ハイゼンベルク、武谷三男氏
90年代初頭に科学革命が必要と語る科学者が洋の東西に出現
今世紀に入ってきて量子力学分野で新理論が必要だと喧伝される
時間はもちろん重力の存在を疑う科学者たちが出てくる
つまり学問は学問でさえまだまだということ 正直宇宙論のビッグバン仮説は信じていない
光速度一定の原理は絶対座標否定しているのに始まりを主張しているから
わたしは次元で理解するが次元は存在しないと理解しているから
ちなみに証拠とされるものはすべて異論があったりする 自然は無矛盾であり〈一〉で、それを多、つまり否定で規定する
規定は否定だから、当然対象には存在しない
数は観念の中に存在するだけ >>514
訂正
> つまり学問は学問でさえまだまだということ
→つまり学問は科学でさえまだまだということ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が訂正することはよくあることだと記す
ど素人が勝手な放言しほうだいを諫めたかったらとっとと基礎を確立すべきかと 自然は運動するエネルギーの濃淡で反発親和の過程で新たな濃淡を生成していくだけだと理解している
進化論はこれで裏付けられるかと
ビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもとボスロウは記す
粒子も人間も地球というか自然はすべてその生成過程の濃淡だと思っている
けっきょく科学は自然の自己言及
自然は一だから否定の多、数で理解する
数はそのような存在だと理解している わたしという表現は自己言及
地図を描く場合には頭の中、観念で空中から町、地球、銀河系を描くことが出来る
この能力を観念的自己言及と言語学者は名付けた
古今東西に行き来きしたり、ドラマの主人公に観念の中では可能
わたしという表現は現実の自己を観念の中の自己が他者として認識する
自己を他者という否定で規定する
自然認識はその一部である人間の自己言及
自然は無矛盾だが規定は否定、つまり対象には存在しない
静止で運動を規定するからヘーゲルの運動規定、つまり決定不能に
科学も根本として決定不能
一を多、つまり否定、数で規定する
数はそのようなものとして観念の中にある 現在の学問は根本として変革するのではないのかと思っている
科学もかなり前に新たな考え方が必要な段階だと洋の東西を問わずそういう問題意識の科学者は散在する
量子力学は新たな考え方が必要だと言われている 立花隆氏が日本の物理学者がノーベル賞受賞の際にテレビで語っていたのを受けて研究者らしき方が最前線は一条の光も射さないという投稿をしていた
わたしは数は認識の理論だと思っている
静止という自然には存在しないもので運動を規定している
同一を非同一、非同一を同一
生物非生物は物理としては差異であり否定関係では無いのに〇ー非〇と規定する
不完全性定理は対象をその否定で規定するからと理解している
しかしそれは対象が無矛盾だからなのだと
科学は自然には存在しない終始を終始で規定していることを光速度一定の原理が示していることに気が付いていない
数で理解するが数は存在しない
静止、生死は物理として存在しない
生物非生物は理解に必要だが否定関係ではない
分類すること、規定することとはという問題意識が未だに無い
数は認識の論理 ちなみに「進化は万能である」は学問というか人間の認識の変革を要請していて面白い
今までは基本トップダウンだがボトムアップを基本にすることが必要だと説く
文化もまた進化論で解明する試みで刺激的
新たな人間の可能性を切り開く可能性を期待できるかも
根本的な変革かもしれない
タレブもまたそのような認識だが、自然科学認識は西洋の創造神話に囚われているから科学革命は日本にもワンチャンありかもと期待している だからさ、マスコミなどがミステリーサークルと思われる現象、ここでは共産圏の悲惨な実態の映像と証言を出している
科学者であるマルクス君はそれは人為的なものだと証明しなければ共産圏の悲惨な実態の映像と証言は真実だと流布されるだけ
科学者がミステリーサークルが人為的なものだと言うだけでけで証明しなかったらさ
俺たち大衆もきちんとそれがデマだと証明しない限りは共産主義は怖くて支持しない
マルクス君は言うだけなんだよ
共産主義はそうじゃないと言うのなら調べて反論しなきゃさ
誰かが言うように安楽椅子共産主義ってことかと >>1
ひろゆき
「要は虚数は現実には存在しないんですけど、」
「だから虚数は実在しないでしょ?」
「これそんなに難しい話なの?(笑)」
iは90度回転なんですけど
だから実在するじゃん
これそんなに難しい話なの?(笑) 複素数をa+biと書かずに
rs(rは非負の実数、sは絶対値1の複素数)と書くと
自然に感じられる
-1はs^2=1かつs≠1となる数s
これを180度回転と考えるなら、
90度回転はs^2=-1となる2つのsのうちの1つである
で、ここまでくれば絶対値1の他のsは平方根と乗算を使って
いくらでも構成することもできる 無限回操作を認めるなら
1^(1/3)だって、1^(1/4)*1^(1/16)*1^(1/64)*・・・で求められる
(任意の角の三等分は同じ方法で任意の精度で近似できるから
定規とコンパスの有限回使用による正確な作図とかいう問題が
現実的にはハナクソほどの意味を有しないことがわかろう
ただそういうこと数学科卒の人にいうと馬鹿にされるけどw) >>526
で、実は三角関数の加法公式を利用すれば
rs=a+bi(a,bは実数、iはi^2=-1となる数)と表せる
というのが重要 >>523
マルクスの指摘は正しいが、改善のための戦略を誤った
権力を奪取してプロレタリア一党独裁で改善しようとするのが誤り
党が正義だと思い込んだんだろうが、実はこれこそが悪徳
権力による強制こそが悪なのだから、権力をつかったらダメなんだよw 光速度一定の原理はただの双曲的変換である
例えば、正方形の横をa倍、縦を-1/a倍する変換は横軸と縦軸を動かさない
これを45度傾ければいいだけのことw
実は次元を増やしても光円錐を不変とする変換が実現できて
その中身は双曲幾何学の合同変換になる
こんなの全然大した話じゃない 思想的な深みもない
トリックといえばトリック
しかし現実にそうなってるという意味で
そう見せかけるだけの手品のトリックとは異なる 速度の合成も実は掛け算として考えるべきであって、
それを足し算とするには”対数”をとる必要がある
速度0は1であって、それ以外の速度は正の実数aで表す
光の速度は0か∞であって、aの有限回の掛け算では決して到達できない
logをとれば加法的な速度が得られる 「王蟲はこんな眼を14ももってどんなふうに
世界をみているのだろう・・・」
「風の谷のナウシカ」 宮崎駿
座標原点、静止は存在しない
絶対座標、静止は存在せず、自然の存在形態は運動
自然は運動するenergyの濃淡
〈ここ〉からが存在しないなら〈ここ〉までも存在しない
数は存在しない
認識器官に反映した自然はそのままの自然では無い
物理として、静止、生死、無は存在しない
認識器官は淡を無としてしか捉えられない
数で認識するが数は存在しない
自然は有、規定は無
規定は否定 スピノザ
規定の在り方が様々な問題を引き起こすだけ
ウイルス 生物非生物と分類困難だが、物理としては差異で否定関係では無い
粒子は波が渦の状
静止は運動の一形態
生死は物理としては違う状態に遷移していくだけ
数という無で対象を規定する
数一般が存在しない >>532旧コテ「学問」「バカボンパパ」
いつまで、たゆたった思考で居る気だ? 数学の“存在する”とは、適切に考えられること。
その意味では、実数も虚数も数学的には存在する。
通常の“存在する”とは、五感で捉え得る実体がないこと。
その意味では、実数も虚数も存在しない。 その話って突き詰めると、いちご一個とメロン一個が同じなわけがない
から1+1は2と言うのは詐欺と言うのと同じになってしまうんですけどね
虚数より難しいから試しにやってみ、物体の定義に行き着くから
天動説は素直に受けいれられたけど
進化論は怪しいと思ってハマって抜け出せなくなり
量子論で自棄起こしてもう地動説も許してやって良いんじゃない?
となるのが少年が通る道だ
善意で解釈するならひろゆきの言いたいことは
便宜的な対応は大事なことなので、いちごもメロンも同じ一個と
カウントすることが時には重要であると言っている >>146
アホむずいを、クソむずいくらいにしてくれたら時間かければ何とか読んで
理解も出来る、アホむずいは手が出せない 複素数は、所詮実2次元のベクトルの空間の標準基底(1,0)と(0,1)を考えて、
たとえば前者を通常の実数の1、後者を i と書いて、
a,bを実数とするとき、一般の2次元ベクトル(a,b)に対して a + b i と書き、
可算についてはベクトルの可算と同じとしてよいが積については
ベクトル同士の積は自明ではない。
通常の実数の分配法則が拡張できると仮定すると
(a+bi) * (c+di) = (a*c) + (a*di+bi*c) + bi*di
=(ac)(1*1) + ad (1*i)+bc(i*1) + bd(i*i)
交換法則が成り立つと仮定すると
=(ac)(1*1) + (ad+bc)(1*i) + bd (i*i)
通常の実数の積の一般化になっていると仮定すれば、b=d=0のときは積がacだから
(1*1) = 1でなければならない。
また1が乗法の単位元であるとすると、a=1, b=0 とするときは
1 * (c+di) = c + di でなければならないので、
(1*i)=i でなければならない。
すると、(i*i)が残るが、
そこで積 (i*i) が二次元ベクトルの範囲に収まるようにするには
xとyを実数として
( i * i )= x + y i の形になるとしなければならない。
そこで通常の複素数では (i * i) = -1 ととる。
すると (a+bi)*(c+di)=(ac-bd)+(bc+ad)i となる。
たとえばそうすると、0以外の複素数に対しては逆元となる複素数が唯一に
決まることが示せるので、二次元ベクトルの空間にベクトルの可算を和とし、
ベクトル同士の積を上記のように決めて実数の積演算を拡張すると
実数上の二次元ベクトル(複素数)は可換な体になることがわかる。
普通は実ベクトル空間の表現を使わずに、虚数単位iを使って a + bi の
形で表す。どこにも神秘なところは無い。単に実数の体を含む形で体を
拡張する一つのやり方に過ぎない。 いま多項式P(z)が複素数の零点を全く持たないとする。
そのとき f(z) = P(z)/|P(z)| とすると、
各複素数の点zに対して複素単位円周上への点f(z)
が定まり、この写像は連続である。
f(z)は複素球面にまで定義域を拡大でき,無限遠点に
於いても値は確定であり連続である。
すると、2次元球面上に連続な消滅しない方向
ベクトルの場が定義されることになるが、
球面上の連続な方向ベクトルの場は少なくとも
2点において消滅するというトポロジーにおける
つむじの定理に矛盾する。
よって、複素数の範囲に定数では無い多項式が
零点をまったく持たないということはできない。 結局現在の学の水準であれこれ言えると考えることが間違いかも
科学を概観すると半世紀くらい前から大科学者たちが科学の在り方に疑問を呈している
科学革命が必要な段階だと主張する科学者たちが出てきている
時間非在説を主張する科学者たちが居るし、また重力は存在しないのではという科学者さえもいる
量子力学は新しい理論が必要になっていると立花隆氏は語る
研究者らしき方が一条の光も射さないという投稿をしていたりする
最終方程式まであと僅かと語ったホーキング博士は観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると語る
ライプニッツは重力方程式に敬意を表したが、その概念は魔術的だと拒んだ 数が自然に於いて存在したり存在しなかったりと矛盾するという理解はどうなんだろう
いずれにしても科学でさえその基礎は確立していない現在あれこれ言うのは群盲象を撫でるの典型かも
専門家の過ちを素人が正しい位置に戻すことはよくあることだとファイアアーベントは語ったが
その言葉を引用して「と学会」の現在の学の在り方であれこれ裁断することに科学者たちが疑義を呈している
・・・まあ逆に言えばここは素人の集まりだから意外と可能性があったりして w >>542-543
いい加減に黙れよ元「学問」元「バカボンパパ」の「1は1と定まっていない波を打っている」バカ兼「規定は否定」バカ
いいよ、お前がそういう考えなら同じ様にしてやる
お前の存在の肯定は否定
お前の金はお前の金じゃない
金を全額寄付して路頭に迷いつつ納税を強要されろ >>544
ひゃひゃっ
学問は基礎はまだまだ確定していないんだから
現在の学問の水準に文句を言えよ
あんたのは八つ当たりってだけ
ん?プライベートでなんかあったのかい www てか、理解する気が無いなら無視しておけば?
わたしの理解は自然は無矛盾だが、規定はその否定だから決定不能になるということ
静止というのは存在しないが運動は非存在で規定される
生死は物理としては存在しない
認識には存在しても自然には存在しないということ
光速度一定の原理は静止で運動、つまり規定は否定
そしてその存在を否定することで無矛盾が証明される
つまり認識の在り方を認識する必要があるというのがわたしの〈認識〉 留学経験のある科学者が英国は主流学説が覆るのを何回も目撃しているから、筋が通っていれば異説も否定しないと語っている
日本は主流学説しか認めない傾向が強いとか
「と学会」は現在の科学の在り方を絶対化してこの説は〇、この説は×と裁断しているが、それはおかしいと批判していた
それはともかく、わたしの理解を否定したければ筋が通っていないことをあなたが示せば良いだけです 転載
ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになます
自然は〈一〉ですという論旨
これは数で規定するが存在しないということ
光速度一定の原理は絶対座標、点、0次元は存在しないことを示す
また静止は存在せず運動が自然の存在形態、つまり無矛盾ということ
運動を前提に否定関係は導けないから、自然は運動するエネルギーの濃淡ということになる
ディラックの海は、真空がエネルギーの基底状態であることを示す
つまり無は文字通り存在しない
自然は〈一〉であり〈多〉ではない
認識器官に静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
濃淡の淡を認識器官は像として生成できず自然は多として像を生成する
その抽象が次元
0次元は存在しないし点を無限に集めても、幅が無い1次元を無限に集めても
厚みが無い二次元を無限に集めても・・・
静止している三次元を無限に集めても運動するわけではない
四次元が存在するならば静止している三次元が無限に存在することに成る
否定は規定、有を無で規定するから、直接運動は捉えられず量とし捉えるしかない
時間は規定であり、存在しない
次元は、数は認識の問題であり、自然には存在しない >>544
てかほとんど理解していない
理解する気が無いんじゃないかな 科学は未だ基本が確定していない
だからこそ個々の理解は徹底的には否定できる段階じゃないのかも
いろいろあっても良いのだから、自由にやろうよ
わたしは自然の無矛盾な理解と理解とは何かを追究したい
超ヒモ理論もビッグバン仮説も認識する自然がそのままの自然という天動説の誤謬から逃れていないとわたしは理解している
「ここ」からなど無い
「ここ」までもまた無い
終わりは始まり、始まりは終わり
矛盾は規定するから
光速度一定の原理は自然における絶対座標、つまり始まりを否定している
ならば自然は無限で永遠ということではないだろうか
終始で規定するが終始は存在しないということかと だからさ、数式で観測問題は解決しないよね
重力概念も未だ未解決
いろいろ考えなおした方が良いんじゃないかなと横目で見る立場から思えるんだ
光速度一定の原理が何を示すのかはまったくの放棄状態
基本に還った方が良いんじゃないかなと思うんだ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことは良くあることと語る
それはともかく納得できる自然観を構築して欲しい
素人には何が何やら 古代ギリシャはいろいろ面白い考え方が花開いたようだ
地動説も進化論もそうだし、フロイト心理学の祖型もあるとか
でコペルニクスとか典型に古代ギリシャに還ったりする
パルメニデス、ピタゴラスとかもあるし
数の定義である大きさが無いというのはパルメニデスの弟子ゼノンが師の自然観擁護で展開したことから
で飛ぶ矢は飛んでいないという逆説が生まれたりする
万物は流転するとか、もういろいろ
ルクレティウスのは古代ギリシャのエピクロスの祖述であり、著作が失われたから重宝されている
快楽主義という批判はキリスト教と対立するから貼られたレッテルとか
個人的にはエピクロスはパルメニデスりが認識の相対化可能にする地点にいるのに比べて本質的ではないように思える
ある地点まではとても有効な視点ではあるが
現代に必要なのはパルメニデスとスピノザだと考えている
クレタ人の逆説が対象と規定の関係の本質を示しているというのがわたしの理解 科学は否定関係と規定していたことが差異であることを証明してきた
人間も金属も真空でさえも否定関係では無く差異
否定関係で規定することは理解に有効です
ただそれは認識する上です
地球は球体と規定するのは認識の在り方に生成した自然の像です
それは自然をそのまま反映しないのだとわたしは理解します
座標原点で規定するが、それは自然存在ではありません
静止、生死、無、終始は認識器官に生成した像であり、対象と認識の関係で生成されたそれです
認識器官には存在しますが自然には存在しません
これが意味することは追究されるべきかと
追究しないから、ビッグバン仮説のように、自然科学の前提を無視する理論が跋扈するわけです
対象は自然、非自然と矛盾して、宇宙は生れるし、光速度一定の原理は無視するこの仮説の非科学性に気が付かない
観測問題も解決しないし重力、次元などがどういうものなのかもわからない 科学、数学という学問が成立する条件が未だに確定していない
枠がきまらないうちの断言はいかがなものかな 逆に言えば、現在の学の在り方に縛られることは無いということか
新たな枠を作るために従来の枠を検討する必要があるのだと 数とは何かってことじゃないかな
ならば自然に数は存在するのかということが焦点になる
自然が理解可能ならば無矛盾でなければならない
自然に静止、終始、生死、無は存在しないのではということ
静止は運動の一形態
終始で理解するが終始は光速度一定の原理でその存在を否定されている
終始で理解するが終始は存在しない
生死は物理状態の差異
無は有の一形態
無矛盾ということ
次元は認識の在り方に現象する自然の抽象で存在しない
四次元が存在したら静止する三次元が無限に存在する ことに
数で対象を規定するが数一般が自然存在ではない
有を無で規定する
クレタ人の逆説は対象を否定で規定するから
決定不能の原因
数は認識する側の存在で自然には存在しない
ひろゆきの理解は違うのではということ かなり前に理系の方々と話していた時の思い出
お前は生死がどこからどこまでか解るのかと言われた
いやいや物理として生死は無いからと答えたら沈黙したというか
理系ばかりの住人は皆黙ってしまった
四次元が三次元の無限集合で実在していたらどうなるのか
そしてなによりもわたしという人間も無限に実在しなければならない
次元が自然に実在する・・・
さて科学はそれを証明したのだろうか
理系の方々はもう少し認識のあり方を追究しても良いのではないのだろうか 数学の話じゃなくて認識論の話がしてぇんだったら数学板から出てけ、哲学板で一人ごちをしてろや >>558
理系の方々と云われても仕方ない部分はありますが、まず先に哲学が足を引っ張っていることを提示して欲しいですね
自然数(0と1の概念)の説明(※ペアノの公理)すら不備が付きまとうしまつです 既成哲学や新興哲学が足を引っ張ってんじゃない、お前の天上天下唯一独個人に限られた哲学が足を引っ張っている。
世界の正しい認識として。
お前が数学を疑い「1は1ではなく1と揺らぎを伴った物的現象」(←俺の要約だから、そらまぁ抜粋じゃないわな)と
幾ら唱えようと。揺らぎとは、揺らぎでしかない事は物理学が保証する。
揺らぎのエネルギーは零。もっと正確を期すと、振動のエネルギーは零。
もしも、振動の揺らぎに偏りを生じ、1を1では無くすエネルギーを為すならば、それは最早、振動では無くなって居て、
内訳としては、振動を伴いながら、ゆっくりと、1から2にでも0にでもマイナスにでも10にでも
変異する作用が、その1君の自律的な努力にしろ、他律にしろ、作用し
1を1でなくす「運動エネルギー」が働いている。運動は振動とは異なりエネルギーを成す。
フーリエ級数の、第一項から振動項が始まるが
級数の先頭に立つのは第一項ではなく第零項で
第零項こそは、フーリエ級数に於いて唯一の運動項である
お前は、物事の揺らぎ、振動に目を囚われ
振動を伴いながら行き着く先に向かう作用の「現れ」である運動を見逃している。
実生活としても振動よりも遥かに重要な運動を、無視どころじゃない、視認拒否している。 「1と振動」の域を超え
「1から『運動』(=変異)を伴った振動」
それを「1」と呼んじゃぁ、いけねぇなぁ。
1は1、揺らぎは揺らぎ、変異は変異
目に見える、それぞれの現象を細微に語れる様に分別した用語を
テメェは、場面を選ばず濫用し、悪戯に混濁とした解釈に読み手を導こうとし、
丸でネオエクスデスの様に世界を呑み込んだ解釈をしようとした
他人と自分の境を失ったネオエクスデスの様に成りたいかの如く
糞味噌とは、お前の解釈を言う 実在するとか、存在するという言葉が問題だ。
自然科学とは異なる形式科学である数学には、
素朴な実在や存在という言葉は、馴染まない。 >>564
そんなものは『ファジィ』の一言で事足りて居る。
多くの場合は様相の切り替わりはヒステリシス曲線とかヒステリシスループと言われる線の内域の中で
個人差・個体差を伴い乍ら変容していく様子が認識され易いが
過冷却やギッブスの飛躍など突然もしくは飛び級で変異する現象も多々、有る。
液体を経ずに気体化やプラズマ化していく固体など。
『意識の有無』も『各個人の自他の区別』も
今風に言えば『インターネットクラウドの様な集合要素でファジィに変容していく』と言えるが
その全てを何でもかんでもを、ファジィでない事象物象であっても
お前みたいに全部ファジィに解釈するのは、揺らぎ解釈でも無いし、カオス解釈でもない。単なる混同だ。
お前は況してや、揺らぎ解釈の過剰な拡大解釈のみならず『“規定”は“否定”』とかブチこいて
白と黒の区別も逆転させる『間違った陰陽同一解釈』を晒している。単なる無節操、無節操な混同解釈。
『“痛くて苦しい”も“痛くなくて苦しくない”』の実験体にでも成ってみれば考えは変わるだろう。 存在しない数とは何かってことなんですが
まず対象が自然非自然と矛盾したら科学は成立するのか
数は物理として無ですから無限に集めても自然には存在しません
有を無で規定しますから0に限らなく近いが0ということになります
エネルギーは無ではありません
それは規定が否定だからです
有を無で規定するからです
無を無限に集めても無です
対象は有りますが無で規定します
不確定性原理にしても有を無で規定するからです
近似値でしかわたしたちは対象を捉えられない所以です
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが物理としては差異であり否定関係ではありません
規定するからエネルギー0ということになりますが、0に限りなく近いが0に限りなく近いが0ではありません
四次元が存在したら運動の否定の三次元が無限に、そして認識する側も無限に存在することになります
そんなことはかつて確認されたことはありません
三次元は運動している自然の抽象で存在しません
静止、運動の否定です
現実には運動しています
つまり自然はそのままでは認識できません
>>559 朝永博士は物理学の自然は撓んだ自然だと日記に記しました
その通りです
地球は運動していますが認識器官には静止として像を結びます
人間も植物も金属も物理としては差異状態ですが否定で規定します
生死は物理としては在りませんが認識には存在します
光速度一定の原理は静止の存在を否定しますから自然の存在形態はし運動であり無矛盾です
真空はディラックの海が示すようにエネルギーの基底状態と理解すべきです
つまら自然は濃淡の海、一ですが認識器官という物理状態はそのままの像を結びませい
濃淡の淡は像を結びませんから多として像を結びます
最小単位は存在しません
粒子は波の渦の状態です
自然は運動するエネルギーの濃淡でその親和反発の過程で新たな濃淡の状態に生成する過程です
貴方というか全てがそういう過程で生成されます
金属、植物と濃淡の在り方は多様で、基準を設定して理解します
基準は相対的です。
だから理論もまた相対的です
数は認識器官の在り方に結ぶ一である自然が多としての像の抽象です
数は規定する側の論理ですから自然には存在しません
規定は否定です
つまり対象には存在しません
有を無で、否定でということです
光速度一定の原理は座標原点の存在を否定しますが、それで規定する ことは否定しません
数は自然には存在しません 殴り書きに近いし校正していませんから読みにくいかな
認識に生成される像がそのまま自然ではありません
光だけを感受したり人間より視覚範囲が広かったり、また聴覚が広かったり
それはそれぞれの生物の認識器官、つまり物理条件の違いに生成される像の差異であり、どれが正しいということではありまぜん
認識器官には静止、生死、無は存在しますが自然には存在しません
地動説は見たものがそのままの自然では無いことを示しました
認識を相対化して科学もまた発展してきた側面があるのだと思っています
わたしには物理として終始があるとは思えないのです
ということは数は自然には存在しないのだということです わたしは自然は無矛盾で理解可能だと思っています
規定は否定です
自然認識は自己言及です
自己を他として認識します
否定で規定します
クレタ人、二律背反、運動定義、不完全性定理、不確定性原理などなど
対象をその否定で規定するから決定不能になるのだということです
変われば変わるほどますます変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ミス・マープルの言葉です
まことにその通りではないかと
それは規定するからです 基本は対象は無矛盾、理解可能ということです
対象に自然、非自然は矛盾です
終始、静止、等々が存在するという理解を科学は否定してきました
科学はそれが認識に必要であり自然には存在しないことを示してきました
数は頭の中だけの存在です 説明が下手くそか
上記のように説明が長文化するのなら、見る人が理解しやすいよう、1レスに抽象と具体を1つずつ書き込むなどのちょっとした工夫が必要だと思います
例えば、
抽象的説明と具体的説明(または具体例)を上下に区切って書き込むなどすると、見やすく分かりやすくなるかと思います
↑こんな感じで >>566
矛盾してんのはお前の観念だバカ垂れ
お前は毎度毎度いちいち
指標に過ぎず対象そのものでない数と
対象そのもの
を同一視する事による矛盾をわざわざ繰り返し
矛盾ガー矛盾ガー言ってる大バカ野郎だ。そら矛盾するわな
そんなんだからお前は 1 を 1 として捉えられず 1 に伴う波動とやらに目を捕らわれ
肝心要の 1 を無視し、波動を表す周期関数にばかり注視するんだ >>566
分かったか?学者や学生がお前みたいな矛盾野郎の問いに答えられるわけが無いんだよ
対象そのものとは別物で指標に過ぎん数を
対象そのものと同一視して、わざと矛盾を導いといて
問いなんかだしてんだから。答えは「大前提根幹からして矛盾により問いは不成立」だ。
学者や学生の貴重な時間を奪う迷惑罪で捕まれ。 自然をそのままで認識できない
数は認識を媒介にした自然の抽象
無関係であるはずがない
自然と無関係なんてそんなのは無いよ
幽霊とかにしても存在はしないが無関係ではない
いろいろ勘違いしていないかな 静止は運動の一形態だが、それは認識器官に像を結ぶ自然の在り方
生死は物理としては存在しない
無もまた
自然認識は自己言及
自己を他として規定する
否定で規定するから決定不能に
運動は静止で
有は無で
だから不確定性原理、不完全性定理
認識器官には真空は無として像を結ぶ
静止は光速度一定の原理で否定されるから
つまり自然は運動するエネルギーの濃淡
粒子は波の一形態、渦
真空はエネルギーの基底状態
観測問題は本質として静止が運動の一形態と変らない
現代科学は認識の在り方を少し考察したらよいのでは?
科学は自然認識なのだから 半世紀くらい前から科学者の一部で現代科学の在り方に疑問を呈している人たちがいる
三十年前にも、そして今世紀に入っても
こう考えれば自然は無矛盾に理解可能だという一試案を提出している
けっきょく科学は自然の一部である人間の自己言及
自己を他として規定する
規定は否定
だから決定不能、哲学で言う矛盾ということになる
それは認識するからこそ
自然に矛盾は無いというのがわたしの理解 繰り返すがわたしは自然、人間、科学というか学問が何かを知りたいだけ
現代学問の啓蒙関係読んでもいっこうに蒙は啓かない
混迷するばかり
科学でさえ
時間は、重力はまだ正体不明
昨日相棒再放送で観測問題を前提にいろいろやっていた
科学の目的は自然を無矛盾に理解することだと思っている
多宇宙平行宇宙とかSFとしては面白いけど
ホーキングは最終方程式まであと僅かと語り、観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると
ライプニッツは重力方程式に敬意を表したが、その概念は魔術的と拒否した
役に立つなら天動説もある範囲で役にたつ
有効性と真理はまた別
地動説だって太陽中心だと理解したらアウト
いろいろ問題は山積
とにかく無矛盾な自然観を得たいわけです とりあえず現在考えていることを
科学の歴史を概観する
それは否定関係と規定していたことが差異であることを示してきた
地動説は地球は諸天体同様に運動して仲間であること
進化論は諸動物の仲間
地球も人間もなんら特別な存在ではないことを示した
で人間も植物も金属さえも物理状態の差異で否定関係では無い
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定する
つまり運動の否定である静止は自然に存在しないということ
この原理で科学は自然の存在形態は運動、つまり無矛盾ということになる
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ということ
いわゆる真空はディラックの海が真空はエネルギーの基底状態と示す
つまり無は文字通り無、無いものは無い、つまり無矛盾
無が〈有る〉ってのは否定される
ここで何故わたしたちは否定関係と規定したのかということになる
認識器官は物理条件でもある
光を媒介に認識器官の在り方に自然は像を結ぶ 諸生物により認識器官の態様は違う
光だけというのもある
それは物理条件が違うから違う像を結ぶというだけ
老若でも差異が在る 視覚聴覚とか
霞んで見えるというのは眼という物理条件の状態
静止は運動の一形態だが否定関係として像を結ぶ
生死は物理としては存在しないが生まれた、亡くなったと認識する
無は無いが認識器官には有る
科学の一面は認識の相対化でもあるんじゃないかと
つまり認識の在り方も考えるべきではないかということ
ではまた 視覚は認識器官という物理状態に光を媒介に像を結ぶ
ではそのままが自然と理解してよいのだろうかと素人は思うわけです
視力は人により違うし年代でも違ってくる
諸生物の視覚はそれぞれで自然の像は違う
でも対象自体は同じ
また静止は存在しないし、生死は存在しないし、これはさてと
繰り返します
理数系はやはり認識の在り方を追究しても良いのではないでしょうか 学問は学ぶことでもありますが問うことでもあります
何故?と問うことは重要ではないかと
座標原点は存在しませんがそれで運動を規定します
わたしは貴方ではありませんが生物としては同じです
生物は金属ではありませんが物理としては差異であり否定関係ではありません
わたしは物理として同一であることはありませんが同一で規定します
ウイルスは生物非生物と分類が困難ですが物理としては差異であり否定関係ではありません
若い時に歴史ものを読んでいて、この人たちは物理として遷移しただけで物理としてはどこかにあるんだなと面白く感じました わたしはゼノンの逆説、微分積分の説明、重力概念などがからきし理解できませんでした
けっきょく納得できる説明はありませんでした
実はまだそれらは未解決だったわけです
カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定などなど
観測問題、不確実性原理、不完全性定理が何を意味するのか
哲学に拘ると廃人になるとは哲学スレの投稿
実によくわかります
天動説は視覚的に真理です
真理は相対的だとも言えます
まだまだ問題は山積しています
それらを一元的に理解したいわけです
数とは何かもまたその一つです わたしの問題意識に興味が無い方に何を言ってもしょうがありません
板倉聖宣氏は「新哲学入門」で論理は静的だと規定しますがスピノザの規定は否定の方が本質的だと考えるようになりました
氏は観測問題の理解は放棄していますが、これには反対します
三浦つとむ氏は認識論から自己言及の在り方を解明しています
氏はマルキストですが、学問としてはともかく思想としては違うと思います
ちなみに板倉氏は三浦氏が師ですが、社会主義は科学の真理観から否定しています
山川偉也氏は「ゼノン4つの逆理」を著しこの逆説の性格を示しました
いずれにしても現在の学問を絶対化していろいろ裁断理解するのは如何なものかと
固定して理解することは重要ですが、また相対化することも重要なのだと素人には思えます
森鴎外らの大失態は当時の学問を絶対化したからです
四半世紀前に登場した「と学会」の学問への対応もまた鴎外的だと批判した科学者たちがいます
若い学徒たちがわたしたちの轍を踏まないようにと願います 自然は一であるというパルメニデスの主張をわたしは支持します
ピタゴラス学派の自然は多であるならとゼノンは逆説で否定します
数は認識の理論ではないかと
一を多で規定するということです
認識器官は真空、淡を像として生成しませんから自然は多として像を結びます
自然に〈ここ〉から、〈ここ〉までは存在しません
それは認識器官に結ぶ像です
多として認識する自然の抽象が次元です
0次元は存在しません
四次元が存在したら静止した自然が無限に存在することになりますし、また認識する人間も無限に存在することになります
今があるだけです
今とは運動であり物理にも伴いますから切り離せません
運動は静止、つまり有は無で規定しますから直接理解できません
0に限りなく近いが0ではないという規定は必然です
ですから量、四次元という観念の中にしか存在しない次元で捉えます
数はそのようなものとしてあり自然認識に端を発して無関係ではありませんが存在はしません わたしは現代科学の主流に疑問をもっています
最小単位は存在するのでしょうか
座標原点、〈ここ〉から、〈ここ〉までは否定できます
自然は濃淡の海では無いかと
自然は無矛盾ならば
ビッグバン学説は対象が宇宙非宇宙と否定関係が前提です
エネルギー保存則も否定します
光速度一定の原理が否定する絶対座標を否定、つまり始点があると主張します
証拠と言われる宇宙背景放射は違う理解が可能と天文学者が指摘してスムート博士は否定できないとコメントします
火星に運河を発見した天文学者と同じ過ちの可能性があるのだと
科学者はこのような過ちを犯します
酸素とか、一番有名なのは天動説です
ヘーゲルは天動説で理解された観測結果を地動説で理解しなおすことを止揚という概念で説明します
中身は掬うが形式を変えるわけです
いや、わたしは日本の学徒に新たな学問の革命を担ってほしいのです
混乱が目的ではありません
ですから、解決の視点の一つを提供しています
一つの試論でしかありませんから誤解なきように 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発の過程で新たな濃淡を生成する過程だとわたしは理解します
数は認識の理論です
一を多で規定する、否定で規定する
だから不確定性原理、不完全性定理、観測問題などなどが生ずる
それは規定するから、理解するからです
理解することが原因だということです
自然科学は自己言及です
自己を他として規定します
やはり認識の在り方を追究すべきなのだと素人は考えるわけです >>584
不確実性定理→不確定性原理ですね
校正しなきゃなあ
反省します 否定の為の否定ではなく前進したい
観測問題とか不完全性定理とか不確定性原理とかいろいろ納得したい
根源として人間とは何かってことを理解したい
それには自然とは学問とはを理解納得したいだけです
自分が真理だと信じていることに疑問を呈されるのは不愉快でしょうがわたしはそれだけです
理数系の人たちがわたしの疑問に答えていただければ幸いです
今のところ素人には現在の学問の基本が皆目理解できないのです
尊敬する学者は真理は単純であると述べています
わたしもまたそれに与します 一粒の麦でも良いんです
ただただ理解したいだけです
素人の疑問に答えられるほどには現代の学問は無いということでしょうか
理数系の方々はわたしなどより理解力があることは明白です
だからそのうちに答えてくれるのではないかと期待するわけです
敵対愚弄しているつもりはありません 納得したいだけです
それが実現するまで生きているかはちと自信がありません
素人の疑問を明快に解決策を示してほしいだけです
わたしは数そのものが存在しないと考えています
ひろゆき氏の理解にはかなり疑問があるわけです
それは認識器官に結ぶ像の抽象であり認識の媒介で存在しないのだ思えるわけです 地球球体説にも疑問があります
それは認識器官に生成された像なのではないかということです
たしかにある範囲では真理ではあります
地動説がそうであるように
現代科学の隘路を切り開く道は規定、認識の在り方を追究することではないかと素人には思えるわけです
少なくとも現在までは科学は認識したそのままが自然では無いことを示してきたのではないかと素人には思えます
科学は自然とその認識の在り方の自己言及では無いかと 人間とはという問いに対して科学は無慈悲な解答をする気がする
いろいろ基本的な学問渉猟するともうねって感じになる
ある学問の結論は無関係なわたしもまさにしばし呆然とした若き日の思い出
ある学者が四半世紀くらい前かな、テレビで人間はどこから来てどこに行くのかを知りたいと語った
意外と結論が出る前にあっちに逝った方がいいかもとその時に思ったりした
それにもかかわらず知りたいと思うのはサガかなあ 解けないうちが華かなとも思えます
様々な妄想が花開くのですから
様々な未解明事象がある内は学に携わる人たちは素人の妄言に耐えなければならない
個人的には基礎を確立すれば良いのではと思えますが
わたしにすれば矛盾の無い自然観から人間や学問を理解したいわけです
それが解れば素人の妄言は消え去るのではと思えます
わたしの理解も納得できる形で否定してもらいたい
自然が、人間が、学問が理解できればわたしの理解なんかは塵芥でしかなく一掃されてもなんとも思いません
・・・まあ少し残念かな w
第二、第三のニュートン、アインシュタインを切望します 小学生低学年、たぶん二年生だった頃地面に何か生き物がいるか探して空を見上げて、空の向こうに壁か何かあるのかな、外側には何があるのだろうかと考えたらなぜか怖くなり家に入りました
それから勉強すれば解るのかなと思い勉強しました
高校生の時に数学や物理の説明が理解できず立ち尽くしました
ゼノンの逆説に触れたからでしょうか
いろいろ考えても解らない、「零の発見」とか読むとますます混迷しました
物理学を読んだら重力の説明でつまづきました
いろいろ読むとけっきょく数学も物理学もその基礎はいまだしであることが解りました
つまり納得できる段階ではないということなのだと
とりあえずこれでやっていきましょう、それでいろいろ役にたつのだからということなのでしょうか
天動説でも役に立つ範囲はありますし
鴎外らの失敗もその時の学問を固定して変わらないと理解したことによります
ガリレオは地球が丸いのなら裏側の人たちはどうしがみついているのだいう批判にそれは後世の人たちが解決してくれるとしました
これはある意味特別なものは存在しない、無矛盾な自然観の裏付けがあるとも言えます
無限宇宙論はオルバースのパラドックスがあり否定的に扱われます
ただ有限宇宙論は自然が矛盾するということですし、エネルギー保存則の否定、光速度一定の原理の否定とか前提原理原則を否定するものです
ガリレオのひそみに倣えば、それは後世の人が解決してくれると主張できます
その時の科学を絶対化せず、また無矛盾という前提は守られるべきだとわたしは主張します
科学はそのように展開してきたのですから
関係ないですが
社宅みたいな家の前に野球やテニスができる場所がありました
時々そこでカエルが出没するんですが同級生たちと遊んでいましたら小学校の高学年男子がやってきてカエルを捕まえ腹を裂きまた糸で縫って解放しました
一部始終をみて一同呆然として見ていました
それを見て去っていきましたが得意だったのかなとも思いました
水に入ったらカエルのお腹に浸水しないのかななどと心配したことを覚えています >>576
・見境が無さが究極なパーフェクトファジィなだけなら
全き白なる無限小成分も無い全き0、全き黒なる単なる∞ではない取り零し無欠の全き∞
それら両極端を除く「間の値」に対して
白寄りか黒寄りか判断する事を「出来るが、自分のファジィ信念に基づき判断する事を拒む」ポリシーから
「間の値」に対して白寄りか黒寄りかを判断する事を拒む一方で
先述の、零の中でも無限小さえ含まぬ全き無として零と、∞の中でも欠失不在で完全無欠の∞の中の∞、この双方から成る
両極端に対しては如何にパーフェクトなファジィ脳な人間と言えど白か黒かの判断は着く、着けざるを得ない、何故なら
片や全き白は「黒が全く不在、無限小量の黒さえ含まぬ」故に白と断ずる他は無く
片や全き黒は「白が全く不在、無限小量の白さえ含まぬ」故に黒と断ずる他は無い
だがお前はパーフェクトファジィ人間でさえない。何故ならお前は
「規定は否定」を代表とした数々の『パーフェクトファジィ』以前の
全き白と全き黒に対する、ファジィ介在が本当に不可能な白黒判断に対してもファジィに考え
『規定は否定、否定は規定』と考えるお前なので『全き白は全き黒、全き黒は全き白』」と考え
矛盾の中の矛盾である完全な二律背反こそ
『“自然”の正体』であり『“人間”の実態』であり『“科学”の極致』と考える人間だからだ、お前は。 >>576
君は混沌にこそ真理が在ると思い込み、混沌に真理を求めている
六道 天道と人間道と修羅道の三善道と、畜生道と餓鬼道と地獄道の三悪道
『悟り』なる超脱つまり超越的解脱を果たせば仏道
六道最下層の地獄道の中でも最下層の無間地獄やコキュートスからも逸脱つまり逸失的解脱を仕出かせば外道、外道の過酷さは
ユダヤキリストイスラム三教共通唯一神のYHVHまたの名をアラーが定めた地獄最下層コキュートスや
仏道が中国を経る際にチベット密教から取り入れた最下層の無間地獄
その双方を併せ持ちながら、コキュートス的に全く身動きが取れないのに働かされる不可能労働
大天使長ミカエル超え最大天使だった堕天使長ルシファーをも遥かに凌ぐ元史上最大天使サタナエルにして最大悪魔王サタン
そのルシファーやサタンの本体が在る六道最下層地獄の中でも最下層の永久束縛コキュートス
そこからも落ちた外道、外道は弱き外道は強き外道に取り込まれ強き外道は更に強き外道に取り込まれ
取り込まれる事によりコキュートス同等の束縛をうけながら無間地獄同等の責め苦を味わう
つまり強き外道の細胞にされながら自分の意識は失神も気絶も遠退きもせずむしろ覚醒100%超えの
限度の無い青天井な責め苦を味わう苦界
ルシファーどころかサタンさえ味わわさない苦を味わう、邪悪な魔物でさえない
混沌でサタンよりも忌避されるべきサタンより憚れるべき愚物
それが君の求める真理
無宗教の俺だからこそ神や仏に遠慮や忌憚も無く語れる、地獄最下層をも凌ぐ苦界、外道
これは神や仏の存在を認める認めない以前に実在の苦界 >>576
ほら、抽象と具象の関連性に気を囚われ混沌とした思考を選び
「無関係であるはずがない」とか言い出す
そんな混沌思考を重んじてりゃあ、そらお前一人だけ矛盾に陥るわ わたしも抽象
数も抽象
いずれも認識器官に結んだ像の抽象
媒介があるが自然という対象からの抽象 有を無で規定するから0に限りなく近いが0ではないという不思議な定義になる
不確定性原理も運動を静止で、有を無で規定するから
で、測定値は近似値になるしかない
無は文字通り無い
金属、生物は差異であり否定関係では無い
どんな概念も出発点は自然
それも直接の自然では無い
認識器官という物理状態、物理条件に結んだ像
静止、生死、無は認識の在り方に結んだ像
次元もまた
幽霊もまた認識器官の在り方に起因する
規定は否定
そして規定は自然には存在しないことを科学は示す
わたしという他と否定関係は規定が否定だから
そしてわたしという規定は物理条件に結んだ像の抽象 自然は無矛盾
人間は自然の一部であり自然認識は自己言及
自己を他として認識する
有を無で 運動を静止で、などなど 自然は直接に理解できない
それは認識器官という物理条件に結ぶ像
次元があるはずも無し
そのままの自然を認識できるはずも無し
認識の在り方を理解する必要がある こう考えれば観測問題とかいろいろ解るということ
ビックバンとか最小単位説とかは怪しい
自然を無矛盾に理解したいだけ
数は認識器官に結んだ像の抽象
ゼノンの逆説、二律背反、ヘーゲルの運動規定とかいろいろ解決するからさ
次元は、終始は無い
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた新たな濃淡を生成していく過程
進化論も裏付けられるし
一元で理解したいだけ
規定するからいろいろ問題が出来する
ウイルスが分類困難なのは分類するから
規定理解することを認識する必要があるということ
絶対座標は存在しないということの意味
それで規定するがそれは存在しない
などなど
クレタ人の逆説は否定で規定するから
クレタ人が正直で、クレタ人は正直だとクレタ人が言う
この場合自己を他者として規定する
規定は否定ということは一貫する
根本として規定は否定
嘘つきの場合と正直の場合は少しまた違う問題があるけどとりあえず 自然は無矛盾
規定は否定
俺はこれでいろいろ構築するよ 互いに我が道をということで w
超ひもは崩壊する
ビッグバン仮説も崩壊する
虚数はある方が面白い理解をしていたな
かなり前だからなあ
いずれにしても根源は自然だよ そうそう誤解する向きもあるかも知れないので
超紐からできているのではなく超紐に成るということ
物理条件が可能ならそれよりも小さくなるということです
ビッグバンも単なる遷移でしかない
宇宙非宇宙なんて否定関係が対象には存在しないということ 若い時に夢中で読んだ本を最近読んだらやはり不満がでてきた
学問もまた過程としてあるんだなあと痛感した
基本を認識したい
相対の中の絶対をということです
そういや相対が絶対とか言ってたな
ただやはり認識と対象の関係がイマイチかなと思えた 読み直している最中でしぱらく離れます
ゴールは見えたと思ったら何回も遠ざかる w >>601
> 0に限りなく近いが0ではないという不思議な定義
いつまで高校生向け子供騙し定義に拘り続けてるんだテメェは?
院生や教授や授業の貴重な時間を無駄にしてる癖に
何で大学数学科での極限の定義や他の方法での極限の定義を知らない振りしてんだテメェは?
院生や教授や授業を邪魔した時間分を当人等に返せ、金で 仕切り直しです
わたしは無矛盾な自然からいろいろ考えたいわけです
学問、そして人間を
科学は無矛盾な自然理解にはすでに到達していると考えています
失礼なものいいですが、科学者が気づいていないだけで
自然科学は自己言及です
人間自身が自然の゜一部ですから
自己を他として認識する、このことが基本であり前提です
スピノザという哲学者は規定は否定としました
その前に結論らしきものを
新約聖書学というのが゜あります
これはプロテスタントがカトリックに対して優位性を示そうとして展開しました
で結論は教団初期は明らかにカトリックでイエスはキリストではなく思想として対立する可能性を示してしまいます
因みにバッハの代表作と言われるマタイ受難曲が基づいたマタイ福音書の成立過程はかなりイカガワシイ動機だったりします
でも思想としては高く評価されていると新約聖書学者は語ります
リヒターの映像版で視聴していましたら、バッハが苦手な母がだんだんのめり込んでついに三時間聴き入って聴き終えて、良い曲だねと言って台所に行ったのを今でも覚えています
ゲーテは偽物ほど人は熱狂すると言ったとかいう言葉を思い出しました
マルクス主義も三浦つとむという方が共産主義の実現を信じて学問を展開します
彼は言語学が主でしたが、社会科学も展開しました
その中で制度について論じましたが、お弟子さんの政治学者がその結論から共産主義は実現できないとソ連崩壊を予測します
七十年代のことです
数学も不完全性定理がありますし
けっきょくこれらは学者の意図に反した結論に至ります
新約聖書学を読んだキリスト教徒はそのことに触れると顔を真っ赤にしているのが判るような投稿をしますし、マルクス主義者も貸す耳をもちません
あれだけ社会実験を繰り返して成功例が無いのだから諦めろとある科学史家は語りますが信仰の域なんでしょう
先年ある物理学者が人間はどこから来てどこに行くのかを知りたいとテレビで語りました
いや、なんか不吉な予感がしてならなかったことを覚えています
でもまあ宗教者も結論を受け入れたことですし
宗教は人間が死ぬ限り不滅だろうと政治学者は語ります
共産主義幻想も不滅のような気がしています これまた失礼なものいいになりますが
ある院卒の方が不完全性定理でもってなにもかも解らなくなったと投稿していました
理系の方が不確定性原理について、わたしが不確定ということは確定しているではないかと反論したら納得できる回答はありませんでした
不完全性定理にしても、定理ということですから解らないこと自身は解るわけです
でないと定理にはなりませんから
詭弁を弄しているのではありません
クレタ人の逆説は、クレタ人が嘘つきならばクレタ人は正直者だと言わなければなりませんが、クレタ人は嘘つきだと正直にいうわけです
つまり嘘つきの否定、正直に言うので決定不能になるわけです
実は正直者でも否定で規定していることには変り在りません
自己自身を他者として、つまり否定で規定しているのですから
わたしという表現は自己を他者、つまり規定は否定なのです
まだ思案しているさなかですが、認識内部と外部の違いがあるかなとも思えますが納得できる結論は出ていません 科学の展開を概観すると否定で規定してきたことが実は差異であったということになるとわたしは理解します
地動説は地球は諸天体の一部で特別ではないことを示します
進化論も人間は諸生物の一部で特別では無いことをしめします
わたしもまた植物や金属が物理であるように物理存在です
で真空は何も無いかというとディラックの海があります
わたしは光速度一定の原理が絶対座標、つまり静止、始まりを意味する座標原点を否定しているから自然の存在形態は運動であり無矛盾だと示したと理解します
無は文字通り無だと
運動は存在しない座標原点、静止、つまり否定で規定します
始まりがなければ終わりもありません
自然は無限ですが有限、つまり否定で規定します
二律背反は否定で規定することです わたしの論は自然は無矛盾ですが差異としてあります
認識器官は物理でありその態様に従い自然はその像を結びます
認識器官の在り方により自然はその像が違うわけです
光しか受容しない認識器官もありますし視覚や聴覚の範囲は生物によりまた個体差もあります
それはあくまでもその認識器官の在り方に結んだ像でありどれが間違いとかいう問題ではありません
認識器官は自然をそのまま捉えません
静止、生死、無は自然には存在しませんが認識器官にに存在します
自然認識は自然の一部である生物、つまり自己言及、自己を他者として規定することです
つまり規定とは否定なのです
数には大きさがありません
それをゼノンは示しました
数もまた規定なのです
ひろゆき氏は実数は存在すると語りますが、自然は一であり多で規定するのですが数そのものが存在しません
認識器官には一である自然がその在り方から多として像を結びその抽象が数です
まだいろいろ整理していないので混乱があります
ただやはり数は認識の理論、本質として規定、つまり否定なのだとわたしは理解します
ウイルスは物理状態の差異を生物非生物という否定関係で規定するから分類困難になります
これは分類すること自身が引き起こす問題です
規定は否定です
わたしは規定することが様々な難問を出来させるのだと主張します
絶対座標の存在を否定して無矛盾となる
つまり規定は否定であり、規定は認識の側にあり自然には存在しないことにより自然は無矛盾であることを証明するのだと
自然を認識することがどういうことかを理系の方々は理解する必要があるとわたしは理解します
・・・まあ対象の否定ですから対象に在るわけもなしですが 0に限りなく近いが0ではないというのは有を無で規定するからだと私は理解します
座標原点、つまり静止で運動を規定します
対象である自然には静止は無い
有を無で規定しますからこの規定になるわけです
わたしはこれを決定不能と理解します 科学革命が必要なのだと語る科学者は散見します
ホーキング博士は最終に方程式にあと僅かとかたりましたが観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると語りました
ライプニッツは重力方程式に敬意を表しましたがその概念は魔術的と受け入れませんでした
現代科学の傾向について半世紀前から否定的な大科学者がいたりします
時間も重力もまだ理解されていません
いや学問はまだまだ発展途上なのだとわたしは考えています
そこに絶望も希望もあるのかもしれません
ただコペルニクス、ニュートンなどになれる可能性が理系の方にはあるわけで
数一般の理解もまた自然観の確立から導かれると素人は愚考するわけです いずれにしてもわたしは納得したいだけです
自然とは、人間とは、学問とはを
それ以外ではありません
癇に障る記述があったらご容赦ください
そういえばリドレー「進化は万能である」で学問、社会の展開は進化論同様にトップダウンではなくボトムアップだと論じていました
なかなか刺激的で面白い指摘です ひろゆき配信で承認欲求ないとか、金も使わないとか言ってるのに
毎回長時間配信する理由がしりたい ときどき、ひろゆきみたいなこと言う人に出くわすけど
そういう人に R[X]/(X^2+1)の話をすればCが実在すること理解してくれるわ それを話してわかるレベルの人なら、
ひろゆきのようなことは言わないよ。 〈ここ〉からは存在しない
つまり〈ここ〉までも
数、次元、粒子とかは存在しない
それで理解するがそれは存在しない
静止、生死、無は存在しない
規定は否定
観測問題、不確定性原理などの理解が可能ということ 数一般そのものが存在しない
現代科学の基本的未解決問題が理解可能ということ ゼノンの逆説は師であるパルメニデスの自然観の擁護
パルメニデスは自然は〈一〉であり〈多〉とするピタゴラス学派と対立した
ゼノンは競技場の逆説で時空に最小単位が在ればその半分が在ることを証明する
つまり自然は数で出来ていないということ
ピタゴラス学派は数には大きさが無いとした
ならば目的地には到達できずアキレスは亀を追い抜けないことを証明する
自然が点で出来ているのなら運動は不可能だと飛ぶ矢の逆説で示す
つまり数で自然は出来ていないということ
それは絶対座標の存在を否定した科学が裏付ける
しかし数で規定、理解することは否定していない
数は実在しないのだというのがこの逆説の示すところ
科学はパルメニデスの自然観を支持する 自然認識は自己言及
自己を他として、つまり規定は否定
数は存在しない
有を無、つまり否定で規定している
自然は無矛盾で理解可能だということ 数の存在は自然科学が否定している
自然は多ではない、一です
運動を静止で、生死は物理状態の遷移であり物理としては生滅は無い
有を無で規定する
〈ここ〉からが存在しないことは〈ここ〉までも存在しないということ
対象は無矛盾でなければならない
自然は無矛盾で理解可能だが、規定は否定
二律背反、ヘーゲルの運動規定、ゼノンの逆説などなど
不確定性原理、不完全性定理は否定で規定するから
観測問題は粒子は波の一形態
科学は認識の在り方を相対化して無矛盾な自然観を獲得した
絶対を相対で、つまり規定は否定 吉田さんの「零の発見」を読むと数学者のある概念についての理解に疑問を呈している
科学者でも時間や重力の存在に疑問を呈していたりする
天動説が典型で酸素を発見した科学者はそれが燃素説を否定していることに気が付かなかった
ガリレオは地球が丸いなら裏側の人はどうしがみついているのだという批判に対してそれは後世の人が解決してくれると言った
科学の展開は差異はあれど否定関係は存在しないことを示してきた
わたしは自然が無矛盾であることを示してきたのが科学であるのだと考えている
何を言いたいのかというと学者の発見したこととその理解は別だということです
わたし自身は自然科学との関係で数がどういうものかを理解したい
それは自然認識との関係で、つまり認識の在り方から理解されるべきだということです
自然科学は認識自身の自然存在を否定している
静止、生死、無は自然認識に必要ですが存在はしません
規定は否定です 学問に触れてきたのは自然、人間が解りたかったからです
数は認識の側、つまり存在しないのだという理解です
静止、生死は認識には存在しますが自然には存在しない
見たものがそのままの自然では無いことを地動説は示しました
それは科学の展開を貫いているのだとわたしは理解します
ビッグバン仮説は背景放射は違う理解が可能だという指摘がありスムート博士は否定できないとコメントしました
他の証拠も他の理解が可能だということです
何よりも対象が宇宙非宇宙と否定関係を想定します
つまり対象は矛盾するという理解です
エネルギー保存則も否定しますし光速度一定の原理が否定する絶対座標の存在が想定されています
オルバースのパラドックスにはガリレオのエピソードが参考になります
いずれにしても数が存在するというのは科学の否定ではないかと
それで規定しますが、それは認識の媒介であり存在しないのだということです
数には大きさが無いのです 学問に関してはディレッタントです
新約聖書学に驚倒してマルクスの方法論で共産主義は否定され数学は自身の無矛盾性は証明できないことにも似た悲劇を感じます
科学は規定することが宿痾だと告げたのだという結論ではないかと
だとしたらこれ以上の悲喜劇はないわけで
自由とは必然性の洞察とはヘーゲルの言葉ですが、 諦念もまた感じたりします
・・・まあ個人的な結論、自己満足です 去年今年貫く棒の如きもの
虚子だったんですね、失念していました
これも否定で規定していますが否定関係では無いことが指摘されているとも解釈可能かと w 結論は自然は運動するエネルギーの濃淡がまた新たな濃淡を生成していく過程だと理解しています
認識器官の在り方から淡は認識できず多として自然は像を結ぶ
一を多、つまり否定で規定する
自然をという自己を他、否定で規定する
本質として決定不能であることが決定しているのだという理解です 三行で
科学は否定関係で規定してきたのが差異であることを示す歴史
一を多で規定、つまり規定は否定
多は認識器官に結ぶ一、つまり自然の像でありその抽象が数
結論 数は存在しない 変れば変わるほどますます変わらない
変らなければ変わらないほどますます変わる
両方真理だ
アガサ・クリスティー ミス・マープルの言葉
変ることは変わらない
多は生成変化するが一であることは生成も変化もしない
自然は運動変化するエネルギーの濃淡の親和反発でまた新たな濃淡を生成する過程として在る
多は認識に結ぶ自然の像
それは生滅し一である自然は生滅しない
それは認識器官の在り方に結ぶ像
理数系は認識の在り方を考えるべき段階ではないかと ディレッタントとしてはここまでが限界のような気がします
ゼノンの逆説に出遭い勉強に挫折しました
以来理数系学問が皆目頭に入ってこなくなったからです
半世紀ちかくそれをどう理解したら良いのか彷徨いました
とりあえずは結論が出て満足しています
ヘーゲルもマルクスもきちんと読みたかった
周辺の著作は正直理解しているとは言い難い
精神の現象学とかも序文は熟読、本論は一回だけ
マルクスは反デューリング論の自然科学の章に衝撃を受けました
ちなみに資本論を分析し方法論をそこから産み出した物理学者は当時世界的物理学者たちが否定的だった中間子理論を支持しました
彼は産湯とともに赤ん坊を流すなと警告しました
まあ人は自分の能力でしか理解できませんし
群盲象を、ですか
現在わたしの信頼している学者知識人は共産主義には否定的です
社会もまた進化論的だと指摘するのは「進化は万能である」で指摘されています
共産主義はトップダウンで全知全能でないと、つまり無理なのだと否定しています
個人的にはこの自然、学問、人間理解の結論に納得しています
・・・まああまりぞっとしなくはないですが
あっ、資本論は始めのほうで挫折しました
一回でも読んでみたいのですが わたしはビッグバン仮説は崩壊すると予想しています
最小単位は存在せず超紐に成るというもの
物理条件が生成可能ならさらに小さい粒子、つまり渦となるという理解です
~に成るということです 現在取りまとめている最中ですがこれが難しい
今のところは一つ問題が残っているのですが見切り発車します
四半世紀前にヒントを得てこれで解決と思ったら次々と問題が
規定は否定ということを理解したのはつい数年前ですし
認識器官に結ぶ像の問題に気付いたのは半年くらい前ですか
二十年以上前にわたしに付き合ってくれたある理系会議室の方々には迷惑掛けました
より進展したわたしの理解を読んでいただきたいのですが、閉鎖して皆さんバラバラに
どこかで判るように発表したいのですが、仕方ありません
年齢もあり色んな意味で限界を感じています
とりあえず言いたいことは言えたかな
読んでくれた人もいると思います
その方々にお礼申し上げます >>631
つまり、ひろゆき氏の発言
「実数は実在するが虚数は実在しない…」は、そもそも数が存在しないので根本的に間違っている
「実数も虚数も存在(実在)しない」が正しい
と、貴方はいいたいのですか? 自然は無矛盾だと自然科学は証明したのだと理解しています
否定関係は存在しません
無は文字通り無だということです
以前の投稿を読んでいただければと思います
・・・まあくどいことは承知していますので御寛恕を 光速度一定の原理が否定されれば持論を撤回します
静止は存在しないのだということです
これだけが根拠だったりするので此処を殲滅してくれれば良いわけです
本当にこれだけなんです もちろん一試論です
自然が無矛盾ならばということです
そうすれば観測問題も解決できます
無矛盾なら自然科学は自己言及、否定で規定するということです
ならばゼノン、二律背反、ヘーゲルの運動規定、不確定性原理、不完全性定理は規定は否定という観点から理解可能だと考えています >>637
ただそれだけの事なのに
それっぽっちの事なのに
お前は他の雑多を極めた話も絡めて十数万文字も書いて何してんの?スレ潰し?
規定は否定なら
お前の思考も非思考
お前の認識も非認識
お前の感覚も非感覚
デスソース舐めて辛い感覚も辛くない感覚、何故なら規定は否定とお前は言ってしまったから 対象は無矛盾、理解可能だと自然科学は示した
だから自然科学は自己言及です
自己言及についての認識論の構造は述べましたので遡って下さい
有を無で、運動は静止で規定します
・・・ってまた繰り返しにしかならないな
思考非思考とかはいろいろ違うんですが
まあ理解する気が無いようだから放置します > 規定は否定なら
> お前の思考も非思考
フム、対象の自然は非思考
> お前の認識も非認識
対象の自然は非認識
> お前の感覚も非感覚
対象の自然は非感覚
確かに否定ですな
パチパチパチ >>644
さぁぁぁるぅぅぅいぃぃぃしぃぃぃ
第六天猿デカMaraオナホでシゴキおっPaっpiーyas大魔王他化自在天めぇぇぇ わたしは自然、学問、就中人間とは何かを知りたいだけです
わたしには数が実在するとは思えないのです
哲学、科学、などなど
とりわけ科学の展開は瞠目すべきです
ただ発見した事象の理解を受け入れても良いのかは躊躇します
科学は自然には否定関係は存在しないということを証明してきたのだと
無は存在しないのだ、終始は存在しないのだということです
粒子は存在しないのだ、生死は存在しないのだと
なによりも対象に自然非自然は存在しないのだと示したのだと
数学者にしても認識論から言えば疑問があるのです
どうしても納得できる理解には思えないのです
決定不能は決定しているのです
不確定だと確定しているのです
無矛盾な対象を否定で規定するからです
いずれにしても単純に納得したいだけです
それがわたしの目的なのです
揶揄とか冷やかしではありませんのでご了承してください 変れば変わるほど変わらない
わたしは変わらないところを確定したいのです
座標原点、終始、存在しないもの、無で対象である有を規定します
これは有効範囲があります
生死はどこからと指示できません
それは無いからです
運動を静止で規定する
物理として存在しないここからここまでと有効範囲は定められます
無限は有限で規定され 去年今年く棒の如きもの
これを探求発見したいだけです
まだ上手く纏まっていませんが、学徒の参考になれば幸いです
正統な学問から大きく外れた者の戯言に過ぎないかもしれませんが役立つことを切に祈ります 小学生低学年のの時に空を見上げてその向こうに壁があるのかな、その壁の向こうには何があるのかなと思い怖くなり家に逃げ帰った思い出があります
ヘーゲルは「哲学入門」だったか序文で対象を過程として捉えるべきだと記しています
学問も過程である意味完成はありません
わたしは単純に勉強していけば辿り着くのだと思っていました
いろいろ読んでいくうちに実は学問は未だ発展途上だということが解りました
かなり前から現代の学問の在り方に疑義が呈されています
現状を変わらないものと捉えると鴎外のように脚気の原因が究明できなくなるわけです
新たな学問の在り方を模索、つまり科学革命が必要な段階だと主張する科学者たちは散見します
わたしもまたそう思います
認識論分野では尊敬する三浦つとむ氏は真理は単純なんだと主張されていました
わたしはその主張に同意します
・・・まあ一ディレッタントの戯言と言われても不満はありません
ただやはりこれからの学徒にわたしの戯言を始末して欲しいのですが
まあ始末するほどのものでは無いと言われればそれまでです w 天動説は地球を中心に自然は運動していると〈見える〉というのなら真理です
それを自然の構造だと拡張したら偽になるわけです
太陽中心、銀河系中心もそうです
認識は基準、座標原点が必要だがそれは存在しないと科学は示します
認識はそういうことです
クレタ人の逆説はその中で直接否定で規定しています
クレタ人は嘘つきだとクレタ人がその否定、つまり真を述べるから決定不能になります
ではクレタ人が正直者なら、クレタ人は正直者たという命題は決定不能になりません
しかし認識の構造として、クレタ人は自身を他として、自己を他として規定します
つまり自己自身を規定することは根本的に否定ということになります
静止で運動を規定します
ヘーゲルは此処、今と指示すると此処、今は飛び去ると記します
つまり、此処、今という規定が運動の否定なのです
運動という有を静止という無で規定するからです
此処も今も運動を静止で規定している言葉です
運動は存在しますが、存在という規定が静止なのです
運動はその否定である静止で規定されます
科学というか規定自体が否定ということです
認識主体である人間は自然であり、自然科学は自己を他者として規定します
つまり科学は根源として決定不能なのですが、それは自然が無矛盾であり規定は否定だからです
理解可能であるが故に、無矛盾であるが故に決定不能なのだとわたしは理解しています
自然には規定は存在しません
規定は対象の否定ですから
決定不能だということは決定しているのです 数が自然に存在するという主張は自然は多であるというピタゴラス学派の末裔です
わたしは基準、ここからここまでは存在しないという科学が示すことは数が存在しないということだと理解します
パルメニデスの主張の裏付けであるのだと
多であるというのは、認識の理論だということです
多で規定するが、規定は否定ですから存在しません
ひろゆき氏の理解は根本的に過ちだとわたしは考えます タゴールという詩人は極めて単純極めて豊穣と歌います
スーパーのエスカレーターから二階と一階の商品を眺めていたらこれは全て同一である自然の差異としての物理状態であり、空間、自身も含めすべてがそうなのだという理解に目眩を覚えました
自然に存在理由はありません
自然はただ在るだけです
あっ、解決していないことを思い出しました
つごうが悪いのでここまで w 未解決問題を考えていますとある少女漫画の最後のコマを思い出したりします
いずれにしてもそれを解決したいのが今の生きがいだったりします
時間が無い気がしますのでいろいろ余裕がありませんがやり遂げたいです
では 自己言及は自己を他者として認識規定することです
自然認識はそういうことです
静止で運動を規定する、無で有を規定する
そしてこの認識の在り方と対象の関係で決定不能になる
一を多で規定する
認識器官は淡を認識できず多として自然像を結びます
その抽象が数であり次元です
四次元が存在したら無限の静止している自然と自身が存在することになります
四次元は有を無で規定、つまり直接には捉えられず量を媒介にするしか理解できないから必要になります
次元もまた存在しないのです
現在、現に在るものしか存在しません
そしてそれは無で規定されます
存在という規定もまた静止です 無限は有限で認識する
不完全性定理では有限を無限で、ということだと解説本にありました
無限は直接扱えません
いずれにしても規定は否定です ラジオ音楽の泉がウクライナ紛争で潰れましたか
故皆川達夫さんの軽やかな口調が快かったです
バッハ コーヒーカンタータ解説は女性の語り口が面白くて笑えました
二回放送したと記憶しています
学問も音楽も現実の前では副次的な存在ですがわたしなどには欠かせません
科学も含めてボトムアップだという指摘があり目から鱗というか生物も社会もボトムアップでありトップダウンではないとありました
人間は産まれた時はタブララサという理解は前世紀の遺物の様です
やはり特性があるのだということのようです
日陰でありながら法則性を認識することで人間は自由を獲得するということに学問は貢献します
それはともかく日曜日、安息日っていうのかな
イエスが畑の麦の粒を取り食べると労働だと言って咎められると人間の為に安息日がありその逆ではないという話があります
教条的なことに対する批判です
これは社会の決まり事ですね
まあ秩序を乱さなければということもありますし決まり事自身が社会に害を及ぼしたら改正するというこでしょう
禁酒法や社会主義は社会に混乱、停滞をもたらしてアウト
この場合は社会が基準ですか
いや認識問題にはいろいろあります
これは観念内の話かな
いろいろ錯綜してしまうなあ
整理しなきゃ
いずれにしても失礼な言い方かも知れませんが理数系でさえまだまだの段階なのではないかと一趣味人は思ったりします
ソ連崩壊を予想した政治学者は科学の足元に及ばない経済学にも政治学は及ばないと嘆きました
でも学問に携わる人たちはそこに希望も失望もあるのかなと外野には思えます
時として野次、時として応援したいです
いろいろ理解して生を終えたいのです
悟りたいのかな www 万物は流転する
食物は態様を変えて行く
周りの全てがそうです
自然はそのようなものとしてある
そして流転すること自身は流転しません
変化すること自身は変化しない
このこと自身は認識に属することです
規定するからこその決定不能です すいませんね
今纏めているんですが上手く行かなくて小休止しています
グダグダ書きすぎていることは承知しています
半年近く思案しかねていて、愚痴のはけ口になっている
申し訳ない
いや参考になればという思いもあるので免罪してください w
三浦つとむ 弁証法はどういう科学か
板倉聖宣 新哲学入門
山川偉也 ゼノン4つの逆理
直接の出発はこれらからです
三浦さんは自己言及の認識論的構造
板倉さんは論理とは
山川さんはゼノンの逆説がどういうものか
それぞれ参考にしました 個人的には日本からコペルニクス、ニュートン、アインシュタインの出現を期待する者です
エールになれば良いのですが
いずれにしても真偽を判断してもらい片付けていただきたいのです
真なら欣喜雀躍
偽なら当り前ですが消えるだけです >>656
タブララサで思い出しました
幼女はお人形に、男の子は自動車とかに行くとありました
猿もそうだとありました
ならばやはりフェミにもある程度枠があるようです
差別ではない区別は必要だということではないかと 一つの課題として教養とか頭が良いとかは何なのかということがあります
現在の学校制度の優等生が社会や歴史としての観点なら絶対ではありませんし
わたしの年代だと教養主義がまだ蔓延っていました
音楽評論で教養主義丸出しの評論家がいて反面教師として学びました
夏目漱石の「わたしの個人主義」では明治の知識人たちに、それは西洋の人たちが良いからと言っているから良いと言っているだけではないかと主体性の無さを批判していたりします
その批判は残念ながら現在にも届いているのではないでしょうか
ある思想家は日本の文化は海辺の砂の城のようなもので、海の向こうから波が押し寄せると洗い流されまた新たな城を築いているのが実情ではないかと書いていました
知人でFランも落ちた人は商売では上手いし人の扱い方も賢かったりする
どこで咲くかという話ではないでしょうか
ある程度は現行教育制度で学ぶ必要はあるわけですが
板倉氏は仮説実験授業を提唱し、その系譜は未だ連綿としてあります
いろいろ欠陥はあるのでしょうがわたしには魅力的に映りました
それはともかく人間はいろいろな面でまだまだであるのだと理解しています
たぶん科学は最先端なのでしょうが、その科学も基礎は未だに確立していません
そのことだけは認識する必要はあるのではないかと
・・・バッハはイカガワシイマタイ福音書に基づき大傑作をものします
学問はある基準設定で展開しますが、それを超えると偽になるとわたしは理解します
その枠の範囲でやれば良いということでしょう
関係ありませんが大数学者が俺にも音楽くらい出来ると作曲し指揮したら死ぬほど退屈したというのを読んだことがあります
真偽は判りませんが有りうるかな
医者よ汝自身を治せ 反省します
そういやフィルポッツにそんな推理小説がありました
この作家なかなか面白いです
お薦め
あっ、ルクレティウスは良いですよ
パルメニデスで補完する必要はありますが西洋の学者、知識人に多大な影響を与えました
ボッティチェリのヴィーナスの誕生だったかな、ルクレティウスの思想の移し替えだという指摘があり驚きました わたしとしては一試論を提案しているだけです
誤謬でもなんでも粉砕する価値があるのなら良いと思っています
パガニーニというバイオリニストは自身の技巧に酔っているところがありますが、見事な曲芸という印象で楽しいです
わたしもパルメニデスの自然理解に酔っているだけかも知れません
誰かが俎上にあげ見事に料理していただければと思っていますが
そうだパルメニデスにまた挑戦するかな
若いと時に触れたら皆目理解出来ませんでした
読む本一杯あるなあ 喋り過ぎですな w
でも日本の学徒に理数系の基礎を築いて欲しいという思いがあります
それは信じていただきたい
一趣味人の独り言ですが
纏められるかなという不安もあり、今まで考えてきたことを生でぶつけました
さてとまた挑戦してみますか クレタ人の逆説には正直戸惑いました
この納得できる理解は最近です
ある中学生向きの解説は、それは無いと思えたりしました
次元理解は解決したと思ったのですが、もう一枚噛ませる必要がありました
フラットアース論争で思い当たりました
なんかまだまだ出てきそうで怖いんですが、とりあえず
昔吉本隆明氏の「言語にとって美とはなにか」という本の批評でそこそこ著名な評論家が評したのが気になりましたが、けっきょく解りませんでした
どういうことか今でも気になります
芸術は古典ーロマンー印象ー抽象がアウトラインです
言葉は対象認識ですが名詞は認識主体は表現に現れません
感嘆詞は認識主体の感情表現で対象は表現には現れません
形容詞は中間でしょうか、認識主体の感覚表現と対象のバランスが取れています
芸術一般は対象と認識主体のバランスが推移していく
初期は表現に認識主体は表れない
だんだん認識主体が表現に現れてくる
ついには対象は表現には現れなくなる
いやこれも自己が対象ですから自己言及ですね
基本はこうだと思っています
AIは考えることが可能かということにははなはだ懐疑的です
それは人間の認識の置き換えに過ぎないと考えています
いや本質を理解したいだけです
科学認識は自己言及であり、自己を他者として規定するから決定不能になるのだと理解します
それは対象が無矛盾だからこそだということです
でなければ決定不能と決定することはできないのだと考えています 認識は自己言及ですね
いやいや、また深化できたかな
なんかいろいろ面白くなりました
自己言及は鍵ですね
というか基本ですか 自然理解は自己言及
認識に対する認識、自己言及
対象が無矛盾であることに起因する矛盾
まだいろいろ読まなきゃいけないようです
充電しなきゃいけないのは当たり前ですね 趣味人なんですが
日本人に学問というか科学革命成し遂げて欲しいんです
繰り返しますがわたしの自然観は運動するエネルギーの濃淡で親和反発で新たな濃淡が生成していく過程として在るというものです
最小単位も粒子も在りません
力も次元も存在しません
認識はその在り方で自然の像を生成します
数はその抽象です
規定は否定です
自然科学は自己言及です
認識の在り方を言及したのが認識論です
数学は認識の理論であり直接自然には関係しないのだと理解しています
おおまかにですが
意識は自己言及です
自然科学も自己言及です おい波動
科学に限らず哲学が矛盾律と対峙し続ける学問だって事は昔の学者も言ってた事だが
そこからお前はお前独自で話を膨らませてるわけだが
お前の膨らませ方はノッケから狂ってるぞ
まだ分からないか? 科学は否定関係で理解してきたことが差異であることを示してきた歴史だから
地球と諸天体、人間と諸生物
光速度一定の原理が何を示したかというと自然に絶対座標は存在しないことにより静止は存在しない、つまり自然の存在形態は運動ということとになる
自然は無矛盾であり、運動するエネルギーの濃淡が親和反発でまた新たな濃淡を生成する過程ということになる
認識器官という物理条件の在り方から〈一〉である自然は〈多〉として像を結ぶ
その抽象が次元であり数ということになる
自然はいわば海ということになる
数そのものが存在しない
〈ここ〉からというのは存在が否定されているのだから〈ここ〉までも存在しない
〈ここ〉からと〈ここ〉までは同一 人間は自然の一部だから科学は自然の自己言及
〈わたし〉という表現は自己を他者として認識した言葉
運動は静止、物理状態の変化は生滅、有は無でそれぞれ規定される
わたしは貴方でも金属でもないと規定するが物理としては否定関係では無く差異
わたしは運動変化が恒常だから同一であることは無いが同一の〈わたし〉
ウイルスは生物非生物と分類されるが物理として生物非生物は差異であり否定関係では無い
つまり規定は否定ということをこれらは示している 認識器官に結ぶ像としての静止、生死、無は自然には存在しない
認識の在り方を相対化してきたのが科学
座標原点は存在しないが座標原点、つまり静止で運動を規定している
規定は否定だから当然自然には存在しない
規定の存在を否定して自然は無矛盾であることを科学は証明した
規定すること、理解することが様々な矛盾をひき起こす
ウイルスは分類し難いが、それは分類、つまり否定できていするから
規定することが原因ということになる ディレッタント、素人の結論です
具体的にどこがおかしいのか指摘していただければ
生で、整理されていないから繰り返しとかあり、自分でもチト w
無限宇宙論はオルバースのパラドックスがありますがガリレオの逸話は参考になります
対象に宇宙非宇宙と矛盾したら理解は不能ではないでしょうか
エネルギー保存則、光速度一定の原理が否定されているビッグバン仮説にはちと
これも言及していて、それは遡って下さい
規定は否定という観点から、ゼノン、クレタ人、カント、ヘーゲル、不確定性原理、不完全性定理の一元的理解が可能だと主張します
観測問題もまた
たぶんこの認識の正否はかなり後にならないと判明しないと予測しています
でももの言わぬは、ですから
いや、かなり否定的な意見が出ましたので、概略を提示しました
繰り返していますから、書いている方もちと w いや一つちとナニな問題がありまして
書いていたりするとふと解決策が浮かんだりすることが多いので、似たようなことを何回か
申し訳ない
ブレークスルーは意外とあまり関心がなかった問題からということも何回かありましたので
むろんこれは素人の一試案ですので、真理とは言いますまい
叩き台としての価値があればとてもうれしいのですが
日本の学徒がこの理解をどう思うのか
とりあえず生のままで提示しました
完成形では無いのは迷惑ですよね
それは承知していますので御寛恕のほどを
ではまた >>599や>>688のレスは此れの事を書いたんだよ
_________________________________________
>>576: 132人目の素数さん [sage] 2023/02/10(金) 22:33:02.22 ID:9uGym0CW
自然をそのままで認識できない
数は認識を媒介にした自然の抽象
無関係であるはずがない
自然と無関係なんてそんなのは無いよ
幽霊とかにしても存在はしないが無関係ではない
いろいろ勘違いしていないかな
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
酷い。波動にとっては、充足理由律も、矛盾律も、未知の矛盾律も、発見される事が有り得ない矛盾律も、更には矛盾以前の理非律も、
全て一切合財が関係者だ。波動は般若心経の「空即是色 色即是空」を典型的な誤読している
空即是色・色即是空を典型的な誤読してるが故の「規定は否定・否定は規定」発言
ユダヤキリストイスラム最下層のコキュートス(首から下を永久氷床か永久氷壁か永久氷天に埋める地獄)や
仏教最下層の無間地獄にもユダヤキリストイスラムのコキュートスにも滑り止め出来なかった外道の迷言
無間地獄とコキュートスの苦しみを掛け算しても足らぬ外道界の苦しみ
迷言。正に波動のレスは迷言だ。真も偽も矛盾も全て見境なく関係融合体と見做す観念で今日も迷言を続ける
パルメニデスの言った『一』を過失拡大解釈。
『全て』は『多世界解釈上全世界下全宇宙』で『分類』すれば『1』であり『要素の差異』で『分類』すれば『∞』だが
いつも、波動は『分類』も『見境』もコロコロ論点シフトし
『全てが全てを“同一かつ別物”』なる完全無欠な真っ向矛盾こそ真理と信念し続け
答えが絶対に見つからない、新しい答えも発明する事が原理的に不能な、疑問の日々を重ね、迷言を繰り返し続ける
話の土俵を変えて同じ、と言い張る、波動の悪業は
理論と理論のシャムの双生児を量産する行為と戒めなければならない ・・・なんかもうね、としか言いようがない
脱力します >>669
インターネットが普及し始めた辺りの時代まで
デカルトやライプニッツの矛盾律の扱いを誤解したり
それらを正しく理解している哲学教授とかも
「科学は“数学や矛盾律の正しさ”を元に発展していった」的な文章で解説してたりしてたんで
矛盾律・即・真
と誤解し、波動みたいな無限ループ迷言地獄論説する一般人被害者もマイナー量産された
無論
“数学や矛盾律の正しさ”は舌足らずで『数学や矛盾律の回避または解消により至る理由律の正しさ』
が発言者当人や類似発言各者当人一同の本意で
全発言者とも誰も矛盾律を科学的真理などとは少しも思っていない、夢にも思っていない
波動の脳内思念は『刈り込み不足』で『関係』の土俵を別の土俵も持ち出して『関係する』と信念する糞味噌状態
波動は是非とも糞は糞、味噌は味噌で別分類である事を仕分けられつつ
両者を関係すると言うには話の中の分類の枠組みを広げる改竄つまり話の改竄を必要とする事に気付かなければならない
だが未だにラッセル&ホワイトヘッドの『プリンキアマセマティカ』とは真逆の道を往く波動
正に波動の信念する数学や集合論や論理学は『規定は否定』と唱えシャムの双生児にしてしまう
それどころか規定と否定をもシャムの双生児にしてしまう >>676
だろ、「『分からん』事が分かる」だろ?
波動の言ってる事は此の世の理屈にも彼の世の理屈にも引っ掛からない理非でしかないんだよ。何故なら
> 数は認識を媒介にした自然の抽象 > 無関係であるはずがない > 自然と無関係なんてそんなのは無いよ > 幽霊とかにしても存在はしないが無関係ではない
と、万物一切合財相関信念どころじゃない、存在万物および非存在万物一切合財相関信念、なんだから
波動、そんな事を言うなら
お前の全資産はスレ中の人間に関係してるんだから全部よこせ。俺達の全資産は少しもよこしてやらないけどな
こういう理屈が罷り通る。これが地獄道にも引っ掛からなかった外道に堕ちた者の責め苦 >>677
何を脱力してんだ?関係するんだろ?何でもかんでも関係する
数も非数も糞も味噌も何でも見境なく関係する、それが波動お前の理念
脱力して返す筋合いは無い…たあ、そっか『規定は否定』主義のお前からしたら有るも無いも同じだな
物の分別・事の分別を、その時々によって規定と否定の蝙蝠的なすげ替え詭弁で自ら迷いを濫造する波動の理屈
そう言えば、波動はコテハン『学問』だった時代から
『1は1であり1ではない』とか『定数は定数であり定数ではない揺らぎを有する』とか言ってたな
『人として軸がブレている』思考により『常にブレた論説を繰り返す』のが波動のスタイル
理念と言うか信念、確信が有ろうが無かろうが『信念する』事で
更に波動の軸をブレさせる論説は泥沼化に陥っている
それを仏教上の階層に例えて言えば『地獄道にも引っ掛からない外道に陥った者の思想』って事なんだよ >>678
( ^ω^)・・・
もうさあ笑うしかない わたしの予想は粒子は波の一形態
最小単位も次元も無い
力も無い
ビッグバン仮説は否定される
わたしの論理の帰結
なんだかんだで自然が検証する
予想で正否が決まるってこと まさかここまで書いてやって、未だに波動の他に>>576の壊れ具合が分からない奴が居るなんて事は無いよな?
>>681
いやいや、お前が導く世界だよ。現在のお前が、未来のお前自身を導いている世界、つまりお前が向かっている世界。
規定は否定、だの、この世に関係しない物は存在しない、だの言って
話の枠組みや土俵をコロコロすげ変え続け
お前は正に「A≠¬AでありA=¬Aでもある」「Aは集合Bと全く別の集合でありながら同じ集合」を主張し続けてるんだよ
論理的比較の話だったのに途中から集合的比較に改竄して「関係する」と言ってみたり
集合的比較にしたってAと全く別の集合Bを集合Aが別は別、って話だったのに「どちらも全体集合Uの中の集合」と
途中から集合比較のクラスを改竄して「どちらも関係する」と言ってみたり、と
何でもかんでも「全ての物事は関係する」と結論する事を大前提とした比較方法の改竄を繰り返し続けている
だから言ってるんだよ
「お前の『規定は否定』の理屈により『お前の金はお前の金でありお前の金ではない』、よってよこせ」という
『地獄道』でも起こり得ない要求が、普通に罷り通る『外道』の世界の物言いだぞ、って
波動の論説は学問ではない
「全ての物や事は関係している」と結論する為の詭弁講義に過ぎない 「お前の『規定は否定』の理屈により『お前の金はお前の金でありお前の金ではない』、よってよこせ」という
『地獄道』でも起こり得ない要求が、普通に罷り通る『外道』の世界の物言いだぞ、って
もうねぇ
話す気が無くなるわ 波動は物理としてのわたし、金属としての金を規定しているんじゃないのかな
わたしも金属も物理としてなら差異だな
私は金属ではないと否定で規定する
波動は物理の視点から考察している > 私は金属ではないと否定で規定する
これ、「私は金属ではないと否定で規定する」は「規定は否定」でも「否定は規定」でもないな
「私は金属ではないと否定」と否定した時の規定or否定
と
「で規定する」と規定した時の規定or否定
は互いに同列同ランクの規定or否定ではない
『規定により否定する事』≠『規定は否定』
同様に
『否定により規定する事』≠『否定は規定』
しかも、より正確に書けば
『規定により“各要素の肯定と各要素の否定”をする事』
同様に
『“各要素の肯定と各要素の否定”により規定する事』
に成る
そもそも 規定≠肯定 否定の対義語は規定ではない
つまり対義比較として本来の形に直せば肯定的規定と否定的規定
及び規定準拠肯定と規定準拠否定
とに別れる
これが波動の思考の刈り込み不足により細分化未達だった領域
規定の対義語は未規定か規定不在か規定不能かのケースバイケースで何れかに成る
規定の対義語の例がケースバイケースで変わる事なんて有り得ない、もしくは言い分けだ、と断言する人間が存在するが
数学では1÷0なんかが典型例で、未規定か規定不在か規定不能とされる
規定する例も有るには有っても強引にならざるを得ず
1÷0に解を敢えて強引にでも与える系は『体』(『身体』の意味でも『体裁』の意味でも無く
早逝の天才科学者ガロアが創始した群論の中で定義された『体』)の性質が失われる
波動に群論だの群・環・体だのと言っても誤解必至だから解説を省けなくなり余計に長文化する
群・環・体を見た事も聞いた事も無い人間が何で数学板に居るんだって言いたくなるのが数学板住人の人情だが
波動はズケズケと数学板に立ち入った余所者であり挑戦者ならぬ挑発者だ いや規定は否定だよ
ウイルス問題で解った
生物非生物とか
運動を静止でとか否定ですな
なんか無理矢理ですわ、あんた
曲解重ねすぎています いずれにしても波動の論理の成否は対象の自然が回答するでしょう
クロネッカーにならないために俺は静観するよ 対象をその否定、有を無でとかいう指南は刺激された
波動は気にせずに我が道を行くで良い
次の段階に進展したらまた来てくれ
今のところはリピートにしかなってない とにかく未解決問題がいろいろ理解できるんだよなあ
観測問題、不確定性原理、不完全性定理等
決定不能とは
波動否定は対案出さないとゴマメの歯ぎしりにしか思えん
否定するならやってくれないと >>690
ですね、自分でもくどいなあと思いますし
進展したらまたきます
たぶん纏めるだけになりそうですから来ないかもしれません w 学問はまだまだいろいろ問題があるということか
面白いじゃん
研究者というか学者は知的革命を為す可能性があるということ・・・かな?
やりがいがあり羨ましい 同類が増えただけか
同類過ぎて自演にしか見えんレベルに同類
揃って矛盾に気付いてない時点で波動だけじゃなく同類も理系ではない
規定は肯定と否定の織り成す『“規”則“定”義』であり
規定は規定対象と規定当人により様々に変わる故に
否定だけとも限らず、また、肯定だけとも限らず、更にまた
否定だけではないとも限らず否定ばかりから成る規定も在れば
肯定だけではないとも限らず肯定ばかりから成る規定も在る
「なにかいろいろ勘違いしてないかな」と発言した波動こそ
話の枠組みや土俵が違う先に話をズラし万物一切合財相互関係説を語る人間であり
自分の説の方を尊び、話の枠組みや土俵の方を盥回しにする「手段と目的の逆転」詭弁演説者である事が
波動本人のレス>>576より分かる
波動は「『関係しない物は存在しない』から関係している」説を是が非でも肯定するに当たり、
例えば対象Aと対象Bの関係無関係を論ずるに当たり、対象A自体や対象B自体の意味を拡大解釈する事は、余りしない
一方で波動は話の方の「枠組みや土俵」を「相互が関係するまで」「どこまでも拡大解釈」する事は常習で
「話の枠組みや土俵」を「相互が関係するまで拡大解釈」して見せて「関係しない物は存在しない」説を
論証する毎日を送る。
波動は、こんな主張に院生や教授を付き合わさせたと自慢していたが
こんな主張付き合わされた院生やら教授やらの時間の方が損失だ
波動の論法は『ゴールポストを動かし続ける』詭弁と同類の、完全な自説過保護だ
対象Aの意味や対象Bの意味の無際限な拡大解釈をして自説を過保護にするのも御法度だが
話の枠組みや土俵の方を無際限な拡大解釈して自説を過保護にするのも御法度 具体から抽象へ
その抽象が有効かは対象、この場合は自然で試される
わたしの理解を否定したいのならば、あなたの論理が自然理解に有効かどうかで示せば良い
粒子と同時に波というのは矛盾と理解される
だから科学者は悩んできた
ウイルス分類とかもそう
不確定性原理、不完全性定理、0に限りなく近いが0ではないという不思議な定義
ゼノン、カント、ヘーゲルなどなど
決定不能とは
これらを矛盾なく解答してくれれば良いだけです
それだけが必要なことです クレタ人の逆説もですね
これはかなり重要です
なぜ決定不能になるのか
これらはすべて規定は否定という観点から解答可能だとわたしは理解しています わたしの解答です
わたしは自然科学は既に自然を無矛盾に理解可能であることを示す原理法則を提供していると考えています
絶対座標は存在しませんから静止は否定され運動が自然の存在形態だとわたしは理解します
真空はディラックの海から、エネルギーの基底状態と理解出来ます
〈ここ〉から〈ここ〉までは存在しません
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発の過程で新たな濃淡を生成する過程として在ると理解します
わたしは貴方ではありませんし、植物でも金属でもありません
しかし物理としては差異であり否定関係ではありません
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが物理としては差異であり〇ー非〇という否定関係ではありません
これらは規定することが原因です
わたしは産まれてから現在、いやこの今も同一であることはありませんが同一で規定します
これも否定で規定するからです わたしはある物理状態から遷移してまた違う物理状態に遷移していきます
物理としては何も生まれませんし無くなりません
それは認識の在り方の問題だという理解です
静止、生死、無は自然には存在しないが認識器官には存在します
認識器官は物理状態であり、自然は認識器官の在り方に従い像を結びます
どれが正しいということではなく、その態様、有り方により差異があるわけです
認識器官には〈一〉ではあるが濃淡である自然の淡は像を結びません
ですから認識器官には〈多〉として像を結びます
自然は親和反発の過程で様々な濃の物理状態を生成します
様々な濃は認識器官には多として像を結び、差異を否定関係で規定します
科学は見たものがそのままの自然では無いことを示してきました
人間、植物、金属、そして真空でさえ差異なのです
否定で規定してきた自然は実は差異であり、物理としては同一、無矛盾であることを科学は示したとわたしは理解します 人間もまた自然の一部ですから、自然科学は自己言及ということになります
〈わたし〉という表現は自己を他として認識したものです
自然科学も自己を他として、つまり否定で規定します
クレタ人の逆説はこのことが原因です
日本人は正直ですと日本人が言った
この場合も自己を他として認識したものですから、否定で規定ということには変りありません
ゼノンはその逆説で自然は〈一〉であるという師パルメニデスの自然観を擁護します
自然が大きさの無い数でできているのなら、ということです
飛ぶ矢の逆説では点で出来ているのならば運動は不可能だと証明します
科学は絶対座標、つまり〈ここ〉からという点は否定しますからこの裏付けになります
運動は静止で規定しますが静止は存在しません
有は無で規定します
規定は一貫して否定なのです 有を無で規定しますから不確定性原理となります
0に限りなく近いが0では無いということは運動を静止で規定するからです
自然はそのままでは認識できません
だから測定は近似値でしかありえません
エネルギー保存則の破れが言われますが、自然しかありません
これは測定の本質の問題です
=で認識できるという理解が誤謬なのです
不確定と確定しているからこその原理です
決定不能と決定しているからこその定理です
規定すること自身が様々な問題を出来させます
ウイルス分類もそうです
わたしの解答は繰り返し述べてきました
貴方の解答がより納得できるものならわたしの解答はもちろん捨てます
できなければ主張しつづけます 天動説は地は動かず天は大地の周りを運動していると〈見える〉という意味では真理です
それを太陽系にまで拡張したら誤謬です
認識は基準を設定しますが、それらはある範囲で真理です
認識は相対的です
認識すること自身が様々な難問を出来させます
光速度一定の原理は座標原点はどこにも存在しない、つまり基準などどこにも存在しないことにより自然は無矛盾であることを示します
規定すること自身を否定しています
規定を否定して無矛盾であることを示します
有を無で、ということです
規定は否定なのです 自己言及が鍵だとわたしは理解しています
自然の自己言及
認識の在り方の認識、つまり自己言及
認識器官に結ぶ像の相対化という自己言及
自己言及の在り方を認識論的に追究した三浦つとむ氏は真理は単純だと述べています
自然は単純そのものです
規定もまた これらの問題がわたしが納得したい問題です
貴方の解答を示してください いずれにしても真偽は対象が決めるのであり論理ではないとわたしは理解しています
禁酒法にしても社会主義にしても説得力はありましたが社会は混乱したり停滞しました
板倉聖宣氏は論理では納得できるのに自然がノーと回答したら却下すべきだと述べます
わたしはビッグバン仮説は否定されると予想します
観測問題は無矛盾に解決されるでしょう
あなたの論理で予想してください
ここでの議論で決定するわけではありません
貴方は自分が正しいと思うことを追究すればいいだけです
わたしと貴方が真偽を決めるわけでありませんから互に我が道を行けば良いだけです 禁酒法も社会主義も理解が足りなかったとも言えるのかも知れません
現にマルクス主義者は制度を解明してそれで国家は解体できないと結論しました
共産主義は対象の在り方から否定されたとも言えます
その学者はソ連崩壊を予想し、その通りになりました
禁酒法もまた人間とその社会の在り方を理解しなかった
わたしの理解がノーならやはり理解が足りなかったのでしょう
いずれにしても未だ解らないわけですが
貴方もまた自分の論理で理解して、対象である自然の回答を待つべきかと思います
ここで違う違うと言っても、それは真偽の基準にはなりません
それはあくまでも対象が決めるのでありわたしたちではありません もしかすると学徒もいるのかな
わたしはディレッタントですから気楽なんですが横目で見る立場からは理数系の学問もまだまだなんだなあと思えます
それはある意味貴方たちが革命をもたらすかもしれないという希望ではないかと羨ましく思ったりします 人類もまた滅びます
地球も銀河系もまた
宇宙は滅びませんが
いやわたしは自然、人間を学問を通して理解したいだけです
自分の能力からしたら望外なほどの収穫でした
とりあえず無矛盾に理解したのですから、小さい時からの願いは叶いました
たぶん結果は見届けられないだろうなとは思いますが自己満足して逝くことにします 基本だけは抑えた結論のつもりです
って基本しか抑えられなかったとも言えます
これは現在の学の状況であり、革命があったら別ですが
・・・まあわたし自身は革命のつもりなんですが w
さて妄言はこれまでにして
学徒たちへの刺激になれば幸いです >>696
クレタ人による嘘つきのパラドクスは嘘つきのパラドクスとしては未完成
クレタ人による嘘つきのパラドクスは論理的にはパラドクスではない
例 Q1.1+1は2か? Q2.貴方は正直者か?
正直者 A1.Yes. A2.Yes.
嘘吐き A1.No. A2.Yes.
この例題のQ2をNoと答える者が存在する
正体は ¬正直者 と ¬嘘吐きだ。¬は否定記号。論理学的否定とは真偽解答を逆転させる事
¬正直者 A1.No. A2.No.
¬嘘吐き A1.Yes. A2.No.
この様に
¬正直者は普段は嘘吐きに等しい解答だが自己言及返答に成ると正直者に等しい解答をする者
(飽く迄も正直者の自己言及に等しい解答であって正直な自己言及返答ではない)
¬嘘吐きは普段は正直者に等しい解答だが自己言及返答に成ると嘘吐きに等しい解答をする者
(飽く迄も正直者の普段に等しい解答であって正直な普段解答ではない)
この様なイレギュラーが論理学的に存在する
よってクレタ人による嘘つきのパラドクスは
単に 嘘吐き=¬正直者 と勘違いした観念によるパラドクス解釈と成っているに過ぎず
実際は 嘘吐き≠¬正直者 正直者≠¬嘘吐き である
という教訓に過ぎない
3人掛かりで嘘吐きのパラドクスを組んで初めて、論理学的なパラドクスに至る
3人掛かりの嘘吐きのパラドクスについて知れ。 自己をその否定で規定するから逆説になるということ
再三再四述べたから
って理解する気ないでしょう w
自然科学も否定で規定している
そして規定は対象には存在しない
これが何を意味するのかは詳述している
わたしは論理ではなく対象が試金石と理解している
理解する気のない人には無駄だよなあ
いずれにしても具体的に見解を示したくは無さそうですので
対象との関係でなく、論理の中で遊ぶのは勝手ですからご自由に
わたしは真偽は対象に問うべきだと考えています
わたしは真偽を知りたいだけです 言っている地点が違うんだど
以前は仲裁者がいて納得してもらえたが
数学の論理そのものの相対化なんだけどね
・・・まあいいや
言っても解らないみたいだから諦めるわ >>710
やはりお前の矛盾観念の源泉はそれか
お前に感心したとか言ってた奴の正体を知りたい
だからお前のレスは『爆発律』が如し。素人哲学語りに逃げた大長編駄文レスを
何度も何度も書き続ける、正に『爆発律』だ。 > 言っている地点が違うんだど
『言っている地点』?『論点』って書けや
お前の様に論点をコロコロ変える人間をペテン師と言う
お前が自身の主張『互いに関係しない物は存在しない』を示す事が出来るまで
論点をコロコロ変えたり
範疇をどんどん拡大解釈したり
等と話をゴールポストを自分の主張の都合が合うまで動かし続ける事をペテンと言う 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ動(ゆる)がるれ >>713
自身の理解の正否を問う気はないんだなあ
なにをもって正しいとするのかという問題意識が皆無ということ
学べば良いと思っている
なぜ科学革命が起きたのか
秀才はその現在の学の状況を固定化するから失敗する
一生勉強だけで過ごすのかなあ
学の一側面は学の相対化の歴史とも言えるんだが
まさに現代の鴎外だな
相変わらず未解決問題はスルーだし
答えられないのなら無視するだけ ああ言えばこう言う合戦はなあ
俺は論理は対象から抽象され生まれると理解している
その正否はあくまでも対象が決めるのだと
静止は存在しないが静止で運動を規定する
生死は存在しないが生死で対象を規定する
それが何を意味するのか
考えたことがないのなら
いや提言も無駄だな
学ぶだけならAIの方が w 爆発律に基づいてるので理解して欲しい事たった1つを語るだけでも無限の要素が見えてしまい語り尽くせず
脳内のネタ切れを迎えないと語りが止まらない
その上、語ってる本人は察してちゃんの長文語り
(尚、察してちゃんにも関わらず相手に分かる気が無いんですねの、丸で末っ子の如き尽くして欲しい根性)
パルメニデスの唱える逆説、『一』と『全』の両面性を消化不全のまま
『科学はまだまだって事です』とほざく不遜発言を繰り出す愚か者
数学ならパルメニデスの逆説が指摘する二面性は、二面の性質を同列にしない事は勿論
それぞれの性質を同じ場面に於ける評価とする事はせず、集合論に基づく仕分けにより、それぞれ区別して解釈できる
パルメニデスの逆説は「『全』である『宇宙』は『一』である」と要約できるが
『宇宙』が『全』であるのは『要素(の数)』であり、『宇宙』が『一』であるのは『全体(の数)』
と、この様に比較基準を明確かつ細別に定める事で、結果の違いを論点の区別を以て仕分けする事ができ
『一』と『全』の区別も
『肯定』と『否定』と『規定』と『未定』と『不定』の区別も
きっちり付ける事ができる
波動は逆に、よくパルメニデスの逆説に不確定性原理や不完全性定理の名前を出して更に混沌を深めるが
確かにパルメニデスの逆説に不確定性原理や不完全性定理を絡めて語ったり関連付けて講じる事は可能だが
そもそもの原義としてはパルメニデスの逆説も不確定性原理も不完全性定理も全て別物
特に不確定性原理に対する波動の解釈は誤解過ぎかつ拡大解釈過ぎで物理学に携わる人等にとって噴飯物だし
不完全性定理に対する波動の解釈にしても誤解過ぎかつ拡大解釈過ぎで数学に携わる人等にとって噴飯物だ
誤った不確定性原理解釈、誤った不完全性定理解釈で、院生や教授に絡む波動。正に公害 いやいややってみるものですね
フラットアース説批判のスレでは認識器官の在り方に自然は像を結ぶのだと気が付いた
ここでは自然理解のある視点を獲得できた
というか本質の敷衍なんだけど、やはり原理の徹底というのは凡人には甚だ困難だと思い知らされた
ヘーゲルの精神の現象学とか読んでいると、この若さである原理から展開するというのはやはり凄いと以前痛感させられた
ドイツ人の徹底性もあるのかなと勝手に思ったりしていた
新約聖書学のブルトマンなんかは自己の信仰もぶち壊して学を展開していてなんだろうな、この民族はと驚嘆した
数学のゲーデルはどうなんかなと
ヒルベルトも挫折から再起するし
日本では三浦つとむが共産主義実現のために学を展開するが弟子の滝村隆一は師の学の展開から共産主義というか国家は不滅と結論してソ連崩壊を予想した
彼は後年新しい思想をと苦闘した
最近「進化は万能である」という著書の中で、トップダウンではなくボトムアップなのだと指摘していて、この方向なんかなと思い始めている
それはともかく数は認識の側であり対象である自然には存在しないのだとわたしは理解している
この理解の正否は自然科学が示すでしょう
自然が無矛盾なら〈一〉であり〈多〉ではない、つまりパルメニデスは自然、ピタゴラスは認識の論理なのだとわたしは理解している
上にあったように自然の在り方と認識の関係から理解してその一環として数を理解したい
・・・昨日眠る前に、原理を徹底していないことに気が付かされた
また新たに書き直しだな
何回か書き直しているが原理そのものは同じで、徹底がたりない
まだ出てくるかなあ 端的に
観測問題、不確定性原理、ウイルス分類、不完全性定理、ゼノン、クレタ人、カント、ヘーゲルなどは規定するからこその問題
光速度一定の原理はこれらを一元的に解く鍵だということです
対象とそれを理解することが何かを示しているし自己言及ということだと 哲学スレでかなり前に静止は自然には存在しないと書いたらボールを上に投げれば静止するじゃないかという反論があり、地球は運動しているじゃないかと返したら沈黙
理系会議室で人間の生死の分岐点は解らないという反論を受けたが物理として生死は存在しないのだからと返したら理系一同沈黙
・・・まあわたしもやらかしたことがありますが w
いや、言いたいのはわたしたちの学問の現在はまだまだでそこからすべてを裁断理解すると鴎外やラプラスのような過ちを繰り返す可能性があるのではないかということです
わたしは科学の歴史的展開を概観すると一面としてですが、否定関係が差異であることを示してきたと理解します
ガリレオの自然理解に対する地球が丸いなら裏側の人はどうしがみついているのだという反論にそれは後世の人が解決してくれると答えた
歴史はガリレオの正しさを証明します
彼はその時の学の認識を絶対化しなかった ここまでは枕です
いや、競技場の逆説は最小単位が在るのならその半分があるということを証明しています
これは物理条件が生成可能ならばいくらでも小さい物理状態、わたしの理解で言えば波が渦の状態、像としては粒子として像を結ぶということですが、それが生成するということです
超紐は最小単位ではないし、もともと最小単位は存在しないのだということです
二分の一、アキレスと亀は数に大きさが無ければこのようなことになりますが、ということです
これは有を無、つまり否定で規定するということですが、もともと規定は否定、つまり空間は無、数でできてはいないということです
数学は認識の理論です
飛ぶ矢の逆説は有を無で規定していることの端的な指摘です
点、つまり座標原点は存在しないことは科学は証明しています
運動とは存在すると同時にしないことという定義は否定で規定するから決定不能になるということです
有は無で規定されますから、数学では0に限りなく近いが0ではないとか様々な理解しがたい定義を展開してきました
吉田さんの「ゼロの発見」では数学者の理解に疑義を呈しています
・・・また読んでみますか
対象は否定で規定されます
数一般が存在しないのです ふと夜中にゼノンと物理、数学の関係に対して新たな展開が閃きました
ひろゆき氏にはお礼言わなきゃな
フラットアース説批判のスレでも収穫がありましたし
やはり様々な問題に触れると前進というか漸進はあるものです
「新哲学入門」の論理の性格の指摘、「ゼノン4つの逆理」、そしてなによりも「弁証法はどういう科学か」の自己言及の認識論的解明がさまざまな問題の本質だということにやっと気が付きました
自己の理解が正しいかどうかはまだまだ先でしょう
たぶんそれまでは生きていない予感があります
いや、ここで今までの理解を書いていたら、また進展がありましたので嬉しくてついつい w
では >>721
実に、ああ言えばこういうの典型
相手が学者や学生だから黙ったが昔堅気武闘派の職人だったらお前は凹々にされていた 概論です
光速度一定の原理は絶対座標が存在しないことにより自然の存在形態が運動、つまり無矛盾である、〈一〉とするパルメニデスの自然理解を裏付ける
認識器官の在り方から一である自然は多として像を結ぶ
その抽象が数であり次元
数は認識の側であり自然には存在しない
静止、生死、無が存在しないように
数には大きさが無い
規定は否定
だから不確定性原理、不完全性定理
決定不能、測定の近似値、観測問題などなどは認識の在り方であり、見たものがそのままの自然ではないことを科学は示してきた
自然は無矛盾であり自然科学は自己言及
自己を他として規定する
数とは何かはこのことを前提に理解すべきだとわたしは主張する
ひろゆき氏の理解は違うとわたしは結論する わたしは自然、学問を通して人間を理解したい
生とは何かという >>729
テメェ、よぅ?果たして本当にハイゼンベルグの不確定性原理とゲーデルの不完全性定理を理解して>>720を書いたのか?
分かりませんでは済まされない主義主張しといて
まさか今さら分かりませんとか言わねぇよなぁ?
ゲーデルの不完全性定理の他にゲーデルの完全性定理なんてのも有るの、ちゃんと熟知して言ってんのか? 互に礼儀だけは守りましょう
いくら匿名でも
わたしは学問の現在はまだまだの段階ではないかと理解しています
不確定性原理は確定しているからこそ原理です
不完全性定理もまた決定不能と決定しているからこその定理です
不完全性定理をもってなにもかも解らないのだと早稲田数学科の院生は語ります
それでは定理ではないのでは?というのは当然の疑問です
失礼ながら理数系の方々はこれらが何を語るのか、未だに理解していないのではという疑問があるわけです スレの主題は数とは何かです
ゼノンは師であるパルメニデスの自然観、つまり〈一〉という理解を擁護するために逆説でピタゴラス学派に応じます
競技場の逆説では最小単位があるとすればその半分があること、つまり最小単位の存在は否定されます
二分の一、アキレスと亀では大きさのない数が自然に存在したら目的地に到達することはなく、アキレスは亀を追い抜けません
飛ぶ矢の逆説では点で自然ができているのならば飛ぶ矢は静止していると論証します
自然は数ではできていない、〈一〉なのだとゼノンは師の自然観を擁護したのです
光速度一定の原理は座標原〈点〉は存在しないと示します
パルメニデスの自然観はこの原理で裏付けられたのです 科学者も光速度一定の原理が何を意味するのかは未だに理解していません
〈ここ〉からは存在しません
このことは〈ここ〉までも存在しないこととなります
〈ここ〉、始点は終点でもあります
自然には終始は存在しないのです
ビッグバン仮説はなによりも対象が宇宙非宇宙という否定関係を想定しますしエネルギー保存則、光速度一定の原理を否定します
証拠とされる観測はいずれも違う理解が可能であり決定的な証拠とは言えません
この仮説は天動説の末裔なのです
地動説は太陽が中心だとすれば間違いです
しかしこのことは論理の性格を物語っています
天動説もまたそう見えるというのならば真理です
それが自然の構造だと理解すると間違いということです
光速度一定の原理は座標原点は理解に必要だが存在しないのだということを示します
数は存在しないのです
規定は否定なのです、有は無で規定されます
クレタ人の逆説で解るように否定で規定するからこその決定不能です
クレタ人が正直者でも、自己を他として規定します
様々な例で規定は否定だと例証してきたつもりです
自然は無矛盾ですが、有を無で、つまり否定で規定します
規定することが決定不能となるわけです
ですから光速度一定の原理は規定は自然には存在しないということとなります
不完全性定理、不確定性原理の出来原因は対象をその否定で規定するからだとわたしは理解しています
数は存在しません、無なのです
有を無で、ですから決定不能は必然なのだとわたしは主張します
数は存在しません あっ、クレタ人の逆説を書いていたら面白い視点が見つかりました
しばし休憩を クレタ人の逆説に初めて触れた時には吃驚しました
いや書いていて、あっと思うことに気が付きましたので
また新たな展開が出来そうなので
先日もゼノンの逆説の一側面が解明できて
というか秀才というか鋭い人ならすぐ指摘している可能性があるなと自分のボンクラさに嘆きました
ドイツ人というか欧米人なんでしょうか、その徹底性に驚くことがあります
新約聖書学は自己の文化の成立根拠まで否定するような結果を引受けるのですから、信者でもないわたしは驚きました
机の前で呆然としたことを昨日のように覚えています
マルクス主義も展開していた学者が成立しないことを暗示していて、この主義に引導を渡します
これは日本人ですが
いや、物理学は人間の根幹に触れるんだろうなと
そしてそれはかなりヤバそうな予感がします クレタ人の逆説は対象をその否定で規定すると決定不能になることを示します
科学は自然認識は自己言及ですが、自己言及は自己を他として、ということです
つまり規定の根本が否定なのです
クレタ人が正直者で、クレタ人は正直者だとクレタ人が言ったと規定したら決定不能にはなりません
しかし自身を他として言及するのですから、自身はクレタ人であってクレタ人ではないという決定不能となります
アガサ・クリスティはミス・マーブルに変われば変わるほどますます変わらない、変わらなければ変わらないほどますます変わると語らせます
自然は運動変化していることが変わりません
自然自体はずっと存在しますが、運動変化し続けます
これも決定不能ということです
ヘーゲルの運動規定は存在すると同時にしないことという不思議な定義です
これは規定の性格が否定だからです
運動を静止で規定するからです
規定は否定だから決定不能となるわけです
決定不能と決定するわけです
これは対象が無矛盾だからです
だからこその定理です
この定理をもって何もかもわからないのだと理解する人たちがいます
いや、わからないということは解るのです 光速度一定の原理は座標原点、つまり運動の否定である静止は存在しないと示します
規定は対象の否定ですから、対象には存在しません
論理は対象には存在しないのです
次元は認識器官という物理状態に一である自然は多として像を結びますが、その抽象なのです
濃淡として在る自然の淡を認識器官は無として像を結びます
見たものはそのままの自然ではないのです
これが科学が貫くものです
地動説はその指摘の嚆矢です
諸生物、そして金属、空間でさえ否定関係ではなく差異です
それを否定で規定します
静止は運動の一形態ですし、生死もまた物理状態の変化という視点からは同一ですし、無もまた有の一形態なのです
そして規定こそが様々な問題の出来の原因であり、自然は無矛盾である子は規定を否定して示されます 以前クレタ人が正直者ならこの逆説は成立しないことに気が付き、このことは何を意味するのか悩みました
論理は静的だと板倉氏は指摘します
科学史が本職の方であり、天動説は視覚の範囲では真理だと指摘されていて目が覚める思いを体験させてくれた方です
いや、相対的真理というか基準の相対性ということです
光速度一定の原理は基準を設定し規定しますが、その基準は存在しないことを示します
そしてその基準、規定自体を否定して無矛盾であるということが示されます
規定こそが宿痾とも言えるわけです
クレタ人が正直者でも、自己を他として、つまり規定は否定ということは普遍なのです
クレタ人は嘘つきといった場合とクレタ人は正直だという場合は違いますが規定は否定ということでは同じです
前者は直接に、後者は本質として決定不能ということです わたしは学の現在はまだまだ、つまりこれからも発展すると理解しています
失礼を承知で言えば科学者も数学者も認識の在り方を少しでも探求すれば新たな発展の道は拓かれるのだとわたしは主張します
科学者は光速度一定の原理が自然と認識の在り方の自己言及だとはまだ気が付いていません
数学者は数の本質にまだ気が付いていません
科学者は哲学を軽視するが、その実粗末な哲学に囚われているとある学者は語ります
現在にまでこの言葉は届いているのだということです
何事も初歩が一番難しいとその学者は語ります
実に単純なことなのだとわたしは主張します
自然は無矛盾であり、それを否定で規定している
規定自身の性格を理解すべきなのだということです わたしは自然を理解したかった
自然はただあるだけなのです
それだけなのです
理由も何もなくただ在るだけなのです 自然は運動変化するエネルギーの濃淡であり、その親和反発でまた違う濃淡を生成していく過程としてあるだけです
このことは変わらないのです
この濃淡を規定するものとして数は観念の中に存在します
自己を他者として、そして認識器官の在り方に多として像を結ぶ
その像の抽象が数ということです
数一般が存在しないのです
・・・あっ、また厄介なことに気が付きました
少しまた本を読みますか 自分の探求してきたことが次世代に役立てればと思っているだけです
個人的には自然とは、学問とは゜、人間とはということに手がかかったと思っています
わたしの知の目的は少しだけですが実現しつつあります
十代後半に途方にくれましたが、日本の学の現在はそれを可能にしたのだと感謝しています
三浦、板倉、山川諸氏の案内が無ければ廃人になっていたことでしょう
そういや「言語にとって美とはなにか」を著した吉本隆明氏に廃人の歌というような詩がありました
関係ありませんが、永瀬清子氏に短章集というのがあり読みましたが詩ではこの人のだけ夢中になりました
わたしの当時の感覚に合っていたのでしょう
それはともかく学の展開に携わっている方々の一助にでもなればと願っています
日本人に学の革命を実現してほしいのです 我ながら纏めるのが下手と感嘆します
でも同じことを何回も展開するとその中でまた違うことが発見できるんです
96年に気が付いてからですから27年経ちます
深化はしているつもりですが、わたしが他人なら付き合いきれないと思えます w 自然科学の歴史は否定関係と規定していたことが差異だと示してきた
そして規定すること自身が決定不能をもたらすのだと
フォイエルバッハが自己言及の在り方に気が付く
遡るとクレタ人、カント、ヘーゲルということになる
スピノザは規定は否定とした
数学もまた不完全性定理が示す
科学は観測問題、不確定性原理
ウイルスの分類問題
地動説も進化論もその系譜
光速度一定の原理は単純明快だが、ここからは以上のものが導ける
ゼノン・・・
そして認識器官という物理状態に結ぶ像としての静止、生死、粒子、無・・・
実に単純な話 あと一つが・・・
うーんと、やはり見切り発車かなあ >>731
やはり、ハイゼンベルグの不確定性原理に対してもゲーデルの不完全性定理に対しても
全き自己解釈で理解した気に成ってやがったな
結局、ゲーデルの完全性定理に関しては調べる事もスルー
潜在意識で調べる事を拒んでスルー クレタ人の逆説に囚われたコイツは『正直者のパラドクス』を知らない 自己言及は試金石
現実は幻である
では貴方も幻
現実は脳の作り出した幻
では脳も幻
シミュレーション仮説もまた自己言及すれば
すべての欲を捨てましょう
わたしたちは諸欲の結果の産物で、またそれでいろいろ維持をしている
自然は次元でできている
そうならば無限の静止した自然と、貴方も自然の一部だから無限に存在することになります いずれにしてもその否定で規定することで決定不能となる
自己を他として規定する
クレタ人が自己自身を嘘つきと正直に規定、つまり否定で自己を規定するから
クレタ人が正直者だとする
この場合もまた自己を他者として規定している
一貫して規定は否定 わたしは規定は否定だと主張している
生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語る
生物は同一であることはないから
というか物理そのものが同一であることは無い
それを同一で規定するから決定不能に
生物非生物と否定で規定する
これは物理状態の差異を否定で規定するから
宇宙もまた同一であることは無い
そして変化することは変化しない
非同一であることは同一
そうなんですよ、ミス・マーブル、貴女は正しい 自然理解は自然の一部である人間の自己認識
自己を他者として、つまり規定は否定
規定の本質は否定と理解している
そうではない場合を示せば崩壊します
数には大きさが無い
無いものは無い
対象の抽象ですから存在しません
自然という有を無で規定する
運動は静止で
物理状態の差異を否定で規定する
科学は否定で規定している対象が差異であることを明らかにしていく過程でもある
焦点はここだけです
対象である自然を認識器官という物理状態に結ぶ像で規定していく
見たものがそのままの自然ではないことを示したのが地動説
しかしある基準で対象を認識規定していく
基準は必要だが存在しないことを科学は示す
有を無、つまり規定は否定です わたしは数は自然の抽象であり存在しないと主張する
自然という有を数という自然の抽象、つまり認識器官に結ぶ像の抽象、つまり存在しない、無で規定しているのだと
運動は静止で規定している
ひろゆき氏は実数は存在すると主張する
いや、数そのものが存在しないとわたしは主張します
なんかいでも言います
自然が無矛盾であるということは規定そのものを否定していることで示されます
座標原点は自然には存在しませんがそれで対象を規定する
〈ここ〉からが無ければ〈ここ〉までも自然には存在しません
有限の存在を科学は否定します
無限は有限で規定しますが存在しません
カントの二律背反はそういうことで
ヘーゲルの運動規定もまた
規定は否定です
対象の否定ですから対象には存在しない
科学はそれを示したわけです
それによって自然は無矛盾だと示しました
自己規定は自己を他として、つまり本質はやはり否定なのです 何回目かな、同じことを書くのは w
不確定性原理にしても本質は規定は否定ということに基づきます
有を無で規定しますから、測定は近似値ということが必至です
規定は否定、運動を静止で規定します
今、此処と指示すると、今、此処は飛び去ります
今、此処と運動を静止で規定するからです
関係ないですが石田姉妹の妹が太宰治の「女生徒」朗読で、今、此処はと同様なことを呟く場面があり声質が合っていて録音消したことを後悔しています
いずれにしても論理は対象の抽出です
真偽は対象で決まります
対象がノーと言うのなら抽出した論理ないしは適用範囲の逸脱でしょう
規定は否定というのは論理の自己言及かな?
あっ、面白いかも クレタ人の逆説は規定は否定であり決定不能とならざるを得ないことを示します
自身もまた他、つまり否定で規定する
自然の一部である人間が自然を他として規定する
本質として否定であり、無矛盾は規定が対象に存在しないことで示される
ウイルス分類の困難さは分類するからです
つまり分類が分類困難の原因です
自然が無矛盾であることは規定は自然には存在しないことでしめされます
規定こそが観測問題、不完全性定理、不確定性原理、クレタ人、ゼノン、カント、ヘーゲルの問題の本質ということです
それは規定するからこそなのだと主張します 認識論の分野では第一人者であろう三浦つとむ氏は真理は単純だと主張します
わたしもまたいろいろ読み、問題を考えていくうえで実感しました
言語は対象ー認識ー表現というのが本質と氏は述べます
科学認識もまたそうです
氏は観念的な自己分裂、つまり自己を他として認識するのがわたしという表現だと理解しています
理数系の方々は少し認識論を嗜んだほうが良いのではないでしょうか
何回でも言います
数そのものが存在しないのです
ひろゆき氏の主張は過ちです ルナールはその著作で、蛇長すぎる、と書きました
わたしのも長すぎるというかなんというか w
ではまた 規定の在り方は認識器官に結ぶ像に規定されます
認識器官は自然をそのまま反映しません
静止、生死、無は認識器官には存在しますが自然には存在しません
その在り方を相対化して、それが差異であることを科学は光速度一定の原理で示しました
この原理は同時に静止で運動を規定することを示します
運動を前提に否定関係は導けませんが否定関係で規定、理解します
つまり規定、理解が不確定性原理、不完全性定理、観測問題のもたらすと主張します
次元は認識器官に結ぶ像の抽象です
ここからもここまでも存在しません
それは淡を像として結ばない認識器官に結ぶ像です
自然は無矛盾で理解可能だということです
否定関係で規定しますが否定関係は存在しません
わたしの主張は単純です
認識の在り方を示すことで科学は自然が無矛盾であることを示したということです 自然科学は本質として自己言及です
自己を他で、ということです
有を無でということです
実に単純です
極めて単純、極めた豊穣
タゴールの言葉です
そういや月は見ていない時に月は存在するのか
つまり見ていなければ存在しないのではと語った人だったのかな
でも家に帰ったら空き巣が入っていた、後ろから襲われて死んだとか当事者の認識には関係ありません
シーラカンスは、大腸菌は発見されるまで存在しなかったのかとか
これらは認識には関係なく存在しているということです
ん?眠っていて自己を認識していなかったら自己は存在しないのかということになるのかな 粒子は波の一形態であり、認識器官に結ぶ像の在り方が粒子だとわたしは理解します
有を無で規定するから不確定性原理なのだと
0に限りなく近いが0ではない
つまり有を無で規定するからこそです
規定は否定です
科学は一貫してそれを示してきたのだとわたしは理解しています ゼノンの逆説が躓きの石でした
で右往左往
「ゼロの発見」の指摘でさらに混迷に
重力の説明に???
板倉さんはこれでは解らないとあり一安心
三浦さんの観念的な自己分裂、吉本隆明氏の言語観の指摘に納得
ただヘーゲル、カントは皆目
マルクス主義は滝村さんの指摘で成立しないということに納得
いろいろと迷い数十年
板倉氏が論理の性格を指摘、山川氏がゼノンの逆説を解説
しめたと思いましたが、まだまだいろいろあり袋小路に
板倉氏の指摘はスピノザの規定は否定とは何かが解る道に案内してくれました
ちなみに、氏は江戸時代の農民もまたコメを食っていたことを史料で証明しました
他にも鴎外がその時の科学を固定して脚気を理解したため東大医学部は陸軍の脚気の死者が戦死者より多いという事態をもたらしますが、板倉氏は彼らの科学に対する理解の欠陥を示しています
また禁煙法、社会主義は社会実験で否定されたと指摘しました
他にも仮説実験授業という現在でも影響がある方式を開発しました
いずれにしても学問の現在は未だしではないかと
失礼ながら数学も数とは何かを確立していないのではないかと
逆に言えばこれからの学徒は学問の革命に関わることができるという機会があるわけです
わたしの投稿はエールのつもりなんですが、ヤジに聞こえたら残念です 茂木さんと竹内さんは現在の学問を固定して新たな学説を否定することに反対しています
気象学者の方も固定して批判する方々に疑問を呈しています
現在の学問の在り方もまた相対化すべきだと主張されています
一ディレッタントとして言わせてもらえれば学もまた混迷状況なのではないでしょう
わたしは認識論を学んでもいいのではないかと
ある数学者はブレークスルーは最前線ではなく、いたって立ち戻ることからということがけっこうあると指摘しています
地動説、進化論、集合論などなどが古代ギリシャにその芽生えがあるとか
わたしには認識の在り方の理解がブレークスルーになるような気がしてなりません
藪にらみの横目で眺めていますが、役に立てればと思います
いずれにしてもど素人のたわごとを粉砕するくらいでないと学の泰斗には成れない気がします いずれにしても正否は自然が回答するとわたしは信じています
思想、倫理は社会、人間が答えを出します
科学というか学問もまた対象が答えるのだということです
自然科学は自然が答えをだすのだと
自然は一、無矛盾だとわたしは科学史を概観してそう判断します
さてと自然と認識の関係理解の概観を書いているのですが、また再構成しなきゃな
何回目かわかりませんが、いずれにしてもここでのはけっこう参考になりました
ありがとうございました もし本にしてくれたら便所の紙ぐらいには役立てられるのにな
電子掲示板に書かれちゃそれすらできやしねぇ 本にしようなんて w
いや、学徒の刺激になればというだけです
意外といろいろ解っていないということが解ればという思いで書いていますから
バックボーンというか基礎はある程度確立したいんです
正統から外れていて辺境を彷徨っているディレッタントが現在の学を概観したものの感想です
これからわたしは知の革命があると思っています
わたしのは一試案です
学は過程としてありますが、過程としてあること自体は固定しています
変化すること自体は変化しない
その変化しないことを考えて確定したい
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ということです
規定は否定だから決定不能となるのだとわたしは理解します゜ 日本の学徒に知の革命を成し遂げてもらいたいだけです
足を引っ張るつもりはありませんので、それは判ってもらいたい
新たな視点を提供しているつもりです
自然は一であり、有を無で規定すると光速度一定の原は示しているのだとわたしは主張します
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではないのだと
理論はある基準を設定して展開されますが、有効範囲を外れると無効になります
運動が否定されることはあり得ません
「ビッグバンはなかった」のラーナーは方程式の性格を指摘していますが同意します
物理学の自然は撓んだ自然だと朝永博士は指摘します
その通りなのだと思います 誰にでも目が触れるところです
不特定多数の方々に知られるわけですから、反発も多いことは承知しています
少しでも刺激になれば、そして参考になればという思いです
それだけです 竹宮恵子さんの「地球へ・・・」のラストのコマで茫漠たる宇宙空間が描かれています
ふと人間のいない自然を考えました
わたしたちの場合はすべて認識器官という物理条件に結ぶ像です
生物の数だけ自然像は違うわけですが、対象は同じです
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた新たな濃淡を生成する過程だとわたしは理解しています
その生成過程で自己言及可能な意識を持つ物理状態、つまり生物が生成される
自然が視覚という物理状態に自然の一形態である光を媒介に像を結びます
それは視覚の諸形態でそれぞれの像を結びますが、それはどれが正しいということではありません
こうしたら、こうなった、ああしたら、こうなったというだけです
この意味で像も物理の一形態と言えます
・・・ああ、やはり親和反発の過程で生成されると一貫しています 生物、植物とかいろいろ規定しますが、これも物理状態としては差異です
親和反発の過程でまた新たな濃淡が生成される
摂取、つまり食べて肉体の一部になったり排泄されたり、または生物の状態を急激に変化させたりします
物理状態は同一であることはありません
それを同一と規定しますし、他とは差異ではありますが否定で規定します
意識とは自然が自己言及可能な物理状態だとわたしは理解します
究極としてなぜそのような物理状態となるのかは解りません
自然に何故はありません
ミュンヒハウゼントリレンマは、なぜなぜは無限に遡及されることを示します
何故は人間の意識の問題です
自然はただ在るだけです
自然を自己言及、つまり意識もまた物理の親和反発で自然の像を結ぶ・・・
「地球へ・・・」の最後のコマを認識論として考えたら、親和反発で像を結のですから、一貫しています
いやフラットアース説批判を考えていましたら、本質を考えなければならないと気が付きました
地球は丸いとする人たちは地動説的ではありますが、やはり座標原点があると理解しているという意味ではフラットアース説の変種です 正直コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインみたいな変革者が日本の学徒から出現することをディレッタントのわたしは期待しています
リドレー、タレブ、ラーナーも諸分野の理解では卓越しているとは思えますが、欧米文化の枠からは今一歩抜け出せないでいるのではと思っています
数学の学徒の方々、数とは何かという基本は判っていません
ある学者は、何事も初歩が一番難しいと述べています
ある学者は真理はとても単純なのだと
武道家は奥義は睫みたいなもので近すぎて解らないと
険しい山道を辿っていったら元の人里に、というのがありました
自然も、自然認識も睫みたいにその本質は近過ぎて、ということではないかと 理数系の学徒の方々、睫、つまり認識の在り方を少し探求してみませんか? 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか, 仏: D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?)は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画。ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵画の1つである。絵画の左上にはフランス語で「D'ou Venons Nous Que Sommes Nous Ou Allons Nous」と題名が書かれ、右上には「P. Gauguin 1897」と署名および年が書かれている[
わたしにとって学問とは何よりも人間とは、ということをわかりたい手段です
人により違うのでしょうが、自然、つまり客観を媒介にして、ということです
それが可能な理解で、わたしの理解が過ちであることが証明されたら、今すぐ放擲します 諭す?
そんなつもりはありません
わたしが学び考える目的を表明しただけです まずは宇宙がどういうものか解りたかった
数学と物理を学べばと思い勉強しました
学ぶうちにわからないことだらけに
解るかもしれない諸学を彷徨い、さらにチンプンカンプンに
解ったのは、学の現在は科学でさえ、ということでした
何人かの科学者たちは科学革命が必要な段階だと主張している
わたしはあなた方学徒に道を切り拓いて欲しい
わたしのはあくまでも一試論に過ぎません
あなた方もこれを踏み台にするのもよし、まったく違う視点を探しても良いわけです
あなた方は学を新たに展開する可能性があるとわたしは主張します
出来れば日本の学徒にと思う一ディレッタントです
・・・まあわたしには先鞭をつけたいという願望があったりしますが w わたしは数とは何かは自然理解を媒介にして理解すべきだと主張します 音楽だとやはり感覚が変わります
古楽器で半音低い演奏が紹介された時違和感がありました
絶対音感の持主らしき指揮者が気持ち悪いと言っていました
そんなのは無いわたしなんかはだんだん慣れてきましたがそれでも違和感はあったりしました
モーツァルトも滅びる可能性を指摘した学者がいて反発したファンもいました
学も傾向があり、ハイゼンベルクや武谷三男氏らは批判していました
最近の邦楽、クラシックとかもちと付いていけなかったりします
ブルーハーツは三十年前なんですね
衝撃的だったですが、以降はありませんでした
わだつみの歌がありましたか
新しい傾向のはここまでくらいかな
アイドル系統はベビメタくらい
いや、もう感覚が違うみたいです
学もまたその時代の傾向というのがあるのでしょう
クラシックも美音、美声なんですが、なんか物足りない
でも美音傾向は半世紀前から徐々にという感じかな
音楽は判りませんが、好きです
ああ、学問もそうかも w 学徒の皆さん、学の傾向を創造したくはありませんか?
本質ー構造ー現象だったかな
武谷さんの三段階理論は若いときは皆目でした
再読しようかな
学問の本質、学の本質・・・
学問はまだまだであり、そこに希望もあるのでしょう
いえ、わたしだけの思いかもしれませんが、こういうのもアリかと 今じゃスマリヤンの論理学の邦訳が普通に書店に売ってるレベルなのに、それすら手に取らず数学板で不完全性定理に言及しようとするとか知性が終わってるわ 夜中に思いついたことを忘れてしまった・・・
うーんと、けっこう深化して、しめたと思ったんですが
いずれにしても未だに数とは何かが解らないということは確かではないでしょうか
基礎を築く機会が貴方たちにはあるのではと 夜中に思いついたことを忘れてしまった・・・
うーんと、けっこう深化して、しめたと思ったんですが
いずれにしても未だに数とは何かが解らないということは確かではないでしょうか
基礎を築く機会が貴方たちにはあるのではと ですから、わたしは規定の本質から考えたいのです
自然ー認識ー理解になるのでしょうか
数とは何かを自然理解を媒介に考えたいのです
規定は否定、この理解を否定すれば撤退します
数は認識器官に結ぶ像の抽象です
一である自然は多としてその像を結ぶ
淡は像を結ばない
次元は存在しません
四次元が存在したら無限の静止した自然、そして自己が在ることになります
対象を無で規定します
無は文字通り無で、数は存在しません すべては幻という認識の場合は対象が幻という規定です
存在、あるものが無いということです
認識主体もまたすべての中に入りますから、また幻でありこの認識もまた
全ては脳の作り出した幻説もまた同じです
シミュレーション説もまた自己言及でノーです
自己言及、つまり自己を他として規定する、このことが認識には貫いているのだということです
嘘つきの場合はもちろん、クレタ人が正直者である場合も自己を正直だと規定しても自己を他として規定します
数とは一である自然・・・、いやもういいですね
ひろゆき氏は間違っています すべては幻という認識の場合は対象が幻という規定です
存在、あるものが無いということです
認識主体もまたすべての中に入りますから、また幻でありこの認識もまた
全ては脳の作り出した幻説もまた同じです
シミュレーション説もまた自己言及でノーです
自己言及、つまり自己を他として規定する、このことが認識には貫いているのだということです
嘘つきの場合はもちろん、クレタ人が正直者である場合も自己を正直だと規定しても自己を他として規定します
数とは一である自然・・・、いやもういいですね
ひろゆき氏は間違っています FM、今週はマタイ受難曲を今日まで放送
久しぶりですが、やはり名曲です
マタイ福音書というイカガワシイ動機から書かれた書物から大傑作が生まれる
人は偽物ほど熱狂する、ですか
実に面白いですが、また悲劇で喜劇でもあるのでしょうか
いや学問もさまざまな視点があるわけです
科学でさえの段階です
新たな展開があるのだとわたしは予想します 夜中に少し考えていたんで、なんか・・・
少し休むことにします そうそう、気になることが一つ
運動は静止で規定されます
ボールを投げ上げたら頂点で静止するが地球自体は運動している
つまり静止は運動の一形態
生死は存在しないが生死で規定する
エネルギー保存則です
屁理屈ではありません
生死、静止は認識には存在しますが自然には存在しません
それは認識の在り方の問題だとわたしは理解します
絶対座標は存在しませんが座標で規定します
それが何を語るのかは考えられてよいのではないのでしょうか
有は無で規定される、つまり規定は否定だとするスピノザは正しいのだと思えます
そして規定を否定することにより無矛盾であることとなります
ヘーゲルの否定の否定の法則もまた根源なのだということになります
自然は無矛盾で理解可能だということです
一は多として認識器官に像を結びます
数は自然には存在しません
多は一、大地は運動しますが認識器官にはその否定、静止として像を結ぶのと同じことです
静止が存在しないように数もまた WBCで日本のファンの行動が賞賛されていました
野球観戦の雰囲気らが良くなるかもと期待します
自分が信じていたことを否定されるのは愉快なことではありません
統一教会の東大生の信者に聖典の生物の理解が過ちであることを指摘したら、それまで頑なだったのが少ししたら笑い出して棄教したということを読んだ記憶があります
これはかなり稀な例でしょう
いや、こういうのもギスギスしがちです
わたしもまた規定は否定という理解が過ちだと解れば、笑って〈〉棄教します
わたしにはまだそれが解らないわけです わたしは自然とは、学問とは、人間とはが解りたいだけです
それ以外ではありません
科学と数学はやはり学問の最前線であり最先端です
ただやはり学もまた発展途上、つまり可能性に満ちているのだと思えます
もう一つの願いは日本人学徒が道を拓くことです
それ以外ではありませんので、癇に障る表現があったならひらにご容赦を ほら諭してるじゃねぇか結局
若い世代に託さんとグダグタ駄弁を連ねてた事を自らゲロっといて諭してる気は、ねぇ?はぁ?
レスを纏められない『言葉のサラダ』一歩手前の長文
一と全の区別が付かない『統合失調症』一歩手前の判断力
やはり波動観念依存症のお前の思考は『オッカムの剃刀』が足りない
論理判断能力を問う以前の支障が波動観念依存症には在る
『AKIRA』の登場人物『鉄雄』の無際限肥大化する身体異常が如し
思考が無際限肥大化している状態が今の波動観念依存症 そもそも、波動観念依存症は勘違いしている
> わたしは自然とは、学問とは、人間とはが解りたいだけです
> それ以外ではありません
その問いに完全無欠な解を与える答えは永遠に無い、『人間とは』を評価する方法の数だけ限り無く増えていく
> 科学と数学はやはり学問の最前線であり最先端です
おこがましい。何を『“学”術的に“問”うか』により何が最前線最先端かは、変わる
> ただやはり学もまた発展途上、つまり可能性に満ちているのだと思えます
当たり前だ。だがお前の考える理由による無限性ではない
学問学術は無限大多数のテーマが有るから可能性に無限性が生じている
お前の理念に基づく無限性では決して、ない。お前の理念に基づく無限性は、単に『爆発律』を踏襲している為
『AKIRA』の登場人物『鉄雄』の身体の異常無限再生の様に、お前の思考も『爆発律』に基づき異常無限展開している為
一方で学問学術宇宙は『爆発律』無してテーマのネタの無限性を成している
決してお前の思っている理由による無限性では断じて無い 諭してはいませんよ
わたしの目的です
目的は達成しつつあるので満足です
科学、数学、とくに科学は自然が答えを出しますからやはり羨ましい
思想となると未だにマルクス主義信奉者がいたりする
あれだけ社会がノーと答えを出しているのに
スレの主題です
ひろゆき氏は間違っています
数一般は存在していません 何を以て「存在する」とするかだな
局所的実在論は量子力学で否定されちゃってるし 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発で新たな濃淡を生成する過程です
それ以外ではありません
粒子と波動の二重性という認識そのものが違うと主張します
粒子は波が渦の状態という理解です
ある物理条件では波に、ある物理条件では波が渦の状態を呈し粒子として認識されるだけで、否定関係ではないのだと
静止が運動の一形態であるように
否定関係と理解されてきたことが実は差異であることを示してきたのが科学だということです
自然に否定関係は存在しません
座標原点は存在しないのです
自然は無矛盾です 自然認識は認識器官という物理条件に結んだ像です
認識の在り方を科学は相対化します
規定は対象の否定です
運動を静止、つまり存在しないもので対象を規定します
規定は自然には存在しないと示したのが光速度一定の原理です
運動を前提に否定関係は導けません
つまり自然は運動するエネルギーの濃淡です
波しか存在しません
淡は認識器官には像を結びません
自然はパルメニデスが語るように〈一〉ですが、この認識器官の在り方で〈多〉として像を結びます
粒子は存在しません 光速度一定の原理を理解すれば無矛盾な自然観が得られたのだとわたしは理解しています
それをしなかったから観測問題、不確定性原理とかが未だに立ちふさがっているのだと
ビッグバン仮説が主流なのは否定された座標原点を前提にしている
前提が宇宙非宇宙ということになり矛盾してしまうのです
エネルギーは自然そのものです
それは運動し親和反発してあらたな濃淡を産み出します
それ以外ではありません
力も次元も存在しません エネルギーって何ですか
『自然そのもの』じゃ答えになってませんよ
どんな性質があってどんな振る舞いをするんですか? 諸生物の認識器官は様々です
それはある物理状態をそのあり方で様々な像を結びます
これもまたそれぞれの物理条件と認識媒介が親和反発の過程で生成する像です
対象は同一ですが、物理条件が違いますから差異があるわけです
つまり一貫して親和反発の過程にあるということです 性質はあるエネルギーの状態、つまり条件ではこういう物理状態に生成されるということです
親和反発の過程で、ということです
対象である自然には論理はありません
こういう物理条件に対してある物理状態がなぜこうなるかは解りません
ミュンヒハウゼントリレンマです
原因は無限に遡及可能ですから
自然には理屈は無いのです
この状態はこの条件だと理屈は解らないがこうなるというだけです >>800
そうです、このように無限に遡及可能なのです
自然は無矛盾で理解可能です
ある前提で理解を展開していきます
前提は仮にこうしましょうということです
存在もまた前提です
そして無矛盾であると示されることによりこの前提が成立するというだけです 対象を存在として前提する
この前提は無矛盾だと科学は光速度一定の原理で示します
そして規定は否定だと示します
有を無で規定するのだと
無は文字通り無です
自然はただ有る、在るだけです いや親和反発の根元を聞いているのではなく親和反発とはどのような現象を表しているか聞いているのですが
具体的にどのような現象か簡潔に教えて下さい ん?親和は基本浸透です
反発は逆です
それ以上は w
浸透とはと無限に遡及可能ですが勘弁してください w
わたしは自然は無矛盾、一だと理解しています
わたしたちも含めて自然は濃淡の親和反発の過程でまた新たな濃淡となります
濃の一状態がわたしたちでまた親和反発の過程で他の物理状態にという理解です
繰り返しますが存在という前提は無が否定され、成立するのだということです
自然には規定は無いのです ある前提で規定していきます
天動説も地動説もその前提は有効範囲があります
前提が相対化されて無矛盾に収斂していきます
・・・まあ存在という前提もまた規定なんですが
ヘーゲルは存在すると同時に存在しないことと運動を定義します
対象は存在と規定されますが、決定不能と決定しますがそれは対象が無矛盾だからです
規定こそが決定不能をもたらすのです 六時くらいからクリスティーの小説を半世紀ぶりに要約版で読みました
一時間半くらいで読了しましたが、全然覚えていない
ひと月で50冊くらい読んだ中の一冊ですから
犯人は判りませんでした w
ちと疲れましたので寝ます
図書館には二十冊くらい要約版があり、ひと月くらい楽しめそうです
ああ、わたしのも要約版みたいなものかと
きっちりとしたのは学徒に任せます
いずれにしてもわたしには数の実在は信じられません 浸透と脱浸透による具体的な現象論を記述してください
現象のより原理的な遡及は求めていません
浸透/脱浸透レベルそのままで良いので、実在する物理現象に対する浸透/脱浸透モデルによる説明の一例を具体的に挙げてください >>809
ここで言う「実在する物理現象」とは「観測事実として周知されている現象」の事を差します。
「『形而上学的に実在』する物理現象」を意味している訳ではありません 目の前、自身もまた浸透反発の過程として在ると理解しています
水分摂って排泄、肉体の一部に
紙が水分含んで、程度によっては形態を失うとか
いずれにしても生々流転の過程にあるのだと
金属も長期間には腐ったりするのはそこから逃れるわけではないのだと
自身も自然もその過程にあると理解していますが
ヘラクレイトスの自然観です
そして変化すること自体は変化しません 集合論や地動説、原子論とかほとんどが古代ギリシャに遡れると読んだことがあります
フロイト心理学もそうだと読んだことがありますが
数学者がピタゴラスの定理が前の文明の継承であると書いていて驚きました
聖書とかも源流があるとか
わたしのはかなり素朴な理解です
でも間違っているとは思えません
元々ゼノンの逆説が数非実在説の根拠です
点は光速度一定の原理が実在を否定していてパルメニデスの自然は〈一〉であり数は存在しないという理解を裏付けていると理解しています
終始も無いし、何も生まれない無くならないということです
また規定は自然には存在しないということです
パルメニデスとスピノザが正しいことを科学史は示しているのだということです
自然は実に単純です
わたしにもそれは実感できます
目の前の自然と自身もまた差異であり否定関係は存在しません
否定関係は頭の中にだけ、つまり物理としては存在しません
有を無、存在を非存在で規定します
規定は否定で、規定自体が否定され自然は無矛盾であることが明かされます
ウイルス分類が困難なのは分類するからです
規定が対象の否定、つまり有に無が存在しないことを示して対象である自然は無矛盾となります この自然観と論理観なら様々なアポリアが解明可能だと考えています
いずれにしても正否は対象が出します
ビッグバン仮説はわたしの理解では認識上に必要な終始が自
然にも存在するという過ちです
静止、生死、無がそうです
それで自然を規定しますが、それは存在しません
ビッグバン仮説は天動説の誤謬の末裔だということです
対象が宇宙非宇宙、エネルギー保存則、光速度一定の原理の無視
ありえません 理数系、とくに科学者の方々
科学は自然〈認識〉です
ならば認識論もまた考察すべきかと
科学は見たものがそのままではないということを証てきたのですから
数学の学徒の方々
数は一である自然が認識の在り方で多として像を結びますがその抽象であり存在しないとわたしは理解します
ひろゆき氏は間違っています 815は終戦記念日、ナポレオンの誕生日ですね
ある数学科卒の数の拘り方がさすが数学科と感嘆したので
わたしの母とわたしの誕生日はバッハとモーツァルトの名曲中の名曲の作品番号だったりします
もっとも母はバッハは苦手で誕生日が逆ならばと思ったりしますが
それはともかく
わたしにとって学問は自然と人間とはという理解の媒介、手段で目的ではありません
芸術至上主義は採れないのと同様に学問至上という価値観は採れません
人それぞれですから、至上主義も有りですが、そこは多様性ということで御寛恕のほどを
幼いころからの疑問をとりあえずは納得する形で解決しました
あまりゾッとしないのですが、必然の帰結なら受け容れなければなりません
マルクス主義者とか宗教信徒の頑なさは反面教師です
三浦さん、板倉さん、滝村さんの学問も相対化できた・・・かな
むろん大家ですが、彼らもまた時代の子供です
・・・まあ学者としては足元どころか、ですが
マルクスもまた時代が相対化したわけですし
日本の場合は国ガチャは比較したらマシだと思います
親ガチャもまあまあかなと
わたしは客観的に悟りたかったのかなと思えます
古代ギリシャが健康な子供のように、わたしもまたそうでありたいのです
素朴だが正しい、正しいが素朴
わたしもその位置に上りたいし、またディレッタントですからそれしか出来ないと自覚しています
あくまでもこういう自然観、論理観ならこれらが理解できるという試論の性格でしかありません
興味ある方は検討してください クリスティーまた全部読みたいなあ
一日に三冊読んだことがありますが、内容はほとんど覚えていません
思い出した、象は忘れないという題名がありました
宮沢賢治、夏目漱石などなど
楡家の人々とか意外に面白かったです
三島由紀夫の賞賛はわりあいとマジなのかなとも思えます
ファウストも意外に面白く手塚治虫が拘ったのも判りました
聴きたい読みたい名作は数限りなくありますが時間が・・・
わたしの試論の正否はたぶん生きているうちには出ないだろうなあ・・・
それが不幸なことなのかはたまた幸運なことなのかは判りません
でも自分なりの試論を上梓することが出来るなんてことは夢にも思いませんでした
至福状態で逝けます
勝手に大満足 w 波動は何で論理的推論をしないの?全部のレスが理性に到達していない悟性で止まる観念論じゃん
感知で感性を会得、知覚で悟性を会得、理解で理性を会得
カントも感性→悟性→理性の順で知を深めるとしている 予想をすることをお勧めします
若き学徒も真偽が何で決まるかを模索することを少し考えても良いのではと
とにかくわたしは人間がどういう存在なのかを知りたい
様々なアポリアは理解するからです
規定こそが原因です
わたしは自然との関係理解を基礎にいろいろ考えたい
その否定もありでしょう
わたしは最小単位も力も存在しないと理解します
終始ももちろんありません
あなた方の理解で観測問題、不確定性原理、不完全性定理、哲学の基礎的諸問題を解決案を出してください
それが納得できるのなら、いつでもわたしの理解は放棄します
わたしのは一元論と認識論で理解可能だと主張しています
二律背反、ゼノン、クレタ人、ヘーゲルがスピノザの理解から解決可能だとわたしは主張します
理数系の基礎もまた
そこから数とはを理解したわけです さてとクリスティの縮約版を読みますか
図書館はいろいろ便利ですが、老人ホーム化していて
数か月に一回くらい認知症の男性が理不尽なことで暴れていて
決まって女性司書に絡むんですが、なんか卑怯で
わたしも名前が思い出せなくなって、うむ初期症状かなと不安になったりします
否定する方々も、認知症理論で片付けてもかまいませんが
それなりに決着をつけてもいいかもとは思います
・・・まあわたしはとにかく未解決問題を決着したかっただけです
図書館の司書さん高身長で浮世絵美人みたいなと母が評した人がいます
わたしは少し太った笑顔の可愛い司書さんと、オバサン顔だが初々しい新人司書さんがお気に入りです
五年前に美人で可愛い司書さんが転勤になりまして残念でしたが
んじゃ、繰り返しにしかなりませんので
いや、先日丑三つ時くらいに目覚めて、ふと新しい展開の手がかりがと思ったので、ついつい懲りずに投稿しまして
歳なんで見切り発車して纏めなきゃなと思います
今日は何にしようかな
ミス・マーブルのあの科白はなんだったかな
巡り合えれば良いのですが
ではでは いずれにしても学は発展途上であることは確かではないでしょうか
『道程』
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
この詩は学徒にふさわしいと思えます >>809です
>>811を見るに、つまり貴方は、現代物理における原子説(より根本的には標準理論/Standard Modelを代表とする素粒子説)による描像を完全に否定し、
エネルギー某(なにがし)による浸透反発モデルを採用すべきと主張しているのですか? ( ^ω^)・・・
今日は法事なんですが、五時頃に目が覚めました。
少女漫画の最後のコマの理解の結論が出ました。
以前出した自然理解の適用でした。
いや、もうブルトマンのキリスト教理解と滝村隆一の共産主義理解の結論くらいの衝撃です。
一元論的に理解を達成したことには満足ではありますが。
ちなみに母の法事ですが、わたしは幻覚体質で母の葬式の少し後に部屋のベッドのすぐ側に立つ着物姿の母がわたしを見つめて、スッと消えていくのを観ました。
普段は幻覚体質の厄介さに悩みましたが、この時は感謝して、また出てきてねと思いました。
いや、やはり人は幻想で生きていた方が幸不幸を痛切に体験できるのかなと。
今は残った生を愉しんで生き抜こうと思います。
母は昔の人なので、家を守ろうと必死でした。
良い時には悪い時の、悪い時は良い時の準備をしていて、生きる知恵では足元にも及ばないと痛感しました。
それは生きることに必要なことですし。
しかし知恵というのは伝わりにくいのかなと思えます。
・・・纏めるのが怖いのですが、生きた証ですから最後までと思っています。
学問至上主義は芸術至上主義と同じように現在のわたしには映っています。
人は幻想に生きるのが良いかななんて思ったりします。
ああ、もう、いや、人は自分なりの価値観で生きていけば良いのかなと。
それが社会や地域、家庭を乱さない限りということですか。
でも学問は人を、社会を根本的におかしくする可能性もあるわけです。
欧米キリスト教文化圏の根底を新約聖書学は揺るがしました。
むろん学者だけというか、学者もその認識を共有しようとは考えませんでした。
科学もまたそのようなことになりそうです。
支離滅裂がよけいに支離滅裂になりました。w 偽物でも素晴らしい何かを創り上げる
本物でもまがいものを創り上げる
学問、芸術もまたそうなんでしょう
歴史の皮肉という言葉があります
なるほどねと 自由とは必然性の洞察という言葉がある
自由になりたいということが学問の動機かなあ
理解することにより、それを制禦することが可能になる・・・
ある意味縛られることが自由の前提?
こうボールを握れば曲がる、急激に落下する・・・
自らを知れば、ということか
理数系の方々、ルクレティウスは大科学者、思想家などに大きな影響をあたえたと指摘されています
芸術もそうだというのは驚きましたが
わたし自身はパルメニデスの自然観を前提にしてエピクロスの徒であるルクレティウスということです
ルクレティウスは規定の理論です
パルメニデスは規定の相対化です
わたしは現代学問は革命前夜だと認識しています
日本の学徒がその一翼を担うことを願っています >>826
821番に貴方宛のレスがあるので読んでください 101回目のなんとかってドラマがありましたが
わたしのはもっとかな w
自然は濃淡の海と理解しています
認識器官には淡は像を結びません
粒子は波の渦の状態です
上にもいろいろ書いていますが、これは何十回も書いていますか
見たものがそのままの自然ではないのだということです 自然科学は自然認識です
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではありません
認識器官という物理状態に結ぶ像は当然その物理条件により差異はありますが対象は同一です
諸生物により対象の像は違うわけです
そして認識器官に存在する静止、生死、無は自然には存在しないとわたしは主張します
地動説はそのことを示す端緒です
否定関係は存在しません
静止は運動の、生死は物理状態の、無は有の一形態です
認識器官の在り方から様々な否定関係が像を結だけだと
認識の在り方を自然科学は探求すべきではないかと
自然認識なのですから 昨日法事で疲れていまして、生まれて初めて電車で席を譲られました w
今朝は珍しく三時間近く遅く起きました
最近老化を感じています
前のレスでさんざん繰り返しているので、読んでいただけれはと yesかnoか
部分的にyesか部分的にnoか
それともいずれでもないのか
それを前置きさえすれば多少はコミュニケートになるのに、それすらないから齟齬が生まれる
貴方に足りないのは回答への誠実さだ
文飾に精を出すばかりでは貴方の言葉は後世に跡形も残らない
>>828を踏まえて、粒子が渦であるとするならば、それは何の渦ですか?
エネルギー流ですか? 二十年位前に量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ということだと知った
ならばパルメニデスの自然観と同じ
光速度一定の原理は静止の存在を否定する
ならば量子力学の自然観を裏付ける
板倉氏は論理は静的だと指摘する
スピノザの否定は規定という理解と通底することに気が付いた
科学は否定関係と理解してきたことが差異であることを示している
次元は存在しないと理解していたが、認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではないが、その抽象が次元だということだと解った
わたしたちは否定で対象を規定している
様々なアポリアは規定するからなのだと
光速度一定の原理は座標原点、静止の存在を否定する
このことは規定は人間の観念の中であり自然には存在しないことを示す
ウイルス分類問題は規定するからです
わたしは数は認識の論理であり認識器官に結ぶ像の抽象であり自然には存在しないのだと理解しています わたしのは科学が示す結果の概論です
わたしの理解では数は存在しないのです
自然は無矛盾であり一であり多ではないのです
それだけの理解であり単純そのものです 現代科学はピタゴラス学派で最小単位の存在が前提だという理解です
わたしは物理条件が生成可能ならば幾らでも小さくなると理解しています
~に成るのです
数で認識するから数は存在するという理解です
それは観たものがそのままの自然であるという天動説と軌を一にする誤謬なのだということです 自身の自然観で予想することをお勧めする
真偽は自然が回答する
どうしたら次の段階に登れるのかは考えた方が良いのではないでしょうか
自分をどのように限定するかにもよりますが
わたしは自然、論理、人間を理解したい
自己満足ですが、それなりに出来上がったと自負wしていますが
ああ、数学そのものは理解できるかもしれませんが数学の能力はまた違う問題なんでしょう
わたしは数学とは、ということでやっていますから専門分野の方たちとは違いますし
では >>「二十年くらい前に量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ということだと知った」
残念ながらこれは誤りです。量子力学はそのような自然観を持っていません。恐らく、それは貴方が参考資料において【1粒子状態に限定した議論】を誤読/拡大解釈したためだと考えられます。
そもそも、『正式な量子力学』の自然観は【粒子は確率的に存在が分布】する事を述べています。この粒子の確率分布を、「粒子のエネルギーの分布」と見做すという意味では、確かに、「エネルギーの濃淡」として粒子が存在していると言えなくもありません(コペンハーゲン解釈などの問題があるが、それは置いておいて)。
しかし、その推論はあくまで「1粒子状態」にしか使えない議論です。「2粒子以上の状態」になるとその【確率的存在→エネルギー濃度的存在】という推論は破綻します。理由を以下で述べます。
まず、1粒子状態の場合、『正式な量子力学観』において、粒子は確率的存在であり、ψ(x)のような関数で表されます。「ψ(x)」はxという場所における粒子の存在確率を表します。これに対し、粒子のエネルギーをEとすれば、F(x)=E×ψ(x)で定義される関数F(x)は粒子のエネルギー密度であり、確かに、粒子を【エネルギーの濃淡】として解釈できます。おそらく、貴方自身も参考媒体で似たような議論を見たために、【量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡】と解釈したのだと思われます。
しかし、2粒子状態の場合、そのような解釈すら破綻します。なぜならば、『正式な量子力学』では、一般に「複数粒子の存在的確率」に対して、中学校で学習する【独立の法則】が通用しなくなるからです。詳しくし説明しましょう。
『正式な量子力学』において、2粒子の確率的状態はφ(x,y)のように表現されます。φ(x,y)は「粒子1がx、粒子2がyに存在する確率」を意味します。常識的には【独立の法則】により「粒子1がxに存在する確率[a(x)と書く]」と「粒子2がyに存在する確率[b(y)と書く]」を掛け算すれば、「粒子1がx、粒子2がyに存在する確率」が得られる筈ですので、
φ(x,y)=a(x)×b(y)
と書けるでしょう。このようなa(x),b(y)の存在は、各粒子の『存在密度』という概念が健全である事を表し、そのまま【エネルギー濃度的存在】の解釈へ自然に導くことができるでしょう。 しかし、驚くべき事に、『正式な量子力学』では、一般にφ(x,y)=a(x)×b(y)となるようなa(x),b(y)は存在しない事が知られています[例:量子もつれ]。このa(x),b(y)の不在は、1粒子状態で行ったような【エネルギー濃度的存在】的解釈を不可能にします。なぜならば、このような性質は「ある場所におけるエネルギー濃度」という概念が定義不可能である事を示すからです。
「エネルギー濃度」という概念は、単一の座標を代入する事で算出可能である必要があります。もし、φ(x,y)=a(x)×b(y)が成立していれば、a(x),b(y)は1変数関数ですので、この条件を満たしていました(故に【確率的存在→エネルギー濃度的存在】へ解釈を変更する事が出来ました。)。しかし、一般にそれは成立しないので、【確率的存在】は2変数関数という形から脱却することができません。これが、【エネルギー濃度的存在】への解釈の転化を本質的に不可能にしているのです。無理矢理解釈しようとしても、片や粒子1のエネルギー密度を一つに定めたとて、もう片方の粒子2のエネルギー密度が【計算方法によって結果が変わる】という矛盾した結果を生みます。
以上が、「二十年くらい前に量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ということだと知った」という文言に対する反論です。
少なくとも、【『正式な量子力学』は、粒子がエネルギー濃度的実在であるとは一言も主張していません】。
ご理解いただけましたか? 認識の相対化の歴史としての学問
ゼノンの逆説にひっかかり、重力概念がわからずに理系から脱落しました
三浦さんの言語学とその認識論に惹かれました
三浦つとむ選集を読むとヘーゲルの唯物論的転倒が示されていて面白かった思い出が蘇ります
思想的には信奉する共産主義が成立しないことに導く論文をものします
氏の論文から七十年代初頭にそのことを暗示した滝村隆一氏はソ連崩壊を予想します
十年ほど前にイギリスの著作家が社会もまた進化論的に展開することを示しトップダウンを否定しボトムアップが基本だと示して興味深かった
板倉氏は三浦つとむ氏が実験概念がなかったと語り、社会主義を否定した 三浦さんの学問は認識論としては素晴らしいが思想としてはノーと滝村氏は語る
滝村氏はマルクスの唯物史観は思想が絡んでいて、それを腑分けしたらやはり素晴らしいと語った
滝村氏は共産主義に代わる思想を構築しようとして道半ばで逝きます
板倉氏はさまざまな業績を遺しますが、新哲学入門を読むと、これは違うのではないかと思える箇所が出てきます
氏は柔軟性とは原則を頑固に守るためであると語ります
原則を破るのは柔軟性ではなく無定見だと語ります
わたしにはある個所で板倉氏自身がそれをやっているのではないかと思えたりします
彼らの学問に感嘆しましたが、やはり全部正しいというわけにはいかないのは当たり前ですか
マルクスは思想的にはともかく学問としてはやはり素晴らしいのだと彼らは語ります
ある武道家はヘーゲルは学者としてはマルクスより上だと評価していました
いずれにしてもいろいろなことで大学者の学問が相対化されていくようです
自身の認識が相対化していくのはたぶん見ることはできなさそうです
・・・学問の歴史からは塵芥ですが w 自然は無限であり数は実在しないというのがわたしの理解です
自然科学は自然が無矛盾であるという認識を裏付けている
これがわたしの主張です
数は認識の理論です 一趣味人としては人間が産み出した学芸を堪能したい
先人に敬意を表しながら、かつ相対化して次世代に託せればと思います
いずにしてもへーゲルの学問や自然社会を過程と捉えるのは真理だと思います
わたしたちの現在もまた相対化する必要があるとわたしは理解しています さて駄弁はこれまでにして
あまり健康状態が芳しくないので焦っています
ある問題はどうやら見切り発車しなきゃいけないようです
WBC、いや大谷のように真っ直ぐ大きく育った人は羨ましい限りです
とくにわたしのように迷走してきた人間としては
WBCは楽しめました
感謝します
甲子園の土を踏んだ亡き父に見せたかった
それでもわたしのような人間が生きることが可能な現代日本に感謝します
駄弁終わります w わたしのは静止が実在したら崩壊します
運動は自然の存在形態で運動を前提に有と無は導けない
真空はディラックの海が在りますから、静止が運動の一形態であるのと同じです
無は文字通り無い
で、絶対座標、座標原点は静止で運動を規定するが実在しない
光速度一定の原理は自然が無矛盾であり、規定は否定で実在しません
パルメニデスの自然は一ということは多、数で規定することは否定しません
0に限りなく近いが0ではないという???な規定は有を無で規定しますから必然です
有は無で規定しますから、不確定性原理も必然ですし、測定は近似値というのも必然です
観測問題も解決できます
ゼノン、ヘラクレイトス、カント、ヘーゲルは否定は規定という観点から理解可能です
ああ、クレタ人もそうです
自然科学は自然の一部である人間、つまり自己言及です
自己を他、ここでも否定で規定します
ウイルス分類問題などなど
認識器官は自然の一部ですが、自然の像をそのまま結びません
自然科学は自然認識です
認識の在り方もまた考察されるべきだと
静止、生死、無は認識器官には像を結びますが、自然には実在しないのです
静止が実在したらわたしの理解は退けられます >>832-843
で、結局、カントの言う『感性・悟性・理性』の内の悟性ばかりでレスするテメェ
全く『論理』せず『自己が悟った性質』を語る事に終止する、お前
>>840
やっぱり
今井一数学塾塾長?今井一数学塾塾長と同レベル わたしにとって学問とは自然、人間、社会とはを考えるための存在
「進化は万能である」は欧州の中世の治安状況、社会秩序が現代のそれとはいかにかけ離れているかを史料で示している
アメリカの西部開拓時代もまた意外
カーライルの英雄史観もまた否定的に考察されている
スペンサーが評価されていたりして面白いし、なるほどと思ったりした
どうやら自然も人間も社会もボトムアップ的に展開していくのでありトップダウンは共産主義を典型に失敗するみたい
いや、貫く棒の如きものを探究してきたつもりです
自然とは、科学とは、数学とは、そして何よりも人間とは、社会とは、ということです
日本はフェニキアだったかな、ローマに敗れた国と軌を一にしているという指摘が在り、少しく不安になった
余談ですが、こういう思いも在ったりします
より良き社会にとは思いますが、また利害関係がありますし
どこかで冷徹でないと生き残れない
現に近隣諸国とは軋轢がかなりありますし、アメリカとかは・・・ 先年、NHKで神の方程式とやらを観ました
ハイゼンベルクはこの傾向に否定的で、武谷三男氏もそうでした
ライプニッツ、ホーキングの言葉もまた
ホーキングは期せずして、自らの姿勢を否定しているのですが、どうやら自身が気が付いていない
数を、方程式をどう取り扱うべきかはラーナーが問題意識がある
彼の学派の傾向かもしれない
またブリゴジン学派も「科学の終焉」でのインタビューで若手が面白いことを述べ、ブリゴジンもまた肯定だったような
ただしホーガンには全く問題意識なしで、やれやれと述べている しかし規定は否定ということを掘り下げたら、規定すること自身が矛盾の原因であり、科学は規定は自然には存在しないことで自然が無矛盾であると示したというのは衝撃だった
認識の在り方はやはり理解しないと、という結論になった
ひろゆきさん、数一般は実在しません 自然科学は自然の一部である人間の自己言及です
自己を他として、つまり否定でということです
これが根幹です
不確定性原理、不完全性定理も否定で規定するからです
有を無で規定します
数もまた実在しません
ひろゆき氏の理解に同意はしかねます
また現代科学の在り方にも首肯できません
それは認識論を無視しているからだとわたしは理解しています
終始など、次元など自然にはありません
それで理解しているだけです 正直この理解のもとでの自然観はちとナニです
宗教社会では憎悪の的になりそうです
またほとんどの人間には受け入れ困難でしょう
肉親は宗教嫌いでしたが霊の存在は信じると語りました
いや生存本能は基本ですし宗教は滅びないし、国家も滅びないでしょう
無矛盾、つまり自然は理解できるということは確かですが
承認欲求もありますが、これが真理ならちと自身でもひいてしまいます お前のレスはさぁ、『規定は否定』とかの断言や『〜である事が分かりました』とかの告知、それに
『科学はまだまだって事です』って主張ばかりで、後は『〜は〜と言いました』とかの引用を語るばかりで
論理パートが全く無いよな、全く論理していない
波動は科学や数学を語る理数系能力を欠いているばかりか、哲学する為の知能も欠いている
波動の主張は哲学ですらない 自身に適用 w
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発で新たな濃淡を生成する過程として在る
認識器官に結ぶ像もその在り方により差異がある
これもまた反発親和による新たな濃淡
認識器官は淡の像を結ばない
これは反発ではなく親和というか浸透か?
徹頭徹尾この過程に自然は在るということかと >>851
先日『正式な量子力学』の立場では粒子はエネルギーの濃淡とは見なせないと指摘しましたが
では貴方は量子力学を否定するという立場で問題ないですか? エネルギーの濃淡も何も
物とエネルギーの濃淡も何も
物質は0次エネルギー、運動は1次エネルギー
エネルギーの0次は物質、エネルギーの1次は運動 E=m*c^2/√(1-(v/c)^2)
E_0=m*c^2
E_1=1/2*m*v^2
E_2=3/8*m*v^4*c^2
E_3〜E_∞略
振動のフーリエ展開各項を
1次振動項、2次振動項、3次振動項としていく中で
初項を同じ呼び方すると0次振動項と呼ぶ事になるが
工学では実際にフーリエ展開初項を0次振動項と呼ぶ事が実在する
この慣例を天下り式にアルバートアインシュタイン稲田のエネルギーの級数展開式に適用すると
E_0を0次エネルギー、E_1を1次エネルギー、E_2を2次エネルギー、一般にE_nをn次エネルギーと呼ぶ事になる 科学が示したことからわたしが導く自然観の要旨
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発をした新たな濃淡を生成する過程
〈ここ〉からが無いということは〈ここ〉までが無いということ
つまり無限であり自然非自然という否定関係は存在しない
次元も存在しない
自然認識は自己言及
自己を他として、つまり否定で規定する
これが認識の基本構造
有は無で規定される
エネルギー保存則の破れが言われているが、不確定性原理は有を無で規定するからであり測定値は近似値でしかない
また自然しか無いのだから、どこにも行きようがない
科学者というか理数系は認識の在り方を少し考えた方がと提案したい
それが新たな道が拓けるのではとわたしなどは考える
自己言及とは対象である自己を他として規定すること
規定は否定ということ
科学は否定で規定してきた対象が差異であることを示してきた
人間自身も自然の一部である差異なのだということ
光速度一定の原理は規定は否定であり、その否定、つまり静止が存在しないことで運動が存在形態であることを示す
数で規定するが数は実在しない ここから様々なアポリアが解決するのだと
認識器官に結ぶ像も濃淡の親和反発の過程です
諸生物の認識器官もまた差異でありそれぞれの在り方にそれぞれの像を結ぶ
それらはどれもその物理状態に対応して結ぶ像
対象は同一だが物理条件で違う像が結ぶというだけ
対象、物理条件も生成過程にあり非同一で・・・
非同一を同一として規定する
運動変化する対象と認識器官もまた運動変化している・・・
認識器官もまた自然だから
自然は生々流転している
認識主体である人間自身もまた
規定は否定
何回でも言います
認識の在り方を理系は考察すべきだと
自然科学は自然〈認識〉なのですから 変われば変わるほどますます変わらない
わたしは変わらないところを指摘しているつもりです
変わらなければ変わらないほどますます変わる
科学は終わることは無いと理解しています
対象は無限であり、新たな濃淡が生成する過程として在ります いろいろな観点からわたしたちの現在を相対化して理解すべきかと
ここでは学問の在り方を相対化することを提案します
とくに学問の現在を固定して裁断することの危うさを考えてください
ラプラス、鴎外は典型です
現在の科学認識の在り方は転換点に立ってると少なからぬ科学者が指摘しています
わたしは横目で見る立場からですが、一試案を考えています
数は認識するからであり、認識には必要ですが存在しないのだという理解です >>855
何でそんなガバガバな知識なのに一番大事な内容だけ合ってるの?w
マクローリン級数展開そのものなのに、それじゃなくてフーリエ級数展開を例に挙げるのが意味不明すぎる
マクローリン展開の次数は変数の次数そのものだが、フーリエ級数展開の"次数"は振動数だ。一緒くたにするには余りにも違う
ちゃんと本当に勉強したのか?
しかも0次エネルギー、1次エネルギーなんて言い方は全くしない。『呼ぶことになる』じゃなくて誰も呼んでないから。造語をさも普通語のように使わないでくれ
運動エネルギー項が一行目の全エネルギー項を(v/c)に関してマクローリン展開して得られる事は当然知ってたし、始めはそれを言いたいのかなって思ったけど、それにしては余りにも表現が酷すぎるからそれはないってなったんだぞ >>856
先日『正式な量子力学』の立場では粒子はエネルギーの濃淡とは見なせないと指摘しましたが
では貴方は量子力学を否定するという立場で問題ないですか?
それから、「エネルギー保存の破れが言われている」と言いますが、その由来はどこですか?
エネルギーが破れた事例は今のところ存在しません
もし仮想粒子の話をしているなら、仮想粒子はあくまで摂動論による議論を無理やり粒子の生成・消滅と解釈したせいであり、実際に生成・消滅しているとは言えません。エネルギーは常に保存されています。 >>860
数学に携わる割に『呼び方をする』『呼び方をしない』の慣習に従属するんだね
これしきを造語と言ったら日本の19〜20世紀の数学者科学者は造語症だらけになるね
造語症か否かかを判断する基準が普及してるか否かでしか見ない様な
『勝てば官軍』だったり『足元で人を判断する』だったりする日和見至高主義者なら
日本の19〜20世紀の数学者科学者だけでなく世界史上の数学者科学者を造語症だらけ認定する事になるな
ニュートンに対しても『流率なんて呼び方しないから』とか言って造語症認定するんだよね >>862
慣習に乗るか乗らないかで話を着けようとした時点で言い訳がまし過ぎるし、お前の勉強不足は明白だよ
トンデモだと思われたくなければ正確に伝わる言葉の使い方をしろ
運動エネルギーは速度の2次の項なのに1次なんて言い方をするな
何だよ『エネルギーの1次は運動』って
せめて1次補正だろうが というかフーリエ級数展開とマクローリン展開を一緒くたにする奴に『数学』とやらを語られても全く説得力ないわw 次数を一緒くたにしたのは君なんだけどね
振動次数
変数次数
エネルギー次数
どれも関連を一旦忘れて別の尺度として見るべき次数
何で波動相手にマクローリン展開と言わなきゃいけない?
相手がゲーデルの不完全性定理に対する理解が明らかにズレているのを露呈したどころか
どうやらマクローリン展開を知らないであろう波動じゃあ
マクローリン展開と言われても意にも介さずスルーすると予測した次第
流石に波動でもフーリエの名はフーリエ変換なりフーリエ級数展開なりで聞きかじった事はあるだろうと
何せ『波動』なんだから
長男とか長女に生まれた人間は、そこまで勘繰り、そこまで掘り下げ、対応する事はザラで
逆に長男長女が我が強く、次男や次女がその役割を果たしている場合が有るが
兄弟姉妹でそこまで手を焼かずに育った人間からすれば、言い分けがましいと思うんだろうけど
世間でたまに存在するヤケに洞察力が良い人なんかは、俺なんかより
もっと不正確な表現に敢えて乗り(相手の理解や言葉の選び違いに合わせるだけ人ならザラにいる)
もっともっと深く洞察する人なんかザラに居る
君だって社長的存在や学長的存在がプレステの事をファミコンと呼んでるのを訂正しないだろ、特に日和見至高主義の君は
結局、波動はマクローリン展開は勿論、『波動』の癖にフーリエ級数展開さえも波動は見も聞きもしていなかったので
波動に対する評価は更なる下方修正を要する事が判明
「じゃあ何でお前は過去に波動連呼してたんだよ」と言いたい >>865
古典論の話なのに相対論的1粒子に対して『波動の話』は流石に草
もう止めとけw >>865
ひょっとして俺が『エネルギー濃淡』の人とでも思ってるのか?
お前の識別能力どうなってるんだよ >>866-867
いやいやいやいや、その『エネルギー濃淡』の奴が旧通称『波動』だった事を忘れたか?
コイツは『1は1とは限らない』『1は1ではなく波動の揺らぎを伴う』とか言ってたんだよ
そんな波動気違いしてた奴(当人曰く今は波動気違いではなく『規定は否定』気違いらしい)が
何でマクローリンの名はおろかフーリエの名も知らないんだって話だよ
フーリエの名は知らずシュレディンガーの名は知ってる事から
コイツは、いわゆる『一般専書』と言われる講談社ブルーバックスにも満たない
コンビニに並ぶレベルの数学や科学に関する啓蒙書を読みかじったレベルなんだよ
また、コイツは、定数を定数ではなく揺らぎを伴う数としての認識を打ち明ける一方で、極限に関しても
『1の極限』の事を『1ではなく1に限りなく近づく』な表現は多用する事から
『今さら人に聞けない大人の微分積分入門』的な書は読んでるはずで
あの手の類いには終盤にフーリエ変換の話に言及するはず(今の類書からは削除されているが
コイツが俄か知識を仕入れた頃の時期には有ったはず)なんだが
このバカにそこまでの興味は持たなかったみたいだ >>868
すみません今の場合、波動君は関係ないんですよね
貴方がmc^2/√(1-v^2/c^2)の展開にフーリエ級数を持ち出した事を話してます
私の「オメーもトンデモじゃねーか」という反論には違いないと思うので、その話題に関して波動君は今の場合蚊帳の外なんですよ
もしかして自分の失態を波動君に転嫁しようとしてませんか?w 3レス目に旧通称波動が居た
↓
0.99999…は1ではない その22
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1617719255/
ここのスレ主の事を覚えてるか?もう死んだかも知れない爺の事を
俺がアイツの奇怪な主張を翻訳してたのを忘れたか?アイツ本人に褒められたくらいだが
俺自身は反意かつ敵意ある事が知れてから貶され始めたけどな
あの時の爺と言い波動連呼と言い共通するのは、各自が自己流の誇大妄想に囚われている事だが
その在り様は両者とも、論理を重ねる事は全く無く、悟性を練り上げる事にのみ専念する方法である為
自らの誇大妄想を自らでますます拗らせていく事に繋がっている
旧通称波動の旧自称と旧通称
旧自称『学問』『バカボンパパ』
旧通称『波動』『エネルギー濃淡』 >>869
このスレが君と俺だけだったら始めからマクローリン展開として話したが
波動が虚ついてるスレだ、フーリエの名で反応してくれたら少しはマシな話が出来てただろ
マクローリン展開の変数の次数なんて話なんかしたりしてみろ
『わたしは理解したいだけです』と言って返してくるぞ
波動に『ならテメェの観念論を述べ連ねる前に、もう少しマトモに学べよ』と言っても無駄
波動は数学や科学を『一括りに表現できる解釈』を得たいだけだから
そんな解釈は存在しないのにな
で、次数って言う分にはマクローリン展開以外は認めないと言って取って食って殺してやるという意気込みの理由は何? >>871
フーリエの名前を出しても同じだよw
つーかそれがしたいなら別個でレスすれば良いし、テイラー展開に絡める必要など不要w
いい加減諦めな
マクローリン展開は平均値の定理由来の物。
一方、フーリエ級数は三角関数の完全性関係と直行性に寄る物。しかも『n(>0)次』の項には独立な関数が二つ(cosとsin)があり、一つに纏めるとしても振幅と位相にパラメータが二つ。
全く別物だし、余りにも理解がお粗末
噛まれるのは私の意思関係なく自業自得だと思ってくれw >>873
由来2つを並べてみても取って食って殺しに掛かる理由になってないね
君の方じゃないか? >>873
なるさ
どれだけ御託を並べようが理解していれば、というかちゃんと勉強してればそんな事にはならない
なりようがないんだよ
煽られて当然 >>874
そもそもサングリアをシャンゼリアと呼び間違えている人に合わせてシャンゼリアと言ってやる事はしないだろ君
そんな人にも
「どれだけ御託を並べようがサングリアと理解していれば、というかちゃんと勉強してればそんな事にはならない
シャンゼリアと呼びようがないんだよ」
と言って煽り散らす気だろ、相手が社長相手でも学長相手でも天皇相手でもヤクザ相手でも煽り散らすんだろ?
徹してるね。そこまで徹底して人を煽る気質の君が『煽られて当然』と言う方が説得力無いだろ >>875
そりゃサングリアをシャンゼリアと呼んでたら訂正するだろ
ここは匿名掲示板だろ
何いってんだこいつ そう答えるだろ?波動に合わせる気なんてサラサラ無い事を晒したね >>877
そりゃお前の話だからな
自分の失態を隠すために波動君を巻き込むんじゃねーよ 流石に波動もフーリエの名前だったら反応できるかと思(たが結果は波動はフーリエさえ反応できず失敗だった)って
意固地になる事が確定的なマクローリン展開の話は避けたって話なんてのはね
君みたいに労働から離れてる人間じゃなければザラだけど
少しでも拗れた状況だと何でも正当に通せるか簡易化できると勘違いしてる君じゃ分からないだろうけどさ
絶対にそんな事は有り得ない、世間で起きている似た状況も何れかまたは両者がバカ故の拗れとしか見てないんだね、君は >>878
忘れてた、君はそういう人間だった
で、そうじゃなかった事が判明した場合でも暫くは多スレで追い回し嘘キャンペーンでやり返す人間だった >>879
意固地なのは君だよ
単にフーリエの話は別ですれば良かった
ただそれだけなんだよ
全く別の文脈に不合理な形で差し込む必要はなかった
それよりも遥かにマシな遣り方が、この上ない単純さで目の前に転がっている
それを取らず、適当な妄言の正当化に走る姿は間抜けそのもの
君の言い分は、「言い訳する前の自分よりも本当はもっと間抜けなんです」と言ってるような物だとなぜ気付けないのか >>880
誰だよそれw
勝手に知らない誰かと同一視すんなw
君は糖質なのか?w >>881
分かってないなぁ
マクローリン展開の話で意固地になったらフーリエ級数展開の話は何ヵ月先に持ち越しだと思ってんの
波動の誇大妄想を守る城壁の頑強さを舐め過ぎ
>>882
いーや、君は他ならない
滲み出ている君らしさは隠しきれない
むしろ君こそ俺を知ってるだろ >>883
すまんマジでお前誰
波動君の誇大妄想の堅牢さは天文版の現象君としての長い議論で君より知ってるつもりだけど やべえマジで知らねえ
俺はどっちの板も現象君スレにしかいねえからなあ
やっぱりとか言われても難癖にしか見えんわ
もしかして全部ハッタリか?w
本当は何も知らないんだろw >>886
数学板も波動関連以外は知らず
天文板も波動関連以外は知らず
じゃあどこで波動と会った? >>891
フラットアースが流行ってたからスレ検索して飛んだが
すまんけどこの道筋詰めてもお前に勝ち目は無いよ >>887
先日『正式な量子力学』の立場では粒子はエネルギーの濃淡とは見なせないと指摘しましたが
では貴方は量子力学を否定するという立場で問題ないですか?
それから、「エネルギー保存の破れが言われている」と言いますが、その由来はどこですか?
エネルギーが破れた事例は今のところ存在しません
もし仮想粒子の話をしているなら、仮想粒子はあくまで摂動論による議論を無理やり粒子の生成・消滅と解釈したせいであり、実際に生成・消滅しているとは言えません。エネルギーは常に保存されています。 >>891
そもそも何を以て勝ち負け言ってるんだ?何か戦利品が有るのか?
まさか日頃のウサ晴らしに手頃な奴を見つけては詰って悦に入る趣味が有って勝ち負け意識してるのか? >>894
そこを詰めても雪辱は果たせないって事だよ
潔く引き下がった方が早く忘れられて汚名も灌げるんじゃないかなw
しかしコロコロと論点を変えないと相手を言い負かせないってホント滑稽だよねw
しかも言い負かせられなくて草w
無様ここに極まれりって感じw >>895
何でフラットアースとやらのスレに興味を持ったん?どこの板からフラットアースのスレとやらに飛んだんだ?
元々どこの板に常駐してたら波動ウォッチャーになるんだか >>896
流行ってたから気になるじゃん
飛んだもの何処からの板とかないよ
chmateの検索機能をご存知ない?
そして波動君、もとい現象君はそのフラットアース板で一際論争の的になってた奴だよ >>897
板じゃねえ
天文気象板のフラットアーススレだ 人を見下す悦楽に酔い知れる痴れ者が散々、波動のケツを追い掛け回す奴が自分の出地を隠してら 自分の失態を他人に転嫁し、論点をコロコロ変えて自分の非を必死に隠そうとする
生きてて恥ずかしくないのかな 波動ウォッチャーの割には
コイツがマクローリン展開どころか
級数展開さえも知らない癖して
『数学はまだまだってことです』って言って“る”(過去形ではなく現在進行形)事は
都合よく知らないふりするのは不自然なんじゃね? >>902
❌都合良く無視
⭕関係ないから言及しない
なぜ波動君を絡めたがるのか
他責思考にしても異常だよ
マクローリン展開とフーリエ展開を一緒くたにしたのは紛れもなく君なのに 数学的理性を相対化したのが光速度一定の原理だと考えている
いや理性そのものか
30万+30万=30万
30万-30万=30万
なんて不思議な
このことは何を意味するのか
わたしはこれでいたって自然は無矛盾、つまり理解可能だと証明したと思っている
対象である自然は絶対座標、静止が存在しないのだから
運動という有は静止という無で規定されるのだと
無矛盾は無の存在、つまり無矛盾は矛盾で規定される
この場合の無は自然には存在しない、文字通りの無です
そして矛盾である理性は無矛盾は存在しないことにより矛盾しないのて゜はと今思っている
規定は否定と言い換えても良い
この辺はまだ予想段階
理数系の皆さん、理性そのものを相対化したのが科学なのではないかと
それによって対象の無矛盾が示されたのではないかと
自然の自己言及が自然認識
自己言及もまた否定で規定ということです 訂正
〉そして矛盾である理性は無矛盾は存在しないことにより矛盾しないのて゜はと今思っている
→そして矛盾である理性には無矛盾は存在しないことにより矛盾しないのて゜はと今思っている
規定はすべて否定という意味で矛盾しないということです
この辺は過去理数系の方がブチ切れたところでもう少しうまく説明できないかと模索中です
規定は否定だから決定不能に
規定自身は否定という意味で無矛盾・・・
対象との関係で決定不能に
自身という対象との関係で決定不能に
対象自身は無矛盾だから決定不能に
この場合の対象は理性・・・
不完全性定理・・・
スッと入るように規定したいとは思っていますが
うーんと w フラットアースでは論点が違うんだが、理解されないんで遁走
因みに某理系会議室で同じ目にあったが、研究員の方が指摘されて決着
いや、ここもそうみたいだが仲裁者がフラットアースのように居ないんで w
言っているところが違うんだけどね
無視しているのは貴方なんだけど
因みに静止は運動の一形態とか生滅は存在しないとかは屁理屈と言っていたが理系会議室では承認された
まあ時間非在説は半年くらいかかったな
まあいいや
真偽は対象が決めるから
ビッグバン仮説は崩壊する
対象が矛盾して終始が存在して光速度一定の原理無視してエネルギー保存則否定して、なんていうのはもうね 数で理解するが数は存在しない
科学はそれを裏付けている
わたしの主張はそれだけ
科学革命は認識の在り方を理解することで為されるのだと
ホーキングの語ることも参考になる
もっとも彼がそれが何を意味ているのかを理解しているかは解らないが
理性そのものを相対化すべきだということ
理性内部の話ではないということ わたしの論は何故不確定性原理が出来するのか、不完全性定理は何故
そして奇怪な論理の正当性を解りたかった
理数系の方々が理解を放棄しているから代わりに探求して納得できる解答が得られた
後は科学が真偽を決めるだろう
・・・でも某氏のように言っている地点が最後まで解らない人も多いんだよなあ
某大学院の方は聴く耳もたないんで主催者がアクセス禁止にした 認識外部の例
静止、生死の扱い
光速度一定の原理が゜示すことetc
某氏はこちらの言うことを全く理解しようとしなかった
まあどうでも良いですけど 認識に存在 静止 生死 無
自然に存在 運動 遷移 有
静止で運動、生死で遷移、無で有を規定
静止は運動の認識上の形態、生死は遷移の認識上の形態、無は有の認識上の形態
認識器官という物理状態に結ぶ像はそのままの自然ではないことを科学は示す
地動説はその端緒、はしり
自然は一であり多ではない
多は認識器官に結ぶ像
その抽象が次元
数は存在しない
自然は無矛盾であり、自然科学は自己言及であり有を無で規定する
これが不確定性原理、不完全性定理となる
無矛盾であるがゆえ スッと入る書き出しを模索しています
神の方程式を観ていたら、アルヴェーンの言葉を思い出しました
ホーキングの言葉は彼自身は気が付いていないんですが、方程式の性格を紐解く機会になっているんですが
ライプニッツ、ハイゼンベルク、ラーナーなどなど
方程式の性格を端的に指摘しています
哲学者ではヘーゲルが端緒みたいです
彼がその性格を指摘していて、たしか三浦氏も言及していた記憶があります
・・・理系の大多数は認識の在り方に無頓着です
わたしは認識の在り方と自然科学の示すことからいろいろと理解したい
それは始点でもあり終点でもあります わたしは現在の科学の在り方には疑問があります
これはわたしだけではなく科学者たちも少なからぬ方々がそうです
ハイゼンベルクは現代の傾向に反旗を翻しました
わたしのは一提言です
鴎外の失敗は過去のものではありません
今もまた現代の学問の在り方を固定しているのではとわたしなどには思えます >>897
気になって突然、現れる様な輩が何で根本的過誤を宣い続けてる人間のケツを追い掛け回してるんだ?
それに流行り廃りどうのこうのなら、IUTのスレの方が流行ってるだろ
>>903
『関係ないから言及しない』だと万事自己責任主義者に成るだろ
つまり、この例でいくと『人に合わせ様が合わせまいが関係なく間違いは間違いでしかない』という理念で
『人に合わせたんだとしても間違いであり恥ずかしい事には変わりはない』と考える派と
『その人に合わせなければならない立場の矮小さが恥ずかしい』と考える派と
『その人に合わせてやろうと協調する生き方が恥ずかしい』と考える派
の三派の内の何れか1つかまたは2つか3つ掛け持ち、という事になる
槍でも斧でも何でもナイフと呼ぶ『“間違った”認識の人間』に
合わせて『相手の“間違った”言い方を尊重し、そのまま同じ言葉を使い応じる』人間が槍をナイフと呼んでも
まぁ確かに間違った言い方、考え方を選んでる事には違いないわな
長文にも関わらず、まだ続く >>913続>>897
もし君が『万事万象自己責任主義者』『関係ない関係ない』連呼者だとしたら
君にとってみれば俺は人殺しだ。行き倒れ知人を雨の当たらん場所に移動するか傘を掛けるかの110番の二択指示に従うべく
要救助者を引き擦って雨の当たらない場所への移動を思い付き実行したわけだが
それがトドメになった。と言うのも、要救助者の行き倒れ理由が飛び降り自殺による行き倒れ者だった為
坐骨骨折と脊椎骨折を両骨複雑骨折に至らしめ、トドメを指してしまい
病院に到着して数分で亡くなる症状に到らしめた、もはや恥どころじゃない後生悔悲が在るんだわ。
業務上“非”過失致死なんだが、君にしてみれば
『業務上“非”過失致死だろうが何だろうが“関係ない関係ない”人殺しには変わりは無い、
法律とか事前事後と“関係ない関係ない”人殺しである事には変わりは無い』
と宣う人間という事になる。
万事万象自己責任主義者の君なら『例え生まれる前の災いでも関係ない関係ない、
その災いは“お前が災いが起こる前に生まれなかったのが悪い”』と宣う事になる
『信長が殺されたのは、そもそも、お前が本能寺の変より前に生まれなかったのが悪い』と宣う事になる
つまり、お前は、生粋の煽り屋だ 三度>>897
さぁ、君にとって何だい俺は?人殺しで?
波動ごときの間違いに合わせてやらなきゃいけない矮小な?
既に人間やめてる屑ゴミって事か?
いいんじゃね?『結果が全て』主義を包含するからな、『万事万象自己責任主義者』は
動物としても性格としてもホモサピエンスより優秀だった説が有力なネアンデルタールを
嫉妬執念団結で滅ぼしたホモサピエンスらしさ全開じゃないか
万事万象自己責任主義者も本当は本心ではなく演出、煽り嗜好の為だろ?
じゃなきゃあ波動なんかのケツを追い掛け回さないよな、むしろ『波動はお前の壮大な自作自演』まで
傍目から見たら可能性が在ると見られて、まぁそんなわけは無いが、でも、そう思われても不思議ではない
ん?フラットアースって何なん?普段は自分でネット検索して調べる俺が調べる気に生らん
前以て何か勘が働き、絶望しか湧かない。何なん?ガリレオガリレイの無理矢理降伏が思い浮かぶんだが?
まさか俺の思った通りの意味じゃないだろうな?調べたくない すげー多弁w
自己正当化のためにここまで弁を弄する努力は素直に尊敬するよw
それだけ自己の非を認めるのが嫌なんだな
『学ばない奴』の特徴の一つw
コロコロ君、流石に醜いが過ぎるよw >>『関係ないから言及しない』だと万事自己責任主義者に成るだろ
【無関係の人間に責任を被せるべきじゃない】
こんな簡単なコンテクストが理解できない人間が幾ら言葉を割こうが微塵も価値ないよ >>909
論理による論証を欠き、説明の体を成していない説話ばかりで何を説明している気になってるんだ?
新興宗教の口だけ達者ポンコツ幹部と同様、お前のレスは論証なき説話ばかりじゃないか
論証せずに『〜であると分かりました』『〜ってことです』ばかり
そんな説明未満の説話で、人に分かって貰えてないだの、無視しているのは貴方の方なんですけどね、だのと喚くとか
どこが理性なんだろうか?物証も論証も無くして悟性は理性に到達し得ない
物証も論証も無いから『〜であると分かりました』『〜ってことです』と
自らの悟性に基づく諭しばかりで説明になりきってない説話止まりの語りしか出来てない
そこを新たに悟性的判断の『規定は否定』『自己言及するから矛盾が生じる』を付けたし
理解を『横抜き』するから、説明に至ってないにも関わらず理解を進められた気に、お前はなれているだけ ゼノンの逆説は訳が分からなかった
これは三十年後に解決
重力概念はある科学史家ではこれでは解らないと書いていた
後年テレビ解説で解ったつもりになったがライプニッツの批判で解らなくなった
この辺りで科学は基礎が未だに確立していないことを知った
時間非在説もあると知った
その後現在は科学革命前夜にあると主張する科学者たちがいることも
微分積分の説明の不可解さとか
「ゼロの発見」を読むと著者は数学者の説明に疑問を呈していた
わたしはあなたではないが同じ人間、人間は植物ではないが同じ生物、生物は金属ではないが物質としては同じ
ウイルスのような鵺的な存在
フタナリ・・・授業で写真を見せられ生徒のわたしたちのとまどいの様子が忘れられない
観測問題
自己言及の認識論構造は言語学で知った
量子力学は新しい理論が求められていると立花氏はテレビで語っていた
最前線はボーア、アインシュタインに成れるかもしれないと沸き返っているのだと
それを受けてネットで研究者らしき方が一条の光も射さないと投稿していた 板倉聖宣氏は論理は静的だと指摘する
これは規定は否定と定義するスピノザ理解の導きとなった
「ゼノン4つの逆理」は自然は一であり多ではないと主張するパルメニデスの擁護として展開したのだと語る
板倉氏は「新哲学入門」で科学、思想の真偽の基準は対象だと主張する
氏は仮説実験授業を提案し論理として納得できても対象である自然が否定することがあると語る
ニュートン力学は予想してそれが自然により裏付けられたのだと
学生運動をした氏は社会主義は成功例が無い、また禁酒法もそうでありいくら論理として納得できても社会が停滞したり混乱したら退場しなければならないのだと
失敗の科学史という本ではいろいろ面白い事例が載っていた
鴎外の失敗、酸素を発見したがそれが燃素説を否定するのだとわからなかった科学者とか
何よりも地動説は光速度一定の原理に繋がり自然と認識の在り方理解の端緒になるまさに革命ということになる
光速度一定の原理にはまさに吃驚した
後年これは自然が無矛盾であることと認識の在り方の自己言及であるのではと思うようになった
この原理は様々なことを導けるとわたしは主張する
この原理の理解から数は認識の論理であり自然に実在しないのだと ある学者は真理は単純だと記す
わたしは光速度一定の原理から様々なことが導けるのだと考えるようになった
規定は否定であり自然の存在形態は運動でありパルメニデスの自然理解の正当性を裏付ける
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発であり新たな濃淡を生成する過程だとこの原理は示す
ビッグバン仮説、最小単位説は自然を終始、単位で理解するから終始、単位が存在するという理解
しかし静止、生死、無で規定するが対象には存在しない
現代科学は未だに観たものがそのままの自然だとする天動説を本質として脱していないのではないのかと
武谷三男氏は理系の立場から認識論を積極的に展開し哲学の思弁性を批判した
理系の場合は理解は対象で検証される
武谷氏の問題意識を継承する人がいないのが残念でならない わたしの主張、理解は対象である自然が真偽を回答する
ビッグバン仮説、最小単位は認識の在り方を自然に押し付けた謬見でしかない
数で規定するが数は実在しない
わたしは現在の学問の基礎は未だしだと理解している
理系の方々には不愉快な主張かもしれない
物言わぬは腹ふくるるわざなり
これは徒然草だったかな
わたしもまた まさか自分なりの考え方が創ることが出来るとは望外
三浦つとむ、板倉聖宣、山川偉也諸氏の学問に深謝します
悔いはありません
そして日本と両親親族に感謝します
某理系会議室の方々には親切に付き合っていただきました
当初のはかなり未完成でした
基礎論としてはかなり進んだと自負しています
いずれにしても過程としてであり完成はしていませんし細部はこれからです
というか完成はないのかもしれません
・・・いや現象理解は完成はないが基礎はあるかもしれません 武谷氏は資本論の分析から三段階理論を提唱した
当時湯川理論に否定的だったボーアなどがいたが
武谷氏はこの理論を適用し湯川氏を支持したとあった
原発というか安全は場所が一番重要だから日本のような地震国ではとかなり危惧していた
また嘘をついてはいけないという教育は人は嘘をつかないと思わせるから嘘を見破る教育をと提唱した
彼は産湯とともに赤ん坊を流すなと警告した
ある経済学者は資本論を全面否定するような言説をしている
それはとても残念なことではないかと
マルクスの学的手法で彼の思想を否定しソ連崩壊を予想した学者が居た
これがどういうことかは理解する価値があるのではないかと
いずれにしても学もまた過程としてある
そこに絶望も希望もあるのではとわたしなどは思う ・・・科学の結論は本能にとっては衝撃だと思える
新約聖書学の結論がキリスト教徒にとっては悪夢であり無視され続けているように科学の結論は多くの人には受け入れられないと予想している ここでも静止は運動の一形態、生死は物理として存在しないという理解を屁理屈と言われた時は正直えっと思った
観えたものがそのままなら科学は要りません
地動説が語る重要なことの一つです
観えるものは認識器官という物理状態に結ぶ像です
それは諸生物、また個体の物理状態により差異が在ります
観たものはその物理状態という物理条件に従い像を結びます
何よりも静止、生死、無は果たして自然に存在するのかということです
わたしの主張は認識とはということを理解する必要があるということです
自然科学は自然〈認識〉なのです 理数系の方々へ
一ディレッタントの進言です
片手間で良いですから認識論に興味をもってください
わたしは科学革命というか学問の革命はそこからではないかと考えています
自然科学は自己言及です
物理状態に親和反発するのは認識器官の像も同様ではないかと
観るとはどのようなことであるかも考えても良いのではないのでしょうあか
観るということも自己言及から理解しても良いのではないでしょうか
認識はという認識、つまり認識論もまた必要なのではないでしょうか
わたしという自己言及はどのようにして、ということです
それは自己を他として、つまり規定は否定ということです
フォイエルバッハの理解から三浦つとむはその認識の構造を示しました
「日本語はどういう言語か」講談社学術文庫で読めます
何回か書きましたが、彼の弟子は彼の社会科学からの論文から共産主義は成立しないことを導きソ連崩壊を予想しました
唯物論=共産主義ではありませんので一応注意を喚起しておきます
問題意識のある方にと わたしは数一般は存在しないと理解しています
ひろゆき氏の認識は未だに天動説的であるのだと 対象を存在と前提とします
対象に非存在は無い、つまり無矛盾で理解可能だと科学は示します
ただし規定は否定です
自然は運動しますが規定は否定です
決定不能は普遍です
であってではないということです
運動とは存在すると同時に存在しないこと ヘーゲル
飛ぶ矢の逆説
・・・非存在が存在したら、存在という規定は無効です
だから非存在の存在は証明しえないのではという疑問はありますが わたしは粒子も重力も諸力も存在しないのだと理解します
重力は運動関係変更に要するエネルギー量で
他の諸力はその物理状態に生成するのに要するエネルギー量ではないかと
自然は運動するエネルギーから成り、異なる濃淡に成るだけなのだということです
最小単位はありません
自然は一ですが認識器官には淡は像を結ばず多として像を結びます
次元はその抽象です
次元は無いのですが次元で理解します
自然は無矛盾ですが、規定は否定で
対象には自然、非自然という否定関係は存在しません
認識器官に結ぶ像は多であり、それから自然を認識します
観たものがそのままの自然ではないことを科学は示してきました
静止、生死、無で、否定で規定しますが、それらは自然には存在しません
数で規定しますが数は存在しません
自然科学は自然認識ですから認識論もまた考察されなければなりません
対象とそれを認識するその認識の在り方もまた、ということです マジで論理して見せねぇな波動は
聖書を書いてる積もりかよ 耳タコになるまで言いましょう
認識器官は自然の一部であり自然をその在り方で像を結ぶ
像は多様であり、それを否定で規定する
科学は地球、人間、金属は差異であり否定ではないことを示す
そして認識器官には存在する静止、生死、無は自然には存在しないことを示す
それがどういうことかを理数系の学徒は理解すべきかと
わたしの理解は一つの試論です
現代科学の隘路はそこから突破可能なのではと夢想しているわけです 個人的な体験として理数系学問は解らないことが多かった
その時点では誰も解らなかったことだったんだなと判った
自分なりに納得できるような理解にたどり着いたので満足している
道半ばではありますし、否定される可能性はあります
でもそんな視点をもちえたことは幸運だと思っています ミス・マーブルは変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほど変わると言います
ヘーゲルは対象を過程として捉えることを提言します
学問もまたある視点からは過程として理解する必要があるのではないのでしょうか
板倉氏は固定して理解することは重要だがと相対化して理解しています
歴史を振り返れば彼、彼女は正しいのではないでしょうか
現在の学問の状況は革命を必要としているという理解は洋の東西を問わず散見します
一ディレッタントとしてですがこの変革期における日本の学徒の躍動をと期待したい 「進化は万能である」は面白い本
様々な分野でボトムアップが有効だと述べている
滝村隆一がどこかで会社はトップダウンであり云々と語っていた
もしかするとそれが克服される可能性があるのかもと期待させる
共産主義もこの在り方から否定している
いろいろな意味で現代は分岐点に在るのかも知ない
日本だと年功序列とかが壁になるのかな 適当だが
西洋はいろいろ行きすぎる印象があるがこれも長短かな、なんて
ある理系の方がどうも科学が転換点にあるようだという認識を語り、日本の会社同様に科学が取り残される可能性を指摘していました
どうか日本の学問が取り残されないようにと思いつつ問題提起をしています 武谷三男氏は技術は自然法則の意識的適用と定義している
武道家南郷継正氏は技術を技能との違いを示した
認識の技化ということを語り、板倉氏の授業方式の短所を指摘した
認識の技化というのは武道の技の習得過程の問題が武道家にはあるからだろうか
進化は万能であるの著者は二十世紀の人間理解の一つであるタブララサを否定的に捉えている
やはり種の特性があり、それが花開くのに適切な土壌はあるのだという主張です
わたしの父親はタブララサ派で、やればたいていのことは出来るんだよと言い、事実やってのけたので、そうなんかなと納得していた
ある程度はそう言えるのかもしれないが、やはり種と土壌のマッチはあるのかなと思い始めている 自然は過程として存在していると理解している
概観したらやはり固定して理解するのは違うのだと
むろん固定して理解するのは有効であるという板倉氏の理解は正しいとは思う
学問も人間もまた過程として理解すべきかと
変われば変わるほどますます変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
人間の能力の可能性を展開する土壌を生成することに役立てばと
いろいろ人間はまだまだで、そこに希望があると思っています
日本がいろいろな意味でカルタゴにならないように願っています あっぱれで子供の面白さに興じていろいろ漁った
愛ちゃんが表紙の写真集とかに亜由美ちゃんも載ってた
ネットでいろいろヤバいファンに遭遇
プロローグの画像もらったな
俺は面白いのが好きだから、樹音、朱里、中国人の子供とか天てれにも少しハマった
桑安か、思い出した
この子は天てれで一番面白かった
あっぱれのきーちゃん的存在かな
天てれはまだ続いているんだな
どこかにDVDが残っているんだが
この数年あっぱれ動画観ていないなあ 理数系会議室でわたしの指摘が届く人と届かない人がいた
当り前だが w
入り方の問題もあるのかな
頑なに認めない人もいたりした
時間、重力、諸力の存在に疑義を呈したらそれだけで聞く耳をもたなかったり
何人かは話を聞いて受け入れたり、中立派になったり
いずれにしても自然が答えを出す
・・・ビッグバン仮説は科学の否定に映り受け入られない
さてどうなりますか
数一般の存在にも否定的な理解です
現代学問の基本を絶対としていろいろ裁くと背負い投げくらうかも
そういや背負い投げってギャグがありましたが
いっこうさんか、思いだした 動中静、静中動、空即是色、色即是空、の陰陽説
諸行無常
諸法無我
以上、波動の愚駄愚駄な語りはたった三行で先人が既に集約を済ませてました 何日か微熱があって寝床に
ちなみにワクチンは一回もうっていない
反ワクではないし、尾身さん信じているほうだが
同居人が亡くなったんで、どうでもいいかなと w
居たらむろん打ったな
物言わぬは、で投稿しています
虹自身 時間はありと 思いけり
わたしの好きな句の一つです
明日をも知れぬ身でもありますし
茂木、竹内氏がと学会的な学問理解を批判していて共鳴しました
元会長の山本氏は主催掲示板で相変わらずの感じでやっていました
彼の批判派の方が山本氏の投稿を批判的に纏めているサイトがありましたが、独善的だよねって感じでした
現代科学というか理数系は認識論を顧慮していないとわたしには映ります 学問と勉強って違うのかなと思う
理数系って革命が起きるとそれまでのトップが置き去りにされることがあるとか
科学史家が面白い指摘をしていた
努力と言ってもいろいろある
ある分野の権威は勉強ではそれほどでもなく、独自に学んだ結果でそうなったとか
紆余曲折あったみたい
その分野で達成したことを忠実に追い学ぶことが勉強なら、それを相対化して変革することの方がわたしには魅力的かな
鵜呑みにすれば捗るが、納得できる形で学んでいくといろいろ躓く
科学史家がそのことを指摘していた
けっきょくまだいろいろ解っていないということだけが解ってるのかな
ナンバーワン、オンリーワン、どういう理解をするかということかも もう少しでスレ終了
一応根拠はあるからさ w
科学史家は自然は無矛盾、理解可能だというのが科学の前提だと語る
自然科学は自然認識だから認識の在り方も考えましょうというのがわたしの提案
成立条件とかも ゼノン、カント、ヘーゲルが解りたかった
最初の動機はそれだけ
いろいろあたればあたるほど泥沼に
ますます???
光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理 板倉さんの論理の性格の指摘はひっかかった
山川氏のゼノンの逆説がどういうものかを論じてくれたのもありがたかった 岩波のパルメニデスの解説にはちと?
パルメニデスが運動の否定とあった
それなら飛ぶ矢の逆説の意味が解らない
パルメニデス哲学をゼノンは相対化したのかなとも思ったりする
パルメニデスは厄介なんだよな ある人が哲学板でこういう問題に引っかかり廃人になった奴がいたと忠告していたな
一応個人的には解決が付いた
いろいろ渉猟して運もあるがとにもかくにも納得しました 長い間格闘してきて、途中で諦めたんだが、やはりどこかで引っかかってしまって
生きていく上で悪い条件がある意味で良い条件になったりする
あざなえる縄のごとしを地でいった人生でした
悔いはありますがまた無いとも言えます 個人的には光速度一定の原理と規定は否定、認識の在り方の認識で哲学、科学の未解決問題が理解可能なのだと
あとは自然が回答する
真偽は対象が示す
極めて単純、極めて豊穣 タゴール
その通りだと >>945
お前には根拠は無い。主張したい事が
学問の在り方
決定に纏わる肯定面と否定面の混在
部分視としての多体解釈と全体視としての一体解釈の自由度
と多岐に渡っているが、どれも問う対象を書き並べるばかりで
人名を挙げては発言を述べたりする程度で、理性的に論証らしい論証は全くせず
悟性的に把握のみで解釈しようとしかしていない
終始、波動は自然科学に対して自然科学が理学的一意解釈で在らんとする事に異論を呈し
自然科学も文学的多様解釈(波動は文学的である必要は無いと思ってるが)で在るべきと宣う説話しかしていない
しかも説話の自覚が無く、自らが諭し口調である事にも気付いていない
波動の言う『私は理解したいだけです』は『一括りに表現できる概念・言葉・説明・解釈・理念が得たいだけです』と同値
だから波動は、学問それ自体を学究問答履修演習する事は無く、学問の外延・上っ面だけを眺め
一括りに表現できる方法の探求する思索ばかりをしている。だから波動の主張は毎回こんなにも長文×連投=大長文化する。
結局、波動の願望『一括りに表現できる概念・言葉・説明・解釈・理念の獲得』は果たされる事は無い
『一括りに表現できる概念・言葉・説明・解釈・理念』が存在する学問は無い
故に、この意味でも波動は爆発律に行き当たってしまっている。波動は今までも度々
パラドクスに関する話題に対して爆発律を生む解釈をしたり
事象の不確定性や不特定性に対しても爆発律を生む解釈をして見せて来たが
願望までも爆発律を生む内容となってしまっている。そらぁ、毎回毎回、長文レス連投にしか成らないわけだ、波動は 認識器官自体も運動変化が常態です
他の物理との親和反発を経て状態を保ちそして保てなくなり・・・
やはり濃淡の親和反発という一元理解でいいわけです
それが複層的に展開するのが自然
宇宙ー大構造ー銀河系ー太陽系ー地球-生物ー諸器官ー諸細胞ーミクロ・・・
運動するエネルギーの濃淡の親和反発で新たな濃淡の生成
これが自然ということです
無限であり何も生まれない、無くならない
宇宙・・・ミクロ云々も規定です
それは否定関係ではありません
なんか基礎として終点っぽいかな
自然はただただ運動変化しているだけです
様々なことから自分なりの自然観と認識とはという理解が得られました
それを可能にした現代日本の文化状況に感謝します 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
わたしの学の出発点でありゴールです
学とはという問いが思春期に付きまといました
芸術のための芸術というのは個人的に倒錯している
ならば学のための学もまた
けっきょく上のような疑問に行きつきました
自然とは学問とは、そして人間とは
いちおうの結論が出ましたが、世紀末に過った不安が的中しました
なんというか・・・
さて 濃淡の親和反発は自身、認識器官、その像もまたということです
徹底すべきだったんだなあと反省します
なかなか貫けないものです
さまざまな議論に触発されました
そうでなきゃ雛型で終わっていました
フラットアース、球体説、いずれも天動説的ではないかと 不完全性定理で何もかも解らないことが証明されたと主張する人たちがいるとか
いや、定理ですから、解らないことが解るからこそです
規定は否定です
光速度一定の原理は絶対座標が存在しない、つまり自然の存在形態は運動であることを示します
静止という規定が存在しないことにより対象である自然は無矛盾であることが示されます
規定は否定であり、対象には存在しない
対象の否定ですから当然です
規定するからこその不完全性定理ではないかと
光速度一定の原理は豊穣でαでありωではないかと
それは対象と規定の自己言及ではないかと わたしたちもまた周りの物理存在と同様なわけです
運動変化して親和反発して新たな濃淡となる
それだけではないかと
なんか諸学問以上の結論になるようです すべては幻覚である、という主張は移り変わりゆく自然という事実から生まれる〈幻覚〉なのかもしれません
移り変わりゆくこと自体は移り変わらないのです こんな悟性一辺倒議論家が相手だったんだ
疑問を投げ掛けられた教授や院生たちが黙ったわけだ
・取り合うだけ損をする全き無駄な討議を持ち掛けられた
・構うな、邪魔するなと言ってやっても、こういう手合いは邪魔ではなく良い指摘をしている気になっている構うと余計に駄弁を長引かせる、黙ってよ
・感心して聞いている風を装って、ほうほうの体で聞き流してやろ。それにしても興味深いな、こういう輩の『症状』は
波動は若い頃から、こういう見方されて、やり過ごされてばかり来たんだ
実は波動と同じ思想・解釈・理念に妄執し続け長年、議論の場をさ迷い続けている者達は常に存在し
中でも質まで波動とそっくりな奴等は居る。少子高齢化が進み人工減に転じたとは言え、一億二千万も居れば
波動と同種は少数ながら量産されるわけだ 全ては脳がみせる幻覚という主張があります
それでは脳はどうなるのかということに であってではないというヘーゲルーマルクスの矛盾はクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説が基ではないかと
不完全性定理も規定は否定ということだとわたしは考えています
不確定性原理は有を無で規定するからです
測定値が近似値になるのは必然だということです
エネルギー保存則の破れはありえない
自然以外ありませんから
けっきょく観たものがそのままの自然では無いということです
これは認識したものがそのままの自然では無いという本質ということです
科学は自然は差異であり否定関係は存在しないということでは一貫しています
粒子と波という否定関係は存在しないのだと
地球は諸天体とは差異であり否定関係ではないいうのがガリレオたちで、科学の発展はそれを裏付けました
わたしは観測問題もまた差異であり否定関係ではないということを科学は示すと予想しています 何回でも言う
自然科学は自然認識
だから認識の在り方は理解しなければならない
地動説は観たものそのままが自然ではないことを示すこのことは徹底して考えられなければならない
静止、生死、無は認識器官に存在するが自然には存在しない
これが何を意味するのか
数を数える
認識器官には此処から此処までは在るが座標原点は存在しないと科学は示す
いろいろな意味で此処から此処までは存在しない
此処とは何かということも考えなければならないのではと > 不完全性定理も規定は否定ということだとわたしは考えています
ダウト
> 不確定性原理は有を無で規定するからです
ダウト
> エネルギー保存則の破れはありえない
> 自然以外ありませんから
答えの理由根拠がダウト
なぜ誤った理解のまま問題を理解した気になり解答できていると思い上がるのか? 生物学者福岡氏は生物は生きつつ、かつ死につつあると語る
これは対象を否定で規定するからです
生物は水でも金属でもありません
しかし物理としては差異であり否定関係ではありません
つまり同一を非同一として規定します
この規定の在り方から鵺的な存在が出てきます
フタナリ、ウィルスなどです
分類困難な対象は分類するからです
生物は同一であることはありません
運動変化しているからです
非同一を同一で規定するからです
それは運動変化して物理状態として同一であることはないのに同一として規定するからです
福岡氏のこのような理解は規定が否定だからなのです
運動変化する自然を否定で規定するからです 変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わらない
前者は物理状態は変容しますが物理としては変らないということです
後者は物理としては変わりませんが物理の存在形態は運動変化ということです
規定は否定だからクレタ人、ゼノン、カント、ヘーゲルということです
規定は否定だから不完全性定理、不確定性原理、観測問題ということです
対象は無矛盾です
規定は否定だから、規定するからということで 現代科学の行き詰まりから革命が必要だとする科学者は散見します
理数系の方々、時間とは、重力とはが解っていないのが現在です
数とは何かも解っていないのではないでしょうか
逆に言えば貴方がたにはやりがいがあるのではないかと
わたしのは一試論です
このように捉えると、ということです
それ以外ではありません ワインバークは宇宙の始まりまであと僅かにまで迫っていると前世紀末に語りました
さて始まりはあるのでしょうか
科学者は死の分岐点が解らないと語りました
さて死は物理として存在するのでしょうか
さてさてさてとわたしなどには現代科学の未解決事象の多くが認識の在り方に無頓着だから解決できないのではと映ります
実数は存在するが虚数は存在しない?
これも認識の在り方を無視するから議論百出としかわたしには映りません 学問は結局自己言及が本質ではないかと
自己言及は自己を他として、ということです
自然認識は自然の一部である人間が、ということです
認識の在り方の認識、つまり自己言及すべきかと
光速度一定の原理は座標原点、静止で運動を規定するが静止は存在しないことを指摘します
この原理は自然と認識の在り方の言及なのです
つまりαでありωだと
この原理が語ることは実に豊穣です
基本はこの原理が確定可能なのだとわたしは理解しま わたしという自己言及の認識構造を解き明かした三浦つとむ氏の言語過程説を基に「言語にとって美とはなにか」を著したのが吉本隆明氏
当時隆盛だったマルクス主義芸術運動に真っ向対峙した芸術論で序論の表現論は出色だった
これは音楽、美術、というか芸術一般の基礎の指摘でもあった
彼は自著を手にして、勝利だよ勝利だよと呟いたとか
三浦つとむ氏は共産主義者だったが自身の論文でこの思想が成立しないことを示す端緒を開いた
わたし自身はやはり唯物論は正しいと信じている
三浦さんは思想としてはともかく学問としては勝利だよと言えるのだと
三浦氏の認識論は学ぶに値すると思っています
また板倉聖宣氏の概論的性格の書物もまた
山川氏の古代ギリシャ研究の書物、とりわけ「ゼノン4つの逆理」はお勧めします
勝利ですよ、三浦さん、板倉さんと言えるのはわたしが生きている間には無理そうです
理数系の学徒のみなさん、認識論では日本は世界に先んじていて学問の革命には有利であり、学ぶに値するとわたしは主張します
コペルニクスの衣鉢を継ぐのが日本の学徒であることを希望しています 認識の在り方の認識がこれからの課題でしょう
認識器官という物理条件もあります
素朴に観たものがそのままの自然だということから脱する必要があるということです
始まりはたしかに認識には必要ですが存在しないのです
これが自然認識を語るうえで必須だということです
次元も数も認識には必要ですが実在しません
大科学者でさえ天動説から免れていないのではと ここで考えてきたことを取り入れて書き直します
ありがとうございます
いろいろ触発されました
違う考え方に接することは大事ですね
自分の理解を深める参考になりました
構成考え直します
少しかかりそうですが
もう少しでこのスレ終わりますね
完走したい ひろゆき「1と0.9999…は等しい。わからない人はバカ」
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1636640284/
これももしかすると検討の余地があるかも
朝閃いたんだが、まだ形を成していない 以前四次元が実在したら静止した自然、そして自然の一部であるわたしもまた無限に実在しなければならないと主張しました
認識するということはそういうことです
一である自然は多で認識するのですから
規定は否定です かなり前フリーマンの番組で時間実在否定論の科学者が似たようなことを主張していた記憶がありますが
なんか違うと思った記憶がありましたが
もう一度観ないと解りません 観たものがそのままの自然ならば科学は要らない
ある学者の言葉です
これを深化して徹底するのに何年掛かったやら
これからもまた 四次元は難関でした
対象は一ですが運動します
運動という有を無で規定しますから多、つまり運動量で理解します
此処、今と指示すると此処、今は飛び去る
このヘーゲルの指摘を読んでから約半世紀
やっと合点がいく理解に到達しました
一を多で規定しますが、これは認識の在り方故です いずれにしても学問は新たな視点が必要な段階でしょう
それだけは言えるのだと
現在を固定して変わらないと考えていたら衝撃は大きいでしょう
第二のクロネッカーとかガリレオ否定派に成るかも知れません
お気をつけてください 規定は否定
これを一貫することは困難です
板倉氏は頑固に前提を守るために柔軟性が必要なのだと語ります
まことにその通りだと実感した次第です
西洋人の徹底性は凄いなあと実感します
新約聖書学なんてのはもうね、と絶句しました
数学もまたそうです
三浦さんは自身の学の展開が信奉する共産主義否定に繋がると思わなかったし、また最後まで抵抗しました
この辺は残念なことでもありました
板倉さんは社会がノーと答を出しているのだから諦めたと語ります
真偽は何で決定するのかという問題意識がなかったと批判します
その板倉さんも過ったところがあるのでは、という印象をもちます
むろん彼らの専門分野での功績は素晴らしいのですが
専門家の過ちを素人がただすことは良くあることだとファイアアーベントは語り、三浦氏も素人を軽んじることの危険性を語ります
わたしは良きディレッタント、素人になりたいのです 科学は観たものがそのままの自然では無いということを証てきた歴史ということでしょうか
粒子も静止も生死も無も認識には存在しますが・・・
そして認識そのものが相対化される
規定は否定で対象には存在しないのだと
もちろん対象の否定ですから対象に在るわけではありません で、波動は
極限も
不確定性原理も
不完全性定理も
どれも素人曲解で誤解したまま要因を分かった気になってる事について
どういう自己弁護で開き直ってる? カズレーザーの番組で、まだまだ表現についての理解は混乱しているんだなと思った
けっきょく、この時点ではこう理解されているということを前提にしなきゃいけない、絶対とか固定して捉えるのは過つということです
ただ、それは天動説がある範囲で有効な理解であるのと同じで、だからこそ説得力はあるわけです
・・・もしかすると間違いかもと思っていたら全力傾けられませんから
板倉氏は固定して理解することの有効性を説いていました
ふと出自がいかがわしいマタイ福音書が思想として高く評価され、またバッハのマタイ受難曲を産んだりしたことを想起させます
人は偽物ほど熱狂するとゲーテは言ったそうです
北杜夫だったかな、たぶんエッカーマンとの対話からの引用でしょう
そういやゲーテは友人に君はスピノザしか読まないのかと言われたとか
学問の基礎は未だしではないかと
ある意味完成しなきゃいけませんが、ある意味完成することはないのだと
自然は無限ですし、物理条件の生成はこの意味で無限ではないかと
数年ぶりにバッハが苦手な母が感動したマタイ受難曲聴きたくなりました
三時間ですし映像版でしか完走したことありませんが 理数系の問題意識がある方々
どうか認識論に少しでも耳を傾けてください
観たものがそのままの自然では無いことを科学は示してきました
自然認識ですから認識の在り方は検討に値するのではないでしょうか
静止は運動の一形態、生死は物理としては無いというのは決して屁理屈ではなく、科学の理解に基づきます
科学は否定関係だと規定してきた対象が物理として差異であることを示してきました 自然理解は自然の一部である人間の自己言及です
自己を他者として、つまり否定で規定します
不確定性原理は運動という有を静止という無で規定するからです
0に限りなく近いが0ではないのです
無で有を規定するからです
つまり近似値は必至で=ということはあり得ないのです
不完全性定理もまた否定で規定するから決定不能になります
光速度一定の原理は静止で規定するが静止は存在しないことを示します
自然の存在形態は運動であり無矛盾であることは規定は自然には存在しないことで示されます
ウイルスが分類困難なのは差異を否定で規定するからです
対象は無矛盾ですが差異として在りそれを否定で規定するから不確定性原理、不完全性定理、観測問題などなどが出来します
クレタ人、ゼノン、カント、ヘーゲルもまた否定で規定するからです
否定ですから対象には存在しませんし、光速度一定の原理はその存在を否定して自然が無矛盾であることを示します 認識器官は自然の一部です
自然をその物理状態により像を結びます
認識器官には諸生物、個体の差異により像は違います
また静止、生死、無は認識器官には存在しますが自然には存在しないのです
認識とは、ということは検討に値するのでは まだまだ解らないことだらけです
ある研究者は量子力学の最前線は一条の光も射さないと語ります
自然は差異として在るが無矛盾なのだということがアリアドネの糸だと
差異を否定で規定する、規定は否定なのだと
それを念頭に理解していくと理数系、哲学の解けていない基本が理解できるのだと フラットアース説批判のスレはブレークスルーとなる認識が得られました
96年に「ゼノン4つの逆理」で無矛盾な自然観を獲得しいろいろ解決できたと喜びました
四半世紀以上前ですが、それがまだまだだということには気が付きませんでした
ここでも一を多で規定するということが四次元理解に繋がりましたことに吃驚します
考えてみれば当たり前なんですが、なかなか気が付かない
睫は目の前にあるんですがなかなか気が付きません 基本人間の生とはが解りたいだけかなと思います
客観な理解で恣意性を排除した確かな認識を得たい
自然理解も学問もその手段ですが要です
正直きちんとした基礎から理解構築した人は皆無ではないかと
その端緒を拓く認識の基礎前提を提供出来ればこのうえない僥倖です
そのうえで日本の学徒たちに科学革命を成し遂げてほしいのです
かなりのところに行っていると思える西洋の学徒たちは未だに認識の問題に気が付いているとは思えないから十分チャンスはあるのではと ・・・まあ、あまり芳しいとは思えない結論が待っているという予感はしています
数学はもちろん新約聖書学、マルクス主義の結論以上なのではないかと
最終戦争が起きて天から手が伸びてきてキリスト教徒だけ助かるという宗派がアメリカに在りキューバ危機では軍部幹部にいたと側聞しました
いやはやですが、全幅の信頼みたいのがあります
宗教を好まない母は魂だけは信じると手紙で書いていました
羨ましい限りです
わたしにこういう事を受け入れる余地がありません 前にも書きましたがわたしは幻覚体質です
宮沢賢治がそうだとか
要するに人より感覚という物理状態が不安定なのだと理解しています
あまりにも外界から刺激が少ないと勝手に感覚器官が励起するのではと
困るのは感覚器官に生成される音や像が自然の在り方に対応していないことです
あとから思えば、あれは幻覚だったんだなと思ったりします で、なかなか自分の認識が自然と対応しているかには自信が持てないわけです
観たものがそのまま自然では無いどころではありません
金縛りも二十代までに何回かありました
あれは焦ります、なぜならこの時に天変地異があったら動けないのですから この体質は悪いことばかりではありません
母が亡くなり数か月後にドアを開けたらベッドの傍に和服姿の母がじっとわたしを見つめてスゥーという感じで消えていきました
また来てねと呟きましたが、自分の幻覚体質にこの時ばかりは感謝しました
父は目覚めた時枕元から声が聞こえました
残念ながら姉は夢の中だけでしか逢えません
その内にと期待しています
死ぬ間際に成ったら総出で迎えてくれるかも知れません わたしの場合は感覚器官の像を相対化して理解する条件に恵まれているのかも知れません
でも皆さんも科学的知見から相対化することは可能ではありますが たぶん丑三つ時ですか、布団の周りを歩かれたり、脹脛触られたり、隣の部屋に人影が映っているのを目撃したり
でもその後ぐっすり眠れるのですから、いうに及ばずでしょう
叔母は布団を捲られじっとみつめられた体験があるそうです いろいろと霊能力者とかいますが、そういう体験はしているんだろうとは思います
いろんなバリエーションがあるのでしょう
背後霊も見た体験はある人もいるのでしょう
ただそれが忠実な現実の像かというとそれはわからないのではと思います 幻覚の在り方は文化の影響が強いのではと思います
西洋では幽霊に足がありますが、日本ではありません
憑くものも文化により違います
たしか犬もあったような
悪魔がついたりとか
ある意味楽しいとも言える?
不謹慎かな w 西洋の中世で教会を建てたかったりすると、この木の下に聖人の〇〇が埋っていると神父が言い、掘ると出てくるので信徒たちはお金を喜んでだす
あまりも続くとやはり疑いはじめ、募金にはボタンとかが入り始めたりする
ドラマで募金箱を開けるとボタンの方が金より多い事態になって頭を抱える場面を見たことがあります
西洋の窓という阿部さんの本を読んでいたらこのドラマを思い出しました ちなみに西洋史で著名な阿部さんはブレーメンの音楽隊だけで、日本史で著名な方も一作だけだとか
西洋史、日本史では学績としては幾つも高レベルの研究を何作もだしている方々がいるとか
そういやある分野で知る人ぞ知る方はテレビに出演依頼をされても出なかったそうです
いやそんな暇ないからということらしいです
板倉さんは晩年に?外関係で出演していました
関川夏央さんは擁護派でしたが、やはり間違っていましたから弁護は苦しい印象でした
では学徒のみなさん、期待しています
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