禪
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ここに正法及び正法の体得の仕方を記します、お経のように繰り返し読むといいです。 一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。 自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。 坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。 例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。 「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。 見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。 辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。 一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。 この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。 景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。 動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。 自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。 それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。 綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。 それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。 何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。 生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。 「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。 「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。 「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。 聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。 だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。 既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。