大乗は仏教?ヒンズー教?キリスト教?その4
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仏教をベースに、キリスト教システムを乗せ、ヒンズー教からマントラと神を借りた大乗。その教義を批判的に論考する。
論理的議論ができない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。 Q. 釈迦の生前には仏教徒が信仰できる神仏は存在したの?
A. 釈迦は神仏を崇拝しなかったのに、大乗は神仏を崇拝する。だから、大乗仏教の教義は釈迦の教えとは違う。
当時(初期)の仏教は無神教(むしんきょう)といったほうがよく、神の崇拝や釈尊仏陀自身を仏として崇拝することを許しませんでした。
弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。
https://www.koyasan.or.jp/shingonshu/ 釈迦の教えでは、悪しき者、愚かな者は覚ることができず、救われない。また、覚りは個人の問題であり、他者に縋ることはできない。釈迦の教えは、理論的に正しい反面、厳しい教えでもある。
そこで、愚鈍な大衆向けに、誰でも簡単に救われる低俗・低脳な宗教をでっちあげた。それが大乗である。 まず、「一切衆生の救済」を前面に出した。信じる者、縋る者は救われると謳った。
しかし、この教義の問題は、現実の民衆の苦しみに対して、大乗の神仏は何もしてくれないということである。コロナや紛争で苦しむ民衆は大勢いるが、放置されたままである。
そこで、現世ではなく、浄土で救われるといったシステムも使用されるようになった。こうすれば、現世で民衆が救われない問題から逃げることができる。
これは、キリスト教からのパクリだろう。極楽浄土は天国だし、弥勒はメシアである。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto02.htm
もっとも、「一切衆生」を救うと謳う以上は、信者である必要もなくなるし、覚る必要もなくなるという問題は依然残っている。本来、覚りを目指していた釈迦の教えと乖離している。
つまり、土台である仏教と増改築部分で不整合が生じている。 大乗の次の問題は、個人の問題である覚りと「一切衆生の救済」との連携である。
本来的には覚ったとしても、他者を救済することはできない。覚りは個人の欲望や執着から解放されることによって達成されるのだから、他者の救済とは無関係である。
釈迦が説いた慈悲は、正しい教えを伝えることであった。覚りへの正しい道を教えてあげることが、その人の覚りに繋がったのであり、釈迦の弟子達は自身の覚りに達していた。
ところが、愚民の救済を謳う大乗はそれでは足りなかった。そこで覚りを神秘的奇跡としてオカルトパワーの源にした。覚りは宇宙レベルの歳月が必要な巨大プロジェクトとなった。
さらに、ヒンズーから神仏を借りてきて、神仏のオカルトパワーを追加した。マントラを繰り返すことでオカルトパワーが生まれるとの教義もヒンズーの影響である。
つまり、神秘化された覚り+神格化した諸仏やヒンズーの神々によるオカルトパワーによって、「一切衆生の救済」が可能になるとした。
これは、神仏やアートマンなどのオカルトを排除した理性的教義を構築した釈迦の教えの対極にある。 釈迦の生誕は諸説あるが、大雑把に紀元前5世紀頃である。
釈迦の言葉は伝承され、パーリ経典・阿含経典に繋がった。
一方、大乗経典の登場は紀元前後。大乗経典は釈迦の時代からの伝承ではない。
当時は、釈迦の言葉は初期経典であり、大乗経典は創作同人だというのは常識であり、さすがの大乗も釈迦の時代からの伝承だというデマは捏造できなかったのだろう。
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としているのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
釈迦と繋がっているのは初期経典であり、大乗は釈迦には繋がっていないというのは学会、仏教界の常識であり、これに反対する現代の学者はいない。 前レス>>982
(別訳)
一〇 自性(固有の実体)の無いもろもろの「存在(もの‧こと)」には,有性(有ること一般)は存在しないから,この「これが有るときにかれが有る」ということ(増上縁)は,どうしても成り立たない。
(鳩摩羅什訳)
増上縁とは、
諸法に自性無く、故に有相有ること無し、
是の事有るが故に、是の事有りと説かば然らず
一〇偈はアビダルマでいう増上縁(助力するものとしての縁)の否定です
(「このこと」を原因とみなし、「このことを」を結果とかいする解釈を排斥したのである 中村元「龍樹」)
龍樹にとっては「これがあるときにかれがある」はあくまで相依性であり自性(それ自体)がない相互依存の関係での因果は認めていますよ
例えば
一二 行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。
(中論 八章)
その他諸々の例等はこちらに
縁起と相依性
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud117.htm 前スレその3の958
>>955
長部は大乗的歪曲が紛れ込んでるからしゃあない。
>>9以外は信用してないと何度も言ってる。
てレスなんだけどこれ言い出したらお経の範囲を誰が読んでも論理的におかしくない(と当人が判断)
した所だけ抜き出して他を批判するっておかしくない?
俺は創世記は信じないけど愛が全てと言うのは正しいと思うのでキリスト教以外は
間違いだ!、て言ってるよーなもんでしょ、なんでもありになってしまう。 前スレその3の958
>>955
長部は大乗的歪曲が紛れ込んでるからしゃあない。
>>9以外は信用してないと何度も言ってる。
てレスなんだけどこれ言い出したらお経の範囲を誰が読んでも論理的におかしくない(と当人が判断)
した所だけ抜き出して他を批判するっておかしくない?
俺は創世記は信じないけど愛が全てと言うのは正しいと思うのでキリスト教以外は
間違いだ!、て言ってるよーなもんでしょ、なんでもありになってしまう。 前レス>>983
小川一乗さんのいう「生滅変化している存在」とはダルマ、つまり法(この場合は存在するものや事物の意味でそれが有なのか空なのかは置いておく)のこと
諸法無我や諸法空相といった言葉でもおなじみのものです
一方で中論一五章の
四 さらにまた,自性と他性とを離れて,どうして,「存在(もの‧こと)」〔が成立するであろう〕か。なぜならば,自性または他性が現に存在しているときに,「存在(もの‧こと)」 は成立するのであるから。
五 もしも「存在(もの‧こと)」が成立しないならば,「非存在(のもの‧こと)」もまた成立しない。なぜならば,「存在(もの‧こと)」の変異していることを,人は「非存在(のも の‧こと)」と語るのであるから。
ここでの存在はバーバbhava、つまり有のことです
カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。
また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70508.html
この有と中論一五章の四偈五偈などの有は等しいのではないのでしょうか >>11
https://i.imgur.com/5DARkd6.jpg
にもあるように、釈迦は縁起により生じるから無ではない。滅するから有ではない、と説いている。
釈迦によれば、縁起によって諸法は生じる。生じているのだから存在している。これが滅する。
絶対的有ではない。
かと言って、縁起によって諸法は生じるのだから「一切は無い」でもない。
釈迦の用語に沿って書いてくれ。それが一番正しい用法だから。 >>12
【相応部経典12-5】
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーシャよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依拠に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我(が)なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これは一つの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中(ちゅう)によって法を説くのである。
【中論一五章】
七 カーティヤーヤナに教える【経】において、「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。
八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。
一〇 <有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。
一一 <その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう。 >>13 続き
【相応部経典 六処篇第十 無記説相応】
アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「我は有るのか」と問われて、「我は有る」と答えれば、アーナンダ、これは常住論者であるあの沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
しかしまた、もしアーナンダ、ヴァッチャ姓の遍歴者に「我は無いのか」と問われて、「我は無い」と答えれば、アーナンダ、これは断滅論者であるあの沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は有るのか」と問われて、「私は有る」と答えれば、私は「一切の法は無我である」という智慧の発現に順応していることになるだろうか。
大徳、そうではありません。
アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は無いのか」と問われて、「我は無い」と答えれば、アーナンダ、愚かなるヴァッチャ姓は「先には私に我があったのではないのか、その[我]今は無い」と、ますます愚かになるだろう」
https://gamp.ameblo.jp/70702/entry-10765951143.html
さて、二つの相応部経典に挟まれた中論一五章に於いてこれは釈迦の用語とは違うと違和感を感じたところがあればご指摘ください お釈迦様も龍樹も非有非無
実体論(基体論)に立つのではなく縁起によって事物は「無常、苦、無我」つまり空相として幻のような、虚妄で移ろうものとして存在しているという点は同じではないでしょうか しかしだよ、
大乗批判は結構としても釈迦の哲学を完コピできた、と仮定して
披露する場がココ。ってのもなんかね。コロナのせいにもできなさそうというか?
何を目指していますのやら>>12 >>11で言ってる有が何を意味しているのか不明確で、どういう理解を主張しようとしているのか分からない。
縁起によって生じ、存在する。
それはやがて滅する。
絶対的有
一切は無い
みたいな言い方してくれ。「有」「無」とだけ言われても、何を意図しているのか分からない。 >>15
釈迦の教えはそうだろう。
しかし、龍樹は違うことを言ってるように見える。
四 さらにまた,自性と他性とを離れて,どうして,「存在(もの‧こと)」〔が成立するであろう〕か。
存在自体を否定している。 >>15
2行目をちゃんと読まずにレスしてしまったが、釈迦は2行目は説いていないだろ。
>>12の、縁起により生じるから無ではない。滅するから有ではないに同意する。それ以外は説いていない。 金剛乗よりも大乗の方が間違いなく優れてる
麻原彰晃の生涯
https://youtu.be/0DPRfWsLE8U >>17
>カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。
>また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
というお釈迦様の説法での無や有も何を意図しているのか分からないということですか?
分かるというのならまた、龍樹の無や有もお釈迦様のと同じなんではないでしょうか >>20
ヨガやら、神秘やら。オカルトを主張する連中は危険。 >>18
鳩摩羅什訳
自性、他性を離れて、何ぞ更に法有るを得ん、
若し自他の性有らば、諸法は則ち成ずるを得ん。
先にも書きましたが存在というのは有という意味での存在ということ
有無の二見はお釈迦様も否定されています >>21
違うよ。お前の主張が分からない。
釈迦の教えは、>>12と同様に理解していると何度も言ってるだろ。 >>23
だから、その「有」「無」は何?
縁起によって生じ、存在する。
それはやがて滅する。
絶対的有
一切は無い
辺りと同じなら同じと明示し、違うなら違うで何を意図しているのか明示してくれ。
何を言いたいのか不明瞭。 >>19
釈迦の説法から数例を挙げますよ
5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
(スッタニパータ)
19.この世は水瓶のように脆いものだと知って、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであるとさとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
20.この世は泡沫(うたかた)のようなものであると知り、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
21.(諸の存在の実体は)ウドゥンバラ樹の花(優曇華)をもとめても得られないようなものだとさとって、諸の存在のうちに堅固なものを見出さなかった修行僧はこちらの岸を捨て去る。−−蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである
(ウダーナヴァルガ) >>25
縁起によって存在する故に非有非無
変わらぬ実体があるのなら有
実体も縁起による存在も何もないのなら無
ですね >>26
>>12の記述に沿っているな。
で、何を主張したいんだ? >>27
ちゃんと主張をまとめて書いてくれないと分からん。
次の回答でも不明瞭だったら、それ以上確認することはしない。
こっちのレスに、反論っぽい感じで返して来たから、別の解釈を主張したいんだと思って確認してるんだが、何を主張したいのか分からん。 前スレその3の958
>>955
長部は大乗的歪曲が紛れ込んでるからしゃあない。
>>9以外は信用してないと何度も言ってる。
てレスなんだけどこれ言い出したらお経の範囲を誰が読んでも論理的におかしくない(と当人が判断)
した所だけ(自分は信用してないと言い張る箇所だけ)抜き出して他を批判するっておかしくない?
大乗経典のある箇所だけ取り出したり俺は創世記は信じないけど愛が全てと言うのは正しいと思うのでキリスト教以外は
間違いだ!、て言ってるよーなもんでしょ、なんでもありになってしまう。 >>28-29
中論に書いてあることは阿含経を論拠にしており釈迦の説法に忠実、少なくとも優れた解釈のひとつであるということですね
阿含経があるんだったら中論はいらないだろうと言う人もいるかもしれませんが、そもそも阿含経を法有の立場から論じた論書を持つ部派の僧侶に対して「ブッダに帰れ」と書いたのが中論ですから、中論いらないというのなら部派仏教の論書がまずいらないということも言えるでしょう
また阿含経と中論を比較することでお釈迦様の説法の意味や意義がより分かってきたりもするのですよ
まあ輪廻と涅槃は毫釐も違わないという中論の涅槃論に納得しない方も多数いらっしゃるのは存じていますが
っていうか非有非無のソースに横入りしてあなたの質問に答えているうちにここまで来たというのが正解ですかね(笑)
飽きてきたので(笑)こちらもこれ以上のレスはやめます、一方的で恐縮ですがね
あなたが中論に納得しない点があってももはやこれ以上は書きません
ではお邪魔しました >>32
ある程度予想していた内容だが、中論の記述は釈迦の教えから乖離していると指摘した通り。
まあ、終了ということなので、繰り返さないが。 まだ続けるのか、誰も幸せはしない、この不毛の神学論争ならぬ仏学論争を うち、早死にした親父が創価学会で、俺も多分強制的に入ってるんだろうけど一切かかわりなく
数年前、さらに家族を失った喪失感から半年ぐらい朝晩勤行したけど得るものもなく
中村元氏の本読んで、今年から瞑想実践はじめてなんちゃって小乗信者みたいなもんだが
悟るとか劣ってるとか以前に、瞑想実践で落ち着く時間増えてるからいいわ
瞑想だろうが勤行だろうが、俺のせっかちで良く動揺する性格はどうも変えようがないけど、勤行で落ち着くとか感じないが瞑想では感じてる
劣ってようが、小乗wだろうが、悟りとか衆生救済とか以前に俺が落ち着いてないと意味ないわ 中論について突っ込もう。
一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(【自性】、本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9504614
などと言っている。しかし、化学変化によって、異なる性質を持った物質が生成される。
化学変化があるのだから、因縁にはなかった性質が生まれる可能性はある。 初期の仏教では、偶像崇拝禁止だった。
しかし、アレキサンダー大王が残していったギリシア人が、ガンダーラ地方で仏像を大量生産し、偶像崇拝禁止が破られてしまった >>31
貴方は(学者や権威が判断した)限りなく釈迦の言葉に違いないと思われる経典以外の言葉、教えは
テーラワーダ、チベット、大乗問わず排斥すべきだと思いますか?スマナサーラ長老
あたりならパーリ経典ならどんな屁理屈つけても無理やり正当化すると思いますが
貴方はどうでしょうか。 >>42
釈迦以外だって正しいことを言ってることはいくらでもある。否定する必要なんてない。
ただし、釈迦が言ってもいないことを「如是我聞」と捏造するのは外道。ましてや、釈迦の言葉を貶めて、自分の主張こそ釈迦の教えと言い張る大乗は終わってる。 >>42
仏教限定で言えば、釈迦の教え以外に価値は感じない。だから、俺にとっては釈迦の教え以外は何の価値もない。 >>43
大乗に関してはその通りだと思います、ではパーリ経典は全てお釈迦様の言葉というスマナサーラ長老
の事はどう思われますか? >>45
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1632984750/9
以外は後世の創作と明言してるのはお前も知ってると言ってたのに何聞いてんだ?
はっきり言われることをいちいち聞かないで。こうやっていちいち示すのが面倒。 >>37
それが正解。
知識をごちゃごちゃ主張するのは、お粗末ということ。
それらは、仏教でもなんでもない。www >>46
いや、それはそうなんですが
(パーリ経典は全てお釈迦様の言葉というスマナサーラ長老
の事はどう思われますか?)について、とくにスマナサーラ長老をどう思うか
聞いています。 >>48
捏造創作同人経典ばかりを読んでる大乗よりは、南伝仏教のほうがましだとは思ってる。後世の創作部分も含めてしまっているのは良くないが、それでも釈迦の教えの部分もちゃんと読んでる。自分らの教義と違うから、釈迦の教えを信者に見せないようにしてる大乗よりははるかにマシ。
スマナサーラ長老が何を説いているかほとんど知らない。すまんが、興味がない。
日本にいると嫌でも大乗の悪行が目についてしまう。酒飲んで、SEXして、子供作って、葬式でぼったくり。そんな悪徳生臭坊主が釈迦の名前を騙ってるのは非常に不快。
南伝との接点はほぼないので、特に感情は無い。 >>49
なるほど、ありがとうございます
では、南伝仏教の方が貴方の立場ならマシ、というのはとても理解できます、が、
日本の真面目な坊さんは多くの大乗経典は偽経と認めたうえで岩波の原始経典などを利用
して布教活動をされています、浄土系の方などは現代ではそれこそ大変で自分達の教義から
お釈迦様の教えとの共通点などを探し出したり色々工夫して法話などをされています。
そしてテーラワーダにしろチベットにしろ堕落した奴は山ほどいます、とんでもない犯罪を
犯す海外の僧侶もいくらでもいます、日本の大乗の坊さんでも結婚もせずそれこそ南伝の具足戒
を守ること生活をされている方もいます、学術的な経典の真偽いがいのその様な現状についてはどうおもわれますか? >>49
あと貴方の立場なら今後仏教会はどうすれば良いと思いますか?大乗もテーラワーダも
釈迦の本当の教え以外のことも説いている、という立場なら新しい宗派を立ち上げるか
全宗派を統一するか、現実的には前者ですが他に何かあるのか、言葉は激しいですが貴方ほど仏教に対して
想いの強い方は中々いないと思います、どう考えているのかお聞かせください。 >>50
だからさ、>>49以上の感情はない。
同じことをしつこい。 >>51
捏造教義から離れ、釈迦の教えに戻れ!
かなり明確にそう言ってきた積りだが。 >>53
具体的には?釈迦の教えに戻るとは?毎日どう生きていけばよいですか?
具体的にお願いします。 >>53
あとマシだとは思いつつ同じく創作経典をありがたがっている上座部は批判しないのですか? >>53
大乗は偽経、僧侶は堕落、そんな事は仏教者なら誰でもわかっている事なので
それを踏まえた上でどうしたら良いでしょう?
貴方の言うhttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1632984750/9 だけを毎日意識して
生きて行くとはどうすれば良いのでしょう? >>53
あと>>で
釈迦以外だって正しいことを言ってることはいくらでもある。否定する必要なんてない。
ただし、釈迦が言ってもいないことを「如是我聞」と捏造するのは外道。ましてや、釈迦の言葉を貶めて、自分の主張こそ釈迦の教えと言い張る大乗は終わってる。
とおっしゃっていますが私も「如是我聞」の捏造はその通りだと思います、しかし大乗の各宗派
歴代の祖師の著作などで釈迦の悟りの境地に達したと思われる様な教え(信心銘、証道歌)などはどうおもわれますか?
(釈迦以外だって正しいことを言ってることはいくらでもある。否定する必要なんてない。)に膨大な大乗経典には抵触する部分もあると
思われます。 >>53
あと釈迦を騙る大乗憎しの気持ちはわかるがキリスト教もイスラム教もいるかわからない神を
信仰したりそれこそジャイナ教や世界中にある宗教も論理的に破綻してる部分は沢山あるが
それは攻撃の対象にはならないのでしょうか? >>54
>>9読めよ。
そして、>>49以上の感情はない。 もうちょっとだけ説明してやると、
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1632984750/9
には、日々を生きる心がけがたくさん書かれている。それを毎日意識して生きて行け。
目的も分からない質問を、何度も繰り返されるのは不快なので、これ以上繰り返されてもスルー。 >>32
> まあ輪廻と涅槃は毫釐も違わないという中論の涅槃論に納得しない方も多数いらっしゃるのは存じていますが
>
横から失礼します
輪廻の中の死と生の間にあるとされる中間生(バルド)の中に涅槃が有るのではないでしょうか?
其処に空性を保ったままに止まる事が可能なら それ以上生まれる事も死ぬ事も無くなり無漏なら神にも悪魔にも見つからず何者の干渉も受けず 他のブッダや阿羅漢達とも互いに見分けが付かないので自他の分別も生じないのではないかと思われます >>39
まず因果律の因と果は単独では成立しない 縁とはこの因と果を繋ぐものとして仮設されるが因縁果のどれにも固有の実体は存在しない >>63
それを論証しなさい。
中論のロジックが成り立たないのでは、と指摘してんだから、中論の主張をただ書いても無意味。 科学では自然は数学で出来てます
世界は数学で出来てます。
数学が世界を変えるのです。👰 数字で表せてそれが一致するって言うことは出来るけど
数字でできてるってのは言えないやろ >>64
論証は理解者との間でだけ成立するのだから君にしても無意味だろ? >>67
義論はむしろ意見が対立する者同士でやったほうが有益なんだがねえ。
そんなことも分かっていないようでは、お前がやってるのは妄信であって、ロジックではないな。 >>67
もう1個のほうで、ソースを提示されたお前は、それでもごちゃごちゃ喚いてるけど、ソースを提示されちゃってるから押されっぱなしだろ。あれが論証。
お前は論破されたと認めてはいないが、明確な根拠によってまともな反論ができていないことは、周りもお前も認識している。だから、意見が対立していても論証は有効。
論破された側が論破されてない!と言い張っても、客観的に明らか。 偶像崇拝ってなんか勘違いされてるけど、仏教は偶像崇拝じゃないので。
偶像崇拝って、例えば石そのものが神そのものとして崇拝の対象ってことですからね。 >>70
そりゃアニミズムだ。
実際、イスラム教はアニミズムじゃないけど、偶像崇拝を禁止してる。 >>73
アニミズムと偶像崇拝の区別すらできてないくせに何を言ってんだが。
偶像崇拝している宗派は、そりゃ偶像崇拝だよ。
物質的なものが、神、祖霊、死霊などの超自然的存在の力を表象しているか、それを有しているとして、崇拝の対象にすること。
偶像崇拝をいっさい認めないといわれるイスラム教においても、印刷されたり筆記されたコーランの唱句の文字を神聖視するという事実があり、これも偶像崇拝の一変形と考えることもできる。
https://kotobank.jp/word/%E5%81%B6%E5%83%8F%E5%B4%87%E6%8B%9D-54887
仏像が神か?違うだろ?
だったら神でないものを拝んでいることになる。まさに偶像。 >>74
偶像崇拝している宗派は、そりゃ偶像崇拝だと認めないだろう。しかし、神でないものを拝んでるんだから偶像崇拝だよ。 神木や神山は、そこに実際に神が宿っていると考えるんだから、神のいない空っぽ仏像を拝んでるのとは違って、実体がある。
だから、偶像崇拝とアニミズムは違う。 >>74
仏像を拝んでると思っているのなら浅すぎるぞお前w
チベット仏教の生起次第についてちょっと勉強してみろ
奥絵は浅いのに知ったかぶりするから馬鹿にされるんだよw >>76
ではその空っぽの仏像というのは一体何のために生まれたと認識しているんだ?
そこを掘り下げて裏を取らないからダメなんだよ、お前はw >>78
お前が主張したいことは自分で主張しろよ間抜け。
論理的議論の場なので、以下のルールを守れない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・反論したければロジックで。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。 >>80
お前の勘違いだと思いたいが、ソースの提示方法すら教えてない三流大学じゃ分からんね。 >>79
逃げずにちゃんと答えろよw
こちらはちゃんとロジカルに問いかけているぞ
仏像とはそもそもどうして生まれたのだ?
偶像崇拝のためなのか?
歴史を検証しつつお前の主張が正しいということの裏付けを説明せよ >>82
質問しかできない間抜けには呆れるしかないw。
鹿野園は間違った主張が多いが、お前よりはマシだな。 >>82
あと、面倒なんで、主張は明確に書けよ。
お前のくっだらない質問にいちいち回答する気にならん。 仏教は偶像崇拝じゃないんですよ。
あくまでも礼拝。
これ以外と勘違いをされている方が多いんですよねw >>85
アニミズムと偶像崇拝の区別すらできないお前が言ってもねえ。 >>83-84
質問は明確だろうw
なぜ答えられない?
仏像は、そもそもどうして生まれたのだ?
偶像崇拝のためなのか?
それを訊ねてるんだよ、日本語も理解できんのか、ばかたれw >>88
面倒だからだとはっきり言ったのに、理解できないのが間抜け。
そんな間抜けの質問に答えるのが面倒。
言いたいことがあるなら自分でちゃんと言おうな。 はい、逃げました〜 今回も逃げました〜w
いつもエラソーに鹿野園に上から目線でマウンティングしているくせに、
いざ自分が論拠を訊ねられると何一つロジカルに根拠を示せずに逃げました〜www 一応、転記しておきます。
↓
仏教も仏・菩薩像などの礼拝にこの習慣を受け継いでいるが、像崇拝の意味は同じでなく、像を通して法とその働きへの礼拝が主で、像そのものの礼拝ではない。
(岩波仏教辞典 第二版)
リアルでも、師匠に問答で参じる時は五体投地で三拝するんだけど、上記と同じ主旨です。
また、真宗なんかでは信心を頂くって言いますけど、信仰というよりも、信=真理って捉えると分かり易いかも。
崇拝とか信仰とかって云っても、仏教にはこういう違いがあるんですよ。 上でチベット仏教の生起次第ということに触れたが、
生起次第では主としてターラ菩薩の像とか絵とかに向かって
徹底的にマントラを唱えるわけだ
それで何をしているのかというとターラ菩薩と自分を一体化させていくわけ
自分自身があたかもターラ菩薩になったかのようになるまで続ける
現代風に言えばモデリングというやつ
ミラーニューロンにターラ菩薩の一切合切を完コピしてしまう
さてそういう自分自身がもう完全にターラ菩薩になってしまった、
その状態に達したら、次に究竟次第という修行の段階に入ってていく
この段階は脈管(イダ・ピンガラ・スシュムナー)を徹底的に浄化したり、
いわゆるクンダリーニを覚醒させるという、狭義の意味でのヨガの修行に当たる
何がカギかというと、これをターラ菩薩と一体化した行者がやるわけです
ターラ菩薩がやるんだからうまくいくに決まっている
そういう段取りとなっている
仏像というただの形を崇拝しているなどと捉えるのがいかに浅薄なことか、
何も知らない馬鹿に限って昔の人達の智慧を軽んじてその深い意味を理解しようとしない
まことに哀れなものだよ >>62
私はもちろん覚者ではないので◯◯であるというような断定はできません
たた中論に書いてある如来像の引用ならすることができます
一〇 このように執著して取るはたらきも、執著して取る主体も、全く空である。では、空である如来がどうして空なるものによって仮に設けられるのであろうか。
一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。
一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。
一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530025
一五偈によれば如来については戯論を離れている、一六偈は生死(輪廻)即涅槃と同じく生死即如来といつことになるでしょうか
中論二五章での涅槃論
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
と同じですね
生死即涅槃
生死即如来
生死世界での縁起の理法が如来であるという法身仏の芽生えのひとつですね >>39
異なる性質を持った物質が生成されるということが諸法はそれ自体(自性)がなく空であることを示していますね >>90
自分の主張すら提示できず、根拠ももちろん提示していないのはお前だろ。
何一つロジカルに根拠を示せずに逃げました〜www wwwww >>91
三流大学アピールがほんと好きだなあw。
どの項から持ってきたのかくらい書いとけよ。低学歴。 >>92
オカルト過ぎて失笑。そんなんでロジック騙ってたのw。 >>94
水素原子と酸素原子が結合すると、それまでの性質とはまったく別の性質を持つ。だけど、原子はそのまま。原子は変わらない。でも、性質は変わる。
何もおかしくない。性質と実体を混同した誤ったロジックを根拠にしているなあ。
やっぱり中論は破綻していた。 >>96
…礼拝な。
そのくらい自分で調べだら?
それから、大学名は言ってないし大卒は低学歴とは普通は言わないよ。
で、あなたは誰から仏教を教わった?
師匠は?宗派は?
いつまではぐらかすつもりなんだい? >>98
横からだけど、原子よりも更に小さい物質が発見されていて、物質の最小単位は素粒子っていうのが現代科学の見解なんですよ。
そしてその素粒子単独では安定した状態ではないって聞いてますけどね。
また、ものが二刹那以上に渡って存続すると論理的に破綻するので、仏教では刹那生滅を説いているんです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています