坐禅と動中の工夫22
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずその根元に一息で切り込むのがいいです。
念が出る前の心が禅定です。正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1620994804/
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1629456662/
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1629893486/ >>606
これせったん和尚さんの文章に。。つけただけだよね。 だから、知らぬが仏なんですよ。。
雪渓師の上のお話でも、せったんさんのカキコでも、要約すると、知らぬが仏になる。。w
すなわち、仏もなく、悟りとか見性もなく、坐ったり、立ったり、日々の仕事、遊び、生活があるだけ、となる。。
そうなって、やっと作り物、禅がうんたらなんていう、言い訳がなくなるよね。。 >>607
せったんさんは、おれみたいな法がうんちゃらは言わなかったよ。。
聞かれなければ、法などないです、と言っていた。
そうならなきゃいけないよね。。 カムイ君素直じゃないね〜〜。。w
うすらとかなにわっこ娘の時の方が、マトモだったんじゃないか?w >>うすらさんはいい線行ってるみたいです、だからって許すわけにはいかんことを知って欲しい。
偉そうだねせったんうすrさんを許すわけにいかんて、そう言うせったんは誰に許されたの?知ってる人いるの >>614
あなたが悟って、証明してください。。w
そうする以外ないでしょ?w >>聞かれなければ、法などないです、と言っていた。
『法』って何だか分かって言ってるのかね〜
釈尊は法を説いたんだよね、四聖諦とか12縁起のような理法のことでしょ
だったら有るし 経典に書いてあるものは、法そのものではないからね。。
言葉で説明できることも、法そのものではないよ。。
だから、法そのものについてお釈迦さまは、一字不説、であったと言われる。。 相手の執着と観念を拭う意味で言ってたんだろうけど、にしても70過ぎて晩酌はあかんて ま〜た創作の中国禅文芸作品からの引用かい、パーリーにはハッキリそれが法って書いてあるし
大陸人のを信用し過ぎるのは、どうかと思うよ〜 存在そのものの在り様=ダルマでしょ?
だから、存在そのもの以外に、ダルマがあるか、という話だよ。。
現実とその在りよう以外に、法なんて無いでしょ?w だから、法なんてものが、別にあると思い込んでいるなら、未解決なんですよ。。
そこらへん、よくよく参究してください。。 法ってのは今なんだけど、今ってのは無く、過去と未来がないっていう意味の今が法なんだよ。 坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずその根元に一息で切り込むのがいいです。
念が出る前の心が禅定です。正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
原田雪渓老師
現在とかいまというのは、ものと自分との間にまったく距離のない状態です。
いまという状態があるわけではありません。
本当に人とものとの距離のない状態を「いま」と呼んでおります。
自我がなくなれば、自我がないと気が付けば、あらゆるものは自己であり、時間は止まります。この意味で、宇宙=自己は、時間のない「いま」のなかにあるわけです。
法ってのは今なんだけど、今ってのは無く、過去と未来がないっていう意味の今が法なんだよ。 道元禅師の前後裁断はね、前と後が裁断されてその少しの間が今ってんじゃなく、きっちり前後裁断された様子が今なんだ。 >>626
あなたも袴田さんのように、ゆっくりと日常を取り戻しなさい。
いいね?
頑張りなさい。
応援しているよ。 >>622
ロンがパーリー読めば良いんだよ、全セット24マンするけどさ まだパーリー坊やが、ナルシスっていたか、
悟りスレか他のスレでやっとけて
そういうのは、
笑 >>628
パーリー坊や、
そのレスは自我の自己顕示欲に過ぎない自覚はあるか?
笑 偉そうだねせったんうすらさんを許すわけにいかんて、
そう言うせったんは、『誰に』許されたの?知ってる人いるの?? パーリー坊やは、相当酷いナルシズムだな
笑、
カムイと良い勝負の
(笑)
鹿野園程狂ってはいないけどな
笑 >>633
支店長に蹴りまくられていたよ、
カムイくんは。
笑 >>631
ま〜た、腹を読んだのかえ?思ってるだけの、なん茶って読心術乙 >>636
パーリー坊やは
パーリー自慢のナルシズムだろ?
笑。
自覚しろよ、
恥知らず坊や
笑 >>635
カムイだって年月経てば、違う人間になってるよ、何年前のことを >>638
あほ、3年ぐらい前だよ、
お前もいたら支店長に蹴りまくられていまやろな
笑。
支店長は南方仏教タイ修行者の過去があるからな
笑 パリピーは、パーリー行けずに、パーリー連呼か。。w パーリー坊やは、
パーリーで増長するぐらい、
相当ナルシズム臭いのが自覚できないようだな、
あのな、議論で修行できている気になれるのは
日蓮みたいなもんやぞ
笑 1大王
2無駄に空ける行間
3最後の『笑』
これを、自己顕示欲の3点セットと呼びましょう!
3点セットデーオー! >>643
日蓮は求聞持法やってるだろ、日蓮の何も知らないんだろ、どうせ >>639
3年経てば脳の細胞粗方入れ替わっているぞ、7年で骨の髄まで入れ替わるって言うのに
本店社長を呼んでこいよ!してんちょうじゃ相手にならんぞ
タイ修行が何だって〜ミャンマーが本場やぞ、スリランカでも良いぞ
おれはインド派だけどね、やっぱブッダガヤ行くのと、真聖シャリ納めた仏塔を拝さないとな、あと中国行って六祖のミイラもな >>623
現実には今ってどこからどこまでって線引き出来ないもんね。 >>650
そう
過去今未来ではなく、過去未来がないのが今 >>651
過去、未来を考えるなら、今何かを新しく生み出したいよね。
それが心に過去未来を無くす方法かな〜 出勤途中岡村靖幸久々に聴いたけど仕事のテンション上げるのにいいね。 >>653
言葉を変えると自我が過去未来を認識してる。
自我がなくなると、過去未来が消滅するんで、勝手に今になる。
それを永遠の今とかいう。 >>655
自我が消滅すると時間だけでなく空間も変化する。
つまり、空間=自分になる。
なので自我が消滅すると時空が変容する。 >>657
これを体験するすることを悟りと呼んでる。 >>655
そうか自我を無くせばいいのか!
難しく考えなくていいんだ! >>659
映る世界が変容することが、悟りなんだね? >>663
なんとなく分かった。
過去未来を思った途端
宇宙、見えてる世界が消えてしまう。今が悟りなんだね。 >>664
実際に見えてるんだけどありのまま見れないだけ。 >>666
これがありのままだ!と
これは妄想を介して見ている!って
はっきり解ればいいんだけど、
カムイはどう? 自我が無くなれば人間ではなくなるんよ。
人間=自我 だから無理なんよ。
錯覚で自我が無くなるような体験は瞑想であるんよ。
ただの錯覚なんよ、自我が無くなったと考える自我なんよ。
思考が自我だから仕方ないんよ。
自我に翻弄されなければいいんよ。
しかし、そう考えているのそれも自我なんよ。 自我があるんだから仕方ないんよ。
勝手にやって来るから仕方ないんよ。
自我の遣りたいようにやらせておけばいいんよ。
抵抗すればするほど自我は騒ぐんよ。
だから瞑想するんよ。 認知・思考・判断の機構としての自我は、無くなったら困るわな。。
無くなったら、生きていけない。。w
そうじゃなくて、自分を何者かとみなす、ってことが、思い込みになって、問題となる場合がある、ということだね。。
せったんさんは「自分を何者かとみなすこと不可」と言っていた。。
これは、厳しいけれど、端的で、本質だよね。。
自我のあるなしとかじゃなく、思い込み、妄想の自分、があるかどうか?
自分で自分をどう思っているか、あるいは、何とも思ってないか?w
そこらへんを点検してみるべきなんじゃないかな? >>411
>原田: 自己という自己を認めておる間の自己というのは、ほんとに小さなものなんですね。ほんとに小さな自分なんです。ですけども、そうかと言って、自己がどこにあるか、と言ったら、もともと自我だとか、自己なんていうのは存在しません。ですけども、存在しているかの如くに誰しも思うわけです。この身の中に何かがあって、そして命令をして、何かをさしておるような、何かこの中に一つの別に存在するものがあるからのように思う。それは無明であれ、妄想であるわけですけども。そういうことではないということが、そのままが本来のものであったということに気が付きますと、そうすると、そのままが主人公になっていくわけです。ここでいう主人公になっていくわけです。大きくなっていくわけです。大きさというのは、比較を絶したものということですから、主人公だけのものということですね。そういうように、ここで仏教でいう、禅でいう「主人公」というのは、そういうことなんです。釈尊のお言葉をお借りすれば「天上天下唯我独尊」とか、臨済禅の言葉で言えば、「無位の真人」というのが、みんな主人公が変わった名前なんでしょうね。ですから「主人公」という言葉だけを捉えますと、どうしても、〈ああ、あの人はここの主人だった〉とかということになりますけども、そういうのとはちょっと違う意味があると思います。
>もともと自我だとか、自己なんていうのは存在しません。ですけども、存在しているかの如くに誰しも思うわけです。
カムイの言っていることとはだいぶちがうね〜。。w
>この身の中に何かがあって、そして命令をして、何かをさしておるような、何かこの中に一つの別に存在するものがあるからのように思う。
それは無明であれ、妄想であるわけですけども。
>そういうことではないということが、そのままが本来のものであったということに気が付きますと、そうすると、そのままが主人公になっていくわけです。
学道の人真を識らざるは、只従前より識神を認むるが為めなり。無量劫来生死の本もと、痴人喚よんで本来人と作す。
これだよね、無門関第十二則。 永遠の今とか、時空が変容するとか…変な境地こさえてるな、読み返してみると。。w
やっぱちっと、ヤバいところに入り込んでしまってるんでないか、カムイは。。w >>655
過去とか未來、現在とか、名色(名称)だけど、概念を含んでいる
現象世界は、永遠無限の変化だけで、それを空と名付けた、これも名前
変化すること、それだけが言えることでしょうね
その変化の以前を記憶しているから、時間があるように感じているだけ
在るのは変化することだけ 過去を忘れてたら、変化したこともわからんよね。。w
今に在るってそういうことでしょ?
だから、坐禅してこうなった、ああなった、よくなった、どうなったとか、言ってるのはおかしい。。w
立ったら、ぜんぶ忘れなきゃならんのに。。 で、過去を見て、何かを得たとか、こうなったとか、それをやらん限りは、自我というか、自分という思い込みは、存立できない。。
でも、なぜかこれをやっている人がいる。。
坐禅修行してますと言って、これをやる。。w
おかしいんですよ。。w
それに気づかなきゃダメだよね。。 だから、いちいち過去を捨てていく、忘れていく、というのが、禅修行なんだよ。。
だから、日々新たに、一瞬一瞬が新鮮になる。。
そうじゃないと、おれは得たんだとか言って、やばい奴になるだけ。。w とは言ってもだ、アキャシャーとかアカシャーって名付けられた、虚空(空間意識)ってのに全存在の記憶が記録されていてだな、とか何とか言われていたり・・・
個の意識が、全ての無明の覆いを滅し尽くすと、個は個でなくなり、全体が個に流入するとか何とかも言われていてだな
河が海と一つになる、な〜んて喩えが教えにあったりする >>677
忘れなきゃならんってのは不要なのよね、密教では因縁を解脱すると、大白身になるってのがあるんだが
大白身ってのは、個のそれ迄の記憶、過去世も含めて一切合切が消えて無くなるってことなんだってさ
だから、その時が来れば、否が応でも消えるから、自分が誰の何べえで、友人の名前がこうで、親の名前が何々ってのが、それまでの人生の記憶が一旦キレ〜イさっぱりと、脱落するようなことになる
だから、悟ると前に、悟った後の状態がこうでああでは、意味がないし不要なんだよ、だってそれも含めて脱落するからってことだから そう言う意味で言うと、身心脱落って言葉は、意味深いね
心が脱落って、別に言うなら滅尽でしょ、また自己の内外が消えると言っても良い
そうなると、菩提達磨禅師の言う、外に何も感受せず、内に何も観じない、ってのと同じ意味かも?って思える 悟る前からこうなるって想定するってのは、ろくなことにならんのだよ。。
あるいは、説明するってのもよくない。。
禅の場合は、もともと法の通りにあるじゃないか、と自覚するだけなんだよ。。
だから、別の言い方で言うと、悟りなし、となる。。
悟りなしだからこそ、平地に出られる、開かれるわけで、逆に悟りはこうだってのを思い込んでしまうと、まあ、オタクとかマニアの世界だよね。。
あんまりお近づきになりたくない人々。。w >>406
>白鳥: そうすると、今有る私も、また法の中にいる。法そのものである。
>原田: そうです。それを〈なるほど、そうか〉と坐って、〈なるほど、そうか〉と自分で頷く。それを「悟り」とこう言いますね。
ですから悟っていないという人は、一人もいないわけです。自分で気が付くか、付かないかのことです。
ですから正しい教えによって修行をしていけば、必ず自分のことですから悟れないという人は一人もいないんですね。
悟りを自覚することができるわけです。
こういうことなんだよ。。
基本はこれ。。 だから、自己を忘れることによって、自我の問題を解決する、というのが禅だよね。。
悟りを追いかける、というのは、あるいは悟りなんてものがある、ということは、未解決、であり、自我の問題に気付いていないということになるんじゃないかな?
いったんは、得るということがあるんだけど、すぐ忘れろ、ということです。。w >>671
自我はあってもいいって本で読んだことある。 >>685.自我を忘れる、か。
それも自我の悪足搔き、である。
バカには理解できない。
大爆笑である。 やぁ、諸君らおはよう。
自我は身体と共にある。
身体は物質でありそれ単体ではあり得ない。
つまりあなたの身体はこの宇宙と言える。
しかしあなたは身体ではない。
身体はあなたの反映である。
身体はつかの間体験を続けるだろう。
ただ、それを嫌がったり、消そうとする必要はない。
それらは心が作り出す印象なのだ。
あなたは印象派の画家が描いたおぼろ気な絵を忌み嫌い、破ったりはしない。
また、手に入れようと躍起になることもない。
ただ、眺める。
これが観察だ。
「いや、眺める自分が残ってるでしょ?」
という声が聞こえて来そうだが気にすることはない。忌み嫌う必要はないのだ。
観察が内に向かう時、あなたは静かになる。
執着や拘り、なにがしかに成ろうとする貪欲。
それらが何の役にも立たないことを知るだろう。
では、良い一日を
ごきげんよう!! >>670
まぁ、俺もそんなにはっきりしてないけどね。 >>674
いや、その大きなものってのが宇宙でしょ >>686
自我は消えないというのは、実体のない自我を
消そうとしても消えないんよ、
そもそも自我は現れては消えていくものなんよ。
だから消そうとするのは執着することなんよ。
自分というのが何時までもあると思い込み、
錯覚してしまう事になるんよ。苦悩の素になるんよ。
自分という自我から離れたらいいんよ。 己を何とかしようとする、
処方箋を書かないことなんよ。 自我がなくなれば、自我がないと気が付けば、あらゆるものは自己であり、時間は止まります。この意味で、宇宙=自己は、時間のない「いま」のなかにあるわけです。
自我がないと気がつけばってこと。 >>693
そうなんよ、宇宙(世界)=自分
全部自分で時間も止まる。
これは、瞑想を10年以上、日々行えば
誰でも体験できるんよ。
人によっては2〜3年で体験できるんよ。
体験、ただそれだなんよ。 >>694
うん、その体験が見性。
でも、その体験は普通は持続しない。 坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずその根元に一息で切り込むのがいいです。
念が出る前の心が禅定です。正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
法理
原田雪渓老師
現在とかいまというのは、ものと自分との間にまったく距離のない状態です。
いまという状態があるわけではありません。
本当に人とものとの距離のない状態を「いま」と呼んでおります。
自我がなくなれば、自我がないと気が付けば、あらゆるものは自己であり、時間は止まります。この意味で、宇宙=自己は、時間のない「いま」のなかにあるわけです。
法ってのは今なんだけど、今ってのは無く、過去と未来がないっていう意味の今が法なんだよ。
なので、道元禅師の前後裁断は、前と後が裁断されてその少しの間が今ってんじゃなく、きっちり前後裁断された様子を今と呼んでいる。
ですから、宇宙=自己で今だけになるのか悟り。 法理ってのはあくまでも坐禅と動中の工夫の結果だけどね。 >>694 訂正なんよ
>体験、ただそれだなんよ。
体験、ただそれだけなんよ。 なので、法理ばっかり追い求めて、坐禅も動中の工夫もしなかったらろんみたいになっちゃうよ。 >>699
あなたも、その体験をしたとして、今はそれば持続してないでしよ。 >>701
今でも、瞑想したら体験できるんよ。
別に持続しなくてもいいんよ。
これも囚われなんよ。
何度も何度も体験すればわかるんよ。 >>704
ばかになるくらい瞑想できるのはうらやましいです。 習慣になっただけなんよ。
今は、遣り過ぎないように注意してるんよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています